幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-21

 藤村らは田島の報告を得て驚き、藤村が前田の所にやって来て、「我々は最初、この仕事が成功するまでは一切他人に秘しておくつもりだったが、すでに日本側出資額を50万円と契約した以上、我々だけの力だけでは及ばなくなった。どうしても株式会社を設立して株主を募る必要がある。この株主を作るために協力してもらいたい」ということであった

と前田は語り、さらに「そこで私は世話してやろうと思うが、君はどう考える」というから、高橋は「それはもう考える余地も何もないじゃないか、ただ場所が外国であり、外国人との共同事業であるから、欺かれることのないよう注意する必要はあろう。藤村の希望通り協力してはどうだ。」と勧めました。

 すると前田は「では君も株主として出資してくれるか」と訊くから「それは俺の力に応ずるだけに出資はしよう。万一の失敗を予期して、今の所1万円以上の出資は出来ない」と答えておきました。 

 それから前田は奔走して新たに20余名の出資者を集め、資本金50万円の「日秘鉱業株式会社」を設立しました。

 ところがこれら株主たちの間に、一体誰が日本側を代表してペルーへ行くか、第一その人を決めないと安心できないと云いだす者があり、協議の結果高橋が行ってくれるなら一番良いがどうだろうと前田から勧めて見よと、皆が一致して頼むからと、前田がまた来て「君一つ奮発して行ってくれまいか」とだしぬけの申し出です。

 高橋は既述の3条例実施のための仕事があることや、特許局新築のことなどを理由に前田の申し出を断りましたが、前田は高橋には内密に、当時三田尻に滞在していた井上農商務大臣に面会、後に高橋に「大臣にお願いして君の体は貰い受けて来た。奮発してくれ」といや応なしの懇請です。

よろしい、大臣が承諾し、株主が是非やれというなら決心しよう。それに大恩を受けた老祖母もすでに天寿をおえて心に残ることもありません。高橋はペルー行きを承諾し、農商務省は非職となりました。

 1889(明治22)年11月16日(36歳)、高橋はペルー銀山経営の全権代表として三たび太平洋を横断することとなりました。自宅から見送る品夫人(海軍技監原田宗助の妹 明治20年再婚 上塚司編「前掲書」下巻)の肩に、高橋はそっと手をかけてやりました(幸田真音「前掲書」)。

 乗船ゲーリック号は、この日の午前10時横浜の埠頭を離れました。今回の同航者は帰朝していた技師田島晴雄、雇員屋須弘平の両名で、同船の客にはリオ領事らがいました。海は3日目ころから少しずつ荒れ模様となり、5日目になると狂瀾奴濤甲板を洗う状態となり、船客の多くは船室から一歩も出られぬ有様でした。同船は12月1日午前3時桑港に到着しました。高橋らは午前9時に上陸、領事館員の案内でパレス・ホテルに投宿しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-22

 当時の桑港領事河北陸軍少佐は「近ごろの新聞によると、ペルー政府は国内における鉄道延長のために、英国のグレイス商会と借款の契約を結び、その抵当として税関、鉱山等の財源一切を提供したということである。貴君らが田島技師を遣わして買い入れたという鉱山もおそらく抵当の中に含まれているに相違ない。もしそうだとすれば、グレイス商会がそれを要求して引き揚げてしまえば、馬鹿を見ねばならぬではないか。貴君らの企ては実に危険だと思うがどうだ」ということでありました。

 それで高橋は「貴君の注意は誠にありがたい。しかし鉱山の買い入れについては、さきに田島を派遣し、かつ巌谷博士らが顧問となって、十分に確かめた上で決定した事柄であるから、手続きの上で遺漏なしと考える。」と答え、今後は互いに通信を怠らぬよう約束して領事館を辞去しました。

桑港滞在は2日間で、12月3日午前10時汽船アカプルコ号でペルーへ出発、船が南下するにつれて暖かくなり、5日目には甲板に日避けの天幕さえ貼りはじめられました。船はメキシコの海岸沿いに南下し、12月9日メキシコのマザッラン港に到着、ホテルで風呂を浴び、同日午後4時同港を出帆、12月12日午前3時アカプルコに、16日早朝にはグアテマラのサン・ホーゼに入港、ここから留守宅に書面を送りました。

同月21日にはコスタリカ国の第一の港キントウ港に到着、碇泊2日で出港、翌日パナマ港に入りました。

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 パナマにて船待ちすること1週間ばかりで、ようやくペルー行きの汽船サンタロサ号に乗り込み、同月30日午後5時パナマを出発、しました。

