幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-11

 それで公使館で相談の結果、原書記官が同行してくれることになりましたが、原は「君の専門的な用件には通弁できない。それで君の便宜のために英語の解る人に出て貰うよう交渉してみよう」と云い、特許局では英語の解る人を出して、高橋との応接に便利を計ってくれました。

 特許院ではフランスには特に発明保護の規則はない。発明者は雛形を特許局に提出する。そうして発明品の明細書や図面は、それぞれ種類によって分別し、一般公衆の閲覧に供しているということでありました。

 パリー滞在中のある日、谷大臣を其の旅宿に訪ねると、外出中であったので、しばらく応接間で待っていました。ちょうどそこへ河島醇(かわしまじゅん)が同じく大臣を訪ねてやってきて、当時日本で憲法制定に関する議論が高まっていたので、自然と民約憲法(民定憲法)を主張する河島と欽定憲法(君主が制定した憲法)を支持する高橋との間に大声で論争が起こりました。しかしこれがきっかけとなって河島とは親密となり、河島がこの夏は是非ベルリンへやって来い、加藤もやって来るはずだから3人でドイツ旅行をしようじゃないかと云いだしました。高橋もうん行こうと約束しました。

RETRIP―パリー

 同年5月3日午前10時、谷農商務大臣の随員の一人として、高橋はフランス大統領に謁見を許された後、同月5日午前9時パリーを発って、同夕刻ロンドンに帰り、園田夫人の厚意により、ケンジントンのホートランドロート46号の園田孝吉の家へ引っ越し、家人同様の待遇をうけました。

 パリー滞在中、河島、加藤済らとの約束もあるので、同年7月16日午前8時半、ロンドンのヴィクトリア・ステーションを発してベルリンへの旅に上りました。クインバローに着いたのが午後10時半、非常に月の美しい晩で、直ちにフラッシング行きの船に乗り込みましたがドーヴァー海峡の波は穏やかで、翌17日の午前6時過ぎには早くもオランダのフラッシングに着きました。上陸するとまもなくベルリン行きの汽車に乗り込みました。

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-12

 高橋は相変わらず行き当たりばったり主義で、同じ車内にはアメリカ人夫婦と一人のドイツ人がいて、午後1時近くにオバーハウゼンという停車場に着くと、白いエプロンをつけたボーイが同車の客に弁当を運んで来ました。高橋が「俺にも一つ持って来い」とそのボーイに命じましたが、何時まで経っても持ってきません。そのうちに午後1時半になり、汽車はオバーハウゼンを出てしまいました。それで相客に「どうして自分には食事を持ってこないのだろうか」と尋ねると、「アナタは前もって電報で注文しておいたか」「否、頼まぬ」「それじゃ持って来ぬはずだ、この汽車で午飯を食うのに一番都合のよい所はあの停車場である。それでみな前の駅から電報で注文して置くのだ」ということでありました。

今朝、朝飯は5時半ころフラッシングに着く前に済ませたので空腹だが、弁当のありそうな停車場に止まりません。やっと午後3時ころウエストハリアのハムという停車場で、ようやくパンとハムを入手しましたが、パンは堅くて食べられず、ハムは塩辛くて、飲み物はないし、無理やりに詰め込んだら、たちまち腹痛を起こしました。

 午後10時46分にベルリン到着、荷物をポーターに頼みっぱなしで、ポーターの番号も聞かず、出口に出てしまいました。

他のポーターにセントラアル・ホテルまでの馬車を頼んだら、そのホテルなら向かいですと目前の建物を指して教えてくれました。荷物も一つも紛失せずチャンと先に届いていました。

RETRIP―ベルリン

 翌朝公使館に品川公使を訪問して到着の挨拶をしました。浜尾新が数日前サクソニーの旅行から帰ったとのことで、公使とともに同君を訪問しました。

 浜尾、中沢両君と中食を共にしましたが、両君がホテルにいるよりも何処か下宿を探したがよかろうと、いろいろ世話してくれて、ついに井上哲次郎の下宿している所に行くころになりました。

