木下尚江「田中正造の生涯」を読む11~20

木下尚江「田中正造の生涯」を読む11

 栃木県においても国会開設運動を中心とする自由民権運動は盛り上がりをみせていました。1880(明治13)年3月10日嚶鳴社の沼間守一(ぬまもりかず)・青木匡・西村玄道3名は足利町の友人にまねかれて演説会に出席し、佐野町春日岡においても演説、これをきっかけにして足利に第十九嚶鳴社、佐野町にも第二〇嚶鳴社が設立され、3月20日第二〇嚶鳴社は毎月社員を東京から招いて演説会を開くとともに、「栃木新聞」に会員募集の広告を出しました。

Weblio辞書―検索―沼間守一(ぬまもりかず)

 同年8月上旬田中正造ら6名の連名による「栃木県下同志諸君に告ぐる書」が「栃木新聞」に発表され、「進んで輿論を翼賛して国会開設を天皇陛下に請願し、退ては民権を回復し自由を拡張し全国公衆と共に国民本分の義務を尽」そうではないか、との呼びかけが行われました(「全集」①九六)。同年8月23日安蘇結合会第1回会合が佐野町春日岡惣宗寺で開催、正造は会長に選出されましたが、同年10月3日同会は中節社と改称、正造は同月4日国会開設建白書起草委員となりました(四 安蘇結合会日誌「論稿」一「全集」①)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―3 春日岡山惣宗寺

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む12

 1881(明治14)年7月26日「東京横浜毎日新聞」(嚶鳴社系民権派新聞)社説「関西貿易商会ノ近状」で北海道開拓使官有物払下げ事件が暴露されて以来、各新聞はこぞってこの問題を取り上げ、自由民権運動はかつてない盛り上がりを見せたのです。

 同年10月1日開催予定の国会期成同盟大会を前に、同年9月23日遊説のため上京した板垣退助を迎えて新聞・雑誌社が上野精養軒で各派懇談会を開き、ここでは地方と府下を一貫した大政党の結成を主張するものが多く、発起人が政党組織の案を起草し、全国に呼び掛けることを決定しました(大久保利謙「明治十四年の政変」明治史料研究連絡会編「明治政権の確立過程」明治史研究叢書1 御茶の水書房)。

 しかるに翌9月24日板垣退助中島信行・山際七司・林包明ら30余名は向島八百松楼で会合、政党組織について討議しましたが、これは愛国社系の政社を中心とするもので、嚶鳴社らの府下新聞・雑誌社などは呼ばれていませんでした。同年10月1日に開会した国会期成同盟自由党準備会と国会期成同盟は同主義であるからこれを合体して一つの政党をつくることを決定、翌10月2日自由党組織原案起草委員5名を選出しました(由井正臣「前掲書」)。

 このような民権派の動きに応じて同年10月12日政府は北海道開拓使官有物払下げ中止、参議大隈重信罷免を発表するとともに、明治23年を期して国会を開設するとの詔書が発せられました(「伊藤博文伝」・「大山巌」を読む19参照)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―おー大隈重信

 同年10月18日浅草井生村楼(いぶむらろう)で土佐の立志社を中心に自由党結成会議が開会しましたが、沼間守一ら嚶鳴社系の人物は参加していませんでした(「涌井藤七への書翰」本書)。正造は統一政党の結成をあきらめてはいませんでしたが、1882(明治15)年4月16日大隈重信を総理とする立憲改進党が結党されると、正造は同年村落名望家とともに同党に入党しました(「回想断片」「全集」①)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む13

 1883(明治16)年栃木県令藤川為親は福島事件の原因の一つとなった会津三方道路(会津地方から新潟県山形県・栃木県に通じる県道)の一つを引き継ぎ、栃木県側の塩谷郡横川村から塩原村経由で陸羽街道(明治6年奥州街道を改称)親園村に至る道路開鑿を計画、その費用55,565円余の地方税を3年分割で支出するという案を県会に提出しました。

 県令提案は県会で廃案となりましたが、内務卿の命令で県令原案が執行となり、さらに同年10月30日福島県三島通庸が栃木県令を兼任すると、土木工事はさらに拡大されました。

 三島は着任すると県庁を栃木町から宇都宮に移転するとともに、1884(明治17)年陸羽街道を氏家宿以北は旧街道に沿って新たに開通させ、以南は改修するための土木費105,073円余を県会に提案してきました。県会は紛糾の末道路橋梁費105,090円を可決すると、県令はさらに沿道各戸に数十日間の無賃労役を課し、欠席するときは代人料1日25銭を納入させるというものでした(由井正臣「前掲書」)。

