犬養道子「花々と星々と」を読む21~30

犬養道子「花々と星々と」を読む21

  古い本の少なくない書棚の中に、ひときわめだって古ぼけた一冊があります。著者は大町桂月、書名は「伯爵後藤象二郎伝」(伝記叢書 大空社)。

  一葉の写真にぶつかると、道子はそのまま長い間、動きませんでした。うら若い乙女が、ページの上から、微笑を含んでこちらを見ています。

 その人は道子の、母方の祖母(後藤延子)です(「花々と星々と」を読む1「系図で見る近現代」―目次―第12回 犬養毅参照)。

 ドクトル・メディツイーネ長与称吉(「花々と星々と」を読む1参照)は、ある園遊会の緑したたる芝の上で延子を見そめました。あの人をもらえないなら自分はとても病院経営などしてはいられないと、まだ生きていた父専斎に向って言い、あげくのはては恋患いで痩せ細りました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー長与専斎

 上流貴顕の社交界で多くの青年を同じ目にあわせつづけた佳人は、とうとうドクトル称吉の嫁となることになりました。媒酌は伊藤博文(「伊藤博文安重根」を読む1参照)夫妻でありました。

  道子が小さかったころ、長与延子は後家にふさわしい小さな束髪を結い、いつも黒い羽織を着て、しかしまことに華やいだ暮しをしていました。

 「桜山にゆこ」言い出すのはいつも父(犬養健)でした。そう言うときの彼の語調に、いつもとちがう、何となく甘たるい妙なものを道子は感じました。

 同じ東中野でも、こうもちがうものかしらん。桜山は踏切の向う側にあって、文字通り、桜の木々にふちどられる小高い丘でした。 

  古風な和式玄関わきには、わびすけ椿。南天。黒もじ。山吹。品のよい、さりげない格子戸をカラカラ開けると、しかしそこは「ドイツ」でした。

 ベルリンからお祖父ちゃまドクトル・メディツィーネのお持ち帰りになったバヴァリア・タイルをはめこんだ大飾時計が、チックタックと悠長な音をたてながら、これまた緑や金のこまかい模様でかざられる振子をせい一杯振って、正面にでんと立っていました。

  お祖母ちゃまの居間でお茶など飲む間じゅう、父はかあさまかあさまと甘ったれました。事情があってほんの幼児のときに、実の母からもぎはなされてさみしく育った彼は、桜山のお祖母ちゃまに、ほんとの母を見出していたにちがいありません。

「そうよ、パパはかあさまを好きよ。かあさまもパパを好きよ。だってママがパパを知るようになったのも、かあさまがパパと仲よしだったからなのよ。パパはいりびたりだったのよ」母(仲子)は後に一度そう言いました。

まるっと中野―まち歩きーぶらり風景探訪

 

犬養道子「花々と星々と」を読む22

  1921(大正10)年4月20日は、観桜会にふさわしい、柔らかな光に満ちておりました。四ツ谷の祖父、犬養木堂毅という人は、そんな派手な集りを出来るだけ避けたいたちでしたが、その日は出かけました。

 木や花や土や草原が好きでしたから、新宿御苑はなるほど整いすぎて、彼の好む野趣から程遠かったのですが、その園の、枝ぶりのよい、樹齢も丁度よい桜には定評がありました。若緑の萌える香りと、満開の桜とを、彼は愛(め)でたかったのです。

楽しく散歩―散策スポット目次ー東京―1月~4月―1264 新宿御苑のしだれ桜&桜  

 この日ばかりは前年からしきりと世を騒せはじめた、カリフォルニア州の日本人排斥問題も、議会で論陣を張りつづけて来たシベリア派兵の撤退のことや、早々に実現されるべき普通選挙法案のことも忘れました。

 その日は彼の満六十六歳の誕生日でした。六十六年前、二万石に満たぬ岡山の小藩の、貧しい庄屋であった彼の父は、愛読する孔子の書物の一文句の文字をとって、生まれたばかりの子に名づけました。……士は以て弘毅ならざるべからず……

 その文句はこう続きます。任重くして、道、遠し。

ちょんまげ英語日誌―投稿記事一覧―孔子の論語 泰伯第八の七 士は以て弘毅ならざるべからず

 笈(修験者などが背負う脚のついた箱)を負うて、貧書生として上京し、やがて自由民権の思想を謳う新聞の記者となったころ、「道、遠し」の遠を取って子遠という字(あざな 本名以外につけた名)をつけました、木堂、とは、「木強ければ」の、これもやはり支那の古書の句から引いたものでありました(「花々と星々と」を読む4参照)。

心が楽になる老子の言葉―トップページーやわらかに、しなやかにー生まれる時は柔らかい 

 つまり当時の新聞は、ときの権力者に敗れた、反骨の人が寄り集まってつくっていたわけで、最初から反政府・野党精神に満ちていたのでありました。

 しかしどうやら普選法を通すという任に限っては、もはや道の半ばは過ぎたようだ、-彼は機嫌よく御苑を退出しました。

 御苑の門には、この新宿からはそう遠くない四ツ谷の家から飛んできた書生がひとり、待ちかまえていました。

 若旦那様のところに、今朝がた、お嬢さまがお生まれになったそうで。なに、同じ誕生日に。

 任重い道の半ばを過ぎたときに、その赤ん坊は、お祖父ちゃまにとっての、特別の孫となり、道子と七日目に名づけられました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む23

 1924(大正13)年1月1日枢密院議長清浦奎吾に組閣命令が下り、同月4日貴族院研究会幹部は組閣援助を決定、同月7日清浦奎吾内閣が成立しました。

 これに対して同年1月10日政友会・憲政会・革新倶楽部の3派有志は清浦特権内閣打倒運動を開始しました(第2次護憲運動発足)。同年1月15日政友会総裁高橋是清は同会幹部会で清浦内閣反対を声明、これに対して床次竹二郎らは脱党、同月29日政友本党を結成、清浦内閣の与党となりました。同月18日高橋是清加藤高明犬養毅3党首は熱海の棲雲居(別荘)から上京した三浦梧楼の斡旋で会談(「花々と星々と」を読む15参照)、政党内閣確立を申し合わせました。1月31日衆議院は議場混乱による休憩中解散となりました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む28参照)。

 同年5月10日第15回総選挙が実施され、憲政会が第1党、護憲3派の大勝利となり、6月7日清浦奎吾内閣は総辞職、6月9日加藤高明に組閣命令が下り、6月11日第1次加藤高明護憲3派連立)内閣が成立しました。

 同内閣の成立をめぐる古島一雄の談話(鷲尾義直「前掲書」中)によれば、加藤は犬養と合わず、彼の入閣を希望しなかったようです。犬養は古島に入閣せぬかと云ったが、古島は犬養に入閣をすすめ、政友会から高橋が入閣すれば、ここではじめて三派合同内閣になるではありませんかと犬養に言うと、犬養は高橋が入閣するなら入閣する意向を示しました。そこで古島が政友会幹部にこのことを打診すると、政友会側は総理大臣をしていた高橋が加藤の下に平大臣をやるのは問題だと云うから、古島がそれは貴下方の間違いだ、世間はかえって度量の大きい人だといって、高橋の器量が上がるとは思わないのかと反論、犬養の入閣明言もあり、高橋・犬養の入閣が決定しました。

 それから閣僚の割り振りの相談になったが、加藤は内務、大蔵を除く外なら何でもよいという意向だったので、犬養が高橋に、君は何をやるかと問うと、高橋はさうだナ、農林でもやらう、犬養はソレなら俺は逓信の古巣にもどるということになりました。

 同年12月26日開会された第50議会において1925(大正14)年3月19日男子普通選挙法案が治安維持法と抱き合わせで通過しました(凛冽の宰相加藤高明」を読む29参照)。

 同年4月1日犬養毅は丸ノ内の中央亭に革新倶楽部代議士らを集めた晩餐会で「行政財政の整理、軍備縮小、または貴族院改革問題、普通選挙の問題、是等の諸問題が兎も角も解決の端緒にだけは就いたのである。併しこれ丈で以て満足することの出来ないのは言うまでもない。例へば普選問題にしても言はばお膳立てが済んだといふ迄であって、本当の仕事は実は是れからである。」(鷲尾義直「前掲書」中)と述べているように、今議会における普選の実現に満足していなかったことは明らかです。

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  また犬養は逓相として大震災直後の復旧復興に実績をあげ、視察で電話電信局における少女たちの劣悪な労働環境を目撃して甚く同情、東大の博士に逓信省嘱託を依頼して、その改善を実現し、温情を慕われました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む24

 1925(大正14)年4月4日立憲政友会総裁高橋是清は引退を表明、同月16日商相兼農相を辞任し、4月13日田中義一(凛冽の宰相加藤高明」を読む30参照)が政友会総裁に就任しました。

 同年5月5日立憲政友会革新倶楽部中正倶楽部3派の有志は合同に関する覚書を作り、これを実行するよう努力することを約束しました。

  同年5月10日革新倶楽部麹町区内幸町の仮事務所で、代議士、前代議士、常議員、地方支部代議員の連合協議会を開き、犬養毅は上記合同参加の理由について、つぎのように演説(要旨)しました。

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 「普選法の成立を見るに至り、茲に本問題の一段落を告げたのである。是れより以往吾人の最も重大と信ずるものは、普選法の運用である。万一にも無産階級がその運用を誤るが如き事あらば、吾人の責任は遁るる事は出来ぬのである。普選に依って今後無産階級よりも続々代表者が選出されるであらう。されど選挙では、その代表は議院の一少部分に過ぎぬであろう。然らば既成政党の勢力は如何といへば、急激に減退するものではない。この七八年乃至十年間の過渡時代の政治は、依然として旧勢力に依って運用せらるるのである。

 然らば旧勢力は如何なる悪政を行っても吾人は不関焉として傍観すべきか、或は吾人の力を加へて之を改善して過渡期に処すべきであらうか、是が最も大切なる現実の問題である。

 旧勢力若し依然として新勢力の悪感を刺戟するが如き行動を以て政治を運用するに於ては、或は早晩激烈なる大衝突を惹起するに至るであらう。

 政友会は勿論多年の間吾人の非難攻撃した対象物であった。されど首領にして統制其宜しきを得れば、或る程度迄はこれを制止し得るのである。現総裁田中(義一)君も亦決して世の非難を受くるが如き行動には断じて出でざるは自分の信ずる所である。

 我が同志は、多年逆境で鍛へ上げたる勇気を以て、政友会、中正倶楽部有為の人物と共に合同計画を成就し、進んでその改善を行ふに於ては、新興の一大政党は必ず新生面を開き、健全なる発達を遂ぐるものと信ずるのである。

 茲に一言お断りを為したきは、此度の手続の周到を欠きたる一事である。斯のごとき重大問題に就ては、犬養自ら全国同志と親しく意見を交換すべきが当然なれど、如何せん身の官吏たるために、奔走の時間を得難く、それが為に意志の疏通せざりしは偏に自分の落度で、諸君に対し慚愧(ざんき 恥じ入ること)の至りである。」(鷲尾義直「前掲書」中)

 

犬養道子「花々と星々と」を読む25

 犬養の政友会への合同提案は苦渋の決断だったようで、この時点で政友会に合同しなければならない理由についての説得力に乏しく、これは犬養の本意ではないとする意見もでる始末で、犬養の演説には彼の引退について何等言及がないのに、彼がそれとなく引退をほのめかせたと解する者もあったようです。

 採決の結果革新倶楽部の政友会への合同は了承されたものの、一時乱闘寸前の険しい雰囲気がただよいました。合同反対の尾崎行雄らは中正倶楽部残留派とともに新生倶楽部を組織しました。

キリヌケ成層圏―似顔絵リストーいー犬養毅  

 後年古島一雄(「花々と星々と」を読む15参照)はこのときの犬養の心境についてつぎのように語っています。

  嚮(さき)に歴史ある国民党を解党して、新時代の気運に乗じた新政党を創立すべく、一時革新倶楽部を組織したが、それは決して成功とは言へなかった。同志議員の数は選挙毎に減少する、其上、一人一党的倶楽部組織に在って、国民党時代の如き統制の行われないのは当然であった。名は党首に非ずして、而も党首たる負担を荷はせらるる木堂の苦痛は一と通りではなかった。而して木堂には一切の進退を委ね来たった同志がある。而も自ら顧みれば齢已に古稀(70歳)を超えている。前途ある是等の同志をして適処を得せしめねばならぬ。

 つづいて1925(大正14)年5月28日犬養は議員並びに逓相辞任を発表、同月30日逓相を辞任、後任として安達謙蔵(「男子の本懐」を読む31参照)が就任しました。 

 しかし犬養は引退声明で「辞職したとて決して国事を放棄するのではない、徹頭徹尾国家への御奉公は勉めるのである」と述べており、政界を引退する意思はありませんでした。同年7月中旬犬養は同志の招きに応じて東北地方遊説にでかけています。

 同年6月11日犬養は退任挨拶のため、岡山県都窪郡中庄村の性徳院来訪、これに対して旧革新倶楽部岡山支部では補欠選挙協議会が度々開かれ、7月16日木堂先生再選に決定しました。しかるに木堂先生代理の岡田忠彦は倉敷東雲楼で倉敷町長はじめ多くの町村長と会見、この度の再選は先生困惑甚だしき旨を述べました。7月22日岡山県第4区衆議院議員補欠選挙が実施され、犬養毅が当選しました。7月26日中庄村長らは犬養先生当選承諾懇請のため上京、翌日四ツ谷南町の犬養毅私邸を訪問、犬養は苦り切って無言でしたが、しばらくして今回は選挙区民諸氏の依頼に敬意を表して、困るけれども一応受諾せんとのことに一同雀躍して喜びました。一同麹町内山下町の政友会本部を訪れ、前田幹事長に委曲を語り、更に新聞記者室でも仔細を報告しました。、

  同年7月31日第1次加藤高明護憲3派連立)内閣は閣内不統一により総辞職、8月2日第2次加藤高明(憲政会単独)内閣が成立しましたが、1926(大正15)年1月28日加藤首相死去(三浦梧楼同日死去)しました(凛冽の宰相加藤高明」を読む30参照)。

 一方、上述のように犬養は再び政界の第一線に戻ったのですが、政友会との関係は長老という閑職で自由な時間に恵まれたため、1924(大正13)年起工、翌年完成した信州富士見の別荘白林荘(「花々と星々と」を読む17参照)に悠々自適の生活を送り、時々招聘されて地方の講演に赴くのでした。

 1926(大正15)年1月30日若槻礼次郎(前内閣閣僚全員留任)内閣が成立しましたが1927(昭和2)年4月17日枢密院台湾銀行救済緊急勅令案を否決したため総辞職、同年4月20日田中義一政友会内閣が成立、野党となった憲政会は同年6月1日政友本党と合同して立憲民政党を結党、浜口雄幸が総裁に推挙されました。

 しかるに1928(昭和3)年6月4日関東軍参謀らによる張作霖爆死事件が起こり、この処理をめぐって天皇の信任を失い、1929(昭和4)年7月2日田中義一内閣は総辞職し、浜口雄幸民政党)内閣が成立しました。同年9月29日田中義一は死去しました(「男子の本懐」を読む21~22参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む26

 さて赤泥のあの坂がおしまいになると、道は急に明るく開けて、右と左に別れます。左に行けば地主の「石森さんち」があって、そのはす向いが、市外東中野千七百。磨かない御影石のひょろりと不安定な門柱をたてたわが家でした。塀はなくて根もとが隙々の槇の木の生け垣がめぐらされていました。

 隣人の家の、いつもまっぱだかの英ちゃんという子はぬうと入って来ては、母(仲子)の丹精の花畑と野菜畑を、容赦なく踏み荒らし、書斎の窓近くの楓や、庭の正面の松の木にするすると登って、枝から枝へ飛び移りました。そにたびに書斎の襖がガタピシと開いて、梯子段を二、三段ずつ駈けおりる音がして、ステッキをふりかざし、尻かっらげで毛脛を思い切り出した父(犬養健)が、こらあこらあと、これまたはだしで英ちゃんを追いかけました。

  父は大立廻りをけっこう楽しんで、英ちゃんの這いこむのをひそかに待っている節がありました。遅筆で寡筆で、神経質で、容易に枡目のつぶれない原稿用紙を前に坐りつづけなければならない苦行に、時に耐え得ない父にとって、梯子段を駈け降りるのは願ってもないゲームだったかもしれません。

 家は持家でなく、家賃はたしか七十円で、階下に八畳の茶の間、八畳の納戸、四畳のなんでも部屋に玄関と女中部屋各々三畳。広い勝手と広い風呂場。西南には飛び出た恰好の、納戸つき西洋間。二階は八畳、四畳半に、あとで建増して納戸の上に乗っけた書斎と、書庫がわりの渡り廊下。

 庭は広くて、三、四百坪はらくにあったでしょう。半分を芝にして、残りは花畑と野菜畑でした。母は集まって来る文学青年たちを手下にして、年に二度か三度大量の石灰を庭全体の土に混ぜるのでした。

 石森さんちの鼻たらし子が一度こんな風に彼女に聞きました。「なぜ、おとうさんはつとめに出かけんの」「なぜ、夜、起きてんの。なぜ、ぶらぶらしとんの。会社にゆかんの。兵隊にもゆかんの」

 「親爺(犬養毅)は藩閥打倒の旗をかかげて苦節に甘んじて、ようよう普選を実現させるところまで漕ぎつけたと言うに」、「息子は鞄持ちのひとつもせんで、、何をぶらぶら、ろくでもない小説など書いて」…「嫁も嫁で、毎日ピヤノばかり弾いてコロコロ笑って」…石森さんばかりではなく、世間一般、そう思っているにちがいないことを道子はこれっぽっちも知りませんでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む27

 『白樺』は周知のように、文学界だけのものではありませんでした。その世界は広かったのです。

Weblio辞書―検索―白樺派   

 色が白くて、お餅の感じがしました。その人は「健さんいるか」とか、「やあ仲子さん」とか言って、ずかずか入って来て、すぐに縁側に出て着物を脱ぐのでした。

 「いやあねえ、下卑(げび)らしい!」口では言いながら、母は嬉しげにコロコロ笑いこけていました。

 その人は裸になると、猿股の上に、ほどいて棄てたばかりの兵児帯をぐるぐる巻きつけ、時には持って来た風呂敷を前に垂らして化粧廻しにしました。それから芝生に飛びおりて、「よっ、よっ」と四股を踏むのです。道子は急いで縁側に陣取り、見物気取りでかけ声などかけるのでした。

 すると、二階で支度をしたのに違いない父が、これも裸で兵児帯を廻しにして、ようし、と降りて来ます。

  二人はありあわせの紐なぞで土俵の輪郭を芝の上につくり、いつまでも相撲をとって、大げさにひっくりかえったり、急にひとりが行司の真似をはじめるので、しまいにはみんなおかしさのあまり笑いころげて暫くは動けなくなるのでした。その白い人が同人同然の岸田(劉生)さんだったのです(道子は長い間、岸田さんは相撲取りの卵だと思い込んでいました)。時たま、これも眼が細くて、不思議な顔立ちの女の子を連れて来ました。麗子像の麗子さんと、本物の麗子さんは、驚くばかりそっくりでした。

東京国立博物館―コレクションー名品ギャラリーー絵画―麗子

 

犬養道子「花々と星々と」を読む28

  雑誌『白樺』[1923(大正12)年8月廃刊]は李王家博物館の弥勒像や石仏を日本にはじめて紹介して朝鮮人の素晴しさを陶酔を以って語るかと思えば、鳥羽僧正の絵巻の写真を掲げて日本人の内なる「天才」を讃美しました。北宋白磁陶器のゆえに、万暦赤絵(明の万暦年間に景徳鎮で作られた陶磁器)のゆえに、支那人支那を評価しました。

 道子は大体、近所の子供たちとはうまが合いませんでした。陣取りなどするとき、弱いのはチャンチャン坊主であり、いじめっ子の取っておきの脅し文句は「やあい朝鮮人」「やあい露助」なのでした。彼女はそれらの言葉を甚だしい苦痛と感じずには聞き流すことができませんでした。

  ひるまは、芝生の上の冗談。夕暮れごろから、集まる友人たちは茶の間の八畳で、相変わらずの笑い声をにぎやかに響かせながらも、いかにも白樺らしい理想と楽天に貫かれた話をはじめるのでした。

 集まるのは若手の同人か、同人同然の同好の人たちが中心でした。なにしろ学習院で、志賀、武者、木下利玄、正親町公和さんが同級。三級下に里見さん、児島(喜久雄)さん、その下が柳さん、そして郡虎彦さん、長与の善郎叔父。『白樺』発刊[1910(明治43)年4月]のころ、父はまだ初等科でした。

 そんな風に年は離れていたけれど、武者(武者小路実篤)さんはずいぶんちょいちょい座に加わってあぐらをかいていました。

ワシモ(WaShimo)のホームページー旅行記―宮崎県―日向新しき村を訪ねてー宮崎県児湯郡木城村   

 母はその一団の中にあって、この上もなく楽しげに、活き活きと見えました。絵や音楽や、書物や会話や友人やーそれらは母の人生の、花々であり、星々でした。花々と星々にかこまれて、母もまたひとつの花であり星でありました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む29

 憲政の神様とある時期には祭り上げられ「少しは世間に知られた」「犬養の」子(や孫)が、ふつうの学校にゆけば、「犬養だ、犬養だ」と何かにつけてちゃほやされぬとは言えぬ、しかし学習院なら、「上は皇室」から「宮家五摂家元老」「有名」ばかり、平民野党の犬養などはビリのビリになります。そして「有名であることの虚しさもまた身にしみて習えるというものじゃ、犬養の家は、世々代々、野党であって欲しいから、そのためには正反対の貴族華族のどまん中に、子供をほっぽり出す」…

 祖父(犬養毅)の方針はまちがっていませんでした。まちがわないどころか、行きすぎておおいに脱線しました。道子が学習院前期に入った日、教官ぜんぶを呆然と驚かせることになります。

  父も母も、学習院の白樺一群の、自由とこわいものなしの精神に染まり果てた結果、しんそこ、忘れたのでありましたー陛下とはどなたかを娘に教えること。国旗を教えること。君ケ代を教えること。道子は何ひとつ知りませんでした。

「一ばん尊い方は? はい、犬養さん」「…トルストイ」それしか思いつきませんでした。

「さあ、君ケ代を歌いましょうね。何ですか、犬養さん」「君ケ代ってなあに」

「そんなこと!言ってはいけないでしょう。ふざけてはいけないでしょう。ほら、君ケ代です」「だって知らない」

 学校生活第一日目、父が担当教官に呼ばれました。しかし彼はあっけらかんと快活でした。「道ちゃんねえ、君ケ代って。歌なんだ。節はあんまりよかあないけど、まあ、ひとつおぼえてみるか」

「じゃあパパ、陛下、って?」「そのうちわかるさ」。

「ねえパパ、朕てなあに」「うん、そりゃね、チンコロじゃないんだ…」「アハハ」そんな風でした。

 モヤモヤを肺尖のまわりに散らせていた道子は、当然丈夫ではありませんでした。

 冬になると、ぜいぜいは他の季節よりひどくなるのが常で、いちどゴホンと咳が出ると、胸中はふいごのように湧きたって、いつまでもゼロゼロと音をたてました。

 ある年の冬。みぞれが鈍い空をぬらしてあたりいちめんに、凍りつく寒さをまきちらした夕方。枯れた庭の真ん中に、突如、四ツ谷のお祖父ちゃまがあらわれました。道子は庭に面した茶の間のまん中で、ハアーハアーと吸入をしていました。

