寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21~30

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21

 原敬は政党党首としてはじめて首相に任命された人物で、爵位をもたず藩閥でもない衆議院議員であり、「平民宰相」と呼ばれました。また外相内田康哉陸相田中義一海相加藤友三郎のほかの閣僚はすべて政友会出身であり、本格的政党内閣のはじめと評価されたのです。

 1918年11月11日ドイツは連合国と休戦協定に調印、第1次世界大戦は終了、1919(大正8)年1月18日パリ講和会議が始まりました。

世界史の窓―ハイパー世界史用語集―世界史用語―15章 二つの世界大戦―第2節 ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 ア. パリ講和会議―ベルサイユ条約―国際連盟

 講和会議の中心は5大国(米・英・仏・伊・日)2人ずつの全権で構成される10人委員会にあり、ここで戦後処理に関するすべての問題を決定、其の他の講和会議参加国は自国に関係する議題が上程されたときに10人委員会に召喚され発言する機会が与えられました。

 日本全権は西園寺公望(主席全権)と牧野伸顕が任命されたのです(「官報」)。

 会議の主導権は米大統領ウイルソン・英首相ロイド・ジョージ・仏首相クレマンソーの手中にありました。

 同年1月27日牧野伸顕全権は山東半島のドイツ利権および赤道以北のドイツ領諸島の無条件譲渡を要求(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)、これに対して翌日中国全権団(南北両政府代表で構成)の顧維鈞(駐米公使)は山東省のドイツ権益は直接(日本の介入を認めず)中国に返還されるべきと主張、日本と対立しました。

 同年4月11日日本全権は国際連盟規約委員会で人種的差別撤廃の趣旨を規約前文に挿入するよう提議しましたが不成立、同年4月21日日本政府は山東問題に関する要求が通らないときは米大統領ウイルソンが提唱する国際連盟規約調印見合わせを日本全権団に訓令、4月22日山東問題に関する第1回首相会議がウイルソンの宿舎で開催、同月28日日本は国際連盟規約に同意、同月29日第2回、同月30日第3回首相会議が開催され、同年5月4日の講和会議で日本全権牧野伸顕山東還付(ただし経済的特権および青島に専管居留地設置の権利を留保)を声明しました(外務省編「前掲書」)。

 これに対して北京の学生3000人余が山東問題に抗議して示威運動(五・四運動)、同年6月28日ベルサイユ講和条約が調印されましたが、中国北京政府は調印を拒否しました。  

 結局パリ講和会議山東問題を解決出来なかったのです。

 他方朝鮮ではこれより以前の同年3月1日京城漢城)・平壌などで朝鮮独立宣言が発表され、示威運動が朝鮮全土に拡大しました(「大正編年史」)。

北九州のあれこれー北九州の歴史―大正時代―4三・一運動と五・四運動

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む22

 寺内正毅内閣はいわゆる超然内閣(「大山巌」を読む27参照)で議会内に与党を持たなかったが、立憲政友会は事実上の与党としての役割を果たしていました。だから寺内正毅内閣が米騒動により崩壊後、原敬立憲政友会総裁を首相とする内閣が1918((大正7)年9月29日成立すると、憲政会幹部の間に寺内・原は同罪として原内閣打倒が主張されたのも、それなりの説得力があったのです。

 しかし加藤高明憲政会総裁は議会の第一党に政権が移って政党政治の第一歩が築かれたと評価するとともに、1919(大正8)年年9月14日名古屋における憲政会東海大会において原内閣に対する厳しい論戦を挑みました。

 その第1点は同年5月4日日本全権の山東還付声明を8月2日内田康哉外相が再確認しましたが、この山東還付声明における青島専管居留地設置についての関係国との解釈の食い違いがあると指摘したこと、第2点は同年4月11日日本全権が国際連盟規約委員会で人種的差別撤廃の趣旨を規約前文に挿入するよう提議しましたが不成立に終わったことなどを追及しました。

 内政においては普選運動の高まりに対する政府与党と野党の対応の問題が緊急の課題として浮上してきたのです。

  1918(大正7)年12月25日招集の第41議会の最中に1919(大正8)年3月8日原敬内閣提出の衆議院議員選挙法改正案(小選挙区・選挙権資格を直接国税3円以上に拡大)を可決、普選論主張の村松恒一郎ら6名が立憲国民党より除名され脱党する騒ぎが起こり(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編 大蔵省印刷局)ましたが、同年12月20日には憲政会政務調査会でも普選案の条件(納税資格を撤廃しても「独立の生計を営むもの」という制限を有権者資格に加えるか否か)を巡って対立がめだつ情勢となってきました(「日本労働年鑑」大原社会問題研究所)。同年12月24日第42通常議会が招集され、1920(大正9)年2月14日衆議院では憲政会・国民党・普選実行会提出の普通選挙法3案が上程されましたが、2月26日普選法案審議中に解散となりました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23

 加藤高明憲政会総裁は翌日『原(敬)君は今回の提案(普選法案)を以て「帝国の国情に鑑みざるものにして、社会組織を脅威し国家の前途に危害を及ぼすものなり」と云ひたるが、、吾人は帝国の国情に鑑み其の将来の安寧・秩序を保つが為には、本案(普選法案)を最も必要なりと確信す。』と述べて党員を激励しました。

 1920(大正9)年5月10日第14回総選挙が実施され与党立憲政友会が大勝する結果となりました(衆議院参議院編「前掲書」)。第43議会で同年7月12日衆議院は野党提出の普選法案を否決、このため普選運動は1919~1920年にかけて普選運動の中心であった友愛会など労働者組織の多くが運動より離脱、普選運動は一時衰退する傾向を見せましたが、加藤高明原敬内閣の失政を追及することをやめませんでした。

 彼は以前からシベリア撤兵を主張していましたが、同年3月2日原敬内閣は閣議でシベリア出兵の目的をチェコ兵救援より朝鮮・満州のへの過激派の脅威阻止のためと変更して駐留することを決定、とくにニコラエフスク黒竜江の河口に位置し、樺太防衛上の要地であるから、同地に駐屯する我が守備兵は依然留置することになりました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 ところが同年3月12日ニコラエフスクの日本軍は休戦中のパルチザン赤軍の別働隊)を攻撃して敗北、3月18日戦闘停止、5月24日より収容中の日本軍民多数が殺害されました(尼港事件及樺太内必要地点ノ一時占領ニ関スル件 外務省編「日本外交文書」大正九年 第1冊 下巻 外務省・井上清「日本の軍国主義」Ⅱ 東大出版会)。

 加藤高明は同年6月27日の憲政会東海大会において「遠く西伯利(シベリア)の内地に出兵し、其後過を改めて撤兵せむと欲せば、屡々撤兵の機会ありたるに拘わらず、(中略)終に撤兵の機を失し、(中略)外は帝国国際上の立場を困難ならしむるのみならず、之が為露国民の反感を招き不祥の事件は頻々として吾人の耳朶を打つに至る。最近に於けるニコラ(イ)エフスク虐殺事件の如きは其最も甚しきものなり。(下略)」と原敬内閣の外交政策を批判したのです。同年12月25日招集の第44議会においても、1921(大正10)年1月24日彼は貴族院でシベリア撤兵を主張しています。これに対して原首相は日本のシベリアに対する地理上の関係は他国と異り、同地の政情は直ちに朝鮮・満州に波及、またシベリアの日本居留民の生命・財産を保護するために今ただちに撤兵できぬと答弁しました(大日本帝国議会誌刊行会「大日本帝国議会誌」第12巻)。

 同年2月3日衆議院では憲政会・国民党より各々提出の普通選挙法案を否決(大日本帝国議会誌刊行会「前掲書」)しました。

 同年11月4日原敬首相は政友会近畿大会出席のため向かった東京駅で中岡艮一に刺殺され、翌日内閣は総辞職、同月13日高橋(1921.12.21立憲政友会総裁「立憲政友会史」5)に組閣命令が出され、原内閣の全閣僚留任のまま高橋是清内閣が成立しました(新聞集成「大正編年史」)。

Musasino Rest Gallery―目次―胸を打つ人間ドキュメントータイトルー平民宰相・原敬暗殺  

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24

 1921年7月11日米大統領ハーディングは軍備制限ならびに太平洋・極東問題でワシントン会議を開くことを非公式に提案(同年8.13日本を正式招請8.23参加回答)海軍軍縮には米・英・日・仏・伊の5国、太平洋・極東問題には前記5国の外、中国(北京政府のみ、広東政府招請されず)・ベルギー・オランダ。ポルトガルの9国が参加しました。9月27日同会議全権に加藤友三郎(原内閣海相)・徳川家達貴族院議長)・幣原喜重郎(駐米大使)が任命されました(新聞集成「大正編年史」)。

世界史の窓―ハイパー世界史用語集―世界史用語―15章 二つの世界大戦―第2節 ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 ア. ヴェルサイユ体制とワシントン体制―ワシントン会議

 ワシントン会議第1回総会で米国務長官ヒューズは建造中の主力艦の廃棄・保有比率の設定を提案しています。

 当時米・英・日3国は建鑑競争をやめず、1920年の戦後恐慌による経済の低迷によって重い財政負担にあえいでおり、その解決を軍備縮小にもとめていたのです。しかし軍縮を達成するにはベルサイユ講和条約に規定された第1次世界大戦後の国際秩序(ベルサイユ体制)を維持できるか否かにかかっていたのです。ところがベルサイユ条約山東問題を解決できず(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24参照)、戦争の火種はなくなっていませんでした。同会議が太平洋・極東問題を議題として採択しなければならなかった理由はこれでおわかりでしょう。

 同年12月13日締結された太平洋方面における島嶼たる属地及島嶼たる領地に関する四国(米・英・仏・日)条約(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)は太平洋方面における島嶼たる領地の相互尊重を約し、同条約第4条で大不列顚国及日本国間の協約(日英同盟)終了が規定されました。

 いわゆる日英同盟ははじめロシア、後にドイツを対象とする軍事同盟でしたが、英国にとってロシアは革命によって崩壊、ドイツも第1次世界大戦に敗北したので存続の利益がなくなったのに、日本の中国支配強化に利用されるだけの存在となっていたから、1921年英帝国会議においてオーストラリアやニュージーランド日英同盟存続を望んでいたにもかかわらず、日本と対立する米国と関係の深いカナダが日英同盟の廃棄を強く主張、同会議を主導するに至り、英国は日英同盟廃棄にふみきったわけで、これによって日本の外交は国際的孤立を深めたのです。

 山東問題に関する日中会談は米英両国のオブザーバーが臨席して日中直接交渉がワシントン会議の外で行われました。中国はワシントン会議の正式議題として山東問題を討議したい希望でしたが、同会議出席の9国中6国がベルサイユ講和条約に拘束されている状況の下では現実に希望は成立せず、1922(大正11)年2月4日締結された山東懸案解決に関する条約(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)は日本の膠州湾租借地還付、中国の同地開放、日本軍の撤退などを規定しています。

 同年2月6日に締結された中国に関する九国条約其の他(外務省編「前掲書」)は中国の主権・独立ならびに領土保全を尊重、中国の門戸開放・機会均等を約束しました。また同日成立した海軍軍備制限に関する条約(外務省編「前掲書」)は米・英・日・仏・伊の主力艦保有量比率を5・5・3・1.67・1.67とし、航空母艦もほぼ同様の比率で保有量が制限されました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む25

 加藤高明ワシントン会議における日英同盟存続の可否について、いろいろの関係からやはり存続して赤の他人となってしまわぬ方がよいと思っている。英国側で種々議論が出て、何うなっても介意せぬと云うなら寧ろ廃棄するがよいと述べ、また海軍制限に関しては財政的に行詰っているから、英米とお互いに縮小することは必要だ。併し常に対等の権利だけは主張するが宜いとして英米の主力艦保有量7割確保を主張、結局6割に同意した政府を批判しました。

 1922(大正11)年2月6日ワシントン会議が終了する直前の同年2月1日加藤高明の政敵であった元老山県有朋が死去(徳富蘇峰編「公爵山県有朋伝」下 原書房)したことは元老の政界における影響力の衰退を象徴する出来事でした。

 1919(大正8)年末に招集された第42議会以後普選運動の主な担い手となったのは地域の市民的政治結社で1922(大正11)年春より普選運動は再び高揚しました。1921(大正10)年末に招集された第45通常議会において提出された憲政会・国民党・無所属組の統一普選案(憲政会の従来「独立の生計を営む者」という条件を削除、国民党は選挙権年齢20歳を25歳に改める)が翌年2月23日衆議院に上程され、討論中傍聴席より生蛇を投入した者が出ました。同夜普選要求の群集が警察官と衝突する騒ぎが起き、2月27日普選案は否決されました(新聞集成「大正編年史」)。しかし政友会内部にも普選法案にたいする動揺が拡大しつつあったのです。

 高橋是清内閣は同議会に過激社会運動取締法案を提出しました。床次竹二郎内相はロシアの過激派と連絡する赤化運動と朝鮮独立運動の取り締りを目的とすると説明しましたが、とくに新聞社などがこの法案は言論報道の自由を圧迫するおそれがあるとして反対運動を展開、同年3月24日貴族院は同法案を修正可決しましたが、衆議院で審議未了となり、翌日衆議院は各派共同提出の陸軍軍備縮小建議案などを可決しました(「大日本帝国議会誌」第13巻)。

 高橋是清内閣は最初から不安定な内閣でしたが、同内閣が第45議会をのりきると、高橋に辞職をもとめる動きが活発となり、同内閣は1922(大正11)年年6月6日閣内不統一により総辞職、6月9日元老松方正義枢密院議長清浦奎吾と相談、加藤友三郎を第一候補とし、彼が辞退すれば憲政会総裁加藤高明を推す方針をきめ、病中の西園寺公望の同意を得ました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―きー清浦奎吾 

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む26

 憲政会の安達謙蔵は同郷のよしみで清浦奎吾に探りを入れ、「ともかく大森駅のプラットホームで人目を避けて、手真似で指を二本出したら加藤友三郎とか、一本出したら加藤高明であるとか、ちょっと合図をすることにしようとの約束で、時日の打ち合わせまでして置いて辞去した。そして予は其の指定の時日の大森駅に行って待っていると、程なく清浦子が見えて約束のサインを受けたわけであるが、」(「安達謙蔵自叙伝」新樹社)元老の後継首相候補加藤友三郎であることを知り、落胆したそうです。 松方正義加藤友三郎に組閣の意思を確かめると加藤友三郎は即答を避けました。一方床次竹二郎(政友会)は加藤友三郎を訪問、組閣を引き受けるよう説得し、加藤(友)も政友会が援助することを条件に組閣を承諾しました(岡義武・林茂校訂「大正デモクラシー期の政治―松本剛吉政治日誌―」大正十一年六月十二日条 岩波書店)。かくして1922(大正11)年6月12日加藤友三郎内閣が成立しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー加藤友三郎 

 同年日本軍は漢口・青島・北満州沿海州からの撤兵を終了していましたが、同年6月24日日本政府は10月末までにシベリアからの撤兵を完了すると声明、10月25日尼港事件の賠償をもとめて北樺太を除き声明を実行していました。同年9月25日極東共和国ソビエト政府との交渉は決裂しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 1923(大正12)年1月加藤高明貴族院において加藤友三郎首相に対し、北樺太駐兵其の他に関し、次のような質問演説を行いました。

 すなわち北樺太駐兵の目的は第一に国家が其の多数国民を失った、其悲惨事に対して、道義的補償を得ること、第二に被害者遺族に対する精神的、経済的補償を得ることであるが、利害を考慮すれば、此際、北樺太における軍隊を撤退して、好機来たらば、他の方法によって、要求の貫徹を期するのが、利益であろうという趣旨でまた山東利権については譲歩しすぎて国威の失墜を招いているとの質問でした。

 同年8月24日加藤友三郎首相は病没し、翌日内閣は総辞職、同月28日山本権兵衛に組閣命令が出されました(新聞集成「大正編年史」)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む27

 山本権兵衛は組閣命令を受けて直ちに政・憲・革の3党首をはじめ、政界の主要人物を水交社(1876創設 海軍将校の親睦団体)に招いて入閣を要請しましたが、加藤高明は政党内閣を理想とすることを理由に承諾せず、即刻開催された憲政会最高幹部会でも入閣拒絶の党議が成立、1923(大正12)年8月30日加藤高明は水交社を訪問して入閣辞退を回答しました。

 しかるに同年9月1日関東大震災が起こって、戒厳令が公布され、9月2日朝鮮人暴動の流言がひろがり、朝鮮人迫害がはじまる情勢の中で(「関東大震災朝鮮人」現代史資料6 みすず書房)、第2次山本権兵衛内閣が成立しました(「大正編年史」)。

関東大震災90周年の夏・写真レポート/山村武彦

 野党憲政会内部にはこのままでは憲政会へは政権はこないという失望がひろがり、非政友会勢力合同論と反対論が対立、また1919(大正8)年12月以来加藤高明は普通選挙の断行を政見の第一に掲げていましたが、元老およびその周囲はまだこれを回避しようとしており、憲政会に政権を渡そうとしないので、加藤高明を総裁から追放しようとする加藤排斥派と擁護派がいがみあい、これに非政友会勢力合同論がからんで、憲政会は分裂の様相をみせはじめました。しかし加藤高明はこの難局をきりぬけ、引き続き加藤総裁が指導する憲政会の団結をまもることに成功しました。

 同年12月27日難波大助が摂政(1921.11.25皇太子裕仁摂政となる「官報」)を狙撃する事件(虎ノ門事件)が発生し、山本権兵衛内閣は総辞職、1924(大正13)年1月7日清浦奎吾(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む28参照)内閣が貴族院研究会の援助を受けて成立しました。

クリック20世紀―年表ファイルー1923年―虎ノ門事件 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む28

 清浦奎吾内閣を松本剛吉は「清浦内閣は(山本内閣と)同じく寄木内閣にして、而(し)かも其寄木は前内閣の如く棟梁自ら為せるにあらず、叩き大工の寄合に委して思ひ思ひの工夫を持寄り作り上げたるものにして、首相の抜擢推薦に依れる閣臣一人もなし。首相の威令何に因ってか行はれん。其命脈の如き永くて三月、短かくて一ヶ月ならんことを予は断定す。」(岡義武・林茂校訂「前掲書」大正十三年一月七日条 岩波書店)と批評しています。

 1924(大正13)年1月10日政友会・憲政会・革新倶楽部護憲3派有志ははやくも清浦内閣打倒運動を開始しました(第2次護憲運動発足)。同年1月15日政友会総裁高橋是清は同会幹部会で清浦内閣反対を声明、これに対して山本達雄・中橋徳五郎・床次竹二郎・元田肇らは脱党し(新聞集成「大正編年史」)、同月29日政友本党を結成、第1党として清浦内閣の与党となりました(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編 大蔵省印刷局)。

 同年1月18日高橋是清加藤高明犬養毅3党首は枢密顧問官を辞職した三浦梧楼(「大山巌」を読む41参照)の斡旋で会談し、政党内閣確立を申し合わせました(新聞集成「大正編年史」・「観樹将軍回顧録」大空社)。同年1月30日憲政擁護関西大会が大阪中央公会堂で開かれ、3党首も出席、その帰途加藤高明は名古屋で下車しましたが、護憲3派幹部乗車の列車転覆未遂事件が起こり、翌日衆議院で列車転覆未遂事件に関する浜田国松の緊急質問中、暴漢3人が壇上を占拠、議場混乱のため休憩中解散となりました(新聞集成「大正編年史」)。

 憲政会の議会解散に対する声明書が「現内閣は此の如くして故らに国民の階級的自覚心を喚起し、左なきだに動揺を免れざる国民思想をして、益々険悪に赴かしめ、其の極まる所、或は恐る、彼の戦慄すべき階級闘争を惹起するに至らむことを」(「憲政会史」下巻 原書房)と述べているように、彼等は清浦内閣に代表される貴族支配への民衆の反感が社会主義と結合した民主主義運動の展開に移行していく事を深く恐れていたのです。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29

 1924(大正13)年5月10日第15回総選挙が実施され、憲政会当選者は153名に達して第1党となり、これに対して清浦内閣の与党政友本党は114名に止まり、護憲3派の大勝となりました。

 同年6月7日清浦奎吾内閣は総辞職した結果、憲政会に反対してきた元老西園寺公望(同年7.2松方正義死去)も「政局并に人心の安定を期する」(岡義武・林茂校訂「大正デモクラシー期の政治・松本剛吉政治日誌」大正十三年六月十一日条 岩波書店)には加藤高明を推す外なしとの松本剛吉の建策を受け入れ、彼を首相に推薦、6月9日加藤高明に組閣命令が出されました。かくして加藤高明は高橋・犬養両党首を訪問、3派連立を協議、6月11日第1次加藤高明内閣が成立、若槻礼次郎(内相 憲政会)、浜口雄幸(蔵相 憲政会)、高橋是清(農商務相 政友会)・横田千之助(司法相 政友会)・犬養毅逓信相 革新倶楽部)・外相幣原喜重郎らが入閣しました(「官報」)。

