幸田真音「天佑なり」を読むⅤ-11~15

幸田真音「天佑なり」を読む11 

 パリー出発前、英国の銀行団へはあらかじめパリーにおける談判の経過を報告し、同時に高橋は1905(明治38)年11月18日夜ロンドンに帰るから、即夜ホテルにて会見したき旨を申し送っておいたので、同夜英国の発行銀行仲間は漏れなく来会しました。よって高橋はまずパリー・ロスチャイルド家と協定した条件を提示し、なお米国及び独逸銀行団との交渉を速やかに取り極めるよう申し入れました。銀行団からはいろいろの注文も出ましたが、今回は主なる発行者が仏蘭西ロスチャイルド家であるから、大概皆納得させることが出来ました。19日にはハンブルグのワーバーグ氏がやって来たので、独逸側引受額その他払い込み金処置等について協議を告げました。また同じく19日夕刻には米国のシフ氏よりも電信にて仏蘭西協定の成功を祝し、かつ今回の発行についても日本政府の希望に添うように努力すべき旨を申し越して来ました。 

 かくて公債発行に関する英、仏、独、米の意向もほぼ一致したので、19日夜総裁宛てに次の意味の電報を出しました。「ルビエ総理大臣は最も好意を有し、今月中是非発行の運びに至るよう致したし申居れり、パリー・ロスチャイルド家は今月29日にに発行するよう尽力中なり。今日まで相談まとまりたる要点下記のごとし。 

1、公債発行額英貨公債5000万磅公債額面額10磅20磅100磅200磅の4種とす。償還期1931年1月1日とす、ただし1921年1月1日以後、日本政府は6カ月前の通知により額面にて全部または一部の償還をなすの権利を保留す。2、発行総額5000万磅の内1500万磅は6分利付英貨公債の引き換えのために保留し、明年3月15日過ぎ適当の時期においてロンドン及びニューヨークにおいて目論見書を発行す。残高3500万磅は英、米、仏、独において募集し日本政府の内国際償還に使用す、ただし仏国の募集額は1200万磅とし、2300万磅は英、米、独に分配する事。3、発行価格額面100磅につき90磅、政府の手取り金88磅とし1906年1月1日に前6カ月分の利息を発行者利息受け取証書に対し交付する事。4、利子支払いは毎年1月1日及び7月1日とし、英、米、独は前回同様、仏国はパリー・ロスチャイルド家銀行にて支払う。5、払い込みは本年12月より来年3月末まで日割とす。仏国払い込みは日本銀行勘定にて各受け取日より2箇月間はロスチャイルド銀行において年1分の利息にて預る事。ただし2箇月以後といえども仏国市場に恐慌などのっ場合はなるべく引き出さざる事」その他詳細に渡り手電報しました。 

 翌20日ロスチャイルド家から午餐に招ばれたので、ロード・ロスチャイルド及びアルフレッド・ロスチャイルドに会ってさらに発行期日につき相談しました。前日までは28日目論見書を配布し、29日申し込みを受けることに協議まとまりおりしも、29日は既発の日本公債の利子支払日で非常に混雑を来すから、一日繰り上げ27日に目論見書を配布し、28日に応募申し込みを受理すること改め仏国にも相談したるに幸い異議なかったので、その通り決定しました。 

幸田真音「天佑なり」を読む12 

 30日に至って政府から電報で、「発行公債を5000万ポンドとし、その内2500万ポンドは保留して来年3月15日過ぎニューヨーク及びロンドンにて目論見書を発行するという実際の手続きが呑み込めない。発行規定の勅令には何と記載したらよいか、また来年3月まで条件未定とあるは不利益ではないか」というようなもっともな問い合わせが来ました。 

