宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む1~10

宮尾登美子天璋院篤姫」を読む1

 宮尾登美子天璋院篤姫」は1983(昭和58)年2月25日から1984(昭和59)年5月1日まで日本経済新聞夕刊に連載され、1984年講談社より出版、2007(平成19)年加筆された新装版が同社より刊行され、2008(平成20)年第47回NHK大河ドラマ篤姫」の原作となった小説です。

 徳川氏関ヶ原の戦いで敵対した島津氏をいわゆるムチとアメの政策を使い分けながら支配してきました。

 例えば1729(享保14)年藩主島津継豊は8代将軍徳川吉宗から常憲院殿(綱吉)の養女竹姫(綱吉の愛妾大典侍の局の姪 清閑寺大納言煕定の女 浄岸院 「寿光院殿之系」柳営婦女伝系巻之十四 柳営婦女伝叢 日本人物情報大系 女性叢伝編1 皓星社)を継室(後妻)として娶ることを命ぜられ、そのための出費[新御殿(御守殿)建築・調度その他]により借銀は3倍に増大しました。

 しかし竹姫は島津家の家格向上をもたらしました。継豊を継承した宗信・重年が若年で死去した後、竹姫は重年の嫡子重豪を養育し、重豪の人格形成などに大きな影響を与えました。1762(宝暦12)年12月重豪は竹姫の意向をうけ、一橋宗尹(むねただ 吉宗の子)の娘保姫と結婚しました。1772(安永1)年12月5日竹姫は68歳で死去の際、重豪に娘が生れたら徳川家一門と縁組させるようにと遺言(「旧記雑録追録」6 巻131-1406 鹿児島県史料 鹿児島県)を残したので、翌年6月に誕生した島津重豪の三女茂姫(寔子 広大院)と一橋治済の嫡子豊千代との縁組が1776(安永5)年7月18日に成立しました。

 1779(安永8)年2月24日家基(将軍家治の世子)が死去すると(「浚明院殿御実紀」巻40「徳川実紀」)、田沼意次は1781(天明1)年閏5月18日一橋治済の長男豊千代を将軍家治の世子とすることに成功しました(「浚明院殿御実紀」巻44「徳川実紀」)。豊千代は1781(天明1)年江戸城西丸に入り、家斉と改名しました(「浚明院殿御実紀」巻45「徳川実紀」)。

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宮尾登美子天璋院篤姫」を読む2

 徳川将軍家は3代将軍家光以降皇族・五摂家などの上流公家と婚姻関係を結ぶ慣例がありました。1786(天明6)年10代将軍家治死去により家斉は本丸に移ると、茂姫の父島津重豪の権勢を警戒する動きが現れ、形勢を察知した重豪は翌年隠居、家督を斉宣に譲り(「寛政重修諸家譜」巻108)、次代の斉興まで依然として藩政の実権を握りつづけました。

 中世以来島津家は近衛家を門流(主家)と仰ぐ間柄で、1705(宝永2)年6月薩摩藩3代藩主島津綱貴の娘亀姫は近衛家久と結婚、同年10月亀姫が死去すると、4代藩主吉貴の娘満姫が1712(正徳2)年近衛家久に嫁しています。このような島津家と近衛家との関係維持に大きな影響力を発揮したのが、6代将軍家宣正室天英院(近衛基凞娘)でありました(寺尾美保「天璋院篤姫」高城書房・林匡「島津家と近衛家」芳即正「天璋院篤姫のすべて」新人物往来社)。

 1787(天明7)年家斉将軍宣下、茂姫は近衛経熙の養女となり、寔子という諱を賜り、1789(寛政1)年2月4日家斉との婚儀にこぎつけたのです(「文恭院殿御実紀」巻6「続徳川実紀」)。

 

