幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-21

 1897(明治29)年正金銀行の顧客である一仏国商人が倒産しました。正金銀行はこの商人から生糸の輸入為替を買い取っていましたので、この人の破産で僅少ながら数万円の損失を受けることとなりました。ところがこの商人は正金のほかに、フランス本国における大きな三つの銀行とも取引があって、しかもこれら3銀行の受けt損失はよほど巨大であると伝えられました。しかるにその後まもなくわが正金のリオン支店から一書が到着しました。これによると上記仏国の3銀行は、この商人が人格の優れた人で、過去二十余年の間生糸の輸入業に従事し、その間銀行に取りては好個の顧客であったことを思い、倒産に到りたる事実を、帳簿その他の書類によって、極めて丁寧親切に取り調べる所があり、その結果は本人には少しも思惑をなしたる形跡なく、全く財界の不況により、同人の得意先なる織屋が不如意となったるにもとづくことが明らかになった。

それでこのまま彼を失脚せしめ、その永年の知識経験を埋没させることはいかにも惜しむべきである。何とかして彼が再起して生糸輸入業を継続できるようにと3銀行は会合協議の結果、旧貸金は全部帳消しとし、さらに今後の運転資金として、3銀行がすでに貸し付けて欠損となりたる金額に按分して信用をもて該商人に融通することを決定した。

これがリオン支店からの手紙の要領であり、最後に正金としていかなる態度をとるべきか問い合わせてきたものでした。

高橋はこの手紙を読んで新たなる知識を得て、もしこれが日本だったら、銀行は顧客から一片のいわゆる出世証文というものを取りて本人を破産せしめ、もって銀行自身の責任を尽くしたものと考えているのが通例です。我等は今フランス3銀行の執りたる手段を見て、その親切と理智と徳義とに感激し、高橋はリオン支店に対して直ちに3銀行同様に行動すべきことを申送りました。

このことがあってからやがて山本達雄より朝吹英二について内話がありました。それは今度川田総裁の取持ちで朝吹をっ再起せしめ木名木川(きなきがわ)綿布会社を担当させることになって、朝吹も非常に喜んでいるが、ここに相談したいことは、先年政府が直輸出奨励のために会社を設立し、朝吹を社長として経営せしめたところ、それが見事失敗して、政府は100万円ばかりの欠損を背負い込むこととなった。その際正金銀行は清算取り扱い人となって、この後始末をつけたが、清算に当って、朝吹から年々500円ずつの年賦償還に関する証文を取っている。そこで朝吹のいうには、折角川田君の親切により、再び世に出て働くこととはなったが、かの年賦証文のことを思うと、一生涯働いても駄目だから、ややもすると気持が挫け、活動の気も鈍り、前途暗澹たる感がする。何とかかの証文を取り消す工夫はないものであろうかというが、君はどう思うかとの話でした。

Weblio辞書―検索―朝吹英二

 その時高橋の胸にはちょうど前述の仏国商人の事例がまだ事新しく刻まれていた際とて、その事を話し、ついては毎年500円納入するのを、この際一時に10年分納入せしめて証文をキッパリ取り消すことにしたがよかろうと述べると、山本も大いに満足しました。

 よって相馬その他の人々に相談したが、もちろんこの債権はすでに銀行の勘定から落としてあるものでもありましたから、いずれも文句なく高橋の意見に同意してくれました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-22

1896(明治29)年9月松方内閣が成立、松方伯は大蔵大臣を兼任しました。それまで我が国は銀貨本位でしたが、松方はかねてより金本位制に改める意志を持っており、その事に関して高橋にも相談がありました。

 当時銀は低落の一途をたどり、金に対しては昔日の半価となっていました。即ち従来金1円の量目は4分でしたが、その半分2分をもって新金貨1円とすれば、為替相場においても、内外貸借関係においてもちょうど平衡がとれるような状態でしたから、高橋は今日こそまさに金本位制を実行すべき時であると答申しました。しかるに当時設けられていた貨幣制度調査会は銀本位を可とする旨を答申し、また大蔵省内にも今金本位に改めればかねて清国及び南洋方面に輸出流通せられているわが円銀が一時に戻り、新金貨と交換を要求せられるの憂いある。よってそれに対抗するため引き換えに要する期限を定めねばならぬ。それにはまず香上銀行およびチアター銀行等の意見を徴すべきである、などの議論も起っていました。

