鈴木文治「労働運動二十年」を読む11~20

鈴木文治「労働運動二十年」を読む11

 米国における日本人移民によって労働市場が圧迫されるとする排日の気運は日露戦争後の1905(明治38)年後半から顕著となり、1913(大正2)年5月2日カリフォルニア州での「外国人土地所有禁止及び借地制限に関する法律」制定は在米日本人に大打撃を与えたのですが、同様の法律は他州に於いても続々成立していったのです。

日系アメリカ人―第1章 外国人土地法

 しかしこうした日米間の対立激化を憂慮する米人の一人として在日経験のある組合派宣教師シドニー・ギューリックという人物がいました。

 彼は1915(大正4)年1月キリスト教連合会特使シカゴ大学神学部長マシウスとともに再来日、同年1月31日ギューリックは在米日本移民協会(会長 大隈重信)を実質的に指導していた渋沢栄一(「雄気堂々」を読む4参照)を訪問、在米日本移民に対する米国内の状況を報告(「渋沢栄一日記」渋沢栄一伝記資料 別巻第二)、同年2月10日歓迎会の席上ギューリックは労働使節派遣の必要を示唆、他方旧知の安部磯雄らとも協議して具体的に派遣の人選を進めた結果、鈴木文治が指名されるに至りました。

 鈴木の承諾を得たギューリックは帰国後、カリフォルニア州労働同盟幹事ポール・シャーレンベルクに、秋のアメリカ労働大会に日本からの労働代表として鈴木を受け入れることを承諾させた上で、同年4月7日付で書簡を渋沢・鈴木宛に送って来ました。

 渋沢から鈴木の渡米要請を正式に受けた友愛会は同年5月10日同会16支部34名の代表が臨時協議会を開催、鈴木文治と渡米を希望していた麻布支部幹事吉松貞弥をアメリカ労働大会に派遣することに決定しました。かくして6月11日渋沢栄一は鈴木文治送別会に臨みました(「渋沢栄一日記」渋沢栄一伝記資料 別巻第二)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む12

 同年6月19日横浜を出帆した鈴木文治は7月5日サンフランシスコに到着、桟橋には日本領事館書記が出迎え、片山潜(「日本の労働運動」を読む50参照)・河上清(「日本の労働運動」を読む25参照)も姿を見せていました。

 鈴木文治はサンフランシスコの在米邦人の歓迎会に何度も出席しただけでなく、米大陸東部も訪問、ワシントンではアメリカ労働総同盟(AFL・「日本の労働運動」を読む3参照)本部で会長サミュエル・ゴンパースと会見しました。ニューヨークでは裁縫工組合のストライキの現場にも遭遇したのです。

 同年10月5日から第6回カリフォルニア労働同盟の大会がサンタ・ローザで、11月8日から第35回AFL大会がサンフランシスコで開催され、鈴木はいずれも日本労働団体代表として、英会話が苦手だったので何度も練習した英語で演説、AFL大会において、人種差別問題に言及「偏見は労働者の敵である。(中略)若し欧洲の労働者の間に、更に一層の理解と協力ありしならば、今次の大戦争(第1次世界大戦)は、或いは之を防止し得たのではあるまいか。予は確く信ずる。日米の労働者が相互の間に明かなる理解と熱き友情とあらば、太平洋は長へに平和なる湖水として残るであろう。(後略)」(「労働及産業」大正5年1月号「労働及産業」(3)日本社会運動史料 機関紙誌篇 法政大学出版局)と述べると彼の周囲には成功を祝して握手を求める代議員が集まりました。

 鈴木は訪米によって多くの見聞と経験を深め、帰途の船上甲板で鈴木に遅れて訪米した渋沢栄一と元旦の日の出を見ながら談論[渋沢栄一「資本と労働の調和」「労働及産業」大正5年8月号 「労働及産業」(4)]、1916(大正5)年1月4日横浜に帰着しました。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む13

