児島襄「大山巌」を読む41~50

児島襄「大山巌」を読む41

 朝鮮では1895(明治28)年初頭、政府の重要部署に日本人顧問を登用するなど、清国の影響を排除する改革が進行するかに見えたのです。しかし日本が三国干渉に屈服すると、朝鮮の政治情勢は急速にロシヤの影響力に頼る傾向を強め、日本人が訓練した軍隊である訓練隊を解散させようとしました。

 一方同年6月4日伊藤博文内閣は閣議で朝鮮への干渉をなるべく止めて、自立させる方針をとることに決定しました(「日本外交年表竝主要文書」上)。しかし井上馨は対朝鮮政策に困惑し、当時宮中顧問官で予備役陸軍中将三浦梧楼と朝鮮駐在公使を交代したい希望を表明していました(「世外井上公伝」第4巻 明治百年史叢書 原書房)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―みー三浦梧楼 

 井上馨は同郷の三浦梧楼が熟慮実行型ではなく、どちらかといえばやや単純な直情径行型の人物であることをよく知っていたはずです。しかし井上馨は6月22日上京して閣議に出席し政府の対朝鮮不干渉政策に賛成するとともに、朝鮮駐在公使を三浦梧楼と交代することについて伊藤首相の内諾を得ました。

 外交経験に乏しい三浦梧楼は政府に①日本が独力で朝鮮国の防衛と改革にあたる、②朝鮮国を日本と列国との共同保護国とする、③一強国(ロシヤ)と朝鮮半島を分割占領する、の三案のうちいずれか、もしくはどのような案でもよいから方針を明示してくれれば、自分は身命を捧げて任務を遂行する旨を上申(350 対韓政策ニ関スル三浦新公使意見書「日本外交文書」第28巻第一冊)しましたが、政府は回答しませんでした。  

 同年7月19日三浦梧楼は特命全権公使に任命されましたが、任国は発令されませんでした。三浦の上申に対する政府の回答がなければ、朝鮮に赴任しないと三浦が主張したからです。

 当時西園寺公望外相代理を務めていたにもかかわらず、山県有朋が三浦に会って赴任を求めました。そこで三浦は「我輩は政府無方針の儘に渡韓する以上は、臨機応変自分で自由に遣るの外は無いと決心したのである。」(三浦梧楼「観樹将軍回顧録」伝記叢書46 大空社)と記述しています。  

 三浦は同年9月3日朝鮮国王に謁見して信任状を奉呈しました。

児島襄「大山巌」を読む42

 前朝鮮駐在公使井上馨が1895(明治28)年9月17日漢城を去った後、漢城新報社長安達謙蔵が三浦公使を訪ねて新公使の抱負を訊くと三浦は「どうせ一度はキツネ狩をせねばならぬが、君の手許に若い者(当時は壮士と称していた)がどれくらゐ居るか」と尋ねました。

 同年10月3日三浦は一等書記官杉村濬、宮内府顧問岡本柳之助とともに次のような計画を立てました。①常ニ宮中ノ為ニ忌マレ自ラ危ム所ノ訓練隊ト時勢ヲ慷慨スル壮士輩ヲ利用 シ、②暗ニ我京城漢城)ノ守備隊ヲモ之ニ声援セシメ、③以テ大院君ノ入闕(にゅうけつ 入宮)ヲ援ケ、④其機ニ乗ジ宮中ニ在テ最モ権勢ヲ擅(ほしいまま)ニスル王后陛下(閔妃)ヲ殪(たお 殺害)サン(353 「広島地裁 韓国王妃殺害事件予審終結決定書」市川正明「日韓外交史料」5 原書房)。

釜山でお昼をー過去の釜山や近郊の様子―昔の生活と文化―雑記―閔妃暗殺

 三浦公使は同年10月7日深夜から8日未明にかけて行動をおこすために、漢城守備の大隊長馬屋原務本少佐に「訓練隊ヲ操縦シ且守備隊ヲシテ之ニ声援セシメ、大院君ノ入闕ヲ容易ナラシムヘキ」と命令[公使の命令に服従すべきは高等軍衙(おそらく参謀本部をさす)の訓令による]、領事館警察の警部萩原秀次郎も指示をうけて巡査を招集しました。漢城新聞社長安達謙蔵の指揮する壮士隊は8日午前2時ころ大院君を擁して光化門を日本軍守備隊が用意した梯子で乗り越え王宮内に侵入、国王夫妻が居住する乾清宮に赴き、閔妃を探索しましたが、壮士は誰も閔妃を視たものがなく、女官に囲まれた気品ある美女を殺害、女官から閔妃の頬に疱瘡の痕があることを壮士が訊きだし、死体を見て確認したといわれます(212 明治二十八年十月八日王城事変顛末報告ノ件・349 韓国王妃殺害事件軍法会議判決書 市川正明「前掲書」)。

