久米邦武「米欧回覧実記」を読む1~10

久米邦武「米欧回覧実記」を読む1

久米邦武編「特命全権大使 米欧回覧実記」(岩波文庫 以後「実記」と略)は最初の「例言」において、本書の特徴を次のように述べています。

一 此書ハ、遣欧米特命全権大使天皇代理として国事を取り計らう権限をもつ官吏)、東京ヲ発シ、太平洋ヲ航シ、米国ニ留リ、圧爛的(アタランチック)洋ヲ経テ、英(エングランド)蘇(スコットランド)両部ヲ回リ、欧陸ニ渡リ、仏、白(ベルジュム)、蘭、普(プロイス)、露、嗹(デンマルク)、瑞典スウェーデン)ノ奥ヲ経歴シ、軔(とめ木)ヲ回シテ、日耳曼(ゼルマン)地方ヨリ、以(イタリヤ)、墺、瑞士(スイス)ヲ回リ、仏ノ南部ヲスキ、地中海ヨリ、紅海、亜刺伯(アラビヤ)、印度、支那ノ諸海ヲ航シテ、東京ニ復命スルマデ、日日目撃耳聞セル所ヲ筆記ス、明治四年辛未十一月十日ニ起リ、六年九月十三日ニ止ル(即西暦千八百七十一年十二月十二日ヨリ同七十三年九月十三日マデ)、スヘテ全一年九ヶ月二十一ケ日ノ星霜ニテ、米欧両洲著名ノ都邑ハ、大半回歴ヲ経タリ、

一 大使ノ西航スル、書記官(大使事務を代理する官吏)ハ使命公務ノ文書ヲ纂(あつ)メ、大使書類、公署日記、謁見式等ヲ編成シ、又同時派出ノ各省理事官(専門別調査官)ハ、各国政教兵備ノ底細(内奥と細部)ヲ視察廉(調査)訪シ、報告ノ書、数大部ヲナセリ、本編ハ大使公務ノ余、及ヒ各地回顧ノ途上ニ於テ総テ覧観セル実況ヲ筆記ス、是ヲ以テ回覧実記ト名(なつ)ク、故ニ使節ノ本領タル、交際ノ応酬、政治ノ廉訪ハ、反テ之ヲ略ス、別ニ詳細ノ書アレハナリ、

一 欧洲ニ於テ、全権大使ヲ「アンバスサドル」ト称シ、之ヲ差遣スルハ、異常ノ特典トナシ、最モ尊重敬待スル使節タリ、(中略)明治中興ノ政(まつりごと)ハ、古今未曾有ノ変革ニシテ、(中略)其由テ然ル所ヲ熟察スレハ世界気運ノ変ニ催サルヽニアラサルハナシ、(中略)我邦今日ノ改革モ亦然リ、外国交際ノ基本ヲ定メント、此異常ノ特典ヲ挙行アレリ、(中略)西洋ノ通義(世間一般に通じる道理)ニ、政府ハ国民ノ公会(組織)ニテ、使節ハ国民ノ代人ナリトス、(中略)故ニ岩倉大使深ク之ヲ敬重シ、以謂(おもえら)ク吾使節ノ耳目スル所ハ、務メテ之ヲ国中ニ公ニセサルベカラストテ、書記官畠山義成(当時杉浦弘蔵ト称ス)、久米邦武ニ命ジ、常ニ随行シテ、回歴覧観セル所ヲ、審問筆録セシメタリ、

久米美術館―邦武邦武について 

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む2

 1871(明治4)年11月10日(西暦12月12日)遣欧米特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允大久保利通伊藤博文、山口尚芳、随行の官吏及び諸省の理事官ら(「日本外交文書」第4巻 日本外交文書頒布会)は皆東京を出発、横浜に到着。翌11日送別の宴が開催されました。

近代日本人の肖像―人名50音順―いー岩倉具視

 同年11月12日一同は県庁に集合、馬車で波止場に至り、小蒸気船に乗り込むと、砲台から19発の祝砲が轟いて使節を祝福、つづいて15発の祝砲が鳴り響き、米公使デロング氏の帰国を祝いました。