 鈴木文治の帰国とほぼ時を同じくして、吉野作造の論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済すの途を論ず」が1916(大正5)年「中央公論」1月号に発表されました(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造10参照)。

 この吉野論文における民本主義の思想に鈴木文治は呼応するかのように、その主張に明確な変化が表れます。

 たとえば1911(明治44)年3月28日日本における最初の労働立法である工場法が 公布(「法令全書」第四十四巻ノ二 法律第四十六号 原書房)されましたが、その施行は勅令で定めるとされたまま放置されていたのでした。

つかはらの日本史工房―東大・京大・阪大・一橋・筑波に関する受験情報―鍛える!日本史論述―2000年度版―215 独占資本の形成と工場法

 同法は1916(大正5)9月1日にやっと施行されたのですが、同法施行令・施行規則制定に際して農商務省が資本家団体に諮問したのに労働者団体には諮問せず、この法令が結果として資本家本位のものであったことは明らかです。また同省商工局長が工場主に対して、工場法は日本固有の主従の美風を根本として、尚一層発展せしめて貰いたいと要望したことに対して、鈴木文治は工場法の適用は工場主も職工も平等の立場にあってうけるべきものと主張したのです(工場法 「社会新聞」 大正5年6月 「吉田千代「前掲書」引用)。ここに鈴木の労使関係に対する認識の変化をみることができます(「労働運動二十年」を読む9参照)。
 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む14

 鈴木文治は1916(大正5)年9月9日2度目の渡米に出発、再び出席したAFL第36回大会は平和(講和)会議の使節に各国労働者代表を参加させること及び平和会議開催の同時期・同場所に於て万国労働者会議を開催することを決議しました[「労働及産業」大正8年8月号 「労働及産業」(10)日本社会運動史料]。彼は1917(大正6)1月23日に帰国しました。

 同年4月6日より3日間友愛会創立五周年大会が開催されましたが、同大会は戦後国際労働大会が開催された場合、代表者を選出して列席させることを可決していました[「労働及産業」大正6年5月号 「労働及産業」(5)]。

 友愛会創立よりこのころまでに、同会組織は順調に発展してきました。やがて既述のように川崎・本所などに支部ができ(「労働運動二十年」を読む8・10参照)、1914(大正3)年には北海道室蘭支部が発足した時、松岡駒吉友愛会に入会しています。

岩美町(鳥取県)―サイト内検索ー偉人たちの足跡―松岡駒吉

 工場地帯のあるところには必ずといっていいくらい友愛会支部が作られ、やがて東京・神奈川・大阪・神戸などに連合会が生まれました。また海員・鉱山・婦人労働者を対象とする特別の部も生まれました。

 創立1周年で会員は1326名、創立五周年の大正5年には会員総数27000名・支部数108に達し、その外生活援護・法律相談や出版・講演などの啓蒙活動にも力を入れてきました(大河内一男「暗い谷間の労働運動」岩波新書)。五周年大会では会則を修正して職業別組合への方向を示し、女子の準会員規定を正会員として男女平等の原則を樹立しました(吉田千代「前掲書」)。

 松岡駒吉について鈴木文治はその自伝で次のように回想しています「同君はもと北海道の室蘭製鋼所の職工であった。(中略)入会の後漸く幹事に就任して会計の任務を執るや、俄然として理財の能力を発揮し、(中略)全国に率先して室蘭支部の会館を建設するに至ったが、同君の力最も大なるものがあるのだ。(中略)漸く同君の承諾を得、友愛会の本部員として採用することとなり、先づ大阪連合会の主務として働いて貰ふことになった。(中略)大阪にあって刻苦精励された後、本部主事兼会計として東京に在住(後略)」(「労働運動二十年」)。

