幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-31~40

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-31

 8月17日からは、支店の検査に取りかかりました。米国では州によって銀行法が異なり、ニューヨークでは支店の設置ができぬので、長崎個人が正金の代理店(Agency)として営業している形になっています。しかるに桑港ではどうなっているか、その辺の関係についてまず話を聴取しました。それから支店の公課状について調べてみると、上半期において、図らずも欠損がでており、どうしてかような欠損を生じたかというに、それは香港向きの為替取り組から生じたものでした。

 この事実を見て、高橋は大いに考えるところがあったので、青木支店長に対して、「この店に欠損がでたといってかれこれいう次第ではないが、もしこれが日本向きの取引のために損失がでたというなら、私はむしろ快く思う。元来正金は日本と外国との貿易助長の金融機関であって、他外国間の貿易機関として造られたものでない。このことを取り違えて、アメリカ本位で仕事をするから、香港や清国向きの商売が多くなって来る。今後は日本本位に仕事をしてこの方に全力を尽くすがよい。しかして清国や香港向きの仕事はその副業ぐらいに考えてやってもらいたい」と言って注意を与えておきました。9月3日汽船ベルジック号にて桑港を出帆、日本に向いました。

 1898(明治31)年9月、7箇月振りで帰ってみると、政権は伊藤伯より大隈伯の手に移って、いわゆる隈板(わいはん)内閣が成立し、その大蔵大臣には憲政党(旧立憲自由党系)の松田正久が当っておりました。

Weblio辞書―検索―隈板内閣―松田正久

 新橋駅に着くと大蔵省から使いで「大臣が君の帰りを待っていられるから、すぐに行ったらよかろう」との伝言があったので早速松田蔵相を訪問しました。大層丁寧な、そうして物の言い方の軟らかな人で、初対面の高橋には大いに好感を与えました。

 大臣は「外債に関し井上前大臣に送られた君の報告書は引き継ぎを受けた。目下どうしても外債の募集をやらねばならぬか、早くそれに着手したいと思って、君の帰るのを待ちうけていた」と言われるから、高橋は「今日の市場の状況では、一時に巨額の発行は困難であるかもしれませんが、5000万円か1億円くらいまでなら四分利付で90%乃至95%で発行ができましょう、ついては速やかに御決定の上直ちに実行に着手せられたがよかろうと思います、この上調査の必要はありません」と答えました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-32

 それから正金銀行の重役及び日本銀行当局者に向って、海外支店の状況を報告し、かつこれに対する自分の意見を開陳しました。その大要は「今後わが正金銀行をして、海外における信用を高からしめかつその機能を発揮せしむるには、第一にロンドン支店をして単に為替業務ばかりでなく、その他の業務例えば手形の割引、貸金等につき自由に活躍せしむることが必要である。今日のところでは、正金のサンフランシスコ支店では、為替の受け入れ金をニューヨーク支店に送り、ニューヨーク支店は日本の輸出為替を取り立てて、サンフランシスコよりの送金と共にこれをロンドン支店に送金し、よってもってロンドン支店の為替買い入れの資力を養っているに過ぎない。

 しかして正金ロンドン支店に出入りする仲買人はおおむね東洋向き為替を取り扱う数人の者に止まり、ロンドン市内にてもっとも信用あり重視せられている仲買人らの出入りはほとんどない。これ単に業務の性質が東洋向き為替の取り扱いに限定せられているからである。正金銀行をしてロンドンの枢要なる銀行と同様の地位に進めるためには、どうしてもロンドン市内の金融場裡に立って働かさねばならぬ。さすれば多数の一流仲買人が朝夕正金の店に出入りするようになるから、ここに初めて正金の存在をロンドン市中に認められるようになる。それにつけても第一に必要なのは資金であるから、政府に願って、為替以外の業務に運用する資金として、政府か現に英蘭銀行に預けている清国賠償金のうちから200万ポンドくらいを極低利で融通してもらうことにせねばならぬ」と述べて、大体そのように決定しました。

 岩崎日銀総裁は松田大蔵大臣と意見の相違がああったためか、遂に辞職するに至りました。そこで後任総裁の問題となりましたが、日本銀行内部では河上謹一を推す空気が濃厚でした。ところが行外において山本達雄(吉野俊彦「前掲書」)を推す一派の運動があり、その内星亨(ほしとおる)などまでが、この問題の渦中に入って意見をいうようになってきたので、あるいは日本銀行に政党の空気が入って来はしないかとの懸念が生じてきました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ほー星亨