 一方大院君は長安堂で国王と会見して、この際日本公使の指導下に改革断行を進言、国王は無言で大院君の進言を裁可しました。

 大院君の国王謁見後、安達謙蔵ら壮士隊は引き揚げたのですが、光化門外には多数の市民が異様な壮士隊の様子を目撃していました。彼らが鐘路街を通行しているとき、朝鮮の有力閣僚たちが逃げ込んで、事件を知った露公使ウェーバーと米代理公使アレンを乗せた2台の馬車が王宮に向かって走ってきました(「安達謙蔵自叙伝」新樹社)。
 

児島襄「大山巌」を読む43

 露公使ウェーバーと米代理公使アレンは左右に三浦公使と大院君が侍立する朝鮮国王に謁見後、日本公使館を訪問して三浦公使を詰問しました(15 王妃殺害事件ニ付各国使臣トノ談話報告ノ件 市川正明「前掲書」)。

釜山でお昼をー過去の釜山や近郊の様子―人物名―りー李是(昰)応

 1895(明治28)年10月8日付伊藤首相宛て三浦公使は事実を伝えて政府に事件収拾を委ねるべきとする内田定槌領事の進言により公使自身の事件関与を示唆する内容の電報と西園寺外相代理宛てロシヤ公使らとの問答を報告した電報を発信しました。政府は外務省政務局長小村寿太郎らを漢城に派遣して、真相調査と適切処置を命じたのです。 

 小村寿太郎らの派遣を知ると、内田領事は一等書記官杉村濬を通じて漢城新報社主筆国友重章と協議、領事館警察の取り調べを受けるべき人物12名を選定、取り調べの節同一の申し立てをするよう申し合わせ、10月12日取り調べ責任者萩原秀次郎警部が調書を作成しました。しかし萩原警部は事件関係者の一人ですから、被疑者が被疑者を取り調べたことになり、事件の真相を究明するものとはならなかったことは明らかでしょう。しかも小村寿太郎は事件関係者を速やかに帰国させ、日本で処分するほうが得策であるとし、また処分するかしないかを慎重に検討すべきと政府に意見を具申しました(70 三浦公使帰朝処分ノ件 市川正明「前掲書」)。

 日本政府は10月17日三浦公使の召喚と小村寿太郎の弁理公使を発令、壮士たちは10月20日仁川を出航、宇品に入港すると警官が謀殺罪および兇徒嘯聚罪の広島検事局逮捕状を示して手錠をかけられました。

 三浦梧楼も公使館付武官楠瀬幸彦中佐らとともに10月23日仁川を出航しましたが、下関海峡で西園寺外相代理から公使罷免と広島に直行すべき電報をうけ、やがて壮士と同じく逮捕状を示され監房に収容されました。

 事件について軍人は第五師団軍法会議、三浦梧楼らは広島地方裁判所で審理、1896(明治29)年1月14日付楠瀬中佐以下8人に対し無罪判決(349 市川正明「前掲書」)、同年1月20日付予審判事は三浦梧楼らを証拠不充分により免訴としました(355~6 市川正明「前掲書」)。

 判決後三浦梧楼が上京すると侍従米田虎雄が来訪、天皇に心配をかけて申し訳ないと三浦が謝ると米田は「イヤお上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云ふお言葉であった」と応えました(「観樹将軍回顧録」)。この米田侍従の言葉は天皇の発言を正確に伝えたものかどうか不明ですが、正確に伝えたものならば、天皇の発言は当時の政府首脳の本音を不用意にもらした独白とも推察されます。

  同年2月11日露公使ウェーバーは朝鮮国王と世子を露公使館に移し(露館播遷)、朝鮮国王は政府を同公使館に置くことを宣言、親露派の要人で新内閣が組織され、各機関の日本人顧問は解雇されました。

児島襄「大山巌」を読む44

 日清戦争後の日本の政策はは対ロシヤをめぐる政治外交に力点がおかれたといえるでしょう。明治29年度予算は歳入1億3789万円余、歳出は1億5218万円余で増税と公債発行で戦後経営の急務即ち対露軍備増強を賄ったのです。

 賠償金は円に換算して3億4405万余円でそのうち7895万余円を臨時軍事費特別会計の補填にあて、5403万余円を陸軍、1億2526万余円を海軍拡張費にまわし、残額8000万余円を次の戦費として貯蓄する方針でした。

