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小林多喜二「蟹工船」を読む21~30

小林多喜二蟹工船」を読む21

 二時でもう夜が明けていた。絆天の袖にカガシのように手を通しながら、漁夫が段々を上がって来て、ハッチから首を出したまま、はじかれたように叫んだ。

 「あ、兎が飛んでる。-これァ大暴風(しけ)になるな。」三角波が立ってきていた。カムサッカの海に慣れている漁夫には、それがすぐ分る。「危ねえ、今日休みだべ。」

Weblio辞書―三角波

 川崎船を降ろすウインチの下で、其処、此処七、八人ずつ漁夫が固っていた。川崎船はどれもどれも半降ろしになったまま、途中で揺れていた。肩をゆすりながら海を見て、御互い云い合っている。

 「やめた、やめた!」「糞でも喰らえ、だ!」肩を押しあって、「おい引き上げるべ」と云った。雪だるまのように、漁夫達のかたまりがコブをつけて大きくなって行った。ほとんど一人も残さないで、、「糞壺」へ引きあげてきた。

 雑夫達は全部漁夫のところに連れ込まれた。一時間程するうちに、火夫と水夫も加わってきた。みな甲板に集まった。

 「要求条項」は吃り、学生、芝浦、威張んなが集ってきめた。それを皆の面前で、彼等につきつけることにした。

 監督は片手にピストルを持ったまま、代表を迎えた。船長、雑夫長、工場代表などが何か相談をしていたらしいことが分るそのままの恰好で迎えた。

 監督は落ち付いていた。入ってゆくと、「やったな。」とニヤニヤ笑った。監督は「要求条項」と三百人の「誓約書」をチラチラ見ると、「後悔ないか。」とゆっくり云った。「じゃ、聞け。いいか。明日の朝にならないうちに、色よい返事をしてやるから。」

 云うより早かった。芝浦が監督のピストルをタタキ落すと、拳骨で頬をなぐりつけた。監督がハッと思って顔を押えた瞬間、吃りが丸椅子で横なぐりに足をさらった。監督は他愛なく横倒れになった。、

 「色よい返事だ? この野郎、フザけるな! 生命にかけての問題だんだ!」

 薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見た。あわてて「糞壺」に駆け込んだ。

大日本帝国海軍 所属艦艇―駆逐艦

 「我帝国の軍艦だ、俺達国民の味方だろう。」皆は「糞壺」からドヤドヤ甲板をかけ上がった。そして声を揃えていきなり、「帝国軍艦万歳」を叫んだ。

 駆逐艦からは三艘の汽艇が出て横付けになり、タラップを上ってきた水兵は帽子の顎紐をかけ、銃の先に着剣し、漁夫や水夫を取り囲んでしまった。

 「ざま、見やがれ!」監督だった。「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そう罵倒されて、代表の9人が銃剣を擬されたまま、、駆逐艦に護送されてしまった。

 「俺達には、俺達しか、味方が無えんだな。始めて分った。」

 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹缶詰の「献上品」を作ることになっていた。

 「俺達の本当の血と汗を絞り上げて作るものだ。フン、さぞかしうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起こさねばいいさ。」皆そんな気持ちで作った。「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」

 

小林多喜二蟹工船」を読む22

 「「蟹工船」の後半を掲載した「戦旗」(当時12000部発行)1929(昭和4)年6月号は発売禁止となりましたが、前作の「一九二八年三月十五日」以上の反響を呼び起こしました。

 東京朝日新聞に掲載された「作品と批評」という評論で蔵原惟人は次のように述べています。

 「小林多喜二はその作品の根底に常に何等かの大きな社会問題を置こうとしている。(中略)由来わが国の文学にも社会的な問題をその根底に置いた作品は決して少なくない。しかし、それを客観的な芸術的形象の中に描き得た作品は、ブルジョア文学に於いてはわずかな例外(例えば藤村の『破戒』の如き)でしかなかった。(中略)小林多喜二の『蟹工船』は、その典型的な作品である。

 しかし、集団を描こうとするの余り、個人がその中に埋没してしまう危険がある。(中略)

プロレタリア作家は集団を描くために個人を全然埋没してしまってよいだろうか?」

Weblio辞書―蔵原惟人―不敬罪―宮本顕治・百合子

 この作品は、進歩的な評論家ばかりでなく、広く文壇的にも認められ、8月の読売新聞で、二九年度上半期の最高の作品として、多くの作家、評論家の推薦をうけました。

 「蟹工船」は単行本として戦旗社から日本プロレタリア作家叢書の1冊として出版発売され、発売禁止となりながらも、戦旗社の配布網を通じて短期間に15000部を売りつくしました。北海道でも札幌の維新堂と富貴堂で300部、小樽では稲穂町の丸文書店に立看板を出して発売、2~3日中に100冊も売れたほどでした。

 「蟹工船」を発表した直後、多喜二は小樽警察署に呼び出され、作品中献上品の缶詰に「石ころでも入れておけ!」という文章(「蟹工船」を読む21参照)について取調べを受け、翌年彼は治安維持法で逮捕投獄されたとき、再びこの問題で不敬罪の追起訴を受けました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む23

 多喜二は相次ぐ弾圧でほとんど壊滅した小樽の組合組織の再建に奔走しつつ、「中央公論」と契約して1929(昭和4)年7月6日中編小説「不在地主」を起稿しました。この小説は彼が身近に経験した磯野小作争議(「蟹工船」を読む10~11参照)における農民と労働者の共闘を描いた野心作でした。

 彼はこの小説のほとんど大部分のノート稿を銀行の勤務時間中に執筆、同僚の織田勝恵が彼を助けてくれました。同年9月10日彼は突然銀行の調査係から出納係に左遷されたのです。同年9月29日多喜二は「不在地主」(全集第2巻)を完成、「中央公論」編集部の雨宮庸蔵宛手紙を添えて送稿、同小説は10月19日に発売された「中央公論」11月号に発表されました。

 しかし発表された作品は著者に無断で最後の、物語の最後の舞台が農村から小樽に出て来た農場の小作人代表を加えて、労農争議共同委員会が組織され、争議が白熱化していく場面が省略されていました。

 多喜二は「中央公論」12月号に、削除された箇所を掲載してくれるよう依頼しましたが、容れられなかったので、蔵原惟人に「不在地主」原稿を送るよう「中央公論」編集者に頼み、「戦旗」に発表してもらうよう蔵原に要請、「不在地主」最後の章は「戦い」と題して「戦旗」12月号に掲載されました。

 「不在地主」の発表が直接の原因となって、多喜二は北海道拓殖銀行依願退職の形式で解雇されました。「不在地主」の原稿料は500円で、そのうち250円を母の名義で預金、残金は負債の返済や友人のために使用しました。同小説執筆を援助してくれた織田勝恵には縮緬の反物を贈ったのです。

 失職して彼は生活の不安を切実に感じましたが、そのことよりも、母を落胆させることが何よりつらかったようです。彼は銀行を解雇されたことを母に告げることができず、しばらく、毎朝いつものように背広に着換えて出勤のふりをして家を出ました。

2009/6/21NHKBSⅡ「いのちの記憶 小林多喜二」

 

小林多喜二蟹工船」を読む24

 当時北洋漁業を独占していた三菱系の日魯漁業の子会社北海製缶工場の労働者伊藤信二の助力をうけて、多喜二は1930(昭和5)年2月24日「工場細胞」(全集第3巻)を完成していました。

小樽市へようこそー検索―北海製缶小樽工場

 この作品を書きはじめたころから、彼は上京の決心を固めていましたが、その事には田口タキ(彩子)の問題もからんでいました。

 小樽の中央ホテルで働いていた田口は将来独立できる技術の習得を望んでいたのです。彼女は多喜二と相談して、東京で洋髪の学校に入学することを決め、月々の収入の中から、上京の費用を積み立てていました。

 若竹町の家には、幾春別の幸田夫妻に移住してもらって、店や母たちの面倒をみてもらうことになっていました。

 一方「一九二八年三月十五日」や「蟹工船」はソビエトで訳しはじめられており、「蟹工船」は中国で潘念之によって訳されていました。

 1930(昭和5)年3月末、多喜二は上京、田口の上京を待ちながら、中野区上町の斎藤次郎宅に下宿しました。彼の作品「工場細胞」は「改造」4~6月号に連載されました。

 田口は4月10日ころ上京、多喜二は斉藤次郎宅に近い同じ上町で部屋を借り、田口とともに生活しました。二人にとって幸せな短い一刻であったと思います。彼女は5月1日から洋髪専門の学校、代々木整容学院に入学を予定していました。

 同年5月中旬、戦旗社は戦旗防衛三千円基金募集運動を呼びかけ、さらに防衛講演を東京や関西方面に計画、江口渙、小林多喜二中野重治大宅壮一らを関西に派遣しました。講演会は京都を」はじめ大阪、山田、松阪(三重)の各地で開催されたのですが、5月23日多喜二も、他の同志とともに逮捕され、大阪島之内署に留置されました。

 これは5月20日に始まった警視庁による東京の戦旗社に対する捜索と逮捕の一環で、共産党への活動資金の援助をした学者、作家グループの検挙でした。

 多喜二は島之内署でひどい拷問をうけ、6月7日いったん釈放、4~5日後に帰京しました。田口は多喜二が関西へ旅立った後、代々木整容学院の寄宿舎に入っていました。

 しかし多喜二は6月24日再び警視庁特高に逮捕され、治安維持法違反で起訴をうけ、「蟹工船」記述内容による不敬罪の追起訴処分となったことは既述の通りです(「蟹工船」を読む22参照)。

 

小林多喜二蟹工船」を読む25

 1930(昭和5)年8月21日、多喜二は豊多摩刑務所(中野刑務所)に収容されました。

その独房はT字型の赤れんが建ての「南房」階上にあり、鉄格子のはまった高い小さな窓にすりガラスの回転窓がついていました。房は板敷で二畳の広さがあり、縁のない畳が一畳入っていて、その他日常生活に必要な最低限度の備品が備えられておりました。彼はここで63番と呼ばれていました。

なかの写真資料館―旧中野刑務所

 弟の三吾や田口などが、面会にきてくれました。田口は9月末に整容学院を卒業していましたが、頼りにしていた多喜二の思いがけない逮捕によって、様子もわからず、途方に暮れるばかりでした。獄中からの多喜二の手紙をもらっても、彼女は返事を書いていいのか迷ったようです。彼女がはじめて面会にいったのは同年10月半ばを過ぎたころでした。田口は学校を出て、そこの助手を勤め、住み込みで3円の手当をもらっていました。

 彼は田口に東京で不安定な生活をするより、小樽に帰って、若竹町の彼の自宅で母セキと一緒に暮すよう、しきりにすすめました。

 また彼はそのころ奈良に住んでいた志賀直哉(「田中正造の生涯」を読む24参照)に手紙(同年12月13日付書簡 全集第7巻)を書いています。大阪で検挙されなかったら、彼はまだ一度も会ったことのない志賀直哉を奈良に訪問する積りだったのです。

 田口は同年12月27日義父が突然死去したという知らせをうけ、小樽へ帰りました。再婚してから、田口の母は3人の幼い子供を抱えていました。妹のミツは小樽の中央ホテルで働いていましたが、義父の死によって、母と4人の弟妹たちの生活が急に田口の肩にのしかかってきたのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む26

 1931(昭和6)年1月22日午後9時半過ぎ、多喜二は豊多摩刑務所から保釈出獄しました。刑務所の門前で、弟三吾斎藤次郎壷井栄らが彼の出獄を出迎えました。

 多喜二の出獄を知ると、田口は妹のミツを連れて2月中旬小樽から上京、彼は田口に結婚の同意をもとめました。しかし彼女は意外にも彼の申し出を承諾しませんでした。

 彼女は彼を深く愛していただけでなく、、尊敬を含めた気持を持っていたのですが、思いがけない義父の死去によって、彼女が多喜二と結婚すれば、彼の生涯と仕事の上に、はかりしれない負担をかけると思ったからです。

 3月になると田口は本郷湯島に三畳の部屋を借りて妹と同居し、丸ノ内の常盤屋という料理店に勤務しました。せっかく習った洋髪の技術も、切迫した田口一家の家計を支える役には立たなかったようです。

 同年5月24日日本プロレタリア作家同盟第3回大会が築地小劇場で開催されましたが、同大会が終了してまもなく、多喜之は小樽若竹町の自宅へ帰りました。東京に家をもって、母をひきとりたいとかねて思っていたので、その打ち合わせのための帰省でした。

 帰京後の7月11日、日本プロレタリア作家同盟第1回執行委員会で、委員長江口渙、書記長に小林多喜二が選出されましたが、同月末杉並区馬橋3―375の借家に母セキ、弟三吾と住むことになりました。

 多喜二の母が上京する10日ほど以前に、田口の母も幼い子供を連れて上京していました。田口は少しでも収入を多くするために、丸ノ内の店をやめ、品川の鳥料理屋に勤め、妹も銀座のフランス料理店で働きました。田口一家7人は神田で六畳の部屋を借りて生活していたのです。多喜二はときどき訪ねてはみたのですが、田口とはほとんど会うこともできませんでした。

 作家同盟では創作の題材が限られ、類型化している傾向が指摘されていました。蔵原惟人はナップ機関誌「ナップ」9~10月号の「芸術的方法についての感想」と題する論文を谷本清の署名で発表、プロレタリア作家の作品を批評し、小林多喜二の作品について「工場細胞」などの創作が共通した問題に触れ、、作家が傍観者としてとどまることなく、現実の深い理解者となることが必要であると指摘しました。

 この蔵原の評論を原稿で読んだ多喜二は深い感銘を受け、彼は「ナップ」10月号から長編小説「転形期の人々」(全集第4巻)を連載しはじめました。

 同年9月18日満州事変(「男子の本懐」を読む37参照)が起こって軍部による中国への侵略戦争が起こされ、ファシズム勢力の台頭に対する国際的な民主的統一戦線の結成が急務となりました。

 同年10月。彼は非合法の日本共産党[「労働運動二十年」を読む24参照、1922年11月コミンテルン(「蟹工船」を読む27参照)第4回大会で日本支部として承認]に入党し、作家同盟の党グループに参加して活動するようになりました。11月初め多喜二は奈良の志賀直哉(「田中正造の生涯」を読む24参照)を訪ねました。プロレタリア作家として活躍するようになってからも、彼は志賀直哉に対して深い親しみと敬意をもちつづけ、著書を送って批評を乞うたりしていましたが、直接訪問したのはこの時がはじめてでした。

奈良学園セミナーハウス 志賀直哉旧居

 後に志賀直哉は、この日の多喜二を次のように語っています。「彼は実に暢気に話をして行ったよ。あの人は何も道楽がなく、将棋も麻雀(マージャン)もやれないといふので、仕方がないから一緒にあやめが池の遊園地へ遊びに行ったよ。僕はその時子供を連れて行ったが(中略)、木柵に凭れて、小林君は何かしら元気に子供の相手になったり、僕に話しかけたりしていたのが今でも目に見えるやうだ。(中略)ここへ来た時も、僕の話を黙ってきいて、少しも自分から理屈を言ったり、「批判」をやったりしなかった。(中略)それまで抱いてゐたプロレタリア作家というものにたいする僕の考えをすっかりなほしてくれたような人だ。」(「志賀直哉の文学縦横談」志賀直哉全集第14巻 岩波書店

 

小林多喜二蟹工船」を読む27

 

 1932(昭和7)年3月末ころ、多喜二は作家同盟第5回大会の一般報告「プロレタリア文学運動の当面の諸情勢及びその立ち遅れ克服のために」(全集第6巻)を杉並区馬橋の自宅で執筆していましたが、4月上旬宮本顕治・百合子夫妻を訪問している間に、馬橋の自宅が特高の捜査をうけたことを知り、のちに多喜二が結婚する伊藤ふじ子の紹介により、小石川区原町の木崎喜代方に移り、逮捕ををまぬがれ、地下活動に入りました。

 4月20日ころ、「プロレタリア文学」4月号の巻頭論文「第五回大会を前にして」(全集第6巻)を書きあげた後、多喜二は10日ばかり世話になった小石川区原町の家から麻布東町称名寺という寺の境内にある二階家の一室を借りてひそかに移り住みました。その隠れ家は上下一間ずつの家で、二階には家主の母子が住み、彼が借りた階下の5畳の部屋は一日中日光のはいらない陰気なところでした。彼は地下活動に入ってまもなく、伊藤ふじ子(沢地久枝「完本 昭和史のおんな」文芸春秋)と結婚して同棲しました。

 伊藤とは1931(昭和6)年の春ころからの知り合いで、彼女は画を学び、刺繍の仕事などもしていましたが、そのころ銀座の図案社に勤務していました。

 彼女のわずかな給料が、しばらく多喜二の地下活動をささえたのです。

 この後五、一五事件が起り、政党内閣最後の首相となった犬養毅が暗殺されました(「花々と星々と」を読む39~40)参照)。

 一方同年7月10日非合法下の日本共産党機関紙「赤旗」特別号はコミンテルン「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(河上肇訳32年テーゼ)を発表し(「現代史資料」14 社会主義運動1 みすず書房)、日本の天皇制封建遺制を分析、帝国主義戦争と天皇制に対する闘争を強調し、革命の性格が社会主義革命へ強行転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命であると主張しました。

独学ノートー単語検索―コミンテルン(第三インターナショナル)―河上肇

 この32年テーゼ(ドイツ語these 肯定的な主張)を現代の視点でみると、ソ連社会主義の理想化とロシア革命のパターンの日本への適用ではなかったのかと思います。

 日本の支配層はロシアのツァーを頂点とする専制支配者ほど頑迷ではなく、天皇を王道(力ではなく徳をもって治めるという中国の政治思想)の実現者とする古くからあった日本的尊王思想をもって、天皇を国民的統一の基軸とし、憲法を制定、議会を開設して、徐々に国民の意向聴取を拡大しつつ、不十分な民主化ではあったが、大正末期には政党内閣の慣例を確立するに至っていました。

 そして国民に対しては、天皇は国民を我が子のように慈しむという家族国家観(石田雄「家族国家観の構造と機能」明治政治思想史研究 未来社)の教育を確立していたのです。

 日本共産党はこの時点で、共産主義者ではない異なった思想信条を持つ人々とともに、軍部独裁と戦争への道に反対し、天皇制の下における民主的諸権利の拡大と平和を守るための民主統一戦線の結成に尽力すべきであったのです。

 日本共産党結党直後のコミンテルン及び同党内には上記のような統一戦線方針を重視する人々も居なかったわけではありません(松尾尊允「大正デモクラシー」第8章4 日本共産党と普選問題 岩波書店)が、32年テーゼ決定に参加した当時の日本共産党指導者たちはコミンテルンの圧倒的権威を前にして、未熟にも同テーゼを承服せざるを得なかったのでしょう。

 「帝国主義戦争の内乱への転化」とか「天皇制の転覆」などのスローガンは、日本の国民大衆にはなじめないもので、結局大部分の国民から孤立していかざるを得なかったのです。

 権力による弾圧と特高が党内に送りこんだスパイによって、党組織が壊滅していったのも、大部分の国民から孤立した組織であったために、スパイに撹乱されやすかったのではないでしょうか。

 

 

小林多喜二蟹工船」を読む28

 1932(昭和7)年7月、多気二は東町の隠れ家から比較的近い新網町へ移動しました。そこはにぎやかな商店街の裏の住宅地にある素人下宿で、三方がガラス障子になっており、西日をまともにうけ、トタン屋根の照り返しのきびしい二階の6畳の部屋でした。

 彼は七輪や炭箱などを物干台の片隅に並べて、炊事を二階でしていました。押し入れには不意に襲われたときの用意に草履を置き、屋根伝いに逃げるためで、大型トランクに一切の書籍や原稿等を入れて、連絡や会合で外出するときは、必ず施錠して出掛けました。

 彼はここに引っ越してから、間もなく中編小説「党生活者」(全集第4巻)の執筆をはじめ、最後の原稿を「中央公論」編集部におくったのは、同年8月25日でした。作品の内容と当時の事情から「中央公論」編集部はこの小説の発表を延期、多気二は予定の稿料の一部しか入手できませんでした。

 地下活動に入った後も、多気二は田口タキを訪問していますが、話が出来ないと弟の三吾に手紙(1932.8.20日付書簡 全集第7巻)をかいています。

 同年9月下旬、多気二は新網町の二階から、同区桜田町に一軒の小さな二階家を借りて移住、まもなく伊藤の母を郷里の静岡から呼び寄せ、かなり安定した隠れ家をもつことができました。しかし1933(昭和8)年1月10日ころ。伊藤ふじこが突然銀座の勤務先で逮捕、翌日の早朝、桜田町の隠れ家は数人の特高刑事に踏み込まれ、家宅捜索をうけました。多気二は用心して、数日前から他に泊っており、その日早朝連絡を済まして、特高が引き揚げた直後に帰宅したのでした。

 このような事情で彼は同年1月20日ころ、渋谷区羽沢町の国井喜三郎方の一室を借りて移転しました。伊藤ふじ子は2週間後に釈放されましたが、ふじ子との関係をたどって捜査される危険があり、その後多気二は伊藤と生活をともにすることはありませんでした。

北海道は素敵です!!―私は伊藤ふじ子が好き!!

 彼の最後の住居となった羽沢町の家は、彼の地下活動をひそかに援助してくれた村山籌子のはからいによるもので、国井家の主人は勤務先を仙台に持つ商工省の工芸関係の技官で当時海外出張中でした。同氏夫人は仙台の官舎に出掛けて不在のことが多く、婦人雑誌社に勤務していた長女が女と子供だけの家庭をきりまわしていました。村山籌子はこの人と親しかったのです。

 多喜二は新聞広告を見て訪れ、山野次郎という簿記の先生のふれこみで下宿しました。彼の荷物は大型トランク2個だけでしたが、それとなく事情を知った長女のひそかなこころづくしもあって、家中のあたかい親身なもてなしをうけました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む29

 1933(昭和8)年2月20日正午過ぎ、多喜二は赤坂福吉町の飲食店で今村恒夫とおちあい、共産青年同盟の指導部にいた三船留吉と時間をかけて会合をもつ予定でした。彼はまもなく今村とその店を出て、、今村の案内で待合街の路地を溜池の方へ歩いていきました。多喜二は変装用のロイド眼鏡をかけ、鼠色のソフトをかぶり、大島銘仙の着物に二重廻し(男性用の外套の一種、インバネスともいう)を着ていました。三船との連絡場所は近くの飲食店で、二人は約束の時刻にその店に入ると、そこには三船の姿はなく。築地警察署の特高刑事が張り込んでいました。後に分かったことですが、三船留吉は前年10月の一斉検挙後、地下組織に入り込んだ秘密警察のスパイの一人でした。

 二人は電車通りをめざして逃れようとしました。追跡する特高たちは「泥棒!」「泥棒!」と連呼、通行人や街の人たちの協力を求めたのです。「泥棒!」の叫び声に応じて、街角近くのガレージから、数名の屈強の男が飛び出して多喜二に襲いかかり、今村も自転車で追跡してきた特高に体当たりされて逮捕されました。

 関係者の証言によると、多喜二が虐殺されるまでの経過は次のような事情であったようです。

 築地署へ連行された多喜二は、はじめ自分は山野次郎だと言い張ったのですが、顔見知りの特高主任から、写真をつきつけられて本名を明かし、今村に『おい、もうこうなっては仕方がない。お互いに元気でやろうぜ』と声に力をこめて言い放ちました。それを聞いた特高は『何を生意気な』と云って、多喜二を寒中まるはだかにして、握り太のステッキでなぐりかかりました。

 二人はそれぞれ別室に連れていかれ、多喜二に対する残虐きわまる拷問は前後3時間以上に及び、彼がほとんど無意識状態になるまで続けられました。

 夕方同署第三檻房に投げ込まれた多喜二は大変苦しみ、やがて危篤状態となったので、保護室で医師が注射したらしく、担架で同署裏の前田病院に運ばれましたが、まもなく午後7時45分彼は絶命しました。

 特高警察は検事局と協議、翌2月21日午後3時ころ特別放送で心臓麻痺によるとする彼の急逝を発表、各紙夕刊も一斉に報道しました。

  小林多喜二急逝の報道は友人や同志におおきな衝撃を与えました。彼等は多喜二の母、弟の三吾と医師、弁護士の立会いで引き取りの交渉をすることにしたのですが、多喜二の母セキは孫をネンネコで背負って築地署に赴き(小林セキ述「前掲書」)、少し遅れて親戚の小林市司とともに、二人は同署特高室に入りました。同署は集まって来る友人や同志たちの入室を一切受け付けませんでした。

午後9時になって多喜二の母らはようやく前田病院に案内され、白布に包まれた多喜二の遺体を収容した寝台自動車は多喜二の母らも乗せて動き出しました。自動車は午後10時すぎようやく馬橋の小林宅に到着、やがて安田徳太郎

博士の指導の下死体の検査が始まりました。

Weblio辞書―安田徳太郎

 その凄惨極まりない遺体の状況の詳細は、手塚英孝「前掲書」下に記録されていますので、ご覧になってください。

 作家同盟などの友人や同志たちが次第につめかけ、その中にまじって田口タキと妹のミツもかけつけていました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む30(最終回)

 翌日の2月22日、前日から相談されていた遺体の解剖をすることになりました。心臓麻痺という検察当局の発表に対する真相の科学的実証が必要とかんがえられたからです。

 午前中佐々木孝丸と安田博士が大学病院と交渉しましたが、帝大と慶応大病院には当局の手廻しがあったらしく断られ、慈恵医科大病院は一旦解剖を引き受けたものの、後に拒絶してきました。

 一方警視庁と杉並署は多喜二宅近くの空き地に警戒本部を設置して警官が同家を包囲、葬儀、通夜に親戚以外の参集を許さぬと通告、家の中から近親者以外を追い出し、弔問にくる人たちを検束しはじめました。

