幸田真音「天佑なり」を読むⅤ-11~15

幸田真音「天佑なり」を読む11 

 パリー出発前、英国の銀行団へはあらかじめパリーにおける談判の経過を報告し、同時に高橋は1905(明治38)年11月18日夜ロンドンに帰るから、即夜ホテルにて会見したき旨を申し送っておいたので、同夜英国の発行銀行仲間は漏れなく来会しました。よって高橋はまずパリー・ロスチャイルド家と協定した条件を提示し、なお米国及び独逸銀行団との交渉を速やかに取り極めるよう申し入れました。銀行団からはいろいろの注文も出ましたが、今回は主なる発行者が仏蘭西ロスチャイルド家であるから、大概皆納得させることが出来ました。19日にはハンブルグのワーバーグ氏がやって来たので、独逸側引受額その他払い込み金処置等について協議を告げました。また同じく19日夕刻には米国のシフ氏よりも電信にて仏蘭西協定の成功を祝し、かつ今回の発行についても日本政府の希望に添うように努力すべき旨を申し越して来ました。 

 かくて公債発行に関する英、仏、独、米の意向もほぼ一致したので、19日夜総裁宛てに次の意味の電報を出しました。「ルビエ総理大臣は最も好意を有し、今月中是非発行の運びに至るよう致したし申居れり、パリー・ロスチャイルド家は今月29日にに発行するよう尽力中なり。今日まで相談まとまりたる要点下記のごとし。 

1、公債発行額英貨公債5000万磅公債額面額10磅20磅100磅200磅の4種とす。償還期1931年1月1日とす、ただし1921年1月1日以後、日本政府は6カ月前の通知により額面にて全部または一部の償還をなすの権利を保留す。2、発行総額5000万磅の内1500万磅は6分利付英貨公債の引き換えのために保留し、明年3月15日過ぎ適当の時期においてロンドン及びニューヨークにおいて目論見書を発行す。残高3500万磅は英、米、仏、独において募集し日本政府の内国際償還に使用す、ただし仏国の募集額は1200万磅とし、2300万磅は英、米、独に分配する事。3、発行価格額面100磅につき90磅、政府の手取り金88磅とし1906年1月1日に前6カ月分の利息を発行者利息受け取証書に対し交付する事。4、利子支払いは毎年1月1日及び7月1日とし、英、米、独は前回同様、仏国はパリー・ロスチャイルド家銀行にて支払う。5、払い込みは本年12月より来年3月末まで日割とす。仏国払い込みは日本銀行勘定にて各受け取日より2箇月間はロスチャイルド銀行において年1分の利息にて預る事。ただし2箇月以後といえども仏国市場に恐慌などのっ場合はなるべく引き出さざる事」その他詳細に渡り手電報しました。 

 翌20日ロスチャイルド家から午餐に招ばれたので、ロード・ロスチャイルド及びアルフレッド・ロスチャイルドに会ってさらに発行期日につき相談しました。前日までは28日目論見書を配布し、29日申し込みを受けることに協議まとまりおりしも、29日は既発の日本公債の利子支払日で非常に混雑を来すから、一日繰り上げ27日に目論見書を配布し、28日に応募申し込みを受理すること改め仏国にも相談したるに幸い異議なかったので、その通り決定しました。 

幸田真音「天佑なり」を読む12 

 30日に至って政府から電報で、「発行公債を5000万ポンドとし、その内2500万ポンドは保留して来年3月15日過ぎニューヨーク及びロンドンにて目論見書を発行するという実際の手続きが呑み込めない。発行規定の勅令には何と記載したらよいか、また来年3月まで条件未定とあるは不利益ではないか」というようなもっともな問い合わせが来ました。 

 そもそも今回の発行総額は5000万ポンドとし、まずその半額を発行してあとの半額他日に延ばすということにした理由は、全くロンドン、パリーにおける公債発行の習慣並びに人気を考慮して行ったものにほかならないのです。即ちもし今回の公債を単に内国債償還のためとして発行すれば、従来6分利付英貨公債に応募したる英、米の資本家は、この方はどうするだろうとの危心を生じます。ゆえに英国側では、今度日本が公債を発行するに当っては単に内国債整理のためというばかりではいかぬ、他日6分利付公債も償還するものであるということを併せて声明すべきものであると主張して止みません。しかるに仏蘭西側では、これまで6分利付公債には何らの関係がないので、英国側のいうように、そんなに6分利公債の償還を条件として発行することは出来ないと主張する、即ち発行条件に関し、図らずも英仏の間に意見の相違を生じて来たのです。事ここに至って万一仏蘭西側が旋毛(つむじ)を曲げて参加を断るようなことにでもなれば、それこそ大変で、年内発行の望みは到底むつかしくなって来ます。ついては、この両方の意見の衝突をいかにして一致させるかということが、高橋の最も苦心したところです。 

 そこで、いろいろと考究妥協の結果、6分利付公債の償還は明年3月15日以後に行うという一項を挿入してようやく双方の互譲一致を見るようになりました。しかるにそれならば一層のこと総額5000万磅を一時に発行して内国債と6分利付公債とを同時に引き換えたらよかろうという論も出たが、それには実際上の不都合が生じて来ます。というのは、今度発行する公債に対して6分利付公債をもって払い込みに充れば、その方には直ちに全額払い込み済みのの仮証書を渡さねばなりません。しかして現金応募者は一時に払い込まないのであるから、借替応募者のように全額払い込みの仮証書をもらうわけには行きません。そのため一は売買の上に火丈なる便利を受け、他は反対に大なる不利を蒙り、かつそのために新債の市価にまで悪影響を与えるよいうことが研究の結果明らかとなりました。 

 ことに当時の状勢から判断して来年の4月ころに6分利付公債の引き換えを行えば、あるいは今日よりも好条件得らるるやも図られざる情勢にありましたから政府に対しては、「勅令案には英貨公債額面5000万磅を発行す、ただし本公債の内、額面2500万磅は発行額面100磅につき90磅をもって英国ロンドン、米国ニューヨーク、仏国パリー、及び独逸において募集し、額面1500万磅は明治27年5月及び11月英国ロンドン及び米国ニューヨークにおいて募集したる6分利付英貨公債1200万磅の引き替えに充用す。その引き換え期日及び方法は追って大蔵大臣これを定む。上記1500万磅のうち引き換え剰余高は現金をもってこれを募集す。その時機及び募集価額は大蔵大臣これを定む。と記せられたし」と電報しました。その後1905(明治3811月25日となって、政府より林公使を経て4分利付公債発行の勅令文を決定して来ました。 

 上記のごとくして、11月27日夕方には、英、米、独、仏において目論見書を発表しし、翌28日より応募の申し込みを受理することとなりました。しかるにその結果は今k氏も非常なる盛況で、ロンドンでは割り当高572万磅の27倍余、ニューヨークでは1267万弗の割当高に対しその4倍余、独逸では割当高5715万馬克(マルク)に対し10倍余、仏蘭西は16558万法(フラン)の割当に対し約20倍余の申し込みがありました。政府でも、今回の成功には非常に喜んで、11月20日には早速大蔵大臣名義をもって祝意を表して来ました。 

 かくて4分利付公債の募集も滞りなく行われ、募集金の始末などの用務も大体片付いたので、高橋は松尾日銀総裁に宛て、12がつ27日までにロンドンを発し米穀経由帰国したき旨を電請しました。これに対して総裁よりはm希望の通り帰朝してもよいという返事でしたから、、高橋はいよいよ1905(明治38)年12月20日ロンドン初、ニューヨークを経由して1906(明治39)年1月23日桑港出帆のサイベリア丸にて帰朝することに決しました。上塚司編「高橋是清自伝」中公文庫はこれで本文を終了しています。 

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高橋は帰国後いくつかの栄誉を受けましたが、家庭的不幸にも出会い衝撃を受けたようです(幸田真音「前掲書」下巻)。 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅴ-1~10

幸田真音「天佑なり」を読む 

 これより先第一回4分半利付き公債の募集が結了した直後、パンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏を通じ、巴里株式取引所仲買委員 長ヴェルヌイユ氏から、フランス大蔵大臣ルビエ氏の命によって、ごく内密で面会したしとの申し出があったので高橋はそれを承諾しておきました。すると3月27日[1905(明治38年)]コッホ氏がやって来て、「ヴェルヌイユ氏が今日わざわざパリーからやってきたので、明日面会の手筈をしておいた。もっとも今会談の模様が分っては、ロシアに対して困難なる事情を生じて来るのでこのことは絶対に秘密を要する。ついては明日午後4時自分の事務所にて手軽く会見相成ては如何」という話であったので、高橋はその通り承諾しました。その際コッホ氏の話によると、元来ぱ巴里の取引所には70余名の官設仲買人(official broker)があり、その上に仲買人委員長なるものがある。これは政府が任命することとなっている。このほかに普通の仲買人がいるけれども、それらはすべて員外仲買人(open broker)と称し、信用責任等遙かに官設仲買人に劣っている。取引所の発行にかかる公定相場表(official quotatitation)に載せられている有価証券は主に仏国政府または信用ある外国政府の公債並びに確実なる債券類であって、これは官設取引所でなければ相場を立てることが出来ない。しかして員外仲買人の取り扱う有価証券は、公定相場表に掲載を許されないものに限られているので、自然二流三流以下有価証券類がその主なるものである。公定相場表に掲げられたる有価証券は信用確実であって、いずれも第一流の放資物と認定せられるので、その選択極めて厳重ならざるを得ない。従ってその種目もあまり多くない。これ即ち勤倹貯蓄の念富みかつ放資力の豊大なる仏国民が放資の目的物の少きに苦しみつつある所以(ゆえん)である。しかして公定相場表に載せることの可否選択の権は、一に取引所委員長の掌中にあり、従って日本公債を巴里市場に広めるについてはこの委員長の諒解を得ることが第一の要件である。今日ちょっと貴国公債を公定相場表に載せることについて氏の意見を敲いたところ、氏は大体において異議なし。しかし、平和後日本公債の信用絶頂に達しその価額高騰したるところで仏国民に引き受けしむることは面白からず、未だ絶頂に達せずなおなお高騰の余地ある間に、仏国にて発行し、仏告国民にも価額騰貴により生ずる利益国を得せしめ満足を与うるよう致したし。交戦中は同盟国の露国に対して憚るよころあれど、戦塵一掃されなば、むしろ当方より希望して発行を願いたし、その発行額のごときも、少額なるより相当巨額なる方却ってよろしという話であったとのいうことでありました。  これが即ち高橋と仏国資本家と関係を結ぶに至った端緒で、コッホ氏の尽力預かって大いに力がありました。さてコッホ氏はどんな手蔓からかような端緒を開いてくれたかというに、同君の夫人は仏国のバロン・ジャック・ド・グンズブルグ(Baron Jacque de Gunzburg)の夫人と姉妹で、同男は仏蘭西工商銀行(この銀行は当時の大蔵大臣ルビエ氏が入閣前頭取たりしことあり俗にルビエ銀行と称せられた)の重役でルビエ氏やヴェルスイユ氏とは昵懇の間柄であったので、コッホ氏はまずクンズブルグ男に話しこみ、同君を経てヴェルヌイユ氏近づき、ついに高橋との連絡をつなぐに至ったのでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読む 2 

 3月28日午後4時約束通りコッホ氏の事務所で、極秘裡にウエルフィユ氏と会見しました。氏のいうのには、「自分は大蔵大臣ルビエ氏の申付けによって貴君に御面会を求めたところ早速御承諾下さって辱ない。御承知のごとくフランス国民は従来から巨額の露国政府の公債に投資している。今日では日本の金にしてほとんど70億円くらいにも上(のぼ)っている。そういう深い経済関係を持っている仏蘭西としては、いつまでも戦争が続くことは非常に憂慮に耐えないところである。ゆえに一日も速やかに平和になることを希望してやまない。また我々フランス人は今日まで少しも日本の真価を諒解しなかったことを恥する次第である。これに反し英国のごときはさすがに機敏であって、団匪事件の時に、早くすでに日本の兵力を認め、次いで日本と同盟するに至った。ゆえに大蔵大臣のルビエ氏のいうのにはこの際どうかして速やかに講和することを希望するが、これまで連戦連勝の日本が勢い委せてもし償金を要求するということであったら、ロシヤはそれを納得しないから講和は成立の見込みがない、もし日本が償金をとらずに講和をするというのであれば、フランスは日露両国の間に入り、露国政府を促して講和をさせるようにしようと思うが貴君の意見はどうだ、これが自分の使命の第一だ」というから、高橋は「これまでの戦争の例を見ても、和議をするに当って戦争に勝った国が償金を取らぬということはほとんどないようである。自分の考えでは、日本があらかじめ償金を取らぬということを条件として、講和の談判を進めることは出来ないと思う。かつさような条件では政府がいかに平和を希望しても国民が諾かぬであろう」と答えました。するとウェルスイユ氏は、「なるほど貴君のお説は一応ご尤もであるが、今日日本の兵は連戦連勝であるが、戦いをしている所は清国の領土内で、未だ日本軍はロシヤの域内を寸地だも侵していない。日本が飽くまでも償金を求めロシヤがこれに応ずるというのには、日本兵が少なくともモスコーまで進出しなければ出来ないことである。それは日本に取っては容易ならぬことと考えられる。しかしてルビエ氏の考えは、日本政府が償金を取らなければ、財政上苦しいであろうから、その償金の代わりに、新たに5億乃至7億円くらいの日本政府の公債起こすために、パリー金融市場を開放する。さすれば日本政府は永遠に富裕なる仏国市場を使用することが出来るので、一時に取る償金以上の利益があるから、この際は償金を求めずして和を講ぜられるよう希望するというにある」ということでありました。 それで高橋は「しからばそのことを内々日本政府に電報して政府の意向を聞いてみようか」といううと、ウエルスイユ氏は、「ルビエ氏の意向はこの際日本政府の考えを聞いてもらいたしというのではない、ただ貴君がどう考えているかを聞けばよいということであった。すでに貴君の考えが分った以上それでよいのである。この戦争はロシヤの敗戦によって落着しても、ロシヤは他日必ず日本に対して報復の戦争を起すことは明らかである。そうなって困るものはフランスである。ゆえに日本とも経済関係を密接にしておけば、他日日露の間に紛糾が生じても、フランスがその中間に立ってその間を調停することが出来る。というのがルビエ氏のの意見である。ついては、今後フランスとの経済関係を密接にし、戦争終了後早速巴活にて日本公債を発行せられるよう希望する」というから、「それは至極尤もなことで、日本政府でも御好意をよく受けることであろう。時期至らば、自分の努力の及ぶ限りルビエ氏の意向に添うようにしよう」といって別れました。その後ヴェルヌイユ氏は巴里に帰ると共に、事の顛末をルビエ氏に報告したところ、同氏も非常に満足したということをグンズブルグ男及びコッホ氏を経て通報して来ました。

 幸田真音「天佑なり」を読む 

 高橋とフランス資本団との関係は、上述の状態のまま推移して数箇月を経過しました。その内8月上旬に至って、たまたま主なる資本家と会合するの機会を得て、その意見を質したるところ、「日本政府が平和後外債を起す希望なれば、講和条約締結の直後に着手するがよい。何となれば、平和成立の際日本に対し一般人気最も良き時である。数箇月を過ぎれば露国の常套手段として新聞その他の策略により自国の信用を回復することに務めるから、時の経過に従って、今日のごとく日本の国債は遙かににロシヤのそれに優っているという観念がだんだん薄らいで行くから、日本に対する好人気を利用することは出来なくなる」ということでありました。高橋も至極同感でしたから、このことを政府に電報しました。 

 するろ政府からは、「貴殿の指摘する点については政府もすこぶる重要と認めているので、講和談判の決定後直ちに何分の処置をなす積りであるが、公債の新発行については新たに緊急勅令または法律を発布するには及ばない。本年法律第12号第3條によって整理の名義にて発行することを得べきをもって念のためお知らせ致いおく」と返電が来ました。 

 それから約1箇月ばかり経って9月4日に至り、9月1日発の日本政府の電報に接しました。そおの内に、「講和談判はほぼ結了した。償金はなし、ついてはすでに発行したる公債整理のためこの際2億円乃至3億円の外債を発行したきところ、英米独仏等の人気いかにや、至急資本家の意向を探り報知せよ」と言って来たので、高橋は「日本政府が償金問題を譲り、平和を成立せしめたることは大いに評判よし、内国債整理のため外債必要ならば、今日をもって好時期とす。露国政府はこの際大陸にて大蔵省証券を発行し応急の資金を調達し、追って信用の回復を待ち長期公債発行の手段に出づる様子である。もしこの際外債を起すならばこれをもって整理する公債の種類を明示しまた現金入用ならばその使途を明らかにするの必要あり、次に仏国市場を利用するならば、無抵当にて利子4分発行価額90%くらいとお考える、新外債の成功を期するには、未だ償還権は生じおらざれども第一回第二回6分利付英貨公債は、多少利益を与える手段を取って新外債を引き換えることを許すことにせねばならぬ。資本家の意向を探ることは、以上の事情に基づき新外債募集のことを確然御決定の上ならざれば不得策と思う。なおこの際内より亡国論など出して、海外の信用を失墜せざるよう取り締まらなければ、些細のことにて人気一変する海外のことゆえ甚だ心配なり」と返電しておきました。

幸田真音「天佑なり」を読む 

しかるにこれと相前後して松尾日本銀行総裁より極秘の電報来ました。即ち、「平和談判の調いたるは御同慶なるも償金皆無なるゆえ正貨準備の維持甚だ困難なり。現今政府及び日本銀行が内外に所有する正貨及び第四回外債の未収入高を合計するも5億1800万円を出でず、このほかに正貨収入の見込みなし、しかして目下在本邦外国銀行支店及びその他より兌換券をもって正金払いの為替を申し込むもの毎日平均およそ100万円にして、1箇月3000万円内外なり。これをもって将来を測るに、向こう20箇月を出でずして正貨準備は尽くるに至るべきか、ことに本年は米作不良の模様につき輸入超過は免るべからず。上記善後策については目下政府においても取調べ中なれども、前述べたるごとく、差し迫りおるにつき、おそらくはこれを救うの途は甚だ承りたく返電を乞う。 

 また7月27日附お手紙落手カッセルへ賜わる狆のことは心配中なり。なお米国ハリマンも昨日来着しそれぞれ待遇の手配せり」と言って来たので、高橋は「お申し越しの件はすこぶる重大の件なるをもって事実の調査に基づかざれば違憲立ち難(がた)し。しかれども上下(しょうか)とも非常の決心断行を要するの時にして、戦争中のごとく警戒を緩めず、奢侈を斥け、遊惰戒め、この際原料品もしくは生産的資本に属する機械類のごとき物品以外の輸入品には国家の力をもって干渉し、関税を重課してその輸入増進を防遏(ぼうあつ)するの方針を立て、一方生産的事業資金はなるべくこれを供切べる給するの途を明け、かつ欧米観光客の誘致策を按じ、政府は率先して自戒め、政府事業中殖産興業に縁遠きものは、当分出来る限りこれを繰りのべ、海陸軍備の補充拡張のごときも断乎たる決心をもってこれを抑え、決して国力以上の施設を為さざるよう注意肝要なるべし。しかしてこの際財政に関しては特別の御宸襟(しんんきん 天皇の心)を煩わし奉り、諸般の施設ことに陸海軍の設備に関しては、果して国力の堪ゆるや否やという点につき、畏くも常に環形大臣にをお膝元御召相成親しく御裁断有之様、希望に堪えず」と返電しました。 

 さて8月39日、講和談判において、日本が償金をを撤回したということで、一時は日本公債の市場人気に師全失望消沈の状態を示さんとしましたが、それもすぐに持ち尚して、9月の初めころになると欧米の新聞は一斉に我が天皇陛下のご英断を称揚し、海陸連戦連勝の命よに一層の光輝を添えるの感がありました。加えるに日英同盟の改訂も行われたので、これによって東亜の平和も前途長く保証せられたりして、日本公債の景気も意外に良好の調子を保ち市価も昂進一方にて、ここ1、2週間の内には4分半利付英貨公債のごときは、多分97、8くらいまでの市価を維持するに至るべしとの気構えを生ずるに至りました。 

 しかるに、9月6日に至って、平和条件に対する不平に起因して、東京に一大騒乱(「坂の上の雲」を読む49参照)起れりとのとの報道(海底電線破損のために遅延)達し。、翌7日よりそのことがロンドンの諸新聞に一斉に掲載されたので、英米市場の対日本感情に容易ならざる激変を与え、従来の好人気一大頓挫を来し、日本公債のごとき一時に3分余も下落しました。高橋はこの情勢誠に遺憾に堪えなかったので、何とかして狂瀾(打ち狂った大波)を既倒(元通り)に挽回したしと苦慮しましたが、なかなか名案も出ません。ちょうどそこへロイテル通信社員その他の新聞記者らが、東京争乱に対する高橋の意見を聞くべく押しかけて来ました。高橋のところには6日、日本銀行総裁から、「昨5日平和条件に対しての騒擾あり、警察官吏と運動者と衝突して多数の多少の争乱ありたれども、今朝に至って沈静せり、格別のことなし、通信員らより誇張通信可有之(これ有るべし)と察するゆえ念のため報告致しおく」と電報が来ておったので、新聞記者らに対しては、「決して心配はいらぬ、講和条件に不満の徒が一時のの激憤にかれ会合せるところに、警官の処置やや穏当を欠き衝突を生じたまで、ロンドン諸新聞の報ずるがごとき仰々しきものにあらず。従って講和条約の批准を妨げるがごとき憂いは絶対になし」と説明しました。このことは各新聞紙にに掲載せられ、程なく多少は市場人気も落ちつきたるも、ついに前日の好調子に挽回するには至りませんでした。しかして露国政府はこの機措くべからずとして、米、独、仏及び上海等において盛んに新聞の操縦を逞しくし、日本に対する欧米の人心をして不安の念を起さしむれば、それだけ露国に対する人気を好くする結果となるわけゆえ、大いにその宣伝に努めたようでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読む 