 ロシヤは清国が日本への賠償金支払いに苦労しているのを視て1895(明治28)年6月フランスとともに共同借款を供与、イギリスもこれに対抗してドイツとともに清国に融資、この4国借款で清国は日本への賠償金を期限内に完済しました。

 1896(明治29)年4月30日ロシヤ皇帝ニコライ2世の戴冠式(5月26日)参列のため清国の李鴻章はペテルブルクに到着、露蔵相ウィッテと交渉、6月3日露清同盟(秘密)条約を締結、日本に対する攻守同盟とそのため黒竜江省吉林省を横断してウラジオストックに至る鉄道(東清鉄道)敷設権をロシヤに与え、権利者を露清銀行とすることなどをとりきめました。

 一方朝鮮国王は1896(明治29)年2月以来ロシヤ公使館に滞在する状態がつづいていたので、同年5月14日小村寿太郎朝鮮駐在公使はロシヤ公使ウェーバーとと次のような覚書(「日本外交年表竝主要文書」上)を交換しました。①日露両国代表者は朝鮮国王が安全を確認すれば王宮に還御するよう忠告する、②日露両国は漢城および開港地の日本人居留地を保護するため日本軍4個中隊(1中隊200名以下)の駐留を認め、ロシヤも日本兵力を超過しない衛兵を駐留することを認める。

 露清同盟条約締結後、同年6月9日ロシヤ外相ロバノフ・ロストウスキーは李鴻章とおなじくロシヤ皇帝の戴冠式に出席した山県有朋とモスクワで朝鮮問題に関する日露議定書(山県・ロバノフ協定「日本外交年表竝主要文書」上)に調印、その特徴は小村・ウェーバー覚書の内容をほぼ確認する程度の合意でした。

 1897(明治30)年朝鮮国王はロシヤ公使館から王宮にもどり、10月16日国号を大韓と改称しました。

 同年11月14日ドイツは同国宣教師が殺害されたことを口実に山東半島膠州湾にドイツ艦隊が入港、陸戦隊が青島を占領、翌1898(明治31)年3月6日清独間の膠州湾租借(99年)条約を締結、つづいて同年3月27日ロシヤは遼東半島の旅順・大連両港租借(25年)権と東清鉄道南満州支線(南満州鉄道)敷設権を獲得、4月22日日本は福建不割譲に関する日清交換公文を交わしました(「日本外交年表竝主要文書」上)。 イギリスは6月9日香港対岸の九龍半島(99年)を、7月1日には山東半島威海衛(25年)を租借、フランスは1899(明治32)年11月16日広州湾(99年)を租借、アメリカは1898(明治31)年4月の米西戦争でフィリピン獲得後、清国に進出を企図して翌年9月6日米国務長官ジョン・ヘイが清国の門戸開放・機会均等・領土保全覚書を列強に通告し、中国分割参加の意図を表明しました(鈴木俊編「中国史」世界各国史Ⅸ 山川出版社)。

世界飛び地領土研究会―膠州湾―威海衛―香港―広州湾

 

児島襄「大山巌」を読む45

 1896(明治29)年5月21日大山巌の長女信子が19歳で肺結核のため死去しました。  

 徳富健次郎(蘆花)は1898(明治31)年8月、逗子の旅館柳屋で同宿した元大山巌大将副官福家安定中佐夫人安子から蘆花夫人愛子に語る大山信子の不幸な生涯について知ることを得たのです(福田清人・岡本正臣「徳富蘆花清水書院)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―とー徳富蘇峰・徳富蘆花 

 徳富蘆花は同年11月29日から兄徳富猪一郎(蘇峰)の経営する国民新聞に小説「不如帰」(ほととぎす)」の連載を開始、その要旨は海軍少尉川島武男と愛妻浪子の病気をめぐる悲恋を描いたもので、翌年5月24日まで同新聞に掲載され、1900(明治33)年刊行、1901(明治34)年2月大阪朝日座で芝居として上演されるほどの人気を得ました(秋庭太郎「日本新劇史」筑摩書房)。

 ところがこの小説で浪子の父「片岡毅陸軍中将」を「この大山巌々として物に動ぜぬ大器量の将軍」(徳富蘆花作「不如帰」岩波文庫)という表現があり、其の他だれが読んでも「片岡毅」が「大山巌」をモデルとしていることがわかる文章が続くのです。しかも浪子は「早くより英国に留学して男まさりの上に西洋風の染みし」継母に冷たく扱われることになっており、継母のモデルにされたと察しのつく大山巌夫人捨松は悩みぬいたようです(久野明子「前掲書」)。