 そもそも今回の発行総額は5000万ポンドとし、まずその半額を発行してあとの半額他日に延ばすということにした理由は、全くロンドン、パリーにおける公債発行の習慣並びに人気を考慮して行ったものにほかならないのです。即ちもし今回の公債を単に内国債償還のためとして発行すれば、従来6分利付英貨公債に応募したる英、米の資本家は、この方はどうするだろうとの危心を生じます。ゆえに英国側では、今度日本が公債を発行するに当っては単に内国債整理のためというばかりではいかぬ、他日6分利付公債も償還するものであるということを併せて声明すべきものであると主張して止みません。しかるに仏蘭西側では、これまで6分利付公債には何らの関係がないので、英国側のいうように、そんなに6分利公債の償還を条件として発行することは出来ないと主張する、即ち発行条件に関し、図らずも英仏の間に意見の相違を生じて来たのです。事ここに至って万一仏蘭西側が旋毛(つむじ)を曲げて参加を断るようなことにでもなれば、それこそ大変で、年内発行の望みは到底むつかしくなって来ます。ついては、この両方の意見の衝突をいかにして一致させるかということが、高橋の最も苦心したところです。 

 そこで、いろいろと考究妥協の結果、6分利付公債の償還は明年3月15日以後に行うという一項を挿入してようやく双方の互譲一致を見るようになりました。しかるにそれならば一層のこと総額5000万磅を一時に発行して内国債と6分利付公債とを同時に引き換えたらよかろうという論も出たが、それには実際上の不都合が生じて来ます。というのは、今度発行する公債に対して6分利付公債をもって払い込みに充れば、その方には直ちに全額払い込み済みのの仮証書を渡さねばなりません。しかして現金応募者は一時に払い込まないのであるから、借替応募者のように全額払い込みの仮証書をもらうわけには行きません。そのため一は売買の上に火丈なる便利を受け、他は反対に大なる不利を蒙り、かつそのために新債の市価にまで悪影響を与えるよいうことが研究の結果明らかとなりました。 

 ことに当時の状勢から判断して来年の4月ころに6分利付公債の引き換えを行えば、あるいは今日よりも好条件得らるるやも図られざる情勢にありましたから政府に対しては、「勅令案には英貨公債額面5000万磅を発行す、ただし本公債の内、額面2500万磅は発行額面100磅につき90磅をもって英国ロンドン、米国ニューヨーク、仏国パリー、及び独逸において募集し、額面1500万磅は明治27年5月及び11月英国ロンドン及び米国ニューヨークにおいて募集したる6分利付英貨公債1200万磅の引き替えに充用す。その引き換え期日及び方法は追って大蔵大臣これを定む。上記1500万磅のうち引き換え剰余高は現金をもってこれを募集す。その時機及び募集価額は大蔵大臣これを定む。と記せられたし」と電報しました。その後1905(明治3811月25日となって、政府より林公使を経て4分利付公債発行の勅令文を決定して来ました。 

 上記のごとくして、11月27日夕方には、英、米、独、仏において目論見書を発表しし、翌28日より応募の申し込みを受理することとなりました。しかるにその結果は今k氏も非常なる盛況で、ロンドンでは割り当高572万磅の27倍余、ニューヨークでは1267万弗の割当高に対しその4倍余、独逸では割当高5715万馬克(マルク)に対し10倍余、仏蘭西は16558万法(フラン)の割当に対し約20倍余の申し込みがありました。政府でも、今回の成功には非常に喜んで、11月20日には早速大蔵大臣名義をもって祝意を表して来ました。 

 かくて4分利付公債の募集も滞りなく行われ、募集金の始末などの用務も大体片付いたので、高橋は松尾日銀総裁に宛て、12がつ27日までにロンドンを発し米穀経由帰国したき旨を電請しました。これに対して総裁よりはm希望の通り帰朝してもよいという返事でしたから、、高橋はいよいよ1905(明治38)年12月20日ロンドン初、ニューヨークを経由して1906(明治39)年1月23日桑港出帆のサイベリア丸にて帰朝することに決しました。上塚司編「高橋是清自伝」中公文庫はこれで本文を終了しています。 