 9月8日[ 1905(明治38年 ]、に至って、日本政府から急電が入りました。それは、「第一回第二回6分利付英貨公債3200万磅、内国第四回大五回6分利付国庫債券2億円を整理するため、仏国を加え無抵当4分利付長期公債価額90以上にて3億乃至4億円を発行するを得ば幸なり。以上の諸条件を基礎としてこの際直ちに内協議を開かれたし」という意味のものでありました。しかるに当時欧米市場の日本公債に対する人気は、東京騒動のために一変した時であるから、当方より問題を起すのは拙劣である。幸過日パンミューリ・ゴールドン商会から、同様の問題を持ち出し、日本政府の意向を承知したき旨の申し出があったので、その話 

続きとして、同商会の注意により日本政府は始めて公債整理の考えを起したることとして徐々に資本家とと内相談試みた。ところがおずれの資本家もことごとく反対の意見申し立てて来た。その大要は、1、東京騒動以来日本公債に対する人気を挫きたる矢先ゆえ、今公債を発行するも到底日本政府に満足なる条件を得る能(あた)わず。2、今後数カ月も待てば日本の財政経済の信用も自から各国間に知られ、従って日本公債の市価も一層上騰すべくその時機において発行するを可とす。3、日本政府が目下巨額の現金を海外に所有せるにも拘わらずさらに公債を起すは、海外金融市場に巨大の実力有せしめ、その動きによって金融市場を動揺せしむる憂いありとの不安にがらしむ。3、条件の如何に拘わらず露国政府が外債相談中に日本公債の発行は困難なり。 

等であって、日本公債の発行に都合悪しきことばかりです。そこで、ちょうどセント・ピータースブルグに在る姉の病気見舞のため旅行しておったパンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏を呼び戻し、その意見敲いて見ましたが、この人も別段迷案なく、要するにことの成敗仏国市場が露国の起債に応ずるや否やに懸っている。露国がいよいよ起債することに決まらば、その間に割りこんで日本公債を募ることは到底見込みがないと大体前記の各説と同様の意見でありました。 

 またロード・レベルストックは、日本政府にあまりあまり過大の現金を一時に占有せしむるは金融界の安全を保つ所以にあらずととの観念に支配せられいるため、目下、募債の時機にあらずとするのみならず、この際は大蔵省証券を売り出すことさえ宜しくないという意見でありました。 

 サー・アーネスト・カッセルのごときも、日本は僅々4箇月足らず内に6000万磅の外債を発行し非常なる成功をなした、しかしながら、何分にも巨額の発行高ゆえ未だ公債はその落ちつくべきところに落ちつきおらず、なお将来の騰貴を見て売飛ばさんとする思惑者流の手相当残りおれば、それらのものが本統の投機者の手に落ちつくまでは必然的に値段も抑えられる次第なれば、日本公債の発行は少しにても先に延ばすがよい、もし公債整理のために是非現金が入用ならば、この際12箇月期限5分利付大蔵省証券を資本家に売り渡し、来春を待って整理のため多額の公債を発行することが有利なる条件を得らるべし、という意見でありました。 

 英国における事情は大体上述の通りでありました。米国の方はウカと電信などで照会しておっては、新聞に漏れて却って評判の種を蒔くに過ぎないから、どうしようかと独りでその方法を考えているところにシフ氏より手紙が着いて、日本公債整理のことは後日に延ばす ことが得策であると思う旨を通じて来たので、米国資本家の意向もほぼ判明するに至りました。

幸田真音「天佑なり」を読む 

 9月8日[ 1905(明治38)年、上述の事情でありましたから、高橋は政府に対し、「平和条件に対する東京騒動のため日本公債に対する人気大いに悪く相成り、当地新聞記者らに極力説明に努めおれどもここ1週間も経たざれば、公債整理をするの可否認め難し」と電報しました。すると政府よりは9月9日に至り、「公債募集を来春まで延ばすことは甚だ困難である。ゆえに是非、この際発行の決心をもって新進行を望む。市中昨日より全く平穏となった。まだ平和に反対せる人々数日来の騒動を後悔している有様であるから、もはや安心してよい。なお平和恢復せるも軍隊の引上げを終わるまでには莫大なる費用がいる。来年3月までの分としてこの際1億円の内国債発行の必要があれども平和条件不人気にて当分公債談を開始するの見込みなし。ゆえに内国債の整理償還先にして人気を回復することが最も必要である。パリーの資本家『ソエルバック・タルマン』商会のソモルバックより、大蔵大臣へ公債引き受けのこと申し出ているから、もし貴君に紹介することを便宜とせらるるならば紹介すべし。またフランスに対し外交上の援助を必要とするならば、その考えなきにあらず。貴君考慮の上申し越されたし」と電報して来ました。これに対して高橋は、フランスにおいて募債の件は先般来第一流の資本家との交渉の途は開けている。現にパリーの資本家よりはしきりに高橋のパリー行きを促して来ている、かつパリーに行けば総理大臣ルビエ氏高橋に面会すると間接申し越してきているくらおゆえ、露国政府の公債さえ募集せられない限りは大いに見込みありと思う。ただし万一露国公債が募集せらるることとなれば、我が公債談は一時中止するよりほかはないことを返事し、また政府より言ってきたソモルバック・タルマン商会のことも調べてみたがこれは地方の金貸しかかつ仲介商人としては相当に信用があるけれどもニューヨークやロンドンではにはその名を知られておらず、到底公債募集の相談相手とすべきほdpの資本家でないことが明らかとなったので、その旨をm電報しておきました。 

 その内に、日本政府では、高橋の交渉相手である巴里株式取引所仲買委員長ヴェルヌイユ氏について、パリー駐在の本野(もとの)公使に電照の結果、同氏がフランス理財社会に最も勢力ありかつ大いに信用するに足る人物なるを確かめたために、9月11日に至り、露国公債の風説もあることゆえこの際速やかに巴里取引所のヴェルヌイユ氏と交渉を進めよ、かつ工廠上必要と認めることは、直接本野公使と交渉してよろしい、本野公使にはその旨通知した、と言ってきました。 

weblio辞書ー本野一郎 

 上記のように、本国政府からは、矢継ぎ早やに督促して来ます。ついてはこの際先決問題はロシヤの募債談がいかに進行しつつあるかを確かめる必要があるので、一旦パリーへ行っておもむろに後図(こうと のちのちのはかりごと)を策せんと決心しました。ただ高橋がここに突如フランスに行くについては、すこぶる錯綜した関係今回平和後の整理公債を生じてくるというのは、第一今回平和後の整列理公債の発行に当って、戦争中関係した資本家に、全然無断で、仏蘭西に行き公債談を開くことは、日本政府の徳義上なし得ざるばかりでなく、彼らの感情を害して決して我が国の利益となりません。次に仏蘭西資本家は独逸の加入を喜ばず、これと共同して公債を発行することを嫌う傾向があるので、その方の関係も注意せねばなりません。こういうことで、フランス行きについては、静かに時機の熟するを待っていました。しかるに日本政府ぁら、前記のごとく大至急談判を開始するよう通知してきたので、英国資本家には一切の故障を排して巴里に向いました。 

幸田真音「天佑なり」を読む 

1905(明治38)年9月15日夕刻巴里に着いて、翌16日午前10時から、ヴェルヌイユ、グンズブルグコッホ諸氏と会合して公債発行についての内相談をしました。 

 高橋は発行総額を5000万磅とし、う内2420万磅は大一回及び第二回の6分利付英貨公債1200万磅の引き替えに充当するため英米において発行し、残り2580万磅は、日本内国債の償還に充てることとして、英、米、独、仏において発行す。発行条件は無抵当4分利付にて発行価格90以上たるべきことを基礎として相談を進めました。3氏とも大体においてこれに異議なく、ただし仏国市場の都合上、9月、12月、1月は公債の発行思わしからず、10月ならば差し支えなきゆえ、来月にも発行したがよいと思うけれども、露国は交戦中より起債談持ち込みおることとて、露国公債発行以前にに日本公債を発行することは困難である。またロンドンを起債談の中心とすることは、英国が日本同盟国たる関係より生ずる自然の結果であるから、その節は仏国より代人を出し、英国資本家と同等の地位に立ちて相談出来るよう致したく、発行条件の無抵当4分利付にて価格90以上は相当の希望とは考えられるが、4分利付日本公債は現にロンドン取引所にて取引されつつあるゆえ、自然その時の取引価格に支配せらるると思う。なお仏国にて初めて日本公債を広めらるる以上その価格の絶頂に達せざる前即ち前途昂進の希望ある内に発行して、仏国民にもその騰貴より生ずる利益を占めさせるようにしてもらいたし、また仏国のいわゆる公衆投資者(People investor)は真の細民にして中には500法(フラン)内外少額なるものも少なくない。彼らは他国の公衆と違い応募前に銀行支配人とか資本家とかに行き意見敲く等のことなく、彼らの向背を決する相談相手は新聞の記事であるから、中央地方にわたり多数の新聞を操縦して大いに人気引き立てる必要がああるゆえ、その方の負担を相当に見積られたし、ということでありました。 

 かくて同日の相談も極めて円滑に取り運んでその日は一応っ宿に引き取り、越えて9月9日午後4時、前約に基き、ヴェルヌイユ、グンズブルグ、コッホ諸氏同道にて総理大臣官邸に総理大臣ルビエ氏を訪問しました。 

 まずヴェルヌイユ氏が高橋をルビエ氏に紹介して、高橋が仏国市場に募債の考えありて渡仏して来たことを述べると、ルビエ氏は、「今般日本政府が講和条約を取り結んだlptpはすこぶる智慮ある措置であって、仏国民の共に祝福しているところである。この時機において日本公債を当地市場に紹介せらるることは、誠にその処を得たりと考えるが、相成るべくは日本公債の市価頂上に達せざる以前に発行せられたく、かつ仏国発行銀行は仏国の発行銀行と必ず同等の地位に立ちて相談致すようにして頂きたい」ということでありました。 

 よって高橋は「日本政府はかねて仏国市場にて公債を発行したき希望を持ち時機の熟するを待っていたが、今閣下のお話を承り満悦に堪えず、承れば仏国にては英国等と違い政府の意向大いに金融界の潮流に影響する所ありと聞く、ついては今後一層の御高配を望む」と答え、その他公債発行の条件、日英同盟の話等に及び、非常に打寛いで会談を終えました。この日総理大臣と高橋との対談主としてコッホ氏の通弁し、時としてヴェルヌイユ氏も通弁しました。別れに臨み高橋が、仏語を操り得ずために直接意を尽し能わざるを遺憾とする旨いうと、ルビエ氏はこの時初めて不十分なる英語をもって自分とて英語の素養に乏しく、遠来の珍客と直截快談を縦(’ほしいまま)にする能わざるを遺憾とする旨の話がありました。その後ルビエ氏は、たびたび高橋の止宿しておるリッツ・ホテルに来て午餐を共にし、互いに懇意となるに従って普通の話しは英語で直接話すようになりました。 

 この公債談について微妙なる国際関係g生じて来ました。それは、今回の募債につき独逸を加入せしむるや否やは、英国の資本家も仏国74の資本家の意向を憚って一語も口に出しません。しかし心中では従来の義理もあることゆえ一部分は独逸にも持たせたい希望があるようです。ところが仏蘭西のヴェルヌイユ氏やルビエ氏は独逸に関しては片言隻語も口しません。実に妙な睨みあいとなって来ました。要するにこれを真っ先に言いだしたものが、一方のの恨み買うわけゆえ、誰もこれを言いだす者がなく、英国資本家は日本政府の意なりと言うて独逸の加入を迎えたきもののごとく、また仏国資本家は同じく日本政府の意なりとしてこれを拒否せんと考えておる模様でありました。それで独逸を加入させれば仏国の感情を害し、独逸を拒否すれば英国の銀行者の感情を害しかつ独逸の怨恨を買うこととなり、実に、そこの梶の取り方がちょっとのところで大事になるゆえ、高橋はこの旨を詳しく書面をもって日本政府及び松尾日銀総裁に申し送ってその注意を促しました。

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今回の公債発行は仏蘭西を加入せしめて、その半額は巴里において発行せしむる予定の下に、ルビエ総理大臣およびヴェルヌイユ氏らと相談を進めましたが、すでに巴里発行と決した以上、パリーのロスチャイルド家をこれに参加せしめ、日本政府の発行銀行とすることは、金融上からも、信用上からも絶対に必要な事柄でありました。しかしてパリーのロスチャイルド家を参加せしむるためには、ロンドンのロスチャイルド家から勧誘してもらう一番力なことでありました。 

 元来ロスチャイルド家が、その富力世界に冠絶せることは、今さらいうまでもないところで、これと懇親を結びおくことは、将来我が国家のために利益する所多かるべきを考えて高橋はかねてから、パンミュール・ゴールドン商会のレビタ氏を通じてロンドン同家との交際を 

親密にし、lptpに待っ末弟のアルフレッド・ロスチャイルドとレビタ氏とは別懇の間柄であったので、高橋も自然懇意となりたびたび招ばれて午餐を共にするようになりました。 

 そこで今度渡仏するに当ってはまず第一にレビタ氏をもってロンドン・ロスチャイルド家に対し、ヴェルヌイユ氏らと相談のためパリーへ行くが、いよいよ仏蘭西にて日本公債を発行することとなったら、パリー・ロスチャイルド家の援助を受け得るであろうかどうか、その意見を聞かしめたところ、アルフレッド・ロスチャイルド氏は、「パリー同家の人たちは病身もしくは弱年者であるから率先して日本公債の発行者決心が出来るかどうか、疑わしい」ということであったが、ロード・ロスチャイルドは、「何とかしてパリー同家を従事せしめたいが、それには高橋氏の方から進んで提議せらるるがよかろう、日本政府及び高橋氏にして御希望とあらば、自分がパリー同家に手紙を送ってコッホ氏が交渉の途を啓(ひら8)き得らるるよう便宜を図ってもよろしい」ということであったので、その手配りをロード・ロスチャイルドに依頼し、同時にコッホ氏は高橋よりも1日早くパリーに行き交渉せしめました。 

 パリー・ロスチャイルドはロード・ロスチャイルド家の甥に当ることで、すべてのことにつきロンドン同家の説に重きを置いていました。それで当方よりの交渉に対しても一応ロンドン同家と相談の上返事をすうるということになり、直ちに特使をロンドンに派し、相談の結果1905(明治38)年9月18日に至り返答してきました。 

 その要領は、「平和克復後は日本公債発行に関係して差支えないが、ロンドン、パリー両地にて発行せらるる日本公債に対し、ロンドン・ロスチャイルド家が英国の発行仲間に入らず、パリー・ロスチャイルド家のみが仏国の発行団に参加することは、世間に異様の感を起さしむるゆえお断りするよりほかに致し方なけれど、ロンドン同家がが英国発行者となるならば、パリー同家においても仏蘭西の発行者となってよろしい」ということでありました。そこで今度は再びレボタ氏をもってロンドン・ロスチャイルド家に上述のようなパリー・ロスチャイルド家の意向を伝え、是非発行仲間に参加せられたき旨を相談せしめました。 

 しかるにロンドン・ロスチャイルド家では容易にそれを肯(がえん)じません。けだし戦争中英国の銀行者たちはロスチャイルド家を仲間に加えずして巨額の公債募集に成功しているのに、今さら同家が参加の必要はないではないかというのがその理由で、ロード・ロスチャイルドは、この理由をわざわざパリー同家に申し送って諒解を求めたのですが、パリー同家では、ロンドン・ロスチャイルド家が参加せぬ以上は仏国にての発行は者となることは出来ぬとのと居てなんとしても受け入れません。それでロンドン同家でもとうとう折れてロンドンにおいての発行銀行に加入することは承知しました。 

 かくてロンドン・・パリー両ロスチャイルド家が発効銀行に参加することはいよいよ確定しました。しかるにかくなてきて他の発行銀行者たちの心配は、ロ家の参加は日本政府のためには甚だ結構であるが、元来ロンドン同家が発効銀行と共に名を連ねることがすでに異例であって、同家が仲間に入る以上は、発行銀行の首席とならねば承知すまい、そうなれば従来の発行銀行としては、自分たちの信用不足のためにさらにロ家の救援を仰ぎたるの観呈し、一般公衆に対して大いに自分たちの面も句と信用とを傷つけるの憂いがある。ロ家は果して発行銀行の首位に就くことなくして参加を承諾するであろうかということでありました。よって高橋はこのことについてロード・ロスチャイルド懇談したところ、同家は発行銀行の申し出を理由ありとして、従来のパース銀行名を目論見書の首位に置くことを承諾しました。これを聞いてパース銀行の総支配人ホワレー氏のごときは、鬼の首でも取ったように喜びました。 

 上述のごとくしてロンドン・ロスチャイルド家を我が公債発行者の一人に加うることが出来ました。聞くところによると、これより先露国講和全権大使ウイッテ氏は、米国よりの帰途パリーに立ち寄り同地のロスチャイルド家に就き露国公債引き受け方を懇望し引き受け手数料のごときも6分を供し、発行価額のごときは一切同家に意思に一任することとし、かつ仏蘭西銀行(Banque de France)より責任と手数は一切同家を煩わさぬにより、同家の名を発行銀行の首位に置くことを枉げて承知されたき旨をしてきましたけれども、同家では断然これを拒絶した由であります。しかるに我が国の公債発行に関しては、英仏両家ともきわめて円満に参加するに至ったことは、我が国将来の財政上、無上の味方を得たものと言わねばなりません。 

幸田真音「天佑なり」を読む 

 ロンドン及びパリーのロスチャイルド家を発行銀行仲間に引き入れることは、以上のごとき事情で大成功をもって確定しました。しかしながらそのころから欧米の金融市場は近年になく引き締ってきて、金利は少なからず高騰しました。従って年内に我が公債の成功行はむつかしかろうと気遣うものも生じて来ました。ことに露国から公債発行の談判を進めている間は、日本の公債談を工に新乞うせしむるわけにはいかないので、高橋はやむを得ず内密の間に英仏の銀行家と気脈を通ずるよりほかは致し方がありませんでした。本野公使から、っこの際仏蘭西輿論を操縦するの必要を外務大臣に電報せられたり見え、政府より高橋に対しその事に就いての問い合わせの電報来ました。しかるに新聞操縦のことパリー・ロスチャイルドが一切引き受けることになっているので、政府に向っては、別に当方にて操縦の必要を認めず、と返電しました。けだしパリー・ロスチャイルド家は、平生仏蘭西の重立ったる新聞40有余をを操縦しているので、一切を同家に任しておけば、東方にてその費用を支出するの必要なsきことを確かめたがゆえであります。 

 10月の半ばを過ぎて、露国政府は自国交際発行相談のため関係国の銀行代表をセント・ピータースブルクに召集し、ほびその相談がまとまったことが判りました。そうしてそのh作興期日は多分11月10日ごろであろうということも確かめられたので、その旨を政府に電報しました。その後11月25日になって露国公債相談がいよいよまとまったことが一層深く確かめられたので、、それに引き続き我が公債の発行時機も近くにありと考えたので、その談判を進行さすについて、政府の決心を確かめおくの必要上、次の事項について指揮仰ぎました。1、もし銀行団が4分利付で、発行価格を90以下とせまければ承知せざる場合は、一時フランス交際を止めて6カ月乃至11カ月期限で、借入金相談をなすべきや否や。2、今回発行の公債は6分利付英貨公債及び内国際償還のためという主旨をもって今日まで内密に談判を進めて来たのであるから、政府がもしこの公債を他の目的のために使用するがごときことあれば、政府の信用を傷つけ禍を後日に残すものと承知ありたし。3、このごろ内外人中に、我が5分利付国庫証券を海外に売り出さんとして奔走する者が多くなって来たが、これは我が既発の英貨公債の騰貴を押え、かつ新たに起す外債競争の地位立たしむるもので、現にその噂のみでも悪影響を亜多会えつつあるゆえ、のことはなお一層政府の注意を望む。また近ごろ我が官民の間に外資輸入のの説盛んに行わるるが、そもそも内国際を海外に売り出すことは結局国家が比較的高利の外債を起すと同一のこととなり、その国家の損となることに気づかざるは遺憾である。4、今回仏蘭西で起す公債をもって、内国際の償還に充つることは明言しおるも、その償還すべき公債の種類はこれを明言しおらず、ゆえにいかなる種類の公債を償還すべきやは政府の随意である。よって政府は内国市場時々売り物の出るのを買って償還し、もって我が5分利付公債市価を額面に維持することが必要である。 

と言ってやると、1905(明治38)年10月27日に至って政府から、「お申し出の通り、発行価格は是非90を下らないようにしてもらいたい、しかし万一破談にする場合には一度政府の意見を問われたし、なお第一以下はすべて商人する、また一時借入金は要らぬ」という返事が来ました。 

 その後露国公債の発行については、露国内の争乱などのために、仏国銀行者もいささか躊躇の態であります。あるいは延期となるやも図られぬ、ということが報ぜられ、かつ10月29日にはスペインに旅行中の総理大臣ルビエ氏も、パリーに帰着したので、直ちに同氏を訪問して、この機会において、直ちに日本公債の発行許可させらるるよう交渉を開始しました。ところが仏蘭西では露国に対する政略上、下相談まとまり次第中仏乞う氏本野一郎君から公式に総理大臣ルビエ氏に申し入れることが便宜であるというので、11月3日高橋は日本政府に対し下既述の意味の電報を発しました。 

 「露国公債発行談は延期せられたるにつき、この際日本公債をパリーにおいて発行するよう尽力中である。ついてはルビエ総理大臣と拙者との内相談まとまり次第、一応本野公使より表面ルビエ氏に対し日本公債を速やかに発行するの必要ある所以を申し出らるることが、露国に対する仏国政府の政略上必要なるにつき、拙者より適当なる時機において本野公使に申し出たる時は、同公使は直ちにルビエ総理大臣に面会するよう、あらかじめ訓電してもらいたし」との主意電報しました。すると政府よりは直ちに申し越しの通り本野公使訓電した旨の返電が来ました。

