片山 潜「日本の労働運動」を読む31~40

片山 潜「日本の労働運動」を読む31

 1901(明治34)年7月2日の「万朝報」(「同左」36日本図書センター)紙上に社長黒岩周六の「平和なる檄文、理想的団結を作らん」と題する理想団の趣旨説明があり、同年7月20日開団式が挙行されました。発起人は内村鑑三・黒岩周六・幸徳伝次郎・堺利彦・円城寺清ら8人です。団規第一条には「理想団は団員の誓約に基き、身を正しくして人に及ぼし、以てわが社会を全体を理想に近からしむるを目的とす。」と規定しました。

 1901(明治34)年12月10日田中正造が議会開院式より帰途の天皇足尾鉱毒事件を直訴(直訴状原案 幸徳秋水執筆)したことは既に述べました(「田中正造の生涯」を読む23参照)。秋水は死を覚悟した田中正造の多年にわたる鉱毒事件との取り組みに疲れ果てた姿を見て、直訴状原案執筆依頼を断ることができなかったようです(師岡千代子「風々雨々―幸徳秋水と周囲の人々」幸徳秋水全集 別巻1 明治文献資料刊行会)。

田中正造とその郷土―田中正造(メイン)-略歴(足跡)-1901 天皇に直訴―(直訴に関する事実)  

 1903(明治36)年日露開戦を不可避とする風潮の下で、同年6月19日幸徳秋水は「開戦論の流行」と題する主張を「万朝報」(「同左」43日本図書センター)紙上に掲げ、七博士(「坂の上の雲」を読む19参照)らの戦争扇動を非難、6月30日には内村鑑三が「戦争廃止論」を掲げ、戦争不可避を主張するものを説得しました。

 ところが万朝報社内の円城寺清らはロシアの満州撤兵第3期日の同年10月8日に万朝報の開戦論への態度決定を求めました(「坂の上の雲」を読む12~13参照)。

 かくして同年10月12日幸徳秋水堺利彦(「坂に上の雲」を読む19参照)は「万朝報」([同左]45日本図書センター)紙上に次のような「退社の辞」(「坂の上の雲」を読む19参照)を発表しています。 「予等の意見を寛容したる朝報紙も、近日外交の事局切迫を覚ゆるに及び、戦争の終に避くべからざるかを思ひ、若し避くべからずとせば挙国一致当局を助けて盲進せざるべからずと為せること、是亦読者諸君の既に見らるヽ所なるべし。此に於て予等は朝報社に在って沈黙を守らざるを得ざるの地位に立てり、然れども永く沈黙して其所信を語らざるは、志士の社会に対する本分責任に於て欠くる所あるを覚ゆ、故に予等は止むを得ずして退社を乞ふに至れり。」内村鑑三のそれは別に黒岩涙香あての覚書の形式で発表されました([坂の上の雲]を読む19参照)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む32

 1903(明治36)年11月15日幸徳秋水堺利彦平民社(東京市麹町区有楽町三丁目十一番地の借家 林茂・西田長寿編「平民新聞論説集」解説 岩波文庫)を設立して週刊「平民新聞」を発刊、その宣言において非戦論と社会主義を提唱しました(「万朝報」45明治36年11月14日号広告)。

 一方社会活動の激務と生活の困窮、個人的には妻フデの死去(明治36年5月16日 片山潜「自伝」年譜)による経済的・精神的打撃により、生活立て直しとアムステルダムで開催される第2インターナショナル(「坂の上の雲」を読む21参照)第6回大会出席のため、片山潜は同年12月アメリカへ向けて横浜を出港しました(「本書」②)。平民社の設立とともに、社会主義協会の事務所も片山潜の家から平民社に移され、片山の渡米によって、我が国社会主義運動の主導権は安部磯雄片山潜から幸徳秋水堺利彦に握られるに至ったのです。

