平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む11~20

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む11

 女学校四、五年の一時期に、彼女が富士登山を思いたった気持の背景には、その当時、女性の富士登山者がぼつぼつ現れて、それを新聞などが賞賛的に書き立てていたことなどもいくらか影響したのでしょうか。

 いよいよ夏休みとなり、彼女は精一杯の勇気をふるって、父に富士登山の許しを求めました。小さいころ、あれほど父に可愛がられていた彼女でしたが、いつのころからか次第に、父に対して、気軽に話ができないようになっていました。はたして、彼女のひたすらな望みは、ひとたまりもなく父に退けられました。「馬鹿な。そんなところは女や子どもの行くところじゃないよ。」嘲りとあわれみをふくんだ、彼女にとってはなんとも不愉快な表情で、父ははねつけました。彼女はまったく承服できない気持のまま、にじみ出る涙をおさえて、黙って引きさがるだけでした。

松本正剛の千夜千冊―バックナンバーで探すー全読譜―1201-1300-1206-平塚らいてう

 その年の秋であったか、翌年の春であったか、祖母に付き添われて、胸を病む姉が久しく療養していた小田原十字町の宿を足がかりにして、海賊組のひとりの友達といっしょに、草鞋(わらじ)ばきで箱根の旧道を登ったことで、彼女は悶々とした思いを多少解消した形になりました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む12

 五年生のころ、クラスで隣の席に、当時仏教学者として名高かった、村上専精(せんじょう)博士の娘さんがいました。新聞かなにかでこの村上さんのお父さんの講演会のあることを知った彼女はその講演会に行ってみる気になりました。

 会場は神田の錦輝館で、法然(ほうねん)上人か親鸞(しんらん)上人の何百年祭かの記年講演会でした。当時の彼女は、この講演や会場の雰囲気から大きな感銘を受けました。いま振りかえってみると、村上博士の講演からうけた感銘がのちに彼女を、宗教や哲学に近づける一つの機縁となったことは、疑いないことのように思われます。

 こうして急速度に、宗教や倫理、哲学などの方向に興味をもちはじめた彼女は、今後の研究に打ちこんでゆくために、開校まだ日の浅い、日本女子大学への入学を願うようになりました。

日本女子大学―大学案内―建学の精神と歴史   

 当時女子大には、国文科、英文科、家政科の三つの科がありましたが、彼女の志望は英文科でした。ところが、彼女の志望を父に話してみると。「女の子が学問をすると、かえって不幸になる」と彼女の希望は一言のもとにはねつけられたのです。そのとき父が「親の義務は女学校だけで済んでいるのだ」といったことばが、その後いつまでも、彼女の耳底に残りました。

 物ごとを一途に思いつめてあとへひかない彼女の性質をよく知っている母は、母親らしい愛情から、彼女のためにいろいろとりなしてくれ、そのおかげで、「英文科ではいけないが、家政科ならば…」という条件つきで、ようやく父から女子大入学の許しが出ました。

 大きな期待に胸を躍らせながら、創立間もない女子大の第3回入学生として、目白の校門をくぐったのは、1903(明治36)年4月のことでした。この時分の女子大生には何年か小学校の先生をしてきた人とか、未亡人、現に家庭をもちながら入学してきた人などもいて、なかには「小母さん」と呼んでいいような、中年の婦人もいました

。家政科の学生は百人近くいて一番多く、国文科ががもっとも学生の少ない科でした。「自主、自学」を建前とする学校だけに、すべてのことが生徒の自治にまかされているので、お茶の水ではまったく経験しないことばかりでした。

 週1回、午後二時間の校長の実践倫理は、各部の新入生を一堂に集めて行われるのですが、あくまでも、自学、自習、創造性の尊重ということに重点を置いて、たんなる知識の詰込み、形式主義の教育を排撃するという成瀬先生の説明は、お茶の水の押しつけ教育にうんざりしていた彼女をどれほど喜ばせたことでしょう。試験というものがなく、成績点もなければ、落第もなく、卒業のとき論文を出すだけという女子大の教育は、入学したばかりの彼女には、まったく理想的なものに映りました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む13

 さて、こうして通学していると、当時の女子大は寮生活が中心でしたから、寮に入らないと本当の校風が分からないということで、リーダーがしきりに寮に入ることを勧めるようになりました。彼女は、家の反対を押し切るようにして、二年のはじめころ寮にはいることにしました。

 そのころの寮は学校の構内の裏側にあり、木造日本建築の下宿屋のような建物で、棟割り長屋式に幾棟かに別れて立っており、それが一寮から七寮までありました。一寮が一家族ということになっていて、およそ二十人ほどですが、付属女学校の生徒から大学の上級生までがふくまれていて、寮母は上級生か女の先生がつとめました。

 彼女が入った七寮は付属高女の平野先生が寮監で、その下に家政科三年生の大岡蔦枝さんがお母さん役で責任をもち、その下に彼女と信州飯田出身で付属高女からきた出野柳さんがリーダー役で活躍していました。

 自分からすすんで寮に入った彼女でしたが、やがて寮の生活に疑問と幻滅を感じるようになりました。寮は八畳の部屋に四人ほど入っているのですが、机に向かっても、向い合わせの机に人がすわっているので、気持が落着きません。夜は夜で、修養会とか、何々会とか集まりばかりが多く、それらにいちいち出席していたら、自分のことがなにも出来なくなるのでした。

 自主、自治、独創ということは、成瀬先生からつねづねいわれていることですし、また自学自習主義が建前であるはずなのに、自主的な研究時間などは全くなく、同じような会合につぶす時間があまりにも多いことも、納得できないことでした。

 こうした学生の会合には、いつも出るのを渋っていた彼女でしたが、家政科の授業にはまじめに出席しました。料理の実習には、週二回の午後の時間が全部あてられていましたが、彼女はたいていさぼって、図書室に行ったり、文科へ傍聴にゆくことにしていたので、大体料理が出来上がるころを見はからって料理室にゆき、試食の段どりになると、すまして食べるだけはたべたものです。

 文科の講義では、西洋美術史の大塚保治先生は、「お百度詣り」の詩で有名な、竹柏園(佐佐木信綱の雅号)の歌人、大塚楠緒子(なおこ 「坂の上の雲」を読む21参照)さんの御夫君で、文学博士、帝大の教授ですが、この先生の講義のときは講堂がいっぱいになりました。幻燈でラファエルやミケランジェロの絵が見られるので、たのしい時間でした。

 

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 学生が勉強しないことについての疑問とともに、もう一つ彼女には釈然としないことがありました。そのころの女子大では、家政学部が成瀬教育の寄りどころのようになっていて、学校にとって大事なお客様(主として当時の政、財界の知名人)が学校に見えると、その接待役は家政科の学生でした。お料理からお菓子なにもかもみんな学生の手作りですから、こんなとき真先きに働くような人が、共同奉仕の精神の持主として賞讃されるのでした。彼女はそんな評価の仕方が納得できないので、こうした接待のときはさぼりがちでした。

 それよりももっといやなことは、こうした後援者に対する成瀬校長の、過度な感謝の態度というか、その表現の仕方で、彼女は校長がつくづく気の毒になってしまうのでした。

 岩崎、三井、三菱、住友、渋沢などの財界の当主や、伊藤、大隈、近衛、西園寺などの政界の代表的人物が、なにかの時には学校へ見え、まれには話をきくこともありましたが、この人たちの話は、たいてい内容のないことをもっともらしく引き伸ばしたお座なりのものですから、感心したことなどなく、こういう種類の人たちをとうてい彼女は偉い人とも、尊敬できる人とも思えませんでした。

 とくに大隈伯はいかにも傲慢な感じの爺さんで、横柄な口のきき方でした。その説くところの女子教育の必要も、女子自身を認めてのことでなく、日本が列強に伍して行くようになって、女が相変わらずバカでは国の辱(はじ)だとか、男子が進歩したのに、女子がそれにともなわないでは、内助はおろか、男子の足手まといになるだけで、けっきょく、それだけ日本の国力が減退することになるといったものなので、呆れました。

 こうした周囲の雰囲気のなかで、彼女はやがて、成瀬先生の講義そのものに対しても、いままでのように打ちこめなくなってきたのでした。校長の実践倫理の講話は、校内では至上命令的で「神の声」のようなものですから、コントのポジティヴィズム実証主義)のあとジェイムスのプラグマティズム(「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 3参照)が説かれるようになると、ひどく狭い実用主義、実利主義が学内を風靡するようになり、彼女にはもう我慢できないことでした。

独学ノートー単語検索―実証主義   

 こうした雰囲気のなかで、勉強しているもの、本などにかじりついている者は異端視され、ことに実証主義的でない本など読んでいる者は危険思想の持主としてかんたんに睨まれるようになりました。

 とにかくそのころの彼女は読書欲にかられ、まるで本の虫のようにして書物を漁ったものでした。読むものは、宗教、哲学、倫理関係のもので、彼女はちょっとの休み時間にも図書室にかけこみ、ときには講義を休んで終日ここですごすようなこともありました。九時半だったかの消燈後も、食堂へこっそり入って、ろうそくの火で本を読んでいて、寮監にたしなめられたことなど思い出します。

 そうこうしているうちに、彼女は突然発熱し、パラチブスという診断を校医から受けて、家へ帰されました。

 彼女に女子大入学を許した以上、姉にも女子大の教育をうけさすべきだという父の意向で国文科ならば入ってもいいという姉に父が妥協、姉は彼女より1年遅れて、女子大国文科にはいりましたが、二年になって肺結核の初期という診断で療養生活に入り、結局中途退学してしまいました。やがて結核専門の療養所である茅ケ崎海岸の南湖院で同級生の保持研(子)(よしこ)さんと闘病生活を慰めあっていました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む15

 当時の日本は日露戦争のさなかで、国をあげて戦争に協力していましたが、自分の内的な問題にばかりとり組んでいた彼女は、一度も慰問袋をつくったりするようなことをやった覚えがありません。

 与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」については、当時女子大が明星派の新しい文学を拒否していたからか、学校では話題にならなかったように思います。もともと学校自体も、ときの政治問題などについて、学生を社会的影響から隔離しようという方針でしたから、この時分の女子大生は、彼女に限らず、そのほとんどが新聞を読んだり、読まなかったりで、、どちらかといえば、読まない日の方が多かったことでしょう。いまふりかえってみて、日露戦争の印象は、小学生時代の日清戦争の記憶よりもずっと希薄なのはおどろくばかりです。  

 先にいた七寮を、なにかの用事で訪ねたついでに、木村政(子)(らいてう研究会編「『青鞜』人物事典」大修館書店)という同級生の部屋に立ち寄ったとき、机の上に置かれた「禅海一瀾」という和綴木版刷り、上下二巻の本が目にとまりました。著者は鎌倉円覚寺の初代管長今北洪川老師ですが、めくっているうちに、ふと、「大道求于心。勿求于外。」(大道を外に求めてはいけない、心に求めよ)という文字が目に入りました。このことばこそ観念の世界の彷徨に息づまりそうになっている、現在の自分に対する、直接警告のことばではありませんか。

楽道庵ホームページー根源的大道としての禅  

 この本は禅家の立場から、儒教―ことに論語、大学、中庸のなかの諸徳を批判したもののようでした。彼女は息をのむ思いで、矢もたてもなくこの本を借りうけて帰りました。

 それから間もないある日、彼女は木村さんに案内されて、日暮里の田んぼのなかの一軒家、「両忘庵」の偏額(へんがく 門戸または室内にかけた額)のかかったつつましい門をくぐりました。女子大三年の初夏のころだったと思います。

 迷いも悟りも二つながら忘れるというこの両忘庵の庵主、釈宗活老師は鎌倉円覚寺二代管長、釈宗演老師の法嗣(仏法統の後継者)で、両忘庵で独り暮しをされ、後藤宗碩(そうせき)という大学生が侍者(和尚に侍して雑用を務める者)をつとめていました。

 この日彼女は、相見(面会)につづいて参禅を許され、老師から公案(参禅者に示す課題)を頂き、後藤さんから坐り方を教えてもらい、その日から彼女にとって坐禅という、自己探究の果てしのない、きびしい旅がはじまりました。

 しかし他方で、卒業期が近づき、卒業論文提出の締切日がきてしまいました。この学校には試験というものが全然なく、卒業論文を提出して卒業がきまるので、クラスの人たちはみんな早くから、論文に夢中になっていました。しかしこの人たちとは反対に、いままで得たあらゆる知識を捨てる修行に日夜骨身をくだいている彼女には、論文を書くのはじつに辛いことでした。といって卒業だけはどうしてもしてしまいたかったので、短いものを、なるだけ時間をかけずに書くことにしました。

 1906(明治39)年3月数え年二十の春、彼女は家政科らしからぬ筋違いの論文がパスして、家政科第3回卒業生として社会に送り出されました。

 同年冬、一応健康を回復した姉と、帝大卒業を控えた義兄との結婚式が挙げられました。

 姉たちは結婚とともに姉たちのために建てた新しい家に引越しましたので、彼女は義兄がそれまで占領していた別棟の二間つづきの部屋に移りました。

 大きな円窓のある三畳の狭い方の部屋を書斎にし、四枚の襖で仕切られた四畳半を寝室兼坐禅の間として、そこには床の間に花瓶、床脇に香炉一つ置くほか何ももちこまないことにしました。床の間には、宗活老師にたのんで揮毫してもらった、書の掛け軸をかけました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む16

 卒業とともに、英語の書物を自由に読みこなせるように、英語の力をつけようと思った彼女は、両親には無断で、麹町の女子英学塾(津田塾大学の前身)[校長 津田梅子(久米邦武「米欧回覧実記」を読む2参照)]予科二年に入学しました。その帰りには近くにある三島中洲先生の二松(にしょう)学舎に寄って漢文の講義をききました。それは禅をはじめてから、漢文で書いた書物を読むことが多くなったからです。そのために必要な学費は、家からもらう小遣いと、女子大三年のとき、講習会其の他で貴族院速記者に習った速記の収入でどうにかやりくりをしました。  

 しかし女子英学塾の授業は狭い意味での語学教育に終始し、使う教科書も内容のないものでしたから、彼女は一学年の終わりを待たず。飯田町仲坂下の成美女子英語学校に転じました。1907(明治40)年の正月だったかと思います。

 こうして英語学校。二松学舎、速記の仕事という忙しい生活の中でも。両忘庵通いはいっそう熱心につづけました。ようやく老師に認められて見性(けんしょう 悟りの境地)を許されたのは、女子大卒業の年の夏で、慧薫という安名(あんみょう 禅宗で新たに得度受戒した者に初めて授与する法諱)を老師からいただきました。

 求め、求めていた真の人生の大道の入口が開かれたのです。さすがにうれしさのやり場がなく、彼女はその日、すぐに家に帰る気になれず、足にまかせてどこまでも歩きました。それからの彼女はずいぶん大きく変わりました。坐禅の先輩の木村政子さんといい相棒になって、芝居や寄席のような場所にも、足を運ぶようになりました。

 1907(明治40)年正月から通いだした成美女子英語学校はユニヴァサリストという教会付属の学校で、ここは英学塾のように文章をやたらに暗記させることもなく、出欠席もとらないという自由な学校で、読むものも英学塾より面白いのが取り柄でした。

 ここで生田(長江)先生から、若きウェルテルの悩み、相馬(御風)先生にアンデルセンの童話、などを学びました。生田先生も相馬先生もまだそれぞれの大学を出て一、二年というところで、生田先生は少しのひげをぴんとひねりあげて、頭髪もきれいに分け、いつも洋服をきちんと着込んだ身だしなみのよい紳士でした。相馬先生は、赤門出の先生方のなかに、ひとり早稲田出ということでやや異色の存在でしたが。いつも粗末な和服姿で、気どりがなく、やさしいけれども神経質な気むずかしさと、どこか気の小さな人のよさの感じられる方でした。

花の絵―文化(CULTURE)―月別インデックスーNovember 2011-―不屈の評論家 生田長江について   

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む17

 同年6月になって成美のなかに閨秀(けいしゅう 学芸に秀でた婦人)文学会(らいてう研究会編「前掲書」用語解説)という、若い女性ばかりの文学研究会が生まれました。これは女性の文章に、非常に興味をもっていられた生田先生の肝入りでつくられた会で、講師の顔ぶれは新詩社系の人びとが中心で、与謝野晶子戸川秋骨平田禿木馬場孤蝶(らいてう研究会編「前掲書」)、相馬御風、などの諸先生と生田長江先生、そのお友達の森田草平先生などでした。

渋谷・時空探究―一覧―第三話 与謝野晶子と東京新詩社

 会員は成美で英語を勉強している生徒有志のほか、外部からも加わって、全部で十数人ほど、彼女も誘われるままによろこんでこの会に加わりました。学校の授業のあと、一週に一回の集まりを開きましたが、おそらく講師の先生方は無報酬で来ていられたにちがいありません。

 はじめて見る与謝野先生の印象が、いままで想像していた人と、あまりに違うことにびっくりしました。ふだん着らしく着くたびれた、しわだらけの着物といい、髷をゆわえた黒い打紐がのぞいて垂れ下っているような不器用な髪の結い方といい、見るからにたいへんななかから、無理に引っぱり出されてきたという感じでした。やがて先生の源氏物語の講義が始まりましたが、それはまるでひとりごとのようなもので、しかもそれを関西弁で話されるので、講義の内容は誰にもほとんどわからずじまいでした。

 彼女は閨秀文学会に加入してから生田先生の推薦で急速にツルゲーネフモーパッサンなどの外国文学に親しむようになり、他方「万葉集」などの国文学を系統的に読みはじめていました。これは閨秀文学会で知り合った青山(山川)菊栄さんの刺激が多分にあったように思います。

フェミニズムの源流 山川菊栄  

 アメリカへ布教のため、弟子たちを連れて旅立たれた両忘庵主の釈宗活老師から、自分の留守中、他の師家につくなと戒められていましたが、あるとき興津清見寺住職の坂上真浄老師の提唱(禅宗で宗師が大衆のために宗旨の大綱を提示して説法すること)があったときその枯淡な印象が忘れられず、浅草松葉町の海禅寺で同老師の接心(禅宗で僧が禅の教義を示すこと)があると聞くと、紹介もなしに参禅することになりました。

 そのころの長らく無住だった海禅寺を復興させるため、鎌倉(円覚寺)から住職代理として、手腕のある青年僧中原秀岳和尚が来ていたのです。

 その日も海禅寺で参禅していた彼女は夜の八、九時になっているのに気付くと、急いで立ち上がり、宗務室の中原秀岳和尚が開けてくれた潜り戸から外へ出ようとしたとき、この青年僧になんのためらいもなく、和尚の好意に対するあいさつとして、接吻してしまったのです。

 数日後、中原秀岳和尚から結婚申し込みをうけ、当惑した彼女は木村さんに宥め役になってもらい、かなりの時を経過して、3人はなんでも遠慮なく話し合えるようになりました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む18

 閨秀文学会の会員の作品を集めて、回覧雑誌をつくることになり、このとき彼女は小説を生まれてはじめて書きました。彼女のほかに小説を書いたのは青山(山川)さん一人でした。彼女の「愛の末日」と題する小説は全くの想像で、女子大か何かを出た女性が恋愛を清算し、独立を決意して、地方の女学校の教師となって、愛人にわかれて、任地にひとり旅立って行くというようなものでした。

 この小説(?)を読んだ森田先生から、長い批評の手紙をもらったのは、1908(明治41)年1月末のことでした。

Weblio辞書―項目を検索―森田草平―ダヌンツイオ  

 達筆の薄墨で巻紙にしたためられた森田先生の手紙は「愛の末日」についての過分の讃辞にみちたものでしたが、彼女も巻紙に筆で返事を返事をしたためてだし、文通するようになりました。

 かくしてオープンな若い男女交際の場に乏しい当時の日本において、森田草平は彼女を男女関係の経験者と思い込んだ形跡があり、彼女は森田草平のだらしのない男女関係の実態をよく知らず、デートを重ねるうちに、森田草平が説くダヌンチオ「死の勝利」(生田長江訳 昭和初期世界名作翻訳全集22 ゆまに書房)の世界へと彼女が引き込まれていったようです。 

 1908(明治41)年3月24日森田草平・平塚明子心中未遂で塩原尾頭峠(栃木県)を徘徊中、発見されました[塩原(煤煙)事件](新聞集成「明治編年史」第13巻 財政経済学会)。

クリック20世紀―1908-1908/3/24森田草平・平塚らいてう心中未遂(煤煙事件)  

 二人は宇都宮警察の巡査に発見され、、案内された温泉宿には生田先生、すこし遅れて母まで来ていました。母とともに帰宅して、心痛のため腸をこわして寝床についていた父は、、深く頭をたれて枕元に坐った彼女を見すえて、「たいへんなことをしてくれたね」といっただけでしたが、激怒を精いっぱいおさえていることは彼女のからだにすぐ感じられました。

