久米邦武「米欧回覧実記」を読む21~30

久米邦武「米欧回覧実記」を読む21

 アレクサンドル2世が1861年に発した農奴解放令を、我が国の1872(明治5)年田畑永代売買の禁令撤廃と比較して、「実記」は次のように記述しています。『○露国隷農解放ノ令ヲ発シテヨリ、二年ヲ経テ、六十三年ノ三月ニ、仕組始メテ整ヒ、先ツ帝領地ノ隷農ヨリ着手セリ、(中略)其法ハ、(中略)喩ヘハ労作者ノ所得高六「ルーブル」ナリシ地ハ、其原価ヲ百「ルーブル」ト定メ、其の百「ルーブル」ヲ原主ニ払ヒテ其地ヲ私有シ、自立ノ民トナル所ナリ、(中略)去年ノ二月、我邦ニテ田地勝手売買ヲ許ス令ヲ発セラレシハ、大化年間ヨリ土地私有ノ権ヲ抑ヘラレタル地主、ミナ自立ノ地主トナルヲ得テ、恰(あたか)モ露国隷農ヲ廃セルト同シ、而テ露民ハ四十九年間ノ増租(露民は原価の20%を支払い、残りの80%を49年間で元利皆済する義務を負う)ヲ負ヒ、日本ノ民ハ一令下ニ不動産ノ所有者トナル、東西洋ニ於テ、政治風俗ノ異ナル、如此(かくのごと)シ、』(第六十二巻 露国鉄道及ヒ聖彼得堡府ノ総説)日本の農民が田畑永代売買の禁令撤廃によって如何なる影響を受けたかは別問題として、ロシアの農奴解放令が不徹底で、彼等を貧困と隷属から解放しなかったことは明らかでしょう。

 つづいて「実記」は聖彼得堡府についてこのように述べています。『○此府ハ、公侯貴戚邸第ヲ連ネ、豪家、大姓(富貴勢力家)、館宅ヲ並ヘ、富貴ノ人ノ都藪(とそう 集中地)ヲナシタルコトハ、恐クハ巴黎、倫敦ニモ敢テ劣ラサルヘシ、(中略)曾(かつ)テ評ス、英、仏、白、蘭ハ平民ニ人物富豪ノ多キコト、貴族ニ超ユ、故ニ全地ミナ繁昌シテ、民権モ亦盛ナリ、独逸(墺国ヲ兼ヌ)、以太利ハ貴族ノ富、平民ニ超ユ、故ニ文物ノ観ルヘキモ、全国ハ猶(なお)貧ナルヲ免レス、因テ君権ハ民権ヨリ盛ンナリ、露国ハ全ク貴族ノ開化ニテ、人民ハ全ク奴隷ニ同シ、(中略)聖彼得堡府ノ商店ヲ観ルニ、属目(しょくもく 注目)スヘキ大店ハ、尽(ことごと)ク日耳曼人ノ開店ナリ(英仏人ノ開店モアレトモ、最モ多キヲ謂フ)』(第六十二巻 露国鉄道及ヒ聖彼得堡府ノ総説)

