幸田真音「天佑なり」を読むⅴ-1~10

幸田真音「天佑なり」を読む 

 これより先第一回4分半利付き公債の募集が結了した直後、パンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏を通じ、巴里株式取引所仲買委員 長ヴェルヌイユ氏から、フランス大蔵大臣ルビエ氏の命によって、ごく内密で面会したしとの申し出があったので高橋はそれを承諾しておきました。すると3月27日[1905(明治38年)]コッホ氏がやって来て、「ヴェルヌイユ氏が今日わざわざパリーからやってきたので、明日面会の手筈をしておいた。もっとも今会談の模様が分っては、ロシアに対して困難なる事情を生じて来るのでこのことは絶対に秘密を要する。ついては明日午後4時自分の事務所にて手軽く会見相成ては如何」という話であったので、高橋はその通り承諾しました。その際コッホ氏の話によると、元来ぱ巴里の取引所には70余名の官設仲買人(official broker)があり、その上に仲買人委員長なるものがある。これは政府が任命することとなっている。このほかに普通の仲買人がいるけれども、それらはすべて員外仲買人(open broker)と称し、信用責任等遙かに官設仲買人に劣っている。取引所の発行にかかる公定相場表(official quotatitation)に載せられている有価証券は主に仏国政府または信用ある外国政府の公債並びに確実なる債券類であって、これは官設取引所でなければ相場を立てることが出来ない。しかして員外仲買人の取り扱う有価証券は、公定相場表に掲載を許されないものに限られているので、自然二流三流以下有価証券類がその主なるものである。公定相場表に掲げられたる有価証券は信用確実であって、いずれも第一流の放資物と認定せられるので、その選択極めて厳重ならざるを得ない。従ってその種目もあまり多くない。これ即ち勤倹貯蓄の念富みかつ放資力の豊大なる仏国民が放資の目的物の少きに苦しみつつある所以(ゆえん)である。しかして公定相場表に載せることの可否選択の権は、一に取引所委員長の掌中にあり、従って日本公債を巴里市場に広めるについてはこの委員長の諒解を得ることが第一の要件である。今日ちょっと貴国公債を公定相場表に載せることについて氏の意見を敲いたところ、氏は大体において異議なし。しかし、平和後日本公債の信用絶頂に達しその価額高騰したるところで仏国民に引き受けしむることは面白からず、未だ絶頂に達せずなおなお高騰の余地ある間に、仏国にて発行し、仏告国民にも価額騰貴により生ずる利益国を得せしめ満足を与うるよう致したし。交戦中は同盟国の露国に対して憚るよころあれど、戦塵一掃されなば、むしろ当方より希望して発行を願いたし、その発行額のごときも、少額なるより相当巨額なる方却ってよろしという話であったとのいうことでありました。  これが即ち高橋と仏国資本家と関係を結ぶに至った端緒で、コッホ氏の尽力預かって大いに力がありました。さてコッホ氏はどんな手蔓からかような端緒を開いてくれたかというに、同君の夫人は仏国のバロン・ジャック・ド・グンズブルグ(Baron Jacque de Gunzburg)の夫人と姉妹で、同男は仏蘭西工商銀行(この銀行は当時の大蔵大臣ルビエ氏が入閣前頭取たりしことあり俗にルビエ銀行と称せられた)の重役でルビエ氏やヴェルスイユ氏とは昵懇の間柄であったので、コッホ氏はまずクンズブルグ男に話しこみ、同君を経てヴェルヌイユ氏近づき、ついに高橋との連絡をつなぐに至ったのでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読む 2 

