城山三郎「雄気堂々」を読む11~20

城山三郎「雄気堂々」を読む11

 1868(慶応4・明治1)年4月24日関東監察使三条実美江戸城に入り、大総督以下と協議し、田安亀之助を徳川家相続者とし(「維新史料綱要」巻8)、駿府(静岡)において70万石を賜ることに決定、同月29日亀之助相続を、また徳川家封地については彰義隊鎮圧後の同年5月24日伝宣しました(渋沢栄一徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社・「天璋院篤姫」を読む18参照)。

 渋沢栄一は同年11月19日駿府に到着、宝台院という駿府市中の小寺院で謹慎中であった徳川慶喜の引見を受けました。その後駿府藩庁から出頭命令があり、藩の勘定組頭を申しつけるとの辞令を交付されましたが、栄一はこれを辞退したのです。

 ところが明治新政府は財政窮乏のため、参与兼会計事務掛三岡八郎由利公正)の建議(「維新史料綱要」巻8 明治元年正月二十三日条)により「太政官札」という不換紙幣を発行(「前掲書」巻9 同年五月十五日条)、その金額は凡そ4800万両でした。また諸藩石高に応じて、1万石につき1万両を新政府が拝借、その返還は太政官札をもって行い、13箇年賦で償却することとなりました。

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 駿府藩への割付高は70万両程で、その年の末までに政府から交付された金高は53万両でした。栄一が提出した建議に基づき、藩勘定頭平岡準蔵は石高拝借交付金と地方の資本をあわせて商法会所(常平倉)という商会を設立、栄一は頭取として経営主任となり、預金・貸付金業務や京阪における米穀・肥料を買い付けて、これを駿府地方に売却するなどで利益をあげました(「雨夜譚」巻之四)。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む12

 1869(明治2)年11月21日栄一は明治新政府より召喚を受け、同年12月初旬太政官に出頭すると、大蔵省租税正に任命されました。栄一はだれが自分を政府に推挙したのか判らなかったのです。当時の大蔵卿は伊達宗城、大輔は大隈重信、少輔は伊藤博文で、省務は大隈・伊藤がその多くを管掌していたので、同年12月中旬大隈を訪問して辞意を表明しましたが慰留されました。栄一は大蔵省の組織確立のため新局を設けて旧制の改革にあたることを提議、彼は改正掛長に任命されたのです(「雨夜譚」巻之五)。

 1871(明治4)年春、大久保利通が大蔵卿、井上馨が大蔵大輔となる人事異動があり、栄一も大蔵権大丞となり、不換紙幣を償却し兌換準備を実現するため、当時アメリカへ出張中であった伊藤博文大蔵少輔の建議にもとづき、新貨幣にかんする条例立案を栄一が担当、同年5月「新貨条例」が制定され(内閣官報局「法令全書」原書房)、貨幣の呼称を円・銭・厘と定め、金本位制を確立しようとしました。

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 また同年7月14日廃藩置県が断行され(「維新史料綱要」巻10)、その後栄一は財政の「量入為出」(支出・収入のバランスをはかること)方針をとって、各省経費の定額を設け、支出の制限を企てていました。しかるに同年8月ころ政府内に陸軍省の歳費額を800万円に、海軍省の同額を250万円に定めようとする提議があり、大久保大蔵卿はこれに同意しようとして、これに反対する栄一と対立しました。

 同年11月12日岩倉使節団は欧米視察のため横浜を出発、大久保利通大蔵卿も副使として同行(「米欧回覧実記」を読む2参照)したため、大蔵省の実権は井上馨大蔵大輔の掌握するところとなり、翌年春大蔵少輔吉田清成の英国出張により、栄一が少輔の事務を取扱うこととなりました(「雨夜譚」巻之五)。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む13

 1859(安政6)年5月28日幕府は同年6月以降神奈川・長崎・箱館3港において、欧米列強との貿易を許可することを布告しました(「維新史料綱要」巻3)。幕末貿易の中心輸出品は生糸・産卵紙で、それまで京都に生糸を送っていた関東・東山・東北の地方は蚕種を横浜に送ってヨーロッパやアメリカに輸出するようになりました。

 その背景には当時世界の絹はイタリアとフランスの生産物で供給されていたのですが、ヨーロッパの養蚕地におこった微粒子病という蚕の病気の流行により、日本の生糸は世界的に重要なものとなったという事情がありました。

 1870(明治3)年2月から大蔵少輔伊藤博文・租税正渋沢栄一が中心となって、官営模範工場の設立計画がすすめられていました。同年6月フランス人技師ポール・ブリューナが招聘され、工場敷地を調査した結果、上野国富岡(群馬県富岡)に決定、1872(明治5)年10月富岡製糸場(場長 尾高惇忠)が開業しました(「富岡製糸所沿革大要」群馬県内務部「群馬県蚕糸業沿革調査書」二 明治前期産業発達史史料 別冊(50) 明治文献資料刊行会)。