三菱グループー三菱グループについてー三菱人物伝―三菱の人ゆかりの人―vol.18 幣原喜重郎  

weblio辞書ー検索―松本剛吉

 加藤内閣がまず取り組んだのは行財政の整理で陸軍の4個師団の廃止・実行予算3000万円節約が閣議決定されましたが、軍部大臣武官制の改正などは見送られました。

 外交では1925(大正14)年1月20日北京で日本国及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間の関係を律する基本的法則に関する条約(日ソ基本条約)が調印され、同年5月15日北樺太派遣軍の撤兵が完了しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 懸案の普選問題については同年3月2日衆議院で普通選挙法案(衆議院議員選挙法改正案)が修正可決されましたが、松本剛吉は西園寺公望の意をうけて加藤高明首相を訪問、「若しも通過困難なる場合は、断然意を決して解散の処置を執られ、真の我党内閣に改造せられては如何でありますか(貴族院で普選案の通過が困難ならば断乎として解散し、憲政会内閣を作ってはいかがですか)」と勧めました。ところが松本は「(加藤)首相は身を震はし、火鉢に両手を突き、頗る緊張して之を聴かれ、下の如く答へらる。曰く御親切の段感謝に堪えず、実は解散の事に関しては(中略)浜口、若槻、安達抔よりは二三回此の事を申出でたれども、自分は御承知の如く病身にして如斯事迄も断行してやり通す勇気がありません、兎に角此の議会は如何様にしても、假令(たとえ)曲りなりにも、通過する様御配慮を願ひ度旨答へられたり。」(岡義武・林茂校訂「前掲書」大正十四年三月五日条)と述べています。同年3月29日両院協議会案が成立、結局25歳以上の男子に選挙権、30歳以上の男子に被選挙権を与え、欠格条項として「貧困ニ因リ生活ノ為公私ノ救助ヲ受ケ又ハ扶助ヲ受クル」者が除外されました(内閣印刷局「法令全書」第一四巻ノ二 原書房)。

 同年3月7日衆議院治安維持法案が修正可決され、3月19日貴族院も可決しました(「法令全書」同上 原書房・「大日本帝国議会誌」)。 その内容は「国体(天皇統治の国がら)ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」などで、従来の治安警察法が政治活動や社会運動などの具体的行動を取り締まるものであったのに対して、治安維持法は国体変革と私有財産の否認という思想・信条を取り締まるもので、社会主義運動や労働者・農民運動をを取り締まるだけでなく、のちには拡大解釈されて民衆の諸権利と自由を弾圧する悪法の代表例となりました。

 同年5月5日貴族院令が改正されましたが、有爵議員を若干減員、帝国学士院互選の勅選議員を設置するなどの微温的改革が行われたに止まりました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む30(最終回)

 1925(大正14)年4月4日立憲政友会総裁高橋是清が引退を表明、同月16日商相兼農相を辞任、後任には政友会より野田卯太郎、農相に岡崎邦輔が任命され、4月13日田中義一が莫大な政治資金を準備したといわれ、大会で政友会総裁に就任しました(新聞集成「大正編年史」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー田中義一 

 同年4月15日田中義一政友会総裁は加藤高明首相と会見、現内閣支持を共同声明しましたが、5月10日革新倶楽部総会は政友会との合同を決議、5月30日合同反対派の尾崎行雄らは中正倶楽部残留派とともに新正倶楽部を組織、5月14日政友会は臨時大会で革新倶楽部中正倶楽部と合同しました。また5月28日加藤内閣逓相犬養毅が政界引退を表明、5月30日逓相を辞任したので(後に地元で推薦され、補欠選挙で再選して政友会に所属)後任に安達謙蔵(憲政会)が任命されました(新聞集成「大正編年史」)。

 このように第1次加藤高明内閣を支えた護憲3派に変動が起こる中で、同年7月30日閣議は税制整理案をめぐって対立激化、小川平吉(法相 政友会)、岡崎邦輔(農相 政友会)らは退席、7月31日加藤高明内閣は閣内不統一により総辞職、一方政友会と政友本党幹部は提携を申し合わせていました(新聞集成「大正編年史」)。

 「総裁(田中義一)は自分が働き出せしにあらずして、自然と政本提携又は合同成立の見込あり(自分がはたらきかけたのではないが、おのずと政本提携または合同が実現する見込みである)」と唯一人の元老となった西園寺公望に伝えるよう松本剛吉に依頼しました。松本が報告すると西園寺公望は「政権を執るが為めに俄かに企んだことならん(政権をとるためににわかにたくらんだことであろう)田中が働き出した訳ではない抔(など)は其言訳ならん(田中がはたらきかけたのではないというのはいいわけであろう)、実に驚いた者共である」(岡義武・林茂校訂「前掲書」大正十四年七月二十八日条)と非難、同年8月1日加藤高明を再び首相に推薦、翌日第2次加藤高明内閣(憲政会単独)が成立しました。

 しかし憲政会単独では衆議院の過半数に達しないため政局は不安定となり、憲政会では浜口雄幸蔵相や安達謙蔵逓相らは繰り返して解散断行を主張しましたが、貴族院議席をもつ加藤高明首相や若槻礼次郎内相は解散する勇気がなく、政友本党と妥協して議会をのりきる方針を変えませんでした。

 かかる情勢において同年12月25日第51議会が招集されましたが、1926(大正15)年1月26日首相加藤高明は病気により内相若槻礼次郎を首相代理に任命(「官報」)、しかるに同年1月28日加藤高明首相は67歳で死去、勲功により伯爵を授与されました。

この小説は加藤高明死去の有様の叙述で終了しています。

 「加藤は初め風邪だったが、それが肺炎になり、結局心臓麻痺で亡くなられた。(中略)加藤がまだ野党の総裁でやっていたころ、私は加藤の心臓のよくないことを、ひそかに聞いていた。(中略)それがなぜ私たちに伝えられたかというと、お前がたは努力して加藤を助けているが、あの人の身体は、いつどんな変化があるかわからん。それは覚悟しなければならんという意味だったろう。(中略)

 私が明治二十五年に大蔵省に入ったときは、(加藤は)監督局長だったと思う。(中略)そのころから加藤を知っていた。(中略)

 原(敬)はなかなかの利口者だから、山県(有朋)公などにはよほど取り入っていた。(中略)そこへいくと、加藤は老人を喜ばせることのできない男であった。うっかりすると、怒らせてくる。」(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史」-古風庵回顧録―講談社学術文庫

 若槻礼次郎の指摘はたしかにその通りですが、山県有朋に取り入ることの上手かった原敬が、結果として衰退しつつあった元老の影響力を温存し、明治国家を民衆のために改革するという側面をもった大正デモクラシーを不徹底なものにしたことは確かで、元老を怒らせた加藤高明も国家の不徹底な改革に終わったことは原敬と同様ですが、1932(昭和7)年5.15事件による犬養毅政友会内閣の倒壊まで、継続する政党内閣の慣例を切り開いた点で、その実績は高く評価されるべきでしょう。

 

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む11~20

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む11

 鉄道国有は満州進出を強化するための軍事輸送確保をめざす軍部が常に強く主張するところで、桂太郎内閣は総辞職以前の最後の閣議でこれを決定、後継の西園寺公望内閣にこの案踏襲を一条件として提案したところです。西園寺内閣首脳部は43000万円で全国17の私設幹線鉄道を買収する具体案を閣議にはかり、また元老にも了解を求めました。

 しかし閣内において上記内容の鉄道国有法に一人反対したのは加藤高明外相でした。西園寺公望首相・原敬内相・寺内正毅陸相らが外相を説得、とくに原敬外相所管事務でもないのに、職を賭してまで反対論を唱える必要なしと彼をなだめましたが、1906(明治39)年2月17日の閣議で加藤外相は(ア)私権(財産権)蹂躪(ふみにじる)、(イ)国債の負担過重、(ウ)官営多分拙劣という理由を挙げて反対、翌日外相は岩崎久弥らに辞職せざるをえないことを告げています。同年2月28日西園寺公望内閣は閣議で鉄道国有法案を決定、3月3日加藤高明外相辞任が確定しました。以後原敬との交友はほとんど断絶したものとなりました。

 同年3月末鉄道国有法は議会を通過成立しましたが、買収された私有鉄道は17社、その建設費は25800万円、その買収価格は45600万円に増加、その利子2280万円となり、翌年10月1日買収を完了しました。

 当時加藤高明が私有鉄道の大株主三菱の利益を代弁するために鉄道国有法に反対したという批判があり、これに対しては岩崎弥之助が末延道成に「加藤が姻戚関係から三菱の為に主張するように噂されることは、誠に気の毒に堪えない。」と語った言葉を引用して、上記の批判が不当であるとする意見(伊藤正徳「前掲書」)があります。

 しかしながら岩崎家の働きかけがなかったとしても、この問題について彼は岩崎家と密接に連絡をとりあっており、鉄道国有法案反対が岩崎家の利益と矛盾しない行動であった事はたしかで、「かれは朝鮮の鉄道を強制買収することには異論をとなえずに賛成していたのだから、その主張には矛盾があったばかりでなく、財閥の利益を擁護しようとする意図はみえすいていた。」(信夫清三郎「明治政治史」弘文堂)という見解も説得力があります。

 加藤外相鉄道国有法に反対した理由としては、上記軍部(山県有朋桂太郎ら)の圧力に対する反感もあったと考えられます。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む12

 桂太郎小村寿太郎加藤高明の関係は以前から交流がなかったのですが、1908(明治41)年第1次西園寺公望内閣が赤旗事件(「日本の労働運動」を読む44参照)で総辞職、同年7月14日第2次桂太郎内閣が成立、同年8月27日小村寿太郎が駐英大使から外相に就任すると、加藤高明外相から駐英大使引き受けの要請を受けました。

マネー辞典―分野別辞典―政府―索引―ター大使館   

 7月上旬桂太郎からの招電に接した小村寿太郎は自分の後任に経済の理解がある加藤高明を推薦しました。桂は加藤とはほとんど面識がなかったので、伊藤博文松方正義(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む6参照)に根回しを依頼、加藤は事前に岩崎久弥と相談の上小村外相と会見、同年9月12日彼の駐英大使親任式がおこなわれました。同年12月17日加藤大使は夫人と娘を同伴して新橋駅を出発、下関から平野丸に乗船、翌年2月11日ロンドンに着任しました。

 1894(明治27)年7月16日調印された日英通商航海条約(「大山巌」を読む34参照)は領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部撤廃を規定しており、1899(明治32)年7月17日から実施となりましたが、同条約第21条において本条約は実施の日より11箇年経過後両締約国が本条約終了の意思を他方に通知すれば、1箇年経過後本条約は消滅する旨の規定がありました。加藤駐英大使の第一の任務はこの日英通商航海条約の改定交渉にあり、1911(44)年4月3日新しい日英通商航海条約(外務省編「日本外交文書」第44巻第1冊 巌南堂書店)が調印され日本は関税自主権の回復に成功しました。

 加藤大使の第二の任務は第3回日英同盟協約(「坂の上の雲」を読む12・45参照)改定交渉でした。これは日露戦争後日米関係の悪化にともない、日英同盟廃止の世論が高まるイギリスが要求したもので、本協約第4条「両締約国ノ一方カ第三国ト総括的仲裁裁判条約ヲ締結シタル場合ニハ本協約ハ該仲裁裁判条約ノ有効ニ存続スル限右第三国ト交戦スルノ義務ヲ前記締約国ニ負ハシムルコトナカルヘシ」の規定が重要です。条文の意味が判りにくいと思いますが、要するに英国が米国と総括的仲裁裁判条約を締結したとき、日本と米国が戦争しても、英国は米国と戦争する義務はないという意味です。また本協約第6条で有効期限は10年とされました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 同年8月加藤高明は勲功により男爵、旭日大綬章を授けられました。

 同年8月25日桂太郎首相は政綱実行の一段落を期として辞表を提出、後任首相に西園寺公望を推薦(徳富蘇峰編「公爵桂太郎伝」坤巻 原書房)、8月30日第2次西園寺公望内閣(外相内田康哉)が成立しました。

 1912(明治45)年7月30日天皇逝去の公電が加藤大使に発せられたのはロンドン時間の7月29日午後9時ころで、ただちに皇太子嘉仁親王践祚、大正と改元、8月27日追号明治天皇と決定しました(「官報」)。

 同年8月13日大正天皇元老ならびに西園寺公望首相に先帝の遺業を継ぐに当たっての勅語を下し、内大臣兼侍従長桂太郎を任命しました(「官報」)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13

 1911(明治44)年9月加藤高明駐英大使は賜暇を得て10月東京に帰着したのですが、翌年山本権兵衛(「坂の上の雲」を読む16参照)海軍大将の仲介で彼が桂太郎と会談したのはロンドンへ帰任する約2週間前の4月上旬でした。

 このとき軍人の政治を嫌悪していた加藤は桂から希望により近く後備役(現役・予備役を終了したものが服務する兵役)に編入されること、及び政党についての考え方などを聴き、桂の軍人らしくない一面を見、桂は山本権兵衛が加藤を外交第一人者として推挙する通りの識見をもった人物として評価したようです。

 1912(大正1)年11月10日西園寺公望首相は師団増設問題で元老山県有朋と会見、意見一致せず、同月22日上原勇作(「坂の上の雲」を読む33参照)陸相は朝鮮に2個師団増設案を閣議に提出しましたが、同月30日の閣議は上記増設案を財政上不可能として否決したため、上原陸相は12月2日帷幄(いあく)上奏(閣議を経ず直接天皇に上奏)により天皇に単独辞表を提出、陸軍は後任陸相を送らなかったので、同月5日第2次西園寺公望内閣は総辞職(原奎一郎編「原敬日記」3 福村出版株式会社)、12月17日桂太郎に組閣の大命が降下すると、彼はロンドンの加藤高明外相就任を要請、その承諾を得ました。同年12月21日第3次桂太郎内閣が成立(徳富蘇峰編「前掲書」)、同年12月24日第30通常議会が招集されました。しかし早くも翌1913(大正2)年1月17日政友会8団体の交渉委員は同会本部で協議の結果、西園寺総裁に、我党は現内閣に反対の意思を表明す、其手段方法及び時機に就ては最高幹部に一任すと決議しました。これに対して桂は新党組織を計画、1月21日議会に15日間の停会命令がだされ、この間に桂首相は何とか危機をのりきろうとしていたのです。ところが1月24日憲政擁護第2回連合大会が東京新富座で開催され、聴衆は場内満員に及ぶ盛会となりました(新聞集成「大正編年史」大正昭和新聞研究会)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む14

 1913(大正2)年1月28日夜加藤高明は東京に帰着、翌同月29日桂太郎首相と会談、入閣条件として対支策・対満蒙外交に関して、陸軍側が外務当局の意思を無視し、又は独断にて計画を進めることは、日露戦争以来、現実の弊であった。自分が外相となって責任を取る場合には、外交は外務大臣の意見に従って統一節制あるものにしたいとの要求を出し、桂首相はこれを受け入れました。

 同年2月5日数万の民衆が議事堂を包囲する中で議会は再開され、立憲政友会立憲国民党両党は桂内閣不信任案を提出、政友会の尾崎行雄(「大山巌」を読む47参照)が「彼等は常に口を開けば直に忠愛を唱ヘ、恰(あたか)も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へて居りまするが、其為すところを見れば、常に玉座(天皇の座席)の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。(拍手起る)彼等は玉座を以て胸壁となし詔勅を以て弾丸に代ヘて政敵を倒さんとするものではないか。」(「大日本帝国議会誌」第8巻 大日本帝国議会誌刊行会)と叫んで桂首相を指さすと、桂太郎の顔はさっと青ざめたそうです(尾崎行雄「咢堂回顧録」下 雄鶏社)。

 5日間の停会命令が下されましたが、議事堂周辺には護憲派民衆の示威行進が行われていました。

 同年2月7日桂首相は新党を立憲同志会と命名、宣言書を発表しました(新聞集成「大正編年史」)。

History of Modern Japan―日本近現代史研究―政党議会に関するデータベースー2.政党に関するデータベースー戦前期:衆議院院内会派ー立憲同志会

 加藤外相の建策により、2月8日首相官邸において桂首相は立憲政友会総裁西園寺公望と会見、内閣不信任案の撤回を要望しましたが、翌日西園寺は加藤高明を介してこれを拒絶したので、大正天皇は西園寺に衆議院の紛糾を解決せよとのご沙汰を下しました。2月10日西園寺は政友会総裁辞任を上奏したのですが、政友会議員総会は不信任案を撤回しないと決議しました。

 同日再開された議会周辺を護憲派の民衆が包囲する情勢の下で、桂首相は衆議院議長大岡育造の勧告により内閣総辞職を決意、3日間の停会命令が出されましたが、民衆の中には政府系新聞社や警察を襲撃するものが出、軍隊が出動する騒ぎに発展しました(第1次護憲運動)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む15

 1913(大正2)年2月11日第3次桂太郎内閣は総辞職、元老会議は後継首相に山本権兵衛を推薦、翌日山本権兵衛(「坂の上の雲」を読む16参照)に組閣命令が出されました。同年2月13日山本権兵衛よりの加藤高明留任要請を謝絶、2月20日山本権兵衛内閣(首・外・陸・海を除く全閣僚は政友会出身)が発足しました。

 桂太郎立憲同志会加藤高明を引き入れたいと熱望していたので、かれは同年4月同志会に入党、同年4月25日より中国視察旅行に出かけ、6月7日東京に帰着、この間北京到着後袁世凱、上海では孫文らと会見しました。

 1911清朝は外国資本を導入して鉄道の国有化をはかりましたが、強力な反対運動が起こって同年10月10日武昌が革命軍に占領されるとまたたく間に中国の大半が革命軍の手に落ちました(辛亥革命)。 1912年1月1日革命軍は南京において中華民国成立を宣言、孫文が迎えられて臨時大総統に就任しましたが、2月12日清朝宣統帝は退位、軍閥袁世凱に臨時共和政府組織の全権を与え、ここに清朝は滅亡しました。袁世凱は南京の革命政府と協定して大総統の地位を引き継ぎ、北京政府を樹立、革命を弾圧したので、孫文は1913年第二革命を起こしたが失敗、日本に一時亡命しました(尾形勇・岸本美緒編「中国史」世界各国史3 山川出版社)。

孫文・梅屋庄吉と長崎ー歴史年表ー1900年~1915年

 1913(大正2)年加藤高明は7月15日同志会5常務の筆頭となりましたが、同年10月8日桂太郎は彼をを枕頭に招いて立憲同志会と憲政のために尽力を依頼、同月10日死去しました(徳富猪一郎編「前掲書」)。よって同年12月23日立憲同志会は結党式を挙行、総理に加藤高明が就任しました(新聞集成「大正編年史」)。

 山本権兵衛内閣は同年6月13日陸・海軍省官制改正を公布、軍部大臣の現役武官制を撤廃し、軍部の横暴を非難する世論に配慮を示しました(「官報」)。

 しかし1914(大正3)年1月23日各新聞はベルリン裁判所におけるシーメンス社勤務リヒテルの裁判で、同社より日本海軍高官に贈賄した証拠が出たと報道、立憲同志会の島田三郎は衆議院予算委員会シーメンス事件に付き政府を攻撃、3月24日山本権兵衛内閣は総辞職しました(新聞集成「大正編年史」)。

聚史苑―歴史年表―大正年表―大正年表1:1912~1915年―1914(大正3)年1月22日ーシーメンス事件     

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16

 元老会議は徳川家達貴族院議長)らに組閣を要請しましたが辞退され、ついに井上馨大隈重信(「田中正造の生涯」を読む12参照)を後継首相に推薦説得、しかしすでに十数年も政治の実際から離れていた老齢の大隈重信加藤高明を訪問、大命(天皇の組閣命令)を拝受すべきか否かについて彼の意見を聞きました。出来る限りお助けするから、今後のことは少しも御心配には及ばぬとの彼の激励をうけて大隈重信も政権を担う決意を固めました。かくして1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣が成立、副総理格として加藤高明立憲同志会総理)が外相として入閣しました。

 1898(明治31)年以来外務省が外交機密往復文書の写しを悉く元老の手許に送付する慣例がありましたが、加藤外相はこれを廃止、必要ある場合外務当局に精説させることにしました。これが元老とくに山県有朋の反感を買うに至った理由の一つです。

 1914(大正3)年6月28日オーストリア皇太子がオーストリア国籍のセルビア人に暗殺されるサラエボ事件をきっかけに7月28日オーストリアセルビアに宣戦布告、第1次世界大戦がはじまりました。

歴史年代ゴロ合わせ暗記―第一次世界大戦と日本―サラエヴォ事件

  同年8月4日英国はドイツに宣戦布告、8月7日同国はドイツ武装商船撃破のため、日本の対ドイツ戦参加を希望してきました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。同日午後10時から早稲田の大隈首相私邸で開かれた閣議で加藤外相は「日本は今日同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場には居ない。(中略)ただ、一は、英国からの依頼に基く同盟の情誼と、一は、帝国が此機会に独逸の根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高めるの利益と、この二点から参戦を断行するのが機誼の良策と信ずる。(下略)」と述べ、閣議が対独参戦を決定して散会したのは8日午前2時でした。

 8月9日加藤外相は英大使に東アジアのドイツ勢力一掃のため参戦と説明したことに対して英国は日本が第1次世界大戦を利用して中国侵略を推進しようとする動きを警戒、日本の軍事行動開始見合わせを希望しましたが、同月12日英国は戦地極限を条件として日本の参戦に同意しました。

 同年8月15日日本政府はドイツに膠州湾租借地山東省・「大山巌」を読む44参照)の交付を要求する8月23日の期限付最後通牒(自国の最後的要求を相手国に提出して、それが容れられなければ、自由行動をとるべき旨を述べた外交文書)を発し、無回答であったので、同日ドイツに宣戦布告しました(外務省編「前掲書」)。9月2日日本軍は山東省に上陸開始、10月14日までに日本海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を、11月7日日本軍は青島を占領しました(「大正編年史」)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17

 前年12月3日付加藤外相の訓令にもとづき、1915(大正4)年1月18日日置益駐華公使中華民国大総統袁世凱に5号21カ条の要求を提出し秘密交渉とするよう求めましたが、それは旅順・大連の租借期限延長・山東省ドイツ利権(山東利権)の譲渡をはじめとする膨大な利権を要求するものでした(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

横浜 金沢 みてあるきー付録―ファミリー版 日本史ミニ事典―コラムー対華二十一ケ条要求  

 

