幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-11 

さて、英国銀行家の持ちだした条件について、高橋は早速本国政府に対し電報をもって打ち合わせをなし、発行限度の最高額300万ポンドというのを、政府の希望1000万pンドの半額500万ポンドに、期限の5カ年を7カ年に発行価額92磅というのを93ポンドに訂正すること主張して譲りませんでした。この点もついに英国銀行家の承認するところとなりました。 

 この際高橋がもっとも苦慮したことは、いよいよ公債の発行並びにその条件が合った後、未だ実際に公債を発行せぬ間に、そのことが市場に漏れては少なからず弊害を生ずるので、それについての対策でありました。けだし発行前に漏れると、第一投機者流が思惑の売買をやり出す、また当時フランス金融勢力は日本の公債発行に反対であったので、この方面から邪魔が出て来る虞もあったのです。 

 ゆえにすでに内相談が極まった以上は、未だ世間に漏れざる内に一日も早く発行することが必要でありました。実際今日まで運んでくる間にも一番困ったのは、公使館や領事館の人々から、公債の成り行きを尋ねられても、言うことが出来なかったことです。ただ林公使だけ、維新前からの知り合いで、お互に気心もよく分っているので時々高橋は見込み話として成り行きを話していましたが、他には一切話しませんでした。 

 さて、上述のごとくして銀行家との相談が纏り、いよいよ仮契約を結ぶまでに運んだのが、4月23、4日であったと思います。しかるにここに偶然のことから一つの仕合わせなことが起りました。 

  それはかつて日本へ来た高橋の友人ヒル氏が、高橋が仮契約を取り結ぶまでに運んだということを聞き知って大変に喜び、一日ねんごろな晩餐に招待してくれました。その時ヒル氏の邸で、米国人のシフという人に紹介されました。シフ氏はニューヨークのクーンロエプ商会の首席代表者で、毎年恒例としているヨーロッパ旅行を終え、その帰途ロンドンに着いたところを、ヒル氏の懇意な人とて同時に招待をしたのでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-12 

 いよいよ食卓に着くと、シフ氏は高橋の隣に坐りました。食事中シフ氏はしきりに日本の経済上の状態、生産の状態、開戦後の人心につき詳細に質問するので、高橋も出来るだけ丁寧に応答しました。そうしてこのころようやく500万磅の公債を発行することに銀行者との間に内約が出来て満足はしているが、政府からは年内に1000万磅を募集するように、申しつけられている、しかしロンドンの銀行家たちがこの際、500万磅以上は無理だというので、やむを得ぬと合意した次第であるというような話もし、食後にもまたいろいろ話をして分れました。 

 ところが、その翌日、シャンド氏がやって来て、パアース銀行の取引先である銀行家ニューヨーク、クーンロエプ商会のシフ氏が、今度の日本公債残額500万磅を自分が引き受けて米国で発行したいとの希望をもっているが貴君の御意見はどうであろうかというのであります。 高橋はシャンド氏の言葉を聞いてそのあまりに突然なるに驚きました。なにしろシフ氏とは昨夜ヒル氏の自宅で初めて紹介されて知り合いとなったばかりで、高橋はこれまで「クーンロエプ商会」とか「シフ」とかいう名前は聞いた事もなく、従ってシフ氏がどんな地位人であるか知る由もありませんでした。 

 しかしシフ氏の齎した話は耳よりのことでもあり、実際に出来れば日本政府にとって誠に結構なことであるから、高橋は、「もしロンドンの銀行家たちが仲間に参加さしても差し支えないと信ずるならば、自分は少しも異存はないから速やかに話を進めたがよかろう」と答えました。しかしこのことは我が政府の外交上の政策に関することでありますから、多分差し支えないとは思ったのですが、念のため電報をもって政府の意向をも確かめてみました。すると政府でも何ら差し支えない旨の返事が来ました。 

