幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-11 

さて、英国銀行家の持ちだした条件について、高橋は早速本国政府に対し電報をもって打ち合わせをなし、発行限度の最高額300万ポンドというのを、政府の希望1000万pンドの半額500万ポンドに、期限の5カ年を7カ年に発行価額92磅というのを93ポンドに訂正すること主張して譲りませんでした。この点もついに英国銀行家の承認するところとなりました。 

 この際高橋がもっとも苦慮したことは、いよいよ公債の発行並びにその条件が合った後、未だ実際に公債を発行せぬ間に、そのことが市場に漏れては少なからず弊害を生ずるので、それについての対策でありました。けだし発行前に漏れると、第一投機者流が思惑の売買をやり出す、また当時フランス金融勢力は日本の公債発行に反対であったので、この方面から邪魔が出て来る虞もあったのです。 

 ゆえにすでに内相談が極まった以上は、未だ世間に漏れざる内に一日も早く発行することが必要でありました。実際今日まで運んでくる間にも一番困ったのは、公使館や領事館の人々から、公債の成り行きを尋ねられても、言うことが出来なかったことです。ただ林公使だけ、維新前からの知り合いで、お互に気心もよく分っているので時々高橋は見込み話として成り行きを話していましたが、他には一切話しませんでした。 

 さて、上述のごとくして銀行家との相談が纏り、いよいよ仮契約を結ぶまでに運んだのが、4月23、4日であったと思います。しかるにここに偶然のことから一つの仕合わせなことが起りました。 

  それはかつて日本へ来た高橋の友人ヒル氏が、高橋が仮契約を取り結ぶまでに運んだということを聞き知って大変に喜び、一日ねんごろな晩餐に招待してくれました。その時ヒル氏の邸で、米国人のシフという人に紹介されました。シフ氏はニューヨークのクーンロエプ商会の首席代表者で、毎年恒例としているヨーロッパ旅行を終え、その帰途ロンドンに着いたところを、ヒル氏の懇意な人とて同時に招待をしたのでありました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-12 

 いよいよ食卓に着くと、シフ氏は高橋の隣に坐りました。食事中シフ氏はしきりに日本の経済上の状態、生産の状態、開戦後の人心につき詳細に質問するので、高橋も出来るだけ丁寧に応答しました。そうしてこのころようやく500万磅の公債を発行することに銀行者との間に内約が出来て満足はしているが、政府からは年内に1000万磅を募集するように、申しつけられている、しかしロンドンの銀行家たちがこの際、500万磅以上は無理だというので、やむを得ぬと合意した次第であるというような話もし、食後にもまたいろいろ話をして分れました。 

 ところが、その翌日、シャンド氏がやって来て、パアース銀行の取引先である銀行家ニューヨーク、クーンロエプ商会のシフ氏が、今度の日本公債残額500万磅を自分が引き受けて米国で発行したいとの希望をもっているが貴君の御意見はどうであろうかというのであります。 高橋はシャンド氏の言葉を聞いてそのあまりに突然なるに驚きました。なにしろシフ氏とは昨夜ヒル氏の自宅で初めて紹介されて知り合いとなったばかりで、高橋はこれまで「クーンロエプ商会」とか「シフ」とかいう名前は聞いた事もなく、従ってシフ氏がどんな地位人であるか知る由もありませんでした。 

 しかしシフ氏の齎した話は耳よりのことでもあり、実際に出来れば日本政府にとって誠に結構なことであるから、高橋は、「もしロンドンの銀行家たちが仲間に参加さしても差し支えないと信ずるならば、自分は少しも異存はないから速やかに話を進めたがよかろう」と答えました。しかしこのことは我が政府の外交上の政策に関することでありますから、多分差し支えないとは思ったのですが、念のため電報をもって政府の意向をも確かめてみました。すると政府でも何ら差し支えない旨の返事が来ました。 

 こうしてシフ氏との話がたちまち纏まって、英米で一時に1000万ポンド公債を発行することが出来るようになりました。高橋は一にこれ天佑(てんゆう 天の助け)なり(上塚司編「前掲書」、幸田真音「前掲書」の題名はここからとられています)として大いに喜びました。そしてこの喜びは独り高橋ばかりでなく、日本人ばかりでなく、英国人もまた非常に喜びました。というのは、すでに述べた通り、あるいは露国帝室との関係から、あるいは黄白人種の戦争という点から、英国人独りが日本を援助するということについては何となく心苦しい風であったが、今度米国資本家の参加によって、日本に対して同情の実を示すものは独り英国ばかりでなく、米国もまた然りであるということが、英国政府及び一般国民にはよほどの満足を与えたようでありました。外務大臣ランズダウン侯のごときも、香上銀行のサー・ユウエン・カメロン氏からこの米国参加のは話を聞かされた時には、一方ならず喜んだということでありました。

 幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-13 

そのシフ氏はこのために、その親友サー・アーネスト・カッセル氏と共にエドワード陛下より午餐を賜る光栄に浴したが、その席上陛下はシフ氏が日本公債の発行に参加せることを満足におぼしめさるる旨の御言葉を賜ったそうであります。 

 その後、勅令の案文その他のことで、政府と電信の往復を重ねて、英米両国発行の手続きを済まし、いよいよ5月11日をもって英米両国目同時に募集を開始することに決定しました。 

 細目決定前にシフ氏は後事ををロード・レベルストックに委任して米国に帰ってしまいましたが、レベルストック卿は英国銀行家と相談の結果を一々シフ氏に電報で通知していました。ところが関税抵当のことについてはシフ氏も疑問を抱いたと見え、管理人を入れ..ず単に名称のみの抵当とした場合、万一その抵当権を実行せねばならぬようになった時はどうするか、と尋ねてきました。するとレベルストック卿は、「Warship](軍艦!)とただ一語をもって答えたら、シフ氏もそれで納得したということです。 

 さて是より先5月1日、日本軍が鴨緑江の戦争で全勝を博したとの電報が新聞に出たので、日本公債は予想外の人気を呼び、応募申し込みは、英米ともたちまち発行額の数倍に上り、その日の3時には締め切るというほどの盛況でありました。 

 高橋も景気を見に発行銀行の界隈に行ったが、申し込み人が列をなして順繰りに入り込んで行く行列が2、3町続いていました。実にロンドンでは珍しい光景でした。後で聞いて見ると、ニューヨークでも同様であったそうであります。かねて日本銀行総裁から手紙や電報で、開戦以来外国へ正貨の流出するのは予想以上である、もはや兌換の維持も先々困難であるから、一日も早く募債を済ますようにとしばしば督促がありました。しかるに一度公債募集日の光景が電報をもって世界に伝わると、たちまち正貨流出は止まり、松尾総裁も初めて安堵したということでありました。 

 シフ氏はどこまでも誠実な人でありました。むろん銀行家ですから、自分が損をしてまでわが公債の募集を援助するわけはありませんが、さればといって、これで一儲けしようという単なる利益の打算から思い立ったのであるかといえば、必ずしもそうではありません。 

 あの時、シフ氏が5000万円というまとまった金を、とっさの間に引き受けることを決心するに至ったについては、シフ氏の心中自ら成算あり一般募集には相当の成績を挙ぐべき自信があった上に、万一それが不成功に終った場合は、自分たちの組合だけでも、それを引き受けるだけの覚悟と資力とを十分の持っていたのでしょうが、普通の銀行者から見れば、冒険視せざるを得ぬところでありました。どうしてもその真相を解くことができませんでした。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-14 

何しろ高橋はこれまでシフという人ついては、名前も聞いたことがなく、わずかに前夜ヒル氏の家でただ一度会ったきりです。ことに1箇月前、日本からアメリカに渡り、ニューヨークの銀行家や資本家に当ってみてアメリカでは到底公債発行の望みはないと見込みをつけ、英国へと移ったくらいであるから、アメリカ人のシフ氏が、しかも欧州大陸からの帰路、一夜偶然出会って雑談したのが因(もと)となり、翌日すぐ5000万円を一手で引き受けてくれようとは、まるで思いもかけぬところでありいました。 

 しかるに、その後シフ氏とは非常に別懇となり、家人同様に待遇されるようになってから、だんだんシフ氏の話を聞いているうちに初めてその理由が明らかになって来ました。 

 ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシヤにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、官公吏に採用されざるはもちろん、国内の旅行すら自由に出来ず、圧政その極に達しておりました。ゆえに、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシヤのユダヤ人を、その苦境から救わねばならぬと、種々物質的に助力するとともに直接ロシヤ政府に対してもいろいろ運動を試みました。したがってロシヤ政府から金の相談があった場合などには、、随分援助を惜しまなかったのであるが、ロシヤ政府は金を借りる時には都合よき返事をして、それが済んでしまえば遠慮なく前言を翻してしまうのです。だからユダヤ人の待遇は何年経っても少しも改善せらるるところがないのです。これがために永い間ロシヤ政府の財務取り扱い銀行として、鉄道公債のごときも、多くはその手を経て消化されておりましたパリのロスチャイルド家のごときも、非常に憤慨してすでに十数年前よりロシヤ政府との関係を断ってしまったくらいであるります。 

YAHOO知恵袋ーロシヤもユダヤ人が嫌いみたいですね?? 

 上述のような次第でありましたから、シフ氏のごとき正義の士は、ロシヤの政治に対して大いに憤慨しておりました。ことに同氏は米国にいるたくさんのユダヤ人の会長で、その貧民救済などには私財を惜しまず慈善することを怠らなかった人であるから、日露の開戦とともに大いに考えるところがあったのは、さもあるべきことであると思います。そうしてこのシフ氏が第一番に考えたことは日露戦争の影響するところ、必ずやロシヤの政治に一大変革が起るに相違ないということでありました。もちろん彼は帝政を廃して共和制に移るというごとき革命を期待したわけではありませんが、政治のやり方の改良は、正にこの時において他にないと考えたのであります。すなわちこの政治のやり方を改良することが虐げられたるユダヤ人を、その惨憺たる現状から救い出すただ一つの途であると確信しておったのであります。そこで出来るなら日本に勝たせたい、よし最後の勝利を得ることが出来なくとも、この戦いが続いている内には、ロシヤの内部が治まらなくなって、政変が起る。少なくともその時までは戦争が続いてくれた方がよい。かつ日本の兵は非常に訓練が行き届いているということであるから、軍費さえ行き詰まらなければ結局は自分の考えどおり、ロシヤの政治が改まって、ユダヤ人の同族は、その虐政か救われるであろうと、これすなわちシフ氏が日本公債を引き受けるに至った真の動機であったのであります。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-15 

 シフ氏が日本公債を引き受けるについて、、主として相談相手となったのが、当時ロンドンにおける理財家としてロンドン、ロスチャイルド家をも凌駕するほどに信望を博しておったサー・アーネスト・カッセル氏でありました。同氏はエドワード7世の太子時代から信任篤く、宮中でも特別の待遇を受けておりました。シフ氏とは兄弟のような仲で、しばしば協同して米国内に資本を運用しておりました。元来シフ氏は、日本の事情については前夜高橋に聞いたくらいのほか知識を持っていなかったのですが、幸いカッセル氏が日本の事情に詳しかったので日露戦争の原因その他については、多くこのカッセル氏の意見をただしましたが、カッセル氏はまたつねに日本に同情ある説明をしてくれたので、この第一次六分利付の公債も極めて円滑に運び、爾来シフ氏と日本政府は非常に親密な関係を結ぶに至り、日本政府が外債を募集する場合には、いつでも発行銀行の仲間に参加せしむるようになりました。 

 第一回の六分利付公債は、前述のごとく1904(明治37)年5月11日をもって英米両国同時に募集を開始し、いずれえも大成功裡に終結しました。そこで高橋の任務もひとまず完了しましたから、早速帰国しようと思ったのですが、考えてみれば英国の払い込みは5回に分割されており、(米国はすぐに全額払い済みとなった)その最後の払い込みが8月15日となっているので、この払い込みが終って、万般の跡始末をつけるまではどうしても引き揚げるわけには行きません。で、その間に一度ニューヨークへ行って、米国側が払い込んだ金の処置をつけてこようと考えておりました。 

 ところが、そこへまたもや日本政府から電命があって、さらに第二回軍備公債1億円を募集せよといって来ました。そして今度はその担保として、煙草専売益金のほかに必要ならば鉄道収益をも提供してよいということでありっました。 

 高橋には当時の英米の状況から見て、第二回の公債は、決して困難でないということは分っていましたが、ひそかに思うにいつまでこの戦争が続くか、一体今度政府が電命してきた1億円を募ればそれだけの金で、この戦争を済ますことが出来るかかどうか、出来るというならば政府からいうてきた担保を出してもよいが、どうしても高橋にはその点が心配でなりませんでした。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-16 

それで高橋は考えました、第一回六分利付公債の担保に提供した関税収入が4300万円余であったと思うが、これを1億円の担保としたのであるから、なお相当な担保余力を存している。ゆえにまずその余力を計算しその許す範囲をもって今回の発行高と限定し、煙草専売益金や鉄道収益は手をつけないで他日のために留保しておく方がよいと感じたから、その趣旨をもって調べてみると、なお1億1000万円分の担保力あることが明らかになりました。よってとりあえずその意味をもって政府へ電報し、同時に書面をもって詳細に具陳しました。しかるに、政府では高橋の電報を見て、この際公債の募集は1億1000万円以上は不可能ととってしまい、高橋に対して反対の電訓を発して来ました。それがために政府と高橋との間では電報で押問答を重ねましたがさらに要領を得ません。その内に高橋が先に出した手紙が着いたので、政府でもはじめてその間の事情が判明し、それならばというので早速同意の旨を電報して来ました。そこでこの関税収入担保余力二番抵当としてロンドンとニューヨークとで1億1000万円を募ることとなり、それぞれ銀行家に対して相談を進めました。 

 さて第一回六分利付公債が初めて発行されるという時には、日本人にも外国人にも、進んでこれに手を出そうというブローカーも現れてこなかったのですが、一度第一回の募集が大成功裡に完了したということが伝えられると、その後は政府に対していろいろ献策する者が生じてきたと見えて、今度は煙草専売益金を担保にするとか鉄道収益を担保にするとかいう内地の噂が、時々新聞に出るようになりました。ロンドンの銀行家たちはかねてこの噂を聞いてもので、高橋が第二回の談判を始めると、「すでに日本からの電報として新聞に載っているところを見ると、日本政府は煙草専売益金または鉄道収益をもって担保とする考えのようであるが、貴君だけがそれに反対し抵当は関税収入の担保余力をもってせねばならぬと押し通すのはどういうわけか、むしろ政府のいう通りにした方が一般の気受けもよいのになぜそうしないのか」というから、高橋は政府との間に電報や手紙で往復した経緯をありのままに話し、担保というものは大切にせねばならぬ。関税収入の担保余力がロンドンとニューヨークとでまだ十分にある以上、まずそれから使って煙草専売益金や鉄道収益などは後日必要な場合のために留保しておかねばならぬ。というと、銀行家たちも、それはもっともなことだといって、談判はようやく進行しました。 

 かくて第二回公債の条件は、前回と同じく、六分利付で、期限が7年、ロンドンとニューヨークで発行することとなり、最後の払い込みの終るのが、ロンドンは翌年即ち1905(明治38)年の2月15日で、ニューヨークの方は年内1904(明治37)年の11月5日ということになりました。 

 第二回六分利付公債は、上述のごとく極めて容易に成立し、12月5日には、アメリカ引き受け分の全部の払い込みが終 ったので、その預け先などの始末をつけるため、ロンドンを発ってニューヨークに向かいました。ここで今から考えると抱腹絶倒の一つの話があります。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-17 

当時までは、高橋もアメリカの銀行界ことは、あまり詳しくは知らなかったから、この公債募集によって得た資金が、万一預け場所が悪くて引き出しが出来ないようなことにでもなったら、日本国家に対して申し訳がありません。そこで高橋は例のごとくシフ紙に相談して、この始末はどうしたらよいかと尋ねると、シフ紙がいうには、「日本政府のために考えれば、こちらに置いてある金は、少しでも利回りをよくするためにせねばならぬ。それには、銀行よりも信託会社に預けたがよい。銀行なればおそらく年2分5厘くらいの利子にしか当たらないであろうが、信託会社に預ければ、年3分の利子がつく」ということでありました。 

 「ではその信託会社はどこがよろしいか」と尋ねると、「ギャランティー・ツラストがよい」というから、「それではギャランティー・ツラストに預けることにするが、同社はこの預金に対して、他の有価証券を担保として提出することが出来るか」というと、さすがのシフ紙もこの時ばかりは目を丸くして驚きました。そうして笑いながら、「何?担保をだす、信託会社からその預かったものに対して担保を出すなどいうことは、アメリカでは行われていない。ただしそれほど貴君が心配なら、その保証品は日本政府の安心するように私が出してあげよう。しかしその担保品を出すについては、私の銀行でも5厘の手数料はもらわねばならぬ。それはともかくとして、私が提供した担保品を貴君は、どこで保管せられるのか」といいます。これには高橋も弱ってしまって、「さしあたり正金銀行で」といってしまいました。しかしその当時の正金銀行は、みじめなもので、地下室に貧弱な金庫が一つ据えてあるばかりでありました。、それで、「正金銀行」といってはしまったものの、内心大いに心配でありました。それをシフ氏も悟ったと見え、「正金の金庫がどんなものであるか知りませんが、貴君が保管せらるる以上少なくとも私のところの金庫くらいのものでなくてはいけません。とにかく一度私のところの金庫を見てください」と自分か先だって案内してくれました。よってシフ氏に同道してクーンロエプ商会に行き、そこに建設せられている金庫を見ました。なんでも第一階にあって、およそ幅が3間(約55m)に1間半くらい、高さは1丈1尺(約3.6m)もあるように思われました。金庫の外回りの床の上には、幅1尺くらいの堅固な真鍮の金網ようのものが敷かれてあります。シフ氏はこれについて説明していうのには、「店員は時間が来れば皆帰ってしまって独りもここには残ってっていない。しかし誰かここにやって来てこの金庫の廻りにある金網の板の上に乗ると、すぐに警察に警報が行くようになっている。また金庫の屋根及び四方の壁にはi一面に金網が張ってあって、それにはすべて電気が通してあるから触れられない。そうしていよいよ金庫を破ろうとするには、この鉄壁が7種の異なった鋼鉄を合せて作るられているので、鑿を用いて破るにしてもこの7種の鉄に適応した七つの異なった鑿を用いなければ、穴を明けることは出来ない。無論火事に遭っても心配はない」と、まず一通り外形の説明をして、それから金庫の扉を開いて中を見せてくれました。中に入って見ると、三方に12の金庫が列べてあります。そうして、それには1月から12月までの記号が設されています。この中にはアメリカのみならず、イギリスやヨーロッパ大陸の公債証書、株券その他の諸債券類及び日本の公債などが非常によく整理されてありました。そうして1月にり払いや配当のあるものはすべて1月の金庫の中に、2月にあるものは2月の金庫の中にそれぞれ保管されて順次12月に及んでいます。しかも泥棒や火事の用心が堅固なことには、一驚を喫するばかりでありました。それで、高橋も預け金に対して担保を取ることは不可能だということが解り、その旨を政府に電報したところ、政府でもこれを諒とし、ついに抵当なしで預けてもよいことになり、その手続きを済ませました。 

 ニューヨーク滞在中は、万事シフ氏の紹介で、銀行家や鉄道会社、信託会社の社長その他有名なる実業家と交際するようになり、大変にシフ氏の世話になりました。従ってまた正金銀行の取引をクーンロエプ商会と開くような相談もしました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ- 1~10

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ- 1 

 高橋は山本前総裁に対する政府の措置ならびに新総裁の態度如何によっては、ただちに職を辞する覚悟でありました。 ところが前述の如く山本前総裁のことは円満なる解決を見るようになりましたし、また松尾(臣善)新総裁(吉野俊彦「前掲書」参照)も1903(明治36)年10月25日の夜、わざわざ高橋の自宅へ来て、日本銀行の行務については高橋に信頼する、かつ正金の監督をはじめ海外のことについては、今後一層力を尽くしてもらいたいというような懇切な言葉がありました。もとより松尾氏とは、高橋の正金銀行時代より、常に心易くしておった仲であり、そうなれば高橋の方に別意のあろうはずもなく、総裁更迭問題も、万事円満に落着しました。 

日本銀行―日本銀行についてー日本銀行の概要―沿革―歴代総裁 

 さて高橋は山本総裁勅選の問題で、桂首相に談判の時、初めて日露の間に、重大なる交渉案件が進行中であることを知りました。しかしその案件がいかなるものであるかも尋ねもしなかったし、またそれに対しあまり重きを置くこともしませんでした。ところが11月10日前後であったと思います、松尾総裁がごく内密のこととして、高橋に話されるには、「今朝大蔵大臣に呼ばれての話に日露談判の経過が甚だ面白くなくなった。あるいは破裂するかも知れぬ。万一両国開戦となれば、日銀としては軍費の調達に全力を注がねばならぬ。また国内の支払いは兌換券の増発によってともかく弁ずるとしても。軍器軍需品などにて外国より購入せねばならぬものがたくさんにある。これに対しては正貨をもって支払わねばならぬから、この方面のことについては、今日より十分に考慮画策しておいてもらいたい」ということでありました。 高橋は当時日本銀行の副総裁として、傍ら横浜正金銀行の業務監督の任に当っていました。よってこの立場より自分の意見述べ、かつ総裁と相談の上、正金の三崎副頭取を呼んで内密に取り調べ方を委嘱しました。その事項の主なるものは 

