幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-31~40

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-31 

アメリカ資本団の意向は先述の通りであるので、高橋は至急ロンドンに引き返すことに決心し、6月18日正金支店長の山川勇木宛てに「6月24日(明治38年)汽船エトルリア号にてニューヨークを出発し、7月3日ロンドン着の予定であるからは自分および深井のためにコーバーグ・ホテルに部室をとっておいてもらいたい」という意味の電報を発しました。 

 かくてイギリスへ引き上げの準備を進めていると、鉄道王ハリマン氏から使いをもって、来る21日君のために午餐会を開くから是非出席を請う旨の招待を受け取りました。高橋は喜んで承諾しましたが、その日ハリマン氏はニューヨーク第一流の資本家たち20余名を招んで盛宴を張り、高橋を紹介してくれました。その時集まった人々は口ぐに、「日本政府は『ニューヨーク』にて巨額の公債を発行したに拘わらず 

発行地の金融市場を撹乱せざるよう深い注意を払ってくれた」と大変に賞賛の辞を浴びせておりました。 

 ちょうどそのころであったと思います。井上伯と大変懇意なアルウインという人が突然高橋の所へやって来ました。同氏は、何のために来たというようなことは一向に話しませんでしたが、その口気から察すると、どうも高橋の行動を探りに来たのじゃないかと思われる節が多かったのでした。その話の要点は、「貴君のことについていろいろいう人もあるが、貴君はそういうことについて少しも気にかける必要はない。井上伯は貴君に対し全幅の信頼を置いておられる。私は日本政府ことに井上伯が貴君をいかに信頼せらるるやをシフ氏にも話したいから御紹介を願いたい」ということであたので、シフ氏に紹介してやりました。ところがその後シフ氏に会った時シフ氏の話では、アルウイン氏はシフ氏に対し、果に高橋のことをどう考えているかと聞いたのみで、他の事は言わなかったということでありました。 

  6月23日に至りパース・バンクのシャンド氏か電報で「船会社に談判してクインスタウンからリバプールまで貴君と同船する」と言ってきました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-32 

 さて、高橋は予定のごとく6月24日にニューヨーゥを発ってロンドンに向いましたが、船がクインズタウンに着くと、電報の通りシャンド(「天佑なり」を読むⅠ-4参照)、山川両君が乗り込んで来ました。 

 両君はこもごも口を開いて、今次の募債が得策でないことを主張し、かつロンドンの主なる新聞記者も反対である。しかしてその反対理由は、ついこの間四分半利付公債3億円を発行して、まだその全部の払い込みさえ終わらぬのにまたまた3億円を募集して、さような巨額の金(当時日本政府の在外資金は米国に1億円、ロンドンに8000万円、その他四分利付公債の未払い込みの分があった)を日本に供給することは、講和談判が開かれるようになっても、日本政府のロシアに対する要求が非常に強くなって却って講和の妨げとなる、というのでありました。そうして両君が附け加えて言うのには、「ただし新聞記者たちの意見は上述の通りであるが、高橋君がロンドンに着いた上で同君から意見を聞くまでは自分たちの反対意見は発表しないゆえに、高橋君がロンドンに着いたらすぐに会いたいから、会見の場所と時刻とをリバプールから電報で知らしてもらいたいと言っている」ということであったから、3人で協議の結果、リバプール着の翌朝午前8時コーバーグ・ホテルで会見すべき旨を新聞記者たちへ電報しました。 

 船中でシャンド・山川両氏から英国銀行団新聞記者たちの反対意見をつぶさに聞いてから、高橋はシャンド氏に対しても、シフ氏に話したのと同一の理由を話しました。シャンド氏はそれを聞いて、「誠に已むを得ぬ」と言って諒解してくれました、かつシャンド氏の言うのには、「そういう事情であれば、我々の仲間は大概諒解するであろうが、何分コッホ氏が強く反対説を唱えている、それは日本政府がドイツ銀行を直接のシンジケート銀行仲間とすることを厭がっているのが主因である」ということでありました。けだしコッホ氏の反対理由は、他日仏国銀行団ととを結びつける上に大いに働くつもりでいるのに、今独逸の銀行が参加するようになっては、その妨げとなる虞れがあるのと 、今一つはドイツの銀行者をニューヨークのシフ氏らと同一の地位におおくことは、それだけ自分たちの取るべき手数料が少なくなることを恐れたからでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-33 