 やがて同年8月乙女村事件が起こりました。これは労役民の遅参を怒り、監督巡査が反抗した乙女村民衆73名を逮捕、小山(おやま)警察分署にて暴行を加えたという事件です(三四 「三島県令土木事件」「論稿」一「全集」①)。

 正造は事件現場にかけつけ調査、上京して島田三郎らの紹介で宮内卿土方久元・内務卿山県有朋三島通庸の圧政を訴えました(「昔話」「全集」①)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―しー島田三郎―みー三島通庸

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む14

 ところが同年9月23日加波山事件(「大山巌」を読む23参照)が起こりました。この事件は福島事件で弾圧され三島通庸に報復しようとする河野広躰(ひろみ)らのグループと栃木自由党員鯉沼九八郎らのグループらが茨城県加波山で武装蜂起、警官隊の攻撃で壊滅したという事件ですが、三島県令は田中正造加波山事件容疑者として逮捕、正造は佐野警察署に79日間拘留され、不起訴処分となって釈放されました(三五「佐野警察署への請書」「論稿」一「全集」①)。

 同年10月29日自由党は解党(「自由党史」下 岩波文庫)、12月17日大隈重信・河野敏鎌らが立憲改進党を脱党(指原安三「明治政史」明治文化全集 第9~10巻 正史編 日本評論社)するなど自由民権運動は衰退し敗北していくのです。

 1889(明治22)年2月11日の大日本帝国憲法発布(「大山巌」を読む27参照)式典に田中正造は栃木県会議長として出席(「回想断片」「全集」①)、明治憲法への期待を表明しています。しかし伊藤博文が同年2月15日府県会議長を招待して行った憲法講話で伊藤が展開した超然内閣(政党内閣の否定・「大山巌」を読む27参照)の主張に対して正造は論評しませんでした。正造は政党内閣制を理想としていたからでしょう。

 国会開設の時期が迫ってくると、政党再編を目指す動きが活発となりました。1889(明治22)年5月26日正造は立憲改進党勢力を拡張するために、佐野で明治倶楽部の発会式を挙行(「全集」⑭№一六七)、安蘇・梁田・足利の3郡に組織の根をおろすことを目的としたもので、同年問題となった大隈重信外相条約改正案(「大山巌」を読む28参照)をめぐる政争の中で、栃木県下の明治倶楽部を中心とする改進党勢力は大隈条約改正案断行を主張する建白運動を展開しました(四三「外交条約改正の決行を請うの建白」「論稿」一「全集」①)。

 1890(明治23)年7月1日第1回総選挙が実施され(衆議院参議院編「議会制度七十年史(政党会派編)」大蔵省印刷局)、田中正造立憲改進党候補として、栃木3区(安蘇・足利・梁田郡)から衆議院議員に当選しました(「全集」⑭№二一五・二二〇)。

 当時の新聞の報道するところによれば、田中正造は垢じみた紋服を着て、乱れた髪を整えもせず、演壇で怒声を張り上げ、大臣や吏党(現在の政府与党に相当)議員を批判、「栃鎮」(とちちん 栃木鎮台の略)とか「田正」(たなしょう)というニックネームがついていました。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む15

  足尾銅山は1610(慶長15)年発見され、江戸幕府直轄の鉱山として、産銅は日光山用銅や江戸城増築の際の屋根瓦などに利用、また長崎貿易における輸出品としても重要な役割を果たしました、しかし幕末には衰退して廃山寸前の状態でした。同銅山は1873(明治6)年民間経営に移行しましたが、経営は不振がつづきました(「栃木県史」通史編8 栃木県)。

 古河市兵衛は1832(天保3)年京都岡崎のうまれで、幼名は木村巳之助、家は貧乏な豆腐屋で、18歳のとき母方の叔父の世話で盛岡に赴き、南部藩御用商人の店で働きましたが店は倒産、叔父の世話で1858(安政5)年京都の豪商小野組番頭古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛と改名しました(五日会編「古河市兵衛翁伝」近代日本企業家伝叢書3 大空社)。養父とともに生糸の買い付けに従事、一時成功しましたが、1874(明治7)年10月22日大蔵省は小野・島田・三井の各組に対して、公金預かり高に対する抵当増額を定め、このため小野・島田両組は倒産、大蔵省より事前通告をうけ、これに対する内密の工作をした三井組は生き延びることができたのです(大江志乃夫「日本の産業革命岩波書店)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ふー古河市兵衛