幸田真音「天佑なり」を読む10 

11月7日に至って、本野公使から倫敦公使館を経由して電報で「今日グンズベルグ男(だん)と会見の結果、仏蘭西外務大臣と面会して下記の通り日本政府に電報した。 

 公債の件に関しルビエ氏一個の意見としては、なるべう日本の希望に叶うよう取り計らいたきも前々より露国との約束の次第もあることゆえ、露国より帰りたる銀行家(仏蘭西)の意見も聞きたる上ならでは確答し難し。もっとも明日午前左記代表者と会見し、午後露国大使と面会のはずなるにつき、遅くとも土曜日までに何とか確答すべしと言えり」と言って来ました。11月13日に至って本野公使から、仏蘭西政府においては、日本が露国に先立ちいつでも公債募集に着手して差支えなしと確答があった旨電報して来ました。 

 そこで、同日いよいよ仏蘭西公債発行の必要上、日本政府の委任状をロンドン公使館を経て伝達せらるるよう政府に要請しました。 

 かくて1905(明治38)年11月15日に至り、パリー・ロスチャイルド家と公然相談するために、コッホ氏同道3日間滞在の予定をもってパリーに向けて出発しました。 

 同日夕刻パリーに着き停車場から直ちにロスチャイルド家に行き、主人及び支配人らと面会て早速相談に取りかかりました。そうして第一番に、発行価格の点につき協定を終り、次にロスチャイルド家喞にては、今回の募債をもって6分利付英貨公債引き換え用に充当することを希望せざる旨の談話あったので、高橋は、独り内国債のみを償還して6分利付英貨公債の引き換えを許さざれば、日本公債に対する英国の人気を悪くするの憂い有る旨を説いて、結局発行高を5000万磅となし、内1500万磅は6分利付英鴨公債の引き換えに充当することに条件を協定しました。その他払い込金の処置等について協議して、その日は引き取りました。 

 翌16日は午前中にヴェルヌイユ氏及びグンズブルグ男来訪、露国の内紛ほとんど無政府状態となり、ために欧州経済市場に恐慌を引き起こすの憂いがある、ゆえに一日も早く日本公債の発行を希望する旨の談話あり、午後零時15分約束により上記一氏にコッホ氏を加え4人相携えて総理大臣ルビエ氏を訪問し、発行期日につき相談をなし、さらにロスチャイルド家に至り発行期日繰り上げの件を協議しかつ昨夜の話を継承して発行条件を決定しました。翌17日ロスチャイルド家とよの間に種々打ち合わせをなすことあり、かくてパリー・における談判所持円滑に進捗したので、18日朝パリーを発ってロンドンに向いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-31~40

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-31 

アメリカ資本団の意向は先述の通りであるので、高橋は至急ロンドンに引き返すことに決心し、6月18日正金支店長の山川勇木宛てに「6月24日(明治38年)汽船エトルリア号にてニューヨークを出発し、7月3日ロンドン着の予定であるからは自分および深井のためにコーバーグ・ホテルに部室をとっておいてもらいたい」という意味の電報を発しました。 

 かくてイギリスへ引き上げの準備を進めていると、鉄道王ハリマン氏から使いをもって、来る21日君のために午餐会を開くから是非出席を請う旨の招待を受け取りました。高橋は喜んで承諾しましたが、その日ハリマン氏はニューヨーク第一流の資本家たち20余名を招んで盛宴を張り、高橋を紹介してくれました。その時集まった人々は口ぐに、「日本政府は『ニューヨーク』にて巨額の公債を発行したに拘わらず 

発行地の金融市場を撹乱せざるよう深い注意を払ってくれた」と大変に賞賛の辞を浴びせておりました。 

 ちょうどそのころであったと思います。井上伯と大変懇意なアルウインという人が突然高橋の所へやって来ました。同氏は、何のために来たというようなことは一向に話しませんでしたが、その口気から察すると、どうも高橋の行動を探りに来たのじゃないかと思われる節が多かったのでした。その話の要点は、「貴君のことについていろいろいう人もあるが、貴君はそういうことについて少しも気にかける必要はない。井上伯は貴君に対し全幅の信頼を置いておられる。私は日本政府ことに井上伯が貴君をいかに信頼せらるるやをシフ氏にも話したいから御紹介を願いたい」ということであたので、シフ氏に紹介してやりました。ところがその後シフ氏に会った時シフ氏の話では、アルウイン氏はシフ氏に対し、果に高橋のことをどう考えているかと聞いたのみで、他の事は言わなかったということでありました。 

  6月23日に至りパース・バンクのシャンド氏か電報で「船会社に談判してクインスタウンからリバプールまで貴君と同船する」と言ってきました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-32 

 さて、高橋は予定のごとく6月24日にニューヨーゥを発ってロンドンに向いましたが、船がクインズタウンに着くと、電報の通りシャンド(「天佑なり」を読むⅠ-4参照)、山川両君が乗り込んで来ました。 

 両君はこもごも口を開いて、今次の募債が得策でないことを主張し、かつロンドンの主なる新聞記者も反対である。しかしてその反対理由は、ついこの間四分半利付公債3億円を発行して、まだその全部の払い込みさえ終わらぬのにまたまた3億円を募集して、さような巨額の金(当時日本政府の在外資金は米国に1億円、ロンドンに8000万円、その他四分利付公債の未払い込みの分があった)を日本に供給することは、講和談判が開かれるようになっても、日本政府のロシアに対する要求が非常に強くなって却って講和の妨げとなる、というのでありました。そうして両君が附け加えて言うのには、「ただし新聞記者たちの意見は上述の通りであるが、高橋君がロンドンに着いた上で同君から意見を聞くまでは自分たちの反対意見は発表しないゆえに、高橋君がロンドンに着いたらすぐに会いたいから、会見の場所と時刻とをリバプールから電報で知らしてもらいたいと言っている」ということであったから、3人で協議の結果、リバプール着の翌朝午前8時コーバーグ・ホテルで会見すべき旨を新聞記者たちへ電報しました。 

 船中でシャンド・山川両氏から英国銀行団新聞記者たちの反対意見をつぶさに聞いてから、高橋はシャンド氏に対しても、シフ氏に話したのと同一の理由を話しました。シャンド氏はそれを聞いて、「誠に已むを得ぬ」と言って諒解してくれました、かつシャンド氏の言うのには、「そういう事情であれば、我々の仲間は大概諒解するであろうが、何分コッホ氏が強く反対説を唱えている、それは日本政府がドイツ銀行を直接のシンジケート銀行仲間とすることを厭がっているのが主因である」ということでありました。けだしコッホ氏の反対理由は、他日仏国銀行団ととを結びつける上に大いに働くつもりでいるのに、今独逸の銀行が参加するようになっては、その妨げとなる虞れがあるのと 、今一つはドイツの銀行者をニューヨークのシフ氏らと同一の地位におおくことは、それだけ自分たちの取るべき手数料が少なくなることを恐れたからでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-33 

 汽船エトルリア号は、予定よりも一日早く即ち7月2日リバプールに着、直ちにロンドンのコーバーク・ホテルに入りました。これよりさきニューヨーク出発前、今度の募債は極めて短時日の間に完了することを要するので、一々日本政府と電報の往復をしている暇がありませんから、必要な事項に関してとくに権限を与える旨の委任状を、ロンドン公使館宛てに送ってもらうことを要請しておいたので、7月2日ロンドンに着すると、日本政府から送られて来た電報委任状(省略)を公使館より交付されました。 

 さて翌3日は、約により午前8時から5名ばかりのロンドン第一流の新聞記者たちがやってきたので、それらを引見してまずその反対説を聞き、これに対してシフ氏に話したことをなお敷衍(ふえん 意味の分かりにくいところをやさしく説明する)して説明しました。彼らもそれを聞いて、よく事情を諒解し、そういう次第であれば、今度の公債発行についても大いに声援しよう、といって引き揚げて行きました。 

 新聞記者たちが帰ると、引き違いに銀行団の人々がやって来ました。銀行団の意向はシャンド氏より十分に承知しているので、これに対しても前同様の説明をなし、かつ今度の募債はどうしても止められないから英国で引き受けねば、やむを得ず他の方面で調査するという意思を強く暗示しました。そこで彼らもこの際日本政府をして発行を辞めさせることはできないということを覚って、ついにその場で大体前回同様の条件で引き受けようということを決定しました。ただし独逸銀行団と英国銀行団と同一の地位に置かんとするには、独逸の法律習慣が違うためにたいへんに時日を要する、今日のごとく発行を急ぐ場合には到底間に合わないので、独逸銀行団にも納得させ、必要な手続きは後でするということで、すべてアメリカの銀行団と同一の立場において引き受けさせることに説きふせました。また独逸銀行団の参加に強硬な反対を唱えているコッホ氏にも詳細に説明して、これも承知させました。 

 かくて、7月3日夜になってロンドンの銀行団は独逸銀行団とも協議の上、発行条件を定めて高橋の所に申し出て来ました。そうして7月の6日には、いよいよ本契約の調印を済ましたので発行目論見書にに記載すべき勅令の年月日が必要であるから、勅令案に要する今日の契約の綱要を政府に電報しました。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-34 

 すると7月8日松尾総裁より、「今般の募集につき貴君の御尽力を深謝す。募集の勅令は只今御裁可を経たり、直ちに発表のはずなり。次に独逸にて募集せる公債金を保管預りとしてロンドンに為替をもって取り寄せるには、その指揮監督者を必要とすべきにベルリンには領事も日本銀行の監督役もいないが、これらの機関についてはどう考えるか」と電照して来ました。よって高橋は、1、ドイツの応募金は駐独日本公使が日本政府のために受け取る事。2、公使は受け取りたる金を直ちに日本銀行代理店なる横浜正金銀行ロンドン支配人に渡す。3、ロンドン支配人は直ちに日本銀行代理店勘定としてこれを独逸銀行に預け入れる事。4、払い込金を受け取ることに日本銀行ロンドン代理店たる、正金銀行支配人はベルリンに出張する事。5、上記預け金をロンドンへ廻金する方法は時々若干金額を代理店勘定より送金銀行ロンドン支店勘定勘定に移して為替資金として独逸銀行へ預け置き、しかしてこの資金をもってロンドン為替を買いいれまた独逸為替を売り出す事。6、上記為替相場日本銀行ロンドン代理店において市場状況を見計らいなるべく公債面に定めたる一定の相場を超過せざる範囲において決定するよう指図する事、また公債元利払いはベルリン独亜銀行を横浜正金銀行ロンドン支店の代理者として取り扱わしめる事、ただし独亜銀行は便利のためハンブルグ及びフランクフォート等の場所に代理支払所を設ける事。その手数料は利子を支払う時は支払金高の8分の1%元金の手数料は未定ですべて横浜正金銀行がが日本銀行より受け取る元利支払手数料の内にて負担する事。 

等の手続きを定めて総裁に返電しました。 

 上述のごとくして、本公債は7月10日の夕方に至って目論見諸を発表しましたがロンドンではその夜すでに内景気が4分の3%の割増金を示し、ドイツのマックス・ワーバーグからも、大変に評判がよくて内景気1%の割増金で、おそらく発行の初日に募集額を超過するであろうと言って来ました。またシフ氏からも、アメリカの内景気が大変に良いということを、通知して来ました。 

 7月11日が発行当日でありましたが、ロンドンではその日の午後3時半に締め切り、約10倍の申し込み超過を示しました。またドイツのワーバーグからは、少額の申し込みが多きため締め切って見ねば分からぬが、多分7倍くらいの申し込み超過であろうと、通知して来ました。 

 かくて、第四回即ち第二次四分半利付公債は非常なる盛況をもって募債を終わりました。すると7月12日に至り外務大臣から林公使への電報で、「貴君より高橋へ次の通り伝えられたき旨大蔵大臣より依頼ありたり。今回は募債の時期の困難なるにも拘わらず好結果を得たるは、貴下の迅速なる御尽力に依るものと信じ深くその労を謝す。英米、独各銀行団その他関係の諸氏にも政府の深厚なる謝意を伝えよ」と言ってきました。よってそれぞれ謝意を伝達しました。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-35 

 1905(明治38)年7月21日サー・アーネスト・カッセルの晩餐に招待せられ、晩餐の後、同氏の令妹を加え3人にて、オペラの見物に行きました。 

カッセル氏は、平土間がよいと言って定席を契約しているので、吾々と別れて一人その席に行き、高橋とカッセル嬢とは桟敷席におりました。そこへ思いがけなくも宮内卿ノフアカー卿がやって来て、カセル嬢に挨拶をされました。カッセル嬢は宮内卿に応答し、かつ皇帝陛下の御臨場如何を聞いていたようであるが、やがて嬢は高橋を顧みて、「陛下に拝謁したことがありますか」と尋ねます。 

 「いやまだです」と答えると、嬢はフアカー卿に向って「高橋さんを連れて陛下に拝謁を願っては如何でしょうか」と言って高橋にも促しました。フアカー卿も「それはよろしかろう」といて高橋を促して立ちかけましたが、高橋は、「初めて拝謁を致すのにかかる席では却って恐縮の至りであるから」と、いって辞退すると、宮内卿も「それは御尤もである」とて、その夜の謁見は見合わせとなりました。 

 しかるにこのフアカー卿は、パース銀行重役の一人であったので、同銀行の人々がこの話を聞いていて其の筋に申し立てた結果、7月30日になって、翌31日正午林公使(「天佑なり」を読むⅣ- 3参照)同伴、通常服にて拝謁を賜るべき旨、外務大臣から通知がありました。よって同日定刻林公使と共にバッキンガム宮殿に出頭しました。 

weblio辞書ー検索ーバッキンガム宮殿 

ちょうどその日は勲章の授与式か何かがあったと見えて、大礼服着けた多数の顕官たちが、宮殿の内外に溢れておりました。宮中の廊下を案内されて行く間にも顕官たちに出会いましたが、大礼服の人々が居って、我々を案内して先に立って行く、高橋は導かれるままにその後からついて行きました。この部室は馬鹿に広い、そうしてガランとした造りで、真中に三つ椅子があるだけでありました。やがてその人は、自分が中央の椅子に掛け、高橋に対しては右の椅子に、林公使に対しては左の椅子に坐れと指図しました。 

 その時、高橋は初めて、これがキングだと気付いて大いに恐縮しました。林公使が先立って行けばよいのに、終始高橋の後からついてくるので、こんな間違いを起こしたわけでした。さて皇帝は高橋と林公使に拝謁を賜った後、「貴君は公債募集のために来ているようだが、結果はどうだ」とのお尋ねがありました。 

 「誠に好結果で喜んでおります」というと、林公使も側から、「高橋君も公債募集が大変に好成績で喜んでおります」と申し上げたら、陛下は「甚だ満足である」と仰せられ、それより公使と高橋に向い、「平和の見込みは如何あるか」とのお尋ねがあり、公使が、「日本帝国は平和の成立を熱望しております、まだウイッテ伯が、露国全権に任ぜられたることは、講和談判の前途大なる光明を与えるものであります」とお答えすると、陛下は、「日本が講和の条件として当然取得すべきものをことごとく取得せんことを望むは当然のことである」と仰せられ、また話頭を転じて「有栖川宮両殿下は今どこに在らせられるか」とのお尋ねがありました。公使は「両日前ポートセット御通過の報に接しました」旨お答え申し上げると陛下は続けて、「両殿下には当国御渡来につき如何思し召されたであろうか」と問われ、公使が、「両殿下は英国朝野の熱誠なる御待遇に対し、深く感動せられました」と言上すると、陛下はすこぶる御満足の態に拝せられました。最後に陛下は高橋に向い、「いつまで内に滞在するや」とお尋ねあり高橋は、「私は一に政府の指図に従い行動致しておりますので、只今のところではいつまで滞在致しますか不確かとお答え致しかねます」と申し上げ、しばらくにしてお暇して帰りました。 

退出に当り、陛下はまず席をお立ちになり、それから我々も起って、最初に入って来た方向から下りましたが、陛下は帰りがけにも、わざわざ戸の所までお送り下されました。実にその簡単なるには恐縮した次第でありました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-36 

 すでに述べたるがごとく、米国大統領の提議により、日露講和談判はいよいよ米国ポーツマスにおいて開かれることとなり、日本は外務大臣小村寿太郎、駐米大使高平小五郎をもって全権委員に任じ、露国もまた同日前大蔵大臣ウイッテ及び駐米大使ローゼンを起用して全権委員としました。そうして小村全権一行は7月8日いよいよ渡米の途につきました。講和談判は7月下旬に始まって数回の会見を重ねましたが、樺太割譲及び償金の問題で、両国全権の主張容易に一致せず、一時は非常に険悪の状態を呈しました。しかるに8月25日のっ会議で日本が譲歩して、樺太は北緯50度をもって分割すること、償金の件はこれを撤回することとしたので、一時不調を伝えられた談判もここにめでたく成立するに至りました。 

 日露講和成立の報は、全世界を一時に明るくししたような感を与えました。当時バーハーバーの別荘にあったシフ氏らは、「万歳! 貴国が現したる謙譲、克己は最も驚嘆に値す。謹んで慶賀す」と電報して来ました。また独逸のマックス・ワーバーグからも鄭重なる祝電が来ました。よってこれらにそれぞれ返電を出し、かつ米国にある小村全権及び高平公使に宛て下記祝電を送りました。 

 「天皇陛下の仁慈叡知の御決断に感泣す。平和の成立を祝し、閣下の忍耐及び誠忠を感謝す」また日本銀行総裁へもほぼ左記と同様の祝電を打ちました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-37 

 これよりさき、同年1月旅順口の陥落以来、英米における我が日本の人気は非常に揚りました。そうして平和克復の暁には、日本が露国から償金を収得することは当然ある、との思想は欧米諸国民の斉しく抱いておったところであります。現に7月16日アルフレッド・ロスチャイルド氏の別荘に招かれた時も、氏は日本が償金を要求することは当然であるが、あまり巨額になってはいけない、かつ償金が決定しても現金は困難であるから結局ロシヤの公債を受け取ることになるであろう、とてその場合における処理方法等を注意してくれ、またサー・アーネスト・カッセル氏ももし償金としてロシヤの公債を受け取ったら、やはりロンドンとフランス市場で売り出したらよかろう、といってくれたくらいで、英米における財界の人々の間には、日本がロシヤから償金を取ることについては、何人も異論のないところでありました。 

 ところが、8月30日の諸新聞は一斉に、日本政府が償金の要求を撤回したということを報じたので、これが自然日本公債市価に不良の影響を及ぼすべしとの予想を生じ、かつ日本政府は償金の目当てで外れたるよりさらに外債を起こすであろうとの説もっぱら米国より伝わり、日本公債に対する人気は俄かに消沈の傾きを呈して来ました。 

 あたかもこの時ウエストミンスター新聞及びロイテル通信社の記者が高橋を訪問し、上述の新外債の風説及び講和に関する意見を尋ねたゆえ、高橋は軍隊の引揚げ等戦争の結末に要する費用は現在の資金にて十分であること、もし今後外債を起こすことあらば、従来の高利公債を整理するためにほかならないこと、この際平和の成立は満足すべきことであって償金の有無は主要の問題でないこと等を説明しました。 

 この話はウエストミンスター新聞の8月31日の夕刊に掲載せられ、またロイテル通信も同日夕刊をもってこれを報じ、その結果9月1日の朝刊には諸新聞がことごとくこの話を掲載したので、それが偶然にも人気を引直す原因となりました。その後セントラルニュースの記者が来て話すのには、株式仲買人は得意先より日本公債の買注文があっても、新債の募集を見越し、得意先の利益を慮(おもんぱか)って、買注文を手控えておったが、高橋の意見が諸新聞に載ったので、大いに安心して買注文を受けるに至った、ということでありました。実は高橋もそれほど深き考えありて新聞記者に話した次第ではなかったが、かくのごときは些細なことで、人気の転換する一例にほかならないのであります。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-38 

 元来、今回の戦争が償金の結果を齎(もたら)すものでないことは、開戦当初においては、我が国民も窃(ひそ)かに考えておったところでありますが、その後海陸連戦連勝の結果、英米等においても土地割譲、償金要求の当然なるを説く者起り、我が国民も次第にその気になり、講和談判当時は、土地割譲も償金要求も、当然のもののごとく国民全体が信ずるようになっていました。 

 もとよりロシアは日本の要求を予期しておったとこでありますが、それを応諾するの考えはなかったようであります。ロシアが講和会議の提唱に応じたのは、極東を久しく戦乱の巷(ちまた)に沈淪(ちんりん)せしむることは世界の人心に甚だしく悪感を与えているから、米国大統領の斡旋を快諾して、講和委員をを派遣し、ロシアは衷心平和に眷々たるものなりとおもわせるがごとき態度を取り、自国に対する世界の悪感を一掃し、あわよくばその機を利用して外債を募集せんものと、この一つの目的をもって委員を派遣したようでした。現にその証拠にはロシア全権委員ウイッテは渡米の途すがら、パリーにおいて募債の瀬踏みをなし、米国着後もなお米国資本家と内談を進めんとして断られ、ついに断念して口を拭き、そ知らぬ風を装うていたに照らしても明らかであります。 

 またロシア宮廷内になお勢力を失墜せざる主戦派の連中は、償金の要求を断固として拒絶したならば、平和の調停成るの気遣いなしと安心しておったそうであります。しかるに料(はか)らざりき日本が大いに譲って償金の要求を撤回し平和の解決を円満ならしめたことは、ロシアの主戦派を驚倒せしめたばかりでなく、欧米の識者や新聞紙は、日本の態度に対し、その智慮、寛容、忍耐日に敬服のほかなしと口を極めて賞賛するに至りました。米国の大統領は平和決定後、一方の国民が盛んに平和条件を謳歌するようでは、その会議が満足に成功したものということは出来ない。今回のごとく両国共におのおのその国内において満足せられぬという解決を告げてこそ、その会議が衡平を保たれて円満に落着いた証拠であると言っていましたが、これは確かに一面の理であると思います。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-39 

 かねて政府[主として井上侯(馨)]の意向は、日本興業銀行をして、将来我が国における事業用の外資輸入の機関たらしめたいというにありましたから、そのことについても不断の注意を怠りませんでした(「天佑なり」を読むⅢ-36参照)。 

weblio辞書ー検索ー日本興業銀行

。 しかるに往年ベアリング商会の「ロード・シベルストック」が、日本の鉄道や鉱山に投資する考えで、日本へ店員を出し調査せしめたことがあります。ところがその時の日本の法律では、今外国で行われているような意味の抵当権の設定が出来ないので、法律の改正を要することとなり、結局「レベルストック」の方で改正案を作り、井上伯の許(もと)に送付して来ました。日本政府はそれに基づいて改正法律を作り、議会の協賛を経るに至りました。 

