木下尚江「田中正造の生涯」を読む1~10

木下尚江「田中正造の生涯」を読む1

 田中正造は幕府老中水野忠邦天保の改革を開始した1841(天保12)年11月3日下野国安蘇(あそ)郡小中(こなか)村(栃木県佐野市小中町)で、父富蔵(25歳)、母サキ(22歳)の長男として生まれ、幼名は兼三郎といいました(年譜「田中正造全集」別巻 岩波書店 以下「全集」と略)。

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 兼三郎の家は代々小中村六角(ろっかく)家知行所の名主を勤めていました。「正造も四代目の名主の家に生まれたるものヽ、家は村中でヤット中等の財産に過ぎず。」(「回想断片」全集 第1巻 以下①と略)と正造は後に回想しています。

  兼三郎の祖父正造(兼三郎はのちに祖父の名を継ぐ)は激しい気性の人であったらしく、大酒のため35歳で早く死去したため、田中家では男子30歳を越すまでは酒盃を口にしないという家憲がたてられたそうです(木下尚江「田中正造の生涯」伝記叢書83 大空社 以下「本書」と略)。

 兼三郎の父富造(富蔵)は温厚な性格で教育熱心な人物だったようです。兼三郎は7歳ころ赤尾小四郎(鷺洲)に入門しましたが、赤尾鷺洲は「生徒に教うるに厳なり。先ず四書五経唐詩選古文等に至り生徒独り無点本(返り点や送り仮名のない漢籍など)を読むに至るものにあらざれば講議を為さず」という教育方針をとったので「兼三郎の学未だ無点本を独り読むに至らずして少しも講議を授けずして師は死したりき。」(「回想断片」全集①)という結果に終わりました。これは1856(安政3)年で、兼三郎16歳のときのことです。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む2

 領主六角越前守は江戸幕府高家(幕府の儀式・典礼を司る家柄)衆で、下野国に小中村以下7箇村と武蔵国2箇村をあわせて2000石を領有していました(近代「足利市史」第1巻 通史編 足利市)。六角家は京都の烏丸大納言光広の次男木工権頭広賢が1647(正保4)年に輪王寺宮守澄法親王日光山門跡として関東下向の時、江戸に随行して六角家を称したのがその始まりとされています(「寛政重修諸家譜」巻第1401 続群書類従完成会)。

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 小中村は相給(あいきゅう 複数の大名・旗本によって1村が分割支配されている村)の村で、石高1438石余の中、旗本六角家が1012石余、旗本佐野家が409石余、浄蓮寺が16石余を領有、佐野領では名主石井郡造、六角領では田中正造・篠崎茂左衛門が村政を担当していたのです(由井正臣「田中正造岩波新書)。当時武家財政は火の車で、領主六角家も破産寸前の状態でしたが、富造は六角家の用人坂田伴右衛門とともに財政整理に努め、やがて負債償却を実現、5000余両の剰余金を生むことに成功しました。  

 この功績で1857(安政4)年富造は割元(村々名主等の総取締役)に昇進、苗字帯刀を許され、兼三郎は小中村六角家知行所名主に選ばれました(正誤「全集」①p86)。

 近くに足利(あしかが)・桐生(きりう)の絹織物や真岡(もうか)の綿織物など有名な織物生産地があり、米麦生産を中心とした小中村では商品作物(染料)として藍玉(「雄気堂々」を読む2参照)生産がさかんになりつつありました。兼三郎は藍玉商に力を入れ、3年で300両の大金を手にしたのでした(「田中正造昔話」以下「昔話」と略「全集」①)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む3

 六角領では割元役は1年交替の各村持ち回りの慣例があり、1857(安政4)年田中兼三郎の父富蔵が割元に任命されたことは、従来の慣例を無視したものでした。またこの申し渡しの際平百姓で村役人になれない小前(こまえ)身分の平塚承貞(大久保村医師)が村役人席についたことおよび村々出金の当座御仕舞金を年度途中までに上納することも申し渡されました。

 こうした従来の慣例無視に小前農民は富蔵割元昇進は認めるが、足利郡の今福・田島・助戸・山川4箇村は従来の慣例通り割元を年番で選出するとして六角家に訴願を提出したのです(由井正臣「前掲書」)。

 1862(文久2)年朝廷は島津久光の建議により勅使大原重徳を江戸に下向させて勅旨を伝え、将軍家茂は幕政改革のため松平慶永政事総裁職に、一橋慶喜将軍後見職に任命しました。この新政の一つとして山陵修復が行われ、幕府は宇都宮城主家老戸田忠至(大和守)を山陵奉行に任命(「維新史料綱要」巻4 文久2年10月22日条)、新たに指定された神武天皇陵(畝傍山山陵)の祭典が実施されました。