明治神宮外苑聖徳記念絵画館 壁画集―21 岩倉大使欧米派遣―[解説21]

 使節及びこの郵船便で米欧の国々に赴く書生、華士族は54名で、その中には福岡県士族金子堅太郎、同団琢磨高知県士族中江篤介(兆民)、鹿児島県貫属牧野伸熊(伸顕)らの名があります(「日本外交文書」第4巻)。

近代日本人の肖像―人名50音順―なー中江兆民

 津田梅子北海道開拓使派遣女学生5名(久米邦武「米欧回覧実記」を読む3 HP「米欧回覧の会」―岩倉使節団の写真参照・寺沢龍「明治の女子留学生」平凡社新書449)も乗船、同日正午使節一行らを乗せた飛脚船アメリカ号は号砲一発碇を抜いて出航しました。

国立公文書館―検索―明治宰相列伝―黒田清隆―関係資料―黒田清隆訪欧し開拓方法を研究する(明治3年)

 港に係留する軍艦では水兵が皆桅(マスト)上に羅列して脱帽、港には見送りのため船を仕立てて数里の外まで名残を惜しむ姿も見られました。

 司法理事官随行の平賀義質は米国通で使節団一行の食卓行儀が乱雑と岩倉大使に建言、大使から命ぜられ、一同に食卓作法を列記したものを配布しました。平賀の作法書に「給仕(ボーイ)には低声に命ぜよ」とあり、「ソップ(スープ)には匙音や吸う音をさせるな」とありました。「余が前にゐた岡内(重俊)は(中略)ソップを吸ふのには態と匙音をさせ、皿を両手に持って音を立てゝ、ギューと吸ひ込みては舌打ちし、給仕には大声で指揮語の如く命じた。端に在る村田新八は、ニヤニヤ笑うて見ていたが、米国風の大ビステキが出ると、右手にフォークを持って、芋刺にし、口辺に持ち行いて喰い切った。」(「久米博士九十年回顧録」下巻 第七編 一 平賀義質の食卓行儀 早稲田大学出版部)

同年11月21日は西暦1872年1月1日なので20日の夜、欧米の船客はみな集まり、「シャンパン」「ブラデー」其の外種々の酒を混合して「ポンケ」と名づけ、子夜(午後12時)になるまで、これを酌みかわして談話していました。これは東洋における守歳(おおみそかの夜に眠らないで行く年を送ること)の風俗のようなものでしょう。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む3

 1871(明治4)年12月6日早暁深い霧が晴れると、船は金門口(ゴールデンゲイト)に進入、10時桑方斯西哥(サンフランシスコ)港桟橋に接岸、日本御雇の当港領事官は日本より滞在の官吏とともに出迎え、11時馬車で「モントゴメリー」町の「ガラントホテル」に到着しました。「実記」はこの「ガラントホテル」の特徴を次のように記述しています。

