幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-1~10

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-1

1881(明治14)年の春になって、友人からいつまでも学校で教員をするだけでなく、文部省へ入って教育の事務をとってはどうかと勧められ、高橋も同感で、その話をすすめてもらいました。

 ところが当時文部省の小丞か何かであった浜尾新が高橋の行状ことに放蕩や仲買いの店をだしたり、銀相場に手を出したりしたことを聞いて、ああいう不身持ちの者を文部省に採用することに反対していることを知りました。

 それで早速浜尾を訪ねて相場に手をだしたのは30人ばかりの書生を養う費用を得るにあったこと、それも今はやめている、また放蕩の方は、これもおつきあいに行く程度のことで、遊廓にもいかなくなったことを話し、浜尾も納得して。明治14年4月御用掛を仰せつかり、地方学務局勤務を命ぜられました。

 高橋が文部省へ入ると、間もなく農商務省ができ、その官制を見ると、その所管事務として発明専売、商標登録保護のことが規定されていて、誰にこの仕事を担当させるか 困っていたようでした。

 このとき高橋のもとの遊び仲間であった旧越前藩士の山岡次郎が蔵前の工業学校教授で農商務省技師を兼務していました。この人がかつて高橋がモーレー博士の勧めで商標登録、専売特許のことなどを調査、その必要を提唱していたのを知っていて、同省河瀬秀治局長に話したので、高橋は農商務省に採用されることになりました。これが同年5月のことです。

農商務省では工務局調査課勤務を命ぜられ、もっぱら商標登録並びに発明専売規則の作成にあたりました。大阪の商業会議所は商標登録に賛成でしたが、東京の会議所は商標と暖廉(のれん)を混同し、暖廉というものは永く忠勤した番頭に、その主家から分け与えられるもので、それを登録して所有者の専有物として、一切他人が使えぬようにすることは我が商習慣になじまぬという理由で反対しましたが、後に撤回しました。

工務局長から、順序としてまず商標登録規則から始め、その後に発明専売規則にかかるがよい、と言われ、かくてこの取り調べが進み、参事院の会議に提出するまでに約2年有半の歳月を要しました。1884(明治17)年1月参事院本会議に上程され通過、ついで元老院の協賛を経て、同年6月7日布告第19号をもって商標条例発布、同年19月1日より実施となりました。

Weblio辞書―検索―登録商標―のれんわけー参事院―元老院

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-2

次に発明専売規則の作成にとりかかりました。その成案を参事院に提出しましたが、通過は困難でした。その理由は、すでに1871(明治4)年ころ発明専売略規則なるものが発布せられたが、発明の審査にあたる適当な人物として外国人を雇用しなければならず、かつろくな発明もできないという有様であったからです。

 そこへ森有礼が外国から帰り、高橋が早速挨拶に行くと、「このころ、何をしている」と尋ねられましたので、高橋は農商務省に入って、今は商標登録所長となり、発明専売規則の作成に努力し、ようやくその成案を得たので、参事院に提出しましたが、反対が多くて通過が容易でないということを話しました。。すると森は「そんなにむつかしいなら、俺が行って話をしてやろう」と云いました。

当時森は参事院議官であったが、めったに会議に出席することはなかったのですが、ある日会議に出席して、おおいに案の通過のために掩護してくれました。おかげでこの案はようやく参事院を通過、元老院に回付されました。高橋は臨時に内閣委員を仰せつけられ、その説明に当り、同院では相当の議論もあったが、箕作鱗祥の協力を得て、高橋案は無事通過、1885(明治18)年4月発布、同年7月1日施行、高橋は同年4月20日付で専売特許所長兼務を命ぜられました。

 近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー前田正名―みー箕作鱗祥

森有礼の紹介で農商務省の書記官であった前田正名が高橋に会いたいと伝言があり、省内で面会したのは1883(明治16)年ころであったと思います。彼は熱心に殖産興業の急務を主張し、高橋は彼の意見に敬服いたしました。

 前田は第四課の人々を使って興業意見書の編纂に着手、同意見書の中に興業銀行設立の計