1890(明治23)年の正月元日は同号の甲板で迎え、午後7時赤道直下を通過しました。

 同月4日午前11時パイタ港に着き、ヘーレンの技師ドイツ人エルグレイマルが出迎えのため、同港に待ち受けていました。

船はさらに南航して、同月6日早朝サリペリ港を過ぎると、濃霧濛々として陽を覆い、天日ために暗きを覚えましたが、驚いたのは、船の白ペンキが一夜のうちに異変したことです。船員に聞くと、これを「カリヤオペイント」と称して、この辺で揚がる硫気のために起きるものであると云います。

かくして同月7日午後3時半カリヤオ港に到着しました。まもなく一人のスペイン人が船に来て、英語を解せないので、同行の屋須に通訳させると、「ヘーレンは避暑でリマ府にはいないが、今日の午後4時ころまでには出迎えのため来船のはずである。自分はヘーレンの命を受けて、荷物その他のお世話に参った」というので、屋須を附き添わせて、すべて荷物一切をこの人にまかせて、高橋と共に船を下りようとするところへ、ヘーレンが番頭のピエズラ、日本人伴竜などを連れてやって来ました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-23

お互いに初対面の挨拶を交わし、ヘーレン特別仕立ての小蒸気で上陸、途々田島が「ヘーレンは貴君のために別邸に新館を建てておいたから、すぐその方へお越し願いたいといっていますが、どうしましょう」というので、高橋は「そりゃ困る、断ってくれ」と即座に拒絶しました。しかしヘーレンからいたく親切に勧められるので、高橋も深くヘーレンの厚意に感謝し、新館行きを承諾しました。

 かくて一同共にカリヤオ港から汽車でリマ府に着くと、駅にはヘーレンの書記パッソブリオが馬車数輌を用意して出迎えていました。高橋はまずヘーレンの本邸に行き、日本におくる電信を認め、それより別邸に赴きました。

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 ヘーレンの別邸は広さ約1万坪で、周囲を高さ2丈ばかりの土塀で囲い、表門を入るると60間ばかりの石叩きの通路があり、左右両側には長屋様の建物が連なり、その一番端の方に内門があります。この門を入って石段を上ると正面に新築の館があります。中央は食堂で後庭に面して、長さ12、3間の遊廊が連なり、その壁の上には蔦蔓がからまり、その下に男女4個の大理石像が並んでいます。遊廊の左方には高橋のために設けられた事務室、客室、寝室があり、内部の装飾もすべてよく整っています。部室の前面は広い庭園で、その一方には昔イスパニア人が植えたという葡萄の木が連なっています。手近な所だけは日本の植木職松本某が造ったという日本風の山水園になています。園中には池があり、噴水塔からは数条の銀線を迸らせています。

 この日の晩餐を終わって、ヘーレンと閑談を交わしました。彼は「貴君の人となりは発起人諸氏ことに前田正名氏からの懇切な書面でよく承知していた。貴君がここに来ることを拒まれて失望したが、道理を尽くして勧告したら、貴君がたちまちそれを容れられたので、私は大いに喜び、安心した」というから、高橋は笑いながら「私の強情も道理の前には屈服するものであることを知られたことは、貴君の満足されるところであろう」と応酬しました。するとヘーレンは高橋の肩を叩きながら「そうだ、そうだ」と連呼して喜びました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-24

13日になって、ヘーレンとの間に、農鉱事業に関する契約改正の商議を始めました。高橋は談判のはじめに当って、日本出発の際、組合員の間に決められた下記の要項を提示しかつ説明しました。

1.会社営業の目的は農場を取り除き、鉱業専一とすること

2.会社の資本金を英貨15万ポンドとし、ペルー法律の定むるところにより有限責任とすること

3.会社の資本金はこれを折半し、その一半は日本側全権委員より、、他の一半はヘーレン氏において負担すること

4、会社の株式は少なくとも第1回の利益配当を行いたる後にあらざれば譲渡せざること

5.前条の譲渡を許す時といえども、本会社の認可を経て登記するに非ざれば譲渡の効力を生ぜざるものとす

6.坑夫は日本人を使用し、本会社の事務員技師らは会社の最大利益を得るに便なる限り日本人を使用すること

7、会社の設立には下の予算を標準とすること(略)

