片山 潜「日本の労働運動」を読む11~20

片山 潜「日本の労働運動」を読む11

 1886(明治16)年夏ころ、岡塾・攻玉社の友人の一人岩崎清吉が来年徴兵検査の年で心配しているのを見て片山潜は彼に渡米を勧めたのでした。

 ところが岩崎清吉に渡米を勧めた片山潜は岩崎の郷里の森鴎村漢学塾幹事の待遇で下野の藤岡に赴きましたが、やがて東京へ帰りました。岩崎清吉は渡米準備のため福沢諭吉(「大山巌」を読む24参照)の慶応義塾にはいり英語を研究、やがて渡米して桑港(サンフランシスコ)上陸の経験と米国の模様を書いたかなり詳しい手紙をくれました。

慶応義塾―慶応義塾の紹介―慶応義塾をひも解くヒントー歴史・風物トピックスー動画ライブラリー  

 その手紙に桑港で苦学、相当成功していた千葉某のことを書いて「米国は貧乏でも勉強のできる所だ」とあり、これを見て片山潜は渡米の決心をしたのですが、英語を熱心に勉強した様子はみうけられません。それにかれは無一文であったので、岩崎の父其の他から50~60円の資金提供をうけ、記憶では1884(明治17)年11月26日サンパウロ号で横浜から桑港に向け出港しました。日本人の同航者9人の内伊沢という男だけが中等に乗っていて、慶応義塾出身の仲間を中心とするグループが支那人のコックと交渉、西洋料理を食っていたので、三等室にいた潜も上陸4~5日前にこの洋食仲間に金をだして入れてもらった結果、所持金のほとんどを失いました。船は横浜を出航してから19日目の朝桑港に到着上陸、馬車で日本人のよく行くホテルで昼食後、メソジストミッション(Methodist mission「メソジスト派の福音会」)に向かいました。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―4 アメリカ時代―(24)コスモポリタンホテルから福音会へー*6-*9-*10

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む12

 片山潜はメソジストミッションをねぐらに2~3週間桂庵(職業紹介所)に通い、英語ができないので、やっと12月20日になって週給2ドル50セントの住み込み働き口が見つかりました。この家庭は主婦と2~3歳の少女と下女の3人家族で、仕事はウエイター、皿洗いと部屋の掃除がすべてでした。ところが同胞の日本人に騙されてこの働き口をやめたため、無収入となり、その日の食事代もなく、物乞いをしてようやくパンにありつく境遇となり、やっと週給3ドルの仕事を見つけたら3日目の深夜熱病にかかり、その心細さに堪え切れず、はじめてキリスト教信仰を求めました。

 このように働き口を転々と変えながら貯蓄した金の中から帰国する日本人矢野に30ドル貸し、潜の老母に送金するよう依頼した30ドル合計60ドルを託しましたが、矢野は横浜到着後行方不明となり、潜は60ドルをだまし取られたのです。

 一方潜は桑港の住宅地アラメダでキリスト教の第一組合教会に所属、働きながら勉強するためにオークランド(サンフランシスコ湾の東岸)にあるホプキンズ・アカデミー(大学予備校)に入学したのですが、同校生徒は片山潜をからかってcatty(ケティー 猫のようなの意味、ずるいの意味もある)[「予が名を英語にて綴れば片はケテーなり」自伝]と呼んだので潜は同校生徒を殴ったこともあったようです。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む13

 1886(明治19)年メリーヴィル大学(テネシー州)予備校に入り半年間で卒業、当地で13人家族の家内労働に従事しつつ大学に通学しました。この大学は黒人と貧白人のために設立された大学でしたが、大学の教授・学生らが黒人に不公平な取り扱いをしていること、学科の程度も高くなく、労働の機会も少ないので、アイオワ大学(のちグリンネル大学と改名 アイオワ州)に移ろうと考え、友人大久保利武からもらった5ドルを元手に日本陶器を仕入れて売却、その金でグリンネル市に赴き、1889(明治22)年9月中旬アイオワ大学に入学、働きながら大学に通学しました。

 潜は大学で学んだことは覚えていないし、直接役立ったものはないけれども、間接的にその結果を感ずるものは第一に図書館を利用して或る特殊な問題を研究する方法と第二は討論の恩恵であると云っています。

 潜が社会問題に興味をもつようになったのはメリーヴィル大学在学中で、「クリスチャンユニオン」(宗教雑誌)に掲載されるリチャード・イリー教授の論文を読んだのがきっかけでした。彼がグリンネル大学に入学した年の暮にイリー博士は「キリスト教の社会的側面」(“Social Aspects of Christianity“)と題する著作を発表、潜はこの著作を読んで面白く感じたのです。彼が社会主義者になったのは同大学4年生時に応用経済の一部門として社会主義を一期間研究、この時参考書として読んだ月刊雑誌に掲載されていたフェルディナンド・ラッサールの伝記を読んでからでした。