 上述の事情で大蔵大臣から意見を求められたので、高橋は「元来我が円銀にして一度海外に輸出せられたるものは、単に銀塊として取り扱うのが至当である。輸入銀貨は決して新金貨と引き換えの義務はない。ことに一国の貨幣制度を定めるに当って外国銀行者を顧慮しこれに意見を聞くがごときは不見識の至りであるばかりでなく、百害ありて一利なきものである。ただ清国及び南洋よりすでに日本に向け積み出されたる円銀に対しては多少の考慮を加え、新制度の実施当日より3週間くらいの引き換え期間を許せばよろしからん」と答えました。

 このことについては、後にいろいろの議論があって、ついに引き換え期間を6カ月と定め、実行に取りかかったが、期限が少しく長過ぎたために、その後3箇月に短縮されたように記憶します。

1897( 明治30)年園田頭取は、日本銀行営業局長山本達雄とともに英国に出張することとなりました。その主なる用向きは清国から受け入れた償金を英国銀行にに預け正金ロンドン支店を通じて直接英蘭銀行と当座勘定を開くにありました。

 当時英蘭銀行は、容易に他国の銀行と直接取引することを認めない習慣がありましたが、両君の努力によりその目的を達し、かつ正金ロンドン支店に日本銀行の代理事務を行わせることとなりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-23

 1896(明治29)年11月4日川田日本銀行総裁は逝去し、岩崎弥之助(吉野俊彦「前掲書」)が日銀総裁に就任しました。そしてその第一着手として、従来日本銀行の慣例となっていた株主配当年1割2分を1割にに引き下げました・

 園田頭取は英国より帰朝後身体疲労のように見受けられましたが、ついに病気のため退職することとなりました。その際豊川良平がやってきて、園田氏辞職後は相馬取締役を頭取に進めたい、ついては君に異論のないようにと種々事情を具して説明がありました。

 それで高橋は、かくの如き問題について御懸念は無用である、何人が頭取になろうとも私はただ一念正金銀行本来の職責を尽くすのみである、と答えたところ豊川もそれで安心したといって帰りました。

 岩崎氏総裁の任につくや、その下には河上謹一、鶴原定吉、町田忠治、片岡直輝らの諸君があって総裁の信任厚く、山本達雄はこの時英国より帰朝しましたが、これらの人々の中にあってなんとなく隔靴搔痒の感あり、また総裁との間にも一点の間隙あるがごとく感ぜられたので、高橋は山本に向って「一層のこと相馬君に代って正金の頭取になってはどうだ」と勧めてみました。

 しかるに山本は「自分は英語がよく話せないので外人との交際が困難である。正金の頭取として外人との交際に不自由なようでは、到底完全に役目を勤めおおせることが出来ない」とて肯ずる様子がありませんでした。

 1898(明治31)年1月第3次伊藤内閣が成立して、井上馨伯が大蔵大臣に就任しました。高橋は日本銀行から正金銀行に入った当初から、日本銀行の催しにかかる宴会には、日本銀行の幹部同様招かれていました。従って岩崎総裁になってからも、前総裁と同様に知遇を受けました。

 ある時、総裁から駿河台の自邸までちょっと来てもらいたいといって来たので、早速訪問しました。するとすぐに一階の茶室ようの小室に案内されましたが、そこには岩崎総裁と田中宮内大臣とが対座して何かしきりに凝議していました。そうしてその席の給仕万端はもっぱら岩崎夫人自らこれに当り、他の人は一切出入りさせない様子がいかにも重大なように思われました。やがて総裁が高橋に向っていわれるには「君に来てもらったのはほかではない、新大蔵大臣井上伯が日本銀行総裁に対してべつに考えるところがあるかどうか、一つ井上伯を訪問して、そのことを観察してもらいたい」ということでありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-24

よって高橋は早速井上を訪問、それとなく気を付けてみたのですが、べつに岩崎総裁に対して異志ある様子も認められないので、帰ってその旨を総裁及び田中宮内大臣に報告しました。

