片山 潜「日本の労働運動」を読む41~50

片山 潜「日本の労働運動」を読む41

 このように日本社会党で直接行動派と議会政策派が大論争をくりひろげていたころ、1907(明治40)年2月4日以降足尾銅山(「田中正造の生涯」を読む15参照)で大暴動が起こったのです(「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

 明治期の鉱山は江戸時代囚人労働による生産の伝統がつづき、その劣悪な待遇に対する不満が他産業の労働者以上に強かったといえるでしょう。

 大日本労働至誠会は1902(明治35)年春南助松と永岡鶴蔵が北海道夕張炭鉱の坑夫を組織して結成されたもので、やがて1906(明治39)年12月5日には南助松が夕張炭鉱から足尾銅山に移ってくると、同会足尾支部が結成され、労働至誠会の坑夫待遇改善運動が活発となっていくのです(「日本の労働運動」を読む21参照)。

二村一夫著作集―総目次―第4巻 「足尾暴動の史的分析」-序章 暴動の舞台 足尾銅山

 当時の足尾銅山の坑夫は(ア)物品で賃金を払ってはならないと法律で規定されているにもかかわらず、会社の販売店から粗悪で高価な日用品を購入させられる「現物賃金制」、(イ)会社役員が賄賂の多少によって坑夫の就業に差別をつける、(ウ)近年の物価高にもかかわらず賃金が上がらないの3点で苦痛を強いられていました。

 労働至誠会はたびたび演説会を開き、坑夫が団結して会社に諸種の要求を提出し、もし要求が実現しない場合は坑夫を募集している北海道へ集団移住することを訴えていました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む42

 1907(明治40)年2月4日午前9時ころ第三・四見張所前で職員と坑夫が賃金上のことで争いを起こし、それを見ていた周囲の者が口ぐちに「ヤレヤレ」とこれを応援、やがて5~600名の労働者が見張所に石を投げ込んだのが始まりで、電話線・電線が切断されて鉱山外との通信が途絶えました。

二村一夫著作集―総目次―第5巻 「鉱業労働史研究」-足尾暴動

 この騒動は南助松ら労働至誠会員の慰撫でおさまり、南らの助言で2月6日午前9時に20数項目の要求を会社に提出することになりましたが、6日朝数千の坑夫がダイナマイトで鉱山の建物数か所を爆破放火、鉱業所長南挺三を襲撃して重傷を負わせ、石油庫・火薬庫を爆発させるに至ったのです。

 すでに栃木県警務課長・日光警察署長・足尾警察署長・宇都宮裁判所予審判事・検事らが制・私服の部下数百名を率いて事件現場に乗り込んでいましたが、彼等は事件をどのように収拾したらよいのかわからず、足尾警察署長が南助松らを検挙すると、事態を一層混乱させると主張したのに、予審判事は2月6日南助松・永岡鶴蔵ら労働至誠会幹部を兇徒嘨集罪で逮捕、かえって混乱を助長する結果となり、彼等は変装して姿をくらます状態でした(田中惣五郎「前掲書」)。

 栃木県知事の報告により警察力で足尾暴動を鎮静化させることができないと悟った原敬内務大臣は陸軍大臣寺内正毅に軍隊の出動を要請、2月7日午前8時30分高崎第15連隊の歩兵3個中隊が雪中足尾に到着、午後4時足尾銅山戒厳令を公布、騒擾を鎮圧しました。

 2月4日の正午ころ南助松から平民社宛に電報が届き、2回目、3回目とつづいたので平民社は西川光次郎を特派員として現地に派遣しましたが、彼は軍隊が足尾に到着する数時間以前に足尾警察署の刑事に兇徒嘨集罪で逮捕され、この報を得た平民社荒畑勝三を第2の特派員として再び現地に派遣、彼は危うく検挙を逃れ、南助松らの妻女を平民社まで伴うことに成功しました(吉川守圀「荊逆星霜史」不二出版・荒畑寒村「ひとすじの道」日本図書センター)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む43

  1907(明治40)年2月17日日本社会党第2回大会が神田錦輝館で開催されました(「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

 大会は幹事堺利彦の開会の挨拶に始まり、次いで竹内余所次郎を議長に選出、議案として①党則第1条「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」を「本党は社会主義の実行を目的とす」とする、②党則第4条「評議員十三名」を「評議員二十名」に増員③其の他を可決、改選された評議員は再撰されたもの堺利彦・西川光次郎・田添鉄二・森近運平らで、新選されたものは石川三四郎幸徳秋水らでした。

