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ペルリー提督「日本遠征記」を読む11~20

ペルリ提督「日本遠征記」を読む11

 ペルリ提督は琉球にいる多数の日本代官とその密偵とが、琉球において発生したあらゆる出来事に注意し、帝国(日本)政府に報告しようと常に監視しているのをだしぬくために、艦隊中の帆船の幾艘かを江戸湾に出発させ、そのすぐあとから自分の汽船で続航し、先発船と合流するのが得策だと考えました。

 そこで1854年2月1日マセドニアン号がヴァンダリア号、レキシントン号及びサザンプトン号を率いて出帆、提督は同年2月7日サスクエハンナ号、パウアタン号及びミシシッピ号を率いて先発船の後を追いました。運送船サプライ号は翌日上海に向かって出帆し、同地で石炭及び若干の家畜を積み江戸湾で艦隊に合流するよう命令されていました。

 那覇を出発する以前、ペルリ提督はオランダ印度総督から、米大統領の親書受領後まもなく日本の皇帝が崩御された旨知らせがありました。日本当局者は長崎駐在オランダ商館監理官に対して、一定の葬送の儀式と帝位継承の手続きとを行うことが必要になり、そのため当分大統領親書についての審議が延期されることになったのでアメリカ艦隊がペルリ提督の定めた時期に江戸湾に帰航してくれるなという日本政府の希望を伝えてくれるよう繰り返し要求したのでした。提督はオランダ印度総督の通信に対し、皇帝崩御について哀悼の意を表しましたが、この通告のためにその計画の遂行を思い止まることはありませんでした。

 同年2月13日午後3時7隻から成る艦隊は浦賀町より12哩、首府江戸より20哩はなれた江戸湾西側の入り江に投錨しました(「維新史料綱要」巻1 安政元年正月16日条 参照)。政府御用船2艘がやってきて、役人の乗艦を許可されたいと要求したので、ペルリ提督は艦長アダムスに命じて旗艦パウアタン号に役人たちを迎えさせました。以後日本側と提督との間に繰り返された折衝は次のような内容でありました。

 役人たちは日本高官とペルリ提督会見の場所を浦賀もしくは鎌倉に指定しましたが、提督は艦長らを通じて浦賀も鎌倉も非常に遠く、港として危険であるから何処か他の場所、もっとも望ましい江戸を選ぶべしと主張しました。また来る2月22日水曜日はワシントンの誕生祭であるから礼砲を発射すると日本側に通告し、同日正午礼砲を発射しました。

さらに2月24日提督は艦隊を檣頭から江戸が見える地点まで移動させて、日本側に無言の圧力をかけたのです。

 2月25日アメリカ側既知の香山栄左衛門がやってきて、提督が自分の目的を変えず江戸のもっと近くに近づこうとしていることを知ると、彼は突如として先に提出した日本委員の会見地に関する最後通牒を廃棄し、当時艦隊が停泊していた場所の真向かいに当る横浜村にすぐ近い一地点を提案しました。

 提督は自分の部下の士官が栄左衛門に従ってその地点に赴き、適当であることを見出したので、栄左衛門の提案に同意する旨林大学頭(復斎)に書翰を送りました(「維新史料綱要」巻1 安政元年2月朔日条 参照)。

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 ペルリ提督「日本遠征記」を読む12

 ペルリ提督は9艘の艦隊(サラトガ号とサプライ号が加わる)を横浜湾に停泊させました。1854年3月8日まず士官と武装した水兵及び陸戦隊約500名より成る儀仗兵が上陸、提督はマセドニアン号からの17発の礼砲を発射しつつ旗艦パウアタン号から乗艇に乗り移りました。提督上陸後士官たちは一列になって提督に従い、アメリカ人が条約館と呼んだ建物に向かいました。この建物は横浜村に隣接し、神奈川から3哩を隔て、首府の南郊から5哩、江戸自身からは多分9哩を隔てる位置にあったのです。

 提督とその一行が館に入る時、皇帝に敬意を表するため、海岸近くの艦載ボートの船首に載せてあった榴弾砲で21発の礼砲が発射され、それに次いで高級委員林大学頭のために17発の礼砲が発射されました。

