幸田真音「天佑なり」を読むⅣ- 1~10

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ- 1 

 高橋は山本前総裁に対する政府の措置ならびに新総裁の態度如何によっては、ただちに職を辞する覚悟でありました。 ところが前述の如く山本前総裁のことは円満なる解決を見るようになりましたし、また松尾(臣善)新総裁(吉野俊彦「前掲書」参照)も1903(明治36)年10月25日の夜、わざわざ高橋の自宅へ来て、日本銀行の行務については高橋に信頼する、かつ正金の監督をはじめ海外のことについては、今後一層力を尽くしてもらいたいというような懇切な言葉がありました。もとより松尾氏とは、高橋の正金銀行時代より、常に心易くしておった仲であり、そうなれば高橋の方に別意のあろうはずもなく、総裁更迭問題も、万事円満に落着しました。 

日本銀行―日本銀行についてー日本銀行の概要―沿革―歴代総裁 

 さて高橋は山本総裁勅選の問題で、桂首相に談判の時、初めて日露の間に、重大なる交渉案件が進行中であることを知りました。しかしその案件がいかなるものであるかも尋ねもしなかったし、またそれに対しあまり重きを置くこともしませんでした。ところが11月10日前後であったと思います、松尾総裁がごく内密のこととして、高橋に話されるには、「今朝大蔵大臣に呼ばれての話に日露談判の経過が甚だ面白くなくなった。あるいは破裂するかも知れぬ。万一両国開戦となれば、日銀としては軍費の調達に全力を注がねばならぬ。また国内の支払いは兌換券の増発によってともかく弁ずるとしても。軍器軍需品などにて外国より購入せねばならぬものがたくさんにある。これに対しては正貨をもって支払わねばならぬから、この方面のことについては、今日より十分に考慮画策しておいてもらいたい」ということでありました。 高橋は当時日本銀行の副総裁として、傍ら横浜正金銀行の業務監督の任に当っていました。よってこの立場より自分の意見述べ、かつ総裁と相談の上、正金の三崎副頭取を呼んで内密に取り調べ方を委嘱しました。その事項の主なるものは 

1,三井物産、高田商会をはじめ当時の主立ったる輸入業者に対し、正金銀行が与えたる信用の上の金高及び期限 2、輸入為替の予約高ならびに期日 3、輸入業者の取り扱う物品中政府の注文に関するものと、民間の需要に属するものとの区別、品目ならびに金高 4、諸外国人の内地に有する預金、及び外国銀行が内地において有する資金の概数などでありました。 

5、百万円をもって、果してr兌換の責任がとれるかどうか、即ち語を換えて言えば、開戦と同時に正貨の輸出を禁止するの必要なきや否やを、推定せんがためでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

ここにおいて正金銀行はなるべく目立たないように、ごく内密で上述の取調べを開始するとともに、一面には売為替や信用状の発行について、出来るだけ控え目にするよう手心しました。 

 しかるに、いつとはなく機敏な商人が、これらのことに感づいて何か異変があるのではないかというような疑惑を抱くに至りました。そうして一番早く感づいたのが、大阪の経済界でありました。 

 今から当時を顧みると今昔(こんじゃく)の感に堪えないものがあります。それは日露両国間が開戦にもなろうというほどの重大なる外交談判のあることが、その間際まで民間に知られずにおったことでありました。 

 大阪の財界では、1903(明治36)年の始めころから疑念を抱きはじめて、それがために多少の動揺を来す兆しが現れてきたので、政府もこれにはいたく憂慮するに至りました。同年12月中旬曽禰大蔵大臣は松尾総裁を呼んで「日露の談判も先日は一時懸念されたが、このころの調子では談判も平和に解決するようである。しかるに大阪方面の財界がなんとなく童謡の兆があるが、あまり悲観に陥らしめても困るから、何とか緩和の道はないであろうか」との内輪話であったとて高橋に相談がありました。 

 これは甚だむずかしいことで、日本銀行として財界に向って全く安心せよと公言するわけにもいかず、両人協議の結果、まず松尾総裁が墓参のため郷里に帰ることとして、そのついでに大阪に立ち寄り、同地の主立った人々に面会して、それとなく安心を与えるような話をするのがよかろうと相談を決めました。

