犬養道子「花々と星々と」を読む1~10

犬養道子「花々と星々と」を読む 1

 犬養道子「花々と星々と」上下(大活字本シリーズ 埼玉福祉会)は著者の自伝的随筆で、中央公論社から1969(昭和44年)出版、1973(昭和48)年増補版が出されました。著者は1932(昭和7)年の五・一五事件で暗殺された犬養毅(木堂)首相の孫、白樺派の作家で後政界に転じた犬養健(毅の子)・仲子夫妻の長女です。本書では犬養毅と犬養家の人々や、同家と関わりのあったさまざまな人々の姿が生き生きと描写されており、彼女は評論家としても其の他多くの著作を発表しています。

系図で見る近現代―目次―第12回 犬養毅―「話せばわかる」は、なかった!

 1978(昭和53)年には本書を原作とする「ドラマ人間模様」(斉藤こず恵 犬養道子役)がNHKから放映されました。

 まず犬養毅(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13参照)の生い立ちから申し述べることにしましょう。

 彼は1855(安政2)年4月20日備中国賀陽郡庭瀬村字川入(後ち岡山県吉備郡庭瀬町)の庭瀬藩(板倉氏領)大庄屋犬飼源左衛門當済の次男(母 嵯峨)として生まれ、仙次郎當毅(後に本人が毅の一字とした。読み方も本人自身時期によって変化、つよし、つよきと呼ばれたことが多い)と名付けられました(鷲尾義直編「犬養木堂伝」上 明治百年史叢書 原書房)。

犬養木堂記念館 

 犬飼家は犬養とも称し(毅の代に犬養と決定)、苗字帯刀を許された家柄でしたが、當済の代には家運が衰退していました。父源左衛門はこの次男の誕生を殊の外喜び、七言絶句を賦したと言います。近隣の人々は「犬飼家は、代々次男に傑出した人物を出してゐる、今度も次男の誕生祝いを盛んにされたのは、その為であらう」と噂し合ったそうです。

 彼は6歳のころから父の膝下にあって漢書素読を授けられ、7歳にして藩医で学者として聞こえた森田月瀬の家塾に通学させられたのですが、父は彼を漢学者にする希望だったので1865(慶応1)年犬飼松窓の三餘塾に転学させられました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 2

 ところが1868(明治1)年父は急病で死去、当時彼の兄豊太郎が18歳で家を相続したのですが、彼が従来通り修業を続けることは不可能となりました。

 そこで兄の厄介にならずに、自活して勉学を続けるために、彼は門側の一屋に寺子屋を開き、傍ら松窓先生の家塾に通って勉学に励みました。

 松窓先生が倉敷の明倫館に招聘されると、彼はそこから約1里ほどの母方の伯父の家に寄寓して勉強をつづけました。

倉敷代官所跡 

 1871(明治4)年廃藩置県により、庭瀬藩は深津県(県庁 笠岡市)の一部となり、同県は翌年小田県と改称されました。

 すでに習字を習っていた御祐筆が小田県の役人で、この人の紹介により、彼は同県地券局に勤務することになりました。彼はこうして学資を貯え、上京するつもりでしたが、給料は安く、下宿代を払えば、あとはいくらも残りませんでした。1874(明治7)年地券局は地租改正局と改称されましたが、彼は継続出仕を願わず辞職しました。

 そのころ医者などが集まって漢訳の西洋書輪読が流行していました。会場は大概お寺で、集まるものは彼より年長のものばかり、書籍は「気海観瀾」(青地林宗著 日本最初の物理学書)や「博物新編」(大槻玄沢ら訳 仏語の「家事百科事典」の蘭訳本)とかいうもので、漢学修業を目的とする彼には物足りないものでした。

 ところがあるとき、先輩の学友多田松荘が漢訳の「万国公法」(ヘンリー・ホウィートン著の国際法原書を米人宣教師マーチンが漢訳したもの。日本では1865年出版)を輪読の席に持って来ました。

