宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む11~20

宮尾登美子天璋院篤姫」を読む11

 1861(文久1)年4月19日和宮内親王宣下(天璋院より高位)を受けて親子(ちかこ)という名を賜り、同年10月20日京都今出川桂宮を出発(「孝明天皇紀」第三)、中山道を経て11月15日江戸清水屋敷に到着しました。同年12月11日和宮江戸城大奥に入り、1862(文久2)年2月11日将軍家茂との婚儀が江戸城で挙行されました(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)。

港区立図書館ーゆかりの人物データベースー索引 ゆかりの人物―かー和宮親子内親王

 和宮江戸城に入ったとき、お土産の包装紙に「天璋院へ」と書かれており、大奥女中を憤慨させたそうです(「海舟語録」和宮天璋院 講談社学術文庫)。

 天璋院篤姫との初対面の折、天璋院が上座で茵(しとね 敷物)に座したのに対して和宮の席はその左脇の下座で茵もなかったので、和宮はこれを口惜しがり、お泪(なみだ)のみと和宮付の宰相典侍(庭田嗣子)は京都へ手紙を送っています。そこで同年2月19日に関白九条尚忠が家茂後見役田安慶頼に書簡を送り、和宮の待遇につき幕府の反省を求め(「孝明天皇紀」第三 文久2年2月19日条)、同年11月23日和宮の希望により御台様の呼称をやめて和宮様と呼ぶことになりました(「静寛院宮御側日記」「静寛院宮御日記」二 日本史籍協会叢書 東大出版会に収録)。

 内親王和宮は内大臣の家茂より高位でした。しかし家茂と和宮は仲むつまじい夫婦であったようです。家茂が吹上の広場で乗馬の稽古をすると和宮はその様子を見に行き、家茂はその帰りに石竹の花を和宮に持参したり、また珍しい金魚を入手したと予告せずに彼女の許を訪れることもあったようです。さらに庭田嗣子をはじめ下級の女官にもいろいろな品を自分で与えたりしています(「静寛院宮御側日記」文久2年4月9・10日条)。

 浜御殿に天璋院と家茂と和宮が出かけたとき、踏石の上に天璋院和宮の草履が上げられ、将軍の草履だけ下に置かれていました。天璋院が先に庭に下りると和宮は飛び降り、自分の草履を除けて将軍の草履を踏石にあげ、お辞儀をしました。それで天璋院和宮のお側に仕える女中たちのいがみあいもピタリとおさまったそうです(「海舟語録」)。

 これはよく引用される挿話ですが、プライドの高い和宮がはたしてかかる現代の世話女房のような行動をとったのか疑問です。おそらく側近の女中に命じて将軍の草履を踏石にあげるよう命じたというのが真相で、勝海舟の回顧談には誇張があるように思われます。

 

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 このような和宮降嫁という幕府の公武合体策に対して、尊皇攘夷派は1862(文久2)年1月15日坂下門外の変を起こし、老中安藤信行(信正・陸奥磐城平藩主)は水戸浪士らに襲撃され負傷しました(「維新史料綱要」)。

 同年4月16日薩摩藩島津忠義父島津久光は藩兵を率いて入京、朝廷に幕政改革の意見書を提出するとともに、同月23日伏見寺田屋に集結した薩摩藩尊攘派有馬新七らを久光の命を受けた同藩士が斬殺しました(「維新史料綱要」)。同年5月22日朝廷は島津久光の建議を受け入れ、久光は勅使大原重徳を頂き江戸へ下向しました(「維新史料綱要」)。同年6月10日勅使一行は江戸城に登城、将軍家茂に勅命を伝えました。幕府は同年6月29日徳川慶喜将軍後見職松平慶永政事総裁職とし幕政を改革せよの勅旨を受け入れました(「維新史料綱要」巻4)。

 かくして得意の絶頂にあった島津久光の行列は江戸からの帰途、同年8月21日イギリス商人ら4人が武蔵国生麦村で行列を横切ったことにより斬られるという事件を起こしました(生麦事件・「維新史料綱要」巻4・アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新岩波文庫)。

東京紅団―テーマ別散歩情報―明治維新シリーズー生麦事件を歩く(1)(2)