   同年1月22日から2月8日にかけて日本政府は上記対中国要求を第5号(「中央政府ニ政治財政及ビ軍事顧問トシテ有力ナル日本人ヲ傭聘セシムルコト」など7カ条)を除いて英・仏・露・米に通告、ところが中国は第5号の存在を在中新聞特派員に漏らしたので、2月20日米大使から第5号について問い合わせがあり、日本政府は第5号が希望条項であると説明、2月27日までに英・仏・露・米に第5号を内告せざるを得ませんでした。この点について、第36議会では加藤外交の失敗として厳しい追及を受けています。

 5月4日閣議は元老の意見や英外相グレーの通告をを考慮、21カ条要求から第5号を削除、同月6日午前会議で最後通牒案を決定、5月7日日置公使最後通牒を中国外交総長陸徴祥に交付、同月9日中国は日本要求を総て承認、同月25日21カ条要求に基づく山東省に関する条約・南満州・東部内蒙古に関する条約などの日中条約並びに交換公文に調印しました。

 同年11月22日英・仏・露3国大使は中国の独・墺との国交断絶勧誘に関し、日本が支持するよう要請する覚書を提示しましたが、12月6日日本政府は中国の対独・墺国交断絶に反対なる旨英・仏・露に回答しました(外務省編「前掲書」)。その理由はドイツ山東利権継承をのぞむ日本にとって、ドイツへの戦勝国として中国が講和会議に参加した場合、日本のドイツ山東利権継承に反対するおそれがあったからです。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む18

 懸案の2個師団増設問題について、1914(大正3)年12月25日衆議院は軍艦建造費を可決しましたが、2個師団増設案を否決したため、衆議院は解散されました。1915(大正4)年3月25日第12回総選挙が実施され、与党立憲同志会は解散時の議席95から151議席に躍進して第一党となり、野党立憲政友会(1914.6.18総裁 原敬立憲政友会史」4)は解散時の議席185から104議席に減少(衆議院議席381)し、与党が大勝(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編)、同年5月17日第36特別議会が招集されました(衆議院参議院編「前掲書」帝国議会史編)。

 ところが政友会所属議員板倉中・白川友一は大浦兼武内相に、第35議会で2個師団増設案を通過させるため、買収されたとの容疑で拘引され、7月29日大浦内相は辞表を、翌日大隈首相以下も辞表を提出しました。

 しかるに元老会議を主導した山県有朋桂太郎なき後の長州陸軍閥の後輩寺内正毅に組閣させたい意向でしたが、まだその準備が整わず大隈首相に留任を勧告、8月10日大隈重信内閣は外相加藤高明・蔵相若槻礼次郎海相八代六郎が辞任、内閣改造で留任することになりました(「大正編年史」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―てー寺内正毅

 1916(大正5)年3月26日大隈首相は元老山県有朋を訪問、立憲同志会総理加藤高明を後継首相に推薦しましたが、4月上旬山県有朋は挙国一致の必要を理由に政党首領の組閣に反対と返書しました(徳富蘇峰編「公爵山県有朋伝」下 原書房)。

 同年7月14日加藤高明は日独戦争以来の功績により子爵を授けられ、旭日桐花大綬章と3500円を下賜されました。

 同年10月4日大隈首相は加藤高明を後継内閣首班に推薦して辞表を提出、元老会議は後継首班に寺内正毅を推薦、寺内正毅に組閣命令が下され、10月9日寺内正毅内閣が成立しました(「大正編年史」)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19

 1916(大正5)年10月7日加藤高明立憲同志会総理は寺内正毅後藤新平ら(同志会脱党)が入閣すれば寺内内閣に反対と申し入れ(鶴見祐輔後藤新平」第3巻 勁草書房)ましたが、同月9日寺内新内閣に内相として後藤新平が入閣しました(「大正編年史」)。

 同年10月10日立憲同志会中正会公友倶楽部は合同して憲政会(総裁 加藤高明)を結成、衆議院の過半数を握るに至ったのです(「大正編年史」)。

横浜 金沢 みてあるきー付録―ファミリー版 日本史ミニ事典―図表ー政党の変遷―憲政会

 1917(大正6)年1月25日衆議院に憲政会・国民党共同提出の内閣不信任案が上程されましたが、提案理由説明の演説で国民党の犬養毅は憲政会を批判、衆議院は解散されました(「大日本帝国議会誌」・「大正編年史」)。同年4月20日第13回総選挙の結果、立憲政友会が大勝、憲政会は敗北しました(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー犬養毅

 同年6月2日寺内正毅首相は原敬立憲政友会)・加藤高明(憲政会)・犬養毅立憲国民党)3党首に挙国一致の外交を行うための臨時外交調査会委員就任を懇請、原敬犬養毅は受諾しましたが、6月4日加藤高明は拒絶しました(「大正編年史」)。このころ第1次世界大戦をめぐる国際情勢は大きく局面を転換しつつあったのです。

 イギリス海軍の海上封鎖に苦しんだドイツが1917年1月9日無制限潜水艦作戦を決定すると、同年1月11日英国は輸送船団護衛のため日本軍艦の地中海派遣を要請、同年2月初旬日本軍艦は地中海へむけて出発しました。

 同年2月3日アメリカは対独断交(同年4月6日対独宣戦布告)、米駐中国公使は北京の段祺瑞政権に対し対独参戦を要請、1月20日寺内内閣は北京の段祺瑞政権に借款を供与(西原借款のはじめ)するとともに2月9日閣議で中国の参戦に関する米国の勧誘を支持すると決定、同月12日独・墺との国交断絶を中国に勧告しました(中国同年3.14対独国交断絶、同年8.14宣戦布告)。これに対して孫文は同年9月10日大元帥に就任、広東軍政府樹立を宣言、同年9月13日対独宣戦を公布したのです。

 同年1月27日外相本野一郎はグリーン駐日英大使と会談、講和会議の際山東ドイツ利権竝赤道以北のドイツ領諸島の処分に関し日本の提出する要求を英国政府が支持する旨の保障を得たいとの希望を開陳しました。これに対して同年2月13日英外相は駐英大使珍田捨巳に講和会議山東省のドイツ利権ならびに赤道以北のドイツ領諸島に関する日本の要求を支持と回答、日本がそれまで反対してきた中国の対独参戦に同意することを条件に3月1日フランス、3月5日ロシア、3月23日イタリアも英と同内容の支持を回答しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 同年6月13日日本政府は米国差遣特命全権大使に石井菊次郎を任命、同大使は7月28日横浜を出発、11月2日同大使は米国務長官ランシングと中国に関する交換公文において、米国は日本が領土の近接する中国において特殊利益を有することを認め、同時に両国は中国の独立・門戸開放・機会均等の尊重を約束(石井・ランシング協定)しましたが、中国をめぐって対立する日米が共通の敵ドイツを屈服させるまで、一時妥協せざるを得なかったということでしょう。

 1918年1月8日米大統領ウイルソンは戦争終結の条件として14ヶ条の提案を発表しました(外務省編「前掲書」)。

世界史の窓―ハイパー世界史用語集―世界史用語―15章 二つの世界大戦―ウ.大戦の結果ー十四ヵ条―オ.ソビエト政権と戦時共産主義―シベリア出兵

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20

 1917年3月12日ペトログラードに労働者・兵士ソビエト評議会)組織が成立、同月15日リヴォフ公首班の臨時政府が成立、ニコライ2世は退位してロマノフ王朝が滅亡しました(ロシア2月革命)。同年5月1日ロシア臨時政府は連合国に最後の勝利まで戦争継続と声明、7月21日ケレンスキーペトログラードソビエト議長・社会革命党)内閣が成立しました。

 しかるに同年11月7日ペトログラードでレーニンの指導するボルシェヴィーキ(ロシア社会民主労働党多数派)は武装蜂起してケレンスキー政権を打倒、全露ソビエト政権を樹立してレーニンは議長に就任(10月革命)、第2回全露ソビエト大会は交戦国の政府と国民に即時無併合無償金の講和締結を提唱するレーニンの「平和に関する布告」を採択しました。  しかしこの提唱は受け入れられず、1918年3月3日ソビエト政権は独・墺とブレスト・リトウスク条約を締結して単独講和にふみきりました。

 このころロシア国内にはオーストリアからの独立を希望するチェコスロバキア軍がいたのですが、ソビエト政権が独・墺と講和したため、英米側に移動しようとするチェコ軍救出を名目に連合国はシベりアに出兵(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)して革命干渉に乗り出したのです(和田春樹編「ロシア史」世界各国史22 山川出版社)。

 1918(大正7)年4月5日日英陸戦隊はウラジオストクに上陸を開始していましたが、同年6月21日英首相ロイド・ジョージは珍田捨巳駐英大使に日本のシベリア出兵を要請、7月8日米国はチェコ軍救援のためウラジオストクに日米共同出兵を提議してきました。

 8月2日日本政府はシベリア出兵を宣言、9月中旬までに日本軍はハバロフスクやチタを占領、ニコラエフスクにも陸戦隊が上陸しました。10月末シベリアの日本軍は北満派遣も含めて72000に達し、同年11月16日アメリカは日本の兵力増派に抗議してきました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。ところが前年の夏ころから米価の暴騰が激しくなり、8月3日富山県中新川郡西水橋町に米騒動が起こったのをきっかけに、騒動は全国に波及しました(井上清・渡部徹編「米騒動の研究」有斐閣)。

日本歴史巡りー大正―米騒動    

 同年9月21日寺内正毅首相は辞表提出、9月27日立憲政友会総裁原敬に組閣命令が出されました(「大正編年史」)。

 米騒動は明治時代において弾圧された労働運動や普選運動をはじめとする社会運動(「日本の労働運動」を読む46~50参照)が再び活発化するきっかけとなりました。

 米騒動がようやく沈静化した直後の1918(大正7)年10月6日富山県滑川(なめりかわ)で普通選挙期成同盟会が結成され(斎藤弥一郎「富山県社会運動史」富山県社会運動史刊行会 松尾尊兊「政党政治の発展」岩波講座 日本歴史 現代2引用)、これが新聞を通じて全国に報道されると、新しい普選運動を呼び起こす役割を果たしたのです。

 

 

 

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む1~10

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む1

 寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」(講談社)は第24代首相加藤高明の生涯を述べた伝記小説として1994(平成6)年出版された作品です。

 この小説第一章は加藤高明の生まれ故郷の描写から始まります。彼は1860(安政7・万延1)年正月3日尾張藩徳川御三家の一つ)下級武士服部重文(しげあや)の二男總吉(ふさきち 母 久子)として尾張国海東郡佐屋(愛知県愛西市代官所の手代屋敷に生まれました。彼の祖父服部作助以来服部家は佐屋代官所手代を務め、武士としての地位は低かったようですが、役得が藩手当を上回り、経済的には豊かでした。

愛知県観光ガイドージャンルで検索―歴史・文化―キーワードー佐屋代官所―検索

 1864(元治1)年12月父の鵜多須(愛西市)代官手代転任により同地に移転、1867(慶応3)年秋祖父母(作助・加奈子)が代官手代職を嗣子重文に譲って名古屋に移転するとき、祖父母の懇望と本人の希望で總吉は名古屋に転住、寺子屋前田修観堂に就学して「十八史略」の素読を学ぶに至りました。

 明治新政府は信州の伊那・筑摩両郡の旧幕領取締りを尾張藩に命じ、1868(明治1)年閏4月伊那県を設置しましたが、役人には依然として尾張藩士を多く任用しました(「長野県史」近代史料編 第1巻 長野県史刊行会)。同年末服部重文も伊那県出仕を命ぜられ、翌年3月妻子を連れて就任、まもなく塩尻勤務となり、總吉も塩尻に移ったとき1870(明治3)年正月4日の出産時に母久子が死去しました。

 父重文は久子死後佐屋に帰って旧職に復帰(代官所は邑宰方、手代は属吏と改称)、亡妻の妹鐐子と再婚、名古屋で祖父母と同居するようになり、總吉も同年3月名古屋でかつての藩校明倫堂に入学しましたが翌年7月明倫堂は廃校となってしまいました。

さのすけの史跡めぐり日記―月別アーカイブ―2012-03-26:歴史その他―尾張藩の藩校・明倫堂

 1872(明治5)年8月服部總吉は加藤家の養子として加藤姓を名乗ることになりました。總吉の祖父作助の妻加奈子は羽田野左次郎の三女で、加奈子の姉(左次郎の長女)あい子が加藤家の久兵衛(二代)に嫁いでいました。加藤家の武五郎(三代)の子鐘子は幼歿、武兵衛(四代)が同年6月に死去、總吉が後継者に選ばれたのです(伊藤正徳編「伝記・加藤高明」伝記叢書175 大空社 以下とくに記述しない限り、加藤高明個人の記事は同書による)。

 1872(明治5)年12月加藤總吉は名古屋洋学校に入学しました。この洋学校は1870(明治3)年6月の創立ですが、總吉はその教育内容に満足せず、1873(明治6)年12月叔父安井譲(司法省権大録)の薦めもあり上京、叔父宅に寄宿して翌年4月東京外国語学校(のちに英語学校、さらに大学予備門と改称)に入学、同級生に末松謙澄(「伊藤博文安重根」を読む18参照)がいました。1874(明治7)年安井叔父は總吉に改名をすすめ、「中庸」第二十六章から「高明」の2字を選んでくれ、以後加藤高明となのることになったのです。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む2

 1875(明治8)年7月加藤高明は東京英語学校を卒業、愛宕下の叔父宅から神田錦町の共立学舎(旧旗本の古屋敷で学生の寄宿舎兼受験予備校)に転居、同年9月東京開成学校に入学して寄宿舎に入りました。 1877(明治10)年4月開成学校は法・理・文・医の四学部で構成される東京大学の一部となり、高明は同大学法学部の1年級に編入されました。

東京都の城―その他東京都の史跡―東京大学発祥の地

 法学部では鳩山和夫教授が原書でイギリスの契約法を講義した外はほとんど英人教授が英法の諸講義を担当、教室で日本語が通用しないことは開成学校と同様でした。

 1881(明治14)年7月高明は東京大学法学部を首席で卒業、法学士の学位を授与されました。彼は当時の東大卒業生がめざした薩長藩閥万能の官界における立身出世の風潮に見切りをつけ、岩崎弥太郎(「龍馬がゆく」を読む16参照)の経営する郵便汽船三菱会社に入社しました。同社社長岩崎弥太郎は有望の大学生を自宅に招いて晩餐会を催すことが度々あり、高明が知人を介して入社の希望を岩崎社長に伝えると岩崎弥太郎は喜んで加藤高明を平社員最高給50円で本社調役として採用しました。その仕事は主として買収した太平洋汽船会社の航海諸規則の翻訳だったのです。

 同年10月から翌年にかけ神戸支社・小樽・大阪出張所勤務を経て、1882(明治15)年12月本社に呼び戻され、翌年4月高明は洋行を命ぜられて岩崎社長の私費負担で横浜を出港、6月ロンドンに到着し、岩崎弥太郎の紹介状をもってリヴァプール親日派豪商(羊毛問屋)ボースを訪問、当地に下宿してボースの事務所に通い、英国の商売の実情ならびに英国紳士の人格や慣行にいたるまで貴重な経験を学びとりました。

 1884(明治17)年2月彼はロンドンに移り実地の各所見学や新聞・雑誌の閲読ならびに各種講演の聴講に過ごし、時には議会(「米欧回覧実記」を読む9参照)を傍聴してグラッドストーン首相の演説に耳を傾けることもありました。

 当時ロンドン在住の日本人は少数で、彼らはよくチャーリングクロスのカレドニアンホテル等で会合を持って談笑したものですが、加藤高明の生涯に大きな影響を与えたのは陸奥宗光(「大山巌」を読む34参照)との出会いでした。陸奥宗光紀州藩徳川御三家の一つ)出身で1877(明治10)年の西南戦争に際し、政府転覆の陰謀に加担して投獄されましたが、赦免されて伊藤博文の勧めもあり、英国に外遊中でした。彼は獄中英語も勉強しましたが、英国では彼の英語は通じず、英国政治家などと会見の際には加藤高明が通訳をつとめるようになりました。こうした陸奥との交流を通じて彼は陸奥の政治論を傾聴し、敬意を払うようになったのです。

旅々列車たびー列車たび出発口ーヨーロッパーイングランド南部―チャーリングクロス駅

 しかし1885(明治18)年2月7日岩崎弥太郎は死去(新聞集成「明治編年史」第6巻 財政経済学会)、その訃報電報につづいて帰社命令が届き。加藤高明は同年6月末三菱本社に出勤しました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む3

 1885(明治18)年8月18日加藤高明は三菱本社副支配人に昇格、月給100円を支給されました。当時三菱と共同運輸との競争が激化、同年7月末両社の合同の合意成立、同年10月1日日本郵船会社が発足し、高明は本社庶務課の副支配人を命ぜられ、その仕事はほとんどが外国人との接触でした。それは当時日本郵船の幹部の一部・船員および主要技術者はすべて外人で、その部門に関する通達は英語で行われ、日本人にはとくに英文を付記することになっていたからです。

日本郵船―おすすめコンテンツ―ー郵船のあゆみ

 加藤高明に縁談が持ち込まれました。岩崎弥太郎加藤高明の才幹を高く評価していたことは既述の通りですが、岩崎弥太郎が生前高明を岩崎家の婿にしたいとの意思表示も遺言もなかったようです。しかし1886(明治19)年春岩崎弥太郎の一周忌明けに際して弥太郎長女春治の婿定めが重要話題としてとりあげられたとき、岩崎弥之助(弥太郎弟)はためらうことなく加藤高明を指名、弥太郎母美輪子もこれを支持したようで、岩崎家は加藤高明の身辺調査の上、人を介してこの縁談を加藤高明に伝えたのです。彼は岩崎家の申し出にしばしの猶予を希望、一説には陸奥宗光に相談したともいわれますが、決断は自身で下し、同年4月8日神田駿河台加藤高明自宅で結婚式を挙行しました。以後「三菱の婿」という世評が一生彼につきまといました。

三菱グループー三菱グループについてー三菱人物伝―三菱の人ゆかりの人―vol.14 加藤高明 

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む4

 1886(明治19)年2月陸奥宗光は帰国すると、同年10月外務省に出仕、井上馨外相の懐刀と呼ばれていました。彼は英国外遊中に知り合った加藤高明の外務省入省を強く働きかけたであろうと思われます。

 1887(明治20)年1月加藤高明公使館書記官兼外務省参事官に任命され、奏任官三等下級俸(月給約120円)を給与され、総務局政務課勤務となり、翌年2月大隈重信外相に就任すると、外相秘書官兼政務課長に抜擢されました。しかし大審院の外人判事任用問題で条約改正問題が紛糾、1889(明治22)年10月大隈外相遭難(「大山巌」を読む28参照)で辞職するに至り、黒田清隆内閣は総辞職、しばらく内大臣三条実美が臨時首相をつとめました。このころ加藤高明の父服部重文が死去しています。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー加藤高明

 同年12月山県有朋内閣が成立、青木周蔵外相が慰留したにもかかわらず、加藤高明は翌年2月5日外務省を去り、1890(明治23)年9月大蔵省(蔵相松方正義)参事官に任命されましたが、その人事をめぐる経緯は不詳です。

 同年は帝国議会が開かれた年にあたり、第一から第六議会までは加藤高明の大蔵省在任期間に相当する時期に当たりました。歴代内閣は政府予算をめぐって衆議院としばしば対立(「大山巌」を読む29~32参照)したため、大蔵省は議会ごとに帝国議会交渉事務取調委員会を組織、議会に提出する法律と予算の一切に関して、この委員会で討議しました。加藤高明は同上委員を命ぜられ、同委員会の論客として活躍しました。1892(明治25)年8月主税局長となり、第五・六議会においては政府委員として代議士の質問にたいする答弁を担当しています。

 1892(明治25)年8月8日第2次伊藤博文内閣が成立、陸奥宗光外務大臣に就任しました。1894(明治27)年7月25日豊島沖の海戦により日清戦争が勃発すると、同月28日加藤高明は再び外務省に復帰、特命全権公使兼政務局長に任命されました。陸奥宗光外相の下に林董(「伊藤博文安重根」を読む8参照)次官・加藤高明政務局長・原敬(「田中正造の生涯」を読む28参照)通商局長らが外相を補佐したのです。

 同年11月23日彼は駐英公使に任命され、1895(明治28)年1月23日ロンドンに着任しました。

  同年4月17日日清講和条約(「大山巌」を読む39参照)調印、日本は清国から遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲され、償金として庫平銀2億両(テール 中国で生まれた質量の単位)の支払いを受けるなどの権利を獲得するに至りましたが、同年4月独・露・仏3国公使はそれぞれ外務次官林董(陸奥外相は病臥)に遼東半島の清国への返還を勧告する覚書を提出(三国干渉)しました。本国政府の訓令により翌日加藤高明駐英公使はキンバレー英外相と長時間会談し、英国の後援を懇請しました。これに対して4月29日英外相は三国干渉に関し日本に助力できない旨、加藤駐英公使に通告、同年5月4日閣議は遼東半島の全面放棄を決定、翌日上記3国公使に通告しました。また同年11月8日奉天(遼東)半島還付条約・付属議定書調印、日本は遼東半島還付報償金として庫平銀3千万両(テール)の支払いを受けることとなりました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

コインの散歩道―東洋~中世・近世・近代―近代中国の貨幣

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5

 1895(明治28)年7月6日清国の対日賠償金調達のため、露仏借款4億フランが成立、10月31日日本は清国より講和条約第4条にもとづき、軍事賠償金2億両の第1回払込分5000万両に相当する英貨822万余ポンドをロンドンで受領、同年11月16日清国より遼東半島還付報償金3000万両に相当する英貨493万余ポンドをロンドンで受領しました(「明治財政史」第2巻 丸善株式会社)。これに対して1896(明治29)年3月23日英独対清第1次借款(対日賠償金)1600万ポンドが成立、同年5月7日日本は清国より賠償金第2次払込英貨851万余ポンドをロンドン・ベルリンで受領しました。

