松本清張「火の虚舟」を読む1~10

松本清張「火の虚舟」を読む1  

 松本清張「火の虚舟」(文芸春秋)は明治の自由民権運動の中心的理論家で「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民の生涯を講演形式で叙述した作品です。

 中江兆民は多くの著作や翻訳があるにもかかわらず、自伝もなければ日記もつけていません。幸徳秋水は師である中江兆民の晩年に自伝を書くように勧めると、兆民は笑って「我れ一寒儒の生涯、何の事功か伝ふるに足る者あらん哉。且つ夫れ自伝を艸(草)する、勢ひ知人故旧の秘密を暴露せざるを得ず。彼のルーソーの如きは忌憚なきの甚しき者、是れ予の忍ぶ能はざる所也」(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)と答えたそうです。

 兆民の写真はパリ留学時代のものと、晩年の病中に子供の丑吉と並んで撮った白い髭のある顔のものと2枚残っています。後者は兆民が嫌がるのを家族が無理に撮らせたもののようで、これが兆民関係の本に使われているものです。写真を嫌ったということは、自伝を書かなかったこととともに、彼の閉鎖的性格を示すものではないでしょうか。

  兆民の死の直前に書かれた岩崎徂堂「中江兆民奇行談」(「世界ノンフィクション全集」2 筑摩書房)によれば、兆民は大酒のみで奇行の人であったそうです。同書には次のような挿話が紹介されています。

 兆民が四谷新宿辺を散歩していたとき、暑さにたまりかねて浴衣のままある家の天水桶(昔軒先などに置いた防火用の雨水を貯えた桶)に飛び込み、通りかかった巡査からはだかで公然かかることをなすと処分するぞと脅されました。兆民はこれに対して天水桶よりはい出し、はだかではない、この通り単衣(ひとえもの)を着ておるではないかと抗議したので、巡査はなすところなく帰ったそうです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー中江兆民 

 中江篤介(戸籍名 篤助)は1847(弘化4)年11月27日土佐国高知城下新町[他説 山田町(高知市はりまや町3丁目18番地「略歴メモ」中江兆民全集 別巻 年譜 岩波書店 以下「全集」と略)]で父卓介(元助)の長男として生まれました。  

 山田町は足軽と町人が混住する町でしたが、篤介の父卓介は江戸詰めの下横目役(下級警察官)の足軽で後に足軽支配を離れたようです。、母は柳(りゅう)という名でした(明治25年作成「戸籍」 東京都文京区役所保管)。  

 篤介は幼名を竹馬といい、後に1字にまとめて篤助を戸籍名としました。父は江戸詰めであったため事実上母子家庭で貧しい生活だったようです。母柳はのちに幸徳秋水に篤介の幼時を次のように語ったそうです。 「篤介少時、温順謹厚にして女児の如く、深く読書を好みて郷党の賞讃する所となりき。而して今や即ち酒を被(あお)って放縦至らざる無し。性情の変化する、何ぞ如此(かくのごと)く甚しきや。此一事余の痛恨堪へざる所也、卿等年少慎んで彼に倣ふ勿れと。」(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫

 1861(文久1)年父の死後、同年5月8日篤介は家督を相続しました。

土佐の歴史散歩―高知市中心部―中江兆民誕生地案内板

 

松本清張「火の虚舟」を読む2   

 1848(嘉永1)年土佐藩主となった山内豊信(とよしげ 容堂)は1853(嘉永6)年吉田元吉(東洋)を参政に起用し、洋式軍備強化をめざす藩政改革に着手しました(平尾道雄「土佐藩吉川弘文館・「龍馬がゆく」を読む4参照)。

 1858(安政5)年井伊直弼大老に就任、同年10月幕府は土佐藩主山内豊信を隠居させ、翌年9月前藩主豊信は謹慎を命ぜられました。参政吉田東洋土佐藩を幕府の方針に従う方向に転じました。

 しかるに1860(万延1)年3月桜田門外の変により大老井伊直弼が暗殺され、幕府独裁体制が崩壊すると、同年7月武市瑞山は再び江戸に赴き、長州藩久坂玄瑞・・桂小五郎高杉晋作らと接触、1861(文久1)年8月江戸で土佐勤王党を結成しました(「土佐勤王党盟約書」武市瑞山関係文書一 日本史籍協会叢書 東大出版会)。