 この事件の解決策として夏目(漱石)先生の側から、生田先生を通じて、父に述べられたことは、「森田がやったことに対しては、平塚家ならびにご両親に十分謝罪させる、その上で時期を見て平塚家へ令嬢との結婚を申込ませる」という内容だったようです。ところが父は、直接娘におききなさいと無愛想に答えたらしく、母に案内されて彼女の部屋に入ってきた生田先生に彼女は森田先生との結婚の意思はないと申しました。事件の後始末が、事件の当事者同士の話し合いにゆだねられず、第三者による結論としての結婚のおしつけに彼女は不満だったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー夏目漱石

 その後何日かして夏目先生(一高の語学教師として彼女の父とは面識あり)から父あての「あの男を生かすために、今度の事件を小説として書かせることを認めてほしい。」という内容の丁重な親展の手紙がきました。 母は父に代わって、それは受け入れがたいことを伝えに、夏目家を訪れましたが、夏目先生の強い懇願をうけ、父の意向は通らずじまいでした。

漱石は正直に『よく解らない』といいながら、この事件の表に出た形と想いとはくいちがっていることを指摘している。」(塩原尾花峠・雪の彷徨事件 井手文子「平塚らいてうー近代と神秘―」新潮選書)
 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む19

 山から帰って十日ほどあと、いちはやく母校の女子大から、除名の通知がもたらされました。寮監で桜楓会(同大同窓会)役員の出野柳さんが、その使者役となって彼女の家にみえました。彼女は「自分としては、母校の名を傷つけるようなことをしたとは思いませんが、桜楓会でそういうふうになさりたいのなら、むろんわたくしはそれをお受けします」とあっさり答えました。

 こうして世間がかってな見方で騒ぎ立てることはうるさく、不快なことには相違ありませんが、いちばん失礼だとおもったのは当時の新聞記者の、面会を強要するひどい態度です。

わかってもらえそうな程度のことを少しばかり話すと、それが違った意味のものに作りあげられているのには驚きました。

 こんなことから、父は彼女を当分の間、家に置きたくないといいはじめ、彼女は鎌倉の円覚寺や母とともに茅ケ崎の貸別荘で過ごしたりしました。今度の事件の渦中に木村さんも巻き込まれた形となり、母校の女子大から妙な眼で睨(にら)まれるようになったので、女学校の家事の先生になって急きょ関西へ赴任してしまいました。

 1908(明治41)年9月初め、かつてお茶の水高女で「海賊組」の一人であり、女高師を出て松本の高等女学校に赴任した小林郁さんを訪ねて、彼女はひとりで、信州の旅に向かいました。

 一時小林さんから紹介された松本市内の繭問屋の蔵座敷に滞在しましたが、1週間ほどで松本から数里東南方の東筑摩郡中山村字和泉の養鯉所に落ち着くことになりました。彼女はここで散策と坐禅と読書に明け暮れる毎日を過ごしたのです。

Goro―登山と散策 

 森田先生からは、この山のなかへも時おり手紙がきました。先生は謹慎していた夏目先生の自宅から、近くの、牛込横寺町にあるお寺に下宿し、そこで小説「煤煙」(岩波文庫)を書きはじめていました。彼女はそれが作品として立派なものであってほしいと願っていました。

 やがて朝夕眺めていた日本アルプスの連峰は雪をかぶり、彼女の部屋にも炬燵が入って、信州滞在も終りを告げねばならない季節となりました。  こんなとき、森田先生から、例の小説がだいたい書けた。朝日新聞に、夏目先生の紹介で、来春元旦から発表されることになったと知らせてきました。
 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む20

 中山村の養鯉池から引き上げたのは、十二月のなかばに入ってからでした。信州から帰京後、彼女は神田美土代町の日本禅学堂において、坐禅修行をはじめました。日本禅学堂はお寺ではなく、中原南天棒全忠老師(鎌倉禅の批判者)門下の駿足といわれた岡田自適(外科開業医)が私財を投じて独力で開いたものでした。

 森田先生の創作「煤煙」は、予告通り1909(明治42)年元旦から「東京朝日」に連載されました。新聞は毎朝配達されてきますから、父や母の眼に触れないはずはなく、読んでいるかも知れないのです。彼女も部屋に持ち込んで、ひそかに読んでいました。

 もともと「死の勝利」を下敷にしたともいえるこの小説が、自分の実感によるものでないのは仕方がないとしても、あれほど自分の趣味や嗜好で、また自分よがりの勝手な解釈で作り上げないでもよさそうなものだと思われるのでした。しかしほんとうに「一生懸命」に書いた苦心の作であることだけは、はっきりと感じられます。

 1909((明治42)年十二月下旬彼女は西宮市海清寺禅堂において臘八接心(釈迦が成道した12月8日にちなんで12月1日から8日まで徹夜で行われる接心)に参加、南天棒老師より「全明」の安名を受けました。

 一方新たな意気込みで英語の勉強にとりくみ、同年4月から神田の正則英語学校に通い、ここで斉藤秀三郎先生の英文法を聴きましたが、まるで講釈師がするように、折々扇子で机をたたいて講義されるのには驚きました。馬場孤蝶先生や生田先生宅へも時折伺っておりましたが、社会や政治の問題を、自分自身の問題として考えることもなければ、当時(明治43)年、世上やかましくさわがれた幸徳事件(「日本の労働運動」を読む47~48参照)についても、生田先生のところで話題に出るほか、とくに関心はもちませんでした。

 塩原事件以来、海禅寺へふたたび出入りするようになったのは、1910(明治43)年の夏のことでした(「元始、女性は太陽であった」を読む16参照)。

 その年の暑中休暇に東京へ帰ってきた木村さん(「元始、女性は太陽であった」を読む15・19参照)が海禅寺にゆくと、秀岳和尚が彼女にひどく会いたがっているということで、木村さんに連れられるような格好で、再び出入りするようになったのでした。それがきっかけで、その後、木村さんが関西へ帰ってからもひとりでたまには海禅寺を訪ねたりするようになりました。

 遊びの味を覚えた和尚は、お酒が入ると馴染みの若い芸者の話などを得意そうにきかせるので、彼女がその待合を見たいといったことから、その日和尚の行きつけの待合に出掛けることになりました。

 ここでついに彼女は和尚と結ばれることになりました。しかし未婚の娘として、そのとき自分のしていることが、不道徳なことだという気持ちはありませんでした。それにしても、塩原事件というものがなかったなら、和尚とそんな関係になることは考えられないことでした。彼女にも性に対する好奇心が、無意識のうちに育っていたことは確かなことのように思われます。

 和尚は、それ以後の彼女に対する態度も控え目で、積極的に自分から待合へなど誘うようなことはありませんでした。

 

 

 

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む1~10

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 1

 平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」(大月書店)下巻に収録された、小林登美枝「らいてう先生と私」(1971年8月15日付)は本書の成立事情について、次のように述べています。

 「(前略)らいてう先生の自伝原稿は、私が先生のお話をうかがってまとめたものに、先生が綿密、丹念に手をいれられたうえで、それを私が清書し、さらにまた先生が目を通されるという作業をくりかえしながら、書きすすめました。(中略)

 原稿として完結しなかった、「青鞜」以後のらいてう先生の歩みのあとについては、「外伝」または「評伝」といった形ででも、いずれ私がまとめなければならない、責任を感じております。(後略)」

 上述の如く「同上書」には続巻・完結篇もありますが、これについては、いずれ検討したいと思います。

 彼女は1886(明治19)年2月10日、父平塚定二郎、母光沢(つや)の三女として、東京市麹町区三番町で出生、明(はる)と名付けられました(平塚らいてう年譜 「元始、女性は太陽であった」下巻 大月書店)。両親の最初の子為(いね)は夭折、二番目の姉は1885(明治18)年1月30日、孝明天皇祭の日に生まれたので孝(たか)と名付けられたのです。母が彼女を身ごもると、姉は母の乳から離されて、乳母が雇われました。

 のちに彼女が見た平塚家の系図によれば、三浦大介義明は相模国三浦の豪族で、鎌倉幕府に仕えたその一族の為重が箱根の賊を平らげた功績により、相模国平塚郷に三千町歩を賜り、三浦姓を平塚に改めたことが記録されています。

風雲戦国史―戦国武将の家紋―地方別戦国武将の家紋と系譜―関東の武将―神奈川県―三浦氏

 豊臣秀吉が天下を統一したとき、為重から7代目の因幡守為広は岐阜垂井城主として、秀吉に仕えていましたが、関ヶ原の戦い石田三成方について敗死、その弟越中守為景は捕えられましたが、許されて紀州徳川頼宣に仕え、兄為広の遺児3人を紀州侯に仕えさせると、自身は退官出家、久賀入道と名乗りました。

 為景には子がなかったので、兄為広の遺児の末弟勘兵衛を養子とし、代々勘兵衛を名乗り、御旗奉行の役職を勤め七百石の知行を賜っていました。彼女(平塚明)の祖父に当たる勘兵衛為忠は明治維新の際に洋式訓練を受けた紀州兵の中隊長として、神戸外人居留地の保護に当たったそうです。

 1871(明治4)年の廃藩置県により、為忠は紀州を離れることを決意、先祖伝来の屋敷と全財産を先妻の長男と二人の娘に与え、後妻の八重と、その間に生まれた二人の子供を連れ、東京に出てきました。これが1872(明治5)年のことで、父定二郎の15歳のときのことでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 2

 父の話によると、このとき和歌山から東京に着くのに、汽船の故障などで5日もかかりました。祖父は当時陸軍の会計局長を勤めていた従兄津田出(いずる 紀州藩改革の功労者で岩倉具視に招聘される)を頼って、津田家の執事として彼の麹町下六番町の屋敷に住まわせてもらい、父も玄関番をしました。

和歌山県ふるさとアーカイブー紀の国の先人たちー「社会・政治」の先人たちー津田出

 津田出は役所が窮屈だといって、九段坂上の陸軍偕行社(陸軍将校の社交・互助を目的とした団体)をよく利用しました。父もそこへ手伝いにいくようになり、給仕のような仕事をしていたようです。この偕行社にドイツ語の出来る松見という紀州出身の人がいて、地位は低いのに軍人の間では重んじられていたので、父は自分もドイツ語で身を立てようと決心、松見にドイツ語を教えてもらい、やがて正則のドイツ語を教える駿河台の私塾に通うための学費を作る目的で豆売りなどもして苦労しました。やがて外国語学校に入るための学費約200円を祖父から出してもらい、1876(明治9)年神田一橋に開校されていた外国語学校(東京外国語学校 東京外国語大学の前身)を受験合格しました。

東京外国語大学―大学紹介―大学の歴史・沿革―大学の歩み  

 やがて卒業間近という時期に、以前から床についていた祖父の病気が長びいて、経済的に追いつめられ、やむなく同校を退学しようとしたところ、校長から才を惜しまれて、生徒から一躍教師に抜擢され、月給25円を給与されるに至りました。

 祖父の死後、父は官界に入り、農商務省・外務省を経て1886(明治19)年会計検査院に移り、翌年憲法制定に伴う会計検査院法制定の必要から院長に随行して、先進諸国の会計検査院法調査のため欧米諸国を歴訪しました。出発にあたり、院長は伊藤総理に呼ばれてプロシャ(ドイツ)の会計法を詳細に調べて来るよう命ぜられたということです。

 帰朝後父は1924(大正13)年66歳で官界を引退するまで40年間会計検査院に勤務し続けたのでした。

 父はいつも忙しかったのでしょうが、私生活では実に趣味がひろく、子供たちの遊び相手にもよくなってくれた、家庭的な父親でした。父は彼女を「ハル公」と呼び、末っ子の彼女が余程可愛かったのでしょうか、暇さえあれば彼女の相手になって遊んでくれました。五目並べや、お正月にはトランプの「二十一」・「ばばぬき」などをいつまでも倦きずに子供達の相手になって遊んでくれたものです。冬にはストーブや火鉢にあたりながら、グリムやイソップなどの童話を話してくれました。

 いまから考えてもおかしいのは、父が編物を上手にしたことです。彼女は小さな丸い手の甲にあかぎれが出来るので、父が、赤地に白い線をいれて、指が出るようになった手袋を編んでくれたのが気に入り、いつもそれをはめていたのを思い出します。「学校へいって、お父さんが編んだのだなんていうんじゃないよ」と笑いながら口どめされたところをみると、父としてはちょっと恥ずかしかったのでしょうか。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 3

 母は田安家(御三卿の一、徳川吉宗の3男宗武がたてた家柄)の御典医(将軍や大名に仕える医師)飯島芳庵の三女で父より5年後の1864(元治1)年に生まれました。飯島家の初代芳庵が若くして死去し、実子が幼少だったので、田安家の殿様の御声がかりで、同じ田安家の漢方医であった高野家から妻子とも養子に入り、二代目芳庵として典医の職をついだのだそうです。

 母の生家飯島家は代々江戸住まいで本郷丸山町に大きな屋敷があり、暮らし向きも豊かでした。飯島家の末娘であった母は寺子屋で読み書き算盤を習い、踊りは五つぐらいから稽古したらしく、常磐津(ときわず 浄瑠璃の流派)は数え年十七歳で結婚する前に名取り(音曲・舞踊などを習うものが師匠から芸名を許されること)になっていました。

歌舞伎へのお誘いー歌舞伎の表現―音による表現―常磐津節

 その飯島家から、母が津田家の長屋住まいをしている父のところへ嫁いだのは、父の人物に芳庵が惚れこみ、末娘をくれる気になったからでした。

 江戸育ちの母は祖母の紀州弁がわからず、父は遊芸の雰囲気を好まなかったようで、せっかく嫁入り道具に持ってきた二丁の三味線を、納戸(なんど 屋内でとくに衣服・調度などを納める室)の奥にかけたまま一度も弾くことをゆるされませんでした。小姑の父の妹も同居していましたので、母はその育った時代の女の生き方として自分を殺すことに努めたような人でしたが、父からは、しとやかな美しい妻として愛されていたに違いありません。母の遺品の中に、母が若いころ習っていた茶の湯の本で、父が筆記してやったものが残っています。

 父が欧米巡遊に出かけていたころ、母は文明開化の先端をゆく官吏の家庭の主婦として、自分を再教育するために、家からあまり遠くない中六番町にあった桜井女塾[校長 矢島楫子(「田中正造の生涯」を読む22参照) 後の女子学院]に通い英語の勉強を、また一ツ橋の女子職業学校に洋裁や編物や刺繍などを学びに通ったりしていたので、彼女(平塚明)は自然と祖母の世話になることが多くなりました。

 当時の彼女の家は欧化主義の全盛時代のことでもあり、洋間の父の書斎には天井から大きな釣りランプが下がり、ストーブをたき、母は洋服を着て、ハイカラな刺繍や編物をするという雰囲気だったのに比べて、母の実家の古めかしい空気や貞庵(母の義理の兄)の奥さんが長火鉢の前で煙管(きせる)で刻み煙草を吸う姿が異様な印象として思い出されます。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 4

 母が学校に出かけて留守の間、幼いわたくしたち姉妹の遊び相手になってくれるのは祖母の八重でした。祖母が紀州のどんな家の出身かは知りませんが、生まれ年は1833(天保4)年だったと思います。どこか堅苦しく、いつも取り澄ました感じの母にくらべて、祖母は開けっぴろげで庶民的で、身なりなどもいっこうに構おうとしません。

 読み書きは得意でなく、耳学問で知識をこやしてきた人でしたが、淘宮(とうきゅう)術の木版和綴じの本だけは、かなり熱心に読んでいるのをよく見かけました。

発祥の地コレクションー東京文京区―淘宮術(文京区)-淘宮術発祥之地

 母が学校に出かけて留守の間、彼女たちは祖母に連れられて、招魂社(靖国神社の前身)の境内にあそびにゆくのが日課でした。彼女は祖母に背負われ、姉は乳母が背負いました。ときには大村益次郎の銅像の建っている馬場を抜けて富士見小学校のあたりまで行きます。その途中に、みんなが琉球屋敷とよんでいる琉球王尚(しょう)家の邸宅があり、その前を通ると、髪をひっつめに結って長い銀のかんざしをさし、左前に着物を着た男の琉球人の歩いている異様な姿を、よく見かけたものでした。

 招魂社の表通り、つまり九段坂上の通りに絵草紙屋があって、この店先には欠かさず立ったものでした。彼女が祖母にせがんでよく出かけたのは千鳥ヶ淵の鴨の群れの見物でした。

 少し遠出をするときは、お猿のいる山王様(日枝神社)にも行きましたが、数寄屋橋を渡って、銀座の松崎へ、月に1回くらいお煎餅を買いにゆくのも楽しみの一つでした。松崎の帰り道は、かならずお堀端の青草の上、柳の木陰で一休みして、お堀端に浮かぶ鴨を見ながら、そこでお煎餅の一、二枚を食べることにしていました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 5

 1890(明治23)年春、数え年5歳で、富士見町6丁目の富士見小学校付属富士見幼稚園に入りました。最初しばらくは祖母の送り迎えで、あとは姉といっしょに、招魂社の馬場を通りぬけて通うことになりました。

 幼稚園に通う彼女たち姉妹の服装は、ふだんはたいてい洋服に靴、帽子という格好ですが、式の日にはちりめんの友禅の着物に、紫繻子の袴をはいたりします。それでいて履物は、いつもの編みあげ靴、それにラシャで出来たつばのある帽子をかぶったりしたのですから、、いまから思うとずいぶんおかしな格好をしたものでした。そのころ、洋服はまだ珍しく、洋服で通ってくるのは、九段坂上の富士見軒という洋食屋の娘で、青柳さんという子と、お母さんがドイツ人の高橋オルガさんという子と彼女たちぐらいなものでした。

 こうした集団生活の中に入ってみると、生まれつきはにかみ屋で孤独を好む性格が一層はっきりしました。他の子どもが愉快そうに遊んでいるとき、彼女は片隅で、ただそれを見ているのです。こうした引っ込み思案の性格は、もって生まれたものと、一つには声帯の発達が不均等で声の幅が狭く、大きな声がどうしても出せないところからもきていたようです。

 1892(明治25)年彼女は富士見小学校へ入学しました。そのころは、今のように、家で勉強するようなことはなく、家でやることといえば、手習いといっていた習字の稽古くらいのことで、予習、復習などしたことがありません。受持の先生はたしか高橋先生という男の先生で、なんとなく動作や話の仕方に活気がなく、そのうえ、学課もやさしいことばかりなので、学校もあまり楽しくありませんでした。学校の記憶はほとんど薄れてしまいましたが、招魂社を中心にした学校の往き帰りのことは、いまだによく覚えております。お能をはじめて見たのも、相撲というものを知ったのも、招魂社でのことでした。

千代田区立富士見小学校―沿革  

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 6

 三番町界隈に芸者屋が多くなり、父はもっと閑静な土地を求めて、1894(明治27)年家を解体し本郷駒込曙町13番地に移転、この辺鄙(へんぴ)な駒込の地を選んだわけは、父がその年から、駒込追分町にある一高(東大教養学部の前身)で、ドイツ語を教えることになったからで、そのため彼女は本郷西片町の誠之小学校へ転校しました。

文京区立誠之小学校―学校紹介―誠之小学校の歴史

 富士見小学校は女の先生が多かったのに、誠之は裁縫の先生を除いて、男の先生ばかりでした。受持の先生は二階堂先生といって、色黒で鼻が高く、中背のがっちりした好青年でしたが、大きな声で子どもたちの名前を呼びつけにし、こちらも大声で「ハイッ」とすぐ元気よく答えないと叱られるのでした。

 紀元節とか天長節の挙式は、いつも戸外の運動場で、寒風の中で行われました。校長先生が教育勅語を読みおえるまで、、頭だけ下げて、じっと耐えていなければならないのでした。このころの子どもには、それがあたり前でもあったのです。そして「今日のよき日は大君の…」などを声のかぎりうたい、小さな鳥の子餅の包みをだいて、大喜びで家へ帰るのでした。

四大節  

 学課はまったく楽なもので、富士見小学校と同じように、勉強はほとんどしませんでしたが、たいてい総代を通しました。

 いまにして思えば、二階堂先生は彼女の非社交的な性格や、自由の世界を内部に求めようとする求心的な性向を、一番早く発見してくれた人といえましょう。お手玉や手まり、おはじきなどの遊びもさかんでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 7

 当時は日清戦争のさなかで、世を挙げて軍国調の時代でした。大勝利を祝う提灯行列など、で、子どもたちはみんな戦争のことをよく知っていました。

 突然二階堂先生が兵隊にとられたと聞いたときは、みんなびっくりしました。ところが、しばらく学校に見えなかった先生が、ある日堂々たる近衛兵(このえへい 天皇の親兵)の美しい軍服姿で、学校に現れました。 こんなときにもはにかみ屋の彼女はだまってはなれたところから先生をなつかしく眺めたことでした。