 2月23日も弔問者は家に近づくこともできませんでした。弔電は前日からひっきりなしに届き、奈良の志賀直哉からも弔文(昭和8年2月24日 日記 志賀直哉全集第11巻)が届きました。

 告別式は予定通り同日午後2時から行われました。参列者は多喜二母セキ、弟三吾、田口タキと妹、江口渙ら13人で、江口渙が司会者として故人の生涯と業績について語ろうとしたのですが、言葉半ばでつづけることができませんでした。

 午後3時すぎ多喜二の柩は杉並区堀の内の火葬場に向いましたが、警視庁と杉並署の特高は火葬場の入口まで警戒を解かなかったのです。

  多喜二の死を知って、志賀直哉は同年2月25日の日記(志賀直哉全集第11巻)に「アンタンたる気持になる。不図彼等の意図、ものになるべしという気する」と書いています。

 その後の田口タキの人生については、小林セキ述「前掲書」をご覧下さい。

あの人の人生を知ろうー文学者編―小林多喜二

 3月18日~30日まで小林多喜二創作「沼尻村」(全集第4巻)が追悼公演として築地小劇場で(大沢幹夫脚色・岡倉士郎演出)新築地劇団によって上演されました。

 中国の作家魯迅は次のような弔詞をよせてきました。「日本と中国との大衆はもとより兄弟である。(中略)我々は忘れない。我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」

 最近小林多喜二の代表作の一つ「蟹工船」が若い人々を中心によく読まれて

いるようです。ブラック企業で過重労働に従事する人々や非正規労働者の劣悪な労働条件は「蟹工船」に描写された労働者の実態が決して過去のものではないことを示しています。多喜二はこの作品を通じて、現代の若者を励ましているように思われます。。

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小林多喜二「蟹工船」を読む11~20

小林多喜二蟹工船」を読む11

1927(昭和2)年3月3日小作人代表伴利八・阿部亀之助ら15名は約200名の労組員の出迎えを受けて小樽駅に到着、吹雪の中を赤だすきをかけた小作人代表を先頭にして、磯野店や商業会議所へデモ行進しました。争議団は労農共同闘争委員会を組織、同月6日争議の経過と実情を述べた「市民に訴う」というビラを全市に配布し、7日には磯野争議真相発表演説会を開催、警察官との乱闘騒ぎまで起りました。小作人代表は磯野との交渉を要求しましたが、地主側は組合幹部の立会を拒絶、小作人代表との会見を拒否し続けました。

 同月14日夜、本願寺説教所で、地主糾弾の2回目の演説会が労働農民党小樽支部、小作争議共同委、小樽合同労組、日農北海道連合会主催で開催されました。

 このときの様子を小林多喜二は「折々帳」(日記 全集第7巻)で次のように述べています。「磯野進の小作争議の演説を聞こうとして行ってみたところ、何十人という巡査が表に居り、入場を拒絶している。外では沢山の人達が立ち去りもしないで、興奮し、官憲とブルジョワの横暴をならしていた。(中略)皆目覚めているのだ。自分も興奮して帰ってきた。」

まもなく彼は争議の中心的指導者の一人であった武内清の要請に応じて、「北海タイムス」(「北門新報」の後継紙)小樽支社に勤務していた寺田行雄の紹介で秘かに会い、北海道拓殖銀行で収集できる磯野側の情報を提供する役を引き受けました。

 同年3月30日磯野は市会議員中島親平の調停に応じ、労組、農組代表、市会議員、弁護士、新聞記者らの立会の下、交渉の開始を争議団に申し入れました。交渉は3回あり、最後の4月8日は午前9時より24時間連続した交渉の結果、争議は小作人側の要求の大半を認めて解決しました。

 この争議中、多喜二は応援にきた函館合同労働組合や小樽の労働農民党との話し合いの席で、函館の安田銀行支店に勤務する高商の同期生乗富道夫の消息を久しぶりに知ることができました。乗富は労働農民党に入党し、函館の組合とも関係があり、産業労働調査所の仕事にも熱心に従事していました。

Weblio辞書―産業労働調査所―労働農民党―芥川龍之介―里見弴

 安田銀行函館支店は、ソビエト国営トラスト函館支社との取引関係があり、乗富は北洋漁業に深い関心をもち、北洋漁業の調査研究で知られるようになっていました。

 同年5月20日多喜二ら「クラルテ」同人は、改造社主催の文芸講演で北海道に来た芥川龍之介と里見弴を小樽妙見町の料理屋「新中島」に招き、歓迎座談会を開いて

います。

小野病院に住んで働いていた田口タキとは、ときどき映画をみたり、散歩をしたり、手紙のやりとりをしたりしていましたが、同年5月28日タキはまた一通の手紙を残して、小野病院から姿を消しました。前日タキから電話があって、二人で寿司を食べ小樽公園を散歩したのに、タキに別段変った様子はみられなかったのです。

 6月1日になって、多喜二はようやくタキの荷物を預かった便利屋(運送屋)を探し出し、タキが5月28日の朝一番列車で室蘭へ立ったことを知りました。

 内省的なタキの心には自己卑下があり、結婚など彼を不幸に陥れるだけで到底考えることも出来ないことであったようです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む12

1926(大正15)年、蟹工船秩父丸の遭難事件や博愛丸と英航丸で起きた漁夫や雑夫の虐待事件が「小樽新聞」や「北海タイムス」で大きく報道され、社会問題になっていました。

 秩父丸は同年4月26日北千島の幌莚島沖で暴風雨に遭って坐礁、254人中170人が行方不明になりました。しかも同月17日秩父丸と前後して函館を出港して、近くを航行していた英航丸や2、3の蟹工船は救助信号を受けながら救助に赴かなかったのです。

 「小樽新聞」は5月2日号で「英航丸が見て見ぬ振り、同船が救助していたらこの惨事は起らぬ」、また同月6日号に「秩父丸の遭難に醜い稼業敵、救助信号を受けながら知らぬ顔の蟹工船」という見出しで、この事件を糾弾しました。

 同年9月には博愛丸や英航丸の漁夫、雑夫の虐待事件が詳しく報ぜられました。

 仮病とみなされた病人の雑夫をウインチ(物体の上げ下ろし、運搬、引っ張り作業などに使用するもので、巻き揚げ機ともよばれる)で高くつりあげるとか、麻縄で旋盤の鉄柱に縛り付け、胸に「この者仮病につき縄を解く事を禁ず、工場長」とボール紙に書いて結びつけ、一杯の水も与えなかったことや、仕事場で監督たちが棍棒や青竹を持って監視、欠伸をしたり、ちょっとでも手を休めると殴りつけ、酷使に疲れ果てた漁夫を縛り上げて、アルコールを浸した綿に火をつけ、股間にほうりこんだりする惨状を、「この世ながらの生地獄」「あくび一つに唸り飛ぶ棍棒」などの見出しで報道されました。

戦時下に喪われた日本の商船―昭和20年1-6月―0618博愛丸

 秩父丸の救助信号を無視した英航丸では虐待のため脱走をはかった4人の雑夫を監督たちが鉄の蟹かきで半殺しにした事件が原因で自然発生的なストライキが起こりました。

 「北海タイムス」9月13日号に「各蟹工船内は恰も闘牛場の観あり」という水産講習所の調査報告を掲載していましたが、上述のような漁業労働者の闘争について詳細には報道していません。

 多喜二は1927(昭和2)年3月以来、拓殖銀行の資料用の新聞から関係記事の切り張りをしたり、また土曜から日曜にかけて、函館の乗富道夫を訪ね、乗富の案内で停泊中の蟹工船の実地調査で、蟹工船の漁夫と直接会って話を聞き、漁業労働組合の人たちからも多くの具体的知識を得ました。長年北洋漁業の資料の収集と調査をしていた乗富の援助によって、多喜二はその調査を正確に深めることに役立ったのです。

 1920(大正9)年から始まった北洋漁業蟹工船は缶詰工場の設備を持つ母船を中心に、川崎船とよばれる小型漁船でとった蟹を缶詰にする海の移動缶詰工場の船でありました。1925((大正14)年ころになると蟹工船は大型化し、1500トン前後の中古船を改造、なかには病院船を改造(例 博愛丸)したものもありました。

 このような蟹工船は1926(大正15)年には12隻、翌年には18隻となり、生産高も1926年23万箱、1927年には33万箱に増加しました。

 当時の北洋漁業は日魯漁業と大洋漁業の独占化がすすみ、1928(昭和3)年「日ソ業業条約」(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)成立以前は漁業権を巡ってソビエト政権との間に複雑な対立があり、12海里を領海とするソビエト法を無視、日本は3海里外は公海として、海防艦の護衛により蟹漁業が行われていたのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む13

 1928(昭和3)年1月21日衆議院解散、多喜二は働農民党から北海道一区立候補の非合法日本共産党員山本懸蔵を応援 東倶知安方面の演説に参加、2月20日、第16回総選挙(最初の普通選挙)が実施されました。その結果無産政党は約48万票を獲得、8人の当選者を出し、うち労働農民党は山本宣治ら2人が当選しました。

 同年3月15日、田中義一内閣は共産党員の大検挙(3.15事件)を実施、488人が治安維持法違反で起訴される情勢の中、同年3月25日全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成され、同年5月ナップは機関誌「戦旗」を創刊しました。小樽でもナップ支部が発足、多喜二は支部書記として機関誌配布の責任者になりました。

 同年6月29日、緊急勅令により、政府は治安維持法を改め、死刑・無期刑を追加、7月3日には、未設置の全県警察部に思想犯を取り締まる特別高等(特高)課を設置するに至りました。

 同年5月26日多喜二は中編小説「一九二八年三月十五日」(全集第2巻)を起稿(「戦旗」の同年11・12月号に掲載、発禁となったが、秘かに配布される)、7月多喜二は銀行為替係から調査係へ異動、8月17日同上小説を完成し、つづいて10月28日中編小説「蟹工船」を起稿、翌年3月30日同小説を書き上げました。

 1929(昭和4)年4月16日政府(田中義一内閣)は前年に続いて共産党員大検挙を実施(4.16事件)、党組織は壊滅的打撃をうけました。

Weblio辞書―三.一五事件―四.一六事件―山本宣治

 同年4月20日早朝、若竹町の多喜二の自宅が家宅捜査を受け、彼自身も小樽警察署に拘引されましたが、その日のうちに釈放されました。

 同年5月14日の夕方、多喜二は田口タキと再会することができました。タキははじめ室蘭に赴いたのですが、やがて札幌に行って病院の見習看護婦として住み込み、またひそかに小樽にもどり、名も彩子と改め、小樽駅前通りの中央ホテルに住み込んで3階の部屋係を勤めていたのです。

 そのようなタキの消息を多喜二は知ってはいましたが、ホテルへ直接彼女を訪ねていくことには、なんとなく気おくれを感じていました。その日彼は友人と駅前通りを歩きながら、ホテルの前にさしかかると、偶然ホテルの入口にたたずむタキを見つけたのでした。

 同年5月16日の手紙(書簡 全集第7巻)で彼はつぎのように述べています。「この前の夜は、又私達には忘れることの出来ない日になった。彩子ちゃんも、こんな事が、二度あるとは思っていなかったと云った。(中略)お互いにそう変わっていないので、本当に嬉しかった。

 僕のしている仕事、(中略)僕はそのためには一生さえ捧げている積りなのだ。-だから、何時僕は彩子ちゃんの前から居なくならなければならないかも知れないのだ。(中略)外に出ることがあったら、何時でも電話をかけて下さい。僕たちのやっていること(中略)是非分ってもらいたい。(中略)

 彩子ちゃんは、誰にも頼って生きていない。(中略)僕はどんな処にいようが、彩子ちゃんをしっかりと信じることが出来るのだ。-常に困難を切り開いて前進しようー僕も」

 

小林多喜二蟹工船」を読む14

 小説「蟹工船」は、1929(昭和4)年の「戦旗」5、6月号に発表されました。この小説(新日本文庫・全集第2巻)は次のような言葉から始まります。

 「おい、地獄さ、行(え)ぐんだで!」

 函館港に停泊する蟹工船「博光丸」に雇われた漁夫たちの様々な生態が描写され、彼等に対して監督が次のように訓示する。「一寸(ちょっと)云って置く。(中略)この蟹工船の事業は、ただ単にだ、一会社の儲(もうけ)仕事と見るべきではなく、(中略)我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの闘いだ(な)んだ。

(中略)日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだ(中略)。だからこそ(中略)我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。-それを今流行(はや)りの露助の真似をして、とんでもないことをケシかけるものがあるとしたら、(中略)日本帝国を売るものだ。よツく覚えておいて貰うことにする。」

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 函館を出港した博光丸は宗谷海峡に入ったころから、烈しい時化に襲われた。

 船長室に無電係があわててかけ込んできた。「船長、大変です。S,O,Sです。」「S,O,S?―何船だ!?」「秩父丸です。本船と並んで進んでいたんです。」

 「ボロ船だ、それァ!」浅川(監督)が雨合羽を着たまま、隅の方の椅子に腰をかけていた。

 船長は舵機室に上がるため急いでドアを開けようとした。いきなり浅川が船長の右肩をつかんだ。「余計な寄道せって誰が命令したんだ。」「船長としてだ。」

 船長の前に立ちはだかった監督が侮辱した調子で抑えつけた。「おい、一体これァ誰の船だんだ。会社が傭船してるんだで、金を払って。ものを云るのァ会社代表の須田さんとこの俺だ。お前なんぞ糞場の紙位えの価値もねえんだど。―あんなものにかかわてみろ。一週間もフイになっるんだ。」

 船長は咽喉へ綿でもつめられたように、立ちすくんでいた。

 

小林多喜二蟹工船」を読む15

 霧雨にボカされたカムサッカの沿線が八ッ目鰻のように延びて見えた。沖合四浬のところに博光丸が碇を下した。-三浬までロシアの領海なので、、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた。」

 網さばきが終って、何時からでも蟹漁が出来る準備が出来た。カムサッカの夜明けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、股までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入ってゴロ寝をした。

 朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三時だった。監督は漁夫たちを見廻って、風邪をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した。

 風はなかったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きが擂粉木(すりこぎ)のように感覚が無くなった。

 雑夫長が十四、五人の雑夫を工場に追いこんでいた。彼の持っている竹の先には皮がついていた。それは工場で怠けているものを機械の枠越しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように造られていた。

 スチームでウインチが廻り出し、川崎船は一斉に降りはじめた。昼過ぎから、空の模様が変わってきて、薄い海霧(ガス)が一面に淡くかかった。

Weblio辞書―川崎船

 煙突の警笛が荒れ狂っている暴風の中で、何か悲壮に聞えた。-遠く本船を離れて、漁に出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、時化を犯して帰ってくるのだった。

 薄暗い機関室の降り口で、漁夫と水夫が騒いでいた。「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」

 監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れた処に投錨していた××丸から「突風」の警戒報を受け取っていた。それには若し川崎船が出ていたら、至急呼び戻すように附け加えられていた。その時「こんな事に一々ビクビクしていたら、このカムサスカまでワザワザ来て仕事なんて出来るかい。」-そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。それを聞いた最初の漁夫は怒鳴った。「人間の命を何だって思ってやがるんだ。」「人間の命?」「そうよ」「所が、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ。」

 

小林多喜二蟹工船」を読む16

 夕方になる迄に川崎船は二艘を残してそれでも全部帰ってくることが出来た。一艘は水船になってしまったために漁夫が別の川崎船に移って帰ってきたが、他の一艘は漁夫共に全然行方不明となった。

 翌日、川崎船の捜索かたがた、蟹の後を追って、本船が移動することになった。「人間の五、六匹何でもないけれども、川崎がいたまし」かったからだった。

 九時近いころになって、前方に川崎船が一艘浮かんでいるのを発見した。が、それは探していた第一号ではなく、もっと新しい第36号と番号の打たれているものだった。明らかに××丸のものらしかった。第36川崎船はウインチで博光丸のブリッジに引きあげられた。監督は大工を呼んだ。「何です。」「カンナ、カンナ」

 -川崎船の第36号の「3」がカンナで削り落されて、「第六号川崎船」になってしまった。「これでよし。うッはァ、様(ざま)見やがれ!」監督は哄笑した。

 漁夫達は行方不明になった仲間の荷物などを調べたりして万一の時にすぐ処置できるように取り纏めた。北海道の奥地で色々なことをやってきたという男が低い声で「浅川のためだ。死んだと分ったら、弔(とむら)い合戦をやるんだ。」と云った。「奴、一人位タタキ落とせるべよ。」

 博光丸が元の位置に帰ってから三日して突然(!)その行方不明になっていた川崎船が、しかも元気よく帰ってきた。

釧路市HP―市立博物館―常設展―2階―釧路の近世・近代1-川崎船

 大暴風雨の次の朝、川崎船は半分水船になったまま、カムサッカの岸に打ち上げられていた。そして近所のロシア人に救われたのだった。

 難破のことが知れると、村の人達が沢山集って来た。丁度帰る日にロシア人が四、五人やって来て、中に支那人が一人交じっていた。赤い鬚の男が大声で手振りをして話し始めた。支那人が日本語をしゃべり出したが、それは順序の狂った日本語で、言葉と言葉が酔っ払いのようによろめいていた。

 「貴方々、プロレタリア。-分る?」「うん」

(今度は逆に、胸を張って威張ってみせる)働かない人、これ。-分る?」

「ロシア、働かない人いない。-分る?」

彼等は漠然とこれが「恐ろしい」「赤化」というものではなかろうか、と考えた。が、然し何よりグイ、グイ引きつけられていった。

「プロレタリア、貴方々、みんな、これ(子供のお手々つないでの真似)強くなる。大丈夫。分る?」「ん、ん!」

漁夫達は「糞壺」(漁夫の居室)の入口に時々眼をやり、その話をもっともっとうながした。

 

小林多喜二蟹工船」を読む17

 無電係は、他の船の交換している無電を聞いて、その収獲を一々監督に知らせた。それによると、本船はどうしても負けているらしい事が分って、監督はアセリ出した。監督や雑夫長はわざと「船員」と「漁夫、雑夫」の間に、仕事の上で競争させるように仕組んだ。

 同じ蟹つぶしをしていながら、「船員に負けた」となると、(自分の儲けになる仕事でもないのに、)漁夫や雑夫は「何に糞ッ!」という気になる。監督は「手を打って」喜んだ。

 然し五日、六日になると、両方とも気抜けしたように、仕事の高が減って行った。監督は、今度は勝った組に「賞品」を出すことを始めた。監督は「賞品」の外に、逆に、一番働きの少ないものに「焼き」を入れることを貼紙した。鉄棒を真赤に焼いて、それを身体にそのまま当てることだった。彼等は「焼き」に始終追いかけられて、仕事をした。仕事が尻上りに目盛をあげて行った。

 皆は夕飯が終って、「糞壺」の真ん中に一つ取りつけてある、割目が地図のようにはいっているガタガタのストーヴに寄っていた。お互いの身体から少し温ってくると、湯気が立った。蟹の生ッ臭い匂いがムレて、ムッと鼻に来た。

 「カムサッカで死にたくないなー。」「中積船、函館ば出たとよ。―無電係の人云ってた。」

海外の万国反応記―検索―カムチャッカ半島―海外の反応―質問雑談―2014年9月26日―海外「ロシアの最東端、カムチャッカ半島には一体何があるんだ?」

 「帰りてえな。」「帰れるもんか。」「中積船でヨク逃げる奴がいるってな。」「んか!?-ええな。」

 「漁に出る振りして、カムサッカの陸さ逃げて、露助と一緒に赤化宣伝ばやっているものもいるッてな。」

 学生あがりの漁夫があくびをしながら、ゴシゴシ胸を掻いた。垢が乾いて薄い雲母のように剥げてきた。

 「飛んでもねえ所さ、然し来たもんだな、俺もー。」この漁夫は芝浦の工場にいたことがあった。北海道の労働者達には「工場」とは想像もつかない「立派な処」に思われた。「ここの百に一つ位のことがあったって、あっちじゃストライキだよ。」と云った。

 お湯には、初め一日置きに入れた。身体が生ッ臭く汚れて仕様がなかった。然し1週間もすると、、三日置きになり、1箇月経つと1週間一度、、そしてとうとう月二回にされてしまった。水の濫費を防ぐためだった。然し船長や監督は毎日お湯に入った。それは 濫費にならなかった。

 身体が蟹の汁で汚れて、それがそのまま何日も続く。それで虱や南京虫が湧かない筈がなかった。

 

小林多喜二蟹工船」を読む18

 

  こちらから見ると、雨上りのような銀灰色の海をバックに、突き出ているウインチの腕、それにすっかり身体を縛られて、吊しあげられて居る雑夫が、ハッキリ黒く浮び出て見えた。

 ウインチに吊るされた雑夫は顔の色が変っていた。死体のように堅くしめている口から、泡を出していた。大工が行った時、雑夫長が薪を脇にはさんで、デッキから海へ小便をしていた。あれでなぐったんだな。大工は薪をちらっと見た。

 漁夫達は何日も続く過労のため、だんだん朝起られなくなっていた。「どうしたんだ。タタキ起こすど!」

 病人は皆布団を剥ぎとられて、甲板へ押し出された。学生上りの雑夫が蟹をつぶした汚れた手の甲で、額を軽くたたいていたが、そのまま横倒しに、後ろへ倒れてしまった。仲間があわてて、彼をハッチに連れて行こうとした。

シートラスト株式会社―カニを知る

 監督が口笛を吹きながら工場へ降りてきた。「誰が仕事を離れったんだ!」

 「誰が!?―」思わずグッときた一人が、肩でつッかかるようにせき込んだ。「誰がァー? この野郎、もう一度云ってみろ!」監督はポケットからピストルを取り出して、玩具のようにいじり廻した。それから急に大声で笑いだした。「水を持って来い!」

 監督は桶一杯の水を、床に横たわっている学生あがりの雑夫に浴びせた。

 次の朝、雑夫が工場に降りて行くと、旋盤の鉄柱に、前の日の学生上りの雑夫が縛りつけられているのを見た。首をガクリ胸に落とし込んで、背筋の先端に大きな関節を一つポコンと露わに見せていた。そして子供の前掛けのように、監督の筆致で「此ノ者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄ヲ解クコトヲ禁ズ。」と書いたボール紙を吊るしていた。

 皆が仕舞かけると、「今日は九時迄だ。」と監督が怒鳴って歩いた。「この野郎達、仕舞だッて云う時だけ、手廻わしを早くしやがって!」

 朝だった。タラップをノロノロ降りながら、炭山から来た男が「とても続かねえや。」と云った。前の日は十時近くまでやって、身体は壊れかかった機械のようにギクギクしていた。

 「俺ァ仕事サボるんだ。」「ずるけてサボるんでねえんだ。働けねえからだよ。」

 その日監督は、鶏冠(とさか)をピンと立てた喧嘩鶏のように工場を廻って歩き、怒鳴り散らした。がノロノロ仕事をしているのが一人や二人でなしに、あっちでもこっちでもーほとんど全部なので、ただイライラ歩き廻ることしか出来なかった。監督の棍棒が何の役にも立たない!