 1897(明治30)年3月高橋は株主総会で正金銀行の副頭取に任ぜられ、同年10月26日台湾銀行創立委員を仰付けられ、翌31年1月28日農商工高等会議員を拝命しました。

 これよりさき1898(明治31)年1月高橋は正金銀行の在外各支店事務視察、並びに金融事項取調べのため欧米へ出張することとなりましたが大蔵大臣井上(馨)伯から「君に少し頼みたいことがあるから今少し出発を待ってくれ」という話があったので、その通りにしました。

井上がいうには「大蔵省でだんだん調べてみると1億円ばかり外債を起す必要がある。ついてはどんな条件であれば募集が出来ようか、一つ瀬踏みして来てもらいたい。自分の考えではフランスで募りたいが、しかし事情によることであるから、必ずしもフランスと限らんでもよい」ということでありました。

 それで高橋は「そのことは、今度日本銀行から河上君一行が海外に出張するから、むしろその方に御内命になってはいかがです」というと、「いやそれはいかぬ。今俺が財政上外債を起こさねばならぬなどいったことが世間に分かっては大変だ。このことはごく内密にしなければならぬ。それで君に頼むのだ。日本銀行に頼めば、必ずそれが世間に漏れる。そうなると自分の計画に支障を来すから、誰にも言わずにいるのだ」

 それで高橋は「それはなかなか困難な取調べです。いよいよ募債すると決まった上で内々取り調べることであれば、相手の人も真剣に相談に乗ってくれるが、ただ瀬踏みだけでは相手も困るしまた真剣にもなってくれません。ことに日銀の河上君一行とは行を共にするわけではありませんが、出先で落合うこともたびたびであろうと思われます。自分としてもこの一行に何も知らさずに密かに取り調べるのは心苦しいことでありますが、大臣のお考えがそんなことであれば、出来るだけ心を注いで取り調べてみましょう」と答えました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-25

この外債についての井上伯の肚が決まるまで約1箇月ばかり高橋の出発は延ばされた次第でありました。かくて2月9日夜に至って葉山を出発、翌10日午後9時半神戸着、西常盤に一泊し、11日午前11時、汽船長門丸に乗って神戸を出帆しました。

船にはインドに帰国途中のタタ氏が同船していたので、インドから銀を取り寄せることについていろいろと相談しその結果を書面にて鍋倉(なべくら)に申し送りました。

 2月12日午前10時関門着、馬関の大吉楼では百十銀行の木梨君の接待をうけ、午後2時半船は出帆、13日午前4時長崎着、迎陽亭に投しました。この日午前中松田源五郎君が来て、貿易港としての長崎についてしきりに意見を述べて行きました。正午には農工銀行行員から清国料理の接待を受けました。当時長崎書記官であった田中隆三も同席していました。

 正金銀行の支店を長崎に置くこととなり、過日支店敷地として三菱所有の土地を買ったので、それが検分に出掛けました。いかにもその位置が良いところにあるので、そのことを書いて相馬頭取に通知しておきました。

 午後荘田平五郎君から招待をうけ、その席には岩崎久弥その他三菱の諸君が同席でした。

Weblio辞書―検索―岩崎久弥

このとき荘田が笑いながらいうには「今朝一行大勢で迎陽亭に着いたものがある。大賑わいで入浴しておったから、宿の女中に、今朝の一行は誰々だと聞くと、女中が、何でも高橋様ご夫婦にお嬢さまにお附きの人らしいということであった。ところがあとになって調べって見ると、自分たちがよく知っている馬関の大吉楼の女中や芸妓と分かって大笑いとなった」ということでした。

 1898(明治31)年2月14日午前10時、長崎をたって上海に向いました。田中隆三はわざわざ県庁の小蒸気を用意して本船まで送ってくれました。

 同月17日午前9時、上海の郵船碼頭に到着、正金から西巻支店長以下の出迎えあり、高橋は直ちにアスターホテルに入りました。

 

上海館

 上海では着後数日間はいろいろと社交的な往復や市中見物等で時を移しました。郵船の永井、領事の小田切三井物産の小室らの諸君とはたびたび往来しました。同月31日の夜には永井宅に招待されましたが、その時の同客者には盛宣懐ら清国名流の人々もいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-26

