幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-21~30
幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-21
1905(明治38)年2月17日横浜を発って、アメリカ経由ロンドンに向うこととなりました。今回の同伴者は日本銀行秘書深井英五(「男子の本懐」を読む17参照〉及び同書記の横部の二人で、ほかにアメリカにおいて募集したる公債金預入監督のためにニューヨークに行く柳谷卯三朗及び大塚書記も同船でありました。
かくて2月28日午後12時過ぎにヴァンクウヴァに到着し一泊、翌日直ちにニューヨークに向ったのですが、途中積雪甚だしく、汽車が遅れて3月6日午後6時ようやくニューヨークに到着しました。
ニューヨークに着くと、日本から電報が届いていて、去る2月27日、内地で第四回の国庫債券1億円が募集せられた、その条件は、利子年6分、発行価額90円、期限7年で、成績極めて良し、と報らして来ました。
高橋が日本を出発するころから、ロンドンやニューヨークにおける日本公債の人気は非常に好転して来ました。そのために内外人ブローカーが現れて来て、政府に対してもいろいろと献策するようになり、同時にイギリスやアメリカでも、これらブローカーの策動が始まってきました。なかんづくしつこく運動を開始したのは、米国のスパイヤー・ブラザース商会でありました。この商会は第一回公債発行までは極めて冷淡で、高橋とは全然無関係でありましたが、ひとたびシフ氏が、第一回六分利付1億円の半額を米国にて引き受けたということが伝わると、自分もシフ同様に発行仲間に割り込みたいとて、極力運動を開始し、ついには条件までも持ち出して、直接間接に井上伯や大蔵当局に申し出るというような始末でありました。またパンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏のごときすら、この際内国債をロンドン市場に売り出してはどうかと勧誘してくる有様でありました。そうしてかくのごとき運動はただに米国や英国ばかりでなく、フランスやドイツ等'にも現れれて来て、形勢容易ならずと見て取りましたから、高橋は政府に向って、この際内国公債を外国市場に売り出すことは、我が外債発行の妨げとなるから、断じて見合わせるよう政府に電報しました。もっとも高橋はあらかじめこのことあるを察していたので、日本出発前政府の当路者に向って、今回は口銭取りのブローカーはもちろんその他何人から申し出があっても、一切耳を傾けざるようと、強く申し容入れておいたので、政府でもこのブローカーの運動に対しては、「今度は一切を高橋に任してあるから」といって直接取り合わなかったので、これらの人々からの妨害も蒙ることなく、大変に幸いでした。
ニューヨーク着後。第一の仕事は、シフ氏と相談して、アメリカよりロンドンへの送金の手段を取りきめることでありました、当時海外における日本政府の所有金塊は、すべて一応ロンドンに取り寄せ、軍需品その他政府の支払いのごときもことごとくロンドンにて取り扱うことになっていたので、アメリカで募集した巨額の公債金を出来るだけ損のたたぬよう、有利な方法をもってロンドンに回送するには、いかなる方法を取ったらよいかということは最も重要な問題の一つでありました。それでアメリカ着後まず第一にこの手はずを決めたのでありました。なおシフ氏とは、近き将来において発行すべき第三回戦費公債募集金額についても相談しました。高橋が「政府からは1億円乃至2億5000万円と命ぜられたが、自分はなるべく多いのがよいと思うから、3億円の発行にしたいと思うが」というと、シフ氏は、「御尤も
だ、もしそのようになったら、内、半額はアメリカで自分が引き受ける。かつアメリカでは地方の各都市で、多数の希望者があるから、その都市都市で取次人をきめねばならぬ。また自分の親戚で、かねて取引をしておるハンブルグのマックス。ワーバーグのごときも、言ってやれば、ドイツで相当に働いてくれるであろう」ということでありました。
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大体アメリカでの下相談も出来たので、3月11日にニューヨークを発って、同19日ロンドンに着きました。早速時の駐英公使林 董(「天佑なり」を読むⅣ-3参照)を訪問して、公債発行に関する自分の腹案を話したら公使もことごとく同感でありました。