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高橋は帰国後いくつかの栄誉を受けましたが、家庭的不幸にも出会い衝撃を受けたようです(幸田真音「前掲書」下巻)。 

幸田真音「天佑なり」を読む13 

 1911(明治44)年6月1日日銀総裁(吉野俊彦「前掲書に」)に就任した高橋是清(「近代日本総合年表」岩波書店)は当時の総理大臣であり、大蔵大臣を兼任していた桂太郎にまもなく上申書を提出しています。 

 歳出の削減、なかでも過度の軍事支出は避けるべきだ、陸軍師団増設や海軍拡張を図ることをい抑制し獲得した外資は可能な限り国内産業に仕向け、輸出の拡大を図ること。「民力」を養うことが重要であると具体的な提言をしたのであります。 

 日露戦争の結果、日本は露国から賠償金をとることが出来ず、巨額の外債を背負ったからです。日露戦争まで経験した日本は当然ながら軍事支出が増加の一途を辿り辿りました。同年8月30日に成立した第2次西園寺公望内閣の蔵相山本達雄「天佑なり」を読むⅢ-32参照)からの要望を受け、日銀は公定歩合の利上げに踏み切ったのですが、このときは輸入過剰に陥らないために一時的な警告が必要との決断でした。 

 やがて同内閣は陸軍の2個師団増設要求と対立して総辞職(「花々と星々と」を読む13参照)、つづいて成立した第3次桂太郎内閣が大正政変でt倒壊すると、1913(大正2)年2月20日第1次山本権兵衛内閣が成立、、高橋は同内角の蔵相となり、同年旧知の原敬「天佑なり」を読むⅡ-10参照)が率いる立憲政友会に入党しました。 

 しかし々内閣も短命に終わり、1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣が外相加藤高明の率いる憲政会を与党として成立、政友会はしばらく政権から遠くなります。 

 やがて第1次世界大戦(1914~18)が始まりますが、米騒動寺内正毅内閣が倒れると、1918(大正7)年9月29日原敬政友会内閣が成立、高橋は同内閣の蔵相に迎えられました。1921(大正10)年原敬が暗殺され、高橋は政友会総裁として同年11月713日高橋是清内閣を組織、蔵相を兼任しました。しかし1922(大正11)年6月6日閣内不一致のため同内角は総辞職しました。 

 その後加藤友三郎内閣、関東大震災(1923)時の第2次山本権兵衛内閣と非政党内閣が続き、1924(大正13)年清浦奎吾内閣が貴族院を基礎として成立すると、民意にそむくとして第2次護憲運動が起こり、同年6月11日第1次加藤高明(護憲3派連立)内閣が成立、高橋は同内閣の農商務大臣に就任しました。しかし連立はまもなく解消、第2次加藤高明(憲政会単独)内閣となり、1926(大正15)年1月加藤高明首相は死去しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読む14 

 大戦中の好景気は1920(大正9)年の戦後恐慌で消え、日本経済は不況に突入しましいた。さらに1923(大正12)年の関東大震災で経済は打撃を受けたのです。第1次若槻礼次郎(憲政会)内閣が台湾銀行救済問題(「男子の本懐」を読む20)で倒れると、1927(昭和2)年4月20日成立した田中義一(政友会)内角において高橋は短期間でありましたが蔵相を勤め、片面刷りの200円紙幣を発行させるなど金融恐慌の鎮静に努力しました。 

 田中義一内閣が張作霖爆殺事件(「男子の本懐」を読む22)をめぐり、天皇の信任を失って総辞職すると、1929(昭和4)年7月2日浜口雄幸(立憲民政党)内閣が成立、1930(昭和5)年1月から、大戦中に禁止されていた金輸出を解禁(金解禁「男子の本懐」を読む24参照)しました。そn結果、前年から起こっていた世界恐慌と重なり、経済は深刻な不況に陥りました。 