 こうしてシフ氏との話がたちまち纏まって、英米で一時に1000万ポンド公債を発行することが出来るようになりました。高橋は一にこれ天佑(てんゆう 天の助け)なり(上塚司編「前掲書」、幸田真音「前掲書」の題名はここからとられています)として大いに喜びました。そしてこの喜びは独り高橋ばかりでなく、日本人ばかりでなく、英国人もまた非常に喜びました。というのは、すでに述べた通り、あるいは露国帝室との関係から、あるいは黄白人種の戦争という点から、英国人独りが日本を援助するということについては何となく心苦しい風であったが、今度米国資本家の参加によって、日本に対して同情の実を示すものは独り英国ばかりでなく、米国もまた然りであるということが、英国政府及び一般国民にはよほどの満足を与えたようでありました。外務大臣ランズダウン侯のごときも、香上銀行のサー・ユウエン・カメロン氏からこの米国参加のは話を聞かされた時には、一方ならず喜んだということでありました。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-13 

そのシフ氏はこのために、その親友サー・アーネスト・カッセル氏と共にエドワード陛下より午餐を賜る光栄に浴したが、その席上陛下はシフ氏が日本公債の発行に参加せることを満足におぼしめさるる旨の御言葉を賜ったそうであります。 

 その後、勅令の案文その他のことで、政府と電信の往復を重ねて、英米両国発行の手続きを済まし、いよいよ5月11日をもって英米両国目同時に募集を開始することに決定しました。 

 細目決定前にシフ氏は後事ををロード・レベルストックに委任して米国に帰ってしまいましたが、レベルストック卿は英国銀行家と相談の結果を一々シフ氏に電報で通知していました。ところが関税抵当のことについてはシフ氏も疑問を抱いたと見え、管理人を入れ..ず単に名称のみの抵当とした場合、万一その抵当権を実行せねばならぬようになった時はどうするか、と尋ねてきました。するとレベルストック卿は、「Warship](軍艦!)とただ一語をもって答えたら、シフ氏もそれで納得したということです。 

 さて是より先5月1日、日本軍が鴨緑江の戦争で全勝を博したとの電報が新聞に出たので、日本公債は予想外の人気を呼び、応募申し込みは、英米ともたちまち発行額の数倍に上り、その日の3時には締め切るというほどの盛況でありました。 

 高橋も景気を見に発行銀行の界隈に行ったが、申し込み人が列をなして順繰りに入り込んで行く行列が2、3町続いていました。実にロンドンでは珍しい光景でした。後で聞いて見ると、ニューヨークでも同様であったそうであります。かねて日本銀行総裁から手紙や電報で、開戦以来外国へ正貨の流出するのは予想以上である、もはや兌換の維持も先々困難であるから、一日も早く募債を済ますようにとしばしば督促がありました。しかるに一度公債募集日の光景が電報をもって世界に伝わると、たちまち正貨流出は止まり、松尾総裁も初めて安堵したということでありました。 

 シフ氏はどこまでも誠実な人でありました。むろん銀行家ですから、自分が損をしてまでわが公債の募集を援助するわけはありませんが、さればといって、これで一儲けしようという単なる利益の打算から思い立ったのであるかといえば、必ずしもそうではありません。 

 あの時、シフ氏が5000万円というまとまった金を、とっさの間に引き受けることを決心するに至ったについては、シフ氏の心中自ら成算あり一般募集には相当の成績を挙ぐべき自信があった上に、万一それが不成功に終った場合は、自分たちの組合だけでも、それを引き受けるだけの覚悟と資力とを十分の持っていたのでしょうが、普通の銀行者から見れば、冒険視せざるを得ぬところでありました。どうしてもその真相を解くことができませんでした。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-14 

何しろ高橋はこれまでシフという人ついては、名前も聞いたことがなく、わずかに前夜ヒル氏の家でただ一度会ったきりです。ことに1箇月前、日本からアメリカに渡り、ニューヨークの銀行家や資本家に当ってみてアメリカでは到底公債発行の望みはないと見込みをつけ、英国へと移ったくらいであるから、アメリカ人のシフ氏が、しかも欧州大陸からの帰路、一夜偶然出会って雑談したのが因(もと)となり、翌日すぐ5000万円を一手で引き受けてくれようとは、まるで思いもかけぬところでありいました。 

