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小林多喜二「蟹工船」を読む11~20

小林多喜二蟹工船」を読む11

1927(昭和2)年3月3日小作人代表伴利八・阿部亀之助ら15名は約200名の労組員の出迎えを受けて小樽駅に到着、吹雪の中を赤だすきをかけた小作人代表を先頭にして、磯野店や商業会議所へデモ行進しました。争議団は労農共同闘争委員会を組織、同月6日争議の経過と実情を述べた「市民に訴う」というビラを全市に配布し、7日には磯野争議真相発表演説会を開催、警察官との乱闘騒ぎまで起りました。小作人代表は磯野との交渉を要求しましたが、地主側は組合幹部の立会を拒絶、小作人代表との会見を拒否し続けました。

 同月14日夜、本願寺説教所で、地主糾弾の2回目の演説会が労働農民党小樽支部、小作争議共同委、小樽合同労組、日農北海道連合会主催で開催されました。

 このときの様子を小林多喜二は「折々帳」(日記 全集第7巻)で次のように述べています。「磯野進の小作争議の演説を聞こうとして行ってみたところ、何十人という巡査が表に居り、入場を拒絶している。外では沢山の人達が立ち去りもしないで、興奮し、官憲とブルジョワの横暴をならしていた。(中略)皆目覚めているのだ。自分も興奮して帰ってきた。」

まもなく彼は争議の中心的指導者の一人であった武内清の要請に応じて、「北海タイムス」(「北門新報」の後継紙)小樽支社に勤務していた寺田行雄の紹介で秘かに会い、北海道拓殖銀行で収集できる磯野側の情報を提供する役を引き受けました。

 同年3月30日磯野は市会議員中島親平の調停に応じ、労組、農組代表、市会議員、弁護士、新聞記者らの立会の下、交渉の開始を争議団に申し入れました。交渉は3回あり、最後の4月8日は午前9時より24時間連続した交渉の結果、争議は小作人側の要求の大半を認めて解決しました。

 この争議中、多喜二は応援にきた函館合同労働組合や小樽の労働農民党との話し合いの席で、函館の安田銀行支店に勤務する高商の同期生乗富道夫の消息を久しぶりに知ることができました。乗富は労働農民党に入党し、函館の組合とも関係があり、産業労働調査所の仕事にも熱心に従事していました。

Weblio辞書―産業労働調査所―労働農民党―芥川龍之介―里見弴

 安田銀行函館支店は、ソビエト国営トラスト函館支社との取引関係があり、乗富は北洋漁業に深い関心をもち、北洋漁業の調査研究で知られるようになっていました。

 同年5月20日多喜二ら「クラルテ」同人は、改造社主催の文芸講演で北海道に来た芥川龍之介と里見弴を小樽妙見町の料理屋「新中島」に招き、歓迎座談会を開いて

います。

小野病院に住んで働いていた田口タキとは、ときどき映画をみたり、散歩をしたり、手紙のやりとりをしたりしていましたが、同年5月28日タキはまた一通の手紙を残して、小野病院から姿を消しました。前日タキから電話があって、二人で寿司を食べ小樽公園を散歩したのに、タキに別段変った様子はみられなかったのです。

 6月1日になって、多喜二はようやくタキの荷物を預かった便利屋(運送屋)を探し出し、タキが5月28日の朝一番列車で室蘭へ立ったことを知りました。

 内省的なタキの心には自己卑下があり、結婚など彼を不幸に陥れるだけで到底考えることも出来ないことであったようです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む12

1926(大正15)年、蟹工船秩父丸の遭難事件や博愛丸と英航丸で起きた漁夫や雑夫の虐待事件が「小樽新聞」や「北海タイムス」で大きく報道され、社会問題になっていました。

 秩父丸は同年4月26日北千島の幌莚島沖で暴風雨に遭って坐礁、254人中170人が行方不明になりました。しかも同月17日秩父丸と前後して函館を出港して、近くを航行していた英航丸や2、3の蟹工船は救助信号を受けながら救助に赴かなかったのです。

 「小樽新聞」は5月2日号で「英航丸が見て見ぬ振り、同船が救助していたらこの惨事は起らぬ」、また同月6日号に「秩父丸の遭難に醜い稼業敵、救助信号を受けながら知らぬ顔の蟹工船」という見出しで、この事件を糾弾しました。

