司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む11~20

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む11

 1901(明治34)年3月12日加藤高明外相伊藤博文首相にロシアの満州占領に対処する方針について閣議での討議を要請する意見書(「日本外交文書」第34巻)を提出しました。その方針とは① ロシアの満州侵略に抗議し、ロシアが応じないときは日露戦争を開始する。その理由としてロシアの満州支配は朝鮮に拡大し日本の自衛を危険に陥れる。② 韓国に関する日露協商(西・ローゼン協定)を無視―具体的には韓国を占領または保護国化あるいは其の他適宜な方法で同国を我国の勢力下におく。③ ロシアの満州占領に対しては抗議もしくは権利の留保にとどめ、後日臨機の措置を講じるの3策を内容とするものでした。

 この意見書が閣議で討議されたかどうかは、第4次伊藤博文内閣が同年5月3日総辞職したため不明ですが、韓国を日本の支配下に置くことは当時の日本指導者の一致した方針であったことに注意する必要があります。

 1901(明治34)年6月2日第1次桂太郎内閣が成立、外相小村寿太郎は対露軍備拡張のための財源としての地租増徴に地主勢力の反発がつよく、当面「満韓交換論」で日露協約をはかる方針をとりました。しかし「満韓交換論」で日露協約が成立したとしても、それでロシアの勢力南下を防ぐことは困難であり、ロシアに対抗するための日英同盟が何としても必要と考えたのです。元老山県有朋もこれを支持しました(徳富猪一郎「公爵山県有朋伝」下 山県有朋公記念事業会)。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーか・こー桂太郎―小村寿太郎

 一方元老伊藤博文井上馨らは日英同盟が朝鮮問題を解決するものではなく、その成立がロシアの外交政策を硬化させるおそれがあると考えていました。

 アメリカのエール大学が創立二百年の式典を挙行するにあたり、伊藤博文に名誉法学博士の称号を贈りたいと申し出たので、井上馨は伊藤にアメリカから欧州にわたり、ロシアに赴いて朝鮮問題についてロシアの指導者と会談することを勧めました。かくして同年9月18日伊藤は欧米にむけて横浜を出発しました(「伊藤博文伝」下巻 春畝公追頌会)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む12

 1901(明治34)年10月16日林董(はやしただす)駐英公使はランスダウン英外相と公式の同盟交渉に入り、11月6日英外相は林公使に同盟条約草案を手交しました(「日本外交文書」第34巻)。イギリスはロシアに向かう伊藤博文の行動を注目していたのです。

 伊藤博文は同年11月28日ニコライ2世に謁見、12月2日露外相ラムスドルフ、翌日ウイッテ蔵相、12月4日再びラムスドルフと会談、基本的に「満韓交換論」にもとづく覚書を提出、これに対して12月7日元老会議(桂首相・小村外相出席)は日英同盟修正案を可決、天皇の裁可をへて12月12日林公使は同修正案を英外相に提出しました。

 同年12月17日伊藤博文はベルリン駐在のロシア大使からラムスドルフ修正案を手交されましたが、12月23日伊藤はラムスドルフに交渉の打ち切りを打電、日露交渉は不成立となったのです(「日本外交文書」第35巻)。

 1902(明治35)年1月30日ロンドンで日英同盟協約(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)が調印されました。その要点は次の通りです。① 大不列顚(英国)国は主として清国に関し、日本国は清国に有する利益に加えて韓国において政治上竝商業上及び工業上格段に利益を有するので、両締約国はその利益を擁護するため、必要不可欠の措置をとることを承認する。

② もし日本国または大不列顚国の一方が上記各自の利益を防護するため列国と戦端を開いたとき、他の一方の締約国は厳正中立を守り、その同盟国に対して他国が交戦に参加しないよう努力する。③ 本協約の有効期間は5箇年とする。

 日英同盟の成立はロシアに対する圧力となったことは確かです。1902(明治35)年4月8日ロシアは清国と満州撤兵にかんする協定(「満州還付条約」日本外交文書 第35巻)を結び、撤兵を3期にわけて、半年後盛京省の遼河の線以南から、1年後盛京省の他の地域と吉林省から、1年半後黒竜江省からと18箇月以内の撤兵を約束し、同年10月8日約束通り第1期撤兵を実行しました(古屋哲夫「日露戦争中公新書)。