すなわち上述のように、高橋は第一番に組合の事業中より農場取り除きの談判をしました。これについてヘーレンは困難を訴えて抵抗を示しました。高橋は最初農場の価額は19000ポンドであったのを15000ポンドに減らし、日本組合はその中の3分の1を負担し、利益の3分の2を収むることとして折り合いをつけました。

16日から鉱山事業の談判を開始しました。高橋はそれについて原案通りを主張、その点については両者とも大体意見が一致しました。

 ただヘーレンから提供する鉱山の評価額について、議論が分かれてきました。ヘーレンがいうには「先ごろ自分は共有鉱山の隣接地で、9鉱山の借区をした。これらの借区のうち3借区は昨年田島技師の注意によって買い取ったものであるから、原価で提供する。しかし他の6借区はそれとは事情を異にしいるので、自分は農場の代わりにこれを13000ポンドで会社に提供することにしたい」と。

 高橋は「その借区が必要であるかどうか、またその値段が適当なものであるかどうか、自分では判断がつかぬので、田島技師に意見を聞いてみよう」と答え、田島に意見をもとめたところ、田島は「9箇所とも会社にとって必要であるが、6区で13000ポンドは少し高すぎる」と云います。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-25

高橋はヘーレンに対して「いずれにしても、自分は貴君の申し出に同意できない。共同の山を買いとった後に、その山の作業に必要な地続きの鉱区を手にいれ、それを高く会社に売りつけんとするのは面白くないことではないか。それよりもむしろこの邸宅を売ってはどうだ」と注意してやりました。

 ヘーレンはその間終始謹聴していましたが、やがて椅子を立ち、「ごもっともだ」と言って、いかにも欣(よろこ)びに堪えぬ様子で高橋の手を握りました。

 上述の通り、鉱山に関する談判も20日一通り片付きました。ヘ-レンとの談判中、高橋は閑をみて、ペルー大統領はじめ政府首脳並びに同国要人への挨拶に赴きました。

 1890(明治23)年1月27日には山口慎が技手坑夫職工ら合計17人を引率してカリヤオ港に到着するというので、田島、伴、ピエズラ、パッソンブリオらは出迎えのため、カリヤオまで赴き、午後6時ころに至って、ヘーレンの別邸に到着しました。

この日別邸では日の丸国旗を屋上に掲げ、高橋とヘーレンとは外門まで出迎えました。山口引率の坑夫ら17名はヘーレン別邸内の長屋に寝泊まりさせることとし、風習に慣れぬ間は、どんな不体裁をしでかさぬとも限らないので、みだりに門外に出ることを禁じ、邸内で適宜酒食を給し、出来るだけ品行を慎ませました。

 その間高橋とヘーレンは登山のことで、いろいろと打ち合わせました。例えばリマからカラワクラに行くには、非常に気候の激変があります。こちらで着ている衣服ではとても凌げないから、衣服はすべて新調せねばなりません。

今度はたとえ多くの費用が必要であっても、他日多数の坑夫らを登山させるときの試験となるものでありますから、十分の支度を整えてゆかねばならぬのです。

また高橋はヘーレンと相談して田島技師の年俸を英貨600ポンド、山口を庶務課長として年俸300ポンド、に定め、各人を呼んで、その旨を申し渡しました。すると田島技師のみはいかにも不満げで、高橋は不快に感じ、「そんなら今罷め給え」と申しました。

 この俸給の原則は、日本を出発する前に、会社の技師部にて、田島らが協議して定めたもので、日本金に換算すれば、600ポンドはそれよりも遙かに高いのですから、高橋は田島の不満を突き放したのです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-26

 ヘーレンが高橋と田島の仲に入って、しきりにとりなすので、田島もこの年俸を無条件で承諾することになりました。

1890(明治23)年2月22日にはカラワクラ鉱山に向けてリマ府を出発するので、8日ころから、その準備に忙殺されました。まず鉱山で要する採掘器具、日用品その他の荷造りをせねばなりません。しかも険しい山路を運ぶので、それに適当な量に包装する必要があります。チクラから鉱山までは羊や馬の背をかりねばなりません。

 かくして万端の用意がととのったので、2月22日高橋は山口庶務課長らと坑夫職工ら総勢14人を引率して、午前7時30分、リマ発の汽車で登山の途につきました。最初の予定では田島技師が一行の教導役として行くことになっていましたが、彼は坑夫たちの喧嘩の仲裁で怪我をしてしまい、高橋自身がその任に当ることとなったのです。同鉱山の空気の希薄、気候の激変のために、病気を引き起こしやすいので、途中3日間を費やしてチクラに達することとなりました。