 お祖父ちゃまが来るときは、父も母も、たれひとり緊張しませんでした。縫紋羽織のお祖母ちゃまの御来訪のときとは白と黒ほどの相違でした。

 お祖父ちゃまはラッコの襟のついた黒外套を重たげに着こんだまま、縁側のガラス戸を自分で開けて入って来て、「道公、どうした」と彼女の背に手をかけました。

 お祖父ちゃまは火鉢に向ってしゃがみ込み、外套の内ポケットから白い分厚い封筒を出して、母の前に置きました。

 母は、その中身を注意深く見て、あらおとうさま、と何度か頭を下げ、ひどく嬉しそうでした。

 -その翌日、彼女たちは人力に乗り、汽車に乗って着いたところは暖かでした。「あったかいからね、熱海って言うんだよ」

 彼女は父のトンビの下に抱かれて、ずっと遠くに広がる海を眺めながら、梅の香のただよう崖をのぼって、落ち着いた先は、蜜柑山の崖に沿って建てられた、驚くばかり広い家でした。三浦さんのおうち、と知らされました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む30

 「三浦さん」は、三浦(梧楼)観樹(「大山巌」を読む41参照)のことです。長州の人。高杉晋作奇兵隊に若き日々を送った人。戊辰戦争(「大山巌」を読む5~9参照)に功をたて、山県有朋とはじめ親しく、彼とともに維新政府の兵部省に入りましたが、やがて薩長藩閥をこころよしとせず、1916(大正5)年、護憲運動の先頭に立ち、山県と袂を分かった軍人政治家でした。

 1924(大正13)年1月18日三浦梧楼の斡旋で、護憲のための、加藤高明高橋是清犬養毅三党首会談が行われました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む28参照)。

 朝鮮における日本の勢力伸展のため、閔妃暗殺(「大山巌」を読む42参照)という大事件をわざわざ起こした張本人も彼でありました。

 いま、記憶を史実と照らし合わせれば、彼女が「三浦さんの別荘」に行ったのは彼観樹将軍の死[1926(大正15)年1月]の直後のことでした。

 部屋はいったい幾つあったろう。たくさんで、あっちこっちに散らばって、「わかんなくなっちゃうよ」と、父も母も笑いました。道子と母は、椿の林にかこまれた、物静かでしかも陽あたりのよい階下の二間つづきに陣取りました。

 ニ、三日すると、父は「じゃあ、また来るよ」と一言のこして、東中野に帰って行きました。

 母とふたりの静けさは、しかし長くはつづきませんでした。ある朝。「道ちゃん、まあだ?」

 祖父の声でした。前夜おそく、到着したのでありました。護衛の私服巡査と、十数年来付添う女中のテルと、そしてもひとり…。

 おもいがけない祖父の声に、驚きよろこび、飛び起きて、食事の場所と定められた、海を眼下に見はるかす部屋に行ってみると、祖父とさし向いに、柱に寄りかかって坐る見知らぬ人がいました。

 黒い短い口髭をはやし、細い眼で彼女を見たその人は、くるぶしまで裾の垂れる、黒絹の支那服を着ていました。組まれた足は、青っぽい褲子(クーツ)でおおわれていました。

「道公、戴さんだ」と祖父は、湯気のたつ紅茶茶碗のうしろから声を出しました。

 彼女より一足早く、この席に来ていた母は火鉢の上でパンを焼きながら、「道ちゃん、戴さんのおじちゃまよ」と祖父の言葉をくりかえしました。

「じょっちゃん、みっちこさん」と戴さんが手招くと、彼女は素直に近づいて、その人のそばに坐りました。

 そんなことから、彼女は戴さんをすっかり好きになり、その肩車に乗ると、ずいぶん高い枝の椿の花も手にとどきました。

 母は彼に茶をすすめながら、「ねえ戴さん、どうして道子はこう弱いのかしら」と相談を持ちかけるようになっていました。

 「戴さん、道子をお風呂にいれてよ。あたし忙しいのよ」彼はまもなく、それほどの親しいひとになってしまったのです・

 三浦邸の風呂場は、十五畳もあったでしょう。三方ガラス張りの風呂場の中央には子供なら泳げる広さの浴槽。塩気のためにすっかり粉を吹いたカランからは、塩っぱい湯が二六時中流れていました。

 戴さんは黒絹の支那服の裾をはしょり、湯殿とのさかいの半びらきの戸によりかかって、彼女を見守っていました。そしてある日彼の姿は唐突に消えました。

 十数年ののち。道子は、はじめて学んだ中国革命の書物の中に、見覚えのある顔の写真を見出しました。その下には戴天仇と書いてありました。

 「パパ」と彼女は、父のところへ走って行きました。「この人、あの人? あの三浦別荘の…」「むろんそうだ。なんだ、知らなかったの」と父は笑いました。

 孫文の片腕。抗日の先鋒。熱血の戴天仇。

 曽て孫文をかくまい、その革命を助け、そのゆえに支那の人々からは「国士」の礼を以て遇される祖父木堂を、愛すべきごく少数の日本人知己として、熱海にひそかに訪ねてきた革命児であったのです・

Weblio辞書―検索―戴天仇―戴季陶   

 三浦邸には谷間の部屋に蜘蛛が多く見られました。母は谷間の部屋の入口をぴたりと閉めてしまいました。

 

 

 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む11~20

 

犬養道子「花々と星々と」を読む11

 1910(明治43)年5月25日大逆事件(「日本の労働運動」を読む47~48参照)の宮下太吉検挙が開始され、やがて幸徳秋水(「日本の労働運動」を読む27参照)も逮捕されました。秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」(岩城之徳「啄木と南北朝正閏論問題」岩城之徳著/近藤典彦編「石川啄木幸徳秋水事件」吉川弘文館 所収)と発言したことが外部にもれ、1911(44)年1月19日の読売新聞に掲載された社説「南北朝問題 国定教科書の失態」が「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」の主張をするに及んで、南北朝正閏(せいじゅん)問題(南北朝のどちらの皇統が正統であるか)が起こりました。

  同新聞社説が批判したのは1903(明治36)年4月13日小学校令の一部改正により制度化、翌年4月1日施行された国定教科書で、1909(明治42)年改訂の同国定教科書では当時の歴史学界における史実の実証的研究により、南北両朝は並立と記述されていました。

 1911(明治44)年2月21日衆議院の秘密会において、立憲国民党大逆事件南北朝正閏論に関する閣臣(第2次桂太郎内閣)問責決議案を提出、犬養毅がその説明に当たりました。新聞に掲載された彼の決議案説明演説の要旨は次のような内容です。

 「大逆事件は、其発生したる原因に就ては、多くあるべきこと明かに認むる所なるも、就中行政上及び警察上の失態が与って其一原因を成せるは、動すべからざる事実なり。単に社会主義の思想を有せりと云うに対し、余りに苛酷俊厳なる待遇を与へ、進んで其生活をも脅かすが如き警察の取締が、終に其徒を駆って危険なる無政府主義者たらしめ、大逆罪を企つるに至らしめたることは、亦衆議院の委員会に於ける政府委員の自白に徴するも明なり。閣臣は、優渥なる御沙汰に接したりとて、之がために政治上の責任を解除されたりと謂ふべからず。内閣諸公が引責すべきことは此際諸公の採るべき最善の手段なるべしと信ず。

 教科書事件に至りては、大逆事件に比して更に重大なる問題たりと信ず。維新の際に於ける王政復古の大業は、全く南朝を正統とするの趣旨に基くものにして、曩に元老院官版として出版し、我皇室典範となれる皇位継承編に依るも南朝を正位となしありて、更に岩倉公総裁となり山県公また勅選せる『大政紀要』に依るも、北朝を帝とし南朝天皇と称すと明記せるが、然るに今日に於て何の必要ありて之を改竄せるや。是れ実に立国の大本を危うする大逆の行為なりと云はざるべからず。此恐るべき大逆的事実を国民教育の為に用ふべき国定教科書として天下に発表せし以上は、独り文部大臣のみと云はず、延て内閣各大臣於て其責に任ずべきや素より言ふを要せざる処なり。」(鷲尾義直「前掲書」)しかし決議案は否決されました。

 同年2月27日文部省は編修官喜田貞吉を休職処分とし当該教科書の使用を禁止しました(史学協会編輯「南北朝正閏論」修文閣)。

Weblio辞書―検索―南北朝正閏論―喜田貞吉 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む12

  対外関係では孫文が来日したのは1896(明治29)年9月松隈内閣(「花々と星々と」を読む8参照)成立の直後で、平山周に伴われて、孫文牛込区馬場下町に犬養を訪問、このとき犬養ははじめて孫文を知ったのです。

Weblio辞書―検索―孫文 

 犬養は孫文滞日について大隈外相の認可をとりつけ、牛込区鶴巻町に居住させて、自宅との往来を便にするとともに、孫文の生活費も犬養の尽力で平岡浩太郎(初代玄洋社長)が引き受けました。

 1911(明治44)年辛亥革命(「凛冽の宰相加藤高明」を読む15参照)が起こって清朝が滅亡、同年12月25日孫文はアメリカから上海に帰着、翌年1月1日中華民国臨時大総統に就任しました。

 犬養毅は同年12月19日上海に到着(第3回中国訪問)、翌年1月8日南京総統府で孫文と会見しました。しかし2月25日に黄興が来訪、袁世凱と妥協せざるを得ないと告げたので、犬養及び同行の同志は種々忠告するところあり、3月16日孫文大総統の送別宴に出席、同月26日上海より帰国の途につきました(鷲尾義直「前掲書」中)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む13

 1912(大正1)年11月30日上原勇作(「坂の上の雲」を読む33参照)陸相は朝鮮に2個師団増設案を閣議で否決されたため、同年12月2日単独辞表を提出、陸軍は後任陸相を送らなかったので、同月5日第2次西園寺公望内閣は総辞職しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む13参照)。同年12月21日第3次桂太郎内閣が成立するに至りました。

 かかる軍部の横暴を非難する動きは、早くも同年12月13日東京の新聞雑誌記者・弁護士などが憲政作新会を組織、師団増設に反対、同月14日交詢社福沢諭吉によって設立された社交倶楽部)有志が憲政擁護会を組織、同月15日政友会3派(関東倶楽部・東京支部・院外団)の大懇親会が開催され、官僚政治の根絶、憲政擁護を決議するなどの行動として現れました。

 同年12月27日にも開催された憲政擁護大懇親会は憲政擁護会の事務所があった築地精養軒で開かれましたが、このとき犬養毅の演説要旨は次の如くでした(鷲尾義直「前掲書」中)。

近代日本とフランスー日本語―コラムー「美し国」フランスへの憧れー1.料理―築地精養軒と洋食文化   

 「今や政局の形勢は既に議論の時機を去れり。政国の両党が互に猜疑を挟むが如きは、永き歴史を有する党派上に於て已むを得ざるも、連合の目的を達する上に於ては、日夕胸襟を披いて談論を上下し、彼我の間の猜疑心を除くことに努めざるべからず。其勢力必ずしも強しとせざる官僚の倒れざるは、政党全体の責任なり。故に政国両党真に連合して一たび風雲を叱咤せんか、官僚閥族を討滅すること易々たるのみ。茲に憲政の為め諸君と共に益々奮戦せんことを誓ふ。」

 しかるに1913(大正2)年1月19日に開かれるべき立憲国民党大会以前に推挙された宣言起草委員には改革派が多数で、その宣言草案は当面の政敵たる桂太郎内閣に言及することを避け、友党であるべき政友会を攻撃することに重点をおいたものでした。大会前日にこのことを知った犬養毅ら非改革派は別に閥族打破・憲政擁護の民党的宣言案を用意、大会においてこの宣言と桂内閣弾劾の決議を可決することに成功しました(新聞集成「大正編年史」)。

 その結果同年1月21日大石正巳・島田三郎・河野広中・片岡直温らは立憲国民党を脱党、同月31日桂首相の新党創立(立憲同志会)に参加を表明、立憲国民党は分裂しました。

 1912(大正1)年12月27日開会された第30通常議会は翌年1月21日停会となり、2月5日再開された議会において、政友・国民両党は桂内閣不信任案を提出、政友会の尾崎行雄が桂首相の弾劾演説(「凛冽の宰相加藤高明」を読む14参照)を行い、議会は再び5日間の停会となりましたが議事堂周辺には護憲派民衆の示威行進が行われ(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造8参照)、2月11日第3次桂太郎内閣は総辞職しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む14

 1913(大正2)年2月20日山本権兵衛(薩摩閥)内閣(首・外・陸・海を除き、全閣僚は政友会所属)が成立しました。同日立憲国民党は山本内閣が政党内閣でないとして、立憲政友会との提携を断絶、政友会の尾崎行雄も国民党と同様に同党から脱党、同月24日政友倶楽部を結成しました。

 山本内閣は軍部大臣現役武官制(「大山巌」を読む48参照)を撤廃、軍部を非難する世論に配慮を示しましたが、1914(大正3)年1月23日立憲同志会の島田三郎は衆議院予算委員会シーメンス事件につき政府を攻撃(「凛冽の宰相加藤高明」を読む15参照)、犬養毅は山本内閣の世論への配慮をやや評価したものの、同年3月23日の衆議院における内閣弾劾上奏決議案の審議においては提案理由説明演説を行っています。同年3月24日同内閣は総辞職しました。

 同年4月13日大隈重信に組閣命令が下されました。大隈は当時すでに政界の第一線を退き、都の西北早稲田に閑居していたのですが、上述の立憲国民党分裂以後、大隈の態度は曖昧そのものでした。彼は一方において憲政擁護・閥族打破の主張に共鳴し、犬養・尾崎の功労を称賛しながら、桂が新党組織の賛助を要請すると、これに対して好意的態度を示し、国民党脱党組が彼を訪問すると、彼等を激励するなどその真意を理解するのに困難な言動を見せたのです。早稲田大学教授副島義一は雑誌「太陽」(大正2年3月発行)において公然と大隈を批判、情宜に厚く礼義を重んずる犬養毅は同誌において大隈を弁護していますが、彼が本音で大隈の言動を支持したとは思えません。

 同年4月14日立憲国民党代議士会はは大隈内閣の成立は援助するが、党員は入閣しない旨決議、4月16日副総理格として加藤高明立憲同志会総理)が外相として入閣、第2次大隈重信内閣は成立、中正会尾崎行雄は司法大臣として入閣しました。

  1914(大正3)年7月第1次世界大戦が勃発、同年8月23日政府(大隈内閣)はドイツに宣戦布告、翌1915(大正4)年1月18日中華民国政府に21カ条要求を提出、5月25日21カ条要求に基づく日中条約ならびに交換公文に調印しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む17参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む15

  1914(大正3)年12月25日衆議院は軍艦建造費を可決しましたが、2個師団増設を否決したため、衆議院解散、1915(大正4)年3月25日第12回総選挙が実施され、与党立憲同志会が第一党、野党立憲政友会(1914.6.18総裁 原敬)・立憲国民党議席減少、同年5月17日第36特別議会が招集されました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む18参照)。

 同議会開会の前に立憲国民党は次のような宣言を発して、大隈内閣の対中国外交を批判しました。

 「日支両国の親善を保ち、東洋永遠の平和をを計るは我党多年の主張なり。然るに現内閣の対支交渉を開始するや、初めより支那に向て誠意を披歴し、東亜の大局を共済するの途に出でず、先づ提案の時期を失し、折衝の機宜を誤り、荏苒(じんぜん 年月が長引く)九十日、徒に恫喝を以て却て軽侮を招き、その拒否する所となるや、事を樽俎(そんそ 外交上の会談)の間に収拾する能はず、纔(わずか)に兵馬の余威をを藉(かり)て時を糊塗す。之を要するに帝国の威信を傷け、国際の禍根を貽(のこ)すもの、焉(いずく)んぞ東洋平和の基礎を確立するを得んや、是れ実に現内閣の失政なり。我党は断じて之を仮借(許す)せず。」(鷲尾義直「前掲書」中)

 同年6月3日衆議院は対中国外交に関する内閣弾劾決議案を上程、原敬政友会総裁が対中国外交の失敗を指摘、片岡直温(立憲同志会)の反対演説があり、次いで犬養毅立憲国民党)が登壇、21カ条要求のうちの第5号要求の不始末(「凛冽の宰相加藤高明」を読む17参照)を指摘して加藤外交の失策を追及しましたが、同決議案は否決されました。

Weblio辞書―検索―片岡直温 

 また犬養は1915(大正4)年5月、故金玉均(「花々と星々と」を読む6参照)の表彰を大隈首相ならびに寺内朝鮮総督に建言したが省みられなかったので、翌年1月政府に同人の表彰を働きかけるよう貴衆両院に対して建議しています(鷲尾義直「前掲書」中)。

 しかし大隈内閣も大浦兼武内相の政友会議員買収容疑が問題となり(「凛冽の宰相加藤高明」を読む18参照)、外相加藤高明らが総辞職を要求して閣外に去ると弱体化し、1916(大正5)年3月26日大隈首相は山県有朋を訪問、加藤高明立憲同志会総理)を後継首相に推薦、同年4月上旬山県は挙国一致の必要を理由に政党首領の組閣に反対と返書、寺内正毅(長州閥)組閣の準備を進めていました。

 一方子爵三浦梧楼(「大山巌」を読む41参照)の呼びかけにより、原敬立憲政友会総裁)・加藤高明立憲同志会総理)犬養毅[立憲国民党総理(正式就任は1917.6.20)]の3党首は同年5月24日から3回も小石川富坂上の三浦邸で会談、6月6日外交国防方針につき協同し、外界の容喙を許さぬとの覚書を作成しました(新聞集成「大正編年史」)。三浦は『此の大切な時局を、大隈に任してはおけぬ。軍備、外交、財政此三点に対する一定の国策を樹立し、誰が政局に立っても、此れ丈けは動かぬやうに決定しておきたい。ソレで吾輩は其事を元老連中に説いた。山県に謀ったが、相変わらず用心深い。「此上は軍事、外交、財政、此の三策に就て、君と加藤、犬養、此三人が同一の態度を執ると云ふことにする外、他に道はなかろうと思ふ。」と云ふと原は早速此れに同意した。加藤に会った翌日、犬養にも会った。此れで三党首とも吾輩の国策樹立の意見に賛成した訳だ。』(「観樹将軍回顧録」大空社)と言っていますが、三浦と昵懇であった古島一雄は「三浦は同じ長州出身でありながら陸軍時代から山県とは常に反対の立場に居った。従って三浦は元老の山県を封じ込めてやらうといふ心持もあったのだ。」と語っている(鷲尾義直「前掲書」中)ように、元老(とくに長州閥)に反対する政党連合を強化しようとする意図があったとも考えられます。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―こー古島一雄

 同年10月5日大隈内閣は総辞職しました。10月9日山県有朋の推挙により、寺内正毅(長州閥)内閣が成立、翌10月10日立憲同志会中正会などと合同して憲政会(総裁 加藤高明)が結成されました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む16

  1917(大正6)年1月25日衆議院は憲政・国民両党共同提案の内閣不信任案を上程(政友会中立)、ところが犬養毅立憲国民党)は同案の説明演説で「私モ憲政会ハタッタ此間マデ当面ノ敵ト考ヘテ居リマシタガ、此案ニ付テハ賛成者デアリマス。併ナガラ提出者トシテハ此案ニ憲政会ガ同意サレタ以上ハ国民党ト同様ノ意見ニ変化致サレタモノト認メテ宜シイト思フ」と憲政会を批判したため、憲政会の反発を受け、衆議院が解散されると、国民党は憲政会との提携打ち切りを声明しました。

 同年4月20日第13回総選挙が施行され、政友会は第1党、憲政会は第2党で、国民党はやや議席を増加させたに止まりました。

 同年6月2日寺内首相は原敬加藤高明犬養毅3党首に臨時外交調査会委員就任を要請、原敬犬養毅は受諾しましたが、加藤高明は6月5日これを拒絶しました。

 一方この年の夏ころから上がり始めた米価は翌1918(大正7)年さらに上昇、同年8月富山県米騒動が起こり、同年9月21日寺内正毅内閣は倒壊、9月27日原敬立憲政友会総裁に組閣命令が出されました。

 米騒動は明治時代において弾圧された労働運動や普選運動などの社会運動が再び活発化するきっかけとなりました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む20参照)。

 1918(大正7)年12月25日召集の第41議会において翌年3月8日政友会・憲政会・国民党3派提案の衆議院議員選挙法改正案(小選挙区・選挙権資格を直接国税3円以上に拡大)が可決されましたが、村松恒一郎ら6名の立憲国民党所属代議士が、同上選挙法改正案の撤回を要求、普選案に代えることを主張したため党より除名処分となりました。1919(大正8)年12月20日憲政会政務調査会でも普選の条件をめぐる対立が起こっていました。

Weblio辞書―検索―村松恒一郎 

 1918(大正7)年11月11日第1次世界大戦が終了、1919(大正8)年1月18日パリ講和会議が開催(「凛冽の宰相加藤高明」を読む21参照)されましたが、内政においては普選運動の高まり(「労働運動二十年」を読む19~20参照)に対する政府与党と野党の対応の問題が緊急の課題として浮上してきたのです。 

 1919(大正8)年12月26日開会の第42議会において、1920(大正9)年2月14日衆議院は憲政会・立憲国民党・普選実行会提出の普通選挙法3案が上程されました。立憲国民党案は選挙権を満二十歳以上とし納税資格規定削除などとする内容でしたが、普選法案討議中同年2月26日衆議院は解散となりました。

 同年5月10日第14回総選挙実施、普選反対の与党立憲政友会が大勝、普選運動は一時衰退する傾向を見せました(「労働運動二十年」を読む20参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む17

 1921(大正10)年11月4日原敬首相は東京駅で刺殺され死去、11月13日高橋是清内閣(全閣僚留任)が成立、翌日高橋是清立憲政友会総裁に推挙されました。

 翌年1月10日大隈重信、2月1日山県有朋維新の元勲たちが相次いで死去、新しい時代の到来を告げる出来事でした。

 1921(大正10)年末に召集された第45通常議会において提出された憲政会・立憲国民党・無所属組の統一普選案(立憲国民党は選挙権年齢を20歳から25歳に改める)が翌年2月23日上程されましたが、2月27日否決されました。しかし立憲政友会内部にも普選法案に対する動揺が拡大しつつあったのです。

 一時衰退した普選運動の主な新しい担い手となったのは地域の市民的政治結社で、1922(大正11)年春より普選運動は再び高揚しました。

 1922(大正11)年6月6日高橋是清内閣は内閣改造問題による閣内不一致で総辞職、同年6月12日加藤友三郎(前内閣海相)内閣(「凛冽の宰相加藤高明」を読む26参照)が成立しました。

 政友会・憲政会の二大政党の圧迫を受けて党勢不振状態にあった立憲国民党は同年9月1日解党、新たな勢力の結集をめざして同年11月8日立憲国民党を母胎とし、憲政会の尾崎行雄や島田三郎ら及び無所属倶楽部が参加、革新倶楽部が結成されました。

 1923(大正12)年8月24日加藤友三郎首相は病死し、同年8月28日山本権兵衛に組閣命令が下されました。しかるに同年9月1日関東大震災が起こり、この非常事態の最中、同年9月2日第2次山本権兵衛内閣が成立しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)。

 当時犬養毅は信州富士見の高原における白林荘(別荘)の新築に世事を忘れていましたが、中央線で名古屋に福沢桃介を訪問した同年8月28日至急電報をうけ、翌日上京しました。山本権兵衛と犬養との連絡は同内閣の書記官長樺山資英と犬養の側近古島一雄(「花々と星々と」を読む15参照)を通じてつけられていたのです。