 近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー井上哲次郎

 当時ベルリンに在住していた主な邦人は、前述の諸氏のほかに公使館員として井上勝之助らがあり、商売人としては川崎甚兵衛らの一行あり、河島醇らの一行は高橋より一足先にフランスからやってきていました。

 7月中は米仏で調査した原稿の整理や、ビスマークについてのミューラー博士の講義を通訳つきで聴くことで過ごしましたが、高橋はドイツ語をやっていないので、調査の助手として、8月初めワグナーという人が2箇月100マークの給料で引き受けてくれました。

 かくして特許局長を訪ねて、とりあえっず特許に関する諸法令並びに参考書の分与を求めると、快く承諾し、2、3の局員に紹介してくれました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-13

 その後また特許局に行くと、局長は留守で、ショーテ代理の手許に発明意匠保護に関する現行法律の英訳をもってきてくれましたが、印刷の部数が少なかったので、これ1部しかない。面倒だが写し取ってほしい、と言われ、高橋は全部筆写しましたが、このため高橋の取調べはとても楽になりました。

 それから書類交換を求めたところ、ショーテは「それは日本公使館からドイツ外務省に申し出て、外務省から内務省に移牒して来る手続きを取ったがよい。」ということでありました。それで公使館に行って、明細書図面その他の交換をドイツ政府へ申し込んでもらい、ここでも書類交換の目的を達することが出来ました。

 調べてみると、ドイツの特許制度も仏国と同じく、米国のそれに比すれば、遙かに遅れていました。

 ベルリン滞在も長くなって、何時の間にか秋風そよぐころとりました。それに帰国の日も近づいてきたので、9月8日午前5時20分にベルリンのレエルテル・ステーションを立って、見送りの友人とハンブルグまで同行し、同地経由で英国に帰ることとなりました。

 汽車は広漠たる北ドイツの野を横切って、夜の10時過ぎにハンブルグに着き、直ちにクラウンプリンス・ホテルに投宿しました。

 RETRIP―ハンブルグ

 翌日我が名誉領事のパウルソーレンを訪問、すると同氏は「ここでみるべきものはウイルタゲン氏の魚の燻製工場のみである。この工場は秘密で誰にも見せないのだが、かねて貴君が見えることを聞いて、この人は実業家ではない農商務省の役人で、決して工場の秘密を盗むものではないと言って、承諾を得ておいたから、是非視察されたがよい」としきりに勧めてくれました。それで到着の日から2日目に、この工場を参観しました。

 その夕、カール・ロードに招かれ、ハンブルグ郊外のバーレンフィールドにある同氏の養父カイエンの邸を訪れました。カイエンは齢すでに古稀に近い老人でしたが、実に钁鑠(かくしゃく)たるものでありました。

 実に非常な厚遇を受けました。かつ老人の経歴談を聞いて、高橋は感激いたしました。その夜は思わず長居して、月を踏んで帰りました。かくてハンブルグ滞在前後4日、英国行きの汽船ネリッサ号に乗り込んだのは9月11日の午後9時、沖天の月がことに鮮やかな夜でありました。

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-14

 英米独仏における特許制度の取り調べも一通り出来上がったので、高橋は1886(明治19)年10月7日に英京ロンドンを立って帰朝の途につきました。高橋が乗った船は意外に船足を早め、予定より3日間も早くホンコンに着きました。ところが接続船の都合でホンコンに1週間も滞在しなければなりません。故国を眼の前にしながら、1週間も船待ちをするのは堪えられず、船切符をすてて、別会社の船に乗りり込み、ホンコン着の翌日日本へむけて出発しました。この船は長崎にも神戸にも立ち寄らなかったので、最初の予定よりも9日間も早く横浜に到着しました。