ロシアの歴史―ロシア歴史紀行アルバムーサンクトペテルブルク1~7

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む22

 かくして露国に対する日本人の印象と実体の格差について、「実記」は次のように指摘しています。『欧羅巴ニ於テ、最モ勢力アル国ハ、英、仏、日(日耳曼)、墺、露ノ五帝国ヲ推ス、(中略)其内ニ於テ最モ雄ナルヲ英仏トス、最モ不開ナルヲ露国トス、(中略)東洋人ノ想像ハ、殆ト之ニ異ナリ、今ニ至ルマテ、日本人ノ露国ヲ畏憚(いたん)スルコト、英仏ノ上ニ出ツ、(中略)抑(そもそも)此妄想ヲ日本人ノ脳神ニ感触セルハ、何ノ原因ナルヤヲ推究スレハ、蓋シ故アリ、(中略)文化元年(1804)ノ九月、露国ノ使節「レサノット」氏ノ軍艦、長崎神ノ島ニ入港シ、発出セル祝砲ノ響ニヨリテ、全国太平ノ夢ヲ驚カシ、是ヨリ尊攘鎖国ハ沸然(ふつぜん)トシテ湧起(ようき)セリ、加フルニ甘察加(カムサツカ)、樺太(カラフト)ノ土民ニ往往辺徼(へんきょう 辺境)ノ騒擾(そうじょう)アリ、(中略)今ニシテ之ヲ回顧スルニ、皆鎖国井蛙(せいあ 井戸の蛙)ノ妄想ニシテ、(中略)実際ヲ瞭知スレハ、日本ノ今日ニ於テ、敢テ露国ヲ侵越スルノ論ヲナスモノナシ、露国モ亦日本ヲ并呑スルノ政略アランヤ、(中略)若シ其親睦ヲ以テ相交レハ、欧洲各国ミナ兄弟ナリ、(中略)従来妄想虚影ノ論ハ、痛ク排斥シテ、精神ヲ澄センコト、識者ニ望ム所ナリ、』(第六十五巻 聖彼得堡府ノ記 下)

久米邦武「米欧回覧実記」を読む23

 同年4月14日11時旅館を出て12時の蒸気車で聖彼得堡を出発、同月15日国境を越え日耳曼に再入、同月16日午前2時30分「クローフ」駅で木戸副使は乗り換えて伯林に赴き、日本への帰途につきました。岩倉使節団は「ボルチック」海浜を走り1時旱堡(ハムベルヒ)府に到着、府中の「ホテルデヨーロッパ」に宿をとりました。

 旱堡の花町を「実記」は次のように紹介しています。『○此府ハ、日耳曼北海ノ要港ニテ殊ニ英仏トノ貿易最モ盛ナリ(中略)○西北ニ花街アリ、娼妓ヲ公許シ、三等ノ娼館アリ、各ソノ街ヲ異ニス、上等ノ花街ハ、屋造美麗ナリ、各房ヲ分ツテ娼妓ヲオキ、其ノ窓(木偏に龍 格子窓)ハ、夜ニ入レハ、燈光黯淡(あんたん うす暗い)トシテ、美人ノ客来ヲ待ツ影ヲ彷彿(ほうふつ ぼんやり見える)ニミル、中等以下ハ屋小ニ、房中ノ装置モ従テ悪シヽト云、西洋各都邑、至ル所ミナ淫ヲ鬻(ひさ 売る)ク婦人ナキハナシ、』(第六十六巻 北日耳曼前記)

 「キール」を経て同年4月18日朝7時郵船は嗹馬(デンマルク)の「コールシュル」埠頭に接岸、蒸気車で11時「コッペンハーゲン」府に到着、「ホテル、デ、ロヤル」に宿泊しました。4月19日宮内長官出迎えで馬車に乗り、王宮で「キリスチャン」第九世陛下に謁見しました。

欧羅巴の旅―1.デンマークの旅―コペンハーゲン

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む24

 同年4月23日12時50分「コッペンハーゲン」府東北の波止場より郵船出発、2時15分瑞典(スエウデン)の「マルモ」埠頭に接岸、蒸気車で同月24日午前10時40分「ストックホルム」府の駅に到着、馬車で「レードボルク、ホテル」に宿泊しました。同月25日午後王宮で「ゴスタフ」第一世陛下に謁見しました。

 同年4月30日「コッペンハーゲン」出発、「リュベック」経由5月1日旱堡到着、同月3日旱堡から哈諾威(ハノーブル)州を経て同月5日仏蘭克仏(フランキホルト)、経由、「ミュンチェン」府着、同月7日「ミュンチェン」発、「インニス」堡、「ヴェロナ」府経由、同月11日5時30分羅馬府駅に到着、「ホテル、デ、コンスタンチン」に宿泊しました。同月13日王宮にて「ウイツトーリオ、エマニウエル」第二世陛下に謁見しました。