 他方武市瑞山は上述のような意図の実現をはかり、1862(文久2)年4月8日土佐藩参政吉田東洋土佐勤王党那須信吾らによって暗殺されました(「維新史料綱要」巻4東大出版会・「龍馬がゆく」を読む6参照)。

 吉田東洋が暗殺される3日前、藩校文武館(後に致道館と改称)が開設され、16歳の中江篤介が入学していました。

南国土佐へ来てみいやーブログ内検索―致道館門

 土佐藩校としての教授館は1760(宝暦10)年に創立されていましたが、嘉永年間に事実上廃絶状態となっていました。文武館は教授館の復活ではなく、文館と武館にわかれ、文館では細川潤次郎(十洲)が「蕃学」を教授していました。細川潤次郎は長崎で蘭学を学び、高島秋帆から砲術を学んで1857(安政4)年帰国、翌年藩命により江戸で中浜万次郎について英学を3年間勉学、帰国後、吉田東洋の下で制度改正御用をつとめ、文武館開館と同時に教授となった人物です(飛鳥井雅道「中江兆民吉川弘文館)。

 のちに細川潤次郎の長男細川一之助が大山巌の次女芙蓉子と結婚することになります(「大山巌」を読む40参照・寺沢龍「明治の女子留学生」平凡社新書)。

Web高知―土佐路ぶらりー土佐の偉人・異人―ジョン万次郎(中浜万次郎)

 潤次郎は南新町の自宅で教授したそうですが、そこは山田町のすぐ近くで中江篤介は潤次郎の自宅に通ったのでしょう。しかし潤次郎は江戸と高知の往復に忙しく、実際には潤次郎の弟子で医学を緒方洪庵に学んだ萩原三圭の指導を受けることが多かったようです(飛鳥井雅道「前掲書」)。

 文武館において篤介は「蕃学」のみならず「漢学」についても学習しました。漢学は史学と経学(儒学)にわかれていましたが、篤介が愛読したのは「史記」で「史記の如きは之を暗(そら)んずるまで繙読(ひもときよむ)し、何てふ熟語は何伝にありと云ふことまで記憶せる積りなり。」(「兆民居士の文学談」「全集」第17巻)と述べています。

松本清張「火の虚舟」を読む3

 江戸で公武合体・雄藩連合を策していた前土佐藩主山内豊信(容堂)は1862(文久2)年4月8日の土佐藩参政吉田東洋暗殺以後、土佐勤皇党の破約攘夷方針に押されているかのような土佐藩の動向につよい不満をもっていました。

 1863(文久3)年4月豊信が高知に帰ってくると、同年5月24日郷士以下の軽格の藩士すべてが集合させられ、藩奉行職は「一旦朋党の盟約相結び候輩といへども先非を改め、正道に相帰候得は、既往之小過は深く糾明仰付られず」と事実上の土佐勤王党解散命令を布告しました(「高知県史」近世篇 高知県・「龍馬がゆく」を読む9参照)。

 平井収二郎間崎哲馬・広瀬健太ら土佐勤王党の志士は、吉田東洋暗殺後も藩政改革が進まないのに焦慮し、京都で青蓮院宮の令旨をもらい、これを藩主の祖父に示して改革をおしすすめようと画策しました。同年4月容堂は平井・間崎を京都で逮捕させ、高知に檻送、同年6月広瀬を含む3名に切腹を命じました。

 中江篤介が1892(明治25)年執筆の「平井収二郎切腹の現状」と題する覚書(「全集」第17巻)によれば、1863(文久3)年6月9日の夜、自宅近くの煮売屋の腰掛で町の人と雑談していたとき、近くの牢屋雇人が白木の水桶、青竹、白張の燈灯などをかついで、南の牢屋に向かっていました。平井収二郎らの切腹準備だったのです。皆で切腹を覗きみようとし、篤介は遠慮なく塀に攀登って見下ろしました。切腹は本人が短刀を腹に突きたてると介錯人がすぐに首を切り落とすもの聞いていた篤介は予想とは異なった光景を見ました。その原文は下記の通りです。