 上述の事情があったので、日本興業銀行外資輸入即ち債券発行についてはまず「ロード・レベルストック」に相談せよとの命が来たので、4月の初旬[1905(明治38)年] に「ロード・レベルストック」に会って相談したところ、氏の曰くには、「日本政府並びに井上伯の御主意は誠に結構であるが、自分の商会で、先年人を派して調べて見たところによると、日本の私設鉄道のごときは営業成績極めて良好であって、その基礎も堅実である。ゆえにこれら会社の社債発行に当たって興業銀行を経るの必要は少しも認めない。興業銀行は日本内地では立派な特殊銀行であろうが、未だ海外の公衆にはその名も知られていない。外国ということでの資本家と日本の事業家とを結び付ける仲介者は、単に日本内地においてのみ知られている会社ではということではいけない。必ずや外国市場にもよく知られておってかつ相当信用あるものでなければ、公衆の信頼を得ることは困難である。かつ自分の商会では日本の会社の信用如何を自ら調べることもせず、単に日本興業銀行の調査に信頼して、それを外国市場に紹介することは好まない。今日外国の投資家たちはその債券に属する抵当物件に対して、債権者が直接にその抵当物件を持つことを希望するのであって、自己の有すべき抵当権を日本興業銀行に供託することは好まない」云々。ということでありました。 

 かくベアリング商会が日本興業銀行の進出を厭がる裏面には、かねてベアリング商会と香上銀行とは、日本物を市場に出す場合には共同するという内約があります。ゆえにベアリング商会としては、日本興業銀をロンドン市場に紹介すれば、いたずらに日本興業銀行をして名をなさしめるのみならず、自己の競争者を作りかつ香上銀行との内約に反することとともなるので、ベアリング商会を通じて日本興業銀行をロンドン市場に紹介せしむることは、到底望み得られざることを探知したので、その意味を詳細に政府に電報しました。 

 しかしながら、高橋はその後といえども、日本興業銀行債券発行の件については、引き続いてロンドン銀行者仲間と、種々協議を重ね、どうしたらば日本興業銀行をロンドン市場に知らしめることが出来るであろうかと、パンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏らとも協議しました。ところがコッホ氏は、それには英国人にも株をもたして、日英合弁の銀行たらしめるが一番よいといって、次のような具体案(省略)を提示して来ました。 

 この申し出は、これまで相談しておった中でも、一番纏まった適当な条件と思われたので、この旨を松尾総裁に電報すると共に、1.一時に現在の興業銀行株の未払い込みを払い込むことが出来るや否や、2.初めから増資株に対して年6分の配当をなす見込みあるや否や、3.未払い込みの払い込み及び増資による資本の使途ありや否や、4.新株は無記名式にて出来るや否や。を承知したき旨を申し送りました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-40(最終回) 

すると8月25日に至り、総裁から返電が来ました。 

 「彼の件については、その後政府より何らの返電を発する命令なし、内々承るところによれば、添田寿一君が諸々奔走しておって政府においても大体において異議ないようである。ただし未払い込金750万円を一時に払い込むことはむつかしい、せめて来年6月までとしては如何であろう。またパンミュール・ゴーリドン商会を専任仲買とすることは改めて第一位に相談することとしては如何、新株1000万円のうち、700万円を外国で売り払い、300万円は内地で持つとしてはどうであろう。また旧株には現在およそ30万円の積立金があるのに、この利益増資新株にも旧株同様均霑(きんてん 平等に利益を得る)せしめることは、旧株主に損をさせるのうらみなきや。また将来年6分の配当はなし得る見込みである。もっとも向う1カ年は政府より年5分の利益保証がある。大体上述のような説が唱えられておって、貴君への返答は長引いているようである。これは貴君のお含みまでに通知するのであって、その内公然たる返事が出来ると思う。もっとも上述の諸説に対し貴君のお考えあらば、内々拙者心得までにお示しありたし」と電報して来ました。よって高橋は8月28日に、「電報受けた、遅くとも3箇月以内に新株発行の見込みなければ、この相談は出来ないことと承知ありたし。また政府の5分の保証を目当てとするような営業振りでは、到底資本家を勧めるわけには行かぬ。また積立金や株券の市価を云々して不足をいうようなことでは相談の見込みなし。当方の考えでは将来興業銀行をもって事業資金の輸入機関とするにあり、ゆえに目前の少利を云々するくらいなれば、この相談はお断り申す。英米及び大陸筋の有力者を株主にするのは、日本興業銀行が、内外資本共通途を開く第一着手にして、今後内地の確実なる事業を海外に紹介し、低利の資本を輸入することをもってその利益の主眼とせねばならぬ」と返電しました。すると、9g冊1日発政府よりの電報で、「パンミュール・ゴールドン商会との商談(日本興業銀行の件)纏まらざれば、帰朝の途次米国相談を試みるべ資本団と 

相談を試みらるべし。昨今いろいろの外国商館から、私設鉄道の借款を引き受けたいとの申し込みがある。しかし外資の輸入はなるべく日本興業銀行手にて纏めたき考えなるゆえ、貴君もそれをお含みにて尽力有之度(これありたく)」といって来ました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-21 

 1905(明治38)年2月17日横浜を発って、アメリカ経由ロンドンに向うこととなりました。今回の同伴者は日本銀行秘書深井英五「男子の本懐」を読む17参照〉及び同書記の横部の二人で、ほかにアメリカにおいて募集したる公債金預入監督のためにニューヨークに行く柳谷卯三朗及び大塚書記も同船でありました。 

 かくて2月28日午後12時過ぎにヴァンクウヴァに到着し一泊、翌日直ちにニューヨークに向ったのですが、途中積雪甚だしく、汽車が遅れて3月6日午後6時ようやくニューヨークに到着しました。 

 ニューヨークに着くと、日本から電報が届いていて、去る2月27日、内地で第四回の国庫債券1億円が募集せられた、その条件は、利子年6分、発行価額90円、期限7年で、成績極めて良し、と報らして来ました。 

 高橋が日本を出発するころから、ロンドンやニューヨークにおける日本公債の人気は非常に好転して来ました。そのために内外人ブローカーが現れて来て、政府に対してもいろいろと献策するようになり、同時にイギリスやアメリカでも、これらブローカーの策動が始まってきました。なかんづくしつこく運動を開始したのは、米国のスパイヤー・ブラザース商会でありました。この商会は第一回公債発行までは極めて冷淡で、高橋とは全然無関係でありましたが、ひとたびシフ氏が、第一回六分利付1億円の半額を米国にて引き受けたということが伝わると、自分もシフ同様に発行仲間に割り込みたいとて、極力運動を開始し、ついには条件までも持ち出して、直接間接に井上伯や大蔵当局に申し出るというような始末でありました。またパンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏のごときすら、この際内国債をロンドン市場に売り出してはどうかと勧誘してくる有様でありました。そうしてかくのごとき運動はただに米国や英国ばかりでなく、フランスやドイツ等'にも現れれて来て、形勢容易ならずと見て取りましたから、高橋は政府に向って、この際内国公債を外国市場に売り出すことは、我が外債発行の妨げとなるから、断じて見合わせるよう政府に電報しました。もっとも高橋はあらかじめこのことあるを察していたので、日本出発前政府の当路者に向って、今回は口銭取りのブローカーはもちろんその他何人から申し出があっても、一切耳を傾けざるようと、強く申し容入れておいたので、政府でもこのブローカーの運動に対しては、「今度は一切を高橋に任してあるから」といって直接取り合わなかったので、これらの人々からの妨害も蒙ることなく、大変に幸いでした。 

 ニューヨーク着後。第一の仕事は、シフ氏と相談して、アメリカよりロンドンへの送金の手段を取りきめることでありました、当時海外における日本政府の所有金塊は、すべて一応ロンドンに取り寄せ、軍需品その他政府の支払いのごときもことごとくロンドンにて取り扱うことになっていたので、アメリカで募集した巨額の公債金を出来るだけ損のたたぬよう、有利な方法をもってロンドンに回送するには、いかなる方法を取ったらよいかということは最も重要な問題の一つでありました。それでアメリカ着後まず第一にこの手はずを決めたのでありました。なおシフ氏とは、近き将来において発行すべき第三回戦費公債募集金額についても相談しました。高橋が「政府からは1億円乃至2億5000万円と命ぜられたが、自分はなるべく多いのがよいと思うから、3億円の発行にしたいと思うが」というと、シフ氏は、「御尤も 

 だ、もしそのようになったら、内、半額はアメリカで自分が引き受ける。かつアメリカでは地方の各都市で、多数の希望者があるから、その都市都市で取次人をきめねばならぬ。また自分の親戚で、かねて取引をしておるハンブルグのマックス。ワーバーグのごときも、言ってやれば、ドイツで相当に働いてくれるであろう」ということでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-22 

 大体アメリカでの下相談も出来たので、3月11日にニューヨークを発って、同19日ロンドンに着きました。早速時の駐英公使林 董(「天佑なり」を読むⅣ-3参照)を訪問して、公債発行に関する自分の腹案を話したら公使もことごとく同感でありました。 

 よって、翌20日の朝から、正金銀行、パース銀行、香上銀行、ロード・レベルスッドク等の来集を求め、第三回戦費公債発行の協議に取りかかりました。即ちその要領は、「英米にて日本公債3000万磅を発行すること、担保は煙草専売益金をもってこれに充て、利息年四分半、発行価額90磅、期限20カ年とす。欧州大陸において本公債の希望者あらば、その地方の有力なる銀行をもって取次人とすること」等であって、熟議の結果、この相談は大体においてその日のうちに纏まりました。よって協議の結果を日本政府に電報しかつ林公使を通して、政府委任状中の募債金額2億円を3億円に改めるよう政府に電請しました。 

上述のごとく今回の募債商談は、極めて円滑に進行しましたが、その発行額がいかにも巨額であるから、諸般のことに最大の注意を払う必要がありました。まず本公債談進行中、日本銀行総裁からは、奉天会戦の大捷を機会とし第五回内国債を発行したいが、そちらの都合は如何と尋ねてきたから、「内国債の発行は差し支えないが、当方の外債の発行を終わるまでは見合わせられたい」と申し送りました。また一方には発行額多きために日本公債の下落を見越して売りに向う者も出て来ました。そういうのを棄てておけば、公債の発行に悪い影響を及ぼすのでロンドン金融市場維持のため、3000万円だけ使用することを委任されたいと政府に電報してその許しを得ました。なお今度の発行がちちょうど月末に当り、ロンドン金融市場が引き締まる際でありますから、市場の金融緩和するため、現に英蘭銀行に預託してある金の内より1000万円だけを、ロンドンの正金銀行支店に通知預金として預入れおよそ1週間の短期限をもってロンドン市場に放資することにしました。 

 この間、例のスパイヤー・ブラザース商会割り込み運動は相変わらず続いておったと見えて、3月21日東京発日本政府の命を伝えたる総裁の電報にも、「政府は岡田治衛武らに無論秘密を漏らす虞(おそれ)はないが、スパイヤー・ブラザース商会に対して英米銀行団があまり苛酷の取り扱いをせぬよう注意してもらいたい」と言って来ています。当時スパイヤ・ブラザースが条件まで持ち出して、我が政府要路者に極力運動したことは、英米資本家を牽制する上には大層の効果はあったけれども、さてスパイヤー・商会や独逸銀行、独亜銀行らを日本政府の直接の引き受け銀行とすることとすれば、従来の英国銀行家は手を引くとまで決議をしているので、容易に深入りすることはできません。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-23 

結局、スパイヤー商会には100万磅、独逸銀行家には300万磅を受け持たせて、英国銀行家から2分7厘5毛の手数料を出させることにまで、英国側を同意せしめたけれども、独逸側では直接の発行者となることを主張して応じなかったので、ついに破談となりました。しかし高橋は独逸銀行者に対しては細密なる注意をもって将来に悪感情を残さぬように取り扱ったので、いよいよ破談と決まって後も、独逸銀行の重役2名がわざわざ高橋の所にやってきて、今度は協同できなかったが次回は是非独逸銀行者も、公然日本公債発行者の仲間に入れるよう取り計らってもらいたいと、向うから申し出てきたくらいでした。従ってこのことも総裁に通知しておきました。 

 かくて3月24日に至って第一回四分半利付公債3000万磅の契約が出来上りました。しかしてその条件はかつて発行銀行仲間で協議した通り、煙草専売益金を担保として発行価額90磅、期限20カ年、毎年2月15日及び8月15日前半期の利息を支払い、磅と弗との相場を1磅につき4弗87仙(セント)と定め、ロンドンの銀行者1500万磅、ニューヨークのクーンロエプ商会1500万磅を引き受けることとなりました。 

これに対しては、政府からも直ちに承認の電報来り、3月28日論見書を発表し、翌29日一斉に募集を開始しました。この日ロンドンの発行銀行では、午前9時に開店しましたが、申し込人は店頭に群をなして、非常なる大成功の内に、午後2時半締め切りました。しかしてこの時までの大陸方面よりの申し込みをも合算するとロンドンの取り扱い高は概算1億磅に達し、しかも1分乃至1分5厘打歩(プレミアム 割増金)が付いて取引されました、またアメリカでもなかなかの好人気でありました。ここでは、最初シフ氏の計画通り、ボストン、フィラデルフィア、シカゴ、セントルイス、サンフランシスコ、カナダのモンツレル等に応募申し込みの取次店を設定しましたが、意外に小口の応募者多数に上り、それらの人々に割り当てるため、締め切りを1日ばかり延期しました。結局申し込み人は約5万人、その金額5億弗の多きに達し、内4万3000人は2000弗以下の小口の申し込み者でした。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-24 

 3月10日の奉天会戦(「坂の上の雲」を読む35参照)において、我が日本が未曽有の大勝利を得ると、今度こそ露国はいよいよ講和を申し込むであろう。日本にとってもこれが絶好の時期であろうというような議論がこちらで濃厚になってきました。ちょうどそのころ、確か3月26日と記憶しますが、ロスチャイルド事務所にアルフレッド・ロスチャイルドを訪問したところ、談たまたまこの講和のことに及び、氏のいうのには、「この際講和をするにしても、日本があまりに法外の償金を要求するようなことがあっては、到底講和は成立しない。例えば仮に日本が1億磅を要求するとしたならば、ロシヤはそんな金は現金では払えないというであろう。そういう場合に日本はけ決して現金を固執するの要はない、ロシヤ政府の公債で宜しいというがよい。そうしてその公債は期限20カ年、利子四分半、額面価格にけ1億磅取ることとし、内4000万磅はフランス銀行に、4000万磅は英蘭銀行に、しかして2000万磅は自分の所に預託されるならば、それによってロシヤは償金を払えることとなり、日本政府は融通が出来るようになる。そうすればロスチャイルド家は出来るだけ援助することにしよう」ということでありました。この時ロード・ロスチャイルドも側にあって、「それはそうだが、今度講和談判が始まるについては、金融財政のことに最も精通した者を委員に選ぶことが必要であろうに、貴君はなぜその委員となって行かないのか」と云いますから、高橋は、「なあに、日本には財政に明るい人はたくさんにあるから、あえて自分が行かなくもよい」と答えておきました。 

 かくてロンドンにおける募債の用向きもほぼ終えたので、4月7日に至り、後のことは吉井(友見)監督役に任して、、一応ニューヨークに渡りたいと政府に電請しました。すると折り返し、政府から認可の電報が到来しました。 

 ところが4月10日ころになると、ロンドン市場における日本公債の市価が、時に低落しかけて来ました。どういうわけで低落しかけて来たかというに、その第一の原因は、日本政府は内地において、四分半利付公債よりもさらに有利なる国庫債券を発行するという風聞がロイテル電報によって報ぜられ、それが外国市場に出て来ることを懸念せられたこと、第二にはバルチック艦隊シンガポールを通過(「坂の上の雲」を詠む37参照)したので、海戦の結果はどうであろうかと気遣われ、平和の希望が遠くなったこと、それに英国では4月20日ころから避暑の時季となるので、経済界は休業同様になり、市場がダレ気味を呈するということも原因の一つでありました。 

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weblio辞書ーロイター通信 

 政府でもこの公債の下落については非常に心配して、今度の内国債は外国に出さないようにするから、そのつもりでよく説明して、誤解のないように処置せよ。しかしてその事情の疎通するまではロンドンに止まるようにとの電訓が来ました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-25 

 なにしろ第五回国庫債券発行の噂が伝わったのか、前回の四分半利付公債を発行してから未だ旬日を出づるか出でざるの時であったために、英米の資本家が非常に驚いたのは無理もない所でありました。彼等はそんなことが真実であるかほとんど信用ができません。もし万一事実であったら日本政府のやり方は呆れ返ったものだと口々に言っていました。申すまでもなく、内国債でもこれを外国に出して売る以上上は外債同様の性質を帯びて来るようになり、、買う人もまた外債同様の考えをもって買います。従ってさきに日本政府の外債に応じて未だ旬日を出でざるに、それよりもさらに好条件国庫債券が売りだされることとなれば、さきの外債の応募者たちは条件の悪い公債を買ったという感じを起し、同時に発行銀行者は、応募者に対して気の毒なことをしたという遺憾を感ぜしめます。 

 ことにかく短時日の間に外債に次ぐに内債をもってするがごときは、よくよく日本の財政が困難に陥ち入ったことを示すものであって、日本政府のために取らざるところである、と言って、英米の発行銀行者たちはもし政府が是非とも内国債の発行を必要とするなら、しばらく其の時期を延ばしたが得策であるという論でありました。またコッホ氏のごときは、内国債発行の風聞は事実と思われないが、日本政府をして取り消させたいと申し出て来ました。 

 高橋の観察も大体英米銀行者の言うところと一致し、彼等の言うところは無理からぬことと考えたから、早速政府とも電報を往復しましたが、政府ではすでに事確定して、今さら如何ともすべからざる場合と相成っていました。というのは、前回即ち第四回国庫債券発行の際、最初は1億円一時に発行する予定でありましたが、市場の都合で2回に分けて発行することとなり、その節政府は発行条件等を銀行者に内約している、それで今に至って条件を変更することは出来ない、さりとて発行を延期することとなれば、内地払いのために兌換券の増発となって内地財界に不利なる影響を与えるという事情にあったのであります。 

 よって高橋は「今日となって政府が債券の発行条件を変更することの出来ない以上、なるべく早く発表しかつその申し込み期限も短縮してこの事件はできるだけ早く完結するをもって良策と信ずる。また今回発行する国庫債券はかねて内地銀行家と内約せる発行額の残高を発行するものであるとの主旨を公表しかつ純然たる内国債なるをもって、外国人の応募を受けるがごときは政府の本意にあらざることを声明し、内外の新聞にそのことを掲載せしめることが必要であろう、また4月20日前後になれば、暑中休暇となり、ロンドンの経済界は休暇同様になるから、遅くともそれ以前に解決をつけてしまわねばならぬ」と政府に電報し、かつ英国の銀行家及び米国のクーンロエプ商会にも、この間の事情を詳しく説明してその諒解を求めました。幸いにして英米両国の資本家銀行団も高橋の説明を諒としてくれたので、高橋はいよいよ4月21日ロンドンを発ってニューヨークへ向うこととなりました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-26 

 高橋は予定のごとく4月21日汽船セレチック号にてロンドンを発ち、同30日ニューヨークに着きました。アメリカ着後第一の仕事は、米国で募集したる公債金の預入処置でありました。これについてはシフ氏と相談の上下記の通り(省略)決定しました。 

合計 5600万弗 かくて公債金の預入れ処置を一通り済ますと、高橋はこの際我が政府においても、英米金融界の実情を十分に諒解してもらっておかねばならぬと考えましたので、一時帰朝を許されたき旨を電請しました。 

 すると総裁からの返電で政府の命令を伝えてきました、それは、「申し出の事情は委帆細承知した。米国で巨額の公債の払い込みを受け、さらにこれを銀行会社に預入れかつまたそれをロンドンに回送することは細心の注意を要することである。万一のことありては危険の程度も測り知れない。ゆえに政府は責任ある者を滞在せしむるの必要あり、ことに目下財政上考慮中のこともあり、その議熟するにおいては、直ちに貴君を煩わすべく、しかしてその時期は6月中の見込みゆえ、7月初めまではその地に滞在せられたし」という意味のものでありました。 よって高橋は、21日付にて松尾総裁に対して、「本月下旬より10月末までは当地の重立ちたる人々あるいは別荘へ転地し、あるいは海外旅行して、この地を離るるのが習慣となっておるのに、自分が独り止まっていることは却って笑い草となるばかりである。ゆえにもし是非アメリカにおらねばならぬというのなら自分も無用の旅行をなすよりほかはない。お申越しの公債金の預入れやロンドンへの廻金についてはすでにそれぞれ処置したので、もはや自分の滞在を必要としない。それでも拙者の帰朝を許されないか、拙者は約束もあるので、今月24日から3日ばかりボストンに旅行する」と、あまり分からぬことをいうので、高橋も少々癇癪に触って、強く言ってやりました。 

 かくて高橋は5月の24日からボストンに行って、29日にニューヨークに帰って見ると、松尾総裁からの電報で、「一昨日午後より対馬海峡にて大海戦あり、我が艦隊は大勝利を得た」との報道が達しています。その後、5月の31日になって引き続き総裁から政府の命を伝えてきました。即ち、「今度の対馬海戦(「坂の上の雲」を詠む41~42参照)は敵艦隊を全滅せしめ、ロゼストウエンスキー、ネボカトフ、エンクエスト3提督を捕虜とした。この戦捷を機とし、整理公債3億円あるいはそれ以上を英米において募集することは出来ざるや」ということでありました。よって直ちに「対馬海戦の戦捷後、欧米においては再び平和を希望する気分旺盛となり人気は大いに好転した。しかして英米人はこの時機を利用して日本政府がさらに外債を起こすなどとはすこしも考えておらぬ、けだし戦時公債を整理するは平和克復後においてするを最善の良策と信じているからである。ことに先だって3億円の外債を募集したばかりで、日本政府は、莫大の在外正貨を有するをもって再び外債を起こすのは平和克復後か、あるいは今後ますます戦争が継続するか、いずれかに決定した時を待たねばならぬ。然らざれば外債募集の理由が立たぬ」という意見の返事をしました。 