1,三井物産、高田商会をはじめ当時の主立ったる輸入業者に対し、正金銀行が与えたる信用の上の金高及び期限 2、輸入為替の予約高ならびに期日 3、輸入業者の取り扱う物品中政府の注文に関するものと、民間の需要に属するものとの区別、品目ならびに金高 4、諸外国人の内地に有する預金、及び外国銀行が内地において有する資金の概数などでありました。 

5、百万円をもって、果してr兌換の責任がとれるかどうか、即ち語を換えて言えば、開戦と同時に正貨の輸出を禁止するの必要なきや否やを、推定せんがためでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

ここにおいて正金銀行はなるべく目立たないように、ごく内密で上述の取調べを開始するとともに、一面には売為替や信用状の発行について、出来るだけ控え目にするよう手心しました。 

 しかるに、いつとはなく機敏な商人が、これらのことに感づいて何か異変があるのではないかというような疑惑を抱くに至りました。そうして一番早く感づいたのが、大阪の経済界でありました。 

 今から当時を顧みると今昔(こんじゃく)の感に堪えないものがあります。それは日露両国間が開戦にもなろうというほどの重大なる外交談判のあることが、その間際まで民間に知られずにおったことでありました。 

 大阪の財界では、1903(明治36)年の始めころから疑念を抱きはじめて、それがために多少の動揺を来す兆しが現れてきたので、政府もこれにはいたく憂慮するに至りました。同年12月中旬曽禰大蔵大臣は松尾総裁を呼んで「日露の談判も先日は一時懸念されたが、このころの調子では談判も平和に解決するようである。しかるに大阪方面の財界がなんとなく童謡の兆があるが、あまり悲観に陥らしめても困るから、何とか緩和の道はないであろうか」との内輪話であったとて高橋に相談がありました。 

 これは甚だむずかしいことで、日本銀行として財界に向って全く安心せよと公言するわけにもいかず、両人協議の結果、まず松尾総裁が墓参のため郷里に帰ることとして、そのついでに大阪に立ち寄り、同地の主立った人々に面会して、それとなく安心を与えるような話をするのがよかろうと相談を決めました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 そこで総裁は年末も押し詰まった25日大阪に立ち寄って上述の相談通り実行しました。この時までに正金銀行の取調べにもとづいて、開戦後の1カ年間に、わが正貨の海外に流出すべき金額を推測したるに、1、外国銀行が持ち出す正貨 3500万円 2、輸入品の代価支払いの結果として流出する正貨 3000万円 計 6500万円 で、これを当時日本銀行が所有する正貨高 1億1700万円より差し引けば、その余すところ僅かに5200万円見当で、しかもこのうちには開戦後当然海外払いとなるべき軍需品の代価は含まれておらぬ、甚だ心細き次第でありました。 

 ところが前述の如く、談判の模様はだんだんに良くなってきたというのでやや安心しておりました。しかるに12月29日の夜、急に大蔵大臣から呼ばれました。高橋は宴会の出先から早速大蔵大臣官邸に行くと、その席には曽禰大臣のほか阪谷次官、相馬正金頭取もいて、高橋の到着を待っていました。大臣は高橋の姿をみるや否や「政府は先ごろロンドンで2隻の軍艦を買いいれることにして、そのことを、英国駐在の林(董 ただす)公使に電訓し、林公使は直ちに相手方と契約を取り結んだがさて、その代金の支払いに当って、正金ロンドン支店の手違いで支払い不能に陥り、ために林公使は進退谷(きわ)まった立場となった。公使よりの電報によれば、もし、この支払金が調達出来なければ解約と共にロンドンを引き揚げねばならぬと言って来た。すでに林公使の立場が以上の如くであるし、かつ政府ではこの際是非とも隻の軍艦を買い取りたいのであるから、日本銀行で何とか調達は出来ないであろうか」という相談でありました。  

 近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー林董 

 何分事柄が重大であり、かつ少しも猶予の出来ない場合であったので、高橋は即座に一つの案、即ち、1、林公使をして公使の資格において約束手形を振り出し先方に渡すこと、 2,もし先方において担保を要求する場合は、日本銀行所有のわが四分利英貨公債200万磅を正金銀行支店に貸し渡し、正金支店振り出しの手形をもって金融を計らしむること、を提議しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 幸いこの一案は列席者の同意があって、ただちに林公使及び正金支店に電訓されました。その結果は第一案によって弁ぜらるることとなり、上記2隻の軍艦は早速本邦にに廻航せらるるに至りました。これ即ち日進、春日の2艦であります。 

 weblio辞書ー日進(装甲巡洋艦)ー春日(装甲巡洋艦)  

 1904‘明治37)年正月元日の早朝、阪谷大次官から電話で、「いよいよ談判破裂の模様(「坂の上の雲」を読む14~17参照)だから、今日からそのつもりで、万事の用意に取り掛ってもらいたい。また当方からも出すが、君からも郷里に」在る松尾総裁に至急帰京されるよう電報を発せられたい」という内訓があって、高橋は事のあまりに急転直下せるに驚きました。そこで早速帰省中の松尾総裁に電報を発するとともに、三崎正金副頭取を呼んで、かねて申し合わせておいた計画の実行に取り掛かりました。就中(なかんずく)民間の需要に属する輸入品にして未だ船積み前のものに対しては、その金額を減らすか解約するの手段をとらしめ、ひたすら正貨の維持を講ずることとしました。また一方においては正貨輸出禁止の得失如何を考究しましたが、いよいよ開戦となれば、外国より購入せねばならぬ軍需品も多額に上る見込みであって、到底外債を起さずには済まないでしょう。しかるに最初から正貨の輸出を禁ずることは、海外に対して信用を墜し、従って公債の募集に当り、それが不利益なる影響を及ぼすことも考えねばなりません。これに反して現在のまま正貨の輸出を自由にしておけば、流出の勢いも自ずから緩やかになうであろうと考えられます。かれこれ審議研究の結果正貨の輸出の禁止は、この際得策にあらずと決定しました。 

 これよりさき、1903(明治36)年7月28日「日本は満州における露国の特殊利益を認め、同時に露国は韓国における日本の優越なる利益を承認せんこと」を提議しましたが、露国はこれを認めず、1904(明治37)年2月4日日本政府は対露国交断絶を決定、同年2月5日露国駐劄公使栗野慎一郎に電訓して露国政府にこれを通牒させました。 

 1904(明治37)年2月6日、日露の国交は断絶していよいよ開戦となりました。 同時に戦時財政の要務は井上、松方両元老が見らるることとなり、軍費に当つべき外債募集の件も時を移さず廟議決定を見ました。 

 ここにおいて井上、松方両元老ならびに松尾日銀総裁はは相談の結果、しかるべき人物を財務官としてロンドンに派遣し時機を見て外債募集をなさしむることに一決しました。そうして松方伯は、最初高橋是清をもって財務官に当つべしとの説を述べられ、かつ高橋に対しても相談せられたが、高橋は自分はその器(うつわ)に非ず、園田孝吉「天佑なり」を読むⅢ-23参照)君こそ最適任者である旨を答えて辞去しました。また曽禰大蔵大臣および松尾日銀総裁は、今日において一番大事な正金銀行の業務を指図したりするのに、高橋副総裁がいなくては困ると申し立てられ、一方園田孝吉君からは、自分の健康が到底海外行きを許さぬといって断って来ました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 かくて財務官の人事が非常な困難に陥り、両元老も少なからず困惑せられている折柄、2月8日に至りわが瓜生(うりう)戦隊の仁川沖の勝報に次いでわが連合艦隊は旅順を砲撃して敵艦3隻を撃沈したりとの報告至り、ここに始めて局面一変して、大蔵大臣も松尾も「この情勢であれば高橋を手離してもよかろうから、同君を至急ロンドンに派遣せしめらるるよう」にと具申しました。そこで俄かに模様が変わって2月12日夜、井上伯から高橋は呼ばれました。早速行くと伯は「君はこのたび御苦労だがロンドンに行って公債の募集に当ってもらいたい」といって、次のようなことを附け加えて話されました。 

 「松方伯ははじめから君を派遣せよとの説であったが、自分ははじめ園田がよかろうと思った。それは何ゆえかといえば、出先の者から日本銀行や政府に宛てた電報を見て、これに対して返辞をしたりするのには、海外の事情に精通した者が日本におらねば、政府と出先の者との意思の疎通を欠き、誤解を生ずる虞(おそれ)がある。そこで君は内におって園田から来る電信の往復の任に当ってもらわねばならぬので、園田を外国に出張せしむる考えであった。しかるに園田が自分の身体が持たない、強いて行けば死にに行くようなものだ、というから、これもやむを得ぬ。ついてはこの際園田を日本銀行の顧問として、外債募集にする君との電信往復の要務を取扱わしめねばならぬと考えるから、その通り取計らったらよかろう」といわれました。 

 このことは、その日銀行へ帰ると直ぐ松尾総裁に伝えましたが、いろいろ考究の結果、総裁から口上をもって園田に顧問を依頼することに決しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 さて井上伯からロンドン行きを申し含められた時は、高橋はlこの任務のなかなか重大で、十分政府にその決心を聞いておかねばならぬと思い、「仮に私がその重任を拝するとしても、政府に対して堅く約束してもらわねばならぬことがあります。それは、政府の外債談が起これば、常に内外のいわゆるブローカー(商行為の仲立人)が現れて、コンミッション(委任)を自分の手に収めんと、様々の事を政府に申し立てて来る。その場合いささかにても政府筋がこれに迷い、少しでも彼らに耳を傾けるようなことがあっては、出先の者の仕事の支障となり、結局政府に迷惑がかかり、損失を受けることともなるのであるから、いかなる者がいかなる申し立てをしても、政府は一切それを取り上げず、委任したる全権者に絶対の信用を置かれたい。もし政府においてこの決心が出来なければ、私は到底この大任を引き受けることは出来ません」と一言打ち込みました。すると井上伯は「その儀誠にもっともなことであるから堅く約束する。ついてrはその注文の要件を認たためて明朝提出するように」とのことでありました。そこで高橋は辞して帰り、翌朝次の如き覚え書(省略)を持参し、井上伯を訪問して提出しました。 

 既述のいような次第で、高橋は日本銀行副総裁の資格において、外債募集のことを委任せらるることとなりました。従ってその後は、時々元老大臣などの評議にの席にも列席することとなりました。 

 この時、政府の樹てた軍費の予算を聴くと、「明治二十七八年の日清戦争の時には、軍費総額の約3分の1が海外に流出しているので、今回もそれを標準として正貨の所要額を算定した。即ち軍費総額をおよそ4億5000万円と見て、その3分の1、1億5000万円をもって海外支払いに必要なるものと仮定すれば、目下日本銀行所有の正貨余力が約5200万円ほどであるからまずこれをもって海外支払いに充てるとしても、なお1億円の不足を生ずる。そうしてこの不足はどうしても外債に依るよりほか途がない。よって年内に1億円だけは絶対に外債の募集を必要とする。もっとも戦時の募債であるから、担保を要求せらるることも覚悟せねばならぬ。それでまだ世間には公にいい兼ねるが、海関税の収入をもって抵当に充てることにすでに御裁可も得てある。ついてはこの心得をもって速やかに出発し、年内に一度で出来なければ、二度にても差し支えないから、1億円だけは募債するよう努力せられたい」ということでありました。 

 また阪谷次官も附言して、「この戦費は1年と積ってあるが、これは朝鮮から露軍を一掃するだけの目的で、もし戦争が鴨緑江の外に続くようであったら、さらに戦費は追加せねばならぬ」ということでありました。 

 当時高橋は馬で怪我をした右の腕がまだ十分に治らず、左の手のほかはは働かせない状態でした。洋服も新調できず早速出発することとなり、深井英五〈「男子の本懐」を読む17参照〉が当時同行の秘書役で、英語英文ともに達者であるところから、同君一人を帯同して2月24日横浜出帆の便船で出発渡米しました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

アメリカに着いてニューヨークに直行し、まず3~4の銀行家に面会して様子を探ってみると、一般米国人の気分はロシヤに対して日本が開戦したことを、小さな子供が力の強い巨人に飛びかかったのだといって、日本国民の勇気を嘆称し、我が国に対する同情の表現は予想外であって非常に愉快を感じましたが、この時代の米国はまだ自国産業発達のたには、むしろ外国資本を誘致せねばならぬ立場にあって、米国内で外国公債を発行するなどいうことには、経験も乏しく一度相談してみましたが到底成立しないことを認めたので、僅かに4~5日の逗留(とうりゅう)で、3月の初めに米国を発って英国に向いました。 

 ロンドンの宿は、米国出発前、正金のニューヨーク支店を経てロンドン支店宛てに電報をもって、この前泊ったド。ケーゼル・ロイヤル・ホテルに部室を取っておくよう頼んでおいたので、ロンドン着とともに、直ちにそこに落ち着きました。 

 さてそれからいよいよ本務の公債談に取りかからねばなりませんが、高橋はどうしても正金銀行を本体として、その取引銀行であるパース銀行、香上銀行、チアター銀行、ユニイオン銀行などに、まず交渉を進めるのが最も順当であると考えました。 

 幸い旧友のシャンド(「天佑なり」を読むⅢ-28参照)氏が、今はパース銀行のロンドン支店長をしているので、まず同氏に会い、その紹介で頭取のパー氏、本店総支配人のダン氏などにも面会しました。また香上銀行、チアター銀行、ユニオン銀行などの幹部諸氏やベアリング商会シベルストック卿とも会見しましました。 

 これよりさき、高橋がニューヨークに着するとまもなく、ロンドンの正金支店長山川勇木より電報をもって「ロンドンでは募集の見込みないはない、今日正金銀行のごときは鐚一文(びたいちもん)の信用もない」とと申し越してきました。けだし山川の意は、ぜひアメリカで金策せよ、イギリスに来ても恥をかくばかりだから、という意にありました。 

 高橋はロンドンに着くと、前記のようにパース銀行の総支配人ダン氏ならびにロンドン支店長シャンド氏その他の組合員と懇親を結び、シャンド氏その他とびたび会見しては懇親を結び、たびたび会見しては、英貨公債1000万ポンドを募集せんとする日本政府の希望告げかつ諮るりました。しかるにいずれも燃ゆるが如き同情は持っているのですが、ただ話を聞きおくに止まり、目下の情況では日本公債の発行は容易なことではないとということで、山川の電報の真意が一層よく体験せらるるばかりでありました。 

 その内にパンミュール・ゴールドン商会のレビタ氏の紹介で、有名なるロスチャイルド家をも訪問して懇意となり、一番末の弟のアルフレッド・ロスチャイルド氏とは最も親密を重ねた、またロスチャイルド家と併せ称せられる金融業業者サー・アーネスト・カッセル氏とも交際するようになりました。しかしロスチャイルド氏ならびにカッセル氏には、こちらから公債談をすることは一切避けて、ただロンドン及びパリーの経済市況を聞くに止めました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 かくてもっぱら銀行業者に対して交渉を進めている内に、結局正金銀行と一緒になって公債発行を引き受けようという好意を表してくれるに至ったのはパース銀行と香上銀行だけで、チアター銀行はついに断ってきました。 

 もっともチアター銀行の参加如何については日本出発前より多少の懸念はしておりました。というのは、最初横浜で香上銀行とチアター銀行双方の支配人に会って公債談をしたところ、香上銀行の支配人は冷淡なるに引き替え、チアター銀行支配人は意外に乗気でありました。 

 「私は過日来チアター銀行が、日本公債発行の肝入りをするようにたびいたび本店に電報を打ったが、どうしても本店がその気にならぬので困る。今度貴方があちらに行かれたら、今後日本公債の発行に当たっては、ぜひチアター銀行が主となって働くよう話をしてもらいたい」という一語がありまいた。したがってチアター銀行が発行仲間に参加するかどうかということは、この時から疑問としておりました。それで今度参加を断られてもあまり失望もしませんでした。 

 これは公債に関する話ではありませんが、ロンドンに来て気がついたことは、英米両国民が日露戦争に対する観測を異にせることでありました。それはアメリカでは一般に、日本は陸軍では勝つだろうが海戦では敗けると考えているものが多かったのですが、ロンドンに来てみると、海戦には勝つだろうが陸戦では到底露国には叶うまいという考えを持っているものが多いように見えたことでありました。 

ロンドンに着いて数日後のある日、ベアリング商会のレベルスドッグ卿がやって来て、「今日日本公債を発行したいとの御希望であるが、公債の条件がいかに良くとも、これを一般公衆に向って募集することは困難である。貴君が御相談中の銀行家連が躊躇するのも決して無理ではない。しかし貴君の立場を察すれば実に同情に堪えない。わが商会は往年日本の鉄道や鉱山事業に対して資本を貸す考えをもって日本に店員を派遣した。その当時井上伯は、自分のこの企て誠に宜いことだと大いに賛成せられたが、だんだん日本の法律が調べているうちに、鉱山事業や鉄道に資金を貸す場合に、普通外国で行われているような抵当権の設定が出来ないことが判明したので、そのことを注意して上げたが、ついにこのころの議会に提案され新たに法律の制定を見るに至った。自分の商会とは上述のような特殊の関係もあるから、日本公債の募集については大いに同情ももっているし、また尽力もして見たいと思っている。しかしながらこの際一般公衆から募集することは自分にはどうしても自信がない。よって今のところでは自分の商会だけで応募するようにするよりほかにしようがない。それには往年日本政府が発行した四分利英貨公債の内、現に200万磅だけは日本銀行が取有しているから、それを担保として日本政府の大蔵省証券の形をもって、最高60万磅までなら御融通しよう」と提案して来ました。これがそもそも日本政府に金を貸そうといい出してきた最初の相手方でありました。 

 weblio辞書ー抵当権ー財務省証  

 これを聞いて、高橋は深く同君の好意を謝するとともに、現在のところ日本政府はそれほどまでに窮迫しておらぬ事情を述べて、暗々裡にその提案に考慮を費すわけに行かぬという意思を表明し、いろいろ雑談をして別れました。

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-  

 今後どうしたらよかろうと考えているうちに、フト思い出したのは、日本を発つ前、駐日英国公使マクドナルド氏から紹介されたサー・ジョージ・スーザーランド・マッケンジー氏のことでありました。 

 公使の話によると、この人は公使夫人の姉妹婿に当たる人で、銀行家ではないが、現に英国の大汽船会社の社長をしており、人格も立派で社会の信用も厚い人であるから、何か用事が起こった場合にはこの人を訪ねたがよかろう、とてわざわざ添書(てんしょ)まで書いてくれたのでありました。今その人のことを思い出したので、早速訪問して相談して見ようと決心しました。 

 かくて翌日同氏をその私邸に訪問しました。氏は大変気持ちよく面会してくれました。その時夫人はすでに病没して独身でありました。 

 高橋は率直に自分が公債募集にきていること、これまで銀行家たちに相談したが、少しも運ぶ様子がないので、一層のことロスチャイルドかカッセルのような大資本家に交渉してみようかとも考えている。その得失について決しかねるからして、貴君のご意見を聞きに来たという意味のことを話すと、氏は「貴君の来られることはマクドナルド公使からも通知があり、今日お目にかかるのは誠に本懐である。さて只今貴君の迷っていられることは至極もっともなことである。私は銀行家ではないがら十分お役に立つ助言は出来ないが、その得失についてはいっさか私見を述べてみよう。今貴方が相談を掛けられている銀行はいずれも株式会社である。したがっていずれも公衆の預金を運用しているから、これを公債のごとき長期のものに振り向ける資力は少ない。ゆえに銀行業者たちにいかに貴方の希望に応じようと熱心な同情があっても、自分に引き受ける力がないから、結局は一般公衆に持ってゆかねばならぬ。従って一般公衆の気持ちも観測するの要があるので、貴方の申し立てに対しても、今すぐにはっきりした答えが出来ない次第と思う。これに反してロスチャイルドとかカッセルなどのごとく、自分一人ででも引き受けの出来るような大資力のある者は、現在公衆の気持がどうあろうと前途の見込み如何を考え、将来有望という見込みさえ立てば、自分一人の独力をもってでも公債を引き受けるのである。今日本政府の側に立って、上記両者の利害得失考えるに、一度これらの大資本家の手を経れば、日本政府は今後公債の発行者にあたっては、どうしてもその手を借らねばならぬ立場となる。しかるに資本家はその利益をすべて自己の手に収めるのであるから日本政府に対しては不利な欲張った条件を持ち出すに相違ない。これに反して銀行家たちの方は株式組織であるからその利益は少数の重役支配人などのの懐にはいるわけでではなく、すべて多数株主の手にはいるのである。従って私人と異なり、その条件も正当な条件であれば満足する。ゆえに、発行条件からいえば、資本家に頼るより銀行家を相手とした方が、日本政府の利益である」という話でありました。この一言は大いに高橋の参考となりました。これをもって高橋は何としてもまず銀行家によって募集を果さねばならぬ、と決心するに至りました。かくてこの日は大いに意を強うしてう彼の邸を辞しました。 