よって、翌20日の朝から、正金銀行、パース銀行、香上銀行、ロード・レベルスッドク等の来集を求め、第三回戦費公債発行の協議に取りかかりました。即ちその要領は、「英米にて日本公債3000万磅を発行すること、担保は煙草専売益金をもってこれに充て、利息年四分半、発行価額90磅、期限20カ年とす。欧州大陸において本公債の希望者あらば、その地方の有力なる銀行をもって取次人とすること」等であって、熟議の結果、この相談は大体においてその日のうちに纏まりました。よって協議の結果を日本政府に電報しかつ林公使を通して、政府委任状中の募債金額2億円を3億円に改めるよう政府に電請しました。
上述のごとく今回の募債商談は、極めて円滑に進行しましたが、その発行額がいかにも巨額であるから、諸般のことに最大の注意を払う必要がありました。まず本公債談進行中、日本銀行総裁からは、奉天会戦の大捷を機会とし第五回内国債を発行したいが、そちらの都合は如何と尋ねてきたから、「内国債の発行は差し支えないが、当方の外債の発行を終わるまでは見合わせられたい」と申し送りました。また一方には発行額多きために日本公債の下落を見越して売りに向う者も出て来ました。そういうのを棄てておけば、公債の発行に悪い影響を及ぼすのでロンドン金融市場維持のため、3000万円だけ使用することを委任されたいと政府に電報してその許しを得ました。なお今度の発行がちちょうど月末に当り、ロンドン金融市場が引き締まる際でありますから、市場の金融緩和するため、現に英蘭銀行に預託してある金の内より1000万円だけを、ロンドンの正金銀行支店に通知預金として預入れおよそ1週間の短期限をもってロンドン市場に放資することにしました。
この間、例のスパイヤー・ブラザース商会割り込み運動は相変わらず続いておったと見えて、3月21日東京発日本政府の命を伝えたる総裁の電報にも、「政府は岡田治衛武らに無論秘密を漏らす虞(おそれ)はないが、スパイヤー・ブラザース商会に対して英米銀行団があまり苛酷の取り扱いをせぬよう注意してもらいたい」と言って来ています。当時スパイヤ・ブラザースが条件まで持ち出して、我が政府要路者に極力運動したことは、英米資本家を牽制する上には大層の効果はあったけれども、さてスパイヤー・商会や独逸銀行、独亜銀行らを日本政府の直接の引き受け銀行とすることとすれば、従来の英国銀行家は手を引くとまで決議をしているので、容易に深入りすることはできません。
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結局、スパイヤー商会には100万磅、独逸銀行家には300万磅を受け持たせて、英国銀行家から2分7厘5毛の手数料を出させることにまで、英国側を同意せしめたけれども、独逸側では直接の発行者となることを主張して応じなかったので、ついに破談となりました。しかし高橋は独逸銀行者に対しては細密なる注意をもって将来に悪感情を残さぬように取り扱ったので、いよいよ破談と決まって後も、独逸銀行の重役2名がわざわざ高橋の所にやってきて、今度は協同できなかったが次回は是非独逸銀行者も、公然日本公債発行者の仲間に入れるよう取り計らってもらいたいと、向うから申し出てきたくらいでした。従ってこのことも総裁に通知しておきました。
かくて3月24日に至って第一回四分半利付公債3000万磅の契約が出来上りました。しかしてその条件はかつて発行銀行仲間で協議した通り、煙草専売益金を担保として発行価額90磅、期限20カ年、毎年2月15日及び8月15日前半期の利息を支払い、磅と弗との相場を1磅につき4弗87仙(セント)と定め、ロンドンの銀行者1500万磅、ニューヨークのクーンロエプ商会1500万磅を引き受けることとなりました。
これに対しては、政府からも直ちに承認の電報来り、3月28日論見書を発表し、翌29日一斉に募集を開始しました。この日ロンドンの発行銀行では、午前9時に開店しましたが、申し込人は店頭に群をなして、非常なる大成功の内に、午後2時半締め切りました。しかしてこの時までの大陸方面よりの申し込みをも合算するとロンドンの取り扱い高は概算1億磅に達し、しかも1分乃至1分5厘打歩(プレミアム 割増金)が付いて取引されました、またアメリカでもなかなかの好人気でありました。ここでは、最初シフ氏の計画通り、ボストン、フィラデルフィア、シカゴ、セントルイス、サンフランシスコ、カナダのモンツレル等に応募申し込みの取次店を設定しましたが、意外に小口の応募者多数に上り、それらの人々に割り当てるため、締め切りを1日ばかり延期しました。結局申し込み人は約5万人、その金額5億弗の多きに達し、内4万3000人は2000弗以下の小口の申し込み者でした。