 提督と部下の士官達及び通訳達が上席である左側の席につき、多数の日本役人が右側に席をとると、5人の委員が他の部屋から入ってきました。顧問官林大学頭が明らかに主席委員で、当日勤務した主席通訳は森山栄之助(「日本遠征記」を読む13参照)という人物です。

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 双方挨拶の後委員たちは別室で会議を継続することを提案、提督も同意し、提督は艦隊指揮官と2人の通訳と秘書を伴って別室に入り、主席委員は提督に1本の巻紙を渡しました。それはさきに久里浜訪問の際に手渡した大統領親書にたいする回答で、その内容の要点は次のようなものでした。

日本皇帝陛下に呈したる大統領親書にたいする回答訳文(「大日本古文書・幕末外国関係文書之五」120号文書 参照)

1 貴政府の提案全部に対して、直ちに満足なる回答を与ふるは、吾が国祖宗の法律によって、極めて厳重に禁ぜられ居るところなれば、全く不可能なり。

2 昨年卿が当帝国に来訪された際には先帝陛下(12代将軍家慶)病にありて、今や薨去されぬ。その後今上(13代将軍家定)即位せられ、即位につきての幾多の事未だ完了せざるため、他事を徹底的に解決するの時なし。

3 最近長崎にロシアの使節到着して、ロシア政府の希望を通告したり。同使節は長崎を去れり。されど石炭、薪水、食料及び難破船とその乗員との救助に関する貴政府の申出の緊要なるを認めて、全くその申出に添はんとす。卿が如何なる港を選ぶかを通告されたる後に、その港の準備をなさん。

4 交易さるべき商品の価格は、黒川嘉兵衛と森山栄之助とによって決定さるべし。

5 右に述べたる諸点を決定したる後は、次回の会見に於て条約を締結し署名することを得。                                  

                 高官諸氏の命令によりて捺印

                         森山栄之助

 提督は、この文書に主席委員が署名して明日自分に渡してくれるようにと願ってこれを返し、条約の商議に入りました。提督は合衆国・支那(清国)間の条約と同様の条約を結ぶことが二国民にとって好ましいと語り、英語・支那語(漢文)・及びオランダ語で書いた支那(清国)条約の写しに、提督からの覚書2通並びに主席委員が浦賀から送った手紙に対する返書1通を添えて日本人に渡すと、日本人はその諸文書を自国語に翻訳させるため、時間を貸してくれと願いました(「維新史料綱要」巻1 安政元年2月10日条 参照)。  

 その他の問題及び饗応の後、提督は条約館を退出、軍楽隊の奏楽に送られて海岸へ行進し乗艇に乗り込んで帰艦、当日の儀式に参加した士官、水兵、陸戦隊も後に続きました。

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 ペルリ提督「日本遠征記」を読む13

 1854年3月9日組頭黒川嘉兵衛と主席通訳森山栄之助が大統領の親書に対する皇帝の回答に委員たちが署名したもの(「大日本古文書・幕末外国関係文書之五」94号文書 参照)を持ってパウアタン号を訪問、次いでミシッシピ号に赴き、アダムス艦長と協議しました。彼等は電信機、銀板写真装置、蒸気機関などのアメリカ側の贈物受け取りの日として3月13日を指定しました。またアダムス艦長はアメリカ人との貿易にあてるために委員たちはどの港を選んだか、その港は何処にあるかと質問しましたが、組頭は明言を避けました。

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笑う門には福来るー教育―日本における英語教育の始まりー日本における英学のはじまりー4 森山栄之助

  同年3月13日贈り物はアボット艦長指揮により、少しの損傷もなく陸揚げされました。 贈り物が正式に渡されたので、この目的のために選抜されたアメリカ士官と労働者たちは、それを展観するために荷物を解き整理したのです。ドレーパー氏とウイリアムス氏の指図によって電信装置は仕事ができるように準備されました。電線は真っ直ぐに、約1哩張り渡され、一端は条約館に、一端はその目的のために設けられた一つの建物にありました。両端にいる技術者の間に通信が開始された時、日本人は烈しい好奇心を抱いて運用法を注意し、一瞬にして消息が英語、オランダ語、日本語で、建物から建物へと通じるのを見て多いに驚いていました。