富士見町HP―検索―白林荘―富士見町を歩く[文学に触れるプレミアム紅葉ウオーキングコース] (4)白林荘    

 古島は東海道線沼津駅で御前3時寝台車にいた犬養に会い、山本の犬養への入閣要請を伝えると、犬養は眠そうな眼をこすりながら、「普選で勝負する」と唯これ丈を言いました。8月30日『山本と水交社で会見して帰ってから「どうです」とたずねると「やれそうだ」といふ、そこで直ちに入閣に決した』(古島直話 鷲尾義直「前掲書」中)。

 「普選をやるには内務大臣がよいが、内務は後藤(新平「男子の本懐」を読む5参照)が希望してゐるから、一番ヒマな椅子がよからう、逓信がよいと云ふので逓信大臣になられたのである。」(古島一雄談 鷲尾義直「前掲書」中)。

 革新倶楽部は犬養の入閣を了承しましたが、政友会は同内閣に非協力の態度をとり、貴族院において憲政会の若槻礼次郎(「男子の本懐」を読む6参照)は犬養毅逓相の逓信事務怠慢を批判する質問を展開しました。犬養の普選への思い入れも虚しく、同内閣は同年12月27日虎ノ門事件(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)で総辞職しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む18

 ここで話題を変えて、犬養毅とその家族の家庭生活を観察してみましょう。そのための数少ない情報源の一つが、犬養道子犬養毅の孫)の「表題作品」です。

 四ツ谷[ 1922(大正11)年四ツ谷区南町に犬養毅新邸(借翠盧)完成 年譜 鷲尾義直「前掲書」下 ]に道子が連れて行ってもらうのはまれでありました。どうせ行ったところで、お祖父ちゃま(犬養毅)とは滅多に会えるわけでないし、お祖母ちゃま(犬養毅夫人千代)の御機嫌伺いとなればこれは仲々気骨の折れることでした。

 実際、連れて行ってもらっても、お祖父ちゃまなしの四ツ谷は退屈なところでありました。お祖母ちゃまのお居間は、南に向って「逆コの字」に建てられた家の中央にありました。庭に通じる気持ちよい広縁式廊下と、お着替えのための小部屋と十畳の床の間つきと、一組になっていました。

 それにひきかえ、お祖父ちゃまのお居間兼書斎兼寝室兼何でも部屋は、玄関真上の二階にあって、西陽が照りつける滅法暑い部屋でした。「お祖父さんは字を書いて汚しなさるから」

夏樹美術株式会社―書画・掛け軸―名士墨跡・書物故作家―昭和時代の名士墨跡書・物故作家―あ行の作家―犬養木堂/いぬかいぼくどう 

 畳はそこに敷いてありませんでした。「墨をしょっちゅうこぼしなさる」絨毯も敷かれていませんでした。「毛氈(もうせん 獣毛を加工した厚手の敷物)でよろしい」

 買い求めたときは一体何色であったろうといぶかしく思われる磨り切れた毛氈が、あっちこっちに焼けこげや墨汁のしみを浮き出させて、お祖父ちゃまの部屋の床をおおっていました。元来が窓の高い洋間のつくりなのに、毛氈の上に座布団を敷き、和風の文机がおいてあります。

 花や盆栽はありませんが、お祖母ちゃまのお居間には、立派な簿記机とおびただしい書付の類と、銀の小ちゃな壺にいつも一杯入っている外国製のボンボンがありました。

 いちどそのボンボンを頂いて、この世ならぬ香気と甘ずっぱいおいしさに驚いて、道子は四ツ谷に行くたび、ボンボン壺にはかない望みをかけるのでした。しかしボンボンは極めて特別な時にもらえるだけで、出されるものはほとんどいつも和泉家の栗饅頭と唐饅頭。それは紙に包んであるから、「何度でも、お客に出したり、ひっこめたり出来る重宝な」お菓子でありました。一度、唐饅頭を頂いて、二つに割ってみたら、中にはカビが生えていました。

 でも、お祖母ちゃまには、女中たちに教えてカビの生えた唐饅頭を出したりひっこめさせたりさせねばならぬ正当な理由があったのです。何しろ大変な数の客でありましたから。

 はじめて四ツ谷の台所を見た日の驚きを、道子は決して忘れませんでした。お湯は大薬罐に二六時中たぎり、十人、二十人の単位で湯呑みと土瓶がひっきりなしに、第二応接室や書生部屋に運ばれました。台所の隅っこの三畳には、大きな卓袱台が出しっぱなしにされ、そのまん中には、これまた二六時中、たくあんを山盛りにした丼、土瓶と、お櫃と、茶碗と箸とが置かれ、いつも、たれかが、そこで食べていました。しかも女中はもとより、十数年も祖父につきそっている女中頭のテルも、台所で食事をしている人物が誰であるか知りませんでした。

 何しろ「憲政の神様」の異名を、お祖父ちゃまは冠(かぶ)せられてしまっていました。だから、崇拝者や子分は日本国中に多かったのです。先生、先生と、夜が明けると同時に四ツ谷に「出勤」して来る常連の中には「あそこに行きゃあ、ひると晩とは、たとえたくあんの尻尾だけのめしでも、食わしてもらえる」と踏む連中もいたのであります。しかし金ヅルは万年野党のお祖父ちゃまには縁遠かったのでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む19  

 今にして思えば、四ツ谷のお祖母ちゃまは、大変な経営者素質を持っていました。彼女が色街でなく、今日普通の家庭で人となったら、おそらくお祖母ちゃまは経済学でも志して、女性経営者として花々しく活躍したでしょう。万年野党の首領の奥さまになって、おさまる人ではなかったのです。

 お祖母ちゃまは立派な簿記机の中に、植木屋とか草取りなどの「出勤簿」を入れていました。出勤簿に記入する植木屋の出勤時間は植木屋が犬養家に到着した時刻ではなく、最初の植木に手を触れた瞬間なのです。仕事終わりも最後の植木から手を離した瞬間が退勤時間として記入されるのです。お祖母ちゃまが来客で忙しいときや、外出の際「出勤簿」は女中頭のテルに渡されましたが、植木屋の出退勤時刻を推定で記入したりすると、月末にお祖母ちゃまに見つけられて注意されるのでした。

 先を見通す能力に秀でたお祖母ちゃまが、「この人はモノになる」と見込みをつけて、元々好きはもちろんのことながら、強引に押しかけ、居坐って妻の座を奪ったのでした。道子の父(犬養健)の生みの母は、この猛烈な恋仇にしてやられ、身を引いて表面から去っていったのです。

 そのドラマは、もうひとつ別のドラマを生みました。追い出された女の産んだ長男―道子の父の兄―が、どうしても「おかあさんを追いやった人」を認めることが出来ず、少年期にさしかかる子供の一徹から出刃庖丁をふりまわして大変な刃傷沙汰をひきおこしたことでありました。

 政治の勘の滅法によいお祖母ちゃまー千代と言いましたーにすっかりしてやられて頭の上がらなくなったお祖父ちゃまは、「あんな子を置いておいては、あなたの政治の生命にもかかわりますよ」の言葉に負けてしまったのでありました。

 十歳と言う幼い年齢を、つい数年前越えたばかりの少年は、勘当(親子の縁を切る)廃嫡(旧民法で相続人としての資格を奪うこと)の身となって、遠く四国に送られました。

 道子の父[ 犬養健 1896(明治29)年7月東京生まれ 「父の映像」筑摩叢書 筆者略歴]は、そのドラマのとき、ほんの幼児でありました。可愛がってくれた優しい実母からひきはなされ孤独と悲哀のゆえに寄り添って日夜暮した兄からさえも剥(も)ぎはなされ、「子供を好きではない」女の手もとに、とりのこされました。

 満四つにになったかならぬころ、さっさと取りきめた継母のはかららいで、彼は幼児のための寄宿に入れられました。成人して人の父となったのちも彼は、お祖母ちゃまがでんと居すわる家を避けました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む20

  お祖母ちゃまは、花のひとつ、絵の一枚を部屋に飾る心を持たぬ人でありました。文学を志す青年なぞ、わかる筈もなかったのです。そのお祖母ちゃまの思いは、道子の父が「愚かな父」と言う題の連載をはじめたと知ったときに爆発しました。

 父はうるささに耐えかねて、連載を途中で切りあげ、短編集に集録された、人の心の機微を気品高い細やかな筆で描いたその小品を、破って棄てました。

 けれどたった一度。彼女はそのこわい四ツ谷の御祖母ちゃまの、思いがけない面に接して、お祖母ちゃまはそれほどおそろしい冷酷な女でもなく、むしろ多分にこっけいな、愛すべきところの多い女ではなかったかと思うのです。

 ―その日。四ツ谷はいつもに倍かけての来客ずくめ。着く早々、母も前掛けをさっさとかけて台所の方に手伝いに行ってしまいました。彼女は「四ツ谷用」のキューピーをひとつ持って、ベランダに水を張った洗面器を無断で持ち出し、キューピーを「風呂」に入れていました。突然、黒紋付がそばに坐ったので、彼女は無断で洗面器を持ち出したことへの叱責を覚悟したのでした。

 しかしお祖母ちゃまはそのキューピーをじっと見ていました。「ちょいとそのキューピーさんをおばあさんに見せておくれ」

 「道ちゃんや。何度もこのキューピーさんをお洗いかえ」「うん」

 「剥げませぬか。色はとれぬかえ」「ううん」彼女は首を横に振りました。「よく出来ているねえ……」お祖母ちゃまは眼をあげてしばし空中をしばらく見ると、急に「キューピーさん」を彼女の膝に押し戻し、さっさと早い動作で居間に入って上手にポンポン手を拍ちました。「たれかおらぬかえ」「三越に電話をおかけなさい。セドドイド(セルロイド)部の部長をお呼び」

 ややこしい押し問答がくりかえされたあと、三越側はようやく、玩具部長が四ツ谷のお祖母ちゃまの居間の閾 、三つ指をつきました。道子が母や其の他の人々から聞いた話によると、お祖母ちゃまと三越部長との間にはこんな問答が繰り返されたようです。

 「ときに、セドドイドで海老はつくれますかえ」「エビーセルロイドでエビを。それはまァ、つくれぬことはありますまいが」「髯(ひげ)もちゃんと出来ますかえ。赤い髯」「それは…まァ、つくらせてつくれぬことはございますまい」「それから、昆布も出来ますかえ」

「ヘッ! コンブ!」「北海道でとれる上等の昆布でござんすよ」

 お祖母ちゃまが玩具部長に注文したのは、伊勢海老、裏白(シダ植物の一種、正月飾り)、昆布、橙(だいだい)ぜんぶくっついた、セルロイド鏡餅大中小一式なのでした。

「特別でございますから、高くつきます」「けっこうでござんすよ。あんた、毎年毎年、玄関と、応接と、茶の間に、役にも立たず、かたくなる鏡餅をかざるより、、毎年洗って使えて、色もさめないセドドイドの方がよほど経済的でござんすよ」

  こうして、犬養本家の正月は、その後、年々歳々、セドドイドの鏡餅で飾られました。「ねえ、あなた、ついでに芝生も松も桜も、セドドイドでつくらせてはどうでござんしょねえ。草取りや植木屋のてまもなし、出勤簿の面倒もなくなるし」

「やァなこった」とお祖父ちゃまはそっぽを向きました。いのちの芽生えの健かさも、自然の緑の美しさも解さぬ、政治一点張りのこの妻をえらんでしまったお祖父ちゃまは、そのとき、ふっと嘲りとも淋しさともつかぬ妙な表情を孫の道子に向って見せました。

 

 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む1~10

犬養道子「花々と星々と」を読む 1

 犬養道子「花々と星々と」上下(大活字本シリーズ 埼玉福祉会)は著者の自伝的随筆で、中央公論社から1969(昭和44年)出版、1973(昭和48)年増補版が出されました。著者は1932(昭和7)年の五・一五事件で暗殺された犬養毅(木堂)首相の孫、白樺派の作家で後政界に転じた犬養健(毅の子)・仲子夫妻の長女です。本書では犬養毅と犬養家の人々や、同家と関わりのあったさまざまな人々の姿が生き生きと描写されており、彼女は評論家としても其の他多くの著作を発表しています。

系図で見る近現代―目次―第12回 犬養毅―「話せばわかる」は、なかった!

 1978(昭和53)年には本書を原作とする「ドラマ人間模様」(斉藤こず恵 犬養道子役)がNHKから放映されました。

 まず犬養毅(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13参照)の生い立ちから申し述べることにしましょう。

 彼は1855(安政2)年4月20日備中国賀陽郡庭瀬村字川入(後ち岡山県吉備郡庭瀬町)の庭瀬藩(板倉氏領)大庄屋犬飼源左衛門當済の次男(母 嵯峨)として生まれ、仙次郎當毅(後に本人が毅の一字とした。読み方も本人自身時期によって変化、つよし、つよきと呼ばれたことが多い)と名付けられました(鷲尾義直編「犬養木堂伝」上 明治百年史叢書 原書房)。

犬養木堂記念館 

 犬飼家は犬養とも称し(毅の代に犬養と決定)、苗字帯刀を許された家柄でしたが、當済の代には家運が衰退していました。父源左衛門はこの次男の誕生を殊の外喜び、七言絶句を賦したと言います。近隣の人々は「犬飼家は、代々次男に傑出した人物を出してゐる、今度も次男の誕生祝いを盛んにされたのは、その為であらう」と噂し合ったそうです。

 彼は6歳のころから父の膝下にあって漢書素読を授けられ、7歳にして藩医で学者として聞こえた森田月瀬の家塾に通学させられたのですが、父は彼を漢学者にする希望だったので1865(慶応1)年犬飼松窓の三餘塾に転学させられました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 2

 ところが1868(明治1)年父は急病で死去、当時彼の兄豊太郎が18歳で家を相続したのですが、彼が従来通り修業を続けることは不可能となりました。

 そこで兄の厄介にならずに、自活して勉学を続けるために、彼は門側の一屋に寺子屋を開き、傍ら松窓先生の家塾に通って勉学に励みました。

 松窓先生が倉敷の明倫館に招聘されると、彼はそこから約1里ほどの母方の伯父の家に寄寓して勉強をつづけました。

倉敷代官所跡 

 1871(明治4)年廃藩置県により、庭瀬藩は深津県(県庁 笠岡市)の一部となり、同県は翌年小田県と改称されました。

 すでに習字を習っていた御祐筆が小田県の役人で、この人の紹介により、彼は同県地券局に勤務することになりました。彼はこうして学資を貯え、上京するつもりでしたが、給料は安く、下宿代を払えば、あとはいくらも残りませんでした。1874(明治7)年地券局は地租改正局と改称されましたが、彼は継続出仕を願わず辞職しました。

 そのころ医者などが集まって漢訳の西洋書輪読が流行していました。会場は大概お寺で、集まるものは彼より年長のものばかり、書籍は「気海観瀾」(青地林宗著 日本最初の物理学書)や「博物新編」(大槻玄沢ら訳 仏語の「家事百科事典」の蘭訳本)とかいうもので、漢学修業を目的とする彼には物足りないものでした。

 ところがあるとき、先輩の学友多田松荘が漢訳の「万国公法」(ヘンリー・ホウィートン著の国際法原書を米人宣教師マーチンが漢訳したもの。日本では1865年出版)を輪読の席に持って来ました。

 「どうもよく読めない」と多田が言うので、彼は同書を持ちかえって、三晩くらい徹夜しましたが、すっきり理解できませんでした。そこでまず英語を学んで原本を読んでみようと考え、それには上京する外はないが、旅費の工夫さえつかず、途方にくれていると、友人の多田が資産家の伯父に話して30両出してくれることになり、あとは姉がかなりの商人に嫁いでいて、婿の援助で上京することになりました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 3

 1875(明治8)年7月7日神戸出帆、横浜を経て7月10日東京着、松窓先生の家塾の塾頭であった難波恭平氏を訪ねると、地方に移転して不在でした。姉婿の援助も期待できなくなり、途方にくれているとき、偶然小田県の官吏であった山口正邦に出会い、山口の従兄林(後 藤田姓)茂吉に会えるよう手配してくれました。藤田茂吉は慶応義塾出身、郵便報知新聞主筆をしていた人物で、彼はまもなく藤田の新借家(京橋区南鍋町)の食客となり、同新聞論説の代筆を引き受けたりしたこともあったようです。彼が湯島の共慣義塾に入ったのも藤田の勧めによるものでした。共慣義塾は月謝も賄料も他に比して安く、ここで彼は初歩の英語を習得しましたが、塾舎は粗造不潔、寄宿舎の賄いも劣悪で耐えがたいものでした。

Weblio辞書―検索―郵便報知新聞―藤田茂吉    

 藤田は彼に郵便報知新聞に寄稿し、その原稿料を学資にして慶応義塾に入学してはどうかと勧め、1876(明治9)年彼は同塾に入学、寄宿舎では一切友人とも交際せず、勉学に専心する毎日を過ごしました。

 1877(明治10)年西南戦争(「大山巌」を読む18参照)がおこると、藤田茂吉から、戦地にでかけて戦況を通報してはどうか、もし君がやってくれるなら、社主に交渉して帰ってからの学費は卒業まで社から毎月10円ずつださせることにするが、という相談をうけ、彼は快諾し「戦地探偵人」(従軍記者)として戦地に赴くことになりました。

 戦地に到着したのは同年3月田原坂の戦闘の最中で、軍人と官吏以外交戦地帯に入ること禁止とのこと、幸いに内務権大書記官の石井章一郎が臨時熊本県令事務取扱として出張してきていたので、この人に頼んで熊本県御用係という名義の辞令を出してもらって交戦区域に入ることができました。

 当時各新聞社から特派された記者は、「東京日日」の福地源一郎(桜痴)をはじめ一流の大記者を選抜したものでしたが、彼等は贅沢な生活に慣れ、戦地の不自由に弱っていました。これに対して彼は貧書生で窮乏には慣れて居り、砲烟弾雨の間を縦横に馳駆し、ときには兵卒らとともに露営もし、夜襲にも加わるという有様で、所謂活きた材料によって軍事通信の任務を果しました。

 彼の戦地からの通信は「戦地直報」と題して、同年3月27日発行の郵便報知新聞紙上に其の第1回が掲載され、城山陥落まで前後百数回連載、内容は生彩に富み、現状を見るようだと大いに読者の歓迎するところとなりました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 4

 彼が九州から帰ってくると、報知社では学資は続けるが、その代わりに月3回宛論説を書いてくれと言われ、やむなく承知しました。ところが半年もたたぬうちに藤田より月10回論説を書けといわれ、それでは約束が違うと報知社との関係を絶つに至ったのです。

 すると忽ち学資に困りましたが、同郷の友人が翻訳文の添削の仕事を周旋してくれて、これで安心して勉強できるようになりました。

 当時福沢諭吉は講義を担当しておりませんでしたが、三田演説会が毎週土曜日に開かれ、福沢が演説するとその後犬養毅も演説(「諸友は語る」鷲尾義直「前掲書」)、こうした福沢と彼との人格的接触を通じて、彼は福沢の思想的影響を受けたようです。

 彼はまた仮名垣魯文の推薦(「十大先覚記者伝」鷲尾義直「前掲書」)で1873(明治6)年郵便報知新聞に入社した栗本鋤雲の門下生となり指導を仰ぎました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―くー栗本鋤雲

 犬養毅の雅号「木堂」は栗本鋤雲の撰によるものとする説(犬養道子「表題書」)があります。鷲尾義直氏によれば、犬養毅がいつから「木堂」の雅号を称するようになったのか不明であり、その出典は「老子」説(「十大先覚記者伝」)もあるが誤りで、「論語」の「剛毅木訥近干仁」から撰んだと犬養毅自身が述べていること、及びこの雅号が鋤雲の撰によるものかどうか断定を避けています(鷲尾義直「前掲書」)。

 入学した慶応義塾で彼が一番困ったのは学資を得るための翻訳文添削などに追われ、数学の勉強の時間がなかったことでした。そのため第二級時代の大試験に1点上の成績を矢田績(後 三井銀行入社)君に奪われ、自尊心を傷つけられた彼は卒業間際の慶応義塾を退学してしまったのです。彼の負けず嫌いな性格の一面がよく表れている挿話です。

 1880(明治13)年「東海経済新報」が創刊され、社長は豊川良平(慶応義塾出身)で、資金の調達其の他経営を担当、彼は主幹として編集を担当、「東京経済雑誌」誌上に自由貿易論を掲げる田口卯吉(鼎軒)に対して、彼は保護貿易論を主張、両者の論争が展開されました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー田口卯吉

 やがて豊川は明治義塾の経営に主力を注がねばなっらなくなり、かれもまた大隈の改進党創立に参画して多忙となったため、1882(明治15)年同誌は廃刊となりました。

 彼の永い記者生活(郵便報知新聞の寄稿にはじまり、東海経済新報の創刊から正式に報知社への入社となり、朝野新聞に転じ、民報の創刊となり、聘せられて秋田日報の主筆に就任、また報知社に復帰など)の途中、参議大隈重信(「田中正造の生涯」を読む12参照)の配下であった報知社の先輩矢野文雄(龍溪 「日本の労働運動」を読む10参照)のすすめで1881(明治14)年7月18日統計院権少書記官に任命されました。矢野は彼に、統計院の総裁は大隈参議である、大隈は近く開設せらるべき帝国議会に、有力なる政府委員をを養成するの必要を感じ、福沢諭吉(「大山巌」を読む24参照)に依頼して、三田系の俊才をそこに網羅せんとする意図を懐いている、そしてその選考の任に当たったのが矢野だというのです。

 彼は在官中であっても「東海経済新報」を続刊し、これに執筆することを妨げない内諾を得て、統計院に出仕することになりましたが、このとき矢野の推挙で統計院に入ったのは、彼の外、尾崎行雄(「大山巌」を読む47参照)・牛場卓造の3人でした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 5

 しかし1881(明治14)年の政変(「大山巌」を読む19参照)により、同年10月11日大隈重信が参議を罷免されて下野すると、矢野文雄・犬養毅尾崎行雄らも一斉に辞任するに至りました。

 翌日、1890(明治23)年を期して国会を開くとの詔が発せられると、同年板垣退助を総理とする自由党が結党され、これにつづいて翌年大隈重信を総理とする立憲改進党が発足しました。

 同党は大隈総理の下に河野敏鎌、北畠治房、前島密の3大老がおり、大老の下に5奉行の如き幹事が設けられ、矢野文雄、沼間守一、牟田口元学、春木義彰、小野梓がこの職務を勤めました。是等の人々はすべて官吏を辞職した人たちで、最高幹部でしたが、尾崎行雄犬養毅らは、その下で地方の遊説にむけられる実働部隊に属し、最高幹部会議には参加を許されませんでした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー前島密

 1882(明治15)年5月東京府会議員の補欠選挙が芝区で行われたとき、当時の芝区長奥平昌邁は犬養に立候補をすすめました。彼は当時復帰した郵便報知新聞大隈重信買収、社長矢野文雄)の記者で、まだ下宿生活をしていましたが、奥平は法律上の居住資格を作るために慶応義塾構内の岡本宅に彼の門札を掲げるよう手配、首尾よく当選しました。

 このころ彼はようやく本所区番場(旗本戸田邸跡)に新居を構え、郷里から母と妹を迎えております。

 1883(明治16)年春、彼は秋田改進党から「秋田日報」主筆に招聘されて秋田に赴いたのですが、永く中央の地を離れるつもりはなく、同年11月18日秋田を出発、同月末に帰京して郵便報知新聞社に復帰しました。