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 このとき六角越前守は高家として将軍代拝のため大和に赴き、割元富蔵は会計掛として六角越前守に随行したのです(「昔話」「全集」①)。父富蔵が畿内滞在の間田中兼三郎が割元職を代行しました(「回想断片」「全集」①)。

 1862(文久2)年六角家筆頭用人坂田伴右衛門死去により、後任として林三郎兵衛が用人を受け継ぐことになりました。同年林三郎兵衛の主家江戸屋敷普請案は田中富蔵・兼三郎父子の反対によって失敗しましたが、林は翌年上記事情による富蔵不在時に再び江戸屋敷普請計画実現をはかって、村々に2000両の先納金を課してきたのです。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む4

 1863(文久3)年田中兼三郎(同年 大沢清三郎次女 カツと結婚)は領主に上書を提出して林三郎兵衛を糾弾(「昔話」「全集」①)、これに対して林らは兼三郎の名主休役を命じたのでした。1864(元治1)年には領主在京につき、領分村々へ高100石につき3両の割合で御用金を賦課、平塚承貞居住の大久保村のみ例外とする村々分断策がとられました。

 これに対して1867(慶応3)年4月小中・山川・助戸・田島・今福・稲岡の6箇村は別家六角録三郎を通じて平塚承貞罷免を要求するとともに、、林・平塚らの悪業を8箇条に列挙、関係者を召喚して調査を要請する嘆願書を提出、この嘆願書とは別に六角家親族による本家の家政の乱れを取り締まるよう訴え出ました。よって同年6月長沢内記・日野大学の家臣が調査を開始、11月烏丸家が長沢・日野両家に六角家家政取り締まりを依頼するに至りました。

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 しかるに同年10月14日徳川慶喜大政奉還、12月9日王政復古の大号令、翌1868(慶応4・明治1)年1月3日鳥羽伏見も戦いで徳川軍敗北、同年1月7日明治新政府慶喜征討令を発し、2月9日有栖川熾仁親王は東征大総督として江戸へ向け進軍、3月11日東山道総督府は領主に不平あるものは訴えでるよう布告(年譜「全集」別巻・「維新史料綱要」巻8 明治元年3月11日条)、4月11日新政府軍は江戸城を接収しました(「天璋院篤姫」を読む18参照)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む5

 6箇村名主総代助戸村藤吉ならびに山川村藤七郎は六角家問題を東征大総督府に訴え出ました。大総督府内に設置された教諭安民方は六角家問題を調査、同年4月13日夜林三郎兵衛・平塚承貞を逮捕、同月26日大総督府から派遣された役人が六角主税を尋問しました。

 これに対して林一派の村役人は大総督府に賄賂を贈った結果、林・平塚は投獄約1箇月で釈放されるに至ったのです。彼らは大総督府本領安堵の嘆願書を提出、同年5月六角主税は朝臣(新政府の臣下)を認められるとともに本領安堵の裁許状を下附される成功を収めました。

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 一方田中兼三郎は本家烏丸家に嘆願書を提出して、六角家の旧慣無視と不要土木工事などの収奪を列挙、林三郎兵衛の厳重処分と六角主税の引退を求めました。この嘆願書を入手した林らは兼三郎を捕えて、江戸屋敷内の牢獄に閉じ込め、入牢は約10箇月に及びました(「昔話」「全集」①)。

 その牢獄は「広さ僅かに三尺立方にして、床に穴を穿て大小の便所を兼ねしむるが如き、其窮屈さは能く言語の尽し得べき所にあらず」(「昔話」「全集」①)という状態で、はじめ兼三郎は毒殺を警戒して食事をとらず、同志がひそかに差し入れた鰹節2本を齧って飢えに堪えたそうです。

 兼三郎はかかる状況で林三郎兵衛と対決したのですが、明治新政府役人の吟味の結果、1869(明治2)年初め役人へ遺恨を含み、種々の書類を作成、上書し、領主のことまで誹謗したことは罪軽からず、よって家族ともども領内徘徊を禁じ、他領へ追放という処分が下され、兼三郎はようやく釈放されました。彼は六角家騒動の運動費としての借金1000両を田畑などを処分して少しずつ返済していきました。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む6