 同年9月には博愛丸や英航丸の漁夫、雑夫の虐待事件が詳しく報ぜられました。

 仮病とみなされた病人の雑夫をウインチ(物体の上げ下ろし、運搬、引っ張り作業などに使用するもので、巻き揚げ機ともよばれる)で高くつりあげるとか、麻縄で旋盤の鉄柱に縛り付け、胸に「この者仮病につき縄を解く事を禁ず、工場長」とボール紙に書いて結びつけ、一杯の水も与えなかったことや、仕事場で監督たちが棍棒や青竹を持って監視、欠伸をしたり、ちょっとでも手を休めると殴りつけ、酷使に疲れ果てた漁夫を縛り上げて、アルコールを浸した綿に火をつけ、股間にほうりこんだりする惨状を、「この世ながらの生地獄」「あくび一つに唸り飛ぶ棍棒」などの見出しで報道されました。

戦時下に喪われた日本の商船―昭和20年1-6月―0618博愛丸

 秩父丸の救助信号を無視した英航丸では虐待のため脱走をはかった4人の雑夫を監督たちが鉄の蟹かきで半殺しにした事件が原因で自然発生的なストライキが起こりました。

 「北海タイムス」9月13日号に「各蟹工船内は恰も闘牛場の観あり」という水産講習所の調査報告を掲載していましたが、上述のような漁業労働者の闘争について詳細には報道していません。

 多喜二は1927(昭和2)年3月以来、拓殖銀行の資料用の新聞から関係記事の切り張りをしたり、また土曜から日曜にかけて、函館の乗富道夫を訪ね、乗富の案内で停泊中の蟹工船の実地調査で、蟹工船の漁夫と直接会って話を聞き、漁業労働組合の人たちからも多くの具体的知識を得ました。長年北洋漁業の資料の収集と調査をしていた乗富の援助によって、多喜二はその調査を正確に深めることに役立ったのです。

 1920(大正9)年から始まった北洋漁業蟹工船は缶詰工場の設備を持つ母船を中心に、川崎船とよばれる小型漁船でとった蟹を缶詰にする海の移動缶詰工場の船でありました。1925((大正14)年ころになると蟹工船は大型化し、1500トン前後の中古船を改造、なかには病院船を改造(例 博愛丸)したものもありました。

 このような蟹工船は1926(大正15)年には12隻、翌年には18隻となり、生産高も1926年23万箱、1927年には33万箱に増加しました。

 当時の北洋漁業は日魯漁業と大洋漁業の独占化がすすみ、1928(昭和3)年「日ソ業業条約」(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)成立以前は漁業権を巡ってソビエト政権との間に複雑な対立があり、12海里を領海とするソビエト法を無視、日本は3海里外は公海として、海防艦の護衛により蟹漁業が行われていたのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む13

 1928(昭和3)年1月21日衆議院解散、多喜二は働農民党から北海道一区立候補の非合法日本共産党員山本懸蔵を応援 東倶知安方面の演説に参加、2月20日、第16回総選挙(最初の普通選挙)が実施されました。その結果無産政党は約48万票を獲得、8人の当選者を出し、うち労働農民党は山本宣治ら2人が当選しました。

 同年3月15日、田中義一内閣は共産党員の大検挙(3.15事件)を実施、488人が治安維持法違反で起訴される情勢の中、同年3月25日全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成され、同年5月ナップは機関誌「戦旗」を創刊しました。小樽でもナップ支部が発足、多喜二は支部書記として機関誌配布の責任者になりました。

 同年6月29日、緊急勅令により、政府は治安維持法を改め、死刑・無期刑を追加、7月3日には、未設置の全県警察部に思想犯を取り締まる特別高等(特高)課を設置するに至りました。

 同年5月26日多喜二は中編小説「一九二八年三月十五日」(全集第2巻)を起稿(「戦旗」の同年11・12月号に掲載、発禁となったが、秘かに配布される)、7月多喜二は銀行為替係から調査係へ異動、8月17日同上小説を完成し、つづいて10月28日中編小説「蟹工船」を起稿、翌年3月30日同小説を書き上げました。

