ペルリ提督「日本遠征記」を読む1~10

ペルリ提督「日本遠征記」を読む1

  「日本遠征記」土屋喬雄・玉城 肇訳(岩波文庫)には「合衆国政府の命令により、合衆国海軍エム・シー・ペルリ提督の指揮の下に、1852年、1853年、及び1854年に行われたる支那(清国)諸海及び日本へのアメリカ艦隊遠征記事」という表題が掲げられており、「ペルリ提督の要求に基き、且つその監修の下に提督及びその士官達の覚書及び日記原本を資料として神学博士、法学博士、フランシス・エル・ホークスによって編纂さる」という解説が付記されています。

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. 序論において従来欧米諸国に知られていた日本が紹介されています。そうして1831年1艘の日本船が米西海岸コロンビア河口付近に漂着したので、やがてこの哀れな人々を故国に送還することが決定されました。そこでアメリカの商船モリソン号がキング家によって日本に航海するよう準備され、平和の目的を明らかにするために、同船の銃砲と装甲は全部取り除かれました。同船は1837年に江戸湾に達しましたが砲撃され、鹿児島でも砲火を浴びせられ、日本人を乗船させたままマカオに帰還しました(モリソン号事件)。

 1846年には合衆国政府から日本に遠征隊が派遣されました。その任務はできれば日本と協商を開くことでした。この遠征隊は90挺の鉄砲を備えるコロンブス号と海防艦ヴィンセンス号の2船より成るものでビッドル提督が指揮していました。同年7月同船隊は江戸湾に達し、10日間滞留しましたが、その2船の乗組員は1人も上陸せず、通商を許可されたいとの請願に対する回答は「オランダを除く如何なる外国民に対しても通商を許し得ず」という簡単なものでした(田保橋潔「近代日本外国関係史」原書房 参照)。

 

ペルリ提督「日本遠征記」を読む2

 ところがアメリカ合衆国とメキシコとの戦争(1846~48)終結の条約によってアメリカは太平洋に臨み金を産出するカリフォルニア地方を領土として獲得しました。かくしてアメリカ西海岸とアジアとの長期にわたる貿易航路を開くために蒸気船の燃料として不可欠の石炭および他の価値ある産物を供給するために未開国日本を開国させることはアメリカ合衆国の利益に直結する課題となったのでした。

ペルリ提督が吾が国を出発して日本に赴いた約12ヶ月前にこの事が世界に報告されたのですが、諸外国の世論はこの遣使が他国の多くの使節派遣と同様に、成功しないだろうことは明らかであろうと云うのでした。長く日本に居住したことのあるフォン・シーボルト博士はこの遣使と関係のあった友人に次のような手紙を書いたのです。すなわち「私の心は遠征隊について行く。平和な手段で成功することは甚だ疑はしい。もし私がペルリ提督を鼓舞することができさへすれば勝利を獲るだろう」等々。

 この人は出島のオランダ人に雇われていた医者で、ペルリ提督が司令官に任命された後、シーボルトは同遠征隊の一員として雇われんことを申し出ました。ペルリ提督は特に追放されたと一般に信ぜられている(シーボルト事件)人を日本に連れ帰って自分の使命の成功を危うくしたくないために、この申し出を拒絶し続けました。

 1852年11月24日ペルリ提督はミシシッピ号とともにノフォークを出港、石炭と飲食物の供給上マディラ,喜望峰、マウリシアス及びシンガポール経由で日本に向かったのです。

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ペルリ提督「日本遠征記」を読む3

  マディラ島においてペルリ提督は1852年12月14日付で海軍卿宛に次のような内容の公式書信を寄せました。① 予備行動として我が捕鯨船(当時日本近海に数種の鯨豊富)その他の船舶のために一つ以上の避難港及び給水港をただちに獲得する必要がある。② もし日本政府が本島内にかかる港を許与することを拒否した場合、我が艦隊は日本南部の一、二の島内に良港を入手し、水と食糧とを得るに便利な集合地を確立し、而して住民を懐柔、彼らと友好を結ぶよう努力することが望ましい。③ 具体的には実際の主権について支那(清国)政府の異議があるが、薩摩侯の治める琉球群島中の主要港を占拠することは、我が軍艦の便利のため及び他の国民の商船に対する安全な集合のためにも正当である。