 しかるに、その後シフ氏とは非常に別懇となり、家人同様に待遇されるようになってから、だんだんシフ氏の話を聞いているうちに初めてその理由が明らかになって来ました。 

 ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシヤにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、官公吏に採用されざるはもちろん、国内の旅行すら自由に出来ず、圧政その極に達しておりました。ゆえに、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシヤのユダヤ人を、その苦境から救わねばならぬと、種々物質的に助力するとともに直接ロシヤ政府に対してもいろいろ運動を試みました。したがってロシヤ政府から金の相談があった場合などには、、随分援助を惜しまなかったのであるが、ロシヤ政府は金を借りる時には都合よき返事をして、それが済んでしまえば遠慮なく前言を翻してしまうのです。だからユダヤ人の待遇は何年経っても少しも改善せらるるところがないのです。これがために永い間ロシヤ政府の財務取り扱い銀行として、鉄道公債のごときも、多くはその手を経て消化されておりましたパリのロスチャイルド家のごときも、非常に憤慨してすでに十数年前よりロシヤ政府との関係を断ってしまったくらいであるります。 

YAHOO知恵袋ーロシヤもユダヤ人が嫌いみたいですね?? 

 上述のような次第でありましたから、シフ氏のごとき正義の士は、ロシヤの政治に対して大いに憤慨しておりました。ことに同氏は米国にいるたくさんのユダヤ人の会長で、その貧民救済などには私財を惜しまず慈善することを怠らなかった人であるから、日露の開戦とともに大いに考えるところがあったのは、さもあるべきことであると思います。そうしてこのシフ氏が第一番に考えたことは日露戦争の影響するところ、必ずやロシヤの政治に一大変革が起るに相違ないということでありました。もちろん彼は帝政を廃して共和制に移るというごとき革命を期待したわけではありませんが、政治のやり方の改良は、正にこの時において他にないと考えたのであります。すなわちこの政治のやり方を改良することが虐げられたるユダヤ人を、その惨憺たる現状から救い出すただ一つの途であると確信しておったのであります。そこで出来るなら日本に勝たせたい、よし最後の勝利を得ることが出来なくとも、この戦いが続いている内には、ロシヤの内部が治まらなくなって、政変が起る。少なくともその時までは戦争が続いてくれた方がよい。かつ日本の兵は非常に訓練が行き届いているということであるから、軍費さえ行き詰まらなければ結局は自分の考えどおり、ロシヤの政治が改まって、ユダヤ人の同族は、その虐政か救われるであろうと、これすなわちシフ氏が日本公債を引き受けるに至った真の動機であったのであります。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-15 

 シフ氏が日本公債を引き受けるについて、、主として相談相手となったのが、当時ロンドンにおける理財家としてロンドン、ロスチャイルド家をも凌駕するほどに信望を博しておったサー・アーネスト・カッセル氏でありました。同氏はエドワード7世の太子時代から信任篤く、宮中でも特別の待遇を受けておりました。シフ氏とは兄弟のような仲で、しばしば協同して米国内に資本を運用しておりました。元来シフ氏は、日本の事情については前夜高橋に聞いたくらいのほか知識を持っていなかったのですが、幸いカッセル氏が日本の事情に詳しかったので日露戦争の原因その他については、多くこのカッセル氏の意見をただしましたが、カッセル氏はまたつねに日本に同情ある説明をしてくれたので、この第一次六分利付の公債も極めて円滑に運び、爾来シフ氏と日本政府は非常に親密な関係を結ぶに至り、日本政府が外債を募集する場合には、いつでも発行銀行の仲間に参加せしむるようになりました。 

 第一回の六分利付公債は、前述のごとく1904(明治37)年5月11日をもって英米両国同時に募集を開始し、いずれえも大成功裡に終結しました。そこで高橋の任務もひとまず完了しましたから、早速帰国しようと思ったのですが、考えてみれば英国の払い込みは5回に分割されており、(米国はすぐに全額払い済みとなった)その最後の払い込みが8月15日となっているので、この払い込みが終って、万般の跡始末をつけるまではどうしても引き揚げるわけには行きません。で、その間に一度ニューヨークへ行って、米国側が払い込んだ金の処置をつけてこようと考えておりました。 

 ところが、そこへまたもや日本政府から電命があって、さらに第二回軍備公債1億円を募集せよといって来ました。そして今度はその担保として、煙草専売益金のほかに必要ならば鉄道収益をも提供してよいということでありっました。 

