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松本清張「火の虚舟」を読む11~20

松本清張「火の虚舟」を読む11

 篤介の担当は国憲案の調査検討で、彼は汚れた単物(ひとえもの 裏のない一重の夏衣服)の上に小倉袴を着け、いり豆を袂にいれて官署(役所)に出かけ、暇させあれば豆を出してポツリポツリと喰っていたので、ついに豆食い書記官とあだ名されたそうです(岩崎徂堂「中江兆民奇行談」)。

 このころ篤介は日本の改革をめざし策論一篇を草して勝海舟に頼み、島津久光に献呈したと幸徳秋水「兆民先生」は述べています。元老院議官だった勝海舟は薩摩出身の海江田信義を紹介、篤介は海江田を通じて左大臣島津久光に会った経過を勝に報告しました(「海舟日記」明治8年9月18日条 勝海舟全集 第20巻 勁草書房)。

 「兆民先生」によれば久光は「足下の論甚だ佳し、只だ之を実行するの難き耳(のみ)」というと、篤介は「何の難きことか之れ有らん。公宜しく西郷を召して上京せしめ、近衛の軍を奪ふて直ちに太政官を囲ましめよ。事一挙に成らん。」と述べましたが、久光はまあ、よく考えてみよう、と云ったままで、話はそれっきりになったということです。

 「策論」(「全集」第1巻)の内容は第一策~第七策まであり、第七策には「仏蘭西ノ碩儒孟得士瓜(モンテスキュー)曰ク、国ノ草創ニ在テハ英傑制度ヲ造リ、既ニ開クルニ及ンデハ制度英傑ヲ造ルト、善キ哉言ヤ、」とあり、このモンテスキューの言葉はルソー「社会契約論」から孫引きしたものです。このように篤介は主観的にはルソーの思想を日本に生かそうと試みているようですが、自らを英傑になぞらえて民衆の力を結集するという発想に欠け、島津久光のような超保守勢力の協力で武装蜂起による権力奪取を夢みているだけで、そこには民主主義思想の理念を見出すことは出来ないのです。

 篤介は1877(明治10)年1月元老院を辞職しています。西郷が薩南に挙兵して西南戦争が勃発した時期に当たります。幸徳秋水は「兆民先生」で「元老院幹事故陸奥宗光君と善からずして」と述べていますが、辞職の真の理由は不明という外はありません。このころ篤介は「秋水」(おそらく「荘子」秋水篇からとる 金谷治訳注「荘子」第二冊 岩波文庫)の号で執筆するようになります(年譜「全集」別巻)。1878(明治11)年4月23日篤介は高知県士族松田庄五郎の長女鹿(しか)と結婚(「全集」第12巻 月報10)していますが、翌年9月離婚しました。

 

松本清張「火の虚舟」を読む12

 1880(明治13)年3月15日愛国社代4回大会が大阪で開催され、同年3月17日愛国社を国会期成同盟と改称、片岡健吉・河野広中を請願提出委員とすることを決議しました(「自由党史」岩波文庫)。しかるに政府は同年4月5日集会条例を制定(「法令全書」原書房)して、かかる反政府運動の抑圧をはかりました。

 のちに結党される自由党の準備会合が都市ならびに地方民権家合同で1880(明治13)年12月12日東京において開催されたとき、中江篤介ははじめて現実の政治活動に参加しました(「河野磐州伝」上巻 河野磐州伝編纂会編刊)。ここで政党準備は可決されたが、新聞発行は否決されたため、のちに自由党に参加するグループが企画したのが「東洋自由新聞」の発刊でした。

  1880(明治13)年10月21日西園寺公望がフランス留学から帰国しました。肥前出身でフランス帰りの松田正久がある日西園寺を訪問し、新聞を作るので社長になってくれるよう依頼、西園寺はひきうけて中江を引っ張って行こうかと云い、中江に西園寺が話すと中江は「金をくれるなら奮発しよう」と冗談半分に答えたそうです(「坐漁荘日記」昭和6年11月9日○東洋自由新聞の事 小泉策太郎「随筆西園寺公」小泉三申全集 第3巻 岩波書店)。