 1902(明治35)年10月2日第1次桂太郎内閣は「清韓事業経営費要求請議」を決定し、「鉄道経営ハ我対韓政綱ノ骨髄ナリ」(「「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)と述べていますが、京仁・京釜両鉄道敷設権の実現すら容易でない状況で、東清鉄道ならびに同鉄道南満州支線の敷設をフランス資本の援助のもとに進めているロシアと日本の資本力の差はあまりにも大きかったといわざるを得ません。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む13

 「北清事変に関する最終議定書」(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)第11条にもとづき、イギリス・アメリカなど列国は清国と通商及航海条約修正交渉をはじめ、日本政府も満州還付条約調印後の同年6月19日上海で清国と通商及航海条約改訂交渉を開始(「日本外交文書」第35巻)、翌年10月8日日清両国間追加通商航海条約に調印しました(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。この条約では① 清国政府は日本国汽船が貿易の目的で清国開港場より、届け出た内地に航行することを承諾する。② 清国政府は各国人の居住及貿易のため盛京省奉天府及同省大東溝を開く。などの条項があり、これらの条項内容は条約交渉の途中ですでにロシア側に知られていました。

 するとロシアが満州から撤兵すれば、あとを追うように、日英米などの列国の勢力が満州に入りこんでくるという印象をロシアに与え、満州撤兵政策を主導してきた蔵相ウイッテや北部満州だけをロシアの勢力圏とし南満州を放棄することも考えていた陸相クロパトキンらに代わって、ロシア皇帝ニコライ2世の信任厚い撤兵反対派の宮中顧問官ベゾブラゾフらの勢力が強大となってきました(大竹博吉監修「ウイッテ伯回想記 日露戦争露西亜革命」上 明治百年史叢書 原書房)。

 1903(明治36)年4月8日ロシアの第2期満州撤兵は実行されませんでした。同年4月20日小村外相はロシアの第2期満州撤兵のための代償要求を清国政府に拒絶するよう勧告することを駐清公使内田康哉に訓令、4月27日清国はロシアの要求を拒絶しましたが、ロシアは撤兵しませんでした。

 同年4月21日桂首相・小村外相伊藤博文山県有朋らは京都無鄰菴で会合、次のような方針を承認しました(徳富猪一郎「公爵山県有朋伝」下)。① 朝鮮問題について我国の優越権を認めさせ、一歩も譲歩しない。② 満州問題についてはロシアの優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決する。

京都観光Navi―サイト内検索―無鄰菴―ホームページー無鄰菴とは

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む14

 1903(明治36)年5月上旬ロシア軍は鴨緑江を越えて大東溝の対岸龍岩浦に軍事根拠地の建設を開始しました。同年6月12日露陸相クロパトキンは旅順へ赴く途中東京を訪問、桂首相と会談しています(徳富猪一郎「公爵桂太郎伝」坤 原書房)。彼は日露交渉の妥協点を探って旅順における対日外交首脳会議に臨むつもりだったのでしょう。同年8月12日ロシアは旅順に極東総督府を設置、関東軍司令官アレクセーエフを総督に任命、8月29日蔵相ウイッテは失脚しました(大竹博吉監修「前掲書」)。

第一次大戦―日露戦争―龍岩浦事件  

 司馬遼太郎氏はこの小説で次のように述べています。「十九世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば、産業を興して軍事力をもち、帝国主義国の仲間入りをするか、その二通りの道しかなかった。(中略)日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにそのときから他国(朝鮮)の迷惑の上においておのれの国の自立を保たねばならなかった。」(第二部 開戦へ)

 このような指摘に対しては次のような意見もあることをご紹介しましょう。「もし日本が朝鮮の市場と資源を日本資本主義のために確保することのみを目的とし、そのために朝鮮の近代化の改革を援助したならば、その目的は容易に達せられ、かつ朝鮮に親日的な政権を安定させることもでき、したがってロシアの政治的・軍事的な朝鮮進出を防ぐこともできたであろう。」(井上 清「現代史概説」岩波講座「日本歴史」18 現代1)  