 日本銀行内部の人々も、万一そうなっては、その弊害の及ぶところ、いかなる程度に到るやも測られないととて、これまで結束して河上を推していた連中がその希望を投げ捨てて却って山本を推すようになり、ついに同氏が総裁の任に就くこととなりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-33

 1899(明治32)年1月末ころから、日本銀行の河上、鶴原らの一派と山本総裁との間が円滑を欠くように見えるので、河上、鶴原両君に会って、どうも総裁と理事との間の意思が疎通しないでは面白くない、自分でよければ、いつでも仲に立って調停の任に当るがというと、両人は到底調停の見込みがないから止めてくれということでありました。

 2月1日大蔵省における台湾銀行設立委員会終了後、日本銀行へ行って、山本、鶴原、高橋3人で料亭島村へ行って晩餐ををすることとなりました。それで高橋はこれで総裁と彼等との間に多少は感情の融和が得られるものと期待して、その日は横浜へ帰りました。

  2月23日豊川良平から、日本銀行の理事たちとともに、築地の花谷に招かれていたので、夕景から出席しました。すると宴半ばにして鶴原が高橋に別席を乞うて「君は先だって総裁とわれわれとの間を調停のために、非常に心配してくれていたが、とても、もう2、3日の中に破裂は免れない、今度こそは君は口をださずにいてくれろ」というから、ついにそうなったかと嘆息して、その夜横浜に戻りました。

 25日、この日はちょうど土曜日だったので、高橋は午後から葉山の別荘に出掛けました。すると26日の午前2時ころになって、島甲子二(しまかねじ)から電報がきて、続いて山本総裁からの電報に接しました。それはいずれも至急上京を促すものでありました。

 26日早朝上京して、まず山本総裁をその邸宅に訪問したら、河上以下の理事がいよいよ辞表を提出したということでした(日銀ストライキ事件・「男子の本懐」を読む10参照)。そこで高橋は直ちに大蔵大臣松方伯(第2次山県有朋内閣)を訪問してこのことを話し、蔵相はこの処置をいかにせられるつもりであるかと尋ねました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-34

すると松方伯は「それは君、川田が育てたあれだけ多数の有為な人々と、山本一人とは代えられぬではないか」と言われたから、「それは一応ごもっともですが、日本銀行という国家枢要の機関としてこの際御考慮を煩わしたいことは、日本銀行は我が国の中央銀行で英国の英蘭銀行と等しいものであります。ところが理事や従業員がその時の総裁しかも政府任命の総裁に対していわゆる同盟罷業をした、その結果政府が総裁を取り替えるというようなことがあったなら、海外の人たちはこれを見て、日本の中央銀行を何と考えるでしょう。もし時の総裁に棄て置き難い過失があるならば、従業員の同盟罷業を待つまでもなく、政府はまずもって総裁を罷免するの責任があるではありませんか。何らの過失なきに拘わらず行員の感情から総裁排斥ということになり、政府がそれらの排斥者の意見を容れて総裁を辞めさせることは、わが中央銀行のために政府としてとるべき路にあらずと考えます」というと、松方伯は「何時君に話したいことが起るかもしれないから、今夜は東京に泊って何時でも君に電話をかけることのできるようにしておけ、してどこに泊まるか」といわれるから、『差当り築地の有明館にとまりましょう』と答えました。

 2月28日早朝井上伯を訪問して、今度の日本銀行の騒動について高橋の意見を腹蔵なく述べましたが伯は「そのことは陸軍大臣に行って話しておけ」との指図でありました。それで高橋は直ちに陸軍大臣官邸に桂(太郎)陸相を訪問し、日本銀行の件を話すと、「よく分った、自分がこれから山県首相のところへ行って話をする」ということでありました。

 それから、この日午後3時過ぎになって松方蔵相から呼ばれました。そうして言われるには、「内閣でもいよいよ山本を、そのまま据え置くことに決めた。総裁と理事(三野村)一人では日本銀行の重役会が成立しない、よって副総裁を置く必要を生じて来た。ついては君を副総裁に据えるから、その心得でいてもらいたい」ということでありました。この時前田正名も官邸にきていて、しきりに高橋に承諾を促しました。

 高橋は事の急なるに驚き、辞退しましたが、すでに内閣ではそのことを決定していて追っ付けここに辞令が来るはずだ、というような切迫した事情の下にあったので、高橋もついに承諾せざるを得ませんでした。同日午後8時ころ、松方蔵相手ずから日本銀行副総裁の辞令を交付されました。