 ところがこれに対して6月3日に総裁から電報が来ました。「戦争が此の上継続すれば戦局は拡張せらるるをもって、軍費の予算7億8000万円の巨額に膨張する。ゆえにどうしてもさらに3億円くらいの外債を募集せねばならぬ。あるいはこれがために臨時議会の招集となるかも測り難い。しかして外債の募集は急を要するに至るやも図られず、ご参考までに」ということでありました。よって高橋は同日付をもって総裁宛に、「外債募集の時期は来る10月中旬以前には来るまい。最も好き時機は来年3、4月ごろと思う。この際ひとまず帰朝を差許さるよう取り計らってもらいたい」と打電しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-27 

  日本海の大戦は、日露戦争の最後の判決を与うるものでありました。我が満州軍は、さきに奉天の会戦において大勝を博し、その戦線は開展して数百哩(マイル)の長きにわたり、、露軍を満州の地より一掃せんとし、北韓軍またこれに応じて豆満江を渡り、沿海州を圧せんとするの勢いを示しました。かくていっれの方面から見ても露軍の敗勢は明らかとなってきたので、米国大統領ルーズヴェルトはいよいよ講和の時機至れりとて、6月2日駐米露公使カシニーと会見して、露国がもしこれ以上戦争を継続するにおいては、日本軍はハルビンはもちろんウラジオ、沿海州方面まで占領すべきをもって、この際文明諸国の希望を容れ速やかに和を求めんことを勧告し、かつこの由を露国皇帝に伝奏せんことを提議しました。しかして同5日に至り駐米日本公使に対しても同じく講和を勧告するところがありました。一方6月9日には、駐日米公使は公文をもって我が外務大臣に講和の議定を勧告し、同時に露国においても、10日米国公使マイヤー氏は露帝に謁見して、大統領の提議を進達しました。かくて両国共に米国大統領の提議を容れ、ここにいよいよ講和の幕は切って下されたのでありました。 

weblio辞書ーセオドア ルーズベルト 

 このことは、財界に非常なる衝動を与えたと見え、パンミュール・ゴールド商会のレビタ氏から電報で、「講和の曙光を認め得たことは大いに祝福すべきところであるが、その成立にはヨーロッパ大陸ことにドイツの態度が重大なる影響を持つから、ドイツがアメリカ政府と共にl講和の成立に尽力しているかどうか、貴君の手で、確かめられるならば、甚だ幸いであるが、取調べの上見込みを知らしてもらいたい」といってきました。高橋はかねてシフ氏から聞いている筋もあるので、「自分の知るかぎりにおいては、ドイツは、アメリカ大統領と同一の考えをもって講和に尽力していると思う」と返電しておきました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-28 

 日露講和の問題が上述のごとく進展しつつある間に、高橋は6月初めに一時帰国のことを電請していましたが、同14日にに至って、「至急一時帰朝せよ」との電命に接しました。ところが翌15日には、井上伯及び大蔵大臣から下記の通り電報することを命ぜられた。目下平和の徴候あれども、その終局の如何は予知することができない。軍事費の予算は本年分だけに対しても2億円の不足を生じ、さらに明年(明治39年)までの戦費予算は2億3500万円を要する見込みである。即ちこの合計5(4?)億3500万円となるが、上述の内5億円はは公債によらねばならぬ。しかるにすでに内地においては5億円近き国庫債券を発行してぃるので各銀行共に今日では巨額の公債を所有しているから、このままで新たに内国債を募集することは困難である。ゆえに従来発行せる国庫債券を幾分買い集めて、それに裏書きして外国市場に売り出し、もって内地市場に新規公債に応ずる余力を与えることが今後の公債募集に便利なりと考えているところに、米国人エム・アール・モールスなる者、スパイヤー・ブラザース商会の代理委任状を所持し来たり、巨額の日本内国公債を引き受けたき旨井上伯まで申し出てきた。伯は個人の資格において、数回モールスに面会されたが、結局モールスは2億乃至3億円を一手にて引き受けたしと申し出た。しかるに伯はこれは新たに外債を発行するのと同一であって、スパイヤー・ブラザース商会とのみ商議を進めることは、従来の外債引き受け銀行仲間との関係に鑑み、好ましからざることと考えられたので、同商会の申し出は、伯の考えとは大変に異なっていると答えてこれを退けられた、従ってこれにより何ら拘束されるがごときことはなく、何時にても断ることは出来るが、前述の通り近き将来に5億円の公債募集を必要とし、内3億円は是非外国にて募集するの必要がある。しかしてもし予定よりも早く平和克復するに至らば、募集金をもって撤兵の費用に使い、なおその上余ったら内国債の整理に用うる考えである。当方の考えでは、内国債は遅くとも9月に外国債もそれと相前後して発行したし、貴君はそのつもりにて一個人の資格をもって現在のシンジケート銀行もしくはその他について内々取調べの上、なるべく至急帰朝相成度し、ただし今後の外債募集については、さらに貴君を煩わすの必要あるべきをもって、そのことはあらかじめ承知おき願いたい」と電報してきました。 

weblio辞書ー裏書(き) 

 そして翌16日には、さらに、「露国の現在の行動は誠意をもって講和を希望しつつありや甚だ疑わしい。ゆえに政府はさらに決心するところあり、軍事上はもちろん、財政上においても戦争は継続するものと、覚悟を示して十分の準備を整えることが得策と考える。ついては出来るだけ早く3億円もし已むを得ずんば、その半額でも、外債を取り決めてもらいたい。この外債については、内国債に裏書してもよしまた新たに発行してもよい。しかして抵当を必要とすれば、煙草専売益金または鉄道収益をもってしても宜しいから、その考えにて従来の関係資本家の意向を探り至急返電してもらいたい。もし現在のシンジケートが成立の見込みなければ,好ましからざれどもスパイヤー・ブラザース商会の話を進めることもまた已むを得ない。貴君の帰朝は以上の話の片付きたる上にしてもらいたい」と詳細に電訓して来ました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-29 

 高橋が上述の如き第四回戦費公債募集に関する電命を受けたのは、第三回(即ち第一次四分半利付公債)戦費公債3億円を発行して未だ2カ月半と経たぬ時であり、かつロンドンにおいては、最後の払い込みがなお済んでいない時でありました。ことに第三回募集に当り、高橋は英国銀行団の請に任せて今次の募集は今後1カ年の軍費に充つべきものであることをわざわざ声明しました。しかしてその舌の根の未だ乾かざるにたちまちまた3億円を募集すべしという政府の命令はいかにも意外でありました。しかも政府からの電報には、高橋が考えて、もって資本団を納得せしめ得るに足るべき理由を示してきていない。ゆえに最初この電報を受け取った時は高橋はこれを断ろうとまで思ったくらいでした。しかしながら静かに考えてみれば、すでに講和会議の開かれんとするに当ってさらに3億円を募るというにはよくよくの事情があろうと、政府の苦心を察しては、またまた考え直して、資本団に説明すべき理由を胸の内に考えながら、6月16日の午前に、まずシフ氏の所へ行って相談しました。 

 「政府からさらに3億円を募集せよとの命令が来て実に意外千万であるが、貴君はこの際さらに募集が出来ると思うか」というと、シフ氏も驚いて「ついこの間1カ年分の戦費だと言って3億円を募集し、英国などではまだ払い込みも終わらないのに、俄かにまた3億円の募集を必要とするとは、一体どういうわけだ。ことに近く講和会議も開かれるという際ではないか」という、シフ氏がいうであろうことは、あらかじめ期するところであったので、高橋は、「日本政府は、此の際講和を拒(ま)げてあくまで戦争を継続せんとする考えは毛頭ない。しかし日本政府は常に遠き将来のことを考えて、用心深く計画を樹ててている。いよいよ講和談判が始まるといっても、果してその談判が円満に解決するかどうかは分からない。また講和成立までにどのくらいの日数がかかるかどうかも分からない。講和談判中は休戦はするが、休戦となっても、それは鉄砲の音がしないというだけで、やはり20万の軍隊は戦地に駐屯せしめねばならぬ。従ってよし休戦となっても、やはり多額の軍費が日々消費されていく。講和談判が、万一にも破裂するようなことにでもなれば、今、一日も早く戦争の終結を希望する欧米の人々は大いに失望するであろう。そうなってってから軍費が要るからとてそれから公債の募集に取りかかっても、その成功は到底おぼつかない。また講和談判中に募集することも上述同様の感を抱かしめる。ことにロシアの政府部内で強い勢力を持っている軍閥は、ロシアが力を出して戦うのはこれからだ、その内に日本は軍費で行き詰る、と言って高をくくっている。ゆえに日本としては、この際さらに公債を募集し、今に軍費に行き詰まるというロシアの宣伝を、事実をもって打破するようにせねばならぬ。幸いにして講和が成立して、今度募集した公債の金が余れば、それをもって、内国債の償還に充て、もって産業の振興、民間金融の円滑を図るつもりである。上述のような事情であるから、まずもって貴君の御意見を承りに来た」というと、シフ氏はジッと考えていましたが、「なるほど、御尤もである。お話の筋もよく解った。そういうことなら、今度の募集もすべて前回同様の条件にしたがよいと思う。夏になると主なる人々は皆避暑に出掛けるので、英米共に金融市場は寂しくなる。市場の時機は秋がよいけれども、今や講和談判もいよいよ開始せらるることとなり、一般公衆は強く平和を期待する柄であるから、この機に乗じ、講和会議の開かれる前に発行した方が却って引き受けの人気がよかろうと思う。」という意見であったので、米国資本家と内談した模様として、上述の旨を松尾日銀総裁に返電しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-30 

 翌17日には、英国銀行者に充てても、公債発行に関する意見を電報によって問い合わせました。なおシフ氏に相談して独逸の「ワーバーグ」にも電報にて、「日本政府はこの際3億円の公債を発行するが、独逸で1億円だけ引き受けることが出来るか」という意味の照会をしてもlらいました。 

 後で聞いた話ですが、この電報が「ワーバーグ」の手に入ったのは、ちようど「ハンブルグ」のヨット協議会に参列して、独逸皇帝の御召艦に陪乗している時でありました。しかして同艦には中央銀行総裁初めベルリンの財界巨頭連も多数陪乗しておったので、「ワーバーグ」はその電報を受け取ると共にその場で銀行家たちに披露しました。しかるに一同の意見は幸いに皇帝陛下が在らせられるので、お考えを伺ってみたらよかろう、ということになったので、皇帝に言上したところ皇帝は言下に「やってやれ」と仰せになったので、「ワーバーグ」は直ちに「承諾」の旨を返事したということでありました。そこでシフ氏からその旨通知して来ました。かくて独逸側は独逸銀行、独亜銀行等すべて13の銀行が応募に参加することとなりました。 

 その内に英国からも返電が来ました。それによると、銀行団は相談して見ましたが何人も思いもよらぬことで、金融市場、一般公衆、新聞記者共に不人気でる。ただ肝腎のコッホ氏が病気で目下その生国ベルギーに静養中である。6月22日にはロンドンに帰って来るはずだから、その上で相談して、確たることは返事をしようが、代理の『レビタ』氏の話では地中海(モロッコ事件)の妖雲が去ってしまえば出来ないことはないと思う。しかし日本政府がどうしても発行するというのなら、その時期は夏休暇前がよい、それには少なくとも3週間以内に発行するようにせねばならぬので、速やかにロンドンに帰って我々と相談して」もらいたい。。最後に日本政府が他の新筋と相談して発行するが如きことあらば、その結果惨憺たる失敗となるべきは、けだし貴君も御同感のことと思う」ということでありました。 

weblio辞書ーモロッコ事件 

よって高橋はさらに英国銀行団へ電報して、「今度の起債は是非やらねばならぬこと、しかして3億円はロンドン、ニューヨーク、ベルリンの3カ所において1000万磅ずつ発行する、かつドイツの銀行業者の位置をニューヨーク・クーンロエプ商会と同等の位置に置くこと。この発行手続きは自分がロンドンに帰着して5日以内にすべて結了したいと思うこと、ニューヨーク側では自分の計画に何ら異存ないということ」等を通告しました。 

 

 すると6月21日に至って、在ブラッセルのコッホ氏から、「ドイツを参加せしめることは、他日フランスと日本との経済関係を結ぶ上に妨害となる」と独逸の参加に反対の電報が来ました。上述のように英国の方は銀行家の意見もはっきりしないし、さらにシフ氏を訪問して相談しました。するとシフ氏は事の顛末を聞き終った後、「「しからば、自分がロンドンへ行った上万一この話が纏まらなかったら、ドイツとアメリカとだけで3億円を引き受けてくれるか」と突っ込んだら、シフ氏は、「そのことは心配なさるな、多分ロンドンの銀行団も従前通り引き受けてくれると自分は信ずるが、万一引き受けなかった場合は、ニューヨークで1億5000万円、ドイツで1置く5000万円引き受けることにしましょう。とにかく早くロンドンへ行って話を纏めなさるがよい、自分は貴君がロンドンで、英国の銀行家たちと取り決められた条件には一切異存を申さない」ということでありました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-11 

さて、英国銀行家の持ちだした条件について、高橋は早速本国政府に対し電報をもって打ち合わせをなし、発行限度の最高額300万ポンドというのを、政府の希望1000万pンドの半額500万ポンドに、期限の5カ年を7カ年に発行価額92磅というのを93ポンドに訂正すること主張して譲りませんでした。この点もついに英国銀行家の承認するところとなりました。 

 この際高橋がもっとも苦慮したことは、いよいよ公債の発行並びにその条件が合った後、未だ実際に公債を発行せぬ間に、そのことが市場に漏れては少なからず弊害を生ずるので、それについての対策でありました。けだし発行前に漏れると、第一投機者流が思惑の売買をやり出す、また当時フランス金融勢力は日本の公債発行に反対であったので、この方面から邪魔が出て来る虞もあったのです。 

 ゆえにすでに内相談が極まった以上は、未だ世間に漏れざる内に一日も早く発行することが必要でありました。実際今日まで運んでくる間にも一番困ったのは、公使館や領事館の人々から、公債の成り行きを尋ねられても、言うことが出来なかったことです。ただ林公使だけ、維新前からの知り合いで、お互に気心もよく分っているので時々高橋は見込み話として成り行きを話していましたが、他には一切話しませんでした。 

 さて、上述のごとくして銀行家との相談が纏り、いよいよ仮契約を結ぶまでに運んだのが、4月23、4日であったと思います。しかるにここに偶然のことから一つの仕合わせなことが起りました。 

  それはかつて日本へ来た高橋の友人ヒル氏が、高橋が仮契約を取り結ぶまでに運んだということを聞き知って大変に喜び、一日ねんごろな晩餐に招待してくれました。その時ヒル氏の邸で、米国人のシフという人に紹介されました。シフ氏はニューヨークのクーンロエプ商会の首席代表者で、毎年恒例としているヨーロッパ旅行を終え、その帰途ロンドンに着いたところを、ヒル氏の懇意な人とて同時に招待をしたのでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-12 

 いよいよ食卓に着くと、シフ氏は高橋の隣に坐りました。食事中シフ氏はしきりに日本の経済上の状態、生産の状態、開戦後の人心につき詳細に質問するので、高橋も出来るだけ丁寧に応答しました。そうしてこのころようやく500万磅の公債を発行することに銀行者との間に内約が出来て満足はしているが、政府からは年内に1000万磅を募集するように、申しつけられている、しかしロンドンの銀行家たちがこの際、500万磅以上は無理だというので、やむを得ぬと合意した次第であるというような話もし、食後にもまたいろいろ話をして分れました。 

 ところが、その翌日、シャンド氏がやって来て、パアース銀行の取引先である銀行家ニューヨーク、クーンロエプ商会のシフ氏が、今度の日本公債残額500万磅を自分が引き受けて米国で発行したいとの希望をもっているが貴君の御意見はどうであろうかというのであります。 高橋はシャンド氏の言葉を聞いてそのあまりに突然なるに驚きました。なにしろシフ氏とは昨夜ヒル氏の自宅で初めて紹介されて知り合いとなったばかりで、高橋はこれまで「クーンロエプ商会」とか「シフ」とかいう名前は聞いた事もなく、従ってシフ氏がどんな地位人であるか知る由もありませんでした。 

 しかしシフ氏の齎した話は耳よりのことでもあり、実際に出来れば日本政府にとって誠に結構なことであるから、高橋は、「もしロンドンの銀行家たちが仲間に参加さしても差し支えないと信ずるならば、自分は少しも異存はないから速やかに話を進めたがよかろう」と答えました。しかしこのことは我が政府の外交上の政策に関することでありますから、多分差し支えないとは思ったのですが、念のため電報をもって政府の意向をも確かめてみました。すると政府でも何ら差し支えない旨の返事が来ました。 

 こうしてシフ氏との話がたちまち纏まって、英米で一時に1000万ポンド公債を発行することが出来るようになりました。高橋は一にこれ天佑(てんゆう 天の助け)なり(上塚司編「前掲書」、幸田真音「前掲書」の題名はここからとられています)として大いに喜びました。そしてこの喜びは独り高橋ばかりでなく、日本人ばかりでなく、英国人もまた非常に喜びました。というのは、すでに述べた通り、あるいは露国帝室との関係から、あるいは黄白人種の戦争という点から、英国人独りが日本を援助するということについては何となく心苦しい風であったが、今度米国資本家の参加によって、日本に対して同情の実を示すものは独り英国ばかりでなく、米国もまた然りであるということが、英国政府及び一般国民にはよほどの満足を与えたようでありました。外務大臣ランズダウン侯のごときも、香上銀行のサー・ユウエン・カメロン氏からこの米国参加のは話を聞かされた時には、一方ならず喜んだということでありました。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-13 

そのシフ氏はこのために、その親友サー・アーネスト・カッセル氏と共にエドワード陛下より午餐を賜る光栄に浴したが、その席上陛下はシフ氏が日本公債の発行に参加せることを満足におぼしめさるる旨の御言葉を賜ったそうであります。 

 その後、勅令の案文その他のことで、政府と電信の往復を重ねて、英米両国発行の手続きを済まし、いよいよ5月11日をもって英米両国目同時に募集を開始することに決定しました。 

 細目決定前にシフ氏は後事ををロード・レベルストックに委任して米国に帰ってしまいましたが、レベルストック卿は英国銀行家と相談の結果を一々シフ氏に電報で通知していました。ところが関税抵当のことについてはシフ氏も疑問を抱いたと見え、管理人を入れ..ず単に名称のみの抵当とした場合、万一その抵当権を実行せねばならぬようになった時はどうするか、と尋ねてきました。するとレベルストック卿は、「Warship](軍艦!)とただ一語をもって答えたら、シフ氏もそれで納得したということです。 

 さて是より先5月1日、日本軍が鴨緑江の戦争で全勝を博したとの電報が新聞に出たので、日本公債は予想外の人気を呼び、応募申し込みは、英米ともたちまち発行額の数倍に上り、その日の3時には締め切るというほどの盛況でありました。 

 高橋も景気を見に発行銀行の界隈に行ったが、申し込み人が列をなして順繰りに入り込んで行く行列が2、3町続いていました。実にロンドンでは珍しい光景でした。後で聞いて見ると、ニューヨークでも同様であったそうであります。かねて日本銀行総裁から手紙や電報で、開戦以来外国へ正貨の流出するのは予想以上である、もはや兌換の維持も先々困難であるから、一日も早く募債を済ますようにとしばしば督促がありました。しかるに一度公債募集日の光景が電報をもって世界に伝わると、たちまち正貨流出は止まり、松尾総裁も初めて安堵したということでありました。 

 シフ氏はどこまでも誠実な人でありました。むろん銀行家ですから、自分が損をしてまでわが公債の募集を援助するわけはありませんが、さればといって、これで一儲けしようという単なる利益の打算から思い立ったのであるかといえば、必ずしもそうではありません。 

 あの時、シフ氏が5000万円というまとまった金を、とっさの間に引き受けることを決心するに至ったについては、シフ氏の心中自ら成算あり一般募集には相当の成績を挙ぐべき自信があった上に、万一それが不成功に終った場合は、自分たちの組合だけでも、それを引き受けるだけの覚悟と資力とを十分の持っていたのでしょうが、普通の銀行者から見れば、冒険視せざるを得ぬところでありました。どうしてもその真相を解くことができませんでした。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-14 

何しろ高橋はこれまでシフという人ついては、名前も聞いたことがなく、わずかに前夜ヒル氏の家でただ一度会ったきりです。ことに1箇月前、日本からアメリカに渡り、ニューヨークの銀行家や資本家に当ってみてアメリカでは到底公債発行の望みはないと見込みをつけ、英国へと移ったくらいであるから、アメリカ人のシフ氏が、しかも欧州大陸からの帰路、一夜偶然出会って雑談したのが因(もと)となり、翌日すぐ5000万円を一手で引き受けてくれようとは、まるで思いもかけぬところでありいました。 

 しかるに、その後シフ氏とは非常に別懇となり、家人同様に待遇されるようになってから、だんだんシフ氏の話を聞いているうちに初めてその理由が明らかになって来ました。 

 ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシヤにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、官公吏に採用されざるはもちろん、国内の旅行すら自由に出来ず、圧政その極に達しておりました。ゆえに、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシヤのユダヤ人を、その苦境から救わねばならぬと、種々物質的に助力するとともに直接ロシヤ政府に対してもいろいろ運動を試みました。したがってロシヤ政府から金の相談があった場合などには、、随分援助を惜しまなかったのであるが、ロシヤ政府は金を借りる時には都合よき返事をして、それが済んでしまえば遠慮なく前言を翻してしまうのです。だからユダヤ人の待遇は何年経っても少しも改善せらるるところがないのです。これがために永い間ロシヤ政府の財務取り扱い銀行として、鉄道公債のごときも、多くはその手を経て消化されておりましたパリのロスチャイルド家のごときも、非常に憤慨してすでに十数年前よりロシヤ政府との関係を断ってしまったくらいであるります。 

YAHOO知恵袋ーロシヤもユダヤ人が嫌いみたいですね?? 

