城山三郎「雄気堂々」を読む1~10

城山三郎「雄気堂々」を読む1

 城山三郎「雄気堂々」(新潮文庫)は最初「寒灯」の題で「毎日新聞」1971(昭和46)年1月1日から同年12月23日まで連載され、単行本として出版されたとき、上記のように改題されたもので、明治財界の草分けであった渋沢栄一の生涯を辿った長編小説です。

 この小説のはじめは「序曲 流産祝い」という渋沢栄一にまつわる挿話からはじまります。明治の元勲の中で井上馨ひとりがまだ総理になっていませんでした。伊藤博文らはぜひ井上内閣を発足させようとしたが、井上は「渋沢が大蔵大臣にならなければ、引き受けぬ」といいました。だが当時第一銀行頭取だった渋沢は「私は実業家で通す決心です」と、この話を断りつづけました。渋沢の拒絶によってついに井上内閣は日の目を見ることはありませんでした[1901(明治34)年5.23 井上馨侯伝記編纂会編「世外井上侯伝」(原書房)]。しかし井上は渋沢をうらみはしませんでした。「もし失敗して退くようだと末路に傷がつく。きみが引き受けてくれなかったおかげで、その心配がなくなった」と井上は言って、わざわざ渋沢を呼び、内閣流産祝の宴をはったそうです。

 伊藤・山県など下級武士上がりの明治の元勲たちが、もっともらしい系図づくりに精を出したのに対し、渋沢は「武州血洗島(ちあらいじま)の一農夫」で押し通したそうです。血洗島は江戸から二十里、中仙道深谷宿からさらに北へ二里ほど入ったところにあります。

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城山三郎「雄気堂々」を読む2

 渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島村(2万石余の大名安部摂津守の所領)で父渋沢市郎右衛門(養子)と母栄(エイ 家付娘)との間に生まれました(「渋沢栄一伝記資料」第1巻 渋沢栄一伝記資料刊行会)。血洗島に渋沢を名乗る家は十数軒あり、栄一の家はその宗家(中の家)で、もともと農耕・養蚕と藍玉製造・販売を兼業、父の代には荒物商・金融業も営業していました。、

 市郎右衛門は栄一が7歳になると、隣村手計(てばか)村の尾高惇忠(新五郎 藍香と号す)に入門させ、主として儒学を学ばせました。師匠は栄一に自主的な読書を奨励、剣法も12歳から神道無念流の研鑚にはげんだようです。

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 14歳(1853 嘉永6年 ペリー来航)から父の命により農耕・養蚕の他、自家で作った藍葉(葉茎から染料をとる)と他家から仕入れたものを藍玉(藍葉を発酵させたものを固めた染料)に製造、上州、秩父あたりから信州辺の紺屋(元来藍染業者、のち染物を職業とするものの総称)へ売る掛け売りに従事するようになりました。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む3

 栄一が17歳(1856  安政3年)のとき、領主安部摂津守から血洗島村に約1500両の御用金を課す命令が下り、市郎右衛門も500両を負担しなければならなくなりました。

城郭図鑑―埼玉県―深谷市―岡部陣屋 

 このとき市郎右衛門は差し支えにより、栄一が父の名代として、御用金を申しつけられた他の2人とともに岡部にあった安部摂津守の陣屋へ出頭しました。同行の2人は一家の当主で、ただちに御用金献上を承諾しましたが、栄一は御用金額を承り、父にその由を伝えた上で、あらためて、お受けに罷り出ますと答え、その場で御用金献上承諾を迫る代官に反抗、叱責を受けました。結局翌日御用金を持参して事は収まったのですが、このとき栄一には封建的身分制度への疑問と反抗の思想が芽生えていたといえるでしょう(渋沢栄一述「雨夜譚」渋沢栄一 日本図書センター)。

 栄一の師尾高惇忠の弟長七郎は栄一より年長で剣道に秀で、江戸に出ていましたが、ときどき友人を伴って帰郷、江戸の情勢を伝え、尾高惇忠も時事を論ずることを好んだので、栄一がその影響をうけたのは当然でしょう。

 栄一が19歳の年(1858 安政5年)には尾高惇忠の妹千代と結婚しましたが、安政の大獄による勤皇の志士の弾圧がはじまり、翌々年の1860(万延1)年には桜田門外の変で井伊大老が暗殺されるに至りました。