 1863(文久3)年5月9日幕府は生麦事件などの賠償金44万ドルを支払いましたが、薩摩藩は犯人処刑の要求に応じなかったため、同年7月2日イギリス艦隊は鹿児島湾に侵入、薩摩藩と交戦しました(薩英戦争・「維新史料綱要」巻4・アーネスト・サトウ「前掲書」)。しかし薩摩藩は同年11月1日イギリス代理公使生麦事件賠償金10万ドルを交付(「維新史料綱要」巻5)してイギリスとの接近をはかるようになっていきました。

 

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 一方長州藩は1862(文久2)年7月公武合体から破約攘夷に方針転換して藩主毛利敬親(慶親)が上洛、9月21日朝廷は攘夷を決定、同年11月27日勅使三条実美・副使姉小路公知を奉じて土佐藩主山内豊範らが江戸に下向、攘夷督促を将軍家茂に伝達しました(「維新史料綱要」巻4)。

 1863(文久3)年3月4日将軍家茂は家光以来229年振りの上洛を果たしました(「昭徳院殿御上洛日次記」「続徳川実紀」)。江戸に居る天璋院からの家茂宛書状で、彼女はまだ18歳の家茂の江戸帰着が遅いのを懸念しています(畑尚子「幕末の大奥」岩波新書)。しかし彼女の懸念も空しく、家茂はなかなか江戸へ帰らず、同年4月20日攘夷期限を同年5月10日とする旨を天皇に奏上しました(「維新史料綱要」巻4・同年6月16日江戸帰着「昭徳院殿御上洛日次記」「続徳川実紀」)。同年5月10日長州藩は下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃、以後続々と外国船に砲撃を加えるに至りました(「維新史料綱要」巻4)。

 しかしこのような長州藩をはじめとする尊攘派の政局主導を快く思わず、幕府権威回復を望む会津藩(藩主 松平容保 京都守護職)・薩摩藩は同年8月18日宮中クーデタにより宮中尊攘派を一掃しました(八月十八日の政変・「維新史料綱要」巻4)。

 このころ江戸城では家茂上洛中の1863(文久3)年6月8日西丸、同年11月15日には本丸と二丸が炎上しました(「維新史料綱要」巻5)。以後本丸は再建されず翌年西丸に仮御殿が建設されました。これまで和宮と同じく本丸に住んでいた天璋院が同年8月二丸に引き移りました。その理由は「天璋院が御台所の御殿を占有し和宮は召使用の部屋に住んでいる」とのうわさを聞いた和宮世話係りの公卿が在京中の老中に善処をもとめたため、それが天璋院の耳に伝わって彼女の感情を害したといわれます(鈴木由紀子「天璋院篤姫和宮幻冬社新書)。

 同年末幕府は公武合体の体制を確立するため将軍家茂の上洛を決定しました。将軍が海路上洛すると聞いた天璋院は蒸気船では危ないと心配しましたが4人の老中と話し合った彼女は陸路より危険が少ないとの説明にようやく納得しました。このとき政治問題も話題となったようで、老中らは天璋院の見識の高さをしきりに賞賛したそうです(「旧事諮問録」上 大奥の事)。

 1864(元治1)年正月15日将軍家茂は上洛し(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)、同年2月14日参内、沿岸防備強化と横浜鎖港実施を上奏(宮内庁明治天皇紀」第一 吉川弘文館)(5月17日横浜鎖港断念「維新史料綱要」巻5)、同年5月20日江戸に帰着しました(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)。

 しかるに同年7月19日長州藩兵は御所諸門を襲撃、会津・薩摩両藩兵に敗北(禁門の変維新史料綱要」巻5)、同月23日幕府は長州藩征討の勅命を受け、西南21藩に出兵を命令しました(第1次長州征伐「維新史料綱要」巻5)。また同年8月5日英・仏・米・蘭の4国連合艦隊は長州藩下関を砲撃、翌日同艦隊陸戦隊は上陸して下関砲台を占領、長州藩は水陸からの攻撃を受けて敗北し、同年8月14日長州藩は4国連合艦隊と講和条件を協定しました。また同年11月18日征長総督徳川慶勝長州藩毛利敬親父子恭順の状及び進撃猶予を命ぜんことを朝廷・幕府に報告しています(「維新史料綱要」)。