 小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそったのです。その客車は非常に小さいので6歳の子供をやっと運び得るだけでしたが、日本人はそれに乗らないと承知ができませんでした。円を描いた軌道の上を1時間20哩の速力で真面目くさった一人の役人がその寛かな衣服を風にひらひらさせながらぐるぐる廻っているのを見るのは少なからず滑稽な光景でした。彼は烈しい好奇心で歯をむいて笑ひながら屋根の端に必死にしがみついていました。

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    ペルリ提督「日本遠征記」を読む14

 ペルリ提督と日本委員との会見の日3月16日は嵐で翌朝に延期され、合衆国が支那(清国)との間に結んだ条約を基礎として提督が提案した日本との条約に関する覚書に対する日本委員の手紙がアメリカ側に渡されました。その内容は① 明年1月よりアメリカ船舶の必要とする薪水、食糧、石炭その他の物を長崎で供給する ② 同月より五ヶ年の後、他の封領における1港を開き船舶の入港に宛てる、というものでした。

 条約館においてペルリ提督は①について提督は長崎を開港場の一つとして承認しようとは思わない。②について60日以内でなければならない、と主張しました。

 やがて提督は委員たちに対し、アメリカ船舶のために五つの港をを開くことを期待しようと告げました。けれども当分三港で、一つは日本島内の浦賀か鹿児島、他の一つは蝦夷松前、第三は琉球那覇港で満足する積りだと語ったのです。委員たちは此れに対して下田を提案し、琉球蝦夷については日本皇帝の統制がわずかしか及んでいないので、何らの提案もなしえないと回答しました。下田について提督は同港の調査後適合か否かを決断すると答えました。

 3月23日には代理委員がパウアタン号に来艦し、アメリカ船舶に食料、薪水を供給するために函館(箱館)港を翌年七月(1855年9月17日)開港する旨の回答を持参しました。

提督は調査の結果により、かつ提案の日より早く開港を希望するという条件で日本側提案に同意しました。

 

ペルリ提督「日本遠征記」を読む15

 1854年3月24日ペルリ提督は招待されて色々の贈物を受けるために、士官と通訳を従えて横浜に上陸しました。条約館の応接室にはさまざまな贈物すなわち立派な錦及び絹布、有名な漆器類、すばらしい明るさと透明さをもった陶器の盃、扇、煙草入れなどが積まれ、林侯が日本語で贈物の目録と贈呈する相手の名前を読み上げ、此れを森山栄之助がオランダ語に訳し、ポートマン氏が英語に訳しました。また海岸には多くの贈呈された米俵が積み上げられていました。

 日本人の好意を示すこれらの品々を観賞していると、突如として巨象のように海岸を踏みつけながら歩いてくる一団の巨漢が現れました。彼等は職業的力士たちで、諸侯は彼等を私の娯楽のため及び公の余興のために抱えているのです。その数は約25人で腰の廻りに僅ばかりの染めた布片をつけ、抱主たる諸侯の紋をつけていて巨大な四肢を露はしていました。

 これらの者たちの大力の余興を見せるために、諸侯たちは海岸の船積みに便利な場所に米俵を移動させました。米1俵は125ポンドを下らぬ重さでしたが、一時に米2俵を運ばなかった力士は2人だけでした。ある者は1俵を歯でぶらさげて運び、他の者は1俵を腕に抱へ、それを持ったまま何度も飜筋斗(とんぼがへり)をうちました。この後相撲観戦も行われています。

Akizoo Art―Gallery―ペルリ提督日本遠征記の図譜―このコレクションのサムネイルを見る―相撲観戦-横浜

 

 ペルリ提督「日本遠征記」を読む16

 同年3月25日森山栄之助は下役通訳を伴ってパウアタン号に来艦、委員たちに代わってアメリカ側贈物などに対する感謝を表明、それから提督の船室で提案された条約に関する数点について評議したいと申し出ました。森山栄之助は明らかに提案された条約の諸点の中、委員たちが譲歩したくない思っている点について、提督の決心を試すために委員たちから派遣されたのです。提督はその事項を非公式に討議するについて異論はないが、通訳たちを委員たちの公式の代理者と考えることはできないと断言しました。