高橋是清と3つの金銀山―3.ペルー銀山経営と失敗

 さてチクラに着いってみると、夜は持参の毛布だけでは、寒さを防ぐにたりないので、原住民の家に行って、あるだけの毛布を買いこんで配ったのですが、坑夫らは「こんなに寒くちゃ凍え死んでしまう、何とかしてくれ」と不平を訴えます。

高橋は「君らがそんなに寒がるなら、俺の着ている着物を剥いで持っていけ」と言ってたしなめたら、不平も止んでしまいました。

その内にだんだん希薄な空気にも慣れ、元気も回復してきたので、16日午前10時チクラ発、1万8千尺(約4000メートル)のアンデス山の最高地へと向かいました。

坑夫ら一同は徒歩、正午にはカサパルカに到着しました。ここにはアメリカのフレザーシアマル会社(鉱山機械製造会社)のガイヤル技師も来ていて、一緒に茶を飲み、同氏の設計した精煉所を見学しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-27

 2月17日はヤウリに向って出発、坑夫とは別に高橋と山口ら4人は朝6時に、ヤウリから下りてきたヘーレンの山の支配人カ-デナスの案内で、まずクレメン氏の鉱山事務所へ行き、その坑夫小舎を視察、その後ペスラやパッソンブリオは高橋らと別れて坑夫らの後を追って行きました。高橋と山口はカーデナスの教導で別路を進みます。

雪がしきりに降ってきました。右を望めば千仞の谷で、左はやや緩やかな傾斜であります。カーデナスを先頭に山口がそれに次ぎ、高橋が殿(しんがり)でした。そこは馬の背のようなっ嶮しい路、やっと登りつめたと思うころ、先頭のカーデナスは俄かに馬を止めて後ろの二人を見下ろしました。そのすぐ後ろを進んでいた山口も同時に馬をとめようとしましたが、馬の腹帯がゆるんで、鞍がズルズルと滑り落ちました。山口は驚いて拍車を入れると、鞍はスッポリと抜けて山口は数間下の岩に投げつけられ、抜けた鞍は馬の後脚にからみついて脚の自由を奪い、バタバタと後しさりしておりましたが、とうとう山口の上に大臀を落とし、さらに転倒して、高橋を左の谷に押し倒し、、馬自身は右の谷に墜落しました。

幸い左の谷はさまで嶮しい谷ではなく、高橋と馬は数間転げ落ちて、一畳敷きばかりの平らな雪の上に止まりました。高橋は大声で「山口、死んだか」と叫ぶと「死にはせぬ」という声がかすかに聞こえました。高橋が山口の所に飛んでゆくと、山口は痛みをこらえながら、ニッコリ笑って立ちあがりました。

 山口の馬はおよそ100尺近い断崖を転げ落ち、谷底ちかい深雪の中に首を突っ込み、、さかさになってもがいています。

カーデナスはいちはやく馬を下りて、谷底めがけて駈け下りて、山口の馬を引き起こしさかを上がってきました。馬は血だらけでいかにもあわれです。3人は再び嶮しい坂を登り、坂を滑り下りると坑夫らの一行に出会い、夕方5時ころようやくヤウリ村に到着、早速医師を呼んで山口その他の手当をしました。

ヤウリに着いた翌日の1890(明治23)年2月18日は非常な強雨でありました。ここに滞在中カーデナスらと、近く開始する仕事についていろいろと相談しました。

まずカーデナスは今後会社の使用人として働き、高橋の命令に服従するよう申しし渡しました。食糧の確保については、他日多数の日本人労働者が来着した場合、安い食糧を潤沢に供給できるか考究しました。ピエスラが言うには、米、玉蜀黍(とうもろこし)、馬鈴薯などについては自分に成案がある、肉類については、この近所に牧場を作って、羊を2~3000頭、牛を100頭くらいも飼えばよい。また運搬用のミウル(騾馬)もそこで飼えば、何百人の食糧でも供給できよう、というから高橋は承認を与えました。

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幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-28

 20日早朝坑夫らはカーデナスに引率されてカラワクラに向け出発しました。高橋はカラワクラで果して仕事が出来るかと思いました。燃料はアンデス山の苔しかなく、これで飯を焚いても、2度焚きする必要がありました。