 

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 しかし長州藩では攘夷戦、4国連合艦隊との戦闘を通じて庶民層を含む非正規軍たる奇兵隊以下の諸隊が結成され、高杉晋作ら討幕派は上層佐幕派を抑えて長州藩の主導権を奪回し、武装の近代化をはかりました。

 薩摩藩もまた島津久光を頂点とする公武合体派にかわって、西郷隆盛ら討幕開国派が成長し、長州藩と共通する主張をもつ政治勢力が藩の主導権を掌握するようになりましたが、永年にわたる薩長両藩の抗争が両藩の提携を妨げる要因となっていました。ところが長崎で公然と外国貿易できない長州藩に代わって薩摩藩名義で武器を購入し、これを下関に輸送したのは土佐脱藩の坂本竜馬とその亀山社中(後の海援隊)でした。例えば1865(慶応1)年7月21日長州藩井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)は海援隊薩摩藩家老小松帯刀らの斡旋により、長崎グラバー商会から銃砲を購入しています(「維新史料綱要」巻6)。こうして薩長両藩の接近が進展、1866(慶応2)年1月21日長州藩木戸貫治(孝允)と薩摩藩小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)は坂本竜馬らの斡旋により、京都薩摩藩邸で薩長合従の盟約(薩長連合)を結びました(「維新史料綱要」巻6)。

 

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 1865(慶応1)年5月16日将軍家茂は長州藩再征のため江戸を出発しました(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)。家茂はその前夜年寄滝山に自分にもしものことがあったときには田安亀之助(田安慶頼の子 当時4歳 徳川家達)を跡目に定めたいとし、そのことを、自分が出発したのち和宮へ直接伝えるよう内命を下しました(「静寛院宮御側日記」慶応元年5月16日条)。

近代日本人の肖像―人物名一覧―とー徳川家達

 同年閏5月22日家茂は上洛参内し、長州再征を上奏、朝廷は同年9月21日長州再征の勅許を下しましたので、幕府は同年11月7日彦根藩などに長州征討のための動員を命令しました(「維新史料綱要」巻6)。

 しかし翌年4月14日薩摩藩の大久保一蔵(利通)は大坂城で老中板倉勝静に書面を呈出し長州征討の非を論じ、同藩の出兵を拒絶しました(「維新史料綱要」巻6)。また1866(慶応2)年7月18日にも芸州藩主浅野茂長・備前藩主池田茂政・阿波藩主蜂須賀斉裕は連署して長州征討の非と撤兵を幕府・朝廷に建言、征長軍の足並みが乱れる中、同年7月20日将軍家茂は大坂城で急死しました(「維新史料綱要」巻6)。

 家茂危篤が江戸に伝わると、天璋院は滝山から家茂の遺志を知らされて、田安亀之助を跡継ぎとすることについて和宮の賛同を要請しました。、勝海舟は「天璋院は、しまいまで、慶喜が嫌ひサ。それに、慶喜が、女の方はとても何もわかりやしないと言ったのがツーンと直きに奥へ聞えて居るからネ。そしてウソばかり言って、善いかげんに言ってあるから、少しも信じやしないのサ。」(「海舟語録」天璋院)と回想しています。和宮は時勢を考え、能力ある適材を後嗣にたてることを希望(「静寛院宮御側日記」慶応2年7月24日条)、しかし最後には天璋院に同調しました。

 しかるに老中板倉勝静らは一橋慶喜の推戴を内定、これにつき天璋院和宮の賛同を望み、同年7月28日慶喜を継嗣として奏請、翌日勅許を得ました。かくして天璋院和宮慶喜の継嗣に同意しつつ、家茂の遺志を尊重して亀之助成人後慶喜の継嗣とするよう老中に命令しました(武部敏夫「和宮吉川弘文館)。

 同年8月16日慶喜は参内して征長撤兵を奏請、勅許を得、8月20日将軍家茂の喪を発表、徳川慶喜の徳川宗家相続を公布(「昭徳院殿御在坂日次記」「続徳川実紀」)、12月5日慶喜征夷大将軍に任命されました(「公卿補任」)。ところが孝明天皇は同年12月16日痘瘡の症状が出て、やがて快方に向かったにもかかわらず、やがて吐き気と下痢が激化して、同月29日死去しました(「孝明天皇紀」第5)