幸徳秋水を顕彰する会―幸徳秋水 各種関連資料―幡多郷土資料館にて撮影―平民新聞

 1904(明治37)年2月10日日本がロシアに宣戦布告後も平民新聞の非戦論は変化しませんでした。同年3月13日付平民新聞第18号は次のような幸徳秋水執筆の社説「与露国社会党書」(林茂・西田長寿編「平民新聞論説集」岩波文庫)を掲げました。

 「嗚呼(ああ)露国に於ける我等の同志よ、兄弟姉妹よ、我等諸君と天涯地角(天のはてと地のすみの意で、両地の遠く隔たっていること)、未だ手を一堂の上に取て快談するの機を得ざりしと雖も、而(しか)も我等の諸君を知り、諸君を想ふことや久し」という有名な文章から始まり、「諸君よ、今や日露両国の政府は各其帝国的慾望を達せんが為めに、漫(みだり)に兵火の端を開けり、然れども(中略)諸君と我等とは同志也、(中略)然り愛国主義軍国主義とは、諸君と我等の共通の敵也、」と両国同志の連帯を訴える一方で「然れども我等は一言せざる可からず、(中略)我等は憲法なく国会なき露国に於て、言論の戦闘、平和の革命の極めて困難なることを知る、而して平和を以て主義とする諸君が、其事を成すに急なるが為めに、時に干戈(かんか 武器)を取て起ち、一挙に政府を転覆するの策に出(い)でんとする者あらん乎(か)、(中略)是れ平和を求めて却(かえ)って平和を撹乱する者に非ずや、」(「本書」②)と露国社会民主労働党の武力革命も否定しない路線を批判しているのです(「坂の上の雲」を読む20参照)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む33

 週刊「平民新聞」(労働運動史研究会編「明治社会主義史料集」別冊3 明治文献資料刊行会)第19号に“TO THE SOCIALISTS IN RUSSIA”として「与露国社会党書」が英訳発表されると、各国に多大の反響を呼び、「平民新聞」同年7月24日付第37号は「露国社会党は之を見て大いに感ずる所やありけん、其の機関新聞『イスクラ』の紙上に於て之に答ふるの一文を発表したり。吾人は未だ直接に右『イスクラ』の露文に接せざれども米国新聞の英訳に依りて其全文を見るを得たり。左に之を訳載す。」と前置きして「日露両国の好戦的叫声の間に於て彼等の声を聞くは、実に彼の善美世界より来れる使者の妙音に接するの感あり」(労働運動史研究会編「前掲書」別冊4・「本書」②)とロシア社会民主労働党は「与露国社会党書」を高く評価しました(「坂の上の雲」を読む21参照)。

独学ノートー単語検索―ロシア社会民主労働党―プレハーノフ  

 しかし同党はその革命路線に対する「平民新聞」の批判に対しては「力に対するには力を以ってし、暴に抗するには暴を以ってせざるを得ず。(中略)悲しむべし、此国の上流階級は曾て道理の力に服従したる事なく、又将来然すべしと信ずべき些少の理由だも発見すること能(あた)はず。」(労働運動史研究会編「前掲書」別冊4・「本書」②)と回答、「平民新聞」は「深く露国の国情を憎み、深く彼等の境遇の非なるを悲しまざるを得ず。」と註をつけたのでした。

 同年8月14日片山潜アムステルダムで開催された第2インターナショナル第6回大会に出席、次のような万国社会党大会報告を週刊「平民新聞」(明治37年10月9日付 第48号)に掲載しました。「十四日は晴天にして(中略)当日の会長(議長)はバンコール、副会長(副議長)は露国代表者プレカノフ(プレハーノフ)氏及び小生の二人、大会の幹事ツルールストラ氏報告の演説を為し、(中略)殊に現時敵国なる日露人プレカノフ及片山両氏が此の会の副会長と成り、共に人類の為めに万国平和の為めに一室に会するは此の上なき快事にあらずやとの言下に小生とプレカノフ氏と会長の前にて握手し、露国人と日本人は友人なることを公表せしに、満堂の拍手喝采数分に及び、一旦我等は席に復したれども会衆は尚も拍手喝采を続けたるを以て、我々は再び立って握手し、以て満堂の激賛に報ゆ、」

