幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-31~40

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-31 

アメリカ資本団の意向は先述の通りであるので、高橋は至急ロンドンに引き返すことに決心し、6月18日正金支店長の山川勇木宛てに「6月24日(明治38年)汽船エトルリア号にてニューヨークを出発し、7月3日ロンドン着の予定であるからは自分および深井のためにコーバーグ・ホテルに部室をとっておいてもらいたい」という意味の電報を発しました。 

 かくてイギリスへ引き上げの準備を進めていると、鉄道王ハリマン氏から使いをもって、来る21日君のために午餐会を開くから是非出席を請う旨の招待を受け取りました。高橋は喜んで承諾しましたが、その日ハリマン氏はニューヨーク第一流の資本家たち20余名を招んで盛宴を張り、高橋を紹介してくれました。その時集まった人々は口ぐに、「日本政府は『ニューヨーク』にて巨額の公債を発行したに拘わらず 

発行地の金融市場を撹乱せざるよう深い注意を払ってくれた」と大変に賞賛の辞を浴びせておりました。 

 ちょうどそのころであったと思います。井上伯と大変懇意なアルウインという人が突然高橋の所へやって来ました。同氏は、何のために来たというようなことは一向に話しませんでしたが、その口気から察すると、どうも高橋の行動を探りに来たのじゃないかと思われる節が多かったのでした。その話の要点は、「貴君のことについていろいろいう人もあるが、貴君はそういうことについて少しも気にかける必要はない。井上伯は貴君に対し全幅の信頼を置いておられる。私は日本政府ことに井上伯が貴君をいかに信頼せらるるやをシフ氏にも話したいから御紹介を願いたい」ということであたので、シフ氏に紹介してやりました。ところがその後シフ氏に会った時シフ氏の話では、アルウイン氏はシフ氏に対し、果に高橋のことをどう考えているかと聞いたのみで、他の事は言わなかったということでありました。 

  6月23日に至りパース・バンクのシャンド氏か電報で「船会社に談判してクインスタウンからリバプールまで貴君と同船する」と言ってきました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-32 

 さて、高橋は予定のごとく6月24日にニューヨーゥを発ってロンドンに向いましたが、船がクインズタウンに着くと、電報の通りシャンド(「天佑なり」を読むⅠ-4参照)、山川両君が乗り込んで来ました。 

 両君はこもごも口を開いて、今次の募債が得策でないことを主張し、かつロンドンの主なる新聞記者も反対である。しかしてその反対理由は、ついこの間四分半利付公債3億円を発行して、まだその全部の払い込みさえ終わらぬのにまたまた3億円を募集して、さような巨額の金(当時日本政府の在外資金は米国に1億円、ロンドンに8000万円、その他四分利付公債の未払い込みの分があった)を日本に供給することは、講和談判が開かれるようになっても、日本政府のロシアに対する要求が非常に強くなって却って講和の妨げとなる、というのでありました。そうして両君が附け加えて言うのには、「ただし新聞記者たちの意見は上述の通りであるが、高橋君がロンドンに着いた上で同君から意見を聞くまでは自分たちの反対意見は発表しないゆえに、高橋君がロンドンに着いたらすぐに会いたいから、会見の場所と時刻とをリバプールから電報で知らしてもらいたいと言っている」ということであったから、3人で協議の結果、リバプール着の翌朝午前8時コーバーグ・ホテルで会見すべき旨を新聞記者たちへ電報しました。 

 船中でシャンド・山川両氏から英国銀行団新聞記者たちの反対意見をつぶさに聞いてから、高橋はシャンド氏に対しても、シフ氏に話したのと同一の理由を話しました。シャンド氏はそれを聞いて、「誠に已むを得ぬ」と言って諒解してくれました、かつシャンド氏の言うのには、「そういう事情であれば、我々の仲間は大概諒解するであろうが、何分コッホ氏が強く反対説を唱えている、それは日本政府がドイツ銀行を直接のシンジケート銀行仲間とすることを厭がっているのが主因である」ということでありました。けだしコッホ氏の反対理由は、他日仏国銀行団ととを結びつける上に大いに働くつもりでいるのに、今独逸の銀行が参加するようになっては、その妨げとなる虞れがあるのと 、今一つはドイツの銀行者をニューヨークのシフ氏らと同一の地位におおくことは、それだけ自分たちの取るべき手数料が少なくなることを恐れたからでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-33 

 汽船エトルリア号は、予定よりも一日早く即ち7月2日リバプールに着、直ちにロンドンのコーバーク・ホテルに入りました。これよりさきニューヨーク出発前、今度の募債は極めて短時日の間に完了することを要するので、一々日本政府と電報の往復をしている暇がありませんから、必要な事項に関してとくに権限を与える旨の委任状を、ロンドン公使館宛てに送ってもらうことを要請しておいたので、7月2日ロンドンに着すると、日本政府から送られて来た電報委任状(省略)を公使館より交付されました。 

 さて翌3日は、約により午前8時から5名ばかりのロンドン第一流の新聞記者たちがやってきたので、それらを引見してまずその反対説を聞き、これに対してシフ氏に話したことをなお敷衍(ふえん 意味の分かりにくいところをやさしく説明する)して説明しました。彼らもそれを聞いて、よく事情を諒解し、そういう次第であれば、今度の公債発行についても大いに声援しよう、といって引き揚げて行きました。 

 新聞記者たちが帰ると、引き違いに銀行団の人々がやって来ました。銀行団の意向はシャンド氏より十分に承知しているので、これに対しても前同様の説明をなし、かつ今度の募債はどうしても止められないから英国で引き受けねば、やむを得ず他の方面で調査するという意思を強く暗示しました。そこで彼らもこの際日本政府をして発行を辞めさせることはできないということを覚って、ついにその場で大体前回同様の条件で引き受けようということを決定しました。ただし独逸銀行団と英国銀行団と同一の地位に置かんとするには、独逸の法律習慣が違うためにたいへんに時日を要する、今日のごとく発行を急ぐ場合には到底間に合わないので、独逸銀行団にも納得させ、必要な手続きは後でするということで、すべてアメリカの銀行団と同一の立場において引き受けさせることに説きふせました。また独逸銀行団の参加に強硬な反対を唱えているコッホ氏にも詳細に説明して、これも承知させました。 

 かくて、7月3日夜になってロンドンの銀行団は独逸銀行団とも協議の上、発行条件を定めて高橋の所に申し出て来ました。そうして7月の6日には、いよいよ本契約の調印を済ましたので発行目論見書にに記載すべき勅令の年月日が必要であるから、勅令案に要する今日の契約の綱要を政府に電報しました。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-34 

 すると7月8日松尾総裁より、「今般の募集につき貴君の御尽力を深謝す。募集の勅令は只今御裁可を経たり、直ちに発表のはずなり。次に独逸にて募集せる公債金を保管預りとしてロンドンに為替をもって取り寄せるには、その指揮監督者を必要とすべきにベルリンには領事も日本銀行の監督役もいないが、これらの機関についてはどう考えるか」と電照して来ました。よって高橋は、1、ドイツの応募金は駐独日本公使が日本政府のために受け取る事。2、公使は受け取りたる金を直ちに日本銀行代理店なる横浜正金銀行ロンドン支配人に渡す。3、ロンドン支配人は直ちに日本銀行代理店勘定としてこれを独逸銀行に預け入れる事。4、払い込金を受け取ることに日本銀行ロンドン代理店たる、正金銀行支配人はベルリンに出張する事。5、上記預け金をロンドンへ廻金する方法は時々若干金額を代理店勘定より送金銀行ロンドン支店勘定勘定に移して為替資金として独逸銀行へ預け置き、しかしてこの資金をもってロンドン為替を買いいれまた独逸為替を売り出す事。6、上記為替相場日本銀行ロンドン代理店において市場状況を見計らいなるべく公債面に定めたる一定の相場を超過せざる範囲において決定するよう指図する事、また公債元利払いはベルリン独亜銀行を横浜正金銀行ロンドン支店の代理者として取り扱わしめる事、ただし独亜銀行は便利のためハンブルグ及びフランクフォート等の場所に代理支払所を設ける事。その手数料は利子を支払う時は支払金高の8分の1%元金の手数料は未定ですべて横浜正金銀行がが日本銀行より受け取る元利支払手数料の内にて負担する事。 

等の手続きを定めて総裁に返電しました。 

 上述のごとくして、本公債は7月10日の夕方に至って目論見諸を発表しましたがロンドンではその夜すでに内景気が4分の3%の割増金を示し、ドイツのマックス・ワーバーグからも、大変に評判がよくて内景気1%の割増金で、おそらく発行の初日に募集額を超過するであろうと言って来ました。またシフ氏からも、アメリカの内景気が大変に良いということを、通知して来ました。 

 7月11日が発行当日でありましたが、ロンドンではその日の午後3時半に締め切り、約10倍の申し込み超過を示しました。またドイツのワーバーグからは、少額の申し込みが多きため締め切って見ねば分からぬが、多分7倍くらいの申し込み超過であろうと、通知して来ました。 

 かくて、第四回即ち第二次四分半利付公債は非常なる盛況をもって募債を終わりました。すると7月12日に至り外務大臣から林公使への電報で、「貴君より高橋へ次の通り伝えられたき旨大蔵大臣より依頼ありたり。今回は募債の時期の困難なるにも拘わらず好結果を得たるは、貴下の迅速なる御尽力に依るものと信じ深くその労を謝す。英米、独各銀行団その他関係の諸氏にも政府の深厚なる謝意を伝えよ」と言ってきました。よってそれぞれ謝意を伝達しました。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-35 

 1905(明治38)年7月21日サー・アーネスト・カッセルの晩餐に招待せられ、晩餐の後、同氏の令妹を加え3人にて、オペラの見物に行きました。 

カッセル氏は、平土間がよいと言って定席を契約しているので、吾々と別れて一人その席に行き、高橋とカッセル嬢とは桟敷席におりました。そこへ思いがけなくも宮内卿ノフアカー卿がやって来て、カセル嬢に挨拶をされました。カッセル嬢は宮内卿に応答し、かつ皇帝陛下の御臨場如何を聞いていたようであるが、やがて嬢は高橋を顧みて、「陛下に拝謁したことがありますか」と尋ねます。 

 「いやまだです」と答えると、嬢はフアカー卿に向って「高橋さんを連れて陛下に拝謁を願っては如何でしょうか」と言って高橋にも促しました。フアカー卿も「それはよろしかろう」といて高橋を促して立ちかけましたが、高橋は、「初めて拝謁を致すのにかかる席では却って恐縮の至りであるから」と、いって辞退すると、宮内卿も「それは御尤もである」とて、その夜の謁見は見合わせとなりました。 

 しかるにこのフアカー卿は、パース銀行重役の一人であったので、同銀行の人々がこの話を聞いていて其の筋に申し立てた結果、7月30日になって、翌31日正午林公使(「天佑なり」を読むⅣ- 3参照)同伴、通常服にて拝謁を賜るべき旨、外務大臣から通知がありました。よって同日定刻林公使と共にバッキンガム宮殿に出頭しました。 

weblio辞書ー検索ーバッキンガム宮殿 

ちょうどその日は勲章の授与式か何かがあったと見えて、大礼服着けた多数の顕官たちが、宮殿の内外に溢れておりました。宮中の廊下を案内されて行く間にも顕官たちに出会いましたが、大礼服の人々が居って、我々を案内して先に立って行く、高橋は導かれるままにその後からついて行きました。この部室は馬鹿に広い、そうしてガランとした造りで、真中に三つ椅子があるだけでありました。やがてその人は、自分が中央の椅子に掛け、高橋に対しては右の椅子に、林公使に対しては左の椅子に坐れと指図しました。 

 その時、高橋は初めて、これがキングだと気付いて大いに恐縮しました。林公使が先立って行けばよいのに、終始高橋の後からついてくるので、こんな間違いを起こしたわけでした。さて皇帝は高橋と林公使に拝謁を賜った後、「貴君は公債募集のために来ているようだが、結果はどうだ」とのお尋ねがありました。 

 「誠に好結果で喜んでおります」というと、林公使も側から、「高橋君も公債募集が大変に好成績で喜んでおります」と申し上げたら、陛下は「甚だ満足である」と仰せられ、それより公使と高橋に向い、「平和の見込みは如何あるか」とのお尋ねがあり、公使が、「日本帝国は平和の成立を熱望しております、まだウイッテ伯が、露国全権に任ぜられたることは、講和談判の前途大なる光明を与えるものであります」とお答えすると、陛下は、「日本が講和の条件として当然取得すべきものをことごとく取得せんことを望むは当然のことである」と仰せられ、また話頭を転じて「有栖川宮両殿下は今どこに在らせられるか」とのお尋ねがありました。公使は「両日前ポートセット御通過の報に接しました」旨お答え申し上げると陛下は続けて、「両殿下には当国御渡来につき如何思し召されたであろうか」と問われ、公使が、「両殿下は英国朝野の熱誠なる御待遇に対し、深く感動せられました」と言上すると、陛下はすこぶる御満足の態に拝せられました。最後に陛下は高橋に向い、「いつまで内に滞在するや」とお尋ねあり高橋は、「私は一に政府の指図に従い行動致しておりますので、只今のところではいつまで滞在致しますか不確かとお答え致しかねます」と申し上げ、しばらくにしてお暇して帰りました。 

退出に当り、陛下はまず席をお立ちになり、それから我々も起って、最初に入って来た方向から下りましたが、陛下は帰りがけにも、わざわざ戸の所までお送り下されました。実にその簡単なるには恐縮した次第でありました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-36 

 すでに述べたるがごとく、米国大統領の提議により、日露講和談判はいよいよ米国ポーツマスにおいて開かれることとなり、日本は外務大臣小村寿太郎、駐米大使高平小五郎をもって全権委員に任じ、露国もまた同日前大蔵大臣ウイッテ及び駐米大使ローゼンを起用して全権委員としました。そうして小村全権一行は7月8日いよいよ渡米の途につきました。講和談判は7月下旬に始まって数回の会見を重ねましたが、樺太割譲及び償金の問題で、両国全権の主張容易に一致せず、一時は非常に険悪の状態を呈しました。しかるに8月25日のっ会議で日本が譲歩して、樺太は北緯50度をもって分割すること、償金の件はこれを撤回することとしたので、一時不調を伝えられた談判もここにめでたく成立するに至りました。 

 日露講和成立の報は、全世界を一時に明るくししたような感を与えました。当時バーハーバーの別荘にあったシフ氏らは、「万歳! 貴国が現したる謙譲、克己は最も驚嘆に値す。謹んで慶賀す」と電報して来ました。また独逸のマックス・ワーバーグからも鄭重なる祝電が来ました。よってこれらにそれぞれ返電を出し、かつ米国にある小村全権及び高平公使に宛て下記祝電を送りました。 

 「天皇陛下の仁慈叡知の御決断に感泣す。平和の成立を祝し、閣下の忍耐及び誠忠を感謝す」また日本銀行総裁へもほぼ左記と同様の祝電を打ちました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-37 

 これよりさき、同年1月旅順口の陥落以来、英米における我が日本の人気は非常に揚りました。そうして平和克復の暁には、日本が露国から償金を収得することは当然ある、との思想は欧米諸国民の斉しく抱いておったところであります。現に7月16日アルフレッド・ロスチャイルド氏の別荘に招かれた時も、氏は日本が償金を要求することは当然であるが、あまり巨額になってはいけない、かつ償金が決定しても現金は困難であるから結局ロシヤの公債を受け取ることになるであろう、とてその場合における処理方法等を注意してくれ、またサー・アーネスト・カッセル氏ももし償金としてロシヤの公債を受け取ったら、やはりロンドンとフランス市場で売り出したらよかろう、といってくれたくらいで、英米における財界の人々の間には、日本がロシヤから償金を取ることについては、何人も異論のないところでありました。 

 ところが、8月30日の諸新聞は一斉に、日本政府が償金の要求を撤回したということを報じたので、これが自然日本公債市価に不良の影響を及ぼすべしとの予想を生じ、かつ日本政府は償金の目当てで外れたるよりさらに外債を起こすであろうとの説もっぱら米国より伝わり、日本公債に対する人気は俄かに消沈の傾きを呈して来ました。 

 あたかもこの時ウエストミンスター新聞及びロイテル通信社の記者が高橋を訪問し、上述の新外債の風説及び講和に関する意見を尋ねたゆえ、高橋は軍隊の引揚げ等戦争の結末に要する費用は現在の資金にて十分であること、もし今後外債を起こすことあらば、従来の高利公債を整理するためにほかならないこと、この際平和の成立は満足すべきことであって償金の有無は主要の問題でないこと等を説明しました。 

 この話はウエストミンスター新聞の8月31日の夕刊に掲載せられ、またロイテル通信も同日夕刊をもってこれを報じ、その結果9月1日の朝刊には諸新聞がことごとくこの話を掲載したので、それが偶然にも人気を引直す原因となりました。その後セントラルニュースの記者が来て話すのには、株式仲買人は得意先より日本公債の買注文があっても、新債の募集を見越し、得意先の利益を慮(おもんぱか)って、買注文を手控えておったが、高橋の意見が諸新聞に載ったので、大いに安心して買注文を受けるに至った、ということでありました。実は高橋もそれほど深き考えありて新聞記者に話した次第ではなかったが、かくのごときは些細なことで、人気の転換する一例にほかならないのであります。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-38 

 元来、今回の戦争が償金の結果を齎(もたら)すものでないことは、開戦当初においては、我が国民も窃(ひそ)かに考えておったところでありますが、その後海陸連戦連勝の結果、英米等においても土地割譲、償金要求の当然なるを説く者起り、我が国民も次第にその気になり、講和談判当時は、土地割譲も償金要求も、当然のもののごとく国民全体が信ずるようになっていました。 

 もとよりロシアは日本の要求を予期しておったとこでありますが、それを応諾するの考えはなかったようであります。ロシアが講和会議の提唱に応じたのは、極東を久しく戦乱の巷(ちまた)に沈淪(ちんりん)せしむることは世界の人心に甚だしく悪感を与えているから、米国大統領の斡旋を快諾して、講和委員をを派遣し、ロシアは衷心平和に眷々たるものなりとおもわせるがごとき態度を取り、自国に対する世界の悪感を一掃し、あわよくばその機を利用して外債を募集せんものと、この一つの目的をもって委員を派遣したようでした。現にその証拠にはロシア全権委員ウイッテは渡米の途すがら、パリーにおいて募債の瀬踏みをなし、米国着後もなお米国資本家と内談を進めんとして断られ、ついに断念して口を拭き、そ知らぬ風を装うていたに照らしても明らかであります。 

 またロシア宮廷内になお勢力を失墜せざる主戦派の連中は、償金の要求を断固として拒絶したならば、平和の調停成るの気遣いなしと安心しておったそうであります。しかるに料(はか)らざりき日本が大いに譲って償金の要求を撤回し平和の解決を円満ならしめたことは、ロシアの主戦派を驚倒せしめたばかりでなく、欧米の識者や新聞紙は、日本の態度に対し、その智慮、寛容、忍耐日に敬服のほかなしと口を極めて賞賛するに至りました。米国の大統領は平和決定後、一方の国民が盛んに平和条件を謳歌するようでは、その会議が満足に成功したものということは出来ない。今回のごとく両国共におのおのその国内において満足せられぬという解決を告げてこそ、その会議が衡平を保たれて円満に落着いた証拠であると言っていましたが、これは確かに一面の理であると思います。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-39 

 かねて政府[主として井上侯(馨)]の意向は、日本興業銀行をして、将来我が国における事業用の外資輸入の機関たらしめたいというにありましたから、そのことについても不断の注意を怠りませんでした(「天佑なり」を読むⅢ-36参照)。 

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。 しかるに往年ベアリング商会の「ロード・シベルストック」が、日本の鉄道や鉱山に投資する考えで、日本へ店員を出し調査せしめたことがあります。ところがその時の日本の法律では、今外国で行われているような意味の抵当権の設定が出来ないので、法律の改正を要することとなり、結局「レベルストック」の方で改正案を作り、井上伯の許(もと)に送付して来ました。日本政府はそれに基づいて改正法律を作り、議会の協賛を経るに至りました。 

 上述の事情があったので、日本興業銀行外資輸入即ち債券発行についてはまず「ロード・レベルストック」に相談せよとの命が来たので、4月の初旬[1905(明治38)年] に「ロード・レベルストック」に会って相談したところ、氏の曰くには、「日本政府並びに井上伯の御主意は誠に結構であるが、自分の商会で、先年人を派して調べて見たところによると、日本の私設鉄道のごときは営業成績極めて良好であって、その基礎も堅実である。ゆえにこれら会社の社債発行に当たって興業銀行を経るの必要は少しも認めない。興業銀行は日本内地では立派な特殊銀行であろうが、未だ海外の公衆にはその名も知られていない。外国ということでの資本家と日本の事業家とを結び付ける仲介者は、単に日本内地においてのみ知られている会社ではということではいけない。必ずや外国市場にもよく知られておってかつ相当信用あるものでなければ、公衆の信頼を得ることは困難である。かつ自分の商会では日本の会社の信用如何を自ら調べることもせず、単に日本興業銀行の調査に信頼して、それを外国市場に紹介することは好まない。今日外国の投資家たちはその債券に属する抵当物件に対して、債権者が直接にその抵当物件を持つことを希望するのであって、自己の有すべき抵当権を日本興業銀行に供託することは好まない」云々。ということでありました。 

 かくベアリング商会が日本興業銀行の進出を厭がる裏面には、かねてベアリング商会と香上銀行とは、日本物を市場に出す場合には共同するという内約があります。ゆえにベアリング商会としては、日本興業銀をロンドン市場に紹介すれば、いたずらに日本興業銀行をして名をなさしめるのみならず、自己の競争者を作りかつ香上銀行との内約に反することとともなるので、ベアリング商会を通じて日本興業銀行をロンドン市場に紹介せしむることは、到底望み得られざることを探知したので、その意味を詳細に政府に電報しました。 

 しかしながら、高橋はその後といえども、日本興業銀行債券発行の件については、引き続いてロンドン銀行者仲間と、種々協議を重ね、どうしたらば日本興業銀行をロンドン市場に知らしめることが出来るであろうかと、パンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏らとも協議しました。ところがコッホ氏は、それには英国人にも株をもたして、日英合弁の銀行たらしめるが一番よいといって、次のような具体案(省略)を提示して来ました。 

 この申し出は、これまで相談しておった中でも、一番纏まった適当な条件と思われたので、この旨を松尾総裁に電報すると共に、1.一時に現在の興業銀行株の未払い込みを払い込むことが出来るや否や、2.初めから増資株に対して年6分の配当をなす見込みあるや否や、3.未払い込みの払い込み及び増資による資本の使途ありや否や、4.新株は無記名式にて出来るや否や。を承知したき旨を申し送りました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-40(最終回) 

