幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-11~20
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-11
高橋が行くと総裁は床の上に坐って、大本営で天皇に拝謁を賜ったことを感激に満ちた言葉で話し、かつ伊藤総理から日本政府は今回朝鮮の内政を改革し、独立を扶助するの費用として、同国政府に対し、300万円を用立てることになったから、日本銀行で骨を折ってもらいたいとの話があったので引き受けて来た。ただしその貸金に対しては、この通り日本政府の保証を得てきたといって、伊藤さんからの書付を示されました。
高橋がその書付を読んでいると、「只今藤田さんが、御見えになりました」と取次いできました。すると総裁は坐ったまま「ウン、こちらへ」と軽く指図しました。
そこへ藤田と称する人がやってきたので、見ると痩せぎすの身長の高い男で、着流しに縞の羽織角帯という姿、それに総裁との挨拶ぶりも大変隔意のない様子でしたから、高橋は「ハハアこれや総裁お気に入りの骨董屋だナア」と思いました。
高橋は藤田とは初対面でしたので、黙ってさきの書付を読んでいると、総裁は「まず三井、岩崎らにも相談して、いけなければ日本銀行だけでも調達せねばならぬと思って、その書付を取って来た」と話すので、高橋はこの書付についての腹蔵ない意見を次のように述べました。
「第一この際日本政府から直接朝鮮政府へ貸付をすることは、列国との関係上どうでしょうか、懸念すべきことはないでしょうか、この点は政府が最も慎重に考えねばならぬことと思います。第二は、この書付は日本銀行に対して政府が保証するというけれども、総理大臣伯爵伊藤博文一個の署名があるばかりです。私が考えるに、政府の保証は帝国議会の承認を経ざれば、その効果を生じてこないかと思います。それでも内閣全体が責任を負うというなら、これに関与する大蔵、外務両省大臣の署名があるはずですが、それがないところを見ると、閣議も経ていないことは明らかです。いずれの点から見ても、この書付では保証の効力を生じてきません。いわば反古同様のものとおもいますが、どんなものでしょう」
すると今までニコニコ顔だった総裁は俄かに怒気を含んで「君は何をいうのだ。総理大臣の署名捺印があるのを反古同様とは何事だ。君は俺が反古紙を掴んで来たというのか。俺の配下には君のようなことをいう人はいないはずずだ」と怒号しました。その時骨董屋とばかり思いこんでいた藤田が、突然座を起って縁側に出て「高橋さんまあここへおいでなさい、庭の景色でも見ましょう」と呼び出しました。高橋はこう総裁を怒らせては病気に悪いだろうと心配するとともに、縁側から声をかけられて始めて、ハハアこれが有名な藤田伝三郎であったナアと気が付きました。
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-12
高橋は藤田の言をいい機会に縁側に出て藤田のワキに立ちました。すると藤田は小さな声で「病人とあまり議論しては病人のためによろしくない」と注意してくれました。
近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー伊藤博文―ふー藤田伝三郎―むー陸奥宗光
そこで高橋は暇乞いもせずに辞去し、その足で早速大阪支店に鶴原定吉を訪ね、今日の経緯を話して、「総裁が俺の配下には君のようなことをいう人はいないはずだと言われたのは、結局辞めろということになる。俺はここで辞表を書くから君はこれを総裁に取次いでくれ」というと、鶴原はカラカラと大笑いして「君は総裁の真意を悟らないのだ。目下井上さんが朝鮮にいるだろう、それで藤田の来たのを幸いに、君にその話をして、いかに総裁が朝鮮金融のために尽力しているかということを藤田に聞かして、藤田から井上さんに通じさせようというのが本当のはらの中だ。君も知っている通り、総裁と井上さんとの間はこれまであまり面白くなかった、そこへもってきて君がケナしたから怒ったんだ。辞表をだすなんて決してそれに及ばぬ、マア俺に任せてくれ。俺は午後から総裁を訪問する。4時ころにはあっちに行って居るから、君もそのころ総裁のところに来てお詫びをしたらいいじゃないか」といいます。