幸田真音「天佑なり」を読むⅣ-10 

公債発行の相手方を銀行と決めてからは、以前と異なって一層手強く銀行者に談判を取り進めました。銀行家たちが日本公債引き受けを躊躇するのは誠に無理からぬことでありました。すなわちその第一原因は、当時ロシヤ政府はフランスの銀行家と提携してその後援を受けていたために、戦争開始以来、パリおよびロンドンにおける露国公債市価は、あまり変動なく、むしろ上り気味でありました。これに反して日本の四分利付英貨公債は、戦争前80磅以上を唱えていたものが、たちまち60磅まで暴落し、日本公債に対する市場人気は非常に悪くなりました。だからこの際新たに公債を発行したところで、果して一般公衆が気乗りするかどうか、その成功不成功を診断するのはなかなか困難なことでありました。 

 次に此の際日本公債を発行しても見込み通りの応募者がなく、結局失敗て終わったならば、日本政府は軍費調達のためロンドン市場を利用することが出来ないものであることを証明するようになります。 

 さらに銀行家の間に端なくも重大な一つの疑点が生じて来ました。それは日英両国は同盟国ではあるが、イギリスは戦争に対しては、今なお局外中立の地位にあります。ゆえにこの際軍費を調達することは、局外中立の名義にもとりはせぬかということでありました。高橋はこれに対して、自分にはよく判らぬが、かつてアメリカの南北戦争中に中立国が軍費を調達した事例もあるから、局外中立国が軍費を調達することは差し支えないと思うが、貴君らが心配になるならば、貴君らの信頼せらるる有名なる法官や歴史家について調べてもらうがよかろうといって取り調べさしましたが、その結果、法官や歴史家の意見としては、差し支えないということに一致したので、銀行家連も高橋も安心しました。 

 ロンドン着後約1箇月の間は、ほぼ以上のごとくして過ぎてしまいました。そうして3月も過ぎて4月10日ころ(1904年)となってようやく公債談二眼鼻がつきかけて来ました。すなわち銀行者たちは、鳩首塾議の結果、最善の努力として申し出て来た条件は、1、発行公債は磅公債とす 2、関税収入を以って抵当とす 3、利子は年6分とす 4、期限は5カ年 5、発行価額 92磅 6、発行額の最高限度300万磅 ということでありました。この時関税収入を抵当とすることについては、なかなか議論がやかましかったのです。英国銀行業者たちは関税を抵当とする以上、ちょうど清国にサー・ロバート・ハートのいうごとく、英国から日本に人を派遣し税関を管理せしめねばならぬと主張しました。これがなかなか強い意見であったが、高橋はそれに対して一切耳を傾けず、「一体貴君らが日本と清国とを同一と見ることが間違っている。日本政府は従来外債に対して元利払い共に一厘たりとも怠ったことはない。ただに外債のみならず、内国債においてもいまだかつて元利払いを怠ったことはない。それを清国と同一視されては甚だ迷惑である」と強くいい張ったので、彼らもついに「それでは名のみの抵当権だ」と、いいながらもとうとう承認しました。 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-31~40

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-31

 8月17日からは、支店の検査に取りかかりました。米国では州によって銀行法が異なり、ニューヨークでは支店の設置ができぬので、長崎個人が正金の代理店(Agency)として営業している形になっています。しかるに桑港ではどうなっているか、その辺の関係についてまず話を聴取しました。それから支店の公課状について調べてみると、上半期において、図らずも欠損がでており、どうしてかような欠損を生じたかというに、それは香港向きの為替取り組から生じたものでした。

 この事実を見て、高橋は大いに考えるところがあったので、青木支店長に対して、「この店に欠損がでたといってかれこれいう次第ではないが、もしこれが日本向きの取引のために損失がでたというなら、私はむしろ快く思う。元来正金は日本と外国との貿易助長の金融機関であって、他外国間の貿易機関として造られたものでない。このことを取り違えて、アメリカ本位で仕事をするから、香港や清国向きの商売が多くなって来る。今後は日本本位に仕事をしてこの方に全力を尽くすがよい。しかして清国や香港向きの仕事はその副業ぐらいに考えてやってもらいたい」と言って注意を与えておきました。9月3日汽船ベルジック号にて桑港を出帆、日本に向いました。

 1898(明治31)年9月、7箇月振りで帰ってみると、政権は伊藤伯より大隈伯の手に移って、いわゆる隈板(わいはん)内閣が成立し、その大蔵大臣には憲政党(旧立憲自由党系)の松田正久が当っておりました。

Weblio辞書―検索―隈板内閣―松田正久

 新橋駅に着くと大蔵省から使いで「大臣が君の帰りを待っていられるから、すぐに行ったらよかろう」との伝言があったので早速松田蔵相を訪問しました。大層丁寧な、そうして物の言い方の軟らかな人で、初対面の高橋には大いに好感を与えました。

 大臣は「外債に関し井上前大臣に送られた君の報告書は引き継ぎを受けた。目下どうしても外債の募集をやらねばならぬか、早くそれに着手したいと思って、君の帰るのを待ちうけていた」と言われるから、高橋は「今日の市場の状況では、一時に巨額の発行は困難であるかもしれませんが、5000万円か1億円くらいまでなら四分利付で90%乃至95%で発行ができましょう、ついては速やかに御決定の上直ちに実行に着手せられたがよかろうと思います、この上調査の必要はありません」と答えました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-32

 それから正金銀行の重役及び日本銀行当局者に向って、海外支店の状況を報告し、かつこれに対する自分の意見を開陳しました。その大要は「今後わが正金銀行をして、海外における信用を高からしめかつその機能を発揮せしむるには、第一にロンドン支店をして単に為替業務ばかりでなく、その他の業務例えば手形の割引、貸金等につき自由に活躍せしむることが必要である。今日のところでは、正金のサンフランシスコ支店では、為替の受け入れ金をニューヨーク支店に送り、ニューヨーク支店は日本の輸出為替を取り立てて、サンフランシスコよりの送金と共にこれをロンドン支店に送金し、よってもってロンドン支店の為替買い入れの資力を養っているに過ぎない。

 しかして正金ロンドン支店に出入りする仲買人はおおむね東洋向き為替を取り扱う数人の者に止まり、ロンドン市内にてもっとも信用あり重視せられている仲買人らの出入りはほとんどない。これ単に業務の性質が東洋向き為替の取り扱いに限定せられているからである。正金銀行をしてロンドンの枢要なる銀行と同様の地位に進めるためには、どうしてもロンドン市内の金融場裡に立って働かさねばならぬ。さすれば多数の一流仲買人が朝夕正金の店に出入りするようになるから、ここに初めて正金の存在をロンドン市中に認められるようになる。それにつけても第一に必要なのは資金であるから、政府に願って、為替以外の業務に運用する資金として、政府か現に英蘭銀行に預けている清国賠償金のうちから200万ポンドくらいを極低利で融通してもらうことにせねばならぬ」と述べて、大体そのように決定しました。

 岩崎日銀総裁は松田大蔵大臣と意見の相違がああったためか、遂に辞職するに至りました。そこで後任総裁の問題となりましたが、日本銀行内部では河上謹一を推す空気が濃厚でした。ところが行外において山本達雄(吉野俊彦「前掲書」)を推す一派の運動があり、その内星亨(ほしとおる)などまでが、この問題の渦中に入って意見をいうようになってきたので、あるいは日本銀行に政党の空気が入って来はしないかとの懸念が生じてきました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ほー星亨

 日本銀行内部の人々も、万一そうなっては、その弊害の及ぶところ、いかなる程度に到るやも測られないととて、これまで結束して河上を推していた連中がその希望を投げ捨てて却って山本を推すようになり、ついに同氏が総裁の任に就くこととなりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-33

 1899(明治32)年1月末ころから、日本銀行の河上、鶴原らの一派と山本総裁との間が円滑を欠くように見えるので、河上、鶴原両君に会って、どうも総裁と理事との間の意思が疎通しないでは面白くない、自分でよければ、いつでも仲に立って調停の任に当るがというと、両人は到底調停の見込みがないから止めてくれということでありました。

 2月1日大蔵省における台湾銀行設立委員会終了後、日本銀行へ行って、山本、鶴原、高橋3人で料亭島村へ行って晩餐ををすることとなりました。それで高橋はこれで総裁と彼等との間に多少は感情の融和が得られるものと期待して、その日は横浜へ帰りました。

  2月23日豊川良平から、日本銀行の理事たちとともに、築地の花谷に招かれていたので、夕景から出席しました。すると宴半ばにして鶴原が高橋に別席を乞うて「君は先だって総裁とわれわれとの間を調停のために、非常に心配してくれていたが、とても、もう2、3日の中に破裂は免れない、今度こそは君は口をださずにいてくれろ」というから、ついにそうなったかと嘆息して、その夜横浜に戻りました。

 25日、この日はちょうど土曜日だったので、高橋は午後から葉山の別荘に出掛けました。すると26日の午前2時ころになって、島甲子二(しまかねじ)から電報がきて、続いて山本総裁からの電報に接しました。それはいずれも至急上京を促すものでありました。

 26日早朝上京して、まず山本総裁をその邸宅に訪問したら、河上以下の理事がいよいよ辞表を提出したということでした(日銀ストライキ事件・「男子の本懐」を読む10参照)。そこで高橋は直ちに大蔵大臣松方伯(第2次山県有朋内閣)を訪問してこのことを話し、蔵相はこの処置をいかにせられるつもりであるかと尋ねました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-34

すると松方伯は「それは君、川田が育てたあれだけ多数の有為な人々と、山本一人とは代えられぬではないか」と言われたから、「それは一応ごもっともですが、日本銀行という国家枢要の機関としてこの際御考慮を煩わしたいことは、日本銀行は我が国の中央銀行で英国の英蘭銀行と等しいものであります。ところが理事や従業員がその時の総裁しかも政府任命の総裁に対していわゆる同盟罷業をした、その結果政府が総裁を取り替えるというようなことがあったなら、海外の人たちはこれを見て、日本の中央銀行を何と考えるでしょう。もし時の総裁に棄て置き難い過失があるならば、従業員の同盟罷業を待つまでもなく、政府はまずもって総裁を罷免するの責任があるではありませんか。何らの過失なきに拘わらず行員の感情から総裁排斥ということになり、政府がそれらの排斥者の意見を容れて総裁を辞めさせることは、わが中央銀行のために政府としてとるべき路にあらずと考えます」というと、松方伯は「何時君に話したいことが起るかもしれないから、今夜は東京に泊って何時でも君に電話をかけることのできるようにしておけ、してどこに泊まるか」といわれるから、『差当り築地の有明館にとまりましょう』と答えました。

 2月28日早朝井上伯を訪問して、今度の日本銀行の騒動について高橋の意見を腹蔵なく述べましたが伯は「そのことは陸軍大臣に行って話しておけ」との指図でありました。それで高橋は直ちに陸軍大臣官邸に桂(太郎)陸相を訪問し、日本銀行の件を話すと、「よく分った、自分がこれから山県首相のところへ行って話をする」ということでありました。

 それから、この日午後3時過ぎになって松方蔵相から呼ばれました。そうして言われるには、「内閣でもいよいよ山本を、そのまま据え置くことに決めた。総裁と理事(三野村)一人では日本銀行の重役会が成立しない、よって副総裁を置く必要を生じて来た。ついては君を副総裁に据えるから、その心得でいてもらいたい」ということでありました。この時前田正名も官邸にきていて、しきりに高橋に承諾を促しました。

 高橋は事の急なるに驚き、辞退しましたが、すでに内閣ではそのことを決定していて追っ付けここに辞令が来るはずだ、というような切迫した事情の下にあったので、高橋もついに承諾せざるを得ませんでした。同日午後8時ころ、松方蔵相手ずから日本銀行副総裁の辞令を交付されました。

 1900(明治33)年から翌年にかけて、日本銀行に救済を求めてきた銀行は、第九銀行、肥後銀行、第百十銀行、第十七銀行、第三十九銀行、第百二十二銀行などであって、これが処理には、行員一同大いに苦心しました。

 行務の刷新については、第一着手として、各局課長及び支店長に命じて行員の人物考査表を出させ、各個人個人の勤怠、技量、品性等を詳らかにするの法を定め、かつなるべく宴会の招待等はこれを避けて、質素倹約を旨とすべきことを訓示しました。また総裁と協議して7日間の公休日を認めることに決しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-35

 1901(明治34)年12月下旬、年末手当のことで問題が持ち上がりました。それはこれまで行員に対して手当を与えてきたが、今後は廃止するということを山本総裁が言いだしました。それが、どうした訳か行員に漏れたと見えて皆が騒ぎだしました。そうして高橋がもっぱら恨みの焦点となりました。

 これより先、ある人から、銀行の食堂あたりで、行員間に沙上の遇語があるということを知らせてくれる者がありました。それによると、近ごろ重役会において賞与や昇給の協議があるごとに、各局長から出す提案に対して、高橋副総裁が反対している、今度の年末手当の廃止もその首謀者は高橋である、というようなことがひそひそ噂されているという話でありました。

四字熟語データバンクー沙中遇語

そこで高橋は総裁のところへ行って、まずこの年末手当の廃止については反対を表明し、かつかねて聞いていた沙上の遇語について報告し、上述のように高橋はただ今人望がない、長くなればなるほど人気は落ちてしまって、銀行のために宜しくないと思う。不人気になってしまって勢い辞めねばならぬようになっては却って困るから、一層のこと今のうちに辞めさしてもらいたいというと、総裁は「そういうことはまだ聴かない、辞めんでもよいではないか」としきりに留め、かつ年末手当を廃することは高橋の説を容れて止めました。ただし高橋だけはその手当を受けるわけにはいかないから辞退しました。

 1902(明治35)年の元旦は天気晴朗、極めて心地好き年の始めでありました。この日かねて赤坂表町に新築中の新宅が、玄関及び廊下ゐ除いてほぼ落成したので、邸内の旧家からその方へ引っ越しました。

 この年の秋、五分利付公債発行の件について問題が起りました。それは10月1日の朝、山本総裁は大蔵大臣に呼ばれて官邸に行くと、大臣から「政府は今度五分利付公債を5000万円を興業銀行を経て、香上銀行に売り渡す約束をした。同公債は元利ともロンドン払いの裏書附きで、ロンドン市場に売り出すはずで、政府の手取金は98ポンドである」と申し渡されました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-36

 山本総裁は突然このことを言渡されましたが、その手続きがいかにも合点いかず、誠に意外の思いをしましたとて、帰ってきての話に「従来外国にて発行する公債は、日本銀行または正金銀行を経由するのが通例であるのに、今回に限り何の打ち合わせもなく、興業銀行を経て香上銀行に売り渡すことに決定してしまった。

これは考えようによると、日銀及び正金に対する政府の不信を意味することでもあるから、自分は桂(太郎)首相に面談して、その不都合を申し入れておいた」ということでありました。、

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー桂太郎―そー曽禰荒助 夕刻添田興業銀行総裁がやってきて、「今回の公債売り渡しについては、前もって御相談すべきであったが、これをなし得なかった事情があるので、それを述べて不都合を陳謝しに来た」という話です。よって高橋は、「個人の拙者に対して陳謝の要は少しもない。しかしこの事柄は、正金銀行の面目と信用にかかわることではないか、それを何ゆえに正金銀行に相談しないで、香上銀行に話を持ち込んだか」と詰問すると、「これは香上銀行との間に秘密にしておくとの約束であったから、そのつもりで聞いてもらいたい」と冒頭して、次の通りの話がありました。即ちこの前ロンドンで公債を募集した時は、正金銀行が主体となったために、香上銀行の横浜支店長は本国並びに本店に対して、いたく面目を失したので、今度発行の場合は、是非香上銀行を主体として発行さしてもらいたいと再三の申し出があった。もとより正金銀行を引受銀行の仲間に加えることは、最初から香上銀行とも話をしておったところで、決して除外するなどいう考えは少しもなかった。ついてはこの際正金銀行が誤解をせぬよう、そうして快く発行仲間に加入するよう何分の御配慮を願うとのことでありました。よって高橋は添田に対して、今日まで、正金銀行に対し、政府並びに日本銀行がとり来たった方針及び日本公債の発行に当り、いつでも正金銀行と組合になっておったパース銀行との関係を詳しく話しました。

 それを聞いて添田も非常に驚き、今より相馬を訪ねて依頼し、かつロンドンにも電報してパース銀行をも加入させるよう取り扱うから、今回はどうか事の円万に纏るよう尽力して貰いったいといって辞し去りました。

 しかるに、その翌日添田から、電信で、昨日の件につきロンドンに電報したと知らせてきましたが、それと引き違いに正金銀行からも、ロンドン支店では本店からの返電を待つ暇なく、公債発行仲間に加入の件を承諾した。もっともパース銀行発行銀行として加入はしないが、シンジケート銀行として10万ポンドを分担することになって、すべてが円満に片付いたということでした。

Weblio辞書―検索―シンジケート

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-37

 1903(明治36)年の晩春、経済界の不況につき、これが回復の手段として、日本銀行では金利の引き下げを断行せんと欲して、例のごとく午餐後重役会を開き、その事を決定するとともに、山本総裁は大蔵大臣(曽禰荒助)の認可を取るために、自ら大蔵省に出掛けました。ところが大臣は風邪を引いて官邸で寝ておられるというので、また官邸へ行って大臣に会い認可を乞うところがありました。

 しかるに山本総裁は大蔵大臣官邸に行ったきり、一向に帰ってきません。大蔵大臣官邸から電話があって、高橋にすぐ出頭するようにとのことであります。よって早速出かけて行くと、大臣は日本間で床を敷いて寝ておられ、その側に山本総裁と阪谷、松尾両君が坐っています。少し様子が変だと思って挨拶を済まし坐につくと、大臣は高橋を顧みて、「今山本総裁から利下げの認可を得にきたが、大蔵省では、今は利下げの時期に非ずとの意見である。それで君を呼んだわけだ」といわれるので、高橋は「してどういうわけで利下げの時期でないといわれますか」というと、大臣は「今年もし米が不作であったら必ず輸入超過となる。ゆえに日本銀行で米が不作であっても、輸入超過にならぬと保証するなら金利を下げてもよい。それがなければ、今金利を下げるわけには行かないという意見だ」といわれます。

 それで高橋は「今年の米の出来がよいか悪いかは神様でなければ分かりません、今の所では良さそうに思われるが、二百十日や二百二十日を前途に控えているから、天候によっては平年作に及ばぬ結果を見るかも知れませぬ。しかしこういう予知のできない事柄を除いて今日の現状を観察すれば、今金利を下げるために輸入超過になろうとは我々は考えておりません。これに対して今日はいかにも金利が高く、それがために事業は不振に陥り製品は高価である。ゆえにこの際金利を引き下げて、経済界に活を入れるの必要ありと認めたのが日本銀行の意見であります。貴方方は聡明な方々であるに相違ありませんが、常に多岐多端の政務に心を配らねばなりません。我々はそれと異なって二六時中経済界のこと、ことに金利政策に最も重きを置き、不断に考えているものであります。ゆえにその専門的に専一に考えている者どもの意見は尊重せらるるが当然ではないかと思います。もし政府において今日利下げをすることは国家としてよろしくないという、何らか他に政治上の理由でもあれば格別、今年の米作に対し日本銀行が保証せねば、金利を下げることは出来ないというのは御無理ではありませんか。何人が今年の米作は豊年であると請合いが出来ますか。日本銀行の仕事として金利政策ほど重大なものはありません。(以下略)」と遠慮なく意見を述べました。

 すると曽禰大臣も考え直して、ついに申請通り認可されたので、総裁と二人引き下り、銀行に帰りました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-38

  山本総裁の任期は1903(明治36)年10月20日をもって満了となるので、我々はいずれもその重任を希望しておりましたがら、時々総裁に対して、その辺のことにつき注意をしました。というのは、何となく大臣と総裁とが、そりの合わない様子に見受けられたからです。しかるに総裁はいつも、「いや、そのことなら棄てておいてくれ、どうでもよいから」と一向気にもかけず、また我々の言うことを取り上げもしません。しかしそれには何か総裁に確信でもあるのでもあろうとひそかに考えていました。ところが高橋は8月28日から北海道視察に行くことに決ったので、出発前秘書役土方(ひじかた)久徴に話して、「総裁の任期満了が近づくので、何とか方法を尽されるように総裁に話をするが、一向気にかけられぬようだから、君からもなおよく総裁に話して、適当の処置を取らるるよう注意してもらいたい」というと、土方は「私もそのことについて度々話しましたが、やはり棄ておけということで、何ともしようがありません。しかしお話によりさらに申し上げてみましょう」ということでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-39

かくて高橋は総裁任期のことが気になりつつも、北海道へ旅立ちました。出張の目的は北海道商業銀行の救済についてその内容を検査し、また北海道鉄道や製麻会社の実情を調べるのが主たる用件でした。高橋は全道を一通り廻って、9月28日上野に帰着しました。