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3月10日の奉天会戦(「坂の上の雲」を読む35参照)において、我が日本が未曽有の大勝利を得ると、今度こそ露国はいよいよ講和を申し込むであろう。日本にとってもこれが絶好の時期であろうというような議論がこちらで濃厚になってきました。ちょうどそのころ、確か3月26日と記憶しますが、ロスチャイルド事務所にアルフレッド・ロスチャイルドを訪問したところ、談たまたまこの講和のことに及び、氏のいうのには、「この際講和をするにしても、日本があまりに法外の償金を要求するようなことがあっては、到底講和は成立しない。例えば仮に日本が1億磅を要求するとしたならば、ロシヤはそんな金は現金では払えないというであろう。そういう場合に日本はけ決して現金を固執するの要はない、ロシヤ政府の公債で宜しいというがよい。そうしてその公債は期限20カ年、利子四分半、額面価格にけ1億磅取ることとし、内4000万磅はフランス銀行に、4000万磅は英蘭銀行に、しかして2000万磅は自分の所に預託されるならば、それによってロシヤは償金を払えることとなり、日本政府は融通が出来るようになる。そうすればロスチャイルド家は出来るだけ援助することにしよう」ということでありました。この時ロード・ロスチャイルドも側にあって、「それはそうだが、今度講和談判が始まるについては、金融財政のことに最も精通した者を委員に選ぶことが必要であろうに、貴君はなぜその委員となって行かないのか」と云いますから、高橋は、「なあに、日本には財政に明るい人はたくさんにあるから、あえて自分が行かなくもよい」と答えておきました。
かくてロンドンにおける募債の用向きもほぼ終えたので、4月7日に至り、後のことは吉井(友見)監督役に任して、、一応ニューヨークに渡りたいと政府に電請しました。すると折り返し、政府から認可の電報が到来しました。
ところが4月10日ころになると、ロンドン市場における日本公債の市価が、時に低落しかけて来ました。どういうわけで低落しかけて来たかというに、その第一の原因は、日本政府は内地において、四分半利付公債よりもさらに有利なる国庫債券を発行するという風聞がロイテル電報によって報ぜられ、それが外国市場に出て来ることを懸念せられたこと、第二にはバルチック艦隊がシンガポールを通過(「坂の上の雲」を詠む37参照)したので、海戦の結果はどうであろうかと気遣われ、平和の希望が遠くなったこと、それに英国では4月20日ころから避暑の時季となるので、経済界は休業同様になり、市場がダレ気味を呈するということも原因の一つでありました。
weblio辞書ーロイター通信
政府でもこの公債の下落については非常に心配して、今度の内国債は外国に出さないようにするから、そのつもりでよく説明して、誤解のないように処置せよ。しかしてその事情の疎通するまではロンドンに止まるようにとの電訓が来ました。
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なにしろ第五回国庫債券発行の噂が伝わったのか、前回の四分半利付公債を発行してから未だ旬日を出づるか出でざるの時であったために、英米の資本家が非常に驚いたのは無理もない所でありました。彼等はそんなことが真実であるかほとんど信用ができません。もし万一事実であったら日本政府のやり方は呆れ返ったものだと口々に言っていました。申すまでもなく、内国債でもこれを外国に出して売る以上上は外債同様の性質を帯びて来るようになり、、買う人もまた外債同様の考えをもって買います。従ってさきに日本政府の外債に応じて未だ旬日を出でざるに、それよりもさらに好条件国庫債券が売りだされることとなれば、さきの外債の応募者たちは条件の悪い公債を買ったという感じを起し、同時に発行銀行者は、応募者に対して気の毒なことをしたという遺憾を感ぜしめます。
ことにかく短時日の間に外債に次ぐに内債をもってするがごときは、よくよく日本の財政が困難に陥ち入ったことを示すものであって、日本政府のために取らざるところである、と言って、英米の発行銀行者たちはもし政府が是非とも内国債の発行を必要とするなら、しばらく其の時期を延ばしたが得策であるという論でありました。またコッホ氏のごときは、内国債発行の風聞は事実と思われないが、日本政府をして取り消させたいと申し出て来ました。