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 そこで総裁は年末も押し詰まった25日大阪に立ち寄って上述の相談通り実行しました。この時までに正金銀行の取調べにもとづいて、開戦後の1カ年間に、わが正貨の海外に流出すべき金額を推測したるに、1、外国銀行が持ち出す正貨 3500万円 2、輸入品の代価支払いの結果として流出する正貨 3000万円 計 6500万円 で、これを当時日本銀行が所有する正貨高 1億1700万円より差し引けば、その余すところ僅かに5200万円見当で、しかもこのうちには開戦後当然海外払いとなるべき軍需品の代価は含まれておらぬ、甚だ心細き次第でありました。 

 ところが前述の如く、談判の模様はだんだんに良くなってきたというのでやや安心しておりました。しかるに12月29日の夜、急に大蔵大臣から呼ばれました。高橋は宴会の出先から早速大蔵大臣官邸に行くと、その席には曽禰大臣のほか阪谷次官、相馬正金頭取もいて、高橋の到着を待っていました。大臣は高橋の姿をみるや否や「政府は先ごろロンドンで2隻の軍艦を買いいれることにして、そのことを、英国駐在の林(董 ただす)公使に電訓し、林公使は直ちに相手方と契約を取り結んだがさて、その代金の支払いに当って、正金ロンドン支店の手違いで支払い不能に陥り、ために林公使は進退谷(きわ)まった立場となった。公使よりの電報によれば、もし、この支払金が調達出来なければ解約と共にロンドンを引き揚げねばならぬと言って来た。すでに林公使の立場が以上の如くであるし、かつ政府ではこの際是非とも隻の軍艦を買い取りたいのであるから、日本銀行で何とか調達は出来ないであろうか」という相談でありました。  

 近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー林董 

 何分事柄が重大であり、かつ少しも猶予の出来ない場合であったので、高橋は即座に一つの案、即ち、1、林公使をして公使の資格において約束手形を振り出し先方に渡すこと、 2,もし先方において担保を要求する場合は、日本銀行所有のわが四分利英貨公債200万磅を正金銀行支店に貸し渡し、正金支店振り出しの手形をもって金融を計らしむること、を提議しました。

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 幸いこの一案は列席者の同意があって、ただちに林公使及び正金支店に電訓されました。その結果は第一案によって弁ぜらるることとなり、上記2隻の軍艦は早速本邦にに廻航せらるるに至りました。これ即ち日進、春日の2艦であります。 

 weblio辞書ー日進(装甲巡洋艦)ー春日(装甲巡洋艦)  

 1904‘明治37)年正月元日の早朝、阪谷大次官から電話で、「いよいよ談判破裂の模様(「坂の上の雲」を読む14~17参照)だから、今日からそのつもりで、万事の用意に取り掛ってもらいたい。また当方からも出すが、君からも郷里に」在る松尾総裁に至急帰京されるよう電報を発せられたい」という内訓があって、高橋は事のあまりに急転直下せるに驚きました。そこで早速帰省中の松尾総裁に電報を発するとともに、三崎正金副頭取を呼んで、かねて申し合わせておいた計画の実行に取り掛かりました。就中(なかんずく)民間の需要に属する輸入品にして未だ船積み前のものに対しては、その金額を減らすか解約するの手段をとらしめ、ひたすら正貨の維持を講ずることとしました。また一方においては正貨輸出禁止の得失如何を考究しましたが、いよいよ開戦となれば、外国より購入せねばならぬ軍需品も多額に上る見込みであって、到底外債を起さずには済まないでしょう。しかるに最初から正貨の輸出を禁ずることは、海外に対して信用を墜し、従って公債の募集に当り、それが不利益なる影響を及ぼすことも考えねばなりません。これに反して現在のまま正貨の輸出を自由にしておけば、流出の勢いも自ずから緩やかになうであろうと考えられます。かれこれ審議研究の結果正貨の輸出の禁止は、この際得策にあらずと決定しました。 

 これよりさき、1903(明治36)年7月28日「日本は満州における露国の特殊利益を認め、同時に露国は韓国における日本の優越なる利益を承認せんこと」を提議しましたが、露国はこれを認めず、1904(明治37)年2月4日日本政府は対露国交断絶を決定、同年2月5日露国駐劄公使栗野慎一郎に電訓して露国政府にこれを通牒させました。 

 1904(明治37)年2月6日、日露の国交は断絶していよいよ開戦となりました。 同時に戦時財政の要務は井上、松方両元老が見らるることとなり、軍費に当つべき外債募集の件も時を移さず廟議決定を見ました。 