 1929(昭和4)年4月16日政府(田中義一内閣)は前年に続いて共産党員大検挙を実施(4.16事件)、党組織は壊滅的打撃をうけました。

Weblio辞書―三.一五事件―四.一六事件―山本宣治

 同年4月20日早朝、若竹町の多喜二の自宅が家宅捜査を受け、彼自身も小樽警察署に拘引されましたが、その日のうちに釈放されました。

 同年5月14日の夕方、多喜二は田口タキと再会することができました。タキははじめ室蘭に赴いたのですが、やがて札幌に行って病院の見習看護婦として住み込み、またひそかに小樽にもどり、名も彩子と改め、小樽駅前通りの中央ホテルに住み込んで3階の部屋係を勤めていたのです。

 そのようなタキの消息を多喜二は知ってはいましたが、ホテルへ直接彼女を訪ねていくことには、なんとなく気おくれを感じていました。その日彼は友人と駅前通りを歩きながら、ホテルの前にさしかかると、偶然ホテルの入口にたたずむタキを見つけたのでした。

 同年5月16日の手紙(書簡 全集第7巻)で彼はつぎのように述べています。「この前の夜は、又私達には忘れることの出来ない日になった。彩子ちゃんも、こんな事が、二度あるとは思っていなかったと云った。(中略)お互いにそう変わっていないので、本当に嬉しかった。

 僕のしている仕事、(中略)僕はそのためには一生さえ捧げている積りなのだ。-だから、何時僕は彩子ちゃんの前から居なくならなければならないかも知れないのだ。(中略)外に出ることがあったら、何時でも電話をかけて下さい。僕たちのやっていること(中略)是非分ってもらいたい。(中略)

 彩子ちゃんは、誰にも頼って生きていない。(中略)僕はどんな処にいようが、彩子ちゃんをしっかりと信じることが出来るのだ。-常に困難を切り開いて前進しようー僕も」

 

小林多喜二蟹工船」を読む14

 小説「蟹工船」は、1929(昭和4)年の「戦旗」5、6月号に発表されました。この小説(新日本文庫・全集第2巻)は次のような言葉から始まります。

 「おい、地獄さ、行(え)ぐんだで!」

 函館港に停泊する蟹工船「博光丸」に雇われた漁夫たちの様々な生態が描写され、彼等に対して監督が次のように訓示する。「一寸(ちょっと)云って置く。(中略)この蟹工船の事業は、ただ単にだ、一会社の儲(もうけ)仕事と見るべきではなく、(中略)我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの闘いだ(な)んだ。

(中略)日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだ(中略)。だからこそ(中略)我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。-それを今流行(はや)りの露助の真似をして、とんでもないことをケシかけるものがあるとしたら、(中略)日本帝国を売るものだ。よツく覚えておいて貰うことにする。」

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 函館を出港した博光丸は宗谷海峡に入ったころから、烈しい時化に襲われた。

 船長室に無電係があわててかけ込んできた。「船長、大変です。S,O,Sです。」「S,O,S?―何船だ!?」「秩父丸です。本船と並んで進んでいたんです。」

 「ボロ船だ、それァ!」浅川(監督)が雨合羽を着たまま、隅の方の椅子に腰をかけていた。

 船長は舵機室に上がるため急いでドアを開けようとした。いきなり浅川が船長の右肩をつかんだ。「余計な寄道せって誰が命令したんだ。」「船長としてだ。」

 船長の前に立ちはだかった監督が侮辱した調子で抑えつけた。「おい、一体これァ誰の船だんだ。会社が傭船してるんだで、金を払って。ものを云るのァ会社代表の須田さんとこの俺だ。お前なんぞ糞場の紙位えの価値もねえんだど。―あんなものにかかわてみろ。一週間もフイになっるんだ。」

 船長は咽喉へ綿でもつめられたように、立ちすくんでいた。

 

小林多喜二蟹工船」を読む15

 霧雨にボカされたカムサッカの沿線が八ッ目鰻のように延びて見えた。沖合四浬のところに博光丸が碇を下した。-三浬までロシアの領海なので、、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた。」

 網さばきが終って、何時からでも蟹漁が出来る準備が出来た。カムサッカの夜明けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、股までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入ってゴロ寝をした。

 朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三時だった。監督は漁夫たちを見廻って、風邪をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した。

 風はなかったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きが擂粉木(すりこぎ)のように感覚が無くなった。

 雑夫長が十四、五人の雑夫を工場に追いこんでいた。彼の持っている竹の先には皮がついていた。それは工場で怠けているものを機械の枠越しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように造られていた。

