鈴木文治「労働運動二十年」を読む21~30

鈴木文治「労働運動二十年」を読む21

 1920(大正9)年5月2日(日曜日)日本最初のメーデーが上野公園で開催され、参加者1万人余、鈴木文治は開会の辞で『諸君、この記念すべき日に於て、我等日本の労働者も、世界各国の労働者も共に叫びませう、曰く万国の労働者団結せよ』と結びました。つづいて治安警察法第17条撤廃・失業防止・最低賃金法設定の3要求を決議(「日本労働年鑑」1921年版 1921年版 大原社会問題研究所)、解散後示威運動に移りましたが警官隊がこれを阻止したため乱闘となり、鈴木文治もこの日はじめて警官隊と格闘しました(「労働運動二十年」)。

Weblio辞書―検索―メーデー  

 同年5月16日友愛会・信友会・啓明会などメーデー参加組合は労働組合同盟会を結成しました(「日本労働年鑑」大原社会問題研究所)が、中央集権的な組合主義をとる友愛会大杉栄(「日本の労働運動」を読む37参照)らアナーキスト無政府主義者・「日本の労働運動」を読む35参照)系の指導者の影響下にある信友会のような自由連合的なサンジカリズム(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造18参照)の立場にたつ勢力を含み、一枚岩の団結には程遠い存在でした。そのためこの同盟会は翌年6月友愛会の脱退で分裂しました。

 同年7月14日友愛会加入の紡績労働組合は富士紡績押上工場に組合(団結権)の承認を求めて罷業に入りましたが組合側は敗北[「労働」(1920年「労働及産業」改名)9巻9号 「労働」(1)日本社会運動史料 機関紙誌篇 法政大学出版局]、友愛会婦人部も大打撃をうけました。

 同年11月29日長崎県香焼炭坑(長崎港沖の孤島)で解雇組合員の復職を要求して坑夫が罷業開始、12月1日坑夫200人が事務所を破壊、75人が検挙され友愛会系の坑夫組合「工友会」は壊滅しました(「鉱山労働者」2巻1号 全日本鉱夫総連合会)。

  1921(大正10)年1月12日足立機械製作所争議で工場閉鎖、全員解雇に憤慨した組合員が工場主を殴打、機械を破壊する行動に出たため40余名が投獄されました[「労働」10巻3号 「労働」(1)]。

 上述のようなサンジカリズムの弊害が目立つようになると、棚橋小虎(友愛会東京連合会主事)は論文「労働組合へ帰れ」を発表して次のように呼びかけました。「直接行動とは、警官と小ぜり合ひをして、一ト晩警察に止められたり、禁止の革命歌を高唱して大道を歩く事ではあるまい。(中略)真実に労働者の地位を向上させる事のできる直接行動は、労働者の大々的団結を必要とする、強大勇猛な労働組合が必要だ。(中略)警察官と格闘する一人の勇士よりも、穏かな百人の人が団結した一つの労働組合がどれ丈け資本家にとって、権力者にとって恐ろしいか」(「労働」大正10年1月号)

 しかし同年4月2日足尾銅山坑夫が団結権承認など8要求を提出したところ、4月8日活動家337人が解雇され、組合は怠業・罷業・示威などで対抗、4月18日解決(「鉱山労働者」2巻5号 全日本鉱夫総連合会)しましたが、その解決条件に坑夫の一部が不満で、棚橋論文への反発と結びついてインテリ指導者排撃の動きがおこり、同年7月棚橋は失脚しました((吉田千代「前掲書」)。

Weblio辞書―検索―棚橋小虎  

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む22

 戦後恐慌下の造船・鉄鋼業はワシントン軍縮会議(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24参照)によっても大きな打撃となりました。同年6月25日三菱内燃機株式会社神戸工場の職工は賃上げ外9項目の嘆願書を会社に提出、発動機工場・機械工場・艤装工場の職工もこれに同調して怠業に入り、友愛会に加盟、これに対して会社側は首謀者の解雇を申し渡しました。同地区の川崎造船所でも6月27日支給の賞与が昨年末のそれよりも少額であることに不満で、同月29日電気工作部900名は怠業を開始、7月2日同工作部は電気工組合「電正会」を結成して工場委員制度の採用・賃上げ外6カ条の要求を会社に提出しました。同造船所側は首謀者を解雇したので労働者たちは怠業を開始、同造船所本社工場に被解雇者を擁してなだれ込んだとき、暴力団「片福組」支配下にある一団が青たすきをかけ、棍棒や匕首をもって労働者たちの中へ殴り込みをかけ、事態はさらに悪化しました。

