幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-1~10
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ- 1
ペルーに失敗し、福島の農場、天沼の鉱山等四方の計画ことごとく成らず一敗地に塗(まみ)れた高橋を、事情を知っていた西郷従道、品川弥二郎、松方正義らの諸先輩並びに友人前田正名らは誠に気の毒であるとし、1892(明治25年)4月のある日、前田が来て、「日本銀行総裁川田小一朗(吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」講談社学術文庫)さんが君に会いたいといっているから、訪ねて行ったらよかろう」と知らせてくれました。
それで、高橋はある朝早く牛込新小川町の川田邸を訪問しました。初対面でしたが、川田は「君のことは前田君や品川、松方さんからかねて聞いていた。それで一度君に会ってペルーの話でも聞きたい思って、おいでを願ったわけであるが、よく来てくれた」とといわれるから、高橋はペルー問題の詳細を説明しました。すると川田は「君がスッカリ後始末をして悶着の種を残さぬようにして来たことは実によかった」と云いました。
川田が「これから君はどうするつもりだ」と訊くので、高橋が「再び官吏になる積りはなく、田舎にひっこもうと考えています」と答えると川田は「それはよくない。君が実業界に入るというのなら、およばずながら私が紹介者となってもよい。とにかく君の身体は私に任せたらよかろう」といってくれました。
高橋は「悦んで一身をお任せします。ただし実業界は未経験なので、どうぞ丁稚小僧から仕上げて下さい」と申し出ました。すると川田は「いや決心の程はよく分かった。まあこれから時々話しにおいでなさい」といって、その日は別れました。
やがて山陽鉄道社長中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)が三井に入ることになり、川田に後任の推薦を頼まれたので、高橋にその後任を引き受けてはどうかとの打診がありましたが、高橋は未経験を理由に辞退しました。
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川田は高橋を日本銀行に入れようと思っていましたが、ペルー問題についての世間の誤解が解けない状態で、信用を重視する日銀に高橋を採用するわけにはいかなかったのです。
同年5月中ごろ高橋はまた川田に呼ばれ「目下日銀の新築をやっているが、その建築所の総監は安田善次郎で、その下に辰野金吾(幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-22参照)が技術部の監督としている。その下に事務部があり、君はその支配人として働く気はないか。ただ辰野はかつて君のお教えた弟子ということだが、君はその下で働くことになるわけである。それでも差し支えないか」と言われました。
近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー辰野金吾―なー中上川彦次郎―やー安田善次郎
[[少しもかまいません。喜んで働きます」と答え、同年6月1日日本銀行から「建築所事務主任を命ず、年俸千二百円を給す」という辞令が下りました。
そのうちに高橋は建築所の仕事に弊害のあることを発見しました。第一は物品の購入問題です。
建築材料の購入契約はすべて技術部でとり結び、その手続きのみを事務部でやることになっていました。そうして購入物件は直ちに技術部に引き渡し、事務部の帳面では、単に「技術部渡在庫品」という名の下に一括整理されます。しかし在庫品を容れた倉庫は技術部で管理することになっているので、事務部の方では、建築材料がどのくらいずつ使われてどのくらい残存しているか一切判りません。
ところがある日、技術部から,工事上俄かに鉄の棒が入用になったから至急注文してくれと言ってきたので、早速注文すると、製造人の方では「技術部で言われるようにそんなに早くは出来ません」とのこと、高橋は板挟みになって困りました。
そこで辰野と在庫品の姓理について話した末、その承諾を得て倉庫の中に入ってみると、入用だったはずの鉄棒が倉庫の隅にうんと積み上がっているではありませんか。倉庫の整理が行き届いていないから、こんなことになるのです。