 しかるに清国は償金調達に苦しみ、1898(明治31)年2月1日償金支払いの延期を要請してきました。日本政府は同年2月中旬加藤駐英公使に英国が露国と共同して清国公債の募債に応ずる意思がないのかを探れとの訓令を発しましたが、加藤公使は清国における英露対立の国際情勢の下で英露共同募債は不可能であることを説き、ソールスベリイ英首相が公債金は英国の大蔵省より直接支払うべきものと明言したことを報告、2月25日政府は貴下の聡明なる裁量(wise discretion)を信じて財務契約の全権を一任する(外務省編「日本外交文書」第31巻 第1冊 巌南堂書店)旨加藤公使に打電しました。同年3月1日日清戦争賠償金支払のため英独第2次対清借款1600万ポンドが成立、かくして同年5月7日日本は清国より軍事賠償金残額1192万余ポンドをロンドン・ベルリンで受領、償金は全額受領済みとなり、同月10日威海衛占領軍に引き揚げを命令しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

つかはらの日本史工房―東大・京大・阪大・一橋・筑波に関する受験情報―東大日本史の研究―解法の研究―1976―3 近代における金融制度の変遷―D

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む6

  日清戦争における日本の勝利をみて列強は清国分割(「大山巌」を読む44参照)を争っていました。1898(明治31)年3月19日西徳二郎(「大山巌」を読む49参照)外相は露駐日公使ローゼンに対し「満韓交換論」(「坂の上の雲」を読む10参照)を通告しましたが、拒絶されました。

  加藤高明駐英公使は「満韓交換論」に反対し「完全に露国を韓国から撤退せしめ、(中略)若し露国が之を拒むなら、日本は行動の自由を保留」すべきとの意見を述べて戦争の起こることを覚悟し、英国を加えての対露強硬外交を主張しました。

 しかし19世紀末年ころから始まっていたオーストラリアにおける日本人労働者排斥の動きについての英国との交渉で、日本政府がアジア人排斥法案中「日本人を除外する」ことでの交渉を訓令したにもかかわらず、加藤駐英公使は「人種による区別よりも、寧ろ能力による制限を受けるほうが(中略)賢明である」と英国政府に申し出たのです。

 これは対露強硬外交を主張する加藤高明が対英交渉では公使の権限をこえた軟弱外交を展開しているとしか考えられないのですが、彼自身この矛盾に気づいていたのでしょうか。

オーストラリア発見―日本との結びつきー地理・歴史―8.白豪主義政策

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む7

 1898(明治31)年9月15日付願書で加藤高明駐英公使は賜暇帰朝を大隈重信外相に願い出たのですが、種々の感情的行き違いと混乱があり、加藤高明は翌年4月15日ロンドンをを出て、米国・カナダ経由で5月22日横浜に帰港、1899(明治32)年7月17日青木周蔵(「大山巌」を読む50参照)外相に駐英公使辞任を申し出たのです。

 1899(明治32)年義和団(「大山巌」を読む49・50参照)が山東省に蜂起すると、翌年列強は清国に出兵、とくにロシアは1900(明治33)年7月以降満州に出兵、またたく間に満州全土を占領下におきました(「坂の上の雲」を読む10参照)。日本ではこれに対して伊藤博文らの対露協調路線と山県有朋らの日英同盟路線が対立していました。

 1900(明治33)年2月23日山県有朋首相は加藤高明の駐英公使罷免を決定、このころから加藤高明山県有朋より伊藤博文に親近感を持つ傾向が著しくなったようです。同年10月19日成立の第4次伊藤博文立憲政友会)内閣において加藤高明(政友会非所属)は外相に就任しました。

 1901(明治34)年1月7日露公使の韓国中立化提案に対して、同月23日駐露公使珍田捨巳は満州からの露軍撤退が先決と回答しました(「坂の上の雲」を読む10参照)。

Early Japanese Immigrants―1.パイオニアたちの横顔―珍田捨巳

 同年3月6日ロシアは清国に協約調印を要求、3月10日イギリスは対露抗議しました。

 同年3月12日加藤高明外相伊藤博文首相にロシアの満州占領に対する方針について閣議で討議を要請する意見書(「坂の上の雲」を読む11参照)を提出しました。その方針は三案から成り、第1案はロシアが満州撤兵に応じないときは日露戦争を開始、第2案は韓国を占領または保護国化するなど同国をわが国の勢力下に置く、第3案はロシアの満州占領に対して抗議にととめ、後日臨機の措置を講じるとの内容でした。

 同年3月20日加藤外相は清国公使満州に関するロシアの期限(3.26)付要求を拒否するよう勧告、3月25日にも珍田公使より露外相に要求撤回を勧告、4月5日露政府は満州に関する対清交渉断絶を声明しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 しかし伊藤博文首相は同年5月2日閣内不統一のため辞表提出、6月2日第1次桂太郎内閣が成立し、9月21日外相小村寿太郎(「坂の上の雲」を読む11参照)が任命されました。伊藤博文は日露協調の途を求めて同年9月18日欧米外遊のため横浜を出発しました(「坂の上の雲」を読む11参照)が、この交渉は失敗に終ったのです。

 1902(明治35)年1月30日ロンドンで日英同盟協約調印(「坂の上の雲」を読む12参照)後、伊藤博文乗船の膠州丸が2月25日長崎港外に到着すると加藤高明は船上で伊藤に面会、さらに同船が神戸に回航して以後、伊藤の大磯邸まで付き添って日英同盟締結に至る情勢を説明、伊藤を説得しました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む8

 1902(明治35)年第7回総選挙が近づくと、加藤高明立候補の要請が各方面から寄せられるようになりました。同年6月23日土佐政友派の片岡健吉・林有造の両氏が板垣退助(「龍馬がゆく」を読む18参照)を通じて彼の立候補を要請すると、反対派は大石正巳らを通じて彼に運動を試みるという状態で、困惑した加藤高明は同月中に口頭および書面で謝絶の意を表明したのでした。

 しかるに高知県の反板垣派は彼の不承諾にもかかわらず、彼を推薦、自費で運動をはじめ、当選したら受諾を乞う旨の電報を寄こしました。

 同年8月10日第7回総選挙に際して加藤高明高知県郡部の定員5名中848票を得て4位で当選しました。かくして当選受諾を迫る地元と拒否する彼との押し問答の末、加藤高明は当選受諾の意思をかため、8月21日板垣退助を訪問してその経過を報告したところ、板垣退助の激怒を買ってしまったのです。加藤高明はその帰途原敬の許に立ち寄り板垣を宥めるための相談をもちかけ、原敬は片岡健吉に板垣説得を依頼してくれましたが、板垣の怒りは容易に解けませんでした。

近代日本人の肖像―日本語-人名50音順―いー板垣退助

 桂太郎内閣は対露軍備拡張のため地租増徴継続による海軍拡張計画をめざしていましたが、同年12月3日伊藤博文政友会総裁は加藤高明の斡旋で憲政本党総理大隈重信と会談(「伊藤博文伝」下 春畝公追頌会)、両党提携の機運がたかまり、12月4日政友会・憲政本党はそれぞれ大会を開いて地租増徴継続に反対、海軍拡張の財源は政費節減に依れと決議しました(「立憲政友会史」)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む9

 1902(明治35)年12月16日衆議院において地租増徴継続(地租条例改正)法案を委員会で否決したため、同年12月28日地租条例改正案の採決寸前に衆議院は解散されました。

 第8回総選挙を前にして加藤高明は高知からの立候補要請を拒否しましたが、伊藤博文より横浜選挙区からの立候補勧告をうけ、彼は大隈重信岩崎弥之助(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)・原敬らに相談の上、立候補を承諾しました。しかるに1903(明治36)年3月1日に実施された第8回総選挙において加藤高明の政敵島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)1106票、奥田義人430票を得て当選したのに、加藤高明は418票の得票に止まり落選してしまいました。しかし奥田義人が横浜選挙区当選を辞退したため彼は補充当選を受諾する屈辱を味わったのです。

 同年5月19日衆議院において地租条例改正案が委員会で否決され、翌日桂首相は政友会との妥協交渉を開始、同月24日政友会議員総会は妥協案(海軍拡張費を公債で充当)を承認(「原敬日記」明治36年5月24日条 福村出版株式会社)、かくして加藤高明が尽力した伊藤と大隈の提携は崩壊したのです。

 1904(明治37)年2月10日日露戦争が開始された後、同年3月1日の第9回総選挙に際して加藤高明は立候補を断念しました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む10

 1904(明治37)年政治から遠ざかっていた加藤高明奥田義人を通じて伊東巳代治を知り同年8月20日奥田義人が彼を訪ねて、伊東社長の東京日日新聞売却希望を伝えました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー伊東巳代治

 加藤高明は岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男)らと協議し、同年10月11日東京日日新聞(以下東日と略)を10万円で入手したのです(1907年5月東日社長を退く)。

 彼が東日紙社長となると、従来大隈重信を眼の敵にしていた東日が一転して大隈に対し好意的に変化したことは世間を驚かせました。

 1905(明治38)年9月5日日露講和(ポーツマス)条約(「坂の上の雲」を読む48参照)が締結され、その内容が10月16日に発表されると、翌日東日紙は加藤高明執筆の「講和条約の発表」と題する論文を掲載、特に樺太南半しか領土として獲得できなかったことや償金を得られなかった点を軟弱外交として非難しました。

 1905(明治38)年12月21日第1次桂太郎内閣は総辞職、加藤高明西園寺公望(1903.7.14立憲政友会総裁「伊藤博文伝」)の意向をうけた原敬の訪問を受け、岩崎弥之助・久弥や木内重四郎(岩崎弥太郎の女婿)らとも相談の上入閣を受諾しました。同年12月22日西園寺公望との会談で彼は外務大臣就任を承認、翌1906(明治39)年1月7日第1次西園寺公望内閣が成立するに至りました。しかし鉄道国有問題で加藤外相は在任わずかに56日で退陣するに至ったのです。

 

 

 

 

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む11~20

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む11

 李麟栄は1896(明治29)年の初期義兵で柳麟錫の下に参加、解散後農業に従事していましたが、原州で決起した李殷瓚・李九載らの勧誘で倡義(義を唱える)大将として1907(明治40)年8月関東(大関嶺より東の江原道)に移動、解散兵200名を含む義兵を募集し、統監と漢城駐在の各国総領事宛倡義理由書を送付しました。京畿道揚州に進んだとき、各地から一万人以上の義兵が結集、漢城に進入し統監府に迫って韓国の独立と皇室の安全をかちとり、奸臣を殺害する計画を練っていましたが、同年12月25日李麟栄の父死去の報を受け、彼は後事を許蔿に託して帰郷しました(海野福寿「韓国併合史の研究」)。

 1908(明治41)年許蔿は漢城東大門30里外に迫ったのですが、日本軍の迎撃に敗退、彼は同年6月11日憲兵隊に捕えられ(朝鮮駐箚軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」 海野福寿「前掲書」引用)、10月13日絞首刑に処せられました(「李朝実録」第五十六冊 学習院東洋文化研究所)。

 「ロンドン・デイリー・メイル」特派員として漢城滞在中、日本軍がその地域全体を破壊し大規模殺人を実行しているとの情報を得たマッケンジーは1907年秋義兵闘争の盛んな忠清道に赴き、利川・提川・原州で焼き払われた村落住民たちから日本軍の強姦・住民殺害・掠奪などの暴行を聞き、焼き払われた廃墟を見ました。さらに危険を顧みず、義兵の根拠地を訪れ、義兵と接触することに成功しました。その様子を彼は次のように述べています。

 「五、六名の義兵が庭に入って来て、私の前に整列し、そして敬礼した。彼らはいずれも、十八歳から二十六歳くらいまでの青年であった。賢そうで容貌の端正な一人の青年は、いまだに韓国正規軍の古い制服を着ていた。もう一人は、一着の軍服ズボンをはいており、二人は軽いぼろぼろの朝鮮服をまとっていた。革靴を穿いている者は一人もいなかった。彼らは腰のまわりに、自家製の木綿の弾帯を巻いており、半分位弾丸が入っていた。(中略)

 私は彼らの持っている銃を見せてもらった。六人の者がそれぞれちがった五種類の武器を持っていたが、その一つとしてろくなものはなかった。一人はもっとも古い型の火縄銃として知られている昔の朝鮮の先込め銃を誇らしげに持っていた。(中略)

 しばらくすると、その日の戦闘を指揮した将校が私を訪ねて来た。(中略)私は義兵軍の組織について、いろいろ彼に尋ねてみた。(中略)彼が私に語ったところから察すると、彼らはじっさいなんら組織されていないということがあきらかであった。(中略)

 彼は、自分たちの前途が必ずしも明るいものでないことを認めた。『われわれは死ぬほかはないでしょう、結構、それでいい、日本の奴隷として生きるよりは、自由な人間として死ぬ方がよっぽどいい』。彼はそう言った。(中略)

 日本軍は至る所を焼打ちするとともに、反乱軍を手助けしたとの疑いのある者を、多数射殺している。私がこういうことを書きつけている時に、韓国人がいつもきまっておしまいに言うことは何であるかというと、一斉射撃を浴びせかけたあと、焼打ちを指揮している日本軍将校は、死体に近づいて、その剣で突き刺したり斬ったりしたということである。」(マッケンジー「朝鮮の悲劇」東洋文庫222 平凡社

 1909(明治42)年6月14日伊藤博文枢密院議長に転出、後任統監には副統監曾禰荒助が任命されました(「官報」)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む12

 1905(明治38)年10月12日桂首相は米鉄道資本家ハリマンと南満州鉄道長春・旅順口間の鉄道 略称 満鉄)に関する日米シンジケート(公債・社債引受けのために銀行其の他の金融機関によって組織される証券引受団体)組織(米資本提供で日本の法律にもとづく)につき予備協定覚書(「日本外交年表竝主要文書」上)を交換しましたが、同月16日帰朝の小村外相の反対でハリマンに覚書中止を通告(外務省編「小村外交史」原書房・「伊藤博文安重根」を読む3参照)、以後満州をめぐる日米関係は次第に対立を深めるようになりました。

 1906(明治39)年3月19日英駐日大使は満州における日本官憲の通商妨害について抗議、門戸開放・機会均等の実行を申し入れ、同月26日米大使も同様抗議しました(「日本外交文書」第39巻第1冊)。

 一方日露戦争まで満州をめぐって対立抗争してきた日露両国は満州進出を企図する米国に対抗、1907(明治40)年7月30日日露協約(第1回)を締結(「日本外交年表竝主要文書」上)して相互の領土・権利の尊重、清国の領土保全、機会均等を承認、秘密協定で満州に鉄道・電信利権に関する利益分界線を設けるに至りました。

 アメリカの満州進出に対抗するため、満州で共通利益をもつ日露間で、さらに意見交換するため、1909(明治42)年10月14日伊藤は露蔵相と会見するため大磯(神奈川県大磯町)から満州へ出発しました(「日本外交文書」第42巻第1冊)。本書の記述はここから始まります。

釜山でお昼をー過去の釜山や近郊の様子―交通史―鉄道(史)―会社―東清鉄道―南満州鉄道

 同年10月18日彼は大連港から遼東半島に上陸、21日旅順から南満州鉄道の列車に乗り22日夕刻奉天に到着、24日中村是公満鉄総裁の案内で撫順炭坑を視察、25日夕刻長春に到着しました。同日夜寛城子駅でハルビンに向かう東清鉄道の特別夜行列車に乗り込みました(室田義文翁物語編纂委員編「室田義文翁譚」常陽明治記念会 海野福寿「伊藤博文韓国併合」青木書店 引用)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む13

 1909(明治42)年10月26日午前9時伊藤と室田義文(むろたよしあや 貴族院議員)ら随員を載せた特別列車はハルビン駅に到着しました。やがて列車最後尾の貴賓車両にココフツェフ蔵相が乗り込んできてハルビン総領事川上俊彦の通訳により、伊藤博文はココフツェフと初対面の挨拶を交わしました。

 伊藤はロシア鉄道守備隊を閲兵(軍隊を整列させて検閲すること)、各国代表団の名士たちと言葉を交わし在留日本人団から歓迎の言葉をかけられた伊藤が日本人団に数歩歩み寄ったとき、伊藤の3mほど後ろを歩いていた室田は「ピチピチという音、それから爆竹様のもの音を聞いた。そこで歓迎のためなのだなと思っていると、つづいてパン!パン!と音がした。はっとして気がついて見ると、堵列(垣根のように並ぶ)した儀仗兵(儀礼・警備のために外国高官などにつけられた兵隊)の間から、小さな男が恰度(ちょうど)大きな露兵の股の間をくぐるような恰好(かっこう)をしながらピストルを突き出している」(「室田義文翁譚」)のを見ました。伊藤はココフツェフの身体にもたれるように倒れこんだので、伊藤は列車内に運ばれました。

 『気附ノ薬ニモトテ先ヅ「ブランデー」ヲ勧メルコトトナリ第一回ニ其一杯ヲ勧メタルトコロ苦モナク飲ミ干サレマシタ丁度其際テアッタト思ヒマスガ通弁(通訳)ガ来テ犯人ハ韓人テアル直ニ捕縛シタリトノコトヲ告ケタルニ公爵ハ之ヲ理解シ「馬鹿ナ奴ダ」ト申サレマシタ(中略)五分間の後尚「ブランデー」一杯ヲ勧メタルニ際シ公爵ハ最早其ノ首ヲ上グルコトモ出来ナクナリ(マシ)タノデ、其儘(まま)口ニ注キ込ミ夫(そ)レヨリ一二分ノ間ニ全ク絶命セラレタル次第デアリマシタ』(明治42年12月16日室田義文の東京地裁検事局 古賀行倫検事に対する陳述 市川正明「安重根と日韓関係史」原書房

 10月26日夜『伊藤公爵加害犯人は、韓国人安応七(安重根の通称)、平壌生まれ(黄海道海州生まれの誤り)、住所不定、年齢三一歳なる者、公爵狙撃の目的を以て、元山(咸鏡南道)よりウラジオストクを経、昨夜、当地着。停車場付近を徘徊(はいかい うろつく)しつつありし旨自白せり』という電報による捜査報告が届きました(海野福寿「前掲書」)。

安重根(アンジュングン)義士紀念館

 同日夜伊藤博文暗殺の報が日本に届くと、石川啄木(「田中正造の生涯」を読む23・24参照)は岩手日報への通信記事「百回通信」の十六~十八を伊藤博文追悼に当てました。その十六において啄木は「偉大なる政治家偉大なる心臓――六十有九年の間、寸時の暇もなく、新日本の経営と東洋の平和の為に勇ましき鼓動を続け来りたる偉大なる心臓は、今や忽然として、異域の初雪の朝、其活動を永遠に止めたり。」と伊藤の功績を称えつつも、その十七において「其損害は意外に大なりと雛ども、吾人は韓人の愍(あはれ)むべきを知りて、未だ真に憎むべき所以(ゆゑん)を知らず。寛大にして情を解する公も亦、吾人と共に韓人の心事を悲しみしならん。」(「啄木全集」第9巻 岩波書店)と安重根への同情の念を表明していることに注目する必要があります。

 1909(明治42)年11月4日伊藤博文の国葬が行われました(「伊藤博文伝」下 春畝公追頌会)。与謝野寛(鉄幹)は歌集「相聞」に「伊藤博文卿を悼む歌。明治四十二年十一月」と前書きする数首の一つとして「伊藤をば惜しと思はば戦ひを我等のごとく皆嫌へ人」を掲載していますが、上記石川啄木と同様の所感を表明したものと思われます。大岡信氏は「彼の門下にあった石川啄木にも、これだけ率直な述志の歌はないだろう。」(大岡信「第四 折々のうた岩波新書)と批評しています。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む14

 1909(明治42)年10月27日伊藤の遺骸を収めた仮棺は大連ヤマトホテルの旧館に運ばれ、その特別室で遺体に防腐剤処理が行われた際、小山善侍医らによる銃弾の摘出が行われたのではないかと推定され、室田もこれに立ち会った可能性が高いと思われます。

 同年11月20日室田は赤間関(下関)区裁判所検事田村光栄の安重根の写真提示による事情聴取に対して「此写真ニアル人物ハ…多分自分ヲ狙撃シタル人物ニ相違ナシト思フ。…公爵ヲ狙撃セシモノハ此写真ニアル狙撃者デナク他ノ者ナラント思ハレル」と伊藤狙撃犯は安重根とは別人とする陳述をしました(市川正明「前掲書」)。

 室田義文は後に伊藤博文狙撃犯人について「その時、例の小男(安重根)は既に兵隊の手で取り押さえられていたが、真実、伊藤を撃ったのは此の小男ではなかった。」(「室田義文翁譚」)と述べ、安重根伊藤狙撃犯人説を重ねて否定していることが注目されます。室田説の根拠となっているのは(イ)伊藤の被弾がフランス製騎兵銃(カービン銃)の弾丸3発で(ロ)被弾の射入角度が右上方から斜め下に向けたもので、階上から発射したものと推定の2点です。

 室田の主張はロシアとの関係悪化を心配した山本権兵衛海軍大将から口止めされたため、彼は口惜しかったのか、終生それを孫の福田綾に語ったそうです(海野福寿「伊藤博文韓国併合」青木書店)。