 1903‘明治36)年10月20日に山本総裁は例の通り銀行に来て、「今朝大蔵大臣官邸に呼ばれて行ったら、君も永々御苦労であった、今日が満期であるから、松尾理財局長を後任とすることに決めた、と申し渡され、それからいろいろと大臣の書画などを見せられて来た」と話されたので、われわれは唖然としました。ところが間もなく高橋も曽禰大蔵大臣から呼ばれたので、出て行くと、大臣はまず総裁更迭の話をして、「新総裁に不服の行員はやめてもらいたい、また留まる者は助けてもらいたい」といわれます。高橋はただ承るだけで引き下って来ました。

 しかし考えてみるに、いかにも大蔵省のやり方が突然でかつ乱暴のように思われます。よって高橋は事情を調べて見ました。するとこういうことが判ってきました。即ちこれより先総裁は伊藤侯を訪ねて自身の任期のことについて相談をしたと見えて、ある日伊藤侯は桂首相に向って「日本銀行総裁更迭の噂があるが、そういうことがあるか」と尋ねられました。すると桂首相は「いや自分にそんな考えは少しもない」といわれたというので、そのことが山本総裁の耳に入り、従って自分は重任するものと思っていられたようです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-40(最終回)

 そこで高橋は第一に桂首相を訪ねました。そうして、「今回の日本銀行総裁更迭の手続きは、いかにも穏当を欠いている。総裁任期の当日まで何の話もなく、ただ大きに御苦労であったの語をもって罷めさせるとは、何か総裁に左様な処置をされるだけの過失があったのですか、自分は副総裁として常に一緒に仕事をして来たが、今日まで正貨準備の増加、団匪事件(義和団事件)等について功績こそあれ過失はないと思います。ことにあなたは伊藤侯に対して更迭の考えなしといわれたということである。今度のことは実際国のために黙過することの出来ないことであるからうったえにきました」というと、桂首相は「それは伊藤侯から自分に更迭の考えがあるかと問われるから、自分としてはそんな考えはないと返辞したのは確かだ。しかし大蔵大臣が、今日露の間に重大なる関係をひき起こそうとしているのに、万一の場合今の総裁では自分は大蔵大臣の任務が尽くせないというものだから、当局大臣がそういう以上仕方がない、と思って、大蔵大臣の言に従ったまでだ」といわれます。

 それで高橋もじっとしておられぬので、山県侯を尋ねて、政府の処置の不当なるゆえんを縷々述べ、ことに日本銀行総裁の更迭をかくのごとく軽々に取り扱われることは、海外の関係において最も不可なるゆえんを詳しく説明したら、侯は「自分も誠にそうだと考える、たった2、3日前、桂が来て、日本銀九総裁を更えるからというので、そうした事情のあろうとは知らず、ただそうかといっておいた。して今となってはどうしたらよいというのか」といわれるから、「しからばです。今日すでに決定したものは致し方ありませんから、もし過失なしとせば在職中の功績を認めて、昇勲の御沙汰を賜るよう御配慮を願いたい」というと、山県侯は「勲章は困るが、貴族院議員はどうだ」といわれるから、「それは誠に結構です。貴族院議員に勅選されるということなら結構だと思います」

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山県有朋

 「それなら君は桂のところへ行って、俺がそういったといってその話をしてくれ」といわれれるから、高橋は早速桂侯のところへ行って話すと桂も「承知した」といわれるから、「それでは至急お願いしますといって別れ、その後催促してついに発表を見るに至りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-21

 1897(明治29)年正金銀行の顧客である一仏国商人が倒産しました。正金銀行はこの商人から生糸の輸入為替を買い取っていましたので、この人の破産で僅少ながら数万円の損失を受けることとなりました。ところがこの商人は正金のほかに、フランス本国における大きな三つの銀行とも取引があって、しかもこれら3銀行の受けt損失はよほど巨大であると伝えられました。しかるにその後まもなくわが正金のリオン支店から一書が到着しました。これによると上記仏国の3銀行は、この商人が人格の優れた人で、過去二十余年の間生糸の輸入業に従事し、その間銀行に取りては好個の顧客であったことを思い、倒産に到りたる事実を、帳簿その他の書類によって、極めて丁寧親切に取り調べる所があり、その結果は本人には少しも思惑をなしたる形跡なく、全く財界の不況により、同人の得意先なる織屋が不如意となったるにもとづくことが明らかになった。

それでこのまま彼を失脚せしめ、その永年の知識経験を埋没させることはいかにも惜しむべきである。何とかして彼が再起して生糸輸入業を継続できるようにと3銀行は会合協議の結果、旧貸金は全部帳消しとし、さらに今後の運転資金として、3銀行がすでに貸し付けて欠損となりたる金額に按分して信用をもて該商人に融通することを決定した。

これがリオン支店からの手紙の要領であり、最後に正金としていかなる態度をとるべきか問い合わせてきたものでした。

高橋はこの手紙を読んで新たなる知識を得て、もしこれが日本だったら、銀行は顧客から一片のいわゆる出世証文というものを取りて本人を破産せしめ、もって銀行自身の責任を尽くしたものと考えているのが通例です。我等は今フランス3銀行の執りたる手段を見て、その親切と理智と徳義とに感激し、高橋はリオン支店に対して直ちに3銀行同様に行動すべきことを申送りました。

このことがあってからやがて山本達雄より朝吹英二について内話がありました。それは今度川田総裁の取持ちで朝吹をっ再起せしめ木名木川(きなきがわ)綿布会社を担当させることになって、朝吹も非常に喜んでいるが、ここに相談したいことは、先年政府が直輸出奨励のために会社を設立し、朝吹を社長として経営せしめたところ、それが見事失敗して、政府は100万円ばかりの欠損を背負い込むこととなった。その際正金銀行は清算取り扱い人となって、この後始末をつけたが、清算に当って、朝吹から年々500円ずつの年賦償還に関する証文を取っている。そこで朝吹のいうには、折角川田君の親切により、再び世に出て働くこととはなったが、かの年賦証文のことを思うと、一生涯働いても駄目だから、ややもすると気持が挫け、活動の気も鈍り、前途暗澹たる感がする。何とかかの証文を取り消す工夫はないものであろうかというが、君はどう思うかとの話でした。

Weblio辞書―検索―朝吹英二

 その時高橋の胸にはちょうど前述の仏国商人の事例がまだ事新しく刻まれていた際とて、その事を話し、ついては毎年500円納入するのを、この際一時に10年分納入せしめて証文をキッパリ取り消すことにしたがよかろうと述べると、山本も大いに満足しました。

 よって相馬その他の人々に相談したが、もちろんこの債権はすでに銀行の勘定から落としてあるものでもありましたから、いずれも文句なく高橋の意見に同意してくれました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-22

1896(明治29)年9月松方内閣が成立、松方伯は大蔵大臣を兼任しました。それまで我が国は銀貨本位でしたが、松方はかねてより金本位制に改める意志を持っており、その事に関して高橋にも相談がありました。

 当時銀は低落の一途をたどり、金に対しては昔日の半価となっていました。即ち従来金1円の量目は4分でしたが、その半分2分をもって新金貨1円とすれば、為替相場においても、内外貸借関係においてもちょうど平衡がとれるような状態でしたから、高橋は今日こそまさに金本位制を実行すべき時であると答申しました。しかるに当時設けられていた貨幣制度調査会は銀本位を可とする旨を答申し、また大蔵省内にも今金本位に改めればかねて清国及び南洋方面に輸出流通せられているわが円銀が一時に戻り、新金貨と交換を要求せられるの憂いある。よってそれに対抗するため引き換えに要する期限を定めねばならぬ。それにはまず香上銀行およびチアター銀行等の意見を徴すべきである、などの議論も起っていました。

 上述の事情で大蔵大臣から意見を求められたので、高橋は「元来我が円銀にして一度海外に輸出せられたるものは、単に銀塊として取り扱うのが至当である。輸入銀貨は決して新金貨と引き換えの義務はない。ことに一国の貨幣制度を定めるに当って外国銀行者を顧慮しこれに意見を聞くがごときは不見識の至りであるばかりでなく、百害ありて一利なきものである。ただ清国及び南洋よりすでに日本に向け積み出されたる円銀に対しては多少の考慮を加え、新制度の実施当日より3週間くらいの引き換え期間を許せばよろしからん」と答えました。

 このことについては、後にいろいろの議論があって、ついに引き換え期間を6カ月と定め、実行に取りかかったが、期限が少しく長過ぎたために、その後3箇月に短縮されたように記憶します。

1897( 明治30)年園田頭取は、日本銀行営業局長山本達雄とともに英国に出張することとなりました。その主なる用向きは清国から受け入れた償金を英国銀行にに預け正金ロンドン支店を通じて直接英蘭銀行と当座勘定を開くにありました。

 当時英蘭銀行は、容易に他国の銀行と直接取引することを認めない習慣がありましたが、両君の努力によりその目的を達し、かつ正金ロンドン支店に日本銀行の代理事務を行わせることとなりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-23

 1896(明治29)年11月4日川田日本銀行総裁は逝去し、岩崎弥之助(吉野俊彦「前掲書」)が日銀総裁に就任しました。そしてその第一着手として、従来日本銀行の慣例となっていた株主配当年1割2分を1割にに引き下げました・

 園田頭取は英国より帰朝後身体疲労のように見受けられましたが、ついに病気のため退職することとなりました。その際豊川良平がやってきて、園田氏辞職後は相馬取締役を頭取に進めたい、ついては君に異論のないようにと種々事情を具して説明がありました。

 それで高橋は、かくの如き問題について御懸念は無用である、何人が頭取になろうとも私はただ一念正金銀行本来の職責を尽くすのみである、と答えたところ豊川もそれで安心したといって帰りました。

 岩崎氏総裁の任につくや、その下には河上謹一、鶴原定吉、町田忠治、片岡直輝らの諸君があって総裁の信任厚く、山本達雄はこの時英国より帰朝しましたが、これらの人々の中にあってなんとなく隔靴搔痒の感あり、また総裁との間にも一点の間隙あるがごとく感ぜられたので、高橋は山本に向って「一層のこと相馬君に代って正金の頭取になってはどうだ」と勧めてみました。

 しかるに山本は「自分は英語がよく話せないので外人との交際が困難である。正金の頭取として外人との交際に不自由なようでは、到底完全に役目を勤めおおせることが出来ない」とて肯ずる様子がありませんでした。

 1898(明治31)年1月第3次伊藤内閣が成立して、井上馨伯が大蔵大臣に就任しました。高橋は日本銀行から正金銀行に入った当初から、日本銀行の催しにかかる宴会には、日本銀行の幹部同様招かれていました。従って岩崎総裁になってからも、前総裁と同様に知遇を受けました。

 ある時、総裁から駿河台の自邸までちょっと来てもらいたいといって来たので、早速訪問しました。するとすぐに一階の茶室ようの小室に案内されましたが、そこには岩崎総裁と田中宮内大臣とが対座して何かしきりに凝議していました。そうしてその席の給仕万端はもっぱら岩崎夫人自らこれに当り、他の人は一切出入りさせない様子がいかにも重大なように思われました。やがて総裁が高橋に向っていわれるには「君に来てもらったのはほかではない、新大蔵大臣井上伯が日本銀行総裁に対してべつに考えるところがあるかどうか、一つ井上伯を訪問して、そのことを観察してもらいたい」ということでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-24

よって高橋は早速井上を訪問、それとなく気を付けてみたのですが、べつに岩崎総裁に対して異志ある様子も認められないので、帰ってその旨を総裁及び田中宮内大臣に報告しました。

 1897(明治30)年3月高橋は株主総会で正金銀行の副頭取に任ぜられ、同年10月26日台湾銀行創立委員を仰付けられ、翌31年1月28日農商工高等会議員を拝命しました。

 これよりさき1898(明治31)年1月高橋は正金銀行の在外各支店事務視察、並びに金融事項取調べのため欧米へ出張することとなりましたが大蔵大臣井上(馨)伯から「君に少し頼みたいことがあるから今少し出発を待ってくれ」という話があったので、その通りにしました。

井上がいうには「大蔵省でだんだん調べてみると1億円ばかり外債を起す必要がある。ついてはどんな条件であれば募集が出来ようか、一つ瀬踏みして来てもらいたい。自分の考えではフランスで募りたいが、しかし事情によることであるから、必ずしもフランスと限らんでもよい」ということでありました。

 それで高橋は「そのことは、今度日本銀行から河上君一行が海外に出張するから、むしろその方に御内命になってはいかがです」というと、「いやそれはいかぬ。今俺が財政上外債を起こさねばならぬなどいったことが世間に分かっては大変だ。このことはごく内密にしなければならぬ。それで君に頼むのだ。日本銀行に頼めば、必ずそれが世間に漏れる。そうなると自分の計画に支障を来すから、誰にも言わずにいるのだ」

 それで高橋は「それはなかなか困難な取調べです。いよいよ募債すると決まった上で内々取り調べることであれば、相手の人も真剣に相談に乗ってくれるが、ただ瀬踏みだけでは相手も困るしまた真剣にもなってくれません。ことに日銀の河上君一行とは行を共にするわけではありませんが、出先で落合うこともたびたびであろうと思われます。自分としてもこの一行に何も知らさずに密かに取り調べるのは心苦しいことでありますが、大臣のお考えがそんなことであれば、出来るだけ心を注いで取り調べてみましょう」と答えました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-25

この外債についての井上伯の肚が決まるまで約1箇月ばかり高橋の出発は延ばされた次第でありました。かくて2月9日夜に至って葉山を出発、翌10日午後9時半神戸着、西常盤に一泊し、11日午前11時、汽船長門丸に乗って神戸を出帆しました。

船にはインドに帰国途中のタタ氏が同船していたので、インドから銀を取り寄せることについていろいろと相談しその結果を書面にて鍋倉(なべくら)に申し送りました。

 2月12日午前10時関門着、馬関の大吉楼では百十銀行の木梨君の接待をうけ、午後2時半船は出帆、13日午前4時長崎着、迎陽亭に投しました。この日午前中松田源五郎君が来て、貿易港としての長崎についてしきりに意見を述べて行きました。正午には農工銀行行員から清国料理の接待を受けました。当時長崎書記官であった田中隆三も同席していました。

 正金銀行の支店を長崎に置くこととなり、過日支店敷地として三菱所有の土地を買ったので、それが検分に出掛けました。いかにもその位置が良いところにあるので、そのことを書いて相馬頭取に通知しておきました。

 午後荘田平五郎君から招待をうけ、その席には岩崎久弥その他三菱の諸君が同席でした。

Weblio辞書―検索―岩崎久弥

このとき荘田が笑いながらいうには「今朝一行大勢で迎陽亭に着いたものがある。大賑わいで入浴しておったから、宿の女中に、今朝の一行は誰々だと聞くと、女中が、何でも高橋様ご夫婦にお嬢さまにお附きの人らしいということであった。ところがあとになって調べって見ると、自分たちがよく知っている馬関の大吉楼の女中や芸妓と分かって大笑いとなった」ということでした。

 1898(明治31)年2月14日午前10時、長崎をたって上海に向いました。田中隆三はわざわざ県庁の小蒸気を用意して本船まで送ってくれました。

 同月17日午前9時、上海の郵船碼頭に到着、正金から西巻支店長以下の出迎えあり、高橋は直ちにアスターホテルに入りました。

 

上海館

 上海では着後数日間はいろいろと社交的な往復や市中見物等で時を移しました。郵船の永井、領事の小田切三井物産の小室らの諸君とはたびたび往来しました。同月31日の夜には永井宅に招待されましたが、その時の同客者には盛宣懐ら清国名流の人々もいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-26

 2月23日に至って正金のロンドン支店から電信で、清国の外債1600万ポンド(日本へ渡す償金の残り)は、香上銀行とドイツの銀行とで引き受けることになったと報告してきました。また小田切領事からも書面にて今朝盛宣懐に会ったら、ロンドンの李より電信で外債は陰暦の正月末に成立したとの報告が来たとのことであったと知らせてきました。

 2月26日から上海支店の業務について取調べを始めました。今月17日以来、日々の為替の契約及びその取扱い高の報告書を出すように命じました。その当時上海支店の病根は、明治29年10月以降インドのルピーを売り過ぎてその買埋めをしなかったために、5万両(テール)前後の欠損を生じていたことでありました。しかも支店長は29年の下半期の決算書にはこの欠損を載せないばかりか、却ってそれと同額の利益を計上していた、そうして明治29年の上半期に至ってはじめてこく僅少の損失が隠されてありました。

 支店長の考えでは、今後為替の利益で漸次この損失を埋めて行くつもりでありました。

 近頃上海支店の利益が著しく少なき理由もこれによってほぼ判明しました。しかしながらこのことを公(おおやけ)にすれば支店長の更迭は免れません。かつ明治29年10月以降の決算表が正当でないということを世間に知らすことになるので、正金にとっては公にされないことであるから、その内容を相馬頭取だけに報告し、高橋の意見を述べておきました。

 かくて3月8日午前11時半、汽船ナタール号で上海を発して香港に向いました。

 ナタール号は3月10日午後11時半香港に到着しました。その夜は船中に眠って、翌朝正金支店員に迎えられてホンコン・ホテルに入りました。この時日本銀行の河上謹一君から「ベンガオル号に乗って行く、ただし都合によりポンペイには行かぬ」と電報して来ました。しかるに他方ポンペイ支店からは「検疫なしし」と連絡してきたので、「我々は予定の通りベンガオル号にてポンペイに行く」と両者に向け返電しました。

RETRIP 香港

 香港着当日から支店へ行って検査をしたり話を聞いたりしました。これよりさき香港では清国人が盛んに銀を内地に持ち帰るというので、銀の需要者が非常に多くなり、香上銀行はスタンプトダラー[弗銀(ドルぎん)に発行銀行のの証印を押したもの]を造って、それがまた大変に売れ行きがよかったのです。

Weblio辞書―検索―1ドル硬貨(アメリカ合衆国)―寂滅

 わが正金もこのスタンプトダラーの状況が大変よいので、長支店長に命じて、出来るだけ円銀を取り寄せる方法を講じるとともに、ロンドン及び日本内地で出来るだけ銀塊を買いこむように申し送りました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-27

 3月11日長支店長の晩餐の席で、香港で最も評判のよい仲買のスチュワードに紹介されましたが、この人のいうには、結局、ロシヤと日本との衝突は免れず、遠からず戦いになるだろうというような風聞がししきりに新聞、電信で報じられるということでした。

  3月17日には河上謹一一行がベンガオル号で香港に到着しました。高橋もその船に乗り込んで19日香港を発ち、同月24日シンガポール着、翌日出発、30日コロンボに着きました。

 河上の一行はここでヴィクトリア号に移乗しましたが、高橋はそのままベンガオル号でポンペイ(現ムンバイ)に向いました。ちょうどコロンボ滞在中、清国はロシヤに対し旅順太連を割譲したという電信が到着しました。これに対しタイムス紙は「英政府はすでに清国の許したものを覆すの意思なし」と論じている旨を報せられましたが、香港電報はこれと反対に英国の東洋艦隊は開戦の用意をなし、北上しつつありと伝える有様でした。

 コロンボより4日にして4月3日午後8時ポンペイに着きました。正金支店の店員が出迎えに来ましたが、夜もすでに遅いので、明朝上陸することにしました。4日上陸、それから12日までポンペイに滞在しました。

 4月7日には現地人の女の踊りに招待され、美しい衣装を着た娘たちが歌い、かつ踊って、主人は高橋たちの首の廻りに香気の強い花の輪をかけてくれました。一日寂滅塔(Towerof silence)を見に行きました。これは印度における或る一派の宗教の慣習によって、死人の屍をこの寂滅塔の大きな円形の塔上に運んで横たえ、鳥たちが屍を食い啄ばむに任せるのです。高橋はこれを見て不愉快になりました。

RETRIP ムンバイ

  4月12日ポンペイを発して欧州に向いました。ペルシャ湾を横断するのに5日を要し、、17日午後2時アデンに到着しました。船中でフランス公使館のアダムと懇意になり、この人を介して、殖民省の局長ラウンを知るに至り、同氏は前商務大臣シーフィールドに添書を書いてくれました。

 17日夜半アデンを発し、22日午前8時スエズに着きました。かくて4月27日午後6時マルセイユに到着、正金のリオン支店から市川君が迎えに来てくれて、ホテル・ジュネーブに入りました。マルセイユ到着の当夜及び翌日は市内の見物に時を費しました。

 シャリロンズ・ブリガローで朝食に鮮魚と牡蠣)かき)の料理を食べましたが、久しい航海の後ではあるし、一層の美味を感じました。

 4月28日ごご8時15分マルセイユを発し、翌日午後7時35分にロンドンのチアリング・クロス・ステーションに着きました。そうして中井支店長らに迎えられ、直ちにド・ケーゼル・ロイヤル・ホテルに入りました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-28

 当時の駐英公使は加藤高明で、サセックス・スクエヤーに自邸がありました。また荒川君がロンドン総領事で、ポーランド・ロードの官舎に住んでいました。三井の支店長が渡辺専次郎で井上準之助日本銀行から留学を命ぜられて、パースバンクに見習として入っていました(「男子の本懐」を読む10参照)。また正金の竹内金平も帝大を出たばかりのところで始終訪ねてきては、正金の組織改正に関する意見など熱心に話していました。