早速在庫品を一々調べて台帳に記入し、以後は在庫品の出入のたびごとに金銭の出納と同じように記帳し、いつでもその残高をハッキリしておくように取り決めました。
第2の点は建築材料の中で、外国から輸入するものはすべて大倉組に取り扱わせておりましたが、当時の日本はまだ銀貨国(金本位制未確立)でありましたから、輸入品の値段は、つねに為替相場の影響を蒙ることが多大であったことです。
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しかるにこれまでの大倉組からの請求書並びにこれに対する支払いと、その日の為替相場とを対照してみると、請求書の日付はいつもその月の銀相場の最低の日になって現れて来ます。それで高橋は不審に思い、大倉組は果してこの通り換算して支払っているのかどうか、その事実を確かめねばならぬと思い、大倉組の主任を呼んで聞いてみると、「建築材料はすべてイギリスに注文しているが、出荷人は荷物を船積みすると共に香上銀行(香港上海銀行)を通して荷為替を取り組む。それが香上銀行の日本支店に着くと大倉組に向って請求書が来る、大倉組はそれに対して支払うと同時に、その日の相場にて日本銀行に請求書を出している」ということでありました。
「それなら今後代金請求の場合は大倉組から、いつ荷為替に対する支払いをしたか、香上銀行の証明書を毎請求書に添付するようにして貰いたい」と云い渡し、以後は再び奸策の行われぬように方法をたてました。
高橋が建築所に入ったころ、日本銀行の新築工事はすでに地固めを終えて第一階の石積み工事にかかっていました。ところが工事の予定表と実地とを比較してみると、工事の捗りが予定よりも一年数か月も遅れています。それでこれはどういうわけかと辰野に尋ねたら、「今日までのところでは予定よりも遅れているが、それは二階以上の工事でとり返すことにしている。始めの設計では建物の全部が石造の計画であったが、どうも岐阜の地震の経験から日本では上になるほど重量の軽いものを使わねば危険である。それで二階では石の代わりに普通の煉瓦を使い、三階にはそれより一層軽くするために穴明き煉瓦を使うことに決まったから、全部石造よりも遙かに早く出来上がるわけだ」とのことでありました。
その後数日を経て高橋は建築所の報告かたがた川田総裁を訪問、川田はそのころ病気がちで出勤することおも稀でした。その日川田が「聞けば工事が遅れているというじあないか、どうなっているか」と問われるので、辰野博士に尋ねたことを答えると、川田はやや驚きかつ気色ばんで「誰がそんなことを許したか、今度の新築については株主総会で全部石造にすると云って承認を得ているのだ。それを勝手に変更するとは何事だ」と大変な権幕です。
そこでまず辰野にこのことをただすと、彼も顔色を変えて「自分は安田監督に話したから、監督から総裁に話しをして承認を得てることと思っていた」というので、早速監督の出席を求めて3人で相談してみると、安田監督は「無論辰野君が総裁の同意を得て後、自分に話しがあったとのみ思い込んでいた」といいます。
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それでこの善後策について種々相談の結果、とにかく最初の設計通り全部石造にするほかあるまい、そうなれば竣工の期限や費用の点はどうなるかと辰野に聞くと、「全部石造にすれば予定より1年余り遅くなる。経費の方も少なくとも27~8万円は不足する」ということでありました。
そこで速やかにこのことを総裁に話して了解を得ねばならぬが、やがて安田監督は「自分がこのことについて直接総裁に話すのは最後已むを得ざる時にせねばならぬ」と言って高橋に「ご苦労だが、君が吾々両人に代って行って散々小言を聞かされた上、どうにか承認を得るように骨折って貰いたい」ということでありました。
安田監督の依頼で高橋は川田総裁説得の役目を引き受けました。まず現場に行って穴明き煉瓦の用途を辰野に尋ねると、「この煉瓦の穴の中にドロを詰めると、煉瓦よりドロの方がずっと軽いくて丈夫である」ということでありました。