 政府の自由民権運動に対する弾圧が強化(「大山巌」を読む19参照)され、松方デフレ政策(「雄気堂々」を読む16参照)による不況も影響して1882(明治15)年の福島事件をはじめとする自由民権運動激化事件が頻発するに伴い、1884(明治17)年自由党は解党、立憲改進党にも解党論が高まってきました。同党の総理大隈重信は解党論の代表者河野敏鎌、非解党論の代表者北畑治房、中立派の代表者前島密の慰撫調整に苦しみ、同年12月17日副総理河野敏鎌とともに同党を脱党しました(「明治政史」明治文化全集 日本評論社)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 6

 このような情勢の下で、大隈の去った後、同党は総理を空席とし、沼間守一・島田三郎・尾崎行雄・藤田茂吉ら7名を事務委員に挙げ、党務を処理することとなりました。犬養は解党反対派の一人でしたが、具体的にどのような党活動をしたのかほとんど不明です。

 同年12月4日に朝鮮で起った甲申事変(「大山巌」を読む24参照)処理のため井上馨外務卿は特派全権大使として朝鮮に赴き、郵便報知新聞犬養毅をその談判の模様並びに同国乱後の景況を探聞し、精密確実の報道をなさんがため、同国京城漢城)に特派することにしました。

 彼は同年12月25日春日艦で横浜を出港、暴風のため難航し、翌年1月3日馬関を出港、同月6日仁川着、仁川から京城に赴き数日滞在、同月12日同地を出発、同月14日馬関に帰着しました。

 甲申事変における武装蜂起に失敗して金玉均が日本に亡命後、犬養は隣接する井坂早夫(元朝野新聞記者)宅に一時身をひそめて居た金玉均と交流を深めていました。犬養の語るところによれば、井上外務卿らに冷遇された金玉均は、犬養の制止にもかかわらず、李鴻章の援助を得ようとして上海に渡航し暗殺されました(鷲尾義直「前掲書」中)。

 朝鮮から帰国後、1886(明治19)年井上馨外相は欧米諸国との条約改正交渉にのりだしました。しかし外人判事任用問題にみられる卑屈な欧化政策(「大山巌」を読む26参照)が非難を浴び、一時衰退したかに見えた自由民権運動が再び高まってきました。

 1887(明治20)年10月3日後藤象二郎(「龍馬がゆく」を読む16参照)は民間政客70余人を芝公園内三縁亭に招き演説、丁亥(明治20年の干支)倶楽部を設立、小異を捨てて大同につく、いわゆる大同団結運動を起こしました。

 かねて民党の合同を主張し、その実現に努力してきた犬養は、矢野文雄、藤田茂吉ら改進党の同志先輩たちが後藤の性格を信ぜず、改進党独自の立場を守ることの必要を説いたのですが、彼は尾崎行雄とともに三縁亭の会合に参加し、丁亥倶楽部の幹事になっています。

 同年10月高知県代表片岡健吉らが三大事件建白書を元老院に提出するなどの動きが高まると政府は同年12月26日保安条例を公布施行するなどの弾圧を強行するに至りました(「大山巌」を読む26参照)。

 彼は保安条例施行以前に「政海之燈台」(集成社)と題する著作を公刊し、時局を次のように論じています。「在朝政治家と民間政党の間に政論の争競の旺盛繁劇を加ふるは吾人の最も希望する所なり。左れども其争競の手段宜きを失へるより官民の間に不穏当なる軋轢を生じ為めに上下乖離の情状を生ずるの傾向あらば吾人は力を極めて之を匡正せざる可からず」(第三章 官民の乖離)

 このような抽象的表現の時評にとどまる限り、彼の発言は問題とならず、改進党員として唯一人保安条例の適用を受けて東京から追放されたのは尾崎行雄だけで、彼には及びませんでした。

 1889(明治22)年3月22日後藤象二郎は突如黒田清隆内閣の逓信大臣として入閣、この行動は大同団結運動に結集した人々の期待を裏切る行為として指弾され、この運動は四分五裂となってしまいました。

 このような情勢において彼は植木枝盛(「大山巌」を読む19参照)・河野広中(「日本の労働運動」を読む26参照)ら自由党系の人々とともに大同団結派の政社組織を主張する大同倶楽部に結集したのです。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 7

  1887(明治20)年9月17日井上馨外相が辞任し、伊藤首相が外相を兼任しましたが、翌年2月1日大隈重信外相に就任し黒田清隆内閣にも留任しました。

 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布(「大山巌」を読む27参照)されましたが、彼は「朝野新聞」[末広重恭の招聘により、1886(明治19)年3月入社]の同日社説欄に頌辞を執筆、憲法発布を奉祝しました。

Weblio辞書―検索―朝野新聞  

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―すー末広鉄腸 

 1889(明治22)年4月19日大隈の条約改正案がロンドン・タイムスにに報道されて、大審院外人判事任用の秘密が世間に洩れると、「朝野新聞」は同年7月9日より18日まで「改正条約の得失を論ず」と題する長文の論説を掲げました。この論文には筆者無署名ですが、犬養の執筆と推定されます。

 彼は大隈の条約改正についてもとより完全なものとは思わなかったけれども、当時の国情においては、これを断行せざるを得ないと考えていたようです。大隈重信大審院外人判事任用問題で失脚するに至り(「大山巌」を読む28参照)、この後改進党は一段と党勢不振に陥りました。

 1890(明治23)年7月1日第1回総選挙実施、彼は郷里岡山県第三区で立候補、定員1名に立候補者は4人いましたが、首尾よく当選しました。

 総選挙の結果、衆議院では民党(野党)の立憲自由党と態勢を立て直した立憲改進党吏党(与党)を抑えて多数派となりました。

 山県有朋首相は軍備増強を盛り込んだ予算案を提出、民党は民力休養・政費節減をスローガンに予算案の削減で対抗(「大山巌」を読む29参照)、1891(明治24)年3月2日政府は民党の土佐派切り崩しで修正案(歳出削減額を縮小)を通過させました。

  1890(明治23)年暮、犬養は尾崎行雄ら数名の同志とともに「朝野新聞」を去り、翌年1月11日新たに「民報」を創刊しましたが、同紙は上記の土佐派変節議員に痛烈な批判攻撃を展開、このため3月16日犬養毅議員が人力車で路上を通行中暴漢に襲われ棒で頭部を殴られる事件が起こりました。同紙はしばしば発行停止の処分を受け、5カ月目に廃刊、以後彼は尾崎とともに郵便報知新聞の客員として、同紙に執筆するようになりました。

 1892(明治25)年2月15日松方正義内閣も軍事費をめぐって民党と対立し、衆議院を解散、第2回総選挙施行、露骨な選挙干渉にもかかわらず民党が勝利し、松方内閣は総辞職、同年8月8日第2次伊藤博文内閣が成立しました。

 同年11月29日開会された第4議会において、民党は1月26日政府予算案の軍艦建造費などを削減、2月7日衆議院は内閣弾劾上奏決議案を可決しました。これに対して軍備拡張のため、一定期間官吏の俸給を削減するなどの内容をもつ詔書が出され、衆議院は2月22日製艦費をふくむ予算案を可決、以後政府と民党の対立は異なった局面に転換しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 8

 千島艦事件の日本敗訴(「大山巌」を読む31参照)により、1893(明治26)年10月、安部井磐根・大井健太郎らは大日本協会を組織して対外硬派を形成、内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責を主張、これに改進党は同調しましたが、自由党は反対しました(「大山巌」を読む32参照)。

Weblio辞書―検索―内地雑居 

 同年11月28日第5通常議会が開会され、12月19日安部井磐根ら提出の現行条約励行案を上程、10日間の停会を命じられました。さらに12月29日政府は大日本協会に解散命令を出し、翌日衆議院を解散しました。

 1894(明治27)年3月1日第3回総選挙が実施されたのですが、同年4月犬養毅らは立憲改進党を脱党し、岡山で中国進歩党(所属代議士5名)を結成しています。しかし彼は主義主張を改進党と異なって離党したのではなく、地方における同志の立場を有利にするための一時的振る舞いであって、一切の政治行動は改進党と同一でした。同年5月15日開会の第6特別議会において、同月31日衆議院は硬六派(立憲改進党を含む)提出の内閣弾劾上奏決議案を可決しました。

Weblio辞書―検索―硬六派 

 同年6月2日政府は衆議院を解散、7月25日豊島沖の海戦により日清戦争が勃発しました。同年9月1日第4回臨時総選挙を実施、10月18日広島で開会された第7臨時議会は政府の日清戦争(「大山巌」を読む35~39参照)遂行に全面的協力をすることになりました。

 しかし戦後日本が三国干渉により遼東半島を放棄(「大山巌」を読む39参照)すると、硬六派はこれを非難、三国干渉を承認した第2次伊藤博文内閣の倒閣方針に転ずると、政府は自由党及び硬六派の一角であった国民協会を抱き込み、政権延命を図るに至ったので、硬六派側も新党樹立に向かい、1896(明治29)年3月1日立憲改進党[1892(明治25)年大隈重信改進党に復帰]・犬養毅の指導下にあった中国進歩党立憲革新党などが合同して進歩党を結成、犬養毅は常議員に推挙されました。新しく成立した第2次松方正義内閣に大隈重信外相として入閣、進歩党は松方内閣と提携しました(松隈内閣)。

 しかるに薩閥系と大隈系の閣僚間のいがみ合いを松方首相は収拾できず、同内閣は倒壊、1898(明治31)年1月12日第3次伊藤博文内閣が成立しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む 9

  政府は歳入不足を補うため、地租・酒税を中心に3000万円の増税方針をはかったのですが、第12特別議会において自由・進歩両党は提携して地租増徴案を否決、衆議院は解散されました。つづいて同年6月22日自由・進歩両党は合同して憲政党を結党しました。

 このころ犬養毅は健康を害しておりましたが、しばしば自由党首脳部とも会談、彼の宿望であった民党の合同に向けて努力しました。結党大会においては宣言・綱領を採択し、党務処理のため4名の総務委員を推挙、自由党系から片岡健吉・江原素六が、進歩党系から犬養毅楠本正隆が就任しました。

土佐の歴史散歩―地域別MENU―高知市中心部―片岡健吉像 

 伊藤首相は元老会議で政党との対決を主張する山県有朋と激論となり、ついに辞表を提出し、後継首相に大隈重信板垣退助を推薦、同月27日大隈・板垣に組閣命令が下され、第1次大隈重信内閣(隈板内閣 最初の政党内閣)が誕生しました(「大山巌」を読む46参照)。

 閣僚の選考においては、とくに尾崎行雄文部大臣就任に難色をしめすものが多かったのですが、犬養毅はひたすらこれらの不平を抑えることに苦心しました。当時彼の私邸は牛込馬場下にありましたが、早朝から深夜まで政客の来訪が絶えず、夜になれば酒でもてなし、彼は入閣こそしなかったが、事実上の総理と目されていたようです。

 同年8月10日第6回総選挙で憲政党衆議院300議席中243議席を確保しました。

 しかるに尾崎行雄文相の共和演説事件で尾崎が辞職すると、閣議は後任文相問題で紛糾、大隈首相が独断で犬養毅を後任文相に奏請したため、板垣退助内相ら自由党系閣僚は辞任、同年10月31日大隈重信内閣は倒壊、憲政党は旧自由党派の憲政党と旧進歩党派の憲政本党に分裂しました(「大山巌」を読む47参照)。

 1898((明治31)年11月8日第2次山県有朋内閣が成立、同内閣は憲政党を抱き込んで、同年12月20日懸案の地租増徴法案可決に成功しました。同法案に反対した憲政本党において大隈重信は事実上の総理であったけれど、党則上は責任ある地位になく、党の実権は犬養毅・大石正巳ら総務委員の手中にありました。

Weblio辞書―検索―大石正巳(おおいしまさみ)  

 山県内閣は文官任用令などを改正して政党の官僚統制を困難にし、治安警察法を公布、労働運動・農民運動の取り締まりを強化し、軍部大臣の現役武官制を確立、軍部が内閣の存廃をきめる力を持つようにするなど、政党と対決する政策を打ち出しました。これに対して憲政党伊藤博文を党首とする新党参加を申し入れ、1900(明治33)年9月15日立憲政友会が発足(「大山巌」を読む48参照)、尾崎行雄はこれに参加しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む10

  1900(明治33)年12月18日憲政本党大会において党則改正が行われ、新たに総理をおき大隈重信が推戴されました(大津淳一郎「大日本憲政史」5 原書房)。

 同年10月19日成立した第4次伊藤博文立憲政友会)内閣の外相に就任した加藤高明山県有朋と合わず、1901(明治34)年6月2日第1次桂太郎(長州閥 山県有朋の直系)内閣が対露軍備拡張のため地租増徴継続による海軍拡張計画をめざすと、伊藤博文加藤高明の斡旋で大隈重信と会談、政友会と憲政本党提携の気運が高まりました。両党はそれぞれ大会を開いて地租増徴継続に反対、海軍拡張の財源は政費節減のよれと決議しました。

 1903(明治36)年5月20日桂首相は政友会との妥協交渉を開始、同月24日政友会議員総会は妥協案を承認、かくして伊藤と大隈の提携は崩壊しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む7~9参照)。

 1905(明治38)年12月21日第1次桂太郎内閣は日露講和(「坂の上の雲」を読む48~49参照)をめぐる騒擾事件をきっかけとする民衆運動の高まりの中で総辞職し、元老会議を経た桂太郎の推薦により、1906(明治39)年1月7日第1次西園寺公望(1903立憲政友会総裁・「火の虚舟」を読む9参照)内閣が成立、桂と西園寺が交替して政権を担ういわゆる桂園時代がはじまりました。

 隈板内閣以来政権からはなれた憲政本党には民党としての使命に徹しようとする正義派(非改革派)と多年の在野による党勢の停滞に耐えられず、政権に接近しようとする功利派(改革派)の抗争が容易ならざる事態となってきました。犬養毅は正義派として党内をまとめようと努めました。しかし1903(明治36)年と1907(明治40)年の中国訪問による不在中、改革派は桂太郎一派大同倶楽部のはたらきかけもあって大隈と犬養の排斥を企てるに至ったのです。

 1907(明治40)年1月20日の憲政本党大会において大隈重信は総理引退を声明するに至り、1909(明治42)年2月27日改革派が掌握していた党執行部常議員会において院内総務犬養毅は除名処分を受けました。しかし同年3月2日同党代議士会を掌握した非改革派はこの決定を無効とし混乱状態となったのです。しかしこの直後の4月11日日糖疑獄事件の検挙(原圭一郎編「原敬日記」福村出版)が始まり、改革派から逮捕者が出ると、同年10月28日の党大会で改革派は犬養毅の除名を取り下げ、両派の妥協が成立しました(「憲政本党党報」複製版 柏書房)。

Weblio辞書―検索―日本製糖汚職事件 

 その後1910(明治43)年3月13日憲政本党は又新(ゆうしん)会・旧戊申倶楽部の一部などの民党系非政友会系の各党と合同して立憲国民党が結党されました(鷲尾義直「前掲書」)。同党は党首不在で憲政本党の大石正巳・犬養毅、又新会の島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)・河野広中、戊申倶楽部の片岡直温・仙石貢らが常議員として党運営に当たりましたが、旧憲政本党犬養毅を中心とする非改革派と大石正巳らを中心とする改革派の対立は依然として存続したのです。 

 

 

城山三郎「男子の本懐」を読む31~40

城山三郎「男子の本懐」を読む31

  1930(昭和5)年11月下旬、井上は恒例の製造貨幣試験に立会い、あわせて銀行大会などに出席するため、関西へ赴きました。

財務省―トップページー検索―製造貨幣大試験について  

 政府の政策として、労働者の権利伸長のための労働組合法の制定にとりかかっており、労働者側は協力しているのに、資本家側は反対で話し合いに代表すら送ろうとしないので、財界に顔のきく井上に上記内容の話し合いの場に出席するよう資本家を説得する役割が期待されていたのです。

 また彼はさまざまな機会をとらえて金本位制堅持を主張する必要を感じてもいました。それは政友会を中心として、金輸出再禁止に転換することにより、金準備量とは無関係に通貨を発行できるようにして、インフレ政策により不景気を脱出しようという意見が高まろうとしていたからです。

 幣原喜重郎が首相代理となったことについて、やがて民政党内部から不満の声が聞かれるようになりました。彼は衆議院議席を持たず、民政党の党員でもありませんでした。そのような人物が民政党内閣の首相代理となるのは問題があると云う理由からです。

 幣原よりも安達謙蔵内相(首相代理決定の際在京せず)の方が首相代理にふさわしいという人々も多くいました。彼は幣原に欠けた上記資格を具えていただけでなく、その政治経歴からみても、浜口首相自身が「副総理格」として入閣させた経緯があったからです。

好古齋-Site Menu―松篁収蔵品-日本軸⑬1861~1870生―安達謙蔵

 この年の暮近くになって浜口は少しずつ元気を取り戻しつつありました。1931(昭和6)年1月22日浜口は退院、和服でステッキをもち、両脇を支えれるようにして官邸に帰りました。

 同日すでに前年12月26日開会され、休会中であった第59議会が再開されました。その冒頭、政友会の鳩山一郎幣原喜重郎の首相代理を認めないという緊急動議を提出しました。この動議は否決されましたが、議会は波瀾の幕開けとなったのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む32

 1931(昭和6)年1月22日井上蔵相は衆議院本会議で財政演説を行いましたが、その論旨は大要次のような内容でした(「井上準之助論叢」3)。

 不景気は金解禁の結果というよりも世界恐慌によるものであり、その恐慌は予測できなかったものである。世界の物価が低落する情勢の下で、もし日本が金解禁と緊縮により物価引き下げを行っていなかったら、国際収支は破滅的な赤字になっていただろう。不景気の中で合理化に努力した企業は生産費の切り下げのおかげで、すでに安定した立ち直りを見せている。中小企業の救済や整理促進のため特別な措置をとる他は、従来の政治路線を堅持して、何等の支障もない。

トリバタケハルノブのイラストとか日記ブログー12 浜口雄幸 金解禁を宣言する井上準之助   

 これに対して政友会きっての財政通であった三土忠造前蔵相は要約すると次のように井上の論旨を批判しました。 

 不景気は、政府が金解禁の時期と方法を誤ったために起こったものであり、経済は一向に立ち直りを見せず、むしろ悪化する一方である。

 同年2月3日衆議院予算総会で政友会の中島知久平議員がロンドン軍縮条約について、国防の不足をきたしたのなら、浜口首相・幣原外相の責任は重大である。明確なる返答を承りたと質問したところ、幣原首相代理は「この条約は御批准(「男子の本懐」を読む27参照)になっております。御批准になっていることを以て、国防を危うくするものでないことは明らかであります。」と答弁(この答弁については幣原首相代理の弁明あり。幣原喜重郎「前掲書」参照)したため、議場は騒然となり、島田俊雄議員が「それは国務大臣としての輔弼(ほひつ 補佐)の責任を忘れ、陛下に責任をなすりつけるものと言わねばならぬ」と非難、予算審議は10日中断しました(新聞集成「昭和編年史」))。

 もともと幣原外相を首相代理としたことには問題があり、やはり浜口首相が登院しないとまともな予算審議ができないとする声が高まり、体調を回復しつつあった浜口は毎日新聞を精読して議会の成り行きをよく知っていましたから、登院の意向を示していました。

 このため幣原首相代理は同年2月19日の貴族院本会議で「浜口首相も経過は至って順調であるから、今後意外の変化のない限りは、三月上旬には登院出来るであろう」旨を自発的に声明するに至りました(浜口雄幸「前掲書」)。

 ところが登院の約束をして2月下旬から3月上旬にかけて、浜口の病状は悪化しはじめました。激しい腹痛、便秘と下痢の繰り返しが続き、食欲はなく、わずかな葛湯かパン粥などしか喉を通りません。痛みのため不眠症がひどくなりました。

 家族や医師の反対にもかかわらず、同年3月10日午後1時半浜口首相は登院、休憩室で閣議を開き、午後2時5分衆議院本会議場に入り、議員は総起立、拍手して迎えました。

 浜口首相は大臣席につき、演壇に立って次のように挨拶しました。「諸君、私不慮の遭難のため時局多事の折柄数箇月の間国務を離るるのやむなきに至りました。(中略)以来健康も次第に回復をいたし、昨日をもって幣原首相臨時代理の任を解かれ、同時に私自ら総理大臣の職務に当ることとなったのであります。ここに御報告かたがた特に一言申上げる次第であります。」(小柳津五郎「前掲書」)

 

城山三郎「男子の本懐」を読む33

 つづいて犬養毅立憲政友会総裁が心のこもったいたわりの言葉をかけ、再び拍手の嵐の中を浜口首相は退場しました。首相官邸に帰り、椅子に坐ると浜口はがくんと首を垂れ、家人があわてて臥床させるほど疲労していました。

 翌3月11日浜口首相は再び登院、貴族院本会議で挨拶、その様子を貴族院で見た若槻礼次郎は「挨拶はすらすらとはできず、とぎれとぎれで、すこぶる苦しげな様子であった。」と述べています(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史-古風庵回顧録―」講談社学術文庫)。浜口が姿を消すと議場には、ため息があちこちで洩れたほどでした。

 この後浜口首相は衆議院予算総会に出席、首相挨拶の後、政友会の島田俊雄議員が質問に立ち、首相代理の法理的根拠、軍縮問題、不景気問題などを挙げ、「これらについては、ぜひ首相の言明を承りたいが、お見受けするところ健康はまだ十分でないようである。首相は果して議会の質問応答に堪え得るかどうか」と浜口の顔を見て「かかる健康状態で議会に臨まれることは、野党として甚だ迷惑至極である」とただしました。

 浜口首相は立ち上がることができません。「首相答弁せよ!」の声が飛ぶと、島田議員は見かねたように「私は挨拶を述べたのであって、強いて答弁を求めたもではないから、とくと考慮されたい」と発言をしめくくり、浜口首相はようやく予算総会から解放されました。

 浜口首相が回復どころか、衰弱しきった状態であることは誰の目にも明らかでした。閣僚・与党幹部及び医師団は協議して、翌3月12日首相を休養させることにしました。ところが新聞が「僅か二日で早くも休養」と書き立て、首相はまた登院します。

 3月18日首相は鳩山一郎らの首相代理問題や財政問題などのきびしい質問にさらされ、演壇にたち、答弁します。

 浜口首相が本会議場に入ったのは午後2時30分で、首相が政戦の陣頭に立った時間は2時間43分に及び、議長が休憩を宣言して首相はようやく本会議場近くの休憩室に入りました。首相は休憩室で2時間半も待機した後、閣僚や党幹部の説得で首相官邸に引揚げました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む34

 1931(昭和6)年3月17日衆議院は政府提出の進歩的な労働組合法案・労働争議調停法改正案などを可決しましたが、政府内部にも安達謙蔵内相ら積極派と江木翼鉄相、宇垣一成陸相らの消極派の対立があり、これが保守的な貴族院への働きかけを弱めたとの見方もあり、浜口首相が指導力を発揮できる状態にはなく、結局貴族院はこれを否決、第59議会は同年3月27日閉会となりました。

 症状が悪化した浜口は同年4月4日帝大病院に再入院、深夜の午前1時から2度目の開腹手術を実施して結腸の一部を切り、人工肛門をつくりました。しかしそれでも症状は好転せず、4月9日午後11時3度目の開腹手術により、銃創の化膿による硬結を切開しました。このころ浜口はつぎのような句を詠んでいます。「紅葉より桜につづく嵐かな」(病院生活百五十日 その二 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫

四季折々―カテゴリーアーカイブー橋の話題―第73話 浜口雄幸と雄幸橋

 閣僚の間には議会を乗り切ったことでもあり、なお浜口に望みを託して内閣の延命をはかろうとする意見も多かったのですが、井上蔵相は浜口辞任を強く主張しました(「木戸幸一日記」上巻 昭和6年4月7日条 東大出版会)。