 『「ガラントホテル」ハ屋ノ高サ五層ニテ、(中略)造営頗(すこぶ)ル精巧ニシテ、当州ニ多ク見サル広廈(広く大きな建物)ナリ、食堂ノ広サ三百人一時ニ食案(食卓)ニ就キテ余裕アルヘシ、(中略)第一層ニハ大理石(マーブル)ヲタヽミ、十分ニ磨礱(磨き)ヲ加ヘタレハ、履(くつ)ヲ滑ラサントス、浴湯店理髪店玉突場等ヲ具ス、第二層ヨリ最上層マテ、皆房ヲ分ツテ旅客ヲ待ツ、番数三百ニ及フ、各房ノ内、大ナルハ客座(「シッチングルーム」仏ニテ「サロン」)寝室(ベッドルーム)浴室(バスルーム)及ヒ圊圂(カワヤ・水洗トイレ)(ウオートルクロゼット)皆具ス、大鏡ハ水ノ如ク、氍 (カーペット)ハ華ノ如ク、上ニ気(ガス)燈ヲ鈎下シ、昼ハ稜角ノ玻瓈(ガラス)七色ヲ幻シ、(中略)夜ハ螺旋ヲ弛メテ火ヲ点スレハ、五曜七曜環匣(めぐり)シテ、光ヲ白玉ノ中ニ輝ス、(中略)寝床ハ螺旋ノ鉄ニテ其底ヲウク、茵蓐(しとね)穏ニシテ身ニサハラス、(中略)顔ヲ洗フニ水盤アリテ、機ヲ弛ムレハ、清水迸リ出ヅ、(中略)凡ソ西洋旅館(ホテル)ノ景況ハ、此ニ記セルヲ以テ、他ハ概推スヘシ、』(第三巻 桑方斯西哥ノ記 上)  『余に(鍋島直大が)「旅館に来い」と申された。余は翌朝早速出かけて行き、「ミストル、ナベシマ」といふと、給仕が導いて一小室に坐ゑたが、其の室に他の西洋人男女二三人ゐたが、アッと思ふ間にドキンと動き釣り上げられた。途中に止り、戸が明いた処、外人は出て行いた。二度目に止った時「出ろ」といはれ、室を出て廊下を見回した処、公(鍋島直大)の部屋番号が見つかった。是がエレベーターの初体験である。』(「久米博士九十年回顧録」下巻 第八編 第一九二項 桑方斯西哥に着船 早稲田大学出版部)。

California―サンフランシスコ・ベイエリアの魅力

 同年12月14日(西暦1872年1月23日)朝10時から「ランマン」女学校ならびに「リンコールン」小学校その他を見学、この小学校の生徒寮で米公使「デロング」氏が日本の地理を質問すると皆答えて一つも誤ることがありませんでした。

 同日夜8時よりホテルで岩倉使節団一行の米側歓迎会が開催され、食宴後15名の「スピーチ」があり、伊藤博文も拙い英語で日本の封建制度の撤廃(版籍奉還)は「一箇の弾丸を放たず、一滴の血を流さず」行われたとし、岩倉使節団の使命を説明しした後、「我国旗の中央に点ぜる赤き丸形は、最早帝国を封ぜし封蝋の如くに見ゆることなく、将来は事実上その本来の意匠たる、昇る朝日の尊き徽章となり、世界に於ける文明諸国の間に伍して前方に且つ上方に動かんとす」(「伊藤博文伝」上巻 春畝公追頌会)と述べて終了しました。この日章旗の説明が「日の丸演説」と呼ばれて好評だったようです。

また同日全権大使岩倉具視と副使木戸孝允大久保利通伊藤博文、山口尚芳はサンフランシスコのブラッドレー・アンド・ラロフソン写真館で写真を撮りました(HP「米欧回覧の会」―岩倉使節団の写真参照)。この写真が同写真館で撮った写真といわれています[田中彰明治維新と西洋文明」(岩波新書)]。

 この写真を見ると副使は皆洋装だが岩倉大使は髷に羽織・袴で靴を履き和洋折衷の風俗であるところが、いかにも明治のはじめらしい雰囲気をたたえているように感じられます。。

米欧回覧の会―岩倉使節団―米欧回覧実記 

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む4

 サンフランシスコ各地見学後、同年12月22日「ガラントホテル」出発、例の汽船で「オオクランド」の長桟橋の波止場から「カリホーニヤ」太平会社の蒸気車でロッキー山脈越えて大陸を横断し、途中大雪にあい予定変更、1872(明治5)年正月元日を雪混じりの塩湖(ソルトレイク)府で迎えて、一同に新年の「シャンパン」が配られ、米公使「デロング」夫妻らを招いてホテルで新年宴会を開きました。

 『(明治5年)正月十四日「ソートレイキ」ヲ発ス、(中略)「チカゴ」ト云ヘル所ニ著キタル頃、大使モ何時トナク断髪トナリ、衣服モ是レ迄ト違ヒ、洋服とナレリ、』(東大史料編纂所編「保古飛呂比 佐佐木高行日記」五」 

