佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む1~10

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む1

 佐木隆三伊藤博文安重根」(文芸春秋)は明治時代の元勲の一人で、初代の韓国統監を勤めた伊藤博文が1909(明治42)年ハルビンで韓国義兵安重根に暗殺された事件を中心に描いた小説で、1992(平成4)年3月発行「別冊文芸春秋」に発表、後に加筆して単行本として出版された作品です。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーいー伊藤博文

 1898(明治31)年4月25日、日露両帝国政府は「西・ローゼン協定」を締結し、日露両国は韓国の独立を認め、直接の内政干渉を行わないことを約束(「坂の上の雲」を読む10参照)、また1902(明治35)年1月30日締結された日英同盟協約(第1回)前文においても、日英両国政府は「清帝国及韓帝国ノ独立ト領土保全トヲ維持スルコト」を約束していました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

1904(明治37)年1月21日韓国皇帝は韓国戦時中立宣言を発表、これは日本とロシアが交戦しても、韓国はどちらにも援助せず、軍用地も提供しないことを意味していました(外務省編「日本外交文書」第37巻第1冊 巌南堂書店)。

 1904(明治37)年2月10日、日本はロシアに宣戦布告(「坂の上の雲」を読む17参照)、すでに2月8日仁川に上陸した日本軍先遣部隊2000余の内大半はただちに漢城に進入、同年2月23日日韓議定書に調印(「坂の上の雲」を読む26参照)しました。 

 その要点は①大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ヲ確信シ施設ノ改善ニ関シ其忠告を容ルル事(第1条)②大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実ニ保証スル事(第3条)③第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合(中略)大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事

 大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為メ軍略上必要ノ地点ヲ臨時収用スルコトヲ得ル事(第4条)④両国政府ハ相互ノ承認ヲ経スシテ後来本協約ノ趣意ニ違反スヘキ協約ヲ第三国トノ間ニ訂立スル事を得サル事(第5条)⑤本協約ニ関連スル未悉ノ細条ハ大日本帝国代表者ト大韓帝国外部大臣トノ間ニ臨機協定スル事(第6条)などで(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)、日本は同議定書第3条で韓国の独立を保障したにもかかわらず、第4条で韓国内に軍用地を確保する権利を韓国に認めさせ、第5条で韓国の条約締結に関する事前承認権を持ったことになります。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む2

 1904(明治37)年3月7日伊藤博文は韓国皇帝を畏服させるため、韓国皇室慰問の特派大使として訪韓(1898伊藤は清国漫遊の途中訪韓、韓国皇帝に拝謁)を命じられ、同月18日韓国皇帝に謁見、国書を奉呈、同月20日・25日の両日にも内謁見しました。これは「日韓議定書」の批准書交換に相当するものです(海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店)。  

 同月20日の内謁見で伊藤博文は韓国皇帝に「(日韓)議定書ニ定ムル事項ハ貴国ニ於テ遵行セラルヽヲ要スルト同時ニ苟(いやしく)モ之カ障害タルヘキモノハ断シテ之ヲ排斥セラレサルヘカラス」と迫り、同月25日の内謁見においても、伊藤は閔丙奭宮内大臣を通じて皇帝に「若シ韓国ノ態度不鮮明ニシテ其去就定マラスト(伊藤博文が)復命センカ我政府ハ(中略)韓国ニ於ケル兵力ヲ数倍シ威圧ノ行動ニ出スル等、其ノ変ニ処スルノ準備ヲ為スハ勿論ナリ」(「日本外交文書」第37巻第1冊)と威嚇することを忘れませんでした。

 日韓議定書第6条の規定により、同年8月22日日韓協約(第1次)が調印(「坂の上の雲」を読む26参照)されましたが、この協約は条約形式をとらず、前文・末文を省略した政府間の行政上の取り決めで、次の3カ条を規定しています(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。①韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢(はから)ヒ施行スヘシ②韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ外交に関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ。③韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件即外国人ニ対スル特権譲与若クハ契約等ノ処理ニ関シテハ予メ日本政府ト協議スヘシ