近代日本人の肖像―日本語―人物50音順―いー井上準之助―かー加藤高明

  河上謹一は高橋よりも先に着いておりましたが、高橋がロンドンに着いたころは咽喉を患い、少し熱を出して床についていました。その後よくなり5月5日リバプールに向け出発しました。

 高橋は5月18日に至って、初めてパースバンクに行き、重役のウイリアム・ダンおよびロンドン支店の支配人ホーウエに会いました。また同月20日には同じくパースバンクでシャンド(「天佑なり」を読むⅠ―4参照)の紹介により、手形取扱銀行業者のフレーザーに会いました。高橋はその時かねて井上蔵相から頼まれていた公債発行の可能性如何を探ろうと思って、それとなく問いかけたら、同氏は「この前の四分利公債は成績良好でなかったが、これは今後の公債発行に不利益な影響を与えるものである。また一時に1600万ポンド(当時の換算相場で我が1億円)というような巨額の発行をすることは不利益であって、ロンドン市場の消化し得る最高額はまず500万ポンドの程度が止まりである。初めて募集する場合は出来るだけ額の少ない方がよい。3箇年に割って払い込むようなことは決して賢明な策ではない。今日のロンドン市場の状況では、むしろ日本の大蔵省証券額面で発行できるだろう。ただしそれでも第一回の発行に当っては下受人を通ずるがよい。もし大蔵省証券でなく、公債を発行するならば、どうしても下受けの方法によらねばならぬ。そうして四分利附でで、額面の90%で発行することが出来たら成功と思わねばならぬ。しかしながら財界の状況は常に雲の如く変わるので、よく視察して誤りなきようにすることが肝腎である。また鉄道公債については、今ロシヤ政府がやっているようにしたらよかろう。ただしその額多きに過ぎるときは公募者は担保を要求するようになる。」

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-29

 「次に、国内の工業に外資を輸入せんとするときは、土地を担保とすることが一番適当である。もっともその土地に課せられる税金が、公平にして不動なることを必要とする。外資を輸入するも一つの方法は銀行を経て吸収することである。それは一種の通知預金の形をとればよいのである。

Weblio辞書―検索―通知預金―牧野伸顕

即ちかりに正金銀行ががその衝に当たるとすれば、正金は12箇月期限の預金に対して四分半の利息を附す。ただしこれを期日前に引き出す場合3箇月以前に銀行に通知することを要す。なお12箇月以上の長期間を預金したき人に対しては、支配人において特に御相談に応ずと新聞に広告したら、相当に資金を吸収することが出来よう」ということでありました。

  公債募集の可能性如何については、主としてシャンドの意見を聴きました。シャンドはこの外にロンドン商業会議所の会頭モールレー、スターチス誌のロイド、チアターバンクのバッドらの諸氏を紹介してくれました。これらの人々からも種々の意見を聴くことができました。そうして外債募集の可能性如何に関する諸家の意見をまとめ、さらに自己の意見を付して井上伯に報告しました。

 1898(明治31)年8(6の誤り?)月4日ロンドンをたって、(欧州)大陸旅行に上りました。一行は河上謹一、伊藤欣亮、植野繁太郎、赤石及びリオン支店の市川並びにに高橋の6人でありました。この大陸旅行はおよそ1箇月ばかりでしたが、多くは、博物館、公園、劇場、寺院、美術館等の見物でした。

 微かなる記憶によれば、ドイツでは有名なるメンデルスゾーン及び独亜銀行の頭取や重役に面会しました。またベルギーでは国立銀行総裁に面会して意見を聞きました。日本人では牧野伸顕らに会いました。

 大陸旅行中も井上伯から頼まれた外債募集の一件は、細心の注意を払って研究していましたが、高橋が会った人の中で、ある公使の如きは、すでに井上伯から、その事を申し送られて承知しているかの如き感を起さしめるものもありました。しかしながら、そんな人との話でも、高橋はあえて具体的の話に触れることなく、ただドイツやフランスで、公債募集の可能性ありや否やを測量するに止めました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-30

この点について、大陸を通じて高橋の感じたことは、専門の証券売買業者などで日本公債の利回りがよいと言って親の遺参を受け継ぎ暮している遺族や未亡人または貴族らに日本の国債を勧めているような向きもないではなかったのですが、大体においてドイツでもフランスでも一般公衆は日本の公債など知らぬ人が多く、ほとんど問題になっていなかったようでありました。

 大陸の旅行を終わって、再びロンドンに帰ったのは、1898(明治31)年7月10日でありました。早速加藤公使を訪問して外債募集の件で意見交換をしたのですが、すでに公使には井上蔵相から書面が来ていたと見えて、そのことを承知しているようでした。

 桑港の正金支店にあて、桑港より横浜への便船を問い合わせたところ、ベルジック号が9月3日にコブティック号が9月22日に桑港を出るというこででありました。よって7月23日リバプール発のルカニカ号で英国を去り、9月3日のベルジック号で桑港を出発することに決し、その旨日本及びニューヨークに電報しました。

 かくて高橋は7月23日キューナードの特別列車でユストン停車場を発し、午後4時半にリバプールに向いました。加藤公使その他多数の見送りを受けましたが、その節加藤公使の言に、「外務大臣から外債のことで電信を受け取ったが、そのことはすでに井上伯に報告してある事柄であったから、その事由をいって返事をしておいた。もはや募集のことが確実にならなければ、これ以上尽す手段はない」ということでありました。

 大西洋の航海は極めて穏やかに、7月29日ニューヨークに着きました。ドイツまで迎えてくれた正金出張所員の案内でフィフスアベニューのワアズロファースト・ホテルに入りました。

  ニューヨークには約10日簡滞在、当時の正金出張所長は長崎君で岩原謙三が三井物産の支店長でありました。 特許取調べ当時に大いにお世話になったズリー(「天佑なり」を読むⅡ-8参照)が友人のアルフレッド・ブランマーを伴ってやってきたので、共に食事して会談しました。

 かくて8月10日午後6時ニューヨークを発ってナイヤガラに向い、長崎夫妻も同行しました。翌日午前8時ナイヤガラに着き、その日は終日馬車で見学しました。8月11日午前6時20分ナイヤガラを発ち、車中4日にして8月16日午後8時45分桑港に到着しました。

RETRIP―ナイアガラ

 正金の青木支店長その他の店員がオークランドまで迎えに来ていました。一緒にパレス・ホテルに行って晩餐を共にし、夜の12時まで話しこみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-11

 高橋が行くと総裁は床の上に坐って、大本営天皇に拝謁を賜ったことを感激に満ちた言葉で話し、かつ伊藤総理から日本政府は今回朝鮮の内政を改革し、独立を扶助するの費用として、同国政府に対し、300万円を用立てることになったから、日本銀行で骨を折ってもらいたいとの話があったので引き受けて来た。ただしその貸金に対しては、この通り日本政府の保証を得てきたといって、伊藤さんからの書付を示されました。

 高橋がその書付を読んでいると、「只今藤田さんが、御見えになりました」と取次いできました。すると総裁は坐ったまま「ウン、こちらへ」と軽く指図しました。

 そこへ藤田と称する人がやってきたので、見ると痩せぎすの身長の高い男で、着流しに縞の羽織角帯という姿、それに総裁との挨拶ぶりも大変隔意のない様子でしたから、高橋は「ハハアこれや総裁お気に入りの骨董屋だナア」と思いました。

 高橋は藤田とは初対面でしたので、黙ってさきの書付を読んでいると、総裁は「まず三井、岩崎らにも相談して、いけなければ日本銀行だけでも調達せねばならぬと思って、その書付を取って来た」と話すので、高橋はこの書付についての腹蔵ない意見を次のように述べました。

 「第一この際日本政府から直接朝鮮政府へ貸付をすることは、列国との関係上どうでしょうか、懸念すべきことはないでしょうか、この点は政府が最も慎重に考えねばならぬことと思います。第二は、この書付は日本銀行に対して政府が保証するというけれども、総理大臣伯爵伊藤博文一個の署名があるばかりです。私が考えるに、政府の保証は帝国議会の承認を経ざれば、その効果を生じてこないかと思います。それでも内閣全体が責任を負うというなら、これに関与する大蔵、外務両省大臣の署名があるはずですが、それがないところを見ると、閣議も経ていないことは明らかです。いずれの点から見ても、この書付では保証の効力を生じてきません。いわば反古同様のものとおもいますが、どんなものでしょう」

 すると今までニコニコ顔だった総裁は俄かに怒気を含んで「君は何をいうのだ。総理大臣の署名捺印があるのを反古同様とは何事だ。君は俺が反古紙を掴んで来たというのか。俺の配下には君のようなことをいう人はいないはずずだ」と怒号しました。その時骨董屋とばかり思いこんでいた藤田が、突然座を起って縁側に出て「高橋さんまあここへおいでなさい、庭の景色でも見ましょう」と呼び出しました。高橋はこう総裁を怒らせては病気に悪いだろうと心配するとともに、縁側から声をかけられて始めて、ハハアこれが有名な藤田伝三郎であったナアと気が付きました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-12

 高橋は藤田の言をいい機会に縁側に出て藤田のワキに立ちました。すると藤田は小さな声で「病人とあまり議論しては病人のためによろしくない」と注意してくれました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー伊藤博文―ふー藤田伝三郎―むー陸奥宗光

 そこで高橋は暇乞いもせずに辞去し、その足で早速大阪支店に鶴原定吉を訪ね、今日の経緯を話して、「総裁が俺の配下には君のようなことをいう人はいないはずだと言われたのは、結局辞めろということになる。俺はここで辞表を書くから君はこれを総裁に取次いでくれ」というと、鶴原はカラカラと大笑いして「君は総裁の真意を悟らないのだ。目下井上さんが朝鮮にいるだろう、それで藤田の来たのを幸いに、君にその話をして、いかに総裁が朝鮮金融のために尽力しているかということを藤田に聞かして、藤田から井上さんに通じさせようというのが本当のはらの中だ。君も知っている通り、総裁と井上さんとの間はこれまであまり面白くなかった、そこへもってきて君がケナしたから怒ったんだ。辞表をだすなんて決してそれに及ばぬ、マア俺に任せてくれ。俺は午後から総裁を訪問する。4時ころにはあっちに行って居るから、君もそのころ総裁のところに来てお詫びをしたらいいじゃないか」といいます。

 そこで鶴原のいう通り、また総裁を訪ねると、総裁と鶴原とで大声あげて大笑いしながら、機嫌よく話しています。高橋が挨拶すると、総裁は「朝のことをいま鶴原と話して俺がよいか君がよいかを判断させているのだ」と笑いながら言って何事もなく、それなりに済みました。後でこのことについえ仄聞するに、三井、三菱も調金に同意せず、結局議会の協賛を経て、公債を発行することになったということでありました。

 清国と開戦以来連戦連勝。黄海、威海衛にに北洋艦隊を撃滅、北京を攻撃せんとする勢いを示すに及んで清廷は驚き、講和を希望、直隷総督粛毅伯爵李鴻章をもって頭等全権大臣に任じ、正式完全の委任状を授け、日本に特派談判させることとしました。談判地は馬関の春帆楼(「大山巌」を読む39参照)と決定、1895(明治28)年3月3月17日には講和全権大臣外務大臣陸奥宗光が来関、次いで同月19日午前8時首席全権大臣内閣総理大臣伊藤博文伯が到着しました。

 するとまもなく午前9時ころ清国講和全権李鴻章一行を載せた船舶一隻が関門海峡に投錨しました。

Weblio辞書―検索―李鴻章―北洋艦隊

 高橋が陸奥宗光に挨拶に行くと、今度の談判は十中の六、七は結了むつかしかるべしのことであったが、高橋は当局大臣の常套語とばかり聞き流しました。

 このとき大蔵大臣渡辺国武は辞任、逓信大臣に転じ、前首相松方正義が蔵相に就任しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-13

 戦後経営の中で最も重要な国務は財政であって、松方蔵相は今回の賠償金を英貨(ポンド)にて受け取り、わが国を金本位制になすの方針を取ることと思われたので、高橋はその意味をもって川田総裁に意見書を送りました。

  1895(明治28)年3月20日馬関春帆楼上で伊藤全権対李鴻章との第1次会見が行われ、この日は互いに所持する全権委任状を査閲し、その完全なるを認めてこれを交換した後、李全権より講和談判開始の前に、休戦の事項を議定しおかんことを提議しました。伊藤全権はその件について明日回答すると言明してその日の協議を終了しました。しかし休戦に関する両国の合意は成立せず、同月24日第3次会見で直ちに講和談判にはいることを要望、よって日本全権は明日講和条約案を提出することを約し、これを以って第3次会見は終了しました。

 同日午後4時ころ、李鴻章は春帆楼を出て、その旅館に向う途中、往来の群衆の中から兇漢が前方の巡査2名を押しのけて、ピストルで輿中の李鴻章を狙撃、重傷を負わせました。兇漢は直ちに捕縛されましたが、李鴻章は傷口をハンケチで抑えながら旅館へ帰り、直ちに治療を受け、市民は致命傷でなかったことを喜びあいました。

 李鴻章遭難の報告を受けて、天皇は石黒軍医総監並びに佐藤博士を派遣、佐藤博士を治療に当たらせるとともに、天皇の命により、わが全権は3月28日李経方と会見して4月20日までの休戦を通告、同月30日これに関する条約を締結しました。

 李鴻章の遭難後、馬関市民は数名の総代を選出して慰問することを決議しました。しかし清国側はこれを拒否して受け入れませんでしたが、李鴻章の容態も良くなると、随員たちも見舞をうけいれることになりました。

 そこで馬関市民は生魚を贈ることに決し、高さ1尺5寸、方6尺ばかりの四面硝子張りの箱を作り、これに潮水を満たし、馬関海峡でとれた数種の生魚や貝類を入れ、それを李鴻章の病室に運び入れました。李鴻章はこれを見てすこぶる満足の態でありました。

 李鴻章は同年3月30日休戦条約が締結されると、早速講和談判に取り掛かることを要望、わが全権は4月1日講和条約案を清国使臣に送達しました。李鴻章はこれより自国に有利な交渉を成立させようと努力しましたが、4月13日から14日にかけて、わが60隻余の運送船が兵員人夫ら約10万名を乗せて馬関海峡を通過しました。

 李鴻章らはこれを見て驚き、本国政府に打電、速やかに廟議の決定を促したとのことです。このような事情で講和談判は進み、4月17日には最後の談判が開かれました。

 この日伊藤伯が元気に帰ってきたところで、高橋は記念のため字を書いてもらおうと墨をすって待っていました。すろと伊藤は何でも額や軸を合せて十数枚書き与えてくれました。高橋はこのとき5、6枚手にいれましたが、只今手元にあるのは「大観」という額だけです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-14

 講和談判の成り行きについて列国は非常な注意を払っていましたが、露国は遼東半島の割譲をもって自国の東方経略を阻害するものとし、突如4月24日仏独両国を誘い、わが外務省に対して「貴国が遼東半島を永久に領有するは東洋永遠の平和によろしからず、よってこれを清国に還付し、世界の平和に資せられんことを望む」と通告して来ました。

 御前会議は連日開かれ、その結果6月5日遼東半島還付容認の旨を3国政府に回答することとなりました。高橋は5月23日高橋健三に答えた書面(省略)の中で、臥薪嘗胆の思いを述べtいます。

Weblio辞書―検索―臥薪嘗胆―馬蹄銀

 講和談判終了のころから、コレラも下火となって、戦争中途切れていた外国船も漸く入港するようになり、かつ7、8月ころまでは御用船の要する石炭もまた少なくないので、石炭の値下りも底をみるようになりました。

 また九州方面においては、戦争中、中小農者の手元に小金ができたため、相当衣服などの需要も起り、7、80銭乃至1円4、50銭程の反物が平生の倍以上も売れるようになりました。これに反して所得税を納める階級にあっては、義務的に軍事公債に応じたために、その払い込みに苦しむという有様で、例年4、5、6の三月は金融緩慢に終わるのが常ですが、このような事情で各銀行とも非常に貸出が多くなりました。

 その内に出征軍人が引き揚げて来て、惜しげもなく金銭を消費するので、魚、鳥肉、野菜などは平生の3倍以上にも騰貴しました。また軍隊はいろいろの分捕り品を門司の倉庫に運び込みましたが、そのうちに400万両の馬蹄銀(「坂の上の雲」を読む19参照)もあるという噂でした。

 ある時支店員の一人が小さな馬蹄銀を珍しがって高橋の所に持って来ました。そうして「これが評判の馬蹄銀です、珍しいよい記念品です」といううので、「どうして手に入れた」と訊くと「始終店に来る軍人からもらったものですが、支店長も一つもらっておかれてはどうですか」というから、高橋は「およそ分捕り品というものは国家に帰属すべきもので、軍人がこれを私すことはできないものだ。従ってそれをもらって所持しているのはよろしくない、君はそれを帰してしまい給え」といって返還させました。

YAHOO知恵袋―中国の古銭に馬蹄銀などがありますが 

 6月中旬井上(馨)伯は朝鮮より帰朝、その途上4、5日の間馬関に滞在しました。このとき井上は三国干渉後の対朝鮮外交の困難について高橋に語りました。

 1895(明治28)年8月高橋は日銀総会に出席のため上京しました。当時川田総裁はまだ健康を回復せず、浜田の三野村別館に静養していました。上京中2度目に総裁を訪問すると、総裁は突然高橋に(横浜)正金銀行(三菱東京UFJ銀行の前身、「男子の本懐」を読む13参照)入りの話を持ち出しました。

Weblio辞書―検索―外国為替―小泉信吉―山本達雄—横浜正金銀行

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-15

 その大要は「従来日本銀行は低利の金を正金に融通して貿易の発展に尽力してきたが、どうも正金のやりかたには意に満たないところが多い。

そこで先に小泉信吉(慶応出身、福沢の弟子)を本店支配人として入れ、正金銀行をもっと国家的に働かせようと思ったが、園田頭取をはじめ相馬永胤らその店の旧店員がいて、なかなか小泉の意見が行われない。結局小泉は日本銀行との板挟みになって、とうとう自棄酒を飲んで、そのため死んでしまった。

 最初日銀から低利の融資を受ける際に今後本店支配人は日本銀行総裁が指名するという条件をつけておいたので、小泉の死後正金側から度々本店支配人を決めてくれと言ってきたが、彼等が万事日本銀行の指図通りに致しますと反省してくるまで、何も取り合わぬつもりであった。

 ところが3週間ばかり前に園田孝吉らがやってきて、すべて総裁のお指図を守ります。どうか本店支配人を決めて下さいと頼むから、それじゃ一人世話しようと言っておいた。ついては甚だ気の毒だが、俺は君に行ってもらうつもりだ。そうして十分にあすこで腕を揮ってもらいたい。もっとも君一人でも困るだろうから、も一人山本達雄を平取締役として日本銀行と兼務させるつもりだ」と懇々と話しました。

 そこで「私は西部支店長になってからはじめて銀行業務というものを習得しただけで、外国為替などについてはまだ何の知識経験もありません。しかしながら山本君が取締役としてて入ってくれるなら、出来るだけ腕をふるってみましょう」と正金入りを承知しました。そこで事務引き継ぎのため、1日馬関に出掛け、帰京すると同年26日横浜正金銀行本店支配人の辞令を受けました。時に高橋は42歳でした。

  その当時の正金銀行は内勤外勤あわせて80名足らずの行員で園田頭取および相馬取締役は2階の頭取室に収まり、高橋ならびに山川勇木、戸次兵吉、川島忠之助の各支配人は階下の本店支配人室に机を並べて事務に当たっていました。

 正金の主業たる為替事務は戸次支配人の担当で、高橋はこの戸次、山川両君から、為替相場の建て方、売買の関係、得意先並びに海外支店の関係について、詳細を習得しました。

 ある日のこと、日本銀行から通知があって、「このごろ清国から捕った償金の英貨ポンドをできるだけ速やかに内地に移したいが、正金銀行は1年にどのくらいの額を移すことが出来るか、それを調べてみよとの大蔵省からの内命である。ついては至急調べて回答してもらいたい」ということでありました。

 正金銀行では早速園田頭取、相馬取締役以下各重役、支配人らが集って、これに関する会議をもち、得た結論は、せいぜい努力して1カ年に為替で1500万円、銀塊で1500万円、会わせて3000万円しか移せないということでありました。

 元来為替で取り寄せるというのは、売為替(送金為替)を利用することで、その主なるものは輸入品代価、政府の海外諸払い、留学生の学資等であって、なかんずく政府の海外払いは、その中で最も多額を占めているのですが、政府は今後これが決済をすべて直接ロンドンにある英貨ポンドをもってするよう決したので、正金の売為替はそれだけ減少する次第であります。ゆえによほど勉強しても、為替で1カ年に1500万円取り寄せることは困難です。さりとて銀塊のまま取り寄せるには船繰りの都合並びに保険料の関係から一船100万円以上は送れません。そうすると銀塊の現送も1カ年せいぜい1500万円程度を上ることはできません。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-16