 もう一つこの先生で忘れられないことは、遼東半島還付について、教室でなにかの時間にとくに話をされたときのことです。戦勝国である日本が、当然、清国から頒(わ)けてもらうべき遼東半島を露、独、仏の三国干渉のため、涙をのんで還付しなければならなくなった事の次第を、子どもにもわかりやすく諄々と説き、「臥薪嘗胆」と黒板に大きく書いて、子どもたちに強く訴えられたのでした。日清戦争の思い出が、いまだに日露戦争よりもはるかにあざやかなのは、この二階堂先生の影響が少なからずあったのでしょう。

語語源由来辞典―検索―臥薪嘗胆 

 彼女の家に「為平塚大兄」として、伊藤博文の書が掛軸になって残っておりますが、それは1895(明治28)年10月31日は、日本が清国からの償金の第一回の払い込みをロンドンでで受取った日(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)で、晩年の父の話ですと、その日会計検査院の渡辺院長が、総理大臣伊藤博文をはじめ、陸海両軍の各大臣、次官、、会計局長などを芝の紅葉館に招待して、日清戦役関係の軍事費の検査状況を報告し、そのあとで祝宴を開いたその席上、父の請いをいれて書いてくれたものとのことでした。

 おそらくこのとき、戦勝のかげの犠牲者―戦死者や戦傷者のこと、その遺家族のことなど、その席にいるだれ一人として、思い浮かべてもみなかったことでしょう。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 8

 1898(明治31)年4月、彼女はお茶の水にあった東京女子高等師範学校付属高等女学校へ入学しました。誠之では、組の大半が小学校卒業だけでやめ、お茶の水に入ったのは彼女だけ、ほかに二人ほど、小石川竹早町にあった府立の高女に入りました。

 そのころの女学校といえば、お茶の水や府立高女のほかに、上流の子女のための華族女学校(後の学習院女子部)、私立の虎の門女学館、跡見女学校、明治女学校、横浜のフェリス女学校などで、高女以上では女高師と男女共学の上野の音楽学校の二つしかありませんでした。

 女高師付属のお茶の水女学校へ入ったのは、自分から志望したのではなく、父のいいつけに従ったまでで、女学校へ入学したことを、とくにうれしいとも思いませんでした。試験は学課一通りのほかに、裁縫の実技まであって、袷(あわせ)の右の袖を縫わされました。学課試験についてなにも思い出せないのは、みんなやさしい問題ばかりだったからでしょう。

お茶の水女子大学附属高等学校―本校について―学校概要―沿革

 そのころは制服というものがなく、和服に袴と靴というのが、女学生一般の服装でした。

 お茶の水の生徒は、上中流の家庭の子女がほとんどで、彼女の組にも何人かの大名華族のほかに、明治新政府に勲功のあった新華族―いわゆる軍閥、官僚、政商というような人たちの娘が大勢いました。

 女学校へ入ってからも、彼女は発育がわるく、全体としてよほどおくてだったのでしょう。担任の矢作先生が初潮の話をしてくれたのが、なんのことかさっぱりわかりませんでした。むろん、異性への興味などあろう筈もありません。

 祖母は彼女の眉頭にほんの二、三本の柔らかい毛が逆生えしているのまでちゃんと見つけて、これは目上の人のいうことを「ハイ」と素直に聞くことのできない性分で、女にはよくない相だと、たびたび彼女にいい聞かせたものでした。後年の自分のあるいた道を思うと、祖母の人相術に思いあたるふしもありますが、祖母は早くから、孫の人となりを予見していたのでしょうか。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 9

 お茶の水に進学してからも、唱歌を除いて、学校の課目はどれもやさしく、成績も一番か二番を下ることはありませんでした。

 英語は自由課目ですが、英語をやらないものは、その時間を裁縫にあてられていて、彼女は父や母の考えからでしょうが、裁縫をやらされていました。それが二年生か三年生かのときに、どうしても英語が勉強したくなり、姉といっしょに学校外で、個人教授の先生について習うようになりました。

 とにかく自分からいいだして英語を習ったことは、自発的に両親に頼んでやった、はじめてのことでした。おそらくそれは、当時の父の復古思想に対する、彼女の最初の、無意識の反抗であったかもしれません。

 彼女が女学校に入学した明治三十年代前後は、鹿鳴館時代を頂点とした欧化主義からの反動期で、万事が復古調の世相となり、彼女の家でも、日清戦争の少し前ころから、今まで洋間だった父と母の居間が畳敷きとなり、洋装、束髪で、前髪をちぢれさせていた母が丸髷を結うようになり、姉と彼女も、洋服から紫矢絣の着物に変えて、稚児髷を結うという変わりようでした。 

いこまいけ高岡―周辺の市町村の見所―氷見市―まるまげ祭りー丸髷

ニッポンつれづれ帖―ブログ内検索―稚児髷  

 教育勅語がでたのは1890(明治23)年でしたが、その後2、3年して彼女の家からは、半裸体のような西洋美人の半身像の額が消え、教育勅語(「大山巌」を読む29参照)の横額が掲げられるようになりました。

 1898(明治31)年には、明治23年に公布されて以来、「民法出デテ忠孝滅ブ」[ボアソナード民法草案を批判した穂積八束論文(『法学新報』5号 明治24年8月刊)の題名]と非難され、その施行が無期延期となったボアソナード(「大山巌を読む26」参照)案の民法にかわって、新民法が実施されました。さらに1900(明治33)年には「治安警察法」(「日本の労働運動」を読む18参照)が生まれ、いっさいの政治活動から女性がしめ出され、封建的家族制度と政治的不平等に苦しめられることになりますが、このような時代の空気が、父の女子教育に対する態度にも反映したに違いありません。

 文部省直属のお茶の水女学校では日本の家族制度維持を根本思想として、徹底した良妻賢母主義教育が行われていました。1899(明治32)年に出された高等女学校令には、学問や知識、教養よりも、家庭生活に直接役立つもの、裁縫、家政、手芸、行儀作法、芸能を重視するという、その教育内容が、はっきりと掲げられています。

 受持の矢作先生からから受けた授業は、世にもあじけない、心と心のふれ合いのないものでした。すべての学課を、形式的に教科書どおりに教え、教科書にあることを丸暗記させるだけで、生徒が自発的に考えたり、興味をもって勉強してゆくような教え方ではないのでした。あれほど索漠とした授業に、よくみんな辛抱したものだと思いますが、あの時代の娘たちは、それに疑問をもつこともなかったのでした。

 とくに運動好きというわけでもない彼女が、三年生のころからテニスに熱中しはじめたというのは、、一つには、学課のつまらなさの反動であったのかもしれません。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む10

 こんななかで、彼女はいつか数人の親しい友達をもつようになりました。この仲間は、結婚などしないで、なにかをやってゆこうという気持に、つよく燃えていました。

 彼女たちは因習的な結婚に反発し、つくられた女らしさに反抗して、わざと身なりを構わず、いつも真黒な顔をしていました。

 いつも伸びよう伸びようとする心の芽を、押えつけられているような気分で、学校生活を送っていた彼女たちは三年生の歴史に時間に「倭寇(わこう)」の話を聞いて、その雄大、奔放な精神にすっかり感激してしまいました。やがて彼女たちは、自分たちのグループを「海賊組」と命名しました。彼女はそのころから、授業のなかでもっとも反発をおぼえる「修身の時間」をボイコットするようになりました。

 修身は矢作先生の受持ちですが、女(おんな)大学式のひからびた内容の教科書(例えば山内一豊の妻の話など)を、ただ読んでゆくだけの講義に、つくづく退屈したからでした。

寉渓書院―江戸思想史への招待-―江戸の教育思想に学ぶー5.江戸時代の女性用教科書

 おそらくこの退屈な授業に耐えられなかったのは、彼女一人ではなかったと思いますが、授業を欠席するというような、思いきったことをする生徒は、彼女一人だけでした。修身という大切な授業をボイコットしながら、あの厳しい矢作先生から、ふしぎなことに、彼女は一度も叱られませんでした。ふだんから温和しく、成績もよかった彼女は、多分、先生の気にいるような生徒だったのでしょう。

 

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)11~20

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)11

 

 1915(大正4)年1月加藤高明外相の訓令にもとづき、日置益駐華公使中華民国大総統袁世凱に5号21ヵ条要求を提出、秘密交渉とするよう求めました。5月4日閣議は21ヵ条要求から第5号を削除、5月7日日置公使最後通牒(自国の最後的要求を相手国に提出して、それが容れられなければ、自由行動をとるべき旨を述べた外交文書、通常一定期限を付ける)を中国政府に交付、同年5月7日中国政府は日本の要求を承認、同月25日21ヵ条要求に基づく日中条約並びに交換公文に調印しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17参照)。

 これに対して吉野作造は列強と並んだ日本の中国分割参加を積極的に支持していましたが(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造 9参照)、湛山は露骨なる領土侵略政策の敢行は帝国百年の禍根をのこすものと批判して次のように述べています。

 「(前略)そもそも我が対支要求の内容はこれであると、未だ当局からの明示には接せぬが、内外の新聞に各様に報ぜられたものによって、ほぼ想像は出来る。(中略)欧洲列強が自分の火事に全力を傾け、他を顧みるの遑(いとま)なきに乗じて、(中略)南満および福建に、我が立場を確立する要求を支那に持ち出したのである。(中略)

 しかしながら、いかに支那が積弊の余の衰弱国であるとしても、(中略)かような大胆な希望が、(中略)果して無事に、安々と、実現し得られるものであろうか。(中略)吾輩はこの点において大疑問がある。(中略)

 支那の独立や、支那人の希望の如き、毫(ごう)も眼中に置くの要なし、これを破却し、蹂躙(じゅうりん ふみにじる)して可なりというのであろうか。(中略)

 もしも、支那が(中略)わが要求の大部分を容れたらば、吾輩は意外なる局面を惹起(じゃっき)して来はせぬかを恐れる。(中略)これらの諸国(欧米列強)は日英同盟破毀を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、(中略)それとも連合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか。(中略)

 その直接の責任は(中略)大隈首相と加藤外相の失策にあるといわねばならぬ。」(「禍根をのこす外交政策東洋経済新報 大正4.5.5号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)12

 

 1916(大正5)年、雑誌「中央公論」1月号に吉野作造は論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済すの途を論ず」を発表、いわゆる民本主義の主張を展開しました(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造10参照)。

 吉野によれば、民主主義とは「国家の主権は法理上人民に在るべし」という意味で、民本主義とは「国家の主権の活動の基本目標は政治上人民に在るべし」という意味に用いられる。

 かかる意味で唱えられる民主主義は我が国で容れることのできない危険思想であるが、民本主義の精神は、明治初年以来我が国の国是であったとし、我が国における国民主権論を否認したのです(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造16参照)。

 これに対して湛山は、吉野が民本主義論を展開したとほぼ同時期に、山川均に代表されるような社会主義者とは異なった観点からの国民主権論を次のように論述しています。「(前略)代議政治を以て、君主もしくは貴族から、民衆が主権を奪うたものと言うけれども、私の見解を以てすれば、そうではない。元来主権は国民全体にあったのである。それをただ円滑に働かしむるものが代議政治である。(後略)」(「代議政治の論理」東洋経済新報 大正4.7.25号 時論 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 このような国民主権の立場から、湛山は帝国議会常設の必要を説いて、次のように主張するのです。「(前略)吾輩は、我が帝国議会の会期を三ヵ月とせる現在の規定を改めて十二ヶ月とし(即ち一年中常設)、ただ議事なき場合には議会自ら休会することに致したい。

(中略)もっとも帝国議会の会期をかく改むるには、憲法の改正を要する。即ちその第四十二条に「帝国議会ハ三箇月ヲ以テ会期トス必要アル場合ニ於テハ勅命ヲ以テ之ヲ延長スルコトアルヘシ」とあるを、「帝国議会ハ十二箇月を以テ会期トス」とせねばならぬ。(中略)

憲法の改正は勅命による必要あり、(中略)あるいは断行に躊躇する向きもあろう。(中略)国民の希望にして、而して善事なれば、勿論勅命も賜ること疑いない。」(「帝国議会を年中常設とすべし」東洋経済新報 大正5.8.15号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)13

 

 1917(大正6)年ロシア革命が起こり、同年11月レーニンの指導するボルシェヴィイキ政権が樹立されました。これに対してアメリカならびに日本など連合国は1918(大正7)年チェコ軍救出を名目にシベリア出兵を敢行するに至りました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。

 これに対して湛山はシベリア出兵に反対して次のように主張しています。「(前略)露国の問題に関し、何よりもまず我が国民の注意を乞いたいは、やはり同国の革命の性質である。幾十百年の間、他国民のほとんど想像だも出来ぬ激しさを以て圧伏せられて来た農民労働者が、一時にその圧迫を蹴破って起ったのが、今回の露国の革命である。不幸にして露国の農民労働者には教育が足りない。民衆政治の訓練が足りない。(中略)彼らは(中略)勝手次第に地主の土地財産を強奪分配せるが如き、その一例である。(中略)

 これさえ改まれば、即ちそこに統一は生じ、そこに混乱は終熄(しゅうそく)する。しかしながら、そは果して外国の圧迫で、能く行い得る処であろうか。(中略)今の露国で反革命党を援け、あるいは革命党を圧迫するのは、あたかも明治維新の際、幕府を援け、討幕党を圧迫するのと異ならない。(中略)ただ彼らの首領たる識者の努力に待つより他に途はない。

 故に吾輩はいう。過激派を承認しろ過激派を援けろと。(中略)ここに疑うべからざる一の事実は、(中略)露国の主権は、過激派政府が握っておることである。(中略)無名の兵を露国に出だし、露国民の憤激を買うが如きは絶対にすべからざる事である。もしそれ過激派政府が、恣(ほしいまま)に戦争を熄(や)めたという非難にに対しては、吾輩は、戦争を熄めたは一過激派政府の所為にあらずして、実に露国の実情がこれを熄めざるを得ざらしめたものと見る。(後略)」(「過激派政府を承認せよ」大正7.7.25号 東洋経済新報 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)14

 

 1918(大正7)年夏、シベリア出兵とほぼ同時に起こった米騒動(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)について、湛山は次のように述べています。

 「(前略)政府ならびにいわゆる官僚政治家の多くは、米騒動を以て単純に米価の騰貴に帰し、米価さえ引き下げれば、それで万事解決、(中略)今後再び騒擾を起し得ぬように、騒擾犯者を厳罰に処して今後を懲(こ)らすべしなどというものさえある。(中略)

 もし今日の我が思想界に危険なものがありとすれば、これに優るものはない。(中略)

 しからば米価は何が故にかくの如く暴騰をしたのか。(中略)米価の狂騰は即ち全く政府の愚劣なる輸出奨励の作出した思惑の結果と見るほかに説明のしようがないのではないか。

(中略)その結果は大多数の無産者の犠牲を以て、少数有産者に利益を与うることになる。

(中略)今回の事件は(中略)有産対無産の階級戦の大烽火を挙げたるの観さえある。されば吾輩は(中略)単に米騒擾に過ぎずなどと軽視し、もしも多数を騒擾罪に問うて懲罰に付する如きあらば、かえって由々しき結果を惹起するに至るべきを深く恐るるものである。」

(「騒擾の政治的意義」東洋経済新報 大正7.9.5号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 1918(大正7)年1月、米大統領ウイルソンが掲げた14カ条の提案(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)における民族自決主義の呼びかけは大きな感動をよびました。パリ講和会議が開催された1919(大正8)年、3月に起こった朝鮮の独立を要求する三・一運動(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造26~27参照)について湛山は次のように論述しています。

 『(前略)在鮮邦人について、這次(しゃじ)暴動(三・一運動)に関する所感を叩け。(中略)彼らはいう、「(前略)群衆が団を成して喧騒はしたが、暴力を訴うる元気も憤激も看取し得なんだ。あれで何が出来るものか」と。(中略)彼らはまた眉を顰(ひそ)めて、鮮人のために日本婦人の辱めらるるもの続出するので、婦人の夜出を戒め居る旨を語りながら、これを単に鮮人の悪習に帰して居る。(中略)

 およそいかなる民族といえども、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来ほとんどない。(中略)衷心から日本の属国たるを喜ぶ鮮人はおそらく一人もなかろう。故に鮮人は結局その独立を回復するまで、我が統治に対して反抗を継続するは勿論、(中略)その反抗はいよいよ強烈を加うるに相違ない。(中略)

  もし鮮人のこの反抗を緩和し、無用の犠牲を回避する道ありとせば、畢竟(ひっきょう)鮮人を自治の民族たらしむるほかにない。しかるに(中略)鮮人の暴動を見て、鮮人元気なし、腰抜けなり、というて、鮮人の暴動を軽侮し、はた鮮人の日本婦人凌辱を、(中略)単なる悪習と見去る如きは、何という無反省のことだろう。(中略)はたまた鮮人の生活を奪い居ることに気が注(つ)かぬのか。かくの如き理解の下には、断じて何らの善後策もあり得る訳がない。』(「鮮人暴動に対する理解」東洋経済新報 大正8.5.15号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 同年東洋経済新報社に入社した高橋亀吉は、記事を書いても湛山から文章が下手だと酷評され、屑かごに棄てられる有様でした。しかし同社の編集会議では編集記者たちが取材したテーマを自由に討論する気風に富み、湛山が編集長となってから、その気風は一段と活発になり、高橋はここで実力を養うことができたのです(鳥羽欽一郎「生涯現役―エコノミスト高橋亀吉東洋経済新報社)。

東洋経済新報社 創立115周年記念サイトー湛山・亀吉のプロフィールー石橋湛山 高橋亀吉

 米騒動をきっかけに、同年再び普選運動が盛り上がり(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)、普通選挙期成同盟会なるものが数寄屋(すきや)橋付近の小さなレストランの二階に設けられ、3月1日には、日比谷の音楽堂前広場で国民大会を開き、そこから直ちに示威行列を行って、銀座を通過し、二重橋前で万歳を三唱して散会しました。湛山は当時「東洋経済新報」の仕事が忙しくて、街頭運動に参加することは好まなかったのですが前々からの関係もあって引っ張り出されました。

 「しかし日本の普通選挙は、あまりにもおくれておこなわれた。(中略)せめて大正七、八年ごろ、諸政党が(中略)普選実行の決意をいだいたら、日本の民主主義はその時代にもっと固まり、したがって、昭和六年以後軍閥官僚が再びその勢力を盛り返すがごとき不幸を防ぎ得たかもしれない。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)15

 

 1921(大正10)年米大統領ハーディングの提唱により軍備制限ならびに太平洋・極東問題を議題とするワシントン会議が開催され、我が国も参加しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24参照)。

東洋経済新報社 創立 115周年記念サイトー東洋経済の歩みを動画で見る

 このワシントン会議について湛山は次のように述べています。「(前略)在朝在野の政治家に振り向きもせられなんだ軍備縮少会議が、ついに公然米国から提議せられた。おまけに、太平洋および極東問題もこの会議において討議せらるべしという。(中略)吾輩は欧州戦争中から、必ずこの事あるべきを繰り返して戒告し、政府に国民に、その政策を改むべきを勧めて来た。(中略)

 我が国の総ての禍根は、(中略)小欲に囚(とらわ)れていることだ、(中略)我が国民には、その大欲がない。朝鮮や、台湾、支那満州、またはシベリヤ樺太等の、少しばかりの土地や、財産に目をくれて、その保護やら取り込みに汲々としておる。(中略)彼らには、まだ、何もかも棄てて掛れば、奪われる物はないということに気づかぬのだ。(中略)

 例えば満州を棄てる、山東を棄てる、其の他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、(中略)また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。

 英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば(中略)その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向って信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、其の他の列強属領地は、一斉に、(中略)我にも自由を許せと騒ぎ立つだろう。(中略)

 以上の吾輩の説に対して、あるいは空想呼ばわりする人があるかも知れぬ。(中略)しかしかくいうただけでは納得し得ぬ人々のために、吾輩は更に次号に、決して思い煩う必要なきことを、具体的に述ぶるであろう。」(「一切を棄つるの覚悟」太平洋会議に対する我が態度 東洋経済新報 大正10.7.23号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)16

 

 「(前略)吾輩の議論(前号に述べた如き)に反対する者は、、多分次の二点を挙げて来るだろうと思う。

 (一)我が国はこれらの場所を、しっかりと抑えて置かねば、経済的に、また国防的に自立することが出来ない。少なくも、そを脅(おびや)かさるる虞(おそ)れがある。

 (二)列強はいずれも海外に広大な殖民地を有しておる。しからざれば米国の如くその国自らが広大である。而して彼らはその広大にして天産豊なる土地に障壁を設けて、他国民の入るを許さない。この事実の前に立って、日本に独り、海外の領土または勢力範囲を棄てよというは不公平である。