そこで鶴原のいう通り、また総裁を訪ねると、総裁と鶴原とで大声あげて大笑いしながら、機嫌よく話しています。高橋が挨拶すると、総裁は「朝のことをいま鶴原と話して俺がよいか君がよいかを判断させているのだ」と笑いながら言って何事もなく、それなりに済みました。後でこのことについえ仄聞するに、三井、三菱も調金に同意せず、結局議会の協賛を経て、公債を発行することになったということでありました。
清国と開戦以来連戦連勝。黄海、威海衛にに北洋艦隊を撃滅、北京を攻撃せんとする勢いを示すに及んで清廷は驚き、講和を希望、直隷総督粛毅伯爵李鴻章をもって頭等全権大臣に任じ、正式完全の委任状を授け、日本に特派談判させることとしました。談判地は馬関の春帆楼(「大山巌」を読む39参照)と決定、1895(明治28)年3月3月17日には講和全権大臣外務大臣陸奥宗光が来関、次いで同月19日午前8時首席全権大臣内閣総理大臣伊藤博文伯が到着しました。
するとまもなく午前9時ころ清国講和全権李鴻章一行を載せた船舶一隻が関門海峡に投錨しました。
高橋が陸奥宗光に挨拶に行くと、今度の談判は十中の六、七は結了むつかしかるべしのことであったが、高橋は当局大臣の常套語とばかり聞き流しました。
このとき大蔵大臣渡辺国武は辞任、逓信大臣に転じ、前首相松方正義が蔵相に就任しました。
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-13
戦後経営の中で最も重要な国務は財政であって、松方蔵相は今回の賠償金を英貨(ポンド)にて受け取り、わが国を金本位制になすの方針を取ることと思われたので、高橋はその意味をもって川田総裁に意見書を送りました。
1895(明治28)年3月20日馬関春帆楼上で伊藤全権対李鴻章との第1次会見が行われ、この日は互いに所持する全権委任状を査閲し、その完全なるを認めてこれを交換した後、李全権より講和談判開始の前に、休戦の事項を議定しおかんことを提議しました。伊藤全権はその件について明日回答すると言明してその日の協議を終了しました。しかし休戦に関する両国の合意は成立せず、同月24日第3次会見で直ちに講和談判にはいることを要望、よって日本全権は明日講和条約案を提出することを約し、これを以って第3次会見は終了しました。
同日午後4時ころ、李鴻章は春帆楼を出て、その旅館に向う途中、往来の群衆の中から兇漢が前方の巡査2名を押しのけて、ピストルで輿中の李鴻章を狙撃、重傷を負わせました。兇漢は直ちに捕縛されましたが、李鴻章は傷口をハンケチで抑えながら旅館へ帰り、直ちに治療を受け、市民は致命傷でなかったことを喜びあいました。
李鴻章遭難の報告を受けて、天皇は石黒軍医総監並びに佐藤博士を派遣、佐藤博士を治療に当たらせるとともに、天皇の命により、わが全権は3月28日李経方と会見して4月20日までの休戦を通告、同月30日これに関する条約を締結しました。
李鴻章の遭難後、馬関市民は数名の総代を選出して慰問することを決議しました。しかし清国側はこれを拒否して受け入れませんでしたが、李鴻章の容態も良くなると、随員たちも見舞をうけいれることになりました。
そこで馬関市民は生魚を贈ることに決し、高さ1尺5寸、方6尺ばかりの四面硝子張りの箱を作り、これに潮水を満たし、馬関海峡でとれた数種の生魚や貝類を入れ、それを李鴻章の病室に運び入れました。李鴻章はこれを見てすこぶる満足の態でありました。
李鴻章は同年3月30日休戦条約が締結されると、早速講和談判に取り掛かることを要望、わが全権は4月1日講和条約案を清国使臣に送達しました。李鴻章はこれより自国に有利な交渉を成立させようと努力しましたが、4月13日から14日にかけて、わが60隻余の運送船が兵員人夫ら約10万名を乗せて馬関海峡を通過しました。