高橋の観察も大体英米銀行者の言うところと一致し、彼等の言うところは無理からぬことと考えたから、早速政府とも電報を往復しましたが、政府ではすでに事確定して、今さら如何ともすべからざる場合と相成っていました。というのは、前回即ち第四回国庫債券発行の際、最初は1億円一時に発行する予定でありましたが、市場の都合で2回に分けて発行することとなり、その節政府は発行条件等を銀行者に内約している、それで今に至って条件を変更することは出来ない、さりとて発行を延期することとなれば、内地払いのために兌換券の増発となって内地財界に不利なる影響を与えるという事情にあったのであります。
よって高橋は「今日となって政府が債券の発行条件を変更することの出来ない以上、なるべく早く発表しかつその申し込み期限も短縮してこの事件はできるだけ早く完結するをもって良策と信ずる。また今回発行する国庫債券はかねて内地銀行家と内約せる発行額の残高を発行するものであるとの主旨を公表しかつ純然たる内国債なるをもって、外国人の応募を受けるがごときは政府の本意にあらざることを声明し、内外の新聞にそのことを掲載せしめることが必要であろう、また4月20日前後になれば、暑中休暇となり、ロンドンの経済界は休暇同様になるから、遅くともそれ以前に解決をつけてしまわねばならぬ」と政府に電報し、かつ英国の銀行家及び米国のクーンロエプ商会にも、この間の事情を詳しく説明してその諒解を求めました。幸いにして英米両国の資本家銀行団も高橋の説明を諒としてくれたので、高橋はいよいよ4月21日ロンドンを発ってニューヨークへ向うこととなりました。
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高橋は予定のごとく4月21日汽船セレチック号にてロンドンを発ち、同30日ニューヨークに着きました。アメリカ着後第一の仕事は、米国で募集したる公債金の預入処置でありました。これについてはシフ氏と相談の上下記の通り(省略)決定しました。
合計 5600万弗 かくて公債金の預入れ処置を一通り済ますと、高橋はこの際我が政府においても、英米金融界の実情を十分に諒解してもらっておかねばならぬと考えましたので、一時帰朝を許されたき旨を電請しました。
すると総裁からの返電で政府の命令を伝えてきました、それは、「申し出の事情は委帆細承知した。米国で巨額の公債の払い込みを受け、さらにこれを銀行会社に預入れかつまたそれをロンドンに回送することは細心の注意を要することである。万一のことありては危険の程度も測り知れない。ゆえに政府は責任ある者を滞在せしむるの必要あり、ことに目下財政上考慮中のこともあり、その議熟するにおいては、直ちに貴君を煩わすべく、しかしてその時期は6月中の見込みゆえ、7月初めまではその地に滞在せられたし」という意味のものでありました。 よって高橋は、21日付にて松尾総裁に対して、「本月下旬より10月末までは当地の重立ちたる人々あるいは別荘へ転地し、あるいは海外旅行して、この地を離るるのが習慣となっておるのに、自分が独り止まっていることは却って笑い草となるばかりである。ゆえにもし是非アメリカにおらねばならぬというのなら自分も無用の旅行をなすよりほかはない。お申越しの公債金の預入れやロンドンへの廻金についてはすでにそれぞれ処置したので、もはや自分の滞在を必要としない。それでも拙者の帰朝を許されないか、拙者は約束もあるので、今月24日から3日ばかりボストンに旅行する」と、あまり分からぬことをいうので、高橋も少々癇癪に触って、強く言ってやりました。
かくて高橋は5月の24日からボストンに行って、29日にニューヨークに帰って見ると、松尾総裁からの電報で、「一昨日午後より対馬海峡にて大海戦あり、我が艦隊は大勝利を得た」との報道が達しています。その後、5月の31日になって引き続き総裁から政府の命を伝えてきました。即ち、「今度の対馬海戦(「坂の上の雲」を詠む41~42参照)は敵艦隊を全滅せしめ、ロゼストウエンスキー、ネボカトフ、エンクエスト3提督を捕虜とした。この戦捷を機とし、整理公債3億円あるいはそれ以上を英米において募集することは出来ざるや」ということでありました。よって直ちに「対馬海戦の戦捷後、欧米においては再び平和を希望する気分旺盛となり人気は大いに好転した。しかして英米人はこの時機を利用して日本政府がさらに外債を起こすなどとはすこしも考えておらぬ、けだし戦時公債を整理するは平和克復後においてするを最善の良策と信じているからである。ことに先だって3億円の外債を募集したばかりで、日本政府は、莫大の在外正貨を有するをもって再び外債を起こすのは平和克復後か、あるいは今後ますます戦争が継続するか、いずれかに決定した時を待たねばならぬ。然らざれば外債募集の理由が立たぬ」という意見の返事をしました。