宮尾登美子天璋院篤姫」を読む3

 1809(文化6)年薩摩藩主となった島津斉興には正室(弥姫 鳥取藩主池田斉稷娘)との間に生れた長男斉彬、次男の斉敏(鳥取藩主池田家を継ぐ)と側室の由羅が生んだ三男久光がいました。斉彬は3歳で世子になっていたのに、斉興は由羅を寵愛して久光を可愛がり、斉彬を疎遠にしたのです。

 永年にわたり薩摩藩政の実権を握りつづけた島津重豪は1833(天保4)年に死去していましたが、薩摩藩内には筆頭家老島津将曹ら門閥層と藩財政再建に貢献し重豪死後も藩主斉興の信任厚かった調所広郷らの一派と江戸家老島津久武と主として民生・軍事を担当した人々で斉彬が藩主になることを期待していた一派との対立が激化していました。

 斉彬は幕府老中阿部正弘らの強力な支持を得て、調所広郷失脚をはかり1848(嘉永1)年12月調所広郷は明るみに出た藩琉球密貿易の責任をとって服毒自殺を遂げましたが、この事件の背後には島津斉彬がいたと思われます。

 1849(嘉永2)年斉彬擁立派はこの勢いに乗じて由羅と島津将曹らを殺害しようとした計画が事前にもれ、これを聞いた斉興は激怒、同年12月3日町奉行物頭勤近藤隆左衛門、船奉行家老座書勤奥掛役高崎五郎右衛門、鉄砲奉行勤山田一郎左衛門らに切腹を命じ、翌年4月島津久武が切腹させられるまで切腹13人、遠島17人その他50余人に及ぶ処分がおこなわれました(芳即正「島津斉彬吉川弘文館)。

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 弾圧を免れた斉彬派は斉彬と親密な筑前藩主黒田斉溥に助けを求めたので、黒田斉溥は越前藩主松平慶永宇和島藩伊達宗城らと相談して老中阿部正弘に斉彬の島津家相続に尽力を要請しました(芳即正「前掲書」)。

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 1851(嘉永4)年正月阿部正弘は幕府の干渉を秘して斉興を隠居させることに成功、同年2月斉彬は薩摩藩主となることに成功したのでした(「慎徳院殿御実紀」巻15「続徳川実紀」)。

 

宮尾登美子天璋院篤姫」を読む4

将軍世子家定は1841(天保12)年5月関白鷹司政熙の娘有姫(任子)と結婚しましたが、任子は1848(嘉永1)年死去、翌年左大臣一条忠良の養女寿明姫(秀子)と再婚しましたが、秀子は1850(嘉永3)年死去し、家定は再び独身となったのです(「慎徳院殿御実紀」巻14「続徳川実紀」)。

 家定簾中(れんちゅう 将軍世子正室)秀子死去後間もなく、11代将軍御台所(みだいどころ 将軍正室)であった広大院付比丘尼(女僧)から島津家の年寄へ内々に藩主斉興や世子斉彬に年頃の娘はいないか問い合わせがありました。島津家では年頃の娘もおらず、なぜこのようなことを聞かれたのかも分からなかったので、情報を集めたところ、家定が京都出身の夫人が相次いで死去したため、京都の娘ではなく、広大院の例にならって、自分も夫人を島津家から迎えたいと希望したので、島津家に年頃の娘はいないかと問い合わせてきたことが明らかとなりました(「御一条初発より之大意」竪山利武公用控十四冊の内八 自安政2年11月24日至12月29日 「斉彬公史料」 第4巻 鹿児島県史料 鹿児島県・芳即正「天璋院入輿は本来継嗣問題とは無関係」雑誌「日本歴史」551号 1994年4月号)。

 

宮尾登美子天璋院篤姫」を読む5

 1851(嘉永4)年2月薩摩藩主となった島津斉彬は大砲・蒸気軍艦を製造して軍備を強化し、紡績工業などの産業を育成しようとしていましたが、これらの政策を実行すれば幕府に謀反を企てているのではないかと疑われるおそれがあり、それを打ち消すためにも将軍家と婚姻関係を結ぶことに熱心でした。斉彬は同年3月9日江戸をたち、途中京都の近衛忠凞邸で家定継室候補者について協議、同年5月8日鹿児島へ到着しました。