 1900(明治33)年から翌年にかけて、日本銀行に救済を求めてきた銀行は、第九銀行、肥後銀行、第百十銀行、第十七銀行、第三十九銀行、第百二十二銀行などであって、これが処理には、行員一同大いに苦心しました。

 行務の刷新については、第一着手として、各局課長及び支店長に命じて行員の人物考査表を出させ、各個人個人の勤怠、技量、品性等を詳らかにするの法を定め、かつなるべく宴会の招待等はこれを避けて、質素倹約を旨とすべきことを訓示しました。また総裁と協議して7日間の公休日を認めることに決しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-35

 1901(明治34)年12月下旬、年末手当のことで問題が持ち上がりました。それはこれまで行員に対して手当を与えてきたが、今後は廃止するということを山本総裁が言いだしました。それが、どうした訳か行員に漏れたと見えて皆が騒ぎだしました。そうして高橋がもっぱら恨みの焦点となりました。

 これより先、ある人から、銀行の食堂あたりで、行員間に沙上の遇語があるということを知らせてくれる者がありました。それによると、近ごろ重役会において賞与や昇給の協議があるごとに、各局長から出す提案に対して、高橋副総裁が反対している、今度の年末手当の廃止もその首謀者は高橋である、というようなことがひそひそ噂されているという話でありました。

四字熟語データバンクー沙中遇語

そこで高橋は総裁のところへ行って、まずこの年末手当の廃止については反対を表明し、かつかねて聞いていた沙上の遇語について報告し、上述のように高橋はただ今人望がない、長くなればなるほど人気は落ちてしまって、銀行のために宜しくないと思う。不人気になってしまって勢い辞めねばならぬようになっては却って困るから、一層のこと今のうちに辞めさしてもらいたいというと、総裁は「そういうことはまだ聴かない、辞めんでもよいではないか」としきりに留め、かつ年末手当を廃することは高橋の説を容れて止めました。ただし高橋だけはその手当を受けるわけにはいかないから辞退しました。

 1902(明治35)年の元旦は天気晴朗、極めて心地好き年の始めでありました。この日かねて赤坂表町に新築中の新宅が、玄関及び廊下ゐ除いてほぼ落成したので、邸内の旧家からその方へ引っ越しました。

 この年の秋、五分利付公債発行の件について問題が起りました。それは10月1日の朝、山本総裁は大蔵大臣に呼ばれて官邸に行くと、大臣から「政府は今度五分利付公債を5000万円を興業銀行を経て、香上銀行に売り渡す約束をした。同公債は元利ともロンドン払いの裏書附きで、ロンドン市場に売り出すはずで、政府の手取金は98ポンドである」と申し渡されました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-36

 山本総裁は突然このことを言渡されましたが、その手続きがいかにも合点いかず、誠に意外の思いをしましたとて、帰ってきての話に「従来外国にて発行する公債は、日本銀行または正金銀行を経由するのが通例であるのに、今回に限り何の打ち合わせもなく、興業銀行を経て香上銀行に売り渡すことに決定してしまった。

これは考えようによると、日銀及び正金に対する政府の不信を意味することでもあるから、自分は桂(太郎)首相に面談して、その不都合を申し入れておいた」ということでありました。、

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー桂太郎―そー曽禰荒助 夕刻添田興業銀行総裁がやってきて、「今回の公債売り渡しについては、前もって御相談すべきであったが、これをなし得なかった事情があるので、それを述べて不都合を陳謝しに来た」という話です。よって高橋は、「個人の拙者に対して陳謝の要は少しもない。しかしこの事柄は、正金銀行の面目と信用にかかわることではないか、それを何ゆえに正金銀行に相談しないで、香上銀行に話を持ち込んだか」と詰問すると、「これは香上銀行との間に秘密にしておくとの約束であったから、そのつもりで聞いてもらいたい」と冒頭して、次の通りの話がありました。即ちこの前ロンドンで公債を募集した時は、正金銀行が主体となったために、香上銀行の横浜支店長は本国並びに本店に対して、いたく面目を失したので、今度発行の場合は、是非香上銀行を主体として発行さしてもらいたいと再三の申し出があった。もとより正金銀行を引受銀行の仲間に加えることは、最初から香上銀行とも話をしておったところで、決して除外するなどいう考えは少しもなかった。ついてはこの際正金銀行が誤解をせぬよう、そうして快く発行仲間に加入するよう何分の御配慮を願うとのことでありました。よって高橋は添田に対して、今日まで、正金銀行に対し、政府並びに日本銀行がとり来たった方針及び日本公債の発行に当り、いつでも正金銀行と組合になっておったパース銀行との関係を詳しく話しました。

