司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む21~30

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む21

 これに対して同年3月27日社説「嗚呼増税」を掲げた同新聞は発禁処分を受けましたが、平民新聞は引き続き発行され、同年7月24日(第三十七号)には「与露国社会党書」への「イスクラ(火花)」(ロシア社会民主労働党機関紙)の応答が「露国社会党より」として平民新聞に掲載されました。

 同年8月14日片山潜アムステルダムで開催された第2インターナショナル大会に出席、同大会は片山潜と露国代表プレハーノフを副会長(副議長)に選出、両者は握手して満堂の拍手喝采数分に及んだそうです(「万国社会党大会報告」片山潜自伝 岩波書店)。

法政大学大原社会問題研究所―研究活動・刊行物―デジタルライブラリーー「社会労働運動大年表」―検索-第2インターナショナルー1889.7.14

クリック20世紀―人物ファイルーカー片山潜 

  週刊「平民新聞」は当局の弾圧により次第に経営困難となり、1905(明治38)年1月29日第64号で廃刊となり、加藤時次郎ら発行の「直言」をもって「平民社」機関紙とする了解のもと、同年2月5日から再出発しました。しかしこうした我国における反戦平和運動は深く国民の中に浸透するに至りませんでした。

 1904(明治37)年9月与謝野晶子の「君死に給ふこと勿れ」が「明星」に発表され、大町桂月らとの間に、この詩をめぐって議論が展開されたことは有名です。また翌年1月出征した夫をおもう妻の切ない心を詠った大塚楠緒(くすお)子「お百度詣」が「太陽」に掲載されたことも記憶されるべき事柄です。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーよー与謝野晶子

「君死にたまふこと勿れ」とその周辺―お百度詣 大塚楠緒子

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む22

 極東に展開するロシア艦隊は主力が旅順(旅順艦隊)、支隊がウラジオストック(ウラジオ艦隊)を根拠地としていました。

 1904(明治37)年2月3日早朝旅順艦隊の動きが活発となり、午前10時までに「レトヴィーザン」「ペテロパーヴロヴェスタ」「ポルターワ」などの主力艦が出港行方不明となりました。同年2月6日連合艦隊は旅順及び仁川の露艦隊攻撃と韓国首都漢城を占領する陸軍部隊の上陸支援を任務とし佐世保を出港、2月8~9日仁川、つづいて旅順港外の露艦隊を攻撃、ところが旅順艦隊は大連湾口に停泊しており、同艦隊は損傷をうけ湾内に潜み旅順港外に出てこなくなりました。2月9日には仁川の露軍艦2隻を撃破しました(海軍軍令部編「明治三十七八年海戦史」東京水交社)。

 出口がせまく要塞砲で守られている旅順艦隊に有効な打撃を与えることは困難で、旅順港内に封じこめるために、港の出口に闇夜を利用して汽船を爆破して沈め、水雷艇に乗り移って帰ってくる「旅順口閉塞作戦」が3回にわたって実施されましたが、十分な成果を収めることはできませんでした。同年3月27日に行われた第2回作戦で行方不明の部下杉野孫七上等兵曹を探して戦死した広瀬武夫島田謹二「ロシアにおける広瀬武夫」朝日選書)海軍少佐(死後中佐)が戦死、戦争美談となったのもこのときのことです。こののち連合艦隊先任参謀は有馬良橘から秋山真之に交代しました。

大連紀行―日清・日露戦争―日露戦争―年表―第1回旅順口閉塞作戦    

 

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 第1軍(軍司令官 黒木為楨大将)の主力は同年3月15日鎮南浦に上陸、5月1日鴨緑江を渡河して九連城を占領、5月10日鳳凰城に進出、遼陽に向けて前進するための補給を待ちました(旧参謀本部編 桑田忠親山岡荘八監修「日露戦争徳間書店)。

 第1軍の陸軍中尉多門二郎は同年5月1日朝鮮の対岸虎山の西の河原で戦死者をはじめて見ました。偵察に出た兵が撃たれたのです。初陣の多門は中学生のころ東京三宅坂の堀からひきあげられる土左衛門をみて以来のことで「大に心持が変になった」が、「こんなことではいかん」と思いかえしつつ、兵士の手前、平気な顔をして、「御同様、こんなになるんだぜ」と中隊の兵に小声でかたりかけたりしました。仙台歩兵第四連隊の小隊長であった彼は、のろいにぶいといわれる東北兵をひきいて、近衛兵や九州兵におくれをとるまいと決心していたのです(多門二郎「予が参加したる日露戦役」「現代日本記録全集」第6 橋川文三編 日清・日露の戦役 筑摩書房)。