 本大会の最重要議案である評議員会作成原案の次のような決議案を堺利彦が提案しました。

 我党は現時の社会組織を根本的に改革して生産機関を社会の公有となし人民全体の利益幸福の為に之を経営せんと欲するものなり

 我党は此目的を持し現時の情勢の下に於て左の件々を決議す

一、我党は労働者の階級的自覚を喚起し其団結訓練に勉む

一、我党は足尾労働者の騒擾に対し遂に軍隊を動かして之を鎮圧するに至りしを遺憾とし、之を以て甚だしき政府の失態なりと認む

一、我党は世界に於ける諸種の革命運動に対し深厚なる同情を表す

一、左の諸問題は党員の随意運動とす

 い、治安警察法改正運動 ろ、普通選挙運動 は、非軍備主義運動 に、非宗教運動

 これに対して田添鉄二は評議員会原案の(ア)足尾事件の前に「一、我党は議会政策を以て有力なる運動方法の一なりと認む」の一項を付加、(イ)「ろ、普通選挙運動」を削除、

という修正案を提出しました(「田添鉄二氏の演説要領」参照「平民新聞論説集」岩波文庫)。

 幸徳秋水は評議員会原案の(ウ)第一項「我党は」の次に「議会政策の無能を認め専ら」の語句を付加、(エ)「ろ、普通選挙運動」を削除、という修正案を提出しました(「幸徳秋水氏の演説」参照「平民新聞論説集」岩波文庫)。

 大会は3時間に及ぶ討論ののち採決、其の結果は次の如くでした。田添案 2票、 幸徳案 22票、 評議員会案28票、 かくして評議員会案が採択されたのです。

 採択された評議員会案が秋水の直接行動論の影響著しいものであったので、評議員会案提案者堺利彦が「大会は事実に於て大多数を以て幸徳説を可決したる者と謂はざるを得ず」(堺利彦社会党大会の決議」日刊「平民新聞」28号 明治40年2月19日付「明治社会主義史料集」第4集 明治文献資料刊行会)と述べています。

 この大会において山川均は「予は直接行動に信頼するものである、」(「社会党大会の成蹟」日刊「平民新聞」第29号 明治40年2月20日付・「平民新聞論説集」岩波文庫)と主張した直接行動派でしたが、彼は後年当時を回顧して次のように述べています。「あの十七日の大会の空気のなかで、ただ一人(議会政策論者と思われる西川は、足尾事件のために宇都宮監獄に拘禁されていた)議会政策論のために闘った田添の態度にたいして、私は今も尊敬を払っている。」(山川菊栄向坂逸郎編「山川均自伝」岩波書店

Weblio辞書―検索―山川均

 かかる日本社会党の決議により西園寺公望(第一次)内閣は同年2月22日治安警察法第8条第2項により日本社会党を結社禁止とし、日刊「平民新聞」も発売禁止や記事執筆者ならびに発行編集責任者の処罰が行われ、同年4月14日第75号で廃刊となりました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む44

 1907(明治40)年2月19日渡米中の片山潜が帰国しました(辻野功「前掲書」)。彼は「労働者諸君に告ぐ」(日刊「平民新聞」第40号 明治40年3月5日付・「平民新聞論説集」岩波文庫)を発表、直接行動論を批判して自分が議会政策派であることを明らかにしました。

 これに対して直接行動派は日刊「平民新聞」第42号「片山先生に告ぐ」において片山潜をからかうかのような批判の文章を掲載したのです。

 日刊「平民新聞」廃刊以後、その後継紙として同年6月1日森近運平が半月刊紙「大阪平民新聞」(「明治社会主義史料集」第5集)を、同月2日には片山潜・西川光次郎が週刊「社会新聞」(「明治社会主義史料集」第6・7集)を創刊しましたが、次第に「大阪平民新聞」は直接行動派の、「社会新聞」が議会政策派の機関紙の傾向を強め、互いに相手を非難攻撃するようになりました。