 汽船エトルリア号は、予定よりも一日早く即ち7月2日リバプールに着、直ちにロンドンのコーバーク・ホテルに入りました。これよりさきニューヨーク出発前、今度の募債は極めて短時日の間に完了することを要するので、一々日本政府と電報の往復をしている暇がありませんから、必要な事項に関してとくに権限を与える旨の委任状を、ロンドン公使館宛てに送ってもらうことを要請しておいたので、7月2日ロンドンに着すると、日本政府から送られて来た電報委任状(省略)を公使館より交付されました。 

 さて翌3日は、約により午前8時から5名ばかりのロンドン第一流の新聞記者たちがやってきたので、それらを引見してまずその反対説を聞き、これに対してシフ氏に話したことをなお敷衍(ふえん 意味の分かりにくいところをやさしく説明する)して説明しました。彼らもそれを聞いて、よく事情を諒解し、そういう次第であれば、今度の公債発行についても大いに声援しよう、といって引き揚げて行きました。 

 新聞記者たちが帰ると、引き違いに銀行団の人々がやって来ました。銀行団の意向はシャンド氏より十分に承知しているので、これに対しても前同様の説明をなし、かつ今度の募債はどうしても止められないから英国で引き受けねば、やむを得ず他の方面で調査するという意思を強く暗示しました。そこで彼らもこの際日本政府をして発行を辞めさせることはできないということを覚って、ついにその場で大体前回同様の条件で引き受けようということを決定しました。ただし独逸銀行団と英国銀行団と同一の地位に置かんとするには、独逸の法律習慣が違うためにたいへんに時日を要する、今日のごとく発行を急ぐ場合には到底間に合わないので、独逸銀行団にも納得させ、必要な手続きは後でするということで、すべてアメリカの銀行団と同一の立場において引き受けさせることに説きふせました。また独逸銀行団の参加に強硬な反対を唱えているコッホ氏にも詳細に説明して、これも承知させました。 

 かくて、7月3日夜になってロンドンの銀行団は独逸銀行団とも協議の上、発行条件を定めて高橋の所に申し出て来ました。そうして7月の6日には、いよいよ本契約の調印を済ましたので発行目論見書にに記載すべき勅令の年月日が必要であるから、勅令案に要する今日の契約の綱要を政府に電報しました。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-34 

 すると7月8日松尾総裁より、「今般の募集につき貴君の御尽力を深謝す。募集の勅令は只今御裁可を経たり、直ちに発表のはずなり。次に独逸にて募集せる公債金を保管預りとしてロンドンに為替をもって取り寄せるには、その指揮監督者を必要とすべきにベルリンには領事も日本銀行の監督役もいないが、これらの機関についてはどう考えるか」と電照して来ました。よって高橋は、1、ドイツの応募金は駐独日本公使が日本政府のために受け取る事。2、公使は受け取りたる金を直ちに日本銀行代理店なる横浜正金銀行ロンドン支配人に渡す。3、ロンドン支配人は直ちに日本銀行代理店勘定としてこれを独逸銀行に預け入れる事。4、払い込金を受け取ることに日本銀行ロンドン代理店たる、正金銀行支配人はベルリンに出張する事。5、上記預け金をロンドンへ廻金する方法は時々若干金額を代理店勘定より送金銀行ロンドン支店勘定勘定に移して為替資金として独逸銀行へ預け置き、しかしてこの資金をもってロンドン為替を買いいれまた独逸為替を売り出す事。6、上記為替相場日本銀行ロンドン代理店において市場状況を見計らいなるべく公債面に定めたる一定の相場を超過せざる範囲において決定するよう指図する事、また公債元利払いはベルリン独亜銀行を横浜正金銀行ロンドン支店の代理者として取り扱わしめる事、ただし独亜銀行は便利のためハンブルグ及びフランクフォート等の場所に代理支払所を設ける事。その手数料は利子を支払う時は支払金高の8分の1%元金の手数料は未定ですべて横浜正金銀行がが日本銀行より受け取る元利支払手数料の内にて負担する事。 