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む34

 週刊「平民新聞」発刊のはじめ、しばらくその言論活動を見守っていた政府は次第に取り締まりを強化する方向に転じました。幸徳秋水執筆の社説「嗚呼増税」(明治37年3月27日付 平民新聞第20号・林茂・西田長寿編「前掲書」)が新聞紙条例違反に問われて発売禁止となり、発行編輯人堺利彦は軽禁錮2箇月に処せられ、巣鴨監獄に入獄、ついで石川三四郎執筆の論説「小学教師に告ぐ」(明治37年11月6日付 平民新聞第52号・林茂・西田長寿編「前掲書」)が新聞紙条例違反により、発行人西川光次郎は軽禁錮7箇月・罰金50円、印刷人幸徳秋水は軽禁錮5箇月・罰金50円に処せられ、印刷機没収となりました。

 さらに明治37年11月13日発行の平民新聞第53号は創刊1周年記念号にあたり、幸徳秋水堺利彦の英訳文重訳「共産党宣言」(岩波文庫)を掲載すると、発売禁止となり(「本書」②)、西川光次郎・幸徳秋水堺利彦は起訴されました。

独学ノートー単語検索―共産党宣言   

 つづいて同月16日社会主義協会に結社禁止命令が出されました(近代日本史料研究会編「社会主義者沿革」上 日本社会運動史料 第1集 明治文献資料刊行会)。

 このような情勢の中で「平民新聞」は発行が困難となり、同新聞は1905(明治38)年1月29日第64号(赤刷り「新ライン新聞」発禁による終刊の例にならう)で廃刊となりました。

法政大学大原社会問題研究所―公開活動―企画展示―秘蔵貴重書・書簡展示ーマルクスとその周辺―新ライン新聞  終刊号

 すでに発行されていた月刊雑誌「直言」が、1905(明治38)年2月5日週刊「平民新聞」の後継紙、週刊「直言」として創刊されました(「本書」②)。

 同年9月5日ポーツマス条約(日露講和条約)が締結されると、東京日比谷で講和条約反対国民大会が開催、政府系新聞社・交番などが焼き打ちされ、この動きは各地に拡大しました。同月6日政府は東京市及び府下5郡に戒厳令を施行(「坂の上の雲」を読む49参照)、治安妨害の新聞・雑誌の発行停止権を内務大臣に与えたので、朝日新聞・万朝報・報知新聞などとともに週刊「直言」も発行停止処分を受けました。かくして「直言」は経理上も破綻し同年9月10日付第32号で廃刊されました。

 さらに同年10月9日平民社内部の思想的(唯物論社会主義キリスト教社会主義)・感情的(堺利彦が先妻の死後1年足らずで延岡為子と結婚したことなど「直言」第31号)対立が日露戦争の終結とともに顕在化して、平民社はその歴史的役割を終え解散に至ったのです(労働運動史研究会 明治社会主義史料集 第1集「直言」解説 明治文献資料刊行会)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む35

 1905(明治38)年11月10日安部磯雄・木下尚江・石川三四郎(旭山)らキリスト教社会主義者は月刊雑誌「新紀元」を発行、これに対して同年11月20日西川光次郎・山口孤剣ら唯物論社会主義者は半月刊誌「光」を創刊しました(「明治社会主義史料集 第2~3集」)。

 同年7月28日幸徳秋水は5箇月の刑期を終了して出獄、保養のため小田原に赴き、8月10日小田原から無政府主義者アルバート・ジョンソンあて返書において次のように述べています。