 7月10日には神戸労働組合連合団主催で三菱・川崎両造船所と神戸印刷工組合・東神鉄工組合その他友愛会所属組合員をあわせた30000人の大示威運動が行われました。

 同年7月12日川崎争議団は工場管理を宣言したため、知事は軍隊の派遣を要請、姫路師団第39連隊の歩兵1個大隊が出動してきました。

 やがて両社とも多数の解雇者を発表、脱落組合が出始め、7月28日市中デモを禁じられた組合員は湊川神社に集まり祈願文を読み上げ、同月29日生田神社にも参拝がおこなわれましたが、その帰途デモが自然発生、騎馬巡査や抜剣した巡査が群衆の中に突っ込み、巡査のサーベルに突き刺された死亡者がでたほどでした。同日夕刻警察は三菱・川崎争議団本部及び友愛会神戸連合会を襲って賀川豊彦ら200余人の指導者を検挙しました。

 争議団幹部総検束の急報に接した鈴木文治は自ら総指揮に当たるため7月30日列車で神戸に向かいました。翌日朝神戸に到着した彼は争議団最高顧問となり、西尾末広松岡駒吉・木村錠吉3名を参謀として最高首脳部を形成、友愛会神戸連合会を総本部として陣容をたてなおしたのです。

history of modern japan―日本近現代史研究―人物に関するデータベースーにー西尾末広

  しかし争議敗北の大勢は覆いがたく、同年8月12日争議団は「惨敗宣言」を発し、40日に及ぶ大争議は終結しました(大前朔郎・池田信「日本労働運動史論」日本評論社・「労働運動二十年」)。

 同年9月友愛会機関紙は「「日本労働運動の転期」と題して次のように述べています「こんどの争議(神戸の三菱・川崎造船所の争議)を分岐点として、(中略)漸くその向かう所が定まったやうな感じがする。(中略)資本家や官憲が(中略)ただ〝力〟をもって押し付けやうとするのみならば、労働者も(中略)〝力〟をもって応対するの外はない」。また友愛会京都連合会長辻井民之助も「労働者新聞」に「普通選挙の夢から覚めて」という題目で次のように書きました「ぼくは正直に告白する。ぼくらは(中略)あまりに議会政策の効力に重きをおいた。(中略)労働者にして真に自覚し、団結するならば、いまさら代議士を選び、議会をたよるまでもなく、(中略)直接行動によってその目的貫徹のために闘ふべきである」(大河内一男「前掲書」)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む23

 すでに1920(大正9)年7月12日第43議会において衆議院は野党提出の普選法案を否決していました(「労働運動二十年」を読む20参照)。。

 1920(大正9)年10月3~5日大阪で開催された友愛会八周年大会では会名の大日本の「大」を削除、終わりの3字「友愛会」を取れとの提案がなされました。鈴木文治会長の意見により1年間を限度として「日本労働総同盟友愛会」と呼称することに落ち着きました[「労働」9巻11号 「労働」(1)]。

 また工場法改正・労働組合法制定などをめざす実行委員会設置の件が審議されているときに、関西の代議員から議会を否認しようとするものが政府を相手に建議するのは矛盾だという発言があり、アナーキズム系の代議員や傍聴席から盛んな拍手が送られました。

 これに対して関西連合会主事の西尾末広は「議会主義を否認するものが、この問題を論議するのはたしかに矛盾だ。しかし、われわれは議会主義そのものを否認するものではないからこそ、この問題を討議しているのだ。議会を否認するものは、この議案に反対すればよいのだ」と反論しました。このように友愛会内部には議会政策派と直接行動派(「日本の労働運動」を読む38~40参照)の間に論争が起こっていたのです(大河内一男「前掲書」)。

