城山三郎「男子の本懐」を読む1~10

城山三郎「男子の本懐」を読む 1

 城山三郎「男子の本懐」(「城山三郎全集」1 新潮社)は「週刊朝日」[1979(昭和54)年3月23日号~同年11月20日号]に連載されたノンフィクション小説で、第27代首相浜口雄幸と彼の盟友井上準之助蔵相の生涯をたどった作品です。

 浜口雄幸は1870(明治3)年4月1日、高知県長岡郡五台山村唐谷(からたに)の水口家にうまれました(浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)。

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 水口家は土佐藩の山林見回りを勤めるお山方の家柄で、彼の父水口胤平(たねひら)は、明治時代になっても、山林官として同じ仕事をつづけていました。

 雄幸の長兄義清は十六も年上で、五台山竹林寺の勧学院に弟子入りしてあまり家におらず、次兄義正は八つ違いの腕白大将で、これも留守勝ちでした。

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 郷士の娘で母親の繁子は7年ぶりに身ごもり、両親は娘の出生を期待したのですが、生まれたのは男子であったため、やむなく「雄幸」と名をつけ「おさち」と呼ぶことによって満足したといわれます(小柳津五郎「浜口雄幸伝」伝記叢書 大空社)。

 少年になると雄幸はがっしりとした体つきになり、獅子鼻で眉が上がり、どんぐり眼に角ばった顔つきになってきました。母は家のきりもりや畑仕事に追われ、雄幸には構わなくなったので、雄幸は山あいの一軒家で幼いときからひとりぼっちで、一日の大半を過ごし、やがて字が読めるようになると、むさぼるように読書にふけりました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 2

 近くに高知県下最初の小学校の一つであった孕(はらみ)尋常小学校ができましたが、2学級しかなく。正規の教員もおらず、長兄の義清が教えたりしました。

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 雄幸は学校から帰ってもほとんど本ばかり読んでいたので成績優秀、高知中学(高知県高知追手前高校の前身)に入学すると、往復4里の道のりで毎朝6時前には家を出て、学校に着くとまだ校門が開かず、その前で本を読むことも珍しくありませんでした。3年生を終わると成績優秀で飛び級して5年生に編入されたのですが、体育だけはにが手で跳び箱が飛びこせず、箱の上に尻餅をついてしまう状態でした。

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 土佐出身の自由民権運動の指導者板垣退助(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む8参照)を盟主とする自由党の活躍時代で、中江兆民(「火の虚舟」を読む1参照)の政治結社も動きだして政治運動も活発でした。雄幸もこのような雰囲気の中で、会合に出席して、公然と主張を述べたりすることもあり、少数ながら友人もできましたが、そのつき合い方が通常とは異なっていました。かれは友人の家へ遊びにいっても、自分からはほとんど口をきかず、部屋の隅に坐ったり寝ころんだりして2~3時間過ごしてから、ふいに立ちあがって帰っていくのです。

 当時高知中学校に、教え子全員の寸評をした漢学教師がいましたが、この教師による雄幸評は「雲くさい」の一語であったそうです(小柳津五郎「前掲書」)。

 中学校5年のとき、雄幸に養子縁組の話が持ち込まれました。浜口家は高知市の南東約50㌔の安芸郡田野町郷士で、剣客としても有名な浜口義立(よしなり)には男子二人が夭折、夏子という高知の女子師範に学ぶ娘一人しかおりませんでした。よい婿養子を迎えるために、義立は友人知己に頼んで歩いたのですが、それでは満足できず、高知中学校で卒業生から在校生まで、成績・操行・身上などを調べ上げた結果、学業成績抜群、志操堅固で三男坊の水口雄幸を見出だし、校門に立って首実検までして惚れこんだようです(北田悌子「父浜口雄幸」日比谷書房)。

 浜口義立はやがて水口家に出かけ、雄幸の養子縁組を申し入れました。雄幸の父水口胤平は浜口義立の熱意に圧倒されて本人の意思を確かめると、どうでもいい様子だったので、高知中学校の卒業式が終わると、19歳の雄幸は仲人に伴われて16歳の夏子と初対面の挨拶をし、養子縁組の盃を交わしました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 3