すると8月25日に至り、総裁から返電が来ました。 

 「彼の件については、その後政府より何らの返電を発する命令なし、内々承るところによれば、添田寿一君が諸々奔走しておって政府においても大体において異議ないようである。ただし未払い込金750万円を一時に払い込むことはむつかしい、せめて来年6月までとしては如何であろう。またパンミュール・ゴーリドン商会を専任仲買とすることは改めて第一位に相談することとしては如何、新株1000万円のうち、700万円を外国で売り払い、300万円は内地で持つとしてはどうであろう。また旧株には現在およそ30万円の積立金があるのに、この利益増資新株にも旧株同様均霑(きんてん 平等に利益を得る)せしめることは、旧株主に損をさせるのうらみなきや。また将来年6分の配当はなし得る見込みである。もっとも向う1カ年は政府より年5分の利益保証がある。大体上述のような説が唱えられておって、貴君への返答は長引いているようである。これは貴君のお含みまでに通知するのであって、その内公然たる返事が出来ると思う。もっとも上述の諸説に対し貴君のお考えあらば、内々拙者心得までにお示しありたし」と電報して来ました。よって高橋は8月28日に、「電報受けた、遅くとも3箇月以内に新株発行の見込みなければ、この相談は出来ないことと承知ありたし。また政府の5分の保証を目当てとするような営業振りでは、到底資本家を勧めるわけには行かぬ。また積立金や株券の市価を云々して不足をいうようなことでは相談の見込みなし。当方の考えでは将来興業銀行をもって事業資金の輸入機関とするにあり、ゆえに目前の少利を云々するくらいなれば、この相談はお断り申す。英米及び大陸筋の有力者を株主にするのは、日本興業銀行が、内外資本共通途を開く第一着手にして、今後内地の確実なる事業を海外に紹介し、低利の資本を輸入することをもってその利益の主眼とせねばならぬ」と返電しました。すると、9g冊1日発政府よりの電報で、「パンミュール・ゴールドン商会との商談(日本興業銀行の件)纏まらざれば、帰朝の途次米国相談を試みるべ資本団と 

相談を試みらるべし。昨今いろいろの外国商館から、私設鉄道の借款を引き受けたいとの申し込みがある。しかし外資の輸入はなるべく日本興業銀行手にて纏めたき考えなるゆえ、貴君もそれをお含みにて尽力有之度(これありたく)」といって来ました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-21 

 1905(明治38)年2月17日横浜を発って、アメリカ経由ロンドンに向うこととなりました。今回の同伴者は日本銀行秘書深井英五「男子の本懐」を読む17参照〉及び同書記の横部の二人で、ほかにアメリカにおいて募集したる公債金預入監督のためにニューヨークに行く柳谷卯三朗及び大塚書記も同船でありました。 

 かくて2月28日午後12時過ぎにヴァンクウヴァに到着し一泊、翌日直ちにニューヨークに向ったのですが、途中積雪甚だしく、汽車が遅れて3月6日午後6時ようやくニューヨークに到着しました。 

 ニューヨークに着くと、日本から電報が届いていて、去る2月27日、内地で第四回の国庫債券1億円が募集せられた、その条件は、利子年6分、発行価額90円、期限7年で、成績極めて良し、と報らして来ました。 

 高橋が日本を出発するころから、ロンドンやニューヨークにおける日本公債の人気は非常に好転して来ました。そのために内外人ブローカーが現れて来て、政府に対してもいろいろと献策するようになり、同時にイギリスやアメリカでも、これらブローカーの策動が始まってきました。なかんづくしつこく運動を開始したのは、米国のスパイヤー・ブラザース商会でありました。この商会は第一回公債発行までは極めて冷淡で、高橋とは全然無関係でありましたが、ひとたびシフ氏が、第一回六分利付1億円の半額を米国にて引き受けたということが伝わると、自分もシフ同様に発行仲間に割り込みたいとて、極力運動を開始し、ついには条件までも持ち出して、直接間接に井上伯や大蔵当局に申し出るというような始末でありました。またパンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏のごときすら、この際内国債をロンドン市場に売り出してはどうかと勧誘してくる有様でありました。そうしてかくのごとき運動はただに米国や英国ばかりでなく、フランスやドイツ等'にも現れれて来て、形勢容易ならずと見て取りましたから、高橋は政府に向って、この際内国公債を外国市場に売り出すことは、我が外債発行の妨げとなるから、断じて見合わせるよう政府に電報しました。もっとも高橋はあらかじめこのことあるを察していたので、日本出発前政府の当路者に向って、今回は口銭取りのブローカーはもちろんその他何人から申し出があっても、一切耳を傾けざるようと、強く申し容入れておいたので、政府でもこのブローカーの運動に対しては、「今度は一切を高橋に任してあるから」といって直接取り合わなかったので、これらの人々からの妨害も蒙ることなく、大変に幸いでした。 

 ニューヨーク着後。第一の仕事は、シフ氏と相談して、アメリカよりロンドンへの送金の手段を取りきめることでありました、当時海外における日本政府の所有金塊は、すべて一応ロンドンに取り寄せ、軍需品その他政府の支払いのごときもことごとくロンドンにて取り扱うことになっていたので、アメリカで募集した巨額の公債金を出来るだけ損のたたぬよう、有利な方法をもってロンドンに回送するには、いかなる方法を取ったらよいかということは最も重要な問題の一つでありました。それでアメリカ着後まず第一にこの手はずを決めたのでありました。なおシフ氏とは、近き将来において発行すべき第三回戦費公債募集金額についても相談しました。高橋が「政府からは1億円乃至2億5000万円と命ぜられたが、自分はなるべく多いのがよいと思うから、3億円の発行にしたいと思うが」というと、シフ氏は、「御尤も 

 だ、もしそのようになったら、内、半額はアメリカで自分が引き受ける。かつアメリカでは地方の各都市で、多数の希望者があるから、その都市都市で取次人をきめねばならぬ。また自分の親戚で、かねて取引をしておるハンブルグのマックス。ワーバーグのごときも、言ってやれば、ドイツで相当に働いてくれるであろう」ということでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-22 

 大体アメリカでの下相談も出来たので、3月11日にニューヨークを発って、同19日ロンドンに着きました。早速時の駐英公使林 董(「天佑なり」を読むⅣ-3参照)を訪問して、公債発行に関する自分の腹案を話したら公使もことごとく同感でありました。 

 よって、翌20日の朝から、正金銀行、パース銀行、香上銀行、ロード・レベルスッドク等の来集を求め、第三回戦費公債発行の協議に取りかかりました。即ちその要領は、「英米にて日本公債3000万磅を発行すること、担保は煙草専売益金をもってこれに充て、利息年四分半、発行価額90磅、期限20カ年とす。欧州大陸において本公債の希望者あらば、その地方の有力なる銀行をもって取次人とすること」等であって、熟議の結果、この相談は大体においてその日のうちに纏まりました。よって協議の結果を日本政府に電報しかつ林公使を通して、政府委任状中の募債金額2億円を3億円に改めるよう政府に電請しました。 

上述のごとく今回の募債商談は、極めて円滑に進行しましたが、その発行額がいかにも巨額であるから、諸般のことに最大の注意を払う必要がありました。まず本公債談進行中、日本銀行総裁からは、奉天会戦の大捷を機会とし第五回内国債を発行したいが、そちらの都合は如何と尋ねてきたから、「内国債の発行は差し支えないが、当方の外債の発行を終わるまでは見合わせられたい」と申し送りました。また一方には発行額多きために日本公債の下落を見越して売りに向う者も出て来ました。そういうのを棄てておけば、公債の発行に悪い影響を及ぼすのでロンドン金融市場維持のため、3000万円だけ使用することを委任されたいと政府に電報してその許しを得ました。なお今度の発行がちちょうど月末に当り、ロンドン金融市場が引き締まる際でありますから、市場の金融緩和するため、現に英蘭銀行に預託してある金の内より1000万円だけを、ロンドンの正金銀行支店に通知預金として預入れおよそ1週間の短期限をもってロンドン市場に放資することにしました。 

 この間、例のスパイヤー・ブラザース商会割り込み運動は相変わらず続いておったと見えて、3月21日東京発日本政府の命を伝えたる総裁の電報にも、「政府は岡田治衛武らに無論秘密を漏らす虞(おそれ)はないが、スパイヤー・ブラザース商会に対して英米銀行団があまり苛酷の取り扱いをせぬよう注意してもらいたい」と言って来ています。当時スパイヤ・ブラザースが条件まで持ち出して、我が政府要路者に極力運動したことは、英米資本家を牽制する上には大層の効果はあったけれども、さてスパイヤー・商会や独逸銀行、独亜銀行らを日本政府の直接の引き受け銀行とすることとすれば、従来の英国銀行家は手を引くとまで決議をしているので、容易に深入りすることはできません。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-23 

結局、スパイヤー商会には100万磅、独逸銀行家には300万磅を受け持たせて、英国銀行家から2分7厘5毛の手数料を出させることにまで、英国側を同意せしめたけれども、独逸側では直接の発行者となることを主張して応じなかったので、ついに破談となりました。しかし高橋は独逸銀行者に対しては細密なる注意をもって将来に悪感情を残さぬように取り扱ったので、いよいよ破談と決まって後も、独逸銀行の重役2名がわざわざ高橋の所にやってきて、今度は協同できなかったが次回は是非独逸銀行者も、公然日本公債発行者の仲間に入れるよう取り計らってもらいたいと、向うから申し出てきたくらいでした。従ってこのことも総裁に通知しておきました。 

 かくて3月24日に至って第一回四分半利付公債3000万磅の契約が出来上りました。しかしてその条件はかつて発行銀行仲間で協議した通り、煙草専売益金を担保として発行価額90磅、期限20カ年、毎年2月15日及び8月15日前半期の利息を支払い、磅と弗との相場を1磅につき4弗87仙(セント)と定め、ロンドンの銀行者1500万磅、ニューヨークのクーンロエプ商会1500万磅を引き受けることとなりました。 

これに対しては、政府からも直ちに承認の電報来り、3月28日論見書を発表し、翌29日一斉に募集を開始しました。この日ロンドンの発行銀行では、午前9時に開店しましたが、申し込人は店頭に群をなして、非常なる大成功の内に、午後2時半締め切りました。しかしてこの時までの大陸方面よりの申し込みをも合算するとロンドンの取り扱い高は概算1億磅に達し、しかも1分乃至1分5厘打歩(プレミアム 割増金)が付いて取引されました、またアメリカでもなかなかの好人気でありました。ここでは、最初シフ氏の計画通り、ボストン、フィラデルフィア、シカゴ、セントルイス、サンフランシスコ、カナダのモンツレル等に応募申し込みの取次店を設定しましたが、意外に小口の応募者多数に上り、それらの人々に割り当てるため、締め切りを1日ばかり延期しました。結局申し込み人は約5万人、その金額5億弗の多きに達し、内4万3000人は2000弗以下の小口の申し込み者でした。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-24 

 3月10日の奉天会戦(「坂の上の雲」を読む35参照)において、我が日本が未曽有の大勝利を得ると、今度こそ露国はいよいよ講和を申し込むであろう。日本にとってもこれが絶好の時期であろうというような議論がこちらで濃厚になってきました。ちょうどそのころ、確か3月26日と記憶しますが、ロスチャイルド事務所にアルフレッド・ロスチャイルドを訪問したところ、談たまたまこの講和のことに及び、氏のいうのには、「この際講和をするにしても、日本があまりに法外の償金を要求するようなことがあっては、到底講和は成立しない。例えば仮に日本が1億磅を要求するとしたならば、ロシヤはそんな金は現金では払えないというであろう。そういう場合に日本はけ決して現金を固執するの要はない、ロシヤ政府の公債で宜しいというがよい。そうしてその公債は期限20カ年、利子四分半、額面価格にけ1億磅取ることとし、内4000万磅はフランス銀行に、4000万磅は英蘭銀行に、しかして2000万磅は自分の所に預託されるならば、それによってロシヤは償金を払えることとなり、日本政府は融通が出来るようになる。そうすればロスチャイルド家は出来るだけ援助することにしよう」ということでありました。この時ロード・ロスチャイルドも側にあって、「それはそうだが、今度講和談判が始まるについては、金融財政のことに最も精通した者を委員に選ぶことが必要であろうに、貴君はなぜその委員となって行かないのか」と云いますから、高橋は、「なあに、日本には財政に明るい人はたくさんにあるから、あえて自分が行かなくもよい」と答えておきました。 

 かくてロンドンにおける募債の用向きもほぼ終えたので、4月7日に至り、後のことは吉井(友見)監督役に任して、、一応ニューヨークに渡りたいと政府に電請しました。すると折り返し、政府から認可の電報が到来しました。 

 ところが4月10日ころになると、ロンドン市場における日本公債の市価が、時に低落しかけて来ました。どういうわけで低落しかけて来たかというに、その第一の原因は、日本政府は内地において、四分半利付公債よりもさらに有利なる国庫債券を発行するという風聞がロイテル電報によって報ぜられ、それが外国市場に出て来ることを懸念せられたこと、第二にはバルチック艦隊シンガポールを通過(「坂の上の雲」を詠む37参照)したので、海戦の結果はどうであろうかと気遣われ、平和の希望が遠くなったこと、それに英国では4月20日ころから避暑の時季となるので、経済界は休業同様になり、市場がダレ気味を呈するということも原因の一つでありました。 

www.weblio.jp

weblio辞書ーロイター通信 

 政府でもこの公債の下落については非常に心配して、今度の内国債は外国に出さないようにするから、そのつもりでよく説明して、誤解のないように処置せよ。しかしてその事情の疎通するまではロンドンに止まるようにとの電訓が来ました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-25 

 なにしろ第五回国庫債券発行の噂が伝わったのか、前回の四分半利付公債を発行してから未だ旬日を出づるか出でざるの時であったために、英米の資本家が非常に驚いたのは無理もない所でありました。彼等はそんなことが真実であるかほとんど信用ができません。もし万一事実であったら日本政府のやり方は呆れ返ったものだと口々に言っていました。申すまでもなく、内国債でもこれを外国に出して売る以上上は外債同様の性質を帯びて来るようになり、、買う人もまた外債同様の考えをもって買います。従ってさきに日本政府の外債に応じて未だ旬日を出でざるに、それよりもさらに好条件国庫債券が売りだされることとなれば、さきの外債の応募者たちは条件の悪い公債を買ったという感じを起し、同時に発行銀行者は、応募者に対して気の毒なことをしたという遺憾を感ぜしめます。 

 ことにかく短時日の間に外債に次ぐに内債をもってするがごときは、よくよく日本の財政が困難に陥ち入ったことを示すものであって、日本政府のために取らざるところである、と言って、英米の発行銀行者たちはもし政府が是非とも内国債の発行を必要とするなら、しばらく其の時期を延ばしたが得策であるという論でありました。またコッホ氏のごときは、内国債発行の風聞は事実と思われないが、日本政府をして取り消させたいと申し出て来ました。 

 高橋の観察も大体英米銀行者の言うところと一致し、彼等の言うところは無理からぬことと考えたから、早速政府とも電報を往復しましたが、政府ではすでに事確定して、今さら如何ともすべからざる場合と相成っていました。というのは、前回即ち第四回国庫債券発行の際、最初は1億円一時に発行する予定でありましたが、市場の都合で2回に分けて発行することとなり、その節政府は発行条件等を銀行者に内約している、それで今に至って条件を変更することは出来ない、さりとて発行を延期することとなれば、内地払いのために兌換券の増発となって内地財界に不利なる影響を与えるという事情にあったのであります。 

 よって高橋は「今日となって政府が債券の発行条件を変更することの出来ない以上、なるべく早く発表しかつその申し込み期限も短縮してこの事件はできるだけ早く完結するをもって良策と信ずる。また今回発行する国庫債券はかねて内地銀行家と内約せる発行額の残高を発行するものであるとの主旨を公表しかつ純然たる内国債なるをもって、外国人の応募を受けるがごときは政府の本意にあらざることを声明し、内外の新聞にそのことを掲載せしめることが必要であろう、また4月20日前後になれば、暑中休暇となり、ロンドンの経済界は休暇同様になるから、遅くともそれ以前に解決をつけてしまわねばならぬ」と政府に電報し、かつ英国の銀行家及び米国のクーンロエプ商会にも、この間の事情を詳しく説明してその諒解を求めました。幸いにして英米両国の資本家銀行団も高橋の説明を諒としてくれたので、高橋はいよいよ4月21日ロンドンを発ってニューヨークへ向うこととなりました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-26 

 高橋は予定のごとく4月21日汽船セレチック号にてロンドンを発ち、同30日ニューヨークに着きました。アメリカ着後第一の仕事は、米国で募集したる公債金の預入処置でありました。これについてはシフ氏と相談の上下記の通り(省略)決定しました。 

合計 5600万弗 かくて公債金の預入れ処置を一通り済ますと、高橋はこの際我が政府においても、英米金融界の実情を十分に諒解してもらっておかねばならぬと考えましたので、一時帰朝を許されたき旨を電請しました。 

 すると総裁からの返電で政府の命令を伝えてきました、それは、「申し出の事情は委帆細承知した。米国で巨額の公債の払い込みを受け、さらにこれを銀行会社に預入れかつまたそれをロンドンに回送することは細心の注意を要することである。万一のことありては危険の程度も測り知れない。ゆえに政府は責任ある者を滞在せしむるの必要あり、ことに目下財政上考慮中のこともあり、その議熟するにおいては、直ちに貴君を煩わすべく、しかしてその時期は6月中の見込みゆえ、7月初めまではその地に滞在せられたし」という意味のものでありました。 よって高橋は、21日付にて松尾総裁に対して、「本月下旬より10月末までは当地の重立ちたる人々あるいは別荘へ転地し、あるいは海外旅行して、この地を離るるのが習慣となっておるのに、自分が独り止まっていることは却って笑い草となるばかりである。ゆえにもし是非アメリカにおらねばならぬというのなら自分も無用の旅行をなすよりほかはない。お申越しの公債金の預入れやロンドンへの廻金についてはすでにそれぞれ処置したので、もはや自分の滞在を必要としない。それでも拙者の帰朝を許されないか、拙者は約束もあるので、今月24日から3日ばかりボストンに旅行する」と、あまり分からぬことをいうので、高橋も少々癇癪に触って、強く言ってやりました。 

 かくて高橋は5月の24日からボストンに行って、29日にニューヨークに帰って見ると、松尾総裁からの電報で、「一昨日午後より対馬海峡にて大海戦あり、我が艦隊は大勝利を得た」との報道が達しています。その後、5月の31日になって引き続き総裁から政府の命を伝えてきました。即ち、「今度の対馬海戦(「坂の上の雲」を詠む41~42参照)は敵艦隊を全滅せしめ、ロゼストウエンスキー、ネボカトフ、エンクエスト3提督を捕虜とした。この戦捷を機とし、整理公債3億円あるいはそれ以上を英米において募集することは出来ざるや」ということでありました。よって直ちに「対馬海戦の戦捷後、欧米においては再び平和を希望する気分旺盛となり人気は大いに好転した。しかして英米人はこの時機を利用して日本政府がさらに外債を起こすなどとはすこしも考えておらぬ、けだし戦時公債を整理するは平和克復後においてするを最善の良策と信じているからである。ことに先だって3億円の外債を募集したばかりで、日本政府は、莫大の在外正貨を有するをもって再び外債を起こすのは平和克復後か、あるいは今後ますます戦争が継続するか、いずれかに決定した時を待たねばならぬ。然らざれば外債募集の理由が立たぬ」という意見の返事をしました。 

 ところがこれに対して6月3日に総裁から電報が来ました。「戦争が此の上継続すれば戦局は拡張せらるるをもって、軍費の予算7億8000万円の巨額に膨張する。ゆえにどうしてもさらに3億円くらいの外債を募集せねばならぬ。あるいはこれがために臨時議会の招集となるかも測り難い。しかして外債の募集は急を要するに至るやも図られず、ご参考までに」ということでありました。よって高橋は同日付をもって総裁宛に、「外債募集の時期は来る10月中旬以前には来るまい。最も好き時機は来年3、4月ごろと思う。この際ひとまず帰朝を差許さるよう取り計らってもらいたい」と打電しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-27 

  日本海の大戦は、日露戦争の最後の判決を与うるものでありました。我が満州軍は、さきに奉天の会戦において大勝を博し、その戦線は開展して数百哩(マイル)の長きにわたり、、露軍を満州の地より一掃せんとし、北韓軍またこれに応じて豆満江を渡り、沿海州を圧せんとするの勢いを示しました。かくていっれの方面から見ても露軍の敗勢は明らかとなってきたので、米国大統領ルーズヴェルトはいよいよ講和の時機至れりとて、6月2日駐米露公使カシニーと会見して、露国がもしこれ以上戦争を継続するにおいては、日本軍はハルビンはもちろんウラジオ、沿海州方面まで占領すべきをもって、この際文明諸国の希望を容れ速やかに和を求めんことを勧告し、かつこの由を露国皇帝に伝奏せんことを提議しました。しかして同5日に至り駐米日本公使に対しても同じく講和を勧告するところがありました。一方6月9日には、駐日米公使は公文をもって我が外務大臣に講和の議定を勧告し、同時に露国においても、10日米国公使マイヤー氏は露帝に謁見して、大統領の提議を進達しました。かくて両国共に米国大統領の提議を容れ、ここにいよいよ講和の幕は切って下されたのでありました。 

weblio辞書ーセオドア ルーズベルト 

 このことは、財界に非常なる衝動を与えたと見え、パンミュール・ゴールド商会のレビタ氏から電報で、「講和の曙光を認め得たことは大いに祝福すべきところであるが、その成立にはヨーロッパ大陸ことにドイツの態度が重大なる影響を持つから、ドイツがアメリカ政府と共にl講和の成立に尽力しているかどうか、貴君の手で、確かめられるならば、甚だ幸いであるが、取調べの上見込みを知らしてもらいたい」といってきました。高橋はかねてシフ氏から聞いている筋もあるので、「自分の知るかぎりにおいては、ドイツは、アメリカ大統領と同一の考えをもって講和に尽力していると思う」と返電しておきました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-28 