等の手続きを定めて総裁に返電しました。 

 上述のごとくして、本公債は7月10日の夕方に至って目論見諸を発表しましたがロンドンではその夜すでに内景気が4分の3%の割増金を示し、ドイツのマックス・ワーバーグからも、大変に評判がよくて内景気1%の割増金で、おそらく発行の初日に募集額を超過するであろうと言って来ました。またシフ氏からも、アメリカの内景気が大変に良いということを、通知して来ました。 

 7月11日が発行当日でありましたが、ロンドンではその日の午後3時半に締め切り、約10倍の申し込み超過を示しました。またドイツのワーバーグからは、少額の申し込みが多きため締め切って見ねば分からぬが、多分7倍くらいの申し込み超過であろうと、通知して来ました。 

 かくて、第四回即ち第二次四分半利付公債は非常なる盛況をもって募債を終わりました。すると7月12日に至り外務大臣から林公使への電報で、「貴君より高橋へ次の通り伝えられたき旨大蔵大臣より依頼ありたり。今回は募債の時期の困難なるにも拘わらず好結果を得たるは、貴下の迅速なる御尽力に依るものと信じ深くその労を謝す。英米、独各銀行団その他関係の諸氏にも政府の深厚なる謝意を伝えよ」と言ってきました。よってそれぞれ謝意を伝達しました。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-35 

 1905(明治38)年7月21日サー・アーネスト・カッセルの晩餐に招待せられ、晩餐の後、同氏の令妹を加え3人にて、オペラの見物に行きました。 

カッセル氏は、平土間がよいと言って定席を契約しているので、吾々と別れて一人その席に行き、高橋とカッセル嬢とは桟敷席におりました。そこへ思いがけなくも宮内卿ノフアカー卿がやって来て、カセル嬢に挨拶をされました。カッセル嬢は宮内卿に応答し、かつ皇帝陛下の御臨場如何を聞いていたようであるが、やがて嬢は高橋を顧みて、「陛下に拝謁したことがありますか」と尋ねます。 

 「いやまだです」と答えると、嬢はフアカー卿に向って「高橋さんを連れて陛下に拝謁を願っては如何でしょうか」と言って高橋にも促しました。フアカー卿も「それはよろしかろう」といて高橋を促して立ちかけましたが、高橋は、「初めて拝謁を致すのにかかる席では却って恐縮の至りであるから」と、いって辞退すると、宮内卿も「それは御尤もである」とて、その夜の謁見は見合わせとなりました。 

 しかるにこのフアカー卿は、パース銀行重役の一人であったので、同銀行の人々がこの話を聞いていて其の筋に申し立てた結果、7月30日になって、翌31日正午林公使(「天佑なり」を読むⅣ- 3参照)同伴、通常服にて拝謁を賜るべき旨、外務大臣から通知がありました。よって同日定刻林公使と共にバッキンガム宮殿に出頭しました。 

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ちょうどその日は勲章の授与式か何かがあったと見えて、大礼服着けた多数の顕官たちが、宮殿の内外に溢れておりました。宮中の廊下を案内されて行く間にも顕官たちに出会いましたが、大礼服の人々が居って、我々を案内して先に立って行く、高橋は導かれるままにその後からついて行きました。この部室は馬鹿に広い、そうしてガランとした造りで、真中に三つ椅子があるだけでありました。やがてその人は、自分が中央の椅子に掛け、高橋に対しては右の椅子に、林公使に対しては左の椅子に坐れと指図しました。 

 その時、高橋は初めて、これがキングだと気付いて大いに恐縮しました。林公使が先立って行けばよいのに、終始高橋の後からついてくるので、こんな間違いを起こしたわけでした。さて皇帝は高橋と林公使に拝謁を賜った後、「貴君は公債募集のために来ているようだが、結果はどうだ」とのお尋ねがありました。 

 「誠に好結果で喜んでおります」というと、林公使も側から、「高橋君も公債募集が大変に好成績で喜んでおります」と申し上げたら、陛下は「甚だ満足である」と仰せられ、それより公使と高橋に向い、「平和の見込みは如何あるか」とのお尋ねがあり、公使が、「日本帝国は平和の成立を熱望しております、まだウイッテ伯が、露国全権に任ぜられたることは、講和談判の前途大なる光明を与えるものであります」とお答えすると、陛下は、「日本が講和の条件として当然取得すべきものをことごとく取得せんことを望むは当然のことである」と仰せられ、また話頭を転じて「有栖川宮両殿下は今どこに在らせられるか」とのお尋ねがありました。公使は「両日前ポートセット御通過の報に接しました」旨お答え申し上げると陛下は続けて、「両殿下には当国御渡来につき如何思し召されたであろうか」と問われ、公使が、「両殿下は英国朝野の熱誠なる御待遇に対し、深く感動せられました」と言上すると、陛下はすこぶる御満足の態に拝せられました。最後に陛下は高橋に向い、「いつまで内に滞在するや」とお尋ねあり高橋は、「私は一に政府の指図に従い行動致しておりますので、只今のところではいつまで滞在致しますか不確かとお答え致しかねます」と申し上げ、しばらくにしてお暇して帰りました。 