 (中略)第一点より論ぜん。朝鮮・樺太・台湾ないし満州を抑えて置くこと、また支那シベリヤに干渉することは、果して我が国に利益であるか。(中略)まず経済上より見るに、けだしこれらの土地が我が国に幾許(いくばく)の経済的利益を与えておるかは、貿易の数字で調べるが、一番の早道である。今試みに大正九年(1920)の貿易(朝鮮及び台湾の分は各同地の総督府の調査、関東州の分は「本邦貿易月表」に依る。当ブログの筆者、本文掲載の統計数字を省略)を見るに、我が内地および樺太に対して、この三地(朝鮮・台湾・関東州)を合せて、昨年我が国はわずかに九億余円の商売をしたに過ぎない。同年、米国に対しては輸出入合計十四億三千八百万円、インドに対しては五億八千七百万円、また英国に対してさえ三億三千万円の商売をした。(中略)

 もし経済的自立ということをいうならば、米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国といわねばならない。(中略)

 しからばこれらの土地が、軍事的に我が国に必要なりという点はどうか。軍備については、(中略)(一)他国を侵略するか、あるいは(二)他国に侵略せらるる虞れがあるかの二つの場合のほかにはない。他国を侵略する意図もなし、また他国から侵略せらるる虞れもないならば、警察以上の兵力は、海陸ともに、絶対に用はない。(中略)

 しかしながら吾輩の常にこの点において疑問とするのは、既に他国を侵略する目的でないとすれば、(中略)一体何国から我が国は侵略せらるる虞れがあるのかということである。(中略)我が国を侵略する虞れがあるとすれば、(中略)戦争勃発の危険の最も多いのは、むしろ支那またはシベリヤである。(中略)さればもし我が国にして支那またはシベリヤを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起らない(中略)。」(「大日本主義の幻想」一東洋経済新報 大正10.7.30号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)17

 

 「(前略)前号の吾輩の議論では、なおその証明足らずという人があるかも知れぬ。例えば内地との貿易額は、なるほど比較的僅少(きんしょう)であるかも知れぬが、(中略)それらの地方に内地人が移住して生活しておる者もある、それが多いならば、仮令(たとい)内地との貿易額は少なくとも、以てそれらの地方を経済的に価値なしとはいえぬであろうと。

(中略)最近の調査(大正七~八年 当ブログの筆者統計数字を省略)によるに、内地人にして台湾・朝鮮・樺太・関東州を含める全満州・露領アジア・支那本部に住せる者は総計八十万人には満たぬ。これに対して我が人口はは明治三十八(1905)年日露戦当時から大正7(1918)年末までに九百四十五万の増加だ。(中略)九百四十五万人に対する八十万人足らずでは、ようやく八分六厘弱に過ぎぬ。(中略)内地に住む者は六千万人だ。八十万人の者のために、六千万人の者の幸福を忘れないが肝要である。

 一体、海外へ単に人間を多数送り、(中略)人口問題を解決しようなどいうことは、間違いである。(中略)悪くいうなら、資本と技術と企業脳力とを持って行って、先方の労働を搾取(エキスプロイット)する。もし海外領土を有することに、大なる経済的利益があるとするなら、その利益の来る所以は、ただここにある。(中略)

 しかし世の中には、以上の議論を以てしても、なお吾輩の説に承服せぬ者があるであろう。(中略)それは仮りに彼らの盲信する如く、大日本主義が、我に有利の政策なりとするも、そは今後久しきにわたって、とうてい遂行し難き事情の下にあるものなること、これである。

(中略)思うに今後は、いかなる国といえども、新たに異民族、または異国民を併合し支配するが如きことは、とうてい出来ない相談なるは勿論、過去において併合したものも、漸次これを解放し、独立または自治を与うるほかないことになるであろう。(中略)即ち大日本主義は、いかに利益があるにしても、永く維持し得ぬのである。

 (中略)また軍事的にいうならば、大日本主義を固執すればこそ、軍備を要するのであって、これを棄つれば軍備はいらない。(中略)吾輩は次に、前号所掲の論者の第二点に答うるであろう。」(「大日本主義の幻想」二 東洋経済新報 大正10.8.6号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)18

 

 「吾輩の主張に対する反対論の第二点は、列強が広大なる殖民地または領土を有するに、日本に独り狭小なる国土に跼蹐(きょくせき 身の置き処のない思い)せよというは不公平であるという論である。

(中略)吾輩が我が国に大日本主義を棄てよと勧むるは決して小日本の国土に跼蹐せよとの意味ではない。これに反して我が国民が、世界を我が国土として活躍するためには、即ち大日本主義を棄てねばならぬというのである。(中略)しかしながら世界には現前の事実として、大なる領土を国の内外に所有し、而して他国民のここに入るを許さぬ強国がある。されば日本もまた彼らと競争して行くがためには、どこかに領土を拡げねばならぬではないかという論の起るのも、一応もっともでないではない。

 これに対しては、吾輩は三つの点から答える。第一は前すでに説ける如く今になってはもはや我が国は(中略)四隣の諸民族諸国民を敵とするに過ぎず、実際において何ら利する処なしということこれである。第二は(中略)列強の過去において得たる海外領土なるものは、漸次独立すべき運命にある、(中略)第三は我が国は(中略)列強にその領土を解放させる策を取る(中略)例えば我が国が朝鮮・台湾に自治を許し、あるいは独立を許したりとせよ、英国は果してインドや、エジプトを今日のままに行けようか、米国はフィリピンを今日のままにして置けようか。(中略)道徳はただ口で説いただけでは駄目だ。(中略)他人に構わず、己れまず実行する、ここに初めて道徳の威力は現わるる。ヴェルサイユ会議において、我が大使が提案した人種平等待遇問題(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)の如き、わけもなく葬り去られた所以はここにある。我が国は、自ら実行していぬことを主張し、他にだけ実行を迫ったのである(鈴木文治「労働運動二十年」を読む18参照)。(中略)

 かくいわば、あるいはいうであろう。仮りに列強いずれも、その海外領土は解放するとするも、なお米国の如き自国の広大なる処がある。また解放せられたるそれぞれの国も、あるいは皆その国境を閉じて、他国の者を入れぬかもしれぬ。これらに対してはどうすると。

 これについては吾輩は次の如く答うる。(中略)それは移民についての話である。商人が、米国内で商業を営むに、何の妨げもない。(中略)一人の労働者を米国に送る代りに、その労働者が生産する生糸をまたはその他の品を米国に売る方が善い。(中略)

 あるいはいうかも知れぬ。自国の領土でなければ、そこで或る種の産業は営むことが出来ぬ。例えばいずれの国でも鉱業の如きは、外国人の経営するを許さない。あるいは仮りに経営し得たりとするも、少しくそれが盛んになれば、何のかのというて妨げられる。あたかも米国における日本人の農業の如き、それであると。これはいかにももっともの苦情である。

(中略)しかし吾輩の見る処によれば、(中略)なお外国人が、経済的に、そこに活動する範囲は相当に大きく開かれておる。(中略)仮令種々の制限はあるにしても、資本さえあるならば、これを外国の生産業に投じ、間接にそれを経営する道は、決して乏しくないのである。(中略)しからば則ち我が国は、いずれにしてもまずその資本を豊富にすることが急務である。(中略)而してその資本を豊富にするの道は、ただ平和主義に依り、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。(中略)

 以上の諸理由により吾輩は、我が国が大日本主義を棄つることは、何らの不利を我が国に醸さない。否(中略)かえって大なる利益を、我に与うるものなるを断言する。(中略)

 もし(中略)米国が横暴であり、あるいは英国が驕慢(きょうまん おごりあなどる)であって、東洋の諸民族ないし世界の弱小国民を虐ぐるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げらるる者の盟主となって、英米を膺懲(ようちょう こらしめる)すべし。(中略)今回の太平洋会議は、実に我が国が、この大政策を試むべき、第一の舞台である。」(「大日本主義の幻想」三 東洋経済新報 大正10.8.13号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)19

 

 1922(大正11)年2月1日元老山県有朋が死去しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む25参照)。

 湛山は彼の死去に際して、次のように述べています。「山県有朋公は、去る一日、八十五歳で、なくなられた。(中略)維新の元勲のかくて次第に去り行くは、寂しくも感ぜられる。

(中略)急激にはあらず、しかも絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全な発達をする。人は適当の時期に去り行くのも、また一の意義ある社会奉仕でなければならぬ。(中略)

 政友会は二日に陸軍縮小建議案を議会に提出した。(中略)憲政会の領袖さえ、天下取りの政党は、うかと陸軍縮小などは叫べないという世の中だ(加藤総裁はその後これを唱えたといえども)。(中略)陸軍閥が恐いからだ。(中略)その背後に絶大の政治権力を有する山公が控えていたからだ。しかるに憲政会よりも(中略)八方円満主義の政友会が事もあろうに陸軍縮小の建議をする。山公の死、少なくともその予感がなくては出来ない事だ。(後略)」(「死もまた社会奉仕」 東洋経済新報 大正11.2.11号 小評論 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

落合道人「わたしの落合町誌」―カテゴリ-気になるエトセトラー2007.08.31石橋湛山は「主婦之友」の愛読者だった

 また1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造28参照)における朝鮮人虐殺について、湛山は次のように論述しています。「(前略)鮮人というから(中略)個々の不良の徒が混乱に際して、若干の犯罪をした。それも官憲の発表によれば、ほとんど皆風説に等しく、(中略)かくてはその犯罪者が、果して鮮人であったか内地人であったかも、わからぬわけである。(中略)日本は万斛(ばんこく 非常に多量)の血と涙とを以て、過般(かはん さきごろ)の罪をつぐなわなければならぬ。」(「精神の復興とは」 東洋経済新報 大正12.10.27号 小評論 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 しかし上述のような、現在の日本国憲法の理念を先取りしたとも言える東洋経済新報における湛山の主張は当時の日本では少数派にとどまり、国民の間に広く浸透することはありませんでした。

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)20(最終回)

 片山 潜に対する日本政府の圧迫は、同氏がソ連に入国後も継続しました。それは日本に残した同氏の夫人(声楽家原信子の姉の娘 たま 1903片山の先妻フデ死去後 再婚 片山潜「自伝」年譜 岩波書店)に対してです。地方で女学校の教師をしていた夫人は、突然東洋経済新報社に湛山を尋ねて来て、学校に就職しても片山潜の妻とわかると首にされ困っている、片山とは文通もないので、法律上離婚する方法はあるまいかということでした。

 幸いに片山氏の戸籍は神田区にあり、湛山は片山氏と親しかった区長を区役所に尋ね相談、区長に、片山氏から離婚に異議がないという意思表示を手紙ででもしてもらえないか、といわれたので、ロンドンの友人を通じて、湛山は片山氏にその事情を申し送りました。片山氏の返事の中にペン書きで「離婚を承諾す。片山 潜」と記述した紙片が同封されていたので、湛山は同紙片を区長に見せ、手続きは一切区長がやってくれました。それは大正12(1923)年4月でした。

 「(前略)世の中には、片山氏がいたために、東洋経済新報は社会主義化したといった人があったと聞いたが、もしほんとうにそんな評判があったとすれば、それは全然事実に反する想像であった。(中略)

 私は、こうして、しばしば片山氏と手紙のやり取りをしたが、しかしその後『東洋経済新報』も過激な議論を書くというので、官憲から目をつけられているらしいので、万一家宅捜索でも受けては、やっかいだと思い、片山氏からの手紙は一切焼いてしまった。しかし近ごろ、古手紙類を調べて見たら、右の離婚を承諾すという紙片と、二、三枚の葉書が残っているのを発見した。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫

 

 

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)1~10

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 1

 江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―(河出書房新社)は1999(平成11)年に出版された石橋湛山の伝記小説です。わたしは石橋湛山の生涯を(A)生誕から大正末年まで、(B)大正末年から1945(昭和20)年の日本敗戦まで、(C)戦後から1973(昭和48)年死去までの3期に区分してたどることにしたいと思います。

 石橋湛山は1884(明治17)年9月25日東京で杉田湛誓(日蓮宗僧侶)を父として生まれました。湛山の父は当時東京市麻布区芝二本榎(東京都港区二本榎)にあった東京大教院(立正大学の前身 日蓮宗最高学府)助教補(助手)として勤務しておりました。母きんは昔江戸城内の畳表一式を請け負っていた石橋藤左衛門の次女であり、石橋家は承教寺(日蓮宗)の有力檀家で同寺内にあった東京大教院に在学中の湛誓とも親しい間柄でした。

気ままに江戸―カテゴリー―大江戸散歩―2013.02.09 承教寺(高輪散歩6)

 湛山は湛誓の長子で幼名を省三(せいぞう)といい、〝私は事情があって、この母方の姓を名乗って、石橋というのである。(中略)私も生まれた時から湛山と命名されたのではなく、外に省三という幼名があって、セイゾウと呼ばれていた。(中略)「吾れ日に三たび吾が身を省みる」という『論語』の有名な言から出ている(中略)。私の名も中学を卒業するころ湛山と改めたのである。“(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)と述べています。

石橋姓を名乗ったのは当時の日蓮宗における慣習として、表向き妻帯は許されていなかったからといわれています(熊王徳平「田舎文士の生活と意見」未来社)。

 湛山が生まれた翌年父が郷里の山梨県増穂村の昌福寺住職となったので、彼は母とともに甲府市稲門に転居、大日本帝国憲法が発布された1889(明治22)年4月稲門小学校に入学、同小学校3年のとき初めて父と同居することとなり、増穂村の小学校に転校しました。

 父は厳格な人で湛山が小学校4年のころ、学校から帰ると父に呼ばれて漢文の本を教えられたが、それがなかなか覚えられず泣きそうになったこともありました。

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 2

 1894(明治27)年日清戦争がはじまり、黄海海戦が起こった9月、父が静岡の本覚寺住職となったとき、湛山は山梨県中巨摩郡中条村の長遠寺住職望月日謙に預けられ、翌年春甲府市山梨県立尋常中学校(後の甲府中学)に入学しました。その後中学を卒業するまでほとんど父母との交渉はありませんでした。

 中学にははじめ寄宿舎、のちには甲府市において家庭生活を営んだ日謙宅から通ったのですが、一時鏡中条村から二里半の道を歩いて通学したこともありました。その往復の間に買い食いに月謝を使い込むこともあり、勉強もせず二度落第するという悪童ぶりを発揮したのです。

 しかし日謙はすこしもこごとをいわず、使い込んだ月謝も、学校から連絡があると、黙って払い込んでくれました。これが少年を育てる日謙のこつであったようで、湛山は恐縮し反省したそうです。

 「私は、もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいは、その余りに厳格なるに耐えず、しくじっていたかもしれぬ。父にも、またそんな懸念があって、早く私を望月師に託し、いわゆる子を易(か)えて教ゆ(「孟子」)の方法を取ったのかもしれぬ。いずれにしても私が、望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)。

 湛山が2度落第したお陰で出会った中学校長が大島正健でした。彼は札幌農学校北海道大学の前身)第1期卒業生の一人として、アメリカから招聘されたウイリアム・クラーク博士の直接指導を受けた人物で、熱心なキリスト教徒でもありました。

北海道開拓スピリットと甲府中学校長大島正健―カテゴリーフォルダー大島正健略伝

「私はこの大島校長から、しばしばクラーク博士の話を聞いた。そして私の一生を支配する影響を受けたのである。(中略)博士が一切の、やかましい学則を設けず、ただビー・ゼントルマンの二語ををもって学生に臨み、また北海道を去るにあたり、送ってきた一同の学生に向かい、馬上から、ボーイズ・ビー・アンビシャスの三語を残したことは有名な話である。(中略)私は幸いに大島校長に会うことにより、クラーク博士の話を聞き、なるほど真の教師とは、かくあるものかと感動した。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 3

 1902(明治35)年3月湛山は中学校を7年かけて卒業、同年7月第一高等学校東京大学教養学部の前身)を受験しましたが不合格、翌年再び同校の受験に失敗、早稲田大学高等予科の編入試験に合格、9月入学しました。

 日露戦争がはじまった1904(明治37)年9月湛山は予科を修了、大学部文学科の哲学科に進級しました。当時の校長(後の総長)は鳩山和夫、文学科講師(教員)には高田早苗安部磯雄・内ヶ崎作三郎・坪内雄蔵(逍遥)・島村滝太郎(抱月)・波多野精一・田中喜一(王堂)などが顔を揃えていました。

 このような早稲田大学文学科の講師たちのなかで、湛山は当時の日本に支配的だったカントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論に興味を示さず、アメリカのシカゴ大学に学び、デユーイのプラグマティズムを日本に紹介した田中王堂に強い影響を受けました。

独学ノートー単語検索―プラグマティズム   

 「われわれが早稲田大学で初めて王堂氏の講義を聞くことになったのは、明治三十八年、私が大学部二年の時であったが、(中略)白晢(はくせき)温顔(白い柔和な顔)にして、長い髪と短い三角の顎鬚(あごひげ)とをたくわえ、それに赤ネクタイを結んだ氏は、一見していかにも哲学者らしい風彩を具えていた。(中略)しかしその説くところは、われわれには、つかまえがたく、わからない。(中略)氏の哲学が、簡単にいえば作用主義に立脚し、従来われわれが無批判に受入れた形而上学(けいじじょうがく 現象の背後にある本質を探究しようとする学問)的哲学と鋭く異なっていたからであった。(中略)私は(中略)卒業後もとくに田中氏に親近し、(中略)もし今日の私の物の考え方に、なにがしかの特徴があるとすれば、主としてそれは王堂哲学の賜物であるといって過言ではない。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫

早稲田大学―検索―History早稲田の歴史

 1907(明治40)年7月湛山は同大学部文学科の哲学科を首席で卒業、彼は特待生として宗教研究科に進級し、月に二十円を給与されました。しかし将来の大学教師の望みもなく、当時私立大文学科出身のものの職業としてもっともよかったのは地方の中等学校の教諭でしたが、ここでは高等師範と帝大が堅く学閥を作っていました。ただ新聞界と文芸界とは腕次第の社会で、学閥はなかったのです。
 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 4

 1908(明治41)年12月湛山は島村抱月(江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)3参照)の紹介により、東京毎日新聞社(1870横浜毎日新聞として創刊 1906此の名称となる 現在の「毎日新聞」とは無関係)に入社しました。

MY HOME TOWN(島根県浜田市)-島村抱月 

東京紅團―テーマ別散歩情報―東京情報―松井須磨子と牛込早稲田界隈

 東京毎日新聞は1908(明治41)年ころ島田三郎(木下尚江「田中正造の生涯」を読む13参照)の所有となり、島田は同社の経営を大隈重信に譲与しました。大隈は田中穂積(後に早稲田大学総長)を副社長兼主筆とし、事実上の経営者としました。島村抱月は田中穂積と親しく、湛山を同社に推薦してくれたのです。

 しかし大隈が率いる憲政本党(児島襄「大山巌」を読む47参照)は立憲政友会(児島襄「大山巌」を読む48参照)に押されて党勢不振となり、犬養毅(寺林 峻「凛冽の宰相加藤高明」を読む13参照)と他の幹部との争いが激化、ついに分裂状態に到ったのですが、大隈の影響をうけた東京毎日新聞社も二派に割れて抗争が起こり、田中穂積が退社声明を出すと幹部社員もこれに同調、1909(明治42)年夏湛山も徴兵検査に合格して入営が近くなっていたこともあり退社しました。

 同年12月1日湛山は麻布竜土町の歩兵第三連隊に入営、当時新兵虐待のうわさがあり、覚悟していましたが、彼は社会主義者と思われたらしく、監視のため好遇を受けたようです。

1910(明治43)年11月末湛山は軍曹に昇進して除隊となりました。

 田中穂積の紹介で1911(明治44)年1月湛山は東洋経済新報社(当時牛込天神町六番地所在)に入社しました。

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 5

 東洋経済新報社日清戦争終結後の1895(明治28)年11月、大隈系の郵便報知新聞記者退職後イギリス留学を終えて帰朝した町田忠治が創設、経済専門誌「東洋経済新報」(「復刻版」 東洋経済新報社)を創刊しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー町田忠治 

 やがて町田は日本銀行に入り、大隈重信の推薦で1897(明治30)年3月天野為之(東京専門学校、後の早稲田大学教授、John S.Millの研究で知られる)が後継者として同社を引き継ぎました。