 3月28日午後4時約束通りコッホ氏の事務所で、極秘裡にウエルフィユ氏と会見しました。氏のいうのには、「自分は大蔵大臣ルビエ氏の申付けによって貴君に御面会を求めたところ早速御承諾下さって辱ない。御承知のごとくフランス国民は従来から巨額の露国政府の公債に投資している。今日では日本の金にしてほとんど70億円くらいにも上(のぼ)っている。そういう深い経済関係を持っている仏蘭西としては、いつまでも戦争が続くことは非常に憂慮に耐えないところである。ゆえに一日も速やかに平和になることを希望してやまない。また我々フランス人は今日まで少しも日本の真価を諒解しなかったことを恥する次第である。これに反し英国のごときはさすがに機敏であって、団匪事件の時に、早くすでに日本の兵力を認め、次いで日本と同盟するに至った。ゆえに大蔵大臣のルビエ氏のいうのにはこの際どうかして速やかに講和することを希望するが、これまで連戦連勝の日本が勢い委せてもし償金を要求するということであったら、ロシヤはそれを納得しないから講和は成立の見込みがない、もし日本が償金をとらずに講和をするというのであれば、フランスは日露両国の間に入り、露国政府を促して講和をさせるようにしようと思うが貴君の意見はどうだ、これが自分の使命の第一だ」というから、高橋は「これまでの戦争の例を見ても、和議をするに当って戦争に勝った国が償金を取らぬということはほとんどないようである。自分の考えでは、日本があらかじめ償金を取らぬということを条件として、講和の談判を進めることは出来ないと思う。かつさような条件では政府がいかに平和を希望しても国民が諾かぬであろう」と答えました。するとウェルスイユ氏は、「なるほど貴君のお説は一応ご尤もであるが、今日日本の兵は連戦連勝であるが、戦いをしている所は清国の領土内で、未だ日本軍はロシヤの域内を寸地だも侵していない。日本が飽くまでも償金を求めロシヤがこれに応ずるというのには、日本兵が少なくともモスコーまで進出しなければ出来ないことである。それは日本に取っては容易ならぬことと考えられる。しかしてルビエ氏の考えは、日本政府が償金を取らなければ、財政上苦しいであろうから、その償金の代わりに、新たに5億乃至7億円くらいの日本政府の公債起こすために、パリー金融市場を開放する。さすれば日本政府は永遠に富裕なる仏国市場を使用することが出来るので、一時に取る償金以上の利益があるから、この際は償金を求めずして和を講ぜられるよう希望するというにある」ということでありました。 それで高橋は「しからばそのことを内々日本政府に電報して政府の意向を聞いてみようか」といううと、ウエルスイユ氏は、「ルビエ氏の意向はこの際日本政府の考えを聞いてもらいたしというのではない、ただ貴君がどう考えているかを聞けばよいということであった。すでに貴君の考えが分った以上それでよいのである。この戦争はロシヤの敗戦によって落着しても、ロシヤは他日必ず日本に対して報復の戦争を起すことは明らかである。そうなって困るものはフランスである。ゆえに日本とも経済関係を密接にしておけば、他日日露の間に紛糾が生じても、フランスがその中間に立ってその間を調停することが出来る。というのがルビエ氏のの意見である。ついては、今後フランスとの経済関係を密接にし、戦争終了後早速巴活にて日本公債を発行せられるよう希望する」というから、「それは至極尤もなことで、日本政府でも御好意をよく受けることであろう。時期至らば、自分の努力の及ぶ限りルビエ氏の意向に添うようにしよう」といって別れました。その後ヴェルヌイユ氏は巴里に帰ると共に、事の顛末をルビエ氏に報告したところ、同氏も非常に満足したということをグンズブルグ男及びコッホ氏を経て通報して来ました。

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 高橋とフランス資本団との関係は、上述の状態のまま推移して数箇月を経過しました。その内8月上旬に至って、たまたま主なる資本家と会合するの機会を得て、その意見を質したるところ、「日本政府が平和後外債を起す希望なれば、講和条約締結の直後に着手するがよい。何となれば、平和成立の際日本に対し一般人気最も良き時である。数箇月を過ぎれば露国の常套手段として新聞その他の策略により自国の信用を回復することに務めるから、時の経過に従って、今日のごとく日本の国債は遙かににロシヤのそれに優っているという観念がだんだん薄らいで行くから、日本に対する好人気を利用することは出来なくなる」ということでありました。高橋も至極同感でしたから、このことを政府に電報しました。 

 するろ政府からは、「貴殿の指摘する点については政府もすこぶる重要と認めているので、講和談判の決定後直ちに何分の処置をなす積りであるが、公債の新発行については新たに緊急勅令または法律を発布するには及ばない。本年法律第12号第3條によって整理の名義にて発行することを得べきをもって念のためお知らせ致いおく」と返電が来ました。 

 それから約1箇月ばかり経って9月4日に至り、9月1日発の日本政府の電報に接しました。そおの内に、「講和談判はほぼ結了した。償金はなし、ついてはすでに発行したる公債整理のためこの際2億円乃至3億円の外債を発行したきところ、英米独仏等の人気いかにや、至急資本家の意向を探り報知せよ」と言って来たので、高橋は「日本政府が償金問題を譲り、平和を成立せしめたることは大いに評判よし、内国債整理のため外債必要ならば、今日をもって好時期とす。露国政府はこの際大陸にて大蔵省証券を発行し応急の資金を調達し、追って信用の回復を待ち長期公債発行の手段に出づる様子である。もしこの際外債を起すならばこれをもって整理する公債の種類を明示しまた現金入用ならばその使途を明らかにするの必要あり、次に仏国市場を利用するならば、無抵当にて利子4分発行価額90%くらいとお考える、新外債の成功を期するには、未だ償還権は生じおらざれども第一回第二回6分利付英貨公債は、多少利益を与える手段を取って新外債を引き換えることを許すことにせねばならぬ。資本家の意向を探ることは、以上の事情に基づき新外債募集のことを確然御決定の上ならざれば不得策と思う。なおこの際内より亡国論など出して、海外の信用を失墜せざるよう取り締まらなければ、些細のことにて人気一変する海外のことゆえ甚だ心配なり」と返電しておきました。