 それで高橋はこの結果を日本銀行に復命すると、「そんなことでどうする、3億円を取り寄せるのに10年かかるようでは世間の物笑いだ、そのことについては君が直接松尾理財局長に会って話をするがよい」ということでした。そこで高橋は大蔵省に松尾理財局長を訪ねて「大蔵省では一体どのくらい取り寄せたら満足されるか」と尋ねたら「いくらでも多いほどがよい」との答えでしたから「それなら私もよく考えて出来るだけ御希望に副うようにしましょう」と言って銀行に帰ると、すぐ他の3支配人を集めてこのことを報告しました。このとき高橋は正金銀行に入って以来、はじめて業務上に関する自分の意見というものを述べました。即ち「だんだん諸君のおかげで海外為替というものが解ってきた。それにつけ自分にも呑みこめず、かつこれは改めねばならぬと思うことは為替相場の建て方である。従来正金が為替相場を公表するのは、毎日午前10時外国銀行が店を開いた後になっている。それは外国為替仲買人のベンネットが香上銀行の相場が決まるとすぐに電話をもって知らせてくる。正金はそれによってはじめてその日の相場を決定発表するからである。しかるにロンドンの銀塊相場は正金にも外国銀行にも同様に、毎日前夜の内に到着している。しかも正金は毎日午前9時から店を開いているのに、外国銀行は午前10時にならねば店を明けぬ。かくロンドン相場は同時に受け取り、店は1時間も早く開いておきながら、外国銀行の相場が建たねば自分の相場を決める事が出来ぬとは、いかにも見識のない話だ。よって今後は店を開くと同時に、正金は正金独自の相場を建て、横浜の得意先には郵便ハガキ大の紙に印刷してそれに売買相場を書きいれ、小使をもって配布させる。東京の得意先には郵便をもって発送するようにしたい。

 次に主な日本商人及び外国商館を得意先として吸収する方法を講じねばならぬ。現に郵船会社の如きは近ごろ新造船を8隻も英国に注文しなあがら、一向に正金を利用してくれない。また三菱のごときも長崎に造船所を持っており、少なからず造船材料を輸入しつつあるに拘わらず正金の得意先となっていない。ゆえにまずこれら主要なる日本の輸入業者を勧誘し、進んで外国商館に及ばねばならぬ。これまでの営業の実際を見ると、輸出為替の場合は外国商館も正金を利用しているが、売為替の場合は正金に頼まない。これ畢竟正金の信用が薄いからであろう。輸出為替はこれを取り組む者がまずもって銀行から金を受け取って後に外国で支払うものである。これに反して送金者はさきに正金に金を渡して後で外国で受け取る立場にあるものである。考えてみれば正金に先に金を渡すことが不安心ということが元になりはせぬか」というと、皆が「外国の輸入業者を得意とすることは容易なことじゃない」と異口同音にいうので「それなら外国銀行よりも取り組み者に対し幾分利益を与えることにしたらどうであろう」というと、戸次が「それならボツボツ来ましょう」ということであったから、まず正金銀行では店を開くと共に独自の為替相場を発表すること、輸入為替(送金)については外国銀行よりも1/16だけ勉強する(送金で英貨に換算する際、1円につき1/16ペンス安くする、幸田真音「前掲書」下巻)ことに意見一致しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-17

 正金銀行では既述の通り営業方針を決定したので、高橋は大蔵省の松尾理財局長を訪問してこれが説明をなし、その諒解を求めました。ところがあれだけ理財のことに長けた人であるけれども、外国為替に対しては知識がなかったので、為替の売と買、電信為替、参着為替(中国語 支払人によって支払い期日が決定される為替手形)等を説明して頭に入れることにはなかなか骨が折れました。結局は正金が自分独自の相場を毎日公表すること、また輸入為替については、外国銀行ののその日の相場より1/16くらい勉強して取り組み、だんだんと外国商館を得意にする手段を取りたいが、それは許してもらえるだろうかと尋ねると、しまいには松尾局長もよく解って、「うん、それはそうしなくてはなるまい、その方針で一つうんと勉強して、得意を取れるだけとてみよ」と言ってくれました。

Weblio辞書―検索―外国為替市場

高橋はこれだけの承諾を得て横浜に戻り、まず第一に郵船会社の副社長加藤正義に会って、「君の方ではこれまで外国と随分たくさんな取引をしているに拘わらず、何で正金を使わないのか」と聞くと、加藤が「どうも正金銀行は店のものがみな嫌がっている。あすこへ行くとお役所へ行ったような気分だ。つまり不親切だ。それよりも香港上銀行かチアター銀行へ行けば非常に丁寧にして、快く為替を取り組んでくれるから、自然脚が正金に向かないといっている」というので、「それはごもっともだ。今後はこれまでと異って万事注意する。郵船は国家的の会社であるから、どうせ使うなら同じ国家的の正金銀行を使ってくれ。それに送金為替については外国銀行に比べて、必ず1/16だけは勉強する」と言って懇談したら、加藤も大変によく解ってくれて「君がそういうなら取引することにしよう」と賛成してくれました。それから三菱の豊川良平の所へ行って、同じく上述の事情を話し、今後は是非正金を使ってもらいたいと懇談すると、同君もよく諒解して、そのことを承認してくれました。

近代日本人の肖像―日本語―人物50音順―とー豊川良平

 ただし豊川がいうのには、「実は香上銀行で為替を取り組むと、神戸の店では20万円までは無担保で当座貸越しを認めてくれる。三菱では輸入為替の取り組は神戸と長崎とが一番多いのであるが、正金でも20万円までは、無担保で当座貸越しを承認してくれねば困る」というので、そのことは一も二もなく承認しました。すると豊川が「それでは神戸の方だけは全部正金に頼むこととしよう。ところが長崎の方はこれまでのホームリンガー商会との取引関係上、今俄かに変更する訳には行かぬ事情があるから、今しばらく待ってもらいたい。そのうちに機を見て長崎の方も必ず正金に頼むようにするから」ということでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-18

 内地の主な輸入業者である郵船、三菱等もかようにして説きつけたので、今度は外国商館に談判をはじめ、当時の外国商館で主な輸入商はスタンダード石油会社でありましたから、早速そこの支配人を訪問して、輸入為替については香上銀行やチアター銀行よりも1/16だけ勉強するからと言って頼むと、採算に明るい連中であるから、よく解って、これも正金の得意に引き入れることができました。

 以上のごとくにして営業のやり口を変更し、かく商館を廻っては熱心に勧誘しかつ勉強したので、1896(明治29)年1、2、3の3箇月だけでほとんど40万円(予約共)の金を為替で取り寄せることができました。実際当初予定したのよりも案外好成績を収めた次第でありました。

 これよりさき、1889(明治22)年10月、確か松方大蔵大臣の時であったと思います。政府は従来正金銀行に対してなし来たった外国為替資金の支出を停止し、これに代わる措置として大蔵大臣は時の日銀総裁富田鉄之助に、正金銀行所有の外国為替手形(輸出手形)を低利に再割引するよう命じました。しかるに日本銀行は正金の営業ぶりを信用せず、むしろ日本銀行自ら海外為替の取り扱いを開始し、内地人の直輸出奨励の衝に当らんとし、容易に松方大蔵大臣の方針に従うわなかったため、富田総裁は退職となり、川田小一郎が代わって日銀総裁の地位に就きました。

 川田総裁は正金所有の輸出手形に対しては、1000万円を限り年2分の低利で再割引することを承認し、同時に今後正金銀行の本店支配人は日本銀行総裁において指名すべきことを決定しました。かくて小泉信吉の正金入りとなり、彼の病没後、1895(明治28)年8月高橋に正金入りの交渉があったことはすでに述べた通りであります。

 よって高橋は正金入りの決心をするとともに、川田総裁に向い、自分は総裁の命に従い、その国家的方針の実現につとます、ついては従来の再割引限度1000万円を1500万円に増額し、かつ別に年2分の低利にて、400万円までの当座貸越しを許されんことを希望したところ、総裁は快くこれを承諾しました。

 そうして「今後正金銀行は為替業務のほかに、我が国の貿易に関する内外人の間を斡旋して、その媒介者となり、もって内外人会合の機会を作るよう心がけられたい」と附言しました。

 次に高橋は当時行内に蟠っていた党派的弊風を除去し、支店長級の人物を養成するため、行員採用の門戸を広めることに努力しました。正金銀行の店員は最初80人足らずでありましたが、そえぞれ系統があり閥があって、最も威勢を張っていたのは相馬、戸次系であって、その閥に属せずんば正金における出世栄達は望まれぬという状態でした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-19

 そこで高橋は園田頭取と協議し、これが調査委員を設け、戸次支配人を委員長とし計算課長沢井宗之、同課員豊間根繁吉、岡田松太郎、原田武、及びこの目的のために川田総裁に請うて貰い受けたる田中久吉を加え6名をもって委員として、計算課長の机底深く秘められて容易に見ることのできなかった計算規定を審議せしめました。かくて完全な計算規定が出来上がると、これを印刷して本店員および支店員一同に配布し、また新たに銀行に入って来た者には一々それを授けることにしました。そしてこの規定は1897(明治30)年1月から実施しました。それ以来店員はだれでも事務に明るくなることができ、かつ一通り簿記の心得ある者は、その規定さえ見れば、直ちに事務を執ることが出来るようになりました。

 正金銀行は3月10日と9月10日とに半期半期の決算をして総会を開くことになっています。ところが29年の3月の総会にだす決算表について議論が起りました。この期においては総利益の内から規定の株主配当金その他を差し引いて、なお約15、6万円の後期繰越金をなすことになりました。

 しかるにこの後期繰越金について、重役の中から反対論が出てきました。従来繰越金は5万円を超えざるものとしてあります。もし5万円以上の繰越金をなせば、株主総会では、その金を以って株主配当金を増せよとの議論が起ってきます。ゆえに繰越金を5万円以上にすることはよろしくないというのが反対論の骨子でありました。重役中この議論の最も強く主張したものは若尾逸平でありました。

 若尾は「君は正金銀行に入り立てで、その成立の経緯を御承知ないのだ。自分は創立当時からの株主である。当時は銀紙の差が甚だしい時であったが、株の払い込み金に際しては、100円の株に対して2割の正貨の銀で払い込んだ。これを紙幣に換算すれば全部で120円となる。しかるに今日正金の株は額面以下になっている。寸なわち株主は実際において120円を払い込んでいるが、正金株の相場は額面以下になっている。即ち株主は実際において、120円を払い込んでいるが、正金株の相場h90円前後しか唱えていない。ゆえにこの際に繰越金を増すどころじゃない。それを減らしても配当を余計にせねばならぬ。自分は先年山梨県で田地を買ったが、当時1段歩20円で買ったものが、今日では10倍にもなている。しかるに正金の株は120円も払ったものが90円前後とはいかにも不釣合いだ、自分はこの際繰越金を増やすことには同意できぬ」となかなかの鼻息でした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-20

 そこで高橋は「実に驚き入った議論を聞くものだ。そもそも正金は株主の利益をはかるためにのみ作られたものではない。実にわが対外貿易の発展のために設けられたる唯一の金融機関であって、その業務遂行に当ってはもとより国家の利益を先にせねばならぬ。正金の国家に対する任務は極めて重大である。しかしてこの任務を果たすためにはまず持って国の内外における信用を高めねばならぬ。それには銀行内部の基礎を堅実にすることがもっとも肝要である。その手段として毎期の繰越金のごときはもっとも多額を計上する必要がある。君のような重役がおっては、私はこの銀行に勤めていることはできぬ。君の議論のごときは正金銀行の役員として口にすべからざることだ」と痛撃しました。

 他の重役連は「それは高橋君のいう通りだろうが、従来の模様を見ると株主総会がなかなかやかましかろう」といいます。そこで高橋は「もし株主総会にて、この原案が通過しないで自分たちの利益のみ顧みるならば、我々一同は決心して辞表を出せばよいではないか」と突っ張り通して、とうとう自分の出した原案通りの決算表を、株主総会に提議することとなりました。しかるに株主総会においては、一人もこの原案に反対するものはなく、後になって皆が今度のように無事にいったことはないというほど楽々と通過しました。

 これは日銀と正金との関係がやや明瞭となって、日銀総裁の隠然たる勢力が影響した結果といわねばなりません。そして高橋はこの総会において改めて取締役に選はれ、本店支配人を兼ねることとなりました。

 この時代正金本店と海外支店との間に往復する電信料は相当多額に上っています。高橋は新たに正金独自の電信暗号を制定するとともに、特に2名の係員を任命して、発着の電信につき調査せしめ、かつ常に新暗号を増加補充していく方法を取りました。この実施の結果、山川支配人の計算によると、電信往復の増加に拘わらず、経費は却って半期に6万円の減少を見たということでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-1~10

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ- 1

 ペルーに失敗し、福島の農場、天沼の鉱山等四方の計画ことごとく成らず一敗地に塗(まみ)れた高橋を、事情を知っていた西郷従道品川弥二郎松方正義らの諸先輩並びに友人前田正名らは誠に気の毒であるとし、1892(明治25年)4月のある日、前田が来て、「日本銀行総裁川田小一朗(吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」講談社学術文庫)さんが君に会いたいといっているから、訪ねて行ったらよかろう」と知らせてくれました。

 それで、高橋はある朝早く牛込新小川町の川田邸を訪問しました。初対面でしたが、川田は「君のことは前田君や品川、松方さんからかねて聞いていた。それで一度君に会ってペルーの話でも聞きたい思って、おいでを願ったわけであるが、よく来てくれた」とといわれるから、高橋はペルー問題の詳細を説明しました。すると川田は「君がスッカリ後始末をして悶着の種を残さぬようにして来たことは実によかった」と云いました。

 川田が「これから君はどうするつもりだ」と訊くので、高橋が「再び官吏になる積りはなく、田舎にひっこもうと考えています」と答えると川田は「それはよくない。君が実業界に入るというのなら、およばずながら私が紹介者となってもよい。とにかく君の身体は私に任せたらよかろう」といってくれました。

 高橋は「悦んで一身をお任せします。ただし実業界は未経験なので、どうぞ丁稚小僧から仕上げて下さい」と申し出ました。すると川田は「いや決心の程はよく分かった。まあこれから時々話しにおいでなさい」といって、その日は別れました。

 やがて山陽鉄道社長中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)が三井に入ることになり、川田に後任の推薦を頼まれたので、高橋にその後任を引き受けてはどうかとの打診がありましたが、高橋は未経験を理由に辞退しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ- 2

川田は高橋を日本銀行に入れようと思っていましたが、ペルー問題についての世間の誤解が解けない状態で、信用を重視する日銀に高橋を採用するわけにはいかなかったのです。

 同年5月中ごろ高橋はまた川田に呼ばれ「目下日銀の新築をやっているが、その建築所の総監は安田善次郎で、その下に辰野金吾幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-22参照)が技術部の監督としている。その下に事務部があり、君はその支配人として働く気はないか。ただ辰野はかつて君のお教えた弟子ということだが、君はその下で働くことになるわけである。それでも差し支えないか」と言われました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー辰野金吾―なー中上川彦次郎―やー安田善次郎

[[少しもかまいません。喜んで働きます」と答え、同年6月1日日本銀行から「建築所事務主任を命ず、年俸千二百円を給す」という辞令が下りました。

そのうちに高橋は建築所の仕事に弊害のあることを発見しました。第一は物品の購入問題です。

 建築材料の購入契約はすべて技術部でとり結び、その手続きのみを事務部でやることになっていました。そうして購入物件は直ちに技術部に引き渡し、事務部の帳面では、単に「技術部渡在庫品」という名の下に一括整理されます。しかし在庫品を容れた倉庫は技術部で管理することになっているので、事務部の方では、建築材料がどのくらいずつ使われてどのくらい残存しているか一切判りません。

 ところがある日、技術部から,工事上俄かに鉄の棒が入用になったから至急注文してくれと言ってきたので、早速注文すると、製造人の方では「技術部で言われるようにそんなに早くは出来ません」とのこと、高橋は板挟みになって困りました。

そこで辰野と在庫品の姓理について話した末、その承諾を得て倉庫の中に入ってみると、入用だったはずの鉄棒が倉庫の隅にうんと積み上がっているではありませんか。倉庫の整理が行き届いていないから、こんなことになるのです。

早速在庫品を一々調べて台帳に記入し、以後は在庫品の出入のたびごとに金銭の出納と同じように記帳し、いつでもその残高をハッキリしておくように取り決めました。

 第2の点は建築材料の中で、外国から輸入するものはすべて大倉組に取り扱わせておりましたが、当時の日本はまだ銀貨国(金本位制未確立)でありましたから、輸入品の値段は、つねに為替相場の影響を蒙ることが多大であったことです。

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ- 3

 しかるにこれまでの大倉組からの請求書並びにこれに対する支払いと、その日の為替相場とを対照してみると、請求書の日付はいつもその月の銀相場の最低の日になって現れて来ます。それで高橋は不審に思い、大倉組は果してこの通り換算して支払っているのかどうか、その事実を確かめねばならぬと思い、大倉組の主任を呼んで聞いてみると、「建築材料はすべてイギリスに注文しているが、出荷人は荷物を船積みすると共に香上銀行(香港上海銀行)を通して荷為替を取り組む。それが香上銀行の日本支店に着くと大倉組に向って請求書が来る、大倉組はそれに対して支払うと同時に、その日の相場にて日本銀行に請求書を出している」ということでありました。

Weblio辞書―検索―大倉財閥―香港上海銀行

「それなら今後代金請求の場合は大倉組から、いつ荷為替に対する支払いをしたか、香上銀行の証明書を毎請求書に添付するようにして貰いたい」と云い渡し、以後は再び奸策の行われぬように方法をたてました。

 高橋が建築所に入ったころ、日本銀行の新築工事はすでに地固めを終えて第一階の石積み工事にかかっていました。ところが工事の予定表と実地とを比較してみると、工事の捗りが予定よりも一年数か月も遅れています。それでこれはどういうわけかと辰野に尋ねたら、「今日までのところでは予定よりも遅れているが、それは二階以上の工事でとり返すことにしている。始めの設計では建物の全部が石造の計画であったが、どうも岐阜の地震の経験から日本では上になるほど重量の軽いものを使わねば危険である。それで二階では石の代わりに普通の煉瓦を使い、三階にはそれより一層軽くするために穴明き煉瓦を使うことに決まったから、全部石造よりも遙かに早く出来上がるわけだ」とのことでありました。

その後数日を経て高橋は建築所の報告かたがた川田総裁を訪問、川田はそのころ病気がちで出勤することおも稀でした。その日川田が「聞けば工事が遅れているというじあないか、どうなっているか」と問われるので、辰野博士に尋ねたことを答えると、川田はやや驚きかつ気色ばんで「誰がそんなことを許したか、今度の新築については株主総会で全部石造にすると云って承認を得ているのだ。それを勝手に変更するとは何事だ」と大変な権幕です。

日本銀行―日本銀行についてー日本銀行の概要―沿革―歴代総裁

そこでまず辰野にこのことをただすと、彼も顔色を変えて「自分は安田監督に話したから、監督から総裁に話しをして承認を得てることと思っていた」というので、早速監督の出席を求めて3人で相談してみると、安田監督は「無論辰野君が総裁の同意を得て後、自分に話しがあったとのみ思い込んでいた」といいます。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ- 4

 それでこの善後策について種々相談の結果、とにかく最初の設計通り全部石造にするほかあるまい、そうなれば竣工の期限や費用の点はどうなるかと辰野に聞くと、「全部石造にすれば予定より1年余り遅くなる。経費の方も少なくとも27~8万円は不足する」ということでありました。

 そこで速やかにこのことを総裁に話して了解を得ねばならぬが、やがて安田監督は「自分がこのことについて直接総裁に話すのは最後已むを得ざる時にせねばならぬ」と言って高橋に「ご苦労だが、君が吾々両人に代って行って散々小言を聞かされた上、どうにか承認を得るように骨折って貰いたい」ということでありました。

 安田監督の依頼で高橋は川田総裁説得の役目を引き受けました。まず現場に行って穴明き煉瓦の用途を辰野に尋ねると、「この煉瓦の穴の中にドロを詰めると、煉瓦よりドロの方がずっと軽いくて丈夫である」ということでありました。

 翌日高橋は川田総裁を訪ねて、3人で相談したことを述べると、川田は「設計を変更してもこれだけの設備をすればいかなる強い地震のも耐えられる学理上の根拠があってしたことであるかどうか、それを聞いてくれ。それから最初の設計通りにすれば、1年余りも遅れ、費用も27~8万円増加するとは何事だ。そんなことでは自分は株主に対して申し訳がたたぬ。もう俺は一切かまわないから、皆で勝手にするがよい」と非常に不機嫌です。

「お叱りは御尤もですが、我々も総裁の満足されぬ建物を勝手に造ったとあっては申し訳がありません。何とか工夫してみます。どうかしばらく我々にお任せ願います」と云うと総裁もようやく機嫌が直りました。

 高橋は総裁邸を辞して建築所へもどる途中色々考えました。今やっている第一階の分厚い大きな石を二階、三階まで積み上げるのは容易なこではない。外見さえ石造りであればよいではないか、それには心を煉瓦にして、外側だけを薄い石で貼り付けたらどうだろう。