李鴻章らはこれを見て驚き、本国政府に打電、速やかに廟議の決定を促したとのことです。このような事情で講和談判は進み、4月17日には最後の談判が開かれました。
この日伊藤伯が元気に帰ってきたところで、高橋は記念のため字を書いてもらおうと墨をすって待っていました。すろと伊藤は何でも額や軸を合せて十数枚書き与えてくれました。高橋はこのとき5、6枚手にいれましたが、只今手元にあるのは「大観」という額だけです。
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-14
講和談判の成り行きについて列国は非常な注意を払っていましたが、露国は遼東半島の割譲をもって自国の東方経略を阻害するものとし、突如4月24日仏独両国を誘い、わが外務省に対して「貴国が遼東半島を永久に領有するは東洋永遠の平和によろしからず、よってこれを清国に還付し、世界の平和に資せられんことを望む」と通告して来ました。
御前会議は連日開かれ、その結果6月5日遼東半島還付容認の旨を3国政府に回答することとなりました。高橋は5月23日高橋健三に答えた書面(省略)の中で、臥薪嘗胆の思いを述べtいます。
講和談判終了のころから、コレラも下火となって、戦争中途切れていた外国船も漸く入港するようになり、かつ7、8月ころまでは御用船の要する石炭もまた少なくないので、石炭の値下りも底をみるようになりました。
また九州方面においては、戦争中、中小農者の手元に小金ができたため、相当衣服などの需要も起り、7、80銭乃至1円4、50銭程の反物が平生の倍以上も売れるようになりました。これに反して所得税を納める階級にあっては、義務的に軍事公債に応じたために、その払い込みに苦しむという有様で、例年4、5、6の三月は金融緩慢に終わるのが常ですが、このような事情で各銀行とも非常に貸出が多くなりました。
その内に出征軍人が引き揚げて来て、惜しげもなく金銭を消費するので、魚、鳥肉、野菜などは平生の3倍以上にも騰貴しました。また軍隊はいろいろの分捕り品を門司の倉庫に運び込みましたが、そのうちに400万両の馬蹄銀(「坂の上の雲」を読む19参照)もあるという噂でした。
ある時支店員の一人が小さな馬蹄銀を珍しがって高橋の所に持って来ました。そうして「これが評判の馬蹄銀です、珍しいよい記念品です」といううので、「どうして手に入れた」と訊くと「始終店に来る軍人からもらったものですが、支店長も一つもらっておかれてはどうですか」というから、高橋は「およそ分捕り品というものは国家に帰属すべきもので、軍人がこれを私すことはできないものだ。従ってそれをもらって所持しているのはよろしくない、君はそれを帰してしまい給え」といって返還させました。
6月中旬井上(馨)伯は朝鮮より帰朝、その途上4、5日の間馬関に滞在しました。このとき井上は三国干渉後の対朝鮮外交の困難について高橋に語りました。
1895(明治28)年8月高橋は日銀総会に出席のため上京しました。当時川田総裁はまだ健康を回復せず、浜田の三野村別館に静養していました。上京中2度目に総裁を訪問すると、総裁は突然高橋に(横浜)正金銀行(三菱東京UFJ銀行の前身、「男子の本懐」を読む13参照)入りの話を持ち出しました。
Weblio辞書―検索―外国為替―小泉信吉―山本達雄—横浜正金銀行
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-15
その大要は「従来日本銀行は低利の金を正金に融通して貿易の発展に尽力してきたが、どうも正金のやりかたには意に満たないところが多い。
そこで先に小泉信吉(慶応出身、福沢の弟子)を本店支配人として入れ、正金銀行をもっと国家的に働かせようと思ったが、園田頭取をはじめ相馬永胤らその店の旧店員がいて、なかなか小泉の意見が行われない。結局小泉は日本銀行との板挟みになって、とうとう自棄酒を飲んで、そのため死んでしまった。
