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幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-21

 このようんな経緯(いきさつ)で、やがて同藩の家老友常典膳と会見して正式に決定、そこで高橋はいくらかの月給を前借りして、その一部で洋服を誂え、他の一部で借財の始末をしました。もっとも本多らのために借りた250両の分は、すぐという訳にもゆかず、あらたに証文を書き直して、今後唐津藩から受け取る月給で元利を返すことになりました。

 高橋と一時結婚まで考え、高橋の祖母を引き取ってくれた東家桝吉の名にちんなんで、高橋は東太郎と名を変えて唐津に向かうこととなりました。

唐津へは家老の友常典膳も同行することとなり、顔見知りの意味で、一夕晩餐でも差し上げたいとて、誘われるままに、初めて吉原という所に連れて行かれました。

  いよいよ江戸をたって、海路神戸から真直ぐ長崎に向かい、長崎から鯛ノ浦を渡船し、轎(肩の上に担いで人を乗せるかごやこし)に乗って唐津の領内に入りました。藩では遠来の先生が着くというので、わざわざ少参事を遣わして、馬や轎を持って国境まで出迎えるという有様でした。

 その時同行したフランス式調練の先生が山脇という人、また喇叭の先生が多田という人で、いずれも幕府の侍でした。二人とも馬にのろうとしないので、高橋が馬に乗って急がせると、、轎は非常に遅れて、高橋が先頭で城下町に入り込みました。見ると路には一面に砂を盛って、箒目正しく掃除してあります。出迎えの人が襟を正して列んで実に大変な歓迎振りでした。

 かくて一行は城門前の御使者屋敷に案内され、夜になると40人ばかりの藩士が接待にやって来て、早速大広間で酒宴が始まりました。当時の風習として、かような宴席では、まず酒の飲み比べで人を敗かすことが、手柄のようになっていました。ところが山脇、多田両君とも酒を飲まぬため、高橋一人で40余人を相手に痛飲しなければならぬ次第で、これには高橋も随分弱りました。しかしそれが評判ろなり、歩兵の先生よりも英語の先生の方が偉いというもっぱらの噂となりました。

 高橋は早速城内にある士族邸を修繕して学校とし、直ちに50人の生徒を募集して授業を開始しました。ところが唐津藩では漢学と撃剣が盛んで、攘夷気分が濃厚でした。従って年輩者の間には英学に反対を主張するものも多かったのです。それに高橋が散切り頭に無腰という姿で乗り込んでいったことは、藩中に少なからず衝撃を与えたようです。

 ある日の夜、2~3人の藩士とともに城下に出て、一緒に酒を飲んでいると、その間に学校は火を出して焼けてしまったのです。これは反対派の放火であるといわれました。

 ちょうどその時、唐津藩主は東京に引っ越すこととなり、いままでの住居であったお城は空くこととなったので、高橋はこれを機会にお城を学校とする意見を出しました。幸いにして藩主も、藩の重役も、これに賛成したので、お城の御殿は耐恒寮(たいこうりょう 英学校の名))と変わってしまいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-22

 学校をお城に移転するとともに、生徒定員も250名に増加し藩費で養成することにしました。高橋自身の借財も皆済、月給100円という額は不要となったので、自分の取り分は60円とし、残りの40円は学校の維持費に繰り入れました。

 耐恒寮における高橋の教育方針は、大学南校でやったのと同じく、教室では一切英語で教えて、日本語はなるべく使わないようにしました。

「去華就実」と郷土の先覚者たちー 第3回 天野為之 第5回 致遠館 第6回 高橋是清と耐恒寮 第7回 辰野金吾 第8回 曽禰達蔵 第9回 掛下重次郎 第12回 大島小太郎

 しかし生徒の身になって考えると、習っている英語が外国人と対話するときに本当に役に立つのかどうか判断がつきません。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-23

ある時唐津の港に一隻の外国船が石炭を積みにやってきました。よい機会であるから、この際外国船へ連れて行って実地研究をやってはどうかとの注意もあったので、高橋はその船長の許可を受けて生徒たちをその外国船に連れていきました。生徒たちは学校で教わった英会話が本当のものであるということが分かって、一同大喜びした次第でありました。当時の初めからの生徒で、世に知られているのは、天野為之(「政治的良心に従います」-石橋湛山のの生涯―を読む5参照)博士、曽禰達蔵博士、工学士吉原礼助、裁判官の掛下重次郎、銀行家の大島小太郎らで、故人になった者には、化学者の渡辺栄次郎、工学博士の辰野金吾らがいます。

一方高橋は唐津に来てから、従来に増して酒を飲むようになりました。朝は教場に出る前に冷酒をやり、昼は一升、夜は学校の幹部などを集めて酒盛りをやるという風で、毎日平均三升ずつは飲んでいました。

 唐津藩の先輩で学校係の少参事であった中沢健作という人が、学校の一室を自分の部屋としていたが、ある日この人が、「東(あずま)さん、あなたは英学が堪能であろうが、まだ漢学をなさらないから惜しいことである。この際漢学をやってはどうです。失礼ながら私が御教授申そう」ということでした。高橋も「どうかお願い申す、何をやりますか」というと「まず『日本外史』(頼山陽の著作で漢文体の武家興亡史)からお始めになったらよかろう」ということでありました。 まず中沢に3度ばかり読んでもらい、その後高橋が自分で読んでみると、やはりところどころ読めません。やがて中沢に教わるのを止めて『玉篇』(部首別の漢字字典)を求め、夜酒を飲んだ後、毎晩3時間ほど学習、眠気がさしてくると、手の甲に灸をすえました。

Weblio辞書―検索―頼山陽

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-24

1871(明治4)年12月(18歳)に末になると学校は休みになったので、唐津藩の鯨取りを見物にゆきました。当時まだ鯨捕りは藩営でした。一行3人でまず呼子(よびこ)へ行って船饅頭(売春婦?)などを素見(ひやか)して、なんとかいう島(小川島)に渡り、そこの庄屋の家を借りて鯨捕りを待つことにしました。

Weblio辞書―検索―小川島

 船場の側に見張所があって、そこには唐津藩の少参事が裃を着けて坐っています。その裏山の高台には旗が立っていて、そこから番人が始終望遠鏡で見張っていて、鯨が見えると旗が揚がり、下にいる鯨船が時を移さず出動することになっていました。

 島に渡ったのは大晦日の晩で、夜になったら、一人だけが寝て、ほかの二人は飲み続けることにしようと觴(さかずき)をあげていました。

 1872(明治5)年正月3日に鯨が捕れ、8人乗りの船が数隻艪櫂を揃えて、掛け声高く漕いでゆき、銛(もり)を鯨に投げつけます。いよいよ鯨が着くと、まず薙刀なぎなた)のようなもので、一尺四方ばかりの肉を切り取り、それを釜のなかに入れると、その後は島の者の取り放題になります。

 夜になると少参事からいろいろの鯨の肉を送ってきたので、それでまた酒盛りをはじめました。その取りたての肉を食べてみると、いつも唐津で食べているものとは、まるで味が違い美味しいものです。

 学校は正月の7日から始まるので、5日には城下に戻ってきました。今度は家老はじめ知人の所に年始に行って、行く先々で酒を飲まされ、5~6日と二日続きけて飲みあるきました。 7日は始業式で朝生徒を列べ、四斗樽を据えて、まず高橋が大きな丼で一杯飲んで、それを第1列の生徒に廻し次に他の列の生徒に廻しました。

 8日の晩、相変わらず酒を飲んで寝ると、俄かに胸が痛くなってとうとう喀血しました。皆大変驚いて、そのころ長崎から赴任した唐津の医学校兼病院の先生の診察の結果、「こりゃ大変だ、大酒をやっちゃいかぬというのに、飲み過ぎるからだ、これは酒毒だ、君はこれで命を取られるぞ」と威されました。

 約2週間ばかりすると、気分も良くなり、座敷の中を歩けるようになりました。しかし病後は酒の臭いが厭になりましたが、久しぶりに二階から下に降りて見ると、例によって教員たちが飲んでいました。

 「先生一杯いかがです」というから「いや、もう私は臭いからが厭になった」というと、その内の一人が「臭いが厭なら鼻を摘まんで飲みなさい」としきりにいうので、その通りにしたら、なかなかうまい、性こりもなくまた酒飲みになってしまいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-25

高橋は、すでに男子が英学をやる以上、女子もやって、大いに西洋の事情を究めておかねばならぬと力説し、婦人の生徒も募集することになって、曽禰達蔵博士の妹およう、友常典膳の娘おたい、ならびにふくの3名が率先して入学しました。

 かくして学校の基礎が確立すると、外国人教師も招聘しなければならず、図書も外国に注文して相当のものを購入する必要があり、それには万事フルベッキ先生に相談するのがよいと考え、高橋は間もなく東京にでかけることとなりました。

 高橋が東京に滞在中、唐津から二人の藩士が上京してきて、「先生のお留守中に大変なことが持ち上がりました。それは、今度唐津藩伊万里県に合併されることになって、その出張所が唐津に出来ました。藩の製紙事業の益金分配のことで不審な点について密告するものがあり、友常大参事はじめ藩の主なるものは皆伊万里県に拘禁され、その上に学校は閉鎖され、藩士はことごとく閉門蟄居を命ぜられ、藩の青年たちは全く途方にくれています。ついてはどうぞ早く帰って学校が開くようお力添をねがいます。それから伊万里県では耶蘇教の信者は斬罪に処せられることになって、先生も耶蘇教に関係がありはせぬかと取り調べているそうです。」と大変に慌てた様子でありました。

 高橋は直ちにフルベッキ先生に唐津の状況を報告、この際外国人教師の招聘だけは中止を願い、耶蘇教信者に対する道理のない処分や学校の復活については先生から政府筋へ申し入れてもらいたい旨依頼し、高橋自身も内務省へ行って、このことを陳情しました。

 内務省では「そりゃ伊万里県のやり方があまりに酷いようだ。これ以上大げさにならないよう、こちらから指図をしよう」という話でした。

 高橋は東京から長崎へ急行し、長崎から唐津までは昼夜早轎で押い通し、唐津へついてみると、町も城内もヒッソリとして全く寂れています。

 高橋は伊万里県の唐津出張所へ行って、その乱暴な処置に厳しく談判すると、出張所では「そんなことなら学校だけは開校してもよい」ということになり、学校は1週間ばかりの内に再開されることとなりました。

 しかし伊万里に拘禁された友常らの赦免はなかなか出そうもなく、高橋は拘禁されている者に小遣銭を送る手配をしました。友常は自殺を企てましたが、未遂に終り、彼等はやがて赦免されて唐津へ帰ってきました。1872(明治5)年のことです。

 駅逓寮の前島密がら鈴木知雄にだれか英語のできる者はいないかと頼みがありました。、

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー前島密

 1872(明治5)年‘19歳)の秋、唐津の耐恒寮を辞職して東京へ戻ると、鈴木が高橋を前島に紹介、前島は高橋に「郵便の事務は始まったばかり、その内に外国人も来ることになっているから、そうなれば君はその通訳をやってもらいたい。それまでは差当りアメリカの郵便規則を翻訳してもらえば結構だ。」ということでした。高橋が承諾すると早速大蔵省に呼び出され、時の大蔵大輔(たいふ)井上馨から大蔵省十等出仕という辞令を渡されました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-26

 しかし前島がもう一人通訳に適当な人物を探してほしいというので、かつて大学南校教官時代の同僚であった鴨池宣之を紹介し、採用と決したにもかかわらず、前島は高橋さえ不用なのにもう一人不要なものを作るわけにはいかぬと衆人環視の場で放言したため、高橋は憤慨して辞表を提出しました。以後駅逓寮のことは高橋の履歴書には一切書かぬことにしています。

大学南校はだんだん整備されて法学、理学、工業学、諸芸学、鉱山学など立派な学問を教える開成学校となりました。

Weblio辞書―検索―開成学校―箕作秋坪

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー佐佐木高行―すー末松謙澄

 それで高橋もも少し修業せねばならぬと考え、試験を受けて開成学校に入学しました。

高橋は以前と同様にフルベッキ先生の所で御世話になっていましたが、ここに佐々木高行令嬢静衛(しずえ)がフルベッキ先生のお嬢さんに英語を習いに来て居たのです。そしていつも静衛さんのお供をしてくる一人の青年に高橋が声をケテ懇意になりましたが、この青年が豊前出身の末松謙澄でした。

 そのころの高橋が生活費をどうしていたかについて述べると、開成学校で経済科を担当する教師ドクター・マッカーデーから『玉篇』の読み方をローマ字で写してくれと頼まれ、その報酬として月10円をもらっていました。それから同じく開成学校の理学の先生グリフィスが『膝栗毛』などを口で翻訳させて、それを自分で筆記していました。弥次郎兵衛、喜多八の五十三次ですから、随分卑猥な話も同先生は聞いていたのです。この方からも月10円の収入があり、合計20円がそのころの高橋の学資でした。食費はすべてフルベッキ先生が負担してくれたのです。

政府は1872(明治5)年5月東京師範学校を創立し、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)を校長にして官費生を募集、末松は同師範学校入学試験に合格、入学を予定していました。将来小学校教師になるつもりだったのです。

高橋は末松に、小学校教師になってもつまらない、末松が同師範学校に合格したのは漢学の素養があったじからだ、これから洋学をやてはどうか、と勧めました。ところが末松は、そうしたいけれども、自分には学費がないから駄目だ、と答えます。

 そこで高橋は「よし、そんな事情なら、英学は私が教えてやろう、その代り君が漢学を教えたまえ、毎日君がお供をしてここで待っている間にやればよい」といい、二人の意見が一致して、英学と漢学の交換教授がはじまりました。

 高橋はいきなりバレーの『万国史』から教えはじめましたが、末松の進歩はまことに著しいものでした。末松はいよいよ師範学校入学の時期がきましたが、彼もとうとう同校入学を思い止まる気持ちになり、佐々木高行夫人に相談すると、大変なpお叱を受け、もうお前のお世話は一切しませんと言われました。末松はそれから師範学校の箕作校長の所に行って同様のことを話すと、これまた大変に叱られました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-27

高橋はこの話を聞いて箕作校長の所へ押しかけ、大激論の結果、とうとう末松の入学辞退を許してもらうことになったのです。

 末松が師範学校をやめてしまうと、お互いに学資を稼がねばならぬので、高橋は二人で西洋の新聞を翻訳し、それを日本の新聞社に売りつけてみようじゃないかと提案しました。

当時の新聞の記事を見るとどれも日本の記事ばかりで、外国の事情などは載せていませんでした。それで高橋はフルベッキ先生の所には英米の新聞がたくさん来ており、なかでもロンドンの絵入新聞にはなかなか面白い記事があるので、高橋が読んで口で翻訳するから、末松はそれを文章に書き直すことになりました。

 そこで翻訳記事の見本を各新聞社に持ち込みましたが、いずれも見事に断られました。

最後に日日新聞に行くと、偶然にも岸田吟香に出会いました。この人は高橋が横浜でヘボン先生に英語を習っていたとき、先生に漢字を教えにきていたので、先生の邸内でしばしば顔をあわせたことがありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―きー岸田吟香

 この岸田とその下にいた南喜山景雄に相談すると、「こりゃ面白い、一つお頼みすることにしよう」ということになりました。

 ある日同新聞に高橋、末松の手になつ文章が掲載され、末松は大喜びしました。月末になったので料金を受け取りに新聞社に赴くと、南喜山がいくらほしいのか、と訊くので、

50円ほしい、と答えると、文句もいわず、50円支払ってくれました。これが慣例となって、以後翻訳記事が新聞に掲載されてもされなくても、月50円渡してくれました。

 佐佐木夫人から家庭教師を頼まれ、高橋はフルベッキ先生の所を出て、佐佐木家の長屋に引っ越し、祖母や弟妹と一緒に住むことになりました。ただ末松はまもなく佐佐木邸をでて下宿生活をするようになり、一人で外国新聞の翻訳を手掛けるようになったのです。

森有礼は駐米1年有半、1873(明治6)年7月に帰朝、明六社を創立してしきりに我が教育の振興を絶叫していました。

脚気が回復して高橋が久しぶりに森を訪問すると、「このごろ何をしている?」と訊ねるので、「只今開成学校に入学して修業しています」と答えましたが、森は「お前などはもう生徒の時代ではない。幸い文部省にモーレー博士を招聘したが、その通訳がいないので、文部省に出て、その通訳をやったらよかろう」と言われ、高橋は文部省に入省、十等出仕に任命されました。時に1873(明治6)年(20歳)10月のことです。御用召の日は佐佐木老侯の燕尾服を借りて出頭しました。役人になったので芝の仙台屋敷の長屋に引っ越しました。