 2月23日に至って正金のロンドン支店から電信で、清国の外債1600万ポンド(日本へ渡す償金の残り)は、香上銀行とドイツの銀行とで引き受けることになったと報告してきました。また小田切領事からも書面にて今朝盛宣懐に会ったら、ロンドンの李より電信で外債は陰暦の正月末に成立したとの報告が来たとのことであったと知らせてきました。

 2月26日から上海支店の業務について取調べを始めました。今月17日以来、日々の為替の契約及びその取扱い高の報告書を出すように命じました。その当時上海支店の病根は、明治29年10月以降インドのルピーを売り過ぎてその買埋めをしなかったために、5万両(テール)前後の欠損を生じていたことでありました。しかも支店長は29年の下半期の決算書にはこの欠損を載せないばかりか、却ってそれと同額の利益を計上していた、そうして明治29年の上半期に至ってはじめてこく僅少の損失が隠されてありました。

 支店長の考えでは、今後為替の利益で漸次この損失を埋めて行くつもりでありました。

 近頃上海支店の利益が著しく少なき理由もこれによってほぼ判明しました。しかしながらこのことを公(おおやけ)にすれば支店長の更迭は免れません。かつ明治29年10月以降の決算表が正当でないということを世間に知らすことになるので、正金にとっては公にされないことであるから、その内容を相馬頭取だけに報告し、高橋の意見を述べておきました。

 かくて3月8日午前11時半、汽船ナタール号で上海を発して香港に向いました。

 ナタール号は3月10日午後11時半香港に到着しました。その夜は船中に眠って、翌朝正金支店員に迎えられてホンコン・ホテルに入りました。この時日本銀行の河上謹一君から「ベンガオル号に乗って行く、ただし都合によりポンペイには行かぬ」と電報して来ました。しかるに他方ポンペイ支店からは「検疫なしし」と連絡してきたので、「我々は予定の通りベンガオル号にてポンペイに行く」と両者に向け返電しました。

RETRIP 香港

 香港着当日から支店へ行って検査をしたり話を聞いたりしました。これよりさき香港では清国人が盛んに銀を内地に持ち帰るというので、銀の需要者が非常に多くなり、香上銀行はスタンプトダラー[弗銀(ドルぎん)に発行銀行のの証印を押したもの]を造って、それがまた大変に売れ行きがよかったのです。

Weblio辞書―検索―1ドル硬貨(アメリカ合衆国)―寂滅

 わが正金もこのスタンプトダラーの状況が大変よいので、長支店長に命じて、出来るだけ円銀を取り寄せる方法を講じるとともに、ロンドン及び日本内地で出来るだけ銀塊を買いこむように申し送りました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-27

 3月11日長支店長の晩餐の席で、香港で最も評判のよい仲買のスチュワードに紹介されましたが、この人のいうには、結局、ロシヤと日本との衝突は免れず、遠からず戦いになるだろうというような風聞がししきりに新聞、電信で報じられるということでした。

  3月17日には河上謹一一行がベンガオル号で香港に到着しました。高橋もその船に乗り込んで19日香港を発ち、同月24日シンガポール着、翌日出発、30日コロンボに着きました。

 河上の一行はここでヴィクトリア号に移乗しましたが、高橋はそのままベンガオル号でポンペイ(現ムンバイ)に向いました。ちょうどコロンボ滞在中、清国はロシヤに対し旅順太連を割譲したという電信が到着しました。これに対しタイムス紙は「英政府はすでに清国の許したものを覆すの意思なし」と論じている旨を報せられましたが、香港電報はこれと反対に英国の東洋艦隊は開戦の用意をなし、北上しつつありと伝える有様でした。

 コロンボより4日にして4月3日午後8時ポンペイに着きました。正金支店の店員が出迎えに来ましたが、夜もすでに遅いので、明朝上陸することにしました。4日上陸、それから12日までポンペイに滞在しました。