近代日本人の肖像―人名50音順―さー佐佐木高行

同年1月17日哈馬哈(オマハ)に到着、広大なアメリカ開拓を見て、「実記」は「顧ミテ我日本ヲ回想スレハ、至宝ノ人口ハ殆ト米国ニ同シ、其建国ハ之ニ百倍シ、其土地ハ百分ノ三ニ及ハス、然ルニ野ニ遺利アリ、山ニ違宝アリ、上下貧弱ヲ免レサルハ何故ソ、蓋(けだし そもそも)不教ノ民ハ使ヒ難ク、無用ノ民ハ用ヲナサス、(中略)米国ノ紳士ミナ熱心ニ宗教ヲ信シ、盛ンニ小学ヲ興シ、高尚ノ学ヲ後ニシテ、普通ノ教育ヲ務ム、(中略)東洋ハ之ニ反ス、試ミニ上等ノ人ノ学フ所ヲ看ヨ、高尚ノ空理ナラサレハ、浮華ノ文芸ノミ、民生切実ノ業ハ、瑣末ノ陋事(軽視する事柄)トシテ、絶テ心ヲ用ヒス」(第七巻 落機山鉄道ノ記)ト自問自答せざるを得なかったのです。

同年1月21日3時華盛頓(ワシントン)府「カヒトル」の傍らの駅に到着、在留辧務使森有礼らと米国政府接伴掛セネラルマヤル氏も出迎え、馬車で「ウエルモント」街の「アーリントンホテル」に宿を定めました。

近代日本人の肖像―人名50音順―もー森有礼

 5名の女子留学生を託された森有礼は日本辧務使館書記官チャールズ・ランマンに彼女らを預けたので、ランマンはワシントン郊外ジョージタウンの自宅につれていき、やがて1週間ほどで、最年少の津田梅子と吉益亮子2人がランマン宅に残留、他の3人は別人宅に引き移りました(寺沢龍「前掲書」)。

高原千尋の暗中模索―カテゴリー―明治4年の女子留学生(その一~四)(2009-09-14) 

ところがこのころランマン宅の津田梅子らに会いに来た日本人がいました。新島襄です。

近代日本人の肖像―人名50音順―にー新島襄

 森有礼新島襄を岩倉大使に引き会わせるためにワシントンに呼び寄せたのですが、日本で津田梅子の父津田仙と交友のあった新島襄は時々ランマン宅を訪問したのです。新島は岩倉使節団に要請されて文部大丞田中不二麿の秘書通訳となり、欧州まで同行しました(明治五年四月一日付 父新島民治宛「新島先生書簡集」同志社校友会)。

木戸孝允も新島に面会したようで「今日西(新)島始て面会す同人は七八年前学業に志し脱て至此国当時已に大学校を経此度文部の事にも着実に尽力せり可頼の一友なり」(「木戸孝允日記」明治五年二月十四日条 日本史籍協会叢書 東大出版会)とあり、また「(前略)田中不二西(新)島七(五)三太(しめた 新島の呼名)等当地を発す西島は余此地に至り始与彼談話(始めて彼と談話す)彼の厚志篤実当時軽薄浅学之徒漫に開化を唱ふるものと大に異なり余与彼交自如旧知得其益不少(余彼と交わり、自ずから旧知の如く、其の益を得ること少なからず)後来(将来)可頼之人物也」(「同上日記」明治五年二月廿四日条)とも述べて新島襄を賞賛しています。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む5

1872(明治5)年正月25日岩倉使節団はこの日大統領官邸(ホワイトハウス)で米大統領グラントに謁見しました。

外務省―外務省について―組織案内・所在地―外交史料館―外交史料Q&A-―明治期―1870年代―Questionアメリカ南北戦争当時の北軍司令官で、後に第18代大統領となったグラント(ulysess S .Grant)が、大統領引退後に来日した記録を探しています。