 この協約により財務顧問には目賀田種太郎大蔵省主税局長・貴族院議員が、外交顧問には駐米日本公使館雇のアメリカ人スティーブンスが任命されました。

東京都千代田区の歴史―神田神保町―目賀田種太郎

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む3

 1905(明治38)年1月1日第3軍が旅順を攻略(「坂の上の雲」を読む27参照)後の同年1月22日小村寿太郎(「坂の上の雲」を読む11参照)外相は高平小五郎駐米公使に講和問題に関する日本政府の見解(「坂の上の雲」を読む36参照)を米大統領に伝えるよう訓令、同年1月25日高平公使は「平和克復後に於ける満韓、旅順に関する我政府の意思竝びに希望の件」を申し入れましたが、同申し入れは韓国について「(日露)開戦当時ニ於テ帝国ノ地位ヲ侵迫シタルカ如キ陰険ナル勢力ノ回復ヲ防遏センカ為メニハ韓国ヲ以テ全然日本ノ勢力圏内ニ置キ該国国運ノ保護監督幷ニ指導ヲ完全ニ帝国ノ掌中ニ収ムルヲ必要ナリト信ス」と述べています。

 同年5月27~28日日本海海戦で連合艦隊がバルチック艦隊を撃破、同年6月米大統領が日露両国に講和を勧告すると、両国は講和を受諾しました。講和会議においてロシア全権ウイッテは「日本の韓国主権不可侵」を講和条約に明記することを強く主張しました。小村寿太郎全権はこれに反対して対立、結局会議録に「日本国全権委員ハ、日本国ガ将来、韓国ニ於テ執ルコトヲ必要ト認ムル措置ニシテ、同国ノ主権ヲ侵害スヘキモノハ、韓国政府ト合意ノ上、之ヲ執ルヘキコトヲ茲(ここ)ニ声明ス」と記載することで合意しました(「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争Ⅴ)。以後日本が韓国主権侵害の度ごとに韓国政府・皇帝との合意を条約形式で締結せざるを得なかったのはこのためです。

春や昔―メインコンテンツー「坂の上の雲」登場人物―登場人物一覧―うーウイッテ

 同年7月27日桂太郎首相は来日中の米陸軍長官タフトと会談、日本はアメリカのフィリピン統治を認め、アメリカは日本が韓国に保護権を確立する事を認める「桂タフト協定」を締結しました(「坂の上の雲」を読む45参照)。

 つづいて同年8月12日ロンドンで第2回日英同盟協約が調印(「坂の上の雲」を読む45参照)されましたが、同協約は韓国について「大不列顚国ハ日本国カ該利益ヲ擁護増進セムカ為正当且必要ト認ムル指導、監理及保護ノ措置ヲ韓国ニ於テ執ルノ権利ヲ承認ス」と述べています。

  第2回日英同盟協約締結を通告された朴斉純韓国外相は駐韓英公使に「両締約国ハ相互ニ清国及韓国ノ独立ヲ承認」した第1回日英同盟協約に違反すると抗議しましたが、日英両国公使は協議してこの抗議を無視しました(「日本外交文書」第38巻第1冊)。

 同年9月5日日露両国はポーツマス条約(「坂の上の雲」を読む48参照)を締結、日露戦争は終結しましたが、同条約において「露西亜帝国政府ハ日本国カ韓国ニ於テ政事上、軍事上及経済上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ日本帝国政府カ韓国ニ於テ必要ト認ムル指導、保護及監理ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻礙(そがい)シ又ハ之に干渉セザルコトヲ約ス」(第2条)と規定しました。

 上記の文章に頻出する「監督」あるいは「監理」とは、当時の外務省取調局長幣原喜重郎によれば「併合」の意味で使用されたものです(海野福寿「前掲書」)。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーしー幣原喜重郎