井原市―観光者の皆さまへー井原市の歴史・文化―井原市ゆかりの偉人―お知らせー井原市の偉人紹介ページ更新―関連リンクーいばらの偉人―バックナンバーー森近運平

 ところが両派内部にも対立が激化し、やがてそれは理論的対立を越えた感情的抗争に矮小化していきました。

 1908(明治41)年6月18日、日刊「平民新聞」第59号に論説「父母を蹴れ」(明治40年3月27日付・「平民新聞論説集」)を掲載したため投獄されていた山口孤剣が出獄しました。石川三四郎が山口は直接行動派と議会政策派の分裂以前からの入獄者なので、出獄歓迎会を両派一緒にやらないかと堺利彦・西川光次郎によびかけました。堺・西川両人とも同意したので同年6月22日午後1時東京神田錦輝館で両派合同の「山口君出獄歓迎会」が開催されました(「本書」②)。

 幹事役の石川三四郎が閉会の辞を述べはじめたころ、会場の一角で革命歌を歌いながら、赤地に白く「無政府共産」などと縫いとりした旗を大杉栄荒畑寒村ら若手の直接行動派が議会政策派の人々を囲んで会場内を走りまわり、やがて戸外に出ていきました。

 警官隊が「戸外だから旗を巻け」と要求したが、大杉らは聞かず、警官と乱闘、会場に居た山川均と堺利彦は大杉らと警官の間にはいって警官をなだめ、乱闘は治まったのですが、警察の増援隊が到着すると、警察は大杉らだけでなく、仲裁役の山川・堺まで逮捕、「無政府共産」の旗を堺利彦から預かり、帰宅中の管野スガら4人の女性まで拘束されました(赤旗事件・「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む45

 赤旗事件被逮捕者たちは次のように処分されました。堺利彦・山川均らは官吏抗拒罪で重禁錮2年、荒畑寒村らは1年半、大杉栄2年半(前科1年半通算)、重禁錮1年罰金10円大須賀里子、小暮れい子(5年執行猶予)、無罪管野スガ、神川まつ

 この外錦町警察署留置場便所の壁につめ痕か何かで「一刀両断帝王頭、落日光寒巴里城」とフランス革命を詠んだ漢詩が落書されていました(荒畑寒村「ひとすじの道」)。この嫌疑をかけられた佐藤悟は不敬罪で懲役3年に処せられたのですが、真犯人は別にいたらしくもあります(赤松克麿「日本社会運動史」岩波新書)。

日本キリスト教女性史(人物編)―索引―かー管野スガ

 ところがこの事件は内閣総辞職という政変に発展しました。西園寺公望(第1次)内閣の内相原敬はその日記で次のように述べています。「本日参内し親しく侍従長と内談せしに、同人の内話によれば、山県(有朋)が陛下に社会党取締の不完全なる事を上奏せしに因り、陛下に於せられても御心配あり、(中略)山県が他人の取締不充分なりと云ふも、然らばとて自分自ら之をなすにも非らずとて、徳大寺(侍従長)も山県の処置を非難するの語気あり、(中略)山県の陰険なる事今更驚くにも足らざれども、畢竟現内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し此奸手段に出でたるならん、」(原奎一郎編「原敬日記」第2巻 明治41年6月23日条)

 同年6月27日西園寺公望首相は原敬・松田正久を招いて病気を理由に辞意を告げたのですが、7月2日原敬が西園寺首相を訪問すると、首相は本日個別に閣僚招き、辞意を伝えたと述べ、実は寺内正毅陸相に対し山県有朋が辞職をすすめた(軍部が倒閣手段としてしばしば利用・「大山巌」を読む48参照)が、寺内は単独で辞職を決断できず、首相に山県の意図を報告、其の結果西園寺首相は辞職を決意した旨語ったそうです。かくして7月4日第1次西園寺内閣は総辞職、7月14日第2次桂太郎内閣が成立するに至ったのです(「原敬日記」)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む46

 1907(明治40)年10月27日幸徳秋水は病気静養とクロポトキン「麺麭(パン)の略取」(英訳版)翻訳に取り組むため、東京大久保から郷里高知に向かい、途中別府温泉に宿泊、故郷中村に帰りました。

 彼に赤旗事件を知らせる守田有秋の電報がとどいたのは、1908(明治41)年6月23日のことでした。新聞等で事件の詳細を知ると、かれは同年7月21日上京の途につき、その途中で和歌山県新宮の医師大石誠之助(祿亭)の許に立ち寄り、同年8月12日箱根足柄下郡温泉村の林泉寺住職内山愚堂を訪問(塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社)、同月東京に到着(「社会主義者沿革」下)、10月豊島郡巣鴨に平民社の看板を掲げましたが(「逆徒判決証拠説明書」<大逆事件判決に先立ち、外務省が各国駐日公使館に送付したもの>宮武外骨編「幸徳一派大逆事件顛末」「明治社会主義文献叢書」竜吟社)、秋水の家は不断に警察の監視下にありました。