 

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 1867(慶応3)年10月14日正親町三条実愛は長州藩主父子に討幕の密勅を発しました。しかるにこれをかわすかのように、同日将軍徳川慶喜は前土佐藩主山内豊信(容堂)の建白を容れ、大政奉還上表を朝廷に提出、翌日朝廷は大政奉還を勅許しました(「維新史料綱要」巻7」)。これによって江戸幕府は倒壊したのですが、徳川慶喜天皇を頂点とする新政府において主導権を握ろうとしていたのです。

 これに対して同年12月9日朝廷は王政復古の大号令を発しましたが、薩長両藩は新政府における徳川氏の主導権を否定しようとし、徳川慶喜の辞官納地を命じることを決定、有栖川熾仁親王を総裁とする新政府を成立させました(「維新史料綱要」巻7)。

幕末京都―幕末京都倶楽部―[14] 京都 小御所会議

 当時京都二条城では征長に敗れた徳川軍と国許から京都へ上洛増強された薩長軍の間に一触即発の危機が迫っていました。この危機を回避しようとして慶喜は12月12日一旦二条城を退去、大坂城に入りました(「維新史料綱要」巻7)。、同年12月23日江戸城二丸が焼失(「維新史料綱要」巻7)、天璋院は本寿院・実成院(家茂の実母)とともに避難し、西丸に入り、再び和宮(慶応2年12月9日薙髪 静寛院宮と称する)との同居が始まりましたが、これは薩摩藩の関係者による放火ではないかとの嫌疑がかけられました。当時薩摩藩の益満休之助らが浪士を使って江戸で放火・強盗などをやらせ、騒乱状態が起こっていました。同月25日徳川方の指示で旗本・庄内藩兵らが江戸三田の薩摩藩邸に押し寄せ、二丸出火の原因究明と市中における狼藉者捕縛のため、使者を2人門内に派遣しましたが、藩側は使者の首を窓から投げ砲撃しました。これにより両者戦闘状態となり、薩摩藩邸は焼き討ち(「維新史料綱要」巻7)、浪士70余人が徳川方に捕らえられました。

 この薩摩藩の挑発が大坂城に伝わると、徳川慶喜は憤激する徳川軍を抑えられず、薩摩藩征討の表(「慶喜公御実紀」明治元年正月10日条「続徳川実紀」)を朝廷に提出して京都に攻め上り、迎え撃つ薩長軍と1868(慶応4・明治1)年正月3日鳥羽伏見の戦いで敗北(「維新史料綱要」巻8)、同月8日軍艦開陽丸で大坂を脱出、同月12日江戸へ逃げ帰りました(「慶喜公御実紀」明治元年正月12日条「続徳川実紀」)。

 

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 1868(慶応4・明治1)年正月12日徳川慶喜天璋院に面会して鳥羽伏見で開戦するに至った事情を報告しましたが、静寛院宮には面会を許されず、同月15日天璋院の斡旋でようやく面会して鳥羽伏見の戦いに至る状況を説明、翌日天璋院を介して引退の決意と後継者の選定や謝罪のことを朝廷に伝えて頂きたいと懇願しました。静寛院宮は謝罪の朝廷への伝奏周旋のみ引き受け、その方法を天璋院も交えて協議、慶喜が書いた歎願書を何度も書き直させて、正月21日上臈土御門藤子を使節とし慶喜の歎願書と実家の橋本実麗・実梁父子宛の直書を持たせて西上させました(「静寛院宮御日記」一)。土御門藤子は同年2月1日桑名に滞陣する橋本実梁に静寛院宮の直書を渡し、2月6日京都に到着しました。

 当時の朝廷では徳川氏処分について寛厳両論が対立していましたが、同年2月15日有栖川熾仁親王を東征大総督として江戸への進軍が開始されました(「維新史料綱要」巻8)。 その翌日朝廷は橋本実麗に慶喜が謝罪の道を尽すならば慶喜本人の処分は別として徳川家存続については深く配慮する旨の口演書(「静寛院宮御日記」一)を与え、土御門藤子を通じてこれを静寛院宮に伝達させました(「土御門藤子筆記」正親町公和「静寛院宮御日記」二所収・武部敏夫「和宮吉川弘文館)。