 田中兼三郎は出獄後、隣の堀米村の地蔵堂で村民の援助により手習塾を開き生計を立てていました。この年の5月17日戊辰戦争は終了(「維新史料綱要」巻10 明治2年5月17日条)、同年2月小中村は日光県の管轄下におかれる政府直轄地となりました。

 赤尾鷺洲塾の同門で出流山事件に参加したが斬首を免れ、新政府に出仕して府県学校取調局御用掛の職にあった織田龍三郎のすすめで、同年8月兼三郎は留学の目的で東京に赴き、このとき彼は正造と改名しました(「回想断片」「全集」①)(改名は花輪到着時とする「全集」別巻p375)。

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 しかし織田はすでに免職となり、正造は勉学どころか織田の生活を助けて苦闘中、同年12月陸中江刺県大属早川信斎が公務上京、正造の様子を見て江刺へ同行するよう勧誘しました。江刺県は同年8月朝敵仙台・南部両藩処分の結果設置され、下閉伊郡遠野町に本庁を、鹿角郡花輪町に分局を置き、栃木県横堀村出身の国府(こくぶ)義胤が大参事として在任中であったので、正造は江刺行を決心、1870(明治3)年2月20日早川とともに東京を出発しました。

 正造は3月3日江刺県役所に到着しましたが、国府大参事はすでに辞職、しかし3月19日付で附属補(下級官吏)に採用、月給8円を支給され、同月22日同県鹿角郡花輪町役所勤務となりました。赴任途中から正造は「食するものなく蕨(わらび)の根を製し食」する現地農民の窮乏生活を目撃、3月26日花輪に着任した正造の任務は救助窮民取り調べでした。同年4月7日聴訟掛兼山林掛となり(「御用雑記公私日記」本書)、「五十敲(たたき)以下の犯罪」の調査裁判、及び主として開墾許可の仕事を担当しました(「奥州花輪より故郷への書翰」本書)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む7

 花輪分局では分局長が小山少参事でその下僚として木村新八郎大属がいました。小山は下野黒羽藩(勤王藩)、木村大属は旧幕府小普請役出身でしたが、戊辰戦争で朝敵であったこの地域の旧士族は新政府へ反抗的でした。小山少参事は寸陰館(郷校信盛堂再興)に集まる士族良識派を分局の下級役職に採用して彼らとの融和をはかる策をとっておりました。

 ところが1871(明治4)年2月3日夜正造の上司であった木村新八郎大属が殺害される事件が突発したのです。同年6月10日正造は木村新八郎殺害犯人として逮捕されました(正誤p86「全集」①)。

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 正造は出張巡回中の弾正台(明治新政府の監察機関)の役人による審問をうけたのですが、その審問とは江戸時代そのままの白州(しらす 罪人を糾問する場所)での拷問をうけ、証拠としては正造の脇差に曇りがあるという程度でした。

 しかも正造にとって不利となったこととは、かれが当時リューマチを病んでおり(「昔話」「全集」①)、身の周りの世話や言葉の通じない不便のため、すでに結婚している身でありながら、地元の15歳の少女を雇い同棲していたことでした。しかもこの少女は木村新八郎殺害当夜、正造と同室していたのに、熟睡していて何も知らないと役人の審問に答えたため、正造の潔白を立証するには不利な証言となったのです。

 弾正台は審問未了のまま秋田に出発したため、正造は入獄中免職となり、花輪から江刺県獄に移され、審問が継続され拷問がつづけられました。この年の冬正造は病死した囚人の衣類をもらいうけてようやく凍死を逃れたということです。同年の廃藩置県によって江刺県は他県に併合されたため、審問は放置されました。翌1872(明治5)年正造の身柄は岩手県盛岡獄に移送され、畳のある部屋に起居して書物の差し入れも自由となりました。

 正造はこのころ、翻訳書を借りて政治・経済の学習に努め、とくにスマイルズ著(中村正直訳)「西国立志編」(明治4年刊行)を熟読(「昔話」「全集」①)、この書は彼の精神的成長におおきな影響を与えました。

 1874(明治7)年4月5日県令から木村新八郎遺子らの証言により、正造の嫌疑ははれ、無罪放免を示達されました。彼は岩手県中属西山高久宅に引き取られて療養、同年5月9日叔父に付き添われて正造は盛岡から小中村に帰着しました(「昔話」「全集」①)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む8

 1871(明治4)年7月の廃藩置県ののち、同年11月栃木県が設置され(「栃木県史」通史編6 栃木県)、1873(明治6)年小中村などは栃木県第九大区三小区という行政区域に再編されていました。