ヨーロッパの歴史風景―近代・現代編―インデックスー西暦1861年、ヴィットリオ・エマヌエレ2世を国王とする統一イタリア王国が成立し

 羅馬について「実記」は『羅馬ニ二千年前後ノ古蹟多シ、之ヲ回覧スレハ、俯仰(ふぎょう 伏し仰ぐ)ノ感ニタヘサルモノアリ、(中略)此時ニアタリテヤ、英ノ倫敦、仏ノ巴黎ハ、ミナ夷蛮ノスム所ニテ、(中略)独逸ノ如キハ、多ク荒寒ノ野、森林ノ原ニテ、(中略)竟ニ今日ノ盛ヲ馴致(じゅんち 次第に移り変わる)セシハ、元羅馬ノ文化ヨリ、誘導セラレタルモノニ非サルハナシ』(第七十五巻 羅馬府ノ記 上)と述べ、日本を顧みて『我邦古ヘヨリ発明ニ乏シ、而テ能ク他ノ智識ヲ学ヒ取ル建築、鉄冶、磁陶、縫織、ミナ之ヲ朝鮮支那ニ資シテ、今ハミナ之ニ超越ス、今ヤ東洋ニ古国多シト雖モ、其開化ノ度、独リ進ミタルハ我邦ナリ、(中略)今日ノ見ルヘキナキカ如キモ、他日必ス、其観ヲ改ムルモノアラン、』(第七十六巻 羅馬府ノ記 下)とその決意を表明しているのです。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む25

  同年5月20日蒸気車で午後6時前那不児(ナアプル)府の駅に到着しました。「実記」は『那不児府ハ、以太利半島ノ西方ニ於テ、一海湾ヲ占メタル要港ナリ、(中略)○府中ノ人民ハ、多ク無学ニシテ、懶惰(らんだ なまける)性ヲナシ、街上ノ塵芥(じんかい)払ハス、車馬狼藉ナリ、(中略)以太利ニ貧民多シ、(中略)此行欧米十二国ノ各都府ヲ略展観シタルニ、此府ノ如ク清潔ニ乏シク、民懶ニシテ貧児ノ多キ所ハナシ、』(第七十七巻 那不児府ノ記)と述べています。

 同月23日羅馬に帰り同月25日夜9時45分羅馬発、同月27日午後10時威尼斯(ヴェニエシヤ ベネチャ)府に到着、「ホテル、ニューヨーク」に宿をとりました。

 同月29日岩倉使節団はこの地の文書館を訪問しました。「実記」は『府中ナル「アルチーフ」(文書館)ノ書庫ニ至ル、此庫ニハ,紀元七百年来ノ文書典冊ヲ蓄蔵ス、スヘテ一百三十万冊ニ及フ、(中略)此書庫ニ、本朝ノ大友氏ヨリ遣ハセシ、使臣ヨリ送リタル書翰二枚ヲ蔵ス、其遺紙ヲ一見セシコトヲ望ミシニ、挟紙ヨリ取出シテ示シタリ、皆西洋紙ニ羅甸(ラテン)文ニテ書セル書翰ニテ、末ニ本人直筆ノ署名アリ、鋼筆ニテ書セルモノナリ、岩倉大使、余ヲシテ模写セシム、左ノ如シ(中略)外ニ日本使臣書翰五葉アリ、(中略)其五葉ノ書ハ、一千五百八十五年乃至七年(我天正ノ季)マテ、大友家ノ使臣、羅馬及ヒ威尼斯に至リシトキノ往復文ナリ、此支倉(はせくら)六右衛門ハ、是ヨリ三十年モ後レテ至リタレハ、大友家ノ使臣ニハ非ルヘシ、』(第七十八巻 「ロンバルチー」及ヒ威尼斯府ノ記)と記述しています[イタリヤ国ヴェニス文書館文書 欧文材料第136号訳文 1585年6月2日(天正13年5月5日) 日本使節が記念の為めに遺したる書翰・欧文材料第192号訳文 1586年4月2日(天正14年4月2日(天正14年2月13日) 伊東マンショよりヴェニス大統領に贈りし書翰・欧文材料第194号訳文 1587年12月10日(天正15年11月11日) 伊東マンショよりヴェニス大統領に贈りし書翰 「大日本史料」第十一編 別巻之二・[ベニス市国立文書館文書 欧文材料第166号翻訳 1616年1月6日 はせ倉六右衛門よりベニスの大統領に呈せし書・欧文材料第170号翻訳 1616年2月24日 支倉六右衛門長経、フライ・ルイ・ソテロよりベニス元老院に贈りし書「大日本史料」第十二編之十二]。