 この書信は海軍卿より国務省に報告され、国務長官より大統領に申達して、その承認が得られたという連絡が1853年2月15日付で返信されました。

 1853年5月4日ミシシッピ号は上海に到着し、ペルリ提督はここで旗艦となったサスクエハンナ号に乗り換えました。同年5月23日サスクエハンナ号をはじめとするアメリカ艦隊は大琉球島の主港那覇に向かい、同月26日夕刻那覇に入港しました。

 琉球王宮を訪問した後、同年6月9日ペルリ提督はミシシッピ号とサプライ号を那覇に残してサスクエハンナ号とともにサラトガ号を従えて小笠原諸島に向かい、6月14日小笠原諸島の一つであるピール島(父島)内のロイド港(二見港)沖合いに到着しました。

 1827年イギリス船が同島を訪れ、来訪の年月と占有の行為を銅版に刻んで樹木に釘付けにしましたが、この銅版と樹木は存在せず、「日本遠征記」には林子平「三国通覧図説」(「蝦夷千島古文書集成」第3巻 教育出版センタ- 参照)の一節「小笠原諸島の名称は同島を最初に訪れた航海家の名前(小笠原貞頼)になぞらへて附せられたのであった。」の英訳文が引用されており、イギリス人の発見は日本に先んじてゐると云って主張する権利はイギリス人には少しもない。日本人が同諸島最初の発見者だったことは全く明らかであると記述されています。

 提督はカリフォルニア支那(清国)との間に遅かれ早かれ確立されるべき汽船航路上の停泊地としてピール(父)島を勧めたいと思って、そこへ訪問したのでした。

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 同年6月18日サスクエハンナ号はサラトガ号を曳航して同月23日夕刻那覇湾内の停泊地に到着しました。

 

ペルリ提督「日本遠征記」を読む4

  1853年7月2日早朝ペルリ提督は旗艦サスクエハンナ号とミシシッピ号(蒸気船)、サラトガ号とプリマウス号(単檣帆軍艦)の4隻から成る艦隊を率いて那覇を出発、日本に向かいました。同年7月8日午後5時ころ艦隊は戦闘配備につき、江戸湾西側にある浦賀町の沖合に投錨したのでした。投錨に先立ち多くの日本防備船が海岸を離れて来るのを認め、ペルリ提督は自分の乗艦以外の船には何人の乗船も禁止するとの至急命令を伝え、さらに旗艦にも同時に3人以内で用件ある者のみの乗船を許可すべしと命令しました。

 役人は船をサスクエハンナ号に横付けにして舷梯を下ろしてくれるよう手真似をしたので、支那語(漢語)・和蘭語通訳に提督は最高の役人以外の何人をも引見しないことを通告させました。横付けした防備船上の一人は立派な英語で「余は和蘭語を話すことができる」と云い、和蘭語通訳と次のような会話を交わしました。すなわち彼は自分の側にいる役人の一人を指し、浦賀の副奉行で艦隊の司令長官が引見さるべき適当の人物であると述べたので、提督は彼の副官に副奉行を引見させることにしました。そこで舷梯が下ろされて副奉行(与力)中島三郎助が和蘭語通訳堀達之助を伴って乗船してきました。

 中島は艦隊の長崎回航を要求しましたが、提督は断じて長崎に回航せず、合衆国大統領から皇帝に宛てた親書を今滞在しているところで受納されることを期待していると副官を通じて通告したのです(「維新史料綱要」巻1 嘉永6年6月3日条 東大出版会 参照)。中島は明朝上役が来てご沙汰をしましょうと云って帰還しました。

 同年7月9日7時に2艘の大船が横付けになり、自ら浦賀奉行で最高の役人と名乗る香山栄左衛門(与力)が到着し乗船したいと和蘭語通訳が告げたので、副官らが浦賀奉行と応対しました。このときも中島が述べたことと同じ要求が繰り返され副官を通じた提督の回答も武力を背景として全く同じで、浦賀奉行は江戸の回訓を仰ぐ旨申し述べ、提督は3日の回答期限をつけるとともにミシシッピ号と測量船をさらに江戸湾の奥深く進入させて日本側に無言の威圧を加える作戦をとったのでした。

三浦大根―歴史講座―黒船来航人物辞典巻の1―中島三郎助―堀達之助―香山栄左衛門―黒船来航人物辞典巻の2―黒船

 