中江兆民のHomePage―中江兆民をめぐる人々―松田正久

 1881(明治14)年3月18日「東洋自由新聞」が創刊され、社長西園寺公望・幹事松田正久は無給、中江篤介は主筆として新聞紙上の社説に健筆をふるいました。

 西園寺公望が政府と対立する自由民権派の「東洋自由新聞」社長に就任すると、岩倉具視は西園寺実兄の宮内卿徳大寺実則を通じて明治天皇の内諭という形式で西園寺の「東洋自由新聞」社長辞任を申し入れました。西園寺公望は内諭を受け入れませんでしたが、内諭が内勅に格上げされると、西園寺は内勅に屈服(立命館大学編「西園寺公望伝」第1巻 岩波書店)、西園寺社長退社が同年4月9日に発表され、篤介は同年4月9日の社説「西園寺公望君東洋自由新聞社ヲ去ル」で西園寺社長の退社に抗議したのです。

 信州出身の記者松沢求策は「内勅」の事情を暴露した檄文を配布したため、同年4月23日逮捕され懲役70日の宣告を受けました。このような事情により「東洋自由新聞」は同年4月30日34号を発行しただけで事実上廃刊となりました(西田長寿編「東洋自由新聞」東大出版会)。

 篤介の論説は同紙上に無署名も含めて22篇掲載されていますが、第3号社説「君民共治之説」(「全集」第14巻)で政体の名称は数種あって、名ではなく実を問題にせよと説き、イギリスに国王はいるが、宰相を選ぶのも、法律を作るのも人民である。これは共和ではないか。実を主として考えれば、共和政治を君民共和といいかえればよいと主張しています。

 

松本清張「火の虚舟」を読む13

 「東洋自由新聞」廃刊の記事につづいて、(「自由党史」中)は次のように中江篤介を紹介しています。「篤介兆民と号す。土佐の人、維新前長崎に留学し、後ち又巴里に遊ぶこと数年、夙に仏蘭西学に得る所あり、奇才を以て世に推さる、其の自由主義を講するや、専らルーソーの民約論を祖述し、人爵を排し、階級を撃ち、議論奔放、天馬の空を行くが如く、青年の徒、風を聞いて来たり遊ぶ者多し、」

 1881(明治14)年10月自由党結成、翌年3月立憲改進党結党後、1882(明治15)年6月25日自由党機関新聞「自由新聞」が発刊、自由党総理板垣退助社長となり、社説掛には板垣退助・馬場辰猪らとともに中江篤介が名を連ねています(「自由党史」中)。

 しかし板垣外遊の資金の出所をめぐる板垣と馬場の対立が激化(「大山巌」を読む19参照)、同年9月28日馬場辰猪は自由新聞社員を解除(追放)されました(「自由党史」中)。篤介は馬場の正しさを認めながら、行動をともにせず、自由新聞の馬場追放の強引さと改進党攻撃に反発し、やがて自由新聞から退社しました。

 「自由新聞」の発刊準備が進んでいた同年2月20日仏学塾出版局は「(欧米)政理叢談」と題する雑誌を発刊、同誌第2号からルソー「社会契約論」の篤介漢訳「民約訳解」「全集」第1巻)が連載されるようになりました。

鷹の歌―「民約訳解」を読むーはじめにこちらを読んでくださいーはじめにー第一章以下

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松本清張「火の虚舟」を読む14

 篤介はおそらく1886(明治19)年9月(明治22年9月届 「中江家戸籍」年譜「全集」別巻)、長野県東筑摩郡洗馬村出身で平民松沢吉宝の姪ワイの子松沢ちの(通称弥子 いよこ)と結婚しました。

 松沢ちのは被差別部落の出身だという噂がありました。巌本善治主筆の「女学雑誌」(明治22年12月7日付)に次の記事があります。

 「民権を伸ると云ひ、自由を張ると云ふものにして、尚ほ穢多新平民を別視するものあるに至ては、其陋見憫れむに堪へたり。吾人は彼の兆民居士が啻(つと)に大阪新平民の代議員たらんとするのみならず、現に其一婦人の婿となれるを見て大いに喜こぶもの也。」(「新平民」「全集」別巻)