 それから汽車で新橋駅に降りると、杉山会計局長がやって来て、「これからすぐに農商務省に来てくれ」と云うので、家にも帰らず、そのまま農商務省へ行きました。

 「一体何事だ」と訊くと、「実は山林局農務局所管の地所を売った金が8万円ほどある。省内の各局長は、それを各局に分割して、めいめいに使いたいという。近く君が帰るというので、実は君の意見も聞きたいと思って待っていた次第だ」

 「8万円の金を全部を俺に使わせてくれんか」「何にするんだ」「俺はそれで特許局を建てる」

 「君の留守中に省内の形勢は全く一変した。果してそんなことが出来るかどうか、とにかく次官に会って君の考えを話してみるがよい」ということでありました。

 思いがけない経緯で遅くなり、大塚窪町に着いたとき、すでに日はとっぷり暮れていました。久しぶりに見る我が家の窓の明りが微笑みながら手招きしているようで、坂を上る高橋の足取りも早くなります。

 息子たちはすでに布団に入っていましたが、養祖母の喜代子が寝ずに待っていてくれました。その夜は熟睡できず、翌朝風呂に入って、旅の垢を落とし、仏壇の柳(フジ)夫人(明治17年8月4日死去 上塚司編「前掲書」下巻)に手を合わせ、その後家族そろって朝食の食卓を囲みました(幸田真音「前掲書」)。

 翌日高橋が吉田次官邸を訪問して、商標、意匠、発明保護の三法律を新たにに成立する必要があることと同時に特許局を一個の独立の局としてその庁舎を建築するよう、また8万円は特許局新築の費用にあてるよう意見を述べると、次官は不機嫌な顔をして「それよりも取調べに行ったんだから、報告書から先に出せ。何もかもそれを見た上のことだ」と言われました。それで高橋は早速報告書の作成にとりかかりました。

 報告書が完成したのは1887(明治20)年正月で、それから商標条例、意匠条例、及び特許条例の起案に取りかかりました。

 その間にたびたび大臣次官が更迭し、これが成案となって、内閣に提出の準備が出来た時、黒田清隆が農商務大臣で、次官は英国で知りあいになった花房義質(はなぶさよしただ)が就任していました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー井上毅―くー黒田清隆

 ところが、その原案に対して、黒田清隆はなかなか判を押さず、内閣の議を経ることができません。しかも大臣は滅多に省には出てこないので、花房次官に苦情を訴えました。次官も気の毒がって、ある日自分が出掛けて行ったが、玄関払いを食ったと帰って来ました。

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-15

 そのうちに大臣が久々に出省して高橋を呼び「自分はこの法律のことはよく解らない。いずれ必要なものだろうが、こうして法律を出せば、これに伴って必ず経費を要とする、経費のことは大蔵大臣が承知しなければ出来ないが、あなたはまず松方さんへ行ってよくこのことを説明し、承知されたらお出しなさい。私は今日判だけは押しておくが、その責任はとれない」と云いました。

 それで早速松方正義を大蔵省に訪問して事情を説明、松方は了承したが、間もなく内閣は更迭して黒田清隆がが総理大臣になりました。

 黒田の農商務大臣は期間がごく短かったので、高橋はあまり接触する機会がありませんでした。ある時省内の課長以上を三田の自邸に招いたことがありました。黒田は自ら立って酌をしながら酒を勧める有様でした。

 皆が神楽を見物しながら飲んでいると、大臣が「サア皆さん、ここから小便をしよう」と言って二階から小便を始めました。このように黒田は酒癖の悪いことで有名でした。

しかるに上記3条例は参事院で議論が沸騰し、なかなか通過が困難でした。特許条例を作るに当って、審判長の権限について、議論が沸騰しました。高橋は「特許証の有効無効を裁判するについては、特許局長が自ら審判長となって、これを判決し、かつこれをもって最終のものとせねばならぬ」と主張しました、すると井上毅が極力反対し、最終決定は大審院で下すべきものだ、と主張しましたが、同氏も一時の便法としてこれに賛成することとなり、いよいよ1898(明治31)年12月18日をもって旧法を廃止し、新たに商標条例、特許条例及び意匠条例が発布せられ、翌年3月1日から施行されることとなりました。