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しかるにこれと相前後して松尾日本銀行総裁より極秘の電報来ました。即ち、「平和談判の調いたるは御同慶なるも償金皆無なるゆえ正貨準備の維持甚だ困難なり。現今政府及び日本銀行が内外に所有する正貨及び第四回外債の未収入高を合計するも5億1800万円を出でず、このほかに正貨収入の見込みなし、しかして目下在本邦外国銀行支店及びその他より兌換券をもって正金払いの為替を申し込むもの毎日平均およそ100万円にして、1箇月3000万円内外なり。これをもって将来を測るに、向こう20箇月を出でずして正貨準備は尽くるに至るべきか、ことに本年は米作不良の模様につき輸入超過は免るべからず。上記善後策については目下政府においても取調べ中なれども、前述べたるごとく、差し迫りおるにつき、おそらくはこれを救うの途は甚だ承りたく返電を乞う。 

 また7月27日附お手紙落手カッセルへ賜わる狆のことは心配中なり。なお米国ハリマンも昨日来着しそれぞれ待遇の手配せり」と言って来たので、高橋は「お申し越しの件はすこぶる重大の件なるをもって事実の調査に基づかざれば違憲立ち難(がた)し。しかれども上下(しょうか)とも非常の決心断行を要するの時にして、戦争中のごとく警戒を緩めず、奢侈を斥け、遊惰戒め、この際原料品もしくは生産的資本に属する機械類のごとき物品以外の輸入品には国家の力をもって干渉し、関税を重課してその輸入増進を防遏(ぼうあつ)するの方針を立て、一方生産的事業資金はなるべくこれを供切べる給するの途を明け、かつ欧米観光客の誘致策を按じ、政府は率先して自戒め、政府事業中殖産興業に縁遠きものは、当分出来る限りこれを繰りのべ、海陸軍備の補充拡張のごときも断乎たる決心をもってこれを抑え、決して国力以上の施設を為さざるよう注意肝要なるべし。しかしてこの際財政に関しては特別の御宸襟(しんんきん 天皇の心)を煩わし奉り、諸般の施設ことに陸海軍の設備に関しては、果して国力の堪ゆるや否やという点につき、畏くも常に環形大臣にをお膝元御召相成親しく御裁断有之様、希望に堪えず」と返電しました。 

 さて8月39日、講和談判において、日本が償金をを撤回したということで、一時は日本公債の市場人気に師全失望消沈の状態を示さんとしましたが、それもすぐに持ち尚して、9月の初めころになると欧米の新聞は一斉に我が天皇陛下のご英断を称揚し、海陸連戦連勝の命よに一層の光輝を添えるの感がありました。加えるに日英同盟の改訂も行われたので、これによって東亜の平和も前途長く保証せられたりして、日本公債の景気も意外に良好の調子を保ち市価も昂進一方にて、ここ1、2週間の内には4分半利付英貨公債のごときは、多分97、8くらいまでの市価を維持するに至るべしとの気構えを生ずるに至りました。 

 しかるに、9月6日に至って、平和条件に対する不平に起因して、東京に一大騒乱(「坂の上の雲」を読む49参照)起れりとのとの報道(海底電線破損のために遅延)達し。、翌7日よりそのことがロンドンの諸新聞に一斉に掲載されたので、英米市場の対日本感情に容易ならざる激変を与え、従来の好人気一大頓挫を来し、日本公債のごとき一時に3分余も下落しました。高橋はこの情勢誠に遺憾に堪えなかったので、何とかして狂瀾(打ち狂った大波)を既倒(元通り)に挽回したしと苦慮しましたが、なかなか名案も出ません。ちょうどそこへロイテル通信社員その他の新聞記者らが、東京争乱に対する高橋の意見を聞くべく押しかけて来ました。高橋のところには6日、日本銀行総裁から、「昨5日平和条件に対しての騒擾あり、警察官吏と運動者と衝突して多数の多少の争乱ありたれども、今朝に至って沈静せり、格別のことなし、通信員らより誇張通信可有之(これ有るべし)と察するゆえ念のため報告致しおく」と電報が来ておったので、新聞記者らに対しては、「決して心配はいらぬ、講和条件に不満の徒が一時のの激憤にかれ会合せるところに、警官の処置やや穏当を欠き衝突を生じたまで、ロンドン諸新聞の報ずるがごとき仰々しきものにあらず。従って講和条約の批准を妨げるがごとき憂いは絶対になし」と説明しました。このことは各新聞紙にに掲載せられ、程なく多少は市場人気も落ちつきたるも、ついに前日の好調子に挽回するには至りませんでした。しかして露国政府はこの機措くべからずとして、米、独、仏及び上海等において盛んに新聞の操縦を逞しくし、日本に対する欧米の人心をして不安の念を起さしむれば、それだけ露国に対する人気を好くする結果となるわけゆえ、大いにその宣伝に努めたようでありました。 