『五ヵ月間の禁錮生活は甚しく私の健康を害ひましたが、しかし私はそのために社会問題に関する多くの知識を得ました。(中略)私が獄中で読みました沢山の著書の中には、(中略)特にあなたのお送り下されたラッドの「ユダヤ人及クリスチャンの神話」と、クロポトキンの「田園、工場、製作所」とは幾度となく読み返しました。(中略)事実を申せば、私は初め「マルクス」派の社会主義者として監獄に参りましたが、其の出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆(しゃば 牢獄の外の自由な世界)に立戻りました。(中略)』(「書簡」塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社) 

 この文章通り秋水が渡米以前このような思想的転換をしてしまったかどうかは疑問です(「世界革命運動の潮流」『光』16号参照)。

独学ノートー単語検索―無政府主義 

 同年11月14日秋水は多くの外国革命党の領袖を歴訪し、彼等の運動から何物かを学ぶため其の他の理由で渡米しました(塩田庄兵衛編「前掲書」)。

 他方同年12月6日社会主義者の提案で理想団・新紀元社・普通選挙同盟会・国家社会党・印刷工組合誠友会・光社ほか8団体の代表が普通選挙連合会を結成しました。1906(明治39)年2月11日普通選挙全国同志大会が開催され、「吾人は日本人民にして成年に達したるものは総(すべ)て衆議院議員の選挙権を有するを以て合理的にして且つ急務なりと信ず。仍て之れを決議す」という決議文を決定、同年2月20日山路愛山中村太八郎堺利彦らが衆議院に赴き、奥野市次郎ら議員を通じて上記決議文と普通選挙請願書を提出しました(松尾尊兊「大正デモクラシーの研究」青木書店)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む36

 1905(明治38)年12月21日第一次桂太郎(長州閥・「坂の上の雲」を読む11参照)内閣は日露講和をめぐる前記騒擾事件をきっかけとする民衆運動の高まりの中で総辞職し、元老会議を経た桂太郎の推薦により、1906(明治39)年1月7日第一次西園寺公望(1903立憲政友会総裁・「火の虚舟」を読む9参照)内閣が成立しました(「官報」)。

 西園寺公望内閣は、その成立と同時に社会主義者の団体であっても、その実際の行為を見て処置するとの方針を決定しました(立命館大学編「西園寺公望伝」第3巻 岩波書店)。

 同年1月14日西川光次郎らは日本平民党を、同月28日には堺利彦らが日本社会党を結成、結社届は受理されました。そこで同年2月24日両党合同の日本社会党第1回大会が開催され、党則の起草は評議員に一任、堺利彦片山潜・西川光次郎・森近運平・田添鉄二(「日本の労働運動」を読む39参照)ら13人の評議員を選出、さらにその中から堺利彦・西川光次郎・森近運平ら3名が常任幹事に選ばれました。2月27日評議員会で決定された党則第1条は「本党ハ国法ノ範囲内ニ於テ社会主義ヲ主張ス」と規定しています(近代日本史料研究会編「社会主義者沿革」上 日本社会運動史料 第1集 明治文献資料刊行会)。評議員に選出された片山潜は同年1月18日アメリカから帰国していたのです(片山潜「自伝」年譜)。同党には安部磯雄・木下尚江・石川三四郎ら「新紀元」派のキリスト教社会主義者や渡米中の幸徳秋水も参加していませんでした。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む37

 結党直後の日本社会党が直面した問題は東京市電運賃値上げ反対運動でした。当時東京市電は東京市街鉄道(街鉄)・東京電車鉄道(東電)・東京電気鉄道(外濠)の3社が経営していましたが、この3社が共同で3銭の運賃を5銭に値上げしようとしたため、1906(明治39)年3月11日日本社会党は前年8月結党の山路愛山中村太八郎らの国家社会党と共同で日比谷公園において東京市電値上げ反対市民大会を開催、雨天にもかかわらず参加者があり、同年3月15日の第二市民大会には多数の参加者がありました(木下尚江「嗚呼三月十一日」『新紀元』第6号)。