 森山栄之助はアメリカ代理領事の設定に言及し、町々の奉行は領事の仲介がなくとも、船舶に石炭食料その他の必要物を供給するための事務を行うのだから、領事館を必要としない。従ってアメリカがかかる役人を任命することに同意することを4~5年間延期したい旨申し出ました。これに答えて提督は領事館の性質と任務を説明し、日本人の利益のために領事を居留させるのだということ及びに下田に居住する領事は1人でよいが、この点を条約中に明記せねばならないと主張しました。同年3月27日提督は日本委員たちとその従者を旗艦パウアタン号に招待し饗応しました。

 翌日提督は条約館において条約中の残りの諸点に関する協議が行われました。日本に居住する領事について委員たちは大いに懸念し、提督と日本通訳との談話と同じ理由を挙げたのですが、提督は強硬にこの代理官を置かねばならない旨を述べ、結局下田に領事1人を置くべきことと、条約調印の日より1年乃至18ヶ月後まではその領事を任命しないこととが承認されました。

All About―サイト内検索―「領事」「亡命」と国際法の関係―領事って何する人? 

 1854年3月31日ペルリ提督は随員を伴って条約館に赴き、英語で書かれた条約草案3通に署名し、合衆国通訳ウイリアムス氏とポートマン氏のとの証明あるオランダ語支那語(漢文)の同草案写し3通と共に委員たちに手交しました。同時に日本委員は同国政府に代わって各々日本語[「日本米利堅合衆国和親条約」(日米和親条約)日付 安政元年(嘉永7年)3月3日 西暦1854年3月30日(「大日本古文書・幕末外国関係文書之五」243号文書 参照)]、支那語(漢文)、オランダ語で書いた条約草案3通を提督に手交しましたが、それは皇帝が特に選んだ委員4名の署名があるものでした。条約調印後日本側主催の饗応が行われました。

日本の歴史についてよく分かるサイトー江戸時代―江戸の衰退・動乱期―日米和親条約の内容とは?

条約第 9条は片務的最恵国待遇を規定した不平等条項です。

YAHOO知恵袋―片務的最恵国待遇とは何か。

 同 第11条は和文と英文の意味の食い違いを生む余地を残し、後に問題となりました。(田保橋潔「近代日本外国関係史」原書房 参照)

 

ペルリ提督「日本遠征記」を読む17

 1854年4月4日調印された条約とその他必要な通信をワシントンの合衆国政府へ送るために、アダムス中佐はサラトガ号で出発しました。4月11日日本委員の強硬な反対にもかかわらず、ペルリ提督は全艦隊を神奈川の停泊所から江戸湾を遡航させ、首府の南郊品川付近の岬を廻って江戸の間近に接近しました。

 そこで艦隊は回航し、提督は4月11日マセドニアン号を小笠原諸島のピール(父)島へ、サザンプトン号とサプライ号は14日先行して下田港を調査させ、ヴァンダリア号とレキシントン号は16日、提督はパウアタン号に乗り込み、ミシシッピ号を伴って4月18日午前4時下田へ出航、同日午後3時30分同港に投錨しました。神奈川条約による開港後下田は伊豆領の管轄から離れて帝領都市となり、役人は直接江戸幕府から任命されるのです。

 4月21日提督は少数の士官を伴って組頭黒川嘉兵衛を公式に訪問しました。通訳森山栄之助も下田に来ていました。士官たちは条約による特権でしばしば上陸し町や田舎を散歩しましたが、民衆がアメリカ人と会話し交流しようとすると、武装した兵士や警官が民衆を追い払い、アメリカ人の行く所を密偵が監視したのです。提督は司令官参謀と2人の通訳に組頭を訪問させ、兵士が後をつけ、民衆を追い払い、店舗を閉めることに抗議しました。組頭はこの点について江戸の上役に照会するが、早速家屋を閉めないようにし、兵士にアメリカ人の後をつけないようにする命令を出そうと語りました。

 ところがアメリカ士官たちが上陸したある日2人の日本人がついて来るのを発見しました。話をして見ると日本人は2本の刀を帯び、立派な錦の袴をはき、その態度は慇懃で洗練されていたが不安そうで、士官の一人に近づき、折りたたんだ手紙を密か渡して立ち去りました。その内容は日本語で世界を周遊するために密航させてほしいと記述したものでした。