 高橋には当時の英米の状況から見て、第二回の公債は、決して困難でないということは分っていましたが、ひそかに思うにいつまでこの戦争が続くか、一体今度政府が電命してきた1億円を募ればそれだけの金で、この戦争を済ますことが出来るかかどうか、出来るというならば政府からいうてきた担保を出してもよいが、どうしても高橋にはその点が心配でなりませんでした。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-16 

それで高橋は考えました、第一回六分利付公債の担保に提供した関税収入が4300万円余であったと思うが、これを1億円の担保としたのであるから、なお相当な担保余力を存している。ゆえにまずその余力を計算しその許す範囲をもって今回の発行高と限定し、煙草専売益金や鉄道収益は手をつけないで他日のために留保しておく方がよいと感じたから、その趣旨をもって調べてみると、なお1億1000万円分の担保力あることが明らかになりました。よってとりあえずその意味をもって政府へ電報し、同時に書面をもって詳細に具陳しました。しかるに、政府では高橋の電報を見て、この際公債の募集は1億1000万円以上は不可能ととってしまい、高橋に対して反対の電訓を発して来ました。それがために政府と高橋との間では電報で押問答を重ねましたがさらに要領を得ません。その内に高橋が先に出した手紙が着いたので、政府でもはじめてその間の事情が判明し、それならばというので早速同意の旨を電報して来ました。そこでこの関税収入担保余力二番抵当としてロンドンとニューヨークとで1億1000万円を募ることとなり、それぞれ銀行家に対して相談を進めました。 

 さて第一回六分利付公債が初めて発行されるという時には、日本人にも外国人にも、進んでこれに手を出そうというブローカーも現れてこなかったのですが、一度第一回の募集が大成功裡に完了したということが伝えられると、その後は政府に対していろいろ献策する者が生じてきたと見えて、今度は煙草専売益金を担保にするとか鉄道収益を担保にするとかいう内地の噂が、時々新聞に出るようになりました。ロンドンの銀行家たちはかねてこの噂を聞いてもので、高橋が第二回の談判を始めると、「すでに日本からの電報として新聞に載っているところを見ると、日本政府は煙草専売益金または鉄道収益をもって担保とする考えのようであるが、貴君だけがそれに反対し抵当は関税収入の担保余力をもってせねばならぬと押し通すのはどういうわけか、むしろ政府のいう通りにした方が一般の気受けもよいのになぜそうしないのか」というから、高橋は政府との間に電報や手紙で往復した経緯をありのままに話し、担保というものは大切にせねばならぬ。関税収入の担保余力がロンドンとニューヨークとでまだ十分にある以上、まずそれから使って煙草専売益金や鉄道収益などは後日必要な場合のために留保しておかねばならぬ。というと、銀行家たちも、それはもっともなことだといって、談判はようやく進行しました。 

 かくて第二回公債の条件は、前回と同じく、六分利付で、期限が7年、ロンドンとニューヨークで発行することとなり、最後の払い込みの終るのが、ロンドンは翌年即ち1905(明治38)年の2月15日で、ニューヨークの方は年内1904(明治37)年の11月5日ということになりました。 

 第二回六分利付公債は、上述のごとく極めて容易に成立し、12月5日には、アメリカ引き受け分の全部の払い込みが終 ったので、その預け先などの始末をつけるため、ロンドンを発ってニューヨークに向かいました。ここで今から考えると抱腹絶倒の一つの話があります。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-17 

当時までは、高橋もアメリカの銀行界ことは、あまり詳しくは知らなかったから、この公債募集によって得た資金が、万一預け場所が悪くて引き出しが出来ないようなことにでもなったら、日本国家に対して申し訳がありません。そこで高橋は例のごとくシフ紙に相談して、この始末はどうしたらよいかと尋ねると、シフ紙がいうには、「日本政府のために考えれば、こちらに置いてある金は、少しでも利回りをよくするためにせねばならぬ。それには、銀行よりも信託会社に預けたがよい。銀行なればおそらく年2分5厘くらいの利子にしか当たらないであろうが、信託会社に預ければ、年3分の利子がつく」ということでありました。 