翌日高橋は川田総裁を訪ねて、3人で相談したことを述べると、川田は「設計を変更してもこれだけの設備をすればいかなる強い地震のも耐えられる学理上の根拠があってしたことであるかどうか、それを聞いてくれ。それから最初の設計通りにすれば、1年余りも遅れ、費用も27~8万円増加するとは何事だ。そんなことでは自分は株主に対して申し訳がたたぬ。もう俺は一切かまわないから、皆で勝手にするがよい」と非常に不機嫌です。
「お叱りは御尤もですが、我々も総裁の満足されぬ建物を勝手に造ったとあっては申し訳がありません。何とか工夫してみます。どうかしばらく我々にお任せ願います」と云うと総裁もようやく機嫌が直りました。
高橋は総裁邸を辞して建築所へもどる途中色々考えました。今やっている第一階の分厚い大きな石を二階、三階まで積み上げるのは容易なこではない。外見さえ石造りであればよいではないか、それには心を煉瓦にして、外側だけを薄い石で貼り付けたらどうだろう。
高橋は建築所へ帰って、待ち受けていた辰野に総裁との話しを報告かつ自分が帰途考えたことを述べると、辰野はしばらく考えていましたが「それは別にむつかしいことではない、それで総裁が承知してくれるなら、予定の日限までに竣工させることが出来る」「費用の点はどうなる」「まず6~7万円の不足で済むだろう」という話でありました。
それから高橋はなお辰野に向って「今日まで工事がかように遅れたことを調べてみると、工事は大倉組が請負い、大倉組はまた4人の親方に下請けをさせている。ところがこの親方が使っている石工はすべて関西から連れて来た者ばかりで、たびたび賃金の値上げを迫り,いうことを聞かねば仕事をしない。直接建築所と4人の親方との間に別々に契約を結び、四角な建物であるから、4人の親方に一方面ずつ請負わすことにすればよい。
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それから石材は深川の服部というものが伊豆の山から切り出して納入しているが、これが建築所の現場と連絡がないため、時々急用のものが遅れて届き、1箇月も先でなくては要らぬものが先に来るというような始末で、その間技手や石工、人夫たちが空しく手を明けて待たねばならぬことがしばしばある。
ゆえに今後は事務所から山元に適当な人を派遣して監督せしめるとともに、技術部からは今度はどんな形のものが必要か、その種類や順序を明らかにして注文すれば、山元ではその通り切り出して送り出すこととなる。そうしてその間の連絡は事務部の出張員が当たればよい。
ついては請負契約、石材納入契約等、技術部の持っている仕事上の権限は一切事務部の方に移して貰いたい」と申し出たところ、辰野は暫く考えていましたが、ついに承知しました。
そこで翌日川田総裁邸を訪ねて、安田・辰野両監督と話しあった内容を詳細に述べると、総裁は「煉瓦に石を貼りつけるとは妙なところに気づいた。それはよい考えだ。しかい石の厚さはどれくらいか。そうしてうまく貼りつけられるだろうか」と聞かれたので、高橋は竜野から聞いた話を述べて「どうかこれで承認願います。それからもう一つのお願いは、この際私に1万円だけ自由に使わして頂きたいのですが」と申しました。
すると総裁は不審そうな顔をして「それや一体何に使うのだ」と尋ねられたので、高橋はこれまでの大倉組と親方の下請けの経緯を述べ「大倉組との契約を解き、事務所が直接親方と契約を結び、4人の親方に四角い建物の一角ずつを請け負わせて、期日に遅れたものからは1日500円の罰金を取り、期日前に仕上げたものには1日500円の賞与金を出すことに致したい。そうすれば工事も必ず捗ることと考えます。1万円はその賞与金と致したいのです。」と述べたところ、総裁は拍手して喜び、「よろしい、それはよいことを考えた。金はそういう風に使わねばねばならぬ」と言ってっ大変な上機嫌で許されました。
高橋はそれから数箇月にして日本銀行の正社員に採用されました。これよりさき高橋は建築所に入るとともに、銀行業務はもちろん一般経済界についても研究を始めました。ちょうど高橋健三が官報局長であったので、同局備え付けのウィクリー・タイムズ、エコノミスト、バンカーズ・マガジン、トリビューン・ウィクリー、グラヒック・ロンドン・ニューヨーク・ヘラルドなどの諸新聞雑誌を借り受けることができて、大変便宜をうけました。また大蔵省の谷謹一郎からも同省備えつけの内外銀行法令集を借り受け、銀行について熱心に研究しました。これがその後正社員となって非常に役立ちました。