Kouryuuの日々雑感―国家についての小論考―フェルディナンド・ラッサール

 

 片山 潜「日本の労働運動」を読む14

 1894(明治27)年春、片山潜は白人の友人と英国旅行にでかけました。リヴァプール港で上陸、ロンドンに赴いたのですが、6週間のロンドン滞在は潜にとって有益でした。

 この時は丁度日清戦役中で潜が輿論の熱狂の様子に驚嘆したと同時に学者の権威のすこぶる偉大なのにもまた驚いた一事は日本の海軍が支那(清国)のコースン号を撃沈した一件(「大山巌」を読む35参照)でした。「英国の諸新聞が(中略)大艦隊を差し向けて日本を懲罰すべし(中略)と其は激甚の攻撃であったが其翌日かに或る大学教授、多分ホルランドであったと思ふがロンドンタイムスに一段半程の手書を出した。之が要点は既知の日本が撃沈したのは万国公法上英国を攻撃したのではない。支那将官が英艦長の言を聞いて降参せざりし故に日本が撃沈したので英国の名誉を棄損せぬというのであった。(中略)所が驚く可し、今迄対日悪口雑言を並べたてて居ったものが一言も云わない、(中略)予は英国の輿論の訓練の能く行き届いて学者の説を尊重するに驚かざるを得なかったのである」(「自伝」)。

 潜は安下宿屋に泊ってあらゆる社会及び慈善事業其の他社会問題に関する事業を視察、イギリス労働運動の指導者トム・マンの演説を聞き、その能弁、頭脳の的確さと之を謹聴したロンドン労働者の態度に驚嘆したのです。次いでスコットランドのエヂンバラにおける欧州第一といわれる貧民窟を見学、グラスゴーでは貧民窟を廃止し貧民長屋を市設していました。また英国世界有数の工業都市マンチェスターの水道事業を我が国東京のそれと比較して感服、同年9月ボストンに上陸、英国旅行を終了しています。

エディンバラの地下世界  

 

 片山 潜「日本の労働運動」を読む15

 1894(明治27)年年秋潜はエール大学(コネチカット州)に転校、社会問題を専門に研究、卒業論文は「欧米の都市問題」で大学卒業後、1895(明治28)年5月~9月までノースフィールドホテルで働いて帰国の旅費を稼ぎました。紐育(ニューヨーク)で一緒に帰国する約束の杉田金之助(エール大学に留学)と市中を見学、杉田は米国土産に女郎(淫売婦)買いを経験してみたいと云いだしました。潜は吉原で女郎買いをしたことはあり、米国で女郎の研究をしたことがあるが、女郎買いの経験はなく、結局彼等は紐育を去ってワシントンのスミソニアン博物館を見学すると、梅毒の発達経過を示したワック(ス)人形(蝋人形)を展示しているのを見て、杉田は怖じ気づき、女郎買いを断念しました。

 同年10月タコマ(ワシントン州)から貨物船(後部甲板に仮寝床を急造)に乗って帰国の途についたのですが、出航8日目に船が故障して動かなくなり70余日漂流、偶然出会った石炭船に引かれて再びタコマにもどり、数日後ヴィクトリア号で18日かかって1896(明治29)年正月無事横浜に到着しました。

 潜は郷里に帰って老父(1892年母死去)や旧友に会い再び上京、牧師とか伝道師として就職を希望しましたが、同志社の勢力がつよく組合教会では働けません。早稲田専門学校の英語教師も半年で解雇され、組合派の宣教師長であったグリーン博士が月に25円呉れることになったので、1897(明治30)年東京の神田三崎町に家を借りて「キングスレー館」という看板を掲げ、セツルメント(settlement 宗教団体などが都市の零細民地区に宿泊所・託児所などの設備を開設、彼等の生活向上のための援助をする)事業を始め、幼稚園、小僧夜学校、市民夜学校などを開催しました。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(64)片山潜と高野房太郎  

 同年真夏米国帰りの3人、即ち高野房太郎・澤田半之助・城常太郎が神田の青年会館で労働問題演説会を開き、その演説会には片山潜も頼まれて演説しました。潜は労働問題の専門家ではありませんでしたが、演説会には何時でもきまって出席演説したので、とうとう労働問題の専門家となったのです。

 同年7月5日労働組合期成会が結成され、同年8月1日の月次会で潜は同会幹事に選出されたことは既に述べた通りです。

 独身では事業をやるのに世間の信用がないといわれ、岩崎清七の世話で39歳の片山潜は栃木県出身の横塚七郎兵衛の次女フデ(明治10年7月4日生)と同年11月8日結婚しました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む16