 「ではその信託会社はどこがよろしいか」と尋ねると、「ギャランティー・ツラストがよい」というから、「それではギャランティー・ツラストに預けることにするが、同社はこの預金に対して、他の有価証券を担保として提出することが出来るか」というと、さすがのシフ紙もこの時ばかりは目を丸くして驚きました。そうして笑いながら、「何?担保をだす、信託会社からその預かったものに対して担保を出すなどいうことは、アメリカでは行われていない。ただしそれほど貴君が心配なら、その保証品は日本政府の安心するように私が出してあげよう。しかしその担保品を出すについては、私の銀行でも5厘の手数料はもらわねばならぬ。それはともかくとして、私が提供した担保品を貴君は、どこで保管せられるのか」といいます。これには高橋も弱ってしまって、「さしあたり正金銀行で」といってしまいました。しかしその当時の正金銀行は、みじめなもので、地下室に貧弱な金庫が一つ据えてあるばかりでありました。、それで、「正金銀行」といってはしまったものの、内心大いに心配でありました。それをシフ氏も悟ったと見え、「正金の金庫がどんなものであるか知りませんが、貴君が保管せらるる以上少なくとも私のところの金庫くらいのものでなくてはいけません。とにかく一度私のところの金庫を見てください」と自分か先だって案内してくれました。よってシフ氏に同道してクーンロエプ商会に行き、そこに建設せられている金庫を見ました。なんでも第一階にあって、およそ幅が3間(約55m)に1間半くらい、高さは1丈1尺(約3.6m)もあるように思われました。金庫の外回りの床の上には、幅1尺くらいの堅固な真鍮の金網ようのものが敷かれてあります。シフ氏はこれについて説明していうのには、「店員は時間が来れば皆帰ってしまって独りもここには残ってっていない。しかし誰かここにやって来てこの金庫の廻りにある金網の板の上に乗ると、すぐに警察に警報が行くようになっている。また金庫の屋根及び四方の壁にはi一面に金網が張ってあって、それにはすべて電気が通してあるから触れられない。そうしていよいよ金庫を破ろうとするには、この鉄壁が7種の異なった鋼鉄を合せて作るられているので、鑿を用いて破るにしてもこの7種の鉄に適応した七つの異なった鑿を用いなければ、穴を明けることは出来ない。無論火事に遭っても心配はない」と、まず一通り外形の説明をして、それから金庫の扉を開いて中を見せてくれました。中に入って見ると、三方に12の金庫が列べてあります。そうして、それには1月から12月までの記号が設されています。この中にはアメリカのみならず、イギリスやヨーロッパ大陸の公債証書、株券その他の諸債券類及び日本の公債などが非常によく整理されてありました。そうして1月にり払いや配当のあるものはすべて1月の金庫の中に、2月にあるものは2月の金庫の中にそれぞれ保管されて順次12月に及んでいます。しかも泥棒や火事の用心が堅固なことには、一驚を喫するばかりでありました。それで、高橋も預け金に対して担保を取ることは不可能だということが解り、その旨を政府に電報したところ、政府でもこれを諒とし、ついに抵当なしで預けてもよいことになり、その手続きを済ませました。 

 ニューヨーク滞在中は、万事シフ氏の紹介で、銀行家や鉄道会社、信託会社の社長その他有名なる実業家と交際するようになり、大変にシフ氏の世話になりました。従ってまた正金銀行の取引をクーンロエプ商会と開くような相談もしました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-18 

 アメリカにおける用務を済ますと、帰朝の途につき、1905(明治38)年1月10日に約1年振りで横浜に帰着しました。まず正金銀行本店で休憩し、正午の汽車で帰京しました。 

 翌11日は早朝より松尾総裁が高橋の私宅に来られて、いろいろと電報の行き違いや過去1年間の内地経済状態などの話がありました。12日7には大蔵大臣官舎に行って公債募集に関する大体の報告をしました。13日には松方伯を、14日には井上伯を訪問してそれぞれ報告をなし、15日は日曜日であったが総理大臣官舎に行って桂総理に報告しました。そうして16日には午前10時半には参内拝謁仰せつけられ、終って退出後、松尾総裁とともに井上伯を訪問要談しました。 