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 9月8日[ 1905(明治38年 ]、に至って、日本政府から急電が入りました。それは、「第一回第二回6分利付英貨公債3200万磅、内国第四回大五回6分利付国庫債券2億円を整理するため、仏国を加え無抵当4分利付長期公債価額90以上にて3億乃至4億円を発行するを得ば幸なり。以上の諸条件を基礎としてこの際直ちに内協議を開かれたし」という意味のものでありました。しかるに当時欧米市場の日本公債に対する人気は、東京騒動のために一変した時であるから、当方より問題を起すのは拙劣である。幸過日パンミューリ・ゴールドン商会から、同様の問題を持ち出し、日本政府の意向を承知したき旨の申し出があったので、その話 

続きとして、同商会の注意により日本政府は始めて公債整理の考えを起したることとして徐々に資本家とと内相談試みた。ところがおずれの資本家もことごとく反対の意見申し立てて来た。その大要は、1、東京騒動以来日本公債に対する人気を挫きたる矢先ゆえ、今公債を発行するも到底日本政府に満足なる条件を得る能(あた)わず。2、今後数カ月も待てば日本の財政経済の信用も自から各国間に知られ、従って日本公債の市価も一層上騰すべくその時機において発行するを可とす。3、日本政府が目下巨額の現金を海外に所有せるにも拘わらずさらに公債を起すは、海外金融市場に巨大の実力有せしめ、その動きによって金融市場を動揺せしむる憂いありとの不安にがらしむ。3、条件の如何に拘わらず露国政府が外債相談中に日本公債の発行は困難なり。 

等であって、日本公債の発行に都合悪しきことばかりです。そこで、ちょうどセント・ピータースブルグに在る姉の病気見舞のため旅行しておったパンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏を呼び戻し、その意見敲いて見ましたが、この人も別段迷案なく、要するにことの成敗仏国市場が露国の起債に応ずるや否やに懸っている。露国がいよいよ起債することに決まらば、その間に割りこんで日本公債を募ることは到底見込みがないと大体前記の各説と同様の意見でありました。 

 またロード・レベルストックは、日本政府にあまりあまり過大の現金を一時に占有せしむるは金融界の安全を保つ所以にあらずととの観念に支配せられいるため、目下、募債の時機にあらずとするのみならず、この際は大蔵省証券を売り出すことさえ宜しくないという意見でありました。 

 サー・アーネスト・カッセルのごときも、日本は僅々4箇月足らず内に6000万磅の外債を発行し非常なる成功をなした、しかしながら、何分にも巨額の発行高ゆえ未だ公債はその落ちつくべきところに落ちつきおらず、なお将来の騰貴を見て売飛ばさんとする思惑者流の手相当残りおれば、それらのものが本統の投機者の手に落ちつくまでは必然的に値段も抑えられる次第なれば、日本公債の発行は少しにても先に延ばすがよい、もし公債整理のために是非現金が入用ならば、この際12箇月期限5分利付大蔵省証券を資本家に売り渡し、来春を待って整理のため多額の公債を発行することが有利なる条件を得らるべし、という意見でありました。 

 英国における事情は大体上述の通りでありました。米国の方はウカと電信などで照会しておっては、新聞に漏れて却って評判の種を蒔くに過ぎないから、どうしようかと独りでその方法を考えているところにシフ氏より手紙が着いて、日本公債整理のことは後日に延ばす ことが得策であると思う旨を通じて来たので、米国資本家の意向もほぼ判明するに至りました。

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 9月8日[ 1905(明治38)年、上述の事情でありましたから、高橋は政府に対し、「平和条件に対する東京騒動のため日本公債に対する人気大いに悪く相成り、当地新聞記者らに極力説明に努めおれどもここ1週間も経たざれば、公債整理をするの可否認め難し」と電報しました。すると政府よりは9月9日に至り、「公債募集を来春まで延ばすことは甚だ困難である。ゆえに是非、この際発行の決心をもって新進行を望む。市中昨日より全く平穏となった。まだ平和に反対せる人々数日来の騒動を後悔している有様であるから、もはや安心してよい。なお平和恢復せるも軍隊の引上げを終わるまでには莫大なる費用がいる。来年3月までの分としてこの際1億円の内国債発行の必要があれども平和条件不人気にて当分公債談を開始するの見込みなし。ゆえに内国債の整理償還先にして人気を回復することが最も必要である。パリーの資本家『ソエルバック・タルマン』商会のソモルバックより、大蔵大臣へ公債引き受けのこと申し出ているから、もし貴君に紹介することを便宜とせらるるならば紹介すべし。またフランスに対し外交上の援助を必要とするならば、その考えなきにあらず。貴君考慮の上申し越されたし」と電報して来ました。これに対して高橋は、フランスにおいて募債の件は先般来第一流の資本家との交渉の途は開けている。現にパリーの資本家よりはしきりに高橋のパリー行きを促して来ている、かつパリーに行けば総理大臣ルビエ氏高橋に面会すると間接申し越してきているくらおゆえ、露国政府の公債さえ募集せられない限りは大いに見込みありと思う。ただし万一露国公債が募集せらるることとなれば、我が公債談は一時中止するよりほかはないことを返事し、また政府より言ってきたソモルバック・タルマン商会のことも調べてみたがこれは地方の金貸しかかつ仲介商人としては相当に信用があるけれどもニューヨークやロンドンではにはその名を知られておらず、到底公債募集の相談相手とすべきほdpの資本家でないことが明らかとなったので、その旨をm電報しておきました。 