 日露講和の問題が上述のごとく進展しつつある間に、高橋は6月初めに一時帰国のことを電請していましたが、同14日にに至って、「至急一時帰朝せよ」との電命に接しました。ところが翌15日には、井上伯及び大蔵大臣から下記の通り電報することを命ぜられた。目下平和の徴候あれども、その終局の如何は予知することができない。軍事費の予算は本年分だけに対しても2億円の不足を生じ、さらに明年(明治39年)までの戦費予算は2億3500万円を要する見込みである。即ちこの合計5(4?)億3500万円となるが、上述の内5億円はは公債によらねばならぬ。しかるにすでに内地においては5億円近き国庫債券を発行してぃるので各銀行共に今日では巨額の公債を所有しているから、このままで新たに内国債を募集することは困難である。ゆえに従来発行せる国庫債券を幾分買い集めて、それに裏書きして外国市場に売り出し、もって内地市場に新規公債に応ずる余力を与えることが今後の公債募集に便利なりと考えているところに、米国人エム・アール・モールスなる者、スパイヤー・ブラザース商会の代理委任状を所持し来たり、巨額の日本内国公債を引き受けたき旨井上伯まで申し出てきた。伯は個人の資格において、数回モールスに面会されたが、結局モールスは2億乃至3億円を一手にて引き受けたしと申し出た。しかるに伯はこれは新たに外債を発行するのと同一であって、スパイヤー・ブラザース商会とのみ商議を進めることは、従来の外債引き受け銀行仲間との関係に鑑み、好ましからざることと考えられたので、同商会の申し出は、伯の考えとは大変に異なっていると答えてこれを退けられた、従ってこれにより何ら拘束されるがごときことはなく、何時にても断ることは出来るが、前述の通り近き将来に5億円の公債募集を必要とし、内3億円は是非外国にて募集するの必要がある。しかしてもし予定よりも早く平和克復するに至らば、募集金をもって撤兵の費用に使い、なおその上余ったら内国債の整理に用うる考えである。当方の考えでは、内国債は遅くとも9月に外国債もそれと相前後して発行したし、貴君はそのつもりにて一個人の資格をもって現在のシンジケート銀行もしくはその他について内々取調べの上、なるべく至急帰朝相成度し、ただし今後の外債募集については、さらに貴君を煩わすの必要あるべきをもって、そのことはあらかじめ承知おき願いたい」と電報してきました。 

weblio辞書ー裏書(き) 

 そして翌16日には、さらに、「露国の現在の行動は誠意をもって講和を希望しつつありや甚だ疑わしい。ゆえに政府はさらに決心するところあり、軍事上はもちろん、財政上においても戦争は継続するものと、覚悟を示して十分の準備を整えることが得策と考える。ついては出来るだけ早く3億円もし已むを得ずんば、その半額でも、外債を取り決めてもらいたい。この外債については、内国債に裏書してもよしまた新たに発行してもよい。しかして抵当を必要とすれば、煙草専売益金または鉄道収益をもってしても宜しいから、その考えにて従来の関係資本家の意向を探り至急返電してもらいたい。もし現在のシンジケートが成立の見込みなければ,好ましからざれどもスパイヤー・ブラザース商会の話を進めることもまた已むを得ない。貴君の帰朝は以上の話の片付きたる上にしてもらいたい」と詳細に電訓して来ました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-29 

 高橋が上述の如き第四回戦費公債募集に関する電命を受けたのは、第三回(即ち第一次四分半利付公債)戦費公債3億円を発行して未だ2カ月半と経たぬ時であり、かつロンドンにおいては、最後の払い込みがなお済んでいない時でありました。ことに第三回募集に当り、高橋は英国銀行団の請に任せて今次の募集は今後1カ年の軍費に充つべきものであることをわざわざ声明しました。しかしてその舌の根の未だ乾かざるにたちまちまた3億円を募集すべしという政府の命令はいかにも意外でありました。しかも政府からの電報には、高橋が考えて、もって資本団を納得せしめ得るに足るべき理由を示してきていない。ゆえに最初この電報を受け取った時は高橋はこれを断ろうとまで思ったくらいでした。しかしながら静かに考えてみれば、すでに講和会議の開かれんとするに当ってさらに3億円を募るというにはよくよくの事情があろうと、政府の苦心を察しては、またまた考え直して、資本団に説明すべき理由を胸の内に考えながら、6月16日の午前に、まずシフ氏の所へ行って相談しました。 

 「政府からさらに3億円を募集せよとの命令が来て実に意外千万であるが、貴君はこの際さらに募集が出来ると思うか」というと、シフ氏も驚いて「ついこの間1カ年分の戦費だと言って3億円を募集し、英国などではまだ払い込みも終わらないのに、俄かにまた3億円の募集を必要とするとは、一体どういうわけだ。ことに近く講和会議も開かれるという際ではないか」という、シフ氏がいうであろうことは、あらかじめ期するところであったので、高橋は、「日本政府は、此の際講和を拒(ま)げてあくまで戦争を継続せんとする考えは毛頭ない。しかし日本政府は常に遠き将来のことを考えて、用心深く計画を樹ててている。いよいよ講和談判が始まるといっても、果してその談判が円満に解決するかどうかは分からない。また講和成立までにどのくらいの日数がかかるかどうかも分からない。講和談判中は休戦はするが、休戦となっても、それは鉄砲の音がしないというだけで、やはり20万の軍隊は戦地に駐屯せしめねばならぬ。従ってよし休戦となっても、やはり多額の軍費が日々消費されていく。講和談判が、万一にも破裂するようなことにでもなれば、今、一日も早く戦争の終結を希望する欧米の人々は大いに失望するであろう。そうなってってから軍費が要るからとてそれから公債の募集に取りかかっても、その成功は到底おぼつかない。また講和談判中に募集することも上述同様の感を抱かしめる。ことにロシアの政府部内で強い勢力を持っている軍閥は、ロシアが力を出して戦うのはこれからだ、その内に日本は軍費で行き詰る、と言って高をくくっている。ゆえに日本としては、この際さらに公債を募集し、今に軍費に行き詰まるというロシアの宣伝を、事実をもって打破するようにせねばならぬ。幸いにして講和が成立して、今度募集した公債の金が余れば、それをもって、内国債の償還に充て、もって産業の振興、民間金融の円滑を図るつもりである。上述のような事情であるから、まずもって貴君の御意見を承りに来た」というと、シフ氏はジッと考えていましたが、「なるほど、御尤もである。お話の筋もよく解った。そういうことなら、今度の募集もすべて前回同様の条件にしたがよいと思う。夏になると主なる人々は皆避暑に出掛けるので、英米共に金融市場は寂しくなる。市場の時機は秋がよいけれども、今や講和談判もいよいよ開始せらるることとなり、一般公衆は強く平和を期待する柄であるから、この機に乗じ、講和会議の開かれる前に発行した方が却って引き受けの人気がよかろうと思う。」という意見であったので、米国資本家と内談した模様として、上述の旨を松尾日銀総裁に返電しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-30 

 翌17日には、英国銀行者に充てても、公債発行に関する意見を電報によって問い合わせました。なおシフ氏に相談して独逸の「ワーバーグ」にも電報にて、「日本政府はこの際3億円の公債を発行するが、独逸で1億円だけ引き受けることが出来るか」という意味の照会をしてもlらいました。 

 後で聞いた話ですが、この電報が「ワーバーグ」の手に入ったのは、ちようど「ハンブルグ」のヨット協議会に参列して、独逸皇帝の御召艦に陪乗している時でありました。しかして同艦には中央銀行総裁初めベルリンの財界巨頭連も多数陪乗しておったので、「ワーバーグ」はその電報を受け取ると共にその場で銀行家たちに披露しました。しかるに一同の意見は幸いに皇帝陛下が在らせられるので、お考えを伺ってみたらよかろう、ということになったので、皇帝に言上したところ皇帝は言下に「やってやれ」と仰せになったので、「ワーバーグ」は直ちに「承諾」の旨を返事したということでありました。そこでシフ氏からその旨通知して来ました。かくて独逸側は独逸銀行、独亜銀行等すべて13の銀行が応募に参加することとなりました。 

 その内に英国からも返電が来ました。それによると、銀行団は相談して見ましたが何人も思いもよらぬことで、金融市場、一般公衆、新聞記者共に不人気でる。ただ肝腎のコッホ氏が病気で目下その生国ベルギーに静養中である。6月22日にはロンドンに帰って来るはずだから、その上で相談して、確たることは返事をしようが、代理の『レビタ』氏の話では地中海(モロッコ事件)の妖雲が去ってしまえば出来ないことはないと思う。しかし日本政府がどうしても発行するというのなら、その時期は夏休暇前がよい、それには少なくとも3週間以内に発行するようにせねばならぬので、速やかにロンドンに帰って我々と相談して」もらいたい。。最後に日本政府が他の新筋と相談して発行するが如きことあらば、その結果惨憺たる失敗となるべきは、けだし貴君も御同感のことと思う」ということでありました。 

weblio辞書ーモロッコ事件 

よって高橋はさらに英国銀行団へ電報して、「今度の起債は是非やらねばならぬこと、しかして3億円はロンドン、ニューヨーク、ベルリンの3カ所において1000万磅ずつ発行する、かつドイツの銀行業者の位置をニューヨーク・クーンロエプ商会と同等の位置に置くこと。この発行手続きは自分がロンドンに帰着して5日以内にすべて結了したいと思うこと、ニューヨーク側では自分の計画に何ら異存ないということ」等を通告しました。 

 

 すると6月21日に至って、在ブラッセルのコッホ氏から、「ドイツを参加せしめることは、他日フランスと日本との経済関係を結ぶ上に妨害となる」と独逸の参加に反対の電報が来ました。上述のように英国の方は銀行家の意見もはっきりしないし、さらにシフ氏を訪問して相談しました。するとシフ氏は事の顛末を聞き終った後、「「しからば、自分がロンドンへ行った上万一この話が纏まらなかったら、ドイツとアメリカとだけで3億円を引き受けてくれるか」と突っ込んだら、シフ氏は、「そのことは心配なさるな、多分ロンドンの銀行団も従前通り引き受けてくれると自分は信ずるが、万一引き受けなかった場合は、ニューヨークで1億5000万円、ドイツで1置く5000万円引き受けることにしましょう。とにかく早くロンドンへ行って話を纏めなさるがよい、自分は貴君がロンドンで、英国の銀行家たちと取り決められた条件には一切異存を申さない」ということでありました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-11 

さて、英国銀行家の持ちだした条件について、高橋は早速本国政府に対し電報をもって打ち合わせをなし、発行限度の最高額300万ポンドというのを、政府の希望1000万pンドの半額500万ポンドに、期限の5カ年を7カ年に発行価額92磅というのを93ポンドに訂正すること主張して譲りませんでした。この点もついに英国銀行家の承認するところとなりました。 

 この際高橋がもっとも苦慮したことは、いよいよ公債の発行並びにその条件が合った後、未だ実際に公債を発行せぬ間に、そのことが市場に漏れては少なからず弊害を生ずるので、それについての対策でありました。けだし発行前に漏れると、第一投機者流が思惑の売買をやり出す、また当時フランス金融勢力は日本の公債発行に反対であったので、この方面から邪魔が出て来る虞もあったのです。 

 ゆえにすでに内相談が極まった以上は、未だ世間に漏れざる内に一日も早く発行することが必要でありました。実際今日まで運んでくる間にも一番困ったのは、公使館や領事館の人々から、公債の成り行きを尋ねられても、言うことが出来なかったことです。ただ林公使だけ、維新前からの知り合いで、お互に気心もよく分っているので時々高橋は見込み話として成り行きを話していましたが、他には一切話しませんでした。 

 さて、上述のごとくして銀行家との相談が纏り、いよいよ仮契約を結ぶまでに運んだのが、4月23、4日であったと思います。しかるにここに偶然のことから一つの仕合わせなことが起りました。 

  それはかつて日本へ来た高橋の友人ヒル氏が、高橋が仮契約を取り結ぶまでに運んだということを聞き知って大変に喜び、一日ねんごろな晩餐に招待してくれました。その時ヒル氏の邸で、米国人のシフという人に紹介されました。シフ氏はニューヨークのクーンロエプ商会の首席代表者で、毎年恒例としているヨーロッパ旅行を終え、その帰途ロンドンに着いたところを、ヒル氏の懇意な人とて同時に招待をしたのでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-12 

 いよいよ食卓に着くと、シフ氏は高橋の隣に坐りました。食事中シフ氏はしきりに日本の経済上の状態、生産の状態、開戦後の人心につき詳細に質問するので、高橋も出来るだけ丁寧に応答しました。そうしてこのころようやく500万磅の公債を発行することに銀行者との間に内約が出来て満足はしているが、政府からは年内に1000万磅を募集するように、申しつけられている、しかしロンドンの銀行家たちがこの際、500万磅以上は無理だというので、やむを得ぬと合意した次第であるというような話もし、食後にもまたいろいろ話をして分れました。 

 ところが、その翌日、シャンド氏がやって来て、パアース銀行の取引先である銀行家ニューヨーク、クーンロエプ商会のシフ氏が、今度の日本公債残額500万磅を自分が引き受けて米国で発行したいとの希望をもっているが貴君の御意見はどうであろうかというのであります。 高橋はシャンド氏の言葉を聞いてそのあまりに突然なるに驚きました。なにしろシフ氏とは昨夜ヒル氏の自宅で初めて紹介されて知り合いとなったばかりで、高橋はこれまで「クーンロエプ商会」とか「シフ」とかいう名前は聞いた事もなく、従ってシフ氏がどんな地位人であるか知る由もありませんでした。 

 しかしシフ氏の齎した話は耳よりのことでもあり、実際に出来れば日本政府にとって誠に結構なことであるから、高橋は、「もしロンドンの銀行家たちが仲間に参加さしても差し支えないと信ずるならば、自分は少しも異存はないから速やかに話を進めたがよかろう」と答えました。しかしこのことは我が政府の外交上の政策に関することでありますから、多分差し支えないとは思ったのですが、念のため電報をもって政府の意向をも確かめてみました。すると政府でも何ら差し支えない旨の返事が来ました。 

 こうしてシフ氏との話がたちまち纏まって、英米で一時に1000万ポンド公債を発行することが出来るようになりました。高橋は一にこれ天佑(てんゆう 天の助け)なり(上塚司編「前掲書」、幸田真音「前掲書」の題名はここからとられています)として大いに喜びました。そしてこの喜びは独り高橋ばかりでなく、日本人ばかりでなく、英国人もまた非常に喜びました。というのは、すでに述べた通り、あるいは露国帝室との関係から、あるいは黄白人種の戦争という点から、英国人独りが日本を援助するということについては何となく心苦しい風であったが、今度米国資本家の参加によって、日本に対して同情の実を示すものは独り英国ばかりでなく、米国もまた然りであるということが、英国政府及び一般国民にはよほどの満足を与えたようでありました。外務大臣ランズダウン侯のごときも、香上銀行のサー・ユウエン・カメロン氏からこの米国参加のは話を聞かされた時には、一方ならず喜んだということでありました。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-13 

そのシフ氏はこのために、その親友サー・アーネスト・カッセル氏と共にエドワード陛下より午餐を賜る光栄に浴したが、その席上陛下はシフ氏が日本公債の発行に参加せることを満足におぼしめさるる旨の御言葉を賜ったそうであります。 

 その後、勅令の案文その他のことで、政府と電信の往復を重ねて、英米両国発行の手続きを済まし、いよいよ5月11日をもって英米両国目同時に募集を開始することに決定しました。 

 細目決定前にシフ氏は後事ををロード・レベルストックに委任して米国に帰ってしまいましたが、レベルストック卿は英国銀行家と相談の結果を一々シフ氏に電報で通知していました。ところが関税抵当のことについてはシフ氏も疑問を抱いたと見え、管理人を入れ..ず単に名称のみの抵当とした場合、万一その抵当権を実行せねばならぬようになった時はどうするか、と尋ねてきました。するとレベルストック卿は、「Warship](軍艦!)とただ一語をもって答えたら、シフ氏もそれで納得したということです。 

 さて是より先5月1日、日本軍が鴨緑江の戦争で全勝を博したとの電報が新聞に出たので、日本公債は予想外の人気を呼び、応募申し込みは、英米ともたちまち発行額の数倍に上り、その日の3時には締め切るというほどの盛況でありました。 

 高橋も景気を見に発行銀行の界隈に行ったが、申し込み人が列をなして順繰りに入り込んで行く行列が2、3町続いていました。実にロンドンでは珍しい光景でした。後で聞いて見ると、ニューヨークでも同様であったそうであります。かねて日本銀行総裁から手紙や電報で、開戦以来外国へ正貨の流出するのは予想以上である、もはや兌換の維持も先々困難であるから、一日も早く募債を済ますようにとしばしば督促がありました。しかるに一度公債募集日の光景が電報をもって世界に伝わると、たちまち正貨流出は止まり、松尾総裁も初めて安堵したということでありました。 

 シフ氏はどこまでも誠実な人でありました。むろん銀行家ですから、自分が損をしてまでわが公債の募集を援助するわけはありませんが、さればといって、これで一儲けしようという単なる利益の打算から思い立ったのであるかといえば、必ずしもそうではありません。 

 あの時、シフ氏が5000万円というまとまった金を、とっさの間に引き受けることを決心するに至ったについては、シフ氏の心中自ら成算あり一般募集には相当の成績を挙ぐべき自信があった上に、万一それが不成功に終った場合は、自分たちの組合だけでも、それを引き受けるだけの覚悟と資力とを十分の持っていたのでしょうが、普通の銀行者から見れば、冒険視せざるを得ぬところでありました。どうしてもその真相を解くことができませんでした。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-14 

何しろ高橋はこれまでシフという人ついては、名前も聞いたことがなく、わずかに前夜ヒル氏の家でただ一度会ったきりです。ことに1箇月前、日本からアメリカに渡り、ニューヨークの銀行家や資本家に当ってみてアメリカでは到底公債発行の望みはないと見込みをつけ、英国へと移ったくらいであるから、アメリカ人のシフ氏が、しかも欧州大陸からの帰路、一夜偶然出会って雑談したのが因(もと)となり、翌日すぐ5000万円を一手で引き受けてくれようとは、まるで思いもかけぬところでありいました。 

 しかるに、その後シフ氏とは非常に別懇となり、家人同様に待遇されるようになってから、だんだんシフ氏の話を聞いているうちに初めてその理由が明らかになって来ました。 

 ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシヤにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、官公吏に採用されざるはもちろん、国内の旅行すら自由に出来ず、圧政その極に達しておりました。ゆえに、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシヤのユダヤ人を、その苦境から救わねばならぬと、種々物質的に助力するとともに直接ロシヤ政府に対してもいろいろ運動を試みました。したがってロシヤ政府から金の相談があった場合などには、、随分援助を惜しまなかったのであるが、ロシヤ政府は金を借りる時には都合よき返事をして、それが済んでしまえば遠慮なく前言を翻してしまうのです。だからユダヤ人の待遇は何年経っても少しも改善せらるるところがないのです。これがために永い間ロシヤ政府の財務取り扱い銀行として、鉄道公債のごときも、多くはその手を経て消化されておりましたパリのロスチャイルド家のごときも、非常に憤慨してすでに十数年前よりロシヤ政府との関係を断ってしまったくらいであるります。 

YAHOO知恵袋ーロシヤもユダヤ人が嫌いみたいですね?? 

 上述のような次第でありましたから、シフ氏のごとき正義の士は、ロシヤの政治に対して大いに憤慨しておりました。ことに同氏は米国にいるたくさんのユダヤ人の会長で、その貧民救済などには私財を惜しまず慈善することを怠らなかった人であるから、日露の開戦とともに大いに考えるところがあったのは、さもあるべきことであると思います。そうしてこのシフ氏が第一番に考えたことは日露戦争の影響するところ、必ずやロシヤの政治に一大変革が起るに相違ないということでありました。もちろん彼は帝政を廃して共和制に移るというごとき革命を期待したわけではありませんが、政治のやり方の改良は、正にこの時において他にないと考えたのであります。すなわちこの政治のやり方を改良することが虐げられたるユダヤ人を、その惨憺たる現状から救い出すただ一つの途であると確信しておったのであります。そこで出来るなら日本に勝たせたい、よし最後の勝利を得ることが出来なくとも、この戦いが続いている内には、ロシヤの内部が治まらなくなって、政変が起る。少なくともその時までは戦争が続いてくれた方がよい。かつ日本の兵は非常に訓練が行き届いているということであるから、軍費さえ行き詰まらなければ結局は自分の考えどおり、ロシヤの政治が改まって、ユダヤ人の同族は、その虐政か救われるであろうと、これすなわちシフ氏が日本公債を引き受けるに至った真の動機であったのであります。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-15 

 シフ氏が日本公債を引き受けるについて、、主として相談相手となったのが、当時ロンドンにおける理財家としてロンドン、ロスチャイルド家をも凌駕するほどに信望を博しておったサー・アーネスト・カッセル氏でありました。同氏はエドワード7世の太子時代から信任篤く、宮中でも特別の待遇を受けておりました。シフ氏とは兄弟のような仲で、しばしば協同して米国内に資本を運用しておりました。元来シフ氏は、日本の事情については前夜高橋に聞いたくらいのほか知識を持っていなかったのですが、幸いカッセル氏が日本の事情に詳しかったので日露戦争の原因その他については、多くこのカッセル氏の意見をただしましたが、カッセル氏はまたつねに日本に同情ある説明をしてくれたので、この第一次六分利付の公債も極めて円滑に運び、爾来シフ氏と日本政府は非常に親密な関係を結ぶに至り、日本政府が外債を募集する場合には、いつでも発行銀行の仲間に参加せしむるようになりました。 

 第一回の六分利付公債は、前述のごとく1904(明治37)年5月11日をもって英米両国同時に募集を開始し、いずれえも大成功裡に終結しました。そこで高橋の任務もひとまず完了しましたから、早速帰国しようと思ったのですが、考えてみれば英国の払い込みは5回に分割されており、(米国はすぐに全額払い済みとなった)その最後の払い込みが8月15日となっているので、この払い込みが終って、万般の跡始末をつけるまではどうしても引き揚げるわけには行きません。で、その間に一度ニューヨークへ行って、米国側が払い込んだ金の処置をつけてこようと考えておりました。 

 ところが、そこへまたもや日本政府から電命があって、さらに第二回軍備公債1億円を募集せよといって来ました。そして今度はその担保として、煙草専売益金のほかに必要ならば鉄道収益をも提供してよいということでありっました。 

 高橋には当時の英米の状況から見て、第二回の公債は、決して困難でないということは分っていましたが、ひそかに思うにいつまでこの戦争が続くか、一体今度政府が電命してきた1億円を募ればそれだけの金で、この戦争を済ますことが出来るかかどうか、出来るというならば政府からいうてきた担保を出してもよいが、どうしても高橋にはその点が心配でなりませんでした。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-16 

それで高橋は考えました、第一回六分利付公債の担保に提供した関税収入が4300万円余であったと思うが、これを1億円の担保としたのであるから、なお相当な担保余力を存している。ゆえにまずその余力を計算しその許す範囲をもって今回の発行高と限定し、煙草専売益金や鉄道収益は手をつけないで他日のために留保しておく方がよいと感じたから、その趣旨をもって調べてみると、なお1億1000万円分の担保力あることが明らかになりました。よってとりあえずその意味をもって政府へ電報し、同時に書面をもって詳細に具陳しました。しかるに、政府では高橋の電報を見て、この際公債の募集は1億1000万円以上は不可能ととってしまい、高橋に対して反対の電訓を発して来ました。それがために政府と高橋との間では電報で押問答を重ねましたがさらに要領を得ません。その内に高橋が先に出した手紙が着いたので、政府でもはじめてその間の事情が判明し、それならばというので早速同意の旨を電報して来ました。そこでこの関税収入担保余力二番抵当としてロンドンとニューヨークとで1億1000万円を募ることとなり、それぞれ銀行家に対して相談を進めました。 