 領国薩摩で多くの者と会い、島津忠剛(ただたけ 斉彬叔父・斉興弟)の娘於一(おかつ)を気に入って家定継室候補にしたいと考えるに至ったようです(「斉彬公史料」第4巻 鹿児島県史料 鹿児島県)。

 江戸時代の薩摩藩主島津家は薩摩・大隅・日向諸県(もろかた)郡及び琉球国を支配、琉球を除く領国の人口は1852(嘉永5)年調査(「要用集」により推計)によれば約625000人、このうち士族が172000人余、全人口の約27.5%を占めていました。全国平均の5~6%に比して士族の人口は多く、彼等をすべて鹿児島城下に居住させることはできないので、薩摩藩琉球を除く領国を110余の外城(とじょう)という行政区画に分け、武士たちを配置して行政と防衛を担当させていました。1783(天明3)年外城は郷と改名されたのです。 

外城の中核であった村には麓(ふもと)と呼ばれる武家集落がありました。

島津家家臣団は鹿児島に住む城下士と外城に住む外城衆中(しゅじゅう 郷士)に分けられました。城下士の中でも家臣最上位の家柄は一門家と呼ばれ、重富(越前)家・加治木家・垂水家・今和泉家の4家がありました。

 島津忠剛は今和泉家の領地今和泉郷を領地とし、本邸は鹿児島城下にありました。

ワシモ(WaShimo)のホームページへようこそ!―コンテンツー旅行記―鹿児島県―天璋院篤姫ゆかりの地―指宿市・鹿児島市

 

 宮尾登美子天璋院篤姫」を読む6

 於一は島津忠剛の娘として1835(天保6)年12月19日誕生しました(「島津氏正統系図」松尾千歳「篤姫の出自とその一族」引用 芳即正「天璋院篤姫のすべて」新人物往来社)。また彼女は1836(天保7)年2月19日府第(鹿児島城下の本邸)で生れたとする史料(「源姓和泉氏嫡流系図」以下「和泉氏系図」と略 松尾千歳「篤姫の出自とその一族」引用 芳即正「前掲書」)もあります。於一の母は島津久柄の娘で名は不詳です(「和泉氏系図」)。ただし墓碑に「幸姫」とあり実母名は幸と判明しました(寺尾美保「前掲書」)。

 於一と会ったことのある越前藩主松平慶永は彼女の性格について、斉彬から「耐忍力ありて、幼年よりいまだ怒の色を見たる事なく、不平のやう子もなし。腹中は大きなるものと見ゆ。軽々敷事なく、温和に見へて、人に応接するも誠に上手なり。将軍家の御台所には適当なり。」と聞かされたと記述(「閑窓秉筆」松平春岳全集 第1巻 明治百年史叢書 原書房)しています。

近代日本人の肖像―人名50音順―松平慶永   

 ところが幕府側家定継室についての窓口をつとめていた幕府奥医師多紀元堅らから、幕府閣老たちが島津家女性を正室ではなく側室にと考えていることを知らされた斉彬は1852(嘉永5)年8月23日鹿児島を出発、同年10月9日江戸に到着、ただちに老中阿部正弘や大奥の実力者姉小路[12代将軍家慶の正室楽宮(有栖川宮織仁親王娘)に従って京都から下向した公家の娘]に連絡し問題解決に奔走しました。姉小路は於一が斉彬の実子であれば家定正室でよいという意向を示したので、1853(嘉永6)年3月1日於一は斉彬の養女に迎えられ、同月10日篤姫と改名、幕府に斉彬実子として届けられました。

 同年6月5日篤姫は鹿児島城下の今和泉邸を出て、藩主居城の鶴丸城に入り、同年5月2日江戸を出発した斉彬も同年6月22日鶴丸城に到着したのです。

幕末写真館―幕末の女性―天璋院篤姫(尚古集成館蔵 島津隆子「篤姫と和宮」掲載 芳即正「前掲書」)