 それが船員や漁夫にも移っていった。

 

小林多喜二蟹工船」を読む19

 「中積船だ! 中積船だ!」上甲板で叫んでいるのが下迄聞えた。中積船は何カ月も何百日も踏みしめたことのない、あの動かない「土」の匂いがしていた。

 彼等は「糞壺」の棚に大きく安坐(あぐら)をかいて荷物を解いた。彼等はその何処からでも、陸にある「自家(うち)」の匂い、乳臭い子供の匂いや、妻のムッとくる膚(はだ)の匂いを探した。

 中積船には、会社で派遣した活動写真隊が乗り込んで来ていた。出来上がった缶詰を中積船に移してしまった晩、船で活動写真を写すことになった。

 夜になると、酒、焼酎、するめ、にしめ、バット(1906年に発売された大衆向け紙巻きたばこ「ゴールデンバット」の略称)、キャラメルが皆の間に配られた。

Toms Toy Box―素晴らしき人生―ゴールデンバット

 監督が白い幕の前に出て来て「日本男児」だとか云いだした。大部分は聞いていなかった。

 「やめろ、やめろ!」「お前なんかひっこめ!」後から怒鳴る。

「六角棒の方が似合うぞ!」皆ドッと笑った。監督は顔を赤くして引っ込んだ。

 写真が終ってから皆は祝い酒に酔った。長い間口にしなかったのと、疲労し過ぎていたので、ベロベロに参ってしまった。

 余程過ぎてからだった。-「糞壺」の階段を漁夫が転がってきた。着物と右手がすっかり血だらけになっていた。「出刃、出刃!出刃を取ってくれ!」土間を葡いながら叫んでいた。「浅川の野郎、何処へ行きやがったんだ。居ねえんだ。殺してやる。」

 監督になぐられたことのある漁夫だった。-その男はストーヴのデレッキ(火かき棒)を持って、眼の色を変えて、また出ていった。

 次の朝になって、監督の窓硝子からテーブルの道具が、すっかり滅茶苦茶に毀されていたことが分かった。監督だけは、何処にいたのか運よく「こわされて」いなかった。

 

小林多喜二蟹工船」を読む20

 毎年の割に比較すると、蟹の漁獲高はハッキリ減少していた。他の船の様子を聞いてみると、昨年よりは成績がいいらしかった。

 監督は無線電信を盗み聞かせて、他の船の網でもかまわず、ドンドン上げさせた。他船の網を手当たり次第に上げるようになって、、仕事が尻上がりに忙しくなった。

  

仕事を少しでも怠けたと見るときには大焼きを入れる。

  組をなして怠けたものにはカムサッカ体操をさせる。

  罰として賃銀棒引き、

      函館へ帰ったら、警察に引き渡す。

  いやしくも監督に対し、少しの反抗を示すときは銃殺される

  ものと思うべし。

                     浅 川 監 督

                     雑  夫  長

 

この大きなビラが工場の降り口に貼られた。監督は弾丸をつめッぱなしにしたピストルを始終持っていて、鴎や船の何処かに見当をつけて撃った。ギョッとする漁夫を見てニヤニ笑った。

 監督は手下をつれて夜三回まわってきた。3、4人固っていると、怒鳴りつけた。「鎖」がただ眼に見えないだけの違いだった。

 「俺ァ、キット殺されるべよ。」芝浦の漁夫が「馬鹿!」と横から怒鳴った。

「今殺されているんでねえか。小刻みによ。ピストルは何時でも持っているが、あれァ「手」なんだ。彼奴等は、俺達を殺せば自分の方で損するんだ。本当の目的は、俺達をウンと働かせて、しこたま儲けることなんだ。この滅茶苦茶は。まるで蚕に食われている桑の葉のように、俺達の身体が殺されているんだ。」

 芝浦は手を振りながらしゃべっていた。「金持はこの船一艘で純手取り四、五十万円ッて金をせしめるんだ。-分かるか。皆んな俺達の力さ。-んだから,んと威張るんだ。あっちの方が俺達をおっかながってるんだ。ビクビクすんな。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小林多喜二「蟹工船」を読む 1~10

小林多喜二蟹工船」を読む 1

 小林多喜二蟹工船」(「新日本文庫」・小林多喜二全集 第2巻 新日本出版社 以下全集と略)は「戦旗」(「全日本無産者芸術連盟」ナップ機関誌)1929(昭和4年)の5、6月号に掲載された小説で、「左翼的批評家だけでなく、一般文壇でも高く評価され、一九二九年度上半期の最大傑作と評された」(村山知義「解説」新日本文庫)作品です。1953(昭和28)年山村聡監督により映画化されました。

 まず、小林多喜二の生涯を生いたちから辿ってみましょう。彼は1903(明治36)年10月13日、秋田県北秋田郡下川沿村川口十七番地(1905 大館市川口236の2)で父小林末松、母セキの次男として生まれました(年譜 手塚英孝「小林多喜二」下 新日本新書 新日本出版社)。

大館郷土博物館―文化財マップー文化財を見るー大館―大館地域の文化財―詳細 小林多喜二生誕の地碑―詳細を見る

/ 小林家は代々「多治右衛門」と称した地主の家から、多喜二の祖父多吉郎の代に分家した家柄でした。多吉郎は佐竹藩の城下町大館(おおだて)に近い宿駅だった川口で旅宿を営んでいました。多吉郎の妻オヨとの間に二男一女があり、長男を慶義、次男を末松と名付けました。

 明治維新後、宿駅は廃止され、大館の発展とは逆に川口は次弟に衰退していったのですが、明治十年代の末ころまでは、小林家は家業の旅宿をつづけ、かたわら人を雇って耕作し、村でもかなり裕福でした。

 小林家の長男慶義は家業をかえりみず、関係した事業に失敗して、多額の負債をかかえ、没落していきました。慶義一家は一時上京したこともあったのですが成功せず、郷里の秋田にも帰れなくなり、1893(明治26)年東京から直接北海道へ開墾百姓として移住したのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 2

 多吉郎は1895(明治28)年71歳で死去、末松は兄の失敗により急に変化した境遇と労苦で、まだ四十を過ぎたばかりだというのに、心臓を痛めていました。、彼は地主に抗議して小作料を引き下げることもせず、自分の身体をこわしてまで働くことで耐えたのです。母セキは秋になると、野菜や豆や南瓜などを籠にいれて大館へ売り歩き、家計を助けました。

 1893(明治26)年青森から敷設されはじめた奥羽本線は6年目に大館まで開通、次いで大館と秋田を結ぶ工事が川口の丘に沿って着手されましたが、結局農民の貧窮化をもたらし、北海道の開墾百姓として移住する農民が増加していきました。

 長兄の慶義は北海道の小樽郊外の潮見台で開墾百姓をやっていましたが、かれの長男幸蔵は小樽色内町の山田靴屋の徒弟奉公から稲穂町の石原源蔵というパン屋の徒弟になりました。山田も石原もクリスチャンだった影響で幸蔵もキリスト教に帰依したのです。

 1903(明治36)年、慶義と幸蔵は石原源蔵から稲穂町の店を譲り受け、石原の指導と援助をうけながら、独立して小林三星(みつぼし)堂というパン店を開業するに至りました。

おいしいパンnet―パンの知恵袋―パンの歴史―日本の歴史

 日露戦争が始まった1904(明治37)年5月、小樽は大火に見舞われて、中心街の大半を焼き尽くし、三星堂も類焼したのですが、慶義親子は同業者に先んじて潮見台にパン工場を建て、パンの製造をはじめ、数ヵ月後にはパン工場新富町に移し、店を開きました。

 翌年春、小樽港は樺太進攻のため、海軍の秘密根拠地となりました(「坂の上の雲」を読む45参照)。慶義父子は御用商人として約10箇月の間に、30余隻の海軍艦船に数十万円の食パンを売り込んだのです。かくして三星堂は火災と戦争を巧みに利用して、小樽屈指のパン店に成長しました。

 小樽でしっかりした社会的地位を築くと、慶義は弟の末松に秋田をひきはらって小樽に移住するようしきりに勧めました。しかし末松夫婦は長年住み慣れた故郷を捨てる決心がつきませんでした。

 1907(明治40)年5月、法事で帰郷した慶義に、末松夫婦はその春村の小学校を卒業した長男多喜郎を小樽で上級学校にいれてやると勧められて、それに従ったのでした。

 ところがその年の9月末多喜郎は急性腹膜炎で重態となり、小樽にかけつけた両親の看護も虚しく、10月5日死去してしまったのでした。 

 長年の過労と長男逝去の衝撃からが末松は百姓仕事に耐えられなくなり、それが北海道移住の動機となって、同年12月、末松一家は馬橇にのって、村人に見送られながら、深い雪のなかを大館駅に向けて出発しました。小林多喜二が4歳のときのことでした。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 3

 「私は四つか五つの時、北海道へ渡って来たので、そんなによくは秋田の故里を知っていない。北海道へ来て、爾来二十四年間小樽に住んだ。従って私の『育った』故里は小樽であり、事実から云えば小樽が私の本当の故里であるように思う」(小林多喜二「故里の顔」女人芸術 1932年1月 全集 第5巻)

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 明治初年まで小樽は「オタルナイ」(アイヌ語で砂川を意味する)と呼ばれ、東方から日本海の風波にさらされる三方を険しい丘陵にかこまれた漁村でした。しかしその後北海道開発の基地として日露戦争後には石狩の農産物と石炭の集散地となり、近代的商港に発展していたのです。

 1907(明治40)年12月小樽に移住した小林末松一家は翌年正月を新富町の伯父慶義の家で迎えたのですが、まもなく若竹町に新居を構えました。そこはさびれた漁師町で小樽湾の南端に位置し、背面は海岸近くに突き出た懸崖が浜つづきを区切っていました。

 海岸そいに北海道本線が通じ、末松一家の家はこの線路にそった道路に面した部落はずれの海岸近くにありました。裏はすぐ線路でした。

 二部屋の平家は伯父慶義が隠居所に建てたものでしたが、多喜二の両親はここで小林三星堂パン店の支店を開いたのです。

 末松一家は地元で最初の他国者だったので、土地の人に珍しがられ、秋田弁も面白がられて、わざわざ店先へのぞきに来る人もいた程でした。

 多喜二の父は毎朝薄暗いうちに起床して、小樽中央にあるパン工場へ「アンパン」「代用パン(砂糖漬けの赤豆をパンの中にいれたもの)」「ミソパン」などを仕入れに行き、丁度働きに出掛ける労働者や学校へ行く生徒たちがパンを買いに来る時刻に間に合うように帰って来るのでした。

 昼近くになると、大福やパンを入れたガラス箱を担いで、防波堤などの工事に従事する土工の作業現場などに売りに行きました。

 多喜二の幼年期に彼は近所の遊び友達から「パン屋のオンジ」と呼ばれていました。両親や姉が彼を「オンジ」(東北地方で「弟」を意味する)と呼んでいたからです。兄多喜郎死去後も両親らは彼を昔からの呼び名で呼んでいたのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 4

 1910(明治43)年4月、多喜二は小樽区立潮見台尋常小学校に入学しました。生徒は約600名で、、大半が港で働く貧しい自由労働者か小商人の子供たちで、汚れた着物を着た前だれ姿の児童が多く、校章も校旗もありませんでした。

 毎年5月20日前後、小樽の小学校連合運動会が花園公園グランドで開催されました。

そば会席 小笠原―小樽公園、花園公園? 

 これは小樽の年中行事の一つとなって、桜の満開の季節でもあり、その期日には銀行や企業・商店なども休業する処が多く、毎年人出でにぎわいました。

 この運動会にはどの学校も新しいユニフォームを作ったのですが、全市小学校の対抗試合で。多喜二の母校だけユニフォームがなく、みすぼらしさがめだったのです。

 他の学校の生徒はみな一斉に笑い、『潮田の学校、ビンボ学校。運動服ないとて、ベソかいたア』と冷やかしました。

 「私は未だに運動会の来る一日一日が、どんなに『つらかった』かを覚えている。それはどうにも堪え難い気持ちだった。(中略)八つか九つの子供らしくもなく、私はうつむいて、キリキリと唇を噛んだ。この運動会のことが、あたかも柱に刻みこんだ爪跡のように、何時までも私の心に残されている。」(小林多喜二「地区の人々」改造 1933年3月 全集 第4巻)

 1916(大正5)年3月、多喜二は潮見台小学校を卒業、4月から伯父慶義の援助で庁立小樽商業学校に入学しました。同校は1913(大正2)年に創設された5年制(本科3年、予科2年)の商業学校で、創立の翌年に起こった第一次世界大戦による好景気で入学希望者は増加、100名の入学定員に対して入学希望者数は毎年450名前後という難関校でした。

 好景気による輸出増大で物価は暴騰し、戦争成金がうまれる一方で、労働者の賃金の上昇はこれに及ばず、多くの民衆が深刻な生活難に陥りました(「労働運動二十年」を読む15~17参照)。1918(大正7)年に富山県から起こった米騒動は各地に波及、北海道では同年8月函館で、9月には空知郡の炭坑で暴動が起こり、小樽でも同年10月豆選工場でストライキが起こりました

 多喜二は新富町の伯父の家に住み込み、パン工場の手伝いをしながら通学しました。朝学校に行く前に、トラックに乗って、パンの配達をさせられました。トラックの行けない処へは荷車に折箱を積んで小売店を廻りました。それで彼は学校で坐ると、どんなに努力しても居眠りばかりしていたようです(小林多喜二「転形期の人々」全集 第4巻)。米騒動の直後から、伯父の工場ではビルマ豆をまぜた安価な代用パンの売り出しをはじめました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 5

 創立当初の小樽商業は大正デモクラシーの風潮(「大正デ3モクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造10~25参照)による影響をうけて、学生の自治と自由を重視していました。

 多喜二は三本線の入った制帽と粗末な制服を身につけ、冬には着古したマントをはおって通学していました。いつも代用パンを古新聞紙に包んだ彼の昼弁当はクラスの中で評判になっていました。しかし彼はそんなことには無頓着で、小学生時代とは全く違う、明るく屈託のない少年になっていたのです。

 1917(大正6)年の予科二年のころから、多喜二は友人とともに水彩画を描きはじめました。教室の廊下にささやかな展覧会が開催されるようになりました。

 そのころ博文館発行「文章世界」でこま絵(カット)の懸賞募集があり、多喜二も1919(大正8)年6月号に「札幌の附近」が入選、その後選外佳作となったものもありました。

 小樽商業の絵のサークルは、その後小羊画会と名付けられ、同年11月1日と2日に稲穂町の中央倶楽部で、第1回の洋画展覧会を開催、多喜二は水彩画6点を出品しました。

 1920(大正9)年5月29・30日、第2回小羊画会が中央倶楽部で開催され、多喜二は水彩画ABCの三点を出品、Cが色彩の扱い方で優れているとの「北門日報」[1891年小樽で金子元三郎によって創刊された新聞、初代主筆中江兆民(「火の虚舟」を読む19参照)、後札幌に進出]の批評を受けました。暫くの後小羊画会は白洋洋画研究所と改名、同年9月18・19日、中央倶楽部で白洋画会が開かれ、多喜二は風景画5点を出品しています。

カムイミンタラアーカイブズーカムイミンタラアーカイブズを詳しく検索するー検索メニューー発行年月―2005年09月号(特集)多喜二の「未完成性」が問いかけるもの ノーマ・フィールドさん 小林多喜二を語る

 しかし、この展覧会が終了すると、伯父の命令で多喜二は絵をやめさせられました。1920(大正9)年3月株式市場の株価は暴落、戦後恐慌(「労働運動二十年」を読む20参照)が始まり、こうした伯父の多喜二に対する冷酷な仕打ちは、日本経済の変化を意識した緊張の反映だったのかもしれません。

 ある朝、伯父は彼の絵道具を庭にたたきつけて、云いました。

 「『絵にこれば馬鹿になるんだぜ。Kの息子を見れ、やれ絵かきになると言って東京に飛び出し、いい加減帰って来て、一万円くれって、親から取って洋行する。三十も四十にもなって、まだ嬶(かかあ)もとれないんだ。貴様もそんな馬鹿になりたいか。』

 抗弁するのは不利益な事だった。彼は(中略)立ち上がった。居間へ行って洋服へ着換にかかった。一人となった時、彼の眼は期せずして涙が流れ出た。今までの凡ての感情が一時にあふれ出た。」(小林多喜二「石と砂」全集第6巻)

 ひそかな熱意をこめてとった絵筆を捨てることは、多喜二にとって大きな打撃でした。しかし、他方このことが、すでに才能をひらめかせていた文筆に対する意欲を高める動機となっていったのです。

 

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 多喜二は同校予科在学中から、彼の作文は優れた個性に満ちていました。渡辺卓という漢文の教師は作文の時間に推薦作文を読み上げたものでしたが、その中にはいつも多喜二の文章が入っていました。 

 1919(大正8)」年4月、本科2年になると、彼は校友会誌「尊商」の編集委員に選ばれました。同誌は国語教師の担任でしたが、編集はほとんど選ばれた生徒の編集委員に任されていました。かくして多喜二の作文が同誌に屡掲載されるようになり、また「文章世界」5月号に彼の詩(全集第6巻)「北海道の冬」などが発表されるようになっていたのです。同年6月からの修学旅行に家が貧しいため、彼は参加できませんでした。

 1920(大正9)年伯父の命令で絵筆を棄ててからも、「石と砂」を執筆、これを除く「晩春の新開地」などの文章が相次いで「尊商」に発表されています。監視されているような雰囲気の中で、彼は必死の勢いで創作に集中していったのです。

白樺文学館―多喜二ライブラリー

 1921(大正10)年3月、多喜二は小樽商業学校を卒業、同年5月、伯父の援助をうけ、小樽高等商業学校小樽商科大学の前身)に入学するとともに、新富町の伯父の家を去り、若竹町の自宅から通学するようになりました。

 1922(大正11)年4月、多喜二は2年に進級、第二外国語にフランスを選択、課外活動としては高浜年尾とともに校友会誌の編集委員に選出されています。彼は同誌に殆ど毎号寄稿するとともに、「小説倶楽部」や「新興文学」に投稿、入選作もありました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 7

 1923(大正12)年9月、関東大震災(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)が起こりました。この年の11月17~18日(土・日曜)小樽高商例年の学生外国語劇大会が関東大震災義捐として雨天体操場で開催されました。

 多喜二はフランス語劇メーテルリンク「青い鳥」に出演しましたが、、小樽中学出身で小樽高商では多喜二の一年下級学年であった伊藤整(「小林多喜二の思い出」「伊藤整全集」20 新潮社)は多喜二と共演しました(年譜 「同全集」24)。

小樽の二人の青春 小林多喜二と伊藤整

 また多喜二自身も盛会だった当夜の模様をつぎのように描いています。「音楽の序奏が始まった。その音につれて幕がスルスルと引かれた。猫が出た。劇は進む。チルチル、ミチル、犬がでる。木々のざわめきがして木の精がとび出す。やがて動物の精もでなければならなくなった。

 兎が一番先に出た。兎がピョンピヨン飛んで出たとき、ワッというドヨメキが起った。馬は勢よくとび出た。牛はノロノロと出ていった。羊がフラフラと出ていくと、その辺に散らしておいた紙屑をひろいあげて、頭にかぶっている模型の口の中に入れた。観客はことごとに笑わせられた。」(「ある役割」全集第1巻) 高商1年のころから、多喜二は白樺派(「花々と星々と」を読む27参照)の志賀直哉(「田中正造の生涯」を読む24参照)の作品を学び始めていましたが、のちに直接手紙を書くようになり、自作を送って批評を乞うようになりました(志賀直哉全集 別巻 岩波書店)。

 志賀直哉は1922(大正11)年3月、千葉の我孫子から京都市外粟田口に移り、同年秋には山科に住んでいました。

 多喜二は校友会誌などに発表した創作についての批評をもとめたのでしたが、これに対する志賀直哉の感想はきびしいものでした。

 

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 1924(大正13)年3月10日、多喜二は北海道拓殖銀行に入社しました。その年の新規採用者47人は同銀行札幌本店で、約1箇月間の研修を受けた後、彼は本俸70円で小樽支店に配属され、また約2箇月間計算係として計算と記帳の実務を習得すると、為替係にまわされました。彼は初給料の中から中古バイオリンを買って、音楽好きな弟三吾に与えました。

 多喜二が同銀行小樽支店に勤務するようになった同じ月、彼の主宰する小樽商業時代からの仲間による同人雑誌「クラルテ」第1集が創刊されました。

 同年7月11日父末松が脱腸で入院、手術後の経過が悪く、8月2日58歳で死去しました。

 多喜二は当時伯父の次男経営の苫小牧パン店で働く弟三吾を呼び、父死去後の自宅パン店を手伝わせることにしました。

 同年10月ころ、多喜二ははじめて田口タキという女性にに出会ったのです。田口タキは入船町のやまき屋という小料理屋(小樽ではそば屋と呼ばれる)の美人で評判だった酌婦でした。多喜二は「クラルテ」の仲間に誘われて、好奇心からでかけたのでしたが、田口タキは彼に深い印象を与えました。

 彼女は1908(明治41)年5月、小樽近郊の高島という海岸町で出生、父はその土地で屋台そばを売り、母は秋田からの移住者でした。タキが15歳の暮れ、父は新たにはじめた商売に失敗し、ひどい吹雪の夜、高島を夜逃げして、函館に近い父の郷里森町の親戚を頼っていきました。しかしどうにもならなくて、1922(大正11)年1月末、彼女は父から手伝いにいってくれと頼まれ、何も知らずに室蘭の銘酒屋に売られていきました。

 娘を売ったわずかな金で田口一家9人は函館から小樽長橋の場末に移り、父は日雇いで暮らしていましたが、12月中旬、若竹町の踏切りで鉄道自殺、のちタキの母は再婚、残された田口一家は親族に引き取られ離散しました。

 田口タキが室蘭から小樽入船町のやまき屋へ転売されてきたのは父の死後4箇月目のことで、彼女は17歳になっていました。彼女は内攻的なつつましさの中に、不幸から逃れようとする必死の願いを秘めていたのです。

遠い憧れー北の国から(札幌便)―2009年人物―小樽の青春 小林多喜二物語(6)

 

小林多喜二蟹工船」を読む 9

その後多喜二は客を装ってときどきタキを訪ねるようになりました。タキを知って半年後の1925(大正14)年3月、多喜二はタキへの手紙(書簡 全集第7巻)で次のように述べています。

 「『闇があるから光がある』

そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というものが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから、俺たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しいことを味ってみなければならない。

 瀧ちゃん達はイヤな生活をしている。然し、それでも決して将来の明るい生活を目当てにすることを忘れないようにねえ。そして苦しいこともその為だ、と我慢をしてくれ。

 僕は学校を出てからまだ二年しかならない。だから金も別にない。瀧ちゃんを一日も早く出してやりたいと思っても、ただそれは思うだけのことでしかないんだ。これはこの前の晩お話した通りだ。然し僕は本当にこの強い愛をもっている。安心してくれ、頼りないことだけれども、何時かこの愛で完全に瀧ちゃんを救ってみせる。瀧ちゃんも悲しいこと、苦しいことがあったら、その度に僕のこの愛のことを思って、我慢し、苦しみ、悲しみに打ち勝ってくれ」

 それから3週間後、多喜二は秘かに上京、東京商科大学を受験しましたが不合格でした。彼は銀行の仕事に生き甲斐を感じることができず、母の了解を得、上京して苦学しながら、作家として身を立てる考えでしたが、夢を果たすことができませんでした。「クラルテ」も四集を発行しましたが、毎号欠損つづきで、続刊も困難な状態となっていました。

クリック20世紀―人物ファイルーカー小林多喜二

 同年秋、多喜二はタキが一日も早く自由の身になるために、血のにじむような貯金をしていることを知ってつよく心を動かされ、思い切って「クラルテ」仲間の島田正策に相談しました。島田は貯金の大半を割いて200円を貸してくれたのですが、田口タキをやまき屋から身請けするには500円必要でした。

 多喜ニは母の承諾を得て、年末賞与の全額をタキの身請けのために差し出しました。

 かくして自由の身となった田口タキは義父の許に引き取られましたが、彼女はまた義父に売りとばされかねないので、多喜二は彼女のために小樽山手の奥沢に部屋を借りて住まわせたのです。しかし奥沢での彼女の生活を、俸給88円の多喜二が支えることは困難でした。

 1926(大正15)年4月下旬、多喜二は事情を知った母のすすめで、若竹町の自宅にタキを住まわせることにしました(小林セキ述「母の語る小林多喜二新日本出版社)。タキが奥沢から引っ越して来る日、彼の母は赤飯をたいて彼女を迎え入れたのでした。

 ところが同年11月11日、タキは意外にも、多喜二に宛てた一通の手紙を残して家出してしまったのです。

 「タキ子が家出をした。俺が東京へ出て勉強したいために、自分がいたら、いろいろな点で俺を困らし、纏ることになるだろうという考えである。家出をしても決して堕落の道はたどらないということを書いてある。(中略)今俺がタキちゃんを救えるたった一つの方法は結婚だ!」(日記(折々帳)11月11日 全集第7巻)18日の晩、よっやくタキが花園町の小野病院で住み込んで働いていることをつきとめることができました。しかし自活したいというタキの固い決心を知ると、多喜二は無理につれ帰ることもできませんでした。また多喜二の希望であった東京での就職も思うように実現できなかったのです。

 

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 1926(大正15)年北海道は全域に降霜が早く、1913(大正2)年の大凶作に次ぐほどの凶作となりました。

 1925(大正14)年日本農民組合北海道連合会が創立されたとき、同連合会は5支部600名の小さな組織にすぎませんでしたが、翌年には石狩を中心に、天塩(てしお)、十勝(とかち)、北見の農耕地帯で急速にその組織を拡大、43支部約3000名の農民を組織していました。

 同年夏から小作料減免運動が同連合会各支部で闘われ、永山の板谷農場、比布の有隣農場、妹背牛(もせうし)の池田農場、鷹栖の岐阜農場、裏臼の富士拓殖農場、富良野(ふらの)の磯野農場などの不在地主の農場で小作争議が起こりました。これら農場の多くは、一時激化する様相をみせましたが、ほどなく地主との妥協が成立したのに、富士拓殖と磯野農場の争議は解決の見通しがなく、、とくに磯野農場では地主側の態度が強硬で、争議は次第に深刻化していきました。

 北海道で国有地の払い下げによる不在地主の農場が増加しはじめたのは、低利資金の供給をうけることができるようになった1897((明治30)年ころからで、1900(明治33)年北海道拓殖銀行は低利資金の融資機関として創立されました。

 空知(そらち)郡下富良野村の磯野農場は約250町歩の面積で小作人は48戸、家族を加えると約200人、北海道では中規模の農場でした。

職人の遺した仕事―Archives―Desember 2012―Calendar16―レンガ積み職人が遺した建造物~北海道編(Ⅰ)昭和の文学に登場した旧磯野商店倉庫(小樽市)

 小樽に住む地主磯野進は小樽商業会議所会頭で米穀海産問屋を所有し、精米、澱粉工場も経営、北海道でも有力な実業家の一人でありました。

 他の農場と同じように、磯野農場ははじめ排水が悪く、2、3日の雨で泥沼化する土地を小作人の長年の努力で水田にした農地で、地主磯野は米が収穫できるようになった後も稲作より軽い畑年貢でよいと約束しながら、実際は北海道でももっとも高い5割以上の小作料を徴収していたのでした。

 1926(大正15)年度の収穫高を地主側は七割六分六厘作と主張、小作人側は最高四割七分、最低一割七分、平均二割二分を主張、ひらきが大きく、妥協の見通しは困難でした。小作人側は伴利八、阿部亀之助ら37人が申請人になって、同年12月中旬小作料減免要求を旭川地方裁判所に提訴、かくして磯野小作争議は次第に全道的な注目を浴びる問題となったのです。

 

 

 

 

 

 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む31~40

犬養道子「花々と星々と」を読む31

 それが、椿の咲きつくして、桃や桜の咲く季節になると、再び開けられました。「なにィ、クモォ? 平気じゃい、平気じゃい。ヒヒヒ」脳のてっぺんから湧き出るような、甲高い声の人が谷間の部屋にやって来たからです。

古島一雄(花々と星々と」を読む15参照)。正岡子規(「坂の上の雲」を読む5・7~8参照)と、『日本及日本人』の雑誌編集室で一緒であった若き日を持つ彼は、護憲運動の陰の大役者でありました。犬養木堂の右の手よと、世に知られる人でした。