 さて第一回六分利付公債が初めて発行されるという時には、日本人にも外国人にも、進んでこれに手を出そうというブローカーも現れてこなかったのですが、一度第一回の募集が大成功裡に完了したということが伝えられると、その後は政府に対していろいろ献策する者が生じてきたと見えて、今度は煙草専売益金を担保にするとか鉄道収益を担保にするとかいう内地の噂が、時々新聞に出るようになりました。ロンドンの銀行家たちはかねてこの噂を聞いてもので、高橋が第二回の談判を始めると、「すでに日本からの電報として新聞に載っているところを見ると、日本政府は煙草専売益金または鉄道収益をもって担保とする考えのようであるが、貴君だけがそれに反対し抵当は関税収入の担保余力をもってせねばならぬと押し通すのはどういうわけか、むしろ政府のいう通りにした方が一般の気受けもよいのになぜそうしないのか」というから、高橋は政府との間に電報や手紙で往復した経緯をありのままに話し、担保というものは大切にせねばならぬ。関税収入の担保余力がロンドンとニューヨークとでまだ十分にある以上、まずそれから使って煙草専売益金や鉄道収益などは後日必要な場合のために留保しておかねばならぬ。というと、銀行家たちも、それはもっともなことだといって、談判はようやく進行しました。 

 かくて第二回公債の条件は、前回と同じく、六分利付で、期限が7年、ロンドンとニューヨークで発行することとなり、最後の払い込みの終るのが、ロンドンは翌年即ち1905(明治38)年の2月15日で、ニューヨークの方は年内1904(明治37)年の11月5日ということになりました。 

 第二回六分利付公債は、上述のごとく極めて容易に成立し、12月5日には、アメリカ引き受け分の全部の払い込みが終 ったので、その預け先などの始末をつけるため、ロンドンを発ってニューヨークに向かいました。ここで今から考えると抱腹絶倒の一つの話があります。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-17 

当時までは、高橋もアメリカの銀行界ことは、あまり詳しくは知らなかったから、この公債募集によって得た資金が、万一預け場所が悪くて引き出しが出来ないようなことにでもなったら、日本国家に対して申し訳がありません。そこで高橋は例のごとくシフ紙に相談して、この始末はどうしたらよいかと尋ねると、シフ紙がいうには、「日本政府のために考えれば、こちらに置いてある金は、少しでも利回りをよくするためにせねばならぬ。それには、銀行よりも信託会社に預けたがよい。銀行なればおそらく年2分5厘くらいの利子にしか当たらないであろうが、信託会社に預ければ、年3分の利子がつく」ということでありました。 

 「ではその信託会社はどこがよろしいか」と尋ねると、「ギャランティー・ツラストがよい」というから、「それではギャランティー・ツラストに預けることにするが、同社はこの預金に対して、他の有価証券を担保として提出することが出来るか」というと、さすがのシフ紙もこの時ばかりは目を丸くして驚きました。そうして笑いながら、「何?担保をだす、信託会社からその預かったものに対して担保を出すなどいうことは、アメリカでは行われていない。ただしそれほど貴君が心配なら、その保証品は日本政府の安心するように私が出してあげよう。しかしその担保品を出すについては、私の銀行でも5厘の手数料はもらわねばならぬ。それはともかくとして、私が提供した担保品を貴君は、どこで保管せられるのか」といいます。これには高橋も弱ってしまって、「さしあたり正金銀行で」といってしまいました。しかしその当時の正金銀行は、みじめなもので、地下室に貧弱な金庫が一つ据えてあるばかりでありました。、それで、「正金銀行」といってはしまったものの、内心大いに心配でありました。それをシフ氏も悟ったと見え、「正金の金庫がどんなものであるか知りませんが、貴君が保管せらるる以上少なくとも私のところの金庫くらいのものでなくてはいけません。とにかく一度私のところの金庫を見てください」と自分か先だって案内してくれました。よってシフ氏に同道してクーンロエプ商会に行き、そこに建設せられている金庫を見ました。なんでも第一階にあって、およそ幅が3間(約55m)に1間半くらい、高さは1丈1尺(約3.6m)もあるように思われました。金庫の外回りの床の上には、幅1尺くらいの堅固な真鍮の金網ようのものが敷かれてあります。シフ氏はこれについて説明していうのには、「店員は時間が来れば皆帰ってしまって独りもここには残ってっていない。しかし誰かここにやって来てこの金庫の廻りにある金網の板の上に乗ると、すぐに警察に警報が行くようになっている。また金庫の屋根及び四方の壁にはi一面に金網が張ってあって、それにはすべて電気が通してあるから触れられない。そうしていよいよ金庫を破ろうとするには、この鉄壁が7種の異なった鋼鉄を合せて作るられているので、鑿を用いて破るにしてもこの7種の鉄に適応した七つの異なった鑿を用いなければ、穴を明けることは出来ない。無論火事に遭っても心配はない」と、まず一通り外形の説明をして、それから金庫の扉を開いて中を見せてくれました。中に入って見ると、三方に12の金庫が列べてあります。そうして、それには1月から12月までの記号が設されています。この中にはアメリカのみならず、イギリスやヨーロッパ大陸の公債証書、株券その他の諸債券類及び日本の公債などが非常によく整理されてありました。そうして1月にり払いや配当のあるものはすべて1月の金庫の中に、2月にあるものは2月の金庫の中にそれぞれ保管されて順次12月に及んでいます。しかも泥棒や火事の用心が堅固なことには、一驚を喫するばかりでありました。それで、高橋も預け金に対して担保を取ることは不可能だということが解り、その旨を政府に電報したところ、政府でもこれを諒とし、ついに抵当なしで預けてもよいことになり、その手続きを済ませました。 

 ニューヨーク滞在中は、万事シフ氏の紹介で、銀行家や鉄道会社、信託会社の社長その他有名なる実業家と交際するようになり、大変にシフ氏の世話になりました。従ってまた正金銀行の取引をクーンロエプ商会と開くような相談もしました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-18 

 アメリカにおける用務を済ますと、帰朝の途につき、1905(明治38)年1月10日に約1年振りで横浜に帰着しました。まず正金銀行本店で休憩し、正午の汽車で帰京しました。 

 翌11日は早朝より松尾総裁が高橋の私宅に来られて、いろいろと電報の行き違いや過去1年間の内地経済状態などの話がありました。12日7には大蔵大臣官舎に行って公債募集に関する大体の報告をしました。13日には松方伯を、14日には井上伯を訪問してそれぞれ報告をなし、15日は日曜日であったが総理大臣官舎に行って桂総理に報告しました。そうして16日には午前10時半には参内拝謁仰せつけられ、終って退出後、松尾総裁とともに井上伯を訪問要談しました。 

 これよりさき、帰朝後間もなく、1月11日付にてロンドン正金支店から、「パンミュール・ゴールドン商会から無抵当で、利息5分半、、期限30カ年くらいで発行価額85ポンドという条件で、500万ポンド乃至1000万ポンドまで募集が出来る旨発行銀行まで申し出でありたれども、これに対する発行銀行の意見は、目下内外の事情を観察するに、漸次日本政府のために好都合に赴く見込みなるをもって、この際、急いでさらに公債を募集することは不得策と思う。ゆえにパンミュール・ゴールドン商会の申し出は否決されたし」と申し越してきました。そこで高橋は、「発行銀行の決議は尊重する。しかし日本政府は近き将来にさらに外債募集の要あるべきをもって、その心得にて相当の時期において発行銀行の意見を申し出よ」と返事しました。ところが1月17日になって、パンミュール・ゴールドン商会のコッホ氏からの電報で、「目下市場景気一般に好し、近来日本政府の信用は著しく増したるをもって利率や発行価額の次第は抵当なくとも募集できる、まず利息五分半、発行価額85ポンド、期限30カ年乃至40カ年くらいなれば可能性あり」と申し出て来ました。 

 そこで高橋はロンドン支店長の山川に宛て、コッホの申し出条件中、利率と発行価額が面白くない、なお発行銀行と協議の上発行銀行の意見を申し送るよう電報しました。これに対して1月30日付山川の電報では、「日本政府の内意が此の際至急外債募集を必要とするならばとにかく、もしさほど急を要せざるにおいては奉天戦争の結果を待ったらどうであろうか、露国内地の粉擾はますます激しくなるように思われる」といってきました。また発行銀行側の意見として同じく山川から、「発行銀行と相談した結果、日本政府が現在差し迫って現金の必要がないならば、この際公債の募集することは時機なお早しと考える。この後一般の形勢が引き続いて日本のために好都合に向えば、コッホの申し出条件よりさらにより良き条件をもって発行できること疑いない」といってきました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-19 

また1月26日に受け取った電報には、発行銀行の意向を報じて、「このごろ日本公債がだんだんに市場で騰貴してきた。なるべく漸時は公債発行延期した方が条件が好くなる。ただしこの会合の席にはカメロンに代りて、サー・ジャクソンが出席した」とありました。ところが1月27日付のコッホの電報には「公債募集はこの機会を失うべからず、ただし利息は年五分とす、また日本銀行所有第一回四分利英貨公債もこの際売却しては如何、指値(さしね)を返答せよ」といってきました。同日付の山川電報には、もし平和恢復の前途なお遠きかあるいは奉天戦争の結末が手間取るようであったら、コッホ申し出発行価額を幾分か引き上げて、この際着手しては如何、露国の扮擾はますます伝播している、これに対して露国政府はいよいよ抑抑圧を加えているが、おそらく革命にはなるまい」ということでありました。そこで当方からも1月27日付にて山川宛に、コッホの申し出は発行価額が低すぎるから満足出来ぬという意味の返電を出しました。 

すでに述べた通り高橋は帰朝後、宮中に参内して公債募集の顛末を言上し、また各要路にも報告したが、その結果公債募集の功労者に対して勲章を授けらるることとなり、レベルストック卿に勲一等瑞宝章を、サー・ジャクソン氏には勲三等瑞宝章を、バ氏には勲三等瑞宝章を、またシフ氏には勲一等瑞宝章をタウンセント氏には勲四等瑞宝章を贈らるることとなりました。 

weblio辞書ー瑞宝章ー早川千吉朗 

 よって高橋は政府の指図によって、1月28日付をもって正金ロンドン支店長山川勇木宛てに、「左の通り英文にて高橋是清名義をもってレベルストック、ジャクソン、、バン、シフへ格別に通知有之度拙者帰朝後、特別に陛下に拝謁を仰せつけられ、直ちに貴君の尽力せられたる第一回第二回公債発行成績を上奏せり、陛下は甚だご満足に思し召されかつ貴君の尽力を嘉(よみ)し給い、直ちに貴君に対して勲章を贈与することを御裁可あらせられたり。これは貴君先般の功労を思し召されしに外ならざれども、なお将来貴君の尽力に頼むところあるべきを示されたるものなるを信ず。 

 

 勲章は貴地日本公使を経て贈らるべし。拙者はここに貴君の光栄を賞す。なおまた日本政府は英米市場の模様次第にてさらに外債募集の考え有す。これに対し時機及び条件など貴君の見込みを内々承知したし」と電報しました。 

 1月の下旬に至って桂首相から呼ばれたので、すぐに総理大臣官邸に行くと、その席には首相の外に伊藤侯、山県侯松方伯、井上伯の諸元老がおられました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-20 

 首相は高橋を見ると、「この際さらに1億乃至2億5000万円の公債を募集したいが出来るだろうか」といわれるから、高橋は「2億5000万円くらいなら確かに出来ます、私の電信1本でできます」と答えると、井上伯が傍らから、「それは電信などではいかぬ。ぜひ御前が行かなきゃならぬ」といわれました。そのとき伊藤侯が山県侯を顧みて「高橋は金は出来るというじゃないか」といわれると、山県侯は起ってポケットに両手を突っ込み、少し俯き加減に室内を歩きながら、独り言のように「経済でなら仕方がないが、軍ということでは」とといわれました。すると桂侯が突然高橋に「戦いを負けても出来るか」と問われました。高橋は、「それや同じ負けても負けよう次第です。戦いに負けてる間に出来(でか)すというわけにはゆきません、しかい負けたからとて、どっかで踏みとどまる時がありましょう。その踏み止まった時に、公債談判の機会が来るのです。もちろんその場合条件は悪くなります。つまり負け方によるので、まさか一気に朝鮮まで追いまくられることもありますまい」と答えました。高橋の用事はそれで済んだので引き取りました。その後その席で何事が話されたかは高橋は知りません。ただ井上伯が「ぜひ御前が行かなけりゃならぬ」といわれたので、再びロンドンに向うことを決心しました。そうして2月5日正金ロンドン支店宛に、「先般一旦は帰朝したが、再び出張を命ぜられたので、1月27日横浜出帆のエンブレス・オブ・インディア号にて出発する。このことは公債発行銀行へ内々で伝言せよ。次にレベルスドクは上述の事情をつたえかつ先に同氏へ手紙を出すと申し送ったがら、どうせ近くロンドンにて面会の機を得るから手紙はださないことにしたと伝言せよ」と電報をもって申し送りました。 

 これと相前後して、1905(明治38)年1月29日高橋は貴族院議員に勅選のの恩命に浴し、2月7日には特をもって位一級を進め従四位じ叙せられました。かつ今回の出張に当っては、今後公債募集の交渉を有利ならしむるため、高橋の待遇に対し、政府においても得に考慮するところあり、改めて閣議に稟請(りんせい、具体的には大蔵大臣の要請)し、その決議を経て、帝国日本政府財務委員を委任せらるることになりました。 

 そうして2月11日紀元節の当日、大蔵大臣官邸に呼ばれ、外債募集に関する命令書及び政府の委任状をを渡されました。この日午前10時半米国公使を訪問面会しました。公使曰く、「今度は米国で募集せられるか、あるいはまた従来のごとく、英国を主として米国をこれに参加せしむるの方法をとらるるや(公使の言は米国をして英国と同等の地位に置きたかった)、なおモルガン氏を知っていらるるか、スチールマン氏はどうか」ということでありました。 

 それで高橋は「自分の考えでは少なくとも交戦中は募債の道筋を変更しないつもりである。またスチールマン氏には面会したがモルガン氏にはまだその機会がない」よ答えたら、公使は「まことに御尤もである」といって、色々と懇談に時を移し、かつ数通の添書きを書いてくれました。 また同日午後5時半から井上伯の別邸即ち麻布竜土町小林ロク方に晩餐の招待を受けました。同席者は、野村子爵、早川千吉郎、室田義文(「伊藤博文安重根」を詠む14参照)、馬越恭平、朝吹英二(「天佑なり」を読むⅢ-21参照)らの諸氏であって、甚だ懇切なる待遇をを受けました。 

近代日本人の肖像ー日本語ー人物50音順ーまー馬越恭平(まごしきょうへい) 

 このとき伯が一首の歌を詠まれましたが、翌日使いをもって送られました。その歌は、よしあしの中にかかりし高橋を渡りて開かむ鴈金の声、というものでありました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ- 1~10

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ- 1 

 高橋は山本前総裁に対する政府の措置ならびに新総裁の態度如何によっては、ただちに職を辞する覚悟でありました。 ところが前述の如く山本前総裁のことは円満なる解決を見るようになりましたし、また松尾(臣善)新総裁(吉野俊彦「前掲書」参照)も1903(明治36)年10月25日の夜、わざわざ高橋の自宅へ来て、日本銀行の行務については高橋に信頼する、かつ正金の監督をはじめ海外のことについては、今後一層力を尽くしてもらいたいというような懇切な言葉がありました。もとより松尾氏とは、高橋の正金銀行時代より、常に心易くしておった仲であり、そうなれば高橋の方に別意のあろうはずもなく、総裁更迭問題も、万事円満に落着しました。 

日本銀行―日本銀行についてー日本銀行の概要―沿革―歴代総裁 

 さて高橋は山本総裁勅選の問題で、桂首相に談判の時、初めて日露の間に、重大なる交渉案件が進行中であることを知りました。しかしその案件がいかなるものであるかも尋ねもしなかったし、またそれに対しあまり重きを置くこともしませんでした。ところが11月10日前後であったと思います、松尾総裁がごく内密のこととして、高橋に話されるには、「今朝大蔵大臣に呼ばれての話に日露談判の経過が甚だ面白くなくなった。あるいは破裂するかも知れぬ。万一両国開戦となれば、日銀としては軍費の調達に全力を注がねばならぬ。また国内の支払いは兌換券の増発によってともかく弁ずるとしても。軍器軍需品などにて外国より購入せねばならぬものがたくさんにある。これに対しては正貨をもって支払わねばならぬから、この方面のことについては、今日より十分に考慮画策しておいてもらいたい」ということでありました。 高橋は当時日本銀行の副総裁として、傍ら横浜正金銀行の業務監督の任に当っていました。よってこの立場より自分の意見述べ、かつ総裁と相談の上、正金の三崎副頭取を呼んで内密に取り調べ方を委嘱しました。その事項の主なるものは 

1,三井物産、高田商会をはじめ当時の主立ったる輸入業者に対し、正金銀行が与えたる信用の上の金高及び期限 2、輸入為替の予約高ならびに期日 3、輸入業者の取り扱う物品中政府の注文に関するものと、民間の需要に属するものとの区別、品目ならびに金高 4、諸外国人の内地に有する預金、及び外国銀行が内地において有する資金の概数などでありました。 

5、百万円をもって、果してr兌換の責任がとれるかどうか、即ち語を換えて言えば、開戦と同時に正貨の輸出を禁止するの必要なきや否やを、推定せんがためでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

ここにおいて正金銀行はなるべく目立たないように、ごく内密で上述の取調べを開始するとともに、一面には売為替や信用状の発行について、出来るだけ控え目にするよう手心しました。 

 しかるに、いつとはなく機敏な商人が、これらのことに感づいて何か異変があるのではないかというような疑惑を抱くに至りました。そうして一番早く感づいたのが、大阪の経済界でありました。 

 今から当時を顧みると今昔(こんじゃく)の感に堪えないものがあります。それは日露両国間が開戦にもなろうというほどの重大なる外交談判のあることが、その間際まで民間に知られずにおったことでありました。 

 大阪の財界では、1903(明治36)年の始めころから疑念を抱きはじめて、それがために多少の動揺を来す兆しが現れてきたので、政府もこれにはいたく憂慮するに至りました。同年12月中旬曽禰大蔵大臣は松尾総裁を呼んで「日露の談判も先日は一時懸念されたが、このころの調子では談判も平和に解決するようである。しかるに大阪方面の財界がなんとなく童謡の兆があるが、あまり悲観に陥らしめても困るから、何とか緩和の道はないであろうか」との内輪話であったとて高橋に相談がありました。 

 これは甚だむずかしいことで、日本銀行として財界に向って全く安心せよと公言するわけにもいかず、両人協議の結果、まず松尾総裁が墓参のため郷里に帰ることとして、そのついでに大阪に立ち寄り、同地の主立った人々に面会して、それとなく安心を与えるような話をするのがよかろうと相談を決めました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 そこで総裁は年末も押し詰まった25日大阪に立ち寄って上述の相談通り実行しました。この時までに正金銀行の取調べにもとづいて、開戦後の1カ年間に、わが正貨の海外に流出すべき金額を推測したるに、1、外国銀行が持ち出す正貨 3500万円 2、輸入品の代価支払いの結果として流出する正貨 3000万円 計 6500万円 で、これを当時日本銀行が所有する正貨高 1億1700万円より差し引けば、その余すところ僅かに5200万円見当で、しかもこのうちには開戦後当然海外払いとなるべき軍需品の代価は含まれておらぬ、甚だ心細き次第でありました。 

 ところが前述の如く、談判の模様はだんだんに良くなってきたというのでやや安心しておりました。しかるに12月29日の夜、急に大蔵大臣から呼ばれました。高橋は宴会の出先から早速大蔵大臣官邸に行くと、その席には曽禰大臣のほか阪谷次官、相馬正金頭取もいて、高橋の到着を待っていました。大臣は高橋の姿をみるや否や「政府は先ごろロンドンで2隻の軍艦を買いいれることにして、そのことを、英国駐在の林(董 ただす)公使に電訓し、林公使は直ちに相手方と契約を取り結んだがさて、その代金の支払いに当って、正金ロンドン支店の手違いで支払い不能に陥り、ために林公使は進退谷(きわ)まった立場となった。公使よりの電報によれば、もし、この支払金が調達出来なければ解約と共にロンドンを引き揚げねばならぬと言って来た。すでに林公使の立場が以上の如くであるし、かつ政府ではこの際是非とも隻の軍艦を買い取りたいのであるから、日本銀行で何とか調達は出来ないであろうか」という相談でありました。  

 近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー林董 

 何分事柄が重大であり、かつ少しも猶予の出来ない場合であったので、高橋は即座に一つの案、即ち、1、林公使をして公使の資格において約束手形を振り出し先方に渡すこと、 2,もし先方において担保を要求する場合は、日本銀行所有のわが四分利英貨公債200万磅を正金銀行支店に貸し渡し、正金支店振り出しの手形をもって金融を計らしむること、を提議しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 幸いこの一案は列席者の同意があって、ただちに林公使及び正金支店に電訓されました。その結果は第一案によって弁ぜらるることとなり、上記2隻の軍艦は早速本邦にに廻航せらるるに至りました。これ即ち日進、春日の2艦であります。 

 weblio辞書ー日進(装甲巡洋艦)ー春日(装甲巡洋艦)  

 1904‘明治37)年正月元日の早朝、阪谷大次官から電話で、「いよいよ談判破裂の模様(「坂の上の雲」を読む14~17参照)だから、今日からそのつもりで、万事の用意に取り掛ってもらいたい。また当方からも出すが、君からも郷里に」在る松尾総裁に至急帰京されるよう電報を発せられたい」という内訓があって、高橋は事のあまりに急転直下せるに驚きました。そこで早速帰省中の松尾総裁に電報を発するとともに、三崎正金副頭取を呼んで、かねて申し合わせておいた計画の実行に取り掛かりました。就中(なかんずく)民間の需要に属する輸入品にして未だ船積み前のものに対しては、その金額を減らすか解約するの手段をとらしめ、ひたすら正貨の維持を講ずることとしました。また一方においては正貨輸出禁止の得失如何を考究しましたが、いよいよ開戦となれば、外国より購入せねばならぬ軍需品も多額に上る見込みであって、到底外債を起さずには済まないでしょう。しかるに最初から正貨の輸出を禁ずることは、海外に対して信用を墜し、従って公債の募集に当り、それが不利益なる影響を及ぼすことも考えねばなりません。これに反して現在のまま正貨の輸出を自由にしておけば、流出の勢いも自ずから緩やかになうであろうと考えられます。かれこれ審議研究の結果正貨の輸出の禁止は、この際得策にあらずと決定しました。 