高橋には異父妹香子(かねこ)がいました。高橋が14歳でアメリカへ旅立つ間際に、祖母が塩肴屋の高橋幸治郎の所で香子と対面させて、兄妹であることを明かしてくれたのです。高橋が文部省に入ると、高橋の家と同じ芝の新銭座の塩肴屋から香子は祖母に連れられて高橋の家にやって来ました。丈も高く色白のきれいな児で、芸妓屋から話を持ちかけられたということです。

 塩肴屋は富裕ではなく、香子を外に出したがっているという話を祖母が聞いて、彼女をこちらに貰いきったらよかろうと云いだしました。

それで早速塩肴屋と交渉、向うも承知して香子は高橋の方へ引き取ることになりました。

 香はそのころ九ツくらいで、祖母のシツケが随分辛かったらしく、時々逃げて帰るようなこともありましたが、祖母や高橋が云い聞かせて逃げ帰ることもなくなったのです。

 当時末松の友人で艣松塘(ろしょうとう)という詩人の娘采蘭とかいう先生がいて、香はそこで行儀作法や漢詩を作ることを仕込まれたこともありました。

 仙台屋敷の向う側に秋田の屋敷跡があって、二本松の林正十郎という人が買いとり、その四隅に大鳥圭介ら函館の敗将を住まわせていました。その一人荒井郁之助の構内に篠田雲鳳という老女史が住んでおり、彼女は開拓使の女学校の先生で、自宅には数人の熟生を置いて世間の評判もよいので、香を雲鳳の塾に入れ、漢書と習字を仕込んでもらいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-28

 その熟生の内に西郷お柳(戸籍面ではフジ)という女が居て、大変によく妹の面倒をみてくれました。、高橋の祖母もこの女のことをよく知っていて、高橋が少しでも早く妻帯したらよかろうと、祖母はひそかに探していたので、この女に眼をつけて、「いかにもよい女と思うが貰ってはどうだ」という話でした。「祖母さんさえよろしければ、私はチットも異存はありません。どうか貰って下さい」と高橋が言って賛成しtので、、とうとうこの女と結婚することになりました。、これが1876(明治9)年(23歳)のことであります。

 高橋が文部省勤務当時、開成学校の校長に伴正順が任命されましたが、それ以前から同校教員にはいかがわしい人物が雇用され、甚だしい例として、外人の屠牛所の親爺が教員としてはいり込む有様でした。

高橋はこの状態に憤慨して、喬木太郎の変名で日日新聞紙上に校規紊乱を攻撃しました。当時の文部卿は西郷従道でしたが、万事文部大輔の田中不二麿に任せきりでした。

 田中が外人に会いに行くので、高橋が通弁として随行することになり、馬車に同乗して出かけました。馬車の中で喬木太郎の開成学校攻撃の話が出て、高橋が伴氏は校長に不適任であることを指摘すると、田中は「じゃだれを校長にしたらよいか」と尋ねるので、「今私と一緒にモーレー博士に附いている先輩の畠山義成君が校長になれば、学校もよくなりましょう」と答えました。畠山義成は洋行した一人でモーレー博士とは米国時代から懇意でした。またクリスチャンで温厚は人柄でした。その後伴氏の代わって畠山義成が開成学校の校長になると、開成学校は初めて事実上の専門学校の体をなすにいたりました。

この時文部省には視学官が4~5人居て終始全国に出張、教育の状態を視察してその報告書を出していました。それを皆高橋が翻訳してモーレー氏に伝達していたのです。モーレー氏は我が国教育制度確立のために文部省に雇用されたのですから、わが国の事情を理解してもらって、日本の歴史と国民性に適応した制度組織を作ってもらわねばならぬと努力したのでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-29

 元来モーレー先生が日本へ来るきっかけになったのは、アメリカで伊藤博文に知られ、たか、少なくとも伊藤が口切りをしたように聞いています。或る時伊藤夫妻の晩餐会に招待されて出席した時、夫人同士の談話は高橋が通訳しました。

 1873(明治6)年(20歳)の末ころであったと思います。勝海舟の屋敷が赤坂氷川にあったとき、モーレー博士が一度勝先生に挨拶したいということで、先方の都合を聞いてある日訪問することになりました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー勝海舟―はー馬場辰猪―まー正岡子規―めー目賀田種太郎

 モーレー博士はアメリカで勝小鹿(勝の令息)の数学の先生でありました。それで今度来日したから令息の消息を伝えて安心させたいというのが訪問の主旨だったのです。

玄関に取次に出て来た人は16~7歳の木綿の着物をきたきれいな娘で、式台に両手をつき、静かにモーレー博士の挨拶を承って、しばらくお待ちくださいと奥へ退く様子がいかにも気高く落ち付いていました。

やがて粗服の上に木綿の小倉袴を着けた一人のお爺さんが素足で出てきて「どうぞ、こちらへお靴のままで」と安内します。玄関を上がって右の方へ行き座敷に通ると純然たる日本家で、縁先近くに卓子があって、その周りに椅子が3つ列べてあります。

「さあ、お掛けなさい」と案内人はまず来客に勧めて、やがて自分も椅子に掛けました。モーレー博士も高橋もこの老人は勝家の用人だと思っていたのですが。実は勝海舟その人であったことが判ってびっくりしました。

モーレーが丁寧な挨拶をして小鹿の詳しい報告をし、高橋が通弁していると、相当年輩のお婆さんが白襟黒紋付の上に裲襠(うちかけ)を着て、着物の裾をひきずりながら静かにその席に現れました。すると勝はモーレーに「これが私の妻で小鹿の母です」と紹介します。

 モーレー博士は奥さんに対しても繰り返し小鹿のことを報告しましたが、その間夫人は腰も掛けずに立っておられるので、高橋が椅子から離れて、「これにおかけ下さい」と申しても、とうとう掛けられなかったのでした。

 それからまた勝とモーレー博士の問答となりました。勝は「ちょうどよい機会だから、かねて自分で解きかねている問題を2~3お尋ねしたい」と言って、質問したのですが、高等数学ですから、当時高橋は一切通弁できませんでした。すると勝は紙と硯を持ってこさせて、オランダ語か何かで、紙の上に図を引っ張り、手まねで聞くと、モーレー博士も紙の上で答えます。しばらくして勝家を辞去しました。

文部省に戻って同僚に「一体あの女中は何だろう」とというと、勝海舟の令嬢だということでした。その時のお嬢さんが故目賀田(種太郎)男夫人であったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-11

  やがてブラウン老人夫妻は「自分たちは清国へ行くことになった。自分の親戚で桑港の税関に勤務している親切な人がいる。お前はそこへ行ったらよかろう。そうしたら昼間は主人について税関の仕事の手伝いをしながら事務を覚えられる。夜や暇なときには、その家のお嬢さんが家庭教師を呼んで勉強しているから、それと一緒に学問を教わることが出来る。是非その家に行きなさい」と言って20ドルの金貨をくれました。それで高橋もいわれるままに承知したのです。

 やがてブラウン一族が清国へ出発するとき、高橋は桑港の埠頭まで見送りに行きましたが、そこに親戚の税関吏も来ていて、「御前も一緒に来て税関の仕事を手伝え、そうすれば仕事も覚えるし、語学の修業にもなる、また書物の勉強がしたいなら、自分の妻や娘と一緒に勉強したらよかろうと言って、生活用品などを買って、高橋の部屋も用意してくれました。

 その晩一条に上記のような事情を話すと、「それもいいけれど、今度行けばまた3年間はおらにゃならぬぞ、それでは何時まで経っても学校には行けぬぞ。このまま行かずににおれ」とそそのかします。高橋が「だがせっかく親切にしてくれるのをほったらかすのは気の毒だナァ」というと、一条は「向うでは御前を奴隷として買ったつもりでいる。南北戦争以来奴隷の売買は法度になっているのに、向うはその国禁を破っているのだから、こっちに言い分はいくらでもある、行かずにおれ」と引きとめました。それで高橋も決心して、そのまま行きませんでした。

 そのころ佐藤百太郎という人が日本茶や日本の雑貨を売る米人の店に勤めていて、横浜時代ヘボンの所に稽古にきていた仲間の一人でした。高橋はこの人の所へ行って事情を話したところ、佐藤の勤める店は人手不足で困っているところで、高橋はこの店で働くことになり、この店に引っ越しました。

 高橋がアメリカでそんなことをしているうちに、日本では非常な変転が行われていました。1866(慶応2)年12月孝明天皇薨去、翌3年正月明治天皇践祚、同年10月14日討幕の密勅が薩長両藩にくだり、同日徳川慶喜は政権を朝廷に奉還しました。

 故国でこのような騒動が起こっているとは思いもよらず、高橋は佐藤の店で売り上げ品の配達をしていたのですが、そこへ日本から『もしほぐさ』という当時の新聞が届きました。

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幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-12

 それによると、徳川家の処分に対して不満を抱く一部の志士は彰義隊と号して上野に立て籠り輪王寺宮を奉じて官軍の命令を拒んだのです。そこで官軍は5月15日上野を攻撃、火を寛永寺にかけて、これを陥すに3日間もかかったと書いてありました。一条や高橋らは上野に3日かかるくらいなら、徳川方が勝つようになるかもしれぬと話し合いました。

 そのうちに維新の戦争のことがだんだん判ってきたので、ニューヨークへ行っていた富田・高木らは日本へ帰ると言ってやっきました。戦いが始まったから、一度様子を見てこねばならぬ。しかしいきなり自分たちが日本へ帰るのは少し危険だから、ひとまず上海に着いて、様子を聞いた上で日本へ帰れるようだったら帰ろう、もしいけなかったら、こちらに引き返すことにするから、君らはそれまでここに留まっておれと云いました。

 ところで高橋は一条とともに、実は自分はこういうわけで奴隷に売られていると経過を話したところ、富田も非常に驚いて、それはまず第一に契約書を取り戻さねばならぬと、いろいろ相談の結果、藩から命令を受けたことにして、当時幕府から桑港の名誉領事を嘱託されていたブルークスに訴えてみることにしました。

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 そこでブルークスは双方の言い分を聞くために、ヴァンリードを呼んで尋ねることとなり、ここに対決が始まりました。ところが富田・一条両人とも英語が十分にできません、高木がいくらかよく話せたっけれども、その対決を高橋が聞いていると「自分たちの言うことが道理である、だから自分たちの請求する通り契約を破棄することを御前が承諾するのが当然だ」という意味のことを言っているのですが、言葉が不十分で発音が拙いために、ヴァンリードはアグリー(同意する)という言葉をアングリー(怒る)と聞いてしまって、紳士に向かって怒っているという、いやそうじゃないという言葉の取り違いで、両方ともなかなか折れません。しかし終いにはそれが誤解であるということが判って、互いに大笑いになったような始末でありました。

 さて対決の結果はどうなったかというと、こちらからは第一仙台藩から高橋、鈴木両名分としてヴァンリードに渡してある金の清算書を見せて貰いたい、第二には奴隷の契約を破棄して貰いたいということをも申し出ました。するとヴァンリードは、自分は金を受け取っている。しかし高橋をブラウンの所へ3カ年期50ドルの約束で売ったのは横浜から桑港までの渡航費50ドルが立替えてあるためだといい抜けました。そこでブルークスがヴァンリードの立替えた50ドルはこれを返すこととし、同時に身売りの契約は破棄するということに採決され、高橋は天下晴れて自由の身となりました。

 さらに鈴木もヴァンリードから連れ戻すと、富田らは桑港をたって帰国の途につき、高橋は富田から便りがくるまでに、出来るだけ金を作っておかねばならぬと、相変わらず佐藤の店で品物の配達をして働いていました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-13

この時越前の医者某が維新の騒ぎで二束三文になった品物を買倒して、それをアメリカに持って来て一儲けしようとしました。その通弁として来たのが城山静一という宇和島藩士でした。

 ところが城山が着く少し前桑港の新聞に、今度日本政府から城山という領事が来るが、それはハワイにいる劣悪な労働条件で雇用された日本人を救いに来るのであると書いてありました。それで高橋らは城山を迎えに行き、一条の下宿に連れて来て新聞記事の話をすると、城山は驚いて、「じつは自分も医者もヴァンリードの世話で来たのだ。ヴァンリードがそんなに悪い奴なら、ここにいてはどんなひどい目に会うかもしれぬ、俺は帰る」と云い出し、それで早速医者と縁を切って高橋と同居することになりました。

 富田らは帰国した後何の音沙汰もなく、いつになったら便りがくるのか想像もつきませんでした。それに維新後の様子もまったく判らないので、高橋らは相談して、ひとまず帰国することに決めました。城山は医者と縁を切ったので無一文になっていたのですが、幸いにヴァンリードの立て替えを清算した残金が一条の手許にあったので、その金で一条、鈴木、城山、高橋4人の船賃(一人50ドル)を払い、また出来合いの新しい洋服を1着ずつ買い求めました。それでもなお一条の手許にはいくらかの余裕があったようです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-14

 船に乗り込んでから事務員に「どう、50ドルの切符で、清国人と一緒でない部屋へいれてもらいらい」と頼むと、高橋らの申し出に対して、「今は忙しいから、船が出たら取り計らう」ということでした。

 船が金門湾を出ると、船員が来て、部屋に案内してくれました。その部屋にはダブルベッドが三つ、3段になっていて、中央のベッドには、すでに大きな清国人が陣取っていて、高橋ら4人には上下の寝台が割り当てられていました。

 狭い部屋に夜締め切って寝ると窮屈で、それに清国人はしきりに鼾(いびき)をかき、無遠慮に放屁します。

 これをどう対処したらよいか4人で相談、城山が、まず上の者は紙屑でも果物の皮でも何でもよいから棄てる振りをして真ん中のベッドに落とすがよい、また下の者は下から足で突っ張って、清国人を寝台から突き落したらどうじゃと云いました。これに全員賛成して、その晩から早速実行、清国人は驚いて、一人は寝台から転げ落ちました。彼等ははじめ漢語で文句をいっていましtが、しまいには御機嫌を取り出し、果物などを高橋らに持ってくるようになり、結局彼等と仲好くなりました。

 船中では禁止されているのに清国人の多くは賭博をやっていました。船の事務員の承認を得て、高橋ら4人は船内を巡回して賭博を取り締まることになりました。殊に城山は大小を差して、ときにはそれを抜いて見せたりして威したりしたので、すこし薬が効きすぎて、城山らが賭博の現場に行きあたると、彼等はすぐに果物などを持って来て愛想をふりまくようになりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-15

。かくして城山、一条、鈴木、高橋の4人がいよいよ横浜に着いたのは、1868(明治元)年12月でした。これより先1867(慶応3)年高橋と鈴木がはじめて洋行するとき、幕府から貰った渡航免状には、彼等の身分は仙台藩の百姓ということになっていました。城山はそれを見て仙台藩は維新の戦争で賊となっている、このような免状が荷物の中にあっては上陸の際面倒だ、というのでその免状は海の中へ投げ込みました。船が碇を降ろすと運上所の人が乗り込んできました。

 旅券は海の中に投げ込んでしまったので、関門の通過が大問題です。それで高橋ら4人は相談して、荷物を持たずに新調の洋服姿で上陸することにしました。城山は「なるべく英語で話しながら外国人の真似をして関門を通りぬけ、神奈川の富田屋という宿屋へ行って待っておれ、俺が3人の荷物を始末して後から行く」というのでした。

 3人は船から上陸すると、ことさらに英語を使い、運上所の前では西洋の歌などを歌って、咎められることもなく神奈川の富田屋に落ち着くことができました。城山が姿を現したのははや正午過ぎで「実は荷物の検査で、高橋の行李からピストルが出て、それで大変手間をとった。一体何であんなものを持っていたのか」と訊くので、高橋が渡米するとき祖母から贈らてた短刀を、米人に頼まれてピストルと交換したもおのをそのまま行李に忘れていだと答えました。

 翌日3人は城山とともに江戸に入り、露月町までくると、高橋の生家川村の家がありました。一条に「ここが自分の実父の家だが、今はどうなっているかナァ」というと、一条は「そりゃいい塩梅(あんばい)だ、川村でお前一人だけでも隠まってくれればよいが、俺がちょっと行ってかけあってこよう」と門の中へ入っていきました。

 まもなく出て来た一条は「どうも様子を見ると、頼んでも駄目のようだ、聞けば川村の家も、近く引っ越さねばならぬということだ。」といいました。城山は「それじゃあもう俺たちの行く所は牛込の汁粉屋よりほかにはない」というので、他の者は別に当にする家を持っている者もないから、一同揃って城山の行く方向についていきました。

 牛込堀端田町の汁粉屋の家の裏に小さな二階建ての隠居所があり、それを城山が主人から借り受け、高橋ら3人はここに閉じこもることになりました。

 約一カ月ほど後、城山が3人のことを森有礼に話して世話を願うことにしてくれました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―もー森有礼

