松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造21~30
以上のような内容をもつ吉野作造の論文に対する反響は大きく、各方面から批判が飛んで、民本主義論争が展開されました。「中央公論」3月号には上杉慎吉が「我が憲政の根本義」と題する論文において、またその他植原悦二郎らが他雑誌を通じて吉野批判に参加したのです。これに対して吉野の反批判が「予の憲政論の批評を読む」と題して「中央公論」4月号に掲載され、その批判を主として上杉に向けました。上杉が「西洋に在っては君主を出来るだけ多く制限する事に依って、又我国に在っては君主の完全なる親政に依って、民本主義の目的が達成される」(田中惣五郎「吉野作造―日本的デモクラシーの使徒」未来社)と説くに対して、吉野は「天皇親政をあまりに強調することはかえって天皇に迷惑をおよぼすものとし(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造16参照)」ています。
聚史苑―歴史年表―大正年表―大正年表2-1916~1919-1916年 大正5年3月ー上杉慎吉
また吉野作造は同じく1916(大正5)年「中央公論」3月号に論文「対支外交根本策の決定に関する日本政客の昏迷」(松尾尊兊編「中国・朝鮮論―吉野作造」東洋文庫161 平凡社)を発表、「我国は最も密接に支那と結ばねばならぬ。而して支那と結ぶには必ずやまずその中心の勢力を手に入るるに成功せねばならぬが、…」と従来の対中国政策(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造 7参照)を批判しようとはしていませんが、「けだし支那に於て今日何者が中心的勢力であるかと尋ぬるに、実は能く分らない。(中略)しかしながら少しく事物の奥に観察の眼を放てば、(中略)支那の将来の永遠の中心的勢力となるものは、今日袁世凱の一派に非ずして、恐らくは現に祖国の改革を唱えて居るところの幾百の青年であると見るべきではあるまいか。」と述べ、王正廷(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造 7参照)ら中国革命勢力の将来に期待を寄せていると思われる点が注目されます。
つづいて同年「中央公論」6月号に吉野は「満韓を視察して」と題する文章を掲載し、「朝鮮人は大体に於て、現今の日本統治に非常な不平を有って居る。」と述べ、これはただ一片の抽象的議論であると、遠慮がちな表現ではあるが「異民族統治の理想はその民族としての独立を尊重し、かつその独立の完成によりて結局は政治的の自治を与うるを方針とするに在りと云いたい。」(松尾尊兊編「中国・朝鮮論―吉野作造」東洋文庫161 平凡社)と主張しているのです。
1916(大正5)年は吉野作造にとって、山県有朋を頂点とする軍部官僚を中心とする日本の専制支配に対する公然たる批判開始の年でしたが、同時に彼の中国・朝鮮観の転換を示唆した年でもあったといえるでしょう。
1917(大正6)年ロシア革命が起こり、翌年4月5日日英陸戦隊はウラジオストクに上陸を開始していました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。
1918(大正7)年吉野作造は「中央公論」4月号で論稿「所謂出兵論に何の合理的根拠ありや」を発表、シベリヤ出兵反対を主張しました。 吉野はこの論文でロシア過激派の恐るべき影響力を指摘した駐露特命全権大使内田康哉の帰朝談話を引用して、これに賛意を表するとともに、(ア)世界の大勢は日本のシベリア出兵に不同意であろう(イ)若干の白系露人を利用してレーニン政府に対抗することはロシア全体と戦う覚悟が必要だが、現在その必要は認められないなどの理由を挙げています(田中惣五郎「前掲書」)。