Weblio辞書―検索―大審院―コンドル

高橋は帰朝後、特許局独立の運動を始めました。元来、特許ならびに商標の事務は農商務省工務局内の専売特許所並びに商標登録所で取り扱ってきたのを明治19年2月16日勅令第2号をもって、農商務省に専売特許局という一局を置くこととなりました。

 これが我が国における工業所有権保護に関する特別の局を設けられた始まりです。

 しかるに農商務省特許局ではいけない、さらに一歩進めtて、真に独立したる局となさねばならぬと考え、八方力説した結果、明治20年12月に到り、勅令第73号をもって農商務省専売特許局が廃せられて、単に特許局となり、高橋は特許局長となりました。

 一方高橋は特許局新築の話を進めました。工部大学の教授で建築技師のコンドルに頼み設計してみると、どうしても12万円かかると云います。

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-16

 そこで杉山会計局長の手許に保管されていた例の8万円に不足する4万円は松方大蔵大臣の承認を得て確保しました。

新築の設計図が完成したころ、井上馨が農商務大臣に就任しました。井上は設計図を見て、注意のため申されるには「建築費として12万円とってあるが、かような建築にはいろいろと装飾や外柵などに費用がかかる。全部使わないで1万円くらいは別にとっておかなくては後で困ることが出来て来る。この建築は大倉組に請け負わせて、11万円で12万円の仕事をさせ、その代わりに11万円は前渡し金で渡してやることにする。残る1万円は別にしまっておけ」といわれるので、その通りにしました。

 井上と云う人はこんな細かいことにも気の付く人でした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー井上馨

 1885(明治18)年内閣制度の発足は、いうまでもなく、憲法制定の準備に外ならなかったのです。それとともに、時の台閣諸公らが窃かに憂えたことは、来るべき議会において、久しく抑圧された民権党が時の政府に突撃してくるのではないかという一事でありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-17

 そこで内閣の閣僚はこの際大いに事績を挙げて、世論の称賛を博し、民軍の鋭鋒にあたらねばならぬと覚悟するにいたりました。すなわち、その一つとして井上馨外相は条約改正に成果を挙げようと努めたのです。

 しかしその改正が甚だしく国威を損なうものであるとみなされたために、天下の輿論はこれに反対する気勢を示しました。しかのみならず、時の内閣は盛んに欧化政策をとり日比谷に鹿鳴館を作って社交上の機関となし、舞踏夜会に歓楽の夢を追うようになりました。この年4月、総理大臣官邸に行われた仮装舞踏会のごときは最もよく当時の風潮をあらわしたものであります。

Weblio辞書―検索―鹿鳴館―ボアソナード

 この浮華軽佻の風潮に憤慨する志士の一団は条約改正反対、風紀振粛を絶叫するに至りました。当時官職にあって、最も反対したものには、枢密院顧問官勝安房、谷農商務大臣、西郷海軍大臣ら、及び司法省雇外人ボアッソナードも。その一人で、いずれも政府に建白して、かくの如き粉飾的条約改正の無意味にして、何らの効果なきゆえを陳べました。

 前田正名も条約改正並びに当時の上流社会の欧化主義的風潮に向かって甚だしく憤慨した一人でありました。前田は人心作興の意見書なるものを書いて、病臥したので高橋にそれを井上毅の所へ持って行って、その意見を徴してもらいたいとの依頼を受けました。