退出に当り、陛下はまず席をお立ちになり、それから我々も起って、最初に入って来た方向から下りましたが、陛下は帰りがけにも、わざわざ戸の所までお送り下されました。実にその簡単なるには恐縮した次第でありました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-36 

 すでに述べたるがごとく、米国大統領の提議により、日露講和談判はいよいよ米国ポーツマスにおいて開かれることとなり、日本は外務大臣小村寿太郎、駐米大使高平小五郎をもって全権委員に任じ、露国もまた同日前大蔵大臣ウイッテ及び駐米大使ローゼンを起用して全権委員としました。そうして小村全権一行は7月8日いよいよ渡米の途につきました。講和談判は7月下旬に始まって数回の会見を重ねましたが、樺太割譲及び償金の問題で、両国全権の主張容易に一致せず、一時は非常に険悪の状態を呈しました。しかるに8月25日のっ会議で日本が譲歩して、樺太は北緯50度をもって分割すること、償金の件はこれを撤回することとしたので、一時不調を伝えられた談判もここにめでたく成立するに至りました。 

 日露講和成立の報は、全世界を一時に明るくししたような感を与えました。当時バーハーバーの別荘にあったシフ氏らは、「万歳! 貴国が現したる謙譲、克己は最も驚嘆に値す。謹んで慶賀す」と電報して来ました。また独逸のマックス・ワーバーグからも鄭重なる祝電が来ました。よってこれらにそれぞれ返電を出し、かつ米国にある小村全権及び高平公使に宛て下記祝電を送りました。 

 「天皇陛下の仁慈叡知の御決断に感泣す。平和の成立を祝し、閣下の忍耐及び誠忠を感謝す」また日本銀行総裁へもほぼ左記と同様の祝電を打ちました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-37 

 これよりさき、同年1月旅順口の陥落以来、英米における我が日本の人気は非常に揚りました。そうして平和克復の暁には、日本が露国から償金を収得することは当然ある、との思想は欧米諸国民の斉しく抱いておったところであります。現に7月16日アルフレッド・ロスチャイルド氏の別荘に招かれた時も、氏は日本が償金を要求することは当然であるが、あまり巨額になってはいけない、かつ償金が決定しても現金は困難であるから結局ロシヤの公債を受け取ることになるであろう、とてその場合における処理方法等を注意してくれ、またサー・アーネスト・カッセル氏ももし償金としてロシヤの公債を受け取ったら、やはりロンドンとフランス市場で売り出したらよかろう、といってくれたくらいで、英米における財界の人々の間には、日本がロシヤから償金を取ることについては、何人も異論のないところでありました。 

 ところが、8月30日の諸新聞は一斉に、日本政府が償金の要求を撤回したということを報じたので、これが自然日本公債市価に不良の影響を及ぼすべしとの予想を生じ、かつ日本政府は償金の目当てで外れたるよりさらに外債を起こすであろうとの説もっぱら米国より伝わり、日本公債に対する人気は俄かに消沈の傾きを呈して来ました。 

 あたかもこの時ウエストミンスター新聞及びロイテル通信社の記者が高橋を訪問し、上述の新外債の風説及び講和に関する意見を尋ねたゆえ、高橋は軍隊の引揚げ等戦争の結末に要する費用は現在の資金にて十分であること、もし今後外債を起こすことあらば、従来の高利公債を整理するためにほかならないこと、この際平和の成立は満足すべきことであって償金の有無は主要の問題でないこと等を説明しました。 