 またロンドン海軍軍縮条約調印で統帥権干犯問題が起こり、浜口首相は狙撃されて重傷をうけ、同内閣は総辞職、1931(昭和6)ねん4g冊14日第2次若槻礼次郎内閣が発足しました。同年9月満州事変が起こり、同内閣は不拡大方針を示したのに関東軍は戦争拡大、同内閣は総辞職し、1931(昭和6)年12月13日犬養毅(政友会)内閣が成立、、高橋は蔵相に就任しました。高橋は直ちに金輸出再禁止を実施、我が国は管理通貨制度に移行しました。 

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 犬養内閣が翌年の5.15事件(「花々と星々と」を読む40(参照)で倒れると、高橋は続く斎藤實(「労働運動二十年」を読む16参照)内閣の蔵相となり、次の1934(昭和9)年7月8日成立の岡田啓介「男子の本懐」を読む22)内閣においても一時蔵相を勤めました。 

高橋は通貨増発による景気刺激策をとり、やがて日本は不況を離脱することに成功しますが、他方増税に頼らず、各省に予算の節減を求めました。しかるに軍事費を削減しようとして、軍部ことに皇道派「苦悶するデモクラシー」を読む15 参照)との対立を深めたのでした。 

幸田真音「天佑なり」を読む15(最終回) 

1936(昭和11)年2月26日早朝東京は大雪でした(。高橋正衛「二・二六事件中公新書)。「兵隊だ、兵隊が来ます」朝5時高橋邸の警備をしていた若い巡査が異常を告げました。表通りにはすでに兵士が約100名、機関銃1基を備えて交通を遮断する一隊、邸をぐるりと包囲する一隊、さらには警戒中の巡査たちに銃剣をつきつけ監視する一隊、それぞれが分かれて所定の位置についていました。実弾数百発と小銃、拳銃などをテに皆が物々しい重装備です。 

 「外で変な音がします」異様な気配に飛び起きた看護婦兼女中頭阿倍千代が高橋の寝室に声をかけました。「雪でも落ちた音じゃないか」高橋も起きていたのでしょう、薄明かりの中から穏やかな声が返ってきます。 

その時でした。内玄関を壊す物凄い音がして、屋敷全体が身震いでもするようにどすんどすんと揺れたのです。 

 「見てまいります」言うが早いか、階段を駆け降りると、玄関の方から長い廊下を兵士一団がこちらに向かって来るのが見えました。何人かが階段を駆け上ります。ついて行こうとすると、たちいまち数人に取り囲まれ、着剣した銃を突きつけられました。「動くな、女でも殺すぞ」 

 いっとき屋敷内に不思議な静寂が訪れました。「なにをする、なにをする」2階の10畳で高橋の声がしたのはその時です。落ち着いて威厳に満ちた声です。 

 と次の瞬間乾いた銃声数発聞こえました。どさりと倒れるような鈍い音響きました。 

 我慢できず、真喜子(高橋の次女)が階段に向かったとき、兵士が下りてきました。士官がすれ違いざまに最敬礼をします。 

 男を突き飛ばすようにして寝室にいくと、なにかが流れるような、くような吐くような音がしました。 

 「パパ、どうなさいました」その壮絶な姿を見て真喜び子はその場所にへたり込みました。父は寝巻きに大島紬の綿入れの筒袖を着ていましたが、肩や背中に刀傷を負い、鼻と口から大量の血が流れて、羽枕にしみこんでいました。 

 ただ、おそらく最初の弾丸で即死だったのでしょう。少しも苦しだ様子がなく、その横顔は安らかで、薄く目を明けていましたが、口もとはむしろ微笑んでいるような柔和な表情でした。 

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土蔵の2階にいた品(「天佑なり」を読むⅠ-1参照)のところに報せが来たときは、すでになにもかもが終わったあとでした。後日取調べの席で、品はただ一人毅然として告げました。「残酷と申すより、卑怯にございます」(幸田真音「前掲書」巻末 主要文献・資料 参照)。