 ここにおいて井上、松方両元老ならびに松尾日銀総裁はは相談の結果、しかるべき人物を財務官としてロンドンに派遣し時機を見て外債募集をなさしむることに一決しました。そうして松方伯は、最初高橋是清をもって財務官に当つべしとの説を述べられ、かつ高橋に対しても相談せられたが、高橋は自分はその器(うつわ)に非ず、園田孝吉「天佑なり」を読むⅢ-23参照)君こそ最適任者である旨を答えて辞去しました。また曽禰大蔵大臣および松尾日銀総裁は、今日において一番大事な正金銀行の業務を指図したりするのに、高橋副総裁がいなくては困ると申し立てられ、一方園田孝吉君からは、自分の健康が到底海外行きを許さぬといって断って来ました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 かくて財務官の人事が非常な困難に陥り、両元老も少なからず困惑せられている折柄、2月8日に至りわが瓜生(うりう)戦隊の仁川沖の勝報に次いでわが連合艦隊は旅順を砲撃して敵艦3隻を撃沈したりとの報告至り、ここに始めて局面一変して、大蔵大臣も松尾も「この情勢であれば高橋を手離してもよかろうから、同君を至急ロンドンに派遣せしめらるるよう」にと具申しました。そこで俄かに模様が変わって2月12日夜、井上伯から高橋は呼ばれました。早速行くと伯は「君はこのたび御苦労だがロンドンに行って公債の募集に当ってもらいたい」といって、次のようなことを附け加えて話されました。 

 「松方伯ははじめから君を派遣せよとの説であったが、自分ははじめ園田がよかろうと思った。それは何ゆえかといえば、出先の者から日本銀行や政府に宛てた電報を見て、これに対して返辞をしたりするのには、海外の事情に精通した者が日本におらねば、政府と出先の者との意思の疎通を欠き、誤解を生ずる虞(おそれ)がある。そこで君は内におって園田から来る電信の往復の任に当ってもらわねばならぬので、園田を外国に出張せしむる考えであった。しかるに園田が自分の身体が持たない、強いて行けば死にに行くようなものだ、というから、これもやむを得ぬ。ついてはこの際園田を日本銀行の顧問として、外債募集にする君との電信往復の要務を取扱わしめねばならぬと考えるから、その通り取計らったらよかろう」といわれました。 

 このことは、その日銀行へ帰ると直ぐ松尾総裁に伝えましたが、いろいろ考究の結果、総裁から口上をもって園田に顧問を依頼することに決しました。

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 さて井上伯からロンドン行きを申し含められた時は、高橋はlこの任務のなかなか重大で、十分政府にその決心を聞いておかねばならぬと思い、「仮に私がその重任を拝するとしても、政府に対して堅く約束してもらわねばならぬことがあります。それは、政府の外債談が起これば、常に内外のいわゆるブローカー(商行為の仲立人)が現れて、コンミッション(委任)を自分の手に収めんと、様々の事を政府に申し立てて来る。その場合いささかにても政府筋がこれに迷い、少しでも彼らに耳を傾けるようなことがあっては、出先の者の仕事の支障となり、結局政府に迷惑がかかり、損失を受けることともなるのであるから、いかなる者がいかなる申し立てをしても、政府は一切それを取り上げず、委任したる全権者に絶対の信用を置かれたい。もし政府においてこの決心が出来なければ、私は到底この大任を引き受けることは出来ません」と一言打ち込みました。すると井上伯は「その儀誠にもっともなことであるから堅く約束する。ついてrはその注文の要件を認たためて明朝提出するように」とのことでありました。そこで高橋は辞して帰り、翌朝次の如き覚え書(省略)を持参し、井上伯を訪問して提出しました。 

 既述のいような次第で、高橋は日本銀行副総裁の資格において、外債募集のことを委任せらるることとなりました。従ってその後は、時々元老大臣などの評議にの席にも列席することとなりました。 

 この時、政府の樹てた軍費の予算を聴くと、「明治二十七八年の日清戦争の時には、軍費総額の約3分の1が海外に流出しているので、今回もそれを標準として正貨の所要額を算定した。即ち軍費総額をおよそ4億5000万円と見て、その3分の1、1億5000万円をもって海外支払いに必要なるものと仮定すれば、目下日本銀行所有の正貨余力が約5200万円ほどであるからまずこれをもって海外支払いに充てるとしても、なお1億円の不足を生ずる。そうしてこの不足はどうしても外債に依るよりほか途がない。よって年内に1億円だけは絶対に外債の募集を必要とする。もっとも戦時の募債であるから、担保を要求せらるることも覚悟せねばならぬ。それでまだ世間には公にいい兼ねるが、海関税の収入をもって抵当に充てることにすでに御裁可も得てある。ついてはこの心得をもって速やかに出発し、年内に一度で出来なければ、二度にても差し支えないから、1億円だけは募債するよう努力せられたい」ということでありました。 