麹町界隈わがまち人物館―メニューへー人名50音順―[あ行―1]―巌本善治

  松本清張氏は長野県東筑摩郡洗馬村まで調査して松沢ちの被差別部落出身説を否定しました。

 1887(明治20)年5月篤介は「三酔人経綸問答」を集成社から刊行しました。その構成を要約(桑原武夫・島田虔次訳・校注「三酔人経綸問答」岩波文庫)すると、酒好きで政治論議を好む南海先生の許へ、ある雨降りの日に金斧印の洋火酒(ブランデー)を持って2人の客が訪問する所から始まります。南海先生は彼らに会ったこともなく、名も知りません。一人は服装も洋風で、目もとすずしく、身体はすんなり、言語明晰です。他の一人はカスリの羽織にきりりとした袴の和装で、あさぐろい顔にくぼんだ目、見ただけでも冒険を喜ぶ豪傑連中の仲間と判ります。そこで南海先生は洋装の人物を紳士君、和装の人物を豪傑君とよんで姓名を尋ねようとしませんでした。

 まず紳士君が「私もまた、世界の形勢について、自己流の考えで見当をつけております。一度先生のご批判をうけたまわりたいものです。」と前置きして次のように主張しました。

 民主制こそ理想の政治体制です。「文明の進歩におくれた一小国が昂然としてアジアの端っこから立ち上がり、一挙に自由、博愛の境地にとびこみ、(中略)軍艦を商船にし、(中略)純粋に理学(哲学)の子となったあかつきには、もし彼ら(欧洲諸国)が侵略して来たとして、こちらが身に寸鉄を帯びず迎えたならば、彼らはいったいどうするでしょうか。剣をふるって風を斬れば、(中略)ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。」

 

松本清張「火の虚舟」を読む15

 これに対して豪傑君は次のように主張します。「小さな国を急に大きくしようと思っても、できるはずがない。(中略)幸いなことに、国を大きくし、国を富まし、兵隊を増し、軍艦を多くする方法が、今日われわれに、ちゃんとあるのです。

 アジアだったか、アフリカだったか、大きな国がひとつある。(中略)一面とても弱い。つまり、よく肥えた大きなイケニエの牛なのです。(中略)その国の半分あるいは三分の一を割き取ってわが国とするならば、われわれは大国となるでしょう。もとの小国はすっかり民権主義者、民主主義者にくれてやろう。(中略)この連中、きっと大喜びでしょう。

 そもそも他国よりおくれて、文明の道にのぼるものはこれまでのいっさいをすっかり変えなければなりません。そうなると国民のなかにきっと昔なつかしの思いと新しずきの思いとの二つが生まれて、対立状態を示すようになるのは、自然の勢いです。(中略)文明国となる準備のために、改革計画を妨げる昔なつかしの元素は、すっかり切り取ってしまう」

 2人の客が南海先生の2人に対する批評を乞うと、先生はつぎのような批評を下しました。

 「紳士君の説は、ヨーロッパの学者がその頭の中で発酵させ、言葉や文字で発表したが、まだ世の中に実現されていないところの、眼もまばゆい思想上の瑞雲のようなもの。豪傑君の説は、昔のすぐれた偉人が、百年、千年に一度、じっさい事業におこなって功名をかち得たことはあるが、今日ではもはや実行し得ない政治的手品です。」

 2人の客は異口同音に「もし彼ら(欧洲諸国)がいつか、たけだけしくも攻めて来たとするならば、先生はいったい、どういう風に対処されるつもりですか。」

 南海先生「われわれはただ力のかぎり抵抗し、国民すべてが兵士となり、敵愾心をいよいよ激しく燃やすならば、どうして防衛することができぬなどという道理がありましょう。」

 洋学紳士「先生、どうか話の要点をつまんで、おっしゃってください。」豪傑の客「わが国将来の大方針について、先生のお考えをお教え願いたい。」

 南海先生「立憲制度を設け、上は天皇の尊厳、栄光を強め、下はすべての国民の幸福、安寧を増し、上下両議院を置いて、上院議員は貴族をあて、代々世襲とし、下院議員は選挙によってとる、それだけのことです。」