/ペルリ提督「日本遠征記」を読む5

  江戸からの回答に接する約束の日(同年7月12日)が来ました。午前9時半ころ3隻の船がサスクエハンナ号に接近し、先頭の船だけが舷側に着きました。同船から主席通訳堀達之助以下1名を従えた香山栄左衛門は乗船を許され交渉の相手ブカーナン・アダムス両艦長の席へ案内されました。当日午前・午後の2回の会談で日米双方は次の諸点において合意しました。すなわち① ペルリ提督は合衆国の海軍大(代)将に相当する官位を有する江戸の高官とこの地海岸で会見する。② その高官は皇帝の署名ある信任状を所持する。③ その信任状及び和蘭語訳の写し1通を会見に先立ち、提督に手交する。④ 提督は米大統領親書・大統領信任状の原文と写し及びその訳文をその高官に手交する。⑤ 提督は大統領親書に対する回答について何ヶ月かの後、受納のため再訪する。翌日合意③にもとづく信任状とその写しが香山栄左衛門によってもたらされました(「維新史料綱要」巻1 嘉永6年6月8日条 参照)。

 同年7月14日その日の祝典のために選抜され、正装した士官・水兵・陸戦隊を乗せた多数のボートがサスクエハンナ号に横付けになりました。ブカーナン艦長の乗艇が先導、従者を連れた浦賀奉行と副奉行が乗っている2艘の日本船が艦長乗艇を守衛し久里浜村の応接所めざし案内、その後に海軍軍楽隊が音楽を演奏してついていったのです。ボートが海岸まで後半分の所へ達した時、サスクエハンナ号から13発の大砲が発射されて丘々にこだましました。これはペルリ提督の出発を知らせるもので、提督は自分の乗艇に乗り組んで、陸をめざして漕ぎ出したのです。しかしこれは同時に日本側に対する威嚇でもあったことはあきらかです。 

横須賀市オフィシャルサイトー観光・文化・スポーツ―観光情報―歴史散策―浦賀の歴史とふれあう散策ルートー散策ルート4 吉井・久里浜コースーペリー公園

 

 ペルリ提督「日本遠征記」を読む6

  提督が到着すると、幕僚の士官たちは提督の後に2列に並び、接見所に向かって行進を開始しました。一行を先導した香山栄左衛門と通訳が行く道を案内してくれました。提督は謁見所の戸口まで護衛され、幕僚を伴って内に入りました。接待の部屋に入ると左側に着席していた2人の高官が立ち上がってお辞儀をしました。提督と幕僚は右側の安楽椅子へ案内されました。通訳が日本高官の名前と称号、戸田伊豆守と井戸石見守を知らせました。2人とも相当の年輩で非常に立派な衣服を着し、その上衣は精巧な金銀の模様をちりばめてある重たげな絹の紋織でした。

三浦大根―歴史講座―黒船来航人物辞典巻の1―井戸石見守弘道・戸田伊豆守氏栄

 提督と幕僚とがその席についてから数分間は鳴りを鎮めて両方共一言も発しませんでした。主席通訳堀達之助が和蘭語通訳ポートマン氏に向かって、手交すべき書翰が用意されているかどうか訊ねました。提督にこの旨を知らせると、提督は次の間に控えていた少年を招き、大統領の書翰とその他の文書入れた美しい箱を2人の黒人が少年から受け取ってそれを開け、書翰を取り出して文書と印章を見せながら日本櫃の蓋の上に置きました。

 

ペルリ提督「日本遠征記」を読む7

  大統領及びペルリ提督の書翰の要点は下記の通りです(「大日本古文書・幕末外国関係文書之一」115号文書 東大出版会 参照)。

アメリカ合衆国大統領 ミラード・フィルモアより日本皇帝陛下に呈す

 偉大にして、よき友よ。余は提督マッシウ・シー・ペルリを介してこの公書を陛下に呈す。この者は合衆国海軍における最高地位の一士官にして、今陛下の国土に訪れたる艦隊の司令官なり。