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む4

 日露講和会議録に記載された合意(「伊藤博文安重根」を読む4参照)にもとづく保護条約交渉について、1905(明治38)年10月18日伊藤博文は小村外相の要請を内諾、同年11月2日「韓国皇室御慰問ノ思召ヲ以テ特派大使トシテ差遣」する勅命をうけました(「日本外交文書」第38巻第1冊)。

 なぜなら小村外相ポーツマス条約でロシアから譲渡された旅順・大連の租借権ならびに長春~旅順間鉄道経営権など清国政府の承認を求める条約交渉のため北京に赴かねばならなかったからです。かくして伊藤博文は特派大使として主に韓国皇帝と折衝、形式的には林権助特命全権公使が条約交渉及び調印を担当することになっていました。

 同年11月10日伊藤特派大使は文武官随員を従え、王宮の慶運宮(徳寿宮)に参内、高宗皇帝に謁見、天皇の親書を奉呈、同月15日伊藤は皇帝に内謁見して、韓国の外交権を韓国政府から委任を受けた日本政府が行うことを提案、外部大臣朴斉純に対して、林権助駐韓公使の提案にもとづき協議し、協約調印に至るよう勅命を下すことを要請しました(伊藤大使内謁見始末「日本外交文書」第38巻第1冊)。

ハシムの世界史への旅―旅行記・写真集―大韓民国―徳寿宮―景福宮―安重根義士記念館

 同月16日林権助公使は朴斉純外相に協約案を示し交渉を開始、翌17日林公使は日本公使館に大臣全員を招集し、協約案についての韓国側の意見を聴取しました。大臣たちは誰も明確に賛否を表明せず、「内閣員だけでは極められぬ大事件ゆゑ、いよいよ王様(陛下)の御前に出て国王(皇帝)の意向をお聴きするより仕方がない」(林権助述「わが七十年を語る」第一書房)ということになりました。

 韓国駐箚軍(「坂の上の雲」を読む26参照)は旧王宮の景福宮前の広場で演習したり、メインストリートの鐘路を示威行進するなどして市民を威圧(「駐韓日本公使館記録」第25巻 国史編纂委員会 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)、また王宮内には日本の憲兵・領事館警察官・韓国政府傭聘の日本人巡査を配置して、保護のためと称し皇帝・大臣の王宮脱出を防止し、あわせて協約締結反対の民衆が王宮内に進入しないよう厳戒態勢をとりました(林権助「前掲書」)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む5

 御前会議で韓国大臣たちの総意として、条約案拒絶を2度奏上しましたが、皇帝は承認せず、大臣たちに林との交渉を継続するように命じたようです(「日本外交文書」第38巻第1冊)。皇帝は上記御前会議の結果を宮相を通じて伊藤に連絡、伊藤は慶雲宮に急行して皇帝への内謁見を求めましたが、皇帝は病気を理由に謁見せず、宮相は「協約案ニ至テハ朕カ政府大臣ヲシテ商議妥協ヲ遂ケシメントス。卿(けい)冀クハ其間ニ立チ周旋善ク妥協ノ途ヲ講センコトヲ」(日韓新協約調印始末「日本外交文書」第38巻第1冊)との勅答を伊藤に与え、大臣たちにも伝達しました。

 よって伊藤は各大臣の説得を開始、辞意を表明した韓圭ソル参政(首相)は皇帝の「妥協ヲ遂ケ」の沙汰に反対したことを述べましたが、伊藤は韓参政に協約案に対する賛否を各大臣に問うよう求めました。その結果伊藤は韓参政と閔泳綺度支相の2人だけ協約案反対と認め、韓参政に本問題を可決したものとして必要形式を整え、皇帝の裁可を請い、調印の実行を促しました。

 1905(明治38)年11月17日特命全権公使林権助と外部大臣朴斉純との間に調印された日韓協約(第2次)の要点は下記の通りです(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。

1 日本国政府ハ在東京外務省ニ由リ今後韓国ノ外国ニ対スル関係及事務ヲ監理指揮スヘク日本国ノ外交代表者及領事ハ外国ニ於ケル韓国ノ臣民及利益ヲ保護スヘシ

2 日本国政府ハ韓国ト他国トノ間ニ現存スル条約ノ実行ヲ全フスルノ任ニ当リ韓国政府ハ今後日本政府ノ仲介ニ由ラスシテ国際的性質ヲ有スル何等ノ条約若(もしく)ハ約束ヲナササルコトヲ約ス