 上述のような次第でありましたから、シフ氏のごとき正義の士は、ロシヤの政治に対して大いに憤慨しておりました。ことに同氏は米国にいるたくさんのユダヤ人の会長で、その貧民救済などには私財を惜しまず慈善することを怠らなかった人であるから、日露の開戦とともに大いに考えるところがあったのは、さもあるべきことであると思います。そうしてこのシフ氏が第一番に考えたことは日露戦争の影響するところ、必ずやロシヤの政治に一大変革が起るに相違ないということでありました。もちろん彼は帝政を廃して共和制に移るというごとき革命を期待したわけではありませんが、政治のやり方の改良は、正にこの時において他にないと考えたのであります。すなわちこの政治のやり方を改良することが虐げられたるユダヤ人を、その惨憺たる現状から救い出すただ一つの途であると確信しておったのであります。そこで出来るなら日本に勝たせたい、よし最後の勝利を得ることが出来なくとも、この戦いが続いている内には、ロシヤの内部が治まらなくなって、政変が起る。少なくともその時までは戦争が続いてくれた方がよい。かつ日本の兵は非常に訓練が行き届いているということであるから、軍費さえ行き詰まらなければ結局は自分の考えどおり、ロシヤの政治が改まって、ユダヤ人の同族は、その虐政か救われるであろうと、これすなわちシフ氏が日本公債を引き受けるに至った真の動機であったのであります。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-15 

 シフ氏が日本公債を引き受けるについて、、主として相談相手となったのが、当時ロンドンにおける理財家としてロンドン、ロスチャイルド家をも凌駕するほどに信望を博しておったサー・アーネスト・カッセル氏でありました。同氏はエドワード7世の太子時代から信任篤く、宮中でも特別の待遇を受けておりました。シフ氏とは兄弟のような仲で、しばしば協同して米国内に資本を運用しておりました。元来シフ氏は、日本の事情については前夜高橋に聞いたくらいのほか知識を持っていなかったのですが、幸いカッセル氏が日本の事情に詳しかったので日露戦争の原因その他については、多くこのカッセル氏の意見をただしましたが、カッセル氏はまたつねに日本に同情ある説明をしてくれたので、この第一次六分利付の公債も極めて円滑に運び、爾来シフ氏と日本政府は非常に親密な関係を結ぶに至り、日本政府が外債を募集する場合には、いつでも発行銀行の仲間に参加せしむるようになりました。 

 第一回の六分利付公債は、前述のごとく1904(明治37)年5月11日をもって英米両国同時に募集を開始し、いずれえも大成功裡に終結しました。そこで高橋の任務もひとまず完了しましたから、早速帰国しようと思ったのですが、考えてみれば英国の払い込みは5回に分割されており、(米国はすぐに全額払い済みとなった)その最後の払い込みが8月15日となっているので、この払い込みが終って、万般の跡始末をつけるまではどうしても引き揚げるわけには行きません。で、その間に一度ニューヨークへ行って、米国側が払い込んだ金の処置をつけてこようと考えておりました。 

 ところが、そこへまたもや日本政府から電命があって、さらに第二回軍備公債1億円を募集せよといって来ました。そして今度はその担保として、煙草専売益金のほかに必要ならば鉄道収益をも提供してよいということでありっました。 

 高橋には当時の英米の状況から見て、第二回の公債は、決して困難でないということは分っていましたが、ひそかに思うにいつまでこの戦争が続くか、一体今度政府が電命してきた1億円を募ればそれだけの金で、この戦争を済ますことが出来るかかどうか、出来るというならば政府からいうてきた担保を出してもよいが、どうしても高橋にはその点が心配でなりませんでした。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-16 

それで高橋は考えました、第一回六分利付公債の担保に提供した関税収入が4300万円余であったと思うが、これを1億円の担保としたのであるから、なお相当な担保余力を存している。ゆえにまずその余力を計算しその許す範囲をもって今回の発行高と限定し、煙草専売益金や鉄道収益は手をつけないで他日のために留保しておく方がよいと感じたから、その趣旨をもって調べてみると、なお1億1000万円分の担保力あることが明らかになりました。よってとりあえずその意味をもって政府へ電報し、同時に書面をもって詳細に具陳しました。しかるに、政府では高橋の電報を見て、この際公債の募集は1億1000万円以上は不可能ととってしまい、高橋に対して反対の電訓を発して来ました。それがために政府と高橋との間では電報で押問答を重ねましたがさらに要領を得ません。その内に高橋が先に出した手紙が着いたので、政府でもはじめてその間の事情が判明し、それならばというので早速同意の旨を電報して来ました。そこでこの関税収入担保余力二番抵当としてロンドンとニューヨークとで1億1000万円を募ることとなり、それぞれ銀行家に対して相談を進めました。 

 さて第一回六分利付公債が初めて発行されるという時には、日本人にも外国人にも、進んでこれに手を出そうというブローカーも現れてこなかったのですが、一度第一回の募集が大成功裡に完了したということが伝えられると、その後は政府に対していろいろ献策する者が生じてきたと見えて、今度は煙草専売益金を担保にするとか鉄道収益を担保にするとかいう内地の噂が、時々新聞に出るようになりました。ロンドンの銀行家たちはかねてこの噂を聞いてもので、高橋が第二回の談判を始めると、「すでに日本からの電報として新聞に載っているところを見ると、日本政府は煙草専売益金または鉄道収益をもって担保とする考えのようであるが、貴君だけがそれに反対し抵当は関税収入の担保余力をもってせねばならぬと押し通すのはどういうわけか、むしろ政府のいう通りにした方が一般の気受けもよいのになぜそうしないのか」というから、高橋は政府との間に電報や手紙で往復した経緯をありのままに話し、担保というものは大切にせねばならぬ。関税収入の担保余力がロンドンとニューヨークとでまだ十分にある以上、まずそれから使って煙草専売益金や鉄道収益などは後日必要な場合のために留保しておかねばならぬ。というと、銀行家たちも、それはもっともなことだといって、談判はようやく進行しました。 

 かくて第二回公債の条件は、前回と同じく、六分利付で、期限が7年、ロンドンとニューヨークで発行することとなり、最後の払い込みの終るのが、ロンドンは翌年即ち1905(明治38)年の2月15日で、ニューヨークの方は年内1904(明治37)年の11月5日ということになりました。 

 第二回六分利付公債は、上述のごとく極めて容易に成立し、12月5日には、アメリカ引き受け分の全部の払い込みが終 ったので、その預け先などの始末をつけるため、ロンドンを発ってニューヨークに向かいました。ここで今から考えると抱腹絶倒の一つの話があります。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-17 

当時までは、高橋もアメリカの銀行界ことは、あまり詳しくは知らなかったから、この公債募集によって得た資金が、万一預け場所が悪くて引き出しが出来ないようなことにでもなったら、日本国家に対して申し訳がありません。そこで高橋は例のごとくシフ紙に相談して、この始末はどうしたらよいかと尋ねると、シフ紙がいうには、「日本政府のために考えれば、こちらに置いてある金は、少しでも利回りをよくするためにせねばならぬ。それには、銀行よりも信託会社に預けたがよい。銀行なればおそらく年2分5厘くらいの利子にしか当たらないであろうが、信託会社に預ければ、年3分の利子がつく」ということでありました。 

 「ではその信託会社はどこがよろしいか」と尋ねると、「ギャランティー・ツラストがよい」というから、「それではギャランティー・ツラストに預けることにするが、同社はこの預金に対して、他の有価証券を担保として提出することが出来るか」というと、さすがのシフ紙もこの時ばかりは目を丸くして驚きました。そうして笑いながら、「何?担保をだす、信託会社からその預かったものに対して担保を出すなどいうことは、アメリカでは行われていない。ただしそれほど貴君が心配なら、その保証品は日本政府の安心するように私が出してあげよう。しかしその担保品を出すについては、私の銀行でも5厘の手数料はもらわねばならぬ。それはともかくとして、私が提供した担保品を貴君は、どこで保管せられるのか」といいます。これには高橋も弱ってしまって、「さしあたり正金銀行で」といってしまいました。しかしその当時の正金銀行は、みじめなもので、地下室に貧弱な金庫が一つ据えてあるばかりでありました。、それで、「正金銀行」といってはしまったものの、内心大いに心配でありました。それをシフ氏も悟ったと見え、「正金の金庫がどんなものであるか知りませんが、貴君が保管せらるる以上少なくとも私のところの金庫くらいのものでなくてはいけません。とにかく一度私のところの金庫を見てください」と自分か先だって案内してくれました。よってシフ氏に同道してクーンロエプ商会に行き、そこに建設せられている金庫を見ました。なんでも第一階にあって、およそ幅が3間(約55m)に1間半くらい、高さは1丈1尺(約3.6m)もあるように思われました。金庫の外回りの床の上には、幅1尺くらいの堅固な真鍮の金網ようのものが敷かれてあります。シフ氏はこれについて説明していうのには、「店員は時間が来れば皆帰ってしまって独りもここには残ってっていない。しかし誰かここにやって来てこの金庫の廻りにある金網の板の上に乗ると、すぐに警察に警報が行くようになっている。また金庫の屋根及び四方の壁にはi一面に金網が張ってあって、それにはすべて電気が通してあるから触れられない。そうしていよいよ金庫を破ろうとするには、この鉄壁が7種の異なった鋼鉄を合せて作るられているので、鑿を用いて破るにしてもこの7種の鉄に適応した七つの異なった鑿を用いなければ、穴を明けることは出来ない。無論火事に遭っても心配はない」と、まず一通り外形の説明をして、それから金庫の扉を開いて中を見せてくれました。中に入って見ると、三方に12の金庫が列べてあります。そうして、それには1月から12月までの記号が設されています。この中にはアメリカのみならず、イギリスやヨーロッパ大陸の公債証書、株券その他の諸債券類及び日本の公債などが非常によく整理されてありました。そうして1月にり払いや配当のあるものはすべて1月の金庫の中に、2月にあるものは2月の金庫の中にそれぞれ保管されて順次12月に及んでいます。しかも泥棒や火事の用心が堅固なことには、一驚を喫するばかりでありました。それで、高橋も預け金に対して担保を取ることは不可能だということが解り、その旨を政府に電報したところ、政府でもこれを諒とし、ついに抵当なしで預けてもよいことになり、その手続きを済ませました。 

 ニューヨーク滞在中は、万事シフ氏の紹介で、銀行家や鉄道会社、信託会社の社長その他有名なる実業家と交際するようになり、大変にシフ氏の世話になりました。従ってまた正金銀行の取引をクーンロエプ商会と開くような相談もしました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-18 

 アメリカにおける用務を済ますと、帰朝の途につき、1905(明治38)年1月10日に約1年振りで横浜に帰着しました。まず正金銀行本店で休憩し、正午の汽車で帰京しました。 

 翌11日は早朝より松尾総裁が高橋の私宅に来られて、いろいろと電報の行き違いや過去1年間の内地経済状態などの話がありました。12日7には大蔵大臣官舎に行って公債募集に関する大体の報告をしました。13日には松方伯を、14日には井上伯を訪問してそれぞれ報告をなし、15日は日曜日であったが総理大臣官舎に行って桂総理に報告しました。そうして16日には午前10時半には参内拝謁仰せつけられ、終って退出後、松尾総裁とともに井上伯を訪問要談しました。 

 これよりさき、帰朝後間もなく、1月11日付にてロンドン正金支店から、「パンミュール・ゴールドン商会から無抵当で、利息5分半、、期限30カ年くらいで発行価額85ポンドという条件で、500万ポンド乃至1000万ポンドまで募集が出来る旨発行銀行まで申し出でありたれども、これに対する発行銀行の意見は、目下内外の事情を観察するに、漸次日本政府のために好都合に赴く見込みなるをもって、この際、急いでさらに公債を募集することは不得策と思う。ゆえにパンミュール・ゴールドン商会の申し出は否決されたし」と申し越してきました。そこで高橋は、「発行銀行の決議は尊重する。しかし日本政府は近き将来にさらに外債募集の要あるべきをもって、その心得にて相当の時期において発行銀行の意見を申し出よ」と返事しました。ところが1月17日になって、パンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏からの電報で、「目下市場景気一般に好し、近来日本政府の信用は著しく増したるをもって利率や発行価額の次第は抵当なくとも募集できる、まず利息五分半、発行価額85ポンド、期限30カ年乃至40カ年くらいなれば可能性あり」と申し出て来ました。 

 そこで高橋はロンドン支店長の山川に宛て、コッホの申し出条件中、利率と発行価額が面白くない、なお発行銀行と協議の上発行銀行の意見を申し送るよう電報しました。これに対して1月30日付山川の電報では、「日本政府の内意が此の際至急外債募集を必要とするならばとにかく、もしさほど急を要せざるにおいては奉天戦争の結果を待ったらどうであろうか、露国内地の粉擾はますます激しくなるように思われる」といってきました。また発行銀行側の意見として同じく山川から、「発行銀行と相談した結果、日本政府が現在差し迫って現金の必要がないならば、この際公債の募集することは時機なお早しと考える。この後一般の形勢が引き続いて日本のために好都合に向えば、コッホの申し出条件よりさらにより良き条件をもって発行できること疑いない」といってきました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-19 

また1月26日に受け取った電報には、発行銀行の意向を報じて、「このごろ日本公債がだんだんに市場で騰貴してきた。なるべく漸時は公債発行延期した方が条件が好くなる。ただしこの会合の席にはカメロンに代りて、サー・ジャクソンが出席した」とありました。ところが1月27日付のコッホの電報には「公債募集はこの機会を失うべからず、ただし利息は年五分とす、また日本銀行所有第一回四分利英貨公債もこの際売却しては如何、指値(さしね)を返答せよ」といってきました。同日付の山川電報には、もし平和恢復の前途なお遠きかあるいは奉天戦争の結末が手間取るようであったら、コッホ申し出発行価額を幾分か引き上げて、この際着手しては如何、露国の扮擾はますます伝播している、これに対して露国政府はいよいよ抑抑圧を加えているが、おそらく革命にはなるまい」ということでありました。そこで当方からも1月27日付にて山川宛に、コッホの申し出は発行価額が低すぎるから満足出来ぬという意味の返電を出しました。 

すでに述べた通り高橋は帰朝後、宮中に参内して公債募集の顛末を言上し、また各要路にも報告したが、その結果公債募集の功労者に対して勲章を授けらるることとなり、レベルストック卿に勲一等瑞宝章を、サー・ジャクソン氏には勲三等瑞宝章を、バ氏には勲三等瑞宝章を、またシフ氏には勲一等瑞宝章をタウンセント氏には勲四等瑞宝章を贈らるることとなりました。 

weblio辞書ー瑞宝章ー早川千吉朗 

 よって高橋は政府の指図によって、1月28日付をもって正金ロンドン支店長山川勇木宛てに、「左の通り英文にて高橋是清名義をもってレベルストック、ジャクソン、、バン、シフへ格別に通知有之度拙者帰朝後、特別に陛下に拝謁を仰せつけられ、直ちに貴君の尽力せられたる第一回第二回公債発行成績を上奏せり、陛下は甚だご満足に思し召されかつ貴君の尽力を嘉(よみ)し給い、直ちに貴君に対して勲章を贈与することを御裁可あらせられたり。これは貴君先般の功労を思し召されしに外ならざれども、なお将来貴君の尽力に頼むところあるべきを示されたるものなるを信ず。 

 

 勲章は貴地日本公使を経て贈らるべし。拙者はここに貴君の光栄を賞す。なおまた日本政府は英米市場の模様次第にてさらに外債募集の考え有す。これに対し時機及び条件など貴君の見込みを内々承知したし」と電報しました。 

 1月の下旬に至って桂首相から呼ばれたので、すぐに総理大臣官邸に行くと、その席には首相の外に伊藤侯、山県侯松方伯、井上伯の諸元老がおられました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-20 

 首相は高橋を見ると、「この際さらに1億乃至2億5000万円の公債を募集したいが出来るだろうか」といわれるから、高橋は「2億5000万円くらいなら確かに出来ます、私の電信1本でできます」と答えると、井上伯が傍らから、「それは電信などではいかぬ。ぜひ御前が行かなきゃならぬ」といわれました。そのとき伊藤侯が山県侯を顧みて「高橋は金は出来るというじゃないか」といわれると、山県侯は起ってポケットに両手を突っ込み、少し俯き加減に室内を歩きながら、独り言のように「経済でなら仕方がないが、軍ということでは」とといわれました。すると桂侯が突然高橋に「戦いを負けても出来るか」と問われました。高橋は、「それや同じ負けても負けよう次第です。戦いに負けてる間に出来(でか)すというわけにはゆきません、しかい負けたからとて、どっかで踏みとどまる時がありましょう。その踏み止まった時に、公債談判の機会が来るのです。もちろんその場合条件は悪くなります。つまり負け方によるので、まさか一気に朝鮮まで追いまくられることもありますまい」と答えました。高橋の用事はそれで済んだので引き取りました。その後その席で何事が話されたかは高橋は知りません。ただ井上伯が「ぜひ御前が行かなけりゃならぬ」といわれたので、再びロンドンに向うことを決心しました。そうして2月5日正金ロンドン支店宛に、「先般一旦は帰朝したが、再び出張を命ぜられたので、1月27日横浜出帆のエンブレス・オブ・インディア号にて出発する。このことは公債発行銀行へ内々で伝言せよ。次にレベルスドクは上述の事情をつたえかつ先に同氏へ手紙を出すと申し送ったがら、どうせ近くロンドンにて面会の機を得るから手紙はださないことにしたと伝言せよ」と電報をもって申し送りました。 

 これと相前後して、1905(明治38)年1月29日高橋は貴族院議員に勅選のの恩命に浴し、2月7日には特をもって位一級を進め従四位じ叙せられました。かつ今回の出張に当っては、今後公債募集の交渉を有利ならしむるため、高橋の待遇に対し、政府においても得に考慮するところあり、改めて閣議に稟請(りんせい、具体的には大蔵大臣の要請)し、その決議を経て、帝国日本政府財務委員を委任せらるることになりました。 

 そうして2月11日紀元節の当日、大蔵大臣官邸に呼ばれ、外債募集に関する命令書及び政府の委任状をを渡されました。この日午前10時半米国公使を訪問面会しました。公使曰く、「今度は米国で募集せられるか、あるいはまた従来のごとく、英国を主として米国をこれに参加せしむるの方法をとらるるや(公使の言は米国をして英国と同等の地位に置きたかった)、なおモルガン氏を知っていらるるか、スチールマン氏はどうか」ということでありました。 

 それで高橋は「自分の考えでは少なくとも交戦中は募債の道筋を変更しないつもりである。またスチールマン氏には面会したがモルガン氏にはまだその機会がない」よ答えたら、公使は「まことに御尤もである」といって、色々と懇談に時を移し、かつ数通の添書きを書いてくれました。 また同日午後5時半から井上伯の別邸即ち麻布竜土町小林ロク方に晩餐の招待を受けました。同席者は、野村子爵、早川千吉郎、室田義文(「伊藤博文安重根」を詠む14参照)、馬越恭平、朝吹英二(「天佑なり」を読むⅢ-21参照)らの諸氏であって、甚だ懇切なる待遇をを受けました。 

近代日本人の肖像ー日本語ー人物50音順ーまー馬越恭平(まごしきょうへい) 

 このとき伯が一首の歌を詠まれましたが、翌日使いをもって送られました。その歌は、よしあしの中にかかりし高橋を渡りて開かむ鴈金の声、というものでありました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ- 1~10

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ- 1 

 高橋は山本前総裁に対する政府の措置ならびに新総裁の態度如何によっては、ただちに職を辞する覚悟でありました。 ところが前述の如く山本前総裁のことは円満なる解決を見るようになりましたし、また松尾(臣善)新総裁(吉野俊彦「前掲書」参照)も1903(明治36)年10月25日の夜、わざわざ高橋の自宅へ来て、日本銀行の行務については高橋に信頼する、かつ正金の監督をはじめ海外のことについては、今後一層力を尽くしてもらいたいというような懇切な言葉がありました。もとより松尾氏とは、高橋の正金銀行時代より、常に心易くしておった仲であり、そうなれば高橋の方に別意のあろうはずもなく、総裁更迭問題も、万事円満に落着しました。 

日本銀行―日本銀行についてー日本銀行の概要―沿革―歴代総裁 

 さて高橋は山本総裁勅選の問題で、桂首相に談判の時、初めて日露の間に、重大なる交渉案件が進行中であることを知りました。しかしその案件がいかなるものであるかも尋ねもしなかったし、またそれに対しあまり重きを置くこともしませんでした。ところが11月10日前後であったと思います、松尾総裁がごく内密のこととして、高橋に話されるには、「今朝大蔵大臣に呼ばれての話に日露談判の経過が甚だ面白くなくなった。あるいは破裂するかも知れぬ。万一両国開戦となれば、日銀としては軍費の調達に全力を注がねばならぬ。また国内の支払いは兌換券の増発によってともかく弁ずるとしても。軍器軍需品などにて外国より購入せねばならぬものがたくさんにある。これに対しては正貨をもって支払わねばならぬから、この方面のことについては、今日より十分に考慮画策しておいてもらいたい」ということでありました。 高橋は当時日本銀行の副総裁として、傍ら横浜正金銀行の業務監督の任に当っていました。よってこの立場より自分の意見述べ、かつ総裁と相談の上、正金の三崎副頭取を呼んで内密に取り調べ方を委嘱しました。その事項の主なるものは 

1,三井物産、高田商会をはじめ当時の主立ったる輸入業者に対し、正金銀行が与えたる信用の上の金高及び期限 2、輸入為替の予約高ならびに期日 3、輸入業者の取り扱う物品中政府の注文に関するものと、民間の需要に属するものとの区別、品目ならびに金高 4、諸外国人の内地に有する預金、及び外国銀行が内地において有する資金の概数などでありました。 

5、百万円をもって、果してr兌換の責任がとれるかどうか、即ち語を換えて言えば、開戦と同時に正貨の輸出を禁止するの必要なきや否やを、推定せんがためでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

ここにおいて正金銀行はなるべく目立たないように、ごく内密で上述の取調べを開始するとともに、一面には売為替や信用状の発行について、出来るだけ控え目にするよう手心しました。 