 「罰文を聴了(ききお)はるや、前に置ける九寸五分の短刀を三方と共に頂きて一礼し、然後(しかるのち)短刀の下に敷きたる布切を取り膝の上にて刀の中子を巻き斜に刀を操り尖を左腹に押当て軽々に引き廻はし僅に血をみるのみにて充分の気力を留め徐に喉を刺し是に於て力を極めて一割せし故少しもかく(口偏に畫)声を発せずして前に伏し其侭(そのまま)絶命せり」この回想文を依頼したのは平井収二郎の妹でした(「龍馬がゆく」を読む5参照)。

南国土佐へ来てみいやーブログ内検索―平井収二郎墓所

 1863(文久3)年8月18日の政変(「龍馬がゆく」を読む9)参照)以後同年9月21日土佐藩武市瑞山ら土佐勤皇党の主な指導者を投獄、翌日藩はこの勤王党弾圧が京都朝廷からのご沙汰であると藩内に布告しています(瑞山会「維新土佐勤王史」)。

  1865(慶応1)年閏5月11日武市瑞山土佐藩尊攘派は処刑されました(「維新史料綱要」巻6)。

 

松本清張「火の虚舟」を読む4

 1865(慶応1)年9月中江篤介は土佐藩から英学修行の目的で長崎へ公費留学を命ぜられました(「年譜根居帳」「全集」別巻)。長崎には安政年間以来幕府の語学研修所があり、同年8月「済美館(せいびかん)」と改称されましたが、篤介は済美館学頭平井義十郎に師事、フランス語学を学びはじめました。藩命には英学修行とあったのに篤介がなぜフランス語学を学んだのか不明ですが、当時の長崎在留外国人は英米人の商人が多かったのに対して仏人は少数ながらカトリック神父が中心でした。

 1863(文久3)年長崎にきたプチジャン神父は1865(慶応1)年2月19日大浦天主堂(仏人フューレ設計)を建設完成、日本人に「フランス寺」とよばれました。このとき浦上の潜伏キリシタンが天主堂を訪ね、プチジャンにキリスト教信仰を告白したことは有名です(「近代日本総合年表」岩波書店)。

あじこじ九州―情報―地図をクリックー長崎―(国宝)大浦天主堂

 当時イギリスが薩長に好意的だったのに対してフランスは幕府に接近、イギリスに対抗していました。またプチジャンは済美館で教えており(飛鳥井雅道「前掲書」)、おそらく篤介はフランス寺との接触があったとかんがえられます。
 

松本清張「火の虚舟」を読む5

 一方1865(慶応1)年夏坂本龍馬亀山社中を長崎郊外の亀山に設立することに成功していました(「龍馬がゆく」を読む13参照)。中江兆民は後年幸徳秋水坂本龍馬と自分の関係を次のように語っています。

 「先生曾て坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの方語もて「中江のニイさん煙艸(たばこ)を買ふてきてオーセ、」などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々(しばしば)なりき。彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜上がり居たりきと。」(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)。

 このような坂本龍馬と篤介の接近は何時ごろだったのでしょうか。慶応元年時点で龍馬は薩摩藩の保護下にあったとはいえ脱藩者としてお尋ね者であり、篤介は土佐藩公費留学生の身分でした。長崎には土佐藩の出張所である土佐商会があり、藩監視の目も厳しい状況の下で篤介が龍馬と親しく交際することは困難だったでしょう。

 やがて篤介は江戸に出たいと思うようになり、長崎から江戸への直行便外国船の船賃25両の支出を長崎における藩留学生監督であった岩崎弥太郎に申し出たのですが断られ、藩参政後藤象二郎(「龍馬がゆく」を読む16参照)が長崎出張の折、扇面に書いた詩を提示して嘆願すると、後藤は笑って25両を出したので篤介は江戸に向かいました(幸徳秋水「前掲書」)。幸徳秋水の書くところによれば、詩の後半の二句は「此身合称諸生否 終歳不登花月楼」とあり、勉強のため一生遊郭に登楼する暇もなくなるの意ですが、この詩を見ると篤介はすでに長崎の丸山で放蕩の味を覚えていたようです。