ところがこれに対して6月3日に総裁から電報が来ました。「戦争が此の上継続すれば戦局は拡張せらるるをもって、軍費の予算7億8000万円の巨額に膨張する。ゆえにどうしてもさらに3億円くらいの外債を募集せねばならぬ。あるいはこれがために臨時議会の招集となるかも測り難い。しかして外債の募集は急を要するに至るやも図られず、ご参考までに」ということでありました。よって高橋は同日付をもって総裁宛に、「外債募集の時期は来る10月中旬以前には来るまい。最も好き時機は来年3、4月ごろと思う。この際ひとまず帰朝を差許さるよう取り計らってもらいたい」と打電しました。
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日本海の大戦は、日露戦争の最後の判決を与うるものでありました。我が満州軍は、さきに奉天の会戦において大勝を博し、その戦線は開展して数百哩(マイル)の長きにわたり、、露軍を満州の地より一掃せんとし、北韓軍またこれに応じて豆満江を渡り、沿海州を圧せんとするの勢いを示しました。かくていっれの方面から見ても露軍の敗勢は明らかとなってきたので、米国大統領ルーズヴェルトはいよいよ講和の時機至れりとて、6月2日駐米露公使カシニーと会見して、露国がもしこれ以上戦争を継続するにおいては、日本軍はハルビンはもちろんウラジオ、沿海州方面まで占領すべきをもって、この際文明諸国の希望を容れ速やかに和を求めんことを勧告し、かつこの由を露国皇帝に伝奏せんことを提議しました。しかして同5日に至り駐米日本公使に対しても同じく講和を勧告するところがありました。一方6月9日には、駐日米公使は公文をもって我が外務大臣に講和の議定を勧告し、同時に露国においても、10日米国公使マイヤー氏は露帝に謁見して、大統領の提議を進達しました。かくて両国共に米国大統領の提議を容れ、ここにいよいよ講和の幕は切って下されたのでありました。
このことは、財界に非常なる衝動を与えたと見え、パンミュール・ゴールド商会のレビタ氏から電報で、「講和の曙光を認め得たことは大いに祝福すべきところであるが、その成立にはヨーロッパ大陸ことにドイツの態度が重大なる影響を持つから、ドイツがアメリカ政府と共にl講和の成立に尽力しているかどうか、貴君の手で、確かめられるならば、甚だ幸いであるが、取調べの上見込みを知らしてもらいたい」といってきました。高橋はかねてシフ氏から聞いている筋もあるので、「自分の知るかぎりにおいては、ドイツは、アメリカ大統領と同一の考えをもって講和に尽力していると思う」と返電しておきました。
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日露講和の問題が上述のごとく進展しつつある間に、高橋は6月初めに一時帰国のことを電請していましたが、同14日にに至って、「至急一時帰朝せよ」との電命に接しました。ところが翌15日には、井上伯及び大蔵大臣から下記の通り電報することを命ぜられた。目下平和の徴候あれども、その終局の如何は予知することができない。軍事費の予算は本年分だけに対しても2億円の不足を生じ、さらに明年(明治39年)までの戦費予算は2億3500万円を要する見込みである。即ちこの合計5(4?)億3500万円となるが、上述の内5億円はは公債によらねばならぬ。しかるにすでに内地においては5億円近き国庫債券を発行してぃるので各銀行共に今日では巨額の公債を所有しているから、このままで新たに内国債を募集することは困難である。ゆえに従来発行せる国庫債券を幾分買い集めて、それに裏書きして外国市場に売り出し、もって内地市場に新規公債に応ずる余力を与えることが今後の公債募集に便利なりと考えているところに、米国人エム・アール・モールスなる者、スパイヤー・ブラザース商会の代理委任状を所持し来たり、巨額の日本内国公債を引き受けたき旨井上伯まで申し出てきた。伯は個人の資格において、数回モールスに面会されたが、結局モールスは2億乃至3億円を一手にて引き受けたしと申し出た。