 しかるに、いつとはなく機敏な商人が、これらのことに感づいて何か異変があるのではないかというような疑惑を抱くに至りました。そうして一番早く感づいたのが、大阪の経済界でありました。 

 今から当時を顧みると今昔(こんじゃく)の感に堪えないものがあります。それは日露両国間が開戦にもなろうというほどの重大なる外交談判のあることが、その間際まで民間に知られずにおったことでありました。 

 大阪の財界では、1903(明治36)年の始めころから疑念を抱きはじめて、それがために多少の動揺を来す兆しが現れてきたので、政府もこれにはいたく憂慮するに至りました。同年12月中旬曽禰大蔵大臣は松尾総裁を呼んで「日露の談判も先日は一時懸念されたが、このころの調子では談判も平和に解決するようである。しかるに大阪方面の財界がなんとなく童謡の兆があるが、あまり悲観に陥らしめても困るから、何とか緩和の道はないであろうか」との内輪話であったとて高橋に相談がありました。 

 これは甚だむずかしいことで、日本銀行として財界に向って全く安心せよと公言するわけにもいかず、両人協議の結果、まず松尾総裁が墓参のため郷里に帰ることとして、そのついでに大阪に立ち寄り、同地の主立った人々に面会して、それとなく安心を与えるような話をするのがよかろうと相談を決めました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 そこで総裁は年末も押し詰まった25日大阪に立ち寄って上述の相談通り実行しました。この時までに正金銀行の取調べにもとづいて、開戦後の1カ年間に、わが正貨の海外に流出すべき金額を推測したるに、1、外国銀行が持ち出す正貨 3500万円 2、輸入品の代価支払いの結果として流出する正貨 3000万円 計 6500万円 で、これを当時日本銀行が所有する正貨高 1億1700万円より差し引けば、その余すところ僅かに5200万円見当で、しかもこのうちには開戦後当然海外払いとなるべき軍需品の代価は含まれておらぬ、甚だ心細き次第でありました。 

 ところが前述の如く、談判の模様はだんだんに良くなってきたというのでやや安心しておりました。しかるに12月29日の夜、急に大蔵大臣から呼ばれました。高橋は宴会の出先から早速大蔵大臣官邸に行くと、その席には曽禰大臣のほか阪谷次官、相馬正金頭取もいて、高橋の到着を待っていました。大臣は高橋の姿をみるや否や「政府は先ごろロンドンで2隻の軍艦を買いいれることにして、そのことを、英国駐在の林(董 ただす)公使に電訓し、林公使は直ちに相手方と契約を取り結んだがさて、その代金の支払いに当って、正金ロンドン支店の手違いで支払い不能に陥り、ために林公使は進退谷(きわ)まった立場となった。公使よりの電報によれば、もし、この支払金が調達出来なければ解約と共にロンドンを引き揚げねばならぬと言って来た。すでに林公使の立場が以上の如くであるし、かつ政府ではこの際是非とも隻の軍艦を買い取りたいのであるから、日本銀行で何とか調達は出来ないであろうか」という相談でありました。  

 近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー林董 

 何分事柄が重大であり、かつ少しも猶予の出来ない場合であったので、高橋は即座に一つの案、即ち、1、林公使をして公使の資格において約束手形を振り出し先方に渡すこと、 2,もし先方において担保を要求する場合は、日本銀行所有のわが四分利英貨公債200万磅を正金銀行支店に貸し渡し、正金支店振り出しの手形をもって金融を計らしむること、を提議しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 幸いこの一案は列席者の同意があって、ただちに林公使及び正金支店に電訓されました。その結果は第一案によって弁ぜらるることとなり、上記2隻の軍艦は早速本邦にに廻航せらるるに至りました。これ即ち日進、春日の2艦であります。 

 weblio辞書ー日進(装甲巡洋艦)ー春日(装甲巡洋艦)  

 1904‘明治37)年正月元日の早朝、阪谷大次官から電話で、「いよいよ談判破裂の模様(「坂の上の雲」を読む14~17参照)だから、今日からそのつもりで、万事の用意に取り掛ってもらいたい。また当方からも出すが、君からも郷里に」在る松尾総裁に至急帰京されるよう電報を発せられたい」という内訓があって、高橋は事のあまりに急転直下せるに驚きました。そこで早速帰省中の松尾総裁に電報を発するとともに、三崎正金副頭取を呼んで、かねて申し合わせておいた計画の実行に取り掛かりました。就中(なかんずく)民間の需要に属する輸入品にして未だ船積み前のものに対しては、その金額を減らすか解約するの手段をとらしめ、ひたすら正貨の維持を講ずることとしました。また一方においては正貨輸出禁止の得失如何を考究しましたが、いよいよ開戦となれば、外国より購入せねばならぬ軍需品も多額に上る見込みであって、到底外債を起さずには済まないでしょう。しかるに最初から正貨の輸出を禁ずることは、海外に対して信用を墜し、従って公債の募集に当り、それが不利益なる影響を及ぼすことも考えねばなりません。これに反して現在のまま正貨の輸出を自由にしておけば、流出の勢いも自ずから緩やかになうであろうと考えられます。かれこれ審議研究の結果正貨の輸出の禁止は、この際得策にあらずと決定しました。 

 これよりさき、1903(明治36)年7月28日「日本は満州における露国の特殊利益を認め、同時に露国は韓国における日本の優越なる利益を承認せんこと」を提議しましたが、露国はこれを認めず、1904(明治37)年2月4日日本政府は対露国交断絶を決定、同年2月5日露国駐劄公使栗野慎一郎に電訓して露国政府にこれを通牒させました。 

 1904(明治37)年2月6日、日露の国交は断絶していよいよ開戦となりました。 同時に戦時財政の要務は井上、松方両元老が見らるることとなり、軍費に当つべき外債募集の件も時を移さず廟議決定を見ました。 

 ここにおいて井上、松方両元老ならびに松尾日銀総裁はは相談の結果、しかるべき人物を財務官としてロンドンに派遣し時機を見て外債募集をなさしむることに一決しました。そうして松方伯は、最初高橋是清をもって財務官に当つべしとの説を述べられ、かつ高橋に対しても相談せられたが、高橋は自分はその器(うつわ)に非ず、園田孝吉「天佑なり」を読むⅢ-23参照)君こそ最適任者である旨を答えて辞去しました。また曽禰大蔵大臣および松尾日銀総裁は、今日において一番大事な正金銀行の業務を指図したりするのに、高橋副総裁がいなくては困ると申し立てられ、一方園田孝吉君からは、自分の健康が到底海外行きを許さぬといって断って来ました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 かくて財務官の人事が非常な困難に陥り、両元老も少なからず困惑せられている折柄、2月8日に至りわが瓜生(うりう)戦隊の仁川沖の勝報に次いでわが連合艦隊は旅順を砲撃して敵艦3隻を撃沈したりとの報告至り、ここに始めて局面一変して、大蔵大臣も松尾も「この情勢であれば高橋を手離してもよかろうから、同君を至急ロンドンに派遣せしめらるるよう」にと具申しました。そこで俄かに模様が変わって2月12日夜、井上伯から高橋は呼ばれました。早速行くと伯は「君はこのたび御苦労だがロンドンに行って公債の募集に当ってもらいたい」といって、次のようなことを附け加えて話されました。 

 「松方伯ははじめから君を派遣せよとの説であったが、自分ははじめ園田がよかろうと思った。それは何ゆえかといえば、出先の者から日本銀行や政府に宛てた電報を見て、これに対して返辞をしたりするのには、海外の事情に精通した者が日本におらねば、政府と出先の者との意思の疎通を欠き、誤解を生ずる虞(おそれ)がある。そこで君は内におって園田から来る電信の往復の任に当ってもらわねばならぬので、園田を外国に出張せしむる考えであった。しかるに園田が自分の身体が持たない、強いて行けば死にに行くようなものだ、というから、これもやむを得ぬ。ついてはこの際園田を日本銀行の顧問として、外債募集にする君との電信往復の要務を取扱わしめねばならぬと考えるから、その通り取計らったらよかろう」といわれました。 

 このことは、その日銀行へ帰ると直ぐ松尾総裁に伝えましたが、いろいろ考究の結果、総裁から口上をもって園田に顧問を依頼することに決しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 さて井上伯からロンドン行きを申し含められた時は、高橋はlこの任務のなかなか重大で、十分政府にその決心を聞いておかねばならぬと思い、「仮に私がその重任を拝するとしても、政府に対して堅く約束してもらわねばならぬことがあります。それは、政府の外債談が起これば、常に内外のいわゆるブローカー(商行為の仲立人)が現れて、コンミッション(委任)を自分の手に収めんと、様々の事を政府に申し立てて来る。その場合いささかにても政府筋がこれに迷い、少しでも彼らに耳を傾けるようなことがあっては、出先の者の仕事の支障となり、結局政府に迷惑がかかり、損失を受けることともなるのであるから、いかなる者がいかなる申し立てをしても、政府は一切それを取り上げず、委任したる全権者に絶対の信用を置かれたい。もし政府においてこの決心が出来なければ、私は到底この大任を引き受けることは出来ません」と一言打ち込みました。すると井上伯は「その儀誠にもっともなことであるから堅く約束する。ついてrはその注文の要件を認たためて明朝提出するように」とのことでありました。そこで高橋は辞して帰り、翌朝次の如き覚え書(省略)を持参し、井上伯を訪問して提出しました。 

 既述のいような次第で、高橋は日本銀行副総裁の資格において、外債募集のことを委任せらるることとなりました。従ってその後は、時々元老大臣などの評議にの席にも列席することとなりました。 

 この時、政府の樹てた軍費の予算を聴くと、「明治二十七八年の日清戦争の時には、軍費総額の約3分の1が海外に流出しているので、今回もそれを標準として正貨の所要額を算定した。即ち軍費総額をおよそ4億5000万円と見て、その3分の1、1億5000万円をもって海外支払いに必要なるものと仮定すれば、目下日本銀行所有の正貨余力が約5200万円ほどであるからまずこれをもって海外支払いに充てるとしても、なお1億円の不足を生ずる。そうしてこの不足はどうしても外債に依るよりほか途がない。よって年内に1億円だけは絶対に外債の募集を必要とする。もっとも戦時の募債であるから、担保を要求せらるることも覚悟せねばならぬ。それでまだ世間には公にいい兼ねるが、海関税の収入をもって抵当に充てることにすでに御裁可も得てある。ついてはこの心得をもって速やかに出発し、年内に一度で出来なければ、二度にても差し支えないから、1億円だけは募債するよう努力せられたい」ということでありました。 

 また阪谷次官も附言して、「この戦費は1年と積ってあるが、これは朝鮮から露軍を一掃するだけの目的で、もし戦争が鴨緑江の外に続くようであったら、さらに戦費は追加せねばならぬ」ということでありました。 

 当時高橋は馬で怪我をした右の腕がまだ十分に治らず、左の手のほかはは働かせない状態でした。洋服も新調できず早速出発することとなり、深井英五〈「男子の本懐」を読む17参照〉が当時同行の秘書役で、英語英文ともに達者であるところから、同君一人を帯同して2月24日横浜出帆の便船で出発渡米しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

アメリカに着いてニューヨークに直行し、まず3~4の銀行家に面会して様子を探ってみると、一般米国人の気分はロシヤに対して日本が開戦したことを、小さな子供が力の強い巨人に飛びかかったのだといって、日本国民の勇気を嘆称し、我が国に対する同情の表現は予想外であって非常に愉快を感じましたが、この時代の米国はまだ自国産業発達のたには、むしろ外国資本を誘致せねばならぬ立場にあって、米国内で外国公債を発行するなどいうことには、経験も乏しく一度相談してみましたが到底成立しないことを認めたので、僅かに4~5日の逗留(とうりゅう)で、3月の初めに米国を発って英国に向いました。 

 ロンドンの宿は、米国出発前、正金のニューヨーク支店を経てロンドン支店宛てに電報をもって、この前泊ったド。ケーゼル・ロイヤル・ホテルに部室を取っておくよう頼んでおいたので、ロンドン着とともに、直ちにそこに落ち着きました。 

 さてそれからいよいよ本務の公債談に取りかからねばなりませんが、高橋はどうしても正金銀行を本体として、その取引銀行であるパース銀行、香上銀行、チアター銀行、ユニイオン銀行などに、まず交渉を進めるのが最も順当であると考えました。 

 幸い旧友のシャンド(「天佑なり」を読むⅢ-28参照)氏が、今はパース銀行のロンドン支店長をしているので、まず同氏に会い、その紹介で頭取のパー氏、本店総支配人のダン氏などにも面会しました。また香上銀行、チアター銀行、ユニオン銀行などの幹部諸氏やベアリング商会シベルストック卿とも会見しましました。 

 これよりさき、高橋がニューヨークに着するとまもなく、ロンドンの正金支店長山川勇木より電報をもって「ロンドンでは募集の見込みないはない、今日正金銀行のごときは鐚一文(びたいちもん)の信用もない」とと申し越してきました。けだし山川の意は、ぜひアメリカで金策せよ、イギリスに来ても恥をかくばかりだから、という意にありました。 

 高橋はロンドンに着くと、前記のようにパース銀行の総支配人ダン氏ならびにロンドン支店長シャンド氏その他の組合員と懇親を結び、シャンド氏その他とびたび会見しては懇親を結び、たびたび会見しては、英貨公債1000万ポンドを募集せんとする日本政府の希望告げかつ諮るりました。しかるにいずれも燃ゆるが如き同情は持っているのですが、ただ話を聞きおくに止まり、目下の情況では日本公債の発行は容易なことではないとということで、山川の電報の真意が一層よく体験せらるるばかりでありました。 

 その内にパンミュール・ゴールドン商会のレビタ氏の紹介で、有名なるロスチャイルド家をも訪問して懇意となり、一番末の弟のアルフレッド・ロスチャイルド氏とは最も親密を重ねた、またロスチャイルド家と併せ称せられる金融業業者サー・アーネスト・カッセル氏とも交際するようになりました。しかしロスチャイルド氏ならびにカッセル氏には、こちらから公債談をすることは一切避けて、ただロンドン及びパリーの経済市況を聞くに止めました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 かくてもっぱら銀行業者に対して交渉を進めている内に、結局正金銀行と一緒になって公債発行を引き受けようという好意を表してくれるに至ったのはパース銀行と香上銀行だけで、チアター銀行はついに断ってきました。 

 もっともチアター銀行の参加如何については日本出発前より多少の懸念はしておりました。というのは、最初横浜で香上銀行とチアター銀行双方の支配人に会って公債談をしたところ、香上銀行の支配人は冷淡なるに引き替え、チアター銀行支配人は意外に乗気でありました。 

 「私は過日来チアター銀行が、日本公債発行の肝入りをするようにたびいたび本店に電報を打ったが、どうしても本店がその気にならぬので困る。今度貴方があちらに行かれたら、今後日本公債の発行に当たっては、ぜひチアター銀行が主となって働くよう話をしてもらいたい」という一語がありまいた。したがってチアター銀行が発行仲間に参加するかどうかということは、この時から疑問としておりました。それで今度参加を断られてもあまり失望もしませんでした。 

 これは公債に関する話ではありませんが、ロンドンに来て気がついたことは、英米両国民が日露戦争に対する観測を異にせることでありました。それはアメリカでは一般に、日本は陸軍では勝つだろうが海戦では敗けると考えているものが多かったのですが、ロンドンに来てみると、海戦には勝つだろうが陸戦では到底露国には叶うまいという考えを持っているものが多いように見えたことでありました。 

ロンドンに着いて数日後のある日、ベアリング商会のレベルスドッグ卿がやって来て、「今日日本公債を発行したいとの御希望であるが、公債の条件がいかに良くとも、これを一般公衆に向って募集することは困難である。貴君が御相談中の銀行家連が躊躇するのも決して無理ではない。しかし貴君の立場を察すれば実に同情に堪えない。わが商会は往年日本の鉄道や鉱山事業に対して資本を貸す考えをもって日本に店員を派遣した。その当時井上伯は、自分のこの企て誠に宜いことだと大いに賛成せられたが、だんだん日本の法律が調べているうちに、鉱山事業や鉄道に資金を貸す場合に、普通外国で行われているような抵当権の設定が出来ないことが判明したので、そのことを注意して上げたが、ついにこのころの議会に提案され新たに法律の制定を見るに至った。自分の商会とは上述のような特殊の関係もあるから、日本公債の募集については大いに同情ももっているし、また尽力もして見たいと思っている。しかしながらこの際一般公衆から募集することは自分にはどうしても自信がない。よって今のところでは自分の商会だけで応募するようにするよりほかにしようがない。それには往年日本政府が発行した四分利英貨公債の内、現に200万磅だけは日本銀行が取有しているから、それを担保として日本政府の大蔵省証券の形をもって、最高60万磅までなら御融通しよう」と提案して来ました。これがそもそも日本政府に金を貸そうといい出してきた最初の相手方でありました。 

 weblio辞書ー抵当権ー財務省証  

 これを聞いて、高橋は深く同君の好意を謝するとともに、現在のところ日本政府はそれほどまでに窮迫しておらぬ事情を述べて、暗々裡にその提案に考慮を費すわけに行かぬという意思を表明し、いろいろ雑談をして別れました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 今後どうしたらよかろうと考えているうちに、フト思い出したのは、日本を発つ前、駐日英国公使マクドナルド氏から紹介されたサー・ジョージ・スーザーランド・マッケンジー氏のことでありました。 

 公使の話によると、この人は公使夫人の姉妹婿に当たる人で、銀行家ではないが、現に英国の大汽船会社の社長をしており、人格も立派で社会の信用も厚い人であるから、何か用事が起こった場合にはこの人を訪ねたがよかろう、とてわざわざ添書(てんしょ)まで書いてくれたのでありました。今その人のことを思い出したので、早速訪問して相談して見ようと決心しました。 

 かくて翌日同氏をその私邸に訪問しました。氏は大変気持ちよく面会してくれました。その時夫人はすでに病没して独身でありました。 

 高橋は率直に自分が公債募集にきていること、これまで銀行家たちに相談したが、少しも運ぶ様子がないので、一層のことロスチャイルドかカッセルのような大資本家に交渉してみようかとも考えている。その得失について決しかねるからして、貴君のご意見を聞きに来たという意味のことを話すと、氏は「貴君の来られることはマクドナルド公使からも通知があり、今日お目にかかるのは誠に本懐である。さて只今貴君の迷っていられることは至極もっともなことである。私は銀行家ではないがら十分お役に立つ助言は出来ないが、その得失についてはいっさか私見を述べてみよう。今貴方が相談を掛けられている銀行はいずれも株式会社である。したがっていずれも公衆の預金を運用しているから、これを公債のごとき長期のものに振り向ける資力は少ない。ゆえに銀行業者たちにいかに貴方の希望に応じようと熱心な同情があっても、自分に引き受ける力がないから、結局は一般公衆に持ってゆかねばならぬ。従って一般公衆の気持ちも観測するの要があるので、貴方の申し立てに対しても、今すぐにはっきりした答えが出来ない次第と思う。これに反してロスチャイルドとかカッセルなどのごとく、自分一人ででも引き受けの出来るような大資力のある者は、現在公衆の気持がどうあろうと前途の見込み如何を考え、将来有望という見込みさえ立てば、自分一人の独力をもってでも公債を引き受けるのである。今日本政府の側に立って、上記両者の利害得失考えるに、一度これらの大資本家の手を経れば、日本政府は今後公債の発行者にあたっては、どうしてもその手を借らねばならぬ立場となる。しかるに資本家はその利益をすべて自己の手に収めるのであるから日本政府に対しては不利な欲張った条件を持ち出すに相違ない。これに反して銀行家たちの方は株式組織であるからその利益は少数の重役支配人などのの懐にはいるわけでではなく、すべて多数株主の手にはいるのである。従って私人と異なり、その条件も正当な条件であれば満足する。ゆえに、発行条件からいえば、資本家に頼るより銀行家を相手とした方が、日本政府の利益である」という話でありました。この一言は大いに高橋の参考となりました。これをもって高橋は何としてもまず銀行家によって募集を果さねばならぬ、と決心するに至りました。かくてこの日は大いに意を強うしてう彼の邸を辞しました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-10 

公債発行の相手方を銀行と決めてからは、以前と異なって一層手強く銀行者に談判を取り進めました。銀行家たちが日本公債引き受けを躊躇するのは誠に無理からぬことでありました。すなわちその第一原因は、当時ロシヤ政府はフランスの銀行家と提携してその後援を受けていたために、戦争開始以来、パリおよびロンドンにおける露国公債市価は、あまり変動なく、むしろ上り気味でありました。これに反して日本の四分利付英貨公債は、戦争前80磅以上を唱えていたものが、たちまち60磅まで暴落し、日本公債に対する市場人気は非常に悪くなりました。だからこの際新たに公債を発行したところで、果して一般公衆が気乗りするかどうか、その成功不成功を診断するのはなかなか困難なことでありました。 

 次に此の際日本公債を発行しても見込み通りの応募者がなく、結局失敗て終わったならば、日本政府は軍費調達のためロンドン市場を利用することが出来ないものであることを証明するようになります。 

 さらに銀行家の間に端なくも重大な一つの疑点が生じて来ました。それは日英両国は同盟国ではあるが、イギリスは戦争に対しては、今なお局外中立の地位にあります。ゆえにこの際軍費を調達することは、局外中立の名義にもとりはせぬかということでありました。高橋はこれに対して、自分にはよく判らぬが、かつてアメリカの南北戦争中に中立国が軍費を調達した事例もあるから、局外中立国が軍費を調達することは差し支えないと思うが、貴君らが心配になるならば、貴君らの信頼せらるる有名なる法官や歴史家について調べてもらうがよかろうといって取り調べさしましたが、その結果、法官や歴史家の意見としては、差し支えないということに一致したので、銀行家連も高橋も安心しました。 