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1893(明治26)年春のある日、突然後藤象二郎農商務大臣から手紙と電話で明朝8時に官邸まで来るようにとの連絡がありました。高橋は後藤とは井上馨が農商務大臣であったとき、偶然に出会って紹介されたことがあっただけでしたが、翌朝富士見町の官邸に赴くと後藤から「さて今回米国のコロンビア博覧会の事務官長を引き受けてくれまいか。」ということでした。
高橋は「私は日本銀行の建築場に勤務しておりまして、一身上のことは一切川田総裁にお任せしてあります。総裁のお指図によるのみです。」と返辞しました。
当時川田総裁は九州に出張中であったので、後藤は電報で問い合わせたところ、川田総裁は高橋の博覧会行きを断って来たと九鬼事務総長から書面で連絡をうけました。
1893(明治26)年9月1日日本銀行では職制の改革があり、高橋は建築所主任から日本銀行支配役に取り立てられ、同時に西部支店長を命ぜられ、年俸1000円を給せらるることとなりました。この時高橋は40歳でした。
それまで日本銀行は大阪に支店をもつだけで他に支店はありませんでした。従って九州方面では各国立銀行が営業資金の借り入れ及び国庫金納入等の場合は、大阪支店との間に現金護送の方法によるか、または内国通運会社に託して輸送するほか途なく、その危険と費用と不便とは少なからざるものがありました。
/ 川田総裁が九州視察に出張したのは、この事情からまず九州に支店を開設する必要を認めて、その場所を選定するためでした。その結果買収したのが今の門司支店のある場所であります。
しかし川田総裁は九州方面の金融状況や地理的関係を考え、門司支店の新築は両3年後と定め、それまでの間とりあえず馬関(山口県下関)に支店を設置することとし、同地にあった百十銀行の店舗を買収することとなりました。
馬関はもと北国の所謂千石船が米穀または海産物を積んで廻航するところで、当時非常に繁栄した船着き場でありました。西部支店に宛てられた二階建ての家屋も、もと大きな船問屋であったのを百十銀行がそのまま使っていました。
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当時百十銀行は愛知県下に埋め立て工事を起したのですが、数度の嵐に岸壁を破壊され、少なからぬ損害を受けて失敗に終り、同業者間に信用を失い、ついに店舗を日本銀行に売り渡して、他の小さな店に移って僅かに営業を続けていました。
高橋が東京を発つ前に、川田総裁がら特に注意されたのはこの百十銀行のことでした。この銀行は山口県士族がその禄を奉還して受けた金禄公債を払い込み資本として建てられたものです。高橋は井上馨と懇意であるから、百十銀行救済について話があるかもしれぬが、よくその内部を取り調べて、誤りなきように注意し、決して軽挙してはならぬ。
また地方の有力者に対しては、高橋が駆け出しの銀行家として日本銀行を代表し、言行をもっとも慎まねばならぬ。始めが大事である。また業務上のことはつねに本店及び大阪支店との間に打ちあわせて事情を疏通することを怠らぬようにと懇篤なる注意を頂きました。
高橋はまず支店開設について本店との打ち合わせを済ませ、9月中旬東京をたって大阪に向い、大阪支店長とも打ちあわせて、9月22日午前4時西京丸に乗って神戸を出帆、翌23日の朝馬関に到着、このとき西部支店詰として本店及び大阪支店より馬関に赴任した人々は、東京本所に妻子を置いて単身赴任した高橋を加えて総計14名でありました。
着任するとまず第一に店舗を検分しましたが、営業場の内部改造の必要を認めたので、昼夜工事人を督励して内部の仕切りを取りはずし、諸種の設備をしてようやく日本銀行の営業場として差し支えないように改修、10月1日をもって開業することとなりました。
当日は山口、福岡両県知事、門司に本社を置く九州鉄道会社社長、各地所在の銀行重役及び関門の紳士紳商、官公吏の主だった人々らを招待、まず改造店舗の縦覧を請い、夜に春帆楼で開業披露の祝宴を開催、すこぶる盛会でした。
春帆楼―春帆楼についてー発祥と歴史―全国の春帆楼―下関本店―下関の観光案内