 4月7日には現地人の女の踊りに招待され、美しい衣装を着た娘たちが歌い、かつ踊って、主人は高橋たちの首の廻りに香気の強い花の輪をかけてくれました。一日寂滅塔(Towerof silence)を見に行きました。これは印度における或る一派の宗教の慣習によって、死人の屍をこの寂滅塔の大きな円形の塔上に運んで横たえ、鳥たちが屍を食い啄ばむに任せるのです。高橋はこれを見て不愉快になりました。

RETRIP ムンバイ

  4月12日ポンペイを発して欧州に向いました。ペルシャ湾を横断するのに5日を要し、、17日午後2時アデンに到着しました。船中でフランス公使館のアダムと懇意になり、この人を介して、殖民省の局長ラウンを知るに至り、同氏は前商務大臣シーフィールドに添書を書いてくれました。

 17日夜半アデンを発し、22日午前8時スエズに着きました。かくて4月27日午後6時マルセイユに到着、正金のリオン支店から市川君が迎えに来てくれて、ホテル・ジュネーブに入りました。マルセイユ到着の当夜及び翌日は市内の見物に時を費しました。

 シャリロンズ・ブリガローで朝食に鮮魚と牡蠣)かき)の料理を食べましたが、久しい航海の後ではあるし、一層の美味を感じました。

 4月28日ごご8時15分マルセイユを発し、翌日午後7時35分にロンドンのチアリング・クロス・ステーションに着きました。そうして中井支店長らに迎えられ、直ちにド・ケーゼル・ロイヤル・ホテルに入りました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-28

 当時の駐英公使は加藤高明で、サセックス・スクエヤーに自邸がありました。また荒川君がロンドン総領事で、ポーランド・ロードの官舎に住んでいました。三井の支店長が渡辺専次郎で井上準之助日本銀行から留学を命ぜられて、パースバンクに見習として入っていました(「男子の本懐」を読む10参照)。また正金の竹内金平も帝大を出たばかりのところで始終訪ねてきては、正金の組織改正に関する意見など熱心に話していました。

近代日本人の肖像―日本語―人物50音順―いー井上準之助―かー加藤高明

  河上謹一は高橋よりも先に着いておりましたが、高橋がロンドンに着いたころは咽喉を患い、少し熱を出して床についていました。その後よくなり5月5日リバプールに向け出発しました。

 高橋は5月18日に至って、初めてパースバンクに行き、重役のウイリアム・ダンおよびロンドン支店の支配人ホーウエに会いました。また同月20日には同じくパースバンクでシャンド(「天佑なり」を読むⅠ―4参照)の紹介により、手形取扱銀行業者のフレーザーに会いました。高橋はその時かねて井上蔵相から頼まれていた公債発行の可能性如何を探ろうと思って、それとなく問いかけたら、同氏は「この前の四分利公債は成績良好でなかったが、これは今後の公債発行に不利益な影響を与えるものである。また一時に1600万ポンド(当時の換算相場で我が1億円)というような巨額の発行をすることは不利益であって、ロンドン市場の消化し得る最高額はまず500万ポンドの程度が止まりである。初めて募集する場合は出来るだけ額の少ない方がよい。3箇年に割って払い込むようなことは決して賢明な策ではない。今日のロンドン市場の状況では、むしろ日本の大蔵省証券額面で発行できるだろう。ただしそれでも第一回の発行に当っては下受人を通ずるがよい。もし大蔵省証券でなく、公債を発行するならば、どうしても下受けの方法によらねばならぬ。そうして四分利附でで、額面の90%で発行することが出来たら成功と思わねばならぬ。しかしながら財界の状況は常に雲の如く変わるので、よく視察して誤りなきようにすることが肝腎である。また鉄道公債については、今ロシヤ政府がやっているようにしたらよかろう。ただしその額多きに過ぎるときは公募者は担保を要求するようになる。」

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-29

 「次に、国内の工業に外資を輸入せんとするときは、土地を担保とすることが一番適当である。もっともその土地に課せられる税金が、公平にして不動なることを必要とする。外資を輸入するも一つの方法は銀行を経て吸収することである。それは一種の通知預金の形をとればよいのである。

Weblio辞書―検索―通知預金―牧野伸顕

即ちかりに正金銀行ががその衝に当たるとすれば、正金は12箇月期限の預金に対して四分半の利息を附す。ただしこれを期日前に引き出す場合3箇月以前に銀行に通知することを要す。なお12箇月以上の長期間を預金したき人に対しては、支配人において特に御相談に応ずと新聞に広告したら、相当に資金を吸収することが出来よう」ということでありました。