谷中・桜木・上野公園―「谷中墓地」から「上野・桜木・池之端の墓地」へ―谷中墓地―碑 室田義文

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む15

 安重根は伊藤狙撃現場でロシア側の東清鉄道警察署長心得ニキフオーホーロフらに逮捕されましたが哈爾賓(ハルビン)は清国領土で東清鉄道付属地であるとともに公開地である、日本は清国に対して自国民の治外法権領事裁判権)を有する、しかるに日韓協約(第2次)により日本領事が在外韓国人の保護を兼務することになったのであるが、外務大臣の命令により、安重根の裁判は日本領事にかわって関東都督府[関東州(ポーツマス条約によりロシアから清国政府の承諾を得て獲得した旅順口・大連を中心とする遼東半島租借地)管轄並びに満鉄線路・付属地の保護取締まりに当たる官庁]法院で日本刑法により行われることとなりました(満州日日新聞社編「安重根事件公判速記録」復刻版 韓国併合史研究資料96 龍溪書舎)。

 ハルビンに出張した横溝孝雄検察官の尋問で安重根は伊藤殺害理由として15項目の理由を述べました。その中には孝明天皇暗殺などまとはずれと思われる項目もありますが、韓国の独立を武力による圧迫で奪ったことを批判する内容(「安応七訊問調書」明治42年10月30日 哈爾賓日本総領事館 市川正明「前掲書」)です。彼は同年11月3日関東都督府典獄(刑務所長)の監督下に置かれ旅順に連行されました。

天気清朗なれども浪高しー検索-旅順監獄―2010-03-28

 1909(明治42)年11月24日第6回尋問(市川正明「前掲書」)で安重根は横溝検察官の「其ノ方ノ言フ東洋平和ト言フノハ如何ナル意味カ」との質問に彼は3人兄弟(清・韓・日)の寓話に託して「此三家ハ兄弟デアルト言フ事ハ明カデアルカラ同心ニテ他ニ当レハ三家ヲ安全ニ維持スル事が出来ルノデ…。(中略)結局伊藤ノヤリ方ガ悪イ為メ韓国ハ今日ノ状態ニ至ッタノデ若シ奸策強制ヲ加ヘネバ無論東洋ハ至ッテ平和ニ為ッテ居ル事ト思ハレマス」と述べています。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む16

 同年12月13日から起稿、翌年3月15日自分史「安応七歴史」(市川正明「安重根と日韓関係史」原書房)または「安重根伝記及論説」(七条清美関係文書 国立国会図書館憲政資料室所蔵 中野泰雄「安重根―日韓関係史の原像」亜紀書房 引用)を完成しました。この記録によれば、安重根は1879(高宗16)年9月2日(旧暦7月16日)黄海道海州で両班(やんばん 朝鮮の貴紳階級の家柄)に属する旧家安泰勲の長男として生まれました。安泰勲は親日派の朴泳孝と親密だった人物です。安重根は少年のころから狩猟に熱心で、短銃射撃術は抜群でありました。 1894年安重根は金氏の娘(亜麗)と結婚していますが、東学党の乱(「大山巌」を読む33参照)とよばれる農民蜂起が起こると、郡守の要請により安泰勲とともに重根は乱鎮圧に参加し、まもなく日清戦争が始まると農民蜂起は鎮圧されました。ところが農民軍からの戦利品をめぐる争いで安泰勲の身辺に危険が迫り、安一家はフランス人のキリスト教カトリック)教会に数カ月かくまわれたことがあり、これをきっかけに安一家はキリスト教の洗礼を受けました。1905年日露戦争終了後、日韓協約(第2次)が締結され、伊藤博文が初代統監として漢城に駐在する(「伊藤博文安重根」を読む6・7参照)に至ると安泰勲は日本の韓国支配に失望、清国移住をもとめて平安道鎮南浦に引っ越す途中死去、安重根は鎮南浦で米穀や石炭の取引に従事するようになりました。。 

 1907年日韓協約(第3次)(「伊藤博文安重根」を読む10参照)が締結され、反日義兵闘争が高まると、安重根は鎮南浦を去って山岳ゲリラに参加しました。1908年6月彼は間島(韓国側の呼称、清国行政区では吉林省の一部)を経て李範允の大韓義軍に属して参謀中将となり、咸鏡北道へ出撃、日本軍と交戦しました。はじめはゲリラ戦を有利に展開したが、やがて日本軍に包囲されて敗退しました。

世界飛び地領土研究会―関東州―満州国の地図(1933年)

 1909年正月ポシェトのノウォキエフスク(烟秋)付近で、11人の農民・労働者・義兵の同志と「断指同盟」を結び、全員左手薬指を切り、その血で大極旗(韓国国旗)の白地に「大韓独立」と書き、韓国独立のため献身する証しとしたのです。

 1909年秋ウラジオストクにいた安重根伊藤博文が近くハルビンを訪問する噂を聞き込み、新聞社でその情報が事実であることを確かめました。同月21日彼はウラジオストク駅からシベリア鉄道でポグラニチナヤに到着、清国側の綏芬河駅に接続して、ここでハルビン行きの列車に乗り換えたのです。安重根ハルビンの新聞で伊藤博文の日程を詳しく知ることが出来ました(中野泰雄「前掲書」)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む17

 1910(明治43)年2月7日から関東都督府地方法院における安重根他3名の公判が開始され、2月12日まで5回行われました。公判で提出された小山善侍医の尋問調書では伊藤の負傷は3発とも右側から水平に射入したと述べられ、地方法院に提出された安重根の「証拠金品目録」(海野福寿「伊藤博文韓国併合」引用)にはブラヲニング式短銃 一、発射したる弾丸 一、とあり、伊藤の遺体から摘出されたと思われる弾丸も、安重根が伊藤を撃った後に随員に向けて撃った弾丸も、田中清次郎満鉄理事に命中したと思われる弾丸一発を除いて、証拠品としては提出されていないのです。すなわち室田義文の二重狙撃説は採用されていません。

 安重根は結審の同年2月12日「私は個人的にやったのでなく義兵としてやったのであるから戦争に出て捕虜となってここに来て居るものだと信じて居りますから私の考へでは私を処分するには国際公法万国公法に依て処断せられん事を希望いたします」と抗議しましたがうけいれられませんでした。同年2月14日安重根に死刑の判決が下りました(満州日日新聞社編「安重根事件公判速記録」復刻版 韓国併合史研究資料96 龍溪書舎)。

 同年3月26日安重根の死刑が執行されました(朝鮮総督府「韓国ノ保護及併合」市川正明編「日韓外交史料」第8巻 原書房)。本書の記述はこれを以って終了しています。

 本書刊行後上垣外憲一「暗殺・伊藤博文」(ちくま新書268 平成12年刊)・大野芳「伊藤博文暗殺事件」(新潮社 平成15年刊)が発表されました。両書とも安重根単独犯行説を否定、室田二重狙撃説を前提として立論されている点に特徴があります。そうした犯行を計画したのは伊藤と対外政策において対立してきた山県有朋桂太郎ら長州閥陸軍首脳並びに右翼勢力とする観点を史料を駆使して提供した作品として注目されます。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む18

 伊藤博文韓国併合構想について、まとまった意見書を執筆したことはありませんでした。

 1907(明治40)年日韓協約(第3次)締結直後の7月29日伊藤は次のように演説しています。「日本は韓国と合併するの必要はなし、合併は甚だ厄介なり。韓国は自治を要す。(中略)独逸(ドイツ)のババリヤに於けるが如く、日本は韓国に対して雅量を示すの必要あり、」(在韓新聞記者招待晩餐会における演説 春畝公追頌会代表 金子堅太郎「伊藤博文伝」下 春畝公追頌会)

 この演説で伊藤は韓国の合併に反対、ドイツにならって日本の指導下に連邦制をとれと主張しているのです。これは同年の韓国軍隊解散の詔勅発布後に予想された軍隊反乱などの韓国側の反発を考慮した伊藤の巧妙なリップサーヴィスだったとも思われます。

 伊藤の韓国併合構想を知る他の手がかりとなる伊藤直筆メモ[堀口修・西川誠監修編集「公刊明治天皇御紀編修委員会史料 末松(謙澄)子爵家所蔵文書」下 ゆまに書房]には併合後の韓国に、80人の地方選出議員による衆議院と修正機関として50人の元老選出議員による上院を設置、併合後の朝鮮総督にあたる日本人「副王」の下に韓国人による「責任内閣」をつくる構想が記述され、ドイツの連邦制についての言及は見られません。

西日本シテイ銀行―検索―末松謙澄―西日本シテイ銀行・地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」No.9

 しかし伊藤の死去により、彼の韓国併合(自治植民地)構想は消滅したのです。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む19

 1910(明治43)年3月20日山県有朋桂太郎寺内正毅の「三巨頭」は会談し、韓国統監曾禰荒助の解任と韓国の「合邦(直轄植民地)断行」を合意したそうです(永島広紀編集「木内重四郎伝(岩崎弥太郎の女婿 貴族院議員)」復刻版 ゆまに書房)。

 同年5月2日夜桂太郎首相と会見した西園寺公望は「秋頃合邦を断行する筈(はず)」で統監には寺内正毅陸相を「当分兼任せしむる積り」と聞かされ、「合併に不同意も唱へ難きに因り、其も宜しからん」と桂に応えたことを、原敬は西園寺から聞きました。原は「急ぐ必要なし、後(おく)るれば後るゝ程無事に合併し得べし」と西園寺に翻意を求めましたが、西園寺の意見は変わらなかったそうです(「原敬日記」第3巻 明治43年5月3日条 福村出版)。

 同年5月30日寺内正毅は陸軍大臣兼任のまま韓国統監に任命されました(「官報」)。6月3日閣議は併合後の韓国に対する施政方針を決定、その要点は(ア)統治において日本憲法は施行しない、(イ)天皇に直隷(直属)する総督が政務を統轄、法律にかわる命令の布告権をもつ、(ウ)現行の行政機構を改廃するなどです。

 寺内正毅は副統監山県伊三郎(山県有朋の養嗣子)を韓国に先行させ、自身は東京において併合準備委員会による「併合実行細目」を7月8日の閣議で決定、7月23日漢城に着任しました(黒田甲子郎編「元帥寺内伯爵伝」大空社)。

 同年8月16日寺内統監は李完用韓国首相を統監官邸に招き、併合は「合意的条約」によるべき事を述べ、「併合方針覚書」を手交しました。李完用は「国号ハ依然韓国ノ名ヲ存シ皇帝ニハ王ノ尊称ヲ与ヘラレタキコト」を強く求めましたが、日本政府はこれを認めませんでした。

 韓国皇帝が統治権の譲与を申し出、これを天皇が受諾するという内容の併合条約案は8月22日韓国側午前会議にかけられ、寺内の報告によれば、まず皇帝が「統治権譲与ノ要旨ヲ宣示シ且条約締結ノ全権委任状ニ躬(みずか)ラ名ヲ署シ国璽ヲ鈐(けん 押印)セシメ之ヲ内閣総理大臣ニ下付セラル」と述べ、「内閣総理大臣ハ其ノ携フル所ノ条約案ヲ上覧ニ供シ、逐条説明スル所アリ列席者孰(いず)レモ異議ヲ唱フル者ナク皇帝ハ一々之ヲ嘉納(喜んで受け入れる)シ裁可ヲ与ヘラレタ」と寺内は宮中に居た国分秘書官から経過報告をうけました(海野福寿解説「韓国併合始末 関係資料」復刻版 不二出版)。しかし午前会議の実態は「諸臣、あい顧みて色を失う。興王(高宗の兄)は対えるに極まり罔(な)しを以てし、総相(李完用)は対えるに勢い奈何(いかん)ともする無しを以てし、余(金允植)は対えるに不可を以てす。他の大臣は皆言(ことば)無し。闕(けつ 宮廷)を退く」[金允植(中枢院議長)「続隠晴史」海野福寿「伊藤博文韓国併合」青木書店 引用]という状態でした。

 同日李完用首相・趙重応農商工相が統監官邸を訪問、李完用が全権委任状を提示、日韓両文の「韓国併合に関する条約」(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)調印書2通に寺内正毅李完用が記名調印しました(山本四郎編「寺内正毅日記」明治43年8月22日条  京都女子大学)。この条約第1条に「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本皇帝陛下ニ譲与ス」と記述され、日本の併合強制の実態に反する条文となった理由はすでに先行する諸条約で日本が韓国の自主独立を保障することを繰り返し確認していたため、併合を韓国側から希望する形式を取らざるを得なかったということでしょう。

 日本では同日午前10時40分より、天皇臨席の枢密院会議が開催され、「韓国併合ニ関スル条約」案及び関連勅令案を審議して可決、11時45分閉会、議長山県有朋天皇にこれを奏上、天皇は直ちに之を裁可しました(宮内庁編「明治天皇紀」第十二 明治43年8月22日条 吉川弘文館)。

 同年9月30日朝鮮総督府官制が公布され、総督は陸海軍大将とし、他に政務総監を置くことに決定、10月1日付で初代朝鮮総督寺内正毅陸相兼任のまま任命されました(海野福寿編集解説「外交史料 韓国併合」下 不二出版)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む20(最終回)

 韓国では1910(明治43)年8月22日の韓国併合条約調印から8月29日の日韓両国「官報」による公布まで報道管制が敷かれたので新聞記者もこれを知る者もなく、同月26日の山県副統監の記者会見で初めて知らされ、28日午後、条約文其の他の提供をうけて29日の新聞で報道しました(釈尾東邦「朝鮮併合史」朝鮮及満州社)。韓国民衆の動向については「此ノ日京城漢城)及龍山ニ於テハ韓人ハ掲示板ノ下ニ群集シテ勅語其ノ他ヲ閲読シ 三々伍々集リテ囁(ささや)クモノアリト雖(いえども)概(おおむ)ネ平日ト異ルコトナク(中略)依然平穏ニシテ警備上特別ノ処置ヲナスノ必要ヲ認メス」[吉田源治郎(第二師団司令部参謀)「日韓併合始末」韓国併合始末 関係資料 所収]という状況であったようです。しかしそれは韓国民衆が併合を冷静に受け止めたからではなく、厳しい警備弾圧態勢に屏息(へいそく 息をひそめる)するほかはなかったからです(釈尾東邦「前掲書」)。

 併合後まもなく朝鮮に赴いた高浜清(虚子)は拷問のため歯を抜きとられた朝鮮人を見て日本人が朝鮮人を人間以下にしか見ていない様子をうかがい知ることが出来ました。また安重根の写真を持っている妓生(きーせん 韓国の芸妓)に出会い、韓国民衆が安重根を英雄視していることも知り、彼はこの衰亡の国民を憐れむとともに、日本人という発展力の偉大なる国民の一員としての誇(ほこり)を感じたと云っています(虚子「朝鮮」実業之日本社)。

むしめがねー目次ー俳句の歴史ー高浜虚子

 併合条約が公表された同年8月29日東京では軒並みに日の丸が掲げられ、記念の花電車に喜んで乗り込む人々の姿が見られました(釈尾東邦「前掲書」)。

 片山潜らの「社会新聞」(労働運動史研究会編「明治社会主義史料集」 第7巻 明治文献資料刊行会)でも併合直後の同年9月15日号に「日韓併合は事実となった。之が可否を云々する時ではない。今日の急務は我新朝鮮を治むるに当たり高妙なる手段方法を用ゐることである。(中略)彼等は今尚ほ未開の人民である指導教育は我責任である。」(「日韓合併と我責任」)と述べています。

 同年9月9日夜石川啄木は「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」その他を詠み、これを若山牧水主催の文芸短歌雑誌「創作」(明治43年10月号)に「九月の夜の不平」中の1首として発表しました(「啄木全集」第1巻 岩波書店)。これはメディアを通じてなされた唯一の韓国併合批判として有名です。近藤典彦氏によれば韓国併合批判の作品は他にも数首あるといわれています。

石川啄木著『一握の砂』を読む 近藤典彦ー韓国併合批判の歌 六首 

 

 

 

 

 

 

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む1~10

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む1

 佐木隆三伊藤博文安重根」(文芸春秋)は明治時代の元勲の一人で、初代の韓国統監を勤めた伊藤博文が1909(明治42)年ハルビンで韓国義兵安重根に暗殺された事件を中心に描いた小説で、1992(平成4)年3月発行「別冊文芸春秋」に発表、後に加筆して単行本として出版された作品です。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーいー伊藤博文

 1898(明治31)年4月25日、日露両帝国政府は「西・ローゼン協定」を締結し、日露両国は韓国の独立を認め、直接の内政干渉を行わないことを約束(「坂の上の雲」を読む10参照)、また1902(明治35)年1月30日締結された日英同盟協約(第1回)前文においても、日英両国政府は「清帝国及韓帝国ノ独立ト領土保全トヲ維持スルコト」を約束していました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

1904(明治37)年1月21日韓国皇帝は韓国戦時中立宣言を発表、これは日本とロシアが交戦しても、韓国はどちらにも援助せず、軍用地も提供しないことを意味していました(外務省編「日本外交文書」第37巻第1冊 巌南堂書店)。

 1904(明治37)年2月10日、日本はロシアに宣戦布告(「坂の上の雲」を読む17参照)、すでに2月8日仁川に上陸した日本軍先遣部隊2000余の内大半はただちに漢城に進入、同年2月23日日韓議定書に調印(「坂の上の雲」を読む26参照)しました。 

 その要点は①大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ヲ確信シ施設ノ改善ニ関シ其忠告を容ルル事(第1条)②大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実ニ保証スル事(第3条)③第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合(中略)大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事

 大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為メ軍略上必要ノ地点ヲ臨時収用スルコトヲ得ル事(第4条)④両国政府ハ相互ノ承認ヲ経スシテ後来本協約ノ趣意ニ違反スヘキ協約ヲ第三国トノ間ニ訂立スル事を得サル事(第5条)⑤本協約ニ関連スル未悉ノ細条ハ大日本帝国代表者ト大韓帝国外部大臣トノ間ニ臨機協定スル事(第6条)などで(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)、日本は同議定書第3条で韓国の独立を保障したにもかかわらず、第4条で韓国内に軍用地を確保する権利を韓国に認めさせ、第5条で韓国の条約締結に関する事前承認権を持ったことになります。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む2

 1904(明治37)年3月7日伊藤博文は韓国皇帝を畏服させるため、韓国皇室慰問の特派大使として訪韓(1898伊藤は清国漫遊の途中訪韓、韓国皇帝に拝謁)を命じられ、同月18日韓国皇帝に謁見、国書を奉呈、同月20日・25日の両日にも内謁見しました。これは「日韓議定書」の批准書交換に相当するものです(海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店)。  

 同月20日の内謁見で伊藤博文は韓国皇帝に「(日韓)議定書ニ定ムル事項ハ貴国ニ於テ遵行セラルヽヲ要スルト同時ニ苟(いやしく)モ之カ障害タルヘキモノハ断シテ之ヲ排斥セラレサルヘカラス」と迫り、同月25日の内謁見においても、伊藤は閔丙奭宮内大臣を通じて皇帝に「若シ韓国ノ態度不鮮明ニシテ其去就定マラスト(伊藤博文が)復命センカ我政府ハ(中略)韓国ニ於ケル兵力ヲ数倍シ威圧ノ行動ニ出スル等、其ノ変ニ処スルノ準備ヲ為スハ勿論ナリ」(「日本外交文書」第37巻第1冊)と威嚇することを忘れませんでした。

 日韓議定書第6条の規定により、同年8月22日日韓協約(第1次)が調印(「坂の上の雲」を読む26参照)されましたが、この協約は条約形式をとらず、前文・末文を省略した政府間の行政上の取り決めで、次の3カ条を規定しています(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。①韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢(はから)ヒ施行スヘシ②韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ外交に関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ。③韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件即外国人ニ対スル特権譲与若クハ契約等ノ処理ニ関シテハ予メ日本政府ト協議スヘシ

 この協約により財務顧問には目賀田種太郎大蔵省主税局長・貴族院議員が、外交顧問には駐米日本公使館雇のアメリカ人スティーブンスが任命されました。

東京都千代田区の歴史―神田神保町―目賀田種太郎

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む3

 1905(明治38)年1月1日第3軍が旅順を攻略(「坂の上の雲」を読む27参照)後の同年1月22日小村寿太郎(「坂の上の雲」を読む11参照)外相は高平小五郎駐米公使に講和問題に関する日本政府の見解(「坂の上の雲」を読む36参照)を米大統領に伝えるよう訓令、同年1月25日高平公使は「平和克復後に於ける満韓、旅順に関する我政府の意思竝びに希望の件」を申し入れましたが、同申し入れは韓国について「(日露)開戦当時ニ於テ帝国ノ地位ヲ侵迫シタルカ如キ陰険ナル勢力ノ回復ヲ防遏センカ為メニハ韓国ヲ以テ全然日本ノ勢力圏内ニ置キ該国国運ノ保護監督幷ニ指導ヲ完全ニ帝国ノ掌中ニ収ムルヲ必要ナリト信ス」と述べています。

 同年5月27~28日日本海海戦で連合艦隊がバルチック艦隊を撃破、同年6月米大統領が日露両国に講和を勧告すると、両国は講和を受諾しました。講和会議においてロシア全権ウイッテは「日本の韓国主権不可侵」を講和条約に明記することを強く主張しました。小村寿太郎全権はこれに反対して対立、結局会議録に「日本国全権委員ハ、日本国ガ将来、韓国ニ於テ執ルコトヲ必要ト認ムル措置ニシテ、同国ノ主権ヲ侵害スヘキモノハ、韓国政府ト合意ノ上、之ヲ執ルヘキコトヲ茲(ここ)ニ声明ス」と記載することで合意しました(「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争Ⅴ)。以後日本が韓国主権侵害の度ごとに韓国政府・皇帝との合意を条約形式で締結せざるを得なかったのはこのためです。

春や昔―メインコンテンツー「坂の上の雲」登場人物―登場人物一覧―うーウイッテ

 同年7月27日桂太郎首相は来日中の米陸軍長官タフトと会談、日本はアメリカのフィリピン統治を認め、アメリカは日本が韓国に保護権を確立する事を認める「桂タフト協定」を締結しました(「坂の上の雲」を読む45参照)。