開業の翌日から三井馬関支店、小倉第八十七銀行等の申し込みを受け、当座勘定を開き、また次いで九州著名の銀行と為替契約を結び、逐次担保付手形の割引、商業手形の再割引等取引の増進を見ました。
Weblio辞書―検索―春帆楼―当座勘定―手形の割引―再割引―日歩―赤簡関
当時九州より他に売り出す米穀、石炭その他の物産は一年1000万円くらいで、他から買い入れるものはごく僅かでしたから、常に片為替となり、国庫金の納入をもって差し引いてもなお、一カ年4~500万円は大阪より兌換券を現送せねばならぬ状況でありました。従って金利の如きも大阪に比して日歩(ひぶ)1銭乃至3銭の高利を唱えておりました。
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そこで開業に当たってはからずもこの金利を巡って高橋と監督理事との間に意見の相違が起ってきました。これまで九州おょび山陽の諸銀行は大阪支店の融通を受けておったので金利の高いことは当然のことであるから、西部支店の利息は大阪支店より日歩5厘高くいに定めるのが適当だというのが監督の意見で、これに対して西部支店を開設した趣旨は山陽及び九州地方の金融もすべて東京大阪付近の如く、その利息を安くし、融通を便利にするにあるのだから、なるべく大阪同様定めたし、というのが高橋の意見でした。
結局川田総裁の決裁を仰ぐことになり、両者の中間をとって、大阪よりも1厘乃至2厘高くらいに取り扱うことに決りました。
1893(明治26)年九州地方は虫、風、水の三大災害を一時にうけたので、米穀、櫨樹(はぜ)、蕎麦、大根のような田畑の被害は莫大でありました。従って九州からの米穀輸出額は平年の4割を減じ、金融は極めt緩慢を示しました。これに反して金利では馬関における三井銀行支店等では日歩2銭乃至2銭8厘を唱えているに係わらず、福岡市では3銭乃至4銭の日歩で貸し出している有様でありました。当時の九州商工業者は一般に遅鈍で、金利の高い安いなどには一切無頓着、その借入額の如きも大概は一口1000円未満で、抵当物としては田畑家屋のほかほとんどみるべきものはありませんでした。
西部支店の勘定は本店及び大阪支店のために、常に支払い一方に傾き、時々大阪支店より兌換券の現(金輸)送を求めねばならぬ状況でありました。既述のように、この兌換券現送は一々行員を護送させるか、内国通運会社に託するほかなく、、その危険と費用は少なくなかったのです。
そこで九州の各金庫より大阪本金庫へ納入する国庫金を西部支店で受けいれるようにするか、もしくは西部支店に多額の未発行券を備え置くことが必要となりました。
当時九州地方だけでも大阪本金庫へ納入する国庫金は年額500万円くらいありました。各銀行は日銀大阪支店に公債証書等を入れて為替によって送金し現送することは稀でしたが、国庫では納入金に対しては一定の逓送料を支払うこととなっていましたから、この失費も少なくなかったのです。
西部支店に多額の未発行券を供えるには、実行しかねる実情がありました。それは多額の未発行券を納めて置く堅牢な倉庫の設備がなかったのでありました。元来馬関の店は両3年簡のつもりで仮設したのであるから、在来の小さな土蔵の外側に一枚の煉瓦を貼りつけ、天井をコンクリートとして僅かに火災に堪えるものとしあるので、とても未発行券を納めることは出来なかったのです。
それでこの事情を総裁にに申し立てて国庫金収納の許しを受け、11月初旬から中央金庫赤間関(あかまがせき)派出所の看板を掲げることとなりました。
はじめ日本銀行が馬関に支店を設置するに当り、地方銀行者間には、これをもって利便とするものもあれば、自分らの利益を奪われるとして内心悦ばないものもあり、可否の論は相半ばする状態でありました。
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しかしながらだんだんと西部支店によって、便益を得る方法を見出し、これを歓迎するに至りました。例えば従来の地方の銀行はすべて日本銀行の本店または大阪支店から融通を受けていましたが、その借入金はすべて現送によらなければ手に入らないのです。今ここに10万円の融通をうけたとしても、いかなることが起こらないとも限らぬので、その内3万円ぐらいは手許に備えておかねばなりません。