群馬風便りー囲み記事―官営富岡製糸場

 この富岡製糸場で働いた伝習工女の記録として、和田英「富岡日記」(「中公文庫」)が有名です。彼女は次のように述べています「私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして、横田数馬と申しました。(中略)十三歳より二十五歳までの女子を富岡製糸場に出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供(ひとみごくう)にでも上るように思いまして一人も応じる人はありません。(中略)やはり血をとられる(外国人が飲む赤ワインを生血と誤解)のあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、(中略)それで父も決心しまして、私を出すことに致しました。」。

 彼女は一等工女として月給1円75銭でしたが、フランス人技師ブリューナの月給は月600ドル(約1ドル1円に相当)(楫西光速他「製糸労働者の歴史」岩波新書)で、御雇外国人が当時いかに高給で迎えられていたかがわかります。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む14

 井上馨大蔵大輔は伊藤博文のアメリカでのナショナル・バンク制度調査にもとづく取り調べを渋沢栄一に委嘱、1872(明治5)年11月15日「国立銀行条例」が公布されました(「法令全書」第五巻ノ一)。国立銀行とは国法により設立された民間銀行という意味で、条例によれば資本金の6割を通貨で政府へ納入、同額の金札引換公債証書を受領、その公債証書を政府に納めて、政府から同額の銀行紙幣を受け取って流通せしめ、その引き換えのために資本金の4割を金貨で準備、希望により兌換する仕組みになっていました。

 他方井上馨渋沢栄一による財政の「量入為出」(支出・収入のバランスをはかること)にもとづく各省経費の定額化方針は抵抗が大きくなかなか実現できませんでした。かくして1873(明治6)年5月3日井上馨大蔵大輔は辞意を表明、栄一も連袂辞職を明言、同年5月7日付で三条実美を経て政治・財政・経済上の意見書を奏上しました。その後まもなく意見書が「曙新聞」に掲載されたため、司法卿江藤新平は政府秘密を漏らした咎で井上に罰金を課したのでした。政府は同年5月23日付(5月14日「太政官日誌」渋沢栄一伝記資料第3巻)で「依願免出仕」の辞令を下しました(「雨夜譚」巻之五)。

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城山三郎「雄気堂々」を読む15

 明治維新以後、新政府の為替方を務めていた三井組・小野組は政府の勧奨により、1872(明治5)年6月連署国立銀行設立の願書を大蔵省に提出、翌年6月11日「第一国立銀行」(「みずほ銀行」の起源)が資本金244万円余で創立、渋沢栄一が総監に就任、東京海運橋兜町に本店、横浜・大阪・神戸に支店を置き、銀行紙幣の発行と普通銀行業務の外に租税その他の官金出納事務を大蔵省から委託されました(「渋沢栄一伝記資料」第4巻)。

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 1873(明治6)年10月征韓派が下野(東大史料編纂所蔵版「明治史要」明治6年10月25日条 東大出版会)し、その一人であった江藤新平は翌年1月板垣退助らとともに「民撰議院設立建白書」に署名(板垣退助監修「自由党史」上 岩波文庫)、自由民権運動のさきがけとなりましたが、同年2月佐賀の乱を起こして刑死、同年4月には台湾出兵が起こり(「明治史要」)、戦乱つづきによる金貨高騰により兌換希望者が続出しました(「渋沢栄一伝記資料」第4巻)。

詳しくわかる高校日本史―日本史講義録目次―4 近現代―076 新政府の外交―台湾出兵―077 新政府への反動―政府内部の対立ー民撰議院設立建白書

またほぼ同時に起こった小野組破産により小野組への多額の貸付を行っていた第一国立銀行の打撃は大きかったのです。

 小野組で生糸買い付けや輸出に従事していた古河市兵衛は小野組閉店の際、秋田の鉱山を含む自らの財産を抵当として差出しました。このような古河市兵衛の協力にも助けられ、第一国立銀行は危機を乗り切ることに成功したのです。渋沢栄一はこの恩義に報いて、古河市兵衛の鉱山業に融資し、やがて市兵衛は足尾銅山の経営に成功するようになりました(「渋沢栄一伝記資料」第4・15巻)。

渋沢栄一記念財団―情報資源センターーブログー記事一覧―2009・03・06-古河市兵衛の鉱山事業への支援

 正貨流出のため、第一国立銀行は兌換紙幣の発行を停止、横浜第二など他の三国立銀行と協議の上、正貨を銀行紙幣と兌換する制度を通貨(政府紙幣)と兌換するよう政府に請願しました。その結果1876(明治9)年8月改正国立銀行条例が公布され、銀行紙幣も政府紙幣もともに不換紙幣となりました(「法令全書」第九巻ノ一)。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む16