 スチームでウインチが廻り出し、川崎船は一斉に降りはじめた。昼過ぎから、空の模様が変わってきて、薄い海霧(ガス)が一面に淡くかかった。

Weblio辞書―川崎船

 煙突の警笛が荒れ狂っている暴風の中で、何か悲壮に聞えた。-遠く本船を離れて、漁に出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、時化を犯して帰ってくるのだった。

 薄暗い機関室の降り口で、漁夫と水夫が騒いでいた。「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」

 監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れた処に投錨していた××丸から「突風」の警戒報を受け取っていた。それには若し川崎船が出ていたら、至急呼び戻すように附け加えられていた。その時「こんな事に一々ビクビクしていたら、このカムサスカまでワザワザ来て仕事なんて出来るかい。」-そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。それを聞いた最初の漁夫は怒鳴った。「人間の命を何だって思ってやがるんだ。」「人間の命?」「そうよ」「所が、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ。」

 

小林多喜二蟹工船」を読む16

 夕方になる迄に川崎船は二艘を残してそれでも全部帰ってくることが出来た。一艘は水船になってしまったために漁夫が別の川崎船に移って帰ってきたが、他の一艘は漁夫共に全然行方不明となった。

 翌日、川崎船の捜索かたがた、蟹の後を追って、本船が移動することになった。「人間の五、六匹何でもないけれども、川崎がいたまし」かったからだった。

 九時近いころになって、前方に川崎船が一艘浮かんでいるのを発見した。が、それは探していた第一号ではなく、もっと新しい第36号と番号の打たれているものだった。明らかに××丸のものらしかった。第36川崎船はウインチで博光丸のブリッジに引きあげられた。監督は大工を呼んだ。「何です。」「カンナ、カンナ」

 -川崎船の第36号の「3」がカンナで削り落されて、「第六号川崎船」になってしまった。「これでよし。うッはァ、様(ざま)見やがれ!」監督は哄笑した。

 漁夫達は行方不明になった仲間の荷物などを調べたりして万一の時にすぐ処置できるように取り纏めた。北海道の奥地で色々なことをやってきたという男が低い声で「浅川のためだ。死んだと分ったら、弔(とむら)い合戦をやるんだ。」と云った。「奴、一人位タタキ落とせるべよ。」

 博光丸が元の位置に帰ってから三日して突然(!)その行方不明になっていた川崎船が、しかも元気よく帰ってきた。

釧路市HP―市立博物館―常設展―2階―釧路の近世・近代1-川崎船

 大暴風雨の次の朝、川崎船は半分水船になったまま、カムサッカの岸に打ち上げられていた。そして近所のロシア人に救われたのだった。

 難破のことが知れると、村の人達が沢山集って来た。丁度帰る日にロシア人が四、五人やって来て、中に支那人が一人交じっていた。赤い鬚の男が大声で手振りをして話し始めた。支那人が日本語をしゃべり出したが、それは順序の狂った日本語で、言葉と言葉が酔っ払いのようによろめいていた。

 「貴方々、プロレタリア。-分る?」「うん」

(今度は逆に、胸を張って威張ってみせる)働かない人、これ。-分る?」

「ロシア、働かない人いない。-分る?」

彼等は漠然とこれが「恐ろしい」「赤化」というものではなかろうか、と考えた。が、然し何よりグイ、グイ引きつけられていった。

「プロレタリア、貴方々、みんな、これ(子供のお手々つないでの真似)強くなる。大丈夫。分る?」「ん、ん!」

漁夫達は「糞壺」(漁夫の居室)の入口に時々眼をやり、その話をもっともっとうながした。

 

小林多喜二蟹工船」を読む17

 無電係は、他の船の交換している無電を聞いて、その収獲を一々監督に知らせた。それによると、本船はどうしても負けているらしい事が分って、監督はアセリ出した。監督や雑夫長はわざと「船員」と「漁夫、雑夫」の間に、仕事の上で競争させるように仕組んだ。

 同じ蟹つぶしをしていながら、「船員に負けた」となると、(自分の儲けになる仕事でもないのに、)漁夫や雑夫は「何に糞ッ!」という気になる。監督は「手を打って」喜んだ。

 然し五日、六日になると、両方とも気抜けしたように、仕事の高が減って行った。監督は、今度は勝った組に「賞品」を出すことを始めた。監督は「賞品」の外に、逆に、一番働きの少ないものに「焼き」を入れることを貼紙した。鉄棒を真赤に焼いて、それを身体にそのまま当てることだった。彼等は「焼き」に始終追いかけられて、仕事をした。仕事が尻上りに目盛をあげて行った。