 これよりさき、帰朝後間もなく、1月11日付にてロンドン正金支店から、「パンミュール・ゴールドン商会から無抵当で、利息5分半、、期限30カ年くらいで発行価額85ポンドという条件で、500万ポンド乃至1000万ポンドまで募集が出来る旨発行銀行まで申し出でありたれども、これに対する発行銀行の意見は、目下内外の事情を観察するに、漸次日本政府のために好都合に赴く見込みなるをもって、この際、急いでさらに公債を募集することは不得策と思う。ゆえにパンミュール・ゴールドン商会の申し出は否決されたし」と申し越してきました。そこで高橋は、「発行銀行の決議は尊重する。しかし日本政府は近き将来にさらに外債募集の要あるべきをもって、その心得にて相当の時期において発行銀行の意見を申し出よ」と返事しました。ところが1月17日になって、パンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏からの電報で、「目下市場景気一般に好し、近来日本政府の信用は著しく増したるをもって利率や発行価額の次第は抵当なくとも募集できる、まず利息五分半、発行価額85ポンド、期限30カ年乃至40カ年くらいなれば可能性あり」と申し出て来ました。 

 そこで高橋はロンドン支店長の山川に宛て、コッホの申し出条件中、利率と発行価額が面白くない、なお発行銀行と協議の上発行銀行の意見を申し送るよう電報しました。これに対して1月30日付山川の電報では、「日本政府の内意が此の際至急外債募集を必要とするならばとにかく、もしさほど急を要せざるにおいては奉天戦争の結果を待ったらどうであろうか、露国内地の粉擾はますます激しくなるように思われる」といってきました。また発行銀行側の意見として同じく山川から、「発行銀行と相談した結果、日本政府が現在差し迫って現金の必要がないならば、この際公債の募集することは時機なお早しと考える。この後一般の形勢が引き続いて日本のために好都合に向えば、コッホの申し出条件よりさらにより良き条件をもって発行できること疑いない」といってきました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-19 

また1月26日に受け取った電報には、発行銀行の意向を報じて、「このごろ日本公債がだんだんに市場で騰貴してきた。なるべく漸時は公債発行延期した方が条件が好くなる。ただしこの会合の席にはカメロンに代りて、サー・ジャクソンが出席した」とありました。ところが1月27日付のコッホの電報には「公債募集はこの機会を失うべからず、ただし利息は年五分とす、また日本銀行所有第一回四分利英貨公債もこの際売却しては如何、指値(さしね)を返答せよ」といってきました。同日付の山川電報には、もし平和恢復の前途なお遠きかあるいは奉天戦争の結末が手間取るようであったら、コッホ申し出発行価額を幾分か引き上げて、この際着手しては如何、露国の扮擾はますます伝播している、これに対して露国政府はいよいよ抑抑圧を加えているが、おそらく革命にはなるまい」ということでありました。そこで当方からも1月27日付にて山川宛に、コッホの申し出は発行価額が低すぎるから満足出来ぬという意味の返電を出しました。 

すでに述べた通り高橋は帰朝後、宮中に参内して公債募集の顛末を言上し、また各要路にも報告したが、その結果公債募集の功労者に対して勲章を授けらるることとなり、レベルストック卿に勲一等瑞宝章を、サー・ジャクソン氏には勲三等瑞宝章を、バ氏には勲三等瑞宝章を、またシフ氏には勲一等瑞宝章をタウンセント氏には勲四等瑞宝章を贈らるることとなりました。 

weblio辞書ー瑞宝章ー早川千吉朗 

 よって高橋は政府の指図によって、1月28日付をもって正金ロンドン支店長山川勇木宛てに、「左の通り英文にて高橋是清名義をもってレベルストック、ジャクソン、、バン、シフへ格別に通知有之度拙者帰朝後、特別に陛下に拝謁を仰せつけられ、直ちに貴君の尽力せられたる第一回第二回公債発行成績を上奏せり、陛下は甚だご満足に思し召されかつ貴君の尽力を嘉(よみ)し給い、直ちに貴君に対して勲章を贈与することを御裁可あらせられたり。これは貴君先般の功労を思し召されしに外ならざれども、なお将来貴君の尽力に頼むところあるべきを示されたるものなるを信ず。 

 