 これよりさき、1903(明治36)年7月28日「日本は満州における露国の特殊利益を認め、同時に露国は韓国における日本の優越なる利益を承認せんこと」を提議しましたが、露国はこれを認めず、1904(明治37)年2月4日日本政府は対露国交断絶を決定、同年2月5日露国駐劄公使栗野慎一郎に電訓して露国政府にこれを通牒させました。 

 1904(明治37)年2月6日、日露の国交は断絶していよいよ開戦となりました。 同時に戦時財政の要務は井上、松方両元老が見らるることとなり、軍費に当つべき外債募集の件も時を移さず廟議決定を見ました。 

 ここにおいて井上、松方両元老ならびに松尾日銀総裁はは相談の結果、しかるべき人物を財務官としてロンドンに派遣し時機を見て外債募集をなさしむることに一決しました。そうして松方伯は、最初高橋是清をもって財務官に当つべしとの説を述べられ、かつ高橋に対しても相談せられたが、高橋は自分はその器(うつわ)に非ず、園田孝吉「天佑なり」を読むⅢ-23参照)君こそ最適任者である旨を答えて辞去しました。また曽禰大蔵大臣および松尾日銀総裁は、今日において一番大事な正金銀行の業務を指図したりするのに、高橋副総裁がいなくては困ると申し立てられ、一方園田孝吉君からは、自分の健康が到底海外行きを許さぬといって断って来ました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 かくて財務官の人事が非常な困難に陥り、両元老も少なからず困惑せられている折柄、2月8日に至りわが瓜生(うりう)戦隊の仁川沖の勝報に次いでわが連合艦隊は旅順を砲撃して敵艦3隻を撃沈したりとの報告至り、ここに始めて局面一変して、大蔵大臣も松尾も「この情勢であれば高橋を手離してもよかろうから、同君を至急ロンドンに派遣せしめらるるよう」にと具申しました。そこで俄かに模様が変わって2月12日夜、井上伯から高橋は呼ばれました。早速行くと伯は「君はこのたび御苦労だがロンドンに行って公債の募集に当ってもらいたい」といって、次のようなことを附け加えて話されました。 

 「松方伯ははじめから君を派遣せよとの説であったが、自分ははじめ園田がよかろうと思った。それは何ゆえかといえば、出先の者から日本銀行や政府に宛てた電報を見て、これに対して返辞をしたりするのには、海外の事情に精通した者が日本におらねば、政府と出先の者との意思の疎通を欠き、誤解を生ずる虞(おそれ)がある。そこで君は内におって園田から来る電信の往復の任に当ってもらわねばならぬので、園田を外国に出張せしむる考えであった。しかるに園田が自分の身体が持たない、強いて行けば死にに行くようなものだ、というから、これもやむを得ぬ。ついてはこの際園田を日本銀行の顧問として、外債募集にする君との電信往復の要務を取扱わしめねばならぬと考えるから、その通り取計らったらよかろう」といわれました。 

 このことは、その日銀行へ帰ると直ぐ松尾総裁に伝えましたが、いろいろ考究の結果、総裁から口上をもって園田に顧問を依頼することに決しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 さて井上伯からロンドン行きを申し含められた時は、高橋はlこの任務のなかなか重大で、十分政府にその決心を聞いておかねばならぬと思い、「仮に私がその重任を拝するとしても、政府に対して堅く約束してもらわねばならぬことがあります。それは、政府の外債談が起これば、常に内外のいわゆるブローカー(商行為の仲立人)が現れて、コンミッション(委任)を自分の手に収めんと、様々の事を政府に申し立てて来る。その場合いささかにても政府筋がこれに迷い、少しでも彼らに耳を傾けるようなことがあっては、出先の者の仕事の支障となり、結局政府に迷惑がかかり、損失を受けることともなるのであるから、いかなる者がいかなる申し立てをしても、政府は一切それを取り上げず、委任したる全権者に絶対の信用を置かれたい。もし政府においてこの決心が出来なければ、私は到底この大任を引き受けることは出来ません」と一言打ち込みました。すると井上伯は「その儀誠にもっともなことであるから堅く約束する。ついてrはその注文の要件を認たためて明朝提出するように」とのことでありました。そこで高橋は辞して帰り、翌朝次の如き覚え書(省略)を持参し、井上伯を訪問して提出しました。 

 既述のいような次第で、高橋は日本銀行副総裁の資格において、外債募集のことを委任せらるることとなりました。従ってその後は、時々元老大臣などの評議にの席にも列席することとなりました。 

 この時、政府の樹てた軍費の予算を聴くと、「明治二十七八年の日清戦争の時には、軍費総額の約3分の1が海外に流出しているので、今回もそれを標準として正貨の所要額を算定した。即ち軍費総額をおよそ4億5000万円と見て、その3分の1、1億5000万円をもって海外支払いに必要なるものと仮定すれば、目下日本銀行所有の正貨余力が約5200万円ほどであるからまずこれをもって海外支払いに充てるとしても、なお1億円の不足を生ずる。そうしてこの不足はどうしても外債に依るよりほか途がない。よって年内に1億円だけは絶対に外債の募集を必要とする。もっとも戦時の募債であるから、担保を要求せらるることも覚悟せねばならぬ。それでまだ世間には公にいい兼ねるが、海関税の収入をもって抵当に充てることにすでに御裁可も得てある。ついてはこの心得をもって速やかに出発し、年内に一度で出来なければ、二度にても差し支えないから、1億円だけは募債するよう努力せられたい」ということでありました。 

 また阪谷次官も附言して、「この戦費は1年と積ってあるが、これは朝鮮から露軍を一掃するだけの目的で、もし戦争が鴨緑江の外に続くようであったら、さらに戦費は追加せねばならぬ」ということでありました。 

 当時高橋は馬で怪我をした右の腕がまだ十分に治らず、左の手のほかはは働かせない状態でした。洋服も新調できず早速出発することとなり、深井英五〈「男子の本懐」を読む17参照〉が当時同行の秘書役で、英語英文ともに達者であるところから、同君一人を帯同して2月24日横浜出帆の便船で出発渡米しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

アメリカに着いてニューヨークに直行し、まず3~4の銀行家に面会して様子を探ってみると、一般米国人の気分はロシヤに対して日本が開戦したことを、小さな子供が力の強い巨人に飛びかかったのだといって、日本国民の勇気を嘆称し、我が国に対する同情の表現は予想外であって非常に愉快を感じましたが、この時代の米国はまだ自国産業発達のたには、むしろ外国資本を誘致せねばならぬ立場にあって、米国内で外国公債を発行するなどいうことには、経験も乏しく一度相談してみましたが到底成立しないことを認めたので、僅かに4~5日の逗留(とうりゅう)で、3月の初めに米国を発って英国に向いました。 

 ロンドンの宿は、米国出発前、正金のニューヨーク支店を経てロンドン支店宛てに電報をもって、この前泊ったド。ケーゼル・ロイヤル・ホテルに部室を取っておくよう頼んでおいたので、ロンドン着とともに、直ちにそこに落ち着きました。 

 さてそれからいよいよ本務の公債談に取りかからねばなりませんが、高橋はどうしても正金銀行を本体として、その取引銀行であるパース銀行、香上銀行、チアター銀行、ユニイオン銀行などに、まず交渉を進めるのが最も順当であると考えました。 

 幸い旧友のシャンド(「天佑なり」を読むⅢ-28参照)氏が、今はパース銀行のロンドン支店長をしているので、まず同氏に会い、その紹介で頭取のパー氏、本店総支配人のダン氏などにも面会しました。また香上銀行、チアター銀行、ユニオン銀行などの幹部諸氏やベアリング商会シベルストック卿とも会見しましました。 

 これよりさき、高橋がニューヨークに着するとまもなく、ロンドンの正金支店長山川勇木より電報をもって「ロンドンでは募集の見込みないはない、今日正金銀行のごときは鐚一文(びたいちもん)の信用もない」とと申し越してきました。けだし山川の意は、ぜひアメリカで金策せよ、イギリスに来ても恥をかくばかりだから、という意にありました。 

 高橋はロンドンに着くと、前記のようにパース銀行の総支配人ダン氏ならびにロンドン支店長シャンド氏その他の組合員と懇親を結び、シャンド氏その他とびたび会見しては懇親を結び、たびたび会見しては、英貨公債1000万ポンドを募集せんとする日本政府の希望告げかつ諮るりました。しかるにいずれも燃ゆるが如き同情は持っているのですが、ただ話を聞きおくに止まり、目下の情況では日本公債の発行は容易なことではないとということで、山川の電報の真意が一層よく体験せらるるばかりでありました。 

 その内にパンミュール・ゴールドン商会のレビタ氏の紹介で、有名なるロスチャイルド家をも訪問して懇意となり、一番末の弟のアルフレッド・ロスチャイルド氏とは最も親密を重ねた、またロスチャイルド家と併せ称せられる金融業業者サー・アーネスト・カッセル氏とも交際するようになりました。しかしロスチャイルド氏ならびにカッセル氏には、こちらから公債談をすることは一切避けて、ただロンドン及びパリーの経済市況を聞くに止めました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 かくてもっぱら銀行業者に対して交渉を進めている内に、結局正金銀行と一緒になって公債発行を引き受けようという好意を表してくれるに至ったのはパース銀行と香上銀行だけで、チアター銀行はついに断ってきました。 

 もっともチアター銀行の参加如何については日本出発前より多少の懸念はしておりました。というのは、最初横浜で香上銀行とチアター銀行双方の支配人に会って公債談をしたところ、香上銀行の支配人は冷淡なるに引き替え、チアター銀行支配人は意外に乗気でありました。 

 「私は過日来チアター銀行が、日本公債発行の肝入りをするようにたびいたび本店に電報を打ったが、どうしても本店がその気にならぬので困る。今度貴方があちらに行かれたら、今後日本公債の発行に当たっては、ぜひチアター銀行が主となって働くよう話をしてもらいたい」という一語がありまいた。したがってチアター銀行が発行仲間に参加するかどうかということは、この時から疑問としておりました。それで今度参加を断られてもあまり失望もしませんでした。 

 これは公債に関する話ではありませんが、ロンドンに来て気がついたことは、英米両国民が日露戦争に対する観測を異にせることでありました。それはアメリカでは一般に、日本は陸軍では勝つだろうが海戦では敗けると考えているものが多かったのですが、ロンドンに来てみると、海戦には勝つだろうが陸戦では到底露国には叶うまいという考えを持っているものが多いように見えたことでありました。 

ロンドンに着いて数日後のある日、ベアリング商会のレベルスドッグ卿がやって来て、「今日日本公債を発行したいとの御希望であるが、公債の条件がいかに良くとも、これを一般公衆に向って募集することは困難である。貴君が御相談中の銀行家連が躊躇するのも決して無理ではない。しかし貴君の立場を察すれば実に同情に堪えない。わが商会は往年日本の鉄道や鉱山事業に対して資本を貸す考えをもって日本に店員を派遣した。その当時井上伯は、自分のこの企て誠に宜いことだと大いに賛成せられたが、だんだん日本の法律が調べているうちに、鉱山事業や鉄道に資金を貸す場合に、普通外国で行われているような抵当権の設定が出来ないことが判明したので、そのことを注意して上げたが、ついにこのころの議会に提案され新たに法律の制定を見るに至った。自分の商会とは上述のような特殊の関係もあるから、日本公債の募集については大いに同情ももっているし、また尽力もして見たいと思っている。しかしながらこの際一般公衆から募集することは自分にはどうしても自信がない。よって今のところでは自分の商会だけで応募するようにするよりほかにしようがない。それには往年日本政府が発行した四分利英貨公債の内、現に200万磅だけは日本銀行が取有しているから、それを担保として日本政府の大蔵省証券の形をもって、最高60万磅までなら御融通しよう」と提案して来ました。これがそもそも日本政府に金を貸そうといい出してきた最初の相手方でありました。 

 weblio辞書ー抵当権ー財務省証  

 これを聞いて、高橋は深く同君の好意を謝するとともに、現在のところ日本政府はそれほどまでに窮迫しておらぬ事情を述べて、暗々裡にその提案に考慮を費すわけに行かぬという意思を表明し、いろいろ雑談をして別れました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 今後どうしたらよかろうと考えているうちに、フト思い出したのは、日本を発つ前、駐日英国公使マクドナルド氏から紹介されたサー・ジョージ・スーザーランド・マッケンジー氏のことでありました。 

 公使の話によると、この人は公使夫人の姉妹婿に当たる人で、銀行家ではないが、現に英国の大汽船会社の社長をしており、人格も立派で社会の信用も厚い人であるから、何か用事が起こった場合にはこの人を訪ねたがよかろう、とてわざわざ添書(てんしょ)まで書いてくれたのでありました。今その人のことを思い出したので、早速訪問して相談して見ようと決心しました。 

 かくて翌日同氏をその私邸に訪問しました。氏は大変気持ちよく面会してくれました。その時夫人はすでに病没して独身でありました。 

 高橋は率直に自分が公債募集にきていること、これまで銀行家たちに相談したが、少しも運ぶ様子がないので、一層のことロスチャイルドかカッセルのような大資本家に交渉してみようかとも考えている。その得失について決しかねるからして、貴君のご意見を聞きに来たという意味のことを話すと、氏は「貴君の来られることはマクドナルド公使からも通知があり、今日お目にかかるのは誠に本懐である。さて只今貴君の迷っていられることは至極もっともなことである。私は銀行家ではないがら十分お役に立つ助言は出来ないが、その得失についてはいっさか私見を述べてみよう。今貴方が相談を掛けられている銀行はいずれも株式会社である。したがっていずれも公衆の預金を運用しているから、これを公債のごとき長期のものに振り向ける資力は少ない。ゆえに銀行業者たちにいかに貴方の希望に応じようと熱心な同情があっても、自分に引き受ける力がないから、結局は一般公衆に持ってゆかねばならぬ。従って一般公衆の気持ちも観測するの要があるので、貴方の申し立てに対しても、今すぐにはっきりした答えが出来ない次第と思う。これに反してロスチャイルドとかカッセルなどのごとく、自分一人ででも引き受けの出来るような大資力のある者は、現在公衆の気持がどうあろうと前途の見込み如何を考え、将来有望という見込みさえ立てば、自分一人の独力をもってでも公債を引き受けるのである。今日本政府の側に立って、上記両者の利害得失考えるに、一度これらの大資本家の手を経れば、日本政府は今後公債の発行者にあたっては、どうしてもその手を借らねばならぬ立場となる。しかるに資本家はその利益をすべて自己の手に収めるのであるから日本政府に対しては不利な欲張った条件を持ち出すに相違ない。これに反して銀行家たちの方は株式組織であるからその利益は少数の重役支配人などのの懐にはいるわけでではなく、すべて多数株主の手にはいるのである。従って私人と異なり、その条件も正当な条件であれば満足する。ゆえに、発行条件からいえば、資本家に頼るより銀行家を相手とした方が、日本政府の利益である」という話でありました。この一言は大いに高橋の参考となりました。これをもって高橋は何としてもまず銀行家によって募集を果さねばならぬ、と決心するに至りました。かくてこの日は大いに意を強うしてう彼の邸を辞しました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-10 

公債発行の相手方を銀行と決めてからは、以前と異なって一層手強く銀行者に談判を取り進めました。銀行家たちが日本公債引き受けを躊躇するのは誠に無理からぬことでありました。すなわちその第一原因は、当時ロシヤ政府はフランスの銀行家と提携してその後援を受けていたために、戦争開始以来、パリおよびロンドンにおける露国公債市価は、あまり変動なく、むしろ上り気味でありました。これに反して日本の四分利付英貨公債は、戦争前80磅以上を唱えていたものが、たちまち60磅まで暴落し、日本公債に対する市場人気は非常に悪くなりました。だからこの際新たに公債を発行したところで、果して一般公衆が気乗りするかどうか、その成功不成功を診断するのはなかなか困難なことでありました。 

 次に此の際日本公債を発行しても見込み通りの応募者がなく、結局失敗て終わったならば、日本政府は軍費調達のためロンドン市場を利用することが出来ないものであることを証明するようになります。 

 さらに銀行家の間に端なくも重大な一つの疑点が生じて来ました。それは日英両国は同盟国ではあるが、イギリスは戦争に対しては、今なお局外中立の地位にあります。ゆえにこの際軍費を調達することは、局外中立の名義にもとりはせぬかということでありました。高橋はこれに対して、自分にはよく判らぬが、かつてアメリカの南北戦争中に中立国が軍費を調達した事例もあるから、局外中立国が軍費を調達することは差し支えないと思うが、貴君らが心配になるならば、貴君らの信頼せらるる有名なる法官や歴史家について調べてもらうがよかろうといって取り調べさしましたが、その結果、法官や歴史家の意見としては、差し支えないということに一致したので、銀行家連も高橋も安心しました。 

 ロンドン着後約1箇月の間は、ほぼ以上のごとくして過ぎてしまいました。そうして3月も過ぎて4月10日ころ(1904年)となってようやく公債談二眼鼻がつきかけて来ました。すなわち銀行者たちは、鳩首塾議の結果、最善の努力として申し出て来た条件は、1、発行公債は磅公債とす 2、関税収入を以って抵当とす 3、利子は年6分とす 4、期限は5カ年 5、発行価額 92磅 6、発行額の最高限度300万磅 ということでありました。この時関税収入を抵当とすることについては、なかなか議論がやかましかったのです。英国銀行業者たちは関税を抵当とする以上、ちょうど清国にサー・ロバート・ハートのいうごとく、英国から日本に人を派遣し税関を管理せしめねばならぬと主張しました。これがなかなか強い意見であったが、高橋はそれに対して一切耳を傾けず、「一体貴君らが日本と清国とを同一と見ることが間違っている。日本政府は従来外債に対して元利払い共に一厘たりとも怠ったことはない。ただに外債のみならず、内国債においてもいまだかつて元利払いを怠ったことはない。それを清国と同一視されては甚だ迷惑である」と強くいい張ったので、彼らもついに「それでは名のみの抵当権だ」と、いいながらもとうとう承認しました。 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-31~40

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-31

 8月17日からは、支店の検査に取りかかりました。米国では州によって銀行法が異なり、ニューヨークでは支店の設置ができぬので、長崎個人が正金の代理店(Agency)として営業している形になっています。しかるに桑港ではどうなっているか、その辺の関係についてまず話を聴取しました。それから支店の公課状について調べてみると、上半期において、図らずも欠損がでており、どうしてかような欠損を生じたかというに、それは香港向きの為替取り組から生じたものでした。

 この事実を見て、高橋は大いに考えるところがあったので、青木支店長に対して、「この店に欠損がでたといってかれこれいう次第ではないが、もしこれが日本向きの取引のために損失がでたというなら、私はむしろ快く思う。元来正金は日本と外国との貿易助長の金融機関であって、他外国間の貿易機関として造られたものでない。このことを取り違えて、アメリカ本位で仕事をするから、香港や清国向きの商売が多くなって来る。今後は日本本位に仕事をしてこの方に全力を尽くすがよい。しかして清国や香港向きの仕事はその副業ぐらいに考えてやってもらいたい」と言って注意を与えておきました。9月3日汽船ベルジック号にて桑港を出帆、日本に向いました。

 1898(明治31)年9月、7箇月振りで帰ってみると、政権は伊藤伯より大隈伯の手に移って、いわゆる隈板(わいはん)内閣が成立し、その大蔵大臣には憲政党(旧立憲自由党系)の松田正久が当っておりました。

Weblio辞書―検索―隈板内閣―松田正久

 新橋駅に着くと大蔵省から使いで「大臣が君の帰りを待っていられるから、すぐに行ったらよかろう」との伝言があったので早速松田蔵相を訪問しました。大層丁寧な、そうして物の言い方の軟らかな人で、初対面の高橋には大いに好感を与えました。

 大臣は「外債に関し井上前大臣に送られた君の報告書は引き継ぎを受けた。目下どうしても外債の募集をやらねばならぬか、早くそれに着手したいと思って、君の帰るのを待ちうけていた」と言われるから、高橋は「今日の市場の状況では、一時に巨額の発行は困難であるかもしれませんが、5000万円か1億円くらいまでなら四分利付で90%乃至95%で発行ができましょう、ついては速やかに御決定の上直ちに実行に着手せられたがよかろうと思います、この上調査の必要はありません」と答えました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-32

 それから正金銀行の重役及び日本銀行当局者に向って、海外支店の状況を報告し、かつこれに対する自分の意見を開陳しました。その大要は「今後わが正金銀行をして、海外における信用を高からしめかつその機能を発揮せしむるには、第一にロンドン支店をして単に為替業務ばかりでなく、その他の業務例えば手形の割引、貸金等につき自由に活躍せしむることが必要である。今日のところでは、正金のサンフランシスコ支店では、為替の受け入れ金をニューヨーク支店に送り、ニューヨーク支店は日本の輸出為替を取り立てて、サンフランシスコよりの送金と共にこれをロンドン支店に送金し、よってもってロンドン支店の為替買い入れの資力を養っているに過ぎない。

 しかして正金ロンドン支店に出入りする仲買人はおおむね東洋向き為替を取り扱う数人の者に止まり、ロンドン市内にてもっとも信用あり重視せられている仲買人らの出入りはほとんどない。これ単に業務の性質が東洋向き為替の取り扱いに限定せられているからである。正金銀行をしてロンドンの枢要なる銀行と同様の地位に進めるためには、どうしてもロンドン市内の金融場裡に立って働かさねばならぬ。さすれば多数の一流仲買人が朝夕正金の店に出入りするようになるから、ここに初めて正金の存在をロンドン市中に認められるようになる。それにつけても第一に必要なのは資金であるから、政府に願って、為替以外の業務に運用する資金として、政府か現に英蘭銀行に預けている清国賠償金のうちから200万ポンドくらいを極低利で融通してもらうことにせねばならぬ」と述べて、大体そのように決定しました。

 岩崎日銀総裁は松田大蔵大臣と意見の相違がああったためか、遂に辞職するに至りました。そこで後任総裁の問題となりましたが、日本銀行内部では河上謹一を推す空気が濃厚でした。ところが行外において山本達雄(吉野俊彦「前掲書」)を推す一派の運動があり、その内星亨(ほしとおる)などまでが、この問題の渦中に入って意見をいうようになってきたので、あるいは日本銀行に政党の空気が入って来はしないかとの懸念が生じてきました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ほー星亨