新宮市観光協会―新宮ガイドー観る―大逆事件と大石誠之助

 赤旗事件で逮捕の後、無罪放免された管野スガはもともと荒畑寒村の愛人でしたが(荒畑寒村「ひとすじの道」日本図書センター)、秋水の身辺を世話するようになりました。11月上京した大石誠之助は秋水を診察、秋水は余程の難病、長生きできないようだと診断しました(「逆徒判決証拠説明書」宮武外骨編「前掲書」)。

 1909(明治42)年1月秋水は翻訳「麺麭の略取」を平民社訳として出版しましたが、たちまち発売禁止となりました。

 1909(明治42)年2月新村忠雄が、同年2月13日宮下太吉が秋水を訪ね、天皇に対するテロの決意を表明しています。

秋水が千代子夫人を離婚、千駄ヶ谷に引っ越し、同年5月25日菅野スガを発行編集人、古河力作を印刷人として「自由思想」を発刊したころから、幸徳秋水と管野スガとの愛人関係を同志たちが非難するようになりました(吉川守圀「荊逆星霜史」)。

 「自由思想」は発禁となり同年7月に廃刊、管野スガは数百円の罰金を払えず、1910(明治43)年5月18日100日の換金刑に服するため入獄させられました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む47

  このような情勢の中で幸徳秋水周辺の社会主義者宮下太吉・管野スガ・新村忠雄らが明治天皇暗殺計画を練りはじめたのです。

 1910(明治43)年5月17日管野スガ・新村忠雄・古河力作3名は天皇に爆弾を投げる順番のくじ引きをし、(1)管野スガ、(2)古河力作、(3)新村忠雄、(4)宮下太吉の順と決定しました(古河力作「余と本陰謀との関係」神崎清「大逆事件記録」第1巻新編獄中手記 世界文庫)。しかし後のことはすべて管野スガの出獄待ちで、具体的計画はきめられていなかったのです。

 幸徳秋水は古くからの友人奥宮健之に爆裂弾の製法を質問し、それを新村忠雄を通じて宮下太吉に伝えたことはあったようです(「逆徒判決証拠説明書」)。しかし同年3月11日親友小泉策太郎(三申)のすすめで「通俗日本戦国史」執筆のため湯河原の天野屋旅館に籠り、天皇暗殺計画から離れたと見られます。宮下太吉らも「幸徳は筆の人で実行の人ではない」[「予審(当時の刑事訴訟法により起訴後被告を公判に付すべきか否かを決定する手続き)調書」宮下太吉(第四回) 塩田庄兵衛・渡辺順三編「秘録大逆事件」上 春秋社]と思い、秋水を除外して計画をすすめたのです。

 天皇暗殺計画は宮下太吉の軽率な言動から当局に知られ、彼は同年5月25日検挙、明科製材所を捜索されて証拠品を押収されました。新村忠雄らも同日逮捕され、関係者の一斉検挙が始まったのでした(荒畑寒村「日本社会主義運動史」毎日新聞社)。

 同年6月1日上京のため湯河原駅に向かっていた幸徳秋水も逮捕され、当局は関係者が幸徳秋水・管野スガ・宮下太吉・新村忠雄・古河力作ら7名であると発表しました(小林検事正談「東京朝日新聞」明治43年6月5日付)。

 しかしかねて社会主義者を一掃したいと考えていた元老山県有朋(「大山巌」を読む29参照)・首相桂太郎(「坂の上の雲」を読む11参照)・司法省行刑局長兼大審院次席検事平沼騏一郎らの圧力によって司法当局の方針は強硬となり、6月3日には大石誠之助を取り調べたのをはじめとして8月までに和歌山・岡山・熊本・大阪でも関係容疑者26名が逮捕され、逮捕を免れたのは片山潜ら議会政策派と堺利彦・山川均・大杉栄赤旗事件などで入獄していた者だけでした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ひー平沼騏一郎