 

松本清張「火の虚舟」を読む6

 篤介は江戸で旧松代藩士村上英俊が深川の真田藩邸内で開いていた私塾達理堂に入門しましたが、「先生学術儕輩に抜き、眼中人なく、気を負ふて放縦覊(き つなぎとめる)す可らず、屡々深川の娼楼、所謂仮宅に留連し、遂に村上先生の破門する所となれり。」(幸徳秋水「前掲書」)。 深川は岡場所(江戸時代、江戸で官許の吉原以外の遊里)の多かった所で、幸徳秋水の文章にはどことなく、篤介が村上英俊を軽んじていた様子が伺えるようです。

  達理堂を破門された篤介は横浜天主堂の僧(神父)に学んだのですが(幸徳秋水「前掲書」)、おそらく長崎のプチジャン神父の紹介であろうと思われます。

 1868(慶応3年12月7日 太陽暦1868年1月1日)兵庫開港が実現(「維新史料綱要」巻7)、フランス駐日公使レオン・ロッシュは開港行事のため兵庫に行きました。横浜天主堂の神父たちはフランス外交団の通訳を兼ねていたので、篤介も通訳(おそらく臨時雇い)として採用され兵庫に赴きました。このときの様子を後に篤介は次のように述べています。

 「余や二十余年前、神戸開港のとき仏蘭西公使レオンローシ領事レック二氏に従ふて通弁官の列に在りき。毎夜「ラシャメン」(ロッシュの妾)「コック」、別当(馬丁)を教師として花(札)を引く否摘めり当時今の総理大臣伊藤(博文)伯、陸奥(宗光)公使中島信行の三氏は判事(外国事務局)として該地に在り余一日判事庁に抵(いた)りて金を乞ひ、夫れより押し送り舟を買ふて大阪雑喉場に至り直ちに京都に赴きたり。」(「土佐紀游」第二 全集 第11巻)

 通訳をやめた篤介は再び東京に出て、福地源一郎(桜痴)が湯島天神下に開いた日新社の塾頭となってフランス語を教えましたが、福地が放蕩で授業をしなかったため、長続きしませんでした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ふー福地源一郎―みー箕作麟祥

 結局篤介は1868(明治1)年5月ころ代々幕臣蘭学者であった箕作麟祥(みつくりりんしょう)が神田に開いた塾に入門しました。箕作麟祥明治新政府の信頼も厚く、箕作塾からかなりの人々が幕府の蕃書調所を引き継いだ大学南校に雇用されました。篤介も1870(明治3)年5月大学南校大得業生(だいとくぎょうせい 下級の教員 句読、翻訳を授ける 「東京大学百年史」 通史一 東京大学出版会)となっています(「官員録」 「全集」別巻 年譜)。

  ところが大学南校は学制改革のため、1871(明治4年)9月一時閉鎖され、同年7月廃藩置県のため篤介は土佐藩下級藩士としての身分も失ったのでした。

松本清張「火の虚舟」を読む7  

 1871(明治4)年11月12日横浜を出発した岩倉使節団は43名の政府留学生を随行させていましたが、その中に中江篤介が含まれていたことはすでに述べた通りです(「米欧回覧実記」を読む2参照)。

 篤介がそれまで全く接触のなかった薩摩藩出身の大蔵卿大久保利通に直接交渉して政府留学生となったことは有名です(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫・勝田孫弥「甲東逸話」富山房)。

 はじめ篤介は大久保利通を訪ねて役所に行き、面会を申し入れましたが、警備役に断られました。そこで篤介は毎日役所の門前に遊びに行き、大久保の馬丁と親しくつきあうようになり、やがて馬丁に主人大久保に頼み事があるのだがどうしたらいいか相談しました。馬丁は主人の退庁時に黙って馬車の後ろに乗り、お屋敷到着時に頼み事を云ったらいいと教えてくれました。篤介は馬丁のすすめに従い、幸徳秋水の語るところ(「兆民先生」)によれば大久保利通に次のような内容の話をしたのです。政府が海外留学を官立学校の生徒に限るのは道理に合わない。官立学校生徒以外でも優秀な者は多い。げんに自分などは学術優秀で、国内では就くべき先生もなく、読むべき書物もないほどだ。同じく国民であり、同じく国家のためである以上、出身学校が官であろうが私であろうが、区別はありますまいと。