JSW日本製鋼所―企業情報―沿革 

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む15

 第1次世界大戦下において日本商品はアジア市場に進出、貿易は大幅な輸出超過となり、海運・造船のみならず鉄鋼業・化学工業も躍進、鉄成金・船成金などと呼ばれる人々が現れ、工場労働者数も急増しました。しかしこのような好況にもかかわらず、一般労働者の名目賃金は増加しても、物価の上昇がそれを上回っていたので、実質賃金は低下し労働争議は増加の傾向を辿ったのでした(労働運動史料委員会編「日本労働運動史料」統計篇 第10巻 労働運動史料刊行委員会)。

 1917(大正6)年1月14日池貝鉄工所職工630人余は2割賃上げを要求して罷業、  翌2月本所の三田土ゴム会社職工380人余3割賃上げ要求で罷業、前者は鈴木渡米中の会長代理が調停、後者は鈴木文治が調停、各々1割賃上げで解決しました[「労働及産業」67号「労働及産業」(5)]。   

 さらに同年3月14日室蘭製鋼所職工が2割賃上げを嘆願しましたが、要求拒絶により罷業、鈴木文治は日本製鋼本社を訪問して後、室蘭に赴き、難交渉の末会社は平均2割~3割の賃上げを認めましたが、友愛会員22名は解雇、其の他の会員は友愛会脱会を強要され同会室蘭支部は壊滅状態となりました[「労働及産業」93号「労働及び産業」(9)]。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む16

 この争議をきっかけに政府・使用者側の友愛会に対する姿勢は強硬となりました。室蘭製鋼所が軍需工場であったので呉・横須賀の両海軍工廠において友愛会員に対する脱会強要が行われ、舞鶴海軍工廠では御用団体「工友会」を創立して友愛会員をこれに吸収するなどの友愛会に対する圧迫が激化しました。

 これに対して鈴木文治は海軍工廠幹部や海軍次官に同郷の海軍大将斎藤実の紹介状をもらって抗議しましたが(「斎藤実関係文書」国立国会図書館 憲政資料室所蔵)、何の効果もなかったようです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー斎藤実

 鈴木文治はこのような労働者をめぐる環境の緊迫にもかかわらず、上述の五周年大会で規約第2条を「本会ハ全国ニ於ケル各種同業団体ノ総連合トス」と改正して、職業別労働組合の全国的連合体をめざす方針を表明し、1917(大正6)年10月15日秀英舎・日清印刷の印刷工が友愛会東京印刷工組合(友愛会最初の職業別組合)を結成(「労働及産業」76号)、翌年10月10日には友愛会東京鉄工組合創立総会が開催され、理事長山口政科・理事(会計)松岡駒吉が就任しました[「労働及産業」89号「労働及産業」(9)]。
 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む17

 1917(大正6)年ロシア革命が起こりました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。鈴木文治は同年春大学を卒業した野坂鉄(「労働運動二十年」を読む7参照)を本部教育員に任命、同年9月から機関誌の編集長として出版部長となりました。

 野坂は友愛会員に機関誌への投稿を呼び掛け、1918(大正7)年夏「露西亜革命の感想」という題で懸賞論文を募集、応募論文14が「労働及産業」同年10~11月号に掲載されました。同応募論文の1等入賞者はなく、2等に仙台支部の原田忠一の「生きる光明を与へたり」が入賞しました。野坂参三の自伝「風雪のあゆみ」(新日本出版社)の記すところによれば、原田忠一とは、そのころ野坂とともに本部出版部で機関誌編集に従事していた鍛冶工平沢計七(亀戸事件の犠牲者・「労働運動二十年」を読む26参照)の筆名であったようです。

 この論文で平沢は次のように記述しています「(前略)今の世の中は吾々貧乏人には浮かばれない様に出来てゐるのだ。(中略)ところが迅雷霹靂の如く露西亜に大革命が起って瞬く間に天下は労働者の手に帰してしまった。(中略)私は躍り上ったそして家に駆けこむで小供等を抱きしめて斯う叫むだ。『オイ小僧共、心配するな、お前達でも天下は取れるむだ! 総理大臣にもなれるのだ!』謂はヾ露西亜革命は吾々に生きる希望を与へてくれたのだ」。なおこの懸賞論文に野坂は編集長でありながら偽名山崎国三の名で「先駆者の悲哀」と題する文章で応募、3佳作の一つとなりましたが、「この事実は、選者の一人である鈴木会長も知らなかったろう。」(野坂参三「前掲書」)と述懐しています。