 養子縁組の盃を交わすと、雄幸は海を渡って大阪に赴き、第三高等(中)学校(京都大学総合人間学部・岡山大学医学部の前身)に入学、法科に在籍、1889(明治22)年学校の移転に伴い、京都で下宿生活をするようになり、幣原喜重郎(「伊藤博文安重根」を読む3参照)らと首席を争いました。同校在学中すでに「ライオン」と綽名されていたようです(小柳津五郎「前掲書」)。

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 溝渕進馬という高知中学以来の友人と時々相撲をとったりするだけで、あとは従来通り黙々と読書に耽る毎日でした。夏冬の休暇に田野へ帰省しても、黙って読書やひとりで川辺、海岸を散歩したりするだけで、だれとも口をきこうともしません。一度か二度彼が唐谷の実家まで約40㌔の道のりを馬の背にゆられて帰ったときも、馬を引く下男と全く口をきかず、例外として「もう、行かう」の一語だけ口を開いたと下男が報告したそうです(北田悌子「前掲書」)。夏子や養家の人々は最初とまどったようですが、事前に雄幸の性格を聞いていたので、そっと見守るだけでした。

 数え20歳のとき、彼の父胤平は死去、三高在学中21歳で夏子と結婚、やがて帝国大学法科へ進学、最初の一年は寄宿舎生活でしたが、翌年夏子が上京し一戸を構えるようになりました。

 雄幸は相変わらず、身なりを構わず、黙々と登下校して、運動もせず趣味も持たず、倶楽部やサークル活動にも参加せず、ちょっと鎌倉の円覚寺へ参禅したことがあるだけでした。当時の東大の学生は天下国家を論ずる風潮がさかんでしたが、雄幸は傍聴しても討論に参加することはありませんでした。彼は政治家志望でしたが、これからの政治家は財政経済に通暁することが必要と考え、アダム・スミスの「国富論」を読みつづけました。

 1895(明治28)年7月雄幸は東大を卒業しましたが、卒業時の成績は小野塚喜平次(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造4参照)がトップで、浜口は2番でした。

 高等文官試験の最中、雄幸の長女和子が危篤状態となり、一時試験をあきらめようとしましたが、夏子が必死になだめ、思いとどまりました(今井清一浜口雄幸伝」上巻 朔北社)。試験最終日における憲法の口頭試問で、彼は試験官の一木喜徳郎(「大正デモクラシーの群像」を読む―Ⅰ-吉野作造3参照)と憲法の解釈について対立、幸いにも合格して大蔵省に入省しましたが、和子は死去、、雄幸の表情は暗かったのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 4

 大蔵省内では新人なのに年齢より老けた感じで、同僚と酒で羽目をはずすこともなければ、喫煙もしません。上役に煙たがられたのか、入省1年目に山形県収税長に転出、半年後には松江に飛ばされ、山形と松江で1年2箇月経過すると、本省会計課長を命ぜられました。

 しかし浜口雄幸大蔵大臣経費の一部を削減したことから、その復活を求める大臣秘書官と衝突、たちまち名古屋へ、1年足らずで収税官として四国の松山へ転任、長い不遇ないわゆるドサ廻りの境遇が始まりましたが、彼は黙々と職務に精勤、深夜まで相変わらず読書に励み、ときには書画に親しみました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー浜口雄幸

 松山に1年居てさらに九州の熊本に税務監督局長の肩書で赴任することになり、ここで高知中学の同期生だった熊本医大教授山崎正薫に出会いました。浜口夫妻は健康状態も悪く山崎教授の尽力をうけましたが、山崎教授は浜口家について「贔屓目に見ても余りに粗末な身なりや、住居も局長のそれとして随分ひどい。家が粗末な上に室内には装飾一つなく、掃除も行き届かないという有様で、いかにも貧乏臭かった。(中略)君が何だか以前と違って元気がなくて意気消沈して居たように見受けた。」(浜口前総裁追悼号 「民政」付録 民政社)と述べています。

 しかし経済学を中心に、勉強はつづけていました。松山以来、ずっとロンドン・タイムスを購読、草深い日本の田舎にいても、国際的視野を失わないよう心がけたのです。

 東京にいた友人たちもやきもきして運動し、若槻礼次郎の尽力で1902(明治35)年1月浜口はようやく熊本と同じ税務監督局長として東京に戻りました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 5