このホワイトハウスについて「実記」は「外国ノ行旅ニモ自由ニ遊覧ヲ許シ、警邏ノ設ケナシ、国人常ニ欧洲ノ王宮、諸衙門ニ、兵ヲオキ、人ヲ禁スルヲ誹笑(そしり笑う)シテ、陋習(悪いならわし)ト言做(いいな)ストナリ、」と述べています。

しかし米国の共和政治について「夫レ官ヲ公選ニ挙ケ、(中略)其体面ハ実ニ公平ヲ極メタルニ似タリ、然レトモ上下院ノ選士ミナ、最上才俊ヲ盈(みつ)ルコトハ、到底得ヘカラス、(中略)一旦異議アルトモ、十中ノ八九ハ、必ス原案ニ決ス、(中略)是ミナ共和政治ノ遺憾アル所ナリ、」(第十一巻 華盛頓府ノ記 上)と批判しています。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む6  

 1872(明治5)年2月3日(西暦1872年3月11日)「実記」には「国務省ニ於テ国務掛ノ書記官「フィシュ」氏ニ応接ス、」と簡単に記述されているだけですが、この日条約改正交渉に関する第1回日米会談が開催されました。

幕末に締結された米国はじめその他の諸国との不平等条約の改正協議期限は、明治5年5月26日(1872年7月1日)であった(条約改正関係「日本外交文書」第1巻 明治二年十二月十日付 一七 条約改正ハ条約所定ノ期日ヲ待チ商議ニ及フヘキ旨通知ノ件 巌南堂書店)ので、日本政府の方針によって岩倉使節団は欧米諸国に日本側の要望を伝えるとともに、当面の国内改革に必要とする期間、条約改正の延期を要請しようとしていました。

ところが、この第1回日米会談で国務長官フィッシュは、岩倉使節団が新条約の草案に調印する権限があり、そのためには日本政府の全権委任状を必要とすると発言しました。

このため岩倉使節団は協議して第4回会談後、副使大久保利通伊藤博文を全権委任状交付をうけるため一時帰国させました。「実記」に『二月十二日 朝六時ヨリ大久保副使発程シ、「ニューヨルク」ヲ経テ帰朝セリ、十三日 夜八時ヨリ、伊藤副使発程シテ帰朝アリ、』と記述されているのはそのためです。   しかし外務卿副島種臣らはこうした使節団の外交方針転換に反対、委任状の交付を認めるかわりに、新条約調印の場合に厳しい条件をつけたことと、米国滞在中の使節団との

日米会談では関税自主権領事裁判権などの問題で日米間の主張の隔たりは大きく、同年6月17日「実記」には「朝六時、大久保伊藤ノ両副使寺島(宗則)外務大輔ト、華盛頓府ニ着ス、午後三時ヨリ国務省ニ於テ応接アリ、」(第十七巻 華盛頓府後記)と記されていますが、この第11回日米会談で条約改正に関する対米交渉は打ち切りとなりました(「日本外交文書」第5巻・下村冨士男「明治初年条約改正史の研究」吉川弘文館・石井孝「明治初期の国際関係」吉川弘文館)。

 近代日本人の肖像―人名50音順―そー副島種臣 

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む7

 華盛頓(ワシントン)市街については『其他我一行ノ寓セル、「アルリントン、ホテル」ヲ首トシテ大逆旅(ホテル)処処ニアリ、劇場、遊園、花園ノ如キハ、録スヘキモノ少シ、「ヂヨーチタウン」ノ墓地、殊ニ清麗ヲ極ム、百貨ヲ陳(つら)ネタル商廛(しょうてん 商店)ハ、僅ニ大道二三条ニ過キス、其他ノ諸街ハ過半官人学士ノ私居ニテ、(中略)陋巷ニハ黒人ノ居住セル街アリ、木製ノ屋廬(おくろ)、矮陋(わいろう)不潔ニシテ、修掃(しゅうそう)至ラス、鉛漆(ヘンキ)斑黒ニテ、溝溜(こうりゅう)臭穢(しゅうあい)ヲ醸(かも)シ、経過スルニ鼻ヲオヽフ、』(第十巻 「コロンビヤ」県ノ総説)とアメリカ民主主義の恥部である黒人差別の実態を鋭く観察しています。