 しかし当時の社会運動に大きな刺激を与えたのはロシア革命よりも、1918(大正7)年夏に起こった米騒動(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)でした。

 鈴木文治は自伝の中で米騒動について次のようにのべています「米騒動と労働運動とは、一見何の関はりもないやうに見える。(中略)併し乍ら事実は決してそうではない。米騒動は民衆に『力』の福音を伝えた、労働階級に自信を与えた、(中略)米騒動は、我国労働運動の拍車となってその活躍を前へ推進めた。」(「労働運動二十年」)。

 吉野作造右翼団体「浪人会」との立会演説会を開催した際、鈴木文治が会場内外を連絡してその実況を報告、多くの知識人・民衆に知らせて活躍したのはこのころです(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造25参照)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む18

  第一次世界大戦終結に伴う講和会議の日程が明らかになると、鈴木文治は労働団体の形勢(「労働運動二十年」を読む14参照)について懇意の間柄であった外務次官埴原正直を通じて外相内田康哉に注意を促し、外相も了解、非公式の政府顧問として1918(大正7)年12月30日横浜を出発、アメリカからロンドンを経由、翌年2月15日講和会議(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)開催中のパリーに到着しました。

 しかし列強首脳はロシア革命の影響による労働者の急進化を恐れ、すでに講和会議の一部門として国際労働法制委員会(議長 AFL会長ゴンパース)を設立させており、各国労働代表は同法制委員会の委員で日本はすでに落合謙太郎(駐オランダ公使)・岡實(前農商務省商工局長)の2名が委員となっていました。鈴木文治は両代表の顧問として同法制委員会に出席、同年3月20日まで同委員会はほとんど休まず会議を継続、平和条約第13編(いわゆる国際労働条約)を決定、これにより国際労働機関(ILO)の設置と一般労働原則9箇条の決議がなされ以後毎年国際労働会議が招集されることとなりました。

 同年4月28日講和会議総会で国際労働条約の成立が決定すると、鈴木はパリーを出発、ロンドン・アメリカ経由で同年7月17日横浜に帰着しました。

 彼は記者会見で日本政府より発する訓令も極めて保守的なる時代遅れのもので、委員自身も自分の独立意見によって進退することができず、連合各国の感情を甚だしく損したことはもちろんである。日本側がアメリカにおける移民問題の好転をはかって講和会議に提出を希望していた人種平等案(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)が、英・米の反対により取り下げる結果になったのも、同じくその源はここに発するものであると政府の対応を批判しました(吉田千代「前掲書」)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む19

 1919(大正8)年8月3日東京砲兵工廠の職工らは小石川労働会を結成、賃上げ・8時間労働制などを要求して8月23日より罷業、8月30日解決しました。なお同年11月9日大阪砲兵工廠に組合「向上会」が結成されています(「労働運動」1号 労働運動社)。

Weblio辞書―項目を検索―砲兵工廠   

 同年8月30日友愛会七周年大会が東京の唯一館講堂で開催され、会名を大日本労働総同盟友愛会と改称、鈴木会長の単独指導を理事の合議制とすることや会長公選などを決議、決定された20カ条に及ぶ主張の主なものはヴェルサイユ平和条約に記された労働理念(一般労働原則9箇条・「労働運動二十年」を読む18参照)をとりいれたもので(1)労働組合の自由(2)幼年労働の廃止(3)最低賃金制度の確立(4)同一労働に対する男女平等賃金制の確立(5)1週1日日曜日の休日(6)8時間労働および1週48時間制(7)夜業禁止(8)普通選挙(9)治安警察法の改正などが掲げられています(「労働運動二十年」・「労働及産業」98号)。