 1921(大正10)年10月1日から3日間東京で日本労働総同盟友愛会友愛会第10年大会(この年より年度大会となる)が開催され、会名はさらに「友愛会」の3字を切り捨て「日本労働総同盟」と改称、鈴木文治は前年から強まった知識階級排斥の気運を察知して会長辞任の意向を中央委員会で表明したのですが、大会では名誉会長として留任、松岡駒吉が主事(会計)に就任しました[「労働」10巻11号 「労働」(2)]。

 この大会直後の11月4日原敬首相が暗殺された影響もあって、翌年2月27日衆議院は三たび野党提出の普選法案を否決、政府(高橋是清内閣)は過激社会運動取締法案を議会に提出(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23・25参照)したため、労働組合は大同団結して保守勢力と対決しなければならない必要に迫られました。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む24

 1922(大正11)年7月日本共産党が非合法に結成され(市川正一「日本共産党闘争小史」国民文庫 大月書店)、山川均(「日本の労働運動」を読む43参照)は雑誌「前衛」(大正11年7・8月号)に論文「無産階級運動の方向転換」を発表しました。

 同論文によれば、「日本の社会主義運動の思想には、一度も妥協主義や、日和見主義や、改良主義がまざっていたことはないといってよい。おそらく日本の社会主義者ほど、明白に資本主義の撤廃という最後の目標をのみ見つめていたものはない。けれどもこの最後の目標を見つめていたために、かえってこの目標に向かって前進することを忘れていた。(中略)たしかにわれわれの誤りであった。(中略)

 無産階級の前衛たる少数者は、資本主義の精神的支配から独立するために、まず思想的に徹底し純化した。(中略)そこで無産階級運動の第二歩は(中略)はるかの後方に残されている大衆の中に、ふたたび、ひきかえしてくることでなければならぬ。

 もし無産階級の大衆が、資本主義の撤廃を要求しないで、現に目前の生活の改善を要求(中略)一日一〇銭の賃金増額しか要求しておらぬなら、われわれの当面の運動は、この大衆の実際の要求に立脚しなければならぬ。われわれの運動は大衆の現実の要求に立ち、大衆の現実の要求から力を得てこなければならぬ。」(「山川均全集」第4巻 勁草書房

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む25

 日本労働総同盟野坂参三(「労働運動二十年」を読む7参照)・赤松克麿(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造14参照)らも日本共産党に参加していましたから、日本労働総同盟の内部には急速にボルシェビズムの傾向が強まっていました。

独学ノートー単語検索―ボルシェビズム 

 同年9月30日「日本労働組合総連合会」創立大会が大阪で主要59組合、106人の代表参加で開催されましたが、傍聴席には大杉栄(「日本の労働運動」を読む37参照)・近藤憲二らのアナーキスト堺利彦・山川均らのボルシェビストらがつめかけていました。会議は規約の審議をめぐって総同盟派・反総同盟派の対立で混乱、臨席の警察官が「中止・解散」と叫んだだけで流会となりました(古賀進「最近日本の労働運動」聚芳閣)。

 つづいて同年10月1~3日日本労働総同盟第11年大会が大阪の天王寺公会堂で開催されましたが、アナーキズム系の自由連合論に対する反発を含む「決議」を採択、この大会で決定された新綱領は(1)を除いて、次のような、その創立時とは異なったボルシェビズムの影響を受けものでした。 (1)われらは、団結の威力と相互扶助の組織とをもって、経済的福利の増進ならびに知識の啓発を期す。

(2)われらは、断固たる勇気と有効なる戦術とをもって、資本家階級の抑圧、迫害にたいし、徹底的に闘争せんことを期す。

(3)われらは、労働階級と資本家階級とが両立すべからざることを確信す。われらは労働組合の実力をもって、労働階級の解放と自由平等の新社会の建設を期す。

 また大会決定の7カ条の主張には労農ロシア承認が含まれ、ILO(「労働運動二十年」を読む18参照)に対しても「吾人は、国際労働会議を否認し(中略)有害無用なる同会議の壊滅を期す」と決議しました(「労働」11巻11号)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む26