 第2軍(軍司令官 奥保鞏大将)は5月5日遼東半島南岸(塩大澳付近)に上陸、秋山好古少将は騎兵第1旅団長として第2軍に所属しました。第2軍は南下して遼東半島の中でもっとも幅が狭い金州付近を占領し、旅順を孤立させる作戦を命ぜられていました。5月26日第2軍は南山を攻撃、第2軍は機関砲(銃)使用に習熟せず(大江志乃夫「日露戦争軍事史的研究」第1章二-2 岩波書店)、歩兵攻撃中心の日本軍は苦戦の末南山を攻略、5月29日には大連を占領しました。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーおー奥保鞏―く―黒木為楨

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む24

 同年4月30日ロシアはバルチック艦隊による増援を決定(田中宏巳「秋山真之吉川弘文館)、この情報を得て、バルチック艦隊が極東に到着するまでに、旅順を陥落させようと、5月31日大本営は旅順攻撃のため第3軍(軍司令官 乃木希典大将)を編成、第2軍を遼陽に向け前進させることを決定しました。6月20日満州軍総司令部(総司令官 大山巌・総参謀長 児玉源太郎)を設置、総司令部は戦局の推移とともに移動、参謀総長には山県有朋が任命されました(谷寿夫「機密日露戦史」原書房)。

 この人事についてははじめ山県有朋満州軍総司令官を自薦しましたが、すでに総参謀長に内定していた児玉源太郎は部下に能力を発揮させる雅量のない山県を嫌い、雅量のある大山巌の総司令官就任をつよく希望しました。しかし桂首相・陸相寺内正毅らは同じ長州閥で陸軍の巨頭山県に遠慮、児玉の要請を斡旋しようとしないので、児玉は明治天皇を動かし勅命で大山総司令官任命を実現したのです。

 大山が明治天皇に拝謁すると天皇は「山県もいいのだが、こまかいことまで口出しするので、諸将がよろこばぬようだ、そこへゆくとお前はうるさくなくていいということでお前に決まった」と云ったので、大山は笑いだし「すると、この大山はボンヤリしているから総司令官にちょうどよいというわけでございますか」と答えたそうです(生出寿「知将児玉源太郎光人社)。

 また5月19日渤海湾の大孤山に上陸した独立第10師団を拡大して6月30日第4軍(軍司令官 野津道貫大将)が編成されました(沼田多稼蔵「日露陸戦新史」岩波新書)。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーのー乃木希典―野津道貫

 

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 1904(明治37)年4月25日ウラジオ艦隊は軍隊輸送中の金州丸を元山沖で、同年6月15日対馬海峡で陸軍運送船常陸丸・和泉丸を、7月20日津軽海峡を通過して太平洋岸で汽船・帆船など5隻を撃沈しました(「明治三十七八年海戦史」)。

 このようなウラジオ艦隊の活動を見て旅順艦隊はウラジオ艦隊への合流を目的に同年8月10日旗艦ツエザレウイッチ以下17隻が旅順港を出港、黄海で連合艦隊と交戦、旗艦ツエザレウイッチ砲塔が撃破され司令長官や操舵手らが戦死したため、旅順艦隊は大混乱に陥り、主力は再び旅順に敗走しましたが、他の戦艦などが膠州湾・上海・サイゴン武装解除となりました(黄海海戦)。なお8月14日には第2艦隊(司令長官 上村彦之丞)は蔚山沖でウラジオ艦隊と交戦1隻撃沈、2隻を撃破しました(「明治三十七八年海戦史」)。  

 同年8月19日第3軍(参謀長 伊地知幸介)による旅順第1回総攻撃が実施されましたが、同月24日までに日本軍死傷者は15800名という犠牲者を出し失敗に終わりました(沼田多稼蔵「前掲書」)。

 8月25日夜半第2・4軍(第1軍は別働隊)は遼陽に向かって前進、第2軍所属秋山好古指揮の支隊(騎兵及び歩砲工兵を含む)は日本軍主力の左翼に位置し、ミシチェンコ指揮下のコサック騎兵集団の横撃を防ぐ任務を与えられていました。同月27日豪雨の中を奥軍は鞍山站を攻撃しましたが、ロシア軍主力は首山堡に退却しており、同月30日未明から首山堡攻撃を開始、秋山支隊は応援に派遣されたバイカルコサック騎兵砲第2中隊と死闘、同月31日橘中佐は大隊を率いて突撃の末戦死、翌日の首山堡占領に貢献、海の広瀬武夫中佐とならんで軍神扱いをうけました。別働隊の黒木軍は日本軍右翼から8月24日行動を開始、同月30~31日太子河を渡河してロシア軍を攻撃、9月2日饅頭山を占領、クロパトキンは奉天まで退却を決意、日本軍は9月4日遼陽を占領しました(遼陽の会戦)(旧参謀本部編「日露戦争徳間書店)。