 このとき小野組に多額の貸し付けを行っていた第一国立銀行は大打撃をうけましたが、古河市兵衛は自らの財産を抵当として差し出し、第一国立銀行は危機を回避できました。渋沢栄一はこの恩義に報いて古河市兵衛に融資を強化、古河市兵衛の大きな後ろ盾となったのです(「雄気堂々」を読む15参照)。

 市兵衛はすでに1875(明治8)年古河本店(後の古河機械金属株式会社)を創業、鉱山経営にのりだしていましたが1876(明治9)年12月30日足尾銅山の買い取り名義人として相馬家(旧相馬藩主)を立て、資金は相馬家が半額出資、自身は相馬家家令(家務の管理人)であった志賀直道(志賀直哉の祖父)の共同経営(1886志賀直道経営から離脱)とし、1880(明治13)年渋沢栄一も出資(1888渋沢栄一経営離脱)に加わりました。

 足尾銅山古河市兵衛の経営後も不振がつづきましたが、1881(明治14)年銅の大鉱脈を発見、以後つづいて大鉱脈を掘り当て、銅生産高は急上昇しました。

 1888(明治21)年フランスを中心とする国際的銅シンジケート(販売・購買企業連合)の代理者ジャーデン・マジソン商会との古河産銅全額買い取り契約が成立、しかるに翌年3月同シンジケートが崩壊した結果、銅価格は暴落、古河は巨額の利益を手にいれました(「古河市兵衛翁伝」)。しかし他方同じころ足尾銅山鉱毒問題が顕在化して大きな社会問題を引き起こすようになっていたのです。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む16

 1890(明治23)年ころ、足尾銅山鉱毒で渡良瀬(わたらせ)川の魚類が多数死滅し問題となり始めていました(「郵便報知新聞」)が、同年8月渡良瀬川沿岸は大洪水に見舞われ、その田畑被害は、以前のそれとはまったく違っていました。昔洪水は上流の腐葉土を運んできてくれたので、農民は同川沿岸の土を自分の田畑にはこんで肥料としたものでしたが、同年の洪水により、稲は冠水しただけで穂が出ず、桑木は80~90%枯れてまうという状態となったのです(「過日来御約束の被害土壌調査致候処、悉く銅の化合物を含有致し、被害の原因全く銅の化合物にあるが如く候。」(渡良瀬川沿岸青年有志の依頼による農科大学教授古在由直の回答 6月1日付<明治23年>・「足利郡吾妻村々長亀田佐平より栃木県知事への上申書」明治23年12月18日付 本書)。

 1891(明治24)年11月26日開会の第2議会で田中正造ははじめて政府に質問書を提出しましたが、その最初が「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」(同年12月18日付)でした(「本書」)。

山とスキー・歴史と文化―国内の歴史と文化(一覧表)―D12 足尾銅山―日本鉱工業の光と陰

 この質問演説で、正造は足尾鉱毒問題を放置する監督官庁の怠慢を指摘するとともに、当時の松方正義内閣(第1次)の農商務大臣陸奥宗光(「大山巌」を読む34参照)の子潤吉が古河市兵衛の養子となっていることに言及し、「まさかに農商務大臣たる国家の大臣と云ふものが、斯くの如き事を以て公務を私するもので無いと云ふことは、拙者も信じて居る。乍併(しかしながら)斯くの如きことを人民が言ふ時には、何を以て之を弁解する」(「本書」)と述べ、間接的に国家権力と財界との癒着を批判しました。

 田中正造の質問演説の日、松方内閣は衆議院を解散したため、正造の質問演説に対する政府答弁はなかったのですが、のちに農商務大臣陸奥宗光は官報に要旨次のような「足尾銅山礦毒の件に関する答弁書」(「本書」)を発表しました。すなわち(1)渡良瀬川被害が足尾銅山鉱毒によるものとは断定できない、(2)被害の原因については分析試験中である、(3)鉱業人は鉱物流出を防止するため独米両国から「粉鉱採聚器」を買い入れて鉱物の流出防止の準備中である。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む17

 1892(明治25)年2月栃木県知事は県会議員による鉱毒仲裁委員会を組織、示談契約は同年8月から翌年にわたって栃木・群馬2県関係43町村と結ばれ、その内容は古河市兵衛が「仲裁人の取扱に任せ、徳義上示談金」の一定額を支払うのと引き換えに、被害者は「明治二十九年六月三十日迄は粉鉱採聚器実効試験中の期限とし、契約人は、何等の苦情を唱ふるを得ざるは勿論、その他行政及び司法の処分を乞ふが如き事は一切為さヾるべし」(「契約書」本書)というものでした。これによって鉱毒被害民の反対運動は一時下火となり、田中正造はこのような示談契約に賛成したわけではありませんでしたが、第4議会(明治25年11月29日―26年2月28日)から、日清戦争を経て、第8議会(明治27年12月24日―28年3月23日)まで、正造の足尾鉱毒事件についての議会発言はありません。