 その内に、日本政府では、高橋の交渉相手である巴里株式取引所仲買委員長ヴェルヌイユ氏について、パリー駐在の本野(もとの)公使に電照の結果、同氏がフランス理財社会に最も勢力ありかつ大いに信用するに足る人物なるを確かめたために、9月11日に至り、露国公債の風説もあることゆえこの際速やかに巴里取引所のヴェルヌイユ氏と交渉を進めよ、かつ工廠上必要と認めることは、直接本野公使と交渉してよろしい、本野公使にはその旨通知した、と言ってきました。 

weblio辞書ー本野一郎 

 上記のように、本国政府からは、矢継ぎ早やに督促して来ます。ついてはこの際先決問題はロシヤの募債談がいかに進行しつつあるかを確かめる必要があるので、一旦パリーへ行っておもむろに後図(こうと のちのちのはかりごと)を策せんと決心しました。ただ高橋がここに突如フランスに行くについては、すこぶる錯綜した関係今回平和後の整理公債を生じてくるというのは、第一今回平和後の整列理公債の発行に当って、戦争中関係した資本家に、全然無断で、仏蘭西に行き公債談を開くことは、日本政府の徳義上なし得ざるばかりでなく、彼らの感情を害して決して我が国の利益となりません。次に仏蘭西資本家は独逸の加入を喜ばず、これと共同して公債を発行することを嫌う傾向があるので、その方の関係も注意せねばなりません。こういうことで、フランス行きについては、静かに時機の熟するを待っていました。しかるに日本政府ぁら、前記のごとく大至急談判を開始するよう通知してきたので、英国資本家には一切の故障を排して巴里に向いました。 

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1905(明治38)年9月15日夕刻巴里に着いて、翌16日午前10時から、ヴェルヌイユ、グンズブルグコッホ諸氏と会合して公債発行についての内相談をしました。 

 高橋は発行総額を5000万磅とし、う内2420万磅は大一回及び第二回の6分利付英貨公債1200万磅の引き替えに充当するため英米において発行し、残り2580万磅は、日本内国債の償還に充てることとして、英、米、独、仏において発行す。発行条件は無抵当4分利付にて発行価格90以上たるべきことを基礎として相談を進めました。3氏とも大体においてこれに異議なく、ただし仏国市場の都合上、9月、12月、1月は公債の発行思わしからず、10月ならば差し支えなきゆえ、来月にも発行したがよいと思うけれども、露国は交戦中より起債談持ち込みおることとて、露国公債発行以前にに日本公債を発行することは困難である。またロンドンを起債談の中心とすることは、英国が日本同盟国たる関係より生ずる自然の結果であるから、その節は仏国より代人を出し、英国資本家と同等の地位に立ちて相談出来るよう致したく、発行条件の無抵当4分利付にて価格90以上は相当の希望とは考えられるが、4分利付日本公債は現にロンドン取引所にて取引されつつあるゆえ、自然その時の取引価格に支配せらるると思う。なお仏国にて初めて日本公債を広めらるる以上その価格の絶頂に達せざる前即ち前途昂進の希望ある内に発行して、仏国民にもその騰貴より生ずる利益を占めさせるようにしてもらいたし、また仏国のいわゆる公衆投資者(People investor)は真の細民にして中には500法(フラン)内外少額なるものも少なくない。彼らは他国の公衆と違い応募前に銀行支配人とか資本家とかに行き意見敲く等のことなく、彼らの向背を決する相談相手は新聞の記事であるから、中央地方にわたり多数の新聞を操縦して大いに人気引き立てる必要がああるゆえ、その方の負担を相当に見積られたし、ということでありました。 

 かくて同日の相談も極めて円滑に取り運んでその日は一応っ宿に引き取り、越えて9月9日午後4時、前約に基き、ヴェルヌイユ、グンズブルグ、コッホ諸氏同道にて総理大臣官邸に総理大臣ルビエ氏を訪問しました。 

 まずヴェルヌイユ氏が高橋をルビエ氏に紹介して、高橋が仏国市場に募債の考えありて渡仏して来たことを述べると、ルビエ氏は、「今般日本政府が講和条約を取り結んだlptpはすこぶる智慮ある措置であって、仏国民の共に祝福しているところである。この時機において日本公債を当地市場に紹介せらるることは、誠にその処を得たりと考えるが、相成るべくは日本公債の市価頂上に達せざる以前に発行せられたく、かつ仏国発行銀行は仏国の発行銀行と必ず同等の地位に立ちて相談致すようにして頂きたい」ということでありました。 