 噂によると洋学紳士は北アメリカに行き、豪傑の客は上海に行った、とも言う。そして南海先生は相変わらず酒ばかり飲んでいるという所で「三酔人経綸問答」は終了しています。

 松本清張氏はこの三酔人がすべて兆民の分身であったと述べていますが、この点についてはさまざまの説があります(田中彰「小国主義」岩波新書)。

 本書をひもとくとき、桑原武夫氏の解説(「三酔人経綸問答」岩波文庫)が指摘しているように、三酔人の主張が明治以降の日本にどのように受け継がれ、そして現在に至ったかという観点で読むことが重要で、興味のある方はぜひこの解説をご覧ください。

  同年8月「平民のめさまし」(文昌堂)を出版、はじめて「兆民」と号するようになりました(「全集」第10巻)。出典に相当する古典も見当たらず、「億兆の民」を意味する号でしょう。

 

松本清張「火の虚舟」を読む16

 1887(明治20)年井上馨外相の条約改正案に対するボアソナード谷干城意見書が秘密出版で公表され、10月には片岡健吉らが植木枝盛起草の三大事件建白書(地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回)を元老院に提出、一時衰退したかに見えた自由民権運動は再び盛り上がる情勢となってきました(「大山巌」を読む26参照)。

 同年12月2日後藤象二郎天皇に拝謁を乞い、宮内大臣に拒否されると封事(密封して君主に奉る意見書)を奉呈して退出しましたが、これは中江兆民が後藤の意を受けて起草したものです(「自由党史」下)。

 これに対して政府は同年12月26日保安条例を官報号外により公布施行、秘密の結社集会の禁止・屋外の集会運動の制限・危険人物の退去命令などで、中江兆民は皇居3里以外に2年間追放され大阪に移転しました。大阪で民権派の新聞発行の企画があり、兆民は新聞主筆として招かれていたからです。

 1888(明治21)年1月15日「東雲(しののめ)新聞」(原田伴彦・村越末男監修「復刻東雲新聞」部落解放研究所)が創刊されました。

 「東雲新聞」に第3号から連載された「国会論」(「全集」第10巻)で兆民は完全普通選挙を主張、「土着兵論」(「全集」第11巻)では徴兵制に変えて民兵制を主張、理由として常備軍では地位や金の有る者は兵役をまぬかれるし、数十万の兵力を養うのは経済的ではないなどが挙げられています。

 さらに同年2月「東雲新聞」に2度連載された論文「新民世界」(「全集」第11巻)で兆民は「余は社会の最下層の更に其下層に居る種族にして、印度の「パリヤー」希臘(ギリシャ)の「イロット」と同僚なる新平民にして昔日公等の穢多と呼び做(な)したる人物なり」とし、「吾等の同僚中には死獣の皮を剥ぐ者有り公等の同僚中には死人の皮を剥ぐ者有るに非ずや獣の皮を剥ぐ者これを穢多と謂ひ人の皮を剥ぐ者これを医師と謂ふ何の論理法ぞや」と部落差別を痛烈に批判しました。

 

松本清張「火の虚舟」を読む17

 幸徳秋水が兆民宅を訪ねたのは1888(明治21)年11月で、兆民は「頭に真紅の土耳其(トルコ)帽を載き、身に東雲新聞の印半纏を着て出入りせしも此時に在りき。壮士演劇を創して其顧問たりしも此時に在りき。」(「兆民先生」)という変わった服装をしていたと幸徳秋水は伝えています。兆民宅には食客が「予等書生多きは四五人、少なきも二三人常に玄関に群居せり」(「兆民先生」)という状態であったようです。

 同年12月3日「東雲新聞」の記者であった角藤定憲(すどうさだのり)が大阪新町高島座で改良演劇と称して壮士芝居を公演しました(「全集」別巻 年譜)。これが新派(歌舞伎を旧派と呼ぶ)劇のはじまりといわれています。兆民と角藤定憲の関係については前掲の「中江兆民奇行談」に詳説されていますので、興味のある方はご覧下さい。

TownStroll-大阪の歴史の散策情報ー大阪市内のマップ概略ー肥後橋~西大橋ー19 角藤定憲改良演劇創始の地の碑 

 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布されました(「大山巌」を読む27参照)。このことに関して「先生嘆じて曰く、吾人賜与せらるゝの憲法果して如何の物乎、玉耶将た瓦耶、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ。我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此(かくのごと)くなるやと。憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯だ苦笑する耳(のみ)。」(「兆民先生」)