  征韓論に敗れて下野した西郷隆盛江藤新平の協力要請にも応ぜず、1876(明治9)年に起こった神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)など不平士族の反乱を傍観、私学校を創立して士族子弟の教育にあたっていましたが、1877(明治10)年2月西郷隆盛を擁立した私学校党は挙兵、西南戦争が勃発しました。結局徴兵制の政府軍に薩摩士族軍は敗北、同年9月西郷は自刃してここに西南戦争は終了したのです(「明治史要」)。

 同郷でありながら西郷隆盛と対立した内務卿大久保利通は翌1878(明治11)年5月14日東京紀尾井町で石川県士族島田一郎ら6人に刺殺されました(中山泰昌編「新聞集成明治編年史」第3巻 財政経済学会)。

歴史倶楽部―郷土の歴史よもやまー6 大久保利通暗殺事件

 西南戦争によるインフレーションの進行を阻止するために、渋沢栄一は紙幣整理を政府に建議しようとしましたが、当時の財政責任者たる大隈重信の反対で実現しましせんでした(「渋沢栄一自叙伝」抄 渋沢栄一 日本図書センター)。1881(明治14)年の政変で大隈重信が下野(「伊藤博文伝」中巻 春畝公追頌会)した後、大蔵卿となった松方正義は不換紙幣償却のために緊縮財政方針をとり、官業を払下げ、翌年10月日本銀行が開業、1885(明治18)年兌換銀行券による銀との兌換を開始しました(大蔵省「明治財政史」第14巻 吉川弘文館)。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む17

  1873(明治6)年渋沢栄一は王子抄紙会社(後 王子製紙会社)を創立しました(大蔵省編「明治前期財政経済史料集成」3 大蔵省沿革志 下 紙幣寮第二 明治文献資料刊行会)。大川平三郎の母親は渋沢夫人千代の姉みちであるという御縁で平三郎は渋沢家の書生として住み込むようになりました。会社に製紙業技術革新のため留学を希望する建白を提出、アメリカに留学して帰国後、製紙法に改良を加え、のちに王子製紙支配人となった人です(竹越与三郎「大川平三郎君伝」大川平三郎君伝記編纂会・「渋沢栄一伝記資料」第11巻)。

横浜に薪炭・石炭店を営業していた浅野惣(総)一郎は石炭や薪炭の納入先である横浜瓦斯局などが処理にこまっていた石炭の廃物コークスを東京の官営深川セメント工場技師鈴木儀六の協力でセメント製造の燃料として用いる方法を開発、これを同工場や製紙会社などに売り込みました。浅野が横浜花咲町にある瓦斯製造所にいくと、コークスは王子抄紙会社が買い占めていたのですが、ここではコークスは役に立たなかったので、浅野は渋沢に石炭とコークスの交換を申し入れ、承諾を得ると、浅野は安い石炭を仕入れて横浜に運び、製紙会社に納入し、巨利を得たのです(北林惣吉「浅野総一郎伝」千倉書房)。

王子製紙支配人谷敬三から、渋沢栄一が会いたがっていることを聞いた浅野はある夜渋沢宅を訪問しましたが、栄一は浅野に「お汝(ぬし)の様な人は東京で飯を食う以上、腕で飯を食う心掛が肝心ぢゃ」と話しました(浅野泰治郎・浅野良三「浅野総一郎渋沢栄一伝記資料 第15・29巻」。こうして浅野は1884(明治17)年渋沢の援助で経営不振の官営深川工作分局払下げを受けることに成功しました(「工部省沿革報告」明治前期財政経済史料集成 第17巻ノ1)これが浅野セメント(現 太平洋セメントの起源)の始まりです。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む18

 渋沢栄一が大蔵省在職中の1871(明治4)年7月廃藩置県の際諸藩所有の汽船をもとに郵便蒸気船会社を設立させ、とくに貢米輸送にあたらせようと考えたのです。ところが岩崎弥太郎(「竜馬がゆく」を読む16参照)が経営する土佐藩汽船6隻ではじめた三菱汽船会社は1874(明治7)年の台湾出兵(征台の役)で軍事輸送を担当、やがて郵便蒸気船会社を合併、さらに西南戦争の軍事輸送でさらに社運を向上させるに至ったのでした(「渋沢栄一自叙伝」抄)。

 政商岩崎弥太郎の三菱汽船会社横暴を憎んだ渋沢栄一は1880(明治13)年益田孝(三井物産設立者 明治の女子留学生永井繁子の兄・「米欧回覧実記」を読む2参照)らとともに東京風帆船会社を設立しました。1882(明治15)年栄一の妻千代が死去しています(「渋沢栄一伝記資料」第29巻)。この小説は糟糠の妻千代をうしなった渋沢栄一を従兄の喜作が励ますところで終了しています。