 1898(明治31)年2月2日日本鉄道会社(「雄気堂々」を読む18参照)の機関方(機関手)はひそかに「我党待遇期成大同盟会」秘密出版物(石田六次郎起草といわれる)を日本鉄道各駅機関方に配布しました(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」2 東大出版会)。「前略会社は尚爰に見るなく益々我等を冷遇す、」(「本書」①)で始まる檄文は大要次のように述べています。

 「日清戦争時の軍隊輸送で軍隊輸送責任者は准軍人とみなし、機関方、火夫、駅長、助役らは予備役を免除された。然るに関係駅長、助役らは賞金勲章褒状をもらったのに、機関方、火夫には何の報酬もない。「某駅長は曰く、機関方は馬なり、我々駅長が叱咤の下に業務を全ふせば可なりと。」

(1)運動の手始めとして明治三十一年二月十五日まで機関方火夫一同臨時上給(賃上げ)のことを、この書翰一覧の上必ず弐銭郵券を奮発し、課長宛に匿名で何百通を限らず東西南北より上願する事。

(2)機関方を機関手に、火夫を乗組機関生に、掃除夫を機関生とする事

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(76)期成会の東北遊説   

 

 片山 潜「日本の労働運動」を読む17 

 日本鉄道会社は課長を東北に派遣調査の結果、尻内(当時 青森県三戸郡上長苗代村大字尻内 現在 八戸市尻内町)勤務機関方石田六次郎・青森勤務機関方池田元八を首謀者と認め、同年2月21日までに上記両氏を含めた10名(石田六次郎を含む5名はキリスト教徒)を解雇しました。

けやきのブログⅡ-バックナンバーー2011年9月5日 日本鉄道会社/東北・高崎線敷設

 これに対して同月24日から25日にかけ、尻内の機関方は電報で「シリ(尻内)アオ(青森)ミナヤメタ」と各地の機関方へ打電、一ノ関機関方も「ウナ(至急電報)キカンコミナヤメ」と盛岡の機関方へ知らせ、1898(明治31)年2月26日早朝から上野―青森間の列車は機関方400余名の同盟罷工によりほとんど止まってしまったのです。28日までに機関方陳情委員が上京、2月28日より3月6日まで会社側と交渉、3月6日会社側は要求を受諾、3月29日要求はすべて実行されたので、4月5日待遇期成同盟会は解散、新たに「日鉄矯正会」が結成されました(「本書」①・労働運動史料委員会「前掲書」)。

 同年3月東京の印刷職工7人は百人余の会員を集めて懇話会を結成しましたが、彼等7人は4月5日解雇され、同盟罷工も敗れて懇話会は消滅しました。しかし江沢三郎らは岸上克己ら12人の同志を集め、同年8月4日活版工同志懇話会第1回創立委員会を開催、翌年11月3日活版工同志懇話会を改組、活版工組合を結成しました。会長には秀英舎長佐久間貞一の親友であった島田三郎を推戴、会報主任に岸上克己、名誉員に片山 潜、高野房太郎らが推選されていることからもわかるように、活版工組合は労働組合期成会の援助により誕生した組合でした。

 同組合は規約第3条で「本組合は印刷営業組合と提携して相互の福利便益を期すものとす。」と労使協調主義を掲げていますが、同規約第59条では「本組合員を雇用する工場の労働時間は一日十時間とし、三十分間の休憩時間を受るものとす。」と規定し、当時11~12時間労働が普通だった労働条件の向上を勝ち取ろうとしていた点が注目されます。さらに同規約第60条では夜業は2割増を規定しています。これらの規約により活版工は安心して組合に加入しました。また規約第15~18、20、22条で共済制度も実施されたのです(「本書」①)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む18

 1898(明治31)年春、高野房太郎は満29歳で貸席兼料理店「柳屋」経営の横溝新兵衛長女で16歳のキクと結婚、同年11月29日彼は一時労働組合期成会常任幹事および鉄工組合常任委員(無報酬)をやめて、12月22日「横浜鉄工共栄合資会社」という鉄工組合第3支部を対象とする「共働店」(生活協同組合)を開業しました。翌年6月25日

高野房太郎は元のポスト復帰(有給)、鉄工組合本部(日本橋区本石町)に引っ越し、片山潜と2人で本部常任役員を勤務することになりました。

 ところが房太郎が本部常任役員に復帰したころから、鉄工組合の財政は急速に悪化の一途をたどっていたのです。組合費納入人員が停滞状態であるのに、組合は本部事務所をもち、2人の有給常任役員を抱え、加えて共済給付金が増大、組合が対策として組合費・共済給付を削減すると、組合費納入者は一時増加しましたが、やがて減少していきました。

 その主な理由の一つは鉄工組合員の多数を占めていた東京砲兵工廠や日鉄大宮工場(鉄工組合第二支部)が1899(明治32)年以降組合活動家のみせしめ解雇を強行したからです。