 高橋は彼の意見書を携えて井上毅宅を訪問すると、井上は風邪で臥床中でしたが、特に病室に通されて面会してくれました。

 前田委託の意見書を差し出すと、井上は手にとって静かに一読し、「誠に結構だ」といいながら、すぐに話頭を転じて、当時の中心問題たる条約改正に及び、いろいろと意見を述べました。そうしてやがて手文庫から一通の書類を取り出し、「これはごく内密に前田に見せてくれ」とて託されました。

 その書類こそ条約改正に関する井上毅と当時の司法省お雇い外人のボアソナードとの対話の筆記でした。前田の読後、高橋が複写しておいたもので、高橋は今これを見るに、実に得られざる史料であるとのべて、その全文(省略)を本書(「高橋是清自伝」)に収録しています。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-18

 1888(明治21)年4月、第1次伊藤博文内閣は倒れ、黒田清隆を首相とするいわゆる元勲内閣の出現をみるに至り、農商務大臣には井上馨がその任に着きました。

 井上大臣と一緒に入ってきたのが、古沢滋(ふるざわしげる)、斎藤修一郎の両名で斎藤は秘書官、彼は学校時代からの知り合いでしたが、古沢と云う人はそれまで全く面識がありませんでした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ふー古沢滋

 井上は大臣就任後、しばらく農商務省へは一切顔をみせませんでした。そうして斎藤を通じて高橋に「外国から新発明の機械を日本に輸入しようと思ってても、日本へ売ったら、すぐ模造するから困るといって、二つや三つくらいでは売らない状態である。ゆえに今日新式の機械を輸入することが必要であるから、その機械を保護するために、始めて輸入したる者には専売特許を与えるよう法律を作れ」と大臣の命令であるから、早速それをやってもらいたい、ということでありました。

 しばらくして井上がはじめて役所に出て来ました。大臣が出ると札がかえることになっていましたが、その札がひっくりかえるとほとんど同時に呼び鈴が鳴り、早速大臣室に行くと、「古沢や斎藤をもって申しつけていた法案は出来たか」と問われます。

 よって高橋は法律はすぐにできます、しかしこれについては、外国で聞いたこともありますので、私に少し意見がございますから、それを申し上げて御判断願った上のことにしたいと考えております、といって、かつて英国で自分が聞かさされて非常に印象深く感じた話をしました。

 それは英国滞在中のことでした。名は忘れましたが、確か特許局長の秘書官のウェップの雑談の中に、、「日本では今条約改正ということで大変に騒いでいるが、ここに考えねばならぬことは、今度の条約改正では、日本側から求めることはたくさんあるが、外国側から日本に要求して利益となることはほとんどない、強いていえば発明、商標、版権の保護ぐらいのものである。しかるに版権と商標とはすでに警察で保護しているということだが、その上に発明まで保護するということになれば、外国人が要求する事柄はすべて充たされて、あとには要求すべき利益はなにもなくなってしまう。それで発明の保護だけは決定せずに残しておいて、条約改正の時にうまく利用することが日本のためである」ということでありました。高橋はこのことを井上大臣に詳しく説明したのです。

 井上ははじめの間は怒ったような顔で聞いていましたが、そのうちに顔つきも和らいで、「よろしい、そんならもうその法律は作らんでもよい」といいました。

 高橋はこの時、これはかねて想像していた井上とは大変異(ちが)う。自説が誤っていることに気づけば、改むることにすこしも憚らぬという美質をもった人であることを知りました。

 それから高橋は井上の知遇を受けるようになり、やがて東京農林学校の校長に兼任を命ぜられたり、炭坑審査処理委員を命ぜられたりして、おおいに引き立てられました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-19

  そもそも高橋がどうしてペルーの銀山に関係するようになったかというと、彼が特許取取調べのために欧米諸国を巡っているうちに、特に感じた事柄がありました。

 それは当時日本人で商用で外国へ行く者は誠に少く、たまたまあっても、多くはベルリン、パリー、ロンドン、ニューヨークというような先進文明国の都市を廻るばかりでした。

しかもその多くは言葉も解らない人たちであるから、折角商談を持っていっても相手にされぬという風でありました。高橋はこの状況を見て、これはいかぬと痛感したので、帰朝早々前田正名にその話をしました。