欧羅巴の旅―7.イタリアの旅―ベネツイア

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む26

  同年6月2日夜10時30分威尼斯府を出発、翌日午後10時墺地利(オヽステンレイキ オヽストリヤ)国維納(ウリン ヴィヤナ)南方の駅に到着、「ホテル、オヽストリヤ」に宿泊することとなりました。

 同年6月8日帝宮において、「フランシス、ショーセフ」皇帝及び皇后に謁見しました。

ドラゴニアへようこそー御案内―歴史の研究―オーストリアの歴史―オーストリア関連年表

 同年6月9日「実記」は「此日博覧会ニ入リテ、本廊ノ列品ヲ詳覧ス、」と記し、第八十二~八十三巻で維納万国博覧会見聞を詳説しています。

 「実記」ハ『○博覧会ハ、「エキスビション」トテ、国国ヨリ物産ヲ持集リテ、一楼榭(ろうしゃ 高い建物)ノ内ニ列シ、之ヲ衆人ニ観セテ、各地人民ノ生意(生業)、土宜(どぎ 土地の産物)、工芸、及ヒ嗜好、風習ヲ知ラシメ、一ハ持集リタル人人、己ノ物品ヲ衆見ニ供シテ、其売買ノ声誉ヲ広メ、(中略)一ハ他人ノ持集リシ物品ヲ観テ、己ノ及ハサル所以(ゆえん 理由)ヲシリ、今ヨリ工夫スヘキ要ヲ考ヘ、(中略)益(ますます)其進歩ヲナス津筏(しんばつ 手引き)ヲ求ムルニ便ニス、』と万博の目的を述べ、『夫(それ)欧洲列国ノ大小相分ルヽ、英、仏、露、普、墺ノ大国アレハ、又白、蘭、薩(サビセン)、瑞、嗹ノ小国アリ、国民自主ノ生理ニ於テハ、大モ畏ルニ足ラス、小モ侮ルベカラス、英、仏両国ノ如キハ、ミナ文明ノ旺スル所ニテ、工商秀レトモ、白耳義ベルギー)、瑞士(スイス)ノ出品ヲミレハ、民ノ自主ヲ遂ケ、各良宝ヲ薀蓄スルコト、大国モ感動セラル、普ハ大ニ、薩ハ小ナルモ、工芸ニ於テハ相譲ラス、而シテ露国ノ大ナルモ、此等ノ国トハ、猶其列ヲ同クスル能ハス、墺国ノ列品ヲミレハ、勉強シテ文明国ニ列スルヲ得ルニスギス。是他ナシ、民ニ自主ノ精神乏キニヨルナリ、』(第八十二巻 万国博覧会見聞ノ記 上)と小国の自主的な民衆の健闘を称えているのです。