25日いよいよ鉱山の開坑式を挙行しました。この日早朝から坑口に日秘両国の国旗を交叉し、その前に机を置き、日本の神々と同山神を祭り、神前には神酒と鉱石並びに鳥肉を供え、高橋以下役員、坑夫ら一同着席して式を行い、神酒を飲み廻し、それから酒宴を開始、踊りかつ歌い、その勢いで仕事にかかり、鉱石1噸を掘り出しました。坑夫らは坑内は大変暖かく、日本内地と違わないといって大喜びでした。

同年2月26日午後5時ヤウリに帰り、同月27日午前8時ヤウリから引き揚げて、午後1時半カサパルカに到着、ここにはガルランド氏経営のカサパルカ鉱山があるので、28日同鉱山を視察、その後チクラへと急ぐ途中のことでした。

案内者を先頭に山中の小径を進んでいましたが、やがて広漠たる平野に出ました。案内者は馬であったのですが、高橋はミウルに乗って、案内者のすぐ後から進んでいました。すると案内者の馬が突然驚いて後蹄を蹴立てて跳ね上がり、あわてて駈け去りました。すぐ後に続いた高橋のミウルは馬が跳ね上がった場所まで来ると、泥沼の中へ脚を踏み入れました。ミウルは高橋を載せたまま、たちまちズブズブと約半身を泥沼の中に埋め込んでしまいました。

こりゃ大変!と高橋はびっくりしました。下手に慌てると、ミウルと一緒に泥の中にうめられそうなので、高橋は静かにミウルから下りて命拾いをしました。

かくてその夕、5時半にチクラに着き、翌3月1日午前7時にチクラを発って、同日午後5時半にリマの本社に帰着しました。

同年3月26日になって、小池技手が突然山から下りてきました。小池は声を低くして「一大事が起こったので、内密に申し上げに参りました。」と云います。小池がいうには「この鉱山は数百年掘り尽くした廃坑であることは明らかである。自分は坑口をでると、すぐ山口支配人の所へ行って、このことを報告、翌日から秘密の内に鉱石を分析、その結果問題にならぬ貧鉱である。かくなる上は一刻も早く通知して対策をとるために自分が飛んで来た」ということでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-29

 意外な小池の報告に高橋は途方にくれ、直ちに田島に訊いてみました。「一体君は最初に山を買う時、実地をよく調査したのか、只今小池からの報告によると、山は全くの廃坑というのじゃないか」と詰問すると、田島は「実はあの時はよく調査をしませんでした。しかしもう一度山へ行って調査してみなければ、小池の言うことばかりも信じられません」

「しかし君の報告書には、4鉱区を買収した時に、実地調査をやったように書いてあるじゃないか」「何とも申し訳ありません」と言って田島は泣きながら「あの時の報告書はペルーの鉱山学校にあった雑誌を英語で読み聞かされたのをそのまま翻訳して送ったので、自分で行って調査したのじゃありません。私はもう一度山へ行って確かめて参ります」と白状しました。

 事ここに到って高橋の不安はますます加わるのみでありました。ただ不幸中の幸いともいうべきは、高橋がなお未だ改正契約に調印していなかったことであります。

高橋から鉱山に関する上述のような説明を聞いたヘーレンは非常に不機嫌で、「一体小池は誰の指図で山から下りてきたのか、この国では左様な場合はまず本社に伺いを立てることになっている」と云い、また「改正契約の調印までは、鉱山は自分の私有物である。田島の登山も許すことはできぬ」と興奮して云うので、高橋は「再調査に不同意であれば、自分はこれから日本へ電信を打って、本隊の渡航をしばらく見合わせるようにせねばならぬ。それに貴君は今日大変興奮しているので、十分談判ができぬ。今日はこれでお暇する」と言ってヘーレン邸を辞去し、宿に帰るとすぐ東京へ電報を発しました。