 大久保が「足下(そっか きみ)土佐人也、何ぞ之を土佐出身の諸先輩に乞はざる。」と訊くと篤介は「同藩の夤縁(いんえん 縁故)情実を利するは、予の潔(いさぎよ)しとせざる所也、」と応えたそうです。大久保は「善し、近日後藤、板垣諸君に諮(はか)りて決す可し。」と答えました(「兆民先生」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―おー大久保利通―さー佐々木高行

 「中江篤助・長州人河内宗一、律学修行トシテ佛国ヘ遣サル。右ハ佛国法律家入用ニ付、司法省ヘ暫時御雇ニテ、本文之通被 仰付候。志願者モ多ク有之候得共、両人見込アルニ依リ、周旋ノ上相運ビ候事。」(東大史料編纂所編「保古飛呂比―佐佐木高行日記」五 明治4年10月15日条 東大出版会)と記述されていることを見ると、大久保はおそらく篤介に約束した通り、後藤、板垣に相談したでしょうが、篤介の海外留学生採用には当時司法大輔(次官)であった佐佐木高行が関係していたようです。

 篤介は岩倉使節団とともに横浜を出発、アメリカ合衆国を経て、使節団よりさきにニューヨークから大西洋を渡り、明治5年正月11日(1872年2月19日)パリーに到着しました(「全集」別巻 年譜)。

松本清張「火の虚舟」を読む8

 1870年フランスは普仏戦争に敗北、ナポレオン3世は同年9月セダンの戦いでプロシャの捕虜となり、フランスは帝政を廃して共和制となりました。しかしプロシャは戦争を継続、1871年パリーを開城、フランスを屈服させたのでした。だが同年3月パリ・コンミューンが起こり、世界最初の労働者政権が成立、5月ティエールらのフランス臨時政府の弾圧により崩壊した後も第3共和制は不安定な状態がつづいていました。篤介を迎えたフランスの政治情勢はこのような時期にあたっていたのです。

WELCOME TO YOKOYAMA’S HOME PAGE―世界史ノート(近代編)-第13章 2.自由主義・国民主義の進展ー6.フランス第二帝政と第三共和政

 幸徳秋水は「先生が仏国留学中の事、親しくその詳細を叩くに遑(いとま)あらざりしは、今に於て予の深く遺憾とする所也。但(た)だ予は先生が、まず小学校に入れるを聞けり。而して児童の喧騒に堪へずして、幾(いくば)くもなくして去り、里昂(リヨン)某状師(弁護士)に就て、学べるを聞けり。先生が司法省の派遣する所たりしに拘らず、専ら哲学・史学・文学を研鑚したることを聞けり。孟子、文章軌範、外史の諸書を仏訳したることを聞けり。其渉猟せる史籍の該博なりしことを聞けり。」(「兆民先生」)と述べるのみで、篤介の仏国留学生活はそのほとんどが不明という外はありません。

外務省HP―検索―ようこそリヨンへ

 

松本清張「火の虚舟」を読む9

 文部省が留学生を原則としてすべて呼び返すと通告したため、篤介はやがてリヨンを去って、旧知の馬場辰猪を訪ねてロンドンに赴き相談、パリーに戻りました。パリーで篤介は西園寺公望と知り合い(木村毅編「西園寺公望自伝」講談社)になりましたが、西園寺は篤介について「勉強よりも高論放談の方だった」と述べています。篤介が若くして亡くなった馬場辰猪を追悼する文(「弔馬場辰猪君」全集第11巻)に「余ノ天性無作法ナル仏国ニ居リ重ニ下等職人連ト交ハリ且酒ヲ呑ムヤ(馬場辰猪と)反対の性行益々極点ニ達シタリ」とある所を見ると、公家出身の西園寺公望が金のかかる遊びをしている(「日本料理」西園寺公望「陶庵随筆」国木田独歩編 中公文庫)のと対照的で、パリーにおける両者にあまり深い交際はなかったのではないでしょうか。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー西園寺公望―はー馬場辰猪