 日本銀行内部の人々も、万一そうなっては、その弊害の及ぶところ、いかなる程度に到るやも測られないととて、これまで結束して河上を推していた連中がその希望を投げ捨てて却って山本を推すようになり、ついに同氏が総裁の任に就くこととなりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-33

 1899(明治32)年1月末ころから、日本銀行の河上、鶴原らの一派と山本総裁との間が円滑を欠くように見えるので、河上、鶴原両君に会って、どうも総裁と理事との間の意思が疎通しないでは面白くない、自分でよければ、いつでも仲に立って調停の任に当るがというと、両人は到底調停の見込みがないから止めてくれということでありました。

 2月1日大蔵省における台湾銀行設立委員会終了後、日本銀行へ行って、山本、鶴原、高橋3人で料亭島村へ行って晩餐ををすることとなりました。それで高橋はこれで総裁と彼等との間に多少は感情の融和が得られるものと期待して、その日は横浜へ帰りました。

  2月23日豊川良平から、日本銀行の理事たちとともに、築地の花谷に招かれていたので、夕景から出席しました。すると宴半ばにして鶴原が高橋に別席を乞うて「君は先だって総裁とわれわれとの間を調停のために、非常に心配してくれていたが、とても、もう2、3日の中に破裂は免れない、今度こそは君は口をださずにいてくれろ」というから、ついにそうなったかと嘆息して、その夜横浜に戻りました。

 25日、この日はちょうど土曜日だったので、高橋は午後から葉山の別荘に出掛けました。すると26日の午前2時ころになって、島甲子二(しまかねじ)から電報がきて、続いて山本総裁からの電報に接しました。それはいずれも至急上京を促すものでありました。

 26日早朝上京して、まず山本総裁をその邸宅に訪問したら、河上以下の理事がいよいよ辞表を提出したということでした(日銀ストライキ事件・「男子の本懐」を読む10参照)。そこで高橋は直ちに大蔵大臣松方伯(第2次山県有朋内閣)を訪問してこのことを話し、蔵相はこの処置をいかにせられるつもりであるかと尋ねました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-34

すると松方伯は「それは君、川田が育てたあれだけ多数の有為な人々と、山本一人とは代えられぬではないか」と言われたから、「それは一応ごもっともですが、日本銀行という国家枢要の機関としてこの際御考慮を煩わしたいことは、日本銀行は我が国の中央銀行で英国の英蘭銀行と等しいものであります。ところが理事や従業員がその時の総裁しかも政府任命の総裁に対していわゆる同盟罷業をした、その結果政府が総裁を取り替えるというようなことがあったなら、海外の人たちはこれを見て、日本の中央銀行を何と考えるでしょう。もし時の総裁に棄て置き難い過失があるならば、従業員の同盟罷業を待つまでもなく、政府はまずもって総裁を罷免するの責任があるではありませんか。何らの過失なきに拘わらず行員の感情から総裁排斥ということになり、政府がそれらの排斥者の意見を容れて総裁を辞めさせることは、わが中央銀行のために政府としてとるべき路にあらずと考えます」というと、松方伯は「何時君に話したいことが起るかもしれないから、今夜は東京に泊って何時でも君に電話をかけることのできるようにしておけ、してどこに泊まるか」といわれるから、『差当り築地の有明館にとまりましょう』と答えました。

 2月28日早朝井上伯を訪問して、今度の日本銀行の騒動について高橋の意見を腹蔵なく述べましたが伯は「そのことは陸軍大臣に行って話しておけ」との指図でありました。それで高橋は直ちに陸軍大臣官邸に桂(太郎)陸相を訪問し、日本銀行の件を話すと、「よく分った、自分がこれから山県首相のところへ行って話をする」ということでありました。

 それから、この日午後3時過ぎになって松方蔵相から呼ばれました。そうして言われるには、「内閣でもいよいよ山本を、そのまま据え置くことに決めた。総裁と理事(三野村)一人では日本銀行の重役会が成立しない、よって副総裁を置く必要を生じて来た。ついては君を副総裁に据えるから、その心得でいてもらいたい」ということでありました。この時前田正名も官邸にきていて、しきりに高橋に承諾を促しました。

 高橋は事の急なるに驚き、辞退しましたが、すでに内閣ではそのことを決定していて追っ付けここに辞令が来るはずだ、というような切迫した事情の下にあったので、高橋もついに承諾せざるを得ませんでした。同日午後8時ころ、松方蔵相手ずから日本銀行副総裁の辞令を交付されました。

 1900(明治33)年から翌年にかけて、日本銀行に救済を求めてきた銀行は、第九銀行、肥後銀行、第百十銀行、第十七銀行、第三十九銀行、第百二十二銀行などであって、これが処理には、行員一同大いに苦心しました。

 行務の刷新については、第一着手として、各局課長及び支店長に命じて行員の人物考査表を出させ、各個人個人の勤怠、技量、品性等を詳らかにするの法を定め、かつなるべく宴会の招待等はこれを避けて、質素倹約を旨とすべきことを訓示しました。また総裁と協議して7日間の公休日を認めることに決しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-35

 1901(明治34)年12月下旬、年末手当のことで問題が持ち上がりました。それはこれまで行員に対して手当を与えてきたが、今後は廃止するということを山本総裁が言いだしました。それが、どうした訳か行員に漏れたと見えて皆が騒ぎだしました。そうして高橋がもっぱら恨みの焦点となりました。

 これより先、ある人から、銀行の食堂あたりで、行員間に沙上の遇語があるということを知らせてくれる者がありました。それによると、近ごろ重役会において賞与や昇給の協議があるごとに、各局長から出す提案に対して、高橋副総裁が反対している、今度の年末手当の廃止もその首謀者は高橋である、というようなことがひそひそ噂されているという話でありました。

四字熟語データバンクー沙中遇語

そこで高橋は総裁のところへ行って、まずこの年末手当の廃止については反対を表明し、かつかねて聞いていた沙上の遇語について報告し、上述のように高橋はただ今人望がない、長くなればなるほど人気は落ちてしまって、銀行のために宜しくないと思う。不人気になってしまって勢い辞めねばならぬようになっては却って困るから、一層のこと今のうちに辞めさしてもらいたいというと、総裁は「そういうことはまだ聴かない、辞めんでもよいではないか」としきりに留め、かつ年末手当を廃することは高橋の説を容れて止めました。ただし高橋だけはその手当を受けるわけにはいかないから辞退しました。

 1902(明治35)年の元旦は天気晴朗、極めて心地好き年の始めでありました。この日かねて赤坂表町に新築中の新宅が、玄関及び廊下ゐ除いてほぼ落成したので、邸内の旧家からその方へ引っ越しました。

 この年の秋、五分利付公債発行の件について問題が起りました。それは10月1日の朝、山本総裁は大蔵大臣に呼ばれて官邸に行くと、大臣から「政府は今度五分利付公債を5000万円を興業銀行を経て、香上銀行に売り渡す約束をした。同公債は元利ともロンドン払いの裏書附きで、ロンドン市場に売り出すはずで、政府の手取金は98ポンドである」と申し渡されました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-36

 山本総裁は突然このことを言渡されましたが、その手続きがいかにも合点いかず、誠に意外の思いをしましたとて、帰ってきての話に「従来外国にて発行する公債は、日本銀行または正金銀行を経由するのが通例であるのに、今回に限り何の打ち合わせもなく、興業銀行を経て香上銀行に売り渡すことに決定してしまった。

これは考えようによると、日銀及び正金に対する政府の不信を意味することでもあるから、自分は桂(太郎)首相に面談して、その不都合を申し入れておいた」ということでありました。、

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー桂太郎―そー曽禰荒助 夕刻添田興業銀行総裁がやってきて、「今回の公債売り渡しについては、前もって御相談すべきであったが、これをなし得なかった事情があるので、それを述べて不都合を陳謝しに来た」という話です。よって高橋は、「個人の拙者に対して陳謝の要は少しもない。しかしこの事柄は、正金銀行の面目と信用にかかわることではないか、それを何ゆえに正金銀行に相談しないで、香上銀行に話を持ち込んだか」と詰問すると、「これは香上銀行との間に秘密にしておくとの約束であったから、そのつもりで聞いてもらいたい」と冒頭して、次の通りの話がありました。即ちこの前ロンドンで公債を募集した時は、正金銀行が主体となったために、香上銀行の横浜支店長は本国並びに本店に対して、いたく面目を失したので、今度発行の場合は、是非香上銀行を主体として発行さしてもらいたいと再三の申し出があった。もとより正金銀行を引受銀行の仲間に加えることは、最初から香上銀行とも話をしておったところで、決して除外するなどいう考えは少しもなかった。ついてはこの際正金銀行が誤解をせぬよう、そうして快く発行仲間に加入するよう何分の御配慮を願うとのことでありました。よって高橋は添田に対して、今日まで、正金銀行に対し、政府並びに日本銀行がとり来たった方針及び日本公債の発行に当り、いつでも正金銀行と組合になっておったパース銀行との関係を詳しく話しました。

 それを聞いて添田も非常に驚き、今より相馬を訪ねて依頼し、かつロンドンにも電報してパース銀行をも加入させるよう取り扱うから、今回はどうか事の円万に纏るよう尽力して貰いったいといって辞し去りました。

 しかるに、その翌日添田から、電信で、昨日の件につきロンドンに電報したと知らせてきましたが、それと引き違いに正金銀行からも、ロンドン支店では本店からの返電を待つ暇なく、公債発行仲間に加入の件を承諾した。もっともパース銀行発行銀行として加入はしないが、シンジケート銀行として10万ポンドを分担することになって、すべてが円満に片付いたということでした。

Weblio辞書―検索―シンジケート

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-37

 1903(明治36)年の晩春、経済界の不況につき、これが回復の手段として、日本銀行では金利の引き下げを断行せんと欲して、例のごとく午餐後重役会を開き、その事を決定するとともに、山本総裁は大蔵大臣(曽禰荒助)の認可を取るために、自ら大蔵省に出掛けました。ところが大臣は風邪を引いて官邸で寝ておられるというので、また官邸へ行って大臣に会い認可を乞うところがありました。

 しかるに山本総裁は大蔵大臣官邸に行ったきり、一向に帰ってきません。大蔵大臣官邸から電話があって、高橋にすぐ出頭するようにとのことであります。よって早速出かけて行くと、大臣は日本間で床を敷いて寝ておられ、その側に山本総裁と阪谷、松尾両君が坐っています。少し様子が変だと思って挨拶を済まし坐につくと、大臣は高橋を顧みて、「今山本総裁から利下げの認可を得にきたが、大蔵省では、今は利下げの時期に非ずとの意見である。それで君を呼んだわけだ」といわれるので、高橋は「してどういうわけで利下げの時期でないといわれますか」というと、大臣は「今年もし米が不作であったら必ず輸入超過となる。ゆえに日本銀行で米が不作であっても、輸入超過にならぬと保証するなら金利を下げてもよい。それがなければ、今金利を下げるわけには行かないという意見だ」といわれます。

 それで高橋は「今年の米の出来がよいか悪いかは神様でなければ分かりません、今の所では良さそうに思われるが、二百十日や二百二十日を前途に控えているから、天候によっては平年作に及ばぬ結果を見るかも知れませぬ。しかしこういう予知のできない事柄を除いて今日の現状を観察すれば、今金利を下げるために輸入超過になろうとは我々は考えておりません。これに対して今日はいかにも金利が高く、それがために事業は不振に陥り製品は高価である。ゆえにこの際金利を引き下げて、経済界に活を入れるの必要ありと認めたのが日本銀行の意見であります。貴方方は聡明な方々であるに相違ありませんが、常に多岐多端の政務に心を配らねばなりません。我々はそれと異なって二六時中経済界のこと、ことに金利政策に最も重きを置き、不断に考えているものであります。ゆえにその専門的に専一に考えている者どもの意見は尊重せらるるが当然ではないかと思います。もし政府において今日利下げをすることは国家としてよろしくないという、何らか他に政治上の理由でもあれば格別、今年の米作に対し日本銀行が保証せねば、金利を下げることは出来ないというのは御無理ではありませんか。何人が今年の米作は豊年であると請合いが出来ますか。日本銀行の仕事として金利政策ほど重大なものはありません。(以下略)」と遠慮なく意見を述べました。

 すると曽禰大臣も考え直して、ついに申請通り認可されたので、総裁と二人引き下り、銀行に帰りました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-38

  山本総裁の任期は1903(明治36)年10月20日をもって満了となるので、我々はいずれもその重任を希望しておりましたがら、時々総裁に対して、その辺のことにつき注意をしました。というのは、何となく大臣と総裁とが、そりの合わない様子に見受けられたからです。しかるに総裁はいつも、「いや、そのことなら棄てておいてくれ、どうでもよいから」と一向気にもかけず、また我々の言うことを取り上げもしません。しかしそれには何か総裁に確信でもあるのでもあろうとひそかに考えていました。ところが高橋は8月28日から北海道視察に行くことに決ったので、出発前秘書役土方(ひじかた)久徴に話して、「総裁の任期満了が近づくので、何とか方法を尽されるように総裁に話をするが、一向気にかけられぬようだから、君からもなおよく総裁に話して、適当の処置を取らるるよう注意してもらいたい」というと、土方は「私もそのことについて度々話しましたが、やはり棄ておけということで、何ともしようがありません。しかしお話によりさらに申し上げてみましょう」ということでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-39

かくて高橋は総裁任期のことが気になりつつも、北海道へ旅立ちました。出張の目的は北海道商業銀行の救済についてその内容を検査し、また北海道鉄道や製麻会社の実情を調べるのが主たる用件でした。高橋は全道を一通り廻って、9月28日上野に帰着しました。

 1903‘明治36)年10月20日に山本総裁は例の通り銀行に来て、「今朝大蔵大臣官邸に呼ばれて行ったら、君も永々御苦労であった、今日が満期であるから、松尾理財局長を後任とすることに決めた、と申し渡され、それからいろいろと大臣の書画などを見せられて来た」と話されたので、われわれは唖然としました。ところが間もなく高橋も曽禰大蔵大臣から呼ばれたので、出て行くと、大臣はまず総裁更迭の話をして、「新総裁に不服の行員はやめてもらいたい、また留まる者は助けてもらいたい」といわれます。高橋はただ承るだけで引き下って来ました。

 しかし考えてみるに、いかにも大蔵省のやり方が突然でかつ乱暴のように思われます。よって高橋は事情を調べて見ました。するとこういうことが判ってきました。即ちこれより先総裁は伊藤侯を訪ねて自身の任期のことについて相談をしたと見えて、ある日伊藤侯は桂首相に向って「日本銀行総裁更迭の噂があるが、そういうことがあるか」と尋ねられました。すると桂首相は「いや自分にそんな考えは少しもない」といわれたというので、そのことが山本総裁の耳に入り、従って自分は重任するものと思っていられたようです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-40(最終回)

 そこで高橋は第一に桂首相を訪ねました。そうして、「今回の日本銀行総裁更迭の手続きは、いかにも穏当を欠いている。総裁任期の当日まで何の話もなく、ただ大きに御苦労であったの語をもって罷めさせるとは、何か総裁に左様な処置をされるだけの過失があったのですか、自分は副総裁として常に一緒に仕事をして来たが、今日まで正貨準備の増加、団匪事件(義和団事件)等について功績こそあれ過失はないと思います。ことにあなたは伊藤侯に対して更迭の考えなしといわれたということである。今度のことは実際国のために黙過することの出来ないことであるからうったえにきました」というと、桂首相は「それは伊藤侯から自分に更迭の考えがあるかと問われるから、自分としてはそんな考えはないと返辞したのは確かだ。しかし大蔵大臣が、今日露の間に重大なる関係をひき起こそうとしているのに、万一の場合今の総裁では自分は大蔵大臣の任務が尽くせないというものだから、当局大臣がそういう以上仕方がない、と思って、大蔵大臣の言に従ったまでだ」といわれます。

 それで高橋もじっとしておられぬので、山県侯を尋ねて、政府の処置の不当なるゆえんを縷々述べ、ことに日本銀行総裁の更迭をかくのごとく軽々に取り扱われることは、海外の関係において最も不可なるゆえんを詳しく説明したら、侯は「自分も誠にそうだと考える、たった2、3日前、桂が来て、日本銀九総裁を更えるからというので、そうした事情のあろうとは知らず、ただそうかといっておいた。して今となってはどうしたらよいというのか」といわれるから、「しからばです。今日すでに決定したものは致し方ありませんから、もし過失なしとせば在職中の功績を認めて、昇勲の御沙汰を賜るよう御配慮を願いたい」というと、山県侯は「勲章は困るが、貴族院議員はどうだ」といわれるから、「それは誠に結構です。貴族院議員に勅選されるということなら結構だと思います」

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山県有朋

 「それなら君は桂のところへ行って、俺がそういったといってその話をしてくれ」といわれれるから、高橋は早速桂侯のところへ行って話すと桂も「承知した」といわれるから、「それでは至急お願いしますといって別れ、その後催促してついに発表を見るに至りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-21

 1897(明治29)年正金銀行の顧客である一仏国商人が倒産しました。正金銀行はこの商人から生糸の輸入為替を買い取っていましたので、この人の破産で僅少ながら数万円の損失を受けることとなりました。ところがこの商人は正金のほかに、フランス本国における大きな三つの銀行とも取引があって、しかもこれら3銀行の受けt損失はよほど巨大であると伝えられました。しかるにその後まもなくわが正金のリオン支店から一書が到着しました。これによると上記仏国の3銀行は、この商人が人格の優れた人で、過去二十余年の間生糸の輸入業に従事し、その間銀行に取りては好個の顧客であったことを思い、倒産に到りたる事実を、帳簿その他の書類によって、極めて丁寧親切に取り調べる所があり、その結果は本人には少しも思惑をなしたる形跡なく、全く財界の不況により、同人の得意先なる織屋が不如意となったるにもとづくことが明らかになった。

それでこのまま彼を失脚せしめ、その永年の知識経験を埋没させることはいかにも惜しむべきである。何とかして彼が再起して生糸輸入業を継続できるようにと3銀行は会合協議の結果、旧貸金は全部帳消しとし、さらに今後の運転資金として、3銀行がすでに貸し付けて欠損となりたる金額に按分して信用をもて該商人に融通することを決定した。

これがリオン支店からの手紙の要領であり、最後に正金としていかなる態度をとるべきか問い合わせてきたものでした。

高橋はこの手紙を読んで新たなる知識を得て、もしこれが日本だったら、銀行は顧客から一片のいわゆる出世証文というものを取りて本人を破産せしめ、もって銀行自身の責任を尽くしたものと考えているのが通例です。我等は今フランス3銀行の執りたる手段を見て、その親切と理智と徳義とに感激し、高橋はリオン支店に対して直ちに3銀行同様に行動すべきことを申送りました。

このことがあってからやがて山本達雄より朝吹英二について内話がありました。それは今度川田総裁の取持ちで朝吹をっ再起せしめ木名木川(きなきがわ)綿布会社を担当させることになって、朝吹も非常に喜んでいるが、ここに相談したいことは、先年政府が直輸出奨励のために会社を設立し、朝吹を社長として経営せしめたところ、それが見事失敗して、政府は100万円ばかりの欠損を背負い込むこととなった。その際正金銀行は清算取り扱い人となって、この後始末をつけたが、清算に当って、朝吹から年々500円ずつの年賦償還に関する証文を取っている。そこで朝吹のいうには、折角川田君の親切により、再び世に出て働くこととはなったが、かの年賦証文のことを思うと、一生涯働いても駄目だから、ややもすると気持が挫け、活動の気も鈍り、前途暗澹たる感がする。何とかかの証文を取り消す工夫はないものであろうかというが、君はどう思うかとの話でした。

Weblio辞書―検索―朝吹英二

 その時高橋の胸にはちょうど前述の仏国商人の事例がまだ事新しく刻まれていた際とて、その事を話し、ついては毎年500円納入するのを、この際一時に10年分納入せしめて証文をキッパリ取り消すことにしたがよかろうと述べると、山本も大いに満足しました。

 よって相馬その他の人々に相談したが、もちろんこの債権はすでに銀行の勘定から落としてあるものでもありましたから、いずれも文句なく高橋の意見に同意してくれました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-22

1896(明治29)年9月松方内閣が成立、松方伯は大蔵大臣を兼任しました。それまで我が国は銀貨本位でしたが、松方はかねてより金本位制に改める意志を持っており、その事に関して高橋にも相談がありました。

 当時銀は低落の一途をたどり、金に対しては昔日の半価となっていました。即ち従来金1円の量目は4分でしたが、その半分2分をもって新金貨1円とすれば、為替相場においても、内外貸借関係においてもちょうど平衡がとれるような状態でしたから、高橋は今日こそまさに金本位制を実行すべき時であると答申しました。しかるに当時設けられていた貨幣制度調査会は銀本位を可とする旨を答申し、また大蔵省内にも今金本位に改めればかねて清国及び南洋方面に輸出流通せられているわが円銀が一時に戻り、新金貨と交換を要求せられるの憂いある。よってそれに対抗するため引き換えに要する期限を定めねばならぬ。それにはまず香上銀行およびチアター銀行等の意見を徴すべきである、などの議論も起っていました。

 上述の事情で大蔵大臣から意見を求められたので、高橋は「元来我が円銀にして一度海外に輸出せられたるものは、単に銀塊として取り扱うのが至当である。輸入銀貨は決して新金貨と引き換えの義務はない。ことに一国の貨幣制度を定めるに当って外国銀行者を顧慮しこれに意見を聞くがごときは不見識の至りであるばかりでなく、百害ありて一利なきものである。ただ清国及び南洋よりすでに日本に向け積み出されたる円銀に対しては多少の考慮を加え、新制度の実施当日より3週間くらいの引き換え期間を許せばよろしからん」と答えました。

 このことについては、後にいろいろの議論があって、ついに引き換え期間を6カ月と定め、実行に取りかかったが、期限が少しく長過ぎたために、その後3箇月に短縮されたように記憶します。

1897( 明治30)年園田頭取は、日本銀行営業局長山本達雄とともに英国に出張することとなりました。その主なる用向きは清国から受け入れた償金を英国銀行にに預け正金ロンドン支店を通じて直接英蘭銀行と当座勘定を開くにありました。

 当時英蘭銀行は、容易に他国の銀行と直接取引することを認めない習慣がありましたが、両君の努力によりその目的を達し、かつ正金ロンドン支店に日本銀行の代理事務を行わせることとなりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-23

 1896(明治29)年11月4日川田日本銀行総裁は逝去し、岩崎弥之助(吉野俊彦「前掲書」)が日銀総裁に就任しました。そしてその第一着手として、従来日本銀行の慣例となっていた株主配当年1割2分を1割にに引き下げました・

 園田頭取は英国より帰朝後身体疲労のように見受けられましたが、ついに病気のため退職することとなりました。その際豊川良平がやってきて、園田氏辞職後は相馬取締役を頭取に進めたい、ついては君に異論のないようにと種々事情を具して説明がありました。