もっとも「実記」がつづいて「西洋ノ小民ハ、愚魯(ぐろ)ニシテ、不潔ニ安ンス、牛馬ヲ距ル一等ノミ、黒人ノ居ノミ不潔ナルニアラス、」と述べているところを見ると岩倉使節団は民衆を愚民として見ていますが、必ずしも黒人差別感をもってはいなかったもののようです。  岩倉使節団の眼に奇異に見えたのは欧米の男女交際の風俗でした。「実記」には「最モ奇怪ニ覚ヘタルハ、男女ノ交際ナリ、(中略)少シク婦ノ怒リニアヘハ、俯伏シテ之ヲ詫テ猶聴レス、室外ニ屏(しりぞ)ケラレ、食スルコトヲモ得サルコトアリ、男女舟車ヲ同クスルトキハ、丈夫ハ起テ席ヲ譲リ、婦人ハ辞セスシテ其席ニツク、(中略)是大抵西洋一般ノ風ナレトモ、米英殊ニ甚シ、[瑞土(スイス)共和国ハ其甚タ簡ナリ]と記されています(第十三巻 華盛頓府ノ記下)。

 ドナルド・キーン氏は上記の文章について「いくらなんでも、これは誇張というものであろう。とはいえ、彼の観察には、今日それを読んで、私たちを苦笑いさせるに十分な真実が含まれている。」(ドナルド・キーン著「続百代の過客」上 朝日選書346)と述べています。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む8

1872(明治5)年7月3日岩倉使節団はアメリカ側の盛大な見送りを受けて、波士敦(ボストン)港から英国の「キュナルト」会社の郵船「オリンハス」号に乗り込み、イギリスへ向けて出発しました。  同年7月14日(1872年8月17日)里味陂(リヴァプール)港を経由、蒸気車で夜11時20分倫敦(ロンドン)の「ユーストン」駅に到着、馬車で「ボツキハム(バッキンガム)、パレイス、ホテル」に宿を定めました。

同年7月16日午後1時グランヴィル英外相宅を訪問、皇帝に謁見をもとめましたが、当時皇帝はスコットランド離宮に遊幸中であったので、帰還を待つことにしました。

 同年7月23日駐日英公使「パークス」らの接伴(客をもてなす)で「ヴィクトリヤ」駅より「フランクホルト」に赴きました。このとき伏見宮親王(当時イギリス留学中の東伏見宮嘉彰親王及びドイツ留学中で当時渡英していた伏見宮能久親王)も同行、「フランクホルト」で宿泊となりました。

英国政について「実記」は『英国ノ立君政治ハ米国ノ共和政治ト異ナリテ、立法行政ノ両権ヲ平衡セル妙ハ、一等宰相カ公党ヨリ推サレ、皇帝ノ特旨ニテ其輔翼(補佐)ノ任ヲ命シ、(中略)衆議ヲ協スル弁証ニ従事スルニアリ、○上院ノ貴族カ、世襲ニ国会ニ参与スルハ、其祖宗ノ受シ証書ヲ以テ、権利ヲ永永ニ保有スルコトナリ、下院ノ議員ハ、国ノ州郡ニテ(中略)公選ニ挙ケタル名代人ニテナレリ、(中略)議長ニ向ヒテ、一人ツヽ意見ヲ陳明ス、其緊要ノ所ニ至レハ、「ヒヤヒヤ」ト声ヲ掛ル、中ニハ欠伸(あくび)ノ声モキヽ、冷笑シ居ルモアリ、』(第二十四巻 倫敦府ノ記中)と記述しています。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む9

倫敦の市街について「実記」は「○又河岸ヲ回(めぐ)リテ、地底ニモ銕(鉄)道ヲシク、(中略)銕路ノ過ル街上ノ屋ニ坐臥スレハ、終日殷殷(いんいん 音のとどろく様子)トシテ雷声ノ地下ニ震(ふる)フヲキク、」(第二十二巻 倫敦府総説)とすでに当時の倫敦に敷設されていた地下鉄について述べています。