歴史が眠る多摩霊園―著名人全リストー頭文字―かー木戸幸一

 井上準之助は今浜口にもっとも必要なのは政権維持ではなくて、治療のための静養がなによりも大切であるということで、ここで浜口が政界を引退したとしても、元老西園寺公望らはなお浜口内閣の財政ならびに外交政策の継続を望んでおり、天皇の大命(組閣命令)は民政党に降下することは確実とふんでいたからです。

 同党内では後継総裁は現役の衆議院議員でなければならぬとして、若手を中心に安達謙蔵を推戴しようとする動きがあり、他方江木翼や党外の幣原喜重郎らは若槻礼次郎山本達雄(「男子の本懐」を詠む10参照)らを擁立しようとする動きを示していました。

 浜口に後継総裁を要請され、江木翼と安達謙蔵が若槻礼次郎の自宅を訪問し、「どうしても引き受けろという。山本は出ず、外にだれといって見当はつかない。(中略)どうにも仕様がない。とうとうそれでは引き受けようということになり、それで浜口の後を承けて民政党の総裁になり、ついで大命を拝して再び総理大臣となった。」(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史-古風庵回顧録―」講談社学術文庫)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む35

 1931(昭和6)年4月14日第2次若槻礼次郎内閣が成立、井上準之助蔵相はじめ多くの閣僚が留任しました。

 同年5月2日午後10時過ぎ、三河台の井上私邸の冠木門脇の物置が大音響とともに爆破されました(新聞集成「昭和編年史」)。

 同年5月16日政府は閣議で官吏の減俸を決定、浜口内閣の官吏減俸方針(「男子の本懐」を読む24参照)に対するそれに劣らぬ反対運動が巻き起こり、同月21日には東京地裁・区裁の判事連合協議会が減俸反対を申し合わせ、同月25日鉄道省職員が辞表を提出するなど騒然とした雰囲気がみなぎりました。

 しかし政府は5月27日俸給令(約1割減俸)改正を公布、官吏減俸に踏み切りました。

 浜口は病床に伏したまま、リンゲル、鎮痛薬、催眠薬など絶えず注射を打ち、注射針のあとばかりが増えていきました。やがて催眠薬の量を減らされたため眠れず、浜口は大学病院の病室でひとり目ざめて痛みに耐えていました。

 新聞だけは読んでもらい、ついに減俸が断行されたことを知りましたが、それについて特別意見をいうこともなかったようです。

 レントゲン照射が効いたのか、6月に入ると浜口の症状はいくらか好転し、同月28日退院して久しぶりに久世山の私邸に戻りました。だが8月2日浜口は悪寒と痙攣に襲われ40度の高熱を発したため急に衰弱していきました。10日ほどで熱は下がりましたが、食欲はなくなり、言語もはっきりしなくなりました。

 逝去の数日前浜口は子供たちを呼び、死後のことなどについて話しました。8月26日激しい発作が起こり、浜口は危篤状態に陥りました。「みんなの顔はまだ見えるぞ」というのが最後の言葉であったそうです(北田悌子「父浜口雄幸」日比谷書房)。

日本の墓―五十音順で探すーはー浜口雄幸 

 

城山三郎「男子の本懐」を読む36

 ここで話題を転換して、右翼国家主義者の動向をたどってみましょう。 枢密院でロンドン軍縮条約の諮詢が終わろうとしていた1930(昭和5)年9月下旬、陸軍中佐橋本欣五郎(陸大卒業後、満州里の特務機関長を経て、参謀本部ロシア班長)を筆頭に参謀本部若手陸大出身者らが中心となって桜会を結成、国家改造のための武力行使を辞せずと決議しました(「現代史資料」国家主義運動1 みすず書房)。

 「(前略)今や此頽廃し竭(つく)せる政党者流の毒刃が軍部に向ひ指向せられつつあるは之を『ロンドン条約問題』に就て見るも明らかな事実なり。(中略)過般、海軍に指向せられし政党者流の毒刃が陸軍軍縮問題として現れ来たるべきは明らかなる処なり。故に吾人軍部の中堅をなすものは充分なる結束を堅め、日常其心を以て邁進し、再び海軍問題の如き失態なからしむるは勿論、進んで強硬なる愛国の熱情を以て腐敗し竭せる為政者流の腸(はらわた)を洗うの慨あらざるべからず。」(桜会趣意書 中野雅夫「橋本大佐の手記」みすず書房

  1931(昭和6)年橋本欣五郎桜会の一部将校及び大川周明[東大卒 インド哲学専攻 学生時代参謀本部で独語翻訳に従事 北一輝と親交あり、後の「日本改造法案大綱」(1923出版)の原稿を上海より日本に持ち帰る、満鉄に入社し、関東軍高級参謀板垣征四郎らと親交あり]ら軍部武装蜂起による軍部政権樹立を企図、失敗して桜会は10月事件後解体しました(3月事件・10月事件 「現代史資料」国家主義運動1 みすず書房)。

松岡正剛の千夜千冊―全読譜―0901-1000-0942-北一輝―日本改造法案大綱

 中国では1928(昭和3)年6月9日北伐軍が北京に入城(北伐完了)、張学良は国民政府に合流しました。張学良政権は翌年までに打通線(打虎山―通遼)、吉海線(吉林―海竜)の2鉄道を開通させましたが、この2鉄道は満鉄平行線となったため、満鉄世界恐慌のあおりと相まって大打撃をうけるようになり、それに抗議すればするほど反日運動は強化されていく状態となりました。

 幣原喜重郎外相はこうした中国に対してその主権を尊重し、内政不干渉方針をとりながら日本の権益を守ろうと努めていましたが、このとき関東軍高級参謀板垣征四郎を頂く参謀石原莞爾は将来の日米戦に備えて満蒙を日本の領土とする必要があると考えており、その立場から見れば幣原外交は生ぬるいものでしかなかったようです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む37

 1931(昭和6)年6月以降永田鉄山陸軍省課長級並びに山脇正隆ら参謀本部課長級は建川美次(参謀本部第一部長)を長とする秘密委員会で「満蒙問題解決方策の大綱」を決定、関東軍の計画は南次郎陸相(第2次若槻礼次郎内閣)ら軍首脳部にも受けいれられました[「現代史資料(満州事変)」みすず書房]。

 陸軍首脳部は昭和10年までに満蒙問題を解決するとして関東軍の暴発を防ごうとしましたが、同年7月2日満州万宝山で朝鮮人農民と中国農民・官憲との大衝突事件が起こり、同月4日には朝鮮各地で中国人に対する報復暴動が起こるとか、北満地方視察中の中村震太郎大尉外1名が軍事探偵として中国兵に殺害された事件が8月17日公表され、幣原外交が苦境にたったとき、満州事変が勃発したのです。

 同年9月18日奉天郊外の柳条湖で満鉄線路が爆破され(柳条湖事件)、関東軍司令官本庄繁はこれを中国軍の行為として総攻撃を命令しました[「現代史資料」(満州事変みすず書房]。しかし9月19日奉天総領事林(久治郎)は今次の事件は軍部の計画的行動と想像されると幣原外相に報告しています(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 事実については花谷正(はなやただし 奉天特務機関補佐官)の証言(花谷正「満州事変はこうして計画された」別冊 知性5 秘められた昭和史 河出書房)があります。この証言を聞き出した秦郁彦氏はこの花谷証言を次のように要約しています。(1)事件の謀議に直接関わったのは、花谷のほか板垣、石原、今田新太郎大尉(張学良軍事顧問補佐官)、川島正大尉、河本末守中尉、三谷清憲兵少佐(奉天憲兵分隊長)、独立守備隊の小野正雄大尉、歩兵二九連隊の児島正範少佐、名倉栞少佐、他に補助的役割を分担した者に河本大作予備大佐、甘粕正彦予備大尉、和田勁予備中尉のほか数人の浪人がいた。(2)軍中央部の建川少将、重藤大佐、永田大佐、橋本中佐ら、朝鮮軍の神田中佐は事前に大体の構想を知らされ、支援を約束していた。(3)「留め男」の建川少将の訪満を知らされ、九月十五日の夜半に謀議者たちが特務機関で会合した席で、くりあげ決行論(今田)と中止延期論(花谷)が対立し、エンピツをころがすクジで中止と決めたが、決行論者の説得で、十八日決行に再転した。(4)建川は奉天到着までに以上の経過を報告され、了解を与えていた。(5)爆薬は今田が調達し、川島の指揮下に河本中尉が自身で爆破作業を担当した。(秦郁彦「昭和史の謎を追う」上 文芸春秋社

クリック20世紀―年表ファイルー1931/03/17 三月事件―09/18 柳条湖事件―10/17  十月事件 

 関東軍は政府や軍中央の不拡大方針にもかかわらず、止まるところを知らない進撃を継続しました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む38

 満州事変の勃発は軍事支出の増大を招き、これまでの緊縮財政を一挙に突き崩しかねない情勢となってきました。

 一方中国では反日運動が激化、日本商品不買運動が高まり、産業合理化による企業の体質改善で輸出増大をはかろうとしていた政策の出足をくじかれることになりました。

 1931(昭和6)年9月21日イギリスが金輸出再禁止に踏み切り、金本位制を離脱、スウェーデンデンマークノルウェー・カナダなどが続々とこれにならいました。

 このような国際情勢は、従来から金輸出再禁止を主張していた立憲政友会を勇気づけ、閣内でも安達謙蔵内相が政友会と同様の再禁止論を唱えて若槻首相に迫るようになりました。しかし井上蔵相は金本位制維持の主張を変えることはありませでした。

 金輸出再禁止必至とみて、そのときには円暴落は避けられないから今円をドルに代えておけば差益で大儲けできるとみてドル買いがさかんとなりましたが(大蔵省財政史室編「昭和財政史」13 東洋経済新報社)、井上は同年10月6日日銀に公定歩合を2厘引き上げさせて1銭6厘とし、さらに11月5日2厘引き上げて(「日銀八十年史」)、ドル買いのための円資金借り入れを妨げる作戦に出たのです。

 同年10月1日昭和7年度予算案が各省に内示されました。歳出総額は13億3千万円余、前年度に比して1億2千万円の削減となっています。この予算案内示は各省の井上蔵相への憎悪を深めただけでなく、若槻内閣の存在そのものが揺らぎはじめました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む39

 安達謙蔵内相は浜口内閣の副総理格として入閣したのに、浜口首相遭難後は首相代理を幣原外相に奪われ、浜口引退時には次期総理を期待する声も高かったのに、当然辞退すると思われていた若槻の再出馬で首相就任の機会を失った悔しさもあったでしょう。

 安達の回想(「安達謙蔵自叙伝」)によれば、若槻首相は満州事変・イギリスの金輸出再禁止によって自信を失い、しばしば辞意を表明、これに対して安達は挙国一致内閣をすすめたところ、若槻は賛成したそうです。

 若槻の回想(「古風庵回顧録」)によれば、満州軍(関東軍)を政府の命令に服従させるには民政党だけの内閣でなく、各政党の連合内閣を作れば、政府の命令は国民全体の意志を代表することになり、政府の命令が徹底することになる。そこで若槻は安達にこのことを話し、各党の意向を打診することを頼みました。他方こういう連合内閣について幣原外相・井上蔵相に賛成をもとめたところ、両君は断然これに反対であったので、若槻は連立内閣を断念し、安達に先日頼んだことは中止されたいと告げたそうです。・

 同年11月21日安達謙蔵内相は政友・民政両党の協力内閣を主張して声明書を発表しました(新聞集成「昭和編年史」)。若槻首相が閣議をひらいても安達謙蔵内相は出席しません。同年12月11日第2次若槻内閣は安達内相の辞職拒否により、閣内不統一で総辞職しました。

 このとき若槻や井上は、組閣の大命が若槻に再降下すると期待していました。元老西園寺公望が依然として幣原の協調外交や井上の金解禁政策を支持していると読んでいたからです。従って若槻に大命が降下すれば、安達謙蔵だけを内相からはずして、実質的に内閣改造すればよいと考えていたようです。

 たしかに元老西園寺公望松本清張「火の虚舟」を読む9参照)は若槻礼次郎内閣を支持していましたが、第2次若槻内閣総辞職に伴う後継内閣首班奏請に際して、西園寺はいつもの彼に似あわず、秘書原田熊雄に「貴下はどう考えられるか」と繰り返して尋ねました。

 原田熊雄はこのことについて次のように述べています。『公爵としても、現下の外交の経緯からいって幣原外務大臣が辞め、この財政の危機を控えて井上大蔵大臣を引き下がらせる、というようなことは、頗る遺憾に思はれたのであらう、独言のように「幣原も井上も大分くたびれたろうから、この際休んで、再び力を養って出る方が、或は御奉公ができやしないか」と言ってを(お)られた。』(「西園寺公と政局」2)

 同年12月13日犬養毅立憲政友会)内閣が成立(外相 犬養毅兼任 のち芳沢謙吉 蔵相 高橋是清 陸相 荒木貞夫)しました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む40(最終回)

 十月事件の際、民間右翼の日蓮宗僧侶井上日召(井上昭 満州浪人の生活を送り、帰国後仏門にはいる 日本精神にもとづく国家改造の信念で護国堂を開いて青年を教育、1930年に海軍の藤井斉を通じて海軍青年将校と深交を結ぶ)らは西田税(にしだみつぎ 陸軍士官学校を経て陸軍騎兵少尉となるが、病気で予備役編入 北一輝の心酔者)を通じて、その計画を知っていましたが、彼は大部隊の軍隊を動かして政権を奪取したりすることには反対で、血盟団を結成、国家改造のための手っとり早い方法として政財界の指導者を暗殺するテロリズムを重視していました。

 十月事件が挫折すると、彼らはその具体化にとりかかり、1932(昭和7)年1月18日上海事変が起って藤井斉らが出動したので、民間右翼の血盟団だけで実行にとりかかりました(「現代史資料」国家主義運動1・2 みすず書房)。

 1931(昭和6)年12月13日犬養毅政友会内閣は初閣議で金輸出再禁止を決定しました。

 翌日株式・商品相場は暴騰、逆に為替相場は暴落、同年12月31日現在で対米為替相場は100円=35ドル1/4まで低下しました。輸出額ではとくに対中国輸出が激減、小麦・木材・硫安はじめ輸入品は一斉に値上がりしはじめました。

 1932(昭和7)年1月5日から井上準之助朝日新聞紙上に3回にわたり、「金の再禁止について」次のように論じています。

 英国が金本位制停止に追い込まれた事情にくらべ、わが国にには再禁止すべき根拠が薄弱であり、「今日金(輸出再)禁止をなす事はドル買い思惑を実行した一部資本家あるいは三、四の大銀行にばく大ななる利益を提供する以外何ものもないのである。しかして貨幣制度の根本を破壊された一般国民は不安と動揺の渦中に投じられるのみである。

 金の輸出再禁止のみで深刻な不景気が回復するはずはないから、(中略)次に来るべき通貨膨張政策であらねばならぬ。(中略)政府は我国の前途を一体どうしようとする考えであるか疑惑なきを得ない。(中略)ドイツが今日如何に過去の通貨膨張に悩まされつつあるか、今少しこの点を反省してみる必要があろう。」

 同年1月21日井上は貴族院本会議で高橋是清蔵相を対し緊急質問に立ち、再禁止の非を述べましたが(「井上準之助論叢」3)、衆議院は同日解散となりました。立憲民政党では井上が筆頭総務に推され、彼は来る2月20日の総選挙に向けて選挙委員長として総指揮をとることとなったのです。

 政党政治には豊かな政治資金が必要とされていました。若槻礼次郎が党および内閣での統率力が弱かったのは、若槻自身も認めたように、政治資金調達力が弱かったことも一因だったのでしょう。

 井上が日銀総裁や蔵相を経験して培った金融・産業界との人脈も、民政党内閣の緊縮財政及び産業合理化政策の及ぼす厳しい現実にそっぽを向き、犬養内閣の再禁止政策によるドル買いに走って井上を裏切りました。井上に財界からの政治資金調達力を期待できないのは明らかでした。しかも軍部と対立し、すでに浜口は逝き、安達謙蔵も脱党して資金源に乏しい民政党の総選挙を闘う困難は井上自身がよく知っていたことでしょう。

 同年2月9日夜井上は民政党候補駒井重次の演説会場である本郷駒本小学校に応援演説のため到着、車から降りて数歩歩いたとき、一人の男小沼正が群衆の中から飛び出し、拳銃を3発発射しました。井上は約15分後に絶命、即死同然の死であったようです。

東京紅團―地区別散歩情報―千代田区の散歩情報―5.15事件を巡る(下)-昭和史を歩くー5.15事件を巡る(上)-<前大蔵大臣井上準之助暗殺>

 小沼は現場で逮捕され、自分は農村青年で、農村の今日の困窮は井上の責任だから殺害したと述べ、背後関係は一切明かしませんでした。このあと3月5日三井合名会社(1909年三井家同族会管理部を法人化)理事長団琢磨が菱沼五郎に射殺されました。警視庁はピストルの出所が藤井(斉)海軍大尉で事件の中心人物が井上日召であることをつきとめ、3月11日井上日召は自首しました(血盟団事件・新聞集成「昭和編年史」)。

 青山霊園の木立の中に、死後も呼び合うように、盟友二人の墓は仲良く並んで立っています。 

有名人の墓―青山霊園―井上準之助 

 

 

城山三郎「男子の本懐」を読む21~30

城山三郎「男子の本懐」を読む21

 1927(昭和2)年4月20日田中義一(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む30参照)政友会内閣(組閣中田中は井上準之助外相就任を要請したが、彼が辞退したため首相が外相兼任、蔵相は高橋是清元首相)が成立(「官報」)、同月22日3週間のモラトリアムを緊急勅令として公布し、同年5月9日日本銀行特別融通および損失補償法・台湾の金融機関に対する資金融通に関する法律の2法が公布(「法令全書」原書房)され、台湾銀行各支店は営業を再開しました(新聞集成「昭和編年史」)。翌5月10日井上準之助日銀総裁に就任しています(「日本銀行八十年史」)。彼は非常事態を切り抜ける間だけで、1年でやめることを宣言していましたが、高橋是清は40日あまりで閣外に去り、その後任は三土忠造に変わりました。1928(昭和3)年5月8日で日銀は特別融資を打ち切り[特別融通法によるもの6億8793万円、台湾金融機関融通法によるもの1億9150万円(「日本銀行八十年史」)]ましたが、かつて金解禁賛成論者であった井上は同年5月15日全国手形交換所大会で、特別融資の結果日銀が金融統制力を失った状況下では金解禁は尚早と発言しています(「井上準之助論叢」3)。約束通り彼は同年6月12日在任1年1箇月で日銀総裁を退任しました。総裁退任後の井上には毀誉褒貶がつきまとい、井上だから特別融資をこの程度の額におさえられたのだと称える向きもあれば、貸してもたたかれ、貸さなくてもたたかれたのです。

 退任後家族を連れて長崎・雲仙を訪れ、雲仙には1週間居てゴルフばかりやっていました。8月には下関から友人とともに南洋旅行にもでかけました(「南洋視察」井上準之助論叢4)。

せたがやー検索―駒沢のゴルフ場  

 

 ところが田中義一新内閣は同年4月施政方針を発表、中国における共産党の活動に日本は無関係であり得ないと声明しました(新聞集成「昭和編年史」)。伊東巳代治が前内閣の幣原喜重郎外相を軟弱外交と批判した理由もあわせて知るためには、ここで話題を変えて当時の中国情勢を概観する必要があります。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む22

 1911(明治44)年辛亥革命により清朝が滅亡し、翌年成立した中華民国においては、封建的軍閥が各地に割拠して、これらが外国勢力と結び対立抗争していました。1917(大正6)年9月10日孫文は北京の段祺瑞政権に対して、広東軍政府を樹立、同月13日対独宣戦布告したことは既述の通りです(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)。しかし同政府は不安定で継続せず、1919(大正8)年五四運動の刺激を受けて、同年10月10日中華革命党を国民大衆に基礎をおく中国国民党に改組、1921(大正10)年5月5日広東新政府を樹立しました。同年7月には五四運動の指導者の一人であった陳独秀らが上海で中国共産党を創立しました。

世界史ノートー現代編―第16章 3 アジアの情勢―国共の合作と分離(その1・2)  

 1926(大正15・昭和1)年7月蒋介石は国民革命軍を率いて北伐を開始、1927(昭和2)年1月20日英大使は上海防衛のための共同出兵を提議しましたが、当時の若槻内閣の外相幣原喜重郎は翌日これを拒否、同年3月24日国民革命軍が南京に入城したとき、日本領事館が暴行を受け、海軍軍人も無抵抗で武装解除される事件(南京事件)が発生しました。

クリック20世紀―1927/03/24 南京事件  

 外相幣原喜重郎は駐華公使芳沢謙吉に南京事件の解決は外交交渉によると訓令し、同年4月11日に米英日仏伊5国総領事は南京事件に関し、国民政府(1927.4.18蒋介石南京に国民政府樹立)外交部長に責任者処罰、其の他を申し入れました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 蒋介石率いる国民政府軍が華北に到達すると、1927(昭和2)年5月28日田中義一内閣は山東出兵を声明、以後3回の出兵を実行、翌年の第2次出兵の際、山東省済南で中国国民政府軍と衝突しました(済南事件・新聞集成「昭和編年史」)。

 ついで1928(昭和3)年5月18日田中内閣は中国南北両政府に戦乱が満州に波及すれば、治安維持のため適当・有効な措置をとると通告、駐華公使芳沢謙吉は当時北京政府を支配していた奉天軍閥張作霖に東三省(奉天吉林黒竜江の三省)復帰を勧告しました。よって同年6月4日張作霖奉天に引揚げの途中、関東軍[関東州(「伊藤博文安重根」を読む15参照)の守備隊]の一部(参謀 河本大作らで、関東軍首脳部も彼等の計画を知りながら黙認)がかならずしも日本の言う通りには動かない彼を殺害するための謀略を企て列車を爆破、死亡させました(張作霖爆死事件・外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 河本らは事前に中国人の浮浪者2名を殺して偽の密書を懐に入れ、国民政府軍の仕業であるかのように見せかけたのですが、殺される予定の浮浪者の一人が逃亡して張学良(張作霖の子)側に情報を伝えたことなどから、真相が明らかになって行きました(森島守人「陰謀・暗殺・軍刀岩波新書)。

南京事件―日中戦争 小さな資料集―第四部 日中戦争への視点―2 張作霖爆殺事件(1) 

 同年6月21日立憲民政党は田中内閣の山東出兵を軽挙妄動と非難した声明を発表、同年7月26日にも同内閣の対華外交批判の第2次声明を発表しています(新聞集成「昭和編年史」)。

 同年9月田中首相憲兵司令官を現地に派遣して調査、10月陸相張作霖殺害犯人が日本軍の仕業と認め、これを首相に報告したので、田中は事件の犯行者が日本の軍人らしいこと、犯人は軍法会議(軍人が軍人を裁く軍の裁判所)に付する方針である旨、これを天皇に奏上しました(「岡田啓介回顧録」中公文庫)。

 しかるにこの厳重処分方針に対する陸軍の猛反対に屈して、1929(昭和4)年7月1日政府は張作霖爆死事件の責任者処分を発表、関東軍司令官を予備役に、河本大作を停職とする行政処分にとどめたのです。田中がこの行政処分の件を天皇に奏上すると、天皇は「お前の最初に言ったことと違ふぢゃないか。」と田中の違約を叱責、田中の話を再び聞きたくないと側近の侍従長鈴木貫太郎)にもらしたことを聞いて彼は落涙したそうです[原田熊雄(「男子の本懐」を読む23リンク「系図で見る近現代」第13回参照)述「西園寺公と政局」第1巻 岩波書店]。