 4月25日午前2時ころミシシッピ号に乗船を希望する2人の日本人が発見され、旗艦に行くよう指示されると、同艦で通訳に手紙と同様の希望を述べました。提督は日本政府の許可なき人物を乗艦させることを拒絶し悄然とした彼等を送り返しました。その数日後上陸した士官たちは同町の牢獄で2人の日本人が甚だ狭い檻の中に拘禁されているのを認めました。この2人の日本人とは元萩藩士吉田寅次郎(松陰)と金子重輔でした(「維新史料綱要」巻1 安政元年3月27日条 参照)。

 幕末関連史跡補完計画―史跡便覧―都道府県別―東海 静岡―下田市―下田湾

ペルリ提督「日本遠征記」を読む18

 函館(箱館)で日本役人と会見するために予定された5月9日が近づいたので、ペルリ提督は旗艦パウアタン号に乗りミシシッピ号を伴って下田を出航しました。マセドニアン号、ヴァンダリア号、及びサザンプトン号はすでに函館(箱館)に向けて出帆していましたし、運送船サプライ号は下田に残留したのです。パウアタン号とミシシッピ号は5月17日午前9時函館(箱館)港に投錨しました(「維新史料綱要」巻1 安政元年4月21日条)。

 2~3時間後日本政府御用船から数人の役人がパウアタン号に乗り込んできたので、アメリカ側は日本委員から受け取った手紙と支那語(漢文)で書いた条約の写し1通を彼等に渡しました。翌日司令官副官は2名の通訳と提督秘書を伴って奉行を訪問、艦隊の函館(箱館)訪問の目的を、合衆国と日本との条約を実行することで、アメリカ人が任意に店舗や公共の建築物にはいる特権、商品の売却及び宿舎の提供等を求めました。

 奉行(松前藩用人)遠藤松(又)左衛門らは提督が提出した手紙にはアメリカ人に対して普通の歓迎と好遇を与え、艦隊に水と食料を供給することを命じているだけだと回答、翌日アメリカ側はこの土地は不毛で殆ど産物がなく、貴方の希望に不適である。横浜で締結された条約について何らの命令や文書も到着しておらず、命令を待つべきである。粗末なものだが食料を供給、市場及び店舗に赴くことその他貴方の要求するものは供給する旨の通牒を受け取りました。

 5月19日午後提督はミシシッピ号において松前侯の代理(家老)松前勘解由と会見、翌日上陸して松前勘解由を訪問しましたが、彼はアメリカ人が当地と交通する際の制限区域決定を拒絶(「維新史料綱要」巻1 安政元年4月26日条 参照)、この問題は下田における委員たちとの交渉に委ねられました。

 5月31日朝マセドニアン号は下田へ、ヴァンダリア号は上海へ向けて出港、1854年6月3日パウアタン号とミシシッピ号は下田に向かって出発しました。

 北海道大学附属図書館―資料を探す―北方資料データベースー検索―ペリー箱館応接之図

 ペルリ提督「日本遠征記」を読む19

 1854年6月7日パウアタン号とミシシッピ号は下田港に投錨しました。翌日ペルリ提督は護衛兵を従えて上陸、委員たちによって寺院に迎えられ、主席委員は下田が帝領都市となったこと及び伊沢美作守と都築駿河守が下田奉行に任命されたことを述べました。

同年6月8日より同月17日まで連日会議が続行され、17日に至りようやく相互協定(「日本遠征記」を読む16 条約付録参照)が成立したのです(「維新史料綱要」巻1 安政元年5月22日条 参照)。

 同年6月28日旗艦ミシシッピ号とパウアタン号はサザンプトン号を曳航して下田を出港し、琉球に向かいました。マセドニアン号とサプライ号は台湾へ赴き、他の諸艦は任務を与えられて日本を去っていたのです。