児島襄「大山巌」を読む46  

 1896(明治29)年6月9日の山県・ロバノフ協定締結後、同年9月18日第2次松方正義内閣が同年3月1日立憲改進党を中心として結成された進歩党を与党として成立(外相進歩党首大隈重信)、大山巌に代わり高島鞆之助陸軍中将が陸軍大臣に就任しました。しかし松方首相は政党との連携に失敗、1898(明治31)年1月12日第3次伊藤博文内閣(外相西徳二郎、陸相桂太郎中将、海相西郷従道、蔵相井上馨など)成立、同年1月20日元帥府(げんすいふ 天皇の軍事上の最高顧問機関)条例公布(「官報」)、陸軍大将山県有朋小松宮彰仁親王大山巌、海軍大将西郷従道に元帥の称号が授与され、同時に陸軍中将川上操六が参謀総長に任命されました。  

 同年6月10日自由・進歩両党は連携して衆議院日清戦争賠償金を陸海軍拡張費にあてることに伴う歳入不足を補うために伊藤内閣が提出した地租増徴案を否決、衆議院は解散されました(林田亀太郎「日本政党史」上巻 大日本雄弁会)。

 同年6月22日自由・進歩両党は合同して憲政党を結成、同月24日伊藤首相は元老天皇を補佐し重要政策決定に影響力をもった政治家 憲法外の存在)会議で憲政党に対抗するため、①首相在職で政府党を組織、②下野して政党を結党、③憲政党に政権を渡すなどの方針を示したのですが、山県有朋はすべてに反対して激論となりました。同日伊藤首相は辞表を提出、後継首相に大隈重信板垣退助を推薦、同月27日大隈・板垣に組閣命令が下されました(「伊藤博文伝」)。かくして第1次大隈重信内閣(内務大臣板垣退助)いわゆる隈板(わいはん)内閣とよばれる最初の政党内閣が誕生することになったのです(林田亀太郎「前掲書」)。

 

児島襄「大山巌」を読む47

 しかし同内閣は陸海軍大臣桂太郎西郷従道を留任させることで山県有朋ら政党内閣反対派と妥協して発足、同年8月21日尾崎行雄文相が帝国教育会夏季期講習会の修了式における演説で最近の日本における「拝金熱」について「百千年の後共和政体設立するが如き(勿論なかるべきも)場合は、三井・三菱が大統領候補になるかもしれぬ」(共和演説・「新聞集成明治編年史」)と述べたことについて、山県有朋の指示をうけた陸相桂太郎は首相大隈重信に重大問題化する恐れがあると警告しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―おー尾崎行雄 

 また川上操六参謀総長桂太郎陸相とともに内相板垣退助に働きかけ、板垣は10月21日天皇に文相弾劾上奏を行ったのです。10月24日尾崎文相は辞表提出、閣議は後任文相をめぐって紛糾、大隈首相は独断で犬養毅を文相に奏請すると、板垣退助ら旧自由党系閣僚が辞表提出、10月31日大隈重信内閣は崩壊しました(大津淳一郎「大日本憲政史」第4巻 明治百年史叢書 原書房)。  

 10月29日憲政党自由党派は大会を開催して憲政党解散と新憲政党結成を議決、11月2日板垣内相は旧進歩党系の憲政党を集会および政社法違反として禁止したので、同月3日憲政党進歩党系は憲政本党を結成してこれに対抗しました(林田亀太郎「前掲書」下巻)。

 

児島襄「大山巌」を読む48

 1898(明治31)年11月8日第2次山県有朋内閣(外相青木周蔵、陸相桂太郎海相山本権兵衛、蔵相松方正義)が成立、山県首相は憲政党を抱き込んで同年12月20日懸案の地租増徴法案可決に成功しました。   

 1899(明治32)年3月28日文官任用令改正が行われました。従来の文官任用令においては判任官・奏任官については学識検定を必要とする規定がありましたが、勅任官などの高級官吏は閣僚の奏薦によるとされていたため、内閣と進退を同じくしたり、情実人事の温床となったりしました。そこで山県首相は高級官吏が不偏不党を維持し、法定の理由以外で解任されないよう身分保障することを目的として文官任用令改正と文官分限令・文官懲戒令を公布し、政党の官僚統制を困難とする措置をとりました(徳富猪一郎「公爵山県有朋伝」)。  

 同年5月11日参謀総長川上操六陸軍大将が死去、後任に大山巌が任命されました(徳富猪一郎「陸軍大将川上操六」伝記叢書 大空社)。

 1900(明治33)年3月10日治安警察法(「法令全書」)を公布、政治結社・集会・示威運動の規制と労働運動・農民運動の取り締まりを規定しました。さらに同年5月19日陸軍省海軍省官制を改正(「勅令」)、軍部大臣の現役大・中将制を確立、軍部は彼らの意向に協力しない内閣に閣僚を送らないことによって、内閣の存廃をきめる力を持つに至りました。