写真紀行・旅おりおりー史跡を訪ねるー墓地・終焉の地―やー山路愛山

 しかるに散会後、大衆の一部は「電車賃値上げ反対、日本社会党」と大書した赤旗数流を掲げて示威行進、その際に電車会社・電車・市役所などに投石したものがあり、警視庁は兇徒嘨集罪で日本社会党の西川光次郎・山口孤剣・大杉栄らを逮捕起訴しましたが(辻野功「前掲書」)、同年3月23日内務大臣原敬(「田中正造の生涯」を読む28参照)は3社の値上げ申請を却下しました。

静岡東方見聞録―ようこそ静岡市へー歴史散歩―アナーキスト大杉栄、静かに眠るー大杉栄(1885-1923)

 ところが同年6月28日3社は合併して再び内務大臣に値上げ申請、内務大臣は9月11日から乗車料金を3銭から4銭に値上げを認め、通行税を含めて5銭とすることで許可を下したのです。

 日本社会党は国家社会党新紀元社とも提携して乗車ボイコット運動を呼び掛け、9月5日には本郷座で電車賃値上げ反対市民大会を開催、また日比谷公園でも市民大会が開かれました。9月5日から7日にかけて3夜で破損した電車は54台、8日の朝までに器物損壊・電車妨害の罪で検挙されたものは94名に達しました(辻野功「前掲書」)。

 それでも東京市電運賃値上げ反対運動は成功しませんでしたし、民衆の一部が暴動化したのは遺憾ですが、日本社会党が他の勢力と協力して公然と大衆運動を組織することに成功した意義は高く評価されるべきでしょう。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む38

 1905(明治38)年11月29日幸徳秋水はシャトルに到着、12月5日サンフランシスコに入り、同月10日アルバート・ジョンソンの紹介で社会革命党系のロシア亡命者フリッチ夫人の許に下宿することになりました。12月17日フリッチ夫人は普通選挙の無用を、同月23日彼女は治者暗殺のことを論じました(「渡米日記」塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社)。

 1906(明治39)年4月18日サンフランシスコで大地震が発生しましたが、秋水は此の時の経験を次のように述べています。

 「去る十八日以来、桑港全市は全く無政府的共産制(Anarchist Communism)の状態に在る。商業は総て閉止、郵便、鉄道、汽船(附近への)総て無賃、食料は毎日救助委員より頒与する、食料の運搬や、病人負傷者の収容介抱や、焼迹の片付や、避難所の造営や、総て壮丁が義務的に働く、買ふと云っても商品が無いので、金銭は全く無用の物となった、財産私有は全く消滅した、面白いではないか、」(「無政府共産制の実現(桑港)4月24日」「光」第13号 明治39年5月20日)

防災システム研究所―サンフランシスコ地震の教訓 

 同年6月23日幸徳秋水は横浜に入港、6月28日神田錦輝館における日本社会党演説会で「世界革命運動の潮流」(要旨「光」第16号)と題して議会主義か、直接行動かの問題を次のように提示したのです。

 「将来革命の手段として欧米同志の執らんとする所は、(中略)唯だ労働者全体が手を拱して何事も為さヾること、数日若くは数週、若くば数月なれば即ち足れり、而して社会一切の生産交通機関の運転を停止せば即ち足れり、換言すれば所謂総同盟罷工を行ふに在るのみ。」と世界革命運動の潮流を述べ、さらに日本のそれについて「我日本の社会党も、従来議会政策を以て其主なる運動方針となし、普通選挙の実行を以て其第一着の事業となせり、(中略)然れども予は去年獄中に在りて少しく読書と考慮とを費せるの結果、私かに所謂議会政策の効果如何を疑ひしが、後ち在米の各国同志と相見るに及びて、果然彼等の運動方針が、一大変転の機に際せるを感ぜり。」と議会政策への疑念を表明したのですが、「予は今日本の国情に疎なり、敢て軽々しく断ずるを得ず、(中略)諸君乞う指教を吝まざれ」と結論を保留しました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む39