 よって高橋は「日本政府はかねて仏国市場にて公債を発行したき希望を持ち時機の熟するを待っていたが、今閣下のお話を承り満悦に堪えず、承れば仏国にては英国等と違い政府の意向大いに金融界の潮流に影響する所ありと聞く、ついては今後一層の御高配を望む」と答え、その他公債発行の条件、日英同盟の話等に及び、非常に打寛いで会談を終えました。この日総理大臣と高橋との対談主としてコッホ氏の通弁し、時としてヴェルヌイユ氏も通弁しました。別れに臨み高橋が、仏語を操り得ずために直接意を尽し能わざるを遺憾とする旨いうと、ルビエ氏はこの時初めて不十分なる英語をもって自分とて英語の素養に乏しく、遠来の珍客と直截快談を縦(’ほしいまま)にする能わざるを遺憾とする旨の話がありました。その後ルビエ氏は、たびたび高橋の止宿しておるリッツ・ホテルに来て午餐を共にし、互いに懇意となるに従って普通の話しは英語で直接話すようになりました。 

 この公債談について微妙なる国際関係g生じて来ました。それは、今回の募債につき独逸を加入せしむるや否やは、英国の資本家も仏国74の資本家の意向を憚って一語も口に出しません。しかし心中では従来の義理もあることゆえ一部分は独逸にも持たせたい希望があるようです。ところが仏蘭西のヴェルヌイユ氏やルビエ氏は独逸に関しては片言隻語も口しません。実に妙な睨みあいとなって来ました。要するにこれを真っ先に言いだしたものが、一方のの恨み買うわけゆえ、誰もこれを言いだす者がなく、英国資本家は日本政府の意なりと言うて独逸の加入を迎えたきもののごとく、また仏国資本家は同じく日本政府の意なりとしてこれを拒否せんと考えておる模様でありました。それで独逸を加入させれば仏国の感情を害し、独逸を拒否すれば英国の銀行者の感情を害しかつ独逸の怨恨を買うこととなり、実に、そこの梶の取り方がちょっとのところで大事になるゆえ、高橋はこの旨を詳しく書面をもって日本政府及び松尾日銀総裁に申し送ってその注意を促しました。

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今回の公債発行は仏蘭西を加入せしめて、その半額は巴里において発行せしむる予定の下に、ルビエ総理大臣およびヴェルヌイユ氏らと相談を進めましたが、すでに巴里発行と決した以上、パリーのロスチャイルド家をこれに参加せしめ、日本政府の発行銀行とすることは、金融上からも、信用上からも絶対に必要な事柄でありました。しかしてパリーのロスチャイルド家を参加せしむるためには、ロンドンのロスチャイルド家から勧誘してもらう一番力なことでありました。 

 元来ロスチャイルド家が、その富力世界に冠絶せることは、今さらいうまでもないところで、これと懇親を結びおくことは、将来我が国家のために利益する所多かるべきを考えて高橋はかねてから、パンミュール・ゴールドン商会のレビタ氏を通じてロンドン同家との交際を 

親密にし、lptpに待っ末弟のアルフレッド・ロスチャイルドとレビタ氏とは別懇の間柄であったので、高橋も自然懇意となりたびたび招ばれて午餐を共にするようになりました。 

 そこで今度渡仏するに当ってはまず第一にレビタ氏をもってロンドン・ロスチャイルド家に対し、ヴェルヌイユ氏らと相談のためパリーへ行くが、いよいよ仏蘭西にて日本公債を発行することとなったら、パリー・ロスチャイルド家の援助を受け得るであろうかどうか、その意見を聞かしめたところ、アルフレッド・ロスチャイルド氏は、「パリー同家の人たちは病身もしくは弱年者であるから率先して日本公債の発行者決心が出来るかどうか、疑わしい」ということであったが、ロード・ロスチャイルドは、「何とかしてパリー同家を従事せしめたいが、それには高橋氏の方から進んで提議せらるるがよかろう、日本政府及び高橋氏にして御希望とあらば、自分がパリー同家に手紙を送ってコッホ氏が交渉の途を啓(ひら8)き得らるるよう便宜を図ってもよろしい」ということであったので、その手配りをロード・ロスチャイルドに依頼し、同時にコッホ氏は高橋よりも1日早くパリーに行き交渉せしめました。 

 パリー・ロスチャイルドはロード・ロスチャイルド家の甥に当ることで、すべてのことにつきロンドン同家の説に重きを置いていました。それで当方よりの交渉に対しても一応ロンドン同家と相談の上返事をすうるということになり、直ちに特使をロンドンに派し、相談の結果1905(明治38)年9月18日に至り返答してきました。 

 その要領は、「平和克復後は日本公債発行に関係して差支えないが、ロンドン、パリー両地にて発行せらるる日本公債に対し、ロンドン・ロスチャイルド家が英国の発行仲間に入らず、パリー・ロスチャイルド家のみが仏国の発行団に参加することは、世間に異様の感を起さしむるゆえお断りするよりほかに致し方なけれど、ロンドン同家がが英国発行者となるならば、パリー同家においても仏蘭西の発行者となってよろしい」ということでありました。そこで今度は再びレボタ氏をもってロンドン・ロスチャイルド家に上述のようなパリー・ロスチャイルド家の意向を伝え、是非発行仲間に参加せられたき旨を相談せしめました。 