 つづいて1900(明治33)年3月10日治安警察法(「大山巌」を読む48参照)が公布され(内閣官報局「法令全書」第三十三巻ノ二 原書房)、政治結社、集会、示威運動の規制の外、労働運動・農民運動などの取り締まりも規定していました。

 同法には労働組合結成や同盟罷工を禁止する条項はありませんが、とくに問題とされるのは次のような第十七条の規定です。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(83)本部常任に復帰―(90)治安警察法公布   

 

 片山 潜「日本の労働運動」を読む19

 治安警察法第十七条二項の「同盟解雇」とは使用者が同盟して労働者を解雇し、または労働に従事する申込を拒絶すること(「日本国語大辞典小学館)で、「同盟罷業」とは労働者のストライキを意味する語句です。 この条項は形式的には労使双方を取り締まることになっていますが、実際の目的は労働者の争議を取り締まることで、労働者が同盟罷業を起こす目的で「他人ヲ誘惑若(もしく)ハ煽動」することを禁止するとは事実上同盟罷業を禁止することと同じことであり、同条項に違反した場合には同法第三十条により厳しい刑罰が課せられました。

 治安警察法の制定はすでに始まっていた労働運動の進め方に関する片山潜と高野房太郎の対立を顕在化させていったのです。治安警察法公布直後の「労働世界」(労働運動史料刊行委員会)第57号に掲載された論文「労働運動の前途」(「労働運動史料刊行委員会」)において、片山潜は「今や治安警察法制定と供(共)に既に開始した労働運動も其方針を一転して政事運動として決行せざる可からざる気運に至れり」とし、ストライキを「同盟罷工を起して工業に障碍を来すが如き児戯に類する運動」と軽視、其運動の順序は、第五 労働者独立政党を組織して平和の下に政事運動を為す事 第六 政事運動の第一着として普通撰挙を得るに極力先鋒を向くる事」などを主張しました。

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 これに対して高野房太郎はこのころすでに普通選挙(期成)同盟会(1899樽井藤吉ら東京で結成 松尾尊兊「大正デモクラシーの研究」青木書店)に参加していましたが、「労働世界」第60号(1900年5月1日)、第61号において論文「職工組合に就て」を発表、治安警察法を制定した支配者に反省を求めるとともに、片山潜の主張を直接反論することはしませんでしたが、政党運動に問題打開の途をもとめる人々にも反省を求め、労働組合主義を堅持することを主張したのでした。

 その後鉄工組合は事実上壊滅状態となり、1900(明治33)年8月高野房太郎は労働運動から離脱、城常太郎とともに中国天津で商店を開くため渡航、1904(明治37)年青島のドイツ人病院で死去しました。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(91)運動方針をめぐり対立―(92)鉄工組合の壊滅 7 終章―(94)運動からの離脱―(96)青島に死す   

 

 片山 潜「日本の労働運動」を読む20

 1901(明治34)年4月日鉄矯正会は前記「労働世界」の要請に応じ、「本会は社会主義を標榜となし諸労働問題を解釈すること、其の第一の方法として普通選挙同盟会に加入すること」(「労働世界」77号)を決議し、社会主義政党が組織されるならば、これに組織的に加入することを表明しました。後述する同年5月社会民主党の結成は上述のような日鉄矯正会の動向を反映したものですが、このような同会の動向に対し警察当局ならびに日本鉄道会社は警戒と圧力を加えたのです。

 同年10月東北地方で天皇親臨の陸軍大演習が挙行され、天皇は御召列車に乗って演習地に向かいました。御召列車の前には一駅の間隔で統監列車が走ることになっており、統監列車が仙台駅を出発、小牛田(こごた)駅から瀬峰駅に到着寸前機関車が故障して動かなくなりました。小牛田駅に到着した御召列車を汽車課長は統監列車が瀬峰駅に到着したものと思い込んで御召列車に発車を命令したため、御召列車は統監列車に追突寸前で急停車しました。   

 御召列車は急停車の際激動、天皇は驚いて窓から首をだして外をのぞいたそうです。

 この統監列車故障の責任が問題となり、事件の前日日鉄矯正会所属の機関手が統監列車の機関車故障を申し出たにもかかわらず、会社の担当者はこれを無視、事件後これが矯正会員が計画的にたくらんだ陰謀であるかのごとく宣伝、同年11月25日日鉄矯正会福島支部は福島警察署の命令により解散させられました[労働運動史料委員会「前掲書」1・木下尚江「日本鉄道会社」(「毎日新聞」明治34年11月30日~12月4日号)木下尚江全集第 14巻 教文館]。

 活版工組合においても、営業組合の中に活版工組合の勢力拡大をおそれるものが多くなり、夜業2割増の約束も営業組合責任者の交代で空文化、1900(明治33)年5月10日活版工組合は規約の運用を停止して、事実上解散の状態となってしまいました。