最初日銀から低利の融資を受ける際に今後本店支配人は日本銀行総裁が指名するという条件をつけておいたので、小泉の死後正金側から度々本店支配人を決めてくれと言ってきたが、彼等が万事日本銀行の指図通りに致しますと反省してくるまで、何も取り合わぬつもりであった。
ところが3週間ばかり前に園田孝吉らがやってきて、すべて総裁のお指図を守ります。どうか本店支配人を決めて下さいと頼むから、それじゃ一人世話しようと言っておいた。ついては甚だ気の毒だが、俺は君に行ってもらうつもりだ。そうして十分にあすこで腕を揮ってもらいたい。もっとも君一人でも困るだろうから、も一人山本達雄を平取締役として日本銀行と兼務させるつもりだ」と懇々と話しました。
そこで「私は西部支店長になってからはじめて銀行業務というものを習得しただけで、外国為替などについてはまだ何の知識経験もありません。しかしながら山本君が取締役としてて入ってくれるなら、出来るだけ腕をふるってみましょう」と正金入りを承知しました。そこで事務引き継ぎのため、1日馬関に出掛け、帰京すると同年26日横浜正金銀行本店支配人の辞令を受けました。時に高橋は42歳でした。
その当時の正金銀行は内勤外勤あわせて80名足らずの行員で園田頭取および相馬取締役は2階の頭取室に収まり、高橋ならびに山川勇木、戸次兵吉、川島忠之助の各支配人は階下の本店支配人室に机を並べて事務に当たっていました。
正金の主業たる為替事務は戸次支配人の担当で、高橋はこの戸次、山川両君から、為替相場の建て方、売買の関係、得意先並びに海外支店の関係について、詳細を習得しました。
ある日のこと、日本銀行から通知があって、「このごろ清国から捕った償金の英貨ポンドをできるだけ速やかに内地に移したいが、正金銀行は1年にどのくらいの額を移すことが出来るか、それを調べてみよとの大蔵省からの内命である。ついては至急調べて回答してもらいたい」ということでありました。
正金銀行では早速園田頭取、相馬取締役以下各重役、支配人らが集って、これに関する会議をもち、得た結論は、せいぜい努力して1カ年に為替で1500万円、銀塊で1500万円、会わせて3000万円しか移せないということでありました。
元来為替で取り寄せるというのは、売為替(送金為替)を利用することで、その主なるものは輸入品代価、政府の海外諸払い、留学生の学資等であって、なかんずく政府の海外払いは、その中で最も多額を占めているのですが、政府は今後これが決済をすべて直接ロンドンにある英貨ポンドをもってするよう決したので、正金の売為替はそれだけ減少する次第であります。ゆえによほど勉強しても、為替で1カ年に1500万円取り寄せることは困難です。さりとて銀塊のまま取り寄せるには船繰りの都合並びに保険料の関係から一船100万円以上は送れません。そうすると銀塊の現送も1カ年せいぜい1500万円程度を上ることはできません。
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-16
それで高橋はこの結果を日本銀行に復命すると、「そんなことでどうする、3億円を取り寄せるのに10年かかるようでは世間の物笑いだ、そのことについては君が直接松尾理財局長に会って話をするがよい」ということでした。そこで高橋は大蔵省に松尾理財局長を訪ねて「大蔵省では一体どのくらい取り寄せたら満足されるか」と尋ねたら「いくらでも多いほどがよい」との答えでしたから「それなら私もよく考えて出来るだけ御希望に副うようにしましょう」と言って銀行に帰ると、すぐ他の3支配人を集めてこのことを報告しました。このとき高橋は正金銀行に入って以来、はじめて業務上に関する自分の意見というものを述べました。即ち「だんだん諸君のおかげで海外為替というものが解ってきた。それにつけ自分にも呑みこめず、かつこれは改めねばならぬと思うことは為替相場の建て方である。従来正金が為替相場を公表するのは、毎日午前10時外国銀行が店を開いた後になっている。それは外国為替仲買人のベンネットが香上銀行の相場が決まるとすぐに電話をもって知らせてくる。正金はそれによってはじめてその日の相場を決定発表するからである。しかるにロンドンの銀塊相場は正金にも外国銀行にも同様に、毎日前夜の内に到着している。しかも正金は毎日午前9時から店を開いているのに、外国銀行は午前10時にならねば店を明けぬ。かくロンドン相場は同時に受け取り、店は1時間も早く開いておきながら、外国銀行の相場が建たねば自分の相場を決める事が出来ぬとは、いかにも見識のない話だ。よって今後は店を開くと同時に、正金は正金独自の相場を建て、横浜の得意先には郵便ハガキ大の紙に印刷してそれに売買相場を書きいれ、小使をもって配布させる。東京の得意先には郵便をもって発送するようにしたい。