その後高橋とヘーレンとの間に話し合いが繰り返され、ヘーレンは次第に高橋の主張に同調する姿勢を見せて来ました。

同年4月2日高橋とヘーレンとの間に次ぎのような新契約が成立しました。

  1. 日本組合は新たに会社を組織し、ヘーレンの権利を全部6万磅にて買いとり、代金の内5万磅は現金をもって支払い、残り1万磅は新会社の株券をもって充当すること
  2. この計画は帰朝の上6カ月間に実行すべし。、もし上述期限内に実行すること能わざる時は、日本組合は現在共有の鉱山権を喪失すべし。
  3. 本契約の調印と共に、さきに田島、井上が日本発起人の代表として調印したる契約はその効力を失うべし。
  4. このたび会社創立の費用として出資したる3000ポンド余の金員については、これまでの清算をなすに及ばず、ただしこの条約調印の日ヘーレンより1500ポンドだけを日本組合に返戻すること(これは万一新条約の計画を実施する能はざる時坑夫その他の帰国旅費に充つるものとす)
  5. 新条約の期限中は、ヘーレンは日本坑夫に対し一定の賃銀を払い、かつこれまで通り家屋及び食物を無代価にて給与するものとす。
  6. ヘーレンは田島、山口、屋須、小池には給料を与えざるも、家屋と食物はこれを無代価にて交付するものとす。
  7. 6か月以内にヘーレンの権利を買いいれること能はざる旨を東京より電報したる時は、ヘーレンは直ちにその旨を山口に通じ、日本人」総体の帰国について金銭を除くほか万端の世話をなすものとす。
  8. この契約を実施せざることあるも双方共にに異議を申し立てざることまたこの契約書の日付け以前に定めたる事件はすべて無効とす。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-30(最終回)

 かくて高橋は急速に帰国の準備に取り掛かりました。それを聞いて我々も一緒に連れて帰ってもらいたいと坑夫が山口支配人まで申し出てきましたが。高橋が一足先に帰国し、山口は坑夫らとともに一時残留することになりました。

同年4月10日高橋はヘーレンはじめ在リマの社員一同の見送りを受けてカリヤオ港出帆のサンタ・クローサ号で帰国の途につきました。パナマに着くまで高橋は電報の略号を作るために苦心したのです。リマから日本への高橋の電報の内容がすべてヘーレンに通知されていることを高橋は知っていました。それに電報では詳細な情報を送ることはできませんし、ペルーにはまだ多数の日本人が在留し、ヘーレンの世話にならねばならない事情もあり、廃坑に過ぎない鉱山の実態を日本に連絡することはできませんでした。ただ日本から新たにペルへ送金することのないよう、遠廻しな表現で要請することしかできなかったのです。そうして同年6月5日東京へと帰り着きました。

帰国後高橋は株主を一堂に集め、今日までの事情をありのままに詳細に報告して、上述の通り田島の調査報告が全然嘘であったために、事業の計画は根底から覆り、到底前途見込みなきを感知したので、鉱山事業は断念放棄せねばならぬと考え、それには、さきに田島、井上両名が日本側全権代表としてヘーレンと取り交わした契約を破棄してきた旨を話しました。株主らは高橋の報告を聞いて非常に驚き、高橋の電報の意味を十分に了解できなかったことえを謝罪しました。

 一方ヘーレンに対しては、6月21日新会社設立のことは日本株主の賛成を得られなかったことを電報で通告し、ヘーレンはこのことをカラワクラの山口に通報、7月2日これを知った山口は直ちに坑夫らとともに日本へ帰る準備を開始しました。7月17日正午南米汽船会社船ランタロー号でカロヤオ港を発し、9月10日午前8時横浜に到着しました。

 これよりさき田島は、山口らがまだペルーにいた6月28日に脱走して何万円かの金を拐帯して行ったから、日本へ着いたら捕り押さえよとの電報でした。その後田島は帰国しましたが、藤村は1890(明治23)年10月10日発起人を代表して田島を詐欺罪で告訴、裁判の結果有罪となり確か3年半の懲役に処せられました。

高橋がペルーから帰って今度の事業の清算をしてみると、会社に対する高橋の持株は最初1万円であったが、全権代表となって行くとき会社の友人が立て替えてくれて、高橋の持株を500万円にしてくれました。

 ところが大損失で会社は解散することとなり、自分の持株の未払い分が16000円ばかりあり、このとき高橋の大塚窪町の家屋敷を処分、その家の裏の貸家に引っ越しました。

親切な知人が就職の世話をしてくれましたが、考えがあって高橋は官途にはつきませんでした。

 家族一同を集めて、高橋はペルー失敗のことから、福島農場、天沼鉱山の失敗、今日の事情一切を打ち明けて、「この上は運を天に委せて一家のものは一心となって家政を挽回するに努めねばならぬ。ついてはこれから田舎に引っ込んで大人も子供も一緒になって、一生懸命働いて見よう。しかもなお飢えるような場合になったら、皆も私と一緒に飢えてもらいたい」というと長男の是賢(14歳)は黙って聞いていましたが、次男の是福(10歳)は「そうなったら私はしじみ売りをして家計を助けます」と云ったので皆涙を呑みました。家内(品)は毛糸を編んで手内職をし、僅かな工賃を得ていました。

高橋是清子爵家 その1