大逆事件以後社会主義の冬の時代を生き抜いてきた社会主義者たちの代表的人物堺利彦(司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む19参照)は1915(大正4)年9月「新社会」を「へちまの花」に代えて創刊、高畠素之ら社会主義者がこれに執筆していました。
赤旗事件で投獄、釈放されて郷里の岡山で薬局を経営していた山川均(片山潜「日本の労働運動」を読む43参照)は「新社会」の投稿者の一人でしたが、1916(大正5)年1月上京、大山郁夫のデモクラシー論を批判する論文を翌年2月に「新社会」に発表、
赤須喜久雄 憲法9条を守る 平和を守るー8.平和がみちあふれる郷土をめざしてー1)大山郁夫
1918(大正7)年4月論文「民本主義の煩悶」を「無名子」の匿名で雑誌「新日本」に掲載(1919「デモクラシーの煩悶」と題して出版 山川均全集 第1巻 勁草書房)して吉野作造の民本主義批判を大要次のように展開しました。
『吉野作造がデモクラシーに「主権の所在に関する説明」と「主権運用の方法に関する説明」(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造13~14参照)との二つ意義をみとめ、しかも、その二つが何の必然的関係もない「明白に異りたる二つの観念」であることを主張し、前者を民主主義となづけ、後者を民本主義となづけ、かくて「予は民本主義者であって民主主義者ではない」といいきったとき、そのようなデモクラシーの分裂の過程のうちに、日本のデモクラシーの大いなる煩悶が見え透いているではないか』
「大日本帝国憲法のためにデモクラシーを分裂させなければならなかったことはー山川均にしたがえばー吉野作造の第一の煩悶であった。しかし第一の煩悶は、さらに第二の煩悶にみちびかれた。(中略)“人民によっての、人民のための政治”なるものは、君主から人民にあたえられた恩恵的の善政としてはありうるが、人民の主張としてはありえないものである。(中略)ここにおいてか、民本主義はすすんで主権論にふれるか、退いて一片の善政主義に終わらなければならない羽目に立っている。(後略)そこに吉野作造の第二の煩悶があった。われわれは、デモクラシーが”主権の所在に関する説明“たる民主主義と手を切って”主権運用の方法に関する説明“たる民本主義になってから、ついに選挙権の拡張、しかもそれは人民の当然の要求ではなくて、為政者がその国家主義ないしは軍国主義的政策の遂行にもっとも便宜とみとめたときに、政府案として提出される意味での選挙権の拡張に変化するまでの径路を知ることができた。」(「民本主義論争」信夫清三郎「前掲書」)。
1918(大正7)年8月米騒動が富山県こり、騒動は8月10日になると名古屋・京都両市に拡大、やがて全国に波及する事態に発展しました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。米騒動において被差別部落民が多くの地域で重要な役割を果たしています。
朝田善之助は1902(明治35)年京都府下の被差別部落に父幾之助、母みゑの三男として生まれました。幾之助は大津の出身で、9歳のとき京都へ奉公に出て、やがて和鞋(わぐつ 袋靴)の製造・販売や猪鹿などの肉・皮の卸しを扱う商店の番頭となりました。父親は被差別部落のものとわかると旅先でも宿屋に泊めてもらえず、土間に筵を敷いて寝るという状態だったようです。
善之助は1908(明治41)年小学校に入学しましたが、部落の子に対する差別はひどいものでした。親がいらぬことを教えるものだから、遊戯で手をつなぐ時でも小指だけしかつながない。部落のそばのよろず屋では、代金を直接受け取らず、水をいれた手オケになげこませていました。 反抗とけんかが当時の善之助の日課でした。
1917(大正6)年6月朝田善之助は保護職工(少年工)として鐘紡京都支店に入社、翌年夏米騒動が起こりました。大正7年8月11日夜になると約200人が集まり、代表をきめて町内外の米屋5軒に安売りの交渉にいきましたが、部落の中の岡村という米屋の2階から群衆に出刃包丁をなげつけたものがあり、これがきっかけで群衆は米屋に投石をはじめ、大八車を家の中に突っ込むやら、店先の米俵を引きずり出す騒ぎに発展しました(朝田善之助「差別と闘いつづけて」朝日新聞社)。