 同年6月23日午前会議で満韓問題についてロシアとの交渉を決定、10月6日東京で小村外相と露駐日公使ローゼンとの交渉が開始されましたが交渉は進展せず、12月30日閣議はロシアとの開戦の際、清国には中立を維持させ、韓国は支配下に置くとの政策を決定したのです(「日本外交文書」第36巻)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む15

 1900(明治33)年騎兵大佐秋山好古は広島の第5師団兵站(作戦軍のために後方で馬匹・軍需品の輸送や確保などを担当する)監として出征しました。彼は同年7月18日西太沽に上陸、連合軍の主力として8月15日北京を占領しました。

 1901(明治34)年義和団事件最終議定書調印(「大山巌」を読む50参照)により、列国は華北駐兵権を獲得し、その駐屯軍司令部は北京に設置されました。天津の「清国駐屯軍守備隊司令部」の司令官に任命されたのは秋山好古です。さらに昇格して「清国駐屯軍」の司令官を兼務、ひきつづき天津に駐在しました。

 1903(明治36)年陸軍少将秋山好古は清国から帰国、千葉県習志野にある騎兵第一旅団長となりました。やがてロシア陸軍省からシベリアのニコリスクで陸軍大演習を行うので参観武官派遣を要請する招待状が陸軍省に届き、同年9月4日好古は横浜からウラジオストックへ出発、9月11日到着、同地を見学後ニコリスクに赴き、同月13日から大演習を参観してロシア騎兵の行動を観察、演習終了後もロシア皇帝の勅許を得てハバロフスク総督代理リネウイッチ大将と会見、さらに旅順を訪問、極東総督アレクセーエフと会談、旅順軍事施設を見学、東京に帰着したのは同年10月3日のことでした(「秋山好古」)。日露関係が緊迫したこの時点でロシア側が日本軍人をシベリア陸軍大演習に招待し、ロシア旅順軍事施設見学も許可したのは、ロシア軍の威容を見せつけることで、日本の対露戦決意を牽制する積りだったのでしょう。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む16

 1902(明治35)年5月27日フランス通であった坂本俊篤が海軍大学(海大)校長に就任すると、まず戦術教官山屋他人の後任人事をてがけました。山屋は海大で「海軍戦略」と「海軍戦術」を担当、各国の海大の教育内容を調査し、すすんだ教育方法を積極的に取り入れた人物でしたが、米国留学中の秋山真之と会談した際、その識見を評価、彼を海大教官に迎えたのです。

 同年7月17日付転任の辞令を受け海大教官となった真之はアメリカにおける見聞を生かした講義で、海大選科聴講生八代六郎は毎回真之の講義に出席、あるとき真之の講義に対する八代の質問が口喧嘩に発展、翌日八代が真之に詫びたということもあったということです(桜井真清「秋山真之秋山真之会)。

 1903(36)年10月19日山本権兵衛海軍大臣は常備艦隊司令長官に東郷平八郎海軍中将を起用、司令部幕僚に島村速雄・有馬良橘・秋山真之らが任命され(「財部彪日記」国立国会図書館憲政資料室所蔵)、海軍軍令部長伊東祐亨の指揮下に12月28日第1・第2艦隊を連合艦隊に組織、司令長官に東郷平八郎中将(のち大将に昇進)、参謀長島村速雄・先任参謀有馬良橘・次席参謀秋山真之らが任命されました。このころ真之は結婚しています。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーやー山本権兵衛―とー東郷平八郎

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む17

 1904(明治37)年2月4日午前会議はロシアとの交渉を打ち切り、軍事行動に移ることを決定、2月6日駐露公使栗野慎一郎は国交断絶を通告(「日本外交文書」第37巻第1冊)、2月10日日本はロシアに宣戦布告しました(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 同年1月27日ニコライ2世はアレクセーエフに電訓し「我れ等は鴨緑江と図們江との分水嶺なる山脈までは日本軍の占領に任すべきなり。」と韓国問題に対する日本への全面譲歩を命じました(参謀本部第四部編「明治三十七八年役露軍之行動」第1巻 文生書院 国立国会図書館所蔵 大江志乃夫氏下記著書引用)。