 山川論文は労働者の日常要求にたち帰り、労働運動を組織しなおそうとする点で棚橋論文(「労働運動二十年」を読む21参照)と共通する特徴をもっており、この点において鈴木文治も山川論文に賛意を表明していますが(「労働運動二十年」)、他面野坂参三ら総同盟に属する日本共産党員は山川論文の社会主義革命の主張を多様な考え方をもつ大衆団体である総同盟の綱領に持ち込むことによって、後の総同盟分裂の火種を作ったといえるでしょう。

 1923(大正12)年9月1日関東大震災が起こりました(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造28参照)。翌日戒厳令が公布され、朝鮮人暴動の噂が流れる状況の下で同年9月4日南葛労働会の河合義虎・純労働者組合の平沢計七を含め10人が亀戸署で軍隊の銃剣により刺殺されました[亀戸(かめいど)事件]。

  つづいて同月16日憲兵大尉甘粕正彦(東京憲兵隊麹町分隊長)が部下とともに大杉栄(「日本の労働運動」を読む37参照)を刺殺、内妻伊藤野枝らを憲兵隊内で秘かに扼殺(やくさつ 腕で首を絞めて殺害すること)、死体を菰筵でくるんで隊内の古井戸に投げ込んだという事件が起こりました(甘粕事件・新聞集成「大正編年史」大正十二年版 下)。

たむたむページにようこそー入り口―人名事典―社会運動家―大杉栄―伊藤野枝―関東大震災―亀戸事件―甘粕事件   

上述の山川論文によってその影響力を失いつつあったアナーキズム系は、甘粕事件による大杉栄の死去によってさらに力を喪失し、労働運動の本流から離れていったのです。関東大震災の最中に起こったかかるテロリズム労働組合の力がいかに弱体であるかが明らかとなり、また第2次山本権兵衛内閣の普選法実施とILO代表の組合推薦の公約もあり、総同盟はもう一度右旋回する必要に迫られました。同年11月の総同盟中央委員会で鈴木文治は名誉会長から「名誉」を消して名実ともに総同盟会長の地位を回復したのでした(吉田千代「前掲書」)。

 1924(大正13)年2月10日総同盟第13年大会が東京芝の協調会館で開催されましたが、同大会3日目において、社会改良主義の右派とボルシェビズム(社会主義革命)系の左派はその妥協の産物たる次のような「宣言」を満場一致で採択しました。

 「(前略)改良的政策に対する従来の消極的態度は積極的に之を利用することに改められなければならぬ。例へばブルジョア議会に依て労働階級の根本的解放を期待する処、毫もなきは勿論なれども、普選実施後に於ては選挙権を有効に行使することに依りて政治上の部分的利益を獲得すると共に、無産階級の政治的覚醒を促し、又国際労働会議に就いても之が対策を慎重に考慮し、以って我国労働組合発展のために計るべきである。(後略)」(「総同盟五十年史」第一巻 資料編)

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む27

 総同盟第13年大会の直後から1925(大正14)年にかけて多くの組合が総同盟に加入、1922(大正11)年と比較すると、組合数で約百組合、組合員数で約12万人増加しましたが、この時期に加盟した組合の多くが左派系組合でした。

 1924(大正13)年10月5日総同盟関東労働同盟会(関東同盟会)に於いて副議長内田藤七の議事不慣れを理由に左派は議長不信任の動議を提出、否決されると左派代議員は退場しました。

 同年10月16日関東同盟会理事会は左派の横暴に対し、総同盟中央員会に4組合(東京東部合同労働組合・関東印刷労働組合・時計工組合・横浜合同労働組合)の除名、5名[杉浦啓一(関東機械工組合)・立松市太郎(同)・渡辺政之輔(南葛労働会)・相馬一郎(東部合同労働組合)・春日庄次郎(関東印刷工組合)]の総同盟よりの除名、及び河田賢治(関東鉄工組合主事)の辞職勧告を提案しました。