歴史が眠る多摩霊園―著名人ー頭文字―あー天野為之

 湛山が同社に入社したとき、天野はすでに退任、天野門下の植松考昭(ひろあき)が3代目の主幹[1907(明治40)年]となっていました。植松考昭は旧彦根藩士の家に生まれ、1896(明治29)年東京専門学校を卒業、1898(明治31)年東洋経済新報社に入社しました。彼は片山潜の在米時代の友人杉田金之助(「日本の労働運動」を読む15参照)の縁者が植松考昭の在学中の同級生であったことから片山潜片山潜「日本の労働運動」を読む8参照)と知り合いになったそうです(片山潜「自伝」岩波書店)。

 植松は山県有朋伊藤博文元老が背後で操縦する桂園時代(片山潜「日本の労働運動」を読む36参照)政治を打破するために「東洋経済新報」論説「議院改革」(1907.3.5-4.15)ではじめて普通選挙を要求、以後、社説「普通選挙を主張す」(1908.7.5-9.15)を連載、繰り返して普選実現を主張し、労働者階級の覚醒に期待を寄せたのです(松尾尊兊「大正デモクラシー岩波書店)。植松が官憲のきびしい監視下におかれ、社会主義者の同志からも孤立しがちであった片山潜を1909(明治42)年東洋経済新報社員として迎え入れたのも、上述のような状況を背景としていたことから理解することができます。

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 6

 主幹の植松を補佐したのが副主幹格の三浦銕(てつ)太郎(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」同時代ライブラリー35 岩波書店)という人物です。彼は植松と東京専門学校の同期生で、植松に1年遅れて東洋経済新報社に入社しました。

Weblio辞書―検索―三浦銕太郎

 明治40年代の日本では文学界において自然主義が流行、思想界・政治界においても個人主義自由主義の思潮が勃興していました。もともと個人主義者・自由主義者で、普通選挙を主張していた植松・三浦は、上記のような風潮の下で、経済専門誌「東洋経済新報」だけの発行に満足できず、1910(明治43)年5月三浦主宰で社会評論を主とする「東洋時論」(東洋経済新報社編「東洋時論」復刻版 竜渓書舎)を創刊しました。

 しかし「東洋時論」は創刊号から発売禁止となり、その後もさらに1回同様の処分をうけたのです。

 湛山を東洋経済新報社に紹介した田中穂積は三浦銕太郎と同じ東京専門学校の同窓生で、田中は湛山に友人から近頃始めた社会評論雑誌の編集者の世話を頼まれているので行かないかと声をかけ、湛山は三浦の面接を受け、その際論文「福沢諭吉論」を提出、同論文が三浦の評価を得、上述の通り1911(明治44)年1月湛山は同社員として月給18円で入社したのでした。このときすでに片山潜が同社員として勤務していたことはすでに記述した通りです(片山潜「日本の労働運動」を読む50参照)。

 「東洋時論」の社説は主として植松・三浦、後には湛山も社説およびその他の評論を執筆しました。同誌において「国家も、宗教も、哲学も、文芸も、其の他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから、もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬ」(「国家と宗教および文芸」東洋時論 明治45年5月号 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫)と述べているように、湛山は明確な個人主義の立場を表明しました。またこのような考え方は『湛山が、宗教を道徳や政治などと同様、人間の「生活機関」(生活の方法)の一部分であり、したがってそれらが「生活に不便」を与えるものとなれば、新しい方法を現実の中から探し出せばよいとのプラグマティックな根拠に立ったことは、明らかに王堂哲学を継承している。』(増田 弘「石橋湛山リベラリストの真髄―」中公新書)と指摘される理由となっています。

所沢市立所沢図書館―コラム「所沢の足跡」―所沢ゆかりの人物編―郷土の哲学者田中王堂

 

 江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 7

 1911(明治44)年3月11日衆議院は松本君平ら提出の普通選挙法案を可決しましたが、同年3月15日貴族院で同法案は否決されました(片山潜「日本の労働運動」を読む49参照)。

 そのころ湛山は「東洋時論」の記者として当時東京市長であった尾崎行雄(児島襄「大山巌」を読む47参照)を訪問、普選について意見をただしました。尾崎から普選促進論を期待していた彼は意外にも普選反対論を聞かされたのです。その主張の要点を述べると、英国の如く、国民に訓練があり、秩序を重んずるところでは、普選も害はないだろうが、日本の一般大衆に権利だけを与えると、社会の秩序が保てない危険があるというのでした。

 湛山は後に尾崎の意見も誤りであるとはいえないと思うようになったが、当時ジェー・エス・ミルなどの説を金科玉条としていた湛山にとって尾崎の普選反対論は承諾できませんでした。なぜなら選挙権を大衆に与えることは彼等を政治的に教育し訓練する手段であるからで、これを恐れていたら、社会の進歩は望み得ないと考えていたからです(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫・「犬養・尾崎両氏に与う」大正2.3.5「東洋経済新報」社説)。

 1912(明治45・大正1)年7月30日明治天皇死去(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む12参照)に際して湛山は次のように主張しました。「多くの人は明治時代の最大特色を以ってその帝国主義的発展であるというかも知れない。(中略)しかし僕は明治時代をこう見たくない。而してその最大事業は政治、法律、社会の万般の制度及び思想に、デモクラチックな改革を行ったことにあると考えたい。(中略)東京市長の椅子を占めた阪谷芳郎男は、その就任第一の事業として、日枝神社へ御参りをした。それから第二の事業として明治神宮の建設に奔走しておる。(中略)しかしながら阪谷男よ。(中略)卿らの考えは何でそのように小さいのであるか。(中略)真に、先帝とその時代とを記念せんと欲せば、吾人はまず何をおいても、先帝陛下の打ち立てられた事業を完成することを考えなければならぬはずである。(中略)しかるにこれらのものは棄て置いて、一木造石造の神社建設に夢中になって運動しまわる。(中略)それでもなお何か纏った一つの形を具えた或る物を残して、先帝陛下を記念したいというならば、(中略)「明治賞金」を作れと奨めたい。」(「愚なるかな神宮建設の議」東洋時論 大正元年9月号 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー阪谷芳郎

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 8

 1912(明治45・大正1)年9月東洋経済新報社主幹植松考昭が病死すると、同社第4代主幹に就任した三浦銕太郎は売れ行き不振の「東洋時論」廃刊(1912.10月)を決意、湛山も同意して、彼は「東洋経済新報」の記者として再出発しました。

 1912~13年にかけて三浦は帝国主義批判を主題とする論文を発表していますが、中でも「満州放棄乎軍備拡張乎」(「東洋経済新報」大正2.1.5号~同年3.15号 論説)「大日本主義小日本主義乎」(「東洋経済新報」大正2.4.15号~同年6.15号 論説)(三浦銕太郎論説集「大日本主義小日本主義か」松尾尊兊編集・解説 東洋経済新報社)において帝国主義すなわち「大日本主義」の害毒を指摘、「小日本主義」の具体策として満州放棄を主張しました。

 また三浦は植松死後も片山潜を引き続き援護、、彼の入獄中(片山 潜「日本の労働運動」を読む50参照)月給(50円を30円に減額)を支給、1914(大正3)年片山の渡米に際しては、あらゆる便宜を与えてくれました(片山 潜「わが回想」下 徳間書店)。

 すでに同社に入社してから哲学専攻であった湛山は植松主幹のすすめで天野為之の「経済学綱要」を読んで経済学の勉強をはじめていました。

 1912(明治45・大正1)年11月三浦銕太郎は貞夫人の教え子岩井うめ(梅子)を湛山の配偶者として紹介、仲人をして結婚させています(石橋梅子「思い出の記」長幸男編「石橋湛山 人と思想」東洋経済新報社)。湛山の結婚後も湛山夫人が病気になると、貞夫人が子供の面倒を見たり、避暑に湛山一家を一緒に連れていったりしたほど両家は家族ぐるみの親密な間柄でした(年譜「石橋湛山全集」第15巻 東洋経済新報社)。

 湛山は結婚後もひきつづき経済学の勉強に励み、本所錦糸堀近所の二階借りの自宅から牛込天神町の新報社まで通勤する電車の中でセリグマン「経済学原論」やそれと前後して田中王堂推奨のトインビー「十八世紀産業革命史」などを原書で読んでいます。

 同年12月5日第2次西園寺公望内閣が2個師団増設問題で総辞職(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13参照)、憲政擁護運動が高まり、同月13日東京の新聞雑誌記者・弁護士などが憲政作新会を組織して師団増設に反対を表明したとき、湛山は経済学研究や執筆活動だけでなく、この運動に若干の援助をしていますが、中野正剛も学校卒業早々で、この運動に参加してきた一人でした(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)。

歴史が眠る多摩霊園―著名人索引―頭文字―なー中野正剛

 

 江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 9

 米国における日本人移民によって労働市場が圧迫されるとする排日の気運は日露戦争終了後の1905(明治38)年後半から顕著となり、1913(大正2)年5月カリフォルニア州で日本移民の土地所有を禁止する法律が制定されて、同地で農業方面に進出していた日本移民に大打撃を与え(鈴木文治「労働運動二十年」を読む11参照)、日米開戦論まで唱えられるほどで、日本の新聞・雑誌などは一斉に対米批判を展開しました。植松主幹時代の「東洋経済新報」も同じく対米批判を行った新聞・雑誌の一つだったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー石橋湛山

 湛山はこれに反して、次のように対米移民の不要を主張しました。 「(前略)しからば則ちその根本的解決法は如何。(中略)けだし世往々にして武力の万能を信ずる者あり。(中略)しかれども思え、(中略)戦争は決して人種問題に根本的解決を与うるものにあらざるなり。(中略)

 思うに今我が国民は一つの謬想(びゅうそう 誤った考え)に陥れり。人口過剰の憂ということこれなり。(中略)しかれども吾輩は思う、我が人口は果してしかく過剰なるや。(中略)人ややもすればすなわち食料の不足をいい、(中略)即ち直ちに人口の過剰を意味する如く考うといえども、(中略)工業盛んに起り、貨物の外国に出すこと多きを得ば、(中略)あに六千万、七千万の人口に過剰を苦しまん。(中略)アメリカの富源は移民にあらずんば利用せられざるものにあらず。我は決して強いて彼に移民を送るの要なきなり。(後略)」(「我に移民の要なし」東洋経済新報 大正2.5.15号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)10   

 

 1914(大正3)年7月第1次世界大戦が勃発すると、大隈重信内閣の外相加藤高明日英同盟の情誼と、この機会に独逸の根拠地を東洋から一掃して、日本の国際的地位の向上をはかる利益から参戦断行を主張、同年8月15日独逸に膠州湾租借地(「大山巌」を読む44参照)交付を要求、同月23日独逸に宣戦布告、11月7日青島(山東省)を占領しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16参照)。

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 日本の新聞・雑誌のほとんどが政府の方針を支持した中にあって、湛山は参戦はもとより、青島占領及び領有に反対して次のように述べています。

 「アジア大陸に領土を拡張すべからず。満州も宜しく早きに迨(およ)んでこれを放棄すべし、とはこれ吾輩の宿論なり。更に新たに支那山東省の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざる所なり。

 (中略)ドイツの青島租借、山東経営を以て、(中略)仮りに、我が政府当局および世人の多数の考うる如く、東洋の平和に害ありとせん。しかれどもドイツを支那大陸の一角より駆逐して、日本が代ってその一角に盤踞(ばんきょ 広大な土地を領有し、勢力を張る)すれば、それが、何故に東洋の平和を増進することとなり得るや。

 (中略)支那の領土に野心を包蔵すと認められつつあるは、露独日の3国なり。(中略)

 我が国が満州に拠り、山東に拠ることは、国際的に内乱的に、支那に一朝事ある場合には我が有力なる陸海軍を迅速に、有効に、はたらかして、速やかに平和の回復を得しめ、はたまた禍乱を未発に防止する所以なりと、説かんも、支那国民自身および支那大利害を有する欧米諸国の立場より見れば、これほど、危険にして恐るべき状態はあるべからず。  

 這回(しゃかい 今回)の戦争において(中略)、我が国がドイツと開戦し、ドイツを山東より駆逐せるは、我が外交第一着の失敗なり。(中略)青島割取は断じて不可なり。」(「青島は断じて領有すべからず」東洋経済新報 大正3.11.15号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

 

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む21~30

鈴木文治「労働運動二十年」を読む21

 1920(大正9)年5月2日(日曜日)日本最初のメーデーが上野公園で開催され、参加者1万人余、鈴木文治は開会の辞で『諸君、この記念すべき日に於て、我等日本の労働者も、世界各国の労働者も共に叫びませう、曰く万国の労働者団結せよ』と結びました。つづいて治安警察法第17条撤廃・失業防止・最低賃金法設定の3要求を決議(「日本労働年鑑」1921年版 1921年版 大原社会問題研究所)、解散後示威運動に移りましたが警官隊がこれを阻止したため乱闘となり、鈴木文治もこの日はじめて警官隊と格闘しました(「労働運動二十年」)。

Weblio辞書―検索―メーデー  

 同年5月16日友愛会・信友会・啓明会などメーデー参加組合は労働組合同盟会を結成しました(「日本労働年鑑」大原社会問題研究所)が、中央集権的な組合主義をとる友愛会大杉栄(「日本の労働運動」を読む37参照)らアナーキスト無政府主義者・「日本の労働運動」を読む35参照)系の指導者の影響下にある信友会のような自由連合的なサンジカリズム(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造18参照)の立場にたつ勢力を含み、一枚岩の団結には程遠い存在でした。そのためこの同盟会は翌年6月友愛会の脱退で分裂しました。

 同年7月14日友愛会加入の紡績労働組合は富士紡績押上工場に組合(団結権)の承認を求めて罷業に入りましたが組合側は敗北[「労働」(1920年「労働及産業」改名)9巻9号 「労働」(1)日本社会運動史料 機関紙誌篇 法政大学出版局]、友愛会婦人部も大打撃をうけました。

 同年11月29日長崎県香焼炭坑(長崎港沖の孤島)で解雇組合員の復職を要求して坑夫が罷業開始、12月1日坑夫200人が事務所を破壊、75人が検挙され友愛会系の坑夫組合「工友会」は壊滅しました(「鉱山労働者」2巻1号 全日本鉱夫総連合会)。

  1921(大正10)年1月12日足立機械製作所争議で工場閉鎖、全員解雇に憤慨した組合員が工場主を殴打、機械を破壊する行動に出たため40余名が投獄されました[「労働」10巻3号 「労働」(1)]。

 上述のようなサンジカリズムの弊害が目立つようになると、棚橋小虎(友愛会東京連合会主事)は論文「労働組合へ帰れ」を発表して次のように呼びかけました。「直接行動とは、警官と小ぜり合ひをして、一ト晩警察に止められたり、禁止の革命歌を高唱して大道を歩く事ではあるまい。(中略)真実に労働者の地位を向上させる事のできる直接行動は、労働者の大々的団結を必要とする、強大勇猛な労働組合が必要だ。(中略)警察官と格闘する一人の勇士よりも、穏かな百人の人が団結した一つの労働組合がどれ丈け資本家にとって、権力者にとって恐ろしいか」(「労働」大正10年1月号)

 しかし同年4月2日足尾銅山坑夫が団結権承認など8要求を提出したところ、4月8日活動家337人が解雇され、組合は怠業・罷業・示威などで対抗、4月18日解決(「鉱山労働者」2巻5号 全日本鉱夫総連合会)しましたが、その解決条件に坑夫の一部が不満で、棚橋論文への反発と結びついてインテリ指導者排撃の動きがおこり、同年7月棚橋は失脚しました((吉田千代「前掲書」)。

Weblio辞書―検索―棚橋小虎  

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む22

 戦後恐慌下の造船・鉄鋼業はワシントン軍縮会議(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24参照)によっても大きな打撃となりました。同年6月25日三菱内燃機株式会社神戸工場の職工は賃上げ外9項目の嘆願書を会社に提出、発動機工場・機械工場・艤装工場の職工もこれに同調して怠業に入り、友愛会に加盟、これに対して会社側は首謀者の解雇を申し渡しました。同地区の川崎造船所でも6月27日支給の賞与が昨年末のそれよりも少額であることに不満で、同月29日電気工作部900名は怠業を開始、7月2日同工作部は電気工組合「電正会」を結成して工場委員制度の採用・賃上げ外6カ条の要求を会社に提出しました。同造船所側は首謀者を解雇したので労働者たちは怠業を開始、同造船所本社工場に被解雇者を擁してなだれ込んだとき、暴力団「片福組」支配下にある一団が青たすきをかけ、棍棒や匕首をもって労働者たちの中へ殴り込みをかけ、事態はさらに悪化しました。

 7月10日には神戸労働組合連合団主催で三菱・川崎両造船所と神戸印刷工組合・東神鉄工組合その他友愛会所属組合員をあわせた30000人の大示威運動が行われました。

 同年7月12日川崎争議団は工場管理を宣言したため、知事は軍隊の派遣を要請、姫路師団第39連隊の歩兵1個大隊が出動してきました。

 やがて両社とも多数の解雇者を発表、脱落組合が出始め、7月28日市中デモを禁じられた組合員は湊川神社に集まり祈願文を読み上げ、同月29日生田神社にも参拝がおこなわれましたが、その帰途デモが自然発生、騎馬巡査や抜剣した巡査が群衆の中に突っ込み、巡査のサーベルに突き刺された死亡者がでたほどでした。同日夕刻警察は三菱・川崎争議団本部及び友愛会神戸連合会を襲って賀川豊彦ら200余人の指導者を検挙しました。

 争議団幹部総検束の急報に接した鈴木文治は自ら総指揮に当たるため7月30日列車で神戸に向かいました。翌日朝神戸に到着した彼は争議団最高顧問となり、西尾末広松岡駒吉・木村錠吉3名を参謀として最高首脳部を形成、友愛会神戸連合会を総本部として陣容をたてなおしたのです。

history of modern japan―日本近現代史研究―人物に関するデータベースーにー西尾末広

  しかし争議敗北の大勢は覆いがたく、同年8月12日争議団は「惨敗宣言」を発し、40日に及ぶ大争議は終結しました(大前朔郎・池田信「日本労働運動史論」日本評論社・「労働運動二十年」)。

 同年9月友愛会機関紙は「「日本労働運動の転期」と題して次のように述べています「こんどの争議(神戸の三菱・川崎造船所の争議)を分岐点として、(中略)漸くその向かう所が定まったやうな感じがする。(中略)資本家や官憲が(中略)ただ〝力〟をもって押し付けやうとするのみならば、労働者も(中略)〝力〟をもって応対するの外はない」。また友愛会京都連合会長辻井民之助も「労働者新聞」に「普通選挙の夢から覚めて」という題目で次のように書きました「ぼくは正直に告白する。ぼくらは(中略)あまりに議会政策の効力に重きをおいた。(中略)労働者にして真に自覚し、団結するならば、いまさら代議士を選び、議会をたよるまでもなく、(中略)直接行動によってその目的貫徹のために闘ふべきである」(大河内一男「前掲書」)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む23

 すでに1920(大正9)年7月12日第43議会において衆議院は野党提出の普選法案を否決していました(「労働運動二十年」を読む20参照)。。

 1920(大正9)年10月3~5日大阪で開催された友愛会八周年大会では会名の大日本の「大」を削除、終わりの3字「友愛会」を取れとの提案がなされました。鈴木文治会長の意見により1年間を限度として「日本労働総同盟友愛会」と呼称することに落ち着きました[「労働」9巻11号 「労働」(1)]。

 また工場法改正・労働組合法制定などをめざす実行委員会設置の件が審議されているときに、関西の代議員から議会を否認しようとするものが政府を相手に建議するのは矛盾だという発言があり、アナーキズム系の代議員や傍聴席から盛んな拍手が送られました。

 これに対して関西連合会主事の西尾末広は「議会主義を否認するものが、この問題を論議するのはたしかに矛盾だ。しかし、われわれは議会主義そのものを否認するものではないからこそ、この問題を討議しているのだ。議会を否認するものは、この議案に反対すればよいのだ」と反論しました。このように友愛会内部には議会政策派と直接行動派(「日本の労働運動」を読む38~40参照)の間に論争が起こっていたのです(大河内一男「前掲書」)。

 1921(大正10)年10月1日から3日間東京で日本労働総同盟友愛会友愛会第10年大会(この年より年度大会となる)が開催され、会名はさらに「友愛会」の3字を切り捨て「日本労働総同盟」と改称、鈴木文治は前年から強まった知識階級排斥の気運を察知して会長辞任の意向を中央委員会で表明したのですが、大会では名誉会長として留任、松岡駒吉が主事(会計)に就任しました[「労働」10巻11号 「労働」(2)]。

 この大会直後の11月4日原敬首相が暗殺された影響もあって、翌年2月27日衆議院は三たび野党提出の普選法案を否決、政府(高橋是清内閣)は過激社会運動取締法案を議会に提出(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23・25参照)したため、労働組合は大同団結して保守勢力と対決しなければならない必要に迫られました。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む24