 1895(明治28)年3月16日栃木県下都賀郡部屋村他4村及び足利郡足利町他11村の鉱毒被害民は古河市兵衛との間に賠償金による永久示談契約を締結(「全集」⑭№四三四・四三五)しました。田中正造は翌年3月25日第9議会において「足尾銅山鉱毒に関する質問書」を提出、永久示談の不当を追及しています(「全集」⑦№106)。

 しかるに1896(明治29)年7月21日、8月17日、9月8日の3回にわたって渡良瀬川に大洪水が起こり、その鉱毒被害は1府5県1市20郡2区251町村に波及、農作物や桑木は立ち枯れる光景が現出しました(島田宗三「田中正造翁余録」上 三一書房)。これは永久示談なるものが、いかにむなしく不当なものであるかを実証したのです。

 正造は大洪水以後被害調査と請願運動組織のため奔走、同年10月4日群馬県邑楽(おうら)郡渡瀬村早川田(さがわだ)(群馬県館林市下早川田)の雲龍寺に栃木・群馬両県鉱毒仮事務所を設立、同寺においてしばしば鉱毒演説、同年11月栃木・群馬両県3郡9町村鉱毒被害民は足尾銅山鉱業停止請願書を農商務大臣に提出し、同年12月23~28日栃木・群馬両県8村総代は上京、農商務省内務省・東京鉱山監督署などに陳情するに至りました。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―4 雲龍寺

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む18

 1897(明治30)年2月26日第10議会において、田中正造は「公益に有害の鉱業をを停止せざる儀に付質問書」を提出、これにつき説明演説を行いました(「本書」)。

 同年2月28日以降正造をはじめ、津田仙・島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)・谷干城三宅雪嶺らの知識人による鉱毒演説会が神田基督教青年会館をはじめとして東京の各地で開かれるようになり、注目を集めました。

港区ゆかりの人物データベースー索引 ゆかりの人物リストーつー津田仙

 3月20日には谷干城(「大山巌」を読む25参照)らが被害地を視察(「全集」⑭№五七一)、これに影響をうけて3月23日農商務大臣榎本武揚も被害地を視察しました(「年譜」「全集」別巻)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―みー三宅雪嶺

 農商務大臣榎本武揚田中正造の質問書に対する答弁書で、はじめて鉱毒の存在を認めたが、古河と被害民との示談成立を理由として処分を保留と述べるに止まりました(「政府の答弁書」明治30年3月18日 本書)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―田中正造の関係者―榎本武揚

 この間被害民は「押し出し」と呼ばれる請願行動を繰り返しています。

当時進歩党(「大山巌」を読む46参照)と提携していた第2次松方正義内閣は同年3月24日内閣に足尾銅山鉱毒調査会を設置、委員長に法制局長官神鞭(こうむち)知常が就任しました。

 同年3月29日第10議会閉会後農商務大臣榎本武揚は辞任、外相大隈重信が同大臣を兼任しました(「年譜」「全集」別巻)。

 足尾銅山鉱毒調査会はまず古河側に鉱毒防御の工事を命令、その設備が期日までに完成せず、怠慢の処置があれば鉱業を停止する、また鉱毒被害地は地租条例第20条の一般災害地なみの免租を適用することを決定、同年5月27日東京鉱山監督署長は古河市兵衛に対して、坑内排水の沈澱池、鍰(からみ 鉱石を熔錬する際に生ずる滓)・捨石・泥渣などの堆積所の整備、脱硫塔、烟道及び大煙突の建設などを義務付け、各工事を完成期限までに完了するよう37項目について明示(「古河市兵衛翁伝」)、古河側は同年11月22日命令通りこの工事を完成させ、鉱業停止には至りませんでした。しかし脱硫塔は機能せず、沈澱池も不充分なもので、鉱毒が依然として垂れ流しの状態であることはのちに明らかとなっていったのです。また地租免租処分の結果、被害民は選挙権その他公民権を失うものが続出しました(「栃木県史」通史編8・荒畑寒村「谷中村滅亡史」岩波文庫)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む19