米騒動が全国に拡大しつつあった1918(大正7)年8月14日、時の寺内正毅内閣の内務大臣水野錬太郎は省内で記者会見し米騒動に関する記事の差し止めを命令しました。
このような寺内内閣の言論弾圧に対する全国新聞社の抗議行動が高まり、同年8月25日には大阪の関西記者大会に全国から代表が参加、事実上の全国大会となり、これを報道した大阪朝日新聞8月26日付夕刊に次のような文章が記述されていたのです。
「金甌無欠(きんおうむけつ 傷のない黄金でつくった亀のように、完全で欠けたところがないこと)の誇(り)を持った我大日本帝国は今や恐ろしい最後の審(裁)判の日に近づいてゐるのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟(つぶや)いた不吉の(な)兆(きざし)が黙黙として肉叉(にくさ フォーク)を動かしてゐる人々の頭に雷の様に閃(ひらめ)く。」
「白虹日を貫く」とは中国の故事で兵乱がおこる前兆とされ、黒竜会(玄洋社の流れをくむ内田良平が1901年組織)・浪人会(玄洋社の福岡出身以外の人々によって1908組織)などの右翼団体は「日」とは天子を意味すると非難、警察は内務省と連絡をとって、この夕刊を発売禁止処分とし、同年9月9日大阪朝日新聞社幹部は新聞紙法における皇室の尊厳冒涜などの事項記載で起訴(同年12月4日有罪判決)されました。
寺内正毅首相は米騒動の責任をとって、同年9月21日辞表を提出、原敬立憲政友会総裁に組閣命令が出された直後の9月28日浪人会の流れを汲む皇国青年会の池田弘寿らは大阪朝日新聞社長村山龍平を白昼大阪中之島公園で襲撃、燈籠に縛り付け、「国賊村山龍平を天に代って誅(ちゅう 罪をせめとがめる)す」と書いた紙旗をたてるという事件が起こりました。これにより10月14日村山龍平社長は辞任、翌日編集局長鳥居素川は退社、長谷川如是閑・大山郁夫らも行動をともにしたのです(朝日新聞大阪本社社史編修室「村山竜平伝」朝日新聞社・新聞集成「大正編年史」大正七年度版 大正昭和新聞研究会))。
米騒動は大逆事件以後消滅したかに見えた労働運動・普選運動などの社会運動復活に大きな刺激を与えました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。右翼団体の上記のような行動は再び活発となりはじめたこれら社会運動に対する示威と威嚇であったといえるでしょう。
吉野作造は1918(大正7)年「中央公論」11月号に「言論自由の社会的圧迫を排す」と題する論稿を掲げ、浪人会はそのなすところの大半は、国家に有害な運動をこころみている。第一、かれらの運動の財源はいかなるところから出ているのか明かでない。世人は浪人会といえばこれを物騒なものとして見るし、事実またかれらはしばしば腕力によってことを解決する。しかもこの暴力的制裁を同志の誇りの如くに吹聴している。もしかれらにして真に国体擁護の実をあげんとするのであるならば、もっと公明な方法で、その積極的精神なるものを承りたいものである、という内容を記述したものでした(田中惣五郎「前掲書」)。
同年11月16日浪人会は吉野に面会を求め、11月23日東京神田の南明倶楽部で双方の立会演説会が開催されました。演説会当日東京帝大の教室には5~600名の学生が集まり、南明倶楽部へ赴いて吉野先生を守れとの提案がなされ、東大のみならず早大・法政・明治・日大・一高の学生らも参加しました。また東京帝大出身で東京日日新聞に籍を置き、総同盟を築きあげた友愛会長鈴木文治影響下の組織労働者の人々や新聞で知った一般人も演説会に参加したのです。午後6時開会予定でしたが、午後4~5時ころから集まった群衆の波は一斉に「吉野博士万歳」「デモクラシー万歳」を叫びました。定刻ころ入場しきれない群衆は2000を越えたようです。