株式会社 文生書院―古書目録―電子復刻版―40 明治三十七八年役露軍之行動

 「しかしアレクセエフからローゼン公使にニコライ2世の電訓が到達したのは2月7日であり、ローゼン公使がこれを日本政府に伝える手段を失ったあとであった。(中略)日露開戦は両国にとって避けることのできた不必要な選択であった。」(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」第3章2 立風書房

 和田春樹氏は「2月3日(1月21日)ロシア皇帝は『日本には中立地帯(韓国北部)について、同じことを提案するが、しかし秘密条項とする』」(ラムスドルフへの手紙)と云いだし、韓国問題に関する日本への譲歩を撤回したと指摘しており(和田春樹「日露戦争 起源と開戦」下 岩波書店」)、大江説と微妙な食い違いをみせています。

 いずれにしてもロシア皇帝ニコライ2世は気まぐれな、無定見の人物であったようです。

 和田氏は「小村はロシア皇帝を支配している戦争党の中心人物(ベゾブラゾフ)が戦争回避を真剣に望んでいるとの情報を受け取り、それを確認さえしていた(五三 1904年1月14日付 在露国栗野公使ヨリ小村外務大臣宛電報「日本外交文書」第37巻第1冊 巌南堂書店)。だから彼が戦争を回避しようと思えば、踏みとどまるに充分な余裕があったのである。」(和田春樹「前掲書」)と述べています。

 私は読者の皆様に、日露戦争は避けようと努力すれば避けられた可能性の高い戦争であったと結論付けたこれら諸研究があることを注目して頂きたいと思います。

 同年2月4日夜、伊藤博文より側近の金子堅太郎に電話が入り、金子が伊藤邸にかけつけて、「御用の趣は」と何度か尋ねましたが、伊藤は安楽椅子に座り込んだまま返事をしませんでした。しばらくして「わたしはまだ食事をとっていないから、しばらく待ってくれ」と云って食事を運ばせたのですが、その食事も粥一ぱいを口にいれただけでした。

 それから「日露間の関係は干戈(戦争)によって解決するほかないこととなった。米国をわが国の味方にするのが良策と思う。(中略)それで、君に米国に渡り、米国が、わが国を援助するよう尽力してもらいたいのだ。」と依頼しました。金子はハーバード大学に学び、米大統領セオドア・ルーズベルトと同期だったのです。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む18

 金子は成功の自信がなく考えましたが、結論は変わりませんでした。しかし伊藤から「今度の戦いに勝利を得んとするのは無理である。成功しようと考えるのでは駄目だ。尽くせるだけ尽くすのだ。」と説得され承諾させられたのでした。金子は出発以前参謀次長児玉源太郎を訪ねて戦争の見通しを質問すると、児玉は「五分五分と云ふところかな。(中略)どうにか四分六分まで漕ぎつけたい」と答えました。

 さらに山本権兵衛海軍大臣を訪ね、海軍はどうかと質問すると、このあと山本は海軍の見通しについて「まず日本の軍艦の半分は沈める。そのかわり、残る半分をもってロシアの軍艦を全滅させる。」と語りました(金子堅太郎述・平塚篤編著「伊藤公を語る」興文社)。

 財政についても井上馨松方正義を訪問して打ち合わせました(松村正義「日露戦争と金子堅太郎」新有堂)。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーか・こー金子堅太郎―児玉源太郎―たー高橋是清

 1904(明治37)年2月24日ロンドン市場における英貨公債募集のため、日銀副総裁高橋是清が英国に派遣されました(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む19

 日露関係の緊迫により、日本国内では対露強硬論や反戦平和の運動などさまざまな動きが活発となりました。

 1903(明治36)年6月10日東京帝国大学法科大学教授戸水寛人・小野塚喜平次・富井政章ら7博士は政府へ建議書を提出(戸水寛人「回顧録」戸水寛人)、満韓交換論の対露方針に反対するとともに、同年6月24日東京朝日新聞にこれを公表しました(7博士事件)。