 一方徳川方には天璋院を薩摩に帰して徳川家の存続をはかろうとの意見があったようです。このことについて勝海舟は次のように回想しています。

 「慶喜殿が帰られた時に、天璋院を薩摩へ還すという説があったので、大変に不平で、『何の罪があって、里にお還しになるか、一歩でもコゝは出ません、もし無理にお出しになれば自害する』と言ふので、昼夜懐剣を離さない。同じトシのお附きが六人あったが、それが亦、みな、一緒に自害するといふので、少しも手出しが出来ん。それぢゃア、己が行かうといって、先づ通じて置いて貰った。それで、次の日、出てゆくと、女中がずっと並んで居て、座布団が向ふにあるが、天璋院が見えない。『どうかなさいましか』というと、みな黙って居たが、暫くして、女中の中から一人出て来たよ。それが天璋院サ。かくれて様子を見たものだネ。」(「海舟語録」天璋院

 天璋院は次の日も来てほしいといい、3日間勝海舟と語り合ったということです。天璋院は大総督府参謀西郷隆盛に自分の一命に代えても徳川家の存続がかなえられるよう嘆願した書状(畑尚子「前掲書」)を書き、女中らの手によって勝海舟との会談の前に届けられました。

 同年3月3日大総督府は3月15日を期して江戸城を総攻撃する旨命令しました(「維新史料綱要」)。3月13日大総督府参謀西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁勝安芳(海舟)江戸薩摩藩邸で会見、翌日江戸城無血開城の交渉が成立しました(文部省編「維新史」文部省)。

近代日本人の肖像―人物名一覧―かー勝海舟 

 

 宮尾登美子天璋院篤姫」を読む18

 1868(慶応4・明治1)年4月4日勅使橋本実梁・柳原前光両名は江戸城で田安慶頼に江戸城の明け渡し、軍艦・銃砲の引渡しなどを条件として徳川家の家名を存続し、慶喜を水戸に謹慎させる勅旨を伝宣しました。同月11日江戸城が開城して徳川慶喜が水戸に引退のため江戸を去る(「維新史料綱要」巻8)以前、同月9日静寛院宮は実成院とともに清水邸に移り、同月10日天璋院・本寿院は一橋邸に去っていきました(「静寛院宮御日記」一)。

 つづいて同年4月24日関東監察使三条実美江戸城に入り、大総督以下と協議し、田安亀之助を徳川家相続者とし(「維新史料綱要」巻8)、駿府(静岡)において70万石を賜ることに決定、同月29日亀之助相続を、また徳川家封地については彰義隊鎮圧後の同年5月24日伝宣しました(渋沢栄一徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社)。同年7月17日江戸は東京と改称(内閣官報局「法令全書」第1巻 原書房)、同年9月8日明治と改元し、一世一元の制が定められました(内閣官報局「前掲書」)。

 1869(明治2)年正月18日静寛院宮は東京を出発、京都へ帰住しましたが、天璋院は帰郷せず、一橋邸から住居を転々と変え、1871(明治4)年静岡からもどった徳川家達とともに赤坂溜池近くの福吉町にあった旧相良藩邸に移り、1877(明治10)年千駄ヶ谷に新築された徳川邸に終生居住したのでした[保科順子(徳川家達の孫)「花葵 徳川邸おもいで話」毎日新聞社]。家達が同年イギリスへ留学するまで、天璋院が母親代わりで家達の養育に当たりました。福吉町邸と勝海舟の赤坂氷川町邸とはすぐ近くで、勝海舟天璋院の間には親交があったのです。

 

 宮尾登美子天璋院篤姫」を読む19

 1875(明治8)年商法学者のウイリアム・ホイットニーはアメリカで知己となった森有礼の招待で東京に開設した商法講習所(のちの一橋大学)の教師として家族とともに来日しました。ホイットニー家はやがて勝海舟とも知り合いとなり、徳川家達とも交際するようになりました。1876(明治9)年のクリスマスにはじめてホイットニー家に招かれた家達は翌年2月17日ホイットニーの妻と娘クララを徳川邸(福吉町邸)に招待しました。