  森有礼は西洋から帰って朝廷の役人となり、外国官権判事に任ぜられ、神田錦町に住んでいました。1867(慶応3)年森が欧州から日本へ帰る途中桑港を通過し、一条や鈴木はその際森と会っていて顔み知りでした。そこで森は3人の世話を引き受け、自分の邸内に引き取りました。その時3人が従前の名前でいては危険だからといって、森自身で鈴木を鈴木五六郎、高橋を高橋和吉郎と改名、一条は自分で後藤常(つね)と変更しました。この時(明治元年)、高橋が15歳の時のことです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-16

 森有礼は当時23歳、まだ独身で家には会計係として18~9の若者と飯焚き夫婦がいるだけでした。5~6日たつと、森は高橋らを呼んで「俺が英学を教える。俺は忙しいからみなに一々教えるわけにゆかぬ。お前らの内で一番覚えのいい者一人だけに教える。それに当った者はよく覚えて、それを他の者に教えねばならぬ」といい渡されました。その一人に計らずも高橋が選ばれました。

 1869(明治2)年正月大学南校が出来たので、森はもう俺が教えなくてもよくなった、御前らは学校に入れといわれ、高橋らは3人ともその手続きをしましたが、3人とも英語が読め話が出来るというので、横浜の居留地で道路の技師をしていたハーレーについて学ばされ、同年3月語学がよく出来るということで、3人とも大学南校教官三等手伝いを仰せ付かりました。

Weblio辞書―検索―大学南校

 高橋らが帰国したことはいつしか国許の仙台にも知れ渡っていきました。鈴木六之助の実父古山亀之助が藩用で上京、噂を便りに鈴木らの住居を江戸中探し回りました。高橋の祖母もそれを聞くと単独でも上京すると云いだしましたが、老人が一人ではいかぬ、いずれ家族纏めていくからといってやっと思いとどまらせたそうです。

 古山は尋ねあるいてついに錦町の森邸に居ることを突き留め鈴木と高橋を訪ねてきました。二人が森に世話になっていることを告げると、古山は二人がこんなに息災でいることが判った以上、、自分は国許に急ぎの用があるといって帰りました。、

 鈴木の実父に居所を知られたので、自然と江戸藩邸の人々にもそれが伝わったと見え、ある日江戸詰の浅井利平と云う祖母と懇意な人が訪ねてきて、「今(旧仙台藩主)楽山公(伊達慶邦戊辰戦争に敗北、明治新政府に降伏)、芝の増上寺に蟄居しておられる。二人がアメリカから帰ったことを申し上げたら、会いたいとの思召しであるから、お目見得したらよかろう」といって、その手続きをしてくれました。

 それで高橋と鈴木はアメリカより帰りたての洋服を着て浅井に連れられ増上寺に罷りでました。八畳敷ばかりの狭い部屋に通されて控えていると、そこへ楽山公が二人の家来を従えて入ってこられました。それで浅井が二人をご紹介申し上げ、高橋と鈴木は坐ってお辞儀をしました。楽山公は起ったままでしたが、側におった侍が洋服のネクタイを首巻と思って静かな声で「御前の前だから首巻は取ってはどうじゃ」といいます。

 「これはネクタイでありまして附けているのが礼であります」と申し上げると「そうか」といって顧みて笑ったような有様でした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-17

 それから楽山公が「何年修業していた、あちらはどんな風であったか」とお尋ねがあったので、それぞれお答えしました。すると楽山公がさらに「外国の詩を作るか」と仰せられたので、「とても我々は未熟で詩などはつくれません」「それじゃ詩吟をやれ」といわれたので二つの詩を朗吟しますと「そうか」と大変ご満足のご様子でした。そうして「なお今後も学問をして朝廷に忠義を尽くせ」と仰せられ、側近に手当の支給を命じて退出されました。しかし高橋らはお手当支給を辞退いたしました。

 1870(明治3)年初めころから森有礼は廃刀論を主張、森排撃の声は同郷の鹿児島からも巻き起こり、彼は故郷に帰ることを決心するに至りました。高橋らは依然として大学南校に奉職していましたが、政府は長崎にいたフルベッキ博士を大学南校教頭に任命、博士は校内に居住したので、高橋らも博士について歴史の回読をし、高橋は傍らバイブルの講義を聴いて自然にキリスト教信者の一人となりました。

フルベッキ考

  同年森は勅命により再び鹿児島から出て、今度は小弁務使(代理公使に相当する外交官)としてアメリカに赴くことになりました。彼はアメリカへ赴任するにあたり、高橋のことをフルベッキ博士と当時の大学大丞(明治新政府が直轄する教育機関および教育行政を統括する官庁である大学校の次官)であった加藤弘之に託して出発しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー加藤弘之

 高橋も一心不乱に勉強して、他日森が適当な機会に呼び寄せるといわれ、その日の来るのを楽しみにしていました。

 ところがっふとしたことから魔がさしてきました。1870(明治3)年(17歳)の秋のころ、高橋はすでにフルベッキ先生の許に引き移っていました。ある日高橋が学校から自分の部屋に帰ると、あまり懇意にしていなかった3人の立派な人が来て待っています。

 いずれも大学南校の下級生徒で、外人教師の役宅に住んで居る元越前藩の家老職であった人たちの息子―本多貴一、本多丑之助、駒與楚松の3人でした。「何の用事で来たのか」と聞くと、「実は今度グリフィス教授を福井藩の学校へ雇い入れることになったので、本多貴一は博士に附いて国へ帰れという命令が来ました。折角修業に出たのに今引き揚げて帰ることは誠に残念ですが、、3人があまりに勉強を怠って遊んでいたことが判ったからです。しかも困ったことに借財があって帰るにも帰られず、途方に暮れています。ついては貴殿の御配慮で何とかして、一時借財を返す工夫は出来ないでしょうか」という依頼でした。

 

 

幸田真音「天佑なり]を読むⅠ-18

 高橋がどのくらい借金があるのか訊ねると、250両必要だとのこと、高橋はそんな金は自分にはないが、幸い私の遠い親類筋にあたる商人がいるので話しをしてみようと言って早速浅草の牧田万象という商人に頼んだところ、方々をかき集めて2~3日中に用たてましょうと言ってくれました。

 翌日になると合計250両を揃えて持って来てくれたので、高橋がその借り手となって証文を入れ、3人を呼んでこれを渡すと、彼等は大いに喜んで礼を述べ、帰りました。

 しかるに数日を経ると、3人がまたやってきていうのには、藩の大参事が「君達も折角親から修業にだされたのに、今帰っては不本意だろう。しかし今後全く改心して勉強する気なら今度だけは自分から願って親から許しを受けてやろう」といってくれ、帰国しなくてもよいことになりました。ついては大金をを都合して頂いたお礼に一夕お招きしたいと云います。「さて夕飯はどこは行くのだ」と聞けば、両国の柏屋ということでありました。

Weblio辞書―検索―参事

 高橋が立派な日本の料理屋へ行ったのはこれが初めてで、本式の座敷で芸妓(げいしゃ)を見たのも、この時が初めてです。その夜主賓として招待されたので、3人は極めて鄭重に高橋をもてなしました。

 宴席の万端のことは越前の商人福井屋が周旋してくれました。3人はいずれも芸妓とはお馴染みと見えて、高橋がフト気が付くと、自分が主賓であるにもかかわらず、何となく廻りのものから疎んぜられ、軽蔑されているような風が見えます。

 そこで気を付けてみると、3人はいずれも美服で縮緬の着物や羽織を着て、博多の帯や仙台平の袴をつけています。腰のものを見ると、彼等の大小はいわば黄金造り、高橋の刀も一緒に並べてありましたが、高橋の大小は柳原へ行って1両2分で裃大小を整えてきたものでした。それに高橋の身装は木綿の着物に小倉の袴です。いかにしても見劣りします。いざ引上げということになると、3人の刀は芸者どもが紫の絥紗様のもので捧げながら玄関まで持ってでたのですが、高橋のものだけは床の間に投げ出されたままでした。

 招かれた以上こちらも返礼せねばなりません。あの茶屋で、あの芸妓達を呼んで御馳走してやろうと、福井屋(当時日本橋の銀町に古着渡世をしていた福井数右衛門)を呼んで、あの3人が着ているような着物や袴を作らせ、鍍金でよいから黄金造りの太刀を整えさせて、芸妓には少しばかりの御祝儀を振舞って、新年の元日の夕刻から3人を招待することにしました。今度は高橋も何ら3人と異ならない待遇でありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-19

 3人は歌を唄ったり、踊ったりしますが、高橋はそんな真似はできません。そのころは踊りといっても角力甚句の踊り、唄といっても維新後の流行唄くらいのもので、3人は唄や踊りくらいは覚えたほうがよいと、それからは夜になると、当時高橋がおったフルベッキ先生の宅へ押しかけてきては歌や踊りを教えてくれました。ところがそれをフルベッキ先生のコックが窓越しに見てびっくりし、高橋は狂人になったのではないかと鈴木に告げたようで、それで鈴木がやって来て忠告してくれました。

Weblio辞書―検索―相撲甚句

 すでにコックに知られた以上、フルベッキ先生も伝え聞いているに相違ない。こうなってはもうこの邸にいるわけにはいかぬと思って、福井数右衛門に相談すると、空いている奥座敷を提供してくれるとのこと、早速フルベッキ先生の所へ行って、他に下宿したいと申し出ました。

 先生は多くを言わず「貴方は森さんがアメリカに行かれる時宜しく頼むということでお預かりしたが、自分でそう考えるなら下宿することもよかろう、しかしまた帰りたくなったら、遠慮なく何時でも戻ってきなさい」といいながら、机の上からファミリーバイブルと称する注釈付きの聖書をとって高橋に渡しました。それは高橋が先生かたキリスト教の講義を聞くとき、何時でも先生が自分の前に置いて見ておられたもので、黒い革表紙の大きな本です。それを手渡すときに「これは貴方に上げる、どんな場合でも、一日に一度は見るようになさい」と申されました。

 そうなると誰にも遠慮せず、放蕩はいよいよ募るばかりでありました。芸妓とも馴染みが出来て、自然学校も欠勤勝ちとなりました。放蕩の動機の一つは友人の山岡次郎君が藩命で洋行することになり、しばしば送別会で芸妓家へ行くことが頻繁となったためでした。

 ある日高橋と山岡が福井数右衛門の周旋で芸妓を連れて浅草の芝居見物に出掛けました。二人は桟敷の上で芸妓の長襦袢を着て痛飲していると、そこへ幕合となって、3人の外国人と2人の日本人が連れだって花道を高橋らの方へやってきました。高橋が花道の方を見ると、その連中は学校の外人教師でした。これには向うも驚いたが、高橋も驚きました。かくなる上は学校にいるワケにはいかぬと、辞表を提出したのです。

 加藤弘之が心配して「森さんから呼び寄せが来るまで待ってはどうだ」と親切に留めてくれましたが、自分の良心が許さず、加藤も「そうまで決心しているなら、やむを得ない」ととうとう辞職を許可してくれることになりました。

 高橋の多少の貯えはすぐ使い果してしまい、それに3人のために立て替えた借金に対しては、月々利子をいれねばならず、ついには元金まで返せと言われ、非常に困却しました。

 それに福井は高橋が辞職して収入はなくなり、貯えも使い果たしたと知ると、急に冷淡となり、「食料だけでも入れてもらいたい」などいうようになりました。

そこで高橋は持っている物は一切売り払ってしまい、フルベッキ先生からもらった聖書一冊だけは残していました。日に一度は欠かさず開いてみて、現在の自分はどうも良くない、これは早く改めねばならぬと感じましたが、女に対する迷いで、放蕩はどうしても止められませんでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-20

 芝に住んでいた高橋の祖母は薄々彼の放蕩を知ったらしく、福井屋へ訪ねてきました。高橋と馴染みだが、高橋より四つばかり年上の芸妓東(あずま)家桝吉(本名 お君)は不在で妹芸妓が家から朝ご飯やお菜を重箱に入れて、持って来ていました。福井の女房が「芝の祖母様がお見えになりました」と知らせてくれたので高橋も驚きました。

 「しばらく会わなかったが、マア達者で何よりです。してこちらの方々は」と二人の芸妓を見て訊ねられたので、高橋も弱って、咄嗟に「近所の方々です」と答えると、「アーそうでしたか、いろいろと孫がお世話になることでしょう。まだ年もゆかぬ未熟の者ですから何分よろしくお願いします。」と丁寧に挨拶されたので、二人の芸妓はいたたまれずに逃げ出しました。

 高橋はその後、小言を喰うと思っていましたが、一向に小言をいいません。そうして「お前も、もう意見をされる年合でもなかろうから、よく考えて一生を誤たぬようにしなさい。常にいっている通り、この祖母が朝夕神仏に祈っていることは、お前の出世することばかりです。」と懇々とさとし、福井屋にもよく高橋のことを頼んで帰られました。

 桝吉はこれを聞いて、祖母の態度によほど動かされたようでした。高橋を自分の家へ引き取るといいだしたのも、こういうことが因(もと)をなしているように思われます。

 しかし桝吉の家に行ってみると、そこには両親もおれば抱え妓もいる、わけて両親などとんでもない厄介者がやってきたと言わぬばかりにあしらいます。とうとう箱屋(箱にいれた三味線を持ち、芸妓の供をする者)のテ伝いまでしたのもこのころです。

 男一匹こんなことではいかぬと、ある日の夕方、その家の前で天を仰いで考え込んでいると、突然後ろから声をかけたものがあります。みれば維新前横浜時代の知り合いで小花万司という人でした。

 「オヤ、君は小花君だったネ、君は何をしている」「僕は内務省に勤めている。して君は何をしているか」「僕は何もしていない、何かしなくちゃならぬと思っている」

 「そりゃちょうどよい。このごろ肥前唐津藩で英語学校を建てたといって、その教師を探している。内務次官の渡辺さんから、見つけてくれと頼まれた。どうだろう、君があすこへ行っては」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-1~10

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-1

 幸田真音(こうだまいん)「天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債」は2011(平成23)年11月7日から東京新聞その他に連載を開始、2013(平成25)年角川書店から刊行され、第33回新田次郎賞を受賞した作品であり、高橋是清の生涯をたどった歴史経済小説です。

 この小説の序章は1936(昭和11)年2月26日早朝、赤坂表町の私邸で品(高橋是清の後妻)が眠れないまま起床してまもなく、兵隊の襲撃を告げる巡査の声を耳にする所から始まります。読者の興味を刺戟する効果をあげています。

  高橋是清は1854(嘉永7)年閏7月27日父幕府御用絵師川村庄右衛門守房と母きんの子として、江戸芝中門前町(東京都港区芝大門)で誕生しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー伊東祐亨―たー高橋是清 

幸田真音「前掲書」下巻末に記述されている「主要参考文献・資料」のはじめに紹介されている、上塚司編・高橋是清(口述)「高橋是清自伝」下巻(中公文庫)に収録されている、上塚司記「高橋翁の実家および養家の略記」には、高橋是清の生年月を「安政元年閏七月」としていますが、安政元年改元はこの年11月27日なので、「嘉永七年閏七月」の誤りであり、幸田真音「前掲書」の記述を正しいと考えます。以下主として、上塚司編「前掲書」により、高橋是清の生涯を概観してみましょう。

 川村家は代々狩野家を師とする徳川幕府の御同朋(将軍近侍)頭支配絵師として、もっぱら江戸城本丸御屏風の御用を勤めていました。その芝露月町の住居はすこぶる数寄を凝らしたもので、なかんずく木材に至っては好事家の垂涎措かないものものでありました。

 守房の妻志津は長女文を生んで死去したので、彼は後妻時を迎え、時は四男二女を生みました。

 三男要之助が生まれると、侍女として北原きんが川村家に仕えたのですが、彼女の生んだ守房の末子が後年の高橋是清だったのです。

 北原きんの父北原三治郎は芝白金に住む薩州公出入りの富裕な肴屋で、妻との間にきんが生まれたのですが、三治郎はやがてこの妻と別れ後妻を迎えたため、きんは中門前町の叔母りん宅に寄寓するようになり、その後川村家の侍女となったのです、

 川村庄右衛門の後妻ときはきんがまだ年端も行かず妊娠したのを見て、厚くいたわり、秘かにきんを中門前町の叔母りん宅に帰らせ、きんは既述の通り男子を生み、庄右衛門に和喜次(高橋是清の幼名)と名付けられました。きんは16歳、川村庄右衛門は47歳のときのことです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-2

  その後庄右衛門はときとも相談し、改めてきんの叔母りん並びに父三治郎と交渉して、きんを貰いうけようとしましたがまとまらず、金二百両と衣服調度を贈り、きんに暇がだされました。その後きんはしばらく親許に帰り、まもなく浜松町の塩肴屋高橋幸治郎に嫁ぎ、1862(文久2)年6月10日一女を生みなしたが、おりから江戸に流行した麻疹(はしか)にかかり、同月24日24歳で永眠しました。