 この話はウエストミンスター新聞の8月31日の夕刊に掲載せられ、またロイテル通信も同日夕刊をもってこれを報じ、その結果9月1日の朝刊には諸新聞がことごとくこの話を掲載したので、それが偶然にも人気を引直す原因となりました。その後セントラルニュースの記者が来て話すのには、株式仲買人は得意先より日本公債の買注文があっても、新債の募集を見越し、得意先の利益を慮(おもんぱか)って、買注文を手控えておったが、高橋の意見が諸新聞に載ったので、大いに安心して買注文を受けるに至った、ということでありました。実は高橋もそれほど深き考えありて新聞記者に話した次第ではなかったが、かくのごときは些細なことで、人気の転換する一例にほかならないのであります。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-38 

 元来、今回の戦争が償金の結果を齎(もたら)すものでないことは、開戦当初においては、我が国民も窃(ひそ)かに考えておったところでありますが、その後海陸連戦連勝の結果、英米等においても土地割譲、償金要求の当然なるを説く者起り、我が国民も次第にその気になり、講和談判当時は、土地割譲も償金要求も、当然のもののごとく国民全体が信ずるようになっていました。 

 もとよりロシアは日本の要求を予期しておったとこでありますが、それを応諾するの考えはなかったようであります。ロシアが講和会議の提唱に応じたのは、極東を久しく戦乱の巷(ちまた)に沈淪(ちんりん)せしむることは世界の人心に甚だしく悪感を与えているから、米国大統領の斡旋を快諾して、講和委員をを派遣し、ロシアは衷心平和に眷々たるものなりとおもわせるがごとき態度を取り、自国に対する世界の悪感を一掃し、あわよくばその機を利用して外債を募集せんものと、この一つの目的をもって委員を派遣したようでした。現にその証拠にはロシア全権委員ウイッテは渡米の途すがら、パリーにおいて募債の瀬踏みをなし、米国着後もなお米国資本家と内談を進めんとして断られ、ついに断念して口を拭き、そ知らぬ風を装うていたに照らしても明らかであります。 

 またロシア宮廷内になお勢力を失墜せざる主戦派の連中は、償金の要求を断固として拒絶したならば、平和の調停成るの気遣いなしと安心しておったそうであります。しかるに料(はか)らざりき日本が大いに譲って償金の要求を撤回し平和の解決を円満ならしめたことは、ロシアの主戦派を驚倒せしめたばかりでなく、欧米の識者や新聞紙は、日本の態度に対し、その智慮、寛容、忍耐日に敬服のほかなしと口を極めて賞賛するに至りました。米国の大統領は平和決定後、一方の国民が盛んに平和条件を謳歌するようでは、その会議が満足に成功したものということは出来ない。今回のごとく両国共におのおのその国内において満足せられぬという解決を告げてこそ、その会議が衡平を保たれて円満に落着いた証拠であると言っていましたが、これは確かに一面の理であると思います。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-39 

 かねて政府[主として井上侯(馨)]の意向は、日本興業銀行をして、将来我が国における事業用の外資輸入の機関たらしめたいというにありましたから、そのことについても不断の注意を怠りませんでした(「天佑なり」を読むⅢ-36参照)。 

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。 しかるに往年ベアリング商会の「ロード・シベルストック」が、日本の鉄道や鉱山に投資する考えで、日本へ店員を出し調査せしめたことがあります。ところがその時の日本の法律では、今外国で行われているような意味の抵当権の設定が出来ないので、法律の改正を要することとなり、結局「レベルストック」の方で改正案を作り、井上伯の許(もと)に送付して来ました。日本政府はそれに基づいて改正法律を作り、議会の協賛を経るに至りました。 

 上述の事情があったので、日本興業銀行外資輸入即ち債券発行についてはまず「ロード・レベルストック」に相談せよとの命が来たので、4月の初旬[1905(明治38)年] に「ロード・レベルストック」に会って相談したところ、氏の曰くには、「日本政府並びに井上伯の御主意は誠に結構であるが、自分の商会で、先年人を派して調べて見たところによると、日本の私設鉄道のごときは営業成績極めて良好であって、その基礎も堅実である。ゆえにこれら会社の社債発行に当たって興業銀行を経るの必要は少しも認めない。興業銀行は日本内地では立派な特殊銀行であろうが、未だ海外の公衆にはその名も知られていない。外国ということでの資本家と日本の事業家とを結び付ける仲介者は、単に日本内地においてのみ知られている会社ではということではいけない。必ずや外国市場にもよく知られておってかつ相当信用あるものでなければ、公衆の信頼を得ることは困難である。かつ自分の商会では日本の会社の信用如何を自ら調べることもせず、単に日本興業銀行の調査に信頼して、それを外国市場に紹介することは好まない。今日外国の投資家たちはその債券に属する抵当物件に対して、債権者が直接にその抵当物件を持つことを希望するのであって、自己の有すべき抵当権を日本興業銀行に供託することは好まない」云々。ということでありました。 