春や昔―メインコンテンツー「坂の上も雲」と日露戦争―日露戦争(陸戦)―遼陽会戦

 茂沢祐作(第1軍第2師団歩兵第16連隊所属上等兵)は遼陽の会戦を次のように述べています。

 「敵の砲撃はますます猛烈を極め、落下する砲弾は実に寸土も余さざるごとくなりし。(中略)午後に至って吾々の弾薬補充の道は絶え、ために大いに節約を要し砲兵もまったく沈黙の姿となり、有利の目的を見逃せしこと一再ならず。」(9月2日)「昨晩のごとき爆裂弾を携えてこれを投じつつ吾らが散兵線(散開した戦闘隊形)に飛び込んできた露兵は、身に絨袴(ズボン)と長靴を履きたるほか裸体にて、一つの武器だも携えることなく進んできたには驚いた。」(9月3日)(茂沢祐作「ある歩兵の日露戦争従軍日記」草思社

 遼陽会戦が終了してから、日本軍の将兵には、これで戦争は終わりだ、ヤレヤレという気が満ちており、「兵士は『進軍喇叭は冥土の鐘なり』といい、『旅順に進むものは意気銷沈し、北進軍に従軍するものは昂る。』等の言を弄するもの生じ、寒心に堪えざるものあり」(谷寿夫「機密日露戦史」原書房)と述べられています。

 クロパトキンの遼陽退却に対する批判が高まり、グリッペンベルク大将が彼と同格で第2軍司令官に任命されて満州に派遣されることになりました。この動きに対抗するためクロパトキンはロシア政府に工作するとともに、攻勢にでたのが沙河会戦です(ウォーナー「日露戦争全史」時事通信社)。

 10月10日日本軍は沙河付近でロシア軍主力を攻撃しましたが、同月20日には弾薬不足のため攻撃中止、沙河をはさんで両軍は対峙しました。11月の満州は冬季にはいり、両軍の戦線は膠着状態が続きました(旧参謀本部編「日露戦争徳間書店)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む26

 日露開戦後の1904(明治37)年2月23日日韓議定書が調印され、①日本政府は韓国皇室の安全並びに韓国の独立と領土保全を確実に保証する。②第三国(ロシア)の侵害もしくは内乱により韓国皇室の安寧あるいは領土の保全に危険がある場合、日本政府は臨機必要の措置をとる。韓国政府は日本政府の行動を容易ならしめるため、十分便宜を与える。日本政府はこの目的を達するため、軍略上必要の地点を臨時収用することができる。③両国政府は相互の承認なく、本協約の趣意に反する協約を第三国との間に締結してはならない。と規定されました(「日韓議定書」外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 同年5月30日元老会議で「対韓方針に関する決定」(翌日閣議決定)が了承され、(二)-一、防備ヲ全フスルコトでは日韓議定書第三条(韓国の独立と領土保全)により、平和克復後も相当の軍隊を同国要所に駐留させる必要があり、三、財政ヲ監督スルコトでは韓国軍隊は親衛隊を除くほか漸次その数を減少させると述べています(外務省編「前掲書」)。

 同年3月11日後備歩兵5個大隊を中心に韓国駐劄軍(司令官 原口兼済少将)が編成されたのですが、8月12日後備歩兵12個大隊に増強、9月7日近衛師団長長谷川好道中将を大将に昇進させ、韓国駐劄軍司令官として天皇に直属させました(陸軍省編「明治軍事史」下 原書房)。これは韓国駐劄軍司令官が位階勲等とともに公使の上に立ち、外交にも介入する先例となったのです。

 さらに日韓議定書を推し進める日韓協約(第1次)が同年8月22日調印され①韓国政府は日本政府推薦の日本人1名を財務顧問として傭聘、②韓国政府は日本政府推薦の外国人1名を外交顧問として庸聘、③韓国政府は外国との条約締結其の他重要な外交案件の処理に関してあらかじめ日本政府と協議するという内容でした(外務省編「前掲書」)。

 これによって韓国政府は財政・外交の実権を失い、日本の保護国へ一段と傾斜していったことがわかります。

 

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 同年10月26日第3軍による第2回旅順総攻撃が本来海岸要塞用の28センチ榴弾砲を旅順攻撃にもちこみ実施、しかし同月31までに日本軍死傷者3830人を出して失敗に終わりました(沼田多稼蔵「前掲書」)。