  1. 余が提督を遣わしたる目的は合衆国と日本とが友好を結び、相互に商業的交通を結ばんことを陛下に提案せんがために他ならず。
  2. 貴政府の古き法律によれば、支那(清国)と和蘭とに非ざれば外国貿易を許さざることを余等は知れり。されど世界の状態は変化し、時勢に応じて新法を定むることを賢明とするが如し。
  3. 吾が船舶にして毎年カリフォルニアより支那(清国)に赴くもの多く、また吾が人民にして、日本沿岸に於て捕鯨に従事するもの甚だ多し。荒天の際には吾が船舶中の一艘が貴国沿岸に於て難破することも屢〃なり。かかる場合には悉く、吾等が他の船舶を送りてその財産及人民を運び去るまでは、吾が不幸なる人民を親切に遇し、その財産を保護せられんことを願ひ、また期待するものなり。
  4. 吾が諸汽船が太洋を横ぎるに当りては多量の石炭を焚く。願はくは吾が汽船及その他の船舶が日本に停船して、石炭、食糧及び水の供給を受くることを許されよ。これ等の物に対しては金銭又は陛下の臣民が好む物をもって支払をなすべし。又吾が船舶がこの目的のため停船するを得るが如き便利なる一港を、貴帝国の南部地方に指定せられんことを要求す。   

1852年11月13日

   (捺印)         ミラード・フィルモア      

         副署 国務卿          

                エドワード・エヴァレット

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ペルリ提督より皇帝へ (略)    

合衆国巡洋艦サスケハナ号

日本海岸の沖合にて 1853年7月5日                              

    東印度、支那(清国)及び日本諸海における合衆国海軍司令長官

                     エム、シー、ペルリ

ペルリ提督より皇帝に

合衆国汽船巡洋艦サスクエハンナ号上

  1853年7月14日 江戸湾浦賀にて

 本官を介して日本政府に提出せらるる提案が、甚だ重大にして且甚だ多くの肝要なる問題を含むが故に、数個の関係事項を審議決定するためには、多くの時日を要するならんと想像し居れり。本書状の署名者はこれを考慮し、来春江戸湾に帰航するまでその提案に対する回答をば喜び待つものなることを言明するものなり。                                  

     印度、支那(清国)及び日本諸海における合衆国海軍司令長官

                      エム、シー、ペルリ  

アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアよりペルリ提督に与えられたる信任状(略) 

 

ペルリ提督「日本遠征記」を読む8

  以上数通の書翰とともに支那語(漢文)及び和蘭語の翻訳も手交されました。提督の指示により、和蘭語通訳ポートマン氏が日本の通訳達之助に対して種々の文書の性質を説明しました。

 香山栄左衛門は石見侯から受け取った巻紙をもって提督に膝まづきそれを手交しました。和蘭語通訳が「この紙は何か」と訊ねると「これは皇帝の受領書(「大日本古文書・幕末外国関係文書之一」120号文書 参照)である」と答えました。 

 2~3分の沈黙の後、提督は通訳に命じて次のように通告しました。すなわち2~3日中に艦隊を率いて琉球及び広東に立ち去るということ、又来春多分4月か5月かに日本に帰航する積りだということをも述べました。

提督は退出するために立ち上がり、2侯も立ち上がって提督と幕僚たちを見送りました。 提督は海岸における会見後艦に帰着すると、江戸の方に向かって水道を調査することを決心しました。その理由は首府の近くでそれを行うことが日本政府の誇りと自負心に決定的な影響を与え、且つ大統領の親書に対してもっと深い考慮をはらうことになるだろうと思ったからです。 

 7月15日提督は提督旗をサスクエハンナ号からミシシッピ号に移し、浦賀の停泊所から20哩隔たってゐると推測される一地点に達しました。目に見えた町は多分江戸郊外品川だったでしょう。

7月17日サスクエハンナ号はサラトガ号を、ミシシッピ号はプリマス号を曳航して艦隊は出航しました。多くの人々は遠く艦隊を眺めるのに満足せず、水上は無数の船で覆われたのです(「維新史料綱要」巻1 嘉永6年6月12日条 参照)。

 

ペルリ提督「日本遠征記」を読む9 

  艦隊は江戸湾出帆後まもなく始まった暴風を無事に乗り切って、7月25日那覇に投錨のため入港しました(「維新史料綱要」巻1 嘉永6年6月20日条 参照)。提督はただちに琉球摂政との会見を要求するとともに、会見に先立ってアダムス中佐は提督の提議を摂政に知らせるために那覇市長及び当局者に提示するため次のような訓令書を手交されて上陸しました。

「1ヵ年間の家屋賃貸料の率並びにその支払方法を決定すること。600噸を貯蔵し得る貯炭倉庫に充てる適当な建物を欲していることを説明すること。もし適当な建物がなかったならば、島民労働者を使用して琉球風の建物を建設しようと欲していること。」など。 