 

 宮尾登美子天璋院篤姫」を読む7

 しかるに1853(嘉永6)年6月3日ペルリ提督率いるアメリカ艦隊が来航(「日本遠征記」を読む4参照)、幕府老中阿部正弘らはその対応に追われる毎日となりました。

 阿部正弘(備後福山藩主)はペリー来航による対外折衝に当り、異例でありましたが対外問題を朝廷に奏聞するとともに、対外策を諸大名・幕臣らに諮問し、御三家の前水戸藩徳川斉昭を幕府顧問格に据え、大廊下詰(御三家以外の徳川氏分家と徳川氏と親近関係にあった外様大名の一部の江戸城詰所)の代表的人物越前藩主松平慶永(春嶽)、大広間詰(大藩外様大名江戸城詰所)薩摩藩島津斉彬と密接な関係を結びました。

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 ペリーが来年の日本渡航を予告して江戸湾を去った直後、12代将軍家慶は1853(嘉永6)年6月22日死去、同年11月23日世子家定が13代将軍に就任しました(「維新史料綱要」巻1 東大出版会)。

 将軍家慶死去により家慶の寵愛を受けていた姉小路の大奥における影響力の低下を予想した島津斉彬は家定育ての親で近衛家とも旧知の間柄であった歌橋を新たな仲介者として近衛家を通じ依頼するよう働きかけました。

 阿部正弘の要請もあり、篤姫は同年8月21日鹿児島を出発、途中近衛家に立ち寄り、同年10月29日江戸芝の薩摩藩邸に到着、この小説は島津斉彬の養女篤姫が斉彬の見送りを受けて鶴丸城から江戸へ出発する描写から始まります。

 斉彬も1854(安政1)年1月21日鹿児島を出発、同年3月6日江戸に着きました。このとき西郷吉兵衛(後吉之助と称する)も斉彬に同行しており、庭方役(君主の密事を命ぜられ、または情報を報告する役)に抜擢されました。1856(安政3)年将軍家と篤姫との縁談はようやく急進展、斉彬は近衛忠凞簾中郁君(島津斉興養女)付で、郁君死後尼となっていた得浄院を還俗させて篤姫付老女(幾島)とし、江戸へ呼び寄せました。  

 幾島については「女丈夫とかいへる類にて、心逞敷膽太とき本性」と評される女性で、顔に大きな瘤がある異相の持ち主であり、みな陰では「瘤々(こぶこぶ)」と呼んでいたそうです(安政4年12月14日「西郷より後宮往復の密書呈覧」中根雪江「昨夢紀事」二 日本史籍協会叢書 東大出版会)。中根雪江は越前藩主松平慶永の腹心だった人物です。

 後に西郷は「おいどんが珊瑚、鼈甲、陶磁器、金銀細工の装飾品に至るまで鑑識に長けているのは、その昔篤姫こと天璋院様が入輿の折、調度品一切の御用達を命じられたとき覚えたのでごわす」と述懐しています(島津隆子「篤姫和宮」芳即正「前掲書」)。

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 同年4月4日京都近衛邸で篤姫を養女とする結定式が行われ、7月篤姫近衛家養女とする幕府の許可が下されると、篤姫は「敬子(すみこ)」と改名しました。篤姫は同年11月11日江戸城に入り、同月19日納采(結納)の儀が行われ、同年12月18日婚儀がとりおこなわれました(「温恭院殿御実紀」安政3年12月18日条 「続徳川実紀」)。江戸城大奥にはすでに家定生母本寿院(家慶側室みつ)とお志賀(家定側室)がいました。

 