 しかし東京税務監督局長も1年半で、浜口は外局の専売局へ転出となり、肩書は煙草専売局書記官兼臨時煙草製造準備局事務官となりました。このころから彼は煙草を吸うようになります。

たばこと塩の博物館―たばこと塩のあれこれーたばこの歴史と文化―明治以降のたばこ文化―明治のたばこ商たちー専売の時代(戦前)―世界の塩・日本の塩―日本の塩

 専売局での最初の仕事は従来行われていた民間業者による煙草の製造をやめさせることでした。2年半後部長となり、帝国議会の委員会ではじめて政府委員として答弁に立たされ、さらに1年経って専売局長官となりました。

 長官となった浜口は塩の製造をコストの安い大規模塩田に集中し、零細な塩田を廃止しょうとする問題に直面しました。零細業者の反対は激しかったのです。議会でもきびしい批判にさらされたとき、浜口は冷静に、資料を手にすることもなく、暗記した主要な数字を挙げて答えたので、自由民権運動以来の論客島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)が、「唯今の政府委員の答弁は明快で、本員の大いに満足するところであります。」(尼子止「平民宰相浜口雄幸」 御厨貴監修「歴代総理大臣伝記叢書」19 ゆまに書房)と称賛したほどでした。 

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 このような浜口の取り組みに注目したのが初代満鉄南満州鉄道・「坂の上の雲」を読む48・「伊藤博文安重根」を読む12参照)総裁となった後藤新平でした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―こー後藤新平

 後藤は浜口に満鉄理事への就任を要請しました。満鉄理事は当時の中央官庁における次官以上の地位といわれ、はるかに高い俸給も約束されていたにもかかわらず、浜口は塩田整理問題の未完を理由に、後藤の要請を辞退したのです(浜口雄幸「前掲書」)。

 1908(明治41)年7月14日第2次桂太郎内閣が成立、後藤新平逓信大臣に就任すると、彼は再び浜口を逓信次官に迎えたい意向を示し、これも大蔵官僚として、専売局長官以上の昇任は期待できぬ浜口にとって有利な人事であった筈ですが、満鉄理事人事のときと同じ理由で浜口は今回も辞退しました。

 塩田整理は1911(明治44)年総て完了、天皇は浜口の労をねぎらって金盃を下賜しました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 6

 1912(大正1)年12月21日第3次桂太郎内閣が成立、後藤新平が再び逓信大臣に就任すると、後藤は再び浜口の逓信次官引っ張り出しにかかりました。まさに中国の故事にいう三顧の礼というべきでしょう。

故事成語大辞典―サイト内検索―三顧の礼   

 策士の一面を持つ後藤新平にとって、愚直ともいえる上記のような浜口雄幸の身の処し方は、そうした側面に乏しい後藤に新鮮な魅力として感じられたのではないでしょうか。

 浜口は大蔵省の先輩で同内閣の蔵相若槻礼次郎の意見も聞いた(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史―古風庵回顧録―」講談社学術文庫)のですが、塩田整理は完了しており、後藤の要請を辞退する理由がありません。第3次桂太郎内閣は成立当初から短命が予想され(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13~14参照)、かかる内閣の傘下に入ることは浜口にとって不利益であることがわかっていたにもかかわらず、彼は後藤の知遇に応えて逓信次官就任を受諾、専売局長官を退職しました。予想通り同内閣は翌年2月11日倒壊、浜口も同次官を辞任して無職の身となったのです。

 これより先桂太郎は新党立憲同志会を結成、若槻礼次郎後藤新平も参加、浜口もこれに同調して入党、後藤は同会結党直後、諸種の対立から同会を脱党しましたが(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)、浜口は後藤と行動を共にすることはありませんでした(浜口雄幸「前掲書」)。

 1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣が成立、若槻礼次郎大蔵大臣に就任(新聞集成「大正編年史」明治大正昭和新聞研究会)すると、若槻は浜口を大蔵次官に起用しました(浜口雄幸略歴 浜口雄幸「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―わー若槻礼次郎

 左遷による地方回りと外局勤務という大蔵省の主流から外れたコースをたどってきた浜口雄幸は、ここでやっと大蔵省首脳部に立ち、その手腕を発揮する機会に遭遇したのです。    

 しかし彼は感慨にふけっている暇はありませんでした。同内閣成立早々の同年6月28日サラエボ事件をきっかけとして第1次世界大戦が勃発、日本も同年8月15日ドイツに宣戦布告して大戦に参加しました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16参照)。大戦勃発による臨時軍事費の調達や次年度予算編成に忙殺されるなかで、浜口は横浜正金銀行頭取井上準之助としばしば顔合わせをするようになりました。