近代日本人の肖像―人名50音順―おー岡田啓介―すー鈴木貫太郎

 同年7月2日田中義一内閣は総辞職しました。同年9月29日田中義一は死去、同年10月12日立憲政友会は臨時大会で犬養毅(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13参照)を総裁に推戴しました(「立憲政友会史」7 日本図書センター)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む23

 1929(昭和4)年年7月2日浜口雄幸は参内して天皇より組閣命令を受けました。すでに大臣候補者の腹案ができており、新聞はかなり正確な大臣一覧表を報道していましたが、新内閣の最重要ポスト大蔵大臣だけは空白となっていたのです。とりあえず浜口首相が蔵相兼任で新内閣は発足するのではないかという観測も流れていました。蔵相人選について浜口には意中の人があり、その人物の名を早くから出せばつぶされるおそれがあったので、少数の最高幹部に打ち明けていただけで、党内にも秘密にしておき、ぎりぎりの時点で強行突破をはかる作戦だったようです。

 組閣について党内からはさまざまの要望が出されていました。大臣の椅子は一つ残らず党員に配分すべきであるとか、貴族院議員の入閣も望ましくないなどですが、浜口はこうした要望を傾聴しながら、独自の判断で閣僚選考をすすめたのでした。まず外務大臣には非党員であるが協調外交の推進者として定評のある幣原喜重郎を、司法大臣には少数ながら民政党を支持してくれる貴族院議員のグループに属する渡辺千冬を、そして注目の大蔵大臣には非党員で貴族院議員の井上準之助が起用されました。井上は党内の要望とは正反対の人物で、しかも原敬なきあとの政友会総裁として首相も勤めた高橋是清にひきたてられた経歴は周知の事柄でした(「男子の本懐」を読む11参照)。

 井上の入閣について、閣僚予定者の中から反対の声があがりました。なかでも強硬に反対したのは、民政党きっての異色野人政治家小泉又次郎小泉純一郎元首相の祖父)です。

系図で見る近現代―目次―第27回 小泉純一郎―小泉又次郎(祖父)

 小泉又次郎は入閣(逓信大臣)を辞退すると浜口にねじ込んだのですが、浜口に説得されて辞意を撤回、入閣を承諾しました(井上は入閣後、民政党に入党)。親任式のため参内するとき御車寄せの位置がわからないからと内務大臣安達謙蔵の車に同乗して宮中に入りましたが、誰も大臣と思わず、安達の従者として扱われたそうです(梅田功「変革者 小泉家の3人の男たち」角川書店)。

 同年7月2日浜口雄幸(立憲民政党)内閣が成立、同年7月9日同内閣は対華外交刷新・軍縮促進・財政整理・金解禁断行など10大政綱を発表しました(新聞集成「昭和編年史」)。

 新内閣の金解禁即行方針のため、7月から8月にかけて株式相場は続落していきました(「朝日経済年史」朝日新聞社)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む24

 1926((大正15)年当時議会で金解禁は時期尚早と述べた蔵相浜口雄幸(「男子の本懐」を読む19参照)が1929(昭和4)年首相として金解禁断行を同内閣の政綱の一つとして掲げたのはいかなる情勢の変化があったのでしょうか。

 戦後恐慌・震災恐慌などの不況による輸入超過がつづく状況の下で、金輸出禁止政策により円の外国為替相場は法定平価(「男子の本懐」を読む14参照)を大きく低落した状態となっており[1929(昭和4)年3月対米為替相場は100円=44ドル台に下落(「金融事項参考書」大蔵省理財局)]、この状態で金解禁を実施すれば、手持ちのある輸入業者は大打撃で、輸出業者も高価格となって輸出不振に陥るおそれが大きくなります。また為替差益をねらう投機も活発となるので、金解禁を実施する以前に、円の外国為替相場を出来るだけ法定平価に近づけておく必要があり、そのために国家財政を中心として緊縮政策を実施、国内物価を引き下げ、輸出額を増加させねばなりませんでした。

 大戦後の国際情勢では1919(大正8)年6月アメリカは金輸出禁止を解いて金本位制に復帰、翌年にはスウェーデン、イギリス、オランダが金解禁にふみきりました。

 1922(大正11)年イタリアのジェノアで開催された国際経済会議は金本位制再建を決議、各国はこの決議に沿って続々と金解禁を実施、1928(昭和3)年にはフランスが金解禁を行い、めぼしい国家はほとんど金本位制に戻り、残る国は日本とスペインだけという状態になったのでした。

 さらに1930(昭和5)年に設立される国際決済銀行の出資国(国際連盟財政委員会構成国)の要件に金解禁の実施が盛り込まれ、大戦後「五大国」の一つとされた日本の威信にもかかわる事態となったのです。

 日露戦争の戦費として募った外債2億3000万円に相当する英貨公債の償還期限は1930(昭和5)年で、現金償還するだけの財政力は当時の日本政府にはなく、借り換え債を発行するためには、金解禁に踏み切らなければならないという有様でした。

つかはらの日本史工房―日本史のおはなしー兌換制度・金本位制・金解禁などについて

 1929(昭和4)年7月29日浜口内閣は9100万円(当初予算の約5%)減の緊縮予算を発表、つづいて同年8月28日浜口首相は緊縮政策を全国にラジオ放送、ビラ「国民に訴ふ」を全国各戸配布しました。

 つづいて同年10月15日同内閣は全国高級官吏の1割減俸を声明しましたが、判検事・鉄道省官吏らの反対運動が高まり、10月22日同声明は撤回されました。

 同年11月9日昭和5年度予算案を決定、その内容は一般会計16億800余万円で、1907(明治40)年以来はじめて一般会計で公債を発行しないという金解禁に備えた緊縮予算案となったのです(新聞集成「昭和編年史」)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む25

 浜口内閣による官吏の減俸声明の直後、前内閣時欧米諸国に派遣された大蔵省財務官津島寿一は再び井上蔵相の密命を受けて太平洋を渡り、バンクーバーから大陸横断鉄道でニューヨークにむかう途中、、ニユーヨークからの至急電報を受け取りました。1929(昭和4)年10月24日木曜日、ウォール街株式市場が暴落したという内容のものです。これは後に「暗黒の木曜日」とよばれる世界大恐慌のはじまりを告げる事件でしたが、津島はそんな大事件の開始であることを予想できず、株式暴落はよくある出来事であり、このことがどの程度の影響をもつものかを心配しながらニューヨークに到着しました(安藤良雄編「昭和経済史への証言」上 毎日新聞社)。

坂出市―市政情報―坂出市の紹介―名誉市民―津島寿一

 津島はモルガン商会の支配人ラモントらに会い、英米の銀行から1億円相当のクレジット(貸付)の約束をとりつけることに成功、同年11月19日横浜正金銀行と英米金融団との間に合計1億円のクレジットが成立しました。

 金解禁を実施するに当り、金輸出禁止以前の(旧平価)100円=約50ドル(「男子の本懐」を読む14参照)で解禁するか、それとも実勢為替相場の100円=44ドル(「男子の本懐」を読む24参照)前後(新平価)で解禁に踏み切るかという問題がありました。

 浜口内閣は旧平価による解禁を決断したのですが、その理由は(ア)旧平価による解禁ならば、大蔵省令による解禁で実施できるが、新平価による解禁の場合、貨幣法(「男子の本懐」を読む14参照)の改正を必要とする、(イ)衆議院(1928.2.20普選法による最初第16回総選挙)では金解禁反対の政友会が多数をしめ、法案改正には時間がかかると予想される(ウ)旧平価による解禁で輸出不振が予想されるが、産業合理化をすすめることによって物価の引き下げは可能であるなどでした。

 かくして大蔵省は同年11月21日金解禁に関する省令を公布、1930(昭和5)年1月11日施行ということになりました(新聞集成「昭和編年史」)。

 金解禁施行から40日後の1930(昭和5)年2月20日に行われた第17回総選挙で立憲民政党は273、立憲政友会は174議席を獲得、政府与党の大勝利に終わりました(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む26

 1929(昭和4)年10月7日イギリスは日・米・仏・伊を補助艦保有量制限に関するロンドン海軍軍縮会議に招請、同年10月18日政府は同軍縮会議全権に若槻礼次郎(元首相)・財部彪(海軍大臣)・松平恒雄(駐英大使)を任命しました。つづいて同年11月26日閣議は同会議全権に対し、対米7割を要求する訓令を決定しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー財部彪 

 1930(昭和5)年1月21日ロンドン海軍軍縮会議が開会、アメリカは日本の要求に対して対米6割縮小案を提議、交渉は難航しました。

 同年3月14日ロンドン会議日本全権はアメリカ提示の最終妥協案につき、これ以上の譲歩は得難いとして、これを承認するかどうかについての訓令を要請してきました。その最終妥協案の大要は(ア)大型巡洋艦について、アメリカの18万トンに対し日本の現有保有量は10万8400トンで対米6割2厘の比率であるが、アメリカは18万トンの中で3隻については1933年より3年間に1隻ずつ起工するに止めると譲歩したのでアメリカの実質保有量は15万トンとなり、これで対米比率は7割2分になる、(イ)潜水艦について 日本は7万8000トンを要求、米英は全廃の主張で対立したが、日米英同量の5万2700トンで合意、という内容でした。

 同年4月1日浜口雄幸首相は米国妥協案承認の訓令を、海軍軍令部[1893海軍軍令部条例により設置された天皇直属の軍令(作戦・用兵など)機関、同時に海軍省官制改正により海軍大臣権限を軍政(予算・人事など)に限る]長加藤寛治らに内示[「現代史資料」(満州事変みすず書房]し、閣議で決定の上、上奏裁可後全権に回訓しました。

 同年4月22日ロンドン海軍軍縮条約が調印され、翌年1月1日公布となりました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む27

 すでに同年4月20日海軍軍令部副部長末次信正はロンドン条約案に不同意の覚書を海軍次官山梨勝之進宛に送付[「現代史資料」(満州事変))みすず書房],していましたが、翌4月21日第58議会が招集されると、4月25日衆議院で政友会総裁犬養毅鳩山一郎鳩山由紀夫元首相の祖父・「男子の本懐」を読む23リンク「系図で見る近現代」第3回参照)はロンドン条約締結に関し、国防上の欠陥と統帥(とうすい)権干犯(かんぱん 干渉して他の権利を犯すこと)につき政府を攻撃批判しました。

第二次世界大戦資料館―用語辞典―た行―統帥権―統帥権干犯問題   

 このころ西園寺公望秘書原田熊雄は住友の別邸で内大臣秘書官岡部長景・外務省亜細亜局長有田八郎らとともにロンドン条約をめぐる統帥権問題につき、弁当を食いながら美濃部達吉博士の意見を聞きました。政府は大概美濃部博士の説をとる意向らしく、浜口首相も美濃部博士の説を可とすると言ってゐたけれども、美濃部博士は『軍令部は帷幄(いあく たれまくとひきまく転じて本陣の意)の中にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部の意見は政府はただ参考として重要視すればいヽので、何等の決定権はないものだ』という風に非常に軽く言ってゐたということです(「西園寺公と政局」第1巻 昭和5年4月条)。

ぶらり高砂―高砂ゆかりの人物―美濃部達吉

 同年6月10日海軍軍令部長加藤寛治天皇ロンドン条約反対の上奏文を提出しようとしても天皇側近に体よく妨げられて果さず、帷幄上奏(軍機・軍令に関する事項を内閣から独立して天皇に直接上奏すること)して天皇に辞表を提出、後任には谷口尚真が任命されました(「官報」)。

 同年7月23日海軍軍事参議官会議はロンドン条約に関する(天皇の)諮詢(しじゅん諮問)に奉答、兵力の欠陥を補うため、制限外艦船・航空兵力充実などの対策を要望、これによって政府と海軍軍令部との対立を緩和しようとする姿勢を見せ、7月26日この奉答文に関し浜口首相より財政の許す範囲内で対策実行に努力すると上奏しました。

 すでに同年7月24日ロンドン条約枢密院に諮詢され[「現代史資料(満州事変みすず書房」]、8月4日枢密院議長倉富勇三郎は浜口首相に上記奉答文の提示を要求、しかし奉答文は軍事参議官が天皇に提出したもので、政府の関知するものではなく、首相はこれを拒絶したのです(「西園寺公と政局」1)。

 同年8月18日枢密院第1回ロンドン条約審査委員会(委員長 伊東巳代治)が開催されました。委員会は繰り返し開かれ、その度に幣原外相や財部海相とともに呼び出された浜口首相は枢密顧問官たちから問いつめられ、つめよられました。

 奉答文の提出が繰り返し求められ、軍事参議官に転じた前海軍軍令部長加藤寛治の出席を要求されましたが、浜口首相はこれを拒否しつづけ、(ロンドン条約)補充計画の規模、内容などについても大体の数字でいいからと質問されましたが、浜口首相は責任ある答弁は出来ないと答えるばかりでした。

 補充計画は次年度予算編成時に大蔵省と海軍省との折衝によって11月ころに具体化するのであって、井上蔵相の活動の妨げになってはならぬとの配慮もありました。

 同年10月1日枢密院本会議はロンドン条約諮詢案を可決、翌日同条約は批准されました(今井清一浜口雄幸伝」下巻 朔北社)。

YAHOO知恵袋―検索―大日本帝国憲法 批准  

 同年10月27日ロンドン条約寄託式が英国外務省の「ロカルノ」の間において挙行され、浜口首相・マクドナルド英首相・フーバー米大統領がほぼ同じ時刻に世界に向って軍縮記念演説の放送を行いました(軍縮放送演説 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む28

 1930(昭和5)年10月3日財部彪は海軍大臣を辞任、後任には安保清保が任命されました(「官報」)。

 同年10月14日の閣議で井上蔵相は昭和6年度予算案について不景気による未曾有の歳入減が予想されるので、相当の緊縮予算となるはずである。このため新規要求は絶対に承認できない。また既定経費についても、思い切った削減を加える方針であると述べました。

 海軍省でつくられた(ロンドン条約)補充計画の当初案は第1案7億3300余万円、第2案5億600余万円を要求するという方針が確定していました。ところが同年10月24日の閣議で井上蔵相から示された大蔵省査定案では歳出総額が14億1000余万円で、これに見合う歳入額は公債発行なしであり、剰余金の計上もなく、井上の予告通りのの驚異的な節減案となり、各大臣はため息をつくばかりで各省に持ち帰って検討することになりました。

 各省にこの予算案が内示されると、どこも大騒ぎとなり、いっせいに復活要求の声が上がりました。緊縮続きで不景気は深刻となっていました。

 この年世界恐慌が日本に波及、物価(日銀調査東京卸売総平均指数)は前年比約18%下落、特に農産物価格は著しく下落し、工業製品との格差が拡大していきました。事業会社の解散・減資が激増、輸出は著しく減退したのです。

 同年10月1日第2回国勢調査が実施されましたが、内地人口6445万5人、外地(台湾・朝鮮・関東州・南洋群島)人口2594万6038人、失業者は全国32万2527人に達していました(「統計年鑑・日本帝国統計年鑑・日本労働年鑑(大原社会問題研究所)」)。

 都会で失業した人々が郷里へ帰ろうにも汽車賃がなく、東海道などの主要街道は妻子を連れて歩いて帰る姿が目立ちました。

 しかし彼等が帰る農村も生糸の暴落で不況に苦しみ、このため全国から町村長が東京に集まり、農村負担の軽減、農家負債整理などを訴えて集会を開き、陳情デモがうねりました。これでは民政党の人気が失われる、緊縮万能を改めよとの反発が党内からも高まってきました。

横浜金沢みてあるきーかねさわの歴史―コラム―昭和恐慌と農村

 

城山三郎「男子の本懐」を読む29

 予算編成の労苦について、浜口首相は次のように述べています。『昭和六年度予算編成の最中、余一夕五勺の晩酌に陶然として肱掛に凭れて眠る。夢に一客あり、卒然として余が室に来り、憮然として余に告げて曰く、 不景気の結果、歳入の減少すること一億二千万円、剰余金は皆無、此の上は歳出節約の外、途あることなし。於是乎(ここにおいてか)、大蔵大臣は各省の既定経費に向って節約を強要すること一億五千万円、陸軍聴かず、海軍肯(うけが)わず、各省亦従わず、予算編成の難きこと実に未曾有(みぞう)のことたり。

 子(あなた)、昨夏組閣以来、金解禁に、議会解散に次いで総選挙に、将又(はたまた)海軍軍縮問題に、諸般の難問題踵を接して起り、一難未だ去らずして、一難復来る、寝(い)ねて席に安んぜず、食うて味を甘しとせず、顔色憔悴形容枯槁す。

 今復空前の予算編成難に遭(あ)う。心を労し思を焦がす、余命幾(いくば)くもあらざらんとす、何ぞ速に印綬(いんじゅ)を解いて(首相を辞任して)江渚の上に漁樵し、心広く躰胖(ゆたか)に、以って夫(そ)の天命を楽しみ、老後を養わんとはせざる。』

 こう夢の中で問いかけられて、浜口首相は『好意多謝。余昨年七月組閣の大命を拝するや、当時心秘かに決する所あり、身神共に君国に捧ぐ。苟(いやし)くも上御一人の御信任のあらせ給わん限り、総選挙の結果国民の信任の失われざらん限り、敢(あえ)て駑鈍(どどん)に鞭(むちう)ちて自ら信ずる所を行わんのみ。安(いずく)んぞ子孫と共に一日の余生を楽しむことを願わんや。

 且つ夫れ、予算難は即ち予算難なりというと雖も、余を以て之を見れば、秀吉、家康が時鳥(ほととぎす)の類のみ。「鳴かざれば鳴かしてみしょう時鳥。」「鳴かざれば鳴く迄待とう時鳥」宜いか解ったか、努力は一切を解決す。努力の及ばざる所は時が之を解決す。鳴かしてみしょうは努力なり。鳴く迄待とうは時なり。』「(予算夢問答 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫

日本漢文の世界―英傑の遺墨が語る日本の近代―作品リストー作者名五十音検索―は行ー浜口雄幸   

 既述の海軍省ロンドン条約)補充計画要求額に対する大蔵省査定額3億2500万円が井上蔵相から小林海軍次官に提示されました。そのころ天皇を迎えての観艦式が神戸沖で挙行され、海軍大臣・海軍軍令部長ら海軍首脳部は東京不在で海軍予算と補充計画についての折衝は海軍次官に任せられていましたが、小林はその日の夜行列車で神戸に向かい、翌日朝御召艦霧島の帰港後、艦上で異例の海軍首脳会議が開かれました。その結果査定案は奉答文の趣旨を全く無視するものであるということになり、安保海軍大臣は急遽帰京して井上蔵相・浜口首相と復活折衝に入ったのです。

 同年11月9日の深夜になって、ようやく安保海相と井上蔵相との間に歩み寄りがみられました。それは海軍側が3億7400万円に譲歩するが、財務当局は1937~8(昭和12~3)年度まで、不足兵力量の補充実現のため財源を1000万円ずつ繰り延べて支出するという内容です(今井清一「前掲書」)。

 同年11月11日新宿御苑における観菊会の終了後、首相官邸で開かれた閣議は予算最終案総仕上げのためのものとなる筈でしたが、各大臣から再び復活要求が相次ぎ、閣議が終了したのは午後11時過ぎでした。総額14億4800万円の昭和6年度予算案がやっと成立したのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む30

 折から岡山で天皇統監の陸軍大演習が実施されており、1930(昭和5)年11月13日夜浜口首相は記者会見で予算編成難であったことを述べ、失業救済・労働組合法・行政整理などの今後の課題についての抱負を語った後、翌日陸軍大演習陪観のため東京駅に到着、駅長室で休憩してから地下道を通ってホームへ出ました。午前9時発の超特急「つばめ」号に乗車する予定だったのです。ホームには人が溢れ、同じ列車で、新任駐ソ大使広田弘毅が出発するので、幣原喜重郎外相らが見送りに来て居ました。原敬の東京駅頭遭難(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23参照)があってから、首相乗降時ホームに一般乗客を入れないようにしていたのですが、浜口はそれをやめさせました。

 浜口首相が歩いていく前方の人垣の中から、わずか3mほどの距離を隔てて佐郷屋留雄[右翼団体愛国社員、同社長岩田愛之助は元関東軍特務機関(日本軍の諜報・宣撫工作などを行う特殊組織)員で、後述する桜会とも関係あり]にピストルで彼は狙撃されました。『「ピシン」と云う音がしたと思うた一刹那(せつな)、余の下腹部に異状の激動を感じた。その激動は普通の疼痛(とうつう)と云うべきものではなく、恰(あたか)も「ステッキ」位(くらい)の物体を大きな力で下腹部に押し込まれた様な感じがした。(中略)余は思わず蹌踉(そうろう)として倒れんとしたから、周囲の人々は自分を抱き上げ、手取り足取り駅長室に連れて行った。』(十一月十四日 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫

HARUKOの部屋―目次―母が語る20世紀―浜口雄幸首相 

 異変を聞いた幣原外相はこの時のことを次のように回想しています。『ようやく貴賓室へかけつけると、浜口君はもうグッタリと横になっていた。(中略)浜口は苦しい呼吸の下からハッキリと、「男子の本懐だ!」といっている。そして「昨日の総予算案の閣議も片づいたので、いい時間だった」などといろいろ話しかける。私は、「物をいうとどんどん血が出るから、物を言っちゃいかん」と止めたが、私がいると話しかけるので、ソッと駅長室へ行った。』(幣原喜重郎「前掲書」)ここに記述されている「男子の本懐」(十一月十四日 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫にも同じ言葉が記述されている)という言葉が本書の題名になっているのです。

 とりあえず次男巌根が輸血し、駆けつけた医師団の協議で帝大病院に運び、開腹手術が行われました。翌11月15日在京の閣僚はとりあえず、宮中席次が一番上の幣原喜重郎外相を首相臨時代理に推挙しました(「官報」)。

 これよりさき陸軍大演習当日安達謙蔵内相は天皇に供奉して陪観、ところが浜口遭難の第一報が御野立所の近くの電話に鉄道次官から連絡が入り、大塚警保局長は受けた内容を記した手帳メモを安達に手渡しました。

 安達が天皇に浜口遭難を報告すると、「陛下には予が手にせる大塚メモを御覧にならんとし、御竜顔恐れ多くも予が前額の附近に接近遊ばされる始末であった。」(「安達謙蔵自叙伝」新樹社)

 安達は天皇からの見舞の果物籠を預って東京に赴き、浜口の病室に届けました。安達はすぐ岡山に引き返し、浜口からのお礼言上のため、天皇に報告しました。

 

 

 

 

城山三郎「男子の本懐」を読む11~20

城山三郎「男子の本懐」を読む11

  帰国した年の10月、井上は検査役となり、星ヶ岡茶寮で毛利千代子(華族毛利家の娘)と結婚式を挙行しました。

THE CAPITOL HOTEL TOKYU―レストラン&バー

 1900(明治33)年12月25日熊本の第九銀行(安田銀行・富士銀行を経てみずほ銀行に吸収合併)に取り付け騒ぎが起こり、九州全体に金融不安が拡大しました(新聞集成「明治編年史」)。関西に出張していた井上は門司の日銀西部支店に赴き、熊本へも出かけて収拾に乗り出しました。結局山本総裁は安田善次郎に第九銀行の再建整理を引き受けてもらおうとしました。、安田善次郎は同上銀行に対する日銀の救済融資について、種々の注文をつけたため、井上は反発して安田善次郎と激しい口論になりましたが、井上の主張を日銀幹部は容認するに至らなかったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―むー武藤山治―やー安田善次郎