  1873(明治6)年7月篤介はフランスでの留学生残留者6名の中に加えられたのですが、12月末文部省の留学生に対する「全員帰国令」が改めて出され、「仏国の教師、先生の才を惜みて、資を給して止まらしめんと云ふ」(「兆民先生」)状況であったのに、篤介は年老いた母を心配して帰国の途につきました。

 1874(明治7)年4月26日マルセイユから東回りの船に乗り、スエズ運河を通り、インド洋通過、サイゴン経由、上海で別の船に乗り換え同年6月9日日本に帰着しました。

 帰国途中、篤介は次のような光景を目撃したと記述しています。

 「吾儕(ごさい 吾輩)嘗(かつ)テ印度海ニ航シテポルトサイド セイゴン等ノ諸港ニ碇泊シ岸ニ上リテ街衢(がいく)ニ逍遥セシニ英法(仏)諸国ノ氓(民)此土ニ来ルモノ意気傲然トシテ絶ヘテ顧慮スル所無ク其土耳古(トルコ)人若クハ印度人ヲ待ツノ無礼ナルコト曾テ犬豚ニモ之レ如カズ一事心ニ愜(叶)ハザルコト有レバ杖ヲ揮フテ之ヲ打チ若クハ足ヲ挙ゲ一蹴シテ過ギ視ル者恬トシテ之ヲ怪マズ(中略)抑々欧洲人ノ自ラ文明ト称シテ而シテ此行有ルハ之ヲ何ト謂ハン哉」(「論外交」全集 第14巻 ・「米欧回覧実記」を読む30・「大山巌」を読む19参照)

 帰国後篤介は直ちに大久保利通に報告に行くと、大久保は「目を閉じて、聞くが如く聞かざるが如く」眠っているようでした。篤介が抗議すると、大久保は笑って、いや決して眠っているのではない。「君に腹蔵なく満腔の所見を十分陳述せしめんと思ふがために殊更に目を閉ぢ」ているのだと云ったそうです(「甲東逸話」)。

 

松本清張「火の虚舟」を読む10

 中江篤介が帰国したのは1874(明治7)年1月板垣退助らが愛国公党を結成し、左院に民撰議院設立建白書を提出した(「雄気堂々」を読む15参照)直後のことで、同年10月ルソーの「民約論」(「社会契約論」)巻二の翻訳草稿(漢字カタカナ交じり文「全集」第1巻)を残しているので、彼がルソーを最重要視していたことがわかります。

谷底ライオンーライオンズ伝―ルソー

 同じころ篤介は「仏蘭西学舎」(のち「仏学塾」と改称)を東京麹町に開きました(「仏蘭西学舎開塾広告」「全集」第17巻 )。風刺画家ジョルジュ・ビゴーが「仏学塾」の教師を勤めていたこともあります(「外国人教師雇の願」 全集 第17巻)。

着物イメトレ部屋―小説の中の着物―ビゴー日本素描集 

 民撰議院設立建白書発表をきっかけとする自由民権運動江藤新平による佐賀の乱失敗後沈滞し、政府内部も大久保利通木戸孝允が気まずい関係となっていました。そこで1875(明治8)年2月11日大久保・木戸・板垣の大阪会議が開かれ(木戸公伝記編纂所「松菊木戸公伝」下 明治書院)、木戸・板垣は参議に就任、同年4月14日元老院大審院を置き、地方官会議を設け、漸次立憲政体を立てるとの詔が出ました。他方政府は反政府運動取締りのため、同年6月28日讒謗(ざんぼう)律・新聞紙条例を制定しました(「法令全書」)。

高校日本史―6エピソード高校日本史―第八章 近代国家の成立(2)―181-1自由民権運動Ⅰ-4

 篤介は同年2月23日東京外国語学校長に任命されましたが、5月18日元老院副議長後藤象二郎の上申により、元老院権少書記官に任命されました(「元老院日誌」年譜「全集」別巻)。