 高橋は建築所へ帰って、待ち受けていた辰野に総裁との話しを報告かつ自分が帰途考えたことを述べると、辰野はしばらく考えていましたが「それは別にむつかしいことではない、それで総裁が承知してくれるなら、予定の日限までに竣工させることが出来る」「費用の点はどうなる」「まず6~7万円の不足で済むだろう」という話でありました。

 それから高橋はなお辰野に向って「今日まで工事がかように遅れたことを調べてみると、工事は大倉組が請負い、大倉組はまた4人の親方に下請けをさせている。ところがこの親方が使っている石工はすべて関西から連れて来た者ばかりで、たびたび賃金の値上げを迫り,いうことを聞かねば仕事をしない。直接建築所と4人の親方との間に別々に契約を結び、四角な建物であるから、4人の親方に一方面ずつ請負わすことにすればよい。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ- 5

それから石材は深川の服部というものが伊豆の山から切り出して納入しているが、これが建築所の現場と連絡がないため、時々急用のものが遅れて届き、1箇月も先でなくては要らぬものが先に来るというような始末で、その間技手や石工、人夫たちが空しく手を明けて待たねばならぬことがしばしばある。

ゆえに今後は事務所から山元に適当な人を派遣して監督せしめるとともに、技術部からは今度はどんな形のものが必要か、その種類や順序を明らかにして注文すれば、山元ではその通り切り出して送り出すこととなる。そうしてその間の連絡は事務部の出張員が当たればよい。

ついては請負契約、石材納入契約等、技術部の持っている仕事上の権限は一切事務部の方に移して貰いたい」と申し出たところ、辰野は暫く考えていましたが、ついに承知しました。

そこで翌日川田総裁邸を訪ねて、安田・辰野両監督と話しあった内容を詳細に述べると、総裁は「煉瓦に石を貼りつけるとは妙なところに気づいた。それはよい考えだ。しかい石の厚さはどれくらいか。そうしてうまく貼りつけられるだろうか」と聞かれたので、高橋は竜野から聞いた話を述べて「どうかこれで承認願います。それからもう一つのお願いは、この際私に1万円だけ自由に使わして頂きたいのですが」と申しました。

すると総裁は不審そうな顔をして「それや一体何に使うのだ」と尋ねられたので、高橋はこれまでの大倉組と親方の下請けの経緯を述べ「大倉組との契約を解き、事務所が直接親方と契約を結び、4人の親方に四角い建物の一角ずつを請け負わせて、期日に遅れたものからは1日500円の罰金を取り、期日前に仕上げたものには1日500円の賞与金を出すことに致したい。そうすれば工事も必ず捗ることと考えます。1万円はその賞与金と致したいのです。」と述べたところ、総裁は拍手して喜び、「よろしい、それはよいことを考えた。金はそういう風に使わねばねばならぬ」と言ってっ大変な上機嫌で許されました。

 高橋はそれから数箇月にして日本銀行の正社員に採用されました。これよりさき高橋は建築所に入るとともに、銀行業務はもちろん一般経済界についても研究を始めました。ちょうど高橋健三が官報局長であったので、同局備え付けのウィクリー・タイムズ、エコノミスト、バンカーズ・マガジン、トリビューン・ウィクリー、グラヒック・ロンドン・ニューヨーク・ヘラルドなどの諸新聞雑誌を借り受けることができて、大変便宜をうけました。また大蔵省の谷謹一郎からも同省備えつけの内外銀行法令集を借り受け、銀行について熱心に研究しました。これがその後正社員となって非常に役立ちました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ- 6

 1893(明治26)年春のある日、突然後藤象二郎農商務大臣から手紙と電話で明朝8時に官邸まで来るようにとの連絡がありました。高橋は後藤とは井上馨が農商務大臣であったとき、偶然に出会って紹介されたことがあっただけでしたが、翌朝富士見町の官邸に赴くと後藤から「さて今回米国のコロンビア博覧会の事務官長を引き受けてくれまいか。」ということでした。

 高橋は「私は日本銀行の建築場に勤務しておりまして、一身上のことは一切川田総裁にお任せしてあります。総裁のお指図によるのみです。」と返辞しました。

 当時川田総裁は九州に出張中であったので、後藤は電報で問い合わせたところ、川田総裁は高橋の博覧会行きを断って来たと九鬼事務総長から書面で連絡をうけました。

  1893(明治26)年9月1日日本銀行では職制の改革があり、高橋は建築所主任から日本銀行支配役に取り立てられ、同時に西部支店長を命ぜられ、年俸1000円を給せらるることとなりました。この時高橋は40歳でした。

それまで日本銀行は大阪に支店をもつだけで他に支店はありませんでした。従って九州方面では各国立銀行が営業資金の借り入れ及び国庫金納入等の場合は、大阪支店との間に現金護送の方法によるか、または内国通運会社に託して輸送するほか途なく、その危険と費用と不便とは少なからざるものがありました。

Weblio辞書―検索―金禄公債―国立銀行―千石船―馬関

/ 川田総裁が九州視察に出張したのは、この事情からまず九州に支店を開設する必要を認めて、その場所を選定するためでした。その結果買収したのが今の門司支店のある場所であります。

 しかし川田総裁は九州方面の金融状況や地理的関係を考え、門司支店の新築は両3年後と定め、それまでの間とりあえず馬関(山口県下関)に支店を設置することとし、同地にあった百十銀行の店舗を買収することとなりました。

 馬関はもと北国の所謂千石船が米穀または海産物を積んで廻航するところで、当時非常に繁栄した船着き場でありました。西部支店に宛てられた二階建ての家屋も、もと大きな船問屋であったのを百十銀行がそのまま使っていました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ- 7

 当時百十銀行は愛知県下に埋め立て工事を起したのですが、数度の嵐に岸壁を破壊され、少なからぬ損害を受けて失敗に終り、同業者間に信用を失い、ついに店舗を日本銀行に売り渡して、他の小さな店に移って僅かに営業を続けていました。

 高橋が東京を発つ前に、川田総裁がら特に注意されたのはこの百十銀行のことでした。この銀行は山口県士族がその禄を奉還して受けた金禄公債を払い込み資本として建てられたものです。高橋は井上馨と懇意であるから、百十銀行救済について話があるかもしれぬが、よくその内部を取り調べて、誤りなきように注意し、決して軽挙してはならぬ。

 また地方の有力者に対しては、高橋が駆け出しの銀行家として日本銀行を代表し、言行をもっとも慎まねばならぬ。始めが大事である。また業務上のことはつねに本店及び大阪支店との間に打ちあわせて事情を疏通することを怠らぬようにと懇篤なる注意を頂きました。

 高橋はまず支店開設について本店との打ち合わせを済ませ、9月中旬東京をたって大阪に向い、大阪支店長とも打ちあわせて、9月22日午前4時西京丸に乗って神戸を出帆、翌23日の朝馬関に到着、このとき西部支店詰として本店及び大阪支店より馬関に赴任した人々は、東京本所に妻子を置いて単身赴任した高橋を加えて総計14名でありました。

 着任するとまず第一に店舗を検分しましたが、営業場の内部改造の必要を認めたので、昼夜工事人を督励して内部の仕切りを取りはずし、諸種の設備をしてようやく日本銀行の営業場として差し支えないように改修、10月1日をもって開業することとなりました。

 当日は山口、福岡両県知事、門司に本社を置く九州鉄道会社社長、各地所在の銀行重役及び関門の紳士紳商、官公吏の主だった人々らを招待、まず改造店舗の縦覧を請い、夜に春帆楼で開業披露の祝宴を開催、すこぶる盛会でした。

春帆楼―春帆楼についてー発祥と歴史―全国の春帆楼―下関本店―下関の観光案内

 開業の翌日から三井馬関支店、小倉第八十七銀行等の申し込みを受け、当座勘定を開き、また次いで九州著名の銀行と為替契約を結び、逐次担保付手形の割引、商業手形の再割引等取引の増進を見ました。

 

Weblio辞書―検索―春帆楼―当座勘定―手形の割引―再割引―日歩―赤簡関 

 当時九州より他に売り出す米穀、石炭その他の物産は一年1000万円くらいで、他から買い入れるものはごく僅かでしたから、常に片為替となり、国庫金の納入をもって差し引いてもなお、一カ年4~500万円は大阪より兌換券を現送せねばならぬ状況でありました。従って金利の如きも大阪に比して日歩(ひぶ)1銭乃至3銭の高利を唱えておりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ- 8

 そこで開業に当たってはからずもこの金利を巡って高橋と監督理事との間に意見の相違が起ってきました。これまで九州おょび山陽の諸銀行は大阪支店の融通を受けておったので金利の高いことは当然のことであるから、西部支店の利息は大阪支店より日歩5厘高くいに定めるのが適当だというのが監督の意見で、これに対して西部支店を開設した趣旨は山陽及び九州地方の金融もすべて東京大阪付近の如く、その利息を安くし、融通を便利にするにあるのだから、なるべく大阪同様定めたし、というのが高橋の意見でした。

 結局川田総裁の決裁を仰ぐことになり、両者の中間をとって、大阪よりも1厘乃至2厘高くらいに取り扱うことに決りました。

 1893(明治26)年九州地方は虫、風、水の三大災害を一時にうけたので、米穀、櫨樹(はぜ)、蕎麦、大根のような田畑の被害は莫大でありました。従って九州からの米穀輸出額は平年の4割を減じ、金融は極めt緩慢を示しました。これに反して金利では馬関における三井銀行支店等では日歩2銭乃至2銭8厘を唱えているに係わらず、福岡市では3銭乃至4銭の日歩で貸し出している有様でありました。当時の九州商工業者は一般に遅鈍で、金利の高い安いなどには一切無頓着、その借入額の如きも大概は一口1000円未満で、抵当物としては田畑家屋のほかほとんどみるべきものはありませんでした。

 西部支店の勘定は本店及び大阪支店のために、常に支払い一方に傾き、時々大阪支店より兌換券の現(金輸)送を求めねばならぬ状況でありました。既述のように、この兌換券現送は一々行員を護送させるか、内国通運会社に託するほかなく、、その危険と費用は少なくなかったのです。

 そこで九州の各金庫より大阪本金庫へ納入する国庫金を西部支店で受けいれるようにするか、もしくは西部支店に多額の未発行券を備え置くことが必要となりました。

 当時九州地方だけでも大阪本金庫へ納入する国庫金は年額500万円くらいありました。各銀行は日銀大阪支店に公債証書等を入れて為替によって送金し現送することは稀でしたが、国庫では納入金に対しては一定の逓送料を支払うこととなっていましたから、この失費も少なくなかったのです。

 西部支店に多額の未発行券を供えるには、実行しかねる実情がありました。それは多額の未発行券を納めて置く堅牢な倉庫の設備がなかったのでありました。元来馬関の店は両3年簡のつもりで仮設したのであるから、在来の小さな土蔵の外側に一枚の煉瓦を貼りつけ、天井をコンクリートとして僅かに火災に堪えるものとしあるので、とても未発行券を納めることは出来なかったのです。

 それでこの事情を総裁にに申し立てて国庫金収納の許しを受け、11月初旬から中央金庫赤間関(あかまがせき)派出所の看板を掲げることとなりました。

 はじめ日本銀行が馬関に支店を設置するに当り、地方銀行者間には、これをもって利便とするものもあれば、自分らの利益を奪われるとして内心悦ばないものもあり、可否の論は相半ばする状態でありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ- 9

  しかしながらだんだんと西部支店によって、便益を得る方法を見出し、これを歓迎するに至りました。例えば従来の地方の銀行はすべて日本銀行の本店または大阪支店から融通を受けていましたが、その借入金はすべて現送によらなければ手に入らないのです。今ここに10万円の融通をうけたとしても、いかなることが起こらないとも限らぬので、その内3万円ぐらいは手許に備えておかねばなりません。

 しかるに西部支店と取引すれば、不時の用に際しては、いつでもその融通を受けられるので、従来のように手許に何割かの準備金を死蔵しておく必要が無くなるのです。それで従来日銀本店や大阪支店にいれてあった公債証書も西部支店に移すようになり、コーレス(コルレス)の取り組みも東京または大阪との約定高を減らして、大部分は西部支店に依頼するに至りました。

Weblio辞書―検索―コルレスー師団―大本営―融通手形

 また九州銀行同盟会長松田源五郎から、西部支店と各銀行とのコーレス尻を利用して、各銀行間の貸借振替を得たしとの申し出がありました。これは東京や大阪で日本銀行が、各銀行の当座勘定によって銀行間の貸借を交換決済している利便を、西部支店においてコーレス尻によって得んとするもので、各銀行の最も熱望するところでありましたから、これも総裁に具陳して承認を受けました。

  1894(明治27)年5月、朝鮮に東学党の乱が起り(「大山巌」を読む33参照)、朝鮮政府は自力でこれを鎮圧できず、援助を清国に依頼、清国は直ちに出兵して我が国に知照(通知)してきました。

 そこで日本政府は直ちに出兵を決定、当時帰国中の大鳥全権公使は急遽帰任の途につき、6月5日仁川に上陸、陸戦隊に守られて漢城京城)に進み、国王に謁見して5カ条の改革案実行を迫りました。その改革案が受諾されなかったので、兵を景福宮にいれて閔(びん)氏以下の事大党を排斥、大院君を国政総理に迎え、内政の根本改革を実行しました。

 馬関に碇泊していた浪速艦も6月24日の夜、兵員を載せた輸送船8隻を護衛して仁川に向け直行、もはや日清開戦は避けられぬとの評判が高くなり、馬関の野菜類の値段が高騰、平日の倍となりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-10

   7月27日豊島沖の海戦を序幕として、日清戦争が開始されたのです。9月13日には大本営を広島に進め、天皇は同日東京を発せられたとのことでありました。

このため軍事公債が募集せられることとなり、山口県下では是非とも70万円くらい、馬関だけでも10万円くらい募集しなければならぬという計画をたて、市長はじめ資力ある有力者を勧誘しました。公債募集の成績はよくなり、馬関だけで9月中旬には18万円に達する盛況となりました。

同年10月14日井上(馨)伯は内務大臣を辞し、朝鮮駐在の全権公使に任ぜられ、同月16日馬関に着くと旅館大吉楼に入り数日間滞在、久しぶりに面会に赴いた高橋に対朝鮮外交の抱負を語りました。

 翻ってわが経済界はどうであったでしょうか。本年の米作は山口県及び九州一帯共に平年作以上と発表されましたが、軍事用のため船舶はすべて徴発せられ、積みだすことができません。かつ馬関、門司にある倉庫も多くは徴発されて倉入れ不能になり、商人は大いに困惑しました。

 年末から1895(明治28)年2月ころにかけては、農家の出荷が意外に多く、金遊は事の外逼迫しました。とくに熊本地方では、一時銀行が貸し出しを中止するに至り、農商家は困惑の極に陥ったので、日銀西部支店ではこの救済のため、十分調査の上、方法を講じました。

 まず第一に地方の農家及び商家のうち最も確実と認められる財産家の融通手形に対し、再割引をもって金融の途を開くこととしました。当時確実な財産家と認められる農商であっても日本銀行に抵当となるような証券を所持するものは極めて稀でありました。

 そのころ西部支店では店員も極めて少なかったのに、朝鮮事変のために、長崎、熊本、福岡等へ国庫金を現送することがしばしばあって、その都度一々店員をつけて護送しなければなりませんでした。ことに1895(明治28)年1月には熊本師団が出征することとなり、非常に繁忙を極め、この時独身で勤務していた店員は皆銀行の二階に宿泊して夜昼の別なく業務に従事しました。

 1895(明治28)年2月16日に日本銀行の定時総会が開かれるので、高橋はその出席のため上京することとなり、2月初旬馬関から船で大阪に午前6時ころ到着、早速理事川上左七郎を訪問しました。

 当時川田総裁は大本営に伺候の帰途病気が再発して、大阪で養生していました。それで川上に総裁のご病気にどうかと尋ねると、「只今は鴻池(こうのいけ)の別荘で寝ていられるが、もう高橋が来そうなものだと、君の来るのを待っておられるから、早速総裁を訪ねたらよかろう」とのことであったので宿をとって朝飯を済ますと、大急ぎで総裁を訪ねました。

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幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-21

 藤村らは田島の報告を得て驚き、藤村が前田の所にやって来て、「我々は最初、この仕事が成功するまでは一切他人に秘しておくつもりだったが、すでに日本側出資額を50万円と契約した以上、我々だけの力だけでは及ばなくなった。どうしても株式会社を設立して株主を募る必要がある。この株主を作るために協力してもらいたい」ということであった

と前田は語り、さらに「そこで私は世話してやろうと思うが、君はどう考える」というから、高橋は「それはもう考える余地も何もないじゃないか、ただ場所が外国であり、外国人との共同事業であるから、欺かれることのないよう注意する必要はあろう。藤村の希望通り協力してはどうだ。」と勧めました。

 すると前田は「では君も株主として出資してくれるか」と訊くから「それは俺の力に応ずるだけに出資はしよう。万一の失敗を予期して、今の所1万円以上の出資は出来ない」と答えておきました。 

 それから前田は奔走して新たに20余名の出資者を集め、資本金50万円の「日秘鉱業株式会社」を設立しました。

 ところがこれら株主たちの間に、一体誰が日本側を代表してペルーへ行くか、第一その人を決めないと安心できないと云いだす者があり、協議の結果高橋が行ってくれるなら一番良いがどうだろうと前田から勧めて見よと、皆が一致して頼むからと、前田がまた来て「君一つ奮発して行ってくれまいか」とだしぬけの申し出です。

 高橋は既述の3条例実施のための仕事があることや、特許局新築のことなどを理由に前田の申し出を断りましたが、前田は高橋には内密に、当時三田尻に滞在していた井上農商務大臣に面会、後に高橋に「大臣にお願いして君の体は貰い受けて来た。奮発してくれ」といや応なしの懇請です。

よろしい、大臣が承諾し、株主が是非やれというなら決心しよう。それに大恩を受けた老祖母もすでに天寿をおえて心に残ることもありません。高橋はペルー行きを承諾し、農商務省は非職となりました。

 1889(明治22)年11月16日(36歳)、高橋はペルー銀山経営の全権代表として三たび太平洋を横断することとなりました。自宅から見送る品夫人(海軍技監原田宗助の妹 明治20年再婚 上塚司編「前掲書」下巻)の肩に、高橋はそっと手をかけてやりました(幸田真音「前掲書」)。

 乗船ゲーリック号は、この日の午前10時横浜の埠頭を離れました。今回の同航者は帰朝していた技師田島晴雄、雇員屋須弘平の両名で、同船の客にはリオ領事らがいました。海は3日目ころから少しずつ荒れ模様となり、5日目になると狂瀾奴濤甲板を洗う状態となり、船客の多くは船室から一歩も出られぬ有様でした。同船は12月1日午前3時桑港に到着しました。高橋らは午前9時に上陸、領事館員の案内でパレス・ホテルに投宿しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-22

 当時の桑港領事河北陸軍少佐は「近ごろの新聞によると、ペルー政府は国内における鉄道延長のために、英国のグレイス商会と借款の契約を結び、その抵当として税関、鉱山等の財源一切を提供したということである。貴君らが田島技師を遣わして買い入れたという鉱山もおそらく抵当の中に含まれているに相違ない。もしそうだとすれば、グレイス商会がそれを要求して引き揚げてしまえば、馬鹿を見ねばならぬではないか。貴君らの企ては実に危険だと思うがどうだ」ということでありました。

 それで高橋は「貴君の注意は誠にありがたい。しかし鉱山の買い入れについては、さきに田島を派遣し、かつ巌谷博士らが顧問となって、十分に確かめた上で決定した事柄であるから、手続きの上で遺漏なしと考える。」と答え、今後は互いに通信を怠らぬよう約束して領事館を辞去しました。

桑港滞在は2日間で、12月3日午前10時汽船アカプルコ号でペルーへ出発、船が南下するにつれて暖かくなり、5日目には甲板に日避けの天幕さえ貼りはじめられました。船はメキシコの海岸沿いに南下し、12月9日メキシコのマザッラン港に到着、ホテルで風呂を浴び、同日午後4時同港を出帆、12月12日午前3時アカプルコに、16日早朝にはグアテマラのサン・ホーゼに入港、ここから留守宅に書面を送りました。

同月21日にはコスタリカ国の第一の港キントウ港に到着、碇泊2日で出港、翌日パナマ港に入りました。

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 パナマにて船待ちすること1週間ばかりで、ようやくペルー行きの汽船サンタロサ号に乗り込み、同月30日午後5時パナマを出発、しました。

1890(明治23)年の正月元日は同号の甲板で迎え、午後7時赤道直下を通過しました。

 同月4日午前11時パイタ港に着き、ヘーレンの技師ドイツ人エルグレイマルが出迎えのため、同港に待ち受けていました。

船はさらに南航して、同月6日早朝サリペリ港を過ぎると、濃霧濛々として陽を覆い、天日ために暗きを覚えましたが、驚いたのは、船の白ペンキが一夜のうちに異変したことです。船員に聞くと、これを「カリヤオペイント」と称して、この辺で揚がる硫気のために起きるものであると云います。