 和喜次は生後まもなく他家に里子(他人に預けて養ってもらう子)として出すことになり、女髪結しもの仲介で仙台藩足軽高橋覚治是忠に預けられました。当時高橋家には高橋覚治夫妻の外に養祖父母高橋新治・喜代子夫妻が居りました(上塚 司「附録 高橋翁の実家および養家の略記」上塚 司編「高橋是清自伝」下 中公文庫)。

Weblio辞書―検索―幸田真音―上塚 司―大童信太夫

二年ほどたったころ和喜次を三田聖坂の菓子屋が養子にほしいと川村家へ相談にきました。川村家でもそれとなく貰い手を探していたので、川村から高橋の所へ和喜次を取り戻しに行ったのですが、高橋の祖母喜代子は「二年も育ててきたこの可愛い子を士(さむらい)ならとにかく、町人へやるのは可哀そうだ。足軽でもまだ自分の家へ貰っておいた方がよい」といって、留守居役(大名の江戸屋敷における役職)とも相談し、高橋家で貰うことにきまり、改めて川村家と協議しました。川村家では異議なく、かくして和喜次は高橋覚治の実子として藩に届け出て、高橋姓を名乗るに至ったのでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-3

 このような事情で和喜次は芝愛宕下の仙台藩江戸屋敷で、祖母の愛撫を受けて成長しました。この藩江戸屋敷の中には留守居役の住居が3軒、物書役の住居が同じく3軒、それに60余軒の足軽小者らの住居がありました。留守居役は時々交替して仙台から妻子を連れて来ると、和喜次の祖母喜代子が、その奥さまたちの面倒をみたり、留守居役に来客があると、女中たちに饗応の指図をしたりしていたので、留守居役とは懇意で重宝がられていたのです。

 やがて着任した若い留守居役大童信太夫は世の中の変遷に気つき、洋学でもやろうという同藩の若い武士たちにことの外目をかけていました。大童さんの母堂がなくなり、大崎猿町の仙台藩菩提所寿昌寺に葬られましたが、親孝行な大童さんは毎月命日に墓参りをした後、同寺の和尚と物語をしたり、碁を囲んだりすることが慣例となっていました。和喜次の祖母喜代子も信心深く、よく同寺に御参りしておりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-4

 ある日同寺の和尚が喜代子に、給仕をしたりする子供が一人ほしいが、誰か藩中で心当たりの者があったら世話してほしいと申しました。当時のお寺は一種の登竜門で、士分の子弟をお小姓に置き、成人すると御家人の株を買って立派な侍にしてやるということが流行していたので、喜代子は和喜次に足軽では出世ができぬ、お前は足軽にはなさぬといつも言っていたくらいで、そのとき一緒に行っていた和喜次を顧みて、この子ではどうですかと頼みこみました。和尚は即座に承知してくれたので、和喜次はまもなくこの寺に奉公することになりました。

品川観光協会―寿昌寺

 大童が寺にやってきて和尚と食事を共にするときは必ず和喜次が給仕したので、彼は次第に大童と馴染みになったのです。初めて西洋の兵式教練を足軽に授けたのはこの人で、当時福沢諭吉と親しかった大童は福沢に頼んで外国新聞などを翻訳してもらい、、それによって外国の事情などを研究していました。

 そのうちに大童はどうしても英仏の学問をするものを横浜に派遣せねばならぬと考えるようになり、この人選に苦心したのです。当時江戸居住の藩士はみな交替勤番で独身が多く、妻子持ちは江戸屋敷の足軽小者しかいませんでした。大童はこの足軽小者の子供の中から、和喜次と鈴木六之助(後に日銀出納局長となった鈴木知雄)の両名が横浜へ洋学修業に出されました。これが1864(元治元)年のことで、鈴木と和喜次は同年の十二歳でした。

 元治元年と言えば桜田事件の直後で、攘夷論者が非常に力を得て、外国人の居る所と見れば何処でも切り込んでゆくという騒がしい時代でした。そこで和喜次と鈴木が横浜に英学の修業にゆくことになると、第一番に心配したのは祖母喜代子でした。横浜は物騒な処だから、子供らをやる前に、どんな所かみてこようと大童とも相談して横浜まで状況視察にでかけました。横浜から帰って来ると、祖母が横浜という所は出るのも入るにも吉田橋一つしかない、浪人たちがこの橋を壊したら出入できず、自分の可愛い孫をそん危ない所へ一人手放すわけにはいかないから、自分も一緒に行って飯や衣服の世話まで一切してやりたいと大童に話ました。大童も賛成してくれて、横浜の太田町の漢語通訳役宅の庭の空地に家を建てて、そこから和喜次と鈴木は「ドクトル ヘボン」夫人に、ヘボン夫妻が帰国後は横浜在住の宣教師「バラー」夫人の指導で英語を稽古しました。

 1866(慶応2)年横浜の大火で一時江戸に帰りましたが、祖母と懇意な訳読の先生太田栄次郎がやてきて、永く江戸にいてはようやく覚えた英語もわすれてしまう、異人館のボーイにでも住み込んだらどうかといわれ、大童も賛成してくれたので、和喜次は太田の紹介で英国の「バンキング・コーポレーション・オブ・ロンドン・インデヤ・アンド・チャイナ」という銀行の支配人シャンドという人に雇われることになりました。

 この銀行には支配人格の人が3人おり、3人ともボーイを置いて、部屋の掃除や食事中の給仕をさせたりしていました。3人のボーイの中、和喜次以外にもう一人の日本人ボーイがおり、他の一人は当時横浜に駐屯していた英国兵兵士の子供で、これ以外にボーイ頭格の日本人に芸州藩士で22~3歳の織田と云う人がおり、やはり英学修業のためにきていました。和喜次はこうしてボーイを勤めながら、暇をみて太田栄次郎の所で訳読を教えてもらったり、自習をしたりして別に学校へ通うことはありませんでした。

 その銀行には馬丁やコックもおり、その中にはならず者もいて、朝夕酒を飲み、賭博をするという有様で、当時和喜次は13歳であったが老けてみえて身体も大きかったので、馬丁やコックと一緒になって酒をのんだり、随分悪戯もしました。

 当時洋妾(ラシャメン)が流行して、夜になると婆さんに連れられて外国人の住居に通って行く、それが憎らしいので、馬丁どもが悪戯をする。和喜次も一緒になって婆さんの提灯の火を打ち落として真っ暗になったところで洋妾の簪(かんざし)などを引き抜いて棄てると、女どもが仰天して逃げてゆくのを見て、手をたたいて笑うという風でした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-5

従って和喜次の評判が悪くなっていったのは当然でした。浅間山下の洗濯屋の座敷を借りて、毎日太田栄次郎の所に通って勉強していた鈴木六之助が時々和喜次を訪ねてやってきました。彼は和喜次の善からぬ評判を聞いて、自分は今度アメリカに修業にやられることになったが、御前は評判が悪いので省かれそうだと云いました。

 万一鈴木のみが洋行して和喜次独りが取り残されるなら、祖母に申し訳なく、それなら自分独りで洋行してやろうと考え、ボーイ頭の織田に相談しました。

 織田は「近ごろは頻々外国から船が来る、うまく船長にでも頼めばボーイに使ってくれるだろう、君が強いて行きたいなら、俺が一つ探ってやろう」と引き受けてくれました。

 やがて織田は横浜寄港中の英捕鯨船長と交渉、和喜次に船長は和喜次をボーイに使ってくれること、最終的にはロンドンに帰るので、和喜次を学問の出来るような所へ世話をしてやろうと云ってくれました。和喜次はこの話を受諾して織田にも伝えました。

しかし、このことを大恩ある祖母に一言伝えねばならないが、伝えれば祖母はあるいは止めるかもしれず、黙って脱走しようと覚悟したものの、祖母のことが気がかりで躊躇していました。結局捕鯨船に乗り込んでから、祖母に手紙を書いて了解を得ようと決心がつきました。

 ところが仙台藩士星恂太郎いう人が英国兵式修業のため横浜に来て、衣食のためにヴァンリードというアメリカ人の商店(銃砲など販売)で働いており、織田と懇意で高橋和喜次が英捕鯨船で洋行しようとしている事情を話しました。

星は「うん、そりゃ今度勝さん(勝海舟)の息子の小鹿(ころく)がアメリカに留学するので、庄内藩からは高木三郎という人が同行することになったが、仙台藩からも富田鉄之助(吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」講談社学術文庫)を同行させてはどうかと勝さんから留守居役の大童信太夫まで話があったので、藩では富田を修学させることにきめた。それにちょうどよいついでであるから、かねて横浜に修業に出してある子供も一緒にやろうという話が出て鈴木はすでに決まったが高橋はどうも行状が悪いので問題になっているところだ。高橋がそれほど堅い決心なら、君のいう通り二人一緒に修業にやるように、自分から大童に話をしてみよう。とにかく本人にも一度会ってみたいから、高橋を自分の所へ寄越してくれ」ということでありました。

Weblio辞書―検索―富田鉄之助

 和喜次はこの話を織田から聞いて、翌日早速星を訪ねると、星は「その年輩で捕鯨船に乗って外国へ行くのは無謀だ。今度藩の方で留学生を出すについては君もきっとその中に加えるだろうから、この手紙を持って江戸の大童氏の所へ行け」といって、一通の添書を書いてくれました。和喜次はその添書を持って早速江戸の大童を訪ねると、大童は彼の姿を見て打解けた態度で笑って「まだ決まったわけではないが、とにかく横浜へ行って待っておれ」ということでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-6

 和喜次は洋行の願いが叶ったものと思って横浜に帰り、織田と星にその話をして、捕鯨船の方は織田からわけをいって断って貰いました。 

 1867(慶応3)年(14歳)の春も終わりに近いころ、高橋和喜次らのアメリカ行きの許可が出ました。勝小鹿、富田鉄之助、高木三郎の3人には、藩からそれぞれ学校に入学して勉強できるだけの手当を支給されることになったのですが、鈴木と高橋は未成年なので、向うで誰か世話を頼まねばならぬと大童から星に話があったので、星は主人のヴァンリードに依頼し、桑港(サンフランシスコ)にいるヴァンリードの両親が両人の世話を引き受けることになって、その旅費や学費は藩から直接ヴァンリードに渡してしまいました。

 出発の日が迫ってくると、祖母は和喜次に餞別の短刀を授け、男は義のためや恥辱をそそぐために死なねばならぬことがあると云って、切腹の作法まで教えてくれました。

 そのころ和喜次らはまだ髷を結って和服を着ていました。洋行するには断髪して洋服を着る必要があります。しかるにそのころは西洋人の仕立屋はありましたが、日本人の仕立屋にはろくな者はいませんでした。やむなくそのころ流行だった白金巾の綿ゴロでチョッキとズボンを拵え、黒の絹ゴロで上衣を拵えましたが、一列ボタンのフロックコートでした。

YAHOO知恵袋―白金巾の綿ゴロとはどのような着物なのでしょうか?

 帽子はフランス形を板紙で拵え、それに白い布片で後の方に日よけを垂らしたものでした。靴は買うにしても、まだどこにも靴屋はありませんでした。横浜中探しても、子供の足にあうものはなく、みんなイギリス兵のはいた大きなものばかりでした。やっとこれなら足に合いそうなものを探し当てたものの婦人用の古靴で、革製ではなく絹シュスで作ったものでした。

 かくして同年7月23日アメリカ船コロラド号が香港から横浜に入港、翌日和喜次は祖母に送られて乗船しましたが嬉しくてたまりませんでした。

 同年7月25日コロラド号は午前6時3発の号砲を合図に桑港に向けて出帆しました。同号はわずか6~700トン足らずの外輪船でありました。富田、高木、勝の3人は上等船室でしたが、高橋、鈴木のほか、薩摩藩伊東四郎(後の伊東祐亨海軍大将)らは下等船室でした。下等船室は移民の清国人が多く乗り込んでおり、薄暗くて臭気がムッと胸をつきました。多数の者が広い部屋に同居して、寝床も四本の柱に布で作ったハンモックが上下3段に吊ってあるだけで、高橋ら3人もそこに寝ました。朝飯などは大きなブリキの桶に入れて清国人と一緒に食わされるという風でしいた。便所は外輪車の上の床に四斗樽のような桶が3~4個並んでおり、その上に板が渡してあって、それを跨いで大小便をするのでした。とても堪らんので高橋は上等の客が食堂に出ている間にこっそり上等便所に入ることを覚えました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-7

 伊東は浴衣がけで酒ばかり飲んでいました。「君は飲めるか」と訊くので高橋は「うん飲める」といって、共に盃を傾けました。船に乗るときに富田から高橋と鈴木に小遣いとして20ドル金貨を1枚ずつくれたので、3度に1度は自分の金で買って飲み、それがなくなると、酒を飲まない鈴木の金貨まで取り上げて飲んでしまったのでした。

  同年8月18日午前11時桑港に到着しました。富田らはただちに出迎えの馬車に乗って桑港一流のホテル「リックハウス」に行ってしまいました。高橋らは以前仙台藩を脱走同様にして修業にきている一条十次郎、越前藩の窪村純雄のいずれかが迎えに来て、その案内で「ヴァンリード」の家に行くことになっていました。ところがその迎えがきていないので、伊東が『自分は「シティカレッジ」にいる金子という人に紹介状を持って来たので、これからその人を訪ねようと思う。君も一緒にきて通弁してくれないか』というので伊東と高橋二人は歩きだしました。伊東は羅紗(らしゃ)に金ボタンのついた鹿児島あたりの軍人服だったのでしょうが、高橋は例の綿ゴロのフロックコートに、船の中でよれよれになって膝まで縮み上がった白金巾の洋袴をつけ、婦人靴を履いていたので、傍らの目には可笑しかったでしょう。

 やっとのことで行きついてみると、学校は暑中休暇で金子は不在とのこと、港へ帰ろうとしたのですが、帰り路が分からなくなっていました。彼等の乗って来た船が桑港の湾内に入ると、なぜか檣頭高く日の丸の旗を掲げたのを思い出し、高い所に上がって海の方を眺め、日の丸の船の方向に帰ることでようやく港に帰ることができました。

 船へ帰るとまもなく迎えの人がやってきました。伊東の迎えには鹿児島の谷本という人、また高橋らの方には一条がやってきて、ここで伊東とわかれ、高橋らはひとまず一条の所におちつくことになりました。

 翌日高橋らは「リックハウス」の富田鉄之助らを訪問すると、富田は高橋に「君はこの船で帰れッ」と大変な権幕で叱りつけました。高橋が船の中で酒を飲み、おまけに鈴木の金まで飲んでしまったことをチャンと知っていたのです。一条が、これから十分に監督をして、決して乱暴なことはさせぬからと頼み込んだのですが、容易にお詫びがかなわず、3日間も通ってようやく勘気が解けました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-8

 ヴァンリードの家に行くと、大変喜んでくれて、お前たちの部屋はここだといって台所の向うにある離れ間に案内してくれました。食物も当たり前のものを食わされたのですが、それがだんだんと悪くなってどう見ても老人夫婦の食い残しとしか思えないものばかりとなりました。煮焚き料理の手伝いから、部屋の掃除や走り使いまでさせられます。

 日中学校に行けぬのは勿論、家に居ても勉強などはとてもできません。このように事情があまりに最初の予想を裏切っているので、高橋は憤慨してこう約束が違う以上、俺は働かないといって、何を命ぜられても云うことを聞きませんでしたが、鈴木はおとなしいので、いやいやながら働いていました。

 そのうちに妻君は、ある日のこと、オークランドに自分の知り合いで、大変大きな金持ちがいる、そこへ行くから一緒にこないかと云いました。高橋はこんな所とは異った所が見られると思って、喜んでお伴しました。

 我々が降りたステーションというのはほんの名ばかりで、雨降りのために、5間に1間半ほどの屋根がある程度、腰掛けもありませんでした。金持ちの家というのは川沿いの風景のよい所にあり、屋敷も大きく、畑や庭も広くて牛や馬も飼っていました。

 そこは若い夫婦きりで、それに西洋人と清国人の召使が一人ずつ居ました。両親と其の他の兄弟たちはワシントンにいっているということでした。

 ヴァンリード夫妻が高橋にあすこはすきかと訊くので、彼は大変好い所だと答えると、「それではあそこにいかないか。あの若夫婦は大変親切で、若主人は桑港の銀行員だから毎日桑港に通っている。それで昼は暇だから奥さんが学問を教えてくれる。」と言うので「それなら行ってもよい」と同意しました。

 するとヴァンリードは高橋と一条に自分の役所まで来てくれと云いました。ヴァンリードは公証人で、役所とは公証人役場のことだったのです。行ってみると例のオークランドの若主人も来て居て、やがてヴァンリードは1枚の書類を一条に渡して、二人にサインしろと云いました。一条はそれを見ていましたが、フランス語から英語に移って間もないころであり、何が書いてあるのかさっぱりわかりません。ヴァンリードの話によれば、要するにオークランドのブラウンという家に住み込むこと、そこへ行ったら学問も出来るということだけは分かりました。高橋は喜び勇んでその書類に署名しました。