 彼は道子を孫のように可愛がり、且つからかったのです。「りんごの、一番うまいとこ、どこか知っちよるかい」「知らない」「そりゃな、皮と果肉(み)のちょうど、あいだよ。じいさんにそう言うて、皮と果肉の間をもろうて来い。ヒヒヒ!」

 他にもいろんな人が来ました。頭山満。彼にしたがう、仕込杖の壮士たち。李王殿下。久邇宮さま。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―とー頭山満

 けれどー道子が恐れていた人は来ませんでした。幸いにも四ツ谷のお祖母ちゃまは、蜘蛛の多い、だっだっぴろい、そしてお湯の塩っぱい熱海はおきらいなのでした。

 その祖母ちゃまの前では、茹でられた伊勢海老のように固くつっぱりかえる母が、碁盤を前にさし向う古島さんと祖父のわきでは、横坐りさえするのでした。甘ったれて、ねえおとうさま、こんやのおかず何にしたらいいかしらんねえ、なぞ言うのでした。

「がんもどきでええよ、仲さん」「わしが干物を買(こ)うて来てやるよ、仲さん」祖父は母にやさしかったのです。

 道子はだんだんと元気になって行きました。古島さんが海べから、毎日バケツに汐を汲んで来て、「海水浴」と言って道子のゼロゼロ言う胸に塗ってくれました。 

 老人ふたりは彼女を、掌中の玉のごとくに扱いました。日光浴のかたわらで、祖父はせっせと蜜柑汁をしぼり、りんごを磨(す)りました。

 梅園そばの蜂園から取りよせた蜂蜜や、椿の大島から人にたのんで持って来てもらった蜂蜜を、祖父は丹念に、りんご汁にまぜ入れて、日光浴の彼女に飲ませるのでありました。

 半生を賭して、ついに議会を通過させ、めでたく陽の目を見させた普通選挙法が、全国の心ある人々をよろこばせたその直後、彼は政界を引退しました。

 観樹邸での日光浴の日々はまた、そのような彼の、悠々自適の閑日でもあったのです。

 若葉が、さしも広い観樹邸の、座敷の奥まで緑の色を流しこむころ、彼女たちはその邸に別れを告げました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む32

 1925(大正14)年孫文は北京にて死去、1929(昭和4)年孫文の陵墓中山陵が南京に完成すると、犬養毅孫文移霊祭に招待されました(第4回中国訪問)。同年5月20日犬養は令息健、古島一雄、萱野長知らとともに東京発、翌日神戸から長崎丸で出港上海に向かいました。また頭山満一行及び故宮崎寅蔵(滔天)遺族一行も招かれています。

Weblio辞書―検索―萱野長知―宮崎寅蔵 

 犬養らは同月23日上海上陸、この夜上海市長張群は犬養一行のために盛大な歓迎会を開催、張群市長の挨拶があり、犬養が謝辞を述べ、ただちに通訳によって同席の中国人に伝えられました。同謝辞において犬養は次のように語っています。

「自分が孫君を援助したなどとは、洵(まこと)に心苦しき次第である。唯だ孫君とは東亜の大局に対し同じ目的を持って居った事と同じ境遇に居った為めに、互いに理解して扶け合ったに過ぎぬ。」 

 5月27日南京に到着、同月28日孫文の霊柩の到着を出迎えました。犬養は祭文を朗読、6月1日孫文の霊柩を城外の墓陵に奉安する儀式が挙行されました。

ツーチャイナー地域別で探すー南京を知るー2015年9月22日 南京市の中山陵

 6月3日夜犬養毅頭山満ら一行は蒋介石の自邸に招待され、中国側は胡漢民、戴天仇(「花々と星々と」を読む30参照)らの要人が出席しました。6月4日南京発、揚州を経て上海着、6月8日海路青島に向かい済南より曲阜聖廟と孔子の墓に参拝、天津、北平(北京)に出て7月3日帰京しました。

 中国訪問後、犬養は再び信州富士見の白林荘で悠々自適の生活にもどったのですが、1929(昭和4)年8月22日早朝荘内散策中転倒して腰部を捻挫、病臥療養の身となりました。傷がようやく癒えて、同年9月25日帰京、つづいて湯河原の天野屋(「日本の労働運動」を読む47参照)別館の浴客となり、上記の如く急死した田中義一政友会総裁の告別式に臨んだ後も、引き続き湯河原で療養生活を送っていました。

 田中の死後、政友会内では鈴木(喜三郎)、床次(竹二郎)、中橋(徳五郎)、山本(条太郎 「花々と星々と」を読む38参照)、久原(房之助)ら後継総裁説が乱れ飛び、分裂しかねない情勢となっていました。 よって10月7日政友会長老、顧問、前閣僚等は協議の結果、犬養毅を総裁に推戴することに決し、翌8日幹事長森恪は犬養を湯河原に訪問、総裁就任についての諾否の内意を伺ったのです。これに対して犬養は次のように答えたそうです(「東京朝日新聞」10月9日夕刊 鷲尾義直「前掲書」中 引用)。

 「自分は党の諸君の期待するやうには働けるとは思って居ない。若し党の現状に於て自分がこの老体を提して出ることが大局の上から必要であるといふことであれば、自分も政友会の一党員として党の為め最善を尽すべき大なる義務と責任があるのだから、此際謹んでお引受けしようう。」

 1929(昭和4)年10月12日立憲政友会臨時大会が党本部で開催され、犬養毅は第6代政友会総裁に推戴されました(小林雄吾「立憲政友会史」7 日本図書センター)。

日本漢文の世界―英傑の遺墨が語る日本の近代―作品リストー犬養毅(木堂)

 第57議会(1929:12.26開会、30.1.21解散)の休会明けの1930(昭和5)年1月20日、開催された政友会大会に於いて、犬養は政党の争いは政策を以ってすべきことを強調し、金解禁問題(「男子の本懐」を読む24参照)について大要次のように述べています。

 「金の解禁に対しては、勿論その趣旨に於ては賛成であるが、それを断行するには、その時期を見ることが必要であり、またこれに対する準備は欠くべからざる要点である。

 然るに現内閣は単に財政及び公私経済の緊縮のみを以て絶対の準備対策としたことは、我が経済界の将来にとって甚だ憂慮すべきことである。これが為めに全国都鄙全般に亙る不景気は益々深刻となり、失業者は日共に激増し、此の勢を以て進めば如何なる事態を醸成するか測り知れぬ趨勢である。先づこれが応急善後の対策を行うて当面の急を救ひ、不用意なる解禁の惨禍を出来得る限り緩和せしめることに努力しなければならぬと思ふ。」

 同年2月20日第17回総選挙の結果、民政党が第1党となり、政友会は第2党にとどまりましたが、第58議会(1930.4,23開会、5.13閉会)において犬養はロンドン海軍軍縮条約(「男子の本懐」を読む26参照)について、浜口首相をはじめとする閣僚に対して、つぎのように質問演説(要旨)しています。

 「第一ハ軍縮会議ニ於ケル結末デアリマス。是ハ総理大臣ノ御演説並ニ外務大臣ノ御演説ヲ承リマシテモ、是デ国防上ノ危険ハナイト云フコトヲ断定的ニ申サレテ居ルノデアリマス。所デ此兵力量ヲ以テ確ニ安全ニ国防ガ出来ルヤ否ヤト云コトニ付テハ、私共非常ナ疑ヲ持ッテ居ルノデアリマス。

 用兵ノ責任ニ当ッテ居ル(海軍)軍令部長ハ、回訓後ニ声明シタモノガアル、此声明書ニ依リマスト、七割ヲ欠ケタ米国案ヲ基礎ニシタ譲歩デアル、此兵力量デハドンナ事ヲシテモ国防ハ出来ナイ斯ウ断言致シテ居ルノデアリマス。国務大臣ハ軍事専門家ノ意見ヲ十分ニ斟酌シタト申サレテ居ル、併ナガラ軍事専門家ノ意見ト言ヘバ、軍令部ガ其中心デナケレバナラヌ、是デハ国民ハ安心出来ナイ。」

 また政友会の鳩山一郎軍縮問題を内閣が云々することは天皇統帥権の干犯(「男子の本懐」を読む27参照)に当たると浜口内閣を批判しました。

 1930(昭和5)年11月14日浜口首相は東京駅で狙撃され、翌1931(昭和6)年4月13日首相病状悪化のため浜口内閣が総辞職、4月14日第2次若槻礼次郎内閣が成立しました(「男子の本懐」を読む35参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む33

 鎌倉の住まいは由比ヶ浜近くにある四間ほどの安普請の貸家でした。「規則正しい」散歩と日光浴にきたえられ、道子はめっきり元気をとりもどしはじめました。弟も、魚やおまじりを喜んで食べるようになりました。

 しかしある夜。二階の寝室で眠っていた道子は突き抜けに階下から聞えて来るはげしい声で眼をさましました。ふいに、何かの投げられる音がしました。

「あなた、ほんとに変わったわ。知らない人だわ。あたし、子供つれて行きます……」

「まだわからないか。行くなら行け」階下はそのまましんとなりました。彼女はいつか、枕を抱きしめて声を忍ばせて泣いていました。1929(昭和4)年の10月のこと。

 今思えばそれは、四ツ谷のお祖父ちゃまが、急逝した田中陸軍大将のあとを受けて、政友会総裁になった(「男子の本懐」を読む22参照)直後のことでした。

  政友会は明治の終りに当時の民党野党の一部が割れて、長年の政敵伊藤博文(「伊藤博文安重根」を読む1参照)公に降参して成った政党(「大山巌」を読む48参照)でした。 

 野党ひとすじに生きたお祖父ちゃまにとっては、許しがたい存在でしたが、普選法の議会通過と共に、お祖父ちゃまは守りぬいた孤塁である革新クラブを政友会に明け渡し、自分だけは「節を守って」身を退きました。

 そんな因縁の政友会の総裁を、なぜ、晩節の時代に入るべき老人が引き受けたのでしょう。軍閥の台頭―理由はただひとつ、それでありました。 中国の主権を認めず、門戸開放を許さず、日本だけの特殊権益の地として満州を中国から切りはなし、やがては中国、さらには米国も相手どろうとする軍の、狂気の沙汰を押えるには、多数党政党の首領となって天下をとるより他に道はのこされていませんでした。お祖父ちゃまは異常な覚悟で、遺言を認(したた)め、、死ぬつもりで総裁を受諾したのです。

 台頭しているのは軍ばかりではありませんでした。政党は生ぬるし、よろしく強硬策に出るべしと謳い、国内の不況と農村の疲弊に不満を爆発させつつ、危機感に沸き立つ右翼もまた。

 彼が総裁を引き受けた政友会の当時の幹事長は政党切っての「軍部派」で、政党も、議会も、すべてを軍に屈服させねば日本は「国難」を乗り切れず、「東西の新体制」も樹立できないと考える森恪(もりつとむ)でありました。

 他にも政友会には、鮎川義介(あいかわよしすけ)の一族の、巨大なる日産コンツェルンを背景に、利権と軍との結びつきから軍に著しく近い、久原房之助(くはらふさのすけ)などという長老もいました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―あー鮎川義介―くー久原房之助―もー森恪 

れきしのおべんきょう(・・  )メモメモー検索ー日産コンツェルンー2013年02月16日(土)編集  

 そんな党を押さえ、軍と対決の方向にひきずって行くのは、ほとんど無謀とも見える大仕事なのでした。

 その大仕事に、「おとうさんをひとりで放り出してよいものか」、芸術は人間性のためのものだが、軍閥による人間性の圧迫を、政治によって解き放すことも広義に解釈すれば「芸術ではないかと、パパは思ったんだよ」、ずっとのちに、父はそう告白しました。

 「おとうさんには後継ぎが要る……ぼくはこの次の選挙に出る」、覚悟し予想していたことではあったが、東中野千七百を片づけて引揚げたのも、「そのため」でした。

 新聞に、お祖父ちゃまの写真が屡々出るようになり、、母は丹念にそれを切り抜きました。

 桜山のあでやかなお祖母ちゃまが、同じ鎌倉の大町に引越して来たのもそのころでした。小さな家で、がらんとしていました。

 「ねえママ、どうしたのよ」道子はお祖母ちゃまの家からの帰り道に訊きました。「そうねえ」と母は遠くを見ながら言いました。それから急に母はふり向き、唐突な動作で彼女を抱きしめました。「ねえ道ちゃん、ママはねー」しかし母はしまいまで言いませんでした。

 いつもの声になって別のことを言いました。「さあ、海に行きましょう。海はいいのよ。とてもいいのよ」

  冬が来ました。父は破かれた原稿用紙を枯葉と一緒に焼き、母は東京から来た白い大きな紙をひろげては鉛筆を片手に考えごとをするのでした。「これ、何よ」「おうち」と母が言いました。「道ちゃんのおうちだ」と原稿用紙を綴じていた父が熱心に言いました。

 「お祖父ちゃんのおうちの裏庭をつぶして、そのおうちを建てるんだよ。いいねえ、四ツ谷に住めば学校まで歩いて行けるもの」

 松飾りのとれるころ、由比ヶ浜の家に行李やバスケットや唐草模様の緑の風呂敷がひっぱり出され、拡げられました。

 「引っ越すの?ポーラとロリータ(犬の名前)は」「大丈夫よ。箱に入れて汽車に乗せるの」

 小っちゃな子供ではなくなって帰って来た東京の、四ツ谷での生活もまた、それまでとはがらりと変りました。ひどく働き者の、しかし犬は大きらいのかよという女中と、江古田のばあやと呼ばれる活溌でよく笑うばあやが雇い入れられ、母は道子と弟をその二人にまかせ切りにして、ほとんど終日どこかに行くようになりました。父は黒っぽい洋服を着こんで、朝早く出かけ夜おそくまで帰って来ませんでした。

 二人ともこうして留守だというのに、多勢の見知らぬ人が来るようになりました。彼らは父のことを先生と呼び、「先生は最高点だ」などと言うのでした。かよはその人たちを愛想よくもてなしては「でも二区は大へんですよ。鳩山さんがいるからね。しっかりたのみます」「なにね」と、とくに下卑らしい一人が口をとがらせて、「犬は鳩より強いときまってまさあ。ハ、ハ、ハ」

 「万歳! 万歳! 最高点だぞ!」「勝った! 勝った!」潮のように人々が家になだれこみ、狂気じみたにぎわいが何日もつづく忙しさの中で、二匹の犬は身をもだえ大きく息を吐いて、そのまま動かなくなりました。

 「かわいそうに。さみしかったろうに。ごめんね」と、犬が死んでからはじめて東中野のころのママに戻って犬小屋の前にしゃがんだ母は、寝もやらず泣き明かした道子の肩を抱いてささやきました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む34

 お祖父ちゃまのすぐそばに住むようになってから、彼女は「この上等な植木屋」の、意外のさみしさに気づくようになりました。

 ある午後でした。あれは雨もようの日であったでしょうか。彼女は書斎の襖を開けました。祖父は机に向って、チョンと坐って背中を丸めて何かしきりに書いていたものと見えました。「お祖父ちゃま、何してる」「ちょっと来(こ)う。道公、おやつが欲しくないか」

 彼は眼鏡をはずし、硯の蓋をきちんと閉めました。それから書架の筆や書物をどけて、取り出したのはビスケットの罐でありました。白髪のジョージ・ワシントンの顔の描いてある赤い罐の蓋を開けて中をのぞきこみました。「まだあるわ、フ、フ。だいぶあるわ」

 「ちょっと待っておれ」水洗便所の水道のカランをひねる音がして、お祖父ちゃまは歯磨用コップに水を入れて持ってきました。

 彼女たち二人は毛氈の上に、赤い罐をはさんで、向き合って、水を飲み、ビスケットを食べました。「仲々、うまい」と彼は言い、道子を見てニッと笑いました。

 道子にしてみれば、水とビスケット二枚のおやつはあまりにもわびしかったのですが、満足しきっているらしいお祖父ちゃまを見ては、可哀想で言えませんでした。

 襖を開けかける彼女に、彼は「道公や、ママはシチューをつくるか」「うん」

 「じゃあな、こんどシチューをつくったら、ママに、おじいちゃんにも分けるように言うてくれ。忘れるでないぞ。」

 お祖父ちゃまはシチューや、油のいためものが好きでありました。が、木場の色街で育ったお祖母ちゃまはそう言うものが大きらいで、お祖父ちゃまは、お祖母ちゃまのお好みの、「あっさりした」煮つけを食べさせられていました。

 何しろ「打清((清国朝廷)興中(漢民族の中国)の革命の父孫文が、こっそり亡命してお祖父ちゃまにかくまわれていたころも、(当時の日本の政府すじはその亡命人の滞日を好まなかったので)大貧乏のさなかとは言え、菜種油で米を炒めて食べさせることすらしなかったのでした。

  それから、お祖父ちゃまが、東京や横浜の支那居留民の子弟や留学生の世話を、「日支共存共栄」のために一心に手がけたころ、「しょっちゅうやって来てはお風呂に入って行った書生は親子丼が好きで、よくおかわりをしたもんでござんす。支那の人は親子丼が好きと見えるねえ」しかし、「支那人が親子丼を好き」というわけではなく、親子丼が犬養家の食物の中で「一番油こい」ものだったから、にちがいありません。

 「ほんとうにあの書生は親子丼ををいつもお代わりしたっけが」あの書生の名は、蒋介石と言いました。

YAHOO知恵袋―教養と学問、サイエンスー歴史―中国史―蒋介石は日本に留学していたって本当ですか? 

 日常の食べものでさえ、そんな具合でありましたから、おびただしい書類や蔵書の整理などとなると、彼は全く、孤立無援といってもよい状態にいました。 

 彼女にしてみれば、ただ祖父が何となくあわれであったのです。

 蔵書は支那本が多くありました。一時は支那学の学者を志したほどの彼の、支那の文物・歴史への深い愛着と理解とが土台となってのことでありました。そしてまた、その人の来る日には、顔じゅう柔和な微笑で満たされるほどの「お祖父ちゃまのお友達」は京都大学碩学支那学の泰斗である内藤湖南先生でありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー内藤湖南

 支那書だから、洋とじとちがって、一冊ずつ積み重ねます。背表紙がないので、書架の前に立っても、どれがどれだかわかりません。だから一冊ごとに、古ハガキ余白のメモに書名が書きこまれて、はさんでありました。

 そこまでは彼は自分でやりました。しかし、虫干し、種類別、年代順などとなるともう、お手上げでした。政界は複雑微妙に揺れており、彼は決して見かけほどひまな「植木屋」ではなかったのであります。そしてまた、四ツ谷に移り住んでからは、彼の腹心の秘書となった父も、蔵書整理を手伝うひまはとても持てないのでした。

 「たれか、よい人はおらぬかの」お祖父ちゃまが父にそう言ったのは、いつごろだったでしょうか。「訊いてみますよ」と父は言いました。「菊池にでも聞いてみますよ。きっと見つかりますよ」菊池とは文芸春秋菊池寛さんのことでした。

もっと高松―検索ー文化財課―文化財課トップページー施設一覧―菊池寛記念館HP―菊池寛について 

 そしてある日「お父さん、いい人が見つかりましたよ。菊池君が、あの人なら、と太鼓判を押してくれましたよ」「おお、そうか」とお祖父ちゃまは可愛い笑顔を見せました。

 その人との出会いの日は記念すべき日でした。意外にも若い女の人であったことで、海老茶の袴をはいていたとは、道子の記憶違いだったのでしょうか。

石井桃子です」と、その人はそれこそお祖父ちゃまの丹精の、バラのように薄ら紅い頬に笑みを湛えて自己紹介をしました。清潔で温かでした。

香寺大好きー3月(10日)生まれの偉人伝―石井桃子

 石井桃子(児童文学者)さんが来るようになってから、お祖父ちゃまのどこかしらにまつわっていたあのあわれっぽい雰囲気が、さっぱり取れてなくなったのを道子はじきに発見しました。

 最後の重い任を負って死んでゆく、ほんの僅か前のことでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む35

 しかし軍部の暴走により1931(昭和6)年9月18日満州事変(「男子の本懐」を読む37参照)が起こると、同年9月21日中国は柳条湖事件国際連盟に提訴、連盟理事会は同年10月24日日本への期限付き満州撤兵勧告案を可決しました。

 同年11月10日犬養毅総裁は政友会貴衆両院議員並びに各府県支部長、院外有力者五百余名を集めて所信を演説し、満州事変の原因を支那軍の鉄道破壊としつつも、事変発生直後自ら進んで真相を宣明すべきに拘わらず、この当然の処置を怠り、甚だしく遅延した結果、吾国を国際会議に於て終始被告の地位に立つの已むなきに到らしめたことを当局の失態として非難しました。

 また曩(さき)に我が党政務調査会に於て、金輸出再禁止の必要があると主張したのは、是が金本位統制維持の唯一の手段たるを信ずる故であると述べています(鷲尾義直「前掲書」中)。

 若槻内閣は閣内不一致に陥り、同年12月11日総辞職、12月12日興津にあった元老西園寺公望は急遽上京、参内後神田駿河台の自邸に入り、犬養毅の来邸を求めました。

 同夜午後8時犬養は参内、天皇から後継内閣組閣命令を受け、帰途高橋是清を訪問、帰邸後直ちに組閣に着手、電話で交渉し来邸を求めたのは同夜のうちでした。

 同年12月13日成立した犬養毅(政友会単独)内閣閣僚は次の通りです。首相兼外相 犬養毅(後  外相 芳沢謙吉)・内相 中橋徳五郎・蔵相 高橋是清陸相 荒木貞夫海相 大角岑生・法相 鈴木喜三郎・文相 鳩山一郎・農相 山本悌二郎・商相 前田米蔵・逓相 三土忠造・鉄相 床次竹二郎・拓相 秦 豊助・内閣書記官長 森  恪

近代日本人の肖像―日本語―あー荒木貞夫―もー森恪

 

犬養道子「花々と星々と」を読む36

 1931(昭和6)年12月12日深更から13日払暁にかけてが組閣で、15日にはもう、何ごとも起らなかったような、「ふだんの」生活が永田町で送られていたのです。(道子たち親子は、総理大臣官邸裏手の秘書官邸2号に入りました。)

首相官邸HP―検索―旧首相官邸バーチャルツアー 

 まだ四ツ谷にいた間にも組閣終了と同時のすみやかさで、ほとんどひっきりなしに全国とくに郷里選挙区の岡山県から届きはじめたお守り札は、お祖父ちゃまのところではなしに道子たちの家の床の間に着く端から積まれました。あんまり沢山、連日到着するので床の間に置き切れなくなり、とうとう彼女の居室寝室に当てられた二階六畳の違い棚にまで積みあげられました。

 彼女はまず、日本間(私生活用の棟ぜんぶの称号で、洋間ももちろんあったに拘らず、ややこしい呼び方で呼ばれていた)とは杉の一枚戸によって仕切られた向うがわにある総理大臣官邸事務館(つまりほんとの意味での官邸)を探検しはじめました。思ったよりずっと広く、迷路のような廊下があって、探検は仲々渉りませんでした。オーケストラの演奏場を中二階に突き出させたルイ王朝風とやらの大宴会場が忽然とあらわれるかと思えば、 わざとかくしたような小さな洋間が、通称「芝の愛宕山」のこんもりした緑とそこにそびえるJOAK(NHKの前身)のラジオ塔を窓枠の額ぶちにおさめて、人待顔に出て出て来たりしました。

 またある時。学習院の校門の扉より大きい(と思われた)彫りをほどこした扉を力いっぱい開けてみたら、長細いテーブルに向ってお祖父ちゃまはじめ、高橋(是清)さんや鳩山(一郎)さんや荒木(貞夫)中将(当時)がいかめしい顔で坐って話しこんでいました。

 「おっと。入っちゃいかんぞ、あとで、な」お祖父ちゃまはそれでも微笑して彼女に言い聞かせるような弁解するような調子で言いました。閣議だったのです。

 愛情とか手しおとかの感じの丸切り欠けた庭が、日本間右手正面のひねこびた泉水からはじまって洋官邸前面の芝生につづいていました。洋官邸と日本間の丁度結ばれるあたりの正面に一本だけ、場ちがいな明るさで溌溂と伸び、梢を大きくひろげる榧(かや)の木がありました。

 あるときは衿に議員ポッチと略綬をつけた黒背広の正装のまま、あるときは袖口に揮毫の墨の汚れをつけた着流しのまま、お祖父ちゃまがこの榧の木のもとに屡々佇みつくすようになったのは引越してから間もなくのことで。正装のときも着流しのときも、彼は議場演壇の上で見せるあの姿勢をーつまり軽くこぶしをにぎった左手を背にまわし右手を自然に前方に流した姿勢をとって。たったひとつ演壇上とちがう(新聞写真)のは生来の猫背をいささか反らせていたことで、反り身にならなければ、溌溂と張った梢を見ることはできなかったからです。 

 1932(昭和7)年。官邸日本間付の「まかない」のつくった、おいしくないお雑煮を、そそくさと祝った日からさして間もない風の冷たい午後、道子は急にお祖父ちゃまに会いたくなって、日本間の庭に出かけて行きました。お祖父ちゃまはあの榧の大樹の下に佇んでいました。考えごとをしている、そう感じて遠慮がちに道子は低く呼びました、お祖父ちゃま、何見てる。

 「道公か……寒いのう」しかし彼は衿巻もつけず外套も手袋もつけていませんでした。そして見上げて、彼の疲れはてた表情に一驚したのです。

  ワシントンは日本軍部の「反省」をすでに大正時代以来つよく迫り、「満蒙のためのシベリア出兵」にも口を入れていました。国内的にも不況と農村疲弊による危機感が狂おしく昂まって、貧苦に追いつめられた農村出身の若い兵たちの間には、無為の政党への憎悪感がふくれ上り、それは一直線に「日本の生命線・満蒙進出」と「へっぴり腰の堕落政党打破」とにつながって来ていました。「政党・議会政治」にまっこうから反対の軍部にとっての絶好の背景でありました。そう言う背景の中から、1931(昭和6)年9月18日に柳条湖事件をきっかけに満州事変が起こったのです。