 それを聞いて添田も非常に驚き、今より相馬を訪ねて依頼し、かつロンドンにも電報してパース銀行をも加入させるよう取り扱うから、今回はどうか事の円万に纏るよう尽力して貰いったいといって辞し去りました。

 しかるに、その翌日添田から、電信で、昨日の件につきロンドンに電報したと知らせてきましたが、それと引き違いに正金銀行からも、ロンドン支店では本店からの返電を待つ暇なく、公債発行仲間に加入の件を承諾した。もっともパース銀行発行銀行として加入はしないが、シンジケート銀行として10万ポンドを分担することになって、すべてが円満に片付いたということでした。

Weblio辞書―検索―シンジケート

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-37

 1903(明治36)年の晩春、経済界の不況につき、これが回復の手段として、日本銀行では金利の引き下げを断行せんと欲して、例のごとく午餐後重役会を開き、その事を決定するとともに、山本総裁は大蔵大臣(曽禰荒助)の認可を取るために、自ら大蔵省に出掛けました。ところが大臣は風邪を引いて官邸で寝ておられるというので、また官邸へ行って大臣に会い認可を乞うところがありました。

 しかるに山本総裁は大蔵大臣官邸に行ったきり、一向に帰ってきません。大蔵大臣官邸から電話があって、高橋にすぐ出頭するようにとのことであります。よって早速出かけて行くと、大臣は日本間で床を敷いて寝ておられ、その側に山本総裁と阪谷、松尾両君が坐っています。少し様子が変だと思って挨拶を済まし坐につくと、大臣は高橋を顧みて、「今山本総裁から利下げの認可を得にきたが、大蔵省では、今は利下げの時期に非ずとの意見である。それで君を呼んだわけだ」といわれるので、高橋は「してどういうわけで利下げの時期でないといわれますか」というと、大臣は「今年もし米が不作であったら必ず輸入超過となる。ゆえに日本銀行で米が不作であっても、輸入超過にならぬと保証するなら金利を下げてもよい。それがなければ、今金利を下げるわけには行かないという意見だ」といわれます。

 それで高橋は「今年の米の出来がよいか悪いかは神様でなければ分かりません、今の所では良さそうに思われるが、二百十日や二百二十日を前途に控えているから、天候によっては平年作に及ばぬ結果を見るかも知れませぬ。しかしこういう予知のできない事柄を除いて今日の現状を観察すれば、今金利を下げるために輸入超過になろうとは我々は考えておりません。これに対して今日はいかにも金利が高く、それがために事業は不振に陥り製品は高価である。ゆえにこの際金利を引き下げて、経済界に活を入れるの必要ありと認めたのが日本銀行の意見であります。貴方方は聡明な方々であるに相違ありませんが、常に多岐多端の政務に心を配らねばなりません。我々はそれと異なって二六時中経済界のこと、ことに金利政策に最も重きを置き、不断に考えているものであります。ゆえにその専門的に専一に考えている者どもの意見は尊重せらるるが当然ではないかと思います。もし政府において今日利下げをすることは国家としてよろしくないという、何らか他に政治上の理由でもあれば格別、今年の米作に対し日本銀行が保証せねば、金利を下げることは出来ないというのは御無理ではありませんか。何人が今年の米作は豊年であると請合いが出来ますか。日本銀行の仕事として金利政策ほど重大なものはありません。(以下略)」と遠慮なく意見を述べました。

 すると曽禰大臣も考え直して、ついに申請通り認可されたので、総裁と二人引き下り、銀行に帰りました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-38

  山本総裁の任期は1903(明治36)年10月20日をもって満了となるので、我々はいずれもその重任を希望しておりましたがら、時々総裁に対して、その辺のことにつき注意をしました。というのは、何となく大臣と総裁とが、そりの合わない様子に見受けられたからです。しかるに総裁はいつも、「いや、そのことなら棄てておいてくれ、どうでもよいから」と一向気にもかけず、また我々の言うことを取り上げもしません。しかしそれには何か総裁に確信でもあるのでもあろうとひそかに考えていました。ところが高橋は8月28日から北海道視察に行くことに決ったので、出発前秘書役土方(ひじかた)久徴に話して、「総裁の任期満了が近づくので、何とか方法を尽されるように総裁に話をするが、一向気にかけられぬようだから、君からもなおよく総裁に話して、適当の処置を取らるるよう注意してもらいたい」というと、土方は「私もそのことについて度々話しましたが、やはり棄ておけということで、何ともしようがありません。しかしお話によりさらに申し上げてみましょう」ということでありました。