 このとき浜口は熊本税務監督局長在任中(「男子の本懐」を読む4参照)でしたが、井上とはすれ違いに終わりました。

 1901(明治34)年秋、井上は新築中の日銀大阪支店調査役(支店長補佐)として赴任しました。彼は支店員全員に洋服を着るよう命令、支店の新築披露で来賓にもフロック・コート着用を招待状に記し、来賓として招待された鐘紡の武藤山治が東京からの帰途だったので、フロック・コートの用意がなく、モーニング姿で現れると、井上は武藤の出席を断りました。

 政府による日銀からの借り入れが増加し、政府融資額に上限を設けるよう主張して山本総裁は政府と対立、任期満了で解任され、1903(明治36)年10月20日後任として大蔵省理財局長であった松尾臣善(しげよし)が日銀総裁に就任しました。松尾総裁は温厚な性格で、「松尾男(男爵)は仕事は白湯(さゆ)を飲むが如くでなければいけぬと屡言った。」(吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」講談社学術文庫)といわれるように、職務を無難に勤めたことで知られ、政府はこうした人物を総裁にすえることで日銀を政府の思惑通りに運営しようとする意図が誰にも見え透いており、日銀内部ではかかる総裁人事に反対の空気がつよく、井上も批判的でした。

  大阪支店調査役から井上は京都出張所長となり、やがて日露戦争が勃発すると、日銀は国債の消化を重要な任務とするようになり、井上も積極的に国債売却に飛び回り、高橋是清副総裁の外債募集(「坂の上の雲」を読む18参照)も応援しました。

 京都に1年居て、井上は36歳で大阪支店長心得として大阪へ戻ってきました。当時大阪支店長は50歳以上の役職とされていましたから、抜擢人事で大阪支店内部の摩擦が大きいことを予想した高橋副総裁が支店長心得として赴任させ、赴任後3箇月ほど支店内の雰囲気をうかがってから心得を外すという念の入れ様でした。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む12

 同じく高橋副総裁の推薦で、松尾総裁もこれを認め。1906(明治39)年井上は日銀営業局長に抜擢されました。井上は自信過剰に陥り、安田善次郎ら重要財界人と衝突を繰り返し、総裁に注意されても態度を変えません。日銀内部では営業局担当の理事を無視して総裁と問題の決着をつけたり、独断で物事を処理して総裁に事後承諾を求めることもありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー井上準之助

 温厚な松尾総裁も上述のような井上の増長した行動には我慢できなくなり、1908(明治41)年10月末井上に日銀営業局長を退き、海外代理店監督役の肩書でニューヨークへ赴任するよう命令しました。日銀の中枢から閑職への左遷です。

 井上はよほど日銀を退職しようかと思った程ですが、この年の秋妻千代子が病臥し、彼が看病してようやく回復したばかりであり、ここで退職すれば病みあがりの妻に心理的にも経済的にも負担を強いることになるので、退職はあきらめ、翌年1月20日妻子をのこして単身東京を出発赴任の途につきました(「渡米手紙日記」井上準之助論叢4)。

 横浜から多くの人々に見送られて米国船モンゴリア号で出港、同年2月6日サンフランシスコに入港、列車でロッキー山脈を横切るときは雪の中を走り、わずかにソルト・レイクの湖面をのぞき見ただけでした。ついでまた雪の大平原を走り、日本を出発してから25日目にやつと任地ニユーヨークにたどりつきました。

 任地では実質的にこれといった仕事はなく、部下は二人しかおらず、事務室も横浜正金銀行支店の一劃を借りているだけでした。宿はホテル・マルセイユ、長期滞在客の多いホテルでした。現地では井上に興味をもつ日本人倶楽部の宴会が毎夜催されたのです。

 ニューヨークでの井上に来た日本からの最初の知らせは生母の死去でした(「書翰」大分県日田 井上豊一郎宛 明治42年3月11日付 井上準之助論叢4)。母の追憶に耽りたいところでしたが、事務引き継ぎに伴う人との会談の約束が相次ぎ、忙しい毎日を過ごしました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む13

 妻千代子からの簡単な手紙を繰り返して読み、夜は家郷のことを思って寝られなかったようです。

 憂鬱な井上のニューヨーク生活をわずかに救ったのはスポーツでした。 彼は久しぶりにテニス・コートに立ち、さそわれてゴルフを始め、これで生気を少し取り戻すと、自分の置かれた境遇をやや客観的に眺める余裕が生まれたのです。

 1910(明治43)年秋、日銀吉井理事が海外視察の途中ニューヨークにやってきて、井上に横浜正金銀行三菱東京UFJ銀行の前身)役員として転出するようにという松尾総裁の内意を伝えました(「書翰」東京 松尾臣善宛 明治43年11月12日付 井上準之助論叢4)。11月26日本店より帰朝せよとの電報が入りました。

  1911(明治44)年6月井上は横浜正金銀行副頭取に就任、同月1日日銀でも松尾総裁は退任して副総裁高橋是清が総裁に昇進しました。

タイムスリップよこはまー関内駅周辺―旧 横浜正金銀行

 高橋は日銀副総裁時代に横浜正金銀行頭取を兼務していましたが、日銀総裁に就任すると兼務をやめ、新たに三島弥太郎(「大山巌」を読む31・40・45参照)が正金銀行頭取に迎えられました。三島は貴族院多数派「研究会」幹部で、この人事は第2次桂太郎内閣の貴族院対策と見られていました。三島は薩摩藩三島通庸(「大山巌」を読む31参照)の長男でアメリカに留学して昆虫を研究、帰国後貴族院議員となり、少しは財政経済の勉強はしていたものの、正金銀行頭取の実務には暗く、国際経済・金融の実務に精通した補佐役が必要でした。そこで井上が副頭取に起用され、正金銀行頭取としての実務はほとんど井上に任されたのです(吉野俊彦「前掲書」)。

 第3次桂太郎内閣は短命に終わり(「男子の本懐」を読む6参照)、1913(大正2)年2月山本権兵衛内閣(首・外・陸・海を除く全閣僚は政友会員)成立に際して、同じ薩摩閥の三島弥太郎に大蔵大臣就任が要請されましたが、三島は辞退、このため日銀総裁高橋是清大蔵大臣となり、三島が代って日銀総裁を引き受けたので、正金銀行頭取はしばらく水町日銀副総裁が兼務、同年9月井上が正金銀行頭取に昇進しました。

 山本権兵衛内閣がシーメンス事件(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む15参照)で倒壊、1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣(副総理格に立憲同志会総理加藤高明入閣)が成立、若槻礼次郎蔵相の下で大蔵次官となった浜口雄幸が正金銀行頭取井上準之助としばしば顔を合わせるようになったことは既述の通りです(「男子の本懐」を読む6参照)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む14

 1914(大正3)年12月25日衆議院解散、翌年3月25日第12回総選挙が行われることになり、高知県立憲同志会立憲政友会に対抗して浜口を衆議院議員立補者に担ぎ出そうとする動きが本格化してきました。

 彼は演説が下手だと首をかしげる向きもあったのですが、大蔵次官の肩書や専売局長官時代の実績や人柄も評価されて総選挙への出馬を正式に要請されました。たしかに彼は政談演説が上手とは言えませんでしたが、各演説会場にふさわしい演説草稿を事前に作り、どんな僻地に出掛けることも厭いませんでした(政見要旨「消極政策か積極政策か」大正4年3月第35議会解散後、立候補 小柳津五郎「前掲書」))。

 総選挙で与党立憲同志会は大勝、浜口も当選、1915(大正4)年7月彼は大蔵省参政官(政務次官・政務官の前身)となりましたが、そのころ大浦兼武内相の野党政友会議員の買収容疑が問題となり(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む18参照)、外相加藤高明・蔵相若槻礼次郎らは内閣総辞職を主張して閣外に去り、浜口も加藤らと行動を共にしました。

 1916(大正5)年10月5日第2次大隈重信内閣は総辞職、同年10月9日山県有朋の推挙により寺内正毅(長州閥)内閣が成立、翌10月10日立憲同志会中正会公友倶楽部が合同して憲政会(総裁 加藤高明)を結成、衆議院の過半数を掌握しました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む18~19参照)が、結党大会で浜口は結党にいたる経過説明を行い、加藤総裁の下で総務を勤めました。

 しかし1917(大正6)年4月20日に行われた第13回総選挙で憲政会は政友会に敗北、浜口も落選して衆議院議席を失ったのですが、彼は事務員の徽章を着けて議会に通い、傍聴席で質疑に耳を傾けていました。

 すでに日本は日清戦争の賠償金(「大山巌」を読む39参照)を英ポンド貨で支払いを受けた(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)結果、1897(明治30)年10月1日貨幣法の「純金ノ量目二分(ふん 一分は一匁の1/10,二分は750㎎)ヲ以テ価格ノ単位ト為シ之ヲ圓ト稱ス」(「法令全書」)の規定により、我が国の中央銀行である日本銀行が発行する拾円兌換(だかん)銀行券を日銀はいつでも純金二匁を含む拾円金貨と交換、国際金融においては輸出入[金(法定)平価(円と外国通貨例えば米国通貨との比率)100円=約49.85ドル]との差額を金で支払うという金本位制を確立したのでした。

 第1次世界大戦により、とくに欧州諸国は輸入超過となったこと及びロンドン為替決済市場が閉鎖されたため、各国とも金輸出禁止の措置をとるようになりました。

  1917(大正6年)4月6日アメリカはドイツに宣戦布告し、同年9月10日金輸出を禁止したので、寺内内閣の蔵相勝田主計(しょうだかずえ)は同年9月14日金本位制を事実上停止する金貨幣・金地金輸出取締令(省令)を公布、金輸出禁止(通貨当局が金を輸出することは可能)にふみきりました(新聞集成「大正編年史」)。

YAHOO知恵袋―カテゴリー教養と学問、サイエンス―歴史―日本―日本史寺内正毅について(2012/11/30/)

 

城山三郎「男子の本懐」を読む15

 勝田主計は東大法科で浜口と1895(明治28)年卒の同級生でした。彼等は二八会というものを結成、大臣になったものが会員全体を招待し御馳走するという申し合わせをしていましたが、その最初の該当者となった勝田主計は同期生を蔵相官邸に招いてシャンペンを抜き乾杯、にぎやかな宴会を開きました。二八会で大蔵官僚となったのは勝田と浜口の二人だけ、勝田が終始エリートコースを歩んだのに、浜口は短期間大蔵次官を勤めただけで、当時は代議士でもなく無官でしたが、この会合に出席して勝田への祝辞を述べたのでした。

 寺内正毅内閣は1917(大正6)年1月20日日本興業銀行朝鮮銀行台湾銀行から資金を出させて、交通銀行(中国)へ500万円の借款(異なった国家間の長期にわたる融資)を供与する契約を締結しました(「日本興業銀行五十年史」日本興業銀行臨時史料室)。これをはじめとして翌年9月28日における上記3銀行による資金を満蒙4鉄道借款前貸金、済順・高徐2鉄道借款前貸金、参戦借款の3種各2000万円を供与する契約を中国政府(段祺瑞政権)と締結[いわゆる西原借款(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)、これまでの総計1億4500万円]しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

Weblio辞書―検索―西原亀三 

 勝田蔵相ははじめこの金額の一部を横浜正金銀行にも割り当ててきたのです。政府からさまざまな圧力がかかっても井上の方針は変わらなかったので、蔵相も無理押しをあきらめたようです。事実西原借款は本来の目的とは異なった軍閥政府の政治資金や戦費などに使用されて回収の見込みがなくなり、3銀行の債権は大蔵省預金部資金に肩代わりされ、国民の負担となって世論の非難を浴びたのでした。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む16

 寺内正毅内閣は米騒動で倒れ、1918(大正7)年9月29日原敬内閣(陸海外3相を除く全閣僚政友会員)が成立(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20~21参照)、同内閣の蔵相高橋是清は翌年3月13日井上準之助日銀総裁に任命しました(「日本銀行八十年史」)。はじめての日銀生え抜き総裁の登場です。

 大戦景気(「労働運動二十年」を読む15参照)がかげりを見せ、1919(大正8)年初頭には貿易収支が入超に転じていた(「日本経済統計総観」朝日新聞社)のに、経済界では依然として株式などへの投機がさかんでした。

 金輸出禁止の日本において、正貨準備(在内正貨ともいう。国内産金・輸入金貨及び金地金など、この中の朝鮮からの略奪的輸入額は輸入総額の約68%、大江志乃夫「日本の産業革命岩波書店)は約四億四千万円あり、これに加えて在外正貨(ポンド貨で受け取った日清戦争の賠償金及び日露戦争の際英国で募集された外債についての手取金などは日本政府から日本銀行に預託され、ポンド預金としてロンドンのイングランド銀行が保有)は約十二億円もありました(1919年6月現在、水沼知一「金解禁問題」岩波講座「日本歴史」19)。大戦後の同年6月アメリカは金(輸出)解禁にふみきって金本位制に復帰したことでもあり、井上は投機熱を冷やすためにも、金輸出禁止を解くことが必要だと考えたのですが、高橋是清蔵相は当時の中国情勢(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)を考慮、同国にいつでも投資できるよう正貨を貯えておく必要があると考えていたので、井上の主張は取り上げられませんでした。それで日銀は同年10~11月の二度も公定歩合(日銀が市中銀行にお金を貸し出すときの金利)の引き上げを実施、金融引き締め策を実施しました(「日本銀行八十年史」)。

 1920(大正9)年3月15日株式市場は株価暴落で混乱、東京・大阪株式取扱所は2日間休業せざるを得なくなりました。戦後恐慌が始まったのです(「労働運動二十年」を読む20参照)。

 日銀は株式市場救済のための資金融資を、同年4月13日商品相場が暴落すると、さらに産業界に対しても特別融資を決定しました。1921(大正10)年11月17日井上は関西銀行大会において消費節約を唱え、内務省・商業会議所などの消費節約運動がおこりました[日本銀行調査局編「日本金融史資料(明治大正編22)」大蔵省印刷局]。

 1922(大正11)年8月19日日銀は在外正貨を正貨準備に繰入れることを禁止、従来充当分も8月末日限り解消と発表、このころ金解禁問題をめぐる議論は活発となっていましたが、加藤友三郎内閣(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む26参照)の蔵相市来乙彦は金解禁が尚早と声明していました(「日本金融史資料(明治大正編22)」)。

Weblio辞書―検索―市来乙彦  

 これは加藤(友)内閣の事実上の与党である立憲政友会の総裁高橋是清が金解禁反対を強硬に主張したためといわれています。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む17

 1923(大正12)年9月1日関東大震災(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む27参照)が起ったとき、その直前に組閣命令をうけ、第2次山本権兵衛内閣が組閣中で井上準之助首相官邸に呼ばれて蔵相への就任を要請されました。彼は回答を保留して日銀にもどり、建物に異常はなかったが、念の為宿直員や守衛をふやすなどの指示をして帰宅しました。

 しかるに翌2日未明、日銀が燃えだしたとの報せをうけ、井上は日銀の近所に住む理事の深井英五を日銀へ急行させ、自身は陸軍省へ赴き、破壊消防の必要がでたときに備えて工兵隊の出動を要請しました。

Weblio辞書―検索―深井英五  

 彼がやがて日銀に駆けつけると、ポンプ車が窓から注水しても火勢が強くて鎮火出来そうになく、消防司令を先頭に井上はまず石垣をよじ登り、そこから細い板を渡し、その上を這うようにして二階の窓から中に入りました。彼はハンケチで鼻と口を押さえながら、重要な部屋の配置を次々と消防司令に教えると、司令は井上に建物外に出るよう指示、午後1時ころ漸く鎮火しはじめました。

日本銀行―対外説明・広報―日本銀行を知る・楽しむーバーチャル見学ツアー旧館入口―旧館外観ー歴史写真館入口―関東大震災で焼け落ちたドーム<大正12年>

 日銀の主要な建物は無事で業務に支障はなく、また日銀には安心して任せられる深井英五のような人物が育っており、井上は大蔵大臣に就任する決意を固めていたのです。 

 新首相山本権兵衛が同郷の前蔵相市来乙彦を留任させず、井上を蔵相に起用したのは、山本首相が関東大震災復興までしばらく見送るとしても、いずれ金解禁を実行せざるを得ないだろうという意向だったからです。内相として入閣した副総理格の後藤新平も井上の蔵相就任を強く望みました。

 同年9月2日宮中の露天芝生の上で摂政宮(裕仁親王、後の昭和天皇)臨席の下、第2次山本権兵衛内閣の親任式が行われ、新内閣が発足しました。

 翌日大蔵省全焼により臨時の大蔵省仮庁舎となった永田町の蔵相官邸に集合した大蔵官僚に対し、井上はモラトリアム(moratorium  天災・恐慌などのの際に起こる金融の混乱を抑えるために手形の決済、預金の払い戻しなどを一時的に猶予すること)実施を発表、9月7日支払猶予令(緊急勅令大日本帝国憲法」第八条による)が公布されました(新聞集成「大正編年史」)。

国立国会図書館―電子展示会―日本国憲法の誕生―資料と解説―憲法条文・重要文書―大日本帝国憲法   

 予算編成については、大正12年度予算十三億七千五百万円の中で大震災による租税減収が八千三百万円あり、この金額を各省予算に割り当て減額、大正13年度予算編成においても、各省に大幅減額を要求して歳入剰余(黒字)を生み出しました。

 同内閣は帝都復興院を設置、後藤内相に復興院総裁を兼任させました。 井上は復興予算財源については増税によらず、公債で賄うこととし、公債の利子支払い金額を毎年度予算における上記歳入剰余で充当できるように計算して復興予算総額七億二百万円を計上したのです。

 これに対して後藤新平復興院総裁は復興予算三十五億円を要求、烈しい対立となり、後藤は閣議の席をけって退出しかけた程でしたが、結局井上の原案をしぶしぶ承認させられました。

 しかし井上のこうした奮闘にもかかわらず、同年12月27日虎ノ門事件(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む27参照)により、同内閣は総辞職し、短命内閣に終わりました。

 1924(大正13)年1月9日貴族院勅選議員となった井上は同年2月4日ヨーロッパへ向けて神戸を出港、フランス・イギリス・ドイツ・デンマークなどを訪問、政財界人や旧知の銀行家たちと会談、8月下旬に帰国しました。

日本の歴史学講座―日本戦前官僚事典―勅選貴族院議員一覧

 東京市会各派は全会一致で井上を東京市長に推挙、しかし井上は受諾せず、困惑した市会各派は渋沢栄一に井上説得を依頼したので、渋沢は後藤新平とともに井上を訪問、元日銀総裁山本達雄も加勢しましたが、井上は結局応ぜず、大日本連合青年団東洋文庫の理事長を引き受けただけでした。

東洋文庫―ライブラリー利用案内ー所蔵図書の概略―井上準之助氏旧蔵和漢洋書―井上準之助

 この年すでに大磯の別荘で療養中の井上の長男益雄が永眠、家族愛を大事にしてきた井上にとって大きな打撃であったでしょう。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む18

 1919(大正8)年3月26日浜口雄幸補欠選挙(「原内閣外交政策の無力」大正8年3月11日 補欠選挙における政見要旨 小柳津五郎「前掲書」)で勝利して代議士の議席を回復しました。憲政会の党本部では浜口が主に政務を、安達謙蔵が党務を処理、二人三脚と呼ばれました。 浜口の誠実で地味な政治家としての日常生活を加藤高明若槻礼次郎ら党幹部は高く評価していましたが、党外からも注目され、渋沢栄一らが彼を東京市長に推挙しようとしたこともありましたが、浜口は憲政会が逆境(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む22参照)にあるのに見捨てることはできないという理由で辞退しました。

 帝国議会の会期中(第42議会)になると、浜口は憲政会全体の質疑の方向や手順をきめるとともに、彼自身も原敬首相や高橋是清蔵相に対して、物価騰貴を招く放漫財政を質問批判し、物価調節機能を持つ金本位制復帰(金解禁)へ向かっての政策転換の必要を示唆したのでした(小柳津五郎「前掲書」)。

 1923(大正12)年夏珍しく浜口は次男の磐根とともに箱根に滞在、同年8月31日帰京、翌日関東大震災に遭遇しました。

 政党内閣ではない第2次山本権兵衛内閣の成立に憲政会は反対でしたが、憲政会政務担当総務で財政に明るい浜口は井上新蔵相に大きな期待を寄せていました。その期待に応えるかのように、井上は上述のようなモラトリアムなどの施策を強行し、浜口は見事だと感心したのでした。しかし野党憲政会の代議士として浜口は帝国議会での井上との対決も覚悟していましたが、同内閣はわずか4か月の短命で倒壊、両者対決の機会は訪れなかったのです。 

 第2次山本内閣倒壊後、成立した清浦奎吾内閣はまた非政党内閣であり、忍耐強い浜口もさすがに「心身共に倦怠を覚え」(八 敵は本能寺にあり 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)たと述懐した程でした。

 しかし1924(大正13)年5月10日第15回総選挙で護憲3派が大勝、同年6月11日加藤高明を首相とする護憲3派(憲政会・政友会・革新倶楽部)連立内閣が成立、浜口雄幸は蔵相に就任したのです(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29参照)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む19

 浜口蔵相が取り組んだのは行政財政整理問題でした。1924(大正13)年11月から12月にかけて、行政整理のため諸官制の改正・廃止などの諸勅令を公布、翌年5月陸軍4個師団を廃止して人員整理をを行い、大正14年度一般会計歳出決算は前年度より約1億円減少しました(統計研究所編「日本経済統計集」明治・大正・昭和 日本評論新社)。

 税制整理については、1925(大正14)年7月30日の閣議で政友会出身閣僚の小川法相・岡崎農相が税制整理案に反対し退席、加藤高明内閣は閣内不統一で総辞職となり、同年8月2日第2次加藤高明(憲政会単独)内閣が成立、浜口蔵相は留任しました。

 翌年浜口は金解禁について議会で時期尚早であるという立場を述べています(「東洋経済新報」)。1924(大正13)年の年間輸入超過額は6億4637万円に達し、これまでの最高となっていました(「日本経済統計総観」東京リプリント出版社 朝日新聞社 昭和5年刊行の復刻)。

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 同年3月対米外国為替相場が47ドル台から44ドルに、年末に38ドル台に下落し、翌年末43ドル台に回復しました(「日本経済統計総観」)。しかしもしこの時点で金解禁を実施すれば、輸入品在庫及び輸入原材料による製品所有者が損害をうけ、投機が行われ、輸入はさらに増加、輸出も減少するおそれがありました。金解禁を実施するには為替相場が法定平価に近づくのを待つ必要があり、これが浜口蔵相の公式見解であったのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む20

 1926(大正15・昭和1)年1月28日加藤高明首相死去により、同月30日若槻礼次郎(「男子の本懐」を読む 6参照)内閣が成立、前内閣の全閣僚が留任しました。

 税制整理問題の処理に当たってきた浜口ははじめ同内閣の蔵相として留任したのですが、同年3月税制整理問題は一応決着したので、若槻首相は自分の後継者として浜口に内務行政も経験させるためでしょうか、あえて同年6月3日の内閣改造で浜口を内務大臣に就任させ、蔵相には早速整爾(はやみせいじ)、次いで彼の病死により片岡直温が後任として起用されたのでした(若槻礼次郎「前掲書」)。

 同年12月25日天皇死去、摂政宮裕仁親王践祚し昭和と改元、1927(昭和2)年1月20日追号大正天皇と公表しました(新聞集成「昭和編年史」明治大正昭和新聞研究会)。