 何しろ人の言うことなどにはチットも疑いをもたない年ごろではあるし、それに学問のことなんかも一向分からぬ、一条が書類を見て「何だかお前があっちに行ってしまう、なんでも3年ということが書いてある」というけれども、さらに疑いは起こしませんでした。大威張りで家に帰り、鈴木を羨ましがらせました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-9

 書類に署名した翌日かにいよいよオークランドへ引っ越すことになりました。荷物も無く裸一貫でオークランドの渡し場に行ってみると、若主人のブラウンが迎えに来ておりました。

霧の町・サンフランシスコ全景

 若主人のブラウンは毎日早朝桑港へ行き、夕方にならないと帰りません。その間若い妻君はピアノを弾いたり読書したり、また暇があれば、高橋に「スペンセリアン」の英習字を教えたり、読本を復習(さら)えたりして彼を可愛がってくれました。

 この家には清国人のコックとアイルランド人の夫婦がいて、清国人は料理の合間に洗濯や薪割りをやり、アイルランド人は2頭の馬と2頭の乳牛の世話と畑の手入れを受け持っていました。

 妻君に子供が生まれた後、清国人は解雇され、妻君が直接料理を担当するようになると、高橋に料理を覚えろと云い、ランプや部屋の掃除、窓硝子拭きまでやらなければならなくなりました。さらに若主人とアイルランド人との間に争いが起こり、アイルランド人夫妻はこのブラウン家を去ってしまったため、若主人は高橋に馬と牛の世話を命じました。

 高橋は横浜の「金の柱」で馬丁と一緒にいたので馬の扱い方は知っていました。それで馬の乗ってよければ世話をしましょうと答えました。

 彼は毎朝早く起きて馬と牛を小舎から引き出し、畑に連れて行き、草のあるところに杭を打って4、5間くらいの綱でつないでおけば、その範囲の草を自由に食べています。手入れでは刷毛で擦ってやると牛も馬も従順(おとな)しくいうことを聞きました。夕方になると小舎に入れて食事を与えます。 ただ乳牛の乳しぼりはうまくいかず、閉口して情けない思いをしました。

 その中に一旦解雇した清国人を再び呼び戻し、乳搾りと料理や洗濯の仕事をやり、従来アイルランド人がやっていた牛馬の世話と畑の手入れ、それに薪を鋸で挽くことが高橋の仕事として廻ってきました。そして高橋の挽いた薪材を割ることは清国人の分担ということに決まりました。

 こうして1週間のうち6日間はこんな仕事を繰り返し、日曜日になると馬に乗って広い野原を飛び回りました。

  ブラウン家から3里ほど離れた所にカピテン・ロッジャーという金持ちがいてブラウン家とは親しく交際していました。ある日ロッジャー家の娘さんが来て高橋に「今度私の家へお前の国の(関口)保兵衛という人が来て、大変よく働いてくれるが、言葉がさっぱり解らない。お前時々来て通弁をしてもらいたい」と云います。高橋は日曜日が来ると早速馬を飛ばして行きました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-10

 ある日曜日の朝例の如くでかけようとしましたが、清国人がその日に限ってなぜか牛の乳しぼりをやってくれないので、まだ乳を搾らぬうちに牛を遠くの方に繋いで、そのままロッジャー家へと行ってしまいました。その日の夕方になって帰るとブラウン家の妻君から、これからあんなことをしてはいかぬと優しく注意され、その晩はそれで済みました。

 しかし翌朝高橋は清国人と喧嘩になり、カッとなった高橋は逃げる清国人に鉞をなげつけ、祖母から贈られた短刀をポケットに入れました。清国人も用心して小さな斧をポケットに潜ませ、かくして両者の間に殺気がみなぎったのでした。

 夕方主人が帰って来て夕飯を済ませ夫婦が話している所へいきなり出掛けて行って、高橋は「私が清国人を殺すとドウなるでしょう」と訊きました。すると主人は妙な顔をして、「人を殺せば御前も殺される。なぜそんなことをいうか」と訊き返しました。

 そこでことの経過を話すと、主人は「そのことは自分も聞いている。だが御前も悪いのだ」と高橋をたしなめました。

 高橋はこの主人の言には少なからず不満でした。翌日夕方主人が帰ると、高橋は「暇を下さい。私はあんな奴と一緒にいるのは嫌です。」と申し出ました。すると主人は「御前は勝手に暇をとって帰るわけにはいかぬ。お前の身体は3年間は金を出して買ってあるのだ。現に御前は友人とともに書類にサインまでしたではないか」といいます。 

 高橋は驚きました。あの時署名したのは身売りの契約書だったのか。なんとかしてこここを逃げ出さにゃならぬと思って、主人に「そんなら一日だけ暇を下さい、明日桑港へいって友人と相談してくるから」というと、主人は「生意気ナッ」とといっていきなり高橋の頬を殴りました。

 翌日高橋は桑港に行って一条にこのことを話しました。一条も困惑して「困ったナァ」を連発するばかりでした。高橋は「俺はモウ帰らずにいようと思うがドウだ」と云うと、一条は「そりゃいけない、そんなことすりゃみんなお前が悪いことになる。マァも少し辛抱しろ。俺が何とか話をつける」と止めるので、ウンと乱暴して呆れ返らせ、向うから暇を出させるようにしてやろうと、それから毎日手当たり次第にランプや皿を打ちこわしました。ところが一向にききめがなく、主人も妻君もそれをみながら怒りもしません。これには高橋も当惑しました。

 そのうちにワシントンにいたブラウンの父親ジョン・ロース・ブラウンが清国駐在公使に任命され、大勢の家族や召使を連れてオークランドの邸へ帰ってきました。その中には7歳から11~2歳くらいの子供も2~3人いて、女中たちが帰って来たので、部屋やランプの掃除をしてくれるようになり、牛や馬もいなくなって、高橋の仕事は暇になりました。高橋少年も数え年の15歳くらいだったので、子供たちと仲よしになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

日文研データベースー洋妾とその子

 

 

 

 

 

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

1. はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

 高校程度の日本史学習から、さらに専門的な学習への橋渡しになるような史料ならびにインターネット上の映像などを紹介することでした。

 

2.ブログ名の由来を教えて!

 ブログ名「sarushibai s blogの「sarushibai」は、私のハンドルネームでもありますが、他人が真似できないようなものにしようと、苦心してつけました。

 

3.自分のブログで一番オススメの記事

犬養道子「花々と星々と」を読むをおすすめします。

 

4.はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

 はてなブログを書き始めて、約10カ月にしかなりませんので、はてなの内容の理解が不十分ですが、できるだけ、多くのブロガーとお知り合い

になりたいと期待しています。

 

5.はてなブログに一言

 ヘルプの内容に難解な用語が多く、理解できない個所があります。

もうすこし平易な記述にしてください。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む11~20

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む11

 第二点に我が憲法上、天皇の統治の大権は万能無制限の権力であるや否や、此点に付きましても我が国体を論じまする者は、動もすれば絶対無制限なる万能の権力が 天皇に属していることが我が国体の存する所であると言う者があるのでありまするが、私は之を以て我が国体の認識に於て大いなる誤であると信じて居るものであります。君主が万能の権力を有すると云うようなのは、是は純然たる西洋の思想である。「ローマ」法や、十七八世紀の「フランス」などの思想でありまして、我が歴史上に於きましては、如何なる時代に於ても、天皇の無制限なる万能の権力を以て臣民に命令し給うと云うようなことは曾て無かつたことであります。天の下しろしめすと云うことは、決して無限の権力を行わせられるといふ意味ではありませぬ。憲法の上諭の中には「朕が親愛する所の臣民は即ち朕が祖宗の恵撫慈養したまいし所の臣民なるを念い」云々と仰せられて居ります。即ち歴代天皇の臣民に対する関係を「恵撫慈養」と云う言葉を以て御示しになつて居るのであります。それは無制限なる権力を振り廻すと云うような思想とは全く正反対であります。況や憲法第四条には「天皇は国の元首にして統治権ヲを総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」と明言されて居ります。又憲法の上諭の中にも、「朕及朕が子孫は将来此の憲法の条章に循い之を行うことを愆(あやま)らざるべし」と仰せられて居りまして、天皇の統治の大権が憲法の規定に従つて行わせられなければならないものであると云うことは明々白々疑を容るべき余地もないのであります。天皇帝国議会に対する関係に於きましても、亦憲法の条規に従つて行わせらるべきことは申す迄もありませぬ。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む12

 菊池男爵は恰も私の著書の中に、議会が全然 天皇の命令に服従しないものであると述べて居るかの如くに論ぜられまして、若しそうとすれば解散の命があつても、それに拘らず会議を開くことが出来ることになると云うような議論をせられて居るのでありまするが、それも同君が曾て私の書物を通読せられないか、又は読んでも之を理解せられない明白な証拠であります。議会が天皇の大命に依つて召集せられ、又開会、閉会、停会及衆義院の解散を命ぜられることは、憲法第七条に明に規定して居る所でありまして、又私の書物の中にも縷々説明して居る所であります。私の申して居りまするのは唯是等憲法又は法律に定つて居りまする事柄を除いて、それ以外に於て即ち憲法の条規に基かないで、天皇が議会に命令し給うことはないと言つて居るのであります。議会が原則として 天皇の命令に服するものでないと言つて居りまするのは其の意味でありまして、「原則として」と申すのは、特定の定めあるものを除いてと云ふ意味であることは言う迄もないのであります。

 詳しく申せば議会が立法又は予算に協賛し、緊急勅令其の他を承諾し又は上奏及建議を為し、質問に依つて政府の弁明を求むるのは、何れも議会の自己の独立の意見に依つて為すものであつて、勅命を奉じて、勅命に従つて之を為すものではないと言うのであります。一例を立法の協賛に取りまするならば、法律案は或は政府から提出され、或は議院から提出するものもありまするが、議院提出案に付きましては固より君命を奉じて協賛するものでないことは言う迄もないことであります。政府提出案に付きましても、議会は自己の独立の意見に依つて之を可決すると否決するとの自由を持つて居ることは、誰も疑わない所であろうと思ひます。若し議会が陛下の命令を受けて、其の命令の儘可決しなければならぬもので、之を修正し又は否決する自由がないと致しますれば、それは協賛とは言われ得ないものであり、議会制度設置の目的は全く失われてしまう外はないのであります。それであるからこそ憲法第六十六条には、皇室経費に付きまして特に議会の協賛を要せずと明言せられて居るのであります。それとも菊池男爵は議会に於て政府提出の法律案を否決し、其協賛を拒んだ場合には、議会は違勅の責を負わなければならぬものと考えておいでなのでありましょううか。上奏、建議、質問等に至りましては、君命に従つて之を為すものでないことは固より言う迄もありませぬ。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む13

菊池男爵は其御演説の中に、陛下の御信任に依つて大政輔弼の重責に当つて居られまする国務大臣に対して、現内閣は儀表たるに足らない内閣であると判決を下すより外はないと言われまするし、又 陛下の至高顧問府たる枢密院議長に対しても、極端な悪言を放たれて居ります。それは畏くも陛下の御任命が其の人を得て居らないと云うことに外ならないのであります。若し議会の独立性を否定いたしまして、議会は一に勅命に従つて其の権能を行うものとしまするならば、 陛下の御信任遊ばされて居ります是等の重臣に対し、如何にして斯の如き非難の言を吐くことが許され得るでありましょうか。それは議会の独立性を前提としてのみ説明し得らるる所であります。

或は又私が、議会は国民代表の機関であつて、天皇の機関ではなく、天皇から権限を与えられたものではないと言つて居るのに対して、甚しい非難を加へて居るものもあります。

併し議会が 天皇の御任命に係る官府ではなく、国民代表の機関として設けられて居ることは一般に疑われない所であり、それが議会が旧制度の元老院や今日の枢密院と、法律上の地位を異にする所以であります。元老院枢密院は、 天皇の官吏から成立つて居るもので、元老院議官と云い、枢密顧問官と云うのでありまして官と云う文字は 天皇の機関たることを示す文字であります。天皇が之を御任命遊ばされまするのは、即ちそれに其権限を授与せらるる行為であります。帝国議会を構成しまするものは之に反して、議員と申し議官とは申しませぬ。それは 天皇の機関として設けられて居るものでない証拠であります。再び憲法義解を引用いたしますると、第三十三条の註には「貴族院は貴紳を集め衆議院は庶民に選ぶ両院合同して一の帝国議会を成立し以て全国の公議を代表す」とありまして、即ち全国の公議を代表する為に設けられて居るものであることは憲法義解に於ても明に認めて居る所であります。それが元老院枢密院のような 天皇の機関と区別せられねばならぬことは明白であろうと思います。

以上述べましたことは憲法学に於て極めて平凡な真理でありまして、学者の普通に認めている所であり、又近頃に至って初めて私の唱え出したものではなく、三十年来既に主張し来つたものであります。今に至つて斯の如き非難が本議場に現われると云うようなことは、私の思も依らなかつた所であります。今日此席上に於て斯の如き憲法の講釈めいたことを申しますのは甚だ恐縮でありますが、是も万己むを得ないものと御諒察を願ひます。私の切に希望いたしまするのは、若し私の学説に付て批評せられまするならば、処々から拾ひ集めた断片的な片言隻句を捉えて徒に讒誣中傷の言を放たれるのではなく、真に私の著書の全体を通読して、前後の脈絡を明にし、真の意味を理解して然る後に批評せられたいことであります。之を以て弁明の辞と致します。」

 この一身上の弁明について、美濃部亮吉は次のように述べています。「私も、父のこの弁明の演説をききに行った。貴族院議席も傍聴席も超満員だった。     

 父は東大の講義の時とはちがい、前夜おそくまでかかって作った原稿を手に、二時間に及ぶ弁明の演説を行った。それは、やや学者風にすぎ、大学における講義じみてはいたが、なかなか迫力のある名演説であった。

 貴族院では、壇上で行われる演説には、一切拍手をしないのを原則としていた。しかし、父の演説に対しては、少数ではあるが拍手が起った。拍手をしたのは9人だったとも3、4人だったともいわれている。元の東大総長小野塚喜平次(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造4参照)先生、物理学者の田中館愛橘(たなかだてあいきつ)博士等が拍手したということである。小野塚先生は、この時父の演説に拍手を送ったというので、右翼団体ににらまれ、一時は護衛までつく騒ぎだった。」(美濃部亮吉「前掲書」)

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー田中館愛橘

 菊池武夫は美濃部の弁明演説を聴いて、「そうか。それならよろし」と呟いたといわれていますが、美濃部の演説のあと、議席からこう述べています。

 「午前、美濃部議員から一身上のご弁明がございましたが、私は殊更に美濃部議員を罵詈(ばり)いたすことを目的として申しあげたものではございませぬ。あのご本を全部通覧いたしまして今日のご説明のように感ぜられまするならば、何も問題にならぬのでございます。一身上の弁明に事を藉(か)りまして、互に討論に陥るやの感もございますので、発言をいたさぬことにいたしたいと思います」しかし菊池は美濃部の弁明演説を聞いたときの感想を後に撤回しました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 14

 岡田啓介首相は大要「美濃部学説は法律学説として久しい間に亘(わた)って唱えられ、幾多の論議を重ねられた問題だが、これが国民道徳上に悪影響を及ぼし、または不敬に亘るものとした場合、何らかの処置を要するについては慎重な考慮をする考えである」という内容の答弁をしました。

 菊池が軍部大臣の意見をただすと、陸海軍大臣天皇機関説に反対である旨の答弁がありました

 右翼団体貴族院の美濃部追求に呼応して「機関説撲滅同盟」を結成、その理論的中心は蓑田胸喜一派でした。

Weblio辞書―検索―蓑田胸喜(みのだむねき)

 第六十七議会における貴族院天皇機関説排撃運動は衆議院にも反映、政友会の山本悌二郎が美濃部学説を攻撃するに至りました。

 同年3月20日、貴族院は「政教刷新に関する建議」を満場一致可決、衆議院も同月22日、政友会、民政党、国民党3派の共同提出による「国体明徴に関する決議案」を満場一で可決しました。

 天皇機関説はついに政治問題化したのです。軍部がそのファッショ的権力を推し進めるために、同調者をして機関説を攻撃させていることとは離れて、政友会は単純にも岡田内閣打倒のために機関説を攻撃したのであります。政友会はただ眼先の獲物を追って、政党政治を自滅させるのです。これら右翼の政府攻撃は平沼の陰謀でもありました。

  当時政友会は野党でありながら絶対多数を擁していました。彼らは何とかして政権を握ろうとあせっていました。それには床次竹二郎らが脱党して入閣したこと、宿敵の民政党が与党の立場だったことなどに反発があったからでもありますが、内相に後藤文夫(内務官僚出身)がいて、岡田内閣が実質的に官僚内閣の性格を帯びていたことにもよるのでした。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む15