 1897(明治30)年5月27日鉱毒防御工事命令がでると、これに期待した前記知識人らの支援活動は次第に不活発となり、新聞報道も少なくなっていきました。正造は1898(明治31)年1月2日進歩党首大隈重信を大磯に訪問、鉱毒問題について激論を交わしました(「田中正造日記」明治31年1月2日条「全集」⑩)。

 同年3月15日第5回臨時総選挙で田中正造衆議院議員進歩党所属)に当選しましたが、5月19日開会の第12議会で自由・進歩の両党は提携して6月10日地租増徴案を否決、衆議院は解散、同月22日自由・進歩両党は合同して憲政党を結成、その結果第3次伊藤博文内閣は倒壊、6月30日大隈重信内閣が憲政党を基礎とし我が国最初の政党内閣として成立しました(「大山巌」を読む46参照)。

 しかるに同年9月6日渡良瀬川大洪水で打撃をうけた被災地では、免租処分によって発生した公民権喪失による町村自治崩壊の救済を求めて、9月26日雲龍寺を出発した被害民約1万人のうち2500名は警察官の警戒網をくぐりぬけて東京府南足立郡淵江村保木間氷川神社に到達しました(「田中正造日記」明治31年9月27日 本書)。

猫のあしあとー猫の足あと―足立区の神社―足立区西保木間・足立区保木間の神社―保木間氷川神社―田中正造と保木間の誓い

 これを迎えた田中正造は被害民に代表を選んで他は帰郷することを勧め、彼らに以下の約束をしました。それは(1)被害民代表とともに政府に被害の惨状を十分に説明する、(2)現政府は憲政党内閣で吾々の政府であるから信用して、不充分な点があれば助けざるを得ない、(3)もし政府が正造と被害民の代表の説明を聞き入れないならば、議会でその責任を問い、社会にその不法を訴える(島田宗三「前掲書」)。

 かくして被害民の代表50名は上京して内務大臣板垣退助・農商務大臣大石正巳に面会を申し入れましたが、板垣内相は面会を拒絶、大石農商務相は3度目にようやく面会を許諾しました(「田中正造日記」明治31年9月29日~10月1日 本書)。

 正造が吾々の政府として期待した憲政党内閣は被害民の期待に応えず、4箇月で倒壊、憲政党は旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂しました(「大山巌」を読む47参照)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む20

 1895(明治28)年以来田中正造は胃カタルを起こしてしばしば病床に伏すようになっていましたが、1899(明治32)年秋より正造の関与で同年12月22日鉱毒議会が結成され、栃木・群馬4郡19箇村1070余名で構成されていました。この組織を背景に1900(明治33)年2月9日第14議会において正造は「足尾銅山鉱毒問題の請願に関する質問書」を提出、説明演説しました(「本書」)。

 同年2月13日未明雲龍寺の鐘を合図に被害民は鉱毒悲歌を歌いながら出発、彼らは渡良瀬川を渡り、館林を通過、利根川河畔の川俣に到着しました。

 このとき待ち受けた警官隊・憲兵は永島与八ら15名を逮捕、被害民は解散させられ、さらに後の捜索によるものを合わせると被逮捕者は100余名に上りました(川俣事件「栃木県史」通史編8)。

宮代NOW(GOOな情報)-バックナンバーー2011年05月22日―川俣事件(群馬県明和町)

 同年2月14日正造は同議会において「院議を無視し被害民を毒殺し其請願者を撲殺する儀に付質問書」など2件の質問書を提出、川俣事件を追及(「本書」)、同月15日「政府自ら多年憲法を破毀し、曩(さき)には毒を以てし今は官吏を以てし、以て人民を殺傷せし儀に付質問書」を提出、説明演説中、憲政本党脱党を宣言(「本書」)、2月17日には「亡国に至るを知らざれば之れすなわち亡国の儀に付質問」を提出、説明演説(「本書)、しかしこれに対する政府答弁は「質問の旨趣要領を得ず、依て答弁せず。右及答弁候也」(「政府の答弁書」明治33年2月21日 内閣総理大臣 侯爵 山県有朋 本書)というものでした。

 このような状況の中で島田三郎経営の「毎日新聞」は事件直後記者木下尚江を現地に派遣して報道、苦境にあった田中正造を励ましたのです。このころ正造は毎日新聞社にはじめて木下尚江を訪問、謝辞を述べています。同新聞に連載されたこの記事は後に増補して「足尾鉱毒問題」と題して同社から発行されました(「木下尚江全集」第1巻 教文館)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―田中正造の関係者―木下尚江