3 日本国政府ハ其代表者トシテ韓国皇帝陛下ノ闕下(宮廷)ニ一名ノ統監(レヂデントゼネラル)ヲ置ク統監ハ専ラ外交ニ関スル事項ヲ管理スル為メ京城漢城)ニ駐在シ親シク韓国皇帝陛下ニ内謁スルノ権利を有ス(以下略)

会津若松市―検索―林 権助

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む6

 第2次日韓協約が調印された1905(明治38)年11月17日以後韓国には不穏な情勢が展開しました。

 宮内府特進官趙秉世は郷里の京畿道に退隠していましたが、協約調印後上京し同年11月23日調印に応じた大臣を糾弾、協約破棄を求め(「李朝実録」第五十六冊 学習院東洋文化研究所)、漢城駐在の各国公使に援助を要請する書を、林権助公使には日本政府の反省を促す書を送りました(黄玹「梅泉野録」国書刊行会)。侍従武官長閔泳煥も趙秉世を助け同月28日上奏、鐘路などの商店は同月27日以来休業してこれに呼応しました(「駐韓日本公使館記録」第25巻 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)。

 林公使は同月27日皇帝に上奏して趙秉世らを解散させようとしましたが、閔泳煥は帰宅せず、同月30日小刀で自殺、趙秉世も同年12月1日朝阿片を飲み同日午後4時半絶命しました(「日本外交文書」第38巻第1冊)。

 同年12月21日統監府・理事庁官制が公布され、天皇に直隷(直属)することになった統監には枢密院議長伊藤博文が初代統監、後任の枢密院議長には山県有朋が任命されました(「官報」)。

 すでに日露戦争中から日韓議定書(「伊藤博文安重根」を読む2参照)第4条により、ほとんど無償で日本軍に軍用地を収用され、また労働力を徴発されることによって、生活基盤を奪われた韓国民衆は1906(明治39)年夏閔宗植・崔益鉉を指導者に反日義兵として蜂起します。 閔宗植は隠棲した元官吏で、同年5月11日同志とともに挙兵、同月19日洪州城を占領、1100人以上の義兵で日本憲兵・警察隊を撃退しました。そこで韓国駐箚軍の歩兵二中隊は同月31日午前6時洪州城を占領(「駐韓日本公使館記録」第26巻 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)、閔宗植は洪州城を脱出逃亡しました。彼は同年11月逮捕され、平理院の裁判で死刑判決を受けましたが終身刑に減刑、珍島に配流となりました(朝鮮総督府「朝鮮ノ保護及併合」市川正明編「日韓外交史料」8 原書房)。

 崔益鉉も同年陰暦2月全羅北道泰仁に下り、日本の「棄信背義十六罪」を問責する書を日本政府に送り挙兵しました。同年6月12日彼は捕虜となり、韓国駐箚軍の軍律審判(軍法会議)により禁錮3年の刑に処せられ、彼と韓国皇帝並びに民衆との結合を断ち切るため伊藤博文の意向(「駐韓日本公使館記録」第26巻 海野福寿「前掲書」引用)を反映した閣議決定により、対馬厳原の獄舎に流罪となりましたが、1907(明治40)年1月1日死去しました(「義兵将 崔益鉉の生涯」 旗田巍「朝鮮と日本人」勁草書房)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む7

 1899(明治32)年5月18日ロシア皇帝ニコライ2世の提唱により、オランダのハーグで第1回万国平和会議が開催され26カ国が参加、同会議は同年7月29日世界最初の国際紛争を平和的に処理することを目的とする「国際紛争平和的処理条約」(万国仲裁裁判所設置などを含む)など3条約と宣言を採択して閉幕しました。韓国は万国平和会議に参加していませんでしたが、1903(明治36)年初めころ「国際紛争平和的処理条約」などの加盟の意思をオランダ政府に通知しました。しかし上記条約締約国でなかったため、その希望は実現しませんでした(外務省編纂「日本外交文書 海牙万国平和会議」(復刻版)第1巻 巌南堂書店)。