 それで高橋は、かくの如き問題について御懸念は無用である、何人が頭取になろうとも私はただ一念正金銀行本来の職責を尽くすのみである、と答えたところ豊川もそれで安心したといって帰りました。

 岩崎氏総裁の任につくや、その下には河上謹一、鶴原定吉、町田忠治、片岡直輝らの諸君があって総裁の信任厚く、山本達雄はこの時英国より帰朝しましたが、これらの人々の中にあってなんとなく隔靴搔痒の感あり、また総裁との間にも一点の間隙あるがごとく感ぜられたので、高橋は山本に向って「一層のこと相馬君に代って正金の頭取になってはどうだ」と勧めてみました。

 しかるに山本は「自分は英語がよく話せないので外人との交際が困難である。正金の頭取として外人との交際に不自由なようでは、到底完全に役目を勤めおおせることが出来ない」とて肯ずる様子がありませんでした。

 1898(明治31)年1月第3次伊藤内閣が成立して、井上馨伯が大蔵大臣に就任しました。高橋は日本銀行から正金銀行に入った当初から、日本銀行の催しにかかる宴会には、日本銀行の幹部同様招かれていました。従って岩崎総裁になってからも、前総裁と同様に知遇を受けました。

 ある時、総裁から駿河台の自邸までちょっと来てもらいたいといって来たので、早速訪問しました。するとすぐに一階の茶室ようの小室に案内されましたが、そこには岩崎総裁と田中宮内大臣とが対座して何かしきりに凝議していました。そうしてその席の給仕万端はもっぱら岩崎夫人自らこれに当り、他の人は一切出入りさせない様子がいかにも重大なように思われました。やがて総裁が高橋に向っていわれるには「君に来てもらったのはほかではない、新大蔵大臣井上伯が日本銀行総裁に対してべつに考えるところがあるかどうか、一つ井上伯を訪問して、そのことを観察してもらいたい」ということでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-24

よって高橋は早速井上を訪問、それとなく気を付けてみたのですが、べつに岩崎総裁に対して異志ある様子も認められないので、帰ってその旨を総裁及び田中宮内大臣に報告しました。

 1897(明治30)年3月高橋は株主総会で正金銀行の副頭取に任ぜられ、同年10月26日台湾銀行創立委員を仰付けられ、翌31年1月28日農商工高等会議員を拝命しました。

 これよりさき1898(明治31)年1月高橋は正金銀行の在外各支店事務視察、並びに金融事項取調べのため欧米へ出張することとなりましたが大蔵大臣井上(馨)伯から「君に少し頼みたいことがあるから今少し出発を待ってくれ」という話があったので、その通りにしました。

井上がいうには「大蔵省でだんだん調べてみると1億円ばかり外債を起す必要がある。ついてはどんな条件であれば募集が出来ようか、一つ瀬踏みして来てもらいたい。自分の考えではフランスで募りたいが、しかし事情によることであるから、必ずしもフランスと限らんでもよい」ということでありました。

 それで高橋は「そのことは、今度日本銀行から河上君一行が海外に出張するから、むしろその方に御内命になってはいかがです」というと、「いやそれはいかぬ。今俺が財政上外債を起こさねばならぬなどいったことが世間に分かっては大変だ。このことはごく内密にしなければならぬ。それで君に頼むのだ。日本銀行に頼めば、必ずそれが世間に漏れる。そうなると自分の計画に支障を来すから、誰にも言わずにいるのだ」

 それで高橋は「それはなかなか困難な取調べです。いよいよ募債すると決まった上で内々取り調べることであれば、相手の人も真剣に相談に乗ってくれるが、ただ瀬踏みだけでは相手も困るしまた真剣にもなってくれません。ことに日銀の河上君一行とは行を共にするわけではありませんが、出先で落合うこともたびたびであろうと思われます。自分としてもこの一行に何も知らさずに密かに取り調べるのは心苦しいことでありますが、大臣のお考えがそんなことであれば、出来るだけ心を注いで取り調べてみましょう」と答えました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-25

この外債についての井上伯の肚が決まるまで約1箇月ばかり高橋の出発は延ばされた次第でありました。かくて2月9日夜に至って葉山を出発、翌10日午後9時半神戸着、西常盤に一泊し、11日午前11時、汽船長門丸に乗って神戸を出帆しました。

船にはインドに帰国途中のタタ氏が同船していたので、インドから銀を取り寄せることについていろいろと相談しその結果を書面にて鍋倉(なべくら)に申し送りました。

 2月12日午前10時関門着、馬関の大吉楼では百十銀行の木梨君の接待をうけ、午後2時半船は出帆、13日午前4時長崎着、迎陽亭に投しました。この日午前中松田源五郎君が来て、貿易港としての長崎についてしきりに意見を述べて行きました。正午には農工銀行行員から清国料理の接待を受けました。当時長崎書記官であった田中隆三も同席していました。

 正金銀行の支店を長崎に置くこととなり、過日支店敷地として三菱所有の土地を買ったので、それが検分に出掛けました。いかにもその位置が良いところにあるので、そのことを書いて相馬頭取に通知しておきました。

 午後荘田平五郎君から招待をうけ、その席には岩崎久弥その他三菱の諸君が同席でした。

Weblio辞書―検索―岩崎久弥

このとき荘田が笑いながらいうには「今朝一行大勢で迎陽亭に着いたものがある。大賑わいで入浴しておったから、宿の女中に、今朝の一行は誰々だと聞くと、女中が、何でも高橋様ご夫婦にお嬢さまにお附きの人らしいということであった。ところがあとになって調べって見ると、自分たちがよく知っている馬関の大吉楼の女中や芸妓と分かって大笑いとなった」ということでした。

 1898(明治31)年2月14日午前10時、長崎をたって上海に向いました。田中隆三はわざわざ県庁の小蒸気を用意して本船まで送ってくれました。

 同月17日午前9時、上海の郵船碼頭に到着、正金から西巻支店長以下の出迎えあり、高橋は直ちにアスターホテルに入りました。

 

上海館

 上海では着後数日間はいろいろと社交的な往復や市中見物等で時を移しました。郵船の永井、領事の小田切三井物産の小室らの諸君とはたびたび往来しました。同月31日の夜には永井宅に招待されましたが、その時の同客者には盛宣懐ら清国名流の人々もいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-26

 2月23日に至って正金のロンドン支店から電信で、清国の外債1600万ポンド(日本へ渡す償金の残り)は、香上銀行とドイツの銀行とで引き受けることになったと報告してきました。また小田切領事からも書面にて今朝盛宣懐に会ったら、ロンドンの李より電信で外債は陰暦の正月末に成立したとの報告が来たとのことであったと知らせてきました。

 2月26日から上海支店の業務について取調べを始めました。今月17日以来、日々の為替の契約及びその取扱い高の報告書を出すように命じました。その当時上海支店の病根は、明治29年10月以降インドのルピーを売り過ぎてその買埋めをしなかったために、5万両(テール)前後の欠損を生じていたことでありました。しかも支店長は29年の下半期の決算書にはこの欠損を載せないばかりか、却ってそれと同額の利益を計上していた、そうして明治29年の上半期に至ってはじめてこく僅少の損失が隠されてありました。

 支店長の考えでは、今後為替の利益で漸次この損失を埋めて行くつもりでありました。

 近頃上海支店の利益が著しく少なき理由もこれによってほぼ判明しました。しかしながらこのことを公(おおやけ)にすれば支店長の更迭は免れません。かつ明治29年10月以降の決算表が正当でないということを世間に知らすことになるので、正金にとっては公にされないことであるから、その内容を相馬頭取だけに報告し、高橋の意見を述べておきました。

 かくて3月8日午前11時半、汽船ナタール号で上海を発して香港に向いました。

 ナタール号は3月10日午後11時半香港に到着しました。その夜は船中に眠って、翌朝正金支店員に迎えられてホンコン・ホテルに入りました。この時日本銀行の河上謹一君から「ベンガオル号に乗って行く、ただし都合によりポンペイには行かぬ」と電報して来ました。しかるに他方ポンペイ支店からは「検疫なしし」と連絡してきたので、「我々は予定の通りベンガオル号にてポンペイに行く」と両者に向け返電しました。

RETRIP 香港

 香港着当日から支店へ行って検査をしたり話を聞いたりしました。これよりさき香港では清国人が盛んに銀を内地に持ち帰るというので、銀の需要者が非常に多くなり、香上銀行はスタンプトダラー[弗銀(ドルぎん)に発行銀行のの証印を押したもの]を造って、それがまた大変に売れ行きがよかったのです。

Weblio辞書―検索―1ドル硬貨(アメリカ合衆国)―寂滅

 わが正金もこのスタンプトダラーの状況が大変よいので、長支店長に命じて、出来るだけ円銀を取り寄せる方法を講じるとともに、ロンドン及び日本内地で出来るだけ銀塊を買いこむように申し送りました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-27

 3月11日長支店長の晩餐の席で、香港で最も評判のよい仲買のスチュワードに紹介されましたが、この人のいうには、結局、ロシヤと日本との衝突は免れず、遠からず戦いになるだろうというような風聞がししきりに新聞、電信で報じられるということでした。

  3月17日には河上謹一一行がベンガオル号で香港に到着しました。高橋もその船に乗り込んで19日香港を発ち、同月24日シンガポール着、翌日出発、30日コロンボに着きました。

 河上の一行はここでヴィクトリア号に移乗しましたが、高橋はそのままベンガオル号でポンペイ(現ムンバイ)に向いました。ちょうどコロンボ滞在中、清国はロシヤに対し旅順太連を割譲したという電信が到着しました。これに対しタイムス紙は「英政府はすでに清国の許したものを覆すの意思なし」と論じている旨を報せられましたが、香港電報はこれと反対に英国の東洋艦隊は開戦の用意をなし、北上しつつありと伝える有様でした。

 コロンボより4日にして4月3日午後8時ポンペイに着きました。正金支店の店員が出迎えに来ましたが、夜もすでに遅いので、明朝上陸することにしました。4日上陸、それから12日までポンペイに滞在しました。

 4月7日には現地人の女の踊りに招待され、美しい衣装を着た娘たちが歌い、かつ踊って、主人は高橋たちの首の廻りに香気の強い花の輪をかけてくれました。一日寂滅塔(Towerof silence)を見に行きました。これは印度における或る一派の宗教の慣習によって、死人の屍をこの寂滅塔の大きな円形の塔上に運んで横たえ、鳥たちが屍を食い啄ばむに任せるのです。高橋はこれを見て不愉快になりました。

RETRIP ムンバイ

  4月12日ポンペイを発して欧州に向いました。ペルシャ湾を横断するのに5日を要し、、17日午後2時アデンに到着しました。船中でフランス公使館のアダムと懇意になり、この人を介して、殖民省の局長ラウンを知るに至り、同氏は前商務大臣シーフィールドに添書を書いてくれました。

 17日夜半アデンを発し、22日午前8時スエズに着きました。かくて4月27日午後6時マルセイユに到着、正金のリオン支店から市川君が迎えに来てくれて、ホテル・ジュネーブに入りました。マルセイユ到着の当夜及び翌日は市内の見物に時を費しました。

 シャリロンズ・ブリガローで朝食に鮮魚と牡蠣)かき)の料理を食べましたが、久しい航海の後ではあるし、一層の美味を感じました。

 4月28日ごご8時15分マルセイユを発し、翌日午後7時35分にロンドンのチアリング・クロス・ステーションに着きました。そうして中井支店長らに迎えられ、直ちにド・ケーゼル・ロイヤル・ホテルに入りました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-28

 当時の駐英公使は加藤高明で、サセックス・スクエヤーに自邸がありました。また荒川君がロンドン総領事で、ポーランド・ロードの官舎に住んでいました。三井の支店長が渡辺専次郎で井上準之助日本銀行から留学を命ぜられて、パースバンクに見習として入っていました(「男子の本懐」を読む10参照)。また正金の竹内金平も帝大を出たばかりのところで始終訪ねてきては、正金の組織改正に関する意見など熱心に話していました。

近代日本人の肖像―日本語―人物50音順―いー井上準之助―かー加藤高明

  河上謹一は高橋よりも先に着いておりましたが、高橋がロンドンに着いたころは咽喉を患い、少し熱を出して床についていました。その後よくなり5月5日リバプールに向け出発しました。

 高橋は5月18日に至って、初めてパースバンクに行き、重役のウイリアム・ダンおよびロンドン支店の支配人ホーウエに会いました。また同月20日には同じくパースバンクでシャンド(「天佑なり」を読むⅠ―4参照)の紹介により、手形取扱銀行業者のフレーザーに会いました。高橋はその時かねて井上蔵相から頼まれていた公債発行の可能性如何を探ろうと思って、それとなく問いかけたら、同氏は「この前の四分利公債は成績良好でなかったが、これは今後の公債発行に不利益な影響を与えるものである。また一時に1600万ポンド(当時の換算相場で我が1億円)というような巨額の発行をすることは不利益であって、ロンドン市場の消化し得る最高額はまず500万ポンドの程度が止まりである。初めて募集する場合は出来るだけ額の少ない方がよい。3箇年に割って払い込むようなことは決して賢明な策ではない。今日のロンドン市場の状況では、むしろ日本の大蔵省証券額面で発行できるだろう。ただしそれでも第一回の発行に当っては下受人を通ずるがよい。もし大蔵省証券でなく、公債を発行するならば、どうしても下受けの方法によらねばならぬ。そうして四分利附でで、額面の90%で発行することが出来たら成功と思わねばならぬ。しかしながら財界の状況は常に雲の如く変わるので、よく視察して誤りなきようにすることが肝腎である。また鉄道公債については、今ロシヤ政府がやっているようにしたらよかろう。ただしその額多きに過ぎるときは公募者は担保を要求するようになる。」

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-29

 「次に、国内の工業に外資を輸入せんとするときは、土地を担保とすることが一番適当である。もっともその土地に課せられる税金が、公平にして不動なることを必要とする。外資を輸入するも一つの方法は銀行を経て吸収することである。それは一種の通知預金の形をとればよいのである。

Weblio辞書―検索―通知預金―牧野伸顕

即ちかりに正金銀行ががその衝に当たるとすれば、正金は12箇月期限の預金に対して四分半の利息を附す。ただしこれを期日前に引き出す場合3箇月以前に銀行に通知することを要す。なお12箇月以上の長期間を預金したき人に対しては、支配人において特に御相談に応ずと新聞に広告したら、相当に資金を吸収することが出来よう」ということでありました。

  公債募集の可能性如何については、主としてシャンドの意見を聴きました。シャンドはこの外にロンドン商業会議所の会頭モールレー、スターチス誌のロイド、チアターバンクのバッドらの諸氏を紹介してくれました。これらの人々からも種々の意見を聴くことができました。そうして外債募集の可能性如何に関する諸家の意見をまとめ、さらに自己の意見を付して井上伯に報告しました。

 1898(明治31)年8(6の誤り?)月4日ロンドンをたって、(欧州)大陸旅行に上りました。一行は河上謹一、伊藤欣亮、植野繁太郎、赤石及びリオン支店の市川並びにに高橋の6人でありました。この大陸旅行はおよそ1箇月ばかりでしたが、多くは、博物館、公園、劇場、寺院、美術館等の見物でした。

 微かなる記憶によれば、ドイツでは有名なるメンデルスゾーン及び独亜銀行の頭取や重役に面会しました。またベルギーでは国立銀行総裁に面会して意見を聞きました。日本人では牧野伸顕らに会いました。

 大陸旅行中も井上伯から頼まれた外債募集の一件は、細心の注意を払って研究していましたが、高橋が会った人の中で、ある公使の如きは、すでに井上伯から、その事を申し送られて承知しているかの如き感を起さしめるものもありました。しかしながら、そんな人との話でも、高橋はあえて具体的の話に触れることなく、ただドイツやフランスで、公債募集の可能性ありや否やを測量するに止めました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-30

この点について、大陸を通じて高橋の感じたことは、専門の証券売買業者などで日本公債の利回りがよいと言って親の遺参を受け継ぎ暮している遺族や未亡人または貴族らに日本の国債を勧めているような向きもないではなかったのですが、大体においてドイツでもフランスでも一般公衆は日本の公債など知らぬ人が多く、ほとんど問題になっていなかったようでありました。

 大陸の旅行を終わって、再びロンドンに帰ったのは、1898(明治31)年7月10日でありました。早速加藤公使を訪問して外債募集の件で意見交換をしたのですが、すでに公使には井上蔵相から書面が来ていたと見えて、そのことを承知しているようでした。

 桑港の正金支店にあて、桑港より横浜への便船を問い合わせたところ、ベルジック号が9月3日にコブティック号が9月22日に桑港を出るというこででありました。よって7月23日リバプール発のルカニカ号で英国を去り、9月3日のベルジック号で桑港を出発することに決し、その旨日本及びニューヨークに電報しました。

 かくて高橋は7月23日キューナードの特別列車でユストン停車場を発し、午後4時半にリバプールに向いました。加藤公使その他多数の見送りを受けましたが、その節加藤公使の言に、「外務大臣から外債のことで電信を受け取ったが、そのことはすでに井上伯に報告してある事柄であったから、その事由をいって返事をしておいた。もはや募集のことが確実にならなければ、これ以上尽す手段はない」ということでありました。

 大西洋の航海は極めて穏やかに、7月29日ニューヨークに着きました。ドイツまで迎えてくれた正金出張所員の案内でフィフスアベニューのワアズロファースト・ホテルに入りました。

  ニューヨークには約10日簡滞在、当時の正金出張所長は長崎君で岩原謙三が三井物産の支店長でありました。 特許取調べ当時に大いにお世話になったズリー(「天佑なり」を読むⅡ-8参照)が友人のアルフレッド・ブランマーを伴ってやってきたので、共に食事して会談しました。

 かくて8月10日午後6時ニューヨークを発ってナイヤガラに向い、長崎夫妻も同行しました。翌日午前8時ナイヤガラに着き、その日は終日馬車で見学しました。8月11日午前6時20分ナイヤガラを発ち、車中4日にして8月16日午後8時45分桑港に到着しました。

RETRIP―ナイアガラ

 正金の青木支店長その他の店員がオークランドまで迎えに来ていました。一緒にパレス・ホテルに行って晩餐を共にし、夜の12時まで話しこみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-11

 高橋が行くと総裁は床の上に坐って、大本営天皇に拝謁を賜ったことを感激に満ちた言葉で話し、かつ伊藤総理から日本政府は今回朝鮮の内政を改革し、独立を扶助するの費用として、同国政府に対し、300万円を用立てることになったから、日本銀行で骨を折ってもらいたいとの話があったので引き受けて来た。ただしその貸金に対しては、この通り日本政府の保証を得てきたといって、伊藤さんからの書付を示されました。

 高橋がその書付を読んでいると、「只今藤田さんが、御見えになりました」と取次いできました。すると総裁は坐ったまま「ウン、こちらへ」と軽く指図しました。

 そこへ藤田と称する人がやってきたので、見ると痩せぎすの身長の高い男で、着流しに縞の羽織角帯という姿、それに総裁との挨拶ぶりも大変隔意のない様子でしたから、高橋は「ハハアこれや総裁お気に入りの骨董屋だナア」と思いました。

 高橋は藤田とは初対面でしたので、黙ってさきの書付を読んでいると、総裁は「まず三井、岩崎らにも相談して、いけなければ日本銀行だけでも調達せねばならぬと思って、その書付を取って来た」と話すので、高橋はこの書付についての腹蔵ない意見を次のように述べました。

 「第一この際日本政府から直接朝鮮政府へ貸付をすることは、列国との関係上どうでしょうか、懸念すべきことはないでしょうか、この点は政府が最も慎重に考えねばならぬことと思います。第二は、この書付は日本銀行に対して政府が保証するというけれども、総理大臣伯爵伊藤博文一個の署名があるばかりです。私が考えるに、政府の保証は帝国議会の承認を経ざれば、その効果を生じてこないかと思います。それでも内閣全体が責任を負うというなら、これに関与する大蔵、外務両省大臣の署名があるはずですが、それがないところを見ると、閣議も経ていないことは明らかです。いずれの点から見ても、この書付では保証の効力を生じてきません。いわば反古同様のものとおもいますが、どんなものでしょう」

 すると今までニコニコ顔だった総裁は俄かに怒気を含んで「君は何をいうのだ。総理大臣の署名捺印があるのを反古同様とは何事だ。君は俺が反古紙を掴んで来たというのか。俺の配下には君のようなことをいう人はいないはずずだ」と怒号しました。その時骨董屋とばかり思いこんでいた藤田が、突然座を起って縁側に出て「高橋さんまあここへおいでなさい、庭の景色でも見ましょう」と呼び出しました。高橋はこう総裁を怒らせては病気に悪いだろうと心配するとともに、縁側から声をかけられて始めて、ハハアこれが有名な藤田伝三郎であったナアと気が付きました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-12

 高橋は藤田の言をいい機会に縁側に出て藤田のワキに立ちました。すると藤田は小さな声で「病人とあまり議論しては病人のためによろしくない」と注意してくれました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー伊藤博文―ふー藤田伝三郎―むー陸奥宗光

 そこで高橋は暇乞いもせずに辞去し、その足で早速大阪支店に鶴原定吉を訪ね、今日の経緯を話して、「総裁が俺の配下には君のようなことをいう人はいないはずだと言われたのは、結局辞めろということになる。俺はここで辞表を書くから君はこれを総裁に取次いでくれ」というと、鶴原はカラカラと大笑いして「君は総裁の真意を悟らないのだ。目下井上さんが朝鮮にいるだろう、それで藤田の来たのを幸いに、君にその話をして、いかに総裁が朝鮮金融のために尽力しているかということを藤田に聞かして、藤田から井上さんに通じさせようというのが本当のはらの中だ。君も知っている通り、総裁と井上さんとの間はこれまであまり面白くなかった、そこへもってきて君がケナしたから怒ったんだ。辞表をだすなんて決してそれに及ばぬ、マア俺に任せてくれ。俺は午後から総裁を訪問する。4時ころにはあっちに行って居るから、君もそのころ総裁のところに来てお詫びをしたらいいじゃないか」といいます。

 そこで鶴原のいう通り、また総裁を訪ねると、総裁と鶴原とで大声あげて大笑いしながら、機嫌よく話しています。高橋が挨拶すると、総裁は「朝のことをいま鶴原と話して俺がよいか君がよいかを判断させているのだ」と笑いながら言って何事もなく、それなりに済みました。後でこのことについえ仄聞するに、三井、三菱も調金に同意せず、結局議会の協賛を経て、公債を発行することになったということでありました。