当時17歳であったクララは徳川邸の様子を次のように記述しています。

 「前方に大きな日本家屋があって、広く堂々たる玄関に、大勢の威厳ある人々が集まっていた。一番威厳のあるサンミ様(三位様 徳川家達)が中央に、あとの従者や護衛たちが堂々たる態度でその回りにいた。両側と道には召使いたちが並んでいた。私たちを見ると、いかめしく恐ろしいサムライ全員が、大変低くお辞儀をし、召使いたちは頭が地につきそうなくらいだった。(中略)案内された客間は、とても立派な部屋で栗色のカバーを掛けたテーブルが中央にあり、ブリュッセルじゅうたんが床に敷いてあった。体裁のよい椅子が回りにあって、隅々には屏風が立っていた。そして部屋の回りには絵も掛かっていた。」

 「婦人たちの住む家に出たが、そこには老婦人が三人(天璋院・本寿院・実成院)、二十八人の侍女を従えて住んでいる。最高位の婦人(天璋院)はご病気で、運悪くお目にかかれなかった。大勢の女の人が廊下に出てきて、お辞儀をしたが、私たちは靴をはいていたので中には入らず、外にいて十五歳になる老猫とたわむれた。」(クララ・ホイットニー「クララの明治日記」上 講談社

 クララ・ホイットニーはのちに勝海舟の3男梶梅太郎(生母は海舟の長崎時代の愛人梶くま、母方の梶家を継ぐ)と結婚したアメリカ人女性です(寺尾美保「天璋院篤姫」高城書房)。

 

宮尾登美子天璋院篤姫」を読む20(最終回)

 1869(明治2)年3月明治天皇が東京に移り、1872(明治5)年10月天皇の勧めもあり(同年12月3日を太陽暦明治6年1月1日とする)、1874(明治7)年7月8日静寛院宮は東京麻布市兵衛町の邸宅に入りました。以後天皇の近親として厚遇を受け、一方徳川家一門として天璋院・家達を自邸に招待、また家達邸を訪問する日常を過ごしました。

 天璋院と静寛院宮が一緒に勝海舟を訪問したことがありました。お膳を出すと、両方でお給仕をしようとしてにらみあっていると女中が海舟に告げたので、海舟はお櫃を二つ出させて「サ、天璋院さまのは、和宮さまが為さいまし、和宮さまのは天璋院さまが為さいまし、これで喧嘩はありますまい」。すると「安芳は利口者です」と大笑いになって、帰りは一つ馬車で帰っていったそうです(「海舟語録」和宮天璋院)。

 1877(明治10)年8月静寛院宮は脚気を発病し、侍医のすすめで箱根塔ノ沢へ湯治に行きましたが同年9月2日衝心の発作が起こり、旅館環翠楼にて32歳で死去しました。徳川家達はイギリス留学中で留守を預かる松平斉民(確堂)が喪主として葬儀を行い、遺骸は生前の希望により、家茂の墓と並んで葬られました(武部敏夫「和宮吉川弘文館)。

 1880(明治13)年9月23日天璋院ははじめて旅行し、新橋から鉄道利用で神奈川に赴き、東海道を人力車を利用して江ノ島に参詣、小田原に一泊、熱海に一月近く滞在、10月28日には熱海出発、箱根芦ノ湖を巡り、宮ノ下に二泊した後、塔ノ沢の環翠楼を訪問、亡き静寛院宮をしのんで次の和歌を詠みました。「君かよわひ(齢)とどめかねたる早川の水のながれもうらめしきかな」(「熱海箱根湯治日記」)。

 1883(明治16)年11月13日天璋院は卒中を発症し危篤状態となりました(「海舟日記」)、また同年11月17日ころ千駄ヶ谷邸でお湯を使っていたとき、間違って湯殿でつまずき中風症になった(「東京日々新聞」)ともいわれています。彼女は同年11月20日49歳で死去しました(「明治過去帳」)。喪主徳川家達により葬儀が行われ、上野寛永寺の夫温恭院(家定)と並んで宝塔が建てられました。

 この小説は天璋院篤姫歿後、額縁の中の篤姫が微笑みながら首を振ったように思われ、女中重野が篤姫の大好物であった白いんげんの煮たのとあんかけ豆腐を祀るために台所のほうへ立っていくところで終了しています。