  公債募集の可能性如何については、主としてシャンドの意見を聴きました。シャンドはこの外にロンドン商業会議所の会頭モールレー、スターチス誌のロイド、チアターバンクのバッドらの諸氏を紹介してくれました。これらの人々からも種々の意見を聴くことができました。そうして外債募集の可能性如何に関する諸家の意見をまとめ、さらに自己の意見を付して井上伯に報告しました。

 1898(明治31)年8(6の誤り?)月4日ロンドンをたって、(欧州)大陸旅行に上りました。一行は河上謹一、伊藤欣亮、植野繁太郎、赤石及びリオン支店の市川並びにに高橋の6人でありました。この大陸旅行はおよそ1箇月ばかりでしたが、多くは、博物館、公園、劇場、寺院、美術館等の見物でした。

 微かなる記憶によれば、ドイツでは有名なるメンデルスゾーン及び独亜銀行の頭取や重役に面会しました。またベルギーでは国立銀行総裁に面会して意見を聞きました。日本人では牧野伸顕らに会いました。

 大陸旅行中も井上伯から頼まれた外債募集の一件は、細心の注意を払って研究していましたが、高橋が会った人の中で、ある公使の如きは、すでに井上伯から、その事を申し送られて承知しているかの如き感を起さしめるものもありました。しかしながら、そんな人との話でも、高橋はあえて具体的の話に触れることなく、ただドイツやフランスで、公債募集の可能性ありや否やを測量するに止めました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅢ-30

この点について、大陸を通じて高橋の感じたことは、専門の証券売買業者などで日本公債の利回りがよいと言って親の遺参を受け継ぎ暮している遺族や未亡人または貴族らに日本の国債を勧めているような向きもないではなかったのですが、大体においてドイツでもフランスでも一般公衆は日本の公債など知らぬ人が多く、ほとんど問題になっていなかったようでありました。

 大陸の旅行を終わって、再びロンドンに帰ったのは、1898(明治31)年7月10日でありました。早速加藤公使を訪問して外債募集の件で意見交換をしたのですが、すでに公使には井上蔵相から書面が来ていたと見えて、そのことを承知しているようでした。

 桑港の正金支店にあて、桑港より横浜への便船を問い合わせたところ、ベルジック号が9月3日にコブティック号が9月22日に桑港を出るというこででありました。よって7月23日リバプール発のルカニカ号で英国を去り、9月3日のベルジック号で桑港を出発することに決し、その旨日本及びニューヨークに電報しました。

 かくて高橋は7月23日キューナードの特別列車でユストン停車場を発し、午後4時半にリバプールに向いました。加藤公使その他多数の見送りを受けましたが、その節加藤公使の言に、「外務大臣から外債のことで電信を受け取ったが、そのことはすでに井上伯に報告してある事柄であったから、その事由をいって返事をしておいた。もはや募集のことが確実にならなければ、これ以上尽す手段はない」ということでありました。

 大西洋の航海は極めて穏やかに、7月29日ニューヨークに着きました。ドイツまで迎えてくれた正金出張所員の案内でフィフスアベニューのワアズロファースト・ホテルに入りました。

  ニューヨークには約10日簡滞在、当時の正金出張所長は長崎君で岩原謙三が三井物産の支店長でありました。 特許取調べ当時に大いにお世話になったズリー(「天佑なり」を読むⅡ-8参照)が友人のアルフレッド・ブランマーを伴ってやってきたので、共に食事して会談しました。

 かくて8月10日午後6時ニューヨークを発ってナイヤガラに向い、長崎夫妻も同行しました。翌日午前8時ナイヤガラに着き、その日は終日馬車で見学しました。8月11日午前6時20分ナイヤガラを発ち、車中4日にして8月16日午後8時45分桑港に到着しました。

RETRIP―ナイアガラ

 正金の青木支店長その他の店員がオークランドまで迎えに来ていました。一緒にパレス・ホテルに行って晩餐を共にし、夜の12時まで話しこみました。