 「どうもよく読めない」と多田が言うので、彼は同書を持ちかえって、三晩くらい徹夜しましたが、すっきり理解できませんでした。そこでまず英語を学んで原本を読んでみようと考え、それには上京する外はないが、旅費の工夫さえつかず、途方にくれていると、友人の多田が資産家の伯父に話して30両出してくれることになり、あとは姉がかなりの商人に嫁いでいて、婿の援助で上京することになりました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 3

 1875(明治8)年7月7日神戸出帆、横浜を経て7月10日東京着、松窓先生の家塾の塾頭であった難波恭平氏を訪ねると、地方に移転して不在でした。姉婿の援助も期待できなくなり、途方にくれているとき、偶然小田県の官吏であった山口正邦に出会い、山口の従兄林(後 藤田姓)茂吉に会えるよう手配してくれました。藤田茂吉は慶応義塾出身、郵便報知新聞主筆をしていた人物で、彼はまもなく藤田の新借家(京橋区南鍋町)の食客となり、同新聞論説の代筆を引き受けたりしたこともあったようです。彼が湯島の共慣義塾に入ったのも藤田の勧めによるものでした。共慣義塾は月謝も賄料も他に比して安く、ここで彼は初歩の英語を習得しましたが、塾舎は粗造不潔、寄宿舎の賄いも劣悪で耐えがたいものでした。

Weblio辞書―検索―郵便報知新聞―藤田茂吉    

 藤田は彼に郵便報知新聞に寄稿し、その原稿料を学資にして慶応義塾に入学してはどうかと勧め、1876(明治9)年彼は同塾に入学、寄宿舎では一切友人とも交際せず、勉学に専心する毎日を過ごしました。

 1877(明治10)年西南戦争(「大山巌」を読む18参照)がおこると、藤田茂吉から、戦地にでかけて戦況を通報してはどうか、もし君がやってくれるなら、社主に交渉して帰ってからの学費は卒業まで社から毎月10円ずつださせることにするが、という相談をうけ、彼は快諾し「戦地探偵人」(従軍記者)として戦地に赴くことになりました。

 戦地に到着したのは同年3月田原坂の戦闘の最中で、軍人と官吏以外交戦地帯に入ること禁止とのこと、幸いに内務権大書記官の石井章一郎が臨時熊本県令事務取扱として出張してきていたので、この人に頼んで熊本県御用係という名義の辞令を出してもらって交戦区域に入ることができました。

 当時各新聞社から特派された記者は、「東京日日」の福地源一郎(桜痴)をはじめ一流の大記者を選抜したものでしたが、彼等は贅沢な生活に慣れ、戦地の不自由に弱っていました。これに対して彼は貧書生で窮乏には慣れて居り、砲烟弾雨の間を縦横に馳駆し、ときには兵卒らとともに露営もし、夜襲にも加わるという有様で、所謂活きた材料によって軍事通信の任務を果しました。

 彼の戦地からの通信は「戦地直報」と題して、同年3月27日発行の郵便報知新聞紙上に其の第1回が掲載され、城山陥落まで前後百数回連載、内容は生彩に富み、現状を見るようだと大いに読者の歓迎するところとなりました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 4

 彼が九州から帰ってくると、報知社では学資は続けるが、その代わりに月3回宛論説を書いてくれと言われ、やむなく承知しました。ところが半年もたたぬうちに藤田より月10回論説を書けといわれ、それでは約束が違うと報知社との関係を絶つに至ったのです。

 すると忽ち学資に困りましたが、同郷の友人が翻訳文の添削の仕事を周旋してくれて、これで安心して勉強できるようになりました。

 当時福沢諭吉は講義を担当しておりませんでしたが、三田演説会が毎週土曜日に開かれ、福沢が演説するとその後犬養毅も演説(「諸友は語る」鷲尾義直「前掲書」)、こうした福沢と彼との人格的接触を通じて、彼は福沢の思想的影響を受けたようです。