かくして同月7日午後3時半カリヤオ港に到着しました。まもなく一人のスペイン人が船に来て、英語を解せないので、同行の屋須に通訳させると、「ヘーレンは避暑でリマ府にはいないが、今日の午後4時ころまでには出迎えのため来船のはずである。自分はヘーレンの命を受けて、荷物その他のお世話に参った」というので、屋須を附き添わせて、すべて荷物一切をこの人にまかせて、高橋と共に船を下りようとするところへ、ヘーレンが番頭のピエズラ、日本人伴竜などを連れてやって来ました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-23

お互いに初対面の挨拶を交わし、ヘーレン特別仕立ての小蒸気で上陸、途々田島が「ヘーレンは貴君のために別邸に新館を建てておいたから、すぐその方へお越し願いたいといっていますが、どうしましょう」というので、高橋は「そりゃ困る、断ってくれ」と即座に拒絶しました。しかしヘーレンからいたく親切に勧められるので、高橋も深くヘーレンの厚意に感謝し、新館行きを承諾しました。

 かくて一同共にカリヤオ港から汽車でリマ府に着くと、駅にはヘーレンの書記パッソブリオが馬車数輌を用意して出迎えていました。高橋はまずヘーレンの本邸に行き、日本におくる電信を認め、それより別邸に赴きました。

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 ヘーレンの別邸は広さ約1万坪で、周囲を高さ2丈ばかりの土塀で囲い、表門を入るると60間ばかりの石叩きの通路があり、左右両側には長屋様の建物が連なり、その一番端の方に内門があります。この門を入って石段を上ると正面に新築の館があります。中央は食堂で後庭に面して、長さ12、3間の遊廊が連なり、その壁の上には蔦蔓がからまり、その下に男女4個の大理石像が並んでいます。遊廊の左方には高橋のために設けられた事務室、客室、寝室があり、内部の装飾もすべてよく整っています。部室の前面は広い庭園で、その一方には昔イスパニア人が植えたという葡萄の木が連なっています。手近な所だけは日本の植木職松本某が造ったという日本風の山水園になています。園中には池があり、噴水塔からは数条の銀線を迸らせています。

 この日の晩餐を終わって、ヘーレンと閑談を交わしました。彼は「貴君の人となりは発起人諸氏ことに前田正名氏からの懇切な書面でよく承知していた。貴君がここに来ることを拒まれて失望したが、道理を尽くして勧告したら、貴君がたちまちそれを容れられたので、私は大いに喜び、安心した」というから、高橋は笑いながら「私の強情も道理の前には屈服するものであることを知られたことは、貴君の満足されるところであろう」と応酬しました。するとヘーレンは高橋の肩を叩きながら「そうだ、そうだ」と連呼して喜びました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-24

13日になって、ヘーレンとの間に、農鉱事業に関する契約改正の商議を始めました。高橋は談判のはじめに当って、日本出発の際、組合員の間に決められた下記の要項を提示しかつ説明しました。

1.会社営業の目的は農場を取り除き、鉱業専一とすること

2.会社の資本金を英貨15万ポンドとし、ペルー法律の定むるところにより有限責任とすること

3.会社の資本金はこれを折半し、その一半は日本側全権委員より、、他の一半はヘーレン氏において負担すること

4、会社の株式は少なくとも第1回の利益配当を行いたる後にあらざれば譲渡せざること

5.前条の譲渡を許す時といえども、本会社の認可を経て登記するに非ざれば譲渡の効力を生ぜざるものとす

6.坑夫は日本人を使用し、本会社の事務員技師らは会社の最大利益を得るに便なる限り日本人を使用すること

7、会社の設立には下の予算を標準とすること(略)

すなわち上述のように、高橋は第一番に組合の事業中より農場取り除きの談判をしました。これについてヘーレンは困難を訴えて抵抗を示しました。高橋は最初農場の価額は19000ポンドであったのを15000ポンドに減らし、日本組合はその中の3分の1を負担し、利益の3分の2を収むることとして折り合いをつけました。

16日から鉱山事業の談判を開始しました。高橋はそれについて原案通りを主張、その点については両者とも大体意見が一致しました。

 ただヘーレンから提供する鉱山の評価額について、議論が分かれてきました。ヘーレンがいうには「先ごろ自分は共有鉱山の隣接地で、9鉱山の借区をした。これらの借区のうち3借区は昨年田島技師の注意によって買い取ったものであるから、原価で提供する。しかし他の6借区はそれとは事情を異にしいるので、自分は農場の代わりにこれを13000ポンドで会社に提供することにしたい」と。

 高橋は「その借区が必要であるかどうか、またその値段が適当なものであるかどうか、自分では判断がつかぬので、田島技師に意見を聞いてみよう」と答え、田島に意見をもとめたところ、田島は「9箇所とも会社にとって必要であるが、6区で13000ポンドは少し高すぎる」と云います。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-25

高橋はヘーレンに対して「いずれにしても、自分は貴君の申し出に同意できない。共同の山を買いとった後に、その山の作業に必要な地続きの鉱区を手にいれ、それを高く会社に売りつけんとするのは面白くないことではないか。それよりもむしろこの邸宅を売ってはどうだ」と注意してやりました。

 ヘーレンはその間終始謹聴していましたが、やがて椅子を立ち、「ごもっともだ」と言って、いかにも欣(よろこ)びに堪えぬ様子で高橋の手を握りました。

 上述の通り、鉱山に関する談判も20日一通り片付きました。ヘ-レンとの談判中、高橋は閑をみて、ペルー大統領はじめ政府首脳並びに同国要人への挨拶に赴きました。

 1890(明治23)年1月27日には山口慎が技手坑夫職工ら合計17人を引率してカリヤオ港に到着するというので、田島、伴、ピエズラ、パッソンブリオらは出迎えのため、カリヤオまで赴き、午後6時ころに至って、ヘーレンの別邸に到着しました。

この日別邸では日の丸国旗を屋上に掲げ、高橋とヘーレンとは外門まで出迎えました。山口引率の坑夫ら17名はヘーレン別邸内の長屋に寝泊まりさせることとし、風習に慣れぬ間は、どんな不体裁をしでかさぬとも限らないので、みだりに門外に出ることを禁じ、邸内で適宜酒食を給し、出来るだけ品行を慎ませました。

 その間高橋とヘーレンは登山のことで、いろいろと打ち合わせました。例えばリマからカラワクラに行くには、非常に気候の激変があります。こちらで着ている衣服ではとても凌げないから、衣服はすべて新調せねばなりません。

今度はたとえ多くの費用が必要であっても、他日多数の坑夫らを登山させるときの試験となるものでありますから、十分の支度を整えてゆかねばならぬのです。

また高橋はヘーレンと相談して田島技師の年俸を英貨600ポンド、山口を庶務課長として年俸300ポンド、に定め、各人を呼んで、その旨を申し渡しました。すると田島技師のみはいかにも不満げで、高橋は不快に感じ、「そんなら今罷め給え」と申しました。

 この俸給の原則は、日本を出発する前に、会社の技師部にて、田島らが協議して定めたもので、日本金に換算すれば、600ポンドはそれよりも遙かに高いのですから、高橋は田島の不満を突き放したのです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-26

 ヘーレンが高橋と田島の仲に入って、しきりにとりなすので、田島もこの年俸を無条件で承諾することになりました。

1890(明治23)年2月22日にはカラワクラ鉱山に向けてリマ府を出発するので、8日ころから、その準備に忙殺されました。まず鉱山で要する採掘器具、日用品その他の荷造りをせねばなりません。しかも険しい山路を運ぶので、それに適当な量に包装する必要があります。チクラから鉱山までは羊や馬の背をかりねばなりません。

 かくして万端の用意がととのったので、2月22日高橋は山口庶務課長らと坑夫職工ら総勢14人を引率して、午前7時30分、リマ発の汽車で登山の途につきました。最初の予定では田島技師が一行の教導役として行くことになっていましたが、彼は坑夫たちの喧嘩の仲裁で怪我をしてしまい、高橋自身がその任に当ることとなったのです。同鉱山の空気の希薄、気候の激変のために、病気を引き起こしやすいので、途中3日間を費やしてチクラに達することとなりました。

高橋是清と3つの金銀山―3.ペルー銀山経営と失敗

 さてチクラに着いってみると、夜は持参の毛布だけでは、寒さを防ぐにたりないので、原住民の家に行って、あるだけの毛布を買いこんで配ったのですが、坑夫らは「こんなに寒くちゃ凍え死んでしまう、何とかしてくれ」と不平を訴えます。

高橋は「君らがそんなに寒がるなら、俺の着ている着物を剥いで持っていけ」と言ってたしなめたら、不平も止んでしまいました。

その内にだんだん希薄な空気にも慣れ、元気も回復してきたので、16日午前10時チクラ発、1万8千尺(約4000メートル)のアンデス山の最高地へと向かいました。

坑夫ら一同は徒歩、正午にはカサパルカに到着しました。ここにはアメリカのフレザーシアマル会社(鉱山機械製造会社)のガイヤル技師も来ていて、一緒に茶を飲み、同氏の設計した精煉所を見学しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-27

 2月17日はヤウリに向って出発、坑夫とは別に高橋と山口ら4人は朝6時に、ヤウリから下りてきたヘーレンの山の支配人カ-デナスの案内で、まずクレメン氏の鉱山事務所へ行き、その坑夫小舎を視察、その後ペスラやパッソンブリオは高橋らと別れて坑夫らの後を追って行きました。高橋と山口はカーデナスの教導で別路を進みます。

雪がしきりに降ってきました。右を望めば千仞の谷で、左はやや緩やかな傾斜であります。カーデナスを先頭に山口がそれに次ぎ、高橋が殿(しんがり)でした。そこは馬の背のようなっ嶮しい路、やっと登りつめたと思うころ、先頭のカーデナスは俄かに馬を止めて後ろの二人を見下ろしました。そのすぐ後ろを進んでいた山口も同時に馬をとめようとしましたが、馬の腹帯がゆるんで、鞍がズルズルと滑り落ちました。山口は驚いて拍車を入れると、鞍はスッポリと抜けて山口は数間下の岩に投げつけられ、抜けた鞍は馬の後脚にからみついて脚の自由を奪い、バタバタと後しさりしておりましたが、とうとう山口の上に大臀を落とし、さらに転倒して、高橋を左の谷に押し倒し、、馬自身は右の谷に墜落しました。

幸い左の谷はさまで嶮しい谷ではなく、高橋と馬は数間転げ落ちて、一畳敷きばかりの平らな雪の上に止まりました。高橋は大声で「山口、死んだか」と叫ぶと「死にはせぬ」という声がかすかに聞こえました。高橋が山口の所に飛んでゆくと、山口は痛みをこらえながら、ニッコリ笑って立ちあがりました。

 山口の馬はおよそ100尺近い断崖を転げ落ち、谷底ちかい深雪の中に首を突っ込み、、さかさになってもがいています。

カーデナスはいちはやく馬を下りて、谷底めがけて駈け下りて、山口の馬を引き起こしさかを上がってきました。馬は血だらけでいかにもあわれです。3人は再び嶮しい坂を登り、坂を滑り下りると坑夫らの一行に出会い、夕方5時ころようやくヤウリ村に到着、早速医師を呼んで山口その他の手当をしました。

ヤウリに着いた翌日の1890(明治23)年2月18日は非常な強雨でありました。ここに滞在中カーデナスらと、近く開始する仕事についていろいろと相談しました。

まずカーデナスは今後会社の使用人として働き、高橋の命令に服従するよう申しし渡しました。食糧の確保については、他日多数の日本人労働者が来着した場合、安い食糧を潤沢に供給できるか考究しました。ピエスラが言うには、米、玉蜀黍(とうもろこし)、馬鈴薯などについては自分に成案がある、肉類については、この近所に牧場を作って、羊を2~3000頭、牛を100頭くらいも飼えばよい。また運搬用のミウル(騾馬)もそこで飼えば、何百人の食糧でも供給できよう、というから高橋は承認を与えました。

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幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-28

 20日早朝坑夫らはカーデナスに引率されてカラワクラに向け出発しました。高橋はカラワクラで果して仕事が出来るかと思いました。燃料はアンデス山の苔しかなく、これで飯を焚いても、2度焚きする必要がありました。

25日いよいよ鉱山の開坑式を挙行しました。この日早朝から坑口に日秘両国の国旗を交叉し、その前に机を置き、日本の神々と同山神を祭り、神前には神酒と鉱石並びに鳥肉を供え、高橋以下役員、坑夫ら一同着席して式を行い、神酒を飲み廻し、それから酒宴を開始、踊りかつ歌い、その勢いで仕事にかかり、鉱石1噸を掘り出しました。坑夫らは坑内は大変暖かく、日本内地と違わないといって大喜びでした。

同年2月26日午後5時ヤウリに帰り、同月27日午前8時ヤウリから引き揚げて、午後1時半カサパルカに到着、ここにはガルランド氏経営のカサパルカ鉱山があるので、28日同鉱山を視察、その後チクラへと急ぐ途中のことでした。

案内者を先頭に山中の小径を進んでいましたが、やがて広漠たる平野に出ました。案内者は馬であったのですが、高橋はミウルに乗って、案内者のすぐ後から進んでいました。すると案内者の馬が突然驚いて後蹄を蹴立てて跳ね上がり、あわてて駈け去りました。すぐ後に続いた高橋のミウルは馬が跳ね上がった場所まで来ると、泥沼の中へ脚を踏み入れました。ミウルは高橋を載せたまま、たちまちズブズブと約半身を泥沼の中に埋め込んでしまいました。

こりゃ大変!と高橋はびっくりしました。下手に慌てると、ミウルと一緒に泥の中にうめられそうなので、高橋は静かにミウルから下りて命拾いをしました。

かくてその夕、5時半にチクラに着き、翌3月1日午前7時にチクラを発って、同日午後5時半にリマの本社に帰着しました。

同年3月26日になって、小池技手が突然山から下りてきました。小池は声を低くして「一大事が起こったので、内密に申し上げに参りました。」と云います。小池がいうには「この鉱山は数百年掘り尽くした廃坑であることは明らかである。自分は坑口をでると、すぐ山口支配人の所へ行って、このことを報告、翌日から秘密の内に鉱石を分析、その結果問題にならぬ貧鉱である。かくなる上は一刻も早く通知して対策をとるために自分が飛んで来た」ということでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-29

 意外な小池の報告に高橋は途方にくれ、直ちに田島に訊いてみました。「一体君は最初に山を買う時、実地をよく調査したのか、只今小池からの報告によると、山は全くの廃坑というのじゃないか」と詰問すると、田島は「実はあの時はよく調査をしませんでした。しかしもう一度山へ行って調査してみなければ、小池の言うことばかりも信じられません」

「しかし君の報告書には、4鉱区を買収した時に、実地調査をやったように書いてあるじゃないか」「何とも申し訳ありません」と言って田島は泣きながら「あの時の報告書はペルーの鉱山学校にあった雑誌を英語で読み聞かされたのをそのまま翻訳して送ったので、自分で行って調査したのじゃありません。私はもう一度山へ行って確かめて参ります」と白状しました。

 事ここに到って高橋の不安はますます加わるのみでありました。ただ不幸中の幸いともいうべきは、高橋がなお未だ改正契約に調印していなかったことであります。

高橋から鉱山に関する上述のような説明を聞いたヘーレンは非常に不機嫌で、「一体小池は誰の指図で山から下りてきたのか、この国では左様な場合はまず本社に伺いを立てることになっている」と云い、また「改正契約の調印までは、鉱山は自分の私有物である。田島の登山も許すことはできぬ」と興奮して云うので、高橋は「再調査に不同意であれば、自分はこれから日本へ電信を打って、本隊の渡航をしばらく見合わせるようにせねばならぬ。それに貴君は今日大変興奮しているので、十分談判ができぬ。今日はこれでお暇する」と言ってヘーレン邸を辞去し、宿に帰るとすぐ東京へ電報を発しました。

その後高橋とヘーレンとの間に話し合いが繰り返され、ヘーレンは次第に高橋の主張に同調する姿勢を見せて来ました。

同年4月2日高橋とヘーレンとの間に次ぎのような新契約が成立しました。

  1. 日本組合は新たに会社を組織し、ヘーレンの権利を全部6万磅にて買いとり、代金の内5万磅は現金をもって支払い、残り1万磅は新会社の株券をもって充当すること
  2. この計画は帰朝の上6カ月間に実行すべし。、もし上述期限内に実行すること能わざる時は、日本組合は現在共有の鉱山権を喪失すべし。
  3. 本契約の調印と共に、さきに田島、井上が日本発起人の代表として調印したる契約はその効力を失うべし。
  4. このたび会社創立の費用として出資したる3000ポンド余の金員については、これまでの清算をなすに及ばず、ただしこの条約調印の日ヘーレンより1500ポンドだけを日本組合に返戻すること(これは万一新条約の計画を実施する能はざる時坑夫その他の帰国旅費に充つるものとす)
  5. 新条約の期限中は、ヘーレンは日本坑夫に対し一定の賃銀を払い、かつこれまで通り家屋及び食物を無代価にて給与するものとす。
  6. ヘーレンは田島、山口、屋須、小池には給料を与えざるも、家屋と食物はこれを無代価にて交付するものとす。
  7. 6か月以内にヘーレンの権利を買いいれること能はざる旨を東京より電報したる時は、ヘーレンは直ちにその旨を山口に通じ、日本人」総体の帰国について金銭を除くほか万端の世話をなすものとす。
  8. この契約を実施せざることあるも双方共にに異議を申し立てざることまたこの契約書の日付け以前に定めたる事件はすべて無効とす。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-30(最終回)

 かくて高橋は急速に帰国の準備に取り掛かりました。それを聞いて我々も一緒に連れて帰ってもらいたいと坑夫が山口支配人まで申し出てきましたが。高橋が一足先に帰国し、山口は坑夫らとともに一時残留することになりました。

同年4月10日高橋はヘーレンはじめ在リマの社員一同の見送りを受けてカリヤオ港出帆のサンタ・クローサ号で帰国の途につきました。パナマに着くまで高橋は電報の略号を作るために苦心したのです。リマから日本への高橋の電報の内容がすべてヘーレンに通知されていることを高橋は知っていました。それに電報では詳細な情報を送ることはできませんし、ペルーにはまだ多数の日本人が在留し、ヘーレンの世話にならねばならない事情もあり、廃坑に過ぎない鉱山の実態を日本に連絡することはできませんでした。ただ日本から新たにペルへ送金することのないよう、遠廻しな表現で要請することしかできなかったのです。そうして同年6月5日東京へと帰り着きました。

帰国後高橋は株主を一堂に集め、今日までの事情をありのままに詳細に報告して、上述の通り田島の調査報告が全然嘘であったために、事業の計画は根底から覆り、到底前途見込みなきを感知したので、鉱山事業は断念放棄せねばならぬと考え、それには、さきに田島、井上両名が日本側全権代表としてヘーレンと取り交わした契約を破棄してきた旨を話しました。株主らは高橋の報告を聞いて非常に驚き、高橋の電報の意味を十分に了解できなかったことえを謝罪しました。

 一方ヘーレンに対しては、6月21日新会社設立のことは日本株主の賛成を得られなかったことを電報で通告し、ヘーレンはこのことをカラワクラの山口に通報、7月2日これを知った山口は直ちに坑夫らとともに日本へ帰る準備を開始しました。7月17日正午南米汽船会社船ランタロー号でカロヤオ港を発し、9月10日午前8時横浜に到着しました。

 これよりさき田島は、山口らがまだペルーにいた6月28日に脱走して何万円かの金を拐帯して行ったから、日本へ着いたら捕り押さえよとの電報でした。その後田島は帰国しましたが、藤村は1890(明治23)年10月10日発起人を代表して田島を詐欺罪で告訴、裁判の結果有罪となり確か3年半の懲役に処せられました。

高橋がペルーから帰って今度の事業の清算をしてみると、会社に対する高橋の持株は最初1万円であったが、全権代表となって行くとき会社の友人が立て替えてくれて、高橋の持株を500万円にしてくれました。

 ところが大損失で会社は解散することとなり、自分の持株の未払い分が16000円ばかりあり、このとき高橋の大塚窪町の家屋敷を処分、その家の裏の貸家に引っ越しました。

親切な知人が就職の世話をしてくれましたが、考えがあって高橋は官途にはつきませんでした。

 家族一同を集めて、高橋はペルー失敗のことから、福島農場、天沼鉱山の失敗、今日の事情一切を打ち明けて、「この上は運を天に委せて一家のものは一心となって家政を挽回するに努めねばならぬ。ついてはこれから田舎に引っ込んで大人も子供も一緒になって、一生懸命働いて見よう。しかもなお飢えるような場合になったら、皆も私と一緒に飢えてもらいたい」というと長男の是賢(14歳)は黙って聞いていましたが、次男の是福(10歳)は「そうなったら私はしじみ売りをして家計を助けます」と云ったので皆涙を呑みました。家内(品)は毛糸を編んで手内職をし、僅かな工賃を得ていました。

高橋是清子爵家 その1