 宮尾登美子天璋院篤姫」を読む8

 1856(安政3)年7月21日(西暦8月21日)アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは日米和親条約により開港された下田に入港、このとき条約第11条の解釈をめぐって日米間に紛議(「日本遠征記」を読む16参照)を生じましたが、ハリスは玉泉寺に総領事館を開設、翌年10月21日(西暦12月7日)ハリスは幕府の反対を押し切って江戸城で将軍家定との謁見を実現しました(「大日本古文書・幕末外国関係文書」之十八 35号文書)。

 このときの将軍家定の挙動をハリスは次のように述べています。「ここで私は言葉を止めて、そして頭を下げた。短い沈黙ののち大君(たいくん・将軍)は自分の頭を、その左肩ををこえて、後方へぐいっとそらしはじめた。同時に右足をふみ鳴らした。これが三、四回繰り返された。それから彼は、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりした声で、次のような意味のことを言った。『遠方の国から、使節をもって送られた書翰に満足する。同じく、使節の口上に満足する。両国の交際は永久につづくであろう。』」(ハリス「日本滞在記」下 岩波文庫) 日本側史料(上掲 35号文書)では将軍家定の答辞は「遠境之処以使節書翰差越、令満足候、猶幾久敷可申通、此段大統領へ宜可申述」となっています。

 この将軍家定の動作について日本側記録(進士慶幹校注「旧事諮問録」上 大奥の事 岩波文庫)には「問 十三代(家定)は御癇癖があったそうですな。 答 さよう、御癇癖があったのでございます。しかしあまり困るような事ではございませぬ。ただ首を振る癖がありました。」と記述されていることが参考になります。この後ハリスは老中堀田正睦(下総佐倉藩主)に通商開始の必要性を力説し、通商条約調印を迫ったのです(「維新史料綱要」巻2)。

日米交流―3 通商条約と内政混乱

  一方病弱であった将軍家定に嗣子を得ることができないことは明らかであったため、1857(安政4)年6月老中阿部正弘死去後の翌年正月ころから将軍継嗣問題が烈しさを増してきました。次期将軍候補者は水戸徳川家出身の一橋慶喜(よしのぶ)と紀州徳川家の慶福(よしとみ)で、一橋慶喜を推す一橋派には慶喜の実父水戸藩徳川斉昭、越前(福井)藩主松平慶永(春嶽)、薩摩藩島津斉彬があり、徳川慶福を推す南紀派には老中堀田正睦(後一橋派に転向)、彦根藩井伊直弼新宮藩主水野忠央(紀州藩付家老)らが居ました。

 篤姫が御台所となると、彼女を一橋慶喜擁立に利用しようという動きも起こりました。斉彬も篤姫に将軍継嗣問題を説明し、機会を見て家定に働きかけるよう指示していましたが、篤姫があまり積極的に動くのは得策ではないとおもっていました。それで篤姫に従って大奥に入った幾島が中心となって大奥工作を進めたのです。斉彬の腹心西郷吉兵衛は松平慶永の家臣橋本佐内に篤姫を通じて大奥で慶喜擁立の工作をすると伝え、薩摩藩邸の老女小野島を通じて篤姫付の老女幾島に連絡をとりました。

 将軍継嗣の決定には将軍家定の意向がもっとも重視されますが、彼の意見に大きな影響力をもつのは生母本寿院です。大奥には水戸嫌いの風潮が強く、本寿院は一橋慶喜を将軍継嗣とすることに絶対反対で、家定を養育した歌橋も同意見で紀州擁立に傾いていました。

 

 宮尾登美子天璋院篤姫」を読む9

 1858(安政5)年正月5日幕府はハリスに60日以内の通商条約調印を約束、条約勅許奏請のため老中堀田正睦を上京させましたが、同年3月20日朝廷は条約調印は御三家以下諸大名の意見を奏上した後、再び勅裁を要請すべしとの勅諚を堀田正睦に示し、条約勅許は得られませんでした(「維新史料綱要」巻2)。