 1922(大正11)年7月日本共産党が非合法に結成され(市川正一「日本共産党闘争小史」国民文庫 大月書店)、山川均(「日本の労働運動」を読む43参照)は雑誌「前衛」(大正11年7・8月号)に論文「無産階級運動の方向転換」を発表しました。

 同論文によれば、「日本の社会主義運動の思想には、一度も妥協主義や、日和見主義や、改良主義がまざっていたことはないといってよい。おそらく日本の社会主義者ほど、明白に資本主義の撤廃という最後の目標をのみ見つめていたものはない。けれどもこの最後の目標を見つめていたために、かえってこの目標に向かって前進することを忘れていた。(中略)たしかにわれわれの誤りであった。(中略)

 無産階級の前衛たる少数者は、資本主義の精神的支配から独立するために、まず思想的に徹底し純化した。(中略)そこで無産階級運動の第二歩は(中略)はるかの後方に残されている大衆の中に、ふたたび、ひきかえしてくることでなければならぬ。

 もし無産階級の大衆が、資本主義の撤廃を要求しないで、現に目前の生活の改善を要求(中略)一日一〇銭の賃金増額しか要求しておらぬなら、われわれの当面の運動は、この大衆の実際の要求に立脚しなければならぬ。われわれの運動は大衆の現実の要求に立ち、大衆の現実の要求から力を得てこなければならぬ。」(「山川均全集」第4巻 勁草書房

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む25

 日本労働総同盟野坂参三(「労働運動二十年」を読む7参照)・赤松克麿(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造14参照)らも日本共産党に参加していましたから、日本労働総同盟の内部には急速にボルシェビズムの傾向が強まっていました。

独学ノートー単語検索―ボルシェビズム 

 同年9月30日「日本労働組合総連合会」創立大会が大阪で主要59組合、106人の代表参加で開催されましたが、傍聴席には大杉栄(「日本の労働運動」を読む37参照)・近藤憲二らのアナーキスト堺利彦・山川均らのボルシェビストらがつめかけていました。会議は規約の審議をめぐって総同盟派・反総同盟派の対立で混乱、臨席の警察官が「中止・解散」と叫んだだけで流会となりました(古賀進「最近日本の労働運動」聚芳閣)。

 つづいて同年10月1~3日日本労働総同盟第11年大会が大阪の天王寺公会堂で開催されましたが、アナーキズム系の自由連合論に対する反発を含む「決議」を採択、この大会で決定された新綱領は(1)を除いて、次のような、その創立時とは異なったボルシェビズムの影響を受けものでした。 (1)われらは、団結の威力と相互扶助の組織とをもって、経済的福利の増進ならびに知識の啓発を期す。

(2)われらは、断固たる勇気と有効なる戦術とをもって、資本家階級の抑圧、迫害にたいし、徹底的に闘争せんことを期す。

(3)われらは、労働階級と資本家階級とが両立すべからざることを確信す。われらは労働組合の実力をもって、労働階級の解放と自由平等の新社会の建設を期す。

 また大会決定の7カ条の主張には労農ロシア承認が含まれ、ILO(「労働運動二十年」を読む18参照)に対しても「吾人は、国際労働会議を否認し(中略)有害無用なる同会議の壊滅を期す」と決議しました(「労働」11巻11号)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む26

 山川論文は労働者の日常要求にたち帰り、労働運動を組織しなおそうとする点で棚橋論文(「労働運動二十年」を読む21参照)と共通する特徴をもっており、この点において鈴木文治も山川論文に賛意を表明していますが(「労働運動二十年」)、他面野坂参三ら総同盟に属する日本共産党員は山川論文の社会主義革命の主張を多様な考え方をもつ大衆団体である総同盟の綱領に持ち込むことによって、後の総同盟分裂の火種を作ったといえるでしょう。

 1923(大正12)年9月1日関東大震災が起こりました(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造28参照)。翌日戒厳令が公布され、朝鮮人暴動の噂が流れる状況の下で同年9月4日南葛労働会の河合義虎・純労働者組合の平沢計七を含め10人が亀戸署で軍隊の銃剣により刺殺されました[亀戸(かめいど)事件]。

  つづいて同月16日憲兵大尉甘粕正彦(東京憲兵隊麹町分隊長)が部下とともに大杉栄(「日本の労働運動」を読む37参照)を刺殺、内妻伊藤野枝らを憲兵隊内で秘かに扼殺(やくさつ 腕で首を絞めて殺害すること)、死体を菰筵でくるんで隊内の古井戸に投げ込んだという事件が起こりました(甘粕事件・新聞集成「大正編年史」大正十二年版 下)。

たむたむページにようこそー入り口―人名事典―社会運動家―大杉栄―伊藤野枝―関東大震災―亀戸事件―甘粕事件   

上述の山川論文によってその影響力を失いつつあったアナーキズム系は、甘粕事件による大杉栄の死去によってさらに力を喪失し、労働運動の本流から離れていったのです。関東大震災の最中に起こったかかるテロリズム労働組合の力がいかに弱体であるかが明らかとなり、また第2次山本権兵衛内閣の普選法実施とILO代表の組合推薦の公約もあり、総同盟はもう一度右旋回する必要に迫られました。同年11月の総同盟中央委員会で鈴木文治は名誉会長から「名誉」を消して名実ともに総同盟会長の地位を回復したのでした(吉田千代「前掲書」)。

 1924(大正13)年2月10日総同盟第13年大会が東京芝の協調会館で開催されましたが、同大会3日目において、社会改良主義の右派とボルシェビズム(社会主義革命)系の左派はその妥協の産物たる次のような「宣言」を満場一致で採択しました。

 「(前略)改良的政策に対する従来の消極的態度は積極的に之を利用することに改められなければならぬ。例へばブルジョア議会に依て労働階級の根本的解放を期待する処、毫もなきは勿論なれども、普選実施後に於ては選挙権を有効に行使することに依りて政治上の部分的利益を獲得すると共に、無産階級の政治的覚醒を促し、又国際労働会議に就いても之が対策を慎重に考慮し、以って我国労働組合発展のために計るべきである。(後略)」(「総同盟五十年史」第一巻 資料編)

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む27

 総同盟第13年大会の直後から1925(大正14)年にかけて多くの組合が総同盟に加入、1922(大正11)年と比較すると、組合数で約百組合、組合員数で約12万人増加しましたが、この時期に加盟した組合の多くが左派系組合でした。

 1924(大正13)年10月5日総同盟関東労働同盟会(関東同盟会)に於いて副議長内田藤七の議事不慣れを理由に左派は議長不信任の動議を提出、否決されると左派代議員は退場しました。

 同年10月16日関東同盟会理事会は左派の横暴に対し、総同盟中央員会に4組合(東京東部合同労働組合・関東印刷労働組合・時計工組合・横浜合同労働組合)の除名、5名[杉浦啓一(関東機械工組合)・立松市太郎(同)・渡辺政之輔(南葛労働会)・相馬一郎(東部合同労働組合)・春日庄次郎(関東印刷工組合)]の総同盟よりの除名、及び河田賢治(関東鉄工組合主事)の辞職勧告を提案しました。

 しかし総同盟中央委員会はこの提案を慰留しましたが、同年11月16日関東同盟会理事会は上記提案を再確認してしまったのです。12月18日日開催された総同盟中央委員会は除名された組合を本部直属とし、さきに辞表を提出した鈴木文治会長は留任となりました。

 同年12月20日除名され本部直属となった5組合(上記4組合に後に除名された関東鉄工組合を追加)は12月20日総同盟関東地方評議会を結成しました(「日本労働組合評議会資料」4 大原社会問題研究所)。

 1925(大正14)年3月27日総同盟中央委員会では関東同盟会選出の委員から6名の左派指導者(中村義明・鍋山貞親・辻井民之助・山本懸蔵・杉浦啓一・渡辺政之輔)の除名案が議題として提出されましたが、その理由は「一、右六名は日本共産党に属し、又は之と通謀し、常に党中党を作り、総同盟を乗取らんとする陰謀を企てつつある。二、右六名の言動は、実質の伴わざる狂激なるものであって、総同盟の組合精神と全然相反するものである。」と述べられています。採決により同議案は三分の二の賛成をえられず、承認するに至らなかったのですが、同時に中央委員の一人から提案された関東地方評議会の解散と機関紙「労働新聞」の停刊要求案は満場一致で可決されました。4月12日左派30組合は日本労働総同盟革新同盟を結成するに至ったのでした(「日本労働年鑑」大原社会問題研究所)。

かくして同年5月24日総同盟革新同盟全国大会が神戸のキリスト教青年会館で開催され、同革新同盟は総同盟より分離し日本労働組合評議会評議会)を結成したのです(総同盟第1次分裂・「日本労働組合評議会資料」2 大原社会問題研究所・野田律太「評議会闘争史」中央公論社)。

 評議会は結成直後の1926(大正15)年1~3月、徳永直の小説「太陽のない街」(岩波文庫)で知られている共同印刷(労働運動史研究会・労働者教育協会共編「日本労働運動の歴史」戦前編 三一書房)や同年4~8月の日本楽器(ヤマハの前身)のストを指導(「日本労働組合評議会資料」6 大原社会問題研究所)、会社も損害を受けましたが、争議団も惨敗して終了しました。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む28

 1925(大正14)年3月普通選挙法の成立(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29参照)により、無産政党設立の動きが具体化してきました。その動きの一つとして1926(大正15)年11月4日安部磯雄吉野作造・堀江帰一は連名で無産政党(のちの社会民衆党)の結成を提唱、総同盟もこれを支持する決議をしました(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造30参照)。しかるに総同盟の実力者麻生久らは浅沼稲次郎・三輪寿壮と秘かに準備していた「日本労農党」(日労党)創立の計画を明らかにしたため、同年12月3日総同盟中央委員会は日労党設立準備をすすめた麻生久・加藤勘十・棚橋小虎(「労働運動二十年」を読む19参照)ら12名を除名、このため麻生久らと関係の深かった人々も総同盟を脱退、同月4日棚橋小虎を会長とする日本労働組合同盟が結成されました(総同盟第2次分裂・「工場と鉱山」1巻1号 日本労働組合同盟)。

History of Modern Japan―日本近現代史研究―政党議会に関するデータベースー2.政党に関するデータベースー戦前期:衆議院院内各派

 1927(昭和2)年9月16日野田醤油(キッコーマンの前身)の総同盟組合員2000名は賃上げ・団体協約締結要求で罷業に突入、暴力団が介入、争議団も竹槍で対抗し、あるいは会社側の人物に硫酸を投げつけて重傷を負わせるなどの事件が発生ました。翌年1月16日争議団は戦術の一つとして、小学校の児童三百数十名を同盟休校させて町の人々を驚かせ、争議団に批難が集中する結果となりました。結局1928(昭和3)年4月20日争議団の解散、復職者300人と解雇者700人に対する手当45万円という条件で会社と総同盟(鈴木文治会長と松岡駒吉主事)、及び調停者協調会理事添田敬一郎との間に解決案が調印され、争議は解決したのですが、争議団の惨敗に終わったのはあきらかでした[「労働」196~204号「労働」(5~6)]。

 1929(昭和4)年総同盟大阪連合会を中心に左派勢力が伸長、日労党(中間派無産政党)や日本労働組合同盟らが提唱していた組合の全国的総連合に同調せんとするなど主流派と悉く対立したので、総同盟中央委員会は同年9月9日桑島南海士ら17人を除名、統制に従わなかった組合として大阪金属労組・大阪合同労組・関西紡績労組を除名[「労働」220号「労働」(7)]しました。その結果被除名派は同月16日労働組合全国同盟を結成しました(総同盟の第3次分裂・「全国労働者新聞」1号)。

 このような総同盟の分裂に対して鈴木文治はどのような見解を持っていたのでしょうか。

 総同盟の第1次分裂について鈴木は次のように述べています。左派の「目的はあはよくば総同盟の幹部を全部排斥してその声望を失墜せしめ、そっくり其儘(そのまま)、総同盟を赤化して左翼陣営の本体とする積りらしかった。其事の成らざるを知るや、次善の策に出で、総同盟所属の大半を浚って行く計画のようであった。併しそれも成功しなかった」(「労働運動二十年」)。この文章の表現にはかなり感情的な左派への反感が感じられるとしても、その発端は左派が総同盟の綱領に共産党社会主義革命の主張を持ち込んだことに原因があり(「労働運動二十年」を読む25参照)、私はその主張には論理的に同感できます。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む29

 しかし総同盟第2次分裂について鈴木は「労働運動二十年」で次のように述べています。「我等は涙を揮って麻生君をはじめ、加藤勘十、棚橋小虎両君等十名の除名を断行するの外なきに至ったのである。固より無産運動の前途は長い、私は必ずこれ等諸君と堅く提携して進むべき時あることを信じて疑はないが、私はこれを以て終生忘るべからざる恨事とせざるを得ない。」

 また総同盟第3次分裂についても彼は次のように言及しています。「私は如何にかして之を防ごうと全力を傾注した。為に優柔不断の譏(そしり)までも受けたのであるが、それも結局徒労水泡に帰したのである。今は何事も言ふべき時でないと思って居る。凡ては時が解決するであらう。」

 この総同盟第2~3次分裂は総同盟が社会民衆党支持を決定し、これに従わない総同盟内の人々を除名したことから起こったことで総同盟主流が特定の政党(社会民衆党)支持を総同盟内に持ち込んだ点で、かって左派が共産党の主張を総同盟の綱領に持ち込んだことと同じ誤りを犯しているのではないでしょうか。鈴木はこの誤りに気付いていないようですし、また総同盟を除名された人々に対しても、かって第1次分裂の際に見せたような左派への感情的反発はなく、彼等との別れを惜しむ気持ちを隠そうともしていません。

 本来労働組合の政党支持は自由であるべきでしょう。しかし無産政党各派はその支持基盤を確保するために労働組合に働きかけ、組合も政治的発言の場を求めて何れかの無産政党と結びついていったのです(二村一夫「労働者階級の状態と労働運動」岩波講座 日本歴史18)。

二村一夫著作集―総目次―第2巻 『日本労働運動・労使関係論』―第2章 第一次大戦前後の労働運動と労使関係―3 総同盟の分裂と各派の特徴

 1930(昭和5)年総同盟第19回大会最終日の11月4日鈴木文治は会長辞任の意思を表明、彼は大会代議員に向かって労働階級の解放は労働者自身で為さねばならないという信念を友愛会創立の時より持ちつづけてきたのであり、今や日本の労働運動も成人の域に達し、いよいよ自分の希望を実現する時期が到来したと説明して了解を求めました。

 しかし代議員は納得せず、困惑した大会議長は休憩を宣言、鈴木は会長辞任について自分のもっとも信頼する先輩(吉野作造)に松岡駒吉西尾末広とともに相談して問題解決に努力するので、それまで会長に留任すると申し出、大会は漸く閉幕となりました。

 松岡と西尾は同年11月10日夜吉野作造と会見しましたが、吉野は鈴木の辞任を積極的に支持する態度を見せ、鈴木も同月11日吉野と協議、同日の各新聞に会長辞任の声明を発表してこの問題に終止符をうちました[鈴木会長辞任発表に至るまでの顛末報告「労働」昭和6年1月号「労働」(9)]。

 「労働運動二十年」は鈴木の総同盟会長辞任を述べた後、「労働運動の現勢」・「将来の展望」を述べて終了しています。

 鈴木文治が総同盟会長を辞任した1930(昭和5)年現在、労働組合数712(35万4312人)で、その組織率は労働者総数の7.5%に過ぎなかったのです(労働運動史料委員会編「日本労働運動史料」10)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む30(最終回)

 1931(昭和6)年刊行の「労働運動二十年」に寄せた「鈴木文治君の素描」-序文に代へて旧稿を録すーと題する文章の中で吉野作造は次のように述べています。

 「鈴木君は能く変な金を持って来ると難ずる人がある。来るものは拒まずとは学生時代からの性格だから、或は少し位の疎忽はあらうかと考へる。併し彼れには悪意を以て不正の金を貪り、平然として節を売るやうなことは断じてないと信ずる。金銭の授受については今日の地位に在ってはモ少し慎重であっていゝと思ふが、金によって彼れの良心を左右し得べしと考ふる人があらばそは大変な誤算であらう。(中略)

 それに彼れは金の持てぬ男である。(中略)昔あれだけ貧乏したのだから、もう少し倹約してもよかりそう、(中略)と私共は思ふが、金があると何か他愛もないものを買って喜んでいる。さうでもないと後輩を沢山集めて彼れ相応の大盤振舞ひをやる。(中略)私はこゝに彼れの不謹慎は認める。けれども結局において、これは矢張り彼れの一美点をなすものではあるまいかと考へて居る。(中略)

 しかし時勢の進みは早い。今後も依然として従来の運動を継続するには、彼れに新たな修養が要る。其修練に身心を投ずるにはもう時機は遅過ぎた。(中略)こゝに自らを反省して転身の決心を定めたのは頗る時の宜しきを得たものと私は思ふ。」

 すでに最初の普通選挙が実施された1928(昭和3)年2月20日の第16回総選挙に彼は社会民衆党から立候補、衆議院議員に当選しましたが、1930(昭和5)年2月20日第17回総選挙に同じく社会民衆党から立候補して落選しました。しかし1937(昭和12)年4月30日の第20回総選挙に社会大衆党社会民衆党全国労農大衆党が合同)から立候補して衆議院議員に当選しましたが、1940(昭和15)年3月斉藤隆夫代議士の除名問題をめぐって社会大衆党中央委員会の決定を拒否、除名処分を受けました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー斉藤隆夫

 太平洋戦争中は憲兵隊の監視下に置かれ、1週間に2~3人の憲兵の訪問をうけたほどでした。

 1945(昭和20)年日本は太平洋戦争に敗北、同年11月2日日本社会党が結成されると、翌年3月11日同党から総選挙に立候補を届け出た後、翌日心臓喘息により61歳で逝去しました(吉田千代「前掲書」年譜)。1946(昭和21)年3月15日仙台の教会で行われた鈴木文治の告別式において野坂参三(「労働運動二十年」を読む7参照)は弔辞を鈴木の霊前に捧げたのでした(吉田千代「前掲書」)。

 野坂参三は彼の自伝の中で鈴木文治を回想して次のように述べています。「わたしは、思想や運動の方針、具体的な政策などについて、鈴木文治とは早くから意見を異にし、議論し合ったこともあった。(中略)いよいよ友愛会の分裂、評議会の誕生の段階では、わたしは面と向かって彼を批判した。そして彼らと袂を別かち、その後、個人的な交際もなくなってしまったが、しかし、彼に個人的な憎悪感をいだく気にはなれなかった。また、わたしは、彼が友愛会をつくったことの歴史的な意義を、かつても、いまも、変わりなく高く評価している。だから、別れてのち、何かの機会で、彼と顔を合わすようなことがあっても、顔をそむけるような態度をとったことはなかった。」(野坂参三「前掲書」)

 

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む11~20

鈴木文治「労働運動二十年」を読む11

 米国における日本人移民によって労働市場が圧迫されるとする排日の気運は日露戦争後の1905(明治38)年後半から顕著となり、1913(大正2)年5月2日カリフォルニア州での「外国人土地所有禁止及び借地制限に関する法律」制定は在米日本人に大打撃を与えたのですが、同様の法律は他州に於いても続々成立していったのです。

日系アメリカ人―第1章 外国人土地法

 しかしこうした日米間の対立激化を憂慮する米人の一人として在日経験のある組合派宣教師シドニー・ギューリックという人物がいました。

 彼は1915(大正4)年1月キリスト教連合会特使シカゴ大学神学部長マシウスとともに再来日、同年1月31日ギューリックは在米日本移民協会(会長 大隈重信)を実質的に指導していた渋沢栄一(「雄気堂々」を読む4参照)を訪問、在米日本移民に対する米国内の状況を報告(「渋沢栄一日記」渋沢栄一伝記資料 別巻第二)、同年2月10日歓迎会の席上ギューリックは労働使節派遣の必要を示唆、他方旧知の安部磯雄らとも協議して具体的に派遣の人選を進めた結果、鈴木文治が指名されるに至りました。

 鈴木の承諾を得たギューリックは帰国後、カリフォルニア州労働同盟幹事ポール・シャーレンベルクに、秋のアメリカ労働大会に日本からの労働代表として鈴木を受け入れることを承諾させた上で、同年4月7日付で書簡を渋沢・鈴木宛に送って来ました。

 渋沢から鈴木の渡米要請を正式に受けた友愛会は同年5月10日同会16支部34名の代表が臨時協議会を開催、鈴木文治と渡米を希望していた麻布支部幹事吉松貞弥をアメリカ労働大会に派遣することに決定しました。かくして6月11日渋沢栄一は鈴木文治送別会に臨みました(「渋沢栄一日記」渋沢栄一伝記資料 別巻第二)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む12