つづいて『西部ヲ「ウエストミニストル」ト云、(中略)達迷斯(テームス)河「ウエストミニストル」橋首ニ議政堂アリ(後ニ記ス)、「ウエストミニストルアベイ」ハ其側ニアリ、英王ノ菩提寺ニテ、代代国王ノ霊屋アリ、亦壮麗ヲ窮メタリ、国王即位加冠ノ大礼、王族ノ冠婚ハ、ミナ此ニテ式ヲ取行フ、○「ウエストミニストル」橋ヨリ東ニ向ヒ、直街一路アリ、其衝当ニ「ボツキンハムパレイス」の王宮アリ、王宮ノ前ニハ「セントヂェームス」苑アリ、中央ニ池ヲ回(めぐら)シ、林丘を設ケ、頗ル美ヲ尽セリ、

○王宮ノ背後ニハ「バイドパーク」ト云公苑ヲ修メ、府中最美ノ游楽園ナリ、(中略)○倫敦ノ最繁華ナル所ニ於テハ、地価ノ貴(たか)キコト異常ナリ、(中略)故ニ府中ノ市屋ハ、地ヲ占ル甚タ倹ニ、下ニハ窖(あなぐら)ヲ掘入ルル、一丈以下ノ処ニ及ヒ、上ニハ層楼ヲ起シ、八九層ニ及フ、最上七八九層ニハ小民住ス、猶我東京ノ路次ノ如シ、中間ニ僑居スルモノハ、較(やや)之ヨリ上等ノ民ニテ、職工、或ハ半工半商、或ハ商家ノ社員ナリ、下層ハ市廛(してん)ヲ開キ、百貨ヲ売ル、是西洋都府ノ常ニテ、倫敦ノ如キハ、其最等ニオルモノナリ、』(第二十二巻 倫敦府総説)と述べています。

また「売淫ノ婦人ハ、倫敦中ニ十万人ニスク、少シク人行少キ街ニ至レハ、偸児(とうじ 盗人)徘徊シ、前ヨリ帽ヲ圧シ、背ヨリ懐ヲ探リテ逃レサル、(中略)国中ノ民貧富ノ均シカラサル如此シ、」(第二十一巻 英吉利国総説)と指摘しているのです。

「実記」には「当今欧羅巴各国、ミナ文明ヲ輝カシ、富強ヲ極メ、貿易盛ニ、工芸秀テ、人民快楽ノ生理ニ、悦楽ヲ極ム、其情況ヲ目撃スレハ、(中略)此洲ノ固有ノ如クニ思ハルレトモ、其実ハ然ラス、欧洲今日ノ富庶(国が富み、人口が多い)ヲミルハ、一千八百年以後ノコトニテ、著シク此景象ヲ生セシハ、僅ニ四十年ニスキサルナリ、」(第二十三巻 倫敦府ノ記上)と述べられ、岩倉使節団はわが国もその努力如何で欧州諸国の繁栄に短時日で追いつくことが可能であるとの見通しをもっていたようです。従って彼らの眼も欧州各国繁栄の原点をさぐろうと必死だったのです。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む10

 同年8月27日使節一行岩倉大使以下9人(「日本外交文書」第5巻)は英国政府の案内で午後4時ホテルを出発、「「ユーストン」駅より蒸気車で里味陂(リヴァプール)に赴きました。夜10時半に里味陂府の「ノースヴェストロン」駅に到着、駅口の「ノース、ウエストロン、ホテル」に宿を定めました。里味陂では「曾テ美爾索(ミルシール)河ノ南岸ヨリ、府中ヲ遠望セシニ、石炭ノ烟、濛濛トシテ地上ヨリ二三百尺ノ上マテ掩(おお)ヒ、晴空常ニ闇(くら)シ、」(第二十六巻 里味陂府ノ記上)と「実記」は述べています。