 

松本清張「火の虚舟」を読む18

 1890(明治23)年7月1日第1回総選挙が行われました(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編 大蔵省印刷局)。

 当時の衆議院議員選挙法(内閣官報局編「法令全書」第22巻ノ1 明治22年 原書房)によれば、被選挙人は満30歳以上の男子、直接国税15円以上を選挙府県内で前満1年以上納める者とされていました。選挙権も満25歳以上の男子で直接国税15円以上を納入することが必要とされ、直接国税15円以上とは田地1~2町歩以上の地主か、年収1000円以上の者となり、選挙権有権者は約46万人、全人口の1.1%に過ぎませんでした。

 中江兆民は戸籍を高知から大阪府西成郡曽根崎村2767番地に移し、財産を被差別部落民らの名義を借り、大阪四区で衆議院議員に当選しました。

 同年11月29日開会された第1通常議会において、山県有朋内閣は軍備増強の予算案を提出しました。民党は民力休養・政費節減をスローガンに、軍艦建造費など政府予算案大削減で対抗しましたが、1891(明治24)年2月20日政府は民党の土佐派切り崩しで修正案(歳出削減額を縮小)を通過させました(「大山巌」を読む29参照)。

 このことについて中江兆民は「衆議院彼れは腰を抜かして、尻餅を搗きたり総理大臣の演説に震懾(しょう 恐)し、解散の風評に畏怖し、両度迄否決したる即ち幽霊とも謂ふ可き動議を、大多数にて可決したり、(中略)無血虫の陳列場」(「全集」第12巻)と述べ、下記の辞表を衆議院に提出「小生事近日亜爾格児(アルコール)中毒病相発シ行歩艱難、何分採決ノ数ニ列シ難ク、因テ辞職仕候、此断及御届候也」、同年2月27日衆議院は辞職を承認しました(「帝国議会衆議院議事速記録」年譜「全集」別巻)

 

松本清張「火の虚舟」を読む19

 1891(明治24)年4月20日「北門新報」が北海道小樽で創刊され、兆民が主筆となりました。彼は東京から「北門新報の発刊に就て」(「全集」第13巻)の原稿を送り、「一年三百日、内閣、国会、政党、撰挙、競争、離間、讒誣(ざんぶ 無実のことを云いそしる)等の瘴煙(しょうえん 毒気を含んだもや)中に吸嘘(呼吸)し、殆んど将に窒息せんとす」と述べ、内地から北海道を見るのは「炎天に冰水(ひょうすい 氷水)の看板を見るが如し」と嘆息しているようです。

 同年8月兆民は「北門新報」退社、札幌で高知屋という紙屋(材木屋目標)を開業しましたが長続きしなかったようです。

 1893(明治26)年3月一時中江家を離れて下宿していた幸徳秋水が三たび中江家に住みこむようになり、このとき幸徳は兆民から「秋水の二字を用ゐよ。是れ正に春藹の意と相反す。予壮時此号を用ゆ。いま汝に与へん。」(「兆民先生」)といわれたのです。幸徳の記録によれば、兆民は北海道、大阪をかけまわり、東京の自宅で妻子と暮らすのは金策がつくのを待つ間だけであったようです(幸徳秋水「兆民先生行状記」岩波文庫)。

幸徳秋水を顕彰する会―幸徳秋水 略伝

 1897(明治30)年12月22日兆民は「国民党」を結成、翌年1月15日機関誌「百零一」創刊、この機関誌に発表された「創立趣意書」には「夫レ征清ノ役タル空前ノ偉業ナルモ還遼(遼東半島還付)ノ一躓(ち つまずき)頓(とみ)ニ国民ノ意気ヲ沮喪(そそう 気力がくじける)シ余ス所ハ亜細亜老大国ノ門戸ヲ打破シテ欧洲列強ノ為メニ覬覦(きゆ 限度を超えたことを望み願う)侵略ノ道ヲ闢(ひら)キタルニ過ギズ」(「全集」第15巻 )と述べ、日清戦争を肯定しました。