 経済不況は依然として立ち直らず、同年3月14日片岡蔵相の失言を発端として始まった金融恐慌が鈴木商店と密接な関係にあった台湾銀行[台湾銀行法により1899(明治32)年設立された特殊銀行、台湾における貨幣発行権をもつとともに、融資も行う商業銀行でもある]に波及しました。

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 若槻内閣は台湾銀行の破綻を救済するために、同年4月14日台湾銀行救済緊急勅令憲法第8条)案(1.日銀は台湾銀行に無担保特別融資、2.政府は日銀が台湾銀行への融資の結果、生じた損失に対し2億円の限度で補償)を用意してこれを枢密院天皇の諮問機関 憲法第56・70條)に提案(「男子の本懐」を読む17参照)しました。

 しかるに同年4月17日枢密院は同勅令案を否決、若槻内閣は総辞職に追い込まれました(新聞集成「昭和編年史」)。この時の状況を若槻礼次郎は次のように回想しています。

 『枢密院は、この事は憲法第七十条の緊急処分の条項に当たらんと言い出した。(中略)政府側では、議会を開くまでまで待てないから(中略)、緊急処分を要するというのだが、枢密院は頑として応じない。(中略)ある(枢密)顧問官は、(中略)暗にこの内閣が、この案を引っ込めないのは立憲的政治家でないという口ぶりである。(中略)

 その同じ老顧問官は、この案を討議するとき、政府の外交が軟弱であるといって、攻撃した。これは問題外であるから、私も外務大臣の幣原(喜重郎)も、黙って答えなかった。(中略)そしてその老顧問官は、ますます調子に乗って、(天皇)陛下の御前をも顧みず、「町内で知らぬは亭主ばかりなり」という、俗悪な川柳まで引いて、外交攻撃をした。(中略)私はもう癪(しゃく)にさわって、一つ相手になってけんかをしたかったが、(中略)じっと腹の虫を抑えて黙っていた。(中略)私はかなり興奮していた。』(若槻礼次郎「前掲書」)

 上記の若槻礼次郎の回想文に記述されている「町内で知らぬは亭主ばかりなり」という女房の浮気を知らない亭主を笑う川柳を引用してまで若槻内閣の外交政策を軟弱外交として批判した老顧問官とは枢密院のボス的存在である伊東巳代治(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む10参照)であったことが明らかです(幣原喜重郎「外交五十年」日本図書センッター)。

 この伊東巳代治・平沼騏一郎(「日本の労働運動」を読む47参照)らの主導する枢密院の動きが野党立憲政友会と結んだ倒閣運動であったことは言うまでもないことでしょう。

 1927(昭和2)年6月1日野党となった憲政会は政友本党と合同して立憲民政党を結党、浜口雄幸は総裁に推挙されました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)。

 

 

 

城山三郎「男子の本懐」を読む1~10

城山三郎「男子の本懐」を読む 1

 城山三郎「男子の本懐」(「城山三郎全集」1 新潮社)は「週刊朝日」[1979(昭和54)年3月23日号~同年11月20日号]に連載されたノンフィクション小説で、第27代首相浜口雄幸と彼の盟友井上準之助蔵相の生涯をたどった作品です。

 浜口雄幸は1870(明治3)年4月1日、高知県長岡郡五台山村唐谷(からたに)の水口家にうまれました(浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)。

高知市―観光情報―みるー浜口雄幸生家記念館

 水口家は土佐藩の山林見回りを勤めるお山方の家柄で、彼の父水口胤平(たねひら)は、明治時代になっても、山林官として同じ仕事をつづけていました。

 雄幸の長兄義清は十六も年上で、五台山竹林寺の勧学院に弟子入りしてあまり家におらず、次兄義正は八つ違いの腕白大将で、これも留守勝ちでした。

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 郷士の娘で母親の繁子は7年ぶりに身ごもり、両親は娘の出生を期待したのですが、生まれたのは男子であったため、やむなく「雄幸」と名をつけ「おさち」と呼ぶことによって満足したといわれます(小柳津五郎「浜口雄幸伝」伝記叢書 大空社)。

 少年になると雄幸はがっしりとした体つきになり、獅子鼻で眉が上がり、どんぐり眼に角ばった顔つきになってきました。母は家のきりもりや畑仕事に追われ、雄幸には構わなくなったので、雄幸は山あいの一軒家で幼いときからひとりぼっちで、一日の大半を過ごし、やがて字が読めるようになると、むさぼるように読書にふけりました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 2

 近くに高知県下最初の小学校の一つであった孕(はらみ)尋常小学校ができましたが、2学級しかなく。正規の教員もおらず、長兄の義清が教えたりしました。

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 雄幸は学校から帰ってもほとんど本ばかり読んでいたので成績優秀、高知中学(高知県高知追手前高校の前身)に入学すると、往復4里の道のりで毎朝6時前には家を出て、学校に着くとまだ校門が開かず、その前で本を読むことも珍しくありませんでした。3年生を終わると成績優秀で飛び級して5年生に編入されたのですが、体育だけはにが手で跳び箱が飛びこせず、箱の上に尻餅をついてしまう状態でした。

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 土佐出身の自由民権運動の指導者板垣退助(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む8参照)を盟主とする自由党の活躍時代で、中江兆民(「火の虚舟」を読む1参照)の政治結社も動きだして政治運動も活発でした。雄幸もこのような雰囲気の中で、会合に出席して、公然と主張を述べたりすることもあり、少数ながら友人もできましたが、そのつき合い方が通常とは異なっていました。かれは友人の家へ遊びにいっても、自分からはほとんど口をきかず、部屋の隅に坐ったり寝ころんだりして2~3時間過ごしてから、ふいに立ちあがって帰っていくのです。

 当時高知中学校に、教え子全員の寸評をした漢学教師がいましたが、この教師による雄幸評は「雲くさい」の一語であったそうです(小柳津五郎「前掲書」)。

 中学校5年のとき、雄幸に養子縁組の話が持ち込まれました。浜口家は高知市の南東約50㌔の安芸郡田野町郷士で、剣客としても有名な浜口義立(よしなり)には男子二人が夭折、夏子という高知の女子師範に学ぶ娘一人しかおりませんでした。よい婿養子を迎えるために、義立は友人知己に頼んで歩いたのですが、それでは満足できず、高知中学校で卒業生から在校生まで、成績・操行・身上などを調べ上げた結果、学業成績抜群、志操堅固で三男坊の水口雄幸を見出だし、校門に立って首実検までして惚れこんだようです(北田悌子「父浜口雄幸」日比谷書房)。

 浜口義立はやがて水口家に出かけ、雄幸の養子縁組を申し入れました。雄幸の父水口胤平は浜口義立の熱意に圧倒されて本人の意思を確かめると、どうでもいい様子だったので、高知中学校の卒業式が終わると、19歳の雄幸は仲人に伴われて16歳の夏子と初対面の挨拶をし、養子縁組の盃を交わしました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 3

 養子縁組の盃を交わすと、雄幸は海を渡って大阪に赴き、第三高等(中)学校(京都大学総合人間学部・岡山大学医学部の前身)に入学、法科に在籍、1889(明治22)年学校の移転に伴い、京都で下宿生活をするようになり、幣原喜重郎(「伊藤博文安重根」を読む3参照)らと首席を争いました。同校在学中すでに「ライオン」と綽名されていたようです(小柳津五郎「前掲書」)。

華麗なる旧制高校巡礼―第三高等学校 

 溝渕進馬という高知中学以来の友人と時々相撲をとったりするだけで、あとは従来通り黙々と読書に耽る毎日でした。夏冬の休暇に田野へ帰省しても、黙って読書やひとりで川辺、海岸を散歩したりするだけで、だれとも口をきこうともしません。一度か二度彼が唐谷の実家まで約40㌔の道のりを馬の背にゆられて帰ったときも、馬を引く下男と全く口をきかず、例外として「もう、行かう」の一語だけ口を開いたと下男が報告したそうです(北田悌子「前掲書」)。夏子や養家の人々は最初とまどったようですが、事前に雄幸の性格を聞いていたので、そっと見守るだけでした。

 数え20歳のとき、彼の父胤平は死去、三高在学中21歳で夏子と結婚、やがて帝国大学法科へ進学、最初の一年は寄宿舎生活でしたが、翌年夏子が上京し一戸を構えるようになりました。

 雄幸は相変わらず、身なりを構わず、黙々と登下校して、運動もせず趣味も持たず、倶楽部やサークル活動にも参加せず、ちょっと鎌倉の円覚寺へ参禅したことがあるだけでした。当時の東大の学生は天下国家を論ずる風潮がさかんでしたが、雄幸は傍聴しても討論に参加することはありませんでした。彼は政治家志望でしたが、これからの政治家は財政経済に通暁することが必要と考え、アダム・スミスの「国富論」を読みつづけました。

 1895(明治28)年7月雄幸は東大を卒業しましたが、卒業時の成績は小野塚喜平次(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造4参照)がトップで、浜口は2番でした。

 高等文官試験の最中、雄幸の長女和子が危篤状態となり、一時試験をあきらめようとしましたが、夏子が必死になだめ、思いとどまりました(今井清一浜口雄幸伝」上巻 朔北社)。試験最終日における憲法の口頭試問で、彼は試験官の一木喜徳郎(「大正デモクラシーの群像」を読む―Ⅰ-吉野作造3参照)と憲法の解釈について対立、幸いにも合格して大蔵省に入省しましたが、和子は死去、、雄幸の表情は暗かったのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 4

 大蔵省内では新人なのに年齢より老けた感じで、同僚と酒で羽目をはずすこともなければ、喫煙もしません。上役に煙たがられたのか、入省1年目に山形県収税長に転出、半年後には松江に飛ばされ、山形と松江で1年2箇月経過すると、本省会計課長を命ぜられました。

 しかし浜口雄幸大蔵大臣経費の一部を削減したことから、その復活を求める大臣秘書官と衝突、たちまち名古屋へ、1年足らずで収税官として四国の松山へ転任、長い不遇ないわゆるドサ廻りの境遇が始まりましたが、彼は黙々と職務に精勤、深夜まで相変わらず読書に励み、ときには書画に親しみました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー浜口雄幸

 松山に1年居てさらに九州の熊本に税務監督局長の肩書で赴任することになり、ここで高知中学の同期生だった熊本医大教授山崎正薫に出会いました。浜口夫妻は健康状態も悪く山崎教授の尽力をうけましたが、山崎教授は浜口家について「贔屓目に見ても余りに粗末な身なりや、住居も局長のそれとして随分ひどい。家が粗末な上に室内には装飾一つなく、掃除も行き届かないという有様で、いかにも貧乏臭かった。(中略)君が何だか以前と違って元気がなくて意気消沈して居たように見受けた。」(浜口前総裁追悼号 「民政」付録 民政社)と述べています。

 しかし経済学を中心に、勉強はつづけていました。松山以来、ずっとロンドン・タイムスを購読、草深い日本の田舎にいても、国際的視野を失わないよう心がけたのです。

 東京にいた友人たちもやきもきして運動し、若槻礼次郎の尽力で1902(明治35)年1月浜口はようやく熊本と同じ税務監督局長として東京に戻りました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 5

 しかし東京税務監督局長も1年半で、浜口は外局の専売局へ転出となり、肩書は煙草専売局書記官兼臨時煙草製造準備局事務官となりました。このころから彼は煙草を吸うようになります。

たばこと塩の博物館―たばこと塩のあれこれーたばこの歴史と文化―明治以降のたばこ文化―明治のたばこ商たちー専売の時代(戦前)―世界の塩・日本の塩―日本の塩

 専売局での最初の仕事は従来行われていた民間業者による煙草の製造をやめさせることでした。2年半後部長となり、帝国議会の委員会ではじめて政府委員として答弁に立たされ、さらに1年経って専売局長官となりました。

 長官となった浜口は塩の製造をコストの安い大規模塩田に集中し、零細な塩田を廃止しょうとする問題に直面しました。零細業者の反対は激しかったのです。議会でもきびしい批判にさらされたとき、浜口は冷静に、資料を手にすることもなく、暗記した主要な数字を挙げて答えたので、自由民権運動以来の論客島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)が、「唯今の政府委員の答弁は明快で、本員の大いに満足するところであります。」(尼子止「平民宰相浜口雄幸」 御厨貴監修「歴代総理大臣伝記叢書」19 ゆまに書房)と称賛したほどでした。 

塩事業センターー塩の知識―歴史編―制度の変遷  

 このような浜口の取り組みに注目したのが初代満鉄南満州鉄道・「坂の上の雲」を読む48・「伊藤博文安重根」を読む12参照)総裁となった後藤新平でした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―こー後藤新平

 後藤は浜口に満鉄理事への就任を要請しました。満鉄理事は当時の中央官庁における次官以上の地位といわれ、はるかに高い俸給も約束されていたにもかかわらず、浜口は塩田整理問題の未完を理由に、後藤の要請を辞退したのです(浜口雄幸「前掲書」)。

 1908(明治41)年7月14日第2次桂太郎内閣が成立、後藤新平逓信大臣に就任すると、彼は再び浜口を逓信次官に迎えたい意向を示し、これも大蔵官僚として、専売局長官以上の昇任は期待できぬ浜口にとって有利な人事であった筈ですが、満鉄理事人事のときと同じ理由で浜口は今回も辞退しました。

 塩田整理は1911(明治44)年総て完了、天皇は浜口の労をねぎらって金盃を下賜しました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 6

 1912(大正1)年12月21日第3次桂太郎内閣が成立、後藤新平が再び逓信大臣に就任すると、後藤は再び浜口の逓信次官引っ張り出しにかかりました。まさに中国の故事にいう三顧の礼というべきでしょう。

故事成語大辞典―サイト内検索―三顧の礼   

 策士の一面を持つ後藤新平にとって、愚直ともいえる上記のような浜口雄幸の身の処し方は、そうした側面に乏しい後藤に新鮮な魅力として感じられたのではないでしょうか。

 浜口は大蔵省の先輩で同内閣の蔵相若槻礼次郎の意見も聞いた(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史―古風庵回顧録―」講談社学術文庫)のですが、塩田整理は完了しており、後藤の要請を辞退する理由がありません。第3次桂太郎内閣は成立当初から短命が予想され(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13~14参照)、かかる内閣の傘下に入ることは浜口にとって不利益であることがわかっていたにもかかわらず、彼は後藤の知遇に応えて逓信次官就任を受諾、専売局長官を退職しました。予想通り同内閣は翌年2月11日倒壊、浜口も同次官を辞任して無職の身となったのです。

 これより先桂太郎は新党立憲同志会を結成、若槻礼次郎後藤新平も参加、浜口もこれに同調して入党、後藤は同会結党直後、諸種の対立から同会を脱党しましたが(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)、浜口は後藤と行動を共にすることはありませんでした(浜口雄幸「前掲書」)。

 1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣が成立、若槻礼次郎大蔵大臣に就任(新聞集成「大正編年史」明治大正昭和新聞研究会)すると、若槻は浜口を大蔵次官に起用しました(浜口雄幸略歴 浜口雄幸「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―わー若槻礼次郎

 左遷による地方回りと外局勤務という大蔵省の主流から外れたコースをたどってきた浜口雄幸は、ここでやっと大蔵省首脳部に立ち、その手腕を発揮する機会に遭遇したのです。    

 しかし彼は感慨にふけっている暇はありませんでした。同内閣成立早々の同年6月28日サラエボ事件をきっかけとして第1次世界大戦が勃発、日本も同年8月15日ドイツに宣戦布告して大戦に参加しました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16参照)。大戦勃発による臨時軍事費の調達や次年度予算編成に忙殺されるなかで、浜口は横浜正金銀行頭取井上準之助としばしば顔合わせをするようになりました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 7

  井上準之助は1869(明治2)年3月25日、大分県日田郡大鶴村(日田市大鶴町)で代々造り酒屋を営む庄屋井上清・ひな子夫妻の第七子五男として生まれました(青木得三「井上準之助伝」井上準之助論叢5 明治百年史叢書 原書房 )。

おいでひた.com―サイト内検索―清渓文庫(井上準之助の生家を記念館にしたもの)

 7歳のとき叔父井上簡一の養子に出されました。井上簡一は広瀬淡窓の咸宜園に学び塾を営んでいましたが、準之助はこの養父の許から小学校に通い、級長になったのですが餓鬼大将でもありました。

 あるとき、大木に上ってぼんやりしていると、通りがかりの老人が「高い木の上で考へてござらっしゃるが、郡長にでもなるのかえ」と声をかけると、準之助少年は「俺は郡長ぐらゐにはならぬ。なれば大臣になるさ。」とやり返したそうです。

 11歳のとき養父簡一が急死のため、家督相続、12歳で豆田町の郡立教英中学に入学、次兄が豆田町へ養子に行っていたので、その家に間借りして勉強しました。しかし中学2年を終ってリュウマチに罹り、さらに心臓を病む不幸に見舞われ、好転しません。

 医者に学業の放棄をすすめられ、同中学校をを退学、久留米に名医を訪ねて1年半、ようやく健康を回復して大鶴村の実家に戻りました。

 でも実家は家業が傾き、母は父に代わって長男初太郎とともに家業の立て直しに懸命で、準之助には冷淡でした。それに家業を手伝っても失敗が多く、彼は母の許しを得て門司から三兄良三郎の世話で兄の勤務する日本郵船の貨客船に乗って上京しました。だがこれといった就職先もなく、成立学舎などで勉強、一高を受験しましたが、それまで漢学中心の教育を受けてきて、英語や数学ができなかったため不合格でした。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 8

 次いで第二高等(中)学校(東北大学教養部の前身)の補欠募集を受験して合格、1887(明治20)年、19歳で仙台での学生生活がはじまりました。

華麗なる旧制高校巡礼―第二高等学校―片平丁校舎  

 井上準之助について後輩の結城豊太郎(興銀総裁)は「井上さんはあそこを第二の故郷以上に憧れ、常々同級生殊に高山樗牛を懐しみ、後々まで二高生に話しかくることを此上なく楽しんでおられたが、先年同校に開校二十五周年記念式があって参られたことがある。(中略)あの時井上さんの母校に対する懐かしそうな態度といったら尋常なものではなかった。日本銀行総裁時代に、俺れは総裁をやめたら高等学校の校長になって見たいと時々言うて居られたが、(中略)若し二高の校長になる機会があったら、欣然就任せられたことであろう。」と述べています(青木得三「前掲書」序文)。

 二高では小編成で友人に恵まれ、井上がとくに親しくなったのは高山樗牛であり、両人は首席を競い、寮では同部屋で起居しました。高山が深夜まで勉強するのに対して、井上は夜10時ころには寝てしまうタイプでした。英語に関してはおくれをとり戻そうと猛勉強、英語会には高山と二人で出席してシェイクスピア劇では井上が重要な役割をつとめました(清水浩「清渓おち穂」井上準之助論叢編纂会)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー高山樗牛 

 医学部の学生と宿舎の問題でもめたことがありました。血の気の多い弁のたつ高山が強気で相手を「大体貴公らはコモンセンスが無い」というと、ドイツ語には明るいが英語は苦手な相手がコモンセンスを「昏盲精神」と聞きちがえて大騒ぎになりました。このとき井上が仲裁に立ち、両者の食い違いを明らかにして仲直りしましたが、彼はもめごとをまとめるのがうまかったようです。

 二高を卒業して級友が離れ離れになる日、井上は学友たちにこう述べました。「これからも、より以上に健康には注意しなければならぬと思っている。(中略)勉強よりも健康が大事だから、みんなも誓って一つ身体を丈夫にしようじゃないか」(清水浩「前掲書」)

 大病を経験した井上にとって、健康を軸に、合理的な生活設計をーという生き方が彼の生涯を貫いていくのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 9

 井上は浜口より1年遅れて東大法科へ進学、寄宿舎では就寝前に約1時間半ほど勉強する程度、同期生より2~3年年長でしたから、同室の仲間と口角あわを飛ばして議論することはありませんでした。

 卒業前の1年は麹町区富士見町の兄良三郎の家に寄宿、とりよせた原書による法律の勉強を開始しました。彼は弁護士志望で、世話になった兄に役立つようにと、商法、それもイギリスの海商法を中心に判例を研究するというような勉強に励み、商法の口頭試験で優秀な成績をとったので、卒業成績は2番でした。

 恩師や友人は官吏になることをすすめてくれましたが、役所はどこも窮屈な職場と思われ、それに井上が勉強したのは公法(憲法行政法など)ではなく商法が中心で、それを生かせる職業がいいと思っていたのです。

 そうした彼を見かねたように、兄良三郎がこんな話を準之助に持ち込んできました。同じ大分出身の山本達雄日本銀行の理事をしている。かねて面識があるところから、弟の就職を頼んでみると、こころよく採用してくれるということでした。若手を外国に出すことも考えているそうで、ひとつ行ってみる気はないかという話です(清水浩「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山本達雄

 準之助はとくに希望したわけではありませんでしたが、勉強もできるようだし、わるい職場ではなさそうだと思い、日本銀行に就職することにしました。1896(明治29)年のことです。

日本銀行―日本銀行についてー日本銀行の概要―沿革―日本銀行百年史

 

城山三郎「男子の本懐」を読む10

 井上の最初の勤務地は日本銀行大阪支店で、初任給は25円、貸付割引係に配属となり、帳面付けと算盤の訓練から始まりました。支店員は全員和服を着ていたのに、井上は背広を着用して出勤、英語が得意で外人客が来るともっぱら井上独りの出番でした(清水浩「前掲書」)。

日本銀行大阪支店―大阪支店のご案内―支店の歴史

 彼はやがて本店に呼び戻され、翌年銀行業務研究のため、イギリスとベルギーへ2年間の出張を命ぜられました(「留学日記」井上準之助論叢4)。

 1897(明治30)年10月、井上は同銀行函館支店から呼び戻された東大卒の1年先輩土方久徴とともに横浜を出帆、ロンドンに赴きましたが、日銀最初の海外研修であったためか先方の受け入れ態勢も整っておらず、英国中央銀行であるイングランド銀行は両人の研修受け入れを認めません。

 日本公使館[加藤高明駐英公使在任(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)]から交渉してもらってもだめで、結局日本へ最初に銀行業務を教えるために来日したシャンド(Alexander Allan Shand 土屋喬雄「お雇い外国人」8 金融財政 鹿島研究所出版会)が関係するパースバンクに見習いとして受け入れてもらいました。

 土方が支店詰めだったのに対して、井上は本店詰めで技術的なことよりも銀行の仕組みや運営に興味をもちました。暇なときは本屋に行き、金融関係だけでなく、経済・政治・歴史・文学などさまざまな分野の本を買い込みました。親友高山樗牛のための本も購入して日本へ送ったようです。

 井上の日銀就職を世話してくれた山本達雄は郵便汽船会社三菱の出身で、もともと岩崎弥太郎(「竜馬がゆく」を読む16参照)の補佐役をつとめ、松方正義の推薦で1889(明治22)年日銀総裁となった川田小一郎の引き立てにより、日銀入りをした人物で、1898(明治31)年10月20日43歳の若さで日銀総裁となりました。

 しかし私学出身で中途採用の山本に対する帝大出身者の多い日銀内部の反感は激化、山本総裁就任4ヵ月で理事・局長・支店長の大半11名が辞表を提出して山本を失脚させようとしました(日銀ストライキ事件・「日本銀行八十年史」日本銀行史料調査室))。

 しかし山本は彼等の辞表を受理して人事の刷新を企て、1899(明治32)年横浜正金銀行副頭取高橋是清を日銀副総裁に迎えたのですが、この非常事態のためロンドンにいた井上らの若手までが日本へ呼び戻されました(「書翰」仙台 高岡松郎宛 明治32年5月21日付 井上準之助論叢4)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー松方正義