 彼はまた仮名垣魯文の推薦(「十大先覚記者伝」鷲尾義直「前掲書」)で1873(明治6)年郵便報知新聞に入社した栗本鋤雲の門下生となり指導を仰ぎました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―くー栗本鋤雲

 犬養毅の雅号「木堂」は栗本鋤雲の撰によるものとする説(犬養道子「表題書」)があります。鷲尾義直氏によれば、犬養毅がいつから「木堂」の雅号を称するようになったのか不明であり、その出典は「老子」説(「十大先覚記者伝」)もあるが誤りで、「論語」の「剛毅木訥近干仁」から撰んだと犬養毅自身が述べていること、及びこの雅号が鋤雲の撰によるものかどうか断定を避けています(鷲尾義直「前掲書」)。

 入学した慶応義塾で彼が一番困ったのは学資を得るための翻訳文添削などに追われ、数学の勉強の時間がなかったことでした。そのため第二級時代の大試験に1点上の成績を矢田績(後 三井銀行入社)君に奪われ、自尊心を傷つけられた彼は卒業間際の慶応義塾を退学してしまったのです。彼の負けず嫌いな性格の一面がよく表れている挿話です。

 1880(明治13)年「東海経済新報」が創刊され、社長は豊川良平(慶応義塾出身)で、資金の調達其の他経営を担当、彼は主幹として編集を担当、「東京経済雑誌」誌上に自由貿易論を掲げる田口卯吉(鼎軒)に対して、彼は保護貿易論を主張、両者の論争が展開されました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー田口卯吉

 やがて豊川は明治義塾の経営に主力を注がねばなっらなくなり、かれもまた大隈の改進党創立に参画して多忙となったため、1882(明治15)年同誌は廃刊となりました。

 彼の永い記者生活(郵便報知新聞の寄稿にはじまり、東海経済新報の創刊から正式に報知社への入社となり、朝野新聞に転じ、民報の創刊となり、聘せられて秋田日報の主筆に就任、また報知社に復帰など)の途中、参議大隈重信(「田中正造の生涯」を読む12参照)の配下であった報知社の先輩矢野文雄(龍溪 「日本の労働運動」を読む10参照)のすすめで1881(明治14)年7月18日統計院権少書記官に任命されました。矢野は彼に、統計院の総裁は大隈参議である、大隈は近く開設せらるべき帝国議会に、有力なる政府委員をを養成するの必要を感じ、福沢諭吉(「大山巌」を読む24参照)に依頼して、三田系の俊才をそこに網羅せんとする意図を懐いている、そしてその選考の任に当たったのが矢野だというのです。

 彼は在官中であっても「東海経済新報」を続刊し、これに執筆することを妨げない内諾を得て、統計院に出仕することになりましたが、このとき矢野の推挙で統計院に入ったのは、彼の外、尾崎行雄(「大山巌」を読む47参照)・牛場卓造の3人でした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 5

 しかし1881(明治14)年の政変(「大山巌」を読む19参照)により、同年10月11日大隈重信が参議を罷免されて下野すると、矢野文雄・犬養毅尾崎行雄らも一斉に辞任するに至りました。

 翌日、1890(明治23)年を期して国会を開くとの詔が発せられると、同年板垣退助を総理とする自由党が結党され、これにつづいて翌年大隈重信を総理とする立憲改進党が発足しました。

 同党は大隈総理の下に河野敏鎌、北畠治房、前島密の3大老がおり、大老の下に5奉行の如き幹事が設けられ、矢野文雄、沼間守一、牟田口元学、春木義彰、小野梓がこの職務を勤めました。是等の人々はすべて官吏を辞職した人たちで、最高幹部でしたが、尾崎行雄犬養毅らは、その下で地方の遊説にむけられる実働部隊に属し、最高幹部会議には参加を許されませんでした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー前島密

 1882(明治15)年5月東京府会議員の補欠選挙が芝区で行われたとき、当時の芝区長奥平昌邁は犬養に立候補をすすめました。彼は当時復帰した郵便報知新聞大隈重信買収、社長矢野文雄)の記者で、まだ下宿生活をしていましたが、奥平は法律上の居住資格を作るために慶応義塾構内の岡本宅に彼の門札を掲げるよう手配、首尾よく当選しました。