浪人会側の討論者4人を前にして吉野作造は「如何なる思想にせよ、暴力を以て圧迫することは絶対に排斥せねばならない。思想に当たるに暴力を以てすることは、それ自体に於て既に暴行者が思想的敗北者たることを裏書きするのである。」と説き、あせりだした浪人会側の聴衆が、浪人会側の演説を「ノー」と反論する聴衆の一人に鉄拳を加えると、吉野はとっさに「数万語の演説よりもいまの一事が諸君の本体をしめしている。」ときめつけ、聴衆は万雷の拍手でわき立ったのでした(田中惣五郎「前掲書」)。「大仏次郎もまた聴衆の中にあったが。感激のあまり吉野作造にだきついて接吻をした。」(「普選運動」信夫清三郎「前掲書」)吉野作造もびっくりしたでしょうね。
会場から出てきた吉野はたちまち群衆に囲まれ、かろうじて警察官の力で電車にとび乗りました。しかし外套と帽子をなくしたそうです(「日記」大正7年11月23日条 吉野作造選集14 岩波書店)。
多くの知識人や民衆が求めていたのは社会主義ではなくて民本主義であったことが上述の出来ごとから読み取れます。
同年12月上旬には吉野作造の影響をうけた東京帝大法科学生赤松克麿・宮崎竜介らを中心として、思想団体「新人会」が結成されました(大原社会問題研究所編「デモクラシー」1巻1号 大正8年3月号 法政大学出版局)。同会綱領によれば一、吾徒は世界の文化的大勢たる人類解放の新気運に協調し、之が促進に努む、一、吾徒は現代日本の合理的改造運動に従ふ、とあり、月2回くらい会合して思想研究による精神的結合に努力、ときどき講演会を開催するなどを申し合わせました(田中惣五郎「前掲書」)。
同年12月23日には吉野作造・福田徳三・今井嘉幸らの呼びかけで思想団体「黎明会」が結成され、、同会大綱では世界の大勢に逆行する頑迷思想の撲滅を期すこと記述、翌年1月より月1回講演会を開催して啓蒙宣伝活動を行うことになりました(「黎明会講演集」1集 大鐙閣・田中惣五郎「前掲書」)。
社会主義者山川均は依然として普選運動に反対でしたが、堺利彦は普選運動への参加を主張していました。彼は「新社会」大正7年10月号で次のように述べています。「米騒動が狐火のごとく全国に出没した。(中略)ある人はこれを解して、普通選挙の実施や労働組合運動の自由を無意識に要求したものだという。ある人はまた、それらの運動の不自由と無効果に絶望した結果だという。(中略)
もし無意識の要求だとするならば、それを意識的にみちびいて明々白々たる公然の運動にすることが安全の道である。そこでいずれにしても、普通選挙の実施と労働組合の奨励とが今後の急務である。すこしく先見ある識者は、この点においてたいてい一致の意見を有している。(後略)」(「普選運動」信夫清三郎「前掲書」)
1910(明治43)年の日韓併合以後の朝鮮人は日本の武断政治の下に押さえつけられていました。このような状況で朝鮮の人々にとって1918(大正7)年1月8日米大統領ウイルソンが第1次大戦終結の条件として掲げた14ヵ条の提案(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)における民族自決主義のよびかけはおおきな感動をもって迎えられたのです。
1919(大正8)年2月宗教家や教育者らで構成される民族主義者33人は「朝鮮建国四千二百五十二年三月 日」の日付で「我等ハ茲ニ我朝鮮国ノ独立タルコト及朝鮮人ノ自由民タルコトヲ宣言ス」という文章ではじまる「独立宣言書」(五 三・一運動日次報告 総督府警務局 「現代史資料」25 朝鮮一 みすず書房)を起草しました。この年1月22日前朝鮮国王高宗が急死、暗殺のうわさが飛び交っていたようです。
1919(大正8)年3月1日前朝鮮国王国葬当日(3月3日予定)を期して朝鮮の京城(漢城)・平壌などで独立宣言が発表され、やがて示威運動が朝鮮全土に拡大しました(三・一運動・寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)。