次に主な日本商人及び外国商館を得意先として吸収する方法を講じねばならぬ。現に郵船会社の如きは近ごろ新造船を8隻も英国に注文しなあがら、一向に正金を利用してくれない。また三菱のごときも長崎に造船所を持っており、少なからず造船材料を輸入しつつあるに拘わらず正金の得意先となっていない。ゆえにまずこれら主要なる日本の輸入業者を勧誘し、進んで外国商館に及ばねばならぬ。これまでの営業の実際を見ると、輸出為替の場合は外国商館も正金を利用しているが、売為替の場合は正金に頼まない。これ畢竟正金の信用が薄いからであろう。輸出為替はこれを取り組む者がまずもって銀行から金を受け取って後に外国で支払うものである。これに反して送金者はさきに正金に金を渡して後で外国で受け取る立場にあるものである。考えてみれば正金に先に金を渡すことが不安心ということが元になりはせぬか」というと、皆が「外国の輸入業者を得意とすることは容易なことじゃない」と異口同音にいうので「それなら外国銀行よりも取り組み者に対し幾分利益を与えることにしたらどうであろう」というと、戸次が「それならボツボツ来ましょう」ということであったから、まず正金銀行では店を開くと共に独自の為替相場を発表すること、輸入為替(送金)については外国銀行よりも1/16だけ勉強する(送金で英貨に換算する際、1円につき1/16ペンス安くする、幸田真音「前掲書」下巻)ことに意見一致しました。
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-17
正金銀行では既述の通り営業方針を決定したので、高橋は大蔵省の松尾理財局長を訪問してこれが説明をなし、その諒解を求めました。ところがあれだけ理財のことに長けた人であるけれども、外国為替に対しては知識がなかったので、為替の売と買、電信為替、参着為替(中国語 支払人によって支払い期日が決定される為替手形)等を説明して頭に入れることにはなかなか骨が折れました。結局は正金が自分独自の相場を毎日公表すること、また輸入為替については、外国銀行ののその日の相場より1/16くらい勉強して取り組み、だんだんと外国商館を得意にする手段を取りたいが、それは許してもらえるだろうかと尋ねると、しまいには松尾局長もよく解って、「うん、それはそうしなくてはなるまい、その方針で一つうんと勉強して、得意を取れるだけとてみよ」と言ってくれました。
高橋はこれだけの承諾を得て横浜に戻り、まず第一に郵船会社の副社長加藤正義に会って、「君の方ではこれまで外国と随分たくさんな取引をしているに拘わらず、何で正金を使わないのか」と聞くと、加藤が「どうも正金銀行は店のものがみな嫌がっている。あすこへ行くとお役所へ行ったような気分だ。つまり不親切だ。それよりも香港上銀行かチアター銀行へ行けば非常に丁寧にして、快く為替を取り組んでくれるから、自然脚が正金に向かないといっている」というので、「それはごもっともだ。今後はこれまでと異って万事注意する。郵船は国家的の会社であるから、どうせ使うなら同じ国家的の正金銀行を使ってくれ。それに送金為替については外国銀行に比べて、必ず1/16だけは勉強する」と言って懇談したら、加藤も大変によく解ってくれて「君がそういうなら取引することにしよう」と賛成してくれました。それから三菱の豊川良平の所へ行って、同じく上述の事情を話し、今後は是非正金を使ってもらいたいと懇談すると、同君もよく諒解して、そのことを承認してくれました。