 このころ彼はようやく本所区番場(旗本戸田邸跡)に新居を構え、郷里から母と妹を迎えております。

 1883(明治16)年春、彼は秋田改進党から「秋田日報」主筆に招聘されて秋田に赴いたのですが、永く中央の地を離れるつもりはなく、同年11月18日秋田を出発、同月末に帰京して郵便報知新聞社に復帰しました。

 政府の自由民権運動に対する弾圧が強化(「大山巌」を読む19参照)され、松方デフレ政策(「雄気堂々」を読む16参照)による不況も影響して1882(明治15)年の福島事件をはじめとする自由民権運動激化事件が頻発するに伴い、1884(明治17)年自由党は解党、立憲改進党にも解党論が高まってきました。同党の総理大隈重信は解党論の代表者河野敏鎌、非解党論の代表者北畑治房、中立派の代表者前島密の慰撫調整に苦しみ、同年12月17日副総理河野敏鎌とともに同党を脱党しました(「明治政史」明治文化全集 日本評論社)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 6

 このような情勢の下で、大隈の去った後、同党は総理を空席とし、沼間守一・島田三郎・尾崎行雄・藤田茂吉ら7名を事務委員に挙げ、党務を処理することとなりました。犬養は解党反対派の一人でしたが、具体的にどのような党活動をしたのかほとんど不明です。

 同年12月4日に朝鮮で起った甲申事変(「大山巌」を読む24参照)処理のため井上馨外務卿は特派全権大使として朝鮮に赴き、郵便報知新聞犬養毅をその談判の模様並びに同国乱後の景況を探聞し、精密確実の報道をなさんがため、同国京城漢城)に特派することにしました。

 彼は同年12月25日春日艦で横浜を出港、暴風のため難航し、翌年1月3日馬関を出港、同月6日仁川着、仁川から京城に赴き数日滞在、同月12日同地を出発、同月14日馬関に帰着しました。

 甲申事変における武装蜂起に失敗して金玉均が日本に亡命後、犬養は隣接する井坂早夫(元朝野新聞記者)宅に一時身をひそめて居た金玉均と交流を深めていました。犬養の語るところによれば、井上外務卿らに冷遇された金玉均は、犬養の制止にもかかわらず、李鴻章の援助を得ようとして上海に渡航し暗殺されました(鷲尾義直「前掲書」中)。

 朝鮮から帰国後、1886(明治19)年井上馨外相は欧米諸国との条約改正交渉にのりだしました。しかし外人判事任用問題にみられる卑屈な欧化政策(「大山巌」を読む26参照)が非難を浴び、一時衰退したかに見えた自由民権運動が再び高まってきました。

 1887(明治20)年10月3日後藤象二郎(「龍馬がゆく」を読む16参照)は民間政客70余人を芝公園内三縁亭に招き演説、丁亥(明治20年の干支)倶楽部を設立、小異を捨てて大同につく、いわゆる大同団結運動を起こしました。

 かねて民党の合同を主張し、その実現に努力してきた犬養は、矢野文雄、藤田茂吉ら改進党の同志先輩たちが後藤の性格を信ぜず、改進党独自の立場を守ることの必要を説いたのですが、彼は尾崎行雄とともに三縁亭の会合に参加し、丁亥倶楽部の幹事になっています。

 同年10月高知県代表片岡健吉らが三大事件建白書を元老院に提出するなどの動きが高まると政府は同年12月26日保安条例を公布施行するなどの弾圧を強行するに至りました(「大山巌」を読む26参照)。

 彼は保安条例施行以前に「政海之燈台」(集成社)と題する著作を公刊し、時局を次のように論じています。「在朝政治家と民間政党の間に政論の争競の旺盛繁劇を加ふるは吾人の最も希望する所なり。左れども其争競の手段宜きを失へるより官民の間に不穏当なる軋轢を生じ為めに上下乖離の情状を生ずるの傾向あらば吾人は力を極めて之を匡正せざる可からず」(第三章 官民の乖離)