 軍部は機関説問題で岡田内閣を批判しはじめました。とくに陸軍内部ではその派閥争いにからんで、荒木貞夫(「花々と星々と」を読む35参照)陸相、真崎甚三郎教育総監などの皇道派が激しく機関説を攻撃しました。

Weblio辞書―検索―統制派―皇道派―真崎甚三郎―教育総監(部)

  政友会は軍部右翼の機関説攻撃を利用して岡田追い落としにかかり、美濃部と同様に機関説を奉じる枢密院議長一木喜徳郎(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)や法制局長官金森徳次郎をやめさせようとしました。

 平沼は裏で政友会と手を握り、一木を追い出して枢府議長の椅子を狙い、宮中勢力の一角を握ろうとしていました。

 政府としては機関説を処分すれば、一木、金森にまで追及の手が伸びるので、それを防ぐ唯一の方法は、美濃部に機関説の誤りを認めさせ、謹慎の意を表して公職を辞めさせるにあったのです。

 また美濃部の実兄俊吉(元朝鮮銀行総裁)も政府筋から弟の説得を頼まれて動いています(原田熊雄述「西園寺公と政局」第4巻 岩波書店)。

 「四面楚歌のなかにあって、父は一歩も退(ひ)かなかった。自分の憲法学説の正しいことを飽くまでも確信し、少しの疑いもさしはさまなかった。自分の学説の誤りを認めたり、公職を辞するなど思いもよらないことであった。父は、政府側からくるあらゆる勧奨をはねつけた。」(美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」文芸春秋

 同年2月28日代議士江藤源九郎は東京地検の岩村検事正を訪ね、美濃部を不敬罪(「蟹工船」を読む22参照)として告発しました。これは美濃部の憲法精義には国務に関する詔勅を批判するも憲法上差支えなしとしていることがその理由の中心となっていました。

 同年4月4日真崎甚三郎教育総監は機関説が国体に反する旨部内訓示しました。次いで4月10日松田文相は各学校に対して国体明徴に関する訓示を発し、4月13日南関東軍司令官は関東軍に国体観念明徴に関しての訓示を発しました。民間右翼の諸団体もこれに呼応して動いたのです。

 では天皇機関説が宮中方面ではどのように受け取られていたのでしょうか。当時の侍従武官長本庄繁陸軍大将の日記「本庄日記」(明治百年史叢書 原書房)によって読者は天皇がすぐれた判断の持主であったことを知るでしょう。

 「四月八日午後二時、御召しがあった。

 この日上聞に達した真崎教育総監の機関説に関する訓示なるものは『自分の同意を得たという意味であるか』との御下問があったので、決して左様なことはなく、これは全く総監の職責上出したものだが、こと重要であるため、報告の意味で上聞に達したものでございます、と奉答した。同九日午後三時半御召しがあり、『教育総監の訓示を見るに、天皇は国家統治の主体なりと説いてある。国家統治の主体といえば、すなわち、国家を法人と認めて、その国家を組織する或る部分ということに帰着する。しからば、いわゆる天皇機関説と用語こそ異なれ、論解の根本に至っては何ら異るところはない。ただ機関の文字が適当でなく、むしろ器官の文字が近いのではないか。また右の教育総監の訓示の中には「国家を以て統治の主体となし、天皇を以て国家の機関となす」の説を反駁しているが、これも根本的においては天皇を以て国家統治の主体というのと大同小異である。しかるに、これを排撃するの一方において天皇を以て国家統治の主体というのは自家撞着(じかどうちゃく ある人の言動が前後で食い違い、つじつまがあわないこと)である。

美濃部らの云う詔勅を論評し云々とか、議会は天皇の命といえどもこれに従うを要せずというが如き、また「機関」なる文字そのものが穏当でないだけである。』と仰せられた。」(「本庄日記」昭和十年四月八日 松本清張現代語訳 以下同文)

「美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部は決して不忠の者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が、一体何人日本におるか」(鈴木貫太郎侍従長の伝える天皇の発言 原田熊雄述「西園寺公と政局」第4巻 岩波書店

このように天皇天皇機関説を基本的に支持していたことが分かります。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む16

「翌(四月)二十五日、林陸相、真崎教育総監と別室に会し、陛下の思召しを語り、学説までも深入(り)する考(え)ならば、各自が直接内奏なされたい旨を述べた。これに対し、林、真崎両人とも、機関説の思想を排撃することが主体で、敢て学説を論議するものではないが故に、武官長(本庄)よりこの旨を奏上してくれ、とのことで別れた。」(「本庄日記」同上年四月二十五日)

「五月二十二日、この日午前陛下は出光海軍武官(侍従武官)を召され、海軍の天皇機関説に関する意向を聞かれた上で、「軍部が自分の意に従わずして天皇主権説を云うのは矛盾ではないか」との御下問があった。これに対して出光(万平)武官(海軍少将)は次のように奉答した由の報告をうけた。

―そのときどきの御事務について大御心に添わないようなことがあっても、それを天皇主権の事実に添わずとせられ、ひいて重大なる国体に関する解説を云々せられんとするのは本末を誤るものと拝察します。陛下はしばらく臣下の論議を高処より静視遊ばされ、これらの説に超越して大観あらせらるるがよいかと存じます。(「本庄日記」同上年五月二十二日)

Weblio辞書―検索―本庄繁

 出光海軍武官は天皇に、万事われわれに任して下さい、あなたは黙っていらっしゃい、、といったのであります。「事務上」という言葉をつかっていますが、これは方便で、軍部の全行動のことであるのはいうまでもありません。

伊藤博文明治憲法を作るときに、、天皇の大権を国務大臣が輔弼(ほひつ)するという道をつくりました。かたちの上では天皇の執政権を臣下が輔佐し、その命を受けて政務の代行をするというのですが、、その責任はすべて輔弼の臣が負うことにしました。

 たとえば、明治のドイツ人医師「ベルツの日記」(明治33年5月9日 東京 岩波文庫・「大山巌」を読む21参照)には次の記載があります。

 「伊藤(博文)のいわく『皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところでっ礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば側近者の吹く笛に踊らされねばならない』と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである。」

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む17

  美濃部が東京地方検事局に初めて召喚されて出頭したのは同年4月7日でした。

 当時美濃部を取り調べた主任検事戸沢重雄に尾崎士郎は直接取材して「小説 天皇機関説」(「長編小説全集5 尾崎士郎篇 新潮社)を書きました。(松本清張が)戸沢に問い合わせると、美濃部訊問の経緯は、尾崎の同上小説にすべて誤りなく出ているから、あれで間違いないということでありました。

Weblio辞書―検索―尾崎士郎

 戸沢検事にとって美濃部は恩師でした。普通裁判用語としては被告を呼ぶのに「おまえ」というならわしになっているが、戸沢はさすがに美濃部を「おまえ」とは呼べませんでした。いろいろ考えた末、結局「博士」ということに落ちついたのです。

 美濃部の第1回取調べが済むと、検察首脳部では前日作成の美濃部聴取書を検討し、再喚問の必要はないと声明しました。この時点では検事局側は問題の詔勅批判(家永三郎美濃部達吉の思想史的研究」第一章三、四 岩波書店)の一部を訂正(教育勅語を批判の対象から除外)しているので、その著書「憲法撮要」「逐条憲法精義」「「日本憲法の基本主義」の3著を発禁の行政処分にすることで事を収めようとしていたのです。

 小原法相らは美濃部が「憲法撮要」「逐条憲法精義」の2著書を、すすんで絶版とすると再声明することで不起訴にしたい考えでした。

  ところが美濃部は取調べが終わって小石川竹早町の自宅に帰ると、そこに待ち受けていた新聞記者に、その感想を次のように語りました。

「自分の著書については、かねて前から字句の訂正を加えたいと考えていたのだが、政府が希望するところとはなお隔たりがあるようだ。自分は何も間違ったことを言っているのでもないから、学説を変えるなどということは絶対にあり得ない。」当時他の学者で美濃部に援助を申し出る者は一人もいませんでした。

美濃部が新聞記者に語った感想は軍部を憤慨させ、美濃部を早く起訴しろと司法当局に迫りました。また右翼や在郷軍人会は美濃部を葬れといいう声を大にし、美濃部の家には脅迫電話や投書が殺到しました。

このような情勢の中で、政府(岡田啓介内閣)は、一木喜徳郎や金森徳次郎に疵がつかず、内閣の存立を守るためには、美濃部がすすんでその憲法理論の誤りを認める声明を出し、謹慎の意を表すること、具体的にはには貴族院議員の辞任を望むほかはありませんでした。

美濃部はこのような圧力をなかなか承認しようとはしなかったのですが、彼に対する貴族院議員辞職の勧告はあらゆる方面からなされました。9月に入って美濃部は松本蒸治の説得により公職を辞退する決意を固めました。それは松本が司法省の友人であった中島次官、大森民事局長から、詔勅批判の件で美濃部を起訴せざるを得ないが、美濃部が公職を辞退するなら起訴猶予とするから、何とか辞職の方向にすすめてくれ、とたのまれたためでありました。

「九月九日の夜のことだったと覚えている。(中略)父は案外あっさりと松本博士のすすめに従った。(中略)隣りに住んでいた私も呼ばれ、『亮吉、貴族院をやめることにしたよ』と笑いながら言った。(中略)しかし、父はあくまで、辞職したから起訴猶予になったという形をとりたくない、起訴猶予になってから、世間を騒がして相すまなかったということで公職を辞退することにしたいと主張した。そして父のいい分が通った」(美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」)

 美濃部は公職を辞退するつもりであると述べたので、9月19日、美濃部に起訴猶予の内定がなされました。起訴猶予といっても、美濃部の著書が出版法に抵触しているので、有罪とされたのです。美濃部はこの決定が公表される同月21日貴族院議員辞職を声明しました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む18

 ところが、同じ日、美濃部はその声明を記者団に次ぎのように発表しました。

 「私がひきつづき在職していることはますます貴族院の空気を混乱させるおそれがあると考えたので、私は職を退くのが至当であると思ったのである。もし当時すぐに辞職を申し出たとすれば、私が自ら自分の学説の非なることを認めたものであり、起訴を免れるために公職を辞したものと解せられることは必然であって、それは私の学問的生命を自ら放棄し、醜名を千載に残すものと考えるし、一方には、私自身としては私の著書が法律にふれるとは夢にも思わないが、もし検察当局の意見として法律に背くものと認めらるるとならば、いさぎよく法の裁きを受け、万一有罪と決するならば、甘んじて刑に服するのが私として当然とるべき態度であろうと思ったので、今日までその決心を実行することを差控えていた次第である。

 くれぐれも申し上げるが、それは私の学説を翻すとか、自分の著書の間違っていたことを認めるとかいう問題ではなく、ただ私が議員としての職分を尽すことが甚だ困難となったことを深く感じたためにほかならない。」

 美濃部のこに声明文は、またもや軍部や右翼を刺戟しました。司法省はまたもや困惑し、美濃部に対して、その声明文を取消さない限り、起訴猶予を取消すと迫ったので美濃部も「さきの談話は自分の真意に副わないものだから、これを取消す」と再声明せざるを得ませんでした。

 一方軍の内部にも重大な変化が起っていました。同年7月には真崎甚三郎教育総監が無理矢理に更迭させられました。真崎は機関説排撃の先頭にたつ皇道派の中心人物で、真崎更迭は軍内部の統制派と皇道派の抗争のあらわれであり、真崎罷免を激怒した相沢三郎中佐は8月12日白昼、統制派の実力者永田鉄山(陸軍少将)軍務局長を陸軍省内の局長室で刺殺しました。

クリック20世紀―年表ファイルー1935/8/12 相沢事件

 このような事件は美濃部問題とは直接つながらないが、軍部を狂的にファッショ化する契機となりました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む19

 美濃部は貴族院議員を辞職して以来、新築の吉祥寺の自宅に引込みました。当時、この界隈はまだひらけていず、檪(くぬぎ)林の武蔵野がそのまま残っていました。

 そうした隠退生活に入った美濃部のもとには、依然として右翼からの脅迫状が絶えなかったのです。彼の親友たちは彼の身辺を気づかい、また警察でも常時自宅の周囲に護衛の警官を配置していました。

1936(昭和11)年2月20日第19回総選挙があり、天皇機関説をもっとも攻撃していた政友会は惨敗、鈴木喜三郎政友会総裁は落選、その反面機関説に消極的だった民政党が進出し、無産政党も5名から21名に躍進しました。国民は軍部ファッショが戦争を誘発する危機を感じとっていたのでしょう。

 総選挙の結果が新聞に発表された同月21日の午前8時過ぎに自動車が美濃部宅に着き、黒い木綿の着物と同じ羽織を着て袴をはいた30前後の男が果物籠を提げて降りました。

 ちょうど、その時、護衛の警官たちは裏の檪林に雉を見つけたというので、そっちのほうにまわっていました。門前に残っていたのは磯山という若い巡査だけでした。彼は客を格別不審に思わず、客が玄関のベルを押すのを見送りました。

 玄関にでた夫人に「福岡市天神町、元判事弁護士 小田俊雄」の名刺を差し出し、自分はかつて東大法科に学び、先生の講義を受けた者であるが、上京を機会にぜひ先生の謦咳(けいがい)に接したい、といいました。

鐘華会ホームページー高砂支部―高砂文庫―吉田登 美濃部達吉の妻多美

について

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む20(最終回)

その名刺を見た美濃部は、数多い教え子の一人であろうと思い、応接間に通しました。その男はもっていた果物籠を美濃部に差出すのではなく、自分の横にぴったりと置いていました。

 小田弁護士と称する男は、時局問題などについて美濃部にいろいうろ質問しましたが、その眼つきの少しく鋭いことを除けば、者柔かくて静かでした。話は2時間近くもかかりましたが、最後に小田は果物籠からたたんだ奉書のような紙を差出しました。

 美濃部が何気なく披いてみると、いきなり「天誅(てんちゅう)」という大きな字がありました。つづいて、「逆徒美濃部達吉、皇国に生を享け、皇恩の無窮一門一統に及び、身は社会の上流に位し、飢餓を知らず、旦(あした)霜を踏みて田を耕する労苦を知らず、夕(ゆうべ)にー」とか「「皇国に弓を引き、臣民の大義を忘れ、汝堂々天皇は国家の統治の機関なりと主張し、その不臣たる観念たるや逆徒足利尊氏にまさりー」とか「汝を誅し大義名分を正す」といった文字が走り読みする彼の眼に飛び込みましだ。

 おどろいた美濃部はすぐに立ち上がり、帰りなさい、といいました。小田の手には再び果物籠の中に突っこまれました。美濃部が見たのは、その手に黒く光る拳銃でした。

 美濃部は跣足のまま玄関から外に走り出しました。男はあとから追い、一発を放ちました。これは美濃部の右足に当りました。結局兇漢を取押さえたのは磯山巡査でした。

 この事件は外部を刺戟することをはばかって、当局は新聞記事の掲載を禁止しました。美濃部は即日自動車で大学病院に送られ、脚の銃弾を抜き取る手術を受けたのですが、その入院は外部に絶対秘密とされ、病室も小児科の伝染病室でした。

 それから5日たった26日の早朝、美濃部宅と病院に警視庁から電話がかかって「いま陸軍の部隊が首相官邸はじめ、ほうぼうを襲撃しているが、その一部はそちらに向うかもしれないので、用心するようにー」と昂奮した様子で告げました。-二・二六事件の発生であったのです(松本清張「前掲書」・第22章 暴力ざた 美濃部に対して 宮沢俊義天皇機関説事件」下 有斐閣)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 1~10

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 1~10

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 1

[美濃部亮吉美濃部達吉の長男、東京教育大教授を経て東京都知事などを歴任)「苦悶するデモクラシー」文芸春秋]は1958(昭和33)年6月号から1959(昭和34)年1月号まで「文芸春秋」に連載したものを1冊にまとめ1959(昭和34)年3月出版したものです。本書はベストセラーとなり、毎日出版文化賞を受賞しました。それは1919(大正8)年から1940(昭和15)年までの間に起った、言論の自由に対する圧迫の個々の事件について具体的に書いたものです。本書は1968(昭和43)年に再版されました。本稿においては、「同上書」第三章だけを、他の記録や資料とともにご紹介するにとどめます。

  美濃部達吉(「男子の本懐」を読む27参照)は、1873(明治6)年5月7日父美濃部秀芳・母悦の次男としてに相生(あいおい)の松で有名な兵庫県高砂で生まれました。

高砂神社―『相生の松』と『尉と姥』―境内案内―五代目相生松

 父秀芳は医者でしたが、あまりはやらず、まちの子供たちに習字や漢学を教えて、主としてその月謝でくらしていたらしく、その生活もあまりゆたかではなかったようです。

ひろかずのブログー高砂市を歩く(41・46)申義堂研究(1・6)