 勲章は貴地日本公使を経て贈らるべし。拙者はここに貴君の光栄を賞す。なおまた日本政府は英米市場の模様次第にてさらに外債募集の考え有す。これに対し時機及び条件など貴君の見込みを内々承知したし」と電報しました。 

 1月の下旬に至って桂首相から呼ばれたので、すぐに総理大臣官邸に行くと、その席には首相の外に伊藤侯、山県侯松方伯、井上伯の諸元老がおられました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-20 

 首相は高橋を見ると、「この際さらに1億乃至2億5000万円の公債を募集したいが出来るだろうか」といわれるから、高橋は「2億5000万円くらいなら確かに出来ます、私の電信1本でできます」と答えると、井上伯が傍らから、「それは電信などではいかぬ。ぜひ御前が行かなきゃならぬ」といわれました。そのとき伊藤侯が山県侯を顧みて「高橋は金は出来るというじゃないか」といわれると、山県侯は起ってポケットに両手を突っ込み、少し俯き加減に室内を歩きながら、独り言のように「経済でなら仕方がないが、軍ということでは」とといわれました。すると桂侯が突然高橋に「戦いを負けても出来るか」と問われました。高橋は、「それや同じ負けても負けよう次第です。戦いに負けてる間に出来(でか)すというわけにはゆきません、しかい負けたからとて、どっかで踏みとどまる時がありましょう。その踏み止まった時に、公債談判の機会が来るのです。もちろんその場合条件は悪くなります。つまり負け方によるので、まさか一気に朝鮮まで追いまくられることもありますまい」と答えました。高橋の用事はそれで済んだので引き取りました。その後その席で何事が話されたかは高橋は知りません。ただ井上伯が「ぜひ御前が行かなけりゃならぬ」といわれたので、再びロンドンに向うことを決心しました。そうして2月5日正金ロンドン支店宛に、「先般一旦は帰朝したが、再び出張を命ぜられたので、1月27日横浜出帆のエンブレス・オブ・インディア号にて出発する。このことは公債発行銀行へ内々で伝言せよ。次にレベルスドクは上述の事情をつたえかつ先に同氏へ手紙を出すと申し送ったがら、どうせ近くロンドンにて面会の機を得るから手紙はださないことにしたと伝言せよ」と電報をもって申し送りました。 

 これと相前後して、1905(明治38)年1月29日高橋は貴族院議員に勅選のの恩命に浴し、2月7日には特をもって位一級を進め従四位じ叙せられました。かつ今回の出張に当っては、今後公債募集の交渉を有利ならしむるため、高橋の待遇に対し、政府においても得に考慮するところあり、改めて閣議に稟請(りんせい、具体的には大蔵大臣の要請)し、その決議を経て、帝国日本政府財務委員を委任せらるることになりました。 

 そうして2月11日紀元節の当日、大蔵大臣官邸に呼ばれ、外債募集に関する命令書及び政府の委任状をを渡されました。この日午前10時半米国公使を訪問面会しました。公使曰く、「今度は米国で募集せられるか、あるいはまた従来のごとく、英国を主として米国をこれに参加せしむるの方法をとらるるや(公使の言は米国をして英国と同等の地位に置きたかった)、なおモルガン氏を知っていらるるか、スチールマン氏はどうか」ということでありました。 

 それで高橋は「自分の考えでは少なくとも交戦中は募債の道筋を変更しないつもりである。またスチールマン氏には面会したがモルガン氏にはまだその機会がない」よ答えたら、公使は「まことに御尤もである」といって、色々と懇談に時を移し、かつ数通の添書きを書いてくれました。 また同日午後5時半から井上伯の別邸即ち麻布竜土町小林ロク方に晩餐の招待を受けました。同席者は、野村子爵、早川千吉郎、室田義文(「伊藤博文安重根」を詠む14参照)、馬越恭平、朝吹英二(「天佑なり」を読むⅢ-21参照)らの諸氏であって、甚だ懇切なる待遇をを受けました。 

近代日本人の肖像ー日本語ー人物50音順ーまー馬越恭平(まごしきょうへい) 

 このとき伯が一首の歌を詠まれましたが、翌日使いをもって送られました。その歌は、よしあしの中にかかりし高橋を渡りて開かむ鴈金の声、というものでありました。