 このような抽象的表現の時評にとどまる限り、彼の発言は問題とならず、改進党員として唯一人保安条例の適用を受けて東京から追放されたのは尾崎行雄だけで、彼には及びませんでした。

 1889(明治22)年3月22日後藤象二郎は突如黒田清隆内閣の逓信大臣として入閣、この行動は大同団結運動に結集した人々の期待を裏切る行為として指弾され、この運動は四分五裂となってしまいました。

 このような情勢において彼は植木枝盛(「大山巌」を読む19参照)・河野広中(「日本の労働運動」を読む26参照)ら自由党系の人々とともに大同団結派の政社組織を主張する大同倶楽部に結集したのです。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 7

  1887(明治20)年9月17日井上馨外相が辞任し、伊藤首相が外相を兼任しましたが、翌年2月1日大隈重信外相に就任し黒田清隆内閣にも留任しました。

 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布(「大山巌」を読む27参照)されましたが、彼は「朝野新聞」[末広重恭の招聘により、1886(明治19)年3月入社]の同日社説欄に頌辞を執筆、憲法発布を奉祝しました。

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近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―すー末広鉄腸 

 1889(明治22)年4月19日大隈の条約改正案がロンドン・タイムスにに報道されて、大審院外人判事任用の秘密が世間に洩れると、「朝野新聞」は同年7月9日より18日まで「改正条約の得失を論ず」と題する長文の論説を掲げました。この論文には筆者無署名ですが、犬養の執筆と推定されます。

 彼は大隈の条約改正についてもとより完全なものとは思わなかったけれども、当時の国情においては、これを断行せざるを得ないと考えていたようです。大隈重信大審院外人判事任用問題で失脚するに至り(「大山巌」を読む28参照)、この後改進党は一段と党勢不振に陥りました。

 1890(明治23)年7月1日第1回総選挙実施、彼は郷里岡山県第三区で立候補、定員1名に立候補者は4人いましたが、首尾よく当選しました。

 総選挙の結果、衆議院では民党(野党)の立憲自由党と態勢を立て直した立憲改進党吏党(与党)を抑えて多数派となりました。

 山県有朋首相は軍備増強を盛り込んだ予算案を提出、民党は民力休養・政費節減をスローガンに予算案の削減で対抗(「大山巌」を読む29参照)、1891(明治24)年3月2日政府は民党の土佐派切り崩しで修正案(歳出削減額を縮小)を通過させました。

  1890(明治23)年暮、犬養は尾崎行雄ら数名の同志とともに「朝野新聞」を去り、翌年1月11日新たに「民報」を創刊しましたが、同紙は上記の土佐派変節議員に痛烈な批判攻撃を展開、このため3月16日犬養毅議員が人力車で路上を通行中暴漢に襲われ棒で頭部を殴られる事件が起こりました。同紙はしばしば発行停止の処分を受け、5カ月目に廃刊、以後彼は尾崎とともに郵便報知新聞の客員として、同紙に執筆するようになりました。

 1892(明治25)年2月15日松方正義内閣も軍事費をめぐって民党と対立し、衆議院を解散、第2回総選挙施行、露骨な選挙干渉にもかかわらず民党が勝利し、松方内閣は総辞職、同年8月8日第2次伊藤博文内閣が成立しました。

 同年11月29日開会された第4議会において、民党は1月26日政府予算案の軍艦建造費などを削減、2月7日衆議院は内閣弾劾上奏決議案を可決しました。これに対して軍備拡張のため、一定期間官吏の俸給を削減するなどの内容をもつ詔書が出され、衆議院は2月22日製艦費をふくむ予算案を可決、以後政府と民党の対立は異なった局面に転換しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 8

 千島艦事件の日本敗訴(「大山巌」を読む31参照)により、1893(明治26)年10月、安部井磐根・大井健太郎らは大日本協会を組織して対外硬派を形成、内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責を主張、これに改進党は同調しましたが、自由党は反対しました(「大山巌」を読む32参照)。