 栄一が23歳の年(1862 文久2年)正月15日老中安藤対馬守信正が水戸浪士によって襲撃される坂下門外の変が起こり、この事件の犯人として尾高長七郎もその嫌疑をかけられた一人でした。長七郎は事件当時、郷里にいましたが、自分に嫌疑がかけられていることを知らず、江戸へ向けて出立していました。その後長七郎に追手が迫っていることを知った栄一は寒風の夜、長七郎に危機を知らせるため自宅を出て、熊谷宿で長七郎に追いつき、信州路を経て京都に避難するよう説得することに成功したのでした(「渋沢栄一伝記資料」第1巻)。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む4

 1863(文久3)年春から夏にかけて、栄一は尾高惇忠・渋沢喜作(栄一の従兄)とともに攘夷計画すなわち高崎城を乗っ取り、槍刀などの兵備を整え、鎌倉街道を経て横浜に至り、焼き討ちを敢行して外国人を切り殺す作戦を立案、その費用を藍商売勘定から父に内緒で支払い、約70名の同志を得て、決起する日を同年11月23日と決定しました。

 同年9月13日観月の宴で栄一は父に当時の政治情勢を説き、父に迷惑がかかるのをおそれて、勘当を願いでました。父は栄一の具体的行動計画を知りませんでしたが、危険な行動をやめるよう説得し、栄一の同意を得られないまま黙認せざるを得なかったようです。

 翌日江戸へでた栄一は喜作とともに、幕吏の眼を逃れるため、面識があった一橋家に仕える川村恵十郎の紹介で、10月24日一橋家用人平岡円四郎を訪ねました。平岡は栄一が気に入ったようでしたが、栄一は一橋家お出入りを許されるなら幸いですと言い、平岡も当面は自分の家来ということにするがよいといったようです。

ニコニコ大百科―検索―平岡円四郎

 栄一から連絡を受けた尾高長七郎は同年10月25~26日ころ京都から帰り、10月29日夜尾高惇忠・長七郎・渋沢栄一・喜作らの幹部会議が開かれました。このとき長七郎は同年8月18日の政変により尊王攘夷を藩論とする長州藩は京都を追われ、薩摩・会津両藩のような親幕勢力が政治の主導権を回復したことを述べ、横浜焼き討ち中止を主張、結局攘夷計画は中止されたのです(「渋沢栄一伝記資料」第1巻)。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む5

 横浜焼き討ち計画中止後、栄一と喜作は故郷を離れ、一旦江戸へ出、かねて面識がある一橋家用人平岡円四郎宅を訪ね、留守であったので夫人に平岡円四郎家来の名目で京都へ赴くについての了解を依頼したのでした。栄一が京都へ旅立つとき、父市郎右衛門は百両の大金を与えました。

 栄一らは1863(文久3)年11月25日京都に到着、さっそく平岡円四郎を訪問しています。しかるに翌年2月初旬尾高長七郎が獄中から送った手紙が栄一の許に届きました。

 その手紙の内容は長七郎が江戸から郷里へ帰る途中、飛脚を殺害したため、捕縛投獄されのですが、このとき栄一と喜作が長七郎宛てに送った、幕府は外交問題でやがて倒壊するに違いないから、長七郎も京都へ来た方がよいという手紙を、長七郎は持ったまま逮捕されたことが記されていました。

 翌朝平岡円四郎が栄一らを呼び出し、幕府から栄一らについて照会が来ていること、栄一らを悪くは扱わぬので、隠さず事情を話せと平岡に言われ、栄一は手紙の件を打ち明けました。平岡は栄一らに節をまげて一橋家に仕えるつもりなら仕官に尽力しようといわれ、2人は宿に帰って相談、平岡の好意を受け入れることに同意、翌朝再び平岡を訪ねて、仕官に先立ち一橋慶喜に拝謁させてほしいと願い出ました。

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 しかし平岡は未知の者に拝謁を許すことはできぬ、両三日中に松ヶ崎へ御乗切(騎馬行)があるから、騎馬とともに駆けよと言ったので、背が低く肥満していた栄一は、御乗切の当日慶喜の馬が見えると下賀茂から山鼻まで十町余を必死に駆けて慶喜のお供をしたということです。その後一両日後に拝謁が許可され、栄一らは一橋家家臣となりました。役名は奥口番(奥の出入り口の番人)で御用談所(諸藩の留守居役所に相当)下役として御用談所の脇の一室に同居することとなりました。両人の俸禄は四石二人扶持に京都滞在中の月手当が金四両一分でした(「渋沢栄一伝記資料」第1巻)。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む6