海外スポット その歴史と文化についてーデジカメで綴る旅の想い出写真館―海外の風景―テーマで選ぶー 世界遺産―オーストリア ウイーン歴史地区・シェーンブルン宮殿

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む27

 同年6月18日午後6時15分維納を蒸気車で西へ発車、同月20日瑞士(スイス)国首府「ベロン」に到着、同日午前大統領に政庁堂で謁見しました。

スイスを発見する―歴史

  「実記」はスイスについて『○此国ノ政治ヲ協定スルヤ、唯三章ノ目的アルノミ、自国ノ権利ヲ達シ、他国ノ権利ヲ妨ケス、他国ノ妨ケヲ防ク是ナリ、故ニ内ニハ文教ヲ盛ンニシテ、其自主ノ力ヲ暢達(ちょうたつ 伸び育てる)ス、(中略)教育ノ浹(あまね 広くゆきわたる)クシテ、民ニ礼アリ学アリ、生業ニ勉強スルコト、此国ヲ最トス、○其武ヲ張ルヤ、一旦隣邦ニ不虞(ふぐ 予期しない災難)アレハ、中立ノ義ヲ堅クシテ一兵ヲシテ境ニ入ラシムルナシ、敵来レハ之ヲ逐ヒ、又他国ノ権利ヲ重ンシ、敵兵モ其国境ヲ出レハ、即チ止テ逐ハス、他国ノ地ニ入リテ、兵ヲ動カスコトヲセス、○全国ニ民兵ヲ置テ、常備兵ヲオカス、丁壮(一人前の男子)二十歳ヨリ、三十歳マテ、民兵入籍ノ期トシ、(中略)当時ノ兵数ハ、八万五千ニ及フ、(中略)故ニ其国小ナリト雖(いえ)トモ、大国ノ間ニ介シ、強兵ノ誉レ高ク、他国ヨリ敢テ之ヲ屈スルナシ、』(第八十四巻 瑞士国ノ記)と記述しています。

たぬたぬのスイスとアルプス

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む28

 同年6月29日朝10」時40分「「ベルン」駅発車、午後8時「ゼネーヴァ」府に到着「ホテル、デベルギュス」に宿泊しました。

同年7月9日「実記」は「日本政府ヨリ、急ニ帰国スヘキ電信(「日本外交文書」第6巻)来リ、葡萄牙(ポルチュガル)国行ヲ中止シ、帰装ヲナス、」(第八十六巻 「ベロン」及ヒ「ゼネーヴァ」府ノ記)と述べています。同月15日「セネーヴァ」発、夜に入って仏国里昂(リヨン)府に到着、同月17日午後11時里昂府発、同月18日朝6時馬爾塞(マルセール)府へ到着しました。

 「実記」はつづいて「第八十八巻 西班牙(スパニヤ)及葡萄牙国(ポルチュガル)国ノ略記」、「第八十九巻 欧羅巴洲政俗総論」、「第九十巻 欧羅巴洲地理及ヒ運漕総論」、「第九十一巻 欧羅巴洲気候及ヒ農業総論」及び「第九十二巻 欧羅巴洲工業総論」(その一部は「米欧回覧実記」を読む12に紹介)を掲載していますが、本稿においてはその紹介を省略します。

欧羅巴の旅―6.スペインの旅

愛しのポルトガルーポルトガル写真集

  1873(明治6)年7月20日岩倉使節団は仏東洋郵便会社船「アウア」号で午前10時同港を出港、帰国の途につきました。

 同月21日以太利領「サルヂニヤ」島海浜の一島に以国民権家「ガルバルジー」氏(「米欧回覧実記」を読む24「ヨーロッパの歴史風景」近代・現代編参照)の住宅を眺め、同月26日朝9時「ポールトサイト」に岸に到達、投錨しました。午後4時運河に進入、河中に碇泊、同月27日朝4時半に抜錨、三湖を通過蘇士(スウエス)の埠頭に達し、暫く投錨しました。

 「実記」は『「ポルトサイト」ヨリ蘇士(スウエス)マテ、百英里ノ地峡ヲ、郵船ニテ駛行(しこう 速くゆく)スルヲ得ルハ、僅ニ四年前ヨリノコトニテ、是ハ仏国ノ学士「レッセフス」氏ニ向ヒテ謝スヘキナリ、』(第九十五巻 紅海航程ノ記)と述べています。