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 同年11月28日第5通常議会が開会され、12月19日安部井磐根ら提出の現行条約励行案を上程、10日間の停会を命じられました。さらに12月29日政府は大日本協会に解散命令を出し、翌日衆議院を解散しました。

 1894(明治27)年3月1日第3回総選挙が実施されたのですが、同年4月犬養毅らは立憲改進党を脱党し、岡山で中国進歩党(所属代議士5名)を結成しています。しかし彼は主義主張を改進党と異なって離党したのではなく、地方における同志の立場を有利にするための一時的振る舞いであって、一切の政治行動は改進党と同一でした。同年5月15日開会の第6特別議会において、同月31日衆議院は硬六派(立憲改進党を含む)提出の内閣弾劾上奏決議案を可決しました。

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 同年6月2日政府は衆議院を解散、7月25日豊島沖の海戦により日清戦争が勃発しました。同年9月1日第4回臨時総選挙を実施、10月18日広島で開会された第7臨時議会は政府の日清戦争(「大山巌」を読む35~39参照)遂行に全面的協力をすることになりました。

 しかし戦後日本が三国干渉により遼東半島を放棄(「大山巌」を読む39参照)すると、硬六派はこれを非難、三国干渉を承認した第2次伊藤博文内閣の倒閣方針に転ずると、政府は自由党及び硬六派の一角であった国民協会を抱き込み、政権延命を図るに至ったので、硬六派側も新党樹立に向かい、1896(明治29)年3月1日立憲改進党[1892(明治25)年大隈重信改進党に復帰]・犬養毅の指導下にあった中国進歩党立憲革新党などが合同して進歩党を結成、犬養毅は常議員に推挙されました。新しく成立した第2次松方正義内閣に大隈重信外相として入閣、進歩党は松方内閣と提携しました(松隈内閣)。

 しかるに薩閥系と大隈系の閣僚間のいがみ合いを松方首相は収拾できず、同内閣は倒壊、1898(明治31)年1月12日第3次伊藤博文内閣が成立しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 9

  政府は歳入不足を補うため、地租・酒税を中心に3000万円の増税方針をはかったのですが、第12特別議会において自由・進歩両党は提携して地租増徴案を否決、衆議院は解散されました。つづいて同年6月22日自由・進歩両党は合同して憲政党を結党しました。

 このころ犬養毅は健康を害しておりましたが、しばしば自由党首脳部とも会談、彼の宿望であった民党の合同に向けて努力しました。結党大会においては宣言・綱領を採択し、党務処理のため4名の総務委員を推挙、自由党系から片岡健吉・江原素六が、進歩党系から犬養毅楠本正隆が就任しました。

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 伊藤首相は元老会議で政党との対決を主張する山県有朋と激論となり、ついに辞表を提出し、後継首相に大隈重信板垣退助を推薦、同月27日大隈・板垣に組閣命令が下され、第1次大隈重信内閣(隈板内閣 最初の政党内閣)が誕生しました(「大山巌」を読む46参照)。

 閣僚の選考においては、とくに尾崎行雄文部大臣就任に難色をしめすものが多かったのですが、犬養毅はひたすらこれらの不平を抑えることに苦心しました。当時彼の私邸は牛込馬場下にありましたが、早朝から深夜まで政客の来訪が絶えず、夜になれば酒でもてなし、彼は入閣こそしなかったが、事実上の総理と目されていたようです。

 同年8月10日第6回総選挙で憲政党衆議院300議席中243議席を確保しました。

 しかるに尾崎行雄文相の共和演説事件で尾崎が辞職すると、閣議は後任文相問題で紛糾、大隈首相が独断で犬養毅を後任文相に奏請したため、板垣退助内相ら自由党系閣僚は辞任、同年10月31日大隈重信内閣は倒壊、憲政党は旧自由党派の憲政党と旧進歩党派の憲政本党に分裂しました(「大山巌」を読む47参照)。