 11月26日第3軍による第3回旅順総攻撃が開始されましたが失敗、同月28日乃木希典司令官は203高地(通称 爾霊山)攻撃を以後の作戦の中心とすることを命じました。203高地とは旅順の町や港が見下ろせる旅順の背面にある山で、この山頂からの観測で28センチ砲をもってロシア艦隊を砲撃破壊する積りだったのです。同月28日夜日本軍は山頂の一角を占領することに成功しましたが、29日未明ロシア軍によって奪回されてしまいました。  

 この報告を聞いた満州軍総司令部総参謀長児玉源太郎は怒り、大山巌司令官名で発電された訓示は次のような内容のものでした。「今回二百三高地ニ対スル戦闘ノ状況不利ナルハ指揮統一ノ宜シキヲ得サルモノ多キニ帰スルト云ハサルヲ得ス畢竟高等司令部及予備隊ノ位置遠キニ失シ敵ノ逆襲ニ対シ之ヲ救済スルノ時機ヲ誤リタルモノナリ貴官深ク此ニ鑑ミ明朝ノ攻撃ニ当リテハ必ス此弊ヲ除キ各高等司令部適当ノ位置ニ進出シテ自カラ地形ト時機トヲ観察シ占領ノ機会ヲ逸セス且其占領ヲ確実ニスルコトヲ期セラルヘシ」(陸軍省編「明治軍事史」下 原書房

 1904(明治37)年11月29日児玉源太郎は旅順に赴き、乃木軍司令官は児玉に軍司令官代理として第3軍を指揮することを認めたようで、児玉の指揮の下12月5日ようやく203高地を確保することに成功しました。しかしこの日までの日本軍死傷者は約17000人に達しました。 かくして12月10日までに28センチ砲で旅順艦隊の主力を破壊する事が出来たのです。この日児玉源太郎は旅順から引き揚げました(沼田多稼蔵「前掲書」)。

 本郷源三郎は熊本の貧農の息子でしたが、幼年学校・士官学校首席で卒業、日露戦争では陸軍大尉として出征しました。ある日ばったり出会った石光真清に、彼は維新前だったら熊本の片田舎の貧乏百姓として暮さねばならぬ自分が、このように武士の身分になれたのも時代のおかげだ、満足して死ねるといい、数日後の東鶏冠山のたたかいで胸に貫通銃創を受けて戦死しました(石光真清「望郷の歌」中公文庫)。

 1905(明治38)年1月1日旅順守備軍司令官ステッセルは降伏を申し入れ、翌日水師営で旅順開城規約調印、同月13日日本軍が入城を果しました(沼田多稼蔵「前掲書」)。

中国東北地方に高句麗文化を訪ねるーはじめにー水師営会見所

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む28

 沙河でロシア軍と対峙していた日本の満州軍総司令部はときには零下40度まで下がる厳寒の満州においてロシア軍が攻勢に出るはずはないと楽観していました。総司令部の児玉源太郎・松川敏胤らはロシア軍がかつてナポレオン指揮下のフランス軍をロシアの厳冬下に撃破したという史実をあまりよく知らなかったもののようです。しかし日本軍の最左翼に布陣していた秋山好古指揮下の秋山支隊は1905(明治38)年1月9日永沼秀文中佐指揮の挺身隊などを遠く蒙古地帯まで派遣して、後方を撹乱しつつ情報を収集し、ロシア軍が攻勢に出ることを推察する報告を総司令部に連絡していましたが、総司令部は楽観していたのです。

 1904(明治37)年10月26日極東総督アレクセーエフは解任され、クロパトキンは極東陸海軍総司令官(総司令部を奉天に設置)となり、ロシア満州軍は第1軍~第3軍(第1軍司令官 リネウイッチ大将・第2軍司令官 グリッペンベルク大将・第3軍司令官 カウリバルス大将)に再編成されました。

 1905(明治38)年初め旅順陥落の情報が入ると、クロパトキンに批判的なグリッペンベルクは乃木軍が旅順から北進してくるまでに日本軍に大攻勢をかけることを主張、これに対して慎重なクロパトキンも許可、日本軍左翼に布陣する秋山支隊が展開する黒溝台を攻撃するために、ロシア陸軍最強といわれるミシチェンコ中将指揮下のコサック騎兵支隊を臨時に露第2軍に所属させました。

 クロパトキンは総攻撃開始以前に日本軍の実態を知り、あわせて鉄道破壊などを任務として同年1月9日ミシチェンコ騎兵支隊を日本軍後方に派遣したのです。しかしこの作戦は不徹底で鉄橋を爆破できず、海城・牛荘城・営口の日本軍兵站基地に打撃を与えることもなく、作戦期間8日間で北方へ撤退していっただけに終わりました(デニス・ペギー・ウォーナー「日露戦争全史」時事通信社)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む29