やっぴらんどー楽しい世界史―時代別―全項目目次―19世紀―スエズ運河の完成と買収

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む29

 同年8月1日朝6時半に郵船は阿刺伯(アラビヤ)の亜丁(アデン)港に到着投錨しました。「実記」は『熱帯地方ノ肥沃ナルコトヲ察スヘシ、(中略)古ノ語ニ曰、沃土ノ民ハ惰ナリト、サレハ貧歉(ひんけん 貧しく凶作)ハ人ヲ富潤スルノ砥礪(しれい 試練)ニテ、饜足(えんそく 満腹)ハ倦怠ノ基礎ト謂フヘシ、英、仏ノ文明ナルモ、其国本(もと)荒寒瘠薄(せきはく)ノ野ニテ、百物ノ欠乏ニヨリ、勤勉ノ苦ヲツミ、文明ノ光ヲ生セルナリ、(中略)故ニ国ノ貧富ハ、土ノ肥瘠ニアラス、民ノ衆寡ニモアラス、又其資性ノ智愚ニモアラス、惟(ただ)其土ノ風俗、ヨク生理ニ勤勉スル力ノ、強弱イカンニアルノミ、』(第九十六巻 阿刺伯海航程ノ記)と記しています。

 同年8月2日亜丁港抜錨、同月9日錫蘭(セーロン)島の「ポイント、デ、ゴール」港に投錨、「実記」はこの地を「熱帯ノ国ハ,山緑リニ、水青ク、植物ハ栄ヘ、土壌ハ腴(ゆ 肥えている)ニシテ、空気ノ清キ、景色ノ美ナル、欧洲ヨリ来リテ、此(この)景象ヲミレハ、真ニ人間ノ極楽界ト覚フカ如シ、」(第九十七巻 錫蘭島ノ記)と述べて褒め称えています。

Wandering the World―フォト・ギャラリーー南アジア編―19)美しきスリランカ

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む30(最終回)

 同年8月12日朝6時半「ゴール」港を抜錨、新嘉坡シンガポール)に向かい航海中、「実記」は次のようにヨーロッパ諸国によるアジア植民地化の現実と欧州人の東南洋人に対する横暴について述べています。

『弱ノ肉ハ、強ノ食、欧洲人遠航ノ業起リシヨリ、熱帯ノ弱国、ミナ其争ヒ喰フ所トナリテ、其豊饒ノ物産ヲ、本州ニ輸入ス、(中略)今郵船ニアリテ、欧洲航客ノ状ヲ目撃スルニ、(中略)馬児塞(マルセール)ヨリ郵船ニ上レハ、一船ミナ白皙赤髯(はくせきせきぜん 白膚赤ひげ)ノ航客ナレトモ、(中略)挙動麁忽(そこつ 粗忽)ニテ、言語人ヲ侮慢シ、高笑ヲ発シ、婦人ニ狎(な たわむれる)レ、細故(細かいもめごと)ヲ怒リ、暴言ヲ吐クモノ半ニオル、是ミナ本国ニアリテ、小人ノ行ニシテ恥ル所タリ、(中略)蓋(けだ)シ遠航シテ、利ヲ東南洋ニ博取シ、以テ生理トナスモノハ、大抵本国ノ猾徒(かつと 悪賢い連中)ニテ、其無頼無行ナルヲ以テ、郷里ニ斥(しりぞ)ケラレ、或ハ刑辟(けいへき 刑法)ニ触レテ、人ニ交際ヲ得サルモノ、多ク出テ利ヲ外国ニ獲ンコトヲ図ル、』(第九十八巻 榜葛刺(ベンガラ)海航程ノ記)すなわちアジアにおけるこれら欧州人の問題行動をもって、欧州文明の価値を推測してはならないという考え方が見られます。

 同年8月13日9時新嘉坡に到着、この地に最近コレラが流行しているので、岩倉使節団は上陸しませんでした。同月19日正午抜錨、柴棍(サイゴン)府・香港経由、9月2日朝揚子江口に達し、河蒸気船で黄浦江を遡上、11時上海に到着「アステルハウス」に宿泊しました。同月4日夜米利堅(メリケン)の郵船「ゴルテンエン」に乗船、翌日10時黄浦江を下り、11時揚子江口に到達、長崎を経由して、1873(明治6)年9月13日横浜に着船しました。