 その彼らの背後には陸軍中将荒木貞夫陸相関東軍路線を支持・推進する内閣書記官長森恪(「花々と星々と」を読む35参照)がいました。満州の宗主権を中華民国の手に返し(即ち日本軍満州占領を解き)、そののち満州の経済開発をあらためて中華民国と日本国双方の対等で平等な話しあいにもとづき協力して行うという処理案を唯一のものと考え、軍の意向と正面衝突するその処理案遂行のために身を挺したお祖父ちゃまの内閣に、あるまじき「矛盾」と後世の史家の多くは言います。

 しかし最も「危険な」ふたりを己が懐中に抱えることによって彼らの動きを牽制したいと彼は叶わぬ望みを望んだのでありました。しかし彼は、死にゆく者に対して知識と技術のすべてを注ぐ医者にも似て、人事の限りを尽そうとしたのでありました。尽した人事のもひとつは、大蔵大臣高橋是清の出馬を乞うたことで、金の面で軍を抑える筋金入りの役者として、高橋翁はゆきづまった財政金融の不安を、些かなりとも安定の方向にひきずれる人物でした。

 お祖父ちゃまは一日でも永らえれば一日長く軍を抑えることもできようかと、彼は持病蓄膿症を毎日大野耳鼻医師に来診を乞うことによって癒そうとし、酒を絶ち、塩分を避けていたのでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む37

 「道公、卒業式が近いな」彼女は1932(昭和7)年3月、女子学習院前期(小学 4年編成)を卒業し、中期(中学)に進学する予定でした。

「お祖父ちゃんは今日はちと用がある―が、あしたの夕方、大野先生の来たあとならええわ、お祖父ちゃんの部屋の来(こ)う」言い終って再び彼は榧を仰ぎました。

 大野医師の退(さが)ったあと、お祖父ちゃまは、蓄膿症洗滌のため布かせた布団の上で、枕にもたれてちょこんと座っていました。

 「なあ道公」とお祖父ちゃまは切り出しました、「卒業はひとつけじめになるでな、ええ機会と思うてお祖父ちゃんはー」少し間をおいて、「道公に記念をのこしたい…」

「これは孫さん(孫逸仙)の葬式に(支那に)行った折、お祖父ちゃんが見つけた硯で…わるいものではない」それから彼は端渓というものについて少し語りました。

八ヶ岳通信―濃淡庵 小角堂―濃淡庵硯林ー硯譜―基礎知識―その3 端渓硯 

 「それからこの水差しは」ともひとつの箱を開けて、優に美しい一品を、皺深い手で撫でつつ、「やはり支那のものだ。このふたつ……」 

「それからの、楠瀬(名は日年、お祖父ちゃの旧友で彼の表装、硯箱づくりを一手に手がけた)に言うてつくらせたが」と、のこるひとつの箱の中から一本の軸をとり出し、母に手伝わせてひろげました。それはお祖父ちゃまがすでに2年前道子のためとくに書いてくれた「訓戒」でした。濃緑に金粉をあしらった茶掛風の軸の書は子供の眼にもみごとと映りました。「恕」

 …自分は14歳で父を亡くしてから貧窮困苦のうちに成長した、世の辛酸と人の心のうつりかわりを知って人となった、だから他人に対してもあのころの自分の境遇にあるならばと思いやらずにいられぬ。使用人を叱責したことのないのはそのためである。恕せ。思いやれ。恕の心を忘れるな。女孫道子にのこしたい訓はこれである、と。

 おとうさまこんな貴いものをと言いかける母に、「それその反物を取っておくれ、道公や、お祖父ちゃんは道公に着物の一枚を買(こ)うてやったことがなかったな。卒業式に(当時、女子学習院の式服は銘仙紫無地の紋服に袴であった)着てゆく羽織を一枚と思うてとりよせた。お祖父ちゃんの好きなのを三反えらんでな」ふいに茶目っ気たっぷりに笑って、「三反もらおうなどと欲張ってはいかぬぞ。その三反の中から好きなのをおえらび。一反だけだぞ、ハ、ハ」

 彼女はただもう上気して、銘仙に珍しく白の小梅模様を飛ばした紫地のがあって、彼女はためらうことなくそれを指しました、「これ。これがいい」「そうか、それからと、」と

 彼は布団の上から枕もとの小机に手を伸ばしひき出しを開けて(そのひき出しの奥には厳重の封をほどこした遺書―総理大臣拝命の夜ひそかに清書した遺書が入っていた)一包の紙をとり出しました。

 「お祖父ちゃんの友人の支那の人からもろうて大切にしてきた紙じゃ。乾隆(けんりゅう)の帝(みかど 清の第6代皇帝高宗の称、乾隆は年号)の御紙(ぎょし)じゃ。つまり、のう」と乾隆御紙を説明してから「道公にのこす。大切にせいよ」

香寺大好きー8月(13日)生まれの偉人伝―乾隆帝

夏樹美術株式会社―文房具の買い取りについてー紙―乾隆紙

 御紙はこの上なく美しく思われました。一枚は白地に金泥の梅の図。一枚は碧紫の濃淡。愛する孫に遺品を手ずから与えることを思い立つほど、迫り来る「時」をあの風のある一月の午後、彼は榧の梢に「見ていた」にちがいなかったのでしょう…

 新内閣は成立同日閣議で金輸出再禁止を決定、大蔵省は金貨幣・金地金輸出許可制に関する件を公布しました。

 第60議会(1931,12.26開会、32.1.21解散)において犬養首相兼外相は同年12月27日満州問題に関する声明を発表し、「帝国政府は連盟規約、不戦条約(1928.8.27調印 外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)、その他各種条約、及び今次事件関する理事会両度の決議を忠実に遵守せんことを期するものにして、その間政府に於て凡ゆる手段を尽し、日支両軍の衝突を予防するに努めたる誠心誠意と、隠忍自重とは、全く前記諸条約及決議に基く義務に忠実ならんとする精神に出でたるものなること、必ずや世界輿論の認識を得べきを信ず。」と述べています。

 1932(昭和7)年1月21日衆議院解散、2月9日前蔵相井上準之助血盟団員に射殺される事件が起っています(「男子の本懐」を読む40参照)。2月20日第18回総選挙が実施され、政友会が大勝、第1党となりました。

 しかるに軍部は満蒙の実質的日本領土化をめざす中国からの独立方針により、同年1月7日陸軍中央部は、陸・海・外3省の協定による支那問題処理方針要綱(満州独立の方針)を関東軍参謀板垣征四郎に指示、同年3月1日満州国建国宣言を発表、宣統廃帝溥儀が同国執政に就任しました。3月5日には三井合名理事長団琢磨血盟団員に射殺される事件が起っています(「男子の本懐」を読む40参照)。

 これに対して、同年3月12日閣議は満蒙処理方針要綱(支那問題処理方案要綱 「現代史資料」7 満州事変 みすず書房)を決定、軍部方針を表面的に追認しながら、これとはことなる裏工作がすすめられていました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む38

 「何か起る、何か起る…」四囲の空気の切迫は、もう子供にもそれとわかるほどになっていました。

 「ねえ道ちゃん、お祖父ちゃまのとこにできるだけちょいちょい行ってあげようね」と母が言い、父もそう言うので、彼女は総理官邸日本間にべったりといることにしました。

 だがー史料と記憶はどうも食い違っていて、その人(萱野長知「花々と星々と」を読む32参照)が蒼惶として、且つ秘かに、台所口から日本間に「再び」やって来たのは、桜の蕾のふくらむころでした。

 萱野長知。曽て東京留学時代の汪精衛などと共に革新的な「民報」を編し、お祖父ちゃまの早稲田の寓居に中国革命の父孫先生が滞在されたころ、入りびたりであった中国通。武漢での革命戦に孫先生のもとで実際に戦ったこともある熱血漢。お祖父ちゃまを理解し、軍と親軍派が「生命線」と呼ぶ対大陸軍略こそ実は日本を「殺してしまう」愚策と信じてお祖父ちゃまの右手となることを肯じた男。

 1931(昭和6)年の押しつまるころ、お祖父ちゃまは萱野さんを密かに招き、当時中華民国政府の孫科あての極秘の親書を持たせ、商社員を装わせて、軍の背後での日支和平工作第一歩をかためようとしたのです。

 萱野さんは軍の眼をかすめ変名でみごと上海に入り南京に着きました。「国父孫文先生の同志、いま来(きた)る。日中永遠の友好を願って満蒙問題処理のため来る」と下にも置かず中国政府に礼遇されました、日本軍は気づいていませんーと告げる密書がお祖父ちゃまにとどきました。1932(昭和7)年2月初めのこと。

 お祖父ちゃまは飛びたつ思いで、中国政府と正式に交渉すべき第二の人物を秘かに招きました。それは武漢のころ、孫文に三百万円の大金を都合して助けた男。議会政治のみが日本を救う道と信じて動じぬ男、「三十年先だけを見ている」豪胆でしかも細心な男―山本条太郎(山条)でありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山本条太郎

 彼は、お祖父ちゃまから「萱野・孫科会談を協定書としてな、調印して来てくれないか」と持ちかけられると、軍に知られれば生命の危険があることを承知しながら、「ああ、行って来てやるよ」と豪快に言い放ったのでした。

  内閣書記官長森恪が、じいさん日本間で何かごそごそやっているなと敏感に気づいたのはそのころでした。三井での創設以来の切れ手と曽ていわれた森が、萱野さんや山条さんのいかにも茶飲み話風に出入りするお祖父ちゃまならぬお祖母ちゃまの部屋を臭いとにらんだのは当然だったでしょう。ただちに秘密電報が関東軍の石原中佐に飛び、同時に逓信省(郵政省)に手をまわした森は総理あて一切の電報を押さえたのです。「ダ ケツナル」その一文を最後に、萱野さんからの音信は絶えました。

満鉄と関東軍―昭和初期の内閣―犬養毅 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む39

  同年5月15日は爽やかに輝いてまことに日曜日らしい日曜日でした。「今日はね、おひる、みんな外よ」と母が笑いながら言いました。「お祖母ちゃまね、こんやおるすなの。だからおるすの間に、ウフフーだってお祖母ちゃまバタは臭いっておっしゃるでしょーお祖父ちゃまにおいしい洋食、上げるのよ。A1(エイワン それは当時出来た、『一番上等の』フランス料理店であった)にたのむんだけどたのむだけじゃあ具合が悪いからね、まずみんなで食べに行って、たのんで、取ってくるの」「お祖父ちゃま、今から夕方をお待ちかねなの」

 コンソメと軽い一品と特別焼のパンを注文してA1を出たのは午後1時半ころでした。道子は総理官邸に出る一本手前の筋で車を降りました。いまはもうなくなりましたが、そこには外務大臣官舎(旧有栖川宮邸)があり、芳沢(外相)のいとこたちが「テニスをしよう」とさそいをとうにかけて来ていたのを思いだしたからでした。「おそくも5時半にはお祖父ちゃまんとこに来るのよ、お待ちかねだからね」と母は外相官邸の広い車寄せに小走りに入る道子の背に言葉を投げました。「ママと康ちゃん(道子の弟)はもう行ってますからね。パパも5時には用をすませていらっしゃるからね」

 ラケット遊びの途中でしかし道子はさすがに気になり出しました。「いま何時?」「4時半」「そろそろ帰る」と彼女は言いました。「やだァ道ちゃん、もう少し」少し少しと釣られて5時になり、陽はもはや傾いていました。

 そのころ、母は日本間台所のまかないに指図をし了えて、少々早いはわかっていましたが御馳走の前に食堂でお茶でも一服と思い、お祖父ちゃまを呼びに行きました。お祖父ちゃまは喜んで、母のあとから食堂に向いました。

 ちょうど廊下が鍵の手になる中庭の角まできたとき、母は異様な足音と物のはじけるような「ふしぎな音」を耳にしました。(それは護衛田中巡査の撃たれた音だったのです)

 何ごと、と立ち止まったとき、ころぶが如く、護衛のもひとり、村田巡査が走りこみました。「暴漢です、お逃げ下さい!お逃げください!」

東京紅團―テーマ別散歩情報―戦前を歩くー5.15事件を巡る(下)

 「いいや、逃げぬ」お祖父ちゃまはしずかに言いました。「逃げない、会おう」言葉の終りやらぬうち、海軍少尉の制服をつけた二人と陸軍士官候補生姿の三人が土足のまま、疾風の勢であらわれました。お祖父ちゃまを見ると矢庭にひとりが拳銃を突き出し引き金を引いたのですが弾丸は出ませんでした。

 「まあ、急(せ)ぐな」「撃つのはいつでも撃てる。あっちに行って話を聞こう……ついて来い」お祖父ちゃまは先にたってひょこひょこと歩きはじめました。4人の若者は一瞬気を呑まれた風におとなしくあとにつづきました。

 母は本能的に弟を抱きあげて胸の中に包みこみました。その胸にひとりが拳銃をぴたりとつけたので、母は中庭とのさかいをなすガラス戸に釘づけとなりました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む40(最終回)

 お祖父ちゃまは嫁と孫から一番遠い「突き出た日本間」に暴漢を誘導しました。床の間を背に、中央の卓を前に坐り、煙草盆をひきよせると一本を手に取り、ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう…」

 そのとき、母は自由に動かせる眼のはしに、前の5人よりはるかに殺気立った後続4人の「突き出た日本間」に走りこむさまをチラととらえました。

 「問答無用、撃て!」の大声。次々と九つの銃声。母の胸に拳銃をつきつけたひとりも最後の瞬間走り去って撃ちました。彼が走ると同時に母は弟をその場に置いて、日本間に駆け込みました。

 こめかみと顎にまともに弾丸を受けて血汐の中でお祖父ちゃまは、卓に両手を突っ張り、しゃんと坐っていました。指は煙草を落していませんでした。母につづいてこれまた台所から馳け入ったお祖父ちゃま付きのあのテルが、おろおろすがりつく手を払うと、「呼んでこい、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じてから、ちょっと待て、まず「煙草に火をつけろ」しかし火はつきませんでした。テルが激しく震えていたからです。テルは震えつつも若いモンを呼びに走りましたが、無駄でした。

  母はお祖父ちゃまが即死でないのを確かめると、その日の午後も宅診を願った大野医師がまだ官邸にいたので、お祖父ちゃまの応急手当を依頼するとともに、青山(外科)博士以下数人の名医に電話したのでした。

 「大変です!大変です!総理が…」テニスコートに向って外相官舎付きの事務官が叫びつつ駈けこんだのは5時20分ころです。

 道子は外相公用車にとにかく乗ったのをおぼえています。顎紐を結んだ警官数十人が続々と詰めかけていたので、正門から入れず、裏道で車を降り、勝手知った道をいとこたちの先頭に立って裏門から内玄関へ。さいしょに目についたのは、蹴破られたあの杉戸で、、戸のわきに田中巡査が倒れ、数人が「しっかりしろ大丈夫だ」と叫びつつ手当をしていました。「突き出た日本間」の襖は大きく開け放たれ、縁側近くにお祖父ちゃまの横たわっているのが見えました。応急の包帯で頭から首にかけて包まれた姿で。

 「入っちゃだめ」と母が洗面器と白布を手にして廊下まで出て来て言いました。「大丈夫です」彼女は声をあげて泣きました。

 そのころから続々と医師団が到着しはじめ、お出ましだったお祖母ちゃまも芳沢の伯母さまも父も、閣僚も次々に小走りの緊張し切った姿を見せました。

 6時40分に医師団の最初の発表がありました。こめかみと顎から入った弾丸3発。背にも4発目がこすって通った傷があるが、「傷は急所をはずれている。生命は取りとめる」

 8時過ぎ、お祖父ちゃまは布団ごとかつがれていつもの部屋に移されました。彼女はのぞきに行きました。

 「心配せんでええわ、なに、痛いかって? 弾丸が入ったのじゃから少々痛むのは当たりまえだ。まあ、みんな少し休んだらどうかな」

 で、道子はごったがえす官邸をぬけ出してひとまず秘書官舎に帰りました。かよにすすめられて、客のためつくった炒り鶏(とり)と五目ずしをつまんでから、赤いセルの寝間着に着かえた彼女は廊下をうろうろと歩きまわりました。

 10時過ぎ、あわただしく玄関の戸が叩かれ、だれかが上ずった声で呼んでいました。「道子さま!道子さま!早く、早く!」

 ―お祖父ちゃまの部屋のたたずまいは、8時に見たときと一変していました。窓辺に低く置かれたスタンド以外一切の電灯は消され、黄ばんだ丸い小さな光の環の中で、包帯に包まれたお祖父ちゃまの口を少しあけた顔だけが浮いていました。苦痛のかげはなく、顔はいつものようにーいや、いつもよりははるかに柔和にみえました。呼吸は間遠であり弱くありました。

 医師団は彼女たち家族を取り巻いて粛然と起立していました。その背後に高橋蔵相。鳩山文相。鈴木法相。中橋内相…

 お祖父ちゃまの安らかな顔に白布のかけられたのは午後11時26分でした。まろぶがごとく彼女は庭に走り出ました。まっすぐにあの榧の根もとに。涙はもはや涸れ、仰げば、澄んだ暁の空に星が無数にきらめいているのが見えました。待っても待っても、しかしお祖父ちゃまの魂は見えませんでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む21~30

犬養道子「花々と星々と」を読む21

  古い本の少なくない書棚の中に、ひときわめだって古ぼけた一冊があります。著者は大町桂月、書名は「伯爵後藤象二郎伝」(伝記叢書 大空社)。

  一葉の写真にぶつかると、道子はそのまま長い間、動きませんでした。うら若い乙女が、ページの上から、微笑を含んでこちらを見ています。

 その人は道子の、母方の祖母(後藤延子)です(「花々と星々と」を読む1「系図で見る近現代」―目次―第12回 犬養毅参照)。

 ドクトル・メディツイーネ長与称吉(「花々と星々と」を読む1参照)は、ある園遊会の緑したたる芝の上で延子を見そめました。あの人をもらえないなら自分はとても病院経営などしてはいられないと、まだ生きていた父専斎に向って言い、あげくのはては恋患いで痩せ細りました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー長与専斎

 上流貴顕の社交界で多くの青年を同じ目にあわせつづけた佳人は、とうとうドクトル称吉の嫁となることになりました。媒酌は伊藤博文(「伊藤博文安重根」を読む1参照)夫妻でありました。

  道子が小さかったころ、長与延子は後家にふさわしい小さな束髪を結い、いつも黒い羽織を着て、しかしまことに華やいだ暮しをしていました。

 「桜山にゆこ」言い出すのはいつも父(犬養健)でした。そう言うときの彼の語調に、いつもとちがう、何となく甘たるい妙なものを道子は感じました。

 同じ東中野でも、こうもちがうものかしらん。桜山は踏切の向う側にあって、文字通り、桜の木々にふちどられる小高い丘でした。 

  古風な和式玄関わきには、わびすけ椿。南天。黒もじ。山吹。品のよい、さりげない格子戸をカラカラ開けると、しかしそこは「ドイツ」でした。

 ベルリンからお祖父ちゃまドクトル・メディツィーネのお持ち帰りになったバヴァリア・タイルをはめこんだ大飾時計が、チックタックと悠長な音をたてながら、これまた緑や金のこまかい模様でかざられる振子をせい一杯振って、正面にでんと立っていました。

  お祖母ちゃまの居間でお茶など飲む間じゅう、父はかあさまかあさまと甘ったれました。事情があってほんの幼児のときに、実の母からもぎはなされてさみしく育った彼は、桜山のお祖母ちゃまに、ほんとの母を見出していたにちがいありません。

「そうよ、パパはかあさまを好きよ。かあさまもパパを好きよ。だってママがパパを知るようになったのも、かあさまがパパと仲よしだったからなのよ。パパはいりびたりだったのよ」母(仲子)は後に一度そう言いました。

まるっと中野―まち歩きーぶらり風景探訪

 

犬養道子「花々と星々と」を読む22

  1921(大正10)年4月20日は、観桜会にふさわしい、柔らかな光に満ちておりました。四ツ谷の祖父、犬養木堂毅という人は、そんな派手な集りを出来るだけ避けたいたちでしたが、その日は出かけました。

 木や花や土や草原が好きでしたから、新宿御苑はなるほど整いすぎて、彼の好む野趣から程遠かったのですが、その園の、枝ぶりのよい、樹齢も丁度よい桜には定評がありました。若緑の萌える香りと、満開の桜とを、彼は愛(め)でたかったのです。

楽しく散歩―散策スポット目次ー東京―1月~4月―1264 新宿御苑のしだれ桜&桜  

 この日ばかりは前年からしきりと世を騒せはじめた、カリフォルニア州の日本人排斥問題も、議会で論陣を張りつづけて来たシベリア派兵の撤退のことや、早々に実現されるべき普通選挙法案のことも忘れました。

 その日は彼の満六十六歳の誕生日でした。六十六年前、二万石に満たぬ岡山の小藩の、貧しい庄屋であった彼の父は、愛読する孔子の書物の一文句の文字をとって、生まれたばかりの子に名づけました。……士は以て弘毅ならざるべからず……

 その文句はこう続きます。任重くして、道、遠し。

ちょんまげ英語日誌―投稿記事一覧―孔子の論語 泰伯第八の七 士は以て弘毅ならざるべからず

 笈(修験者などが背負う脚のついた箱)を負うて、貧書生として上京し、やがて自由民権の思想を謳う新聞の記者となったころ、「道、遠し」の遠を取って子遠という字(あざな 本名以外につけた名)をつけました、木堂、とは、「木強ければ」の、これもやはり支那の古書の句から引いたものでありました(「花々と星々と」を読む4参照)。

心が楽になる老子の言葉―トップページーやわらかに、しなやかにー生まれる時は柔らかい 

 つまり当時の新聞は、ときの権力者に敗れた、反骨の人が寄り集まってつくっていたわけで、最初から反政府・野党精神に満ちていたのでありました。

 しかしどうやら普選法を通すという任に限っては、もはや道の半ばは過ぎたようだ、-彼は機嫌よく御苑を退出しました。

 御苑の門には、この新宿からはそう遠くない四ツ谷の家から飛んできた書生がひとり、待ちかまえていました。

 若旦那様のところに、今朝がた、お嬢さまがお生まれになったそうで。なに、同じ誕生日に。

 任重い道の半ばを過ぎたときに、その赤ん坊は、お祖父ちゃまにとっての、特別の孫となり、道子と七日目に名づけられました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む23

 1924(大正13)年1月1日枢密院議長清浦奎吾に組閣命令が下り、同月4日貴族院研究会幹部は組閣援助を決定、同月7日清浦奎吾内閣が成立しました。

 これに対して同年1月10日政友会・憲政会・革新倶楽部の3派有志は清浦特権内閣打倒運動を開始しました(第2次護憲運動発足)。同年1月15日政友会総裁高橋是清は同会幹部会で清浦内閣反対を声明、これに対して床次竹二郎らは脱党、同月29日政友本党を結成、清浦内閣の与党となりました。同月18日高橋是清加藤高明犬養毅3党首は熱海の棲雲居(別荘)から上京した三浦梧楼の斡旋で会談(「花々と星々と」を読む15参照)、政党内閣確立を申し合わせました。1月31日衆議院は議場混乱による休憩中解散となりました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む28参照)。

 同年5月10日第15回総選挙が実施され、憲政会が第1党、護憲3派の大勝利となり、6月7日清浦奎吾内閣は総辞職、6月9日加藤高明に組閣命令が下り、6月11日第1次加藤高明護憲3派連立)内閣が成立しました。

 同内閣の成立をめぐる古島一雄の談話(鷲尾義直「前掲書」中)によれば、加藤は犬養と合わず、彼の入閣を希望しなかったようです。犬養は古島に入閣せぬかと云ったが、古島は犬養に入閣をすすめ、政友会から高橋が入閣すれば、ここではじめて三派合同内閣になるではありませんかと犬養に言うと、犬養は高橋が入閣するなら入閣する意向を示しました。そこで古島が政友会幹部にこのことを打診すると、政友会側は総理大臣をしていた高橋が加藤の下に平大臣をやるのは問題だと云うから、古島がそれは貴下方の間違いだ、世間はかえって度量の大きい人だといって、高橋の器量が上がるとは思わないのかと反論、犬養の入閣明言もあり、高橋・犬養の入閣が決定しました。

 それから閣僚の割り振りの相談になったが、加藤は内務、大蔵を除く外なら何でもよいという意向だったので、犬養が高橋に、君は何をやるかと問うと、高橋はさうだナ、農林でもやらう、犬養はソレなら俺は逓信の古巣にもどるということになりました。

 同年12月26日開会された第50議会において1925(大正14)年3月19日男子普通選挙法案が治安維持法と抱き合わせで通過しました(凛冽の宰相加藤高明」を読む29参照)。

 同年4月1日犬養毅は丸ノ内の中央亭に革新倶楽部代議士らを集めた晩餐会で「行政財政の整理、軍備縮小、または貴族院改革問題、普通選挙の問題、是等の諸問題が兎も角も解決の端緒にだけは就いたのである。併しこれ丈で以て満足することの出来ないのは言うまでもない。例へば普選問題にしても言はばお膳立てが済んだといふ迄であって、本当の仕事は実は是れからである。」(鷲尾義直「前掲書」中)と述べているように、今議会における普選の実現に満足していなかったことは明らかです。

西洋料理人列伝―渡辺鎌吉(中央亭創業者)