 また阪谷次官も附言して、「この戦費は1年と積ってあるが、これは朝鮮から露軍を一掃するだけの目的で、もし戦争が鴨緑江の外に続くようであったら、さらに戦費は追加せねばならぬ」ということでありました。 

 当時高橋は馬で怪我をした右の腕がまだ十分に治らず、左の手のほかはは働かせない状態でした。洋服も新調できず早速出発することとなり、深井英五〈「男子の本懐」を読む17参照〉が当時同行の秘書役で、英語英文ともに達者であるところから、同君一人を帯同して2月24日横浜出帆の便船で出発渡米しました。

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アメリカに着いてニューヨークに直行し、まず3~4の銀行家に面会して様子を探ってみると、一般米国人の気分はロシヤに対して日本が開戦したことを、小さな子供が力の強い巨人に飛びかかったのだといって、日本国民の勇気を嘆称し、我が国に対する同情の表現は予想外であって非常に愉快を感じましたが、この時代の米国はまだ自国産業発達のたには、むしろ外国資本を誘致せねばならぬ立場にあって、米国内で外国公債を発行するなどいうことには、経験も乏しく一度相談してみましたが到底成立しないことを認めたので、僅かに4~5日の逗留(とうりゅう)で、3月の初めに米国を発って英国に向いました。 

 ロンドンの宿は、米国出発前、正金のニューヨーク支店を経てロンドン支店宛てに電報をもって、この前泊ったド。ケーゼル・ロイヤル・ホテルに部室を取っておくよう頼んでおいたので、ロンドン着とともに、直ちにそこに落ち着きました。 

 さてそれからいよいよ本務の公債談に取りかからねばなりませんが、高橋はどうしても正金銀行を本体として、その取引銀行であるパース銀行、香上銀行、チアター銀行、ユニイオン銀行などに、まず交渉を進めるのが最も順当であると考えました。 

 幸い旧友のシャンド(「天佑なり」を読むⅢ-28参照)氏が、今はパース銀行のロンドン支店長をしているので、まず同氏に会い、その紹介で頭取のパー氏、本店総支配人のダン氏などにも面会しました。また香上銀行、チアター銀行、ユニオン銀行などの幹部諸氏やベアリング商会シベルストック卿とも会見しましました。 

 これよりさき、高橋がニューヨークに着するとまもなく、ロンドンの正金支店長山川勇木より電報をもって「ロンドンでは募集の見込みないはない、今日正金銀行のごときは鐚一文(びたいちもん)の信用もない」とと申し越してきました。けだし山川の意は、ぜひアメリカで金策せよ、イギリスに来ても恥をかくばかりだから、という意にありました。 

 高橋はロンドンに着くと、前記のようにパース銀行の総支配人ダン氏ならびにロンドン支店長シャンド氏その他の組合員と懇親を結び、シャンド氏その他とびたび会見しては懇親を結び、たびたび会見しては、英貨公債1000万ポンドを募集せんとする日本政府の希望告げかつ諮るりました。しかるにいずれも燃ゆるが如き同情は持っているのですが、ただ話を聞きおくに止まり、目下の情況では日本公債の発行は容易なことではないとということで、山川の電報の真意が一層よく体験せらるるばかりでありました。 

 その内にパンミュール・ゴールドン商会のレビタ氏の紹介で、有名なるロスチャイルド家をも訪問して懇意となり、一番末の弟のアルフレッド・ロスチャイルド氏とは最も親密を重ねた、またロスチャイルド家と併せ称せられる金融業業者サー・アーネスト・カッセル氏とも交際するようになりました。しかしロスチャイルド氏ならびにカッセル氏には、こちらから公債談をすることは一切避けて、ただロンドン及びパリーの経済市況を聞くに止めました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 かくてもっぱら銀行業者に対して交渉を進めている内に、結局正金銀行と一緒になって公債発行を引き受けようという好意を表してくれるに至ったのはパース銀行と香上銀行だけで、チアター銀行はついに断ってきました。 

 もっともチアター銀行の参加如何については日本出発前より多少の懸念はしておりました。というのは、最初横浜で香上銀行とチアター銀行双方の支配人に会って公債談をしたところ、香上銀行の支配人は冷淡なるに引き替え、チアター銀行支配人は意外に乗気でありました。 