 かくして同年4月23日将軍家定は彦根藩井伊直弼大老に任命(「温恭院殿御実紀」安政5年4月23日条 「続徳川実紀」)、同年6月19日幕府は江戸湾碇泊の米艦上でハリスと日米修好通商条約および貿易章程を無勅許で調印(「維新史料綱要」巻2)しました。同条約はアメリカ合衆国領事裁判権を与え、関税自主権なしの不平等条約です。つづいて同年6月25日将軍家定は継嗣を紀州藩徳川慶福に決定(「温恭院殿御実紀」安政5年6月25日条「続徳川実紀」)しました。

小さな資料室―資料177 日米修好通商条約(付・貿易章程)

  同年7月6日将軍家定死去(「維新史料綱要」巻3)、つづいて7月16日島津斉彬死去、死去の直前かけつけた久光に、久光かその子忠徳(茂久・忠義)を斉興に伺い後継者と定めよと遺言しました(芳即正「島津斉彬吉川弘文館)。8月29日篤姫は落飾して天璋院と称しました。同年7月21日徳川慶福は家茂(いえもち)と改名(「維新史料綱要」巻3)、同年10月25日将軍宣下(「公卿補任」)、天璋院は将軍養母として江戸城大奥の中心となったのです。

よろパラ 文学歴史の10-日本史人物列伝―とー徳川家茂

 

宮尾登美子天璋院篤姫」を読む10

 1858(安政5)年6月24日前水戸藩徳川斉昭らは江戸城中で条約無勅許調印につき、大老井伊直弼を詰問(「維新史料綱要」)、同年7月5日幕府は徳川斉昭を謹慎、徳川慶恕(慶勝・尾張藩主)・松平慶永を隠居・謹慎処分(「温恭院殿御実紀」「続徳川実紀」)とし、同年9月7日元小浜藩士梅田源次郎(雲浜)を京都で逮捕、以後吉田松陰橋本左内ら志士が続々と逮捕され、いわゆる安政の大獄が始まりました(「維新史料綱要」)。

 このような幕府の反対派弾圧に対して、1860(万延1)年3月3日大老井伊直弼桜田門外で水戸浪士らの襲撃を受け惨殺されました(「水戸藩史料」・「維新史料綱要」巻3)。

東京紅団―テーマ別散歩情報―明治維新シリーズー桜田門外の変を歩く(1)(2)

 桜田門外の変後、弱体化した幕府は公武合体による政情安定の具体策として同年4月1日付の老中連署奉書で皇妹和宮降嫁を関白九条尚忠に申し入れ(「維新史料綱要」巻3)、九条尚忠は同年5月1日孝明天皇にこれを奏上しました。和宮はすでに有栖川宮熾仁親王と婚約が成立しており、天皇は降嫁請願を2度却下、和宮も生母観行院(典侍橋本経子 権大納言橋本実久の娘)も承諾しませんでした。

 しかし幕府は使節を京都に派遣して観行院と和宮伯父橋本実麗を説得、また和宮降嫁を条件として攘夷決行を幕府に約束させようとしていた岩倉具視孝明天皇和宮降嫁を許可するよう働きかけました(「和宮降嫁ノ件勅問ニ付具視意見書ヲ進覧スル事」多田好問編「岩倉公実記」上 明治百年史叢書 原書房)。

 同年8月15日和宮は将軍家茂との婚姻にあたり、5箇条を条件に降嫁を内諾、同月18日孝明天皇は条約破棄・公武の融和を条件に和宮降嫁勅許を関白九条尚忠を通じ幕府に内達しました(「維新史料綱要」巻3)。  また和宮要請の5箇条にそって、孝明天皇から幕府への要望があり、それは12箇条の趣意書(宮内省先帝御事蹟取調掛編「孝明天皇紀」第三 万延元年10月6日条 吉川弘文館)として通達されました。その中には身辺を「万事御所風」にすることという箇条もありました。同月26日有栖川宮家は和宮お輿入れ延期という事実上の婚約解消を願い出る形式をとらされました(「維新史料綱要」巻3)。