 1898(明治31)年年3月15日の第5回総選挙で国民党は一人も当選せず、国民党は解党して党員は憲政党に加入せざるを得なかったのです。

 信州飯田出身の伊藤大八は1877(明治10)年仏学塾に入った兆民の愛弟子でしたが、、第一議会以来自由党代議士となり、1892(明治25)年6月21日鉄道敷設法が公布されると自由党系の鉄道族議員として実力をたくわえ、1898(明治31)年6月30日第1次大隈重信憲政党内閣(隈板内閣)の時逓信省参事官兼鉄道局長となりました。

国立国会図書館―東京本館―専門室・閲覧室案内―憲政資料室―憲政資料―憲政資料室の所蔵資料―旧蔵者50音順索引―いー伊藤大八関係文書

 中江兆民は1894(明治27)年から関東をはじめとして中国・四国・九州・奥羽地方の鉄道会社発起人となり伊藤大八に代表される政府高官との橋渡しをして報酬を得ていたようですが、期待するほどの報酬は得られなかったようです。

 群馬県議会は1881(明治14)年に公娼廃止の建議を可決、県令は廃娼令を布達しましたが延期され、1893(明治26)年12月31日廃止が実現しました。しかるに憲政党内閣の成立により任命された旧自由党系の群馬県知事草刈親明は公娼復活賛成を明言、そこで運動費を受け取り、板垣退助内務大臣と地方の旧自由党系の人物を橋渡しする役目を引き受けたのが中江兆民でした。草刈知事は公娼復活を許可するに至りましたが、憲政党内閣は短命で倒壊したため(「大山巌」を読む46・47参照)、新内閣によって草刈知事は免官となり、後任知事が許可を取り消し、兆民の運動は失敗、この件は当時の「毎日新聞」や「万朝報(よろずちょうほう)」(「群馬の大怪聞」1-13 万朝報刊行会編「万朝報」25 日本図書センター)に醜聞として連載報道されました。

 

松本清張「火の虚舟」を読む20(最終回)

 1900(明治33)年8月26日付の手紙で兆民は幸徳秋水立憲政友会を批判した「祭自由党文」を執筆するよう依頼(「全集」第16巻)、これに応えて秋水は同年8月30日「万朝報」に「自由党を祭る文」を掲載しました。のちに紹介する予定です。

 ところが同年10月兆民は近衛篤麿が組織した対外硬(対露強硬)派の運動体「国民同盟会」に参加、秋水は「国民同盟会は蓋(けだ)し露国を討伐するを目的となす者、所謂帝国主義の団体也。先生の之に与(くみ)する、自由平等の大義に戻(もと)る所なき乎」と批判すると兆民は笑って「露国と戦はんと欲す、勝てば即ち大陸に雄張して、以て東洋の平和を支持すべし、敗るれば即ち朝野困迫して国民初めて其迷夢より醒む可し。能く此機に乗ぜば、以て藩閥を勦滅(そうめつ 滅ぼし尽くす)し内政を革新するを得ん、亦可ならずや」(「兆民先生」)と云ったそうです。

近代日本人の肖像―日本語―名50音順―こー近衛篤麿

 1901(明治34)年3月22日兆民は突然喉から出血、大近阪滞在中の4月中旬喉頭癌の診断を受け、医師から余命一年半を宣告されると、同年5月26日気管を切開、6月「一年有半」(「全集」第10巻)を執筆、8月3日脱稿、原稿を幸徳秋水に託し9月2日博文館から出版されました。

 同年9月6日兆民は堺の大上練炭会社事務所を発って東京に帰り、「続一年有半」の執筆を開始、約10日間で書き上げ、同年10月5日博文館から出版されました。

雁屋哲の今日もまた―過去の記事一覧―アーカイブー2009年 05月―2009年5月22日(金)中江兆民の「一年有半・続一年有半」

 同年12月13日中江兆民は55歳で死去、青山墓地の母の隣に埋葬されました。

 松本清張氏は兆民の「一年有半」の中にある「我儕(我輩)は是れ、虚無海上一虚舟」という文句がいちばん好きなんですといって、本書の叙述を終了しています。