 「私は過日来チアター銀行が、日本公債発行の肝入りをするようにたびいたび本店に電報を打ったが、どうしても本店がその気にならぬので困る。今度貴方があちらに行かれたら、今後日本公債の発行に当たっては、ぜひチアター銀行が主となって働くよう話をしてもらいたい」という一語がありまいた。したがってチアター銀行が発行仲間に参加するかどうかということは、この時から疑問としておりました。それで今度参加を断られてもあまり失望もしませんでした。 

 これは公債に関する話ではありませんが、ロンドンに来て気がついたことは、英米両国民が日露戦争に対する観測を異にせることでありました。それはアメリカでは一般に、日本は陸軍では勝つだろうが海戦では敗けると考えているものが多かったのですが、ロンドンに来てみると、海戦には勝つだろうが陸戦では到底露国には叶うまいという考えを持っているものが多いように見えたことでありました。 

ロンドンに着いて数日後のある日、ベアリング商会のレベルスドッグ卿がやって来て、「今日日本公債を発行したいとの御希望であるが、公債の条件がいかに良くとも、これを一般公衆に向って募集することは困難である。貴君が御相談中の銀行家連が躊躇するのも決して無理ではない。しかし貴君の立場を察すれば実に同情に堪えない。わが商会は往年日本の鉄道や鉱山事業に対して資本を貸す考えをもって日本に店員を派遣した。その当時井上伯は、自分のこの企て誠に宜いことだと大いに賛成せられたが、だんだん日本の法律が調べているうちに、鉱山事業や鉄道に資金を貸す場合に、普通外国で行われているような抵当権の設定が出来ないことが判明したので、そのことを注意して上げたが、ついにこのころの議会に提案され新たに法律の制定を見るに至った。自分の商会とは上述のような特殊の関係もあるから、日本公債の募集については大いに同情ももっているし、また尽力もして見たいと思っている。しかしながらこの際一般公衆から募集することは自分にはどうしても自信がない。よって今のところでは自分の商会だけで応募するようにするよりほかにしようがない。それには往年日本政府が発行した四分利英貨公債の内、現に200万磅だけは日本銀行が取有しているから、それを担保として日本政府の大蔵省証券の形をもって、最高60万磅までなら御融通しよう」と提案して来ました。これがそもそも日本政府に金を貸そうといい出してきた最初の相手方でありました。 

 weblio辞書ー抵当権ー財務省証  

 これを聞いて、高橋は深く同君の好意を謝するとともに、現在のところ日本政府はそれほどまでに窮迫しておらぬ事情を述べて、暗々裡にその提案に考慮を費すわけに行かぬという意思を表明し、いろいろ雑談をして別れました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 今後どうしたらよかろうと考えているうちに、フト思い出したのは、日本を発つ前、駐日英国公使マクドナルド氏から紹介されたサー・ジョージ・スーザーランド・マッケンジー氏のことでありました。 

 公使の話によると、この人は公使夫人の姉妹婿に当たる人で、銀行家ではないが、現に英国の大汽船会社の社長をしており、人格も立派で社会の信用も厚い人であるから、何か用事が起こった場合にはこの人を訪ねたがよかろう、とてわざわざ添書(てんしょ)まで書いてくれたのでありました。今その人のことを思い出したので、早速訪問して相談して見ようと決心しました。 