 ロンドン着後約1箇月の間は、ほぼ以上のごとくして過ぎてしまいました。そうして3月も過ぎて4月10日ころ(1904年)となってようやく公債談二眼鼻がつきかけて来ました。すなわち銀行者たちは、鳩首塾議の結果、最善の努力として申し出て来た条件は、1、発行公債は磅公債とす 2、関税収入を以って抵当とす 3、利子は年6分とす 4、期限は5カ年 5、発行価額 92磅 6、発行額の最高限度300万磅 ということでありました。この時関税収入を抵当とすることについては、なかなか議論がやかましかったのです。英国銀行業者たちは関税を抵当とする以上、ちょうど清国にサー・ロバート・ハートのいうごとく、英国から日本に人を派遣し税関を管理せしめねばならぬと主張しました。これがなかなか強い意見であったが、高橋はそれに対して一切耳を傾けず、「一体貴君らが日本と清国とを同一と見ることが間違っている。日本政府は従来外債に対して元利払い共に一厘たりとも怠ったことはない。ただに外債のみならず、内国債においてもいまだかつて元利払いを怠ったことはない。それを清国と同一視されては甚だ迷惑である」と強くいい張ったので、彼らもついに「それでは名のみの抵当権だ」と、いいながらもとうとう承認しました。 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-31~40

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-31

 8月17日からは、支店の検査に取りかかりました。米国では州によって銀行法が異なり、ニューヨークでは支店の設置ができぬので、長崎個人が正金の代理店(Agency)として営業している形になっています。しかるに桑港ではどうなっているか、その辺の関係についてまず話を聴取しました。それから支店の公課状について調べてみると、上半期において、図らずも欠損がでており、どうしてかような欠損を生じたかというに、それは香港向きの為替取り組から生じたものでした。

 この事実を見て、高橋は大いに考えるところがあったので、青木支店長に対して、「この店に欠損がでたといってかれこれいう次第ではないが、もしこれが日本向きの取引のために損失がでたというなら、私はむしろ快く思う。元来正金は日本と外国との貿易助長の金融機関であって、他外国間の貿易機関として造られたものでない。このことを取り違えて、アメリカ本位で仕事をするから、香港や清国向きの商売が多くなって来る。今後は日本本位に仕事をしてこの方に全力を尽くすがよい。しかして清国や香港向きの仕事はその副業ぐらいに考えてやってもらいたい」と言って注意を与えておきました。9月3日汽船ベルジック号にて桑港を出帆、日本に向いました。

 1898(明治31)年9月、7箇月振りで帰ってみると、政権は伊藤伯より大隈伯の手に移って、いわゆる隈板(わいはん)内閣が成立し、その大蔵大臣には憲政党(旧立憲自由党系)の松田正久が当っておりました。

Weblio辞書―検索―隈板内閣―松田正久

 新橋駅に着くと大蔵省から使いで「大臣が君の帰りを待っていられるから、すぐに行ったらよかろう」との伝言があったので早速松田蔵相を訪問しました。大層丁寧な、そうして物の言い方の軟らかな人で、初対面の高橋には大いに好感を与えました。

 大臣は「外債に関し井上前大臣に送られた君の報告書は引き継ぎを受けた。目下どうしても外債の募集をやらねばならぬか、早くそれに着手したいと思って、君の帰るのを待ちうけていた」と言われるから、高橋は「今日の市場の状況では、一時に巨額の発行は困難であるかもしれませんが、5000万円か1億円くらいまでなら四分利付で90%乃至95%で発行ができましょう、ついては速やかに御決定の上直ちに実行に着手せられたがよかろうと思います、この上調査の必要はありません」と答えました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-32

 それから正金銀行の重役及び日本銀行当局者に向って、海外支店の状況を報告し、かつこれに対する自分の意見を開陳しました。その大要は「今後わが正金銀行をして、海外における信用を高からしめかつその機能を発揮せしむるには、第一にロンドン支店をして単に為替業務ばかりでなく、その他の業務例えば手形の割引、貸金等につき自由に活躍せしむることが必要である。今日のところでは、正金のサンフランシスコ支店では、為替の受け入れ金をニューヨーク支店に送り、ニューヨーク支店は日本の輸出為替を取り立てて、サンフランシスコよりの送金と共にこれをロンドン支店に送金し、よってもってロンドン支店の為替買い入れの資力を養っているに過ぎない。

 しかして正金ロンドン支店に出入りする仲買人はおおむね東洋向き為替を取り扱う数人の者に止まり、ロンドン市内にてもっとも信用あり重視せられている仲買人らの出入りはほとんどない。これ単に業務の性質が東洋向き為替の取り扱いに限定せられているからである。正金銀行をしてロンドンの枢要なる銀行と同様の地位に進めるためには、どうしてもロンドン市内の金融場裡に立って働かさねばならぬ。さすれば多数の一流仲買人が朝夕正金の店に出入りするようになるから、ここに初めて正金の存在をロンドン市中に認められるようになる。それにつけても第一に必要なのは資金であるから、政府に願って、為替以外の業務に運用する資金として、政府か現に英蘭銀行に預けている清国賠償金のうちから200万ポンドくらいを極低利で融通してもらうことにせねばならぬ」と述べて、大体そのように決定しました。

 岩崎日銀総裁は松田大蔵大臣と意見の相違がああったためか、遂に辞職するに至りました。そこで後任総裁の問題となりましたが、日本銀行内部では河上謹一を推す空気が濃厚でした。ところが行外において山本達雄(吉野俊彦「前掲書」)を推す一派の運動があり、その内星亨(ほしとおる)などまでが、この問題の渦中に入って意見をいうようになってきたので、あるいは日本銀行に政党の空気が入って来はしないかとの懸念が生じてきました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ほー星亨

 日本銀行内部の人々も、万一そうなっては、その弊害の及ぶところ、いかなる程度に到るやも測られないととて、これまで結束して河上を推していた連中がその希望を投げ捨てて却って山本を推すようになり、ついに同氏が総裁の任に就くこととなりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-33

 1899(明治32)年1月末ころから、日本銀行の河上、鶴原らの一派と山本総裁との間が円滑を欠くように見えるので、河上、鶴原両君に会って、どうも総裁と理事との間の意思が疎通しないでは面白くない、自分でよければ、いつでも仲に立って調停の任に当るがというと、両人は到底調停の見込みがないから止めてくれということでありました。

 2月1日大蔵省における台湾銀行設立委員会終了後、日本銀行へ行って、山本、鶴原、高橋3人で料亭島村へ行って晩餐ををすることとなりました。それで高橋はこれで総裁と彼等との間に多少は感情の融和が得られるものと期待して、その日は横浜へ帰りました。

  2月23日豊川良平から、日本銀行の理事たちとともに、築地の花谷に招かれていたので、夕景から出席しました。すると宴半ばにして鶴原が高橋に別席を乞うて「君は先だって総裁とわれわれとの間を調停のために、非常に心配してくれていたが、とても、もう2、3日の中に破裂は免れない、今度こそは君は口をださずにいてくれろ」というから、ついにそうなったかと嘆息して、その夜横浜に戻りました。

 25日、この日はちょうど土曜日だったので、高橋は午後から葉山の別荘に出掛けました。すると26日の午前2時ころになって、島甲子二(しまかねじ)から電報がきて、続いて山本総裁からの電報に接しました。それはいずれも至急上京を促すものでありました。

 26日早朝上京して、まず山本総裁をその邸宅に訪問したら、河上以下の理事がいよいよ辞表を提出したということでした(日銀ストライキ事件・「男子の本懐」を読む10参照)。そこで高橋は直ちに大蔵大臣松方伯(第2次山県有朋内閣)を訪問してこのことを話し、蔵相はこの処置をいかにせられるつもりであるかと尋ねました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-34

すると松方伯は「それは君、川田が育てたあれだけ多数の有為な人々と、山本一人とは代えられぬではないか」と言われたから、「それは一応ごもっともですが、日本銀行という国家枢要の機関としてこの際御考慮を煩わしたいことは、日本銀行は我が国の中央銀行で英国の英蘭銀行と等しいものであります。ところが理事や従業員がその時の総裁しかも政府任命の総裁に対していわゆる同盟罷業をした、その結果政府が総裁を取り替えるというようなことがあったなら、海外の人たちはこれを見て、日本の中央銀行を何と考えるでしょう。もし時の総裁に棄て置き難い過失があるならば、従業員の同盟罷業を待つまでもなく、政府はまずもって総裁を罷免するの責任があるではありませんか。何らの過失なきに拘わらず行員の感情から総裁排斥ということになり、政府がそれらの排斥者の意見を容れて総裁を辞めさせることは、わが中央銀行のために政府としてとるべき路にあらずと考えます」というと、松方伯は「何時君に話したいことが起るかもしれないから、今夜は東京に泊って何時でも君に電話をかけることのできるようにしておけ、してどこに泊まるか」といわれるから、『差当り築地の有明館にとまりましょう』と答えました。

 2月28日早朝井上伯を訪問して、今度の日本銀行の騒動について高橋の意見を腹蔵なく述べましたが伯は「そのことは陸軍大臣に行って話しておけ」との指図でありました。それで高橋は直ちに陸軍大臣官邸に桂(太郎)陸相を訪問し、日本銀行の件を話すと、「よく分った、自分がこれから山県首相のところへ行って話をする」ということでありました。

 それから、この日午後3時過ぎになって松方蔵相から呼ばれました。そうして言われるには、「内閣でもいよいよ山本を、そのまま据え置くことに決めた。総裁と理事(三野村)一人では日本銀行の重役会が成立しない、よって副総裁を置く必要を生じて来た。ついては君を副総裁に据えるから、その心得でいてもらいたい」ということでありました。この時前田正名も官邸にきていて、しきりに高橋に承諾を促しました。

 高橋は事の急なるに驚き、辞退しましたが、すでに内閣ではそのことを決定していて追っ付けここに辞令が来るはずだ、というような切迫した事情の下にあったので、高橋もついに承諾せざるを得ませんでした。同日午後8時ころ、松方蔵相手ずから日本銀行副総裁の辞令を交付されました。

 1900(明治33)年から翌年にかけて、日本銀行に救済を求めてきた銀行は、第九銀行、肥後銀行、第百十銀行、第十七銀行、第三十九銀行、第百二十二銀行などであって、これが処理には、行員一同大いに苦心しました。

 行務の刷新については、第一着手として、各局課長及び支店長に命じて行員の人物考査表を出させ、各個人個人の勤怠、技量、品性等を詳らかにするの法を定め、かつなるべく宴会の招待等はこれを避けて、質素倹約を旨とすべきことを訓示しました。また総裁と協議して7日間の公休日を認めることに決しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-35

 1901(明治34)年12月下旬、年末手当のことで問題が持ち上がりました。それはこれまで行員に対して手当を与えてきたが、今後は廃止するということを山本総裁が言いだしました。それが、どうした訳か行員に漏れたと見えて皆が騒ぎだしました。そうして高橋がもっぱら恨みの焦点となりました。

 これより先、ある人から、銀行の食堂あたりで、行員間に沙上の遇語があるということを知らせてくれる者がありました。それによると、近ごろ重役会において賞与や昇給の協議があるごとに、各局長から出す提案に対して、高橋副総裁が反対している、今度の年末手当の廃止もその首謀者は高橋である、というようなことがひそひそ噂されているという話でありました。

四字熟語データバンクー沙中遇語

そこで高橋は総裁のところへ行って、まずこの年末手当の廃止については反対を表明し、かつかねて聞いていた沙上の遇語について報告し、上述のように高橋はただ今人望がない、長くなればなるほど人気は落ちてしまって、銀行のために宜しくないと思う。不人気になってしまって勢い辞めねばならぬようになっては却って困るから、一層のこと今のうちに辞めさしてもらいたいというと、総裁は「そういうことはまだ聴かない、辞めんでもよいではないか」としきりに留め、かつ年末手当を廃することは高橋の説を容れて止めました。ただし高橋だけはその手当を受けるわけにはいかないから辞退しました。

 1902(明治35)年の元旦は天気晴朗、極めて心地好き年の始めでありました。この日かねて赤坂表町に新築中の新宅が、玄関及び廊下ゐ除いてほぼ落成したので、邸内の旧家からその方へ引っ越しました。

 この年の秋、五分利付公債発行の件について問題が起りました。それは10月1日の朝、山本総裁は大蔵大臣に呼ばれて官邸に行くと、大臣から「政府は今度五分利付公債を5000万円を興業銀行を経て、香上銀行に売り渡す約束をした。同公債は元利ともロンドン払いの裏書附きで、ロンドン市場に売り出すはずで、政府の手取金は98ポンドである」と申し渡されました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-36

 山本総裁は突然このことを言渡されましたが、その手続きがいかにも合点いかず、誠に意外の思いをしましたとて、帰ってきての話に「従来外国にて発行する公債は、日本銀行または正金銀行を経由するのが通例であるのに、今回に限り何の打ち合わせもなく、興業銀行を経て香上銀行に売り渡すことに決定してしまった。

これは考えようによると、日銀及び正金に対する政府の不信を意味することでもあるから、自分は桂(太郎)首相に面談して、その不都合を申し入れておいた」ということでありました。、

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー桂太郎―そー曽禰荒助 夕刻添田興業銀行総裁がやってきて、「今回の公債売り渡しについては、前もって御相談すべきであったが、これをなし得なかった事情があるので、それを述べて不都合を陳謝しに来た」という話です。よって高橋は、「個人の拙者に対して陳謝の要は少しもない。しかしこの事柄は、正金銀行の面目と信用にかかわることではないか、それを何ゆえに正金銀行に相談しないで、香上銀行に話を持ち込んだか」と詰問すると、「これは香上銀行との間に秘密にしておくとの約束であったから、そのつもりで聞いてもらいたい」と冒頭して、次の通りの話がありました。即ちこの前ロンドンで公債を募集した時は、正金銀行が主体となったために、香上銀行の横浜支店長は本国並びに本店に対して、いたく面目を失したので、今度発行の場合は、是非香上銀行を主体として発行さしてもらいたいと再三の申し出があった。もとより正金銀行を引受銀行の仲間に加えることは、最初から香上銀行とも話をしておったところで、決して除外するなどいう考えは少しもなかった。ついてはこの際正金銀行が誤解をせぬよう、そうして快く発行仲間に加入するよう何分の御配慮を願うとのことでありました。よって高橋は添田に対して、今日まで、正金銀行に対し、政府並びに日本銀行がとり来たった方針及び日本公債の発行に当り、いつでも正金銀行と組合になっておったパース銀行との関係を詳しく話しました。

 それを聞いて添田も非常に驚き、今より相馬を訪ねて依頼し、かつロンドンにも電報してパース銀行をも加入させるよう取り扱うから、今回はどうか事の円万に纏るよう尽力して貰いったいといって辞し去りました。

 しかるに、その翌日添田から、電信で、昨日の件につきロンドンに電報したと知らせてきましたが、それと引き違いに正金銀行からも、ロンドン支店では本店からの返電を待つ暇なく、公債発行仲間に加入の件を承諾した。もっともパース銀行発行銀行として加入はしないが、シンジケート銀行として10万ポンドを分担することになって、すべてが円満に片付いたということでした。

Weblio辞書―検索―シンジケート

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-37

 1903(明治36)年の晩春、経済界の不況につき、これが回復の手段として、日本銀行では金利の引き下げを断行せんと欲して、例のごとく午餐後重役会を開き、その事を決定するとともに、山本総裁は大蔵大臣(曽禰荒助)の認可を取るために、自ら大蔵省に出掛けました。ところが大臣は風邪を引いて官邸で寝ておられるというので、また官邸へ行って大臣に会い認可を乞うところがありました。

 しかるに山本総裁は大蔵大臣官邸に行ったきり、一向に帰ってきません。大蔵大臣官邸から電話があって、高橋にすぐ出頭するようにとのことであります。よって早速出かけて行くと、大臣は日本間で床を敷いて寝ておられ、その側に山本総裁と阪谷、松尾両君が坐っています。少し様子が変だと思って挨拶を済まし坐につくと、大臣は高橋を顧みて、「今山本総裁から利下げの認可を得にきたが、大蔵省では、今は利下げの時期に非ずとの意見である。それで君を呼んだわけだ」といわれるので、高橋は「してどういうわけで利下げの時期でないといわれますか」というと、大臣は「今年もし米が不作であったら必ず輸入超過となる。ゆえに日本銀行で米が不作であっても、輸入超過にならぬと保証するなら金利を下げてもよい。それがなければ、今金利を下げるわけには行かないという意見だ」といわれます。

 それで高橋は「今年の米の出来がよいか悪いかは神様でなければ分かりません、今の所では良さそうに思われるが、二百十日や二百二十日を前途に控えているから、天候によっては平年作に及ばぬ結果を見るかも知れませぬ。しかしこういう予知のできない事柄を除いて今日の現状を観察すれば、今金利を下げるために輸入超過になろうとは我々は考えておりません。これに対して今日はいかにも金利が高く、それがために事業は不振に陥り製品は高価である。ゆえにこの際金利を引き下げて、経済界に活を入れるの必要ありと認めたのが日本銀行の意見であります。貴方方は聡明な方々であるに相違ありませんが、常に多岐多端の政務に心を配らねばなりません。我々はそれと異なって二六時中経済界のこと、ことに金利政策に最も重きを置き、不断に考えているものであります。ゆえにその専門的に専一に考えている者どもの意見は尊重せらるるが当然ではないかと思います。もし政府において今日利下げをすることは国家としてよろしくないという、何らか他に政治上の理由でもあれば格別、今年の米作に対し日本銀行が保証せねば、金利を下げることは出来ないというのは御無理ではありませんか。何人が今年の米作は豊年であると請合いが出来ますか。日本銀行の仕事として金利政策ほど重大なものはありません。(以下略)」と遠慮なく意見を述べました。

 すると曽禰大臣も考え直して、ついに申請通り認可されたので、総裁と二人引き下り、銀行に帰りました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-38

  山本総裁の任期は1903(明治36)年10月20日をもって満了となるので、我々はいずれもその重任を希望しておりましたがら、時々総裁に対して、その辺のことにつき注意をしました。というのは、何となく大臣と総裁とが、そりの合わない様子に見受けられたからです。しかるに総裁はいつも、「いや、そのことなら棄てておいてくれ、どうでもよいから」と一向気にもかけず、また我々の言うことを取り上げもしません。しかしそれには何か総裁に確信でもあるのでもあろうとひそかに考えていました。ところが高橋は8月28日から北海道視察に行くことに決ったので、出発前秘書役土方(ひじかた)久徴に話して、「総裁の任期満了が近づくので、何とか方法を尽されるように総裁に話をするが、一向気にかけられぬようだから、君からもなおよく総裁に話して、適当の処置を取らるるよう注意してもらいたい」というと、土方は「私もそのことについて度々話しましたが、やはり棄ておけということで、何ともしようがありません。しかしお話によりさらに申し上げてみましょう」ということでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-39

かくて高橋は総裁任期のことが気になりつつも、北海道へ旅立ちました。出張の目的は北海道商業銀行の救済についてその内容を検査し、また北海道鉄道や製麻会社の実情を調べるのが主たる用件でした。高橋は全道を一通り廻って、9月28日上野に帰着しました。

 1903‘明治36)年10月20日に山本総裁は例の通り銀行に来て、「今朝大蔵大臣官邸に呼ばれて行ったら、君も永々御苦労であった、今日が満期であるから、松尾理財局長を後任とすることに決めた、と申し渡され、それからいろいろと大臣の書画などを見せられて来た」と話されたので、われわれは唖然としました。ところが間もなく高橋も曽禰大蔵大臣から呼ばれたので、出て行くと、大臣はまず総裁更迭の話をして、「新総裁に不服の行員はやめてもらいたい、また留まる者は助けてもらいたい」といわれます。高橋はただ承るだけで引き下って来ました。

 しかし考えてみるに、いかにも大蔵省のやり方が突然でかつ乱暴のように思われます。よって高橋は事情を調べて見ました。するとこういうことが判ってきました。即ちこれより先総裁は伊藤侯を訪ねて自身の任期のことについて相談をしたと見えて、ある日伊藤侯は桂首相に向って「日本銀行総裁更迭の噂があるが、そういうことがあるか」と尋ねられました。すると桂首相は「いや自分にそんな考えは少しもない」といわれたというので、そのことが山本総裁の耳に入り、従って自分は重任するものと思っていられたようです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-40(最終回)

 そこで高橋は第一に桂首相を訪ねました。そうして、「今回の日本銀行総裁更迭の手続きは、いかにも穏当を欠いている。総裁任期の当日まで何の話もなく、ただ大きに御苦労であったの語をもって罷めさせるとは、何か総裁に左様な処置をされるだけの過失があったのですか、自分は副総裁として常に一緒に仕事をして来たが、今日まで正貨準備の増加、団匪事件(義和団事件)等について功績こそあれ過失はないと思います。ことにあなたは伊藤侯に対して更迭の考えなしといわれたということである。今度のことは実際国のために黙過することの出来ないことであるからうったえにきました」というと、桂首相は「それは伊藤侯から自分に更迭の考えがあるかと問われるから、自分としてはそんな考えはないと返辞したのは確かだ。しかし大蔵大臣が、今日露の間に重大なる関係をひき起こそうとしているのに、万一の場合今の総裁では自分は大蔵大臣の任務が尽くせないというものだから、当局大臣がそういう以上仕方がない、と思って、大蔵大臣の言に従ったまでだ」といわれます。

 それで高橋もじっとしておられぬので、山県侯を尋ねて、政府の処置の不当なるゆえんを縷々述べ、ことに日本銀行総裁の更迭をかくのごとく軽々に取り扱われることは、海外の関係において最も不可なるゆえんを詳しく説明したら、侯は「自分も誠にそうだと考える、たった2、3日前、桂が来て、日本銀九総裁を更えるからというので、そうした事情のあろうとは知らず、ただそうかといっておいた。して今となってはどうしたらよいというのか」といわれるから、「しからばです。今日すでに決定したものは致し方ありませんから、もし過失なしとせば在職中の功績を認めて、昇勲の御沙汰を賜るよう御配慮を願いたい」というと、山県侯は「勲章は困るが、貴族院議員はどうだ」といわれるから、「それは誠に結構です。貴族院議員に勅選されるということなら結構だと思います」

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山県有朋

 「それなら君は桂のところへ行って、俺がそういったといってその話をしてくれ」といわれれるから、高橋は早速桂侯のところへ行って話すと桂も「承知した」といわれるから、「それでは至急お願いしますといって別れ、その後催促してついに発表を見るに至りました。