 

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  井上準之助は1869(明治2)年3月25日、大分県日田郡大鶴村(日田市大鶴町)で代々造り酒屋を営む庄屋井上清・ひな子夫妻の第七子五男として生まれました(青木得三「井上準之助伝」井上準之助論叢5 明治百年史叢書 原書房 )。

おいでひた.com―サイト内検索―清渓文庫(井上準之助の生家を記念館にしたもの)

 7歳のとき叔父井上簡一の養子に出されました。井上簡一は広瀬淡窓の咸宜園に学び塾を営んでいましたが、準之助はこの養父の許から小学校に通い、級長になったのですが餓鬼大将でもありました。

 あるとき、大木に上ってぼんやりしていると、通りがかりの老人が「高い木の上で考へてござらっしゃるが、郡長にでもなるのかえ」と声をかけると、準之助少年は「俺は郡長ぐらゐにはならぬ。なれば大臣になるさ。」とやり返したそうです。

 11歳のとき養父簡一が急死のため、家督相続、12歳で豆田町の郡立教英中学に入学、次兄が豆田町へ養子に行っていたので、その家に間借りして勉強しました。しかし中学2年を終ってリュウマチに罹り、さらに心臓を病む不幸に見舞われ、好転しません。

 医者に学業の放棄をすすめられ、同中学校をを退学、久留米に名医を訪ねて1年半、ようやく健康を回復して大鶴村の実家に戻りました。

 でも実家は家業が傾き、母は父に代わって長男初太郎とともに家業の立て直しに懸命で、準之助には冷淡でした。それに家業を手伝っても失敗が多く、彼は母の許しを得て門司から三兄良三郎の世話で兄の勤務する日本郵船の貨客船に乗って上京しました。だがこれといった就職先もなく、成立学舎などで勉強、一高を受験しましたが、それまで漢学中心の教育を受けてきて、英語や数学ができなかったため不合格でした。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 8

 次いで第二高等(中)学校(東北大学教養部の前身)の補欠募集を受験して合格、1887(明治20)年、19歳で仙台での学生生活がはじまりました。

華麗なる旧制高校巡礼―第二高等学校―片平丁校舎  

 井上準之助について後輩の結城豊太郎(興銀総裁)は「井上さんはあそこを第二の故郷以上に憧れ、常々同級生殊に高山樗牛を懐しみ、後々まで二高生に話しかくることを此上なく楽しんでおられたが、先年同校に開校二十五周年記念式があって参られたことがある。(中略)あの時井上さんの母校に対する懐かしそうな態度といったら尋常なものではなかった。日本銀行総裁時代に、俺れは総裁をやめたら高等学校の校長になって見たいと時々言うて居られたが、(中略)若し二高の校長になる機会があったら、欣然就任せられたことであろう。」と述べています(青木得三「前掲書」序文)。

 二高では小編成で友人に恵まれ、井上がとくに親しくなったのは高山樗牛であり、両人は首席を競い、寮では同部屋で起居しました。高山が深夜まで勉強するのに対して、井上は夜10時ころには寝てしまうタイプでした。英語に関してはおくれをとり戻そうと猛勉強、英語会には高山と二人で出席してシェイクスピア劇では井上が重要な役割をつとめました(清水浩「清渓おち穂」井上準之助論叢編纂会)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー高山樗牛 

 医学部の学生と宿舎の問題でもめたことがありました。血の気の多い弁のたつ高山が強気で相手を「大体貴公らはコモンセンスが無い」というと、ドイツ語には明るいが英語は苦手な相手がコモンセンスを「昏盲精神」と聞きちがえて大騒ぎになりました。このとき井上が仲裁に立ち、両者の食い違いを明らかにして仲直りしましたが、彼はもめごとをまとめるのがうまかったようです。

 二高を卒業して級友が離れ離れになる日、井上は学友たちにこう述べました。「これからも、より以上に健康には注意しなければならぬと思っている。(中略)勉強よりも健康が大事だから、みんなも誓って一つ身体を丈夫にしようじゃないか」(清水浩「前掲書」)