「三月五日のことでした。私達は愛する祖国の自由のために南大門(South Gate)で列をつくり、自由のために自らの血を流す覚悟をしているしるしとして、腕に赤いベルトや赤いバンドをつけていました。私達は『バンザイ(Mansei)』と励ましあい、叫びながら駅から鍾路(Chongno)に向かって行進していました。私達が徳寿宮(Dok-su Palace)に近づきつつあるとき、突然ひとりの日本人警官が後から私の髪をつかみました。そして私は乱暴に地面にたたきつけられました。(後略)」(五-二 宣教師の記録及その関連文書 証拠書類ⅩⅠ 警察に逮捕された一朝鮮少女の経験「現代史資料」26朝鮮二 みすず書房)
第1次大戦の講和問題で、パリ首相会議が山東問題に関する日本の要求を認める(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)と、北京の学生3000余は天安門広場で山東問題に抗議して5月7日の国恥記念日(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17参照)に抗議デモを行う予定でしたが、政府の弾圧を避ける目的で1919(大正8)年5月4日に繰り上げて実行、代表が各国公使館を訪問して抗議文を手交し、21ヶ条要求当時の外交次長曹汝霖邸が放火され、駐日公使の章宗祥が殴打される事態に発展しました(五・四運動・寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照・新聞集成「大正編年史」大正八年度版)。さらにこの運動は全国的規模で拡大していきました。
吉野作造は「中央公論」(大正8年4月号)に論稿「対外的良心の発揮」(松尾尊兊編「中国・朝鮮論―吉野作造」東洋文庫161)を執筆、三・一運動が第三者の扇動によるものとの見解を否定、「朝鮮統治の改革に関する最小限度の要求」(松尾尊兊編「前掲書」)では 当面の改革として言論の自由・同化政策の放棄・朝鮮人差別待遇の撤廃と武人政治の廃止を主張しました。
同年8月20日日本が朝鮮総督府官制を改正して文官総督を認めると、吉野はこれを歓迎(「新総督及び新政務総監を迎う」(松尾尊兊編「前掲書」)しましたが、同年11月27日朝鮮独立運動指導者呂運亨(上海の朝鮮臨時政府外務次長)が東京で独立運動の抱負を記者団に語って問題化すると、吉野は「所謂呂運亨事件について」と題する論稿(松尾尊兊編「前掲書」)で「一概に我々に反対するからというて、単にそれだけで彼等を不逞呼ばわりするのは、あまりに軽率である。」と批判しました。
中国の五・四運動についても吉野は「北京学生団の行動を漫罵する勿れ」(「中央公論」大正8年6月号社論 松尾尊兊編「前掲書」)において「中国民衆一般の排日に至りては、官僚・軍閥ないし財閥に依って代表せらるる日本に対する反感に過ぎず」とし、「支那に於ける排日の不祥事を根絶するの策は、(中略)我々自ら軍閥財閥の対支政策を拘制して、日本国民の真の平和的要求を隣邦の友人に明白にする事である。」と述べ、また「吾人は、多年我が愛する日本を官僚軍閥の手より解放せんと努力して来た。北京に於ける学生団の運動は、亦この点に於て全然吾人とその志向目標を同じうするものではないか。」と論じました。
しかし吉野作造において朝鮮独立は将来の課題にすぎず、彼は五・四運動に共感しながらも、21ヵ条廃棄、山東即時返還も主張していないのです。
この1919(大正8)年から翌年に至る時期が吉野作造の社会活動の頂点であって、その朝鮮・中国論がもっとも精彩を放ったころでもあったのです。1920(大正9)年以後は以前の時期ほど国民大衆への影響力をもつことはありませんでした。
1923(大正12)年8月加藤友三郎首相が死去、同月28日山本権兵衛に組閣命令(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む26~27参照)が出された直後の同年9月1日、関東大震災がおこり、関東地方は大激震に見舞われ、火災が随所に発生しました。被災者は約340万人、死者と行方不明者は合計10万余人、東京では通信交通機関・ガス・水道・電燈がすべて停止、流言がとび、人心動揺しました(内務省社会局編「大正震災志」)。