 皆は夕飯が終って、「糞壺」の真ん中に一つ取りつけてある、割目が地図のようにはいっているガタガタのストーヴに寄っていた。お互いの身体から少し温ってくると、湯気が立った。蟹の生ッ臭い匂いがムレて、ムッと鼻に来た。

 「カムサッカで死にたくないなー。」「中積船、函館ば出たとよ。―無電係の人云ってた。」

海外の万国反応記―検索―カムチャッカ半島―海外の反応―質問雑談―2014年9月26日―海外「ロシアの最東端、カムチャッカ半島には一体何があるんだ?」

 「帰りてえな。」「帰れるもんか。」「中積船でヨク逃げる奴がいるってな。」「んか!?-ええな。」

 「漁に出る振りして、カムサッカの陸さ逃げて、露助と一緒に赤化宣伝ばやっているものもいるッてな。」

 学生あがりの漁夫があくびをしながら、ゴシゴシ胸を掻いた。垢が乾いて薄い雲母のように剥げてきた。

 「飛んでもねえ所さ、然し来たもんだな、俺もー。」この漁夫は芝浦の工場にいたことがあった。北海道の労働者達には「工場」とは想像もつかない「立派な処」に思われた。「ここの百に一つ位のことがあったって、あっちじゃストライキだよ。」と云った。

 お湯には、初め一日置きに入れた。身体が生ッ臭く汚れて仕様がなかった。然し1週間もすると、、三日置きになり、1箇月経つと1週間一度、、そしてとうとう月二回にされてしまった。水の濫費を防ぐためだった。然し船長や監督は毎日お湯に入った。それは 濫費にならなかった。

 身体が蟹の汁で汚れて、それがそのまま何日も続く。それで虱や南京虫が湧かない筈がなかった。

 

小林多喜二蟹工船」を読む18

 

  こちらから見ると、雨上りのような銀灰色の海をバックに、突き出ているウインチの腕、それにすっかり身体を縛られて、吊しあげられて居る雑夫が、ハッキリ黒く浮び出て見えた。

 ウインチに吊るされた雑夫は顔の色が変っていた。死体のように堅くしめている口から、泡を出していた。大工が行った時、雑夫長が薪を脇にはさんで、デッキから海へ小便をしていた。あれでなぐったんだな。大工は薪をちらっと見た。

 漁夫達は何日も続く過労のため、だんだん朝起られなくなっていた。「どうしたんだ。タタキ起こすど!」

 病人は皆布団を剥ぎとられて、甲板へ押し出された。学生上りの雑夫が蟹をつぶした汚れた手の甲で、額を軽くたたいていたが、そのまま横倒しに、後ろへ倒れてしまった。仲間があわてて、彼をハッチに連れて行こうとした。

シートラスト株式会社―カニを知る

 監督が口笛を吹きながら工場へ降りてきた。「誰が仕事を離れったんだ!」

 「誰が!?―」思わずグッときた一人が、肩でつッかかるようにせき込んだ。「誰がァー? この野郎、もう一度云ってみろ!」監督はポケットからピストルを取り出して、玩具のようにいじり廻した。それから急に大声で笑いだした。「水を持って来い!」

 監督は桶一杯の水を、床に横たわっている学生あがりの雑夫に浴びせた。

 次の朝、雑夫が工場に降りて行くと、旋盤の鉄柱に、前の日の学生上りの雑夫が縛りつけられているのを見た。首をガクリ胸に落とし込んで、背筋の先端に大きな関節を一つポコンと露わに見せていた。そして子供の前掛けのように、監督の筆致で「此ノ者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄ヲ解クコトヲ禁ズ。」と書いたボール紙を吊るしていた。

 皆が仕舞かけると、「今日は九時迄だ。」と監督が怒鳴って歩いた。「この野郎達、仕舞だッて云う時だけ、手廻わしを早くしやがって!」

 朝だった。タラップをノロノロ降りながら、炭山から来た男が「とても続かねえや。」と云った。前の日は十時近くまでやって、身体は壊れかかった機械のようにギクギクしていた。

 「俺ァ仕事サボるんだ。」「ずるけてサボるんでねえんだ。働けねえからだよ。」

 その日監督は、鶏冠(とさか)をピンと立てた喧嘩鶏のように工場を廻って歩き、怒鳴り散らした。がノロノロ仕事をしているのが一人や二人でなしに、あっちでもこっちでもーほとんど全部なので、ただイライラ歩き廻ることしか出来なかった。監督の棍棒が何の役にも立たない!