 つづいて同年8月12日ロンドンで第2回日英同盟協約が調印(「坂の上の雲」を読む45参照)されましたが、同協約は韓国について「大不列顚国ハ日本国カ該利益ヲ擁護増進セムカ為正当且必要ト認ムル指導、監理及保護ノ措置ヲ韓国ニ於テ執ルノ権利ヲ承認ス」と述べています。

  第2回日英同盟協約締結を通告された朴斉純韓国外相は駐韓英公使に「両締約国ハ相互ニ清国及韓国ノ独立ヲ承認」した第1回日英同盟協約に違反すると抗議しましたが、日英両国公使は協議してこの抗議を無視しました(「日本外交文書」第38巻第1冊)。

 同年9月5日日露両国はポーツマス条約(「坂の上の雲」を読む48参照)を締結、日露戦争は終結しましたが、同条約において「露西亜帝国政府ハ日本国カ韓国ニ於テ政事上、軍事上及経済上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ日本帝国政府カ韓国ニ於テ必要ト認ムル指導、保護及監理ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻礙(そがい)シ又ハ之に干渉セザルコトヲ約ス」(第2条)と規定しました。

 上記の文章に頻出する「監督」あるいは「監理」とは、当時の外務省取調局長幣原喜重郎によれば「併合」の意味で使用されたものです(海野福寿「前掲書」)。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーしー幣原喜重郎

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む4

 日露講和会議録に記載された合意(「伊藤博文安重根」を読む4参照)にもとづく保護条約交渉について、1905(明治38)年10月18日伊藤博文は小村外相の要請を内諾、同年11月2日「韓国皇室御慰問ノ思召ヲ以テ特派大使トシテ差遣」する勅命をうけました(「日本外交文書」第38巻第1冊)。

 なぜなら小村外相ポーツマス条約でロシアから譲渡された旅順・大連の租借権ならびに長春~旅順間鉄道経営権など清国政府の承認を求める条約交渉のため北京に赴かねばならなかったからです。かくして伊藤博文は特派大使として主に韓国皇帝と折衝、形式的には林権助特命全権公使が条約交渉及び調印を担当することになっていました。

 同年11月10日伊藤特派大使は文武官随員を従え、王宮の慶運宮(徳寿宮)に参内、高宗皇帝に謁見、天皇の親書を奉呈、同月15日伊藤は皇帝に内謁見して、韓国の外交権を韓国政府から委任を受けた日本政府が行うことを提案、外部大臣朴斉純に対して、林権助駐韓公使の提案にもとづき協議し、協約調印に至るよう勅命を下すことを要請しました(伊藤大使内謁見始末「日本外交文書」第38巻第1冊)。

ハシムの世界史への旅―旅行記・写真集―大韓民国―徳寿宮―景福宮―安重根義士記念館

 同月16日林権助公使は朴斉純外相に協約案を示し交渉を開始、翌17日林公使は日本公使館に大臣全員を招集し、協約案についての韓国側の意見を聴取しました。大臣たちは誰も明確に賛否を表明せず、「内閣員だけでは極められぬ大事件ゆゑ、いよいよ王様(陛下)の御前に出て国王(皇帝)の意向をお聴きするより仕方がない」(林権助述「わが七十年を語る」第一書房)ということになりました。

 韓国駐箚軍(「坂の上の雲」を読む26参照)は旧王宮の景福宮前の広場で演習したり、メインストリートの鐘路を示威行進するなどして市民を威圧(「駐韓日本公使館記録」第25巻 国史編纂委員会 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)、また王宮内には日本の憲兵・領事館警察官・韓国政府傭聘の日本人巡査を配置して、保護のためと称し皇帝・大臣の王宮脱出を防止し、あわせて協約締結反対の民衆が王宮内に進入しないよう厳戒態勢をとりました(林権助「前掲書」)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む5

 御前会議で韓国大臣たちの総意として、条約案拒絶を2度奏上しましたが、皇帝は承認せず、大臣たちに林との交渉を継続するように命じたようです(「日本外交文書」第38巻第1冊)。皇帝は上記御前会議の結果を宮相を通じて伊藤に連絡、伊藤は慶雲宮に急行して皇帝への内謁見を求めましたが、皇帝は病気を理由に謁見せず、宮相は「協約案ニ至テハ朕カ政府大臣ヲシテ商議妥協ヲ遂ケシメントス。卿(けい)冀クハ其間ニ立チ周旋善ク妥協ノ途ヲ講センコトヲ」(日韓新協約調印始末「日本外交文書」第38巻第1冊)との勅答を伊藤に与え、大臣たちにも伝達しました。

 よって伊藤は各大臣の説得を開始、辞意を表明した韓圭ソル参政(首相)は皇帝の「妥協ヲ遂ケ」の沙汰に反対したことを述べましたが、伊藤は韓参政に協約案に対する賛否を各大臣に問うよう求めました。その結果伊藤は韓参政と閔泳綺度支相の2人だけ協約案反対と認め、韓参政に本問題を可決したものとして必要形式を整え、皇帝の裁可を請い、調印の実行を促しました。

 1905(明治38)年11月17日特命全権公使林権助と外部大臣朴斉純との間に調印された日韓協約(第2次)の要点は下記の通りです(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。

1 日本国政府ハ在東京外務省ニ由リ今後韓国ノ外国ニ対スル関係及事務ヲ監理指揮スヘク日本国ノ外交代表者及領事ハ外国ニ於ケル韓国ノ臣民及利益ヲ保護スヘシ

2 日本国政府ハ韓国ト他国トノ間ニ現存スル条約ノ実行ヲ全フスルノ任ニ当リ韓国政府ハ今後日本政府ノ仲介ニ由ラスシテ国際的性質ヲ有スル何等ノ条約若(もしく)ハ約束ヲナササルコトヲ約ス

3 日本国政府ハ其代表者トシテ韓国皇帝陛下ノ闕下(宮廷)ニ一名ノ統監(レヂデントゼネラル)ヲ置ク統監ハ専ラ外交ニ関スル事項ヲ管理スル為メ京城漢城)ニ駐在シ親シク韓国皇帝陛下ニ内謁スルノ権利を有ス(以下略)

会津若松市―検索―林 権助

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む6

 第2次日韓協約が調印された1905(明治38)年11月17日以後韓国には不穏な情勢が展開しました。

 宮内府特進官趙秉世は郷里の京畿道に退隠していましたが、協約調印後上京し同年11月23日調印に応じた大臣を糾弾、協約破棄を求め(「李朝実録」第五十六冊 学習院東洋文化研究所)、漢城駐在の各国公使に援助を要請する書を、林権助公使には日本政府の反省を促す書を送りました(黄玹「梅泉野録」国書刊行会)。侍従武官長閔泳煥も趙秉世を助け同月28日上奏、鐘路などの商店は同月27日以来休業してこれに呼応しました(「駐韓日本公使館記録」第25巻 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)。

 林公使は同月27日皇帝に上奏して趙秉世らを解散させようとしましたが、閔泳煥は帰宅せず、同月30日小刀で自殺、趙秉世も同年12月1日朝阿片を飲み同日午後4時半絶命しました(「日本外交文書」第38巻第1冊)。

 同年12月21日統監府・理事庁官制が公布され、天皇に直隷(直属)することになった統監には枢密院議長伊藤博文が初代統監、後任の枢密院議長には山県有朋が任命されました(「官報」)。

 すでに日露戦争中から日韓議定書(「伊藤博文安重根」を読む2参照)第4条により、ほとんど無償で日本軍に軍用地を収用され、また労働力を徴発されることによって、生活基盤を奪われた韓国民衆は1906(明治39)年夏閔宗植・崔益鉉を指導者に反日義兵として蜂起します。 閔宗植は隠棲した元官吏で、同年5月11日同志とともに挙兵、同月19日洪州城を占領、1100人以上の義兵で日本憲兵・警察隊を撃退しました。そこで韓国駐箚軍の歩兵二中隊は同月31日午前6時洪州城を占領(「駐韓日本公使館記録」第26巻 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)、閔宗植は洪州城を脱出逃亡しました。彼は同年11月逮捕され、平理院の裁判で死刑判決を受けましたが終身刑に減刑、珍島に配流となりました(朝鮮総督府「朝鮮ノ保護及併合」市川正明編「日韓外交史料」8 原書房)。

 崔益鉉も同年陰暦2月全羅北道泰仁に下り、日本の「棄信背義十六罪」を問責する書を日本政府に送り挙兵しました。同年6月12日彼は捕虜となり、韓国駐箚軍の軍律審判(軍法会議)により禁錮3年の刑に処せられ、彼と韓国皇帝並びに民衆との結合を断ち切るため伊藤博文の意向(「駐韓日本公使館記録」第26巻 海野福寿「前掲書」引用)を反映した閣議決定により、対馬厳原の獄舎に流罪となりましたが、1907(明治40)年1月1日死去しました(「義兵将 崔益鉉の生涯」 旗田巍「朝鮮と日本人」勁草書房)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む7

 1899(明治32)年5月18日ロシア皇帝ニコライ2世の提唱により、オランダのハーグで第1回万国平和会議が開催され26カ国が参加、同会議は同年7月29日世界最初の国際紛争を平和的に処理することを目的とする「国際紛争平和的処理条約」(万国仲裁裁判所設置などを含む)など3条約と宣言を採択して閉幕しました。韓国は万国平和会議に参加していませんでしたが、1903(明治36)年初めころ「国際紛争平和的処理条約」などの加盟の意思をオランダ政府に通知しました。しかし上記条約締約国でなかったため、その希望は実現しませんでした(外務省編纂「日本外交文書 海牙万国平和会議」(復刻版)第1巻 巌南堂書店)。

世界史の窓―世界史用語解説―ハーグ万国平和会議

 1904(明治37)年10月米大統領セオドア・ルーズベルトの第2回万国平和会議開催提案により、同会議開催の気運が高まると、同年末以降韓国皇帝は秘密ルートを通じて日本の不当な支配により独立が危機に陥った実態を露・米・仏、とくにアメリカ政府に繰り返し訴えていたのです(「日本外交文書」第38巻第1冊)。

 1906(明治39)年4・5月ころロシア政府は第2回万国平和会議開催の時期・提出議題及び「国際紛争平和的処理条約」新規加盟の方法についての通告を参加予定国に送付しましたが(「日本外交文書 海牙万国平和会議」第2巻)、日本の妨害により韓国は同会議の正式招請状を受け取ることができませんでした。しかし1907(明治40)年4月20日韓国皇帝高宗は元参賛李相ソル・元平理院検事李儁に第2回万国平和会議出席のための全権委任状を与え(海野福寿「日韓協約と韓国併合明石書店)、ついで5月8日官立中学校教師で「コレア・レヴュー」主筆ハルバートをヨーロッパに出発させました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

 同年5月21日李相ソル・李儁(ハーグ密使)はウラジオストックを出て、6月4日ペテルブルクでロシア皇帝に高宗の親書を奉呈、ベルリン経由で6月25日ハーグに到着しましたが、7月2日ロシア主席委員ネリドフならびにオランダ外相との会見要請を拒否されました(「駐韓日本公使館記録」第31巻 海野福寿「前掲書」引用)。ハーグ密使の目的は「国際紛争平和的処理条約」加盟にあり、それを前提にハルバートによる常設仲裁裁判所への提訴にあったのですが、結局その目的を達成することはできませんでした。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む8

  韓国皇帝高宗のハーグ密使派遣を知った伊藤博文は1907(明治40)年7月3日林董(はやしただす)外相に高宗の責任を追及し、韓国の内政権を獲得するきっかけとすべきであるとの意見を伝えました。ついで伊藤は同月5あるいは6日ころに「皇帝ニ対シ其ノ責任全ク陛下一人ニ帰スルモノナルコトヲ宣言シ併テ其ノ行為ハ日本ニ対シ公然敵意ヲ発表シ協約違反タルヲ免レス。故ニ日本ハ韓国ニ対シ宣戦ノ権利アルモノナルコトヲ総理大臣(李完用)ヲ以テ告ケシメタリ」と報告、また同月7日日本政府に対して「此際我政府ニ於テ執ルヘキ手段方法(例ハ、此ノ上一歩ヲ進ムル条約ヲ締結シ我ニ内政上ノ或権利ヲ譲与セシムル如キ)ハ廟議(朝廷の評議)ヲ尽サレ訓示アランコトヲ望ム」(「日本外交文書」第40巻第1冊)と要望しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー林董

 李完用韓国首相は伊藤を訪問、「事茲ニ至リテハ国家ト国民ヲ保持セハ足レリ皇帝身上ノ事ニ至リテハ顧ルニ遑(いとま)ナシ」と皇帝の退位を示唆するかのような発言が行われました。伊藤はこれに対して「譲位ノ如キハ本官深ク注意シ韓人ヲシテ軽率事ヲ過マリ其ノ責ヲ日本ニ帰セシムル如キハ固(もと)ヨリ許ササル所ナリ」と報告しています(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む9

 伊藤から請訓を受けた日本政府は同年7月10日山県有朋元老桂太郎前首相も出席して西園寺公望首相をはじめ斎藤実海相寺内正毅陸相・林董外相阪谷芳郎蔵相・原敬内相で構成される会議を開催しましたが、「結局此際内政の実権を我に収むる事、若し能はずんば日本人を内閣員となし又内閣員は必らず統監の同意を要する位にはなさん、此大体の方針を適当に実行する事は伊藤侯に一任すべし、此趣旨を説明する為めには林外相渡韓すべしと云うに決定」(原奎一郎編「原敬日記」第2巻 明治40年7月10日条 福村出版株式会社)しました。同月12日の閣議で韓国内政権掌握の実行を伊藤侯に一任し、その協定は政府間協約として締結すること、及び林外相の韓国派遣を決定しました(海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店)。

 林外相漢城に到着した同年7月18日夜皇帝高宗は純宗への譲位の詔勅を発布、同月20日中和殿で略式の譲位式を挙行しました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

 同年7月24日伊藤統監は李完用首相らに協約案を提示、当日大要次のような日韓協約(第3次)及び覚書(不公表)を調印したのです(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。

[日韓協約(第3次)]1.韓国高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト(第4条)

2.韓国政府ハ統監ノ推薦スル日本人ヲ韓国官吏ニ任命スルコト(第5条) 3.韓国政府ハ統監ノ同意ナクシテ外国人ヲ傭聘セサルコト(第6条) 4.明治三十七年八月二十二日調印日韓協約(第1次)第一項ハ之ヲ廃止スルコト(第7条)

[覚書(不公表)]第三-一 陸軍一大隊ヲ存シテ皇宮守備ノ任ニ当ラシメ其ノ他ハ之ヲ解体スルコト 第五 中央政府及地方庁ニ左記ノ通日本人ヲ韓国官吏ニ任命ス 

一 各部次官

一 内部警務局長 (以下略)

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む10

 1907(明治40)年7月18日皇帝高宗の純宗への譲位表明以来、漢城市内は不穏な情勢となりました。同日夜市内中心部の鐘路には多数の群衆が集まって皇宮前に押し寄せ、翌19日人々が鐘路で路傍演説、夕刻には侍衛隊第三大隊の兵士数十人が二手に分れ、一方は鐘路巡査派出所に、他方は道路上で警戒に当たっていた警察官に発砲(「外務省特殊調査文書」第38巻 高麗書林 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)、20日午後、民衆が李完用首相邸を焼き打ちしました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

大河の釣り人―大韓帝国歴代大臣―内閣総理大臣―李完用

 同月21日伊藤博文は西園寺首相に対して、韓国駐箚軍応援の軍隊増派を要請、これによって同月27日第十二師団(小倉)所属の一個旅団は渡韓を完了、平壌を中心とする北部に展開(「朝鮮駐箚軍歴史」金正明編「日韓外交資料集成」別冊1 巌南堂書店)し、海軍第三艦隊も同月29日仁川に入港した駆逐艦4隻を加えて連携態勢を整えました(「外務省特殊調査文書」第38巻 高麗書林 海野福寿「韓国併合史の研究」引用)。

 同年7月31日軍隊解散の詔勅が発布(海野福寿「日韓協約と韓国併合明石書店)され、翌8月1日朝李秉武軍相は駐箚軍司令官官邸に韓国軍隊長を招集、軍隊解散の詔勅(「日本外交文書」第40巻第1冊)を伝達しました(「朝鮮駐箚軍歴史」)。次いで午前10時から練兵場で一般兵士に対し解散を命ずることになっていましたが、侍衛歩兵第一連隊第一大隊長の憤死がきっかけとなり同大隊が決起、第二連隊第一大隊も同調しました。韓国軍隊反乱を予想していた長谷川好道韓国駐箚軍司令官は歩兵第五十一連隊第三大隊其の他に命じて鎮圧に当たらせ、歩兵同大隊は交戦後反乱した韓国侍衛歩兵両大隊兵営を占領しました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。地方鎮衛隊にも解散命令が下り、原州鎮衛隊・江華島分遣隊でも反乱勃発、解散した兵士の中で、反日義兵に加入する者も多くなり、やがて全国各道に拡大して数年間に及ぶ騒擾事件の一原因となりました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む41~50

片山 潜「日本の労働運動」を読む41

 このように日本社会党で直接行動派と議会政策派が大論争をくりひろげていたころ、1907(明治40)年2月4日以降足尾銅山(「田中正造の生涯」を読む15参照)で大暴動が起こったのです(「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

 明治期の鉱山は江戸時代囚人労働による生産の伝統がつづき、その劣悪な待遇に対する不満が他産業の労働者以上に強かったといえるでしょう。

 大日本労働至誠会は1902(明治35)年春南助松と永岡鶴蔵が北海道夕張炭鉱の坑夫を組織して結成されたもので、やがて1906(明治39)年12月5日には南助松が夕張炭鉱から足尾銅山に移ってくると、同会足尾支部が結成され、労働至誠会の坑夫待遇改善運動が活発となっていくのです(「日本の労働運動」を読む21参照)。

二村一夫著作集―総目次―第4巻 「足尾暴動の史的分析」-序章 暴動の舞台 足尾銅山

 当時の足尾銅山の坑夫は(ア)物品で賃金を払ってはならないと法律で規定されているにもかかわらず、会社の販売店から粗悪で高価な日用品を購入させられる「現物賃金制」、(イ)会社役員が賄賂の多少によって坑夫の就業に差別をつける、(ウ)近年の物価高にもかかわらず賃金が上がらないの3点で苦痛を強いられていました。

 労働至誠会はたびたび演説会を開き、坑夫が団結して会社に諸種の要求を提出し、もし要求が実現しない場合は坑夫を募集している北海道へ集団移住することを訴えていました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む42

 1907(明治40)年2月4日午前9時ころ第三・四見張所前で職員と坑夫が賃金上のことで争いを起こし、それを見ていた周囲の者が口ぐちに「ヤレヤレ」とこれを応援、やがて5~600名の労働者が見張所に石を投げ込んだのが始まりで、電話線・電線が切断されて鉱山外との通信が途絶えました。

二村一夫著作集―総目次―第5巻 「鉱業労働史研究」-足尾暴動

 この騒動は南助松ら労働至誠会員の慰撫でおさまり、南らの助言で2月6日午前9時に20数項目の要求を会社に提出することになりましたが、6日朝数千の坑夫がダイナマイトで鉱山の建物数か所を爆破放火、鉱業所長南挺三を襲撃して重傷を負わせ、石油庫・火薬庫を爆発させるに至ったのです。

 すでに栃木県警務課長・日光警察署長・足尾警察署長・宇都宮裁判所予審判事・検事らが制・私服の部下数百名を率いて事件現場に乗り込んでいましたが、彼等は事件をどのように収拾したらよいのかわからず、足尾警察署長が南助松らを検挙すると、事態を一層混乱させると主張したのに、予審判事は2月6日南助松・永岡鶴蔵ら労働至誠会幹部を兇徒嘨集罪で逮捕、かえって混乱を助長する結果となり、彼等は変装して姿をくらます状態でした(田中惣五郎「前掲書」)。

 栃木県知事の報告により警察力で足尾暴動を鎮静化させることができないと悟った原敬内務大臣は陸軍大臣寺内正毅に軍隊の出動を要請、2月7日午前8時30分高崎第15連隊の歩兵3個中隊が雪中足尾に到着、午後4時足尾銅山戒厳令を公布、騒擾を鎮圧しました。

 2月4日の正午ころ南助松から平民社宛に電報が届き、2回目、3回目とつづいたので平民社は西川光次郎を特派員として現地に派遣しましたが、彼は軍隊が足尾に到着する数時間以前に足尾警察署の刑事に兇徒嘨集罪で逮捕され、この報を得た平民社荒畑勝三を第2の特派員として再び現地に派遣、彼は危うく検挙を逃れ、南助松らの妻女を平民社まで伴うことに成功しました(吉川守圀「荊逆星霜史」不二出版・荒畑寒村「ひとすじの道」日本図書センター)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む43

  1907(明治40)年2月17日日本社会党第2回大会が神田錦輝館で開催されました(「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

 大会は幹事堺利彦の開会の挨拶に始まり、次いで竹内余所次郎を議長に選出、議案として①党則第1条「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」を「本党は社会主義の実行を目的とす」とする、②党則第4条「評議員十三名」を「評議員二十名」に増員③其の他を可決、改選された評議員は再撰されたもの堺利彦・西川光次郎・田添鉄二・森近運平らで、新選されたものは石川三四郎幸徳秋水らでした。