翌日成立した第2次山本権兵衛内閣は東京及びその周辺に戒厳令を公布、非常徴発令を出して救援・復興にのりだしました。
9月1日の午後から東京・川崎・横浜の一部で朝鮮人暴動の流言が流され、翌2日には京浜地区全域に拡大、恐怖した被災地の民衆は各地で自警団を組織し、軍隊・警察も一緒になって朝鮮人の迫害が行われたのです(「現代史資料」6 関東大震災と朝鮮人)。 『当時19歳だった伊藤圀夫(くにお)は演劇好きの早稲田の学生で千駄ヶ谷に住んでいた。9月2日の晩、親戚から軍は神奈川方面からの不逞鮮人と交戦中という情報を得て、偵察のつもりで千駄ヶ谷駅に近い線路の土手にのぼると、後ろで「鮮人だ」という叫びが聞こえた。
そっちへ走ってゆくと腰のあたりをガーンとやられた。提灯が集まって来て、ぐるりと私を取り巻いた。「ふてえ野郎だ。国籍を言え」と私をこずきまわすのである。歴代の天皇の名を「言え」というには弱った。度胸をすえて「ジンム…チュウーアイ」もうその先は出てきそうもなかったとき「伊藤さんのお坊ちゃんじゃねえか。」と近所の酒屋の若い衆がいってくれた。
センダガヤのコレアン(朝鮮人)、これが千田是也の芸名の由来である。』(「日本の百年」6震災にゆらぐ 筑摩書房)
港区ゆかりの人物データベースーゆかりの人物リストーせー千田是也
朝鮮人迫害に対する批判は全体としては弱かったのですが、吉野作造は「中央公論」大正12年11月号における「朝鮮人虐殺事件に就て」の中で「手当たり次第、老弱男女の区別なく、鮮人をおう殺(みなごろし)するに至っては、世界の舞台に顔向けの出来ぬほどの大恥辱ではないか。(中略)僕はこの際鮮人虐殺に対する内地人の、謂わば国民的悔恨もしくは謝意を表するが為に、なんらかの具体的方策を講ずるの必要を認むるものである。(中略)今度の事件に刺激されて、我々はまた朝鮮統治という根本問題に就いても考えさせられる事になる。」(松尾尊兊編「前掲書」)と述べています。
また吉野作造は関東大震災において、朝鮮人学生を自宅にかくまい(堀豊彦談 松尾尊兊 「大正デモクラシー」岩波書店 引用)、朝鮮人虐殺を批判したため、大杉栄(片山 潜「日本の労働運動」を読む37参照)のように陸軍に暗殺されかかったこともありました(安成二郎「無政府地獄」新泉社)。
1924(大正13)年2月7日東京朝日新聞は社告において柳田国男と東京帝大教授を辞職した吉野作造両氏の入社を発表しました。
同年2月25日神戸青年会館における朝日新聞社主催の「時局問題大演説会」において吉野作造は「現代政局の史的背景」と題する講演を行い、(ア)「五箇条の御誓文」について当時江戸幕府の衰亡に人心は離れているが、かといって明治新政府にもかたむかないときに、この御誓文を発布することによって人心を一変させるための看板であった。(イ)とくに伊藤博文が伊藤ごのみの憲法を作成するために秘密主義を堅持したと述べました(講演の要旨 「時局問題批判」朝日新聞社)。
また彼は同年4月「朝日新聞」紙上に5回にわたって署名入りの論説欄で「枢府と内閣」(吉野作造「枢府と内閣他」朝日文庫)と題する文章を発表、政府が緊急勅令(大日本帝国憲法第8条に規定する天皇大権)によって関東大震災による火災保険一割支払いを行ったことに対して、枢密院はこれを憲法違反として清浦奎吾内閣を批判攻撃しました。清浦内閣はこの勅令を撤回、政府の責任支出で解決したのです。
吉野はこの論説において枢府が諮詢の主体である天皇との間にのみ交渉をもつべきであったものを、天皇をぬきにして、あるいは直接に内閣にむけて批判することが不可なのであると論じ、理論上枢密院の廃止が必要と主張しました。
これに対して伊藤博文の側近でもあった枢密顧問官伊東巳代治(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む10参照)は憤慨したようで、圧力を受けた朝日新聞はおどろいて吉野の引退を要請、彼はこれを受け入れ、同年5月朝日新聞を退社、東大で研究室を持つ講師となりました。