 「そんな所に発展するよりも、もう少し文明の程度や富の程度も低く、人民も慠慢でない、そうして土地も広い所、例えばスペイン語ポルトガル語などが話されている南米、中米の諸国に向って市場の開拓を図ったがよい」と話したことがありました。

 それを覚えていたからでしょう。前田がある日高橋の所にやって来ました。「このごろ藤村紫朗が来て言うのには、これまで誰にも話さず、6~7人のものだけが申し合わせて、南米ペルーでオスカル・ヘーレンというドイツ人と共同して、銀山経営の話を進めて来た。

 すでに技師を派遣し実地踏査した上、共同経営の契約を取り交わしたが、最初の発起人だけでは力が及ばなくなってきた。この際会社を設立して株式を公募する必要に迫られている。ついては一臂の力を貸してもらいたいということであった」といって、この銀山の起りから、今日の成り行きを詳しく高橋に話ました。

 前田の話によれば、ドイツ人ヘーレンは親の遺産を相続して、1869(明治2)年日本にやって来て築地に家を構え、やがて日本を去って帰国し、ドイツの領事館員としてペルーに行き、バドロー大統領の姪と結婚、中央銀行総裁になり、ペルー実業界で知名の士となっているとのことでありました。

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幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-20

 同大統領は農業を盛んにする方針で、ヘーレンも政府からペルー北部の土地を払い下げてもらって農場経営に着手しましたが、ペルーの現地人は農業労働者には不適で、ヘーレンは勤勉な日本人を使いたいと思って、自分の雇人井上賢吉を日本に派遣し、農場の共同経営を説かしめることにしました。

 その時ヘーレンはペルーの産業紹介の意味でカラワクラ銀山の鉱石を井上に持たせて日本に帰したのです。井上は日本に帰ると、懇意であった城山静一に事情を話して助力を求めました。城山は直ちに井上を前山梨県令の藤村紫朗に紹介し、同時に実業家小野金六にも依頼しました。

当時はちょうど鉱山熱の盛んな時で、 藤村は井上持参の鉱石を見ると、早速それを鉱山学会の泰斗巌谷立太郎博士に分析鑑定を頼み、この鉱石はほとんど純銀に近い良鉱で、しかもその原産地カラワクラの銀山はドイツの鉱山雑誌にも載っている有名な山であることが判りました。

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 これを聞いて藤村らは大喜びで、ヘーレンの使者井上の話では農場の経営ということであったが、それよりも鉱山の方が面白いと言って、藤村らは金五万円を醵出、銀山経営の計画を進めてしまったのです。

 しかし実地を調べてみないと安心できぬ、誰か適当な技師を選んで実地踏査させ、もし良かったら、ヘーレンと共同経営の契約を結ばせようと、その技師の選択方法を巌谷博士に依頼しました。すると博士は自分の部下の田島晴雄理学士を推薦してくれたので、1889(明治22)年11月28日田島技師は日本をたってッペルーに向い、翌23年1月23日リマ府に到着しました。1箇月後、田島から最初は電報、次いで書面で契約を取り交わしたことを知らせてきました。

 それによると、会社は資本金100万円とし、日本側とペルー側とで50万円ずつ分担することになっています。そうしてすでに4鉱区だけは25万円で買い取り、内日本側の負担に属する12万5千円はヘーレンが立て替えて支払ったので、その分だけは来る11月までに支払わねばならぬ。かつ農場の方も同時に着手することとなっています。

 来年4月までに農夫400人を日本側の負担でペルーに送り込む責任があります。ヘーレンの出資は農場、精煉所、その他の不動産で、坑夫、農夫の供給並びにこれに要する渡航費などはすべて日本側が負担しなければならぬということでした。