 また提督はこのような命令に加え、摂政に対して次のような内容の信書を送付しました。

  東印度、支那(清国)及び日本諸海に於ける合衆国海軍司令長官は日本より当港に帰航して将に支那(清国)に向かって出帆せんとす。その出発以前に総理官閣下に対し、琉球当局及び琉球人との交際に関して二三の所見を通達せんと欲するものなり

  1. 司令長官はその麾下の士官及び部下が支那(清国)及び日本より来着したる人達と同様の資格にて待遇せられんことを要求し、その必要とするものは如何なるものと雖も、市場及び商店にて購買する特権を有すべきことを要求す。その商品に対しては販売者の要求する価格を支払うべし。
  2. 吾が士官と部下とが、卑しき役人及び密偵より監視され後ををつけられざることをも要求す。

 アダムス中佐が提督の提案を那覇市長に提出すると、那覇市長は提督副官コンティ大尉に摂政が7月28日那覇の公館で提督と会見すると回答しました。提督は合計16人の幕僚を伴って会見の場所に案内され、会話は支那語(漢語)でウイリアムス氏を介して行われました。

 ウイリアムス氏は提督から要求されて、伊豆侯と石見侯に歓迎された時の話及び江戸湾の踏査測量についての話を簡単に語って聞かせました。

 それから晩餐が始まると摂政は手紙を提督に差し出し、ウイリアムス氏は提督の命を受けてそれを開きその場で読みました。その手紙には① 吾々が貯炭所にあてるため一つの建物を建設すれば琉球人の困難は甚だしく増大するだろう。② 商店及び市場に関しては人民の思ふままに委せてあるので、もし彼等が店を閉めたいと思へば、摂政はそれに干渉できない。③ 吾々が上陸する度に後をつけてきた役人は密偵ではなくて案内人として働くように任命された役人である。今後はつけないように命じよう。という内容の記述がありました。

 提督はその手紙を摂政に帰すよう命じ、もし明日正午までに、自分の要求に対して満足な回答をもらわなかったら、200人の兵士を上陸させて、首里に行進し、同地の王宮を占領し、ことが決着するまでそれを占拠するだろうと声明し、ただちにサスクエハンナ号に帰りました。

 翌朝10時ころ市長がサスクエハンナ号に来艦して提督の提案が全部承認されたことを伝えました。貯炭所に関しては建設の準備がすでに行われていることを述べ、市場については提督の妥協案すなわちアメリカ人の購入したい産物を販売するため公館で市場を開催することで合意しました(「維新史料綱要」巻1 嘉永6年6月23日条 参照)。

 8月1日提督は同地にプリマス号を残して香港に向かい出発しました。 

沖縄情報IMA―沖縄の歴史

 

 ペルリ提督「日本遠征記」を読む10

 1853年8月7日ペルリ提督は香港に到着しました。当時清国は太平天国の乱(1850~64)の渦中にあり、その政治情勢は混乱を極めていました。

歴史研究所―中国史―第28回 今度はキリスト教? 太平天国の乱

 広東におけるアメリカ商人たちはすでに支那(清国)に始まった革命は韃靼人の敗北に終わり、やがて無政府状態となる外なく、この土地一帯には盗賊及び無頼漢が居住外国人の住居を襲って略奪する機会をねらっていると書面で訴え、提督に対して1艘またはそれ以上の船艦を広東の商館隣接地に派遣されたしと要請しました。

 提督はアモイから到着したサプライ号を広東市対岸の投錨地に停泊せしめ、艦隊の残余は香港とマカオの中間にある1港に集合するよう命令し、提督自身はマカオに居住しました。

 同年末近くマカオに停泊中のフランス軍艦に乗ってフランス提督がいずれかへ出航し、上海に在ったロシア海軍大(中)将プーチャチンも日本に引き返しそうとしていると懸念されたのです(「日本遠征記」を読む12参照)。提督は予定を早めて1854年1月14日サスクエハンナ号で香港を出発琉球に向かいました。パウアタン号、ミシシッピ号及び運送船レキシントン号、サザンプトン号が提督に従いました。レキシントン号、サザンプトン号とは各々パウアタン号とミシシッピ号に曳航されていました。マセドニアン号とサプライ号とはヴァンダリア号と琉球で一緒になるために2~3日前に琉球へ出発していました。サラトガ号は琉球で艦隊に参加せよとの命令を受けていました。