ただし豊川がいうのには、「実は香上銀行で為替を取り組むと、神戸の店では20万円までは無担保で当座貸越しを認めてくれる。三菱では輸入為替の取り組は神戸と長崎とが一番多いのであるが、正金でも20万円までは、無担保で当座貸越しを承認してくれねば困る」というので、そのことは一も二もなく承認しました。すると豊川が「それでは神戸の方だけは全部正金に頼むこととしよう。ところが長崎の方はこれまでのホームリンガー商会との取引関係上、今俄かに変更する訳には行かぬ事情があるから、今しばらく待ってもらいたい。そのうちに機を見て長崎の方も必ず正金に頼むようにするから」ということでありました。
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-18
内地の主な輸入業者である郵船、三菱等もかようにして説きつけたので、今度は外国商館に談判をはじめ、当時の外国商館で主な輸入商はスタンダード石油会社でありましたから、早速そこの支配人を訪問して、輸入為替については香上銀行やチアター銀行よりも1/16だけ勉強するからと言って頼むと、採算に明るい連中であるから、よく解って、これも正金の得意に引き入れることができました。
以上のごとくにして営業のやり口を変更し、かく商館を廻っては熱心に勧誘しかつ勉強したので、1896(明治29)年1、2、3の3箇月だけでほとんど40万円(予約共)の金を為替で取り寄せることができました。実際当初予定したのよりも案外好成績を収めた次第でありました。
これよりさき、1889(明治22)年10月、確か松方大蔵大臣の時であったと思います。政府は従来正金銀行に対してなし来たった外国為替資金の支出を停止し、これに代わる措置として大蔵大臣は時の日銀総裁富田鉄之助に、正金銀行所有の外国為替手形(輸出手形)を低利に再割引するよう命じました。しかるに日本銀行は正金の営業ぶりを信用せず、むしろ日本銀行自ら海外為替の取り扱いを開始し、内地人の直輸出奨励の衝に当らんとし、容易に松方大蔵大臣の方針に従うわなかったため、富田総裁は退職となり、川田小一郎が代わって日銀総裁の地位に就きました。
川田総裁は正金所有の輸出手形に対しては、1000万円を限り年2分の低利で再割引することを承認し、同時に今後正金銀行の本店支配人は日本銀行総裁において指名すべきことを決定しました。かくて小泉信吉の正金入りとなり、彼の病没後、1895(明治28)年8月高橋に正金入りの交渉があったことはすでに述べた通りであります。
よって高橋は正金入りの決心をするとともに、川田総裁に向い、自分は総裁の命に従い、その国家的方針の実現につとます、ついては従来の再割引限度1000万円を1500万円に増額し、かつ別に年2分の低利にて、400万円までの当座貸越しを許されんことを希望したところ、総裁は快くこれを承諾しました。
そうして「今後正金銀行は為替業務のほかに、我が国の貿易に関する内外人の間を斡旋して、その媒介者となり、もって内外人会合の機会を作るよう心がけられたい」と附言しました。
次に高橋は当時行内に蟠っていた党派的弊風を除去し、支店長級の人物を養成するため、行員採用の門戸を広めることに努力しました。正金銀行の店員は最初80人足らずでありましたが、そえぞれ系統があり閥があって、最も威勢を張っていたのは相馬、戸次系であって、その閥に属せずんば正金における出世栄達は望まれぬという状態でした。
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-19
そこで高橋は園田頭取と協議し、これが調査委員を設け、戸次支配人を委員長とし計算課長沢井宗之、同課員豊間根繁吉、岡田松太郎、原田武、及びこの目的のために川田総裁に請うて貰い受けたる田中久吉を加え6名をもって委員として、計算課長の机底深く秘められて容易に見ることのできなかった計算規定を審議せしめました。かくて完全な計算規定が出来上がると、これを印刷して本店員および支店員一同に配布し、また新たに銀行に入って来た者には一々それを授けることにしました。そしてこの規定は1897(明治30)年1月から実施しました。それ以来店員はだれでも事務に明るくなることができ、かつ一通り簿記の心得ある者は、その規定さえ見れば、直ちに事務を執ることが出来るようになりました。