 1874(明治7)年帰郷した正造の仕事はまず残っていた六角家騒動の運動費にかかわる借金を引き続き返済することでした。獄中正造はウエリントン(1815年 ワーテルローの戦いでナポレオン軍を敗北させたイギリス軍司令官)の伝記[サミュエル・スマイルズ中村正直訳「西国立志編」第九編二十七 ウエリントン、正直にして借財を懼(おそ)るること。第十編十一 ウエリントン、ワシントン(米初代大統領)借債を懼れしこと「講談社学術文庫」527]を読み、同氏が借金を厭っていたことを深く記憶していた影響によるものでしょう。

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 正造の母サキは同年3月9日死去していたので、父庄造(明治2年富蔵改名)に後妻クマを迎え(系図附言 8正造継母クマ 「全集」別巻)、「家政の憲法」(「昔話」「全集」①)を制定して家人にこれを守るよう求めました。その内容とは家内一同借財をわすれないこと、向かう3年間は新しい家財道具を購入しないこと、日曜日には家内一同休息すること、新たな金銭出費については家内一同で相談することなどで、正造へのヨーロッパ思想の影響がよく表れていると思います。彼は家を出て隣村赤見村の造酒業「蛭子(えびす)屋」の番頭となりました。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む9

 蛭子屋の番頭をやめた正造は村に夜学を開いて青年の指導にあたるとともに、1873(明治6)年7月布告された地租改正条例により、全国に逐次実施されつつあった地租改正に関わるようになります。

 栃木県の地租改正は1875(明治8)年11月から着手、翌年から翌々年にかけて改正が実行されましたが、田畑等級や地価決定など農民の地租負担額に関わる点で、政府・県対農民の利害は鋭く対立することが多かったのです。

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 1876(明治9)年正造は自分の田畑の等級を上げ、村民不満の等級を下げて村の紛争を鎮めたと云っています。

  1877(明治10)年西南戦争が起こると正造は西郷隆盛に同情を寄せたため、区長高田一三ら村の有力者らの疑惑をうけ、夜学への子弟の出席を妨害されて夜学は解散しました(「昔話」「全集」①)。

 西南戦争の軍費調達のための不換紙幣乱発による物価騰貴を見越して正造は土地を買収、これを売却して3000余円の利益を得ると、それを資金に政治活動専念を決意しました。正造は1878(明治11)年には、すでに1874(明治7)年民撰議院設立建白書を左院に提出(「雄気堂々」を読む15参照)した板垣退助訪問を企てたり、政府に国会開設建白を図ったと回想(「昔話」「全集」①)しています。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む10

 1878(明治11)年7月三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則・内閣官報局「法令全書」明治11年 第11巻 原書房)制定、これによって大区小区制は廃止され、郡・町村が復活、民衆の地方行政参加を認める府県会の開設や戸長(江戸時代の村役人としての性格と政府の代官としての性格をあわせもつ)公選が実施されることになりました。県会議員の被選挙権は地租10円以上を収める満25歳以上の男子で、選挙権は地租5円以上を収める満20歳以上の男子に限られており、栃木県安蘇郡における被選挙権資格者は全人口の2~3%にすぎませんでした。

 1879(明治12)年3月栃木県会議員選挙に次点で落選しましたが、同年8月「栃木新聞」(「下野新聞」の前身)を再刊、正造は同新聞編集長になり、同年9月「国会を設立するは目下の急務」(二「論稿」一「全集」①)を同新聞に掲載しました。

 1880(明治13)年2月補欠選挙により正造ははじめて栃木県会議員に当選しました(「奇談慢筆」「全集」①)。

 1880(明治13)年2月22日第3回地方官(県令・府知事)会議を傍聴するため府県会議員104名は東京両国の中村楼に集合(田中正造も出席)国会開設問題を討議、同年2月24日37名が出席、その中の多くが国会開設建言(正造ら賛成)を決定、3月2日建言を元老院に提出しました(内藤正中自由民権運動の研究」歴史学研究叢書 青木書店)。 県会議員となった正造はこのようにして全国的自由民権運動に参加していったのです。時期を同じくして自由民権運動は下記のような盛り上がりを見せていました。

 同年3月15日愛国社(1875年土佐の立志社のよびかけで大阪において組織された全国的政治組織)第4回大会が大阪で開催、2府22県から代表が参加、国会期成同盟を結成、片岡健吉・河野広中を提出委員とし、国会開設請願書を提出しました(「自由党史」岩波文庫)。