 かくベアリング商会が日本興業銀行の進出を厭がる裏面には、かねてベアリング商会と香上銀行とは、日本物を市場に出す場合には共同するという内約があります。ゆえにベアリング商会としては、日本興業銀をロンドン市場に紹介すれば、いたずらに日本興業銀行をして名をなさしめるのみならず、自己の競争者を作りかつ香上銀行との内約に反することとともなるので、ベアリング商会を通じて日本興業銀行をロンドン市場に紹介せしむることは、到底望み得られざることを探知したので、その意味を詳細に政府に電報しました。 

 しかしながら、高橋はその後といえども、日本興業銀行債券発行の件については、引き続いてロンドン銀行者仲間と、種々協議を重ね、どうしたらば日本興業銀行をロンドン市場に知らしめることが出来るであろうかと、パンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏らとも協議しました。ところがコッホ氏は、それには英国人にも株をもたして、日英合弁の銀行たらしめるが一番よいといって、次のような具体案(省略)を提示して来ました。 

 この申し出は、これまで相談しておった中でも、一番纏まった適当な条件と思われたので、この旨を松尾総裁に電報すると共に、1.一時に現在の興業銀行株の未払い込みを払い込むことが出来るや否や、2.初めから増資株に対して年6分の配当をなす見込みあるや否や、3.未払い込みの払い込み及び増資による資本の使途ありや否や、4.新株は無記名式にて出来るや否や。を承知したき旨を申し送りました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-40(最終回) 

すると8月25日に至り、総裁から返電が来ました。 

 「彼の件については、その後政府より何らの返電を発する命令なし、内々承るところによれば、添田寿一君が諸々奔走しておって政府においても大体において異議ないようである。ただし未払い込金750万円を一時に払い込むことはむつかしい、せめて来年6月までとしては如何であろう。またパンミュール・ゴーリドン商会を専任仲買とすることは改めて第一位に相談することとしては如何、新株1000万円のうち、700万円を外国で売り払い、300万円は内地で持つとしてはどうであろう。また旧株には現在およそ30万円の積立金があるのに、この利益増資新株にも旧株同様均霑(きんてん 平等に利益を得る)せしめることは、旧株主に損をさせるのうらみなきや。また将来年6分の配当はなし得る見込みである。もっとも向う1カ年は政府より年5分の利益保証がある。大体上述のような説が唱えられておって、貴君への返答は長引いているようである。これは貴君のお含みまでに通知するのであって、その内公然たる返事が出来ると思う。もっとも上述の諸説に対し貴君のお考えあらば、内々拙者心得までにお示しありたし」と電報して来ました。よって高橋は8月28日に、「電報受けた、遅くとも3箇月以内に新株発行の見込みなければ、この相談は出来ないことと承知ありたし。また政府の5分の保証を目当てとするような営業振りでは、到底資本家を勧めるわけには行かぬ。また積立金や株券の市価を云々して不足をいうようなことでは相談の見込みなし。当方の考えでは将来興業銀行をもって事業資金の輸入機関とするにあり、ゆえに目前の少利を云々するくらいなれば、この相談はお断り申す。英米及び大陸筋の有力者を株主にするのは、日本興業銀行が、内外資本共通途を開く第一着手にして、今後内地の確実なる事業を海外に紹介し、低利の資本を輸入することをもってその利益の主眼とせねばならぬ」と返電しました。すると、9g冊1日発政府よりの電報で、「パンミュール・ゴールドン商会との商談(日本興業銀行の件)纏まらざれば、帰朝の途次米国相談を試みるべ資本団と 

相談を試みらるべし。昨今いろいろの外国商館から、私設鉄道の借款を引き受けたいとの申し込みがある。しかし外資の輸入はなるべく日本興業銀行手にて纏めたき考えなるゆえ、貴君もそれをお含みにて尽力有之度(これありたく)」といって来ました。