 大病を経験した井上にとって、健康を軸に、合理的な生活設計をーという生き方が彼の生涯を貫いていくのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 9

 井上は浜口より1年遅れて東大法科へ進学、寄宿舎では就寝前に約1時間半ほど勉強する程度、同期生より2~3年年長でしたから、同室の仲間と口角あわを飛ばして議論することはありませんでした。

 卒業前の1年は麹町区富士見町の兄良三郎の家に寄宿、とりよせた原書による法律の勉強を開始しました。彼は弁護士志望で、世話になった兄に役立つようにと、商法、それもイギリスの海商法を中心に判例を研究するというような勉強に励み、商法の口頭試験で優秀な成績をとったので、卒業成績は2番でした。

 恩師や友人は官吏になることをすすめてくれましたが、役所はどこも窮屈な職場と思われ、それに井上が勉強したのは公法(憲法行政法など)ではなく商法が中心で、それを生かせる職業がいいと思っていたのです。

 そうした彼を見かねたように、兄良三郎がこんな話を準之助に持ち込んできました。同じ大分出身の山本達雄日本銀行の理事をしている。かねて面識があるところから、弟の就職を頼んでみると、こころよく採用してくれるということでした。若手を外国に出すことも考えているそうで、ひとつ行ってみる気はないかという話です(清水浩「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山本達雄

 準之助はとくに希望したわけではありませんでしたが、勉強もできるようだし、わるい職場ではなさそうだと思い、日本銀行に就職することにしました。1896(明治29)年のことです。

日本銀行―日本銀行についてー日本銀行の概要―沿革―日本銀行百年史

 

城山三郎「男子の本懐」を読む10

 井上の最初の勤務地は日本銀行大阪支店で、初任給は25円、貸付割引係に配属となり、帳面付けと算盤の訓練から始まりました。支店員は全員和服を着ていたのに、井上は背広を着用して出勤、英語が得意で外人客が来るともっぱら井上独りの出番でした(清水浩「前掲書」)。

日本銀行大阪支店―大阪支店のご案内―支店の歴史

 彼はやがて本店に呼び戻され、翌年銀行業務研究のため、イギリスとベルギーへ2年間の出張を命ぜられました(「留学日記」井上準之助論叢4)。

 1897(明治30)年10月、井上は同銀行函館支店から呼び戻された東大卒の1年先輩土方久徴とともに横浜を出帆、ロンドンに赴きましたが、日銀最初の海外研修であったためか先方の受け入れ態勢も整っておらず、英国中央銀行であるイングランド銀行は両人の研修受け入れを認めません。

 日本公使館[加藤高明駐英公使在任(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)]から交渉してもらってもだめで、結局日本へ最初に銀行業務を教えるために来日したシャンド(Alexander Allan Shand 土屋喬雄「お雇い外国人」8 金融財政 鹿島研究所出版会)が関係するパースバンクに見習いとして受け入れてもらいました。

 土方が支店詰めだったのに対して、井上は本店詰めで技術的なことよりも銀行の仕組みや運営に興味をもちました。暇なときは本屋に行き、金融関係だけでなく、経済・政治・歴史・文学などさまざまな分野の本を買い込みました。親友高山樗牛のための本も購入して日本へ送ったようです。

 井上の日銀就職を世話してくれた山本達雄は郵便汽船会社三菱の出身で、もともと岩崎弥太郎(「竜馬がゆく」を読む16参照)の補佐役をつとめ、松方正義の推薦で1889(明治22)年日銀総裁となった川田小一郎の引き立てにより、日銀入りをした人物で、1898(明治31)年10月20日43歳の若さで日銀総裁となりました。

 しかし私学出身で中途採用の山本に対する帝大出身者の多い日銀内部の反感は激化、山本総裁就任4ヵ月で理事・局長・支店長の大半11名が辞表を提出して山本を失脚させようとしました(日銀ストライキ事件・「日本銀行八十年史」日本銀行史料調査室))。

 しかし山本は彼等の辞表を受理して人事の刷新を企て、1899(明治32)年横浜正金銀行副頭取高橋是清を日銀副総裁に迎えたのですが、この非常事態のためロンドンにいた井上らの若手までが日本へ呼び戻されました(「書翰」仙台 高岡松郎宛 明治32年5月21日付 井上準之助論叢4)。

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