世界史の窓―世界史用語解説―ハーグ万国平和会議

 1904(明治37)年10月米大統領セオドア・ルーズベルトの第2回万国平和会議開催提案により、同会議開催の気運が高まると、同年末以降韓国皇帝は秘密ルートを通じて日本の不当な支配により独立が危機に陥った実態を露・米・仏、とくにアメリカ政府に繰り返し訴えていたのです(「日本外交文書」第38巻第1冊)。

 1906(明治39)年4・5月ころロシア政府は第2回万国平和会議開催の時期・提出議題及び「国際紛争平和的処理条約」新規加盟の方法についての通告を参加予定国に送付しましたが(「日本外交文書 海牙万国平和会議」第2巻)、日本の妨害により韓国は同会議の正式招請状を受け取ることができませんでした。しかし1907(明治40)年4月20日韓国皇帝高宗は元参賛李相ソル・元平理院検事李儁に第2回万国平和会議出席のための全権委任状を与え(海野福寿「日韓協約と韓国併合明石書店)、ついで5月8日官立中学校教師で「コレア・レヴュー」主筆ハルバートをヨーロッパに出発させました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

 同年5月21日李相ソル・李儁(ハーグ密使)はウラジオストックを出て、6月4日ペテルブルクでロシア皇帝に高宗の親書を奉呈、ベルリン経由で6月25日ハーグに到着しましたが、7月2日ロシア主席委員ネリドフならびにオランダ外相との会見要請を拒否されました(「駐韓日本公使館記録」第31巻 海野福寿「前掲書」引用)。ハーグ密使の目的は「国際紛争平和的処理条約」加盟にあり、それを前提にハルバートによる常設仲裁裁判所への提訴にあったのですが、結局その目的を達成することはできませんでした。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む8

  韓国皇帝高宗のハーグ密使派遣を知った伊藤博文は1907(明治40)年7月3日林董(はやしただす)外相に高宗の責任を追及し、韓国の内政権を獲得するきっかけとすべきであるとの意見を伝えました。ついで伊藤は同月5あるいは6日ころに「皇帝ニ対シ其ノ責任全ク陛下一人ニ帰スルモノナルコトヲ宣言シ併テ其ノ行為ハ日本ニ対シ公然敵意ヲ発表シ協約違反タルヲ免レス。故ニ日本ハ韓国ニ対シ宣戦ノ権利アルモノナルコトヲ総理大臣(李完用)ヲ以テ告ケシメタリ」と報告、また同月7日日本政府に対して「此際我政府ニ於テ執ルヘキ手段方法(例ハ、此ノ上一歩ヲ進ムル条約ヲ締結シ我ニ内政上ノ或権利ヲ譲与セシムル如キ)ハ廟議(朝廷の評議)ヲ尽サレ訓示アランコトヲ望ム」(「日本外交文書」第40巻第1冊)と要望しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー林董

 李完用韓国首相は伊藤を訪問、「事茲ニ至リテハ国家ト国民ヲ保持セハ足レリ皇帝身上ノ事ニ至リテハ顧ルニ遑(いとま)ナシ」と皇帝の退位を示唆するかのような発言が行われました。伊藤はこれに対して「譲位ノ如キハ本官深ク注意シ韓人ヲシテ軽率事ヲ過マリ其ノ責ヲ日本ニ帰セシムル如キハ固(もと)ヨリ許ササル所ナリ」と報告しています(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む9