 1898((明治31)年11月8日第2次山県有朋内閣が成立、同内閣は憲政党を抱き込んで、同年12月20日懸案の地租増徴法案可決に成功しました。同法案に反対した憲政本党において大隈重信は事実上の総理であったけれど、党則上は責任ある地位になく、党の実権は犬養毅・大石正巳ら総務委員の手中にありました。

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 山県内閣は文官任用令などを改正して政党の官僚統制を困難にし、治安警察法を公布、労働運動・農民運動の取り締まりを強化し、軍部大臣の現役武官制を確立、軍部が内閣の存廃をきめる力を持つようにするなど、政党と対決する政策を打ち出しました。これに対して憲政党伊藤博文を党首とする新党参加を申し入れ、1900(明治33)年9月15日立憲政友会が発足(「大山巌」を読む48参照)、尾崎行雄はこれに参加しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む10

  1900(明治33)年12月18日憲政本党大会において党則改正が行われ、新たに総理をおき大隈重信が推戴されました(大津淳一郎「大日本憲政史」5 原書房)。

 同年10月19日成立した第4次伊藤博文立憲政友会)内閣の外相に就任した加藤高明山県有朋と合わず、1901(明治34)年6月2日第1次桂太郎(長州閥 山県有朋の直系)内閣が対露軍備拡張のため地租増徴継続による海軍拡張計画をめざすと、伊藤博文加藤高明の斡旋で大隈重信と会談、政友会と憲政本党提携の気運が高まりました。両党はそれぞれ大会を開いて地租増徴継続に反対、海軍拡張の財源は政費節減のよれと決議しました。

 1903(明治36)年5月20日桂首相は政友会との妥協交渉を開始、同月24日政友会議員総会は妥協案を承認、かくして伊藤と大隈の提携は崩壊しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む7~9参照)。

 1905(明治38)年12月21日第1次桂太郎内閣は日露講和(「坂の上の雲」を読む48~49参照)をめぐる騒擾事件をきっかけとする民衆運動の高まりの中で総辞職し、元老会議を経た桂太郎の推薦により、1906(明治39)年1月7日第1次西園寺公望(1903立憲政友会総裁・「火の虚舟」を読む9参照)内閣が成立、桂と西園寺が交替して政権を担ういわゆる桂園時代がはじまりました。

 隈板内閣以来政権からはなれた憲政本党には民党としての使命に徹しようとする正義派(非改革派)と多年の在野による党勢の停滞に耐えられず、政権に接近しようとする功利派(改革派)の抗争が容易ならざる事態となってきました。犬養毅は正義派として党内をまとめようと努めました。しかし1903(明治36)年と1907(明治40)年の中国訪問による不在中、改革派は桂太郎一派大同倶楽部のはたらきかけもあって大隈と犬養の排斥を企てるに至ったのです。

 1907(明治40)年1月20日の憲政本党大会において大隈重信は総理引退を声明するに至り、1909(明治42)年2月27日改革派が掌握していた党執行部常議員会において院内総務犬養毅は除名処分を受けました。しかし同年3月2日同党代議士会を掌握した非改革派はこの決定を無効とし混乱状態となったのです。しかしこの直後の4月11日日糖疑獄事件の検挙(原圭一郎編「原敬日記」福村出版)が始まり、改革派から逮捕者が出ると、同年10月28日の党大会で改革派は犬養毅の除名を取り下げ、両派の妥協が成立しました(「憲政本党党報」複製版 柏書房)。

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 その後1910(明治43)年3月13日憲政本党は又新(ゆうしん)会・旧戊申倶楽部の一部などの民党系非政友会系の各党と合同して立憲国民党が結党されました(鷲尾義直「前掲書」)。同党は党首不在で憲政本党の大石正巳・犬養毅、又新会の島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)・河野広中、戊申倶楽部の片岡直温・仙石貢らが常議員として党運営に当たりましたが、旧憲政本党犬養毅を中心とする非改革派と大石正巳らを中心とする改革派の対立は依然として存続したのです。