 同じころ政府(原敬内閣)の意をうけて渋沢栄一らが中心になり、(労資)協調会設立の趣意書と綱領を公表、労働団体の代表として友愛会長鈴木文治に参加協力を要請しました(渋沢栄一「協同的精神の発揮」「実業之日本」大正8年9月 吉田千代「前掲書」引用)。 

 しかし鈴木は協調会が労働組合の公認・治安警察法第17条の撤廃・労働組合の同盟罷工の権利の公認を協調会の方針とすることなど5項目を提示、もし協調会発起人が真に時勢を達観する明があるならば、労働組合の公認と普通選挙法の樹立という二大問題に其非凡の精力を傾倒、世界の大勢に響応すべきではないかと主張しました[「労資協調会を評す」「労働及産業」大正8年9月 「労働及産業」(10)]。これらの文章に渋沢も憤慨して、以後鈴木文治とは疎遠となったようです。1919(大正8)年12月22日渋沢栄一らは協調会を設立しました(矢次一夫編「財団法人 協調会史」偕和会)。

 一方賀川豊彦らの提唱で同年12月15日関西14労働団体普通選挙期成関西労働連盟を結成(「総同盟五十年史」第一巻 総同盟五十年史刊行委員会)、普選運動は友愛会をはじめ各種労働団体を中心に盛り上がりを見せていました。

 同年12月26日第42議会開院式にあわせて、大阪では大阪砲兵工廠向上会の八木信一、鉄工組合の坂本孝三郎、友愛会の久留弘三らが中之島公会堂で演説会を開催、「われら労働者は、第42議会において、普通選挙法の通過を期す」という決議をしています(大河内一男「前掲書」)。

賀川記念館―賀川豊彦についてー賀川豊彦の略歴

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む20

 1920(大正9)年2月5日友愛会などが普選期成・治警撤廃関東労働連盟を結成、同年2月11日東京で数万人の普選大示威行進が挙行されるに至りました(新聞集成「大正編年史」大正九年度版 上 明治大正昭和新聞研究会)。

 同年2月14日衆議院に憲政会・国民党・普選実行会提出の普通選挙法3案が上程されましたが、2月26日普選法案討議中議会は解散、5月10日総選挙の結果立憲政友会が大勝、7月1日第43議会開会、7月12日衆議院は憲政会・国民党提出の各普選法案を否決しました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23参照)。

  この結果について友愛会の関西系機関紙「労働者新聞」大正9年8月15日号は次のように述べています「労働者諸君、今度の議会のふざけ方はどうですか。それでもなほ諸君は、議会を信頼しますか」(大河内一男「前掲書」)。このように議会に対する労働者の信頼は急速に薄れていったといえるでしょう。

 これ以後労働組合を中心とする普選運動は急速に衰退の一途をたどりました。

 1920(大正9)年3月15日株式市場は株価暴落で混乱、いわゆる戦後恐慌が始まっていました(日本経営史研究所編「東京証券取引所50年史」東京証券取引所)。企業や商社の倒産がつづき、多くの失業者が街頭に投げ出されていきました。労働組合は普選どころか首切り反対闘争を展開するのが精一杯で、それも敗北して組合組織そのものも壊滅する事態を招くことが多かったのです。

 同年2月5日官営八幡製鉄所の職工一万数千名は職工規則の改正をめぐって罷業開始、前年結成された組合「日本労友会」を中心に友愛会も応援しましたが、労友会幹部19人が検挙され、同年4月1日9時間3交代制実施など職工は要求を貫徹したものの多数の解雇者を出し労友会は壊滅しました(八幡製鉄労働組合編「八幡製鉄労働運動史」八幡製鉄労働組合・浅原健三「溶鉱炉の火は消えたり」新建社)。

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