正金銀行は3月10日と9月10日とに半期半期の決算をして総会を開くことになっています。ところが29年の3月の総会にだす決算表について議論が起りました。この期においては総利益の内から規定の株主配当金その他を差し引いて、なお約15、6万円の後期繰越金をなすことになりました。
しかるにこの後期繰越金について、重役の中から反対論が出てきました。従来繰越金は5万円を超えざるものとしてあります。もし5万円以上の繰越金をなせば、株主総会では、その金を以って株主配当金を増せよとの議論が起ってきます。ゆえに繰越金を5万円以上にすることはよろしくないというのが反対論の骨子でありました。重役中この議論の最も強く主張したものは若尾逸平でありました。
若尾は「君は正金銀行に入り立てで、その成立の経緯を御承知ないのだ。自分は創立当時からの株主である。当時は銀紙の差が甚だしい時であったが、株の払い込み金に際しては、100円の株に対して2割の正貨の銀で払い込んだ。これを紙幣に換算すれば全部で120円となる。しかるに今日正金の株は額面以下になっている。寸なわち株主は実際において120円を払い込んでいるが、正金株の相場は額面以下になっている。即ち株主は実際において、120円を払い込んでいるが、正金株の相場h90円前後しか唱えていない。ゆえにこの際に繰越金を増すどころじゃない。それを減らしても配当を余計にせねばならぬ。自分は先年山梨県で田地を買ったが、当時1段歩20円で買ったものが、今日では10倍にもなている。しかるに正金の株は120円も払ったものが90円前後とはいかにも不釣合いだ、自分はこの際繰越金を増やすことには同意できぬ」となかなかの鼻息でした。
幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-20
そこで高橋は「実に驚き入った議論を聞くものだ。そもそも正金は株主の利益をはかるためにのみ作られたものではない。実にわが対外貿易の発展のために設けられたる唯一の金融機関であって、その業務遂行に当ってはもとより国家の利益を先にせねばならぬ。正金の国家に対する任務は極めて重大である。しかしてこの任務を果たすためにはまず持って国の内外における信用を高めねばならぬ。それには銀行内部の基礎を堅実にすることがもっとも肝要である。その手段として毎期の繰越金のごときはもっとも多額を計上する必要がある。君のような重役がおっては、私はこの銀行に勤めていることはできぬ。君の議論のごときは正金銀行の役員として口にすべからざることだ」と痛撃しました。
他の重役連は「それは高橋君のいう通りだろうが、従来の模様を見ると株主総会がなかなかやかましかろう」といいます。そこで高橋は「もし株主総会にて、この原案が通過しないで自分たちの利益のみ顧みるならば、我々一同は決心して辞表を出せばよいではないか」と突っ張り通して、とうとう自分の出した原案通りの決算表を、株主総会に提議することとなりました。しかるに株主総会においては、一人もこの原案に反対するものはなく、後になって皆が今度のように無事にいったことはないというほど楽々と通過しました。
これは日銀と正金との関係がやや明瞭となって、日銀総裁の隠然たる勢力が影響した結果といわねばなりません。そして高橋はこの総会において改めて取締役に選はれ、本店支配人を兼ねることとなりました。
この時代正金本店と海外支店との間に往復する電信料は相当多額に上っています。高橋は新たに正金独自の電信暗号を制定するとともに、特に2名の係員を任命して、発着の電信につき調査せしめ、かつ常に新暗号を増加補充していく方法を取りました。この実施の結果、山川支配人の計算によると、電信往復の増加に拘わらず、経費は却って半期に6万円の減少を見たということでありました。