 しかるにロンドン・ロスチャイルド家では容易にそれを肯(がえん)じません。けだし戦争中英国の銀行者たちはロスチャイルド家を仲間に加えずして巨額の公債募集に成功しているのに、今さら同家が参加の必要はないではないかというのがその理由で、ロード・ロスチャイルドは、この理由をわざわざパリー同家に申し送って諒解を求めたのですが、パリー同家では、ロンドン・ロスチャイルド家が参加せぬ以上は仏国にての発行は者となることは出来ぬとのと居てなんとしても受け入れません。それでロンドン同家でもとうとう折れてロンドンにおいての発行銀行に加入することは承知しました。 

 かくてロンドン・・パリー両ロスチャイルド家が発効銀行に参加することはいよいよ確定しました。しかるにかくなてきて他の発行銀行者たちの心配は、ロ家の参加は日本政府のためには甚だ結構であるが、元来ロンドン同家が発効銀行と共に名を連ねることがすでに異例であって、同家が仲間に入る以上は、発行銀行の首席とならねば承知すまい、そうなれば従来の発行銀行としては、自分たちの信用不足のためにさらにロ家の救援を仰ぎたるの観呈し、一般公衆に対して大いに自分たちの面も句と信用とを傷つけるの憂いがある。ロ家は果して発行銀行の首位に就くことなくして参加を承諾するであろうかということでありました。よって高橋はこのことについてロード・ロスチャイルド懇談したところ、同家は発行銀行の申し出を理由ありとして、従来のパース銀行名を目論見書の首位に置くことを承諾しました。これを聞いてパース銀行の総支配人ホワレー氏のごときは、鬼の首でも取ったように喜びました。 

 上述のごとくしてロンドン・ロスチャイルド家を我が公債発行者の一人に加うることが出来ました。聞くところによると、これより先露国講和全権大使ウイッテ氏は、米国よりの帰途パリーに立ち寄り同地のロスチャイルド家に就き露国公債引き受け方を懇望し引き受け手数料のごときも6分を供し、発行価額のごときは一切同家に意思に一任することとし、かつ仏蘭西銀行(Banque de France)より責任と手数は一切同家を煩わさぬにより、同家の名を発行銀行の首位に置くことを枉げて承知されたき旨をしてきましたけれども、同家では断然これを拒絶した由であります。しかるに我が国の公債発行に関しては、英仏両家ともきわめて円満に参加するに至ったことは、我が国将来の財政上、無上の味方を得たものと言わねばなりません。 

幸田真音「天佑なり」を読む 

 ロンドン及びパリーのロスチャイルド家を発行銀行仲間に引き入れることは、以上のごとき事情で大成功をもって確定しました。しかしながらそのころから欧米の金融市場は近年になく引き締ってきて、金利は少なからず高騰しました。従って年内に我が公債の成功行はむつかしかろうと気遣うものも生じて来ました。ことに露国から公債発行の談判を進めている間は、日本の公債談を工に新乞うせしむるわけにはいかないので、高橋はやむを得ず内密の間に英仏の銀行家と気脈を通ずるよりほかは致し方がありませんでした。本野公使から、っこの際仏蘭西輿論を操縦するの必要を外務大臣に電報せられたり見え、政府より高橋に対しその事に就いての問い合わせの電報来ました。しかるに新聞操縦のことパリー・ロスチャイルドが一切引き受けることになっているので、政府に向っては、別に当方にて操縦の必要を認めず、と返電しました。けだしパリー・ロスチャイルド家は、平生仏蘭西の重立ったる新聞40有余をを操縦しているので、一切を同家に任しておけば、東方にてその費用を支出するの必要なsきことを確かめたがゆえであります。 

 10月の半ばを過ぎて、露国政府は自国交際発行相談のため関係国の銀行代表をセント・ピータースブルクに召集し、ほびその相談がまとまったことが判りました。そうしてそのh作興期日は多分11月10日ごろであろうということも確かめられたので、その旨を政府に電報しました。その後11月25日になって露国公債相談がいよいよまとまったことが一層深く確かめられたので、、それに引き続き我が公債の発行時機も近くにありと考えたので、その談判を進行さすについて、政府の決心を確かめおくの必要上、次の事項について指揮仰ぎました。1、もし銀行団が4分利付で、発行価格を90以下とせまければ承知せざる場合は、一時フランス交際を止めて6カ月乃至11カ月期限で、借入金相談をなすべきや否や。2、今回発行の公債は6分利付英貨公債及び内国際償還のためという主旨をもって今日まで内密に談判を進めて来たのであるから、政府がもしこの公債を他の目的のために使用するがごときことあれば、政府の信用を傷つけ禍を後日に残すものと承知ありたし。3、このごろ内外人中に、我が5分利付国庫証券を海外に売り出さんとして奔走する者が多くなって来たが、これは我が既発の英貨公債の騰貴を押え、かつ新たに起す外債競争の地位立たしむるもので、現にその噂のみでも悪影響を亜多会えつつあるゆえ、のことはなお一層政府の注意を望む。また近ごろ我が官民の間に外資輸入のの説盛んに行わるるが、そもそも内国際を海外に売り出すことは結局国家が比較的高利の外債を起すと同一のこととなり、その国家の損となることに気づかざるは遺憾である。4、今回仏蘭西で起す公債をもって、内国際の償還に充つることは明言しおるも、その償還すべき公債の種類はこれを明言しおらず、ゆえにいかなる種類の公債を償還すべきやは政府の随意である。よって政府は内国市場時々売り物の出るのを買って償還し、もって我が5分利付公債市価を額面に維持することが必要である。 