同年11月吉野作造ら8名で明治文化研究会が創立されました(「新旧時代」創刊号)。 その目的は明治初期以来社会万般の事相を研究し、之れを我が国民史の資料として発表することで、機関誌「新旧時代」(後に「明治文化」と改題)を発行、時々講演会及び展覧会を開くことを事業としました。この明治研究の成果は吉野作造編輯「明治文化全集」(日本評論社)として刊行されたのです。
松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造30(最終回)
1924(大正13)年初頭に起こった第二次護憲運動の結果、6月第一次加藤高明(護憲三派連立)内閣が誕生、翌年普通選挙法が成立(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29参照)すると、吉野作造は将来における無産政党の成長による政治の刷新を期待して、1926(大正15)年11月4日安部磯雄(片山 潜「日本の労働運動」を読む22~25参照)・堀江帰一らとともに、堅実な無産政党の結成を提唱しました(第二編 社会民衆党史 河野密・赤松克麿・労農党書記局「日本無産政党史」白揚社)。
1929(昭和4)年~1930(昭和5)年ころから、吉野作造の評論活動は少なくなりました。その理由は健康を害し、病に伏すことが多くなったからでしょう。
「中央公論」昭和8年1月号に掲載された吉野作造の評論「議会から見た政局の波瀾」は彼が同誌に寄せた最後の評論となりました。ここでは立憲政友会と斎藤実内閣、政友会と軍部との関係について起こる多くの場合を想定して論じられていますが、将来への希望や期待は述べられていないのです(岡義武解説「吉野作造評論集」岩波文庫)。吉野作造は1933(昭和8)年3月18日死去しました(吉野作造年譜 田中惣五郎「吉野作造」未来社)。
翌年大内兵衛(当時 東大教授)は吉野作造を回顧して次のように述べています。「世評によれば、後半生の先生(吉野作造)は前半生の先生に比して華々しくなかったと。(中略)健康の関係からいって元よりこれは止むを得ぬことであったが、しかし(中略)アカデミックにもジャーナリスチックにも乃至はポリチカルにもその活動の熱を失ってゐたとは見えなかった。否、その衰へたのはただ肉体だけであり、その精神に至っては文字通り益々壮んなものがあったのである。(中略)明治の政治史はその最大のエナージェチックな研究者を失くしたことは、疑いない。そして反動の波高き言論界は最も勇気ある論客を失くしたのだ。」(大内兵衛「ある距離に於ける吉野先生」赤松克麿編「故吉野博士を語る」岡義武解説「吉野作造評論集」岩波文庫 引用)
歴史が眠る多摩霊園―著名人全リストー頭文字―あージャンプーおー大内兵衛
現代の吉野作造に対する評価はどうでしょうか。「天皇制や元老への批判を回避した吉野の国内改革論を、当時の現実可能性の観点から評価しようとする一部の吉野弁護論は、中国侵略政策にたいする吉野の現実妥協的態度の帰結する歴史的責任をいかに弁明するのであろうか。」(小林幸男「帝国主義と民本主義」岩波講座 日本歴史19 現代2)に代表される吉野作造批判に対して、本書の著者(松尾尊兊)は次のようにのべています。『なるほど吉野は、その初期においては帝国主義的侵略を謳歌し、その盛期にあっても朝鮮・満州を捨てよとは容易にいわず、その晩年においては満州国の存立をみとめるかの如き口ぶりをみせる。民主主義者として一貫性に欠けるといいうるかも知れない。しかし先人の業績を評価するに、その不振な時期、おくれた側面のみ着目するのは道ではあるまい。その生涯の最も生彩を放った三一、五四両運動の時期において、吉野の示した言動を帝国主義よばわりすることは、眼をとじて、自ら一個の知識人としてあの時代を生きたならば、いかなる態度をとりえたかを省みるとき、吉野が独立運動家を不逞鮮人よばわりすることを固く拒否したひそみにならい、「予輩の良心が断じて許さぬ」ことを明言しておきたい。』