 かくて翌日同氏をその私邸に訪問しました。氏は大変気持ちよく面会してくれました。その時夫人はすでに病没して独身でありました。 

 高橋は率直に自分が公債募集にきていること、これまで銀行家たちに相談したが、少しも運ぶ様子がないので、一層のことロスチャイルドかカッセルのような大資本家に交渉してみようかとも考えている。その得失について決しかねるからして、貴君のご意見を聞きに来たという意味のことを話すと、氏は「貴君の来られることはマクドナルド公使からも通知があり、今日お目にかかるのは誠に本懐である。さて只今貴君の迷っていられることは至極もっともなことである。私は銀行家ではないがら十分お役に立つ助言は出来ないが、その得失についてはいっさか私見を述べてみよう。今貴方が相談を掛けられている銀行はいずれも株式会社である。したがっていずれも公衆の預金を運用しているから、これを公債のごとき長期のものに振り向ける資力は少ない。ゆえに銀行業者たちにいかに貴方の希望に応じようと熱心な同情があっても、自分に引き受ける力がないから、結局は一般公衆に持ってゆかねばならぬ。従って一般公衆の気持ちも観測するの要があるので、貴方の申し立てに対しても、今すぐにはっきりした答えが出来ない次第と思う。これに反してロスチャイルドとかカッセルなどのごとく、自分一人ででも引き受けの出来るような大資力のある者は、現在公衆の気持がどうあろうと前途の見込み如何を考え、将来有望という見込みさえ立てば、自分一人の独力をもってでも公債を引き受けるのである。今日本政府の側に立って、上記両者の利害得失考えるに、一度これらの大資本家の手を経れば、日本政府は今後公債の発行者にあたっては、どうしてもその手を借らねばならぬ立場となる。しかるに資本家はその利益をすべて自己の手に収めるのであるから日本政府に対しては不利な欲張った条件を持ち出すに相違ない。これに反して銀行家たちの方は株式組織であるからその利益は少数の重役支配人などのの懐にはいるわけでではなく、すべて多数株主の手にはいるのである。従って私人と異なり、その条件も正当な条件であれば満足する。ゆえに、発行条件からいえば、資本家に頼るより銀行家を相手とした方が、日本政府の利益である」という話でありました。この一言は大いに高橋の参考となりました。これをもって高橋は何としてもまず銀行家によって募集を果さねばならぬ、と決心するに至りました。かくてこの日は大いに意を強うしてう彼の邸を辞しました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-10 

公債発行の相手方を銀行と決めてからは、以前と異なって一層手強く銀行者に談判を取り進めました。銀行家たちが日本公債引き受けを躊躇するのは誠に無理からぬことでありました。すなわちその第一原因は、当時ロシヤ政府はフランスの銀行家と提携してその後援を受けていたために、戦争開始以来、パリおよびロンドンにおける露国公債市価は、あまり変動なく、むしろ上り気味でありました。これに反して日本の四分利付英貨公債は、戦争前80磅以上を唱えていたものが、たちまち60磅まで暴落し、日本公債に対する市場人気は非常に悪くなりました。だからこの際新たに公債を発行したところで、果して一般公衆が気乗りするかどうか、その成功不成功を診断するのはなかなか困難なことでありました。 

 次に此の際日本公債を発行しても見込み通りの応募者がなく、結局失敗て終わったならば、日本政府は軍費調達のためロンドン市場を利用することが出来ないものであることを証明するようになります。 

 さらに銀行家の間に端なくも重大な一つの疑点が生じて来ました。それは日英両国は同盟国ではあるが、イギリスは戦争に対しては、今なお局外中立の地位にあります。ゆえにこの際軍費を調達することは、局外中立の名義にもとりはせぬかということでありました。高橋はこれに対して、自分にはよく判らぬが、かつてアメリカの南北戦争中に中立国が軍費を調達した事例もあるから、局外中立国が軍費を調達することは差し支えないと思うが、貴君らが心配になるならば、貴君らの信頼せらるる有名なる法官や歴史家について調べてもらうがよかろうといって取り調べさしましたが、その結果、法官や歴史家の意見としては、差し支えないということに一致したので、銀行家連も高橋も安心しました。 

 ロンドン着後約1箇月の間は、ほぼ以上のごとくして過ぎてしまいました。そうして3月も過ぎて4月10日ころ(1904年)となってようやく公債談二眼鼻がつきかけて来ました。すなわち銀行者たちは、鳩首塾議の結果、最善の努力として申し出て来た条件は、1、発行公債は磅公債とす 2、関税収入を以って抵当とす 3、利子は年6分とす 4、期限は5カ年 5、発行価額 92磅 6、発行額の最高限度300万磅 ということでありました。この時関税収入を抵当とすることについては、なかなか議論がやかましかったのです。英国銀行業者たちは関税を抵当とする以上、ちょうど清国にサー・ロバート・ハートのいうごとく、英国から日本に人を派遣し税関を管理せしめねばならぬと主張しました。これがなかなか強い意見であったが、高橋はそれに対して一切耳を傾けず、「一体貴君らが日本と清国とを同一と見ることが間違っている。日本政府は従来外債に対して元利払い共に一厘たりとも怠ったことはない。ただに外債のみならず、内国債においてもいまだかつて元利払いを怠ったことはない。それを清国と同一視されては甚だ迷惑である」と強くいい張ったので、彼らもついに「それでは名のみの抵当権だ」と、いいながらもとうとう承認しました。