 同年1月25日グリッペンベルクはシベリア第1軍団・猟歩兵1個師団及び欧露から到着した第8軍団、狙撃歩兵第1旅団・同第5旅団、これに付加されたミシチェンコ機動軍即ち秋山好古支隊の約6倍の兵力で総攻撃を開始、これが成功すればクロパトキン指揮下のロシア軍主力は日本軍中央部を突破する積りだったのです。

 日本満州軍総司令部は予想せぬロシア軍の大攻勢に狼狽し、作戦室は騒然となりました。総参謀長児玉源太郎も落ち着きを失っていたとき、総司令官大山巌は作戦室に姿を現し、「時に殷々たる砲声を耳にしては、児玉に問うて曰く。今日も戦がありますかと。(中略)かかる際に、突如として悠々たる奇問に接すると。今迄熱し切ってゐる頭脳に向けて、萬斛(ばんこく 多量)の冷水を瀉(そそ)ぎかけられた心地がして、愕然として俄に悟る処が多かった。」(近世名将言行録刊行会編「近世名将言行録」第3巻 吉川弘文館)。

春や昔―メインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争―日露戦争(陸戦)―黒溝台会戦

 秋山好古は李大人屯に司令部を置き、支隊は韓山台・沈旦堡・黒溝台付近に布陣していましたが、グリッペンベルク軍の攻撃を受けると総司令部に連絡、総司令部は第8師団に秋山支隊の救援を命令、黒溝台は一時放棄しましたが、秋山は李大人屯・沈旦堡を死守、救援に赴いた第8師団は敵の重囲に陥り、身動きできない状況に置かれました。そこで総司令部はさらに第2軍の第3・5師団及び第1軍第2師団を引き抜いて秋山支隊救援に投入、1月29日黒溝台を奪回しました(沼田多稼蔵「前掲書」)。  クロパトキンは1月28日グリッペンベルクに退却を命令、怒ったグリッペンベルクは欧露に帰って新聞その他にクロパトキン批判の文章を発表しました(ウォーナー「前掲書」)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む30

 ロシア皇帝ニコライ2世の侍従武官として皇帝の信頼が厚かったロジェストウェンスキー少将(後)中将)はバルチック艦隊(第2太平洋艦隊)を編成して極東へ派遣し、旅順の第1太平洋艦隊の増援を皇帝に進言、バルチック艦隊司令長官に任命されました。

 艦隊(旗艦スワロフ)は1904(明治37)年10月15日バルト(バルチック)海のリバウ港を出港しました。ところが同年10月21日艦隊は北海のドッガーバンクと呼ばれる浅瀬で英漁船を日本水雷艇と誤認して砲撃(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院)、このため英露関係が一時緊迫しました。

 この事件から2日目バルチック艦隊英仏海峡を通過、事件から6日間航海してスペインのヴィゴに入港、ここでドイツ国籍の石炭輸送船から石炭の補給を受けようとしましたが、イギリスの圧力をうけてスペイン政府はバルチック艦隊の戦艦1隻について石炭400トンのみを積み込むことを許可しました。このやりとりで艦隊は5日間の足どめをくったのです。

 同年11月3日艦隊はフランス植民地モロッコのタンジールに入港、ここでフェリケルザム少将指揮下の支隊はスエズ運河経由の針路をとることになり、艦隊主力は石炭を積み込み同月7日出港、以後主力はアフリカ西岸を南下、11月12日フランス植民地のダカール入港、ダカール総督は艦隊への石炭積み込みを許可しませんでしたが、ロジェストウエンスキーはこれを無視、猛暑の中での石炭積み込みの重労働を強行、乗組員たちは疲れ果て、これが士気の低下を引き起こしたのでした(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院・ノビコフ・プリボイ「ツシマ バルチック艦隊の壊滅」原書房 このプリボイの著作は小説の形式で叙述されており、必ずしも史実とは限らないことに注意)。

 艦船はよく故障しそのたびに艦隊は航行を停止、ようやくフランス領赤道アフリカのガポン沖の公海に投錨、イギリスとの対立を避けたいフランスからの圧力でペテルブルクからガポン沖投錨を避けるよう指示されたのですがロジェストウェンスキーはこれを無視、相変わらず石炭組み込みを強行、12月1日ガポンを出発しました(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院・ノビコフ・プリボイ「ツシマ バルチック艦隊の壊滅」上 原書房)。