やがてサザンプトン号は香港に直行すべき命令を受け、同年7月1日2蒸気艦は那覇港に投錨しました。

司令長官副官のベント氏と通訳ウイリアムス氏は提督代理として、7月8日琉球執政と会見、契約草案を提出して論議しました。10日には再び両人が執政と会見して両当事者が満足する契約の全条項取り決めに成功、7月11日提督は少数の陸戦隊を上陸させ市庁に執政を訪問、贈物を手交後締結された協定(琉米条約)または契約の諸条項が作成され、それを英語と支那語(漢文)で記し、提督、執政、琉球布政官によって署名捺印されました(「維新史料綱要」巻1 安政元年6月17日条 参照)。

 外務省―外務省について―組織案内・所在地―外交史料館―特別展示アーカイブスー過去の特別展示一覧―平成16年度 日米関係のあけぼのー3 琉米条約

 琉球当局の手厚い饗宴の後提督は帰艦、7月14日乗艦上で琉球当局者に訣別の宴を張りました。翌日レキシントン号は香港に赴くよう命令を受けてただちに出帆、17日提督はミシシッピ号に乗り、パウアタン号を従えて出発しました。パウアタン号は命により支那(清国)沿岸の寧波、福州府及び厦門に向かい、ミシシッピ号は香港に直行したのです。

提督は以前に大臣に対して、自分の仕事が終わった時、指揮権を次席の士官に譲って合衆国に帰ることを許可してほしい旨の歎願書を出していました。提督が香港に到着すると、海軍省から彼の願いを許可し、ミシシッピ号で帰るか陸路印度から帰るかは自由に任せる旨の急信が待っていました。

 提督は司令長官副官を伴ってイギリスの便船ヒンドスタン号に乗り込み、1855年1月12日ニューヨークへ到着、ミシシッピ号は同年4月23日ブルックリンの海軍工廠に帰還、翌日提督は同号に赴いて提督旗を降ろし、日本遠征最後の仕事を終了したのでした。

 

ペルリ提督「日本遠征記」を読む20(最終回)

日米和親条約の謄本を携行してサラトガ号に乗り込んだアダムス中佐(「日本遠征記」を読む17参照)は1854年5月1日ホノルルに到着、サンフランシスコに向かう船に乗り込み、同地からパナマ経由で同年7月12日ワシントンに到着しました。

同条約は大統領によって上院に提出され満場一致で批准されると、アダムス中佐は日本当局と条約の批准を交換する合衆国代表として同年9月30日批准された条約謄本を携えてニューヨークを出発、日本へ向かいました。1855年1月1日香港からアボット提督指揮のパウアタン号はアダムス中佐を乗せて同年1月26日下田に到着しましたが(「維新史料綱要」巻1 安政元年12月9日条 参照)、中佐は同地の外観に大きな悲しい変化があったことを発見しました。

中佐が日本を離れていた間に地震(1854年12月23日 安政東海地震)が起こり、下田にもその破壊的影響の証拠を夥しく残したのです(「維新史料綱要」巻1 安政元年11月4日条 参照)。  

 その時にはプーチャチン提督の提督旗を掲げたロシアのフリゲート艦ディアナ号が同港に停泊していました。ロシアの士官が語るところによれば、水が退いた時には泥が無数の飛沫になって海底から湧き上がり、水が流れ込んで来た時に水は大渦巻のように湧き上がり、その速力と力はフリゲート艦を30分に43回も旋回させた程でした。船梯、船材、竜骨の大部分は打ち砕かれてなくなり、船底は非常に傷んだので、下田から約60哩の戸田(へだ)に艦をもっていって修繕しようとしたが船は沈没したとのことでした(「日本遠征記」を読む12参照・「維新史料綱要」巻1 安政元年11月27日条 参照)。

日本との条約(日露和親条約)は提督の乗艦が沈没した後、アダムス中佐の滞在中に締結されたもので(「大日本古文書 幕末外国関係文書之八」193号文書 参照)、同提督がアダムス中佐に知らせたところによれば、それはペルリ提督が吾が国(アメリカ合衆国)のために締結したものと全く同じで、ただ那覇港に代えるに長崎港を以てした点がのみが異なるとのことでした。しかしこれは何らの改善でもありません。

日本辞典―日本縦断検索―日露和親条約

  日本人は前に訪問した時よりもはるかに親しげに愛想よくしようとしていました。アダムス中佐は日本人が大統領から皇帝に贈った機関車を操縦する方法を習得しているのを発見しましたが、磁性電信機はまだ非常に難しいと語っていました。