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む48

 裁判は同年12月10日大審院で開始、裁判長は被告の氏名点呼後、事実審理を非公開とし、検事の起訴内容陳述も公開せず、傍聴人を法廷外に退去させました。「はじめての裁判から最終審まで秘密で、しかも判決に対して上告する道は全然なかった。」(「本書」②)その裁判の様子を弁護人の一人今村力三郎(「田中正造の生涯」を読む29参照)は「裁判所が審理を急ぐこと奔馬の如く一の証人すら之を許さざりしは予の最も遺憾としたる所なり」(「芻言」幸徳秋水全集 別巻1 明治文献)と述べています。

 1911(明治44)年1月18日大審院は大逆罪(改正「刑法」第73条 天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス・内閣官報局「法令全書」第四〇巻ノ二 明治40年 法律第四十五号 原書房)により幸徳秋水ら被告24名に死刑を判決(「大逆事件判決書」我妻栄他編「日本政治裁判史録」明治・後 第一法規出版)、翌日「天皇陛下の思し召し」で12名が無期懲役に減刑されました「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

 同年1月24日幸徳秋水ら11名が処刑され翌日管野スガが処刑されました。減刑された被告たちもその行く末が悲惨を極めたことは申すまでもありません(田中伸尚「大逆事件岩波書店)。

 大逆事件の死刑実施に対して、海外の社会主義者より日本の在外公館に抗議が集中しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 同年2月1日徳富蘆花(「大山巌」を読む45参照)は天皇尊崇の念に厚い人物でしたが「謀叛論」と題する講演を第一高等学校(東大教養学部の前身)で行い、「(前略)明治昇平(世が平かに治まること)の四十四年に十二名といふ陛下の赤子(せきし 人民)、加之(しかのみならず)為す所あるべき者共を窘(くるし)めぬいて激さして(過激化させて)謀叛人に仕立てゝ、臆面(気おくれした顔色)もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じて之が責任を負はねばならぬ。(中略)諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做(な)されて殺された。が、(中略)自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。」(「謀叛論」(草稿)「明治文学全集」42 徳富蘆花集 神崎清「解題」参照 筑摩書房)と幸徳秋水らの処刑を批判したため、同校長新渡戸稲造らの譴責(けんせき 官吏に対する懲戒の一つ、現在の国家公務員法では戒告に相当)問題に波及しました。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーにー新渡戸稲造

 永井荷風は1911(明治44)年偶然大逆事件の容疑者を護送する囚人馬車が日比谷の裁判所の方に走っていくのを目撃して「この折ほど云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。」と思いつつも「然し私は世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。」と述べ、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。」(「花火」1919年 雑誌「改造」に発表・「日本文学全集」永井荷風集 筑摩書房)と述懐しています。

黙翁日録ーブログアーカイブー2010年―大逆事件―大逆事件への処し方ー2010年4月25日 

 1961(昭和36)年1月18日大逆事件被告で無実を訴え続けた生き残りの坂本清馬らは死刑判決50年目で東京高裁に再審を請求しましたが、1965(昭和40)年12月1日東京高裁は再審請求を棄却、同年12月14日坂本清馬は請求を棄却した東京高裁決定に憲法違反があるという理由で最高裁に特別抗告しました。しかし1967(昭和42)年7月5日最高裁は、大逆事件再審請求の特別抗告を棄却する決定を下しました。かくして大逆事件は後味の悪い謎を秘めて歴史の闇に消えていくかとも思われます。後味の悪い謎とは何かについて知りたいと思われる方は田中伸尚「前掲書」に詳説されていますのでご覧下さい。

 しかし大逆事件を見直そうという動きは各地域の草の根から拡大している事も確かです(田中伸尚「前掲書」)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む49

 議会政策派の片山潜は1908(明治41)年3月15日永岡鶴蔵が鉱夫組合を結成(「社会新聞」39号)したとき幹事として参加、事務所を自宅に置く(「自伝」年譜)など協力したのですが、永岡は足尾へ赴いても滞在することすらできず組合活動は不可能でした。 

「我々は絶えず労働者と接触していた。そして彼等を組織しようとしたが、いつも当局の為にぶちこわされた。」(「本書」②) 同年3月19日片山潜の協力者田添鉄二が肺結核のため32年8カ月の若さで永眠したことは片山にとって大きな打撃であったでしょう(岡本宏「前掲書」)。

 片山潜ら議会政策派が引き続き普通選挙運動に熱心であったことは当然です。同年2月4日片山潜中村太八郎安部磯雄らは普通選挙同盟会の相談会を神田美土代町の青年会館で開催、普選法案と請願の提出を協議し、同年2月6日普通選挙法案が松本君平ら外2名の代議士によって衆議院に提出されました。同法案は7対3で委員会を通過したのですが、本会議で否決となりました。