と言ってやると、1905(明治38)年10月27日に至って政府から、「お申し出の通り、発行価格は是非90を下らないようにしてもらいたい、しかし万一破談にする場合には一度政府の意見を問われたし、なお第一以下はすべて商人する、また一時借入金は要らぬ」という返事が来ました。 

 その後露国公債の発行については、露国内の争乱などのために、仏国銀行者もいささか躊躇の態であります。あるいは延期となるやも図られぬ、ということが報ぜられ、かつ10月29日にはスペインに旅行中の総理大臣ルビエ氏も、パリーに帰着したので、直ちに同氏を訪問して、この機会において、直ちに日本公債の発行許可させらるるよう交渉を開始しました。ところが仏蘭西では露国に対する政略上、下相談まとまり次第中仏乞う氏本野一郎君から公式に総理大臣ルビエ氏に申し入れることが便宜であるというので、11月3日高橋は日本政府に対し下既述の意味の電報を発しました。 

 「露国公債発行談は延期せられたるにつき、この際日本公債をパリーにおいて発行するよう尽力中である。ついてはルビエ総理大臣と拙者との内相談まとまり次第、一応本野公使より表面ルビエ氏に対し日本公債を速やかに発行するの必要ある所以を申し出らるることが、露国に対する仏国政府の政略上必要なるにつき、拙者より適当なる時機において本野公使に申し出たる時は、同公使は直ちにルビエ総理大臣に面会するよう、あらかじめ訓電してもらいたし」との主意電報しました。すると政府よりは直ちに申し越しの通り本野公使訓電した旨の返電が来ました。

幸田真音「天佑なり」を読む10 

11月7日に至って、本野公使から倫敦公使館を経由して電報で「今日グンズベルグ男(だん)と会見の結果、仏蘭西外務大臣と面会して下記の通り日本政府に電報した。 

 公債の件に関しルビエ氏一個の意見としては、なるべう日本の希望に叶うよう取り計らいたきも前々より露国との約束の次第もあることゆえ、露国より帰りたる銀行家(仏蘭西)の意見も聞きたる上ならでは確答し難し。もっとも明日午前左記代表者と会見し、午後露国大使と面会のはずなるにつき、遅くとも土曜日までに何とか確答すべしと言えり」と言って来ました。11月13日に至って本野公使から、仏蘭西政府においては、日本が露国に先立ちいつでも公債募集に着手して差支えなしと確答があった旨電報して来ました。 

 そこで、同日いよいよ仏蘭西公債発行の必要上、日本政府の委任状をロンドン公使館を経て伝達せらるるよう政府に要請しました。 

 かくて1905(明治38)年11月15日に至り、パリー・ロスチャイルド家と公然相談するために、コッホ氏同道3日間滞在の予定をもってパリーに向けて出発しました。 

 同日夕刻パリーに着き停車場から直ちにロスチャイルド家に行き、主人及び支配人らと面会て早速相談に取りかかりました。そうして第一番に、発行価格の点につき協定を終り、次にロスチャイルド家喞にては、今回の募債をもって6分利付英貨公債引き換え用に充当することを希望せざる旨の談話あったので、高橋は、独り内国債のみを償還して6分利付英貨公債の引き換えを許さざれば、日本公債に対する英国の人気を悪くするの憂い有る旨を説いて、結局発行高を5000万磅となし、内1500万磅は6分利付英鴨公債の引き換えに充当することに条件を協定しました。その他払い込金の処置等について協議して、その日は引き取りました。 

 翌16日は午前中にヴェルヌイユ氏及びグンズブルグ男来訪、露国の内紛ほとんど無政府状態となり、ために欧州経済市場に恐慌を引き起こすの憂いがある、ゆえに一日も早く日本公債の発行を希望する旨の談話あり、午後零時15分約束により上記一氏にコッホ氏を加え4人相携えて総理大臣ルビエ氏を訪問し、発行期日につき相談をなし、さらにロスチャイルド家に至り発行期日繰り上げの件を協議しかつ昨夜の話を継承して発行条件を決定しました。翌17日ロスチャイルド家とよの間に種々打ち合わせをなすことあり、かくてパリー・における談判所持円滑に進捗したので、18日朝パリーを発ってロンドンに向いました。