 かかる幸徳秋水の主張に対して、従来の普通選挙運動を重視する議会政策派田添鉄二・片山潜・西川光次郎らは対抗して論陣を展開、両派の対立は激化しました。

 議会政策派の一人片山潜は1906(明治39)年8月第3回の渡米で日本におらず、同派の中心的論客となったのは田添鉄二です。

 彼は1875(明治8)年7月24日、熊本県飽託(ほうたく)郡中緑村の生まれで、熊本英学校や長崎の鎮西学院などのキリスト教主義学校に学び、1892(明治25)年日本メソジスト熊本教会で受洗しました。 1898(明治31)年渡米、ベーカー大学からシカゴ大学に移り社会学を専攻しました。大学での講義のほかに彼が影響をうけたのはシカゴ市街頭にいつも見られる政治家と市民の街頭討論会でした。

 1900(明治33)年帰国、「長崎絵入新聞」主筆となり、やがて「鎮西日報」に移りましたが、社主と意見が合わず、1904(明治37)年上京、私塾を開き英語を教授していました。

 彼は著書「経済進化論」を平民文庫として出版したことから平民社と接触して社会主義運動に加わるようになり、平民社解散後は主として「新紀元」を応援しました。日本社会党が結成されると、評議員に選出され、同党議会政策派の理論的指導者となるに至ったのです(岡本宏「田添鉄二:明治社会主義の知性」岩波新書)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む40

 1906(明治39)年10月25日発行の「光」第25号は日本社会党平民社を再建、1907(明治40)年1月中旬機関紙日刊「平民新聞」を発行することを声明、「光」は明治39年12月25日発行の「光」第31号をもって廃刊、「新紀元」派の安部磯雄石川三四郎らも日刊「平民新聞」を応援しましたが、木下尚江は社会主義を捨て、伊香保に隠棲して宗教的著述に専念する姿勢をとりました(年譜「木下尚江全集」第19巻 教文館)。

 かくして1907(明治40)年1月15日創刊された日刊「平民新聞」において、幸徳秋水が『余は正直に告白する、「彼の普通選挙や議会政策では真個の社会的革命を成遂げることは到底出来ぬ、社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動(ヂレクト、アクション)に依る外はない」、余が現時の思想は実に如此(かくのごと)くである

』(「余が思想の変化」日刊「平民新聞」第16号 明治40年2月5日・「平民新聞論説集」岩波文庫)と持論の直接行動論を主張しました。

 これに対して田添鉄二は「今日まで社会改革に志す人々の往々陥り易き短所は、社会の革命を以て、一活劇の下に実現し得るという思想である、(中略)即ち社会全体の進化其物には些(さ)の考慮を払わないで、個人の力、団体の力を神の如くに過信する思想である。」と直接行動派を批判、「社会は人為の創造でなく自(おのずか)らなる進化である。革命とは、即ち此自らなる社会進化作用を指して云ふたのである。(中略)最近四十余年間に於ける日本を顧みよ、吾人は欧米人が数百年を要せし社会革命を四十余年間に成し遂げたのである。(中略)故に吾人が社会の進化革命に向って為し能(あた)ふ事は、即ち新社会を神の如くに創造するといふことでなく、(中略)全く社会進化の動力を利導促進するといふことに止まるのである。」と革命を進化論的に理解し、「吾人の往くべき道は、なるべく犠牲少なくして効果の大なる所を選ばねばならぬ、(中略)予は飽くまでも日本社会党運動の常道として、左の方針を取りたいとおもふ。」として「①平民階級の教育 階級的自覚の喚起 ②平民階級の経済的団結運動 ③平民階級の政治的団結運動 ④議会政策」の諸政策を提示しました(「議会政策論」」日刊「平民新聞」第24・25号 明治40年2月14~15日・「平民新聞論説集」岩波文庫)。