 伊藤から請訓を受けた日本政府は同年7月10日山県有朋元老桂太郎前首相も出席して西園寺公望首相をはじめ斎藤実海相寺内正毅陸相・林董外相阪谷芳郎蔵相・原敬内相で構成される会議を開催しましたが、「結局此際内政の実権を我に収むる事、若し能はずんば日本人を内閣員となし又内閣員は必らず統監の同意を要する位にはなさん、此大体の方針を適当に実行する事は伊藤侯に一任すべし、此趣旨を説明する為めには林外相渡韓すべしと云うに決定」(原奎一郎編「原敬日記」第2巻 明治40年7月10日条 福村出版株式会社)しました。同月12日の閣議で韓国内政権掌握の実行を伊藤侯に一任し、その協定は政府間協約として締結すること、及び林外相の韓国派遣を決定しました(海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店)。

 林外相漢城に到着した同年7月18日夜皇帝高宗は純宗への譲位の詔勅を発布、同月20日中和殿で略式の譲位式を挙行しました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

 同年7月24日伊藤統監は李完用首相らに協約案を提示、当日大要次のような日韓協約(第3次)及び覚書(不公表)を調印したのです(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。

[日韓協約(第3次)]1.韓国高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト(第4条)

2.韓国政府ハ統監ノ推薦スル日本人ヲ韓国官吏ニ任命スルコト(第5条) 3.韓国政府ハ統監ノ同意ナクシテ外国人ヲ傭聘セサルコト(第6条) 4.明治三十七年八月二十二日調印日韓協約(第1次)第一項ハ之ヲ廃止スルコト(第7条)

[覚書(不公表)]第三-一 陸軍一大隊ヲ存シテ皇宮守備ノ任ニ当ラシメ其ノ他ハ之ヲ解体スルコト 第五 中央政府及地方庁ニ左記ノ通日本人ヲ韓国官吏ニ任命ス 

一 各部次官

一 内部警務局長 (以下略)

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む10

 1907(明治40)年7月18日皇帝高宗の純宗への譲位表明以来、漢城市内は不穏な情勢となりました。同日夜市内中心部の鐘路には多数の群衆が集まって皇宮前に押し寄せ、翌19日人々が鐘路で路傍演説、夕刻には侍衛隊第三大隊の兵士数十人が二手に分れ、一方は鐘路巡査派出所に、他方は道路上で警戒に当たっていた警察官に発砲(「外務省特殊調査文書」第38巻 高麗書林 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)、20日午後、民衆が李完用首相邸を焼き打ちしました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

大河の釣り人―大韓帝国歴代大臣―内閣総理大臣―李完用

 同月21日伊藤博文は西園寺首相に対して、韓国駐箚軍応援の軍隊増派を要請、これによって同月27日第十二師団(小倉)所属の一個旅団は渡韓を完了、平壌を中心とする北部に展開(「朝鮮駐箚軍歴史」金正明編「日韓外交資料集成」別冊1 巌南堂書店)し、海軍第三艦隊も同月29日仁川に入港した駆逐艦4隻を加えて連携態勢を整えました(「外務省特殊調査文書」第38巻 高麗書林 海野福寿「韓国併合史の研究」引用)。

 同年7月31日軍隊解散の詔勅が発布(海野福寿「日韓協約と韓国併合明石書店)され、翌8月1日朝李秉武軍相は駐箚軍司令官官邸に韓国軍隊長を招集、軍隊解散の詔勅(「日本外交文書」第40巻第1冊)を伝達しました(「朝鮮駐箚軍歴史」)。次いで午前10時から練兵場で一般兵士に対し解散を命ずることになっていましたが、侍衛歩兵第一連隊第一大隊長の憤死がきっかけとなり同大隊が決起、第二連隊第一大隊も同調しました。韓国軍隊反乱を予想していた長谷川好道韓国駐箚軍司令官は歩兵第五十一連隊第三大隊其の他に命じて鎮圧に当たらせ、歩兵同大隊は交戦後反乱した韓国侍衛歩兵両大隊兵営を占領しました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。地方鎮衛隊にも解散命令が下り、原州鎮衛隊・江華島分遣隊でも反乱勃発、解散した兵士の中で、反日義兵に加入する者も多くなり、やがて全国各道に拡大して数年間に及ぶ騒擾事件の一原因となりました。