  また犬養は逓相として大震災直後の復旧復興に実績をあげ、視察で電話電信局における少女たちの劣悪な労働環境を目撃して甚く同情、東大の博士に逓信省嘱託を依頼して、その改善を実現し、温情を慕われました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む24

 1925(大正14)年4月4日立憲政友会総裁高橋是清は引退を表明、同月16日商相兼農相を辞任し、4月13日田中義一(凛冽の宰相加藤高明」を読む30参照)が政友会総裁に就任しました。

 同年5月5日立憲政友会革新倶楽部中正倶楽部3派の有志は合同に関する覚書を作り、これを実行するよう努力することを約束しました。

  同年5月10日革新倶楽部麹町区内幸町の仮事務所で、代議士、前代議士、常議員、地方支部代議員の連合協議会を開き、犬養毅は上記合同参加の理由について、つぎのように演説(要旨)しました。

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 「普選法の成立を見るに至り、茲に本問題の一段落を告げたのである。是れより以往吾人の最も重大と信ずるものは、普選法の運用である。万一にも無産階級がその運用を誤るが如き事あらば、吾人の責任は遁るる事は出来ぬのである。普選に依って今後無産階級よりも続々代表者が選出されるであらう。されど選挙では、その代表は議院の一少部分に過ぎぬであろう。然らば既成政党の勢力は如何といへば、急激に減退するものではない。この七八年乃至十年間の過渡時代の政治は、依然として旧勢力に依って運用せらるるのである。

 然らば旧勢力は如何なる悪政を行っても吾人は不関焉として傍観すべきか、或は吾人の力を加へて之を改善して過渡期に処すべきであらうか、是が最も大切なる現実の問題である。

 旧勢力若し依然として新勢力の悪感を刺戟するが如き行動を以て政治を運用するに於ては、或は早晩激烈なる大衝突を惹起するに至るであらう。

 政友会は勿論多年の間吾人の非難攻撃した対象物であった。されど首領にして統制其宜しきを得れば、或る程度迄はこれを制止し得るのである。現総裁田中(義一)君も亦決して世の非難を受くるが如き行動には断じて出でざるは自分の信ずる所である。

 我が同志は、多年逆境で鍛へ上げたる勇気を以て、政友会、中正倶楽部有為の人物と共に合同計画を成就し、進んでその改善を行ふに於ては、新興の一大政党は必ず新生面を開き、健全なる発達を遂ぐるものと信ずるのである。

 茲に一言お断りを為したきは、此度の手続の周到を欠きたる一事である。斯のごとき重大問題に就ては、犬養自ら全国同志と親しく意見を交換すべきが当然なれど、如何せん身の官吏たるために、奔走の時間を得難く、それが為に意志の疏通せざりしは偏に自分の落度で、諸君に対し慚愧(ざんき 恥じ入ること)の至りである。」(鷲尾義直「前掲書」中)

 

犬養道子「花々と星々と」を読む25

 犬養の政友会への合同提案は苦渋の決断だったようで、この時点で政友会に合同しなければならない理由についての説得力に乏しく、これは犬養の本意ではないとする意見もでる始末で、犬養の演説には彼の引退について何等言及がないのに、彼がそれとなく引退をほのめかせたと解する者もあったようです。

 採決の結果革新倶楽部の政友会への合同は了承されたものの、一時乱闘寸前の険しい雰囲気がただよいました。合同反対の尾崎行雄らは中正倶楽部残留派とともに新生倶楽部を組織しました。

キリヌケ成層圏―似顔絵リストーいー犬養毅  

 後年古島一雄(「花々と星々と」を読む15参照)はこのときの犬養の心境についてつぎのように語っています。

  嚮(さき)に歴史ある国民党を解党して、新時代の気運に乗じた新政党を創立すべく、一時革新倶楽部を組織したが、それは決して成功とは言へなかった。同志議員の数は選挙毎に減少する、其上、一人一党的倶楽部組織に在って、国民党時代の如き統制の行われないのは当然であった。名は党首に非ずして、而も党首たる負担を荷はせらるる木堂の苦痛は一と通りではなかった。而して木堂には一切の進退を委ね来たった同志がある。而も自ら顧みれば齢已に古稀(70歳)を超えている。前途ある是等の同志をして適処を得せしめねばならぬ。

 つづいて1925(大正14)年5月28日犬養は議員並びに逓相辞任を発表、同月30日逓相を辞任、後任として安達謙蔵(「男子の本懐」を読む31参照)が就任しました。 

 しかし犬養は引退声明で「辞職したとて決して国事を放棄するのではない、徹頭徹尾国家への御奉公は勉めるのである」と述べており、政界を引退する意思はありませんでした。同年7月中旬犬養は同志の招きに応じて東北地方遊説にでかけています。

 同年6月11日犬養は退任挨拶のため、岡山県都窪郡中庄村の性徳院来訪、これに対して旧革新倶楽部岡山支部では補欠選挙協議会が度々開かれ、7月16日木堂先生再選に決定しました。しかるに木堂先生代理の岡田忠彦は倉敷東雲楼で倉敷町長はじめ多くの町村長と会見、この度の再選は先生困惑甚だしき旨を述べました。7月22日岡山県第4区衆議院議員補欠選挙が実施され、犬養毅が当選しました。7月26日中庄村長らは犬養先生当選承諾懇請のため上京、翌日四ツ谷南町の犬養毅私邸を訪問、犬養は苦り切って無言でしたが、しばらくして今回は選挙区民諸氏の依頼に敬意を表して、困るけれども一応受諾せんとのことに一同雀躍して喜びました。一同麹町内山下町の政友会本部を訪れ、前田幹事長に委曲を語り、更に新聞記者室でも仔細を報告しました。、

  同年7月31日第1次加藤高明護憲3派連立)内閣は閣内不統一により総辞職、8月2日第2次加藤高明(憲政会単独)内閣が成立しましたが、1926(大正15)年1月28日加藤首相死去(三浦梧楼同日死去)しました(凛冽の宰相加藤高明」を読む30参照)。

 一方、上述のように犬養は再び政界の第一線に戻ったのですが、政友会との関係は長老という閑職で自由な時間に恵まれたため、1924(大正13)年起工、翌年完成した信州富士見の別荘白林荘(「花々と星々と」を読む17参照)に悠々自適の生活を送り、時々招聘されて地方の講演に赴くのでした。

 1926(大正15)年1月30日若槻礼次郎(前内閣閣僚全員留任)内閣が成立しましたが1927(昭和2)年4月17日枢密院台湾銀行救済緊急勅令案を否決したため総辞職、同年4月20日田中義一政友会内閣が成立、野党となった憲政会は同年6月1日政友本党と合同して立憲民政党を結党、浜口雄幸が総裁に推挙されました。

 しかるに1928(昭和3)年6月4日関東軍参謀らによる張作霖爆死事件が起こり、この処理をめぐって天皇の信任を失い、1929(昭和4)年7月2日田中義一内閣は総辞職し、浜口雄幸民政党)内閣が成立しました。同年9月29日田中義一は死去しました(「男子の本懐」を読む21~22参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む26

 さて赤泥のあの坂がおしまいになると、道は急に明るく開けて、右と左に別れます。左に行けば地主の「石森さんち」があって、そのはす向いが、市外東中野千七百。磨かない御影石のひょろりと不安定な門柱をたてたわが家でした。塀はなくて根もとが隙々の槇の木の生け垣がめぐらされていました。

 隣人の家の、いつもまっぱだかの英ちゃんという子はぬうと入って来ては、母(仲子)の丹精の花畑と野菜畑を、容赦なく踏み荒らし、書斎の窓近くの楓や、庭の正面の松の木にするすると登って、枝から枝へ飛び移りました。そにたびに書斎の襖がガタピシと開いて、梯子段を二、三段ずつ駈けおりる音がして、ステッキをふりかざし、尻かっらげで毛脛を思い切り出した父(犬養健)が、こらあこらあと、これまたはだしで英ちゃんを追いかけました。

  父は大立廻りをけっこう楽しんで、英ちゃんの這いこむのをひそかに待っている節がありました。遅筆で寡筆で、神経質で、容易に枡目のつぶれない原稿用紙を前に坐りつづけなければならない苦行に、時に耐え得ない父にとって、梯子段を駈け降りるのは願ってもないゲームだったかもしれません。

 家は持家でなく、家賃はたしか七十円で、階下に八畳の茶の間、八畳の納戸、四畳のなんでも部屋に玄関と女中部屋各々三畳。広い勝手と広い風呂場。西南には飛び出た恰好の、納戸つき西洋間。二階は八畳、四畳半に、あとで建増して納戸の上に乗っけた書斎と、書庫がわりの渡り廊下。

 庭は広くて、三、四百坪はらくにあったでしょう。半分を芝にして、残りは花畑と野菜畑でした。母は集まって来る文学青年たちを手下にして、年に二度か三度大量の石灰を庭全体の土に混ぜるのでした。

 石森さんちの鼻たらし子が一度こんな風に彼女に聞きました。「なぜ、おとうさんはつとめに出かけんの」「なぜ、夜、起きてんの。なぜ、ぶらぶらしとんの。会社にゆかんの。兵隊にもゆかんの」

 「親爺(犬養毅)は藩閥打倒の旗をかかげて苦節に甘んじて、ようよう普選を実現させるところまで漕ぎつけたと言うに」、「息子は鞄持ちのひとつもせんで、、何をぶらぶら、ろくでもない小説など書いて」…「嫁も嫁で、毎日ピヤノばかり弾いてコロコロ笑って」…石森さんばかりではなく、世間一般、そう思っているにちがいないことを道子はこれっぽっちも知りませんでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む27

 『白樺』は周知のように、文学界だけのものではありませんでした。その世界は広かったのです。

Weblio辞書―検索―白樺派   

 色が白くて、お餅の感じがしました。その人は「健さんいるか」とか、「やあ仲子さん」とか言って、ずかずか入って来て、すぐに縁側に出て着物を脱ぐのでした。

 「いやあねえ、下卑(げび)らしい!」口では言いながら、母は嬉しげにコロコロ笑いこけていました。

 その人は裸になると、猿股の上に、ほどいて棄てたばかりの兵児帯をぐるぐる巻きつけ、時には持って来た風呂敷を前に垂らして化粧廻しにしました。それから芝生に飛びおりて、「よっ、よっ」と四股を踏むのです。道子は急いで縁側に陣取り、見物気取りでかけ声などかけるのでした。

 すると、二階で支度をしたのに違いない父が、これも裸で兵児帯を廻しにして、ようし、と降りて来ます。

  二人はありあわせの紐なぞで土俵の輪郭を芝の上につくり、いつまでも相撲をとって、大げさにひっくりかえったり、急にひとりが行司の真似をはじめるので、しまいにはみんなおかしさのあまり笑いころげて暫くは動けなくなるのでした。その白い人が同人同然の岸田(劉生)さんだったのです(道子は長い間、岸田さんは相撲取りの卵だと思い込んでいました)。時たま、これも眼が細くて、不思議な顔立ちの女の子を連れて来ました。麗子像の麗子さんと、本物の麗子さんは、驚くばかりそっくりでした。

東京国立博物館―コレクションー名品ギャラリーー絵画―麗子

 

犬養道子「花々と星々と」を読む28

  雑誌『白樺』[1923(大正12)年8月廃刊]は李王家博物館の弥勒像や石仏を日本にはじめて紹介して朝鮮人の素晴しさを陶酔を以って語るかと思えば、鳥羽僧正の絵巻の写真を掲げて日本人の内なる「天才」を讃美しました。北宋白磁陶器のゆえに、万暦赤絵(明の万暦年間に景徳鎮で作られた陶磁器)のゆえに、支那人支那を評価しました。

 道子は大体、近所の子供たちとはうまが合いませんでした。陣取りなどするとき、弱いのはチャンチャン坊主であり、いじめっ子の取っておきの脅し文句は「やあい朝鮮人」「やあい露助」なのでした。彼女はそれらの言葉を甚だしい苦痛と感じずには聞き流すことができませんでした。

  ひるまは、芝生の上の冗談。夕暮れごろから、集まる友人たちは茶の間の八畳で、相変わらずの笑い声をにぎやかに響かせながらも、いかにも白樺らしい理想と楽天に貫かれた話をはじめるのでした。

 集まるのは若手の同人か、同人同然の同好の人たちが中心でした。なにしろ学習院で、志賀、武者、木下利玄、正親町公和さんが同級。三級下に里見さん、児島(喜久雄)さん、その下が柳さん、そして郡虎彦さん、長与の善郎叔父。『白樺』発刊[1910(明治43)年4月]のころ、父はまだ初等科でした。

 そんな風に年は離れていたけれど、武者(武者小路実篤)さんはずいぶんちょいちょい座に加わってあぐらをかいていました。

ワシモ(WaShimo)のホームページー旅行記―宮崎県―日向新しき村を訪ねてー宮崎県児湯郡木城村   

 母はその一団の中にあって、この上もなく楽しげに、活き活きと見えました。絵や音楽や、書物や会話や友人やーそれらは母の人生の、花々であり、星々でした。花々と星々にかこまれて、母もまたひとつの花であり星でありました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む29

 憲政の神様とある時期には祭り上げられ「少しは世間に知られた」「犬養の」子(や孫)が、ふつうの学校にゆけば、「犬養だ、犬養だ」と何かにつけてちゃほやされぬとは言えぬ、しかし学習院なら、「上は皇室」から「宮家五摂家元老」「有名」ばかり、平民野党の犬養などはビリのビリになります。そして「有名であることの虚しさもまた身にしみて習えるというものじゃ、犬養の家は、世々代々、野党であって欲しいから、そのためには正反対の貴族華族のどまん中に、子供をほっぽり出す」…

 祖父(犬養毅)の方針はまちがっていませんでした。まちがわないどころか、行きすぎておおいに脱線しました。道子が学習院前期に入った日、教官ぜんぶを呆然と驚かせることになります。

  父も母も、学習院の白樺一群の、自由とこわいものなしの精神に染まり果てた結果、しんそこ、忘れたのでありましたー陛下とはどなたかを娘に教えること。国旗を教えること。君ケ代を教えること。道子は何ひとつ知りませんでした。

「一ばん尊い方は? はい、犬養さん」「…トルストイ」それしか思いつきませんでした。

「さあ、君ケ代を歌いましょうね。何ですか、犬養さん」「君ケ代ってなあに」

「そんなこと!言ってはいけないでしょう。ふざけてはいけないでしょう。ほら、君ケ代です」「だって知らない」

 学校生活第一日目、父が担当教官に呼ばれました。しかし彼はあっけらかんと快活でした。「道ちゃんねえ、君ケ代って。歌なんだ。節はあんまりよかあないけど、まあ、ひとつおぼえてみるか」

「じゃあパパ、陛下、って?」「そのうちわかるさ」。

「ねえパパ、朕てなあに」「うん、そりゃね、チンコロじゃないんだ…」「アハハ」そんな風でした。

 モヤモヤを肺尖のまわりに散らせていた道子は、当然丈夫ではありませんでした。

 冬になると、ぜいぜいは他の季節よりひどくなるのが常で、いちどゴホンと咳が出ると、胸中はふいごのように湧きたって、いつまでもゼロゼロと音をたてました。

 ある年の冬。みぞれが鈍い空をぬらしてあたりいちめんに、凍りつく寒さをまきちらした夕方。枯れた庭の真ん中に、突如、四ツ谷のお祖父ちゃまがあらわれました。道子は庭に面した茶の間のまん中で、ハアーハアーと吸入をしていました。

 お祖父ちゃまが来るときは、父も母も、たれひとり緊張しませんでした。縫紋羽織のお祖母ちゃまの御来訪のときとは白と黒ほどの相違でした。

 お祖父ちゃまはラッコの襟のついた黒外套を重たげに着こんだまま、縁側のガラス戸を自分で開けて入って来て、「道公、どうした」と彼女の背に手をかけました。

 お祖父ちゃまは火鉢に向ってしゃがみ込み、外套の内ポケットから白い分厚い封筒を出して、母の前に置きました。

 母は、その中身を注意深く見て、あらおとうさま、と何度か頭を下げ、ひどく嬉しそうでした。

 -その翌日、彼女たちは人力に乗り、汽車に乗って着いたところは暖かでした。「あったかいからね、熱海って言うんだよ」

 彼女は父のトンビの下に抱かれて、ずっと遠くに広がる海を眺めながら、梅の香のただよう崖をのぼって、落ち着いた先は、蜜柑山の崖に沿って建てられた、驚くばかり広い家でした。三浦さんのおうち、と知らされました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む30

 「三浦さん」は、三浦(梧楼)観樹(「大山巌」を読む41参照)のことです。長州の人。高杉晋作奇兵隊に若き日々を送った人。戊辰戦争(「大山巌」を読む5~9参照)に功をたて、山県有朋とはじめ親しく、彼とともに維新政府の兵部省に入りましたが、やがて薩長藩閥をこころよしとせず、1916(大正5)年、護憲運動の先頭に立ち、山県と袂を分かった軍人政治家でした。

 1924(大正13)年1月18日三浦梧楼の斡旋で、護憲のための、加藤高明高橋是清犬養毅三党首会談が行われました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む28参照)。

 朝鮮における日本の勢力伸展のため、閔妃暗殺(「大山巌」を読む42参照)という大事件をわざわざ起こした張本人も彼でありました。

 いま、記憶を史実と照らし合わせれば、彼女が「三浦さんの別荘」に行ったのは彼観樹将軍の死[1926(大正15)年1月]の直後のことでした。

 部屋はいったい幾つあったろう。たくさんで、あっちこっちに散らばって、「わかんなくなっちゃうよ」と、父も母も笑いました。道子と母は、椿の林にかこまれた、物静かでしかも陽あたりのよい階下の二間つづきに陣取りました。

 ニ、三日すると、父は「じゃあ、また来るよ」と一言のこして、東中野に帰って行きました。

 母とふたりの静けさは、しかし長くはつづきませんでした。ある朝。「道ちゃん、まあだ?」

 祖父の声でした。前夜おそく、到着したのでありました。護衛の私服巡査と、十数年来付添う女中のテルと、そしてもひとり…。

 おもいがけない祖父の声に、驚きよろこび、飛び起きて、食事の場所と定められた、海を眼下に見はるかす部屋に行ってみると、祖父とさし向いに、柱に寄りかかって坐る見知らぬ人がいました。

 黒い短い口髭をはやし、細い眼で彼女を見たその人は、くるぶしまで裾の垂れる、黒絹の支那服を着ていました。組まれた足は、青っぽい褲子(クーツ)でおおわれていました。

「道公、戴さんだ」と祖父は、湯気のたつ紅茶茶碗のうしろから声を出しました。

 彼女より一足早く、この席に来ていた母は火鉢の上でパンを焼きながら、「道ちゃん、戴さんのおじちゃまよ」と祖父の言葉をくりかえしました。

「じょっちゃん、みっちこさん」と戴さんが手招くと、彼女は素直に近づいて、その人のそばに坐りました。

 そんなことから、彼女は戴さんをすっかり好きになり、その肩車に乗ると、ずいぶん高い枝の椿の花も手にとどきました。

 母は彼に茶をすすめながら、「ねえ戴さん、どうして道子はこう弱いのかしら」と相談を持ちかけるようになっていました。

 「戴さん、道子をお風呂にいれてよ。あたし忙しいのよ」彼はまもなく、それほどの親しいひとになってしまったのです・

 三浦邸の風呂場は、十五畳もあったでしょう。三方ガラス張りの風呂場の中央には子供なら泳げる広さの浴槽。塩気のためにすっかり粉を吹いたカランからは、塩っぱい湯が二六時中流れていました。

 戴さんは黒絹の支那服の裾をはしょり、湯殿とのさかいの半びらきの戸によりかかって、彼女を見守っていました。そしてある日彼の姿は唐突に消えました。

 十数年ののち。道子は、はじめて学んだ中国革命の書物の中に、見覚えのある顔の写真を見出しました。その下には戴天仇と書いてありました。

 「パパ」と彼女は、父のところへ走って行きました。「この人、あの人? あの三浦別荘の…」「むろんそうだ。なんだ、知らなかったの」と父は笑いました。

 孫文の片腕。抗日の先鋒。熱血の戴天仇。

 曽て孫文をかくまい、その革命を助け、そのゆえに支那の人々からは「国士」の礼を以て遇される祖父木堂を、愛すべきごく少数の日本人知己として、熱海にひそかに訪ねてきた革命児であったのです・

Weblio辞書―検索―戴天仇―戴季陶   

 三浦邸には谷間の部屋に蜘蛛が多く見られました。母は谷間の部屋の入口をぴたりと閉めてしまいました。

 

 

 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む11~20

 

犬養道子「花々と星々と」を読む11

 1910(明治43)年5月25日大逆事件(「日本の労働運動」を読む47~48参照)の宮下太吉検挙が開始され、やがて幸徳秋水(「日本の労働運動」を読む27参照)も逮捕されました。秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」(岩城之徳「啄木と南北朝正閏論問題」岩城之徳著/近藤典彦編「石川啄木幸徳秋水事件」吉川弘文館 所収)と発言したことが外部にもれ、1911(44)年1月19日の読売新聞に掲載された社説「南北朝問題 国定教科書の失態」が「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」の主張をするに及んで、南北朝正閏(せいじゅん)問題(南北朝のどちらの皇統が正統であるか)が起こりました。

  同新聞社説が批判したのは1903(明治36)年4月13日小学校令の一部改正により制度化、翌年4月1日施行された国定教科書で、1909(明治42)年改訂の同国定教科書では当時の歴史学界における史実の実証的研究により、南北両朝は並立と記述されていました。

 1911(明治44)年2月21日衆議院の秘密会において、立憲国民党大逆事件南北朝正閏論に関する閣臣(第2次桂太郎内閣)問責決議案を提出、犬養毅がその説明に当たりました。新聞に掲載された彼の決議案説明演説の要旨は次のような内容です。

 「大逆事件は、其発生したる原因に就ては、多くあるべきこと明かに認むる所なるも、就中行政上及び警察上の失態が与って其一原因を成せるは、動すべからざる事実なり。単に社会主義の思想を有せりと云うに対し、余りに苛酷俊厳なる待遇を与へ、進んで其生活をも脅かすが如き警察の取締が、終に其徒を駆って危険なる無政府主義者たらしめ、大逆罪を企つるに至らしめたることは、亦衆議院の委員会に於ける政府委員の自白に徴するも明なり。閣臣は、優渥なる御沙汰に接したりとて、之がために政治上の責任を解除されたりと謂ふべからず。内閣諸公が引責すべきことは此際諸公の採るべき最善の手段なるべしと信ず。

 教科書事件に至りては、大逆事件に比して更に重大なる問題たりと信ず。維新の際に於ける王政復古の大業は、全く南朝を正統とするの趣旨に基くものにして、曩に元老院官版として出版し、我皇室典範となれる皇位継承編に依るも南朝を正位となしありて、更に岩倉公総裁となり山県公また勅選せる『大政紀要』に依るも、北朝を帝とし南朝天皇と称すと明記せるが、然るに今日に於て何の必要ありて之を改竄せるや。是れ実に立国の大本を危うする大逆の行為なりと云はざるべからず。此恐るべき大逆的事実を国民教育の為に用ふべき国定教科書として天下に発表せし以上は、独り文部大臣のみと云はず、延て内閣各大臣於て其責に任ずべきや素より言ふを要せざる処なり。」(鷲尾義直「前掲書」)しかし決議案は否決されました。

 同年2月27日文部省は編修官喜田貞吉を休職処分とし当該教科書の使用を禁止しました(史学協会編輯「南北朝正閏論」修文閣)。

Weblio辞書―検索―南北朝正閏論―喜田貞吉 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む12

  対外関係では孫文が来日したのは1896(明治29)年9月松隈内閣(「花々と星々と」を読む8参照)成立の直後で、平山周に伴われて、孫文牛込区馬場下町に犬養を訪問、このとき犬養ははじめて孫文を知ったのです。

Weblio辞書―検索―孫文 

 犬養は孫文滞日について大隈外相の認可をとりつけ、牛込区鶴巻町に居住させて、自宅との往来を便にするとともに、孫文の生活費も犬養の尽力で平岡浩太郎(初代玄洋社長)が引き受けました。

 1911(明治44)年辛亥革命(「凛冽の宰相加藤高明」を読む15参照)が起こって清朝が滅亡、同年12月25日孫文はアメリカから上海に帰着、翌年1月1日中華民国臨時大総統に就任しました。

 犬養毅は同年12月19日上海に到着(第3回中国訪問)、翌年1月8日南京総統府で孫文と会見しました。しかし2月25日に黄興が来訪、袁世凱と妥協せざるを得ないと告げたので、犬養及び同行の同志は種々忠告するところあり、3月16日孫文大総統の送別宴に出席、同月26日上海より帰国の途につきました(鷲尾義直「前掲書」中)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む13

 1912(大正1)年11月30日上原勇作(「坂の上の雲」を読む33参照)陸相は朝鮮に2個師団増設案を閣議で否決されたため、同年12月2日単独辞表を提出、陸軍は後任陸相を送らなかったので、同月5日第2次西園寺公望内閣は総辞職しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む13参照)。同年12月21日第3次桂太郎内閣が成立するに至りました。

 かかる軍部の横暴を非難する動きは、早くも同年12月13日東京の新聞雑誌記者・弁護士などが憲政作新会を組織、師団増設に反対、同月14日交詢社福沢諭吉によって設立された社交倶楽部)有志が憲政擁護会を組織、同月15日政友会3派(関東倶楽部・東京支部・院外団)の大懇親会が開催され、官僚政治の根絶、憲政擁護を決議するなどの行動として現れました。

 同年12月27日にも開催された憲政擁護大懇親会は憲政擁護会の事務所があった築地精養軒で開かれましたが、このとき犬養毅の演説要旨は次の如くでした(鷲尾義直「前掲書」中)。