 本大会の最重要議案である評議員会作成原案の次のような決議案を堺利彦が提案しました。

 我党は現時の社会組織を根本的に改革して生産機関を社会の公有となし人民全体の利益幸福の為に之を経営せんと欲するものなり

 我党は此目的を持し現時の情勢の下に於て左の件々を決議す

一、我党は労働者の階級的自覚を喚起し其団結訓練に勉む

一、我党は足尾労働者の騒擾に対し遂に軍隊を動かして之を鎮圧するに至りしを遺憾とし、之を以て甚だしき政府の失態なりと認む

一、我党は世界に於ける諸種の革命運動に対し深厚なる同情を表す

一、左の諸問題は党員の随意運動とす

 い、治安警察法改正運動 ろ、普通選挙運動 は、非軍備主義運動 に、非宗教運動

 これに対して田添鉄二は評議員会原案の(ア)足尾事件の前に「一、我党は議会政策を以て有力なる運動方法の一なりと認む」の一項を付加、(イ)「ろ、普通選挙運動」を削除、

という修正案を提出しました(「田添鉄二氏の演説要領」参照「平民新聞論説集」岩波文庫)。

 幸徳秋水は評議員会原案の(ウ)第一項「我党は」の次に「議会政策の無能を認め専ら」の語句を付加、(エ)「ろ、普通選挙運動」を削除、という修正案を提出しました(「幸徳秋水氏の演説」参照「平民新聞論説集」岩波文庫)。

 大会は3時間に及ぶ討論ののち採決、其の結果は次の如くでした。田添案 2票、 幸徳案 22票、 評議員会案28票、 かくして評議員会案が採択されたのです。

 採択された評議員会案が秋水の直接行動論の影響著しいものであったので、評議員会案提案者堺利彦が「大会は事実に於て大多数を以て幸徳説を可決したる者と謂はざるを得ず」(堺利彦社会党大会の決議」日刊「平民新聞」28号 明治40年2月19日付「明治社会主義史料集」第4集 明治文献資料刊行会)と述べています。

 この大会において山川均は「予は直接行動に信頼するものである、」(「社会党大会の成蹟」日刊「平民新聞」第29号 明治40年2月20日付・「平民新聞論説集」岩波文庫)と主張した直接行動派でしたが、彼は後年当時を回顧して次のように述べています。「あの十七日の大会の空気のなかで、ただ一人(議会政策論者と思われる西川は、足尾事件のために宇都宮監獄に拘禁されていた)議会政策論のために闘った田添の態度にたいして、私は今も尊敬を払っている。」(山川菊栄向坂逸郎編「山川均自伝」岩波書店

Weblio辞書―検索―山川均

 かかる日本社会党の決議により西園寺公望(第一次)内閣は同年2月22日治安警察法第8条第2項により日本社会党を結社禁止とし、日刊「平民新聞」も発売禁止や記事執筆者ならびに発行編集責任者の処罰が行われ、同年4月14日第75号で廃刊となりました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む44

 1907(明治40)年2月19日渡米中の片山潜が帰国しました(辻野功「前掲書」)。彼は「労働者諸君に告ぐ」(日刊「平民新聞」第40号 明治40年3月5日付・「平民新聞論説集」岩波文庫)を発表、直接行動論を批判して自分が議会政策派であることを明らかにしました。

 これに対して直接行動派は日刊「平民新聞」第42号「片山先生に告ぐ」において片山潜をからかうかのような批判の文章を掲載したのです。

 日刊「平民新聞」廃刊以後、その後継紙として同年6月1日森近運平が半月刊紙「大阪平民新聞」(「明治社会主義史料集」第5集)を、同月2日には片山潜・西川光次郎が週刊「社会新聞」(「明治社会主義史料集」第6・7集)を創刊しましたが、次第に「大阪平民新聞」は直接行動派の、「社会新聞」が議会政策派の機関紙の傾向を強め、互いに相手を非難攻撃するようになりました。

井原市―観光者の皆さまへー井原市の歴史・文化―井原市ゆかりの偉人―お知らせー井原市の偉人紹介ページ更新―関連リンクーいばらの偉人―バックナンバーー森近運平

 ところが両派内部にも対立が激化し、やがてそれは理論的対立を越えた感情的抗争に矮小化していきました。

 1908(明治41)年6月18日、日刊「平民新聞」第59号に論説「父母を蹴れ」(明治40年3月27日付・「平民新聞論説集」)を掲載したため投獄されていた山口孤剣が出獄しました。石川三四郎が山口は直接行動派と議会政策派の分裂以前からの入獄者なので、出獄歓迎会を両派一緒にやらないかと堺利彦・西川光次郎によびかけました。堺・西川両人とも同意したので同年6月22日午後1時東京神田錦輝館で両派合同の「山口君出獄歓迎会」が開催されました(「本書」②)。

 幹事役の石川三四郎が閉会の辞を述べはじめたころ、会場の一角で革命歌を歌いながら、赤地に白く「無政府共産」などと縫いとりした旗を大杉栄荒畑寒村ら若手の直接行動派が議会政策派の人々を囲んで会場内を走りまわり、やがて戸外に出ていきました。

 警官隊が「戸外だから旗を巻け」と要求したが、大杉らは聞かず、警官と乱闘、会場に居た山川均と堺利彦は大杉らと警官の間にはいって警官をなだめ、乱闘は治まったのですが、警察の増援隊が到着すると、警察は大杉らだけでなく、仲裁役の山川・堺まで逮捕、「無政府共産」の旗を堺利彦から預かり、帰宅中の管野スガら4人の女性まで拘束されました(赤旗事件・「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む45

 赤旗事件被逮捕者たちは次のように処分されました。堺利彦・山川均らは官吏抗拒罪で重禁錮2年、荒畑寒村らは1年半、大杉栄2年半(前科1年半通算)、重禁錮1年罰金10円大須賀里子、小暮れい子(5年執行猶予)、無罪管野スガ、神川まつ

 この外錦町警察署留置場便所の壁につめ痕か何かで「一刀両断帝王頭、落日光寒巴里城」とフランス革命を詠んだ漢詩が落書されていました(荒畑寒村「ひとすじの道」)。この嫌疑をかけられた佐藤悟は不敬罪で懲役3年に処せられたのですが、真犯人は別にいたらしくもあります(赤松克麿「日本社会運動史」岩波新書)。

日本キリスト教女性史(人物編)―索引―かー管野スガ

 ところがこの事件は内閣総辞職という政変に発展しました。西園寺公望(第1次)内閣の内相原敬はその日記で次のように述べています。「本日参内し親しく侍従長と内談せしに、同人の内話によれば、山県(有朋)が陛下に社会党取締の不完全なる事を上奏せしに因り、陛下に於せられても御心配あり、(中略)山県が他人の取締不充分なりと云ふも、然らばとて自分自ら之をなすにも非らずとて、徳大寺(侍従長)も山県の処置を非難するの語気あり、(中略)山県の陰険なる事今更驚くにも足らざれども、畢竟現内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し此奸手段に出でたるならん、」(原奎一郎編「原敬日記」第2巻 明治41年6月23日条)

 同年6月27日西園寺公望首相は原敬・松田正久を招いて病気を理由に辞意を告げたのですが、7月2日原敬が西園寺首相を訪問すると、首相は本日個別に閣僚招き、辞意を伝えたと述べ、実は寺内正毅陸相に対し山県有朋が辞職をすすめた(軍部が倒閣手段としてしばしば利用・「大山巌」を読む48参照)が、寺内は単独で辞職を決断できず、首相に山県の意図を報告、其の結果西園寺首相は辞職を決意した旨語ったそうです。かくして7月4日第1次西園寺内閣は総辞職、7月14日第2次桂太郎内閣が成立するに至ったのです(「原敬日記」)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む46

 1907(明治40)年10月27日幸徳秋水は病気静養とクロポトキン「麺麭(パン)の略取」(英訳版)翻訳に取り組むため、東京大久保から郷里高知に向かい、途中別府温泉に宿泊、故郷中村に帰りました。

 彼に赤旗事件を知らせる守田有秋の電報がとどいたのは、1908(明治41)年6月23日のことでした。新聞等で事件の詳細を知ると、かれは同年7月21日上京の途につき、その途中で和歌山県新宮の医師大石誠之助(祿亭)の許に立ち寄り、同年8月12日箱根足柄下郡温泉村の林泉寺住職内山愚堂を訪問(塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社)、同月東京に到着(「社会主義者沿革」下)、10月豊島郡巣鴨に平民社の看板を掲げましたが(「逆徒判決証拠説明書」<大逆事件判決に先立ち、外務省が各国駐日公使館に送付したもの>宮武外骨編「幸徳一派大逆事件顛末」「明治社会主義文献叢書」竜吟社)、秋水の家は不断に警察の監視下にありました。

新宮市観光協会―新宮ガイドー観る―大逆事件と大石誠之助

 赤旗事件で逮捕の後、無罪放免された管野スガはもともと荒畑寒村の愛人でしたが(荒畑寒村「ひとすじの道」日本図書センター)、秋水の身辺を世話するようになりました。11月上京した大石誠之助は秋水を診察、秋水は余程の難病、長生きできないようだと診断しました(「逆徒判決証拠説明書」宮武外骨編「前掲書」)。

 1909(明治42)年1月秋水は翻訳「麺麭の略取」を平民社訳として出版しましたが、たちまち発売禁止となりました。

 1909(明治42)年2月新村忠雄が、同年2月13日宮下太吉が秋水を訪ね、天皇に対するテロの決意を表明しています。

秋水が千代子夫人を離婚、千駄ヶ谷に引っ越し、同年5月25日菅野スガを発行編集人、古河力作を印刷人として「自由思想」を発刊したころから、幸徳秋水と管野スガとの愛人関係を同志たちが非難するようになりました(吉川守圀「荊逆星霜史」)。

 「自由思想」は発禁となり同年7月に廃刊、管野スガは数百円の罰金を払えず、1910(明治43)年5月18日100日の換金刑に服するため入獄させられました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む47

  このような情勢の中で幸徳秋水周辺の社会主義者宮下太吉・管野スガ・新村忠雄らが明治天皇暗殺計画を練りはじめたのです。

 1910(明治43)年5月17日管野スガ・新村忠雄・古河力作3名は天皇に爆弾を投げる順番のくじ引きをし、(1)管野スガ、(2)古河力作、(3)新村忠雄、(4)宮下太吉の順と決定しました(古河力作「余と本陰謀との関係」神崎清「大逆事件記録」第1巻新編獄中手記 世界文庫)。しかし後のことはすべて管野スガの出獄待ちで、具体的計画はきめられていなかったのです。

 幸徳秋水は古くからの友人奥宮健之に爆裂弾の製法を質問し、それを新村忠雄を通じて宮下太吉に伝えたことはあったようです(「逆徒判決証拠説明書」)。しかし同年3月11日親友小泉策太郎(三申)のすすめで「通俗日本戦国史」執筆のため湯河原の天野屋旅館に籠り、天皇暗殺計画から離れたと見られます。宮下太吉らも「幸徳は筆の人で実行の人ではない」[「予審(当時の刑事訴訟法により起訴後被告を公判に付すべきか否かを決定する手続き)調書」宮下太吉(第四回) 塩田庄兵衛・渡辺順三編「秘録大逆事件」上 春秋社]と思い、秋水を除外して計画をすすめたのです。

 天皇暗殺計画は宮下太吉の軽率な言動から当局に知られ、彼は同年5月25日検挙、明科製材所を捜索されて証拠品を押収されました。新村忠雄らも同日逮捕され、関係者の一斉検挙が始まったのでした(荒畑寒村「日本社会主義運動史」毎日新聞社)。

 同年6月1日上京のため湯河原駅に向かっていた幸徳秋水も逮捕され、当局は関係者が幸徳秋水・管野スガ・宮下太吉・新村忠雄・古河力作ら7名であると発表しました(小林検事正談「東京朝日新聞」明治43年6月5日付)。

 しかしかねて社会主義者を一掃したいと考えていた元老山県有朋(「大山巌」を読む29参照)・首相桂太郎(「坂の上の雲」を読む11参照)・司法省行刑局長兼大審院次席検事平沼騏一郎らの圧力によって司法当局の方針は強硬となり、6月3日には大石誠之助を取り調べたのをはじめとして8月までに和歌山・岡山・熊本・大阪でも関係容疑者26名が逮捕され、逮捕を免れたのは片山潜ら議会政策派と堺利彦・山川均・大杉栄赤旗事件などで入獄していた者だけでした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ひー平沼騏一郎

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む48

 裁判は同年12月10日大審院で開始、裁判長は被告の氏名点呼後、事実審理を非公開とし、検事の起訴内容陳述も公開せず、傍聴人を法廷外に退去させました。「はじめての裁判から最終審まで秘密で、しかも判決に対して上告する道は全然なかった。」(「本書」②)その裁判の様子を弁護人の一人今村力三郎(「田中正造の生涯」を読む29参照)は「裁判所が審理を急ぐこと奔馬の如く一の証人すら之を許さざりしは予の最も遺憾としたる所なり」(「芻言」幸徳秋水全集 別巻1 明治文献)と述べています。

 1911(明治44)年1月18日大審院は大逆罪(改正「刑法」第73条 天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス・内閣官報局「法令全書」第四〇巻ノ二 明治40年 法律第四十五号 原書房)により幸徳秋水ら被告24名に死刑を判決(「大逆事件判決書」我妻栄他編「日本政治裁判史録」明治・後 第一法規出版)、翌日「天皇陛下の思し召し」で12名が無期懲役に減刑されました「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

 同年1月24日幸徳秋水ら11名が処刑され翌日管野スガが処刑されました。減刑された被告たちもその行く末が悲惨を極めたことは申すまでもありません(田中伸尚「大逆事件岩波書店)。

 大逆事件の死刑実施に対して、海外の社会主義者より日本の在外公館に抗議が集中しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 同年2月1日徳富蘆花(「大山巌」を読む45参照)は天皇尊崇の念に厚い人物でしたが「謀叛論」と題する講演を第一高等学校(東大教養学部の前身)で行い、「(前略)明治昇平(世が平かに治まること)の四十四年に十二名といふ陛下の赤子(せきし 人民)、加之(しかのみならず)為す所あるべき者共を窘(くるし)めぬいて激さして(過激化させて)謀叛人に仕立てゝ、臆面(気おくれした顔色)もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じて之が責任を負はねばならぬ。(中略)諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做(な)されて殺された。が、(中略)自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。」(「謀叛論」(草稿)「明治文学全集」42 徳富蘆花集 神崎清「解題」参照 筑摩書房)と幸徳秋水らの処刑を批判したため、同校長新渡戸稲造らの譴責(けんせき 官吏に対する懲戒の一つ、現在の国家公務員法では戒告に相当)問題に波及しました。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーにー新渡戸稲造

 永井荷風は1911(明治44)年偶然大逆事件の容疑者を護送する囚人馬車が日比谷の裁判所の方に走っていくのを目撃して「この折ほど云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。」と思いつつも「然し私は世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。」と述べ、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。」(「花火」1919年 雑誌「改造」に発表・「日本文学全集」永井荷風集 筑摩書房)と述懐しています。

黙翁日録ーブログアーカイブー2010年―大逆事件―大逆事件への処し方ー2010年4月25日 

 1961(昭和36)年1月18日大逆事件被告で無実を訴え続けた生き残りの坂本清馬らは死刑判決50年目で東京高裁に再審を請求しましたが、1965(昭和40)年12月1日東京高裁は再審請求を棄却、同年12月14日坂本清馬は請求を棄却した東京高裁決定に憲法違反があるという理由で最高裁に特別抗告しました。しかし1967(昭和42)年7月5日最高裁は、大逆事件再審請求の特別抗告を棄却する決定を下しました。かくして大逆事件は後味の悪い謎を秘めて歴史の闇に消えていくかとも思われます。後味の悪い謎とは何かについて知りたいと思われる方は田中伸尚「前掲書」に詳説されていますのでご覧下さい。

 しかし大逆事件を見直そうという動きは各地域の草の根から拡大している事も確かです(田中伸尚「前掲書」)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む49

 議会政策派の片山潜は1908(明治41)年3月15日永岡鶴蔵が鉱夫組合を結成(「社会新聞」39号)したとき幹事として参加、事務所を自宅に置く(「自伝」年譜)など協力したのですが、永岡は足尾へ赴いても滞在することすらできず組合活動は不可能でした。 

「我々は絶えず労働者と接触していた。そして彼等を組織しようとしたが、いつも当局の為にぶちこわされた。」(「本書」②) 同年3月19日片山潜の協力者田添鉄二が肺結核のため32年8カ月の若さで永眠したことは片山にとって大きな打撃であったでしょう(岡本宏「前掲書」)。

 片山潜ら議会政策派が引き続き普通選挙運動に熱心であったことは当然です。同年2月4日片山潜中村太八郎安部磯雄らは普通選挙同盟会の相談会を神田美土代町の青年会館で開催、普選法案と請願の提出を協議し、同年2月6日普通選挙法案が松本君平ら外2名の代議士によって衆議院に提出されました。同法案は7対3で委員会を通過したのですが、本会議で否決となりました。

 1910(明治43)年2月3日片山潜中村太八郎の尽力により築地精養軒に木下謙次郎・田川大吉郎の2代議士を交えた会合が持たれ、普選法案を多数党たる政友会代議士に提出させ、その際田川が主任となり尽力すること等が決定されました。

 1911(明治44)年2月25日普選法案が諸派代議士22名によって衆議院に提出され、3月11日同法案は衆議院で可決されましたが、3月15日貴族院で否決されました(衆議院参議院編「議会制度七十年史」<帝国議会議案等件名録>大蔵省印刷局)。

 同年5月警視庁は普選運動を抑圧するため、普通選挙同盟会に「政治ニ関スル結社(政社)」の届出を命令しました。それまで普通選挙同盟会は治安警察法における「政社」の取り扱いを受けていなかったため、法的に軍人・教員・女子等の入会制限はなく、政党に所属する代議士の入会も自由でした。しかし同会が「政社」として取り締まりの対象となることによって、同会の政党所属代議士は脱会か脱党を選ばねばならなくなり、同年5月29日中村太八郎片山潜らが出席して総会を開いた普通選挙同盟会は「各政党員其ノ他個人トシテノ助力ニ依頼シテ以テ本会ノ目的ト同一ナル効果ヲ獲得スルニ若カス」(「社会主義者沿革」下)という理由で翌日自発的解散を警視庁に届出たのです。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む50(最終回)

 1906(明治39)年電車賃値上げ問題をおこした3電車会社(「日本の労働運動」を読む37参照)は合併して東京鉄道会社となりましたが、1911(明治44)年8月1日東京市が買収し、東京市電気局が設置されていました(「交通局五十年史」東京都交通局)。

 しかし同年末に運転手・車掌など従業員に分配された会社解散慰労金が予想よりあまりにも少額で配分が不公平であることを理由に同年12月31日から翌年1月2日の3日間にわたってストライキが勃発しました。

 片山潜は前年12月30日から翌年1月4日にかけて東京市電6000名のストライキを指導しました。

 ところが片山潜らは1912(明治45)1月15日市電労働者を教唆扇動してストライキをさせたとし検挙され(新聞集成「明治編年史」第14巻 財政経済学会)、治安警察法第17条違反で同年4月30日5箇月の懲役に処せられました。

 片山潜が「自伝」を書きはじめたのは獄中にあった同年3月1日からです。

 同年7月30日明治天皇逝去による大赦令で片山潜は千葉監獄を出所しましたが、入獄のため、勤務中の「東洋経済新報」の月給を半減され、生活はますます窮乏の一途をたどったのです(「自伝」年譜)。

 大逆事件の判決と処刑が行われた1911(明治44)年1月東京の牛込天神町六番地にある東洋経済新報に石橋湛山が入社、2階編集室に席を与えられましたが、彼の向かいの席は副主幹格の三浦銕(てつ)太郎で、その隣に座るのは片山潜という温厚な人物でした。政府の圧迫で身の置所のない片山潜を主幹の植松考昭と三浦がみかねて入社させていたのです。片山は本名やペンネームで社会問題の論文や劇・音楽・美術・建築の批評などを書いていました。

石橋湛山記念財団―石橋湛山とはー石橋湛山略歴

 石橋湛山が入社して1年後、片山は東京市電労働者のストライキを扇動したとして逮捕投獄され、出獄後もしばらく東洋経済新報に勤務していましたが、結局日本にいられなくなって渡米しました(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)。

 1914(大正3)年9月9日片山潜は横浜出港渡米(「自伝」年譜)、再び日本に帰ってくることはありませんでした。

 「片山氏は後にソ連におもむき、その最後はソ連から国葬の礼を受けた。しかし東洋経済新報社における氏は、率直にいって、そんな大物ではなかった。(中略)われわれは氏から直接社会主義についての議論を聞いたことはなかったが、その人物は温厚、その思想はすこぶる穏健着実で、少しも危険視すべき点はなかった。(中略)けだし当時の片山氏の思想はキリスト教社会主義に属していたものと思われる。(中略)しかるに氏に対する官憲の圧迫ははなはだしく、(中略)私は三浦氏ともしばしば語ったことであるが、片山氏を共産党に追いやったのは、全く日本の官憲であった」(石橋湛山「前掲書」)

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む31~40

片山 潜「日本の労働運動」を読む31

 1901(明治34)年7月2日の「万朝報」(「同左」36日本図書センター)紙上に社長黒岩周六の「平和なる檄文、理想的団結を作らん」と題する理想団の趣旨説明があり、同年7月20日開団式が挙行されました。発起人は内村鑑三・黒岩周六・幸徳伝次郎・堺利彦・円城寺清ら8人です。団規第一条には「理想団は団員の誓約に基き、身を正しくして人に及ぼし、以てわが社会を全体を理想に近からしむるを目的とす。」と規定しました。

 1901(明治34)年12月10日田中正造が議会開院式より帰途の天皇足尾鉱毒事件を直訴(直訴状原案 幸徳秋水執筆)したことは既に述べました(「田中正造の生涯」を読む23参照)。秋水は死を覚悟した田中正造の多年にわたる鉱毒事件との取り組みに疲れ果てた姿を見て、直訴状原案執筆依頼を断ることができなかったようです(師岡千代子「風々雨々―幸徳秋水と周囲の人々」幸徳秋水全集 別巻1 明治文献資料刊行会)。