しかるに西部支店と取引すれば、不時の用に際しては、いつでもその融通を受けられるので、従来のように手許に何割かの準備金を死蔵しておく必要が無くなるのです。それで従来日銀本店や大阪支店にいれてあった公債証書も西部支店に移すようになり、コーレス(コルレス)の取り組みも東京または大阪との約定高を減らして、大部分は西部支店に依頼するに至りました。
また九州銀行同盟会長松田源五郎から、西部支店と各銀行とのコーレス尻を利用して、各銀行間の貸借振替を得たしとの申し出がありました。これは東京や大阪で日本銀行が、各銀行の当座勘定によって銀行間の貸借を交換決済している利便を、西部支店においてコーレス尻によって得んとするもので、各銀行の最も熱望するところでありましたから、これも総裁に具陳して承認を受けました。
1894(明治27)年5月、朝鮮に東学党の乱が起り(「大山巌」を読む33参照)、朝鮮政府は自力でこれを鎮圧できず、援助を清国に依頼、清国は直ちに出兵して我が国に知照(通知)してきました。
そこで日本政府は直ちに出兵を決定、当時帰国中の大鳥全権公使は急遽帰任の途につき、6月5日仁川に上陸、陸戦隊に守られて漢城(京城)に進み、国王に謁見して5カ条の改革案実行を迫りました。その改革案が受諾されなかったので、兵を景福宮にいれて閔(びん)氏以下の事大党を排斥、大院君を国政総理に迎え、内政の根本改革を実行しました。
馬関に碇泊していた浪速艦も6月24日の夜、兵員を載せた輸送船8隻を護衛して仁川に向け直行、もはや日清開戦は避けられぬとの評判が高くなり、馬関の野菜類の値段が高騰、平日の倍となりました。
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7月27日豊島沖の海戦を序幕として、日清戦争が開始されたのです。9月13日には大本営を広島に進め、天皇は同日東京を発せられたとのことでありました。
このため軍事公債が募集せられることとなり、山口県下では是非とも70万円くらい、馬関だけでも10万円くらい募集しなければならぬという計画をたて、市長はじめ資力ある有力者を勧誘しました。公債募集の成績はよくなり、馬関だけで9月中旬には18万円に達する盛況となりました。
同年10月14日井上(馨)伯は内務大臣を辞し、朝鮮駐在の全権公使に任ぜられ、同月16日馬関に着くと旅館大吉楼に入り数日間滞在、久しぶりに面会に赴いた高橋に対朝鮮外交の抱負を語りました。
翻ってわが経済界はどうであったでしょうか。本年の米作は山口県及び九州一帯共に平年作以上と発表されましたが、軍事用のため船舶はすべて徴発せられ、積みだすことができません。かつ馬関、門司にある倉庫も多くは徴発されて倉入れ不能になり、商人は大いに困惑しました。
年末から1895(明治28)年2月ころにかけては、農家の出荷が意外に多く、金遊は事の外逼迫しました。とくに熊本地方では、一時銀行が貸し出しを中止するに至り、農商家は困惑の極に陥ったので、日銀西部支店ではこの救済のため、十分調査の上、方法を講じました。
まず第一に地方の農家及び商家のうち最も確実と認められる財産家の融通手形に対し、再割引をもって金融の途を開くこととしました。当時確実な財産家と認められる農商であっても日本銀行に抵当となるような証券を所持するものは極めて稀でありました。
そのころ西部支店では店員も極めて少なかったのに、朝鮮事変のために、長崎、熊本、福岡等へ国庫金を現送することがしばしばあって、その都度一々店員をつけて護送しなければなりませんでした。ことに1895(明治28)年1月には熊本師団が出征することとなり、非常に繁忙を極め、この時独身で勤務していた店員は皆銀行の二階に宿泊して夜昼の別なく業務に従事しました。
1895(明治28)年2月16日に日本銀行の定時総会が開かれるので、高橋はその出席のため上京することとなり、2月初旬馬関から船で大阪に午前6時ころ到着、早速理事川上左七郎を訪問しました。
当時川田総裁は大本営に伺候の帰途病気が再発して、大阪で養生していました。それで川上に総裁のご病気にどうかと尋ねると、「只今は鴻池(こうのいけ)の別荘で寝ていられるが、もう高橋が来そうなものだと、君の来るのを待っておられるから、早速総裁を訪ねたらよかろう」とのことであったので宿をとって朝飯を済ますと、大急ぎで総裁を訪ねました。