 同年6月19日横浜を出帆した鈴木文治は7月5日サンフランシスコに到着、桟橋には日本領事館書記が出迎え、片山潜(「日本の労働運動」を読む50参照)・河上清(「日本の労働運動」を読む25参照)も姿を見せていました。

 鈴木文治はサンフランシスコの在米邦人の歓迎会に何度も出席しただけでなく、米大陸東部も訪問、ワシントンではアメリカ労働総同盟(AFL・「日本の労働運動」を読む3参照)本部で会長サミュエル・ゴンパースと会見しました。ニューヨークでは裁縫工組合のストライキの現場にも遭遇したのです。

 同年10月5日から第6回カリフォルニア労働同盟の大会がサンタ・ローザで、11月8日から第35回AFL大会がサンフランシスコで開催され、鈴木はいずれも日本労働団体代表として、英会話が苦手だったので何度も練習した英語で演説、AFL大会において、人種差別問題に言及「偏見は労働者の敵である。(中略)若し欧洲の労働者の間に、更に一層の理解と協力ありしならば、今次の大戦争(第1次世界大戦)は、或いは之を防止し得たのではあるまいか。予は確く信ずる。日米の労働者が相互の間に明かなる理解と熱き友情とあらば、太平洋は長へに平和なる湖水として残るであろう。(後略)」(「労働及産業」大正5年1月号「労働及産業」(3)日本社会運動史料 機関紙誌篇 法政大学出版局)と述べると彼の周囲には成功を祝して握手を求める代議員が集まりました。

 鈴木は訪米によって多くの見聞と経験を深め、帰途の船上甲板で鈴木に遅れて訪米した渋沢栄一と元旦の日の出を見ながら談論[渋沢栄一「資本と労働の調和」「労働及産業」大正5年8月号 「労働及産業」(4)]、1916(大正5)年1月4日横浜に帰着しました。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む13

 鈴木文治の帰国とほぼ時を同じくして、吉野作造の論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済すの途を論ず」が1916(大正5)年「中央公論」1月号に発表されました(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造10参照)。

 この吉野論文における民本主義の思想に鈴木文治は呼応するかのように、その主張に明確な変化が表れます。

 たとえば1911(明治44)年3月28日日本における最初の労働立法である工場法が 公布(「法令全書」第四十四巻ノ二 法律第四十六号 原書房)されましたが、その施行は勅令で定めるとされたまま放置されていたのでした。

つかはらの日本史工房―東大・京大・阪大・一橋・筑波に関する受験情報―鍛える!日本史論述―2000年度版―215 独占資本の形成と工場法

 同法は1916(大正5)9月1日にやっと施行されたのですが、同法施行令・施行規則制定に際して農商務省が資本家団体に諮問したのに労働者団体には諮問せず、この法令が結果として資本家本位のものであったことは明らかです。また同省商工局長が工場主に対して、工場法は日本固有の主従の美風を根本として、尚一層発展せしめて貰いたいと要望したことに対して、鈴木文治は工場法の適用は工場主も職工も平等の立場にあってうけるべきものと主張したのです(工場法 「社会新聞」 大正5年6月 「吉田千代「前掲書」引用)。ここに鈴木の労使関係に対する認識の変化をみることができます(「労働運動二十年」を読む9参照)。
 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む14

 鈴木文治は1916(大正5)年9月9日2度目の渡米に出発、再び出席したAFL第36回大会は平和(講和)会議の使節に各国労働者代表を参加させること及び平和会議開催の同時期・同場所に於て万国労働者会議を開催することを決議しました[「労働及産業」大正8年8月号 「労働及産業」(10)日本社会運動史料]。彼は1917(大正6)1月23日に帰国しました。

 同年4月6日より3日間友愛会創立五周年大会が開催されましたが、同大会は戦後国際労働大会が開催された場合、代表者を選出して列席させることを可決していました[「労働及産業」大正6年5月号 「労働及産業」(5)]。

 友愛会創立よりこのころまでに、同会組織は順調に発展してきました。やがて既述のように川崎・本所などに支部ができ(「労働運動二十年」を読む8・10参照)、1914(大正3)年には北海道室蘭支部が発足した時、松岡駒吉友愛会に入会しています。

岩美町(鳥取県)―サイト内検索ー偉人たちの足跡―松岡駒吉

 工場地帯のあるところには必ずといっていいくらい友愛会支部が作られ、やがて東京・神奈川・大阪・神戸などに連合会が生まれました。また海員・鉱山・婦人労働者を対象とする特別の部も生まれました。

 創立1周年で会員は1326名、創立五周年の大正5年には会員総数27000名・支部数108に達し、その外生活援護・法律相談や出版・講演などの啓蒙活動にも力を入れてきました(大河内一男「暗い谷間の労働運動」岩波新書)。五周年大会では会則を修正して職業別組合への方向を示し、女子の準会員規定を正会員として男女平等の原則を樹立しました(吉田千代「前掲書」)。

 松岡駒吉について鈴木文治はその自伝で次のように回想しています「同君はもと北海道の室蘭製鋼所の職工であった。(中略)入会の後漸く幹事に就任して会計の任務を執るや、俄然として理財の能力を発揮し、(中略)全国に率先して室蘭支部の会館を建設するに至ったが、同君の力最も大なるものがあるのだ。(中略)漸く同君の承諾を得、友愛会の本部員として採用することとなり、先づ大阪連合会の主務として働いて貰ふことになった。(中略)大阪にあって刻苦精励された後、本部主事兼会計として東京に在住(後略)」(「労働運動二十年」)。

JSW日本製鋼所―企業情報―沿革 

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む15

 第1次世界大戦下において日本商品はアジア市場に進出、貿易は大幅な輸出超過となり、海運・造船のみならず鉄鋼業・化学工業も躍進、鉄成金・船成金などと呼ばれる人々が現れ、工場労働者数も急増しました。しかしこのような好況にもかかわらず、一般労働者の名目賃金は増加しても、物価の上昇がそれを上回っていたので、実質賃金は低下し労働争議は増加の傾向を辿ったのでした(労働運動史料委員会編「日本労働運動史料」統計篇 第10巻 労働運動史料刊行委員会)。

 1917(大正6)年1月14日池貝鉄工所職工630人余は2割賃上げを要求して罷業、  翌2月本所の三田土ゴム会社職工380人余3割賃上げ要求で罷業、前者は鈴木渡米中の会長代理が調停、後者は鈴木文治が調停、各々1割賃上げで解決しました[「労働及産業」67号「労働及産業」(5)]。   

 さらに同年3月14日室蘭製鋼所職工が2割賃上げを嘆願しましたが、要求拒絶により罷業、鈴木文治は日本製鋼本社を訪問して後、室蘭に赴き、難交渉の末会社は平均2割~3割の賃上げを認めましたが、友愛会員22名は解雇、其の他の会員は友愛会脱会を強要され同会室蘭支部は壊滅状態となりました[「労働及産業」93号「労働及び産業」(9)]。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む16

 この争議をきっかけに政府・使用者側の友愛会に対する姿勢は強硬となりました。室蘭製鋼所が軍需工場であったので呉・横須賀の両海軍工廠において友愛会員に対する脱会強要が行われ、舞鶴海軍工廠では御用団体「工友会」を創立して友愛会員をこれに吸収するなどの友愛会に対する圧迫が激化しました。

 これに対して鈴木文治は海軍工廠幹部や海軍次官に同郷の海軍大将斎藤実の紹介状をもらって抗議しましたが(「斎藤実関係文書」国立国会図書館 憲政資料室所蔵)、何の効果もなかったようです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー斎藤実

 鈴木文治はこのような労働者をめぐる環境の緊迫にもかかわらず、上述の五周年大会で規約第2条を「本会ハ全国ニ於ケル各種同業団体ノ総連合トス」と改正して、職業別労働組合の全国的連合体をめざす方針を表明し、1917(大正6)年10月15日秀英舎・日清印刷の印刷工が友愛会東京印刷工組合(友愛会最初の職業別組合)を結成(「労働及産業」76号)、翌年10月10日には友愛会東京鉄工組合創立総会が開催され、理事長山口政科・理事(会計)松岡駒吉が就任しました[「労働及産業」89号「労働及産業」(9)]。
 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む17

 1917(大正6)年ロシア革命が起こりました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。鈴木文治は同年春大学を卒業した野坂鉄(「労働運動二十年」を読む7参照)を本部教育員に任命、同年9月から機関誌の編集長として出版部長となりました。

 野坂は友愛会員に機関誌への投稿を呼び掛け、1918(大正7)年夏「露西亜革命の感想」という題で懸賞論文を募集、応募論文14が「労働及産業」同年10~11月号に掲載されました。同応募論文の1等入賞者はなく、2等に仙台支部の原田忠一の「生きる光明を与へたり」が入賞しました。野坂参三の自伝「風雪のあゆみ」(新日本出版社)の記すところによれば、原田忠一とは、そのころ野坂とともに本部出版部で機関誌編集に従事していた鍛冶工平沢計七(亀戸事件の犠牲者・「労働運動二十年」を読む26参照)の筆名であったようです。

 この論文で平沢は次のように記述しています「(前略)今の世の中は吾々貧乏人には浮かばれない様に出来てゐるのだ。(中略)ところが迅雷霹靂の如く露西亜に大革命が起って瞬く間に天下は労働者の手に帰してしまった。(中略)私は躍り上ったそして家に駆けこむで小供等を抱きしめて斯う叫むだ。『オイ小僧共、心配するな、お前達でも天下は取れるむだ! 総理大臣にもなれるのだ!』謂はヾ露西亜革命は吾々に生きる希望を与へてくれたのだ」。なおこの懸賞論文に野坂は編集長でありながら偽名山崎国三の名で「先駆者の悲哀」と題する文章で応募、3佳作の一つとなりましたが、「この事実は、選者の一人である鈴木会長も知らなかったろう。」(野坂参三「前掲書」)と述懐しています。

 しかし当時の社会運動に大きな刺激を与えたのはロシア革命よりも、1918(大正7)年夏に起こった米騒動(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)でした。

 鈴木文治は自伝の中で米騒動について次のようにのべています「米騒動と労働運動とは、一見何の関はりもないやうに見える。(中略)併し乍ら事実は決してそうではない。米騒動は民衆に『力』の福音を伝えた、労働階級に自信を与えた、(中略)米騒動は、我国労働運動の拍車となってその活躍を前へ推進めた。」(「労働運動二十年」)。

 吉野作造右翼団体「浪人会」との立会演説会を開催した際、鈴木文治が会場内外を連絡してその実況を報告、多くの知識人・民衆に知らせて活躍したのはこのころです(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造25参照)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む18

  第一次世界大戦終結に伴う講和会議の日程が明らかになると、鈴木文治は労働団体の形勢(「労働運動二十年」を読む14参照)について懇意の間柄であった外務次官埴原正直を通じて外相内田康哉に注意を促し、外相も了解、非公式の政府顧問として1918(大正7)年12月30日横浜を出発、アメリカからロンドンを経由、翌年2月15日講和会議(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)開催中のパリーに到着しました。

 しかし列強首脳はロシア革命の影響による労働者の急進化を恐れ、すでに講和会議の一部門として国際労働法制委員会(議長 AFL会長ゴンパース)を設立させており、各国労働代表は同法制委員会の委員で日本はすでに落合謙太郎(駐オランダ公使)・岡實(前農商務省商工局長)の2名が委員となっていました。鈴木文治は両代表の顧問として同法制委員会に出席、同年3月20日まで同委員会はほとんど休まず会議を継続、平和条約第13編(いわゆる国際労働条約)を決定、これにより国際労働機関(ILO)の設置と一般労働原則9箇条の決議がなされ以後毎年国際労働会議が招集されることとなりました。

 同年4月28日講和会議総会で国際労働条約の成立が決定すると、鈴木はパリーを出発、ロンドン・アメリカ経由で同年7月17日横浜に帰着しました。

 彼は記者会見で日本政府より発する訓令も極めて保守的なる時代遅れのもので、委員自身も自分の独立意見によって進退することができず、連合各国の感情を甚だしく損したことはもちろんである。日本側がアメリカにおける移民問題の好転をはかって講和会議に提出を希望していた人種平等案(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)が、英・米の反対により取り下げる結果になったのも、同じくその源はここに発するものであると政府の対応を批判しました(吉田千代「前掲書」)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む19

 1919(大正8)年8月3日東京砲兵工廠の職工らは小石川労働会を結成、賃上げ・8時間労働制などを要求して8月23日より罷業、8月30日解決しました。なお同年11月9日大阪砲兵工廠に組合「向上会」が結成されています(「労働運動」1号 労働運動社)。

Weblio辞書―項目を検索―砲兵工廠   

 同年8月30日友愛会七周年大会が東京の唯一館講堂で開催され、会名を大日本労働総同盟友愛会と改称、鈴木会長の単独指導を理事の合議制とすることや会長公選などを決議、決定された20カ条に及ぶ主張の主なものはヴェルサイユ平和条約に記された労働理念(一般労働原則9箇条・「労働運動二十年」を読む18参照)をとりいれたもので(1)労働組合の自由(2)幼年労働の廃止(3)最低賃金制度の確立(4)同一労働に対する男女平等賃金制の確立(5)1週1日日曜日の休日(6)8時間労働および1週48時間制(7)夜業禁止(8)普通選挙(9)治安警察法の改正などが掲げられています(「労働運動二十年」・「労働及産業」98号)。

 同じころ政府(原敬内閣)の意をうけて渋沢栄一らが中心になり、(労資)協調会設立の趣意書と綱領を公表、労働団体の代表として友愛会長鈴木文治に参加協力を要請しました(渋沢栄一「協同的精神の発揮」「実業之日本」大正8年9月 吉田千代「前掲書」引用)。 

 しかし鈴木は協調会が労働組合の公認・治安警察法第17条の撤廃・労働組合の同盟罷工の権利の公認を協調会の方針とすることなど5項目を提示、もし協調会発起人が真に時勢を達観する明があるならば、労働組合の公認と普通選挙法の樹立という二大問題に其非凡の精力を傾倒、世界の大勢に響応すべきではないかと主張しました[「労資協調会を評す」「労働及産業」大正8年9月 「労働及産業」(10)]。これらの文章に渋沢も憤慨して、以後鈴木文治とは疎遠となったようです。1919(大正8)年12月22日渋沢栄一らは協調会を設立しました(矢次一夫編「財団法人 協調会史」偕和会)。

 一方賀川豊彦らの提唱で同年12月15日関西14労働団体普通選挙期成関西労働連盟を結成(「総同盟五十年史」第一巻 総同盟五十年史刊行委員会)、普選運動は友愛会をはじめ各種労働団体を中心に盛り上がりを見せていました。

 同年12月26日第42議会開院式にあわせて、大阪では大阪砲兵工廠向上会の八木信一、鉄工組合の坂本孝三郎、友愛会の久留弘三らが中之島公会堂で演説会を開催、「われら労働者は、第42議会において、普通選挙法の通過を期す」という決議をしています(大河内一男「前掲書」)。

賀川記念館―賀川豊彦についてー賀川豊彦の略歴

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む20

 1920(大正9)年2月5日友愛会などが普選期成・治警撤廃関東労働連盟を結成、同年2月11日東京で数万人の普選大示威行進が挙行されるに至りました(新聞集成「大正編年史」大正九年度版 上 明治大正昭和新聞研究会)。

 同年2月14日衆議院に憲政会・国民党・普選実行会提出の普通選挙法3案が上程されましたが、2月26日普選法案討議中議会は解散、5月10日総選挙の結果立憲政友会が大勝、7月1日第43議会開会、7月12日衆議院は憲政会・国民党提出の各普選法案を否決しました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23参照)。

  この結果について友愛会の関西系機関紙「労働者新聞」大正9年8月15日号は次のように述べています「労働者諸君、今度の議会のふざけ方はどうですか。それでもなほ諸君は、議会を信頼しますか」(大河内一男「前掲書」)。このように議会に対する労働者の信頼は急速に薄れていったといえるでしょう。

 これ以後労働組合を中心とする普選運動は急速に衰退の一途をたどりました。

 1920(大正9)年3月15日株式市場は株価暴落で混乱、いわゆる戦後恐慌が始まっていました(日本経営史研究所編「東京証券取引所50年史」東京証券取引所)。企業や商社の倒産がつづき、多くの失業者が街頭に投げ出されていきました。労働組合は普選どころか首切り反対闘争を展開するのが精一杯で、それも敗北して組合組織そのものも壊滅する事態を招くことが多かったのです。

 同年2月5日官営八幡製鉄所の職工一万数千名は職工規則の改正をめぐって罷業開始、前年結成された組合「日本労友会」を中心に友愛会も応援しましたが、労友会幹部19人が検挙され、同年4月1日9時間3交代制実施など職工は要求を貫徹したものの多数の解雇者を出し労友会は壊滅しました(八幡製鉄労働組合編「八幡製鉄労働運動史」八幡製鉄労働組合・浅原健三「溶鉱炉の火は消えたり」新建社)。

新日鉄住金―企業情報―所在地―製鉄所―八幡製鉄所―アクセス・地図―歴史・沿革

 

 

 

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 1~10

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 1  

 鈴木文治の自伝「労働運動二十年」(一元社 昭和六年発行)は彼の生い立ちを次のように述べています。

宮城県栗原郡金成(かんなり)村―古く旧記を按ずれば、その昔源義経が兄頼朝の笞を逃れて、北の国へと落ち延びた時、その東道の主人を勤めしと伝へられる金売吉次の出生地―これが私の生声(うぶこえ)を揚げた土地なのである。」

 伝説の真偽は別として、この辺は平安時代、高鞍荘という荘園で平泉の奥州藤原氏が関白藤原忠実に寄進して自らは荘園管理者となった地でした(宮城県史編集委編「宮城県史」宮城県史刊行会)。鎌倉時代には源義経源頼朝も通ったと思われる官道松山道が金成村の西部を貫いていたので、昔から交通の要地であったのでしょう(高橋長寿遺稿「金成村誌」吉田千代「評伝鈴木文治」日本経済評論社 引用)。江戸時代同村は奥州街道の宿駅として繁栄しました。

 仙台藩は南・北・中奥・奥の4地方に各々郡奉行を設置していましたが、金成は中奥に属する三迫と磐井郡流郷の中心として代官所が置かれ、藩直轄の穀倉地帯で、代官は年貢の徴収を主な職務としていました。この代官の下に大肝入(おおきもいり)とよばれる村役人がいて、管下の政治を支配していたので、大肝入は豪農の中で人望のある人物の家から選ばれ、のちに世襲となりました。

 1853(嘉永6)年から1865(慶応1)年まで金成の酒造業泉屋の金野助三郎が大肝入を勤めていたのですが、この泉屋の番頭であったのが鈴木文治の曾祖父安治でした。

 鈴木文治は前掲自伝で「自分の生まれた家といふのは百年とかの古い家で、太い梁や柱が使ってあった。これ等の諸材や人夫や手間は殆んど悉く安治を徳とする人々の寄附で出来たのだと、祖母が語り聞かしたのを覚えて居る。」と述べています。

  今ではその屋敷跡の道路沿いに「鈴木文治ここに生まる」という記念碑(昭和42年建立碑文揮毫 片山哲)が立っているだけです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー片山哲

 安治は男子に恵まれず長女しうに婿養子として、石川家より泰治を迎え、鈴木家は泰治の代に農業に従事しながら麹屋をはじめました。泰治としうの間に1868(明治1)年文治の父益治がうまれました(吉田千代「前掲書」)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 2

 文治は1885(明治18)年9月4日上掲の地上町(宮城県栗原市)の旧家鈴木益治の長男として出生しました。

聚史苑―歴史年表―大正年表1―1912年 明治45年 大正元年8月1日― 鈴木文治   

 文治出生のころは祖父泰治が健在で 泰治が1888(明治21)年死去後、益治は酒造業にのりだしました。

 1890(明治23)年文治は金成小学校に入学、尋常科4年を終了すると岩ヶ崎尋常高等小学校に入学、金成少年学会に所属するようになりました。金成少年学会は1889(明治22)年7月当時13歳の菅原幸佐の提案により創立され、小学生から16歳ころまでの少年少女を会員とし、先輩や村の有識者が指導者となって毎夜講読会を開き、会員は漢文講義を聞いたり、作文を発表したりしていました。また年に2~3回は教師や先輩による大演説会も開催されました。とくに1892(明治25)年金成ハリストス正教会の中川崇伝道士が中心となって少年学会を指導するにいたり(吉田千代「評伝鈴木文治」日本経済評論社)、のちに鈴木文治が社会運動家として、文章や書に秀で、雄弁で多数の人々をひきつけた魅力もこの金成少年学会で養われたものでしょう。