 1864(元治1)年5月から6月にかけて、栄一らは平岡から、広く天下の志士を招集する人選御用の件を命ぜられ、両人は江戸へ赴き、一橋家領地村々を巡回、領地内で3~40人、江戸で剣術家8~9人、漢学者2人をを連れて、中山道経由で京都へ帰ろうとしましたが、中山道の岡部を通過する際、久しぶりに故郷の父妻子や尾高惇忠らの知人にも会いたいと思ったのです。しかし岡部陣屋は栄一らを謀反人と見ていましたから他所で父ならびに妻子に面会、尾高惇忠は天狗党に勧誘されたことで入牢中であり、面会はかなわなかったようです(「渋沢栄一伝記資料」第1巻)。

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 しかし岡部陣屋は一橋家家臣として約50名の武士を従え、通過する栄一らに手出しをすることができず、ただ傍観するだけでした。

 ところが同年6月16日夜、京都において、開国論者とみなされていた平岡円四郎は川村恵十郎とともに、一橋家家老(名誉職的存在)渡辺甲斐守を、その旅宿に訪ねての帰途、水戸藩士に要撃され、右の肩先から左の肋骨まで切り下げられ、即死しました。京都では平岡死後、黒川嘉兵衛(「日本遠征記」を読む13・17参照)が主席用人となって一橋家の政務を執行しました(渋沢栄一徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社)。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む7

 1865(慶応1)年2月御目見以上となり御用談所下役から出役に昇進、俸禄も十七石五人扶持、月俸十三両二分に加増されました。

 慶喜が京都守衛総督の職にありながら、一橋家には主君を護衛する約百人の親兵と銃砲隊があるだけであったので、栄一は申し出て歩兵取立御用掛となり、一橋家領地から困難を排除して約450名の兵力を集めることに成功、また御勘定組頭として一橋家領年貢米を灘・西宮付近の酒造業者に高値で売って収入を増加させるなど業績をあげて、黒川嘉兵衛ら一橋家重役の信任を高めました。

 ところが1866(慶応2)年7月20日将軍家茂は大坂城で死去、同年8月20日幕府は家茂の喪を発して慶喜の宗家相続を公表しました。同年12月5日慶喜征夷大将軍に任命され、江戸幕府15代将軍に就任したのです。

 栄一は幕臣となりましたが、幕府の将来に希望がもてず、幕臣の身分を捨てようとしていた同年11月末、一橋家主席用人より幕臣となった原市之進に呼び出され、「来年フランスで万国博覧会が開催されるにあたり、我が国も大君(将軍)の親戚を派遣されるがよいとフランス公使が進言したので、評議の上、水戸の民部公子(民部大輔 徳川昭武 慶喜の異母弟)を派遣されることに決定した。博覧会の礼式終了後、民部公子はフランスに留学させよとの上(慶喜)の思し召しで、付き添いは水戸藩の七人だが、相変わらず外国人を夷狄(いてき)と思っている連中で、また彼らでは会計のこともできぬから、上の御内意で篤太夫(栄一)が適任との御沙汰である。拙者も十分に御内意を伝えますとお受けした。速やかに御内意を受けられよ」とのことでした(「渋沢栄一伝記資料」第1巻)。

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城山三郎「雄気堂々」を読む8

 栄一は旅装として黒羽二重(はぶたえ)の小袖、同色の羽織、緞子(どんす)の義経袴、靴1足、古着の燕尾服1着を整え、1867(慶応3)年正月11日朝7時フランス郵船アルヘー号で横浜を出港しました(「航西日記」渋沢栄一滞仏日記 日本史籍協会叢書 東大出版会)。徳川昭武随行者は御勘定奉行外国奉行向山隼人正、御作事奉行格御小姓頭取山高石見守はじめ25人で渋沢栄一は庶務・会計を担当する御勘定役・陸軍附調役として参加したのでした。

 同年正月15日上海上陸、同月20日香港着、ここでアルヘー号に倍するフランス郵船アンペラトリス号に乗り換え、サイゴンシンガポールを経て、翌年2月7日セイロン島着、2月21日スエズに到着しました。当時スエズ運河は開通していなかったので、陸路汽車でカイロ経由アレキサンドリアに至りました。