近代日本とフランスー日本語―コラムー「美し国」フランスへの憧れー1.料理―築地精養軒と洋食文化   

 「今や政局の形勢は既に議論の時機を去れり。政国の両党が互に猜疑を挟むが如きは、永き歴史を有する党派上に於て已むを得ざるも、連合の目的を達する上に於ては、日夕胸襟を披いて談論を上下し、彼我の間の猜疑心を除くことに努めざるべからず。其勢力必ずしも強しとせざる官僚の倒れざるは、政党全体の責任なり。故に政国両党真に連合して一たび風雲を叱咤せんか、官僚閥族を討滅すること易々たるのみ。茲に憲政の為め諸君と共に益々奮戦せんことを誓ふ。」

 しかるに1913(大正2)年1月19日に開かれるべき立憲国民党大会以前に推挙された宣言起草委員には改革派が多数で、その宣言草案は当面の政敵たる桂太郎内閣に言及することを避け、友党であるべき政友会を攻撃することに重点をおいたものでした。大会前日にこのことを知った犬養毅ら非改革派は別に閥族打破・憲政擁護の民党的宣言案を用意、大会においてこの宣言と桂内閣弾劾の決議を可決することに成功しました(新聞集成「大正編年史」)。

 その結果同年1月21日大石正巳・島田三郎・河野広中・片岡直温らは立憲国民党を脱党、同月31日桂首相の新党創立(立憲同志会)に参加を表明、立憲国民党は分裂しました。

 1912(大正1)年12月27日開会された第30通常議会は翌年1月21日停会となり、2月5日再開された議会において、政友・国民両党は桂内閣不信任案を提出、政友会の尾崎行雄が桂首相の弾劾演説(「凛冽の宰相加藤高明」を読む14参照)を行い、議会は再び5日間の停会となりましたが議事堂周辺には護憲派民衆の示威行進が行われ(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造8参照)、2月11日第3次桂太郎内閣は総辞職しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む14

 1913(大正2)年2月20日山本権兵衛(薩摩閥)内閣(首・外・陸・海を除き、全閣僚は政友会所属)が成立しました。同日立憲国民党は山本内閣が政党内閣でないとして、立憲政友会との提携を断絶、政友会の尾崎行雄も国民党と同様に同党から脱党、同月24日政友倶楽部を結成しました。

 山本内閣は軍部大臣現役武官制(「大山巌」を読む48参照)を撤廃、軍部を非難する世論に配慮を示しましたが、1914(大正3)年1月23日立憲同志会の島田三郎は衆議院予算委員会シーメンス事件につき政府を攻撃(「凛冽の宰相加藤高明」を読む15参照)、犬養毅は山本内閣の世論への配慮をやや評価したものの、同年3月23日の衆議院における内閣弾劾上奏決議案の審議においては提案理由説明演説を行っています。同年3月24日同内閣は総辞職しました。

 同年4月13日大隈重信に組閣命令が下されました。大隈は当時すでに政界の第一線を退き、都の西北早稲田に閑居していたのですが、上述の立憲国民党分裂以後、大隈の態度は曖昧そのものでした。彼は一方において憲政擁護・閥族打破の主張に共鳴し、犬養・尾崎の功労を称賛しながら、桂が新党組織の賛助を要請すると、これに対して好意的態度を示し、国民党脱党組が彼を訪問すると、彼等を激励するなどその真意を理解するのに困難な言動を見せたのです。早稲田大学教授副島義一は雑誌「太陽」(大正2年3月発行)において公然と大隈を批判、情宜に厚く礼義を重んずる犬養毅は同誌において大隈を弁護していますが、彼が本音で大隈の言動を支持したとは思えません。

 同年4月14日立憲国民党代議士会はは大隈内閣の成立は援助するが、党員は入閣しない旨決議、4月16日副総理格として加藤高明立憲同志会総理)が外相として入閣、第2次大隈重信内閣は成立、中正会尾崎行雄は司法大臣として入閣しました。

  1914(大正3)年7月第1次世界大戦が勃発、同年8月23日政府(大隈内閣)はドイツに宣戦布告、翌1915(大正4)年1月18日中華民国政府に21カ条要求を提出、5月25日21カ条要求に基づく日中条約ならびに交換公文に調印しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む17参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む15

  1914(大正3)年12月25日衆議院は軍艦建造費を可決しましたが、2個師団増設を否決したため、衆議院解散、1915(大正4)年3月25日第12回総選挙が実施され、与党立憲同志会が第一党、野党立憲政友会(1914.6.18総裁 原敬)・立憲国民党議席減少、同年5月17日第36特別議会が招集されました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む18参照)。

 同議会開会の前に立憲国民党は次のような宣言を発して、大隈内閣の対中国外交を批判しました。

 「日支両国の親善を保ち、東洋永遠の平和をを計るは我党多年の主張なり。然るに現内閣の対支交渉を開始するや、初めより支那に向て誠意を披歴し、東亜の大局を共済するの途に出でず、先づ提案の時期を失し、折衝の機宜を誤り、荏苒(じんぜん 年月が長引く)九十日、徒に恫喝を以て却て軽侮を招き、その拒否する所となるや、事を樽俎(そんそ 外交上の会談)の間に収拾する能はず、纔(わずか)に兵馬の余威をを藉(かり)て時を糊塗す。之を要するに帝国の威信を傷け、国際の禍根を貽(のこ)すもの、焉(いずく)んぞ東洋平和の基礎を確立するを得んや、是れ実に現内閣の失政なり。我党は断じて之を仮借(許す)せず。」(鷲尾義直「前掲書」中)

 同年6月3日衆議院は対中国外交に関する内閣弾劾決議案を上程、原敬政友会総裁が対中国外交の失敗を指摘、片岡直温(立憲同志会)の反対演説があり、次いで犬養毅立憲国民党)が登壇、21カ条要求のうちの第5号要求の不始末(「凛冽の宰相加藤高明」を読む17参照)を指摘して加藤外交の失策を追及しましたが、同決議案は否決されました。

Weblio辞書―検索―片岡直温 

 また犬養は1915(大正4)年5月、故金玉均(「花々と星々と」を読む6参照)の表彰を大隈首相ならびに寺内朝鮮総督に建言したが省みられなかったので、翌年1月政府に同人の表彰を働きかけるよう貴衆両院に対して建議しています(鷲尾義直「前掲書」中)。

 しかし大隈内閣も大浦兼武内相の政友会議員買収容疑が問題となり(「凛冽の宰相加藤高明」を読む18参照)、外相加藤高明らが総辞職を要求して閣外に去ると弱体化し、1916(大正5)年3月26日大隈首相は山県有朋を訪問、加藤高明立憲同志会総理)を後継首相に推薦、同年4月上旬山県は挙国一致の必要を理由に政党首領の組閣に反対と返書、寺内正毅(長州閥)組閣の準備を進めていました。

 一方子爵三浦梧楼(「大山巌」を読む41参照)の呼びかけにより、原敬立憲政友会総裁)・加藤高明立憲同志会総理)犬養毅[立憲国民党総理(正式就任は1917.6.20)]の3党首は同年5月24日から3回も小石川富坂上の三浦邸で会談、6月6日外交国防方針につき協同し、外界の容喙を許さぬとの覚書を作成しました(新聞集成「大正編年史」)。三浦は『此の大切な時局を、大隈に任してはおけぬ。軍備、外交、財政此三点に対する一定の国策を樹立し、誰が政局に立っても、此れ丈けは動かぬやうに決定しておきたい。ソレで吾輩は其事を元老連中に説いた。山県に謀ったが、相変わらず用心深い。「此上は軍事、外交、財政、此の三策に就て、君と加藤、犬養、此三人が同一の態度を執ると云ふことにする外、他に道はなかろうと思ふ。」と云ふと原は早速此れに同意した。加藤に会った翌日、犬養にも会った。此れで三党首とも吾輩の国策樹立の意見に賛成した訳だ。』(「観樹将軍回顧録」大空社)と言っていますが、三浦と昵懇であった古島一雄は「三浦は同じ長州出身でありながら陸軍時代から山県とは常に反対の立場に居った。従って三浦は元老の山県を封じ込めてやらうといふ心持もあったのだ。」と語っている(鷲尾義直「前掲書」中)ように、元老(とくに長州閥)に反対する政党連合を強化しようとする意図があったとも考えられます。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―こー古島一雄

 同年10月5日大隈内閣は総辞職しました。10月9日山県有朋の推挙により、寺内正毅(長州閥)内閣が成立、翌10月10日立憲同志会中正会などと合同して憲政会(総裁 加藤高明)が結成されました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む16

  1917(大正6)年1月25日衆議院は憲政・国民両党共同提案の内閣不信任案を上程(政友会中立)、ところが犬養毅立憲国民党)は同案の説明演説で「私モ憲政会ハタッタ此間マデ当面ノ敵ト考ヘテ居リマシタガ、此案ニ付テハ賛成者デアリマス。併ナガラ提出者トシテハ此案ニ憲政会ガ同意サレタ以上ハ国民党ト同様ノ意見ニ変化致サレタモノト認メテ宜シイト思フ」と憲政会を批判したため、憲政会の反発を受け、衆議院が解散されると、国民党は憲政会との提携打ち切りを声明しました。

 同年4月20日第13回総選挙が施行され、政友会は第1党、憲政会は第2党で、国民党はやや議席を増加させたに止まりました。

 同年6月2日寺内首相は原敬加藤高明犬養毅3党首に臨時外交調査会委員就任を要請、原敬犬養毅は受諾しましたが、加藤高明は6月5日これを拒絶しました。

 一方この年の夏ころから上がり始めた米価は翌1918(大正7)年さらに上昇、同年8月富山県米騒動が起こり、同年9月21日寺内正毅内閣は倒壊、9月27日原敬立憲政友会総裁に組閣命令が出されました。

 米騒動は明治時代において弾圧された労働運動や普選運動などの社会運動が再び活発化するきっかけとなりました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む20参照)。

 1918(大正7)年12月25日召集の第41議会において翌年3月8日政友会・憲政会・国民党3派提案の衆議院議員選挙法改正案(小選挙区・選挙権資格を直接国税3円以上に拡大)が可決されましたが、村松恒一郎ら6名の立憲国民党所属代議士が、同上選挙法改正案の撤回を要求、普選案に代えることを主張したため党より除名処分となりました。1919(大正8)年12月20日憲政会政務調査会でも普選の条件をめぐる対立が起こっていました。

Weblio辞書―検索―村松恒一郎 

 1918(大正7)年11月11日第1次世界大戦が終了、1919(大正8)年1月18日パリ講和会議が開催(「凛冽の宰相加藤高明」を読む21参照)されましたが、内政においては普選運動の高まり(「労働運動二十年」を読む19~20参照)に対する政府与党と野党の対応の問題が緊急の課題として浮上してきたのです。 

 1919(大正8)年12月26日開会の第42議会において、1920(大正9)年2月14日衆議院は憲政会・立憲国民党・普選実行会提出の普通選挙法3案が上程されました。立憲国民党案は選挙権を満二十歳以上とし納税資格規定削除などとする内容でしたが、普選法案討議中同年2月26日衆議院は解散となりました。

 同年5月10日第14回総選挙実施、普選反対の与党立憲政友会が大勝、普選運動は一時衰退する傾向を見せました(「労働運動二十年」を読む20参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む17

 1921(大正10)年11月4日原敬首相は東京駅で刺殺され死去、11月13日高橋是清内閣(全閣僚留任)が成立、翌日高橋是清立憲政友会総裁に推挙されました。

 翌年1月10日大隈重信、2月1日山県有朋維新の元勲たちが相次いで死去、新しい時代の到来を告げる出来事でした。

 1921(大正10)年末に召集された第45通常議会において提出された憲政会・立憲国民党・無所属組の統一普選案(立憲国民党は選挙権年齢を20歳から25歳に改める)が翌年2月23日上程されましたが、2月27日否決されました。しかし立憲政友会内部にも普選法案に対する動揺が拡大しつつあったのです。

 一時衰退した普選運動の主な新しい担い手となったのは地域の市民的政治結社で、1922(大正11)年春より普選運動は再び高揚しました。

 1922(大正11)年6月6日高橋是清内閣は内閣改造問題による閣内不一致で総辞職、同年6月12日加藤友三郎(前内閣海相)内閣(「凛冽の宰相加藤高明」を読む26参照)が成立しました。

 政友会・憲政会の二大政党の圧迫を受けて党勢不振状態にあった立憲国民党は同年9月1日解党、新たな勢力の結集をめざして同年11月8日立憲国民党を母胎とし、憲政会の尾崎行雄や島田三郎ら及び無所属倶楽部が参加、革新倶楽部が結成されました。

 1923(大正12)年8月24日加藤友三郎首相は病死し、同年8月28日山本権兵衛に組閣命令が下されました。しかるに同年9月1日関東大震災が起こり、この非常事態の最中、同年9月2日第2次山本権兵衛内閣が成立しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)。

 当時犬養毅は信州富士見の高原における白林荘(別荘)の新築に世事を忘れていましたが、中央線で名古屋に福沢桃介を訪問した同年8月28日至急電報をうけ、翌日上京しました。山本権兵衛と犬養との連絡は同内閣の書記官長樺山資英と犬養の側近古島一雄(「花々と星々と」を読む15参照)を通じてつけられていたのです。

富士見町HP―検索―白林荘―富士見町を歩く[文学に触れるプレミアム紅葉ウオーキングコース] (4)白林荘    

 古島は東海道線沼津駅で御前3時寝台車にいた犬養に会い、山本の犬養への入閣要請を伝えると、犬養は眠そうな眼をこすりながら、「普選で勝負する」と唯これ丈を言いました。8月30日『山本と水交社で会見して帰ってから「どうです」とたずねると「やれそうだ」といふ、そこで直ちに入閣に決した』(古島直話 鷲尾義直「前掲書」中)。

 「普選をやるには内務大臣がよいが、内務は後藤(新平「男子の本懐」を読む5参照)が希望してゐるから、一番ヒマな椅子がよからう、逓信がよいと云ふので逓信大臣になられたのである。」(古島一雄談 鷲尾義直「前掲書」中)。

 革新倶楽部は犬養の入閣を了承しましたが、政友会は同内閣に非協力の態度をとり、貴族院において憲政会の若槻礼次郎(「男子の本懐」を読む6参照)は犬養毅逓相の逓信事務怠慢を批判する質問を展開しました。犬養の普選への思い入れも虚しく、同内閣は同年12月27日虎ノ門事件(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)で総辞職しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む18

 ここで話題を変えて、犬養毅とその家族の家庭生活を観察してみましょう。そのための数少ない情報源の一つが、犬養道子犬養毅の孫)の「表題作品」です。

 四ツ谷[ 1922(大正11)年四ツ谷区南町に犬養毅新邸(借翠盧)完成 年譜 鷲尾義直「前掲書」下 ]に道子が連れて行ってもらうのはまれでありました。どうせ行ったところで、お祖父ちゃま(犬養毅)とは滅多に会えるわけでないし、お祖母ちゃま(犬養毅夫人千代)の御機嫌伺いとなればこれは仲々気骨の折れることでした。

 実際、連れて行ってもらっても、お祖父ちゃまなしの四ツ谷は退屈なところでありました。お祖母ちゃまのお居間は、南に向って「逆コの字」に建てられた家の中央にありました。庭に通じる気持ちよい広縁式廊下と、お着替えのための小部屋と十畳の床の間つきと、一組になっていました。

 それにひきかえ、お祖父ちゃまのお居間兼書斎兼寝室兼何でも部屋は、玄関真上の二階にあって、西陽が照りつける滅法暑い部屋でした。「お祖父さんは字を書いて汚しなさるから」

夏樹美術株式会社―書画・掛け軸―名士墨跡・書物故作家―昭和時代の名士墨跡書・物故作家―あ行の作家―犬養木堂/いぬかいぼくどう 

 畳はそこに敷いてありませんでした。「墨をしょっちゅうこぼしなさる」絨毯も敷かれていませんでした。「毛氈(もうせん 獣毛を加工した厚手の敷物)でよろしい」

 買い求めたときは一体何色であったろうといぶかしく思われる磨り切れた毛氈が、あっちこっちに焼けこげや墨汁のしみを浮き出させて、お祖父ちゃまの部屋の床をおおっていました。元来が窓の高い洋間のつくりなのに、毛氈の上に座布団を敷き、和風の文机がおいてあります。

 花や盆栽はありませんが、お祖母ちゃまのお居間には、立派な簿記机とおびただしい書付の類と、銀の小ちゃな壺にいつも一杯入っている外国製のボンボンがありました。

 いちどそのボンボンを頂いて、この世ならぬ香気と甘ずっぱいおいしさに驚いて、道子は四ツ谷に行くたび、ボンボン壺にはかない望みをかけるのでした。しかしボンボンは極めて特別な時にもらえるだけで、出されるものはほとんどいつも和泉家の栗饅頭と唐饅頭。それは紙に包んであるから、「何度でも、お客に出したり、ひっこめたり出来る重宝な」お菓子でありました。一度、唐饅頭を頂いて、二つに割ってみたら、中にはカビが生えていました。

 でも、お祖母ちゃまには、女中たちに教えてカビの生えた唐饅頭を出したりひっこめさせたりさせねばならぬ正当な理由があったのです。何しろ大変な数の客でありましたから。

 はじめて四ツ谷の台所を見た日の驚きを、道子は決して忘れませんでした。お湯は大薬罐に二六時中たぎり、十人、二十人の単位で湯呑みと土瓶がひっきりなしに、第二応接室や書生部屋に運ばれました。台所の隅っこの三畳には、大きな卓袱台が出しっぱなしにされ、そのまん中には、これまた二六時中、たくあんを山盛りにした丼、土瓶と、お櫃と、茶碗と箸とが置かれ、いつも、たれかが、そこで食べていました。しかも女中はもとより、十数年も祖父につきそっている女中頭のテルも、台所で食事をしている人物が誰であるか知りませんでした。

 何しろ「憲政の神様」の異名を、お祖父ちゃまは冠(かぶ)せられてしまっていました。だから、崇拝者や子分は日本国中に多かったのです。先生、先生と、夜が明けると同時に四ツ谷に「出勤」して来る常連の中には「あそこに行きゃあ、ひると晩とは、たとえたくあんの尻尾だけのめしでも、食わしてもらえる」と踏む連中もいたのであります。しかし金ヅルは万年野党のお祖父ちゃまには縁遠かったのでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む19  

 今にして思えば、四ツ谷のお祖母ちゃまは、大変な経営者素質を持っていました。彼女が色街でなく、今日普通の家庭で人となったら、おそらくお祖母ちゃまは経済学でも志して、女性経営者として花々しく活躍したでしょう。万年野党の首領の奥さまになって、おさまる人ではなかったのです。

 お祖母ちゃまは立派な簿記机の中に、植木屋とか草取りなどの「出勤簿」を入れていました。出勤簿に記入する植木屋の出勤時間は植木屋が犬養家に到着した時刻ではなく、最初の植木に手を触れた瞬間なのです。仕事終わりも最後の植木から手を離した瞬間が退勤時間として記入されるのです。お祖母ちゃまが来客で忙しいときや、外出の際「出勤簿」は女中頭のテルに渡されましたが、植木屋の出退勤時刻を推定で記入したりすると、月末にお祖母ちゃまに見つけられて注意されるのでした。

 先を見通す能力に秀でたお祖母ちゃまが、「この人はモノになる」と見込みをつけて、元々好きはもちろんのことながら、強引に押しかけ、居坐って妻の座を奪ったのでした。道子の父(犬養健)の生みの母は、この猛烈な恋仇にしてやられ、身を引いて表面から去っていったのです。

 そのドラマは、もうひとつ別のドラマを生みました。追い出された女の産んだ長男―道子の父の兄―が、どうしても「おかあさんを追いやった人」を認めることが出来ず、少年期にさしかかる子供の一徹から出刃庖丁をふりまわして大変な刃傷沙汰をひきおこしたことでありました。

 政治の勘の滅法によいお祖母ちゃまー千代と言いましたーにすっかりしてやられて頭の上がらなくなったお祖父ちゃまは、「あんな子を置いておいては、あなたの政治の生命にもかかわりますよ」の言葉に負けてしまったのでありました。

 十歳と言う幼い年齢を、つい数年前越えたばかりの少年は、勘当(親子の縁を切る)廃嫡(旧民法で相続人としての資格を奪うこと)の身となって、遠く四国に送られました。

 道子の父[ 犬養健 1896(明治29)年7月東京生まれ 「父の映像」筑摩叢書 筆者略歴]は、そのドラマのとき、ほんの幼児でありました。可愛がってくれた優しい実母からひきはなされ孤独と悲哀のゆえに寄り添って日夜暮した兄からさえも剥(も)ぎはなされ、「子供を好きではない」女の手もとに、とりのこされました。

 満四つにになったかならぬころ、さっさと取りきめた継母のはかららいで、彼は幼児のための寄宿に入れられました。成人して人の父となったのちも彼は、お祖母ちゃまがでんと居すわる家を避けました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む20

  お祖母ちゃまは、花のひとつ、絵の一枚を部屋に飾る心を持たぬ人でありました。文学を志す青年なぞ、わかる筈もなかったのです。そのお祖母ちゃまの思いは、道子の父が「愚かな父」と言う題の連載をはじめたと知ったときに爆発しました。

 父はうるささに耐えかねて、連載を途中で切りあげ、短編集に集録された、人の心の機微を気品高い細やかな筆で描いたその小品を、破って棄てました。

 けれどたった一度。彼女はそのこわい四ツ谷の御祖母ちゃまの、思いがけない面に接して、お祖母ちゃまはそれほどおそろしい冷酷な女でもなく、むしろ多分にこっけいな、愛すべきところの多い女ではなかったかと思うのです。

 ―その日。四ツ谷はいつもに倍かけての来客ずくめ。着く早々、母も前掛けをさっさとかけて台所の方に手伝いに行ってしまいました。彼女は「四ツ谷用」のキューピーをひとつ持って、ベランダに水を張った洗面器を無断で持ち出し、キューピーを「風呂」に入れていました。突然、黒紋付がそばに坐ったので、彼女は無断で洗面器を持ち出したことへの叱責を覚悟したのでした。

 しかしお祖母ちゃまはそのキューピーをじっと見ていました。「ちょいとそのキューピーさんをおばあさんに見せておくれ」

 「道ちゃんや。何度もこのキューピーさんをお洗いかえ」「うん」

 「剥げませぬか。色はとれぬかえ」「ううん」彼女は首を横に振りました。「よく出来ているねえ……」お祖母ちゃまは眼をあげてしばし空中をしばらく見ると、急に「キューピーさん」を彼女の膝に押し戻し、さっさと早い動作で居間に入って上手にポンポン手を拍ちました。「たれかおらぬかえ」「三越に電話をおかけなさい。セドドイド(セルロイド)部の部長をお呼び」

 ややこしい押し問答がくりかえされたあと、三越側はようやく、玩具部長が四ツ谷のお祖母ちゃまの居間の閾 、三つ指をつきました。道子が母や其の他の人々から聞いた話によると、お祖母ちゃまと三越部長との間にはこんな問答が繰り返されたようです。

 「ときに、セドドイドで海老はつくれますかえ」「エビーセルロイドでエビを。それはまァ、つくれぬことはありますまいが」「髯(ひげ)もちゃんと出来ますかえ。赤い髯」「それは…まァ、つくらせてつくれぬことはございますまい」「それから、昆布も出来ますかえ」

「ヘッ! コンブ!」「北海道でとれる上等の昆布でござんすよ」

 お祖母ちゃまが玩具部長に注文したのは、伊勢海老、裏白(シダ植物の一種、正月飾り)、昆布、橙(だいだい)ぜんぶくっついた、セルロイド鏡餅大中小一式なのでした。

「特別でございますから、高くつきます」「けっこうでござんすよ。あんた、毎年毎年、玄関と、応接と、茶の間に、役にも立たず、かたくなる鏡餅をかざるより、、毎年洗って使えて、色もさめないセドドイドの方がよほど経済的でござんすよ」

  こうして、犬養本家の正月は、その後、年々歳々、セドドイドの鏡餅で飾られました。「ねえ、あなた、ついでに芝生も松も桜も、セドドイドでつくらせてはどうでござんしょねえ。草取りや植木屋のてまもなし、出勤簿の面倒もなくなるし」

「やァなこった」とお祖父ちゃまはそっぽを向きました。いのちの芽生えの健かさも、自然の緑の美しさも解さぬ、政治一点張りのこの妻をえらんでしまったお祖父ちゃまは、そのとき、ふっと嘲りとも淋しさともつかぬ妙な表情を孫の道子に向って見せました。

 

 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む1~10

犬養道子「花々と星々と」を読む 1

 犬養道子「花々と星々と」上下(大活字本シリーズ 埼玉福祉会)は著者の自伝的随筆で、中央公論社から1969(昭和44年)出版、1973(昭和48)年増補版が出されました。著者は1932(昭和7)年の五・一五事件で暗殺された犬養毅(木堂)首相の孫、白樺派の作家で後政界に転じた犬養健(毅の子)・仲子夫妻の長女です。本書では犬養毅と犬養家の人々や、同家と関わりのあったさまざまな人々の姿が生き生きと描写されており、彼女は評論家としても其の他多くの著作を発表しています。

系図で見る近現代―目次―第12回 犬養毅―「話せばわかる」は、なかった!