 このような山県有朋内閣の政策に対して、6月1日憲政党伊藤博文に党首就任を要請しましたが、伊藤はこれを断り、新党組織を示唆、憲政党は新党への無条件参加を申し入れ、8月25日伊藤博文は政友会創立委員会を開き、宣言および趣意書を発表、9月13日憲政党臨時大会は政友会参加のため解党を宣言(林田亀太郎「前掲書」)、9月15日立憲政友会発会式(総裁伊藤博文 所属代議士152名)が挙行されました(小林雄吾「立憲政友会史」第1巻 日本図書センター)。

 

児島襄「大山巌」を読む49

 義和団はもともと義和拳とよばれる呪術で、18世紀末直隷・山東地方におこり、もし義和拳をおこなえば刀鎗・銃丸でも身体を傷つけることはないと信ぜられていました。清国政府はしばしば兵を出して鎮圧につとめ、一時ほとんど衰滅したかと思われていましたが、近年直隷・山東の地にキリスト教が拡大、とくに山東儒教の祖孔子の生誕地で外国を排斥する風が強く、外人宣教師との紛争が絶えませんでした。山東省の威海衛・膠州湾のような外人占領地において民衆が外人を殺害し、教会堂を焼くなどの事件が頻発、このような情勢の中で義和拳が復活、義和団が台頭してきたのです。

 1900(明治33)年5月3日青木周蔵外相は駐清公使西徳二郎に対して、義和団に関し欧米諸国と共同の措置をとるよう訓令を発しました。5月20日北京駐在の11カ国公使団は清国に対して義和団の速やかな鎮撫を要求、5月31日英仏露米伊日の陸戦隊400余名が太沽に停泊する各国軍艦から北京に到着しましたが、6月8日北京・天津間の鉄道不通、10日には電信も不通、11日北京日本公使館書記生杉山彬が永定門外で殺害されるに至ったのです(「日本外交文書」第33巻別冊一 北清事変 上 巌南堂書店)。  

 同年6月15日山県有朋内閣は参謀総長も出席した閣議で清国へ陸軍部隊を派遣を決定、各国公使に通告しました(「日本外交文書」第33巻別冊「北清事変」)が、このとき派遣兵力量を討議しようとしたとき、参謀総長大山巌は「出兵すへきや否やは内閣の決議を要する固より当然なれとも、其兵力及び編成等に関しては本職其責に任し調査決定すへき」(陸軍省編「明治軍事史」明治百年史叢書 原書房)と主張、このことをめぐって山県有朋首相と意見の対立があったようですが、天皇の裁可を得て当面の清国派遣隊を編成しました。

 

児島襄「大山巌」を読む50(最終回)

 同年6月19日清国総理衙門はは各国公使に24時間以内の北京立ち退きを要求、翌日義和団は北京各国公使館を包囲しました。  

 6月23日英代理公使は青木外相に北京列国公使館救援のため日本出兵の意向を問う覚書を提出、7月5日には派遣軍増員を要請、翌日日本政府は閣議で混成1個師団清国増派を決定(「日本外交年表竝主要文書」上)、派遣日本軍は総計約22000に達すると各国公使に通告しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―あー青木周蔵 

 同年7月8日英代理公使は青木外相に対して清国へ日本軍を増派すれば、財政上の援助を辞せずとし、7月14日には日本軍2万人増派すれば100万ポンド援助と通告しました(「日本外交年表竝主要文書」上)。同年7月末8カ国連合軍は33000(その2/3日本軍)に達し、8月14日北京城内に侵入、翌日列国公使館区域を救援しました(「北清事変」)。

 「その(義和団)鎮圧に際し最も強力な先鋒となり、更に最も忠実に列強の方針に随従することに依って、日本は始めて列国と対等の立場を獲得し世界の舞台に登場するに到り愈々(いよいよ)極東の憲兵(軍事警察官)としての実力を買われたのであった。」(外務省編「小村外交史」明治百年史叢書 原書房)。

 1901(明治34)年9月7日北清事変に関する最終議定書(「日本外交年表竝主要文書」上)調印、日米英仏露独墺伊白西蘭11カ国代表と清国側全権慶親王李鴻章の間の交渉で、清国は賠償金4億5000万海関両の39年分割払いと太沽砲台撤去、北京公使館区域の各国駐兵権などを承認しました。