 「私が汽車に始めて乗ったのは、慶応三年渡仏の途中スエズから出てアレキサンドリアで地中海の船に乗換えるまでであった。(中略)一緒にいった人達も皆硝子(ガラス)というものを知らぬので、(中略)何もないと思ひ、一行の或者が窓の外へ捨る積りで蜜柑(みかん)の皮を何度も投げた。すると隣席にいた西洋人が憤って何か言い出したが言葉が通じないから、(中略)腕力沙汰になった。(中略)皆でよくよく両方の話を聞くと、(中略)結局硝子のあることを日本人が知らなかったのから起った事と判って、双方とも笑って事済(ことずみ)になった」(「雨夜譚会談話筆記」上 渋沢栄一伝記資料 第1巻)

 1868(明治1)年2月29日(西暦4月3日)朝9時半フランスのマルセイユ港に到着、グランド・ホテル・ド・マルセイユに宿泊、滞在中民部公子の世話人フロリヘラルト(フリューリー・エラール 銀行家)の案内でフランス皇帝離宮見学や市街見物、観劇など多忙な日々を過ごしました。1週間後、リヨンを経て、同年4月11日パリーに到着したのでした(「航西日記」)。

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城山三郎「雄気堂々」を読む9

 同年3月24日(西暦4月28日)民部公子はナポレオン3世に謁見、将軍の公書奉呈が行われ、公の礼式は終了しました。栄一はこの礼式には出席しませんでしたが、万国博覧会見学がおおいに彼の知見を広めるのに役立ち、蒸気機関・耕作・紡績機械・各国貨幣・医師道具・測量器・絹布織物などに深い興味を覚えました。5月29日(西暦7月1日)には博覧会の褒賞授与式があり、これをもって民部公子の使節としての任務は終了しました。

 この間フロリヘラルトは既述のように銀行家でしたから、銀行をはじめとして、鉄道・株式取引所・株式・公債などフランス資本主義の仕組みについて栄一に説明、有価証券売買の実際を見学するために株式取引所に赴いて渋沢に教えたのです(土屋喬雄渋沢栄一吉川弘文館)。

 同年8月6日(西暦9月3日)から民部公子のヨーロッパ各国巡回がはじまりました。スイスからオランダ・ベルギーを巡回、同月末イタリア、11月末イギリスを訪問してパリーに帰着、民部公子はフランス語学習を中心とする研修に明け暮れる毎日がつづきました(「渋沢栄一滞仏日記」日本史籍協会叢書 東大出版会)。

海神歴史文学館―渋沢栄一―渋沢栄一とその時代―第1部 欧州巡歴

 

城山三郎「雄気堂々」を読む10

 1868(明治1)年正月には日本からの報知で、前年10月14日大政奉還が行われたことや、3~4月になると、当年正月初めの鳥羽伏見の戦い・将軍の大坂城立ち退き・謹慎・水戸退隠などの報道がパリーにも届きました(「雨夜譚」巻之三 渋沢栄一 日本図書センター)。

 やがて明治新政府外国掛伊達宗城・東久世通禧から民部公子宛て帰国命令の文書が発せられました。栄一はそれでもなお民部公子留学継続をはかったのですが、まもなく水戸藩主(慶篤)死去により、民部公子は後継者と決定、同年9月迎えのものがフランスに到着しました。

 かくして民部公子一行は帰国の途についたのですが、香港到着時に会津落城や幕府海軍が榎本武揚の指揮により箱館に籠城したことを聞きました。

 1868(明治1)年12月3日(11月3日の誤り「渋沢栄一日記」渋沢栄一伝記資料第2巻)民部公子一行は横浜に到着、民部公子は水戸から出迎えた人々とともに東京に赴きました。栄一は杉浦愛蔵(先に帰国した旧幕府外国掛)に出迎えられ、横浜に一泊しました。箱館の様子を聞くと従兄の喜作も同地へ赴いたとのことでした。

 同月6~7日ころ東京に出て尾高長七郎はその年夏出獄しましたが、死去したことや長七郎弟の平九郎は栄一のフランス渡航の際渋沢家の見立養子になっていたのですが、戊辰戦争反政府軍に参加、飯能宿付近の黒山で戦死していました。栄一はそれから帰郷して両親・妻子・知友に面会しました。

深谷市HP―観光・歴史・特産―歴史―人物―渋沢栄―渋沢栄一ミュージアムー渋沢栄一物語―13 戦火に散った渋沢平九郎

 民部公子は帰国の途中も、帰国後も小石川の屋敷で栄一に水戸に来てほしいとの内意を表明していましたが、栄一は公子の申し出を辞退、旧主慶喜の恩顧に応えるべく駿府(静岡)へ赴いたのです(「雨夜譚」巻之三 渋沢栄一 日本図書センター)。