 しかし総同盟中央委員会はこの提案を慰留しましたが、同年11月16日関東同盟会理事会は上記提案を再確認してしまったのです。12月18日日開催された総同盟中央委員会は除名された組合を本部直属とし、さきに辞表を提出した鈴木文治会長は留任となりました。

 同年12月20日除名され本部直属となった5組合(上記4組合に後に除名された関東鉄工組合を追加)は12月20日総同盟関東地方評議会を結成しました(「日本労働組合評議会資料」4 大原社会問題研究所)。

 1925(大正14)年3月27日総同盟中央委員会では関東同盟会選出の委員から6名の左派指導者(中村義明・鍋山貞親・辻井民之助・山本懸蔵・杉浦啓一・渡辺政之輔)の除名案が議題として提出されましたが、その理由は「一、右六名は日本共産党に属し、又は之と通謀し、常に党中党を作り、総同盟を乗取らんとする陰謀を企てつつある。二、右六名の言動は、実質の伴わざる狂激なるものであって、総同盟の組合精神と全然相反するものである。」と述べられています。採決により同議案は三分の二の賛成をえられず、承認するに至らなかったのですが、同時に中央委員の一人から提案された関東地方評議会の解散と機関紙「労働新聞」の停刊要求案は満場一致で可決されました。4月12日左派30組合は日本労働総同盟革新同盟を結成するに至ったのでした(「日本労働年鑑」大原社会問題研究所)。

かくして同年5月24日総同盟革新同盟全国大会が神戸のキリスト教青年会館で開催され、同革新同盟は総同盟より分離し日本労働組合評議会評議会)を結成したのです(総同盟第1次分裂・「日本労働組合評議会資料」2 大原社会問題研究所・野田律太「評議会闘争史」中央公論社)。

 評議会は結成直後の1926(大正15)年1~3月、徳永直の小説「太陽のない街」(岩波文庫)で知られている共同印刷(労働運動史研究会・労働者教育協会共編「日本労働運動の歴史」戦前編 三一書房)や同年4~8月の日本楽器(ヤマハの前身)のストを指導(「日本労働組合評議会資料」6 大原社会問題研究所)、会社も損害を受けましたが、争議団も惨敗して終了しました。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む28

 1925(大正14)年3月普通選挙法の成立(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29参照)により、無産政党設立の動きが具体化してきました。その動きの一つとして1926(大正15)年11月4日安部磯雄吉野作造・堀江帰一は連名で無産政党(のちの社会民衆党)の結成を提唱、総同盟もこれを支持する決議をしました(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造30参照)。しかるに総同盟の実力者麻生久らは浅沼稲次郎・三輪寿壮と秘かに準備していた「日本労農党」(日労党)創立の計画を明らかにしたため、同年12月3日総同盟中央委員会は日労党設立準備をすすめた麻生久・加藤勘十・棚橋小虎(「労働運動二十年」を読む19参照)ら12名を除名、このため麻生久らと関係の深かった人々も総同盟を脱退、同月4日棚橋小虎を会長とする日本労働組合同盟が結成されました(総同盟第2次分裂・「工場と鉱山」1巻1号 日本労働組合同盟)。

History of Modern Japan―日本近現代史研究―政党議会に関するデータベースー2.政党に関するデータベースー戦前期:衆議院院内各派

 1927(昭和2)年9月16日野田醤油(キッコーマンの前身)の総同盟組合員2000名は賃上げ・団体協約締結要求で罷業に突入、暴力団が介入、争議団も竹槍で対抗し、あるいは会社側の人物に硫酸を投げつけて重傷を負わせるなどの事件が発生ました。翌年1月16日争議団は戦術の一つとして、小学校の児童三百数十名を同盟休校させて町の人々を驚かせ、争議団に批難が集中する結果となりました。結局1928(昭和3)年4月20日争議団の解散、復職者300人と解雇者700人に対する手当45万円という条件で会社と総同盟(鈴木文治会長と松岡駒吉主事)、及び調停者協調会理事添田敬一郎との間に解決案が調印され、争議は解決したのですが、争議団の惨敗に終わったのはあきらかでした[「労働」196~204号「労働」(5~6)]。