 清国と開戦以来連戦連勝。黄海、威海衛にに北洋艦隊を撃滅、北京を攻撃せんとする勢いを示すに及んで清廷は驚き、講和を希望、直隷総督粛毅伯爵李鴻章をもって頭等全権大臣に任じ、正式完全の委任状を授け、日本に特派談判させることとしました。談判地は馬関の春帆楼(「大山巌」を読む39参照)と決定、1895(明治28)年3月3月17日には講和全権大臣外務大臣陸奥宗光が来関、次いで同月19日午前8時首席全権大臣内閣総理大臣伊藤博文伯が到着しました。

 するとまもなく午前9時ころ清国講和全権李鴻章一行を載せた船舶一隻が関門海峡に投錨しました。

Weblio辞書―検索―李鴻章―北洋艦隊

 高橋が陸奥宗光に挨拶に行くと、今度の談判は十中の六、七は結了むつかしかるべしのことであったが、高橋は当局大臣の常套語とばかり聞き流しました。

 このとき大蔵大臣渡辺国武は辞任、逓信大臣に転じ、前首相松方正義が蔵相に就任しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-13

 戦後経営の中で最も重要な国務は財政であって、松方蔵相は今回の賠償金を英貨(ポンド)にて受け取り、わが国を金本位制になすの方針を取ることと思われたので、高橋はその意味をもって川田総裁に意見書を送りました。

  1895(明治28)年3月20日馬関春帆楼上で伊藤全権対李鴻章との第1次会見が行われ、この日は互いに所持する全権委任状を査閲し、その完全なるを認めてこれを交換した後、李全権より講和談判開始の前に、休戦の事項を議定しおかんことを提議しました。伊藤全権はその件について明日回答すると言明してその日の協議を終了しました。しかし休戦に関する両国の合意は成立せず、同月24日第3次会見で直ちに講和談判にはいることを要望、よって日本全権は明日講和条約案を提出することを約し、これを以って第3次会見は終了しました。

 同日午後4時ころ、李鴻章は春帆楼を出て、その旅館に向う途中、往来の群衆の中から兇漢が前方の巡査2名を押しのけて、ピストルで輿中の李鴻章を狙撃、重傷を負わせました。兇漢は直ちに捕縛されましたが、李鴻章は傷口をハンケチで抑えながら旅館へ帰り、直ちに治療を受け、市民は致命傷でなかったことを喜びあいました。

 李鴻章遭難の報告を受けて、天皇は石黒軍医総監並びに佐藤博士を派遣、佐藤博士を治療に当たらせるとともに、天皇の命により、わが全権は3月28日李経方と会見して4月20日までの休戦を通告、同月30日これに関する条約を締結しました。

 李鴻章の遭難後、馬関市民は数名の総代を選出して慰問することを決議しました。しかし清国側はこれを拒否して受け入れませんでしたが、李鴻章の容態も良くなると、随員たちも見舞をうけいれることになりました。

 そこで馬関市民は生魚を贈ることに決し、高さ1尺5寸、方6尺ばかりの四面硝子張りの箱を作り、これに潮水を満たし、馬関海峡でとれた数種の生魚や貝類を入れ、それを李鴻章の病室に運び入れました。李鴻章はこれを見てすこぶる満足の態でありました。

 李鴻章は同年3月30日休戦条約が締結されると、早速講和談判に取り掛かることを要望、わが全権は4月1日講和条約案を清国使臣に送達しました。李鴻章はこれより自国に有利な交渉を成立させようと努力しましたが、4月13日から14日にかけて、わが60隻余の運送船が兵員人夫ら約10万名を乗せて馬関海峡を通過しました。

 李鴻章らはこれを見て驚き、本国政府に打電、速やかに廟議の決定を促したとのことです。このような事情で講和談判は進み、4月17日には最後の談判が開かれました。

 この日伊藤伯が元気に帰ってきたところで、高橋は記念のため字を書いてもらおうと墨をすって待っていました。すろと伊藤は何でも額や軸を合せて十数枚書き与えてくれました。高橋はこのとき5、6枚手にいれましたが、只今手元にあるのは「大観」という額だけです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-14

 講和談判の成り行きについて列国は非常な注意を払っていましたが、露国は遼東半島の割譲をもって自国の東方経略を阻害するものとし、突如4月24日仏独両国を誘い、わが外務省に対して「貴国が遼東半島を永久に領有するは東洋永遠の平和によろしからず、よってこれを清国に還付し、世界の平和に資せられんことを望む」と通告して来ました。

 御前会議は連日開かれ、その結果6月5日遼東半島還付容認の旨を3国政府に回答することとなりました。高橋は5月23日高橋健三に答えた書面(省略)の中で、臥薪嘗胆の思いを述べtいます。

Weblio辞書―検索―臥薪嘗胆―馬蹄銀

 講和談判終了のころから、コレラも下火となって、戦争中途切れていた外国船も漸く入港するようになり、かつ7、8月ころまでは御用船の要する石炭もまた少なくないので、石炭の値下りも底をみるようになりました。

 また九州方面においては、戦争中、中小農者の手元に小金ができたため、相当衣服などの需要も起り、7、80銭乃至1円4、50銭程の反物が平生の倍以上も売れるようになりました。これに反して所得税を納める階級にあっては、義務的に軍事公債に応じたために、その払い込みに苦しむという有様で、例年4、5、6の三月は金融緩慢に終わるのが常ですが、このような事情で各銀行とも非常に貸出が多くなりました。

 その内に出征軍人が引き揚げて来て、惜しげもなく金銭を消費するので、魚、鳥肉、野菜などは平生の3倍以上にも騰貴しました。また軍隊はいろいろの分捕り品を門司の倉庫に運び込みましたが、そのうちに400万両の馬蹄銀(「坂の上の雲」を読む19参照)もあるという噂でした。

 ある時支店員の一人が小さな馬蹄銀を珍しがって高橋の所に持って来ました。そうして「これが評判の馬蹄銀です、珍しいよい記念品です」といううので、「どうして手に入れた」と訊くと「始終店に来る軍人からもらったものですが、支店長も一つもらっておかれてはどうですか」というから、高橋は「およそ分捕り品というものは国家に帰属すべきもので、軍人がこれを私すことはできないものだ。従ってそれをもらって所持しているのはよろしくない、君はそれを帰してしまい給え」といって返還させました。

YAHOO知恵袋―中国の古銭に馬蹄銀などがありますが 

 6月中旬井上(馨)伯は朝鮮より帰朝、その途上4、5日の間馬関に滞在しました。このとき井上は三国干渉後の対朝鮮外交の困難について高橋に語りました。

 1895(明治28)年8月高橋は日銀総会に出席のため上京しました。当時川田総裁はまだ健康を回復せず、浜田の三野村別館に静養していました。上京中2度目に総裁を訪問すると、総裁は突然高橋に(横浜)正金銀行(三菱東京UFJ銀行の前身、「男子の本懐」を読む13参照)入りの話を持ち出しました。

Weblio辞書―検索―外国為替―小泉信吉―山本達雄—横浜正金銀行

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-15

 その大要は「従来日本銀行は低利の金を正金に融通して貿易の発展に尽力してきたが、どうも正金のやりかたには意に満たないところが多い。

そこで先に小泉信吉(慶応出身、福沢の弟子)を本店支配人として入れ、正金銀行をもっと国家的に働かせようと思ったが、園田頭取をはじめ相馬永胤らその店の旧店員がいて、なかなか小泉の意見が行われない。結局小泉は日本銀行との板挟みになって、とうとう自棄酒を飲んで、そのため死んでしまった。

 最初日銀から低利の融資を受ける際に今後本店支配人は日本銀行総裁が指名するという条件をつけておいたので、小泉の死後正金側から度々本店支配人を決めてくれと言ってきたが、彼等が万事日本銀行の指図通りに致しますと反省してくるまで、何も取り合わぬつもりであった。

 ところが3週間ばかり前に園田孝吉らがやってきて、すべて総裁のお指図を守ります。どうか本店支配人を決めて下さいと頼むから、それじゃ一人世話しようと言っておいた。ついては甚だ気の毒だが、俺は君に行ってもらうつもりだ。そうして十分にあすこで腕を揮ってもらいたい。もっとも君一人でも困るだろうから、も一人山本達雄を平取締役として日本銀行と兼務させるつもりだ」と懇々と話しました。

 そこで「私は西部支店長になってからはじめて銀行業務というものを習得しただけで、外国為替などについてはまだ何の知識経験もありません。しかしながら山本君が取締役としてて入ってくれるなら、出来るだけ腕をふるってみましょう」と正金入りを承知しました。そこで事務引き継ぎのため、1日馬関に出掛け、帰京すると同年26日横浜正金銀行本店支配人の辞令を受けました。時に高橋は42歳でした。

  その当時の正金銀行は内勤外勤あわせて80名足らずの行員で園田頭取および相馬取締役は2階の頭取室に収まり、高橋ならびに山川勇木、戸次兵吉、川島忠之助の各支配人は階下の本店支配人室に机を並べて事務に当たっていました。

 正金の主業たる為替事務は戸次支配人の担当で、高橋はこの戸次、山川両君から、為替相場の建て方、売買の関係、得意先並びに海外支店の関係について、詳細を習得しました。

 ある日のこと、日本銀行から通知があって、「このごろ清国から捕った償金の英貨ポンドをできるだけ速やかに内地に移したいが、正金銀行は1年にどのくらいの額を移すことが出来るか、それを調べてみよとの大蔵省からの内命である。ついては至急調べて回答してもらいたい」ということでありました。

 正金銀行では早速園田頭取、相馬取締役以下各重役、支配人らが集って、これに関する会議をもち、得た結論は、せいぜい努力して1カ年に為替で1500万円、銀塊で1500万円、会わせて3000万円しか移せないということでありました。

 元来為替で取り寄せるというのは、売為替(送金為替)を利用することで、その主なるものは輸入品代価、政府の海外諸払い、留学生の学資等であって、なかんずく政府の海外払いは、その中で最も多額を占めているのですが、政府は今後これが決済をすべて直接ロンドンにある英貨ポンドをもってするよう決したので、正金の売為替はそれだけ減少する次第であります。ゆえによほど勉強しても、為替で1カ年に1500万円取り寄せることは困難です。さりとて銀塊のまま取り寄せるには船繰りの都合並びに保険料の関係から一船100万円以上は送れません。そうすると銀塊の現送も1カ年せいぜい1500万円程度を上ることはできません。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-16

 それで高橋はこの結果を日本銀行に復命すると、「そんなことでどうする、3億円を取り寄せるのに10年かかるようでは世間の物笑いだ、そのことについては君が直接松尾理財局長に会って話をするがよい」ということでした。そこで高橋は大蔵省に松尾理財局長を訪ねて「大蔵省では一体どのくらい取り寄せたら満足されるか」と尋ねたら「いくらでも多いほどがよい」との答えでしたから「それなら私もよく考えて出来るだけ御希望に副うようにしましょう」と言って銀行に帰ると、すぐ他の3支配人を集めてこのことを報告しました。このとき高橋は正金銀行に入って以来、はじめて業務上に関する自分の意見というものを述べました。即ち「だんだん諸君のおかげで海外為替というものが解ってきた。それにつけ自分にも呑みこめず、かつこれは改めねばならぬと思うことは為替相場の建て方である。従来正金が為替相場を公表するのは、毎日午前10時外国銀行が店を開いた後になっている。それは外国為替仲買人のベンネットが香上銀行の相場が決まるとすぐに電話をもって知らせてくる。正金はそれによってはじめてその日の相場を決定発表するからである。しかるにロンドンの銀塊相場は正金にも外国銀行にも同様に、毎日前夜の内に到着している。しかも正金は毎日午前9時から店を開いているのに、外国銀行は午前10時にならねば店を明けぬ。かくロンドン相場は同時に受け取り、店は1時間も早く開いておきながら、外国銀行の相場が建たねば自分の相場を決める事が出来ぬとは、いかにも見識のない話だ。よって今後は店を開くと同時に、正金は正金独自の相場を建て、横浜の得意先には郵便ハガキ大の紙に印刷してそれに売買相場を書きいれ、小使をもって配布させる。東京の得意先には郵便をもって発送するようにしたい。

 次に主な日本商人及び外国商館を得意先として吸収する方法を講じねばならぬ。現に郵船会社の如きは近ごろ新造船を8隻も英国に注文しなあがら、一向に正金を利用してくれない。また三菱のごときも長崎に造船所を持っており、少なからず造船材料を輸入しつつあるに拘わらず正金の得意先となっていない。ゆえにまずこれら主要なる日本の輸入業者を勧誘し、進んで外国商館に及ばねばならぬ。これまでの営業の実際を見ると、輸出為替の場合は外国商館も正金を利用しているが、売為替の場合は正金に頼まない。これ畢竟正金の信用が薄いからであろう。輸出為替はこれを取り組む者がまずもって銀行から金を受け取って後に外国で支払うものである。これに反して送金者はさきに正金に金を渡して後で外国で受け取る立場にあるものである。考えてみれば正金に先に金を渡すことが不安心ということが元になりはせぬか」というと、皆が「外国の輸入業者を得意とすることは容易なことじゃない」と異口同音にいうので「それなら外国銀行よりも取り組み者に対し幾分利益を与えることにしたらどうであろう」というと、戸次が「それならボツボツ来ましょう」ということであったから、まず正金銀行では店を開くと共に独自の為替相場を発表すること、輸入為替(送金)については外国銀行よりも1/16だけ勉強する(送金で英貨に換算する際、1円につき1/16ペンス安くする、幸田真音「前掲書」下巻)ことに意見一致しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-17

 正金銀行では既述の通り営業方針を決定したので、高橋は大蔵省の松尾理財局長を訪問してこれが説明をなし、その諒解を求めました。ところがあれだけ理財のことに長けた人であるけれども、外国為替に対しては知識がなかったので、為替の売と買、電信為替、参着為替(中国語 支払人によって支払い期日が決定される為替手形)等を説明して頭に入れることにはなかなか骨が折れました。結局は正金が自分独自の相場を毎日公表すること、また輸入為替については、外国銀行ののその日の相場より1/16くらい勉強して取り組み、だんだんと外国商館を得意にする手段を取りたいが、それは許してもらえるだろうかと尋ねると、しまいには松尾局長もよく解って、「うん、それはそうしなくてはなるまい、その方針で一つうんと勉強して、得意を取れるだけとてみよ」と言ってくれました。

Weblio辞書―検索―外国為替市場

高橋はこれだけの承諾を得て横浜に戻り、まず第一に郵船会社の副社長加藤正義に会って、「君の方ではこれまで外国と随分たくさんな取引をしているに拘わらず、何で正金を使わないのか」と聞くと、加藤が「どうも正金銀行は店のものがみな嫌がっている。あすこへ行くとお役所へ行ったような気分だ。つまり不親切だ。それよりも香港上銀行かチアター銀行へ行けば非常に丁寧にして、快く為替を取り組んでくれるから、自然脚が正金に向かないといっている」というので、「それはごもっともだ。今後はこれまでと異って万事注意する。郵船は国家的の会社であるから、どうせ使うなら同じ国家的の正金銀行を使ってくれ。それに送金為替については外国銀行に比べて、必ず1/16だけは勉強する」と言って懇談したら、加藤も大変によく解ってくれて「君がそういうなら取引することにしよう」と賛成してくれました。それから三菱の豊川良平の所へ行って、同じく上述の事情を話し、今後は是非正金を使ってもらいたいと懇談すると、同君もよく諒解して、そのことを承認してくれました。

近代日本人の肖像―日本語―人物50音順―とー豊川良平

 ただし豊川がいうのには、「実は香上銀行で為替を取り組むと、神戸の店では20万円までは無担保で当座貸越しを認めてくれる。三菱では輸入為替の取り組は神戸と長崎とが一番多いのであるが、正金でも20万円までは、無担保で当座貸越しを承認してくれねば困る」というので、そのことは一も二もなく承認しました。すると豊川が「それでは神戸の方だけは全部正金に頼むこととしよう。ところが長崎の方はこれまでのホームリンガー商会との取引関係上、今俄かに変更する訳には行かぬ事情があるから、今しばらく待ってもらいたい。そのうちに機を見て長崎の方も必ず正金に頼むようにするから」ということでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-18

 内地の主な輸入業者である郵船、三菱等もかようにして説きつけたので、今度は外国商館に談判をはじめ、当時の外国商館で主な輸入商はスタンダード石油会社でありましたから、早速そこの支配人を訪問して、輸入為替については香上銀行やチアター銀行よりも1/16だけ勉強するからと言って頼むと、採算に明るい連中であるから、よく解って、これも正金の得意に引き入れることができました。

 以上のごとくにして営業のやり口を変更し、かく商館を廻っては熱心に勧誘しかつ勉強したので、1896(明治29)年1、2、3の3箇月だけでほとんど40万円(予約共)の金を為替で取り寄せることができました。実際当初予定したのよりも案外好成績を収めた次第でありました。

 これよりさき、1889(明治22)年10月、確か松方大蔵大臣の時であったと思います。政府は従来正金銀行に対してなし来たった外国為替資金の支出を停止し、これに代わる措置として大蔵大臣は時の日銀総裁富田鉄之助に、正金銀行所有の外国為替手形(輸出手形)を低利に再割引するよう命じました。しかるに日本銀行は正金の営業ぶりを信用せず、むしろ日本銀行自ら海外為替の取り扱いを開始し、内地人の直輸出奨励の衝に当らんとし、容易に松方大蔵大臣の方針に従うわなかったため、富田総裁は退職となり、川田小一郎が代わって日銀総裁の地位に就きました。

 川田総裁は正金所有の輸出手形に対しては、1000万円を限り年2分の低利で再割引することを承認し、同時に今後正金銀行の本店支配人は日本銀行総裁において指名すべきことを決定しました。かくて小泉信吉の正金入りとなり、彼の病没後、1895(明治28)年8月高橋に正金入りの交渉があったことはすでに述べた通りであります。

 よって高橋は正金入りの決心をするとともに、川田総裁に向い、自分は総裁の命に従い、その国家的方針の実現につとます、ついては従来の再割引限度1000万円を1500万円に増額し、かつ別に年2分の低利にて、400万円までの当座貸越しを許されんことを希望したところ、総裁は快くこれを承諾しました。

 そうして「今後正金銀行は為替業務のほかに、我が国の貿易に関する内外人の間を斡旋して、その媒介者となり、もって内外人会合の機会を作るよう心がけられたい」と附言しました。

 次に高橋は当時行内に蟠っていた党派的弊風を除去し、支店長級の人物を養成するため、行員採用の門戸を広めることに努力しました。正金銀行の店員は最初80人足らずでありましたが、そえぞれ系統があり閥があって、最も威勢を張っていたのは相馬、戸次系であって、その閥に属せずんば正金における出世栄達は望まれぬという状態でした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-19

 そこで高橋は園田頭取と協議し、これが調査委員を設け、戸次支配人を委員長とし計算課長沢井宗之、同課員豊間根繁吉、岡田松太郎、原田武、及びこの目的のために川田総裁に請うて貰い受けたる田中久吉を加え6名をもって委員として、計算課長の机底深く秘められて容易に見ることのできなかった計算規定を審議せしめました。かくて完全な計算規定が出来上がると、これを印刷して本店員および支店員一同に配布し、また新たに銀行に入って来た者には一々それを授けることにしました。そしてこの規定は1897(明治30)年1月から実施しました。それ以来店員はだれでも事務に明るくなることができ、かつ一通り簿記の心得ある者は、その規定さえ見れば、直ちに事務を執ることが出来るようになりました。

 正金銀行は3月10日と9月10日とに半期半期の決算をして総会を開くことになっています。ところが29年の3月の総会にだす決算表について議論が起りました。この期においては総利益の内から規定の株主配当金その他を差し引いて、なお約15、6万円の後期繰越金をなすことになりました。

 しかるにこの後期繰越金について、重役の中から反対論が出てきました。従来繰越金は5万円を超えざるものとしてあります。もし5万円以上の繰越金をなせば、株主総会では、その金を以って株主配当金を増せよとの議論が起ってきます。ゆえに繰越金を5万円以上にすることはよろしくないというのが反対論の骨子でありました。重役中この議論の最も強く主張したものは若尾逸平でありました。

 若尾は「君は正金銀行に入り立てで、その成立の経緯を御承知ないのだ。自分は創立当時からの株主である。当時は銀紙の差が甚だしい時であったが、株の払い込み金に際しては、100円の株に対して2割の正貨の銀で払い込んだ。これを紙幣に換算すれば全部で120円となる。しかるに今日正金の株は額面以下になっている。寸なわち株主は実際において120円を払い込んでいるが、正金株の相場は額面以下になっている。即ち株主は実際において、120円を払い込んでいるが、正金株の相場h90円前後しか唱えていない。ゆえにこの際に繰越金を増すどころじゃない。それを減らしても配当を余計にせねばならぬ。自分は先年山梨県で田地を買ったが、当時1段歩20円で買ったものが、今日では10倍にもなている。しかるに正金の株は120円も払ったものが90円前後とはいかにも不釣合いだ、自分はこの際繰越金を増やすことには同意できぬ」となかなかの鼻息でした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-20

 そこで高橋は「実に驚き入った議論を聞くものだ。そもそも正金は株主の利益をはかるためにのみ作られたものではない。実にわが対外貿易の発展のために設けられたる唯一の金融機関であって、その業務遂行に当ってはもとより国家の利益を先にせねばならぬ。正金の国家に対する任務は極めて重大である。しかしてこの任務を果たすためにはまず持って国の内外における信用を高めねばならぬ。それには銀行内部の基礎を堅実にすることがもっとも肝要である。その手段として毎期の繰越金のごときはもっとも多額を計上する必要がある。君のような重役がおっては、私はこの銀行に勤めていることはできぬ。君の議論のごときは正金銀行の役員として口にすべからざることだ」と痛撃しました。

 他の重役連は「それは高橋君のいう通りだろうが、従来の模様を見ると株主総会がなかなかやかましかろう」といいます。そこで高橋は「もし株主総会にて、この原案が通過しないで自分たちの利益のみ顧みるならば、我々一同は決心して辞表を出せばよいではないか」と突っ張り通して、とうとう自分の出した原案通りの決算表を、株主総会に提議することとなりました。しかるに株主総会においては、一人もこの原案に反対するものはなく、後になって皆が今度のように無事にいったことはないというほど楽々と通過しました。

 これは日銀と正金との関係がやや明瞭となって、日銀総裁の隠然たる勢力が影響した結果といわねばなりません。そして高橋はこの総会において改めて取締役に選はれ、本店支配人を兼ねることとなりました。

 この時代正金本店と海外支店との間に往復する電信料は相当多額に上っています。高橋は新たに正金独自の電信暗号を制定するとともに、特に2名の係員を任命して、発着の電信につき調査せしめ、かつ常に新暗号を増加補充していく方法を取りました。この実施の結果、山川支配人の計算によると、電信往復の増加に拘わらず、経費は却って半期に6万円の減少を見たということでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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