 このような対露強硬論は前年からの農村の不作による経済の不況とむすびついて、ゆきづまった状況を打開するための、民衆の戦争への期待を背景としていました。

 ドイツ人医師ベルツ(児島襄「大山巌」を読む21参照)は同年9月宮ノ下に汽車で向かう途中の事を次のように記述しています。「ハイカラな若い日本人にあう。語っていわく、民間の対露感情の激化はもう抑えきれない。政府は宣戦を布告すべきで、さもないと内乱の起こる虞れがあるとか。(中略)こんな無責任な連中は気楽なものだ。(中略)日本の新聞の態度もまた厳罰に値するものといわねばならない。(中略)交渉の時機は過ぎ去った。すべからく武器に物を言わすべしーと。しかしながら、勝ち戦さであってさえその半面に、いかに困難な結果を伴うことがあるかの点には、一言も触れようとしない。」(「ベルツの日記」上 1903年9月25日 岩波文庫

 1900(明治33)年の北清事変の際、荒畑勝三は「二六新報」(報道中心の日刊新聞)が日英両文でロシア兵の清国民に対する暴虐な蛮行を糾弾した特別号の記事によってロシアに対する憎悪の念をつよめました。 日本の軍人も略奪行為があったのですが(第十 馬蹄銀分捕事件 松下芳男「陸海軍騒動史」くろしお出版)、そんなことは彼の念頭になく、義和団に同情してロシアに対する敵愾心をつよめたのです。1903(明治36)年横須賀の海軍造船廠の職工であった荒畑勝三は艦艇の艤装(船舶が航海可能なように必要品を整え、出発の準備をすること)や修理で忙しい毎日を送っていましたが、同年10月12日弁当箱をつつんだ「万朝報」(「万朝報」45 日本図書センター)を読むと、[内村鑑三(児島襄「大山巌」を読む29参照)は別文]秋水先生(幸徳秋水)・枯川先生(堺利彦)の連署で、戦争反対の主義を貫くため、開戦論に転じた「万朝報」を退社する旨の「退社の辞」が掲げられ、この日から彼は社会主義と非戦論に血をわかすようになりました(荒畑寒村「ひとすじの道」人間の記録28 日本図書センター)。

聚史苑―歴史年表―大正年表―1912年~1915年ー1912年6月28日堺利彦ー同年10月1日荒畑寒村 

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む20

 同年11月15日幸徳秋水堺利彦らは平民社を結成し、週刊「平民新聞」(「週刊平民新聞」史料近代日本史 社会主義史料1-4 創元社)を創刊しました。1904(明治37)年1月17日(第十号)中江兆民の「三酔人経綸問答」(松本清張「火の虚舟」を読む14~15参照)の一節を紹介した同新聞は「小日本なる哉(かな)」を掲載し、(1)軍隊存在の理由なし、(2)真の自治制、(3)小国を以って甘んずる事、(4)万全の策、万全の希望の4項目を挙げ、(3)において「大国を羨むこと勿れ、大国の民は何れも不幸なり、殊に大国たらんとして成り損ねたる伊太利(イタリア)の民の不幸を思へよ。之に反して小国の民は皆幸福なり、瑞西(スイス)の人民、丁抹デンマーク)の人民等を看(み)ずや。」と述べています。このことはかつて岩倉使節団が「其国小ナリト雖(いえ)トモ、大国ノ間ニ介シ、強兵ノ誉レ高ク、他国ヨリ敢テ之ヲ屈スルナシ」(久米邦武「米欧回覧実記」を読む27参照)と褒め称えたスイス観や中江兆民の「三酔人経綸問答」における洋学紳士の小国主義思想を「平民新聞」が受け継いでいることを示すものでしょう。

 同年3月13日平民新聞幸徳秋水執筆の社説「与露国社会党書」(林茂・西田長寿編「平民新聞論説集」岩波文庫)を掲げ、手を携えて共通の敵<軍国主義>と戦うことを提言したことは有名です。