 1978(昭和53)年には本書を原作とする「ドラマ人間模様」(斉藤こず恵 犬養道子役)がNHKから放映されました。

 まず犬養毅(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13参照)の生い立ちから申し述べることにしましょう。

 彼は1855(安政2)年4月20日備中国賀陽郡庭瀬村字川入(後ち岡山県吉備郡庭瀬町)の庭瀬藩(板倉氏領)大庄屋犬飼源左衛門當済の次男(母 嵯峨)として生まれ、仙次郎當毅(後に本人が毅の一字とした。読み方も本人自身時期によって変化、つよし、つよきと呼ばれたことが多い)と名付けられました(鷲尾義直編「犬養木堂伝」上 明治百年史叢書 原書房)。

犬養木堂記念館 

 犬飼家は犬養とも称し(毅の代に犬養と決定)、苗字帯刀を許された家柄でしたが、當済の代には家運が衰退していました。父源左衛門はこの次男の誕生を殊の外喜び、七言絶句を賦したと言います。近隣の人々は「犬飼家は、代々次男に傑出した人物を出してゐる、今度も次男の誕生祝いを盛んにされたのは、その為であらう」と噂し合ったそうです。

 彼は6歳のころから父の膝下にあって漢書素読を授けられ、7歳にして藩医で学者として聞こえた森田月瀬の家塾に通学させられたのですが、父は彼を漢学者にする希望だったので1865(慶応1)年犬飼松窓の三餘塾に転学させられました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 2

 ところが1868(明治1)年父は急病で死去、当時彼の兄豊太郎が18歳で家を相続したのですが、彼が従来通り修業を続けることは不可能となりました。

 そこで兄の厄介にならずに、自活して勉学を続けるために、彼は門側の一屋に寺子屋を開き、傍ら松窓先生の家塾に通って勉学に励みました。

 松窓先生が倉敷の明倫館に招聘されると、彼はそこから約1里ほどの母方の伯父の家に寄寓して勉強をつづけました。

倉敷代官所跡 

 1871(明治4)年廃藩置県により、庭瀬藩は深津県(県庁 笠岡市)の一部となり、同県は翌年小田県と改称されました。

 すでに習字を習っていた御祐筆が小田県の役人で、この人の紹介により、彼は同県地券局に勤務することになりました。彼はこうして学資を貯え、上京するつもりでしたが、給料は安く、下宿代を払えば、あとはいくらも残りませんでした。1874(明治7)年地券局は地租改正局と改称されましたが、彼は継続出仕を願わず辞職しました。

 そのころ医者などが集まって漢訳の西洋書輪読が流行していました。会場は大概お寺で、集まるものは彼より年長のものばかり、書籍は「気海観瀾」(青地林宗著 日本最初の物理学書)や「博物新編」(大槻玄沢ら訳 仏語の「家事百科事典」の蘭訳本)とかいうもので、漢学修業を目的とする彼には物足りないものでした。

 ところがあるとき、先輩の学友多田松荘が漢訳の「万国公法」(ヘンリー・ホウィートン著の国際法原書を米人宣教師マーチンが漢訳したもの。日本では1865年出版)を輪読の席に持って来ました。

 「どうもよく読めない」と多田が言うので、彼は同書を持ちかえって、三晩くらい徹夜しましたが、すっきり理解できませんでした。そこでまず英語を学んで原本を読んでみようと考え、それには上京する外はないが、旅費の工夫さえつかず、途方にくれていると、友人の多田が資産家の伯父に話して30両出してくれることになり、あとは姉がかなりの商人に嫁いでいて、婿の援助で上京することになりました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 3

 1875(明治8)年7月7日神戸出帆、横浜を経て7月10日東京着、松窓先生の家塾の塾頭であった難波恭平氏を訪ねると、地方に移転して不在でした。姉婿の援助も期待できなくなり、途方にくれているとき、偶然小田県の官吏であった山口正邦に出会い、山口の従兄林(後 藤田姓)茂吉に会えるよう手配してくれました。藤田茂吉は慶応義塾出身、郵便報知新聞主筆をしていた人物で、彼はまもなく藤田の新借家(京橋区南鍋町)の食客となり、同新聞論説の代筆を引き受けたりしたこともあったようです。彼が湯島の共慣義塾に入ったのも藤田の勧めによるものでした。共慣義塾は月謝も賄料も他に比して安く、ここで彼は初歩の英語を習得しましたが、塾舎は粗造不潔、寄宿舎の賄いも劣悪で耐えがたいものでした。

Weblio辞書―検索―郵便報知新聞―藤田茂吉    

 藤田は彼に郵便報知新聞に寄稿し、その原稿料を学資にして慶応義塾に入学してはどうかと勧め、1876(明治9)年彼は同塾に入学、寄宿舎では一切友人とも交際せず、勉学に専心する毎日を過ごしました。

 1877(明治10)年西南戦争(「大山巌」を読む18参照)がおこると、藤田茂吉から、戦地にでかけて戦況を通報してはどうか、もし君がやってくれるなら、社主に交渉して帰ってからの学費は卒業まで社から毎月10円ずつださせることにするが、という相談をうけ、彼は快諾し「戦地探偵人」(従軍記者)として戦地に赴くことになりました。

 戦地に到着したのは同年3月田原坂の戦闘の最中で、軍人と官吏以外交戦地帯に入ること禁止とのこと、幸いに内務権大書記官の石井章一郎が臨時熊本県令事務取扱として出張してきていたので、この人に頼んで熊本県御用係という名義の辞令を出してもらって交戦区域に入ることができました。

 当時各新聞社から特派された記者は、「東京日日」の福地源一郎(桜痴)をはじめ一流の大記者を選抜したものでしたが、彼等は贅沢な生活に慣れ、戦地の不自由に弱っていました。これに対して彼は貧書生で窮乏には慣れて居り、砲烟弾雨の間を縦横に馳駆し、ときには兵卒らとともに露営もし、夜襲にも加わるという有様で、所謂活きた材料によって軍事通信の任務を果しました。

 彼の戦地からの通信は「戦地直報」と題して、同年3月27日発行の郵便報知新聞紙上に其の第1回が掲載され、城山陥落まで前後百数回連載、内容は生彩に富み、現状を見るようだと大いに読者の歓迎するところとなりました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 4

 彼が九州から帰ってくると、報知社では学資は続けるが、その代わりに月3回宛論説を書いてくれと言われ、やむなく承知しました。ところが半年もたたぬうちに藤田より月10回論説を書けといわれ、それでは約束が違うと報知社との関係を絶つに至ったのです。

 すると忽ち学資に困りましたが、同郷の友人が翻訳文の添削の仕事を周旋してくれて、これで安心して勉強できるようになりました。

 当時福沢諭吉は講義を担当しておりませんでしたが、三田演説会が毎週土曜日に開かれ、福沢が演説するとその後犬養毅も演説(「諸友は語る」鷲尾義直「前掲書」)、こうした福沢と彼との人格的接触を通じて、彼は福沢の思想的影響を受けたようです。

 彼はまた仮名垣魯文の推薦(「十大先覚記者伝」鷲尾義直「前掲書」)で1873(明治6)年郵便報知新聞に入社した栗本鋤雲の門下生となり指導を仰ぎました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―くー栗本鋤雲

 犬養毅の雅号「木堂」は栗本鋤雲の撰によるものとする説(犬養道子「表題書」)があります。鷲尾義直氏によれば、犬養毅がいつから「木堂」の雅号を称するようになったのか不明であり、その出典は「老子」説(「十大先覚記者伝」)もあるが誤りで、「論語」の「剛毅木訥近干仁」から撰んだと犬養毅自身が述べていること、及びこの雅号が鋤雲の撰によるものかどうか断定を避けています(鷲尾義直「前掲書」)。

 入学した慶応義塾で彼が一番困ったのは学資を得るための翻訳文添削などに追われ、数学の勉強の時間がなかったことでした。そのため第二級時代の大試験に1点上の成績を矢田績(後 三井銀行入社)君に奪われ、自尊心を傷つけられた彼は卒業間際の慶応義塾を退学してしまったのです。彼の負けず嫌いな性格の一面がよく表れている挿話です。

 1880(明治13)年「東海経済新報」が創刊され、社長は豊川良平(慶応義塾出身)で、資金の調達其の他経営を担当、彼は主幹として編集を担当、「東京経済雑誌」誌上に自由貿易論を掲げる田口卯吉(鼎軒)に対して、彼は保護貿易論を主張、両者の論争が展開されました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー田口卯吉

 やがて豊川は明治義塾の経営に主力を注がねばなっらなくなり、かれもまた大隈の改進党創立に参画して多忙となったため、1882(明治15)年同誌は廃刊となりました。

 彼の永い記者生活(郵便報知新聞の寄稿にはじまり、東海経済新報の創刊から正式に報知社への入社となり、朝野新聞に転じ、民報の創刊となり、聘せられて秋田日報の主筆に就任、また報知社に復帰など)の途中、参議大隈重信(「田中正造の生涯」を読む12参照)の配下であった報知社の先輩矢野文雄(龍溪 「日本の労働運動」を読む10参照)のすすめで1881(明治14)年7月18日統計院権少書記官に任命されました。矢野は彼に、統計院の総裁は大隈参議である、大隈は近く開設せらるべき帝国議会に、有力なる政府委員をを養成するの必要を感じ、福沢諭吉(「大山巌」を読む24参照)に依頼して、三田系の俊才をそこに網羅せんとする意図を懐いている、そしてその選考の任に当たったのが矢野だというのです。

 彼は在官中であっても「東海経済新報」を続刊し、これに執筆することを妨げない内諾を得て、統計院に出仕することになりましたが、このとき矢野の推挙で統計院に入ったのは、彼の外、尾崎行雄(「大山巌」を読む47参照)・牛場卓造の3人でした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 5

 しかし1881(明治14)年の政変(「大山巌」を読む19参照)により、同年10月11日大隈重信が参議を罷免されて下野すると、矢野文雄・犬養毅尾崎行雄らも一斉に辞任するに至りました。

 翌日、1890(明治23)年を期して国会を開くとの詔が発せられると、同年板垣退助を総理とする自由党が結党され、これにつづいて翌年大隈重信を総理とする立憲改進党が発足しました。

 同党は大隈総理の下に河野敏鎌、北畠治房、前島密の3大老がおり、大老の下に5奉行の如き幹事が設けられ、矢野文雄、沼間守一、牟田口元学、春木義彰、小野梓がこの職務を勤めました。是等の人々はすべて官吏を辞職した人たちで、最高幹部でしたが、尾崎行雄犬養毅らは、その下で地方の遊説にむけられる実働部隊に属し、最高幹部会議には参加を許されませんでした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー前島密

 1882(明治15)年5月東京府会議員の補欠選挙が芝区で行われたとき、当時の芝区長奥平昌邁は犬養に立候補をすすめました。彼は当時復帰した郵便報知新聞大隈重信買収、社長矢野文雄)の記者で、まだ下宿生活をしていましたが、奥平は法律上の居住資格を作るために慶応義塾構内の岡本宅に彼の門札を掲げるよう手配、首尾よく当選しました。

 このころ彼はようやく本所区番場(旗本戸田邸跡)に新居を構え、郷里から母と妹を迎えております。

 1883(明治16)年春、彼は秋田改進党から「秋田日報」主筆に招聘されて秋田に赴いたのですが、永く中央の地を離れるつもりはなく、同年11月18日秋田を出発、同月末に帰京して郵便報知新聞社に復帰しました。

 政府の自由民権運動に対する弾圧が強化(「大山巌」を読む19参照)され、松方デフレ政策(「雄気堂々」を読む16参照)による不況も影響して1882(明治15)年の福島事件をはじめとする自由民権運動激化事件が頻発するに伴い、1884(明治17)年自由党は解党、立憲改進党にも解党論が高まってきました。同党の総理大隈重信は解党論の代表者河野敏鎌、非解党論の代表者北畑治房、中立派の代表者前島密の慰撫調整に苦しみ、同年12月17日副総理河野敏鎌とともに同党を脱党しました(「明治政史」明治文化全集 日本評論社)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 6

 このような情勢の下で、大隈の去った後、同党は総理を空席とし、沼間守一・島田三郎・尾崎行雄・藤田茂吉ら7名を事務委員に挙げ、党務を処理することとなりました。犬養は解党反対派の一人でしたが、具体的にどのような党活動をしたのかほとんど不明です。

 同年12月4日に朝鮮で起った甲申事変(「大山巌」を読む24参照)処理のため井上馨外務卿は特派全権大使として朝鮮に赴き、郵便報知新聞犬養毅をその談判の模様並びに同国乱後の景況を探聞し、精密確実の報道をなさんがため、同国京城漢城)に特派することにしました。

 彼は同年12月25日春日艦で横浜を出港、暴風のため難航し、翌年1月3日馬関を出港、同月6日仁川着、仁川から京城に赴き数日滞在、同月12日同地を出発、同月14日馬関に帰着しました。

 甲申事変における武装蜂起に失敗して金玉均が日本に亡命後、犬養は隣接する井坂早夫(元朝野新聞記者)宅に一時身をひそめて居た金玉均と交流を深めていました。犬養の語るところによれば、井上外務卿らに冷遇された金玉均は、犬養の制止にもかかわらず、李鴻章の援助を得ようとして上海に渡航し暗殺されました(鷲尾義直「前掲書」中)。

 朝鮮から帰国後、1886(明治19)年井上馨外相は欧米諸国との条約改正交渉にのりだしました。しかし外人判事任用問題にみられる卑屈な欧化政策(「大山巌」を読む26参照)が非難を浴び、一時衰退したかに見えた自由民権運動が再び高まってきました。

 1887(明治20)年10月3日後藤象二郎(「龍馬がゆく」を読む16参照)は民間政客70余人を芝公園内三縁亭に招き演説、丁亥(明治20年の干支)倶楽部を設立、小異を捨てて大同につく、いわゆる大同団結運動を起こしました。

 かねて民党の合同を主張し、その実現に努力してきた犬養は、矢野文雄、藤田茂吉ら改進党の同志先輩たちが後藤の性格を信ぜず、改進党独自の立場を守ることの必要を説いたのですが、彼は尾崎行雄とともに三縁亭の会合に参加し、丁亥倶楽部の幹事になっています。

 同年10月高知県代表片岡健吉らが三大事件建白書を元老院に提出するなどの動きが高まると政府は同年12月26日保安条例を公布施行するなどの弾圧を強行するに至りました(「大山巌」を読む26参照)。

 彼は保安条例施行以前に「政海之燈台」(集成社)と題する著作を公刊し、時局を次のように論じています。「在朝政治家と民間政党の間に政論の争競の旺盛繁劇を加ふるは吾人の最も希望する所なり。左れども其争競の手段宜きを失へるより官民の間に不穏当なる軋轢を生じ為めに上下乖離の情状を生ずるの傾向あらば吾人は力を極めて之を匡正せざる可からず」(第三章 官民の乖離)

 このような抽象的表現の時評にとどまる限り、彼の発言は問題とならず、改進党員として唯一人保安条例の適用を受けて東京から追放されたのは尾崎行雄だけで、彼には及びませんでした。

 1889(明治22)年3月22日後藤象二郎は突如黒田清隆内閣の逓信大臣として入閣、この行動は大同団結運動に結集した人々の期待を裏切る行為として指弾され、この運動は四分五裂となってしまいました。

 このような情勢において彼は植木枝盛(「大山巌」を読む19参照)・河野広中(「日本の労働運動」を読む26参照)ら自由党系の人々とともに大同団結派の政社組織を主張する大同倶楽部に結集したのです。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 7

  1887(明治20)年9月17日井上馨外相が辞任し、伊藤首相が外相を兼任しましたが、翌年2月1日大隈重信外相に就任し黒田清隆内閣にも留任しました。

 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布(「大山巌」を読む27参照)されましたが、彼は「朝野新聞」[末広重恭の招聘により、1886(明治19)年3月入社]の同日社説欄に頌辞を執筆、憲法発布を奉祝しました。

Weblio辞書―検索―朝野新聞  

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―すー末広鉄腸 

 1889(明治22)年4月19日大隈の条約改正案がロンドン・タイムスにに報道されて、大審院外人判事任用の秘密が世間に洩れると、「朝野新聞」は同年7月9日より18日まで「改正条約の得失を論ず」と題する長文の論説を掲げました。この論文には筆者無署名ですが、犬養の執筆と推定されます。

 彼は大隈の条約改正についてもとより完全なものとは思わなかったけれども、当時の国情においては、これを断行せざるを得ないと考えていたようです。大隈重信大審院外人判事任用問題で失脚するに至り(「大山巌」を読む28参照)、この後改進党は一段と党勢不振に陥りました。

 1890(明治23)年7月1日第1回総選挙実施、彼は郷里岡山県第三区で立候補、定員1名に立候補者は4人いましたが、首尾よく当選しました。

 総選挙の結果、衆議院では民党(野党)の立憲自由党と態勢を立て直した立憲改進党吏党(与党)を抑えて多数派となりました。

 山県有朋首相は軍備増強を盛り込んだ予算案を提出、民党は民力休養・政費節減をスローガンに予算案の削減で対抗(「大山巌」を読む29参照)、1891(明治24)年3月2日政府は民党の土佐派切り崩しで修正案(歳出削減額を縮小)を通過させました。

  1890(明治23)年暮、犬養は尾崎行雄ら数名の同志とともに「朝野新聞」を去り、翌年1月11日新たに「民報」を創刊しましたが、同紙は上記の土佐派変節議員に痛烈な批判攻撃を展開、このため3月16日犬養毅議員が人力車で路上を通行中暴漢に襲われ棒で頭部を殴られる事件が起こりました。同紙はしばしば発行停止の処分を受け、5カ月目に廃刊、以後彼は尾崎とともに郵便報知新聞の客員として、同紙に執筆するようになりました。

 1892(明治25)年2月15日松方正義内閣も軍事費をめぐって民党と対立し、衆議院を解散、第2回総選挙施行、露骨な選挙干渉にもかかわらず民党が勝利し、松方内閣は総辞職、同年8月8日第2次伊藤博文内閣が成立しました。

 同年11月29日開会された第4議会において、民党は1月26日政府予算案の軍艦建造費などを削減、2月7日衆議院は内閣弾劾上奏決議案を可決しました。これに対して軍備拡張のため、一定期間官吏の俸給を削減するなどの内容をもつ詔書が出され、衆議院は2月22日製艦費をふくむ予算案を可決、以後政府と民党の対立は異なった局面に転換しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 8

 千島艦事件の日本敗訴(「大山巌」を読む31参照)により、1893(明治26)年10月、安部井磐根・大井健太郎らは大日本協会を組織して対外硬派を形成、内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責を主張、これに改進党は同調しましたが、自由党は反対しました(「大山巌」を読む32参照)。

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 同年11月28日第5通常議会が開会され、12月19日安部井磐根ら提出の現行条約励行案を上程、10日間の停会を命じられました。さらに12月29日政府は大日本協会に解散命令を出し、翌日衆議院を解散しました。

 1894(明治27)年3月1日第3回総選挙が実施されたのですが、同年4月犬養毅らは立憲改進党を脱党し、岡山で中国進歩党(所属代議士5名)を結成しています。しかし彼は主義主張を改進党と異なって離党したのではなく、地方における同志の立場を有利にするための一時的振る舞いであって、一切の政治行動は改進党と同一でした。同年5月15日開会の第6特別議会において、同月31日衆議院は硬六派(立憲改進党を含む)提出の内閣弾劾上奏決議案を可決しました。

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 同年6月2日政府は衆議院を解散、7月25日豊島沖の海戦により日清戦争が勃発しました。同年9月1日第4回臨時総選挙を実施、10月18日広島で開会された第7臨時議会は政府の日清戦争(「大山巌」を読む35~39参照)遂行に全面的協力をすることになりました。

 しかし戦後日本が三国干渉により遼東半島を放棄(「大山巌」を読む39参照)すると、硬六派はこれを非難、三国干渉を承認した第2次伊藤博文内閣の倒閣方針に転ずると、政府は自由党及び硬六派の一角であった国民協会を抱き込み、政権延命を図るに至ったので、硬六派側も新党樹立に向かい、1896(明治29)年3月1日立憲改進党[1892(明治25)年大隈重信改進党に復帰]・犬養毅の指導下にあった中国進歩党立憲革新党などが合同して進歩党を結成、犬養毅は常議員に推挙されました。新しく成立した第2次松方正義内閣に大隈重信外相として入閣、進歩党は松方内閣と提携しました(松隈内閣)。

 しかるに薩閥系と大隈系の閣僚間のいがみ合いを松方首相は収拾できず、同内閣は倒壊、1898(明治31)年1月12日第3次伊藤博文内閣が成立しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 9

  政府は歳入不足を補うため、地租・酒税を中心に3000万円の増税方針をはかったのですが、第12特別議会において自由・進歩両党は提携して地租増徴案を否決、衆議院は解散されました。つづいて同年6月22日自由・進歩両党は合同して憲政党を結党しました。

 このころ犬養毅は健康を害しておりましたが、しばしば自由党首脳部とも会談、彼の宿望であった民党の合同に向けて努力しました。結党大会においては宣言・綱領を採択し、党務処理のため4名の総務委員を推挙、自由党系から片岡健吉・江原素六が、進歩党系から犬養毅楠本正隆が就任しました。

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 伊藤首相は元老会議で政党との対決を主張する山県有朋と激論となり、ついに辞表を提出し、後継首相に大隈重信板垣退助を推薦、同月27日大隈・板垣に組閣命令が下され、第1次大隈重信内閣(隈板内閣 最初の政党内閣)が誕生しました(「大山巌」を読む46参照)。

 閣僚の選考においては、とくに尾崎行雄文部大臣就任に難色をしめすものが多かったのですが、犬養毅はひたすらこれらの不平を抑えることに苦心しました。当時彼の私邸は牛込馬場下にありましたが、早朝から深夜まで政客の来訪が絶えず、夜になれば酒でもてなし、彼は入閣こそしなかったが、事実上の総理と目されていたようです。

 同年8月10日第6回総選挙で憲政党衆議院300議席中243議席を確保しました。

 しかるに尾崎行雄文相の共和演説事件で尾崎が辞職すると、閣議は後任文相問題で紛糾、大隈首相が独断で犬養毅を後任文相に奏請したため、板垣退助内相ら自由党系閣僚は辞任、同年10月31日大隈重信内閣は倒壊、憲政党は旧自由党派の憲政党と旧進歩党派の憲政本党に分裂しました(「大山巌」を読む47参照)。

 1898((明治31)年11月8日第2次山県有朋内閣が成立、同内閣は憲政党を抱き込んで、同年12月20日懸案の地租増徴法案可決に成功しました。同法案に反対した憲政本党において大隈重信は事実上の総理であったけれど、党則上は責任ある地位になく、党の実権は犬養毅・大石正巳ら総務委員の手中にありました。

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 山県内閣は文官任用令などを改正して政党の官僚統制を困難にし、治安警察法を公布、労働運動・農民運動の取り締まりを強化し、軍部大臣の現役武官制を確立、軍部が内閣の存廃をきめる力を持つようにするなど、政党と対決する政策を打ち出しました。これに対して憲政党伊藤博文を党首とする新党参加を申し入れ、1900(明治33)年9月15日立憲政友会が発足(「大山巌」を読む48参照)、尾崎行雄はこれに参加しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む10

  1900(明治33)年12月18日憲政本党大会において党則改正が行われ、新たに総理をおき大隈重信が推戴されました(大津淳一郎「大日本憲政史」5 原書房)。

 同年10月19日成立した第4次伊藤博文立憲政友会)内閣の外相に就任した加藤高明山県有朋と合わず、1901(明治34)年6月2日第1次桂太郎(長州閥 山県有朋の直系)内閣が対露軍備拡張のため地租増徴継続による海軍拡張計画をめざすと、伊藤博文加藤高明の斡旋で大隈重信と会談、政友会と憲政本党提携の気運が高まりました。両党はそれぞれ大会を開いて地租増徴継続に反対、海軍拡張の財源は政費節減のよれと決議しました。

 1903(明治36)年5月20日桂首相は政友会との妥協交渉を開始、同月24日政友会議員総会は妥協案を承認、かくして伊藤と大隈の提携は崩壊しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む7~9参照)。

 1905(明治38)年12月21日第1次桂太郎内閣は日露講和(「坂の上の雲」を読む48~49参照)をめぐる騒擾事件をきっかけとする民衆運動の高まりの中で総辞職し、元老会議を経た桂太郎の推薦により、1906(明治39)年1月7日第1次西園寺公望(1903立憲政友会総裁・「火の虚舟」を読む9参照)内閣が成立、桂と西園寺が交替して政権を担ういわゆる桂園時代がはじまりました。

 隈板内閣以来政権からはなれた憲政本党には民党としての使命に徹しようとする正義派(非改革派)と多年の在野による党勢の停滞に耐えられず、政権に接近しようとする功利派(改革派)の抗争が容易ならざる事態となってきました。犬養毅は正義派として党内をまとめようと努めました。しかし1903(明治36)年と1907(明治40)年の中国訪問による不在中、改革派は桂太郎一派大同倶楽部のはたらきかけもあって大隈と犬養の排斥を企てるに至ったのです。

 1907(明治40)年1月20日の憲政本党大会において大隈重信は総理引退を声明するに至り、1909(明治42)年2月27日改革派が掌握していた党執行部常議員会において院内総務犬養毅は除名処分を受けました。しかし同年3月2日同党代議士会を掌握した非改革派はこの決定を無効とし混乱状態となったのです。しかしこの直後の4月11日日糖疑獄事件の検挙(原圭一郎編「原敬日記」福村出版)が始まり、改革派から逮捕者が出ると、同年10月28日の党大会で改革派は犬養毅の除名を取り下げ、両派の妥協が成立しました(「憲政本党党報」複製版 柏書房)。

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 その後1910(明治43)年3月13日憲政本党は又新(ゆうしん)会・旧戊申倶楽部の一部などの民党系非政友会系の各党と合同して立憲国民党が結党されました(鷲尾義直「前掲書」)。同党は党首不在で憲政本党の大石正巳・犬養毅、又新会の島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)・河野広中、戊申倶楽部の片岡直温・仙石貢らが常議員として党運営に当たりましたが、旧憲政本党犬養毅を中心とする非改革派と大石正巳らを中心とする改革派の対立は依然として存続したのです。