ひろかずのブログー高砂市を歩く(77~79)美濃部達吉①~③

 達吉は子供のころから極端に人付き合いが悪く、鼻も悪くて洟をたらしていたが、神童といわれ、小学校6年の課程をとび抜けて進級、3~4年で終了しました。中学は高砂に近い小野中学校でしたが、その時の様子を知っている人がいないので、よくわかりません。しかい小学校・中学校とも、本にかじりついて、くそ勉強するというたちではなかったようです。

 のちに達吉は兄俊吉とともに地元の金持ちの援助による出世払いの約束で東京に遊学、第一高等学校に入学したときは、一年生のときチフスを患い、一年まるまる休学しましたが、二年への編入試験に及第し、そのまま三学年に入ったのです。亮吉は酒にほろ酔い機嫌の父達吉からよくこの自慢話を聞かされました。

華麗なる旧制高校巡礼―第一高等学校

/ 東大で美濃部は穂積八束(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)の憲法行政法の講義を聞きました。しかし一年おき交替の一木喜徳郎(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)の講義が彼を最も惹きつけたようです。彼の憲法論における天皇機関説は一木の強い影響があります。

 1897(明治30)年東京帝国大学法科大学を卒業したときは二番でした。学校のことは一向に勉強せず、親譲りの酒好きで酒ばかりの呑んでいたためだといわれています(美濃部亮吉「前掲書」)。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 2

 美濃部は大学に残れませんでした。一説によると、穂積八束に敬遠されたためといわれています。美濃部はやむなく内務省に入りましたが、同様の経歴をもつ一木が美濃部に同情したのでしょう。美濃部は間もなく内務省を辞め、帝大に戻って助教授となりました。

 1899(明治32)年、美濃部はヨーロッパに留学、大部分をドイツで暮しましたが、ハイデルベルク大学のイエリネックの学説に傾倒しました。美濃部にはイエリネックの「人権宣言論」の訳業があるほどです。しかしイエリネックの講義をきくことはしなかったようですぅ。

 1902(明治35)年に帰朝した美濃部は帝大法科教授に任命され、翌年、当時文部大臣で数学の菊池大麓の長女民子(多美子 亮吉の母)と結婚しました。仲人は一木喜徳郎でした(美濃部亮吉「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―きー菊池大麓

 大体、明治憲法は、明治十四、五年ころから起った自由民権運動の思潮に押されてつくられた点を考慮にいれなければならなりません。したがって、明治憲法は封建的な専制政治の面と民主主義的な面との二つを持っていました。美濃部の学説は、明治憲法を最大限度に民主主義的に解釈しようとしたものであります。

 明治憲法は、『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』(第一条)とのべ、『天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権を総攬』(第四条)するものと表現しました。そして、さらに、統治権の総攬者である天皇について、まったく反対の性格を持たせる二つの表現を加えました。その一は、第四条の後半で、『此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ』と規定して、天皇専制君主としてかってなまねができないようにした点であります。そして第二は、第三条の『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』という天皇神格化の規定であります。この規定は、絶対君主をまず君主制一般としてとらえ、それを立憲君主的にする条文を加える半面、専制君主ともなしうる条文をもつけ加えておいたわけであります。

 天皇の大権を絶対無制限なものと考えたのは、明治時代、すでに穂積八束の学説があります。これに対して、東京帝国大学教授一木喜徳郎は、天皇の大権は立憲的立場から制限され得るものとしました。この二つの系統は上杉慎吉(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造21参照)と美濃部達吉とにそれぞれ継承されたのです(松本清張天皇機関説」昭和史発掘6 文芸春秋)。

 美濃部学説を、簡単にいうと、国家を主権者のある法人的団体と見なす考え方であります。日本の場合、この法人の主権者は天皇の「大権」で、この大権は天皇が勝手に行使するものではなく、国民の利益の上に立って行使されます。つまり、天皇の独裁の範囲を縮小し、それだけ議会のの権限を拡大するという一種の議会在権的なものでした。

 まず、世間に誤解を与えたのは、天皇機関説の「機関」という名でありました。機関といえば、機関車とか、、自動車のエンジンだとかいった機械のことを思い出します。そこで、万世一系の至尊を、そんな機械になぞらえるとは怪しからんという論が起ってきます。

 だか、美濃部のいう「機関」とはそんな意味ではありません。これについては早稲田大学教授浮田和民の言葉が妥当でしょう。

「美濃部博士が天皇は国家の最高機関なりと言ったので頗る不敬なる用語を為したるものとせられて居るが、学問上の研究に用ゆる言葉には元来不敬の論を挟む可きものではない。それは全く別問題である。機関というに二種の意味がある。一は器械学上の意味で、喞筒(ポンプ)を機関と言い又は蒸気機関というが如き是れである。二つには生物学上の意義で、脳髄や心臓、肺臓などを機関ということがある。此の意義ならば国家学に適用して差支はない。」(「無用なる憲法論」太陽第18巻第14号)

歴史が眠る多摩霊園―著名人―著名人全リストーあーうー浮田和民

 もっとも明治期には天皇の大権をめぐって二つの学説があるということだけで、両者の間に華々しい論争もなかったのです。

  問題の発端は、1912(明治45)年、美濃部達吉が書いた「憲法講話」(明治45年有斐閣刊行の復刻版 ゆまに書房)によって起されました。この著書は、その前年、、文部省の委嘱によって美濃部が中等教員夏季講習会で行った講演の速記を基礎とし、これに手を加えたものです。

 美濃部は「憲法講話」の序文に次のような意味のことを書いています。「憲政の知識が一般に普及していないことはほとんど意外なほどである。専門の学者で憲法のことを論ずる者の間にすら、なお言葉を国体に借りてひたすら専制的な思想を鼓吹し、国民の権利を抑えて、その絶対の服従を要求し、立憲政治の仮装のもとに、その実は専制政治を行おうする主張がしばしば聞かれる。私は憲法の研究に従う一人として、多年この有様を見て嘆き、もし機会があらば、国民教育のために平易に憲法の要領を述べた本を出したいと思っていた。そして、この本では憲法の根本精神を明らかにし、一部の人の間に流布されている変装的専制政治の主張を排することにもっとも努めた」

 こういって、彼は天皇の権力よりも議会の権力を重視しなければならないと主張しました。この序文に書かれた変装的専制政治の主張者とは、暗に穂積八束上杉慎吉を指しているのです。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 3

上杉慎吉は1878(明治11)年の生まれで、1903(明治36)年に東京帝国大学法科大学を卒業しました。彼はすこぶる好男子であったから、まる一年、吉原の花魁(おいらん)に世話されて、毎日遊廓から学校に通いました(根拠のあやしい噂話 第24章 戦後の証言 松本清張 宮沢俊義天皇機関説事件―史料は語るー」下 有斐閣)。それでいて卒業時に彼はちゃんと恩賜の銀時計をもらっています。この年大正デモクラシーの本尊吉野作造(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造参照)は同じく法科大学三年生でした。

YAHOO知恵袋―恩賜の銀時計について

 上杉の才能を見込んだ教授穂積八束は彼を呼んで自分の後継者にあてようとしたが、上杉は自分の放蕩癖を理由に一度は固辞しました。

 卒業と同時に上杉は講師をとび越えて、いきなり法科大学の助教授となったのです。

当時の彼は憲法学説では一木説の「国家法人説」「君主機関説」を信じていました。彼は1906(明治39)年から1909(明治42)年の間ドイツに留学しました。上杉慎吉もイエリネックの家に下宿していたのに、帰国後の上杉は急に国粋的になって、穂積八束憲法説の遵奉者になりました。その動機や理由がよく分かりません。上杉の講義は非常に面白く、奇智に富み、逆説的なことをいうのが得意で、脱線が甚しかったようです。

 上杉慎吉が美濃部の「憲法講話」を最初に非難したのは、ある県の教育会の席上で、なした講演をまとめた『国民教育・帝国憲法講義』という本でした。

 名目は中等学校教師相手の通俗講演だったが、目標は美濃部学説の攻撃であったのです。上杉は次のように美濃部学説を批判しています。

 「民主主義」(当時は反君主制を意味する)とは「人民があってはじめて君主がる」という「革命を意味する危険な思想」であると断じ、「君主ありて人民があり」という「歴史を無視して」君主国を転覆したためにフランス革命は失敗したのだと云いました。

 さらに上杉は、人民の性格は「絶対無制限の服従にある」といい、「国会はただ、天皇が政務を行わるるがために使用せられる所の機関である、事務所である」と規定し、美濃部の「君主は国家の機関であるとみる」説に反対して、「機関と申せば他人の使用人である、他人の手足である」ときめつけました(松本清張天皇機関説」昭和史発掘6 文芸春秋)。

これに対して美濃部達吉は「『帝国憲法講義』を評す」を発表して上杉の非難に答えました。美濃部は「国家は一つの団体であり、その団体自身が統治権の主体であると見るべきことは、今日の進歩したる学者の間には殆ど定説ともいうべきもので、これは君主主義の国たると民主主義の国たるとに少しも関係はない。

 しかるに著者(上杉慎吉)は之を批評して、その説は『やっぱり民主主義であります』と一言にして排斥し去って、読者をして恰もこの説を唱うる者は総て民主主義の人であるかの如く思わしむるのは、人を誣(し)うるの甚しいものである」と反撃しました。

 美濃部のこの反撃に対して、上杉慎吉は、雑誌「太陽」第18巻第8号大正元年8月号)に掲載された「国体に関する異説」という論文で大要つぎのように述べました

 「憲法講話が出ると、世間では美濃部博士と私とを以て好敵手でるという者がある。しかし私は美濃部君と相戦う意志はない。私は君と戦う能力がなく、かつ戦おうと欲するものではない。私は憲法を講ずるのに一生懸命であって、いささかの余裕もないのである。自己の学説は必ずかくのごとくでなければならないと信じている故に私はこれを云っているのである。美濃部博士がもしこの私の論文に対して弁駁を加えることがあっても、私はやはり同じことを繰返すだけであろう。」

 学界のそれまでの評価では、上杉の学力は美濃部のそれに及ばぬものとされていました。美濃部の論理は緻密で、その学問は上杉の神がかり的な直観主義とは対照的でした。ただ、美濃部があまりに学究的なために、人間味の点でははるかに上杉に譲ったということでした。つまり、あんまりおもしろい男ではなかったのです。

 明治の終りから大正の初ににかけて行われた美濃部・上杉の天皇機関説論争は法学界だけの問題で収り、。火の手は学界の垣根をこえて外に燃え移ることなく済みましだ。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 4

 だが、もちろん、支配階級や官僚派は美濃部の勝利に不満でした。当時の検事総長平沼騏一郎(「日本の労働運動」を読む47参照)はこういっています。

 「天皇機関説であるが、当時は誰も怪しまなかった。美濃部は判っていない。西洋流で勝ったにすぎぬ。司法省辺りでも若い者は、美濃部の方が偉いですねという。そこで一体日本の天皇を機関などと言うべきか、以後そんなことは言うなと叱ったことがある。

 あのとき山県(有朋)公は平沼の意見を聞いてこいと、学者を使者によこされた。そこで私は答えた。天皇を機関等と言うのは乱臣賊子だ。

 後にその使者に来た人に会った時、山県公も、平沼の言う通りだと言って居られたと言うことであった。」(平沼騏一郎回顧録編纂委員会「平沼騏一郎回顧録」)

 平沼談話のごとく、この時点では、さすがの山県も自由主義の時勢に押されてか、沈黙せざるをえなかったとみえます。このことは、穂積・上杉のあと、その直系の研究者が出てこなかったためにもよるのでしょう。

 これに反して、美濃部の学説は傍流ながらも若い研究者に影響を与えたため、多くの研究志望者が彼のもとに集りました。上杉の死後、美濃部派が実質的には東大の主流となったようなものです。あとを宮沢俊義が受け継ぐことになりました。

Weblio辞書―検索―宮沢俊義

 1920(大正9)年、美濃部は上杉の憲法講座と並んで憲法第二講座を担当するようになりました。彼は高等文官試験、外交官試験等の委員に選任され、1932(昭和7)年には貴族院議員にも勅選されました[ 1934(昭和9)年3月東大教授を定年退官 ]。このころが美濃部のもっとも恵まれた時代であったのです。

 しかし時代は少しずつ変ってきていました。昭和初年の浜口内閣による緊縮政策が空前の不況を誘い、農村の疲弊、都会の失業者の増加は 民主主義的風潮を根こそぎに国家主義に変えて行く絶好の機会になりました。

 1930(昭和5)年若槻礼次郎が首席全権となってロンドンで開かれた海軍軍縮会議は、ついに英米側の主張に押し切られて、日本は補助艦の比率でも大譲歩しなければなりませんでした。海軍はこれを不満とし、軍令部の承認しない軍事関係の条約は無効だと主張しました。

 浜口内閣は美濃部に意見を求めました。美濃部は憲法理論にもとづいて、海軍の軍縮に関する問題は政治問題であり、軍令部の口を出すべき事柄ではないと答えました。浜口内閣は、こうした美濃部の主張を参考にし、海軍を屈服させたのです。

 海軍は軍令部長加藤寛治を直接天皇に拝謁させ、条約拒絶の意見を述べさせようとしました。これを侍従長鈴木貫太郎が阻止したため、軍令部長の上奏は行われませんでした(鈴木貫太郎伝記編纂委員会「鈴木貫太郎伝」)。しかし、政府が兵力数を決めたのは天皇統帥権に関与したものであるとして、海軍から大権干犯問題(「男子の本懐」を読む27参照)が起されました。美濃部はあくまでも法理論から、条約は内閣で決めるものだといい、浜口首相はその理論通りに主張して、枢密院を屈服させたのです。統帥部は兵力の問題を決めるべきものでないと主張して海軍の恨みを買ったのです。

 1931(昭和6)年に起った満州事変(「男子の本懐」を読む37参照)では、美濃部は陸軍の横暴をたしなめて、陸軍の敵意を買いました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 5

 1932(昭和7)年5.15事件で犬養毅首相が海軍青年将校らに暗殺され(「花々と星々と」を読む39~40参照)、同政友会内閣が倒壊すると、同年5月26日斎藤実(「労働運動二十年」を読む16参照)内閣(政友・民政両党入閣の挙国一致内閣)が成立、政党内閣の慣例に終止符が打たれました。

1934(昭和9)年10月、陸軍省は「国防の本義と其の強化の提唱」というパンフレットを出しました。美濃部は、それまで機会あるごとに時事問題を論じ、軍部を抑えて議会に声援を送っていましたが、彼はこのパンフレットを見てただちに「中央公論」の誌上に筆を執り、「陸軍省発表の国防論を読む」を発表しました。

 美濃部は、その中でこう書いています。「この小冊子をよんで第一に感じられるのは、その全体を通じて好戦的、軍国主義的な思想の傾向が著しく現れていることである。劈頭第一に『たたかいは創造の父、文化の母である』とあって、戦争賛美の文句で始まっている。戦争は創造とは逆にこれを破壊するものである。学術や産業は全く度外視され、いつに国防すなわち国家の戦争能力のみに国家の生成発展が依存するように論じられている。

 世界を敵としてどうして国家の存立を維持することが出来ようか。それは結局国家の自滅を目指すものである。」

 1934(昭和9)年1月17日時事新報は「番町会問題をあばく」の連載を開始、これが帝人事件の端緒となりました。

クリック20世紀―年表ファイルー1934/04/18 帝人事件発覚

 同年7月3日斎藤実内閣は帝人事件で総辞職、元老西園寺公望は重臣と協議した結果を天皇に奏上、7月8日岡田啓介内閣(政友・民政両党入閣、政友会は入閣者を除名)が成立しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―おー岡田啓介 

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 6

 この帝人事件の取り調べの段階で、被告たちは革手錠をはめられて検事に訊問されていたことが被告の手記などで判明しました。逃亡のおそれのない、しかも社会的地位のある人々を強殺犯の被告と同様な扱いにしたことになり、さらに検事(背後勢力 平沼騏一郎)が被告に不利な自白を強要したという疑いが強くなりました。

 翌年1月23日貴族院本会議で美濃部は帝人事件をめぐる検事の人権蹂躪に関すて演説を行っています。時の法相は小山松吉で、貴族院での小山・美濃部の応酬は新聞に大きく報道されました。

 美濃部は検察当局の監督問題として、小山法相に次のような趣旨の質問を行いました。

 「今回の帝人事件については、しばしば検察当局に不当行為があるという噂を聞いたが、去る臨時議会岩田宙造博士(帝人事件被告弁護人)がこの点に言及せられたのを聞いて、私も疑惑を抱くようになったのである。私が疑問を抱くのは要約すると次の二点からである。その一は検事側が被告たちに対して不法の拘留があったのではないかという点だ。第二は、証拠の蒐集、被疑者の取調べに当って暴行凌辱(りょうじょく)行為がなかったかどうか。この二点について私は司法大臣に質問したいのである。