 それが船員や漁夫にも移っていった。

 

小林多喜二蟹工船」を読む19

 「中積船だ! 中積船だ!」上甲板で叫んでいるのが下迄聞えた。中積船は何カ月も何百日も踏みしめたことのない、あの動かない「土」の匂いがしていた。

 彼等は「糞壺」の棚に大きく安坐(あぐら)をかいて荷物を解いた。彼等はその何処からでも、陸にある「自家(うち)」の匂い、乳臭い子供の匂いや、妻のムッとくる膚(はだ)の匂いを探した。

 中積船には、会社で派遣した活動写真隊が乗り込んで来ていた。出来上がった缶詰を中積船に移してしまった晩、船で活動写真を写すことになった。

 夜になると、酒、焼酎、するめ、にしめ、バット(1906年に発売された大衆向け紙巻きたばこ「ゴールデンバット」の略称)、キャラメルが皆の間に配られた。

Toms Toy Box―素晴らしき人生―ゴールデンバット

 監督が白い幕の前に出て来て「日本男児」だとか云いだした。大部分は聞いていなかった。

 「やめろ、やめろ!」「お前なんかひっこめ!」後から怒鳴る。

「六角棒の方が似合うぞ!」皆ドッと笑った。監督は顔を赤くして引っ込んだ。

 写真が終ってから皆は祝い酒に酔った。長い間口にしなかったのと、疲労し過ぎていたので、ベロベロに参ってしまった。

 余程過ぎてからだった。-「糞壺」の階段を漁夫が転がってきた。着物と右手がすっかり血だらけになっていた。「出刃、出刃!出刃を取ってくれ!」土間を葡いながら叫んでいた。「浅川の野郎、何処へ行きやがったんだ。居ねえんだ。殺してやる。」

 監督になぐられたことのある漁夫だった。-その男はストーヴのデレッキ(火かき棒)を持って、眼の色を変えて、また出ていった。

 次の朝になって、監督の窓硝子からテーブルの道具が、すっかり滅茶苦茶に毀されていたことが分かった。監督だけは、何処にいたのか運よく「こわされて」いなかった。

 

小林多喜二蟹工船」を読む20

 毎年の割に比較すると、蟹の漁獲高はハッキリ減少していた。他の船の様子を聞いてみると、昨年よりは成績がいいらしかった。

 監督は無線電信を盗み聞かせて、他の船の網でもかまわず、ドンドン上げさせた。他船の網を手当たり次第に上げるようになって、、仕事が尻上がりに忙しくなった。

  

仕事を少しでも怠けたと見るときには大焼きを入れる。

  組をなして怠けたものにはカムサッカ体操をさせる。

  罰として賃銀棒引き、

      函館へ帰ったら、警察に引き渡す。

  いやしくも監督に対し、少しの反抗を示すときは銃殺される

  ものと思うべし。

                     浅 川 監 督

                     雑  夫  長

 

この大きなビラが工場の降り口に貼られた。監督は弾丸をつめッぱなしにしたピストルを始終持っていて、鴎や船の何処かに見当をつけて撃った。ギョッとする漁夫を見てニヤニ笑った。

 監督は手下をつれて夜三回まわってきた。3、4人固っていると、怒鳴りつけた。「鎖」がただ眼に見えないだけの違いだった。

 「俺ァ、キット殺されるべよ。」芝浦の漁夫が「馬鹿!」と横から怒鳴った。

「今殺されているんでねえか。小刻みによ。ピストルは何時でも持っているが、あれァ「手」なんだ。彼奴等は、俺達を殺せば自分の方で損するんだ。本当の目的は、俺達をウンと働かせて、しこたま儲けることなんだ。この滅茶苦茶は。まるで蚕に食われている桑の葉のように、俺達の身体が殺されているんだ。」

 芝浦は手を振りながらしゃべっていた。「金持はこの船一艘で純手取り四、五十万円ッて金をせしめるんだ。-分かるか。皆んな俺達の力さ。-んだから,んと威張るんだ。あっちの方が俺達をおっかながってるんだ。ビクビクすんな。」