 1910(明治43)年2月3日片山潜中村太八郎の尽力により築地精養軒に木下謙次郎・田川大吉郎の2代議士を交えた会合が持たれ、普選法案を多数党たる政友会代議士に提出させ、その際田川が主任となり尽力すること等が決定されました。

 1911(明治44)年2月25日普選法案が諸派代議士22名によって衆議院に提出され、3月11日同法案は衆議院で可決されましたが、3月15日貴族院で否決されました(衆議院参議院編「議会制度七十年史」<帝国議会議案等件名録>大蔵省印刷局)。

 同年5月警視庁は普選運動を抑圧するため、普通選挙同盟会に「政治ニ関スル結社(政社)」の届出を命令しました。それまで普通選挙同盟会は治安警察法における「政社」の取り扱いを受けていなかったため、法的に軍人・教員・女子等の入会制限はなく、政党に所属する代議士の入会も自由でした。しかし同会が「政社」として取り締まりの対象となることによって、同会の政党所属代議士は脱会か脱党を選ばねばならなくなり、同年5月29日中村太八郎片山潜らが出席して総会を開いた普通選挙同盟会は「各政党員其ノ他個人トシテノ助力ニ依頼シテ以テ本会ノ目的ト同一ナル効果ヲ獲得スルニ若カス」(「社会主義者沿革」下)という理由で翌日自発的解散を警視庁に届出たのです。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む50(最終回)

 1906(明治39)年電車賃値上げ問題をおこした3電車会社(「日本の労働運動」を読む37参照)は合併して東京鉄道会社となりましたが、1911(明治44)年8月1日東京市が買収し、東京市電気局が設置されていました(「交通局五十年史」東京都交通局)。

 しかし同年末に運転手・車掌など従業員に分配された会社解散慰労金が予想よりあまりにも少額で配分が不公平であることを理由に同年12月31日から翌年1月2日の3日間にわたってストライキが勃発しました。

 片山潜は前年12月30日から翌年1月4日にかけて東京市電6000名のストライキを指導しました。

 ところが片山潜らは1912(明治45)1月15日市電労働者を教唆扇動してストライキをさせたとし検挙され(新聞集成「明治編年史」第14巻 財政経済学会)、治安警察法第17条違反で同年4月30日5箇月の懲役に処せられました。

 片山潜が「自伝」を書きはじめたのは獄中にあった同年3月1日からです。

 同年7月30日明治天皇逝去による大赦令で片山潜は千葉監獄を出所しましたが、入獄のため、勤務中の「東洋経済新報」の月給を半減され、生活はますます窮乏の一途をたどったのです(「自伝」年譜)。

 大逆事件の判決と処刑が行われた1911(明治44)年1月東京の牛込天神町六番地にある東洋経済新報に石橋湛山が入社、2階編集室に席を与えられましたが、彼の向かいの席は副主幹格の三浦銕(てつ)太郎で、その隣に座るのは片山潜という温厚な人物でした。政府の圧迫で身の置所のない片山潜を主幹の植松考昭と三浦がみかねて入社させていたのです。片山は本名やペンネームで社会問題の論文や劇・音楽・美術・建築の批評などを書いていました。

石橋湛山記念財団―石橋湛山とはー石橋湛山略歴

 石橋湛山が入社して1年後、片山は東京市電労働者のストライキを扇動したとして逮捕投獄され、出獄後もしばらく東洋経済新報に勤務していましたが、結局日本にいられなくなって渡米しました(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)。

 1914(大正3)年9月9日片山潜は横浜出港渡米(「自伝」年譜)、再び日本に帰ってくることはありませんでした。

 「片山氏は後にソ連におもむき、その最後はソ連から国葬の礼を受けた。しかし東洋経済新報社における氏は、率直にいって、そんな大物ではなかった。(中略)われわれは氏から直接社会主義についての議論を聞いたことはなかったが、その人物は温厚、その思想はすこぶる穏健着実で、少しも危険視すべき点はなかった。(中略)けだし当時の片山氏の思想はキリスト教社会主義に属していたものと思われる。(中略)しかるに氏に対する官憲の圧迫ははなはだしく、(中略)私は三浦氏ともしばしば語ったことであるが、片山氏を共産党に追いやったのは、全く日本の官憲であった」(石橋湛山「前掲書」)