同年8月30日使節一行はこの地の造船所を見学し、「実記」はここで見た「クレイン」(鶴頸秤と訳)について、次のように記述しています。「鶴頸秤ノ起重器ハ、(中略)西洋ニテ凡港頭、船舶、工場、鉱口等、総テ重荷ヲ積卸(つみおろ)シスル場所ニハ、此器械ヲ設ケサルナシ、我日本ハ従来貿易ノ開ケサルヲ以テ、(中略)殊ニ港頭ニ起重器ノ設ナキハ、甚タ商業上ノ価位ニ響キ大ニ利益ヲ損スルヲ覚フ、西洋ノ人ハ、肩ニテ重キヲ運スルコトナキノミナラス、抑(そもそも)馬背にて重キヲ運スルコトモナシ、必ス車輪ノ力ヲ借ル、故ニ一綑ノ荷モ、往往重サ一噸ニ及フヲ常トス、以テ日本ニ運シ来レハ、(中略)竟(つい)ニハ力屈シ欧客ノ智ヲ仰ク、」(第二十七巻 里味陂府ノ記下)。   同年9月19日朝10時に壱丁堡(エテンボルク)府の旅館を出発、南方新城(ニューカッスル)に向かい、11時半に「ガラシールス」邑駅到着、羅紗(らしゃ)製造場に赴きました。  羅紗を織る毛を英語で「ウール」と云い、羅紗を織るには棉羊の尤も繊輭(せんなん 細く柔らかい)な部分を用い、多くは豪斯多辣利(オヽスタラリヤ)洲より輸入するものです。「実記」はこれに関連して次のように記述しています「英国ノ富ハ、石炭と銕トヲ以テ、器械ヲ運シ、棉毛麻ヲ紡織スルヲ眼目トセリ、其羊毛ハ遠ク豪洲ヨリ輸入シ、其棉花ハ亜米利加諸国ヨリ輸入シ、其麻ハ印度ヨリ輸入シ、亜麻ハ露国ヨリ輸入ス、(中略)是東洋南洋ノ民ハ、天然ノ化力(自然の万物を成長させる作用 この場合農牧業生産物を指す)ヲ以テ、西洋ヨリ営業力(工業生産物)を買入ルナリ、」(第三十三巻 新城府ノ記上)。

新城府より「ブラトホールト」府を経て、9月23日「ソルテヤ」邑に至りました。この地は毛織物製造業者サー・タイタス・ソルトが1851年から20年の歳月をかけて建設したアルパカ(羊の一種)毛織物製造の工場村です。

 邑に小学校を建設して村民の子弟男女は半日工場で操業、半日は登校して授業を受けることになっています。「実記」は「英国人ハ、職工(労働者)ヲ保護シ、貧民救護ニ力ヲ 尽スヲ、栄誉ノ一トナス、○校ノ前ニ養老院アリ、(中略)又病院アリ、(中略)建立ノ寺(教会)アリ、(中略)前後ノ製造場ニテ、如此ク備ハリタルモノナシ、(中略)此ヲ職工市街ノ仕組トス、勧工ノ道ニ於テ、深ク意味アルコトナリ、」(第三十五巻 「ブラットホールト」府ノ記)と述べています。

えりのお買い物日記―イギリス世界遺産―2009/6/23-6/19 Saltaire

 『十月朔日舌非力(ゼツフィールド)発車の時(中略)落涙した女が数人あった。「僅か二三日の知合と別れたのに落涙とは友情深い」と皆々感動したが、アストン通訳は一同を顧み「此の人達は本国にには嫁さん達が待っているのに(中略)欧大陸を回遊して悪しき気候に寒暑を凌ぎ、其の中に健康で家に帰り着き、夫婦の面和を遂げるは幾人あるかと思うて見ると図らず涙が溢れたよ」と彼等は云ったと其の心持を話したそうである。岩倉公以下一同之を聞き、「先に落涙を感心したが、扨はさうした涙であったか」と打笑うた。是も英国女の真相を発露した小話である。』(「久米博士九十年回顧録」下巻)