田中正造とその郷土―田中正造(メイン)-略歴(足跡)-1901 天皇に直訴―(直訴に関する事実)  

 1903(明治36)年日露開戦を不可避とする風潮の下で、同年6月19日幸徳秋水は「開戦論の流行」と題する主張を「万朝報」(「同左」43日本図書センター)紙上に掲げ、七博士(「坂の上の雲」を読む19参照)らの戦争扇動を非難、6月30日には内村鑑三が「戦争廃止論」を掲げ、戦争不可避を主張するものを説得しました。

 ところが万朝報社内の円城寺清らはロシアの満州撤兵第3期日の同年10月8日に万朝報の開戦論への態度決定を求めました(「坂の上の雲」を読む12~13参照)。

 かくして同年10月12日幸徳秋水堺利彦(「坂に上の雲」を読む19参照)は「万朝報」([同左]45日本図書センター)紙上に次のような「退社の辞」(「坂の上の雲」を読む19参照)を発表しています。 「予等の意見を寛容したる朝報紙も、近日外交の事局切迫を覚ゆるに及び、戦争の終に避くべからざるかを思ひ、若し避くべからずとせば挙国一致当局を助けて盲進せざるべからずと為せること、是亦読者諸君の既に見らるヽ所なるべし。此に於て予等は朝報社に在って沈黙を守らざるを得ざるの地位に立てり、然れども永く沈黙して其所信を語らざるは、志士の社会に対する本分責任に於て欠くる所あるを覚ゆ、故に予等は止むを得ずして退社を乞ふに至れり。」内村鑑三のそれは別に黒岩涙香あての覚書の形式で発表されました([坂の上の雲]を読む19参照)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む32

 1903(明治36)年11月15日幸徳秋水堺利彦平民社(東京市麹町区有楽町三丁目十一番地の借家 林茂・西田長寿編「平民新聞論説集」解説 岩波文庫)を設立して週刊「平民新聞」を発刊、その宣言において非戦論と社会主義を提唱しました(「万朝報」45明治36年11月14日号広告)。

 一方社会活動の激務と生活の困窮、個人的には妻フデの死去(明治36年5月16日 片山潜「自伝」年譜)による経済的・精神的打撃により、生活立て直しとアムステルダムで開催される第2インターナショナル(「坂の上の雲」を読む21参照)第6回大会出席のため、片山潜は同年12月アメリカへ向けて横浜を出港しました(「本書」②)。平民社の設立とともに、社会主義協会の事務所も片山潜の家から平民社に移され、片山の渡米によって、我が国社会主義運動の主導権は安部磯雄片山潜から幸徳秋水堺利彦に握られるに至ったのです。

幸徳秋水を顕彰する会―幸徳秋水 各種関連資料―幡多郷土資料館にて撮影―平民新聞

 1904(明治37)年2月10日日本がロシアに宣戦布告後も平民新聞の非戦論は変化しませんでした。同年3月13日付平民新聞第18号は次のような幸徳秋水執筆の社説「与露国社会党書」(林茂・西田長寿編「平民新聞論説集」岩波文庫)を掲げました。

 「嗚呼(ああ)露国に於ける我等の同志よ、兄弟姉妹よ、我等諸君と天涯地角(天のはてと地のすみの意で、両地の遠く隔たっていること)、未だ手を一堂の上に取て快談するの機を得ざりしと雖も、而(しか)も我等の諸君を知り、諸君を想ふことや久し」という有名な文章から始まり、「諸君よ、今や日露両国の政府は各其帝国的慾望を達せんが為めに、漫(みだり)に兵火の端を開けり、然れども(中略)諸君と我等とは同志也、(中略)然り愛国主義軍国主義とは、諸君と我等の共通の敵也、」と両国同志の連帯を訴える一方で「然れども我等は一言せざる可からず、(中略)我等は憲法なく国会なき露国に於て、言論の戦闘、平和の革命の極めて困難なることを知る、而して平和を以て主義とする諸君が、其事を成すに急なるが為めに、時に干戈(かんか 武器)を取て起ち、一挙に政府を転覆するの策に出(い)でんとする者あらん乎(か)、(中略)是れ平和を求めて却(かえ)って平和を撹乱する者に非ずや、」(「本書」②)と露国社会民主労働党の武力革命も否定しない路線を批判しているのです(「坂の上の雲」を読む20参照)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む33

 週刊「平民新聞」(労働運動史研究会編「明治社会主義史料集」別冊3 明治文献資料刊行会)第19号に“TO THE SOCIALISTS IN RUSSIA”として「与露国社会党書」が英訳発表されると、各国に多大の反響を呼び、「平民新聞」同年7月24日付第37号は「露国社会党は之を見て大いに感ずる所やありけん、其の機関新聞『イスクラ』の紙上に於て之に答ふるの一文を発表したり。吾人は未だ直接に右『イスクラ』の露文に接せざれども米国新聞の英訳に依りて其全文を見るを得たり。左に之を訳載す。」と前置きして「日露両国の好戦的叫声の間に於て彼等の声を聞くは、実に彼の善美世界より来れる使者の妙音に接するの感あり」(労働運動史研究会編「前掲書」別冊4・「本書」②)とロシア社会民主労働党は「与露国社会党書」を高く評価しました(「坂の上の雲」を読む21参照)。

独学ノートー単語検索―ロシア社会民主労働党―プレハーノフ  

 しかし同党はその革命路線に対する「平民新聞」の批判に対しては「力に対するには力を以ってし、暴に抗するには暴を以ってせざるを得ず。(中略)悲しむべし、此国の上流階級は曾て道理の力に服従したる事なく、又将来然すべしと信ずべき些少の理由だも発見すること能(あた)はず。」(労働運動史研究会編「前掲書」別冊4・「本書」②)と回答、「平民新聞」は「深く露国の国情を憎み、深く彼等の境遇の非なるを悲しまざるを得ず。」と註をつけたのでした。

 同年8月14日片山潜アムステルダムで開催された第2インターナショナル第6回大会に出席、次のような万国社会党大会報告を週刊「平民新聞」(明治37年10月9日付 第48号)に掲載しました。「十四日は晴天にして(中略)当日の会長(議長)はバンコール、副会長(副議長)は露国代表者プレカノフ(プレハーノフ)氏及び小生の二人、大会の幹事ツルールストラ氏報告の演説を為し、(中略)殊に現時敵国なる日露人プレカノフ及片山両氏が此の会の副会長と成り、共に人類の為めに万国平和の為めに一室に会するは此の上なき快事にあらずやとの言下に小生とプレカノフ氏と会長の前にて握手し、露国人と日本人は友人なることを公表せしに、満堂の拍手喝采数分に及び、一旦我等は席に復したれども会衆は尚も拍手喝采を続けたるを以て、我々は再び立って握手し、以て満堂の激賛に報ゆ、」

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む34

 週刊「平民新聞」発刊のはじめ、しばらくその言論活動を見守っていた政府は次第に取り締まりを強化する方向に転じました。幸徳秋水執筆の社説「嗚呼増税」(明治37年3月27日付 平民新聞第20号・林茂・西田長寿編「前掲書」)が新聞紙条例違反に問われて発売禁止となり、発行編輯人堺利彦は軽禁錮2箇月に処せられ、巣鴨監獄に入獄、ついで石川三四郎執筆の論説「小学教師に告ぐ」(明治37年11月6日付 平民新聞第52号・林茂・西田長寿編「前掲書」)が新聞紙条例違反により、発行人西川光次郎は軽禁錮7箇月・罰金50円、印刷人幸徳秋水は軽禁錮5箇月・罰金50円に処せられ、印刷機没収となりました。

 さらに明治37年11月13日発行の平民新聞第53号は創刊1周年記念号にあたり、幸徳秋水堺利彦の英訳文重訳「共産党宣言」(岩波文庫)を掲載すると、発売禁止となり(「本書」②)、西川光次郎・幸徳秋水堺利彦は起訴されました。

独学ノートー単語検索―共産党宣言   

 つづいて同月16日社会主義協会に結社禁止命令が出されました(近代日本史料研究会編「社会主義者沿革」上 日本社会運動史料 第1集 明治文献資料刊行会)。

 このような情勢の中で「平民新聞」は発行が困難となり、同新聞は1905(明治38)年1月29日第64号(赤刷り「新ライン新聞」発禁による終刊の例にならう)で廃刊となりました。

法政大学大原社会問題研究所―公開活動―企画展示―秘蔵貴重書・書簡展示ーマルクスとその周辺―新ライン新聞  終刊号

 すでに発行されていた月刊雑誌「直言」が、1905(明治38)年2月5日週刊「平民新聞」の後継紙、週刊「直言」として創刊されました(「本書」②)。

 同年9月5日ポーツマス条約(日露講和条約)が締結されると、東京日比谷で講和条約反対国民大会が開催、政府系新聞社・交番などが焼き打ちされ、この動きは各地に拡大しました。同月6日政府は東京市及び府下5郡に戒厳令を施行(「坂の上の雲」を読む49参照)、治安妨害の新聞・雑誌の発行停止権を内務大臣に与えたので、朝日新聞・万朝報・報知新聞などとともに週刊「直言」も発行停止処分を受けました。かくして「直言」は経理上も破綻し同年9月10日付第32号で廃刊されました。

 さらに同年10月9日平民社内部の思想的(唯物論社会主義キリスト教社会主義)・感情的(堺利彦が先妻の死後1年足らずで延岡為子と結婚したことなど「直言」第31号)対立が日露戦争の終結とともに顕在化して、平民社はその歴史的役割を終え解散に至ったのです(労働運動史研究会 明治社会主義史料集 第1集「直言」解説 明治文献資料刊行会)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む35

 1905(明治38)年11月10日安部磯雄・木下尚江・石川三四郎(旭山)らキリスト教社会主義者は月刊雑誌「新紀元」を発行、これに対して同年11月20日西川光次郎・山口孤剣ら唯物論社会主義者は半月刊誌「光」を創刊しました(「明治社会主義史料集 第2~3集」)。

 同年7月28日幸徳秋水は5箇月の刑期を終了して出獄、保養のため小田原に赴き、8月10日小田原から無政府主義者アルバート・ジョンソンあて返書において次のように述べています。

『五ヵ月間の禁錮生活は甚しく私の健康を害ひましたが、しかし私はそのために社会問題に関する多くの知識を得ました。(中略)私が獄中で読みました沢山の著書の中には、(中略)特にあなたのお送り下されたラッドの「ユダヤ人及クリスチャンの神話」と、クロポトキンの「田園、工場、製作所」とは幾度となく読み返しました。(中略)事実を申せば、私は初め「マルクス」派の社会主義者として監獄に参りましたが、其の出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆(しゃば 牢獄の外の自由な世界)に立戻りました。(中略)』(「書簡」塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社) 

 この文章通り秋水が渡米以前このような思想的転換をしてしまったかどうかは疑問です(「世界革命運動の潮流」『光』16号参照)。

独学ノートー単語検索―無政府主義 

 同年11月14日秋水は多くの外国革命党の領袖を歴訪し、彼等の運動から何物かを学ぶため其の他の理由で渡米しました(塩田庄兵衛編「前掲書」)。

 他方同年12月6日社会主義者の提案で理想団・新紀元社・普通選挙同盟会・国家社会党・印刷工組合誠友会・光社ほか8団体の代表が普通選挙連合会を結成しました。1906(明治39)年2月11日普通選挙全国同志大会が開催され、「吾人は日本人民にして成年に達したるものは総(すべ)て衆議院議員の選挙権を有するを以て合理的にして且つ急務なりと信ず。仍て之れを決議す」という決議文を決定、同年2月20日山路愛山中村太八郎堺利彦らが衆議院に赴き、奥野市次郎ら議員を通じて上記決議文と普通選挙請願書を提出しました(松尾尊兊「大正デモクラシーの研究」青木書店)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む36

 1905(明治38)年12月21日第一次桂太郎(長州閥・「坂の上の雲」を読む11参照)内閣は日露講和をめぐる前記騒擾事件をきっかけとする民衆運動の高まりの中で総辞職し、元老会議を経た桂太郎の推薦により、1906(明治39)年1月7日第一次西園寺公望(1903立憲政友会総裁・「火の虚舟」を読む9参照)内閣が成立しました(「官報」)。

 西園寺公望内閣は、その成立と同時に社会主義者の団体であっても、その実際の行為を見て処置するとの方針を決定しました(立命館大学編「西園寺公望伝」第3巻 岩波書店)。

 同年1月14日西川光次郎らは日本平民党を、同月28日には堺利彦らが日本社会党を結成、結社届は受理されました。そこで同年2月24日両党合同の日本社会党第1回大会が開催され、党則の起草は評議員に一任、堺利彦片山潜・西川光次郎・森近運平・田添鉄二(「日本の労働運動」を読む39参照)ら13人の評議員を選出、さらにその中から堺利彦・西川光次郎・森近運平ら3名が常任幹事に選ばれました。2月27日評議員会で決定された党則第1条は「本党ハ国法ノ範囲内ニ於テ社会主義ヲ主張ス」と規定しています(近代日本史料研究会編「社会主義者沿革」上 日本社会運動史料 第1集 明治文献資料刊行会)。評議員に選出された片山潜は同年1月18日アメリカから帰国していたのです(片山潜「自伝」年譜)。同党には安部磯雄・木下尚江・石川三四郎ら「新紀元」派のキリスト教社会主義者や渡米中の幸徳秋水も参加していませんでした。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む37

 結党直後の日本社会党が直面した問題は東京市電運賃値上げ反対運動でした。当時東京市電は東京市街鉄道(街鉄)・東京電車鉄道(東電)・東京電気鉄道(外濠)の3社が経営していましたが、この3社が共同で3銭の運賃を5銭に値上げしようとしたため、1906(明治39)年3月11日日本社会党は前年8月結党の山路愛山中村太八郎らの国家社会党と共同で日比谷公園において東京市電値上げ反対市民大会を開催、雨天にもかかわらず参加者があり、同年3月15日の第二市民大会には多数の参加者がありました(木下尚江「嗚呼三月十一日」『新紀元』第6号)。

写真紀行・旅おりおりー史跡を訪ねるー墓地・終焉の地―やー山路愛山

 しかるに散会後、大衆の一部は「電車賃値上げ反対、日本社会党」と大書した赤旗数流を掲げて示威行進、その際に電車会社・電車・市役所などに投石したものがあり、警視庁は兇徒嘨集罪で日本社会党の西川光次郎・山口孤剣・大杉栄らを逮捕起訴しましたが(辻野功「前掲書」)、同年3月23日内務大臣原敬(「田中正造の生涯」を読む28参照)は3社の値上げ申請を却下しました。

静岡東方見聞録―ようこそ静岡市へー歴史散歩―アナーキスト大杉栄、静かに眠るー大杉栄(1885-1923)

 ところが同年6月28日3社は合併して再び内務大臣に値上げ申請、内務大臣は9月11日から乗車料金を3銭から4銭に値上げを認め、通行税を含めて5銭とすることで許可を下したのです。

 日本社会党は国家社会党新紀元社とも提携して乗車ボイコット運動を呼び掛け、9月5日には本郷座で電車賃値上げ反対市民大会を開催、また日比谷公園でも市民大会が開かれました。9月5日から7日にかけて3夜で破損した電車は54台、8日の朝までに器物損壊・電車妨害の罪で検挙されたものは94名に達しました(辻野功「前掲書」)。

 それでも東京市電運賃値上げ反対運動は成功しませんでしたし、民衆の一部が暴動化したのは遺憾ですが、日本社会党が他の勢力と協力して公然と大衆運動を組織することに成功した意義は高く評価されるべきでしょう。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む38

 1905(明治38)年11月29日幸徳秋水はシャトルに到着、12月5日サンフランシスコに入り、同月10日アルバート・ジョンソンの紹介で社会革命党系のロシア亡命者フリッチ夫人の許に下宿することになりました。12月17日フリッチ夫人は普通選挙の無用を、同月23日彼女は治者暗殺のことを論じました(「渡米日記」塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社)。

 1906(明治39)年4月18日サンフランシスコで大地震が発生しましたが、秋水は此の時の経験を次のように述べています。

 「去る十八日以来、桑港全市は全く無政府的共産制(Anarchist Communism)の状態に在る。商業は総て閉止、郵便、鉄道、汽船(附近への)総て無賃、食料は毎日救助委員より頒与する、食料の運搬や、病人負傷者の収容介抱や、焼迹の片付や、避難所の造営や、総て壮丁が義務的に働く、買ふと云っても商品が無いので、金銭は全く無用の物となった、財産私有は全く消滅した、面白いではないか、」(「無政府共産制の実現(桑港)4月24日」「光」第13号 明治39年5月20日)

防災システム研究所―サンフランシスコ地震の教訓 

 同年6月23日幸徳秋水は横浜に入港、6月28日神田錦輝館における日本社会党演説会で「世界革命運動の潮流」(要旨「光」第16号)と題して議会主義か、直接行動かの問題を次のように提示したのです。

 「将来革命の手段として欧米同志の執らんとする所は、(中略)唯だ労働者全体が手を拱して何事も為さヾること、数日若くは数週、若くば数月なれば即ち足れり、而して社会一切の生産交通機関の運転を停止せば即ち足れり、換言すれば所謂総同盟罷工を行ふに在るのみ。」と世界革命運動の潮流を述べ、さらに日本のそれについて「我日本の社会党も、従来議会政策を以て其主なる運動方針となし、普通選挙の実行を以て其第一着の事業となせり、(中略)然れども予は去年獄中に在りて少しく読書と考慮とを費せるの結果、私かに所謂議会政策の効果如何を疑ひしが、後ち在米の各国同志と相見るに及びて、果然彼等の運動方針が、一大変転の機に際せるを感ぜり。」と議会政策への疑念を表明したのですが、「予は今日本の国情に疎なり、敢て軽々しく断ずるを得ず、(中略)諸君乞う指教を吝まざれ」と結論を保留しました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む39

 かかる幸徳秋水の主張に対して、従来の普通選挙運動を重視する議会政策派田添鉄二・片山潜・西川光次郎らは対抗して論陣を展開、両派の対立は激化しました。

 議会政策派の一人片山潜は1906(明治39)年8月第3回の渡米で日本におらず、同派の中心的論客となったのは田添鉄二です。

 彼は1875(明治8)年7月24日、熊本県飽託(ほうたく)郡中緑村の生まれで、熊本英学校や長崎の鎮西学院などのキリスト教主義学校に学び、1892(明治25)年日本メソジスト熊本教会で受洗しました。 1898(明治31)年渡米、ベーカー大学からシカゴ大学に移り社会学を専攻しました。大学での講義のほかに彼が影響をうけたのはシカゴ市街頭にいつも見られる政治家と市民の街頭討論会でした。

 1900(明治33)年帰国、「長崎絵入新聞」主筆となり、やがて「鎮西日報」に移りましたが、社主と意見が合わず、1904(明治37)年上京、私塾を開き英語を教授していました。

 彼は著書「経済進化論」を平民文庫として出版したことから平民社と接触して社会主義運動に加わるようになり、平民社解散後は主として「新紀元」を応援しました。日本社会党が結成されると、評議員に選出され、同党議会政策派の理論的指導者となるに至ったのです(岡本宏「田添鉄二:明治社会主義の知性」岩波新書)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む40

 1906(明治39)年10月25日発行の「光」第25号は日本社会党平民社を再建、1907(明治40)年1月中旬機関紙日刊「平民新聞」を発行することを声明、「光」は明治39年12月25日発行の「光」第31号をもって廃刊、「新紀元」派の安部磯雄石川三四郎らも日刊「平民新聞」を応援しましたが、木下尚江は社会主義を捨て、伊香保に隠棲して宗教的著述に専念する姿勢をとりました(年譜「木下尚江全集」第19巻 教文館)。

 かくして1907(明治40)年1月15日創刊された日刊「平民新聞」において、幸徳秋水が『余は正直に告白する、「彼の普通選挙や議会政策では真個の社会的革命を成遂げることは到底出来ぬ、社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動(ヂレクト、アクション)に依る外はない」、余が現時の思想は実に如此(かくのごと)くである

』(「余が思想の変化」日刊「平民新聞」第16号 明治40年2月5日・「平民新聞論説集」岩波文庫)と持論の直接行動論を主張しました。

 これに対して田添鉄二は「今日まで社会改革に志す人々の往々陥り易き短所は、社会の革命を以て、一活劇の下に実現し得るという思想である、(中略)即ち社会全体の進化其物には些(さ)の考慮を払わないで、個人の力、団体の力を神の如くに過信する思想である。」と直接行動派を批判、「社会は人為の創造でなく自(おのずか)らなる進化である。革命とは、即ち此自らなる社会進化作用を指して云ふたのである。(中略)最近四十余年間に於ける日本を顧みよ、吾人は欧米人が数百年を要せし社会革命を四十余年間に成し遂げたのである。(中略)故に吾人が社会の進化革命に向って為し能(あた)ふ事は、即ち新社会を神の如くに創造するといふことでなく、(中略)全く社会進化の動力を利導促進するといふことに止まるのである。」と革命を進化論的に理解し、「吾人の往くべき道は、なるべく犠牲少なくして効果の大なる所を選ばねばならぬ、(中略)予は飽くまでも日本社会党運動の常道として、左の方針を取りたいとおもふ。」として「①平民階級の教育 階級的自覚の喚起 ②平民階級の経済的団結運動 ③平民階級の政治的団結運動 ④議会政策」の諸政策を提示しました(「議会政策論」」日刊「平民新聞」第24・25号 明治40年2月14~15日・「平民新聞論説集」岩波文庫)。