 1929(昭和4)年総同盟大阪連合会を中心に左派勢力が伸長、日労党(中間派無産政党)や日本労働組合同盟らが提唱していた組合の全国的総連合に同調せんとするなど主流派と悉く対立したので、総同盟中央委員会は同年9月9日桑島南海士ら17人を除名、統制に従わなかった組合として大阪金属労組・大阪合同労組・関西紡績労組を除名[「労働」220号「労働」(7)]しました。その結果被除名派は同月16日労働組合全国同盟を結成しました(総同盟の第3次分裂・「全国労働者新聞」1号)。

 このような総同盟の分裂に対して鈴木文治はどのような見解を持っていたのでしょうか。

 総同盟の第1次分裂について鈴木は次のように述べています。左派の「目的はあはよくば総同盟の幹部を全部排斥してその声望を失墜せしめ、そっくり其儘(そのまま)、総同盟を赤化して左翼陣営の本体とする積りらしかった。其事の成らざるを知るや、次善の策に出で、総同盟所属の大半を浚って行く計画のようであった。併しそれも成功しなかった」(「労働運動二十年」)。この文章の表現にはかなり感情的な左派への反感が感じられるとしても、その発端は左派が総同盟の綱領に共産党社会主義革命の主張を持ち込んだことに原因があり(「労働運動二十年」を読む25参照)、私はその主張には論理的に同感できます。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む29

 しかし総同盟第2次分裂について鈴木は「労働運動二十年」で次のように述べています。「我等は涙を揮って麻生君をはじめ、加藤勘十、棚橋小虎両君等十名の除名を断行するの外なきに至ったのである。固より無産運動の前途は長い、私は必ずこれ等諸君と堅く提携して進むべき時あることを信じて疑はないが、私はこれを以て終生忘るべからざる恨事とせざるを得ない。」

 また総同盟第3次分裂についても彼は次のように言及しています。「私は如何にかして之を防ごうと全力を傾注した。為に優柔不断の譏(そしり)までも受けたのであるが、それも結局徒労水泡に帰したのである。今は何事も言ふべき時でないと思って居る。凡ては時が解決するであらう。」

 この総同盟第2~3次分裂は総同盟が社会民衆党支持を決定し、これに従わない総同盟内の人々を除名したことから起こったことで総同盟主流が特定の政党(社会民衆党)支持を総同盟内に持ち込んだ点で、かって左派が共産党の主張を総同盟の綱領に持ち込んだことと同じ誤りを犯しているのではないでしょうか。鈴木はこの誤りに気付いていないようですし、また総同盟を除名された人々に対しても、かって第1次分裂の際に見せたような左派への感情的反発はなく、彼等との別れを惜しむ気持ちを隠そうともしていません。

 本来労働組合の政党支持は自由であるべきでしょう。しかし無産政党各派はその支持基盤を確保するために労働組合に働きかけ、組合も政治的発言の場を求めて何れかの無産政党と結びついていったのです(二村一夫「労働者階級の状態と労働運動」岩波講座 日本歴史18)。

二村一夫著作集―総目次―第2巻 『日本労働運動・労使関係論』―第2章 第一次大戦前後の労働運動と労使関係―3 総同盟の分裂と各派の特徴

 1930(昭和5)年総同盟第19回大会最終日の11月4日鈴木文治は会長辞任の意思を表明、彼は大会代議員に向かって労働階級の解放は労働者自身で為さねばならないという信念を友愛会創立の時より持ちつづけてきたのであり、今や日本の労働運動も成人の域に達し、いよいよ自分の希望を実現する時期が到来したと説明して了解を求めました。

 しかし代議員は納得せず、困惑した大会議長は休憩を宣言、鈴木は会長辞任について自分のもっとも信頼する先輩(吉野作造)に松岡駒吉西尾末広とともに相談して問題解決に努力するので、それまで会長に留任すると申し出、大会は漸く閉幕となりました。