 1895(明治28)年鈴木文治は父とともに金成ハリストス正教会で洗礼を受けました[金成教会銘度利加(メトリカ)第壱巻 吉田千代「前掲書」引用]。

栗原市―観光案内―カテゴリー一覧―栗原の文化―歴史探訪―金成ハリストス正教会

 1897(明治30)年3月岩ヶ崎小学校高等科を卒業した文治は創立されたばかりの宮城県尋常中学校志田郡立分校(古川高校前身 明治34年宮城県立第三中学校 のちに古川中学校)に入学しました。

 「中学のあった町は私の生地より八里離れた古川町吉野作造博士の出生地、私はこ丶で十三歳中学一年の時、二十歳仙台一中卒業の吉野氏と会った。爾年交遊三十五年、兄弟に等しい友誼を続けているーに行っていたが、毎週土曜日の午後は人力車を仕立て丶必ず家に帰った。そしてその車夫を一泊させてさらに月曜の朝までに学校へ通って行ったものである。」  (「労働運動二十年」)

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 3

 1902(明治35)年3月鈴木文治は宮城県立第三中学校を卒業、吉野と同じく第二高等学校を経て大学へ進学したい希望を持っていましたが、このころから鈴木家の家運は傾き、彼は一時進学をあきらめかけました。しかし母親が実家からもらって長年保存していた古金銀を元手に同年8月仙台で全国一斉の高等学校入学試験に合格、成績と志望順に全国に振り分けられ、山口高等学校(現在の山口大学)に入学を許可されました。 再び両親の金策の世話になり、彼は山口に赴く途中東京で吉野作造・内ヶ崎作三郎の両先輩と相談、内ヶ崎氏の知人であった山口高等学校教授戸沢正保先生への紹介状をもらっていったのでした。

華麗なる旧制高校巡礼―山口高等学校 

 戸沢正保は鈴木文治の保証人となり、戸沢の紹介で寄宿舎に入ることができました。しかし窮乏により校則に定められた制服を作ることができず、私服で登校したため横地石太郎教頭から度々注意され、「学校は人材の教育が主か洋服調製が主かと先生に喰ってかかり、眼玉の飛び出る程叱りつけられたことがある」(「労働運動二十年」)。ようやく父から送金があり制服をつくったのですが、外套はなしで翌年先輩から古外套を譲ってもらいました。靴も連隊営舎前の古靴屋で兵隊の古靴を25銭で買って穿いたのです。

 その年東北の大飢饉がおこり、両親からの仕送りはなくなり、鈴木文治は途方にくれ、死を思って彷徨したことも度々ありました。丁度その時一高の秀才藤村操が有名な「巌頭の感」を残して華厳の滝に投身自殺しました(1903.5.22 新聞集成「明治編年史」第十二巻 財政経済学会)。

小さな資料室―資料2 藤村操の「巌頭之感」

 鈴木文治は「私は山口から日光まで死に行く程の旅費も持たなかったが、藤村君の死がとっても羨ましかった」(「労働運動二十年」)と述べています。

 やがてこのような状態の鈴木文治を心配した戸沢先生の好意で、彼は約1年間先生の食客書生として戸沢宅に住み込みを許され、戸沢先生と同じく山高教授の戸川秋骨先生の筆耕(写字などによって報酬を得ること)に雇われ、学資の足しにすることができました。

 また当時東京帝大の学生(助教授と「労働運動二十年」に記されていますが、鈴木文治の記憶違い)であった吉野作造の尽力により、仙台の養賢義会よりの貸費生として月8円を支給されるようになり、山高入学と同時に学内の羊牢会というキリスト教青年会に所属していた鈴木文治は戸沢宅を出て美以教会の日曜学校校舎の留守番として住み込むことができました。

 山口より7里山奥の秋吉村において大理石の採掘加工を業としたキリスト教徒本間俊平は出獄人や不良少年の感化に情熱を傾注し、時々7里の山道をこえて山口に赴き、若者らに信仰の灯を与えて倦まなかったそうで、鈴木文治も彼の感化をうけた一人であり、彼が社会において偏見をうけ、不遇に苦しむ人々に注目するきっかけを与えた人として本間俊平は記憶すべき人物といえるでしょう。

Remnant―キリスト教読み物サイトーそのほかークイック移動―その他―本間俊平とその妻・次子    

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 4

 1905(明治38)年鈴木文治は山口高等学校を卒業、同年9月東京帝国大学法科大学政治学科に入学、郷土の先輩吉野作造・内ヶ崎作三郎らの世話で本郷台町の中央学生基督教青年会館に入りました。  

 「其頃日露戦争は漸く終ったが、講和の結果について国民の不満は実に猛烈であった。到頭日比谷の国民大会から焼打騒ぎとなったが、着京四日目に其騒動が起り、私は友人と一緒に本郷から日比谷までこれを見に行った。今の帝国ホテルのあるところに内務大臣の官邸があったが、その塀には桂首相や小村外相の生首の畫がベトベトに張ってあった。警官が それを剥ぎ取ろうとする、民衆は夫れを妨げる、…私は此大混乱の渦の中に捲き込まれて出るも引くも出来なかった。」(「労働運動二十年」・「坂の上の雲」を読む49参照)

 同年9月半ばころから大学の講義が始まり、穂積八束博士の憲法、金井延博士の経済学、岡田朝太郎博士の刑法、等々々、いずれも鈴木文治のような田舎学生には驚異でしたが、就中彼の心をとらえたのは4年生の時の桑田熊蔵博士の「工業政策」の講義でした。同博士の講義は名は工業政策でも実は社会政策で工場法のこと、労働組合のこと、消費組合のこと、労働保険のこと、労働紹介のこと、工業裁判所のこと等でした。彼はもっとも熱心に聴講、屡々先生を自宅に訪問して親しく教えを受けたものです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―くー桑田熊蔵

 一方彼の生活の内容は大学四年を通じてまことに恵まれないものでした。すでに仙台にでていた貧窮する鈴木一家を養うために、鈴木文治は月15円の生活費を仕送らねばならず、彼は海老名弾正の本郷教会(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造 3参照)に属して、同師主催の雑誌「新人」の同人となり、毎日曜に師の説教を筆記して「新人」に掲載、後に「新人」の編輯主任となって多少の収入を得ることができました。其の他家庭教師などもして自らの勉学のかたわら家族を養っていかねばならなかったわけで、その苦労は並大抵なものではなかったでしょう。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 5

 鈴木文治は1909(明治42)年7月大学四年の課程を終了しました。東京帝大法科大学長穂積八束(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)は学生就職の世話をするために学生を引見、その志望を聞きました。鈴木文治は此の時新聞記者志望と答えて穂積八束を驚かせたのです。当時帝大―とくに東京帝大法科大学―は官吏の養成所と呼ばれ、また官界への登竜門で卒業生の大部分がみな官吏を志願したからです。

 穂積八束は「東京日々」社長加藤高明(「凛冽の宰相加藤高明」を読む10参照)への紹介状を書いてくれましたが、郷里の先輩小山東助の尽力で島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)の紹介により鈴木文治は同年7月1日印刷工場「秀英舎」(創立者 佐久間貞一「日本の労働運動」を読む7参照)に入社、工場法案の研究などの知識を広めるに役立ったのですが、どうしても印刷業を終生の仕事とする気になれず、1910(明治43)年3月同社を退社、同年4月「東京朝日新聞社」入社試験を受けて合格、5月1日より同社社会部記者として入社したのでした。  

 この入社試験の課題は「東京に於ける救済事業現況」で、十日以内に提出を命ぜられました。取材訪問のために8日の間本所若宮町の無料宿泊所をはじめとして破れ綿入れに色褪せた黒木綿の羽織を着て穴のあいた足袋にグダグダの中折れ帽をかぶって、トボトボと宿をもとめ、電車のなかでは車掌から権突をくらい、道を尋ねて巡査に叱られ、ようやく宿泊所にたどりつくと、取次人に怪しまれながら二階の大部屋へあがり来宿者の中に入って数時間を過ごしてみました。

 当時の救済事業はほとんど宗教関係者によって実施されていたので、救世軍の社会事業留岡幸助の家庭学校、原胤昭の出獄人保護事業、島貫兵太による苦学生救護の日本力行会などを訪問、さらに孤貧児の救済施設として東京市内第一の設備を持つといわれる市立巣鴨養育院分院などを視察、これらの取材ノートをもとに20回分の原稿を完成して試験委員に提出しました。同原稿は鈴木文治入社後、「東京に於ける社会改良事業現況」と題して東京朝日新聞に10回にわけて掲載されたものです。彼は1911(明治44)年2月「浮浪人研究会」を組織しています。

児童福祉施設 東京家庭学校―施設概要  

 入社3日目にハレー彗星の記事(1910.5.19ハレー彗星地球に最接近、流言・噂・不安を呼ぶ 新聞集成「明治編年史」第十四巻)を書くことを命ぜられ俄か天文学者となってあわてたりしたこともありました。大逆事件(「日本の労働運動」を読む47参照)の取材に当たっては、第1回公判開廷と同時に傍聴は禁止されたので、彼は幸徳秋水と親交のあった堺利彦(枯川)に会い、死刑判決後に幸徳と面会した様子を取材して新聞記事「最後の面影」をまとめ、さらに幸徳秋水と管野スガが堺に送った書簡を全文掲載しました。またこのころ朝日新聞社には石川啄木(「田中正造の生涯」を読む23参照)が校正係として勤務しており、鈴木文治と無政府主義について議論したこともあったようです(石川正雄編「石川啄木日記」第3巻 明治44年1月3日条 世界評論社)。

 やがて彼は夜の編集主任に昇進しましたが、同一記事を市内版と神奈川版とに二重掲載した誤謬の責任をとって、1911(明治44)年10月朝日新聞社を退社するに至りました。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 6

 1911(明治44)年11月鈴木文治は再び郷里の先輩小山東助の奨めで日本ユニテリアン派教会(機関誌「六合雑誌」「日本の労働運動」を読む24参照)の附属伝道団体である統一基督教(弘道)会に社会事業を行う目的で、同教会の幹事として就職しました。このことは英国留学後帰国して同教会の牧師になった同郷の内ヶ崎作三郎の活動を側面から援助するためでした。

 ユニテリアン派教会の日本における活動拠点であった惟一館において鈴木文治は1912(明治45)年1月15日周辺の労働者を対象とする「労働者講話会」を開催しました。

 同日午後6時職工や近隣の女子供を含む住人約400名が集まり、鈴木文治司会により教会員の讃美歌から始まり、ピアノや独唱を交えながら、三宅鉱一東大医学部教授の「酒の話」をはじめとして救世軍山室軍平安部磯雄らが講演を行いました。

 同講話会は毎月15日(当時の労働者は1日と15日が休業)夜知名人を講師に迎え、映画・講談などの余興も交えて開催され、次第に労働問題の話などを加えて労働者を啓蒙する試みに着手しました。  

 同年3月には「労働者倶楽部」を開設して、労働者と親しく交流する機会をふやし、職場での労働者の処遇が上役への賄賂の多寡によって左右されているという前近代的労務管理の実態を知りました。

「そこで私は彼等に説いた。かういう実情に対抗し、横暴を打ち砕くには一人や二人の力には及ばない。団結の威力によるの外はないと、外国の労働組合の話をした。すると、感激の呻きが忽ち揚るという有様であった。」(「労働運動二十年」)

 そこで1912(大正1)年8月1日(同年7.30明治天皇死去)諒闇(天子が父母の喪に服する期間)第3日惟一館図書室において電気工・機械工・畳職・塗物職・牛乳配達・撒水夫等計十三名に現職の巡査1名(隠れた同志として極力奮闘を約す)及び鈴木文治を加えて15名が集まりました。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 7

 座長席についた鈴木文治は『労働階級の向上と労働組合の結成とは必然的のものである。(中略)併し労働問題に対する世間の理解力極めて乏しく、官憲の圧迫も亦猛烈である今日―幸徳事件終了後漸く二年―到底直ちにその組織を作ることは困難である。暫く友誼的共済的又は研究的の団体で満足しようではないか。(中略)と云い、一同納得したので会名の詮衡に入った。(中略)そこで私は然らば「友愛会」という名はどうか。(中略)英国にフレンドリー・ソサイテイーというのがあるが、それは訳せば友愛会となる。(中略)日本の労働者も今は正しく隠忍して力を養ふべきときであると語り、英国労働運動の故智を学ぶことにしようではないかと述べ』(「労働運動二十年」)満場の同意をえました。

聚史苑―大正年表1―1912~1915-1912年8月1日―鈴木文治―友愛会

 鈴木が立案した、共済と相互扶助・修養と努力・社会的地位の改善を旗印とする綱領と会則とを決定(「六合雑誌」大正元年9月号 「総同盟五十年史」第一巻 総同盟五十年史刊行委員会 引用)、会長には鈴木文治が推戴され、幹事を互選、ユニテリアン・ミッションのマコーレー博士は名誉会員に推され、安部磯雄(「日本の労働運動」を読む22参照)を会長とする弘道会の人々は評議員や賛助会員となって友愛会を支援したのです。同年11月同会機関紙「友愛新報」[総同盟50年史刊行委員会編「大正昭和労働運動・社会民主主義研究資料」第1(友愛新報集成)柏書房]が創刊されました。

 「友愛新報」第二号には労使関係について「抑も物の生産は、何に依って出来るのであろうか。資本と労働との協力の結果ではないか。」(「資本と労働の調和」)と述べられているように労資協調主義がとられています(吉田千代「前掲書」)。

 鈴木文治は彼の自伝で友愛会創立時代に活躍した若き人々の中で特に異彩を放った3人として野坂鉄(参三)・久留弘三・酒井亀作(興)を挙げ、野坂鉄について次のように述べています。「野坂鉄君は大正二年の暮か、大正三年の春に堀江帰一(友愛会評議員)博士の紹介状を以て来訪した。慶応理財科の二年で、卒業論文労働組合のことを書きたいから、友愛会の実際運動を見せ、又話をして貰いたいというのである。(中略)大正四年春卒業と同時に友愛会本部員として入って来たのである。真面目な学究肌の人でつひに一回も演壇に立ったことはない。(中略)同君は当時共産理論に共鳴し、(中略)洋行以来一層其の信念を堅くしたもの丶ようである。(中略)私は今でも此力のある立派な闘将を我等の陣営より失わざるを得ざるに至ったことを残念に思ふものである。」(「労働運動二十年」)

杜父魚文庫―杜父魚ブログー2007.07.22 野坂参三の不思議 渡部亮次郎

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 8

 友愛会創立後1年も経たない1913(大正2)年6月末労働争議が起こりました。同月7日発会式を挙げたばかりの同会川崎支部の山中・長谷川両人が語るところによれば、日本蓄音器(レコードプレイヤーの前身)商会(日本コロンビア株式会社の前身)の従業員は同月28日会社側から次のような通告を受けました。1. 7~8月両月を会社の都合により暑中休暇とする。2. 其間の生活費は例年6月末に下げ渡してある賞与金(日給者)積立金(請負者)を7月末に半額、8月末に半額払い渡すという内容でした。従業員は協議の結果、会社に向かって次のような申し出をしました。夏季休業はいらないから、仕事を続けてほしい。でなければ二ヶ月分の給料を渡して貰いたい。

 しかるに会社は従業員の申し出を受け入れないので、一同協議の上、事件の解決を会長(鈴木文治)にお願いしようということになったそうです。

日本コロンビア株式会社―会社沿革 

 労働運動の最初の小手調べにに米人支配人(日本蓄音器商会は米国資本の経営で社長・支配人・工場長らは悉く米人)に一泡吹かせずに置くものかという猛烈な反感から、鈴木文治はこのお願いを引き受け、まずマコーレー博士(「労働運動二十年」を読む7参照)から同商会支配人ラビットに対する紹介状を書いてもらいました。

 つづいて彼は同月28日罷業に入っていた同商会従業員全員に談判の手段並びに従業員の実際行動についての全権委任をとりつけ、警察署長を訪問、鈴木が同商会と談判する際争議団員が同商会前広場に三々五々集まる程度なら警察は干渉しないとの了解をとりつけました。

 同月29日午後4時ころ支配人ラビットらと鈴木文治の談判が開始されましたが険悪な雰囲気で物別れとなり明朝再び会うこととなって、翌朝午前9時再会談の結果東京電気工業部長新荘吉生の裁決に従うことで合意しました。同日午後4時新荘吉生の裁決により同商会は次のような決定を回答しました。

1. 会社は7月15日まで仕事を継続、8月15日より仕事を開始する。この1ヶ月間は従来通りの賃金を支給する 2. 7月16日より8月14日まで休業する。但しこの期間の休業に対しては1週間分の給料を手当てとして支給する。 3. 賞与金は即時全額を支給する。

 この回答を鈴木文治が友愛会川崎支部にもたらすと、同商会従業員は喜び、300の会衆は友愛会万歳を唱和しました。

 同年11月鈴木文治はユニテリアン教会で内ヶ崎作三郎牧師司会により、井上ユキと結婚式を挙行しました(吉田千代「前掲書」)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 9

 このころの鈴木文治の労働争議に対する姿勢は「親心ある工場主」(「友愛新報」大正3年3月1日号 吉田千代「前掲書」引用)の言葉が示すようにその解決を経営者の恩恵に期待する発言にその特徴があり、既述の日本蓄音器商会争議解決の過程に上述のような鈴木の考え方が反映されていますが、次に述べる東京モスリン争議の経過にも基本的にこのような彼の同じ姿勢が継続しているように思われます。

 1914(大正3)年6月1日不況で同業4社は操業短縮5割を決定、東京モスリン(薄手の平織り羊毛生地)紡織株式会社(大東紡織株式会社の前身)ではその直前男女工合計千百余名を解雇、さらに同月18日残留職工2800余名の減給処分(定傭給者は1割5分内外、請負者は4~5割)を工場内に掲示しました。

Daitobo―企業情報―会社沿革   

 これに対して従業員は憤慨、結束して同月20日夜作業の停止を断行しました。会社側はあわてて代表委員との折衝後、翌21日 1. 同年8月20日までに減給に相当する収入額を或方法で補填する。 2. 同年12月1日より減給前の俸給に復活する。但し復活の上は第1条項は廃止する。以上2項目の覚書で妥協することとなったのです。

Redondo1985―スカイツリー周辺の史跡―2012.09.24 スカイツリーと東京モスリン吾嬬工場跡

 ところが従業員たちは同月28日の定例休業日を利用して、有志7~80名が「工友会」という共済組合的労働団体を結成するに至りました。 しかしその附則には会社の不当解雇を受けたような場合、調査の上80円の恵与金を交付する旨記載されていました。

 会社側は工友会を切り崩そうとし、(ア)6月18日掲示の請負賃値下及び日給減額は来る12月1日より6月1日と同様に復旧すべきはずのところ、都合により来る7月20日より復旧する。(イ)但し大正3年8月20日迄の減給に相当する収入減を或方法で填補することは自然消滅する。以上のような内容を掲示しました。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む10

 しかし工友会の結束は堅く、同年7月14日登坂秀興同社作業部長は工友会幹部12名を順次呼び出し、工友会解散命令に不服従の者は今日限り解雇すると通告しました。これにより工友会は同盟罷業に入り、翌15日工友会長は治安警察法第17条違反(同盟罷工の扇動)を理由としで所轄小松川警察署に検挙されるに至ったのです。これをきっかけに工友会の結束は崩れさったのでした。

 此の時解雇された12名の一人が友愛会江東支部幹事より友愛会の存在を知り、協議の結果、救援依頼のため友愛会本部に鈴木文治を訪ねてきたのです。

 鈴木は工友会長釈放をもとめて小松川署長・警視庁・東京区裁判所検事局を歴訪しましたが、釈放はかなえられず、工友会長は裁判所で懲役3ヶ月、執行猶予3年の判決を受け服罪せざるを得なかったのです。

 解雇者(最終的に21名)の後始末について、鈴木文治は3回にわたり会社を訪問し談判、結果は何等会社側の譲歩を引き出すことはできず、物別れとなりました。

 しかし鈴木と同郷で友愛会評議員でもあり、当時東京府立職工学校長の職にあった秋保安治と云う人があり、登坂氏とも蔵前(東京職工学校?)の先輩・後輩の関係にあったので、同氏の斡旋で鈴木は登坂氏と再度職工学校で会見した結果、東京モスリンの青木専務の名で解雇者に対し同情金210円(一人当たり10円)を支出することで決着となりました。 これら解雇者たちは友愛会に加入、幹部として活動し、翌年2月やがて千数百名を数える友愛会本所支部が彼等の活躍の結果として誕生したのでした。

 すでに1914(大正3)年年11月1日「友愛新報」は「労働及産業」[法政大学大原社会問題研究所・総同盟五十年史刊行委員会共編「労働及産業」(復刻版)日本社会運動史料 法政大学出版局]と改題され月刊雑誌に発展していました。