 しかし渋沢栄一は翌年伊藤兼子と再婚、彼の活躍は千代死後も止むことはありませんでした。

 1883(明治16)年には北海道運輸会社などを合併して共同運輸会社を設立、三菱汽船会社に対抗しました。しかし両社共倒れの危険も予想される事態となり、1885(明治18)年9月日本郵船会社設立となったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー益田孝

 また陸運では1881(明治14)年11月池田章政(旧岡山藩主)らにより東京・青森間を結ぶ日本鉄道会社が設立され、渋沢栄一は株主となり、1885(明治18)年7月以降理事員に推されて、社業の発展に尽くしました(「渋沢栄一伝記資料」第8巻)。

 

城山三郎「雄気堂々」を読む19

 開港後イギリス綿業資本による機械紡績糸の綿糸・綿織物の流入が手紡糸生産のみの日本に洪水のように流入しました。このような状況の下で政府は伝統的な在来紡績業を保護育成するのではなく、西洋式機械紡績を導入保護することによって輸入綿糸に対抗しようとしたのです。

 当時日本には幕末に藩営または幕府の内命による洋式機械紡績所として鹿児島・堺・鹿島の三紡績所がありました。1878(明治11)年政府は水車を原動力としミュール紡機500錘立四基を運転する官営の愛知・広島紡績所建設などに着手しました。しかしこの方針は結局失敗に帰したのであって、こうした政府の保護の外で大規模生産を実現したのは渋沢栄一の発起により1883(明治16)年に操業を開始した大阪紡績株式会社(東洋紡績の起源)でした(「渋沢栄一伝記史料」第3章第1節第1款 大阪紡績株式会社 第10巻)。渋沢栄一筆頭株主、有力株主は蜂須賀・前田・毛利・亀井・徳川・伊達・西園寺・井伊などの大華族、益田孝・大倉喜八郎・藤田伝三郎・住友・五代友厚などの政商資本並びに東京・大阪の綿問屋の巨大商人で構成されていました(大江志乃夫「日本の産業革命岩波書店)。

はまだよりー発祥の地コレクションー大阪府―紡績工業(大阪市)-近代紡績工業発祥の地

 大阪紡績は設立当初から10500錘規模の大規模生産を実現、原動力に蒸気機関を採用し、原料綿花にかならずしも国産綿花を考慮せず、徹夜操業を開始、このための照明に当時珍しかった民間ではじめての電燈を採用したのでした。これは引火しやすい綿を扱う紡績工場で当時支配的だった石油ランプを使用することは火災の危険を伴ったからです。

 1897(明治30)年の調査によれば、紡績女工の労働時間は12時間、すなわち朝6時より晩6時までで、夜業は午後6時より午前6時まで、その間合計1時間の休憩時間がありました。夜業の様子を、横山源之助は次のように述べています「深更(深夜)二時三時の頃睡魔の襲ひ来る最も激しく、電燈白ろく工女の姿をうつして淋し」。賃銀は日給15銭以下が紡績工場の多数女工の賃金と見るのが事実に近く、この賃銀より食料8銭と前借金、親許に送る貯蓄積金などを差し引けば、残る額はいくばくもなかったでしょう(横山源之助「日本の下層社会」岩波文庫)。

 一方渋沢栄一は紡績を専門とする技術者養成のため、経済学研究を目的としてイギリス留学中の山辺丈夫に150ポンドの修学資金を送って紡績実務を学ばせました。

経済(学)あれこれーバックナンバー2009-07-06 経済人列伝 山辺丈夫

 

城山三郎「雄気堂々」を読む20(最終回)

 1916(大正5)年渋沢栄一喜寿を迎えた機会に財界から引退、公共、社会事業に余生を捧げました。

1921(大正10)年のワシントン会議以後アメリカの対日感情は融和に向かい、日本における大正デモクラシーの風潮とも合致して国際交流が盛んとなりました。渋沢は民間経済外交の中心として日米協会・国際連盟協会などを通じた国際的交歓を発展させたのですが、その母胎となったのが東京をはじめとする主要都市の商業会議所だったのです。

 しかし1924(大正13)年アメリカで排日移民法が可決されたころから、渋沢栄一の民間経済外交への影響力は失われてゆきました。政財界の指導者が次第に若い世代へ移行していったからです(木村昌人「渋沢栄一中公新書)。

 1931(昭和6)11月11日渋沢栄一は92歳で永眠(「渋沢栄一伝記資料」第46巻)、東京上野の谷中墓地に埋葬されました。本年9月満州事変が勃発しています。

谷中・桜木・上野公園―「谷中墓地から上野・桜木・池之端の墓地」へ-谷中墓地―谷中墓地に眠る有名人の方々―氏名―渋沢栄一