 松岡と西尾は同年11月10日夜吉野作造と会見しましたが、吉野は鈴木の辞任を積極的に支持する態度を見せ、鈴木も同月11日吉野と協議、同日の各新聞に会長辞任の声明を発表してこの問題に終止符をうちました[鈴木会長辞任発表に至るまでの顛末報告「労働」昭和6年1月号「労働」(9)]。

 「労働運動二十年」は鈴木の総同盟会長辞任を述べた後、「労働運動の現勢」・「将来の展望」を述べて終了しています。

 鈴木文治が総同盟会長を辞任した1930(昭和5)年現在、労働組合数712(35万4312人)で、その組織率は労働者総数の7.5%に過ぎなかったのです(労働運動史料委員会編「日本労働運動史料」10)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む30(最終回)

 1931(昭和6)年刊行の「労働運動二十年」に寄せた「鈴木文治君の素描」-序文に代へて旧稿を録すーと題する文章の中で吉野作造は次のように述べています。

 「鈴木君は能く変な金を持って来ると難ずる人がある。来るものは拒まずとは学生時代からの性格だから、或は少し位の疎忽はあらうかと考へる。併し彼れには悪意を以て不正の金を貪り、平然として節を売るやうなことは断じてないと信ずる。金銭の授受については今日の地位に在ってはモ少し慎重であっていゝと思ふが、金によって彼れの良心を左右し得べしと考ふる人があらばそは大変な誤算であらう。(中略)

 それに彼れは金の持てぬ男である。(中略)昔あれだけ貧乏したのだから、もう少し倹約してもよかりそう、(中略)と私共は思ふが、金があると何か他愛もないものを買って喜んでいる。さうでもないと後輩を沢山集めて彼れ相応の大盤振舞ひをやる。(中略)私はこゝに彼れの不謹慎は認める。けれども結局において、これは矢張り彼れの一美点をなすものではあるまいかと考へて居る。(中略)

 しかし時勢の進みは早い。今後も依然として従来の運動を継続するには、彼れに新たな修養が要る。其修練に身心を投ずるにはもう時機は遅過ぎた。(中略)こゝに自らを反省して転身の決心を定めたのは頗る時の宜しきを得たものと私は思ふ。」

 すでに最初の普通選挙が実施された1928(昭和3)年2月20日の第16回総選挙に彼は社会民衆党から立候補、衆議院議員に当選しましたが、1930(昭和5)年2月20日第17回総選挙に同じく社会民衆党から立候補して落選しました。しかし1937(昭和12)年4月30日の第20回総選挙に社会大衆党社会民衆党全国労農大衆党が合同)から立候補して衆議院議員に当選しましたが、1940(昭和15)年3月斉藤隆夫代議士の除名問題をめぐって社会大衆党中央委員会の決定を拒否、除名処分を受けました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー斉藤隆夫

 太平洋戦争中は憲兵隊の監視下に置かれ、1週間に2~3人の憲兵の訪問をうけたほどでした。

 1945(昭和20)年日本は太平洋戦争に敗北、同年11月2日日本社会党が結成されると、翌年3月11日同党から総選挙に立候補を届け出た後、翌日心臓喘息により61歳で逝去しました(吉田千代「前掲書」年譜)。1946(昭和21)年3月15日仙台の教会で行われた鈴木文治の告別式において野坂参三(「労働運動二十年」を読む7参照)は弔辞を鈴木の霊前に捧げたのでした(吉田千代「前掲書」)。

 野坂参三は彼の自伝の中で鈴木文治を回想して次のように述べています。「わたしは、思想や運動の方針、具体的な政策などについて、鈴木文治とは早くから意見を異にし、議論し合ったこともあった。(中略)いよいよ友愛会の分裂、評議会の誕生の段階では、わたしは面と向かって彼を批判した。そして彼らと袂を別かち、その後、個人的な交際もなくなってしまったが、しかし、彼に個人的な憎悪感をいだく気にはなれなかった。また、わたしは、彼が友愛会をつくったことの歴史的な意義を、かつても、いまも、変わりなく高く評価している。だから、別れてのち、何かの機会で、彼と顔を合わすようなことがあっても、顔をそむけるような態度をとったことはなかった。」(野坂参三「前掲書」)