 実例をいえば、帝人事件の被疑者である岡崎旭(帝人常務)は、任意出頭の形式で大阪府警察部に喚ばれたが、そのまま二畳半の不潔な場所に8人の者と同居させられたまま留置されたが、此の際は何ら法的手続きがとられなかった。

また永野護帝人監査役)に対する革手錠の問題であるが、法相は自殺のおそれがあるによって革手錠をはめたといわれ、其の理由とされているようであるが、革手錠はむしろ被告を苦しめるためにはめたものとしかいわれない。」

 小山法相は美濃部博士のいわれたような事実はないと答弁しました。

 帝人事件はある意味で斎藤内閣打倒を志す平沼騏一郎と右翼・軍部の合作陰謀でもありました。とすれば検察当局を弾劾した美濃部が再び軍部に睨まれるのは当然です。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 7

 1935(昭和10)年2月19日菊池武夫貴族院美濃部達吉天皇機関説を大要つぎのように批判攻撃しました。

 文部大臣は、憲法の議論のことは学者に任すがよろしかろう、おれは天皇機関説に反対だ、こういうのである。

 ちょうど都合のいいようなことだから、国家といえば何でもいいかというようなことで、ドイツの学問の輸入じゃございませんか。みんなドイツへ行って学んできた者が、説が無いから種をお売りになる。なにも偉い独創なんぞいう頭は微塵もない。学者の学問倒れで、学匪(がくひ 匪は賊という意味)となったのでございます。

 ドイツはドイツでございます。共和国は共和国、おのおの学理をつくっている。日本は日本でです。日本憲法は独立した日本憲法、どこにこれが西洋の理論で行かねばならぬか、こういうものを学者の考究に任せるということはない。

 しかるに、美濃部博士にしても一木喜徳郎博士のものにいたしましても、恐ろしいことが書いてある。議会は、天皇の命に何も服するものじゃない、こういうような意味に書いてある。実におどろくべき私はお考えであると思う。」

 これに対して美濃部達吉は同年2月25日貴族院本会議で「一身上の弁明」を行い、反論しました。その全文は次の通りです(宮沢俊義天皇機関説事件  上 有斐閣)。

 「去る二月十九日の本会議に於きまして、菊池男爵其他の方から、私の著書のことに付きまして御発言がありましたに付き、茲に一言一身上の弁明を試むるの己むを得ざるに至りました事は、私の深く遺憾とする所であります。

 菊池男爵は昨年六十五議会に於きましても、私の著書の事を挙げられまして、斯の如き思想を懐いて居る者は文官高等試験委員から追払ふが宜いと云ふ様な、激しい言葉を以て非難せられたのであります。今議会に於きまして再び私の著書を挙げられまして、明白な叛逆的思想であると言われ、謀反人であると言われました。又学匪であると迄断言されたのであります。日本臣民に取りまして反逆者である、謀反人であると言われまするのは侮辱此上もない事と存ずるのであります。又学問を専攻して居ります者に取つて、学匪と言われます事は、等しく堪へ難い侮辱であると存ずるのであります。

私は斯の如き言論が貴族院に於て、公の議場に於て公言せられまして、それが議長からの取消の御命令もなく看過せられますことが、果して貴族院の品位の為に許され得る事であるかどうかを疑う者でありまするが、それは兎も角と致しまして、貴族院に於て、貴族院の此公の議場に於きまして、斯の如き侮辱を加へられました事に付ては、私と致しまして如何に致しても其儘には黙過し難いことと存ずるのであります。本議場に於きまして斯の如き問題を論議する事は、所柄甚だ不適当であると存じまするし、又貴重な時間を斯う云うことに費しまするのは、甚だ恐縮に存ずるのでありますし、私と致しましても不愉快至極の事に存ずるのでありまするが、万己むを得ざる事と御諒承を願いたいのであります。

凡そ如何なる学問に致しましても、其学問を専攻して居りまする者の学説を批判し、其当否を論じまするには、其批判者自身が其学問に付て相当の造詣を持つて居り、相当の批判能力を備えて居なければならぬと存ずるのであります。若し例えば私の如き法律学を専攻して居まする者が軍学に喙を容れまして、軍学者の専門の著述を批評すると云うようなことがあると致しますならば、それは、唯物笑に終るであらうと存ずるのであります。

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 私は菊池男爵が憲法の学問に付て、どれ程の御造詣があるのかは更に存じない者でありますが、菊池男爵の私の著書に付て論ぜられて居りまする所を速記録に依つて拝見いたしますると、同男爵が果して私の著書を御通読になつたのであるか、仮りに御読みになつたと致しましても、それを御理解なされて居るのであるかと云うことを深く疑う者であります。恐らくは或他の人から断片的に、私の著書の中の或片言隻句を示されて、其前後の連絡も顧みず、唯其片言隻句だけを見て、それをあらぬ意味に誤解されて、軽々に是は怪しからぬと感ぜられたのではなかろうかと想像せられるのであります。若し真に私の著書の全体を精読せられ、又正当にそれを理解せられて居りまするならば、斯の如き批判を加えらるべき理由は断じてないものと確信いたすのであります。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 8

 菊池男爵は私の著書を以て我国体を否認し、君主主権を否定するものの如くに論ぜられて居りますが、それこそ実に同君が私の著書を読まれて居りませぬか、又は読んでもそれを理解せられて居られない明白な証拠であります。我が憲法上、国家統治の大権が天皇に属すると云うことは、天下万民一人として之を疑うべき者のあるべき筈はないのであります。憲法の上諭には「国家統治ノ大権ハ朕力之ヲ祖宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ」と明言してあります。又憲法第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。更に第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ」とあるのでありまして、日月の如く明白であります。若し之をして否定する者がありますならば、それには反逆思想があると言われましても余儀ない事でありましょううが、私の著書の如何な場所に於きましても之を否定して居る所は決してないばかりか、却てそれが日本憲法の最も重要な基本原則であることを繰返し説明して居るのであります。

例えば、菊池男爵の挙げられました憲法精義十五頁から十六頁の所を御覧になりますれば、日本の憲法の基本主義と題しまして、其最も重要な基本主義は日本の国体を基礎とした君主主権主義である、之は西洋の文明から伝わつた立憲主義の要素を加えたのが日本の憲法の主要な原則である、即ち君主主権主義に加うるに立憲主義を以てしたのであると云う事を述べて居るのであります。又それは万世動かすべからざるもので、日本開闢以来曽て変動のない、又将来永遠に亘って動かすべからざるものであると云うことを言明して居るのであります。他の著述でありまする憲法撮要にも同じ事を申して居るのであります。菊池男爵は御挙げになりませぬでありましたが、私の憲法に関する著述は其外も明治三十九年には既に日本国法学を著して居りまするし、大正十年には日本憲法第一巻を出版して居ります。更に最近昭和九年には日本憲法の基本主義と題するものを出版いたして居りまするが、是等のものを御覧になりましても君主主権主義が日本の憲法の最も貴重な、最も根本的な原則であると云ふ事は何れに於きましても詳細に説明いたして居るのであります。

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 唯それに於きまして憲法上の法理論として問題になりまする点は、凡そ二点を挙げることが出来るのであります。第一点は、此天皇の統治の大権は、天皇の御一身に属する権利として観念せらるべきものであるが、又は 天皇が国の元首たる御地位に於て総攬し給ふ権能であるかと云う問題であります。一言で申しまするならば 天皇の統治の大権は法律上の観念に於て権利と見るべきであるか、権能と見るべきであるかと云うことに帰するのであります。第二点は、 天皇の大権は絶対に無制限な万能の権力であるか、又は憲法の条規に依つて行はせられまする制限ある権能であるか、此二点であります。私の著書に於て述べて居まする見解は、第一には、天皇の統治の大権は、法律上の観念としては権利と見るべきものではなくて、権能であるとなすものでありまするし、又第二に、それは万能無制限の権力ではなく、憲法の条規によつて行わせられる権能であるとなすものであります。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 9

此の二つの点が菊池男爵其他の方の御疑を生じた主たる原因であると信じまするので、成るべく簡単に其要領を述べて御疑を解くことに努めたいと思うのであります。

第一に、天皇の国家統治の大権は、法律上の御一身に属する権利と見るべきや否やと云う問題でありますが、是は法律学の初歩を学んだ者の熟知する所でありまするが、法律学に於て権利と申しまするのは、利益と云う事を要素とする観念でありまして、自己の利益の為に……自己の目的の為に存する法律上のカでなければ権利と云う観念には該当しないのであります。或人が或権利を持つと云うことは、其力を其人自身の利益の為に、言換れば其人自身の目的の為に認められて居ると云うことを意味するのであります。即ち権利主体と云えば利益の主体、目的の主体に外ならぬのであります。従つて国家統治の大権が天皇の御一身上の権利であると解しますならば、統治権が天皇の御一身の利益の為め、御一身の目的の為に存するカであるとするに帰するのであります。

そう云う見解が果して我が尊貴なる国体に通ずるでありましょうか。我が古来の歴史に於きまして如何なる時代に於ても天皇が御一身御一家の為に、御一家の利益の為に統治を行はせられるものであると云う様な思想の現われを見ることは出来ませぬ。天皇は我国開闢以来、天の下しろしめす大君と仰がれ給うのでありますが、天の下しろしめすのは決して御一身の為ではなく、全国家の為であると云う事は古来常に意識せられて居た事でありまするし、歴代の天皇の大詔の中にも、其事を明示されて居るものが少くないのであります。日本書紀に見えて居りまする崇神天皇の詔には「惟ふに我が皇祖、諸諸の天皇の宸極に光臨し給いしは豈一身の為ならむや、蓋し人神を司牧して天下を経倫する所以なり」とありまするし、仁徳天皇の詔には「其れ天の君を立つるは是れ百姓の為なり、然らば則ち君は百姓を以て本とす」とあります。

西洋の古い思想には国王が国を支配する事を以て、恰も国王の一家の財産の如くに考えて、一個人が自分の権利として財産を所有して居りまする如くに、国王は自分の一家の財産として国土国民を領有し支配して、之を子孫に伝えるものであるとして居った時代があるのであります。普通に斯くの如き思想を家産国思想、「パトリモニアル・セオリイ」家産説、家の財産であります家産説と申して居ります。国家を以て国王一家の財産の如くに看做すのであります。そう云う思想から申しますならば、統治権は国王の一身一家に属する権利であると云うことに帰するのであります。斯の如き西洋中世の思想は、日本の古来の歴史に於て曾て現われなかつた思想でありまして、固より我国体の容認する所ではないのであります。

伊藤(博文)公の憲法義解(宮沢俊義校註 岩波文庫)の第一条の註には「統治は大位に居り大権を統へて国土及臣民を治むるなり」、「蓋祖宗其天職を重んじ、君主の徳は八洲臣民を統治するに在つて一人一家に享奉するの私事にあらざることを示されたり、是れ即ち憲法の依て以て基礎をなす所以なり」とありますのも、是も同じ趣旨を示して居るのでありまして、統治が決して天皇の御一身の為に存するカではなく、従て法律上の観念と致しまして、天皇の御一身上の権利として見るべきものではない事を示して居るのであります。

古事記には、天照大神が出雲の大国主命に問わせられました言葉といたしまして、「汝がうしはける葦原の中つ国は我か御子のしらさむ国」云々とありまして、「うしはく」と云う言葉と「しらす」と云う言葉と書き別けしてあります。或国学者の説に依りますと、「うしはく」と云うのは私領と云ふ意味で、即ち自分の一身一家の為め土地人民を自分のものとして私領することを意味し、「しらす」は統治の意味で、即ち天下の為に土地人民を統べ治めることを意味すると云うことを唱えて居る人があります。此説が正しいかどうか私は能く承知しないのでありますが、若し仮りにそれが正当であると致しまするならば、天皇の御一身の権利として統治権を保有し給うものと解しまするのは、即ち天皇は国を「しらし」給うのではなくして国を「うしはく」ものとするに帰するのであります。それが我が国体に適する所以でないことは明白であらうと思います。

統治権は、天皇の御一身の為に存する力ではなく、従つて天皇の御一身に属する私の権利と見るべきものではないと致しまするならば、其権利の主体は法律上何であると見るべきでありましょうか。前にも申しまする通り権利の主体は即ち目的の主体でありますから、統治の権利主体と申せば即ち統治の目的の主体と云うことに外ならぬのであります。而して天皇が天の下しろしめしまするのは、天下国家の為であり、其の目的の帰属する所は永遠恒久の団体たる国家に外ならぬのでありまするから、我々は統治の権利主体は団体としての国家であると観念いたしまして、天皇は国の元首として、言換れば、国の最高機関として此国家の一切の権利を総攬し給い、国家の一切の活動は立法も行政も司法も総て、天皇に其最高の源を発するものと観念するのであります。是が所謂機関説の生ずる所以であります。

所謂機関説と申しまするのは、国家それ自身を一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、即ち法律学上の言葉を以て申せば一つの法人と観念いたしまして 天皇は此法人たる国家の元首たる地位に在しまし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給い、天皇憲法に従つて行わせられまする行為が、即ち国家の行為たる効力を生ずると云うことを言い表はすものであります。

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美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む10

国家を法人と見ると云うことは、勿論憲法の明文には掲げてないのでありまするが、是は憲法法律学の教科書ではないと云うことから生ずる当然の事柄であります。が併し憲法の条文の中には、国家を法人と見なければ説明することの出来ない規定は少からず見えて居るのであります。憲法は其の表題に於て既に大日本帝国憲法とありまして、即ち国家の憲法であることを明示して居りますのみならず、第五十五条及び第五十六条には「国務」といふ言葉が用いられて居りまして、統治の総べての作用は国家の事務であると云うことを示して居ります。第六十二条第三項には「国債」及び「国庫」とありまするし、第六十四条及び第七十二条には「国家の歳出歳入」と云う言葉が見えて居ります。又第六十六条には、国庫より皇室経費を支出すべき義務のあることを認めて居ります。総て是等の文字は国家自身が公債を起し、歳出歳入をなし、自己の財産を有し、皇室経費を支出する主体であることを明示して居るものであります。即ち国家それ自身が法人であると解しなければ、到底説明し得ない処であります。其の他国税と云い、国有財産と云い、国際条約というような言葉は、法律上普く公認せられて居りまするが、それは国家それ自身が租税を課し、財産を所有し、条約を結ぶものであることを示して居るものであることは申す迄もないのであります。即ち国家それ自身が一つの法人であり、権利主体であることがは、我が憲法及び法律の公認するところであると言わねばならないのであります。

併し法人と申しますると一つの団体であり、無形人でありまするから、其権利を行いまする為には、必ず法人を代表するものがあり、其者の行為が法律上法人の行為たる効力を有する者でなければならぬのでありまして、斯の如き法人を代表して法人の権利を行う者を、法律学上の観念として法人の機関と申すのであります。率然として天皇が国家の機関たる地位に在ますと云うようなことを申しますると、法律学の知識のない者は、或は不穏の言を吐くものと感ずる者があるかも知れませぬが、其意味するところは天皇の御一身、御一家の権利として統治権を保有し給うのではなく、それは国家の公事であり 天皇は御一身を以て国家を体現し給い、国家の総ての活動は、天皇に其最高の源を発し、 天皇の行為が天皇の御一身上の私の行為としてではなく、国家の行為として、効力を生ずることを言い表はすものであります。例えば憲法明治天皇の欽定(「大山巌」を読む27参照)に係るものでありまするが、明治天皇御一個御一人の著作物ではなく、其名称に依つても示されて居りまする通り、大日本帝国憲法であり、国家の憲法として永久に効力を有するものであります。条約は憲法十三条に明言して居りまする通り、天皇の締結し給うところでありまするが、併しそれは国際条約、即ち国家と国家との条約として効力を有するものであります。若し所謂機関説を否定いたしまして、統治権は 天皇御一身に属する権利であるとしますならば、その統治権に基いて賦課せられまする租税は国税ではなく、天皇の御一身に属する収入とならなければなりませぬし、天皇の締結し給う条約は国際条約ではなくして、天皇御一身としての契約とならねばならぬのであります。其外国債と云い、国有財産と云い、国家の歳出歳入と云い、若し統治権が国家に属する権利であることを否定しまするならば、如何にして之を説明することが出来るのでありましょうか。

勿論統治権が国家に属する権利であると申しましても、それは決して天皇が統治の大権を有せられることを否定する趣意ではないことは申す迄もありませぬ。国家の一切の統治権は天皇が之を総攬し給うことは憲法の明言して居る処であります。私の主張しまする所は唯天皇の大権は天皇の御一身に属する私の権利ではなく、天皇が国家の元首として行わせらるる権能であり、国家の統治権を活動せしむるカ、即ち統治の総べての権能が天皇に其最高の源を発するものであると云うに在るのであります。それが我が国体に反するものでないことは勿論、最も良く我が国体に通する所以であらうと固く信じて疑わないのであります。