しかるに伯はこれは新たに外債を発行するのと同一であって、スパイヤー・ブラザース商会とのみ商議を進めることは、従来の外債引き受け銀行仲間との関係に鑑み、好ましからざることと考えられたので、同商会の申し出は、伯の考えとは大変に異なっていると答えてこれを退けられた、従ってこれにより何ら拘束されるがごときことはなく、何時にても断ることは出来るが、前述の通り近き将来に5億円の公債募集を必要とし、内3億円は是非外国にて募集するの必要がある。しかしてもし予定よりも早く平和克復するに至らば、募集金をもって撤兵の費用に使い、なおその上余ったら内国債の整理に用うる考えである。当方の考えでは、内国債は遅くとも9月に外国債もそれと相前後して発行したし、貴君はそのつもりにて一個人の資格をもって現在のシンジケート銀行もしくはその他について内々取調べの上、なるべく至急帰朝相成度し、ただし今後の外債募集については、さらに貴君を煩わすの必要あるべきをもって、そのことはあらかじめ承知おき願いたい」と電報してきました。
そして翌16日には、さらに、「露国の現在の行動は誠意をもって講和を希望しつつありや甚だ疑わしい。ゆえに政府はさらに決心するところあり、軍事上はもちろん、財政上においても戦争は継続するものと、覚悟を示して十分の準備を整えることが得策と考える。ついては出来るだけ早く3億円もし已むを得ずんば、その半額でも、外債を取り決めてもらいたい。この外債については、内国債に裏書してもよしまた新たに発行してもよい。しかして抵当を必要とすれば、煙草専売益金または鉄道収益をもってしても宜しいから、その考えにて従来の関係資本家の意向を探り至急返電してもらいたい。もし現在のシンジケートが成立の見込みなければ,好ましからざれどもスパイヤー・ブラザース商会の話を進めることもまた已むを得ない。貴君の帰朝は以上の話の片付きたる上にしてもらいたい」と詳細に電訓して来ました。
幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-29
高橋が上述の如き第四回戦費公債募集に関する電命を受けたのは、第三回(即ち第一次四分半利付公債)戦費公債3億円を発行して未だ2カ月半と経たぬ時であり、かつロンドンにおいては、最後の払い込みがなお済んでいない時でありました。ことに第三回募集に当り、高橋は英国銀行団の請に任せて今次の募集は今後1カ年の軍費に充つべきものであることをわざわざ声明しました。しかしてその舌の根の未だ乾かざるにたちまちまた3億円を募集すべしという政府の命令はいかにも意外でありました。しかも政府からの電報には、高橋が考えて、もって資本団を納得せしめ得るに足るべき理由を示してきていない。ゆえに最初この電報を受け取った時は高橋はこれを断ろうとまで思ったくらいでした。しかしながら静かに考えてみれば、すでに講和会議の開かれんとするに当ってさらに3億円を募るというにはよくよくの事情があろうと、政府の苦心を察しては、またまた考え直して、資本団に説明すべき理由を胸の内に考えながら、6月16日の午前に、まずシフ氏の所へ行って相談しました。
「政府からさらに3億円を募集せよとの命令が来て実に意外千万であるが、貴君はこの際さらに募集が出来ると思うか」というと、シフ氏も驚いて「ついこの間1カ年分の戦費だと言って3億円を募集し、英国などではまだ払い込みも終わらないのに、俄かにまた3億円の募集を必要とするとは、一体どういうわけだ。ことに近く講和会議も開かれるという際ではないか」という、シフ氏がいうであろうことは、あらかじめ期するところであったので、高橋は、「日本政府は、此の際講和を拒(ま)げてあくまで戦争を継続せんとする考えは毛頭ない。しかし日本政府は常に遠き将来のことを考えて、用心深く計画を樹ててている。いよいよ講和談判が始まるといっても、果してその談判が円満に解決するかどうかは分からない。また講和成立までにどのくらいの日数がかかるかどうかも分からない。講和談判中は休戦はするが、休戦となっても、それは鉄砲の音がしないというだけで、やはり20万の軍隊は戦地に駐屯せしめねばならぬ。従ってよし休戦となっても、やはり多額の軍費が日々消費されていく。講和談判が、万一にも破裂するようなことにでもなれば、今、一日も早く戦争の終結を希望する欧米の人々は大いに失望するであろう。そうなってってから軍費が要るからとてそれから公債の募集に取りかかっても、その成功は到底おぼつかない。また講和談判中に募集することも上述同様の感を抱かしめる。ことにロシアの政府部内で強い勢力を持っている軍閥は、ロシアが力を出して戦うのはこれからだ、その内に日本は軍費で行き詰る、と言って高をくくっている。ゆえに日本としては、この際さらに公債を募集し、今に軍費に行き詰まるというロシアの宣伝を、事実をもって打破するようにせねばならぬ。幸いにして講和が成立して、今度募集した公債の金が余れば、それをもって、内国債の償還に充て、もって産業の振興、民間金融の円滑を図るつもりである。上述のような事情であるから、まずもって貴君の御意見を承りに来た」というと、シフ氏はジッと考えていましたが、「なるほど、御尤もである。お話の筋もよく解った。そういうことなら、今度の募集もすべて前回同様の条件にしたがよいと思う。夏になると主なる人々は皆避暑に出掛けるので、英米共に金融市場は寂しくなる。市場の時機は秋がよいけれども、今や講和談判もいよいよ開始せらるることとなり、一般公衆は強く平和を期待する柄であるから、この機に乗じ、講和会議の開かれる前に発行した方が却って引き受けの人気がよかろうと思う。」という意見であったので、米国資本家と内談した模様として、上述の旨を松尾日銀総裁に返電しました。
幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-30
翌17日には、英国銀行者に充てても、公債発行に関する意見を電報によって問い合わせました。なおシフ氏に相談して独逸の「ワーバーグ」にも電報にて、「日本政府はこの際3億円の公債を発行するが、独逸で1億円だけ引き受けることが出来るか」という意味の照会をしてもlらいました。
後で聞いた話ですが、この電報が「ワーバーグ」の手に入ったのは、ちようど「ハンブルグ」のヨット協議会に参列して、独逸皇帝の御召艦に陪乗している時でありました。しかして同艦には中央銀行総裁初めベルリンの財界巨頭連も多数陪乗しておったので、「ワーバーグ」はその電報を受け取ると共にその場で銀行家たちに披露しました。しかるに一同の意見は幸いに皇帝陛下が在らせられるので、お考えを伺ってみたらよかろう、ということになったので、皇帝に言上したところ皇帝は言下に「やってやれ」と仰せになったので、「ワーバーグ」は直ちに「承諾」の旨を返事したということでありました。そこでシフ氏からその旨通知して来ました。かくて独逸側は独逸銀行、独亜銀行等すべて13の銀行が応募に参加することとなりました。
その内に英国からも返電が来ました。それによると、銀行団は相談して見ましたが何人も思いもよらぬことで、金融市場、一般公衆、新聞記者共に不人気でる。ただ肝腎のコッホ氏が病気で目下その生国ベルギーに静養中である。6月22日にはロンドンに帰って来るはずだから、その上で相談して、確たることは返事をしようが、代理の『レビタ』氏の話では地中海(モロッコ事件)の妖雲が去ってしまえば出来ないことはないと思う。しかし日本政府がどうしても発行するというのなら、その時期は夏休暇前がよい、それには少なくとも3週間以内に発行するようにせねばならぬので、速やかにロンドンに帰って我々と相談して」もらいたい。。最後に日本政府が他の新筋と相談して発行するが如きことあらば、その結果惨憺たる失敗となるべきは、けだし貴君も御同感のことと思う」ということでありました。
よって高橋はさらに英国銀行団へ電報して、「今度の起債は是非やらねばならぬこと、しかして3億円はロンドン、ニューヨーク、ベルリンの3カ所において1000万磅ずつ発行する、かつドイツの銀行業者の位置をニューヨーク・クーンロエプ商会と同等の位置に置くこと。この発行手続きは自分がロンドンに帰着して5日以内にすべて結了したいと思うこと、ニューヨーク側では自分の計画に何ら異存ないということ」等を通告しました。
すると6月21日に至って、在ブラッセルのコッホ氏から、「ドイツを参加せしめることは、他日フランスと日本との経済関係を結ぶ上に妨害となる」と独逸の参加に反対の電報が来ました。上述のように英国の方は銀行家の意見もはっきりしないし、さらにシフ氏を訪問して相談しました。するとシフ氏は事の顛末を聞き終った後、「「しからば、自分がロンドンへ行った上万一この話が纏まらなかったら、ドイツとアメリカとだけで3億円を引き受けてくれるか」と突っ込んだら、シフ氏は、「そのことは心配なさるな、多分ロンドンの銀行団も従前通り引き受けてくれると自分は信ずるが、万一引き受けなかった場合は、ニューヨークで1億5000万円、ドイツで1置く5000万円引き受けることにしましょう。とにかく早くロンドンへ行って話を纏めなさるがよい、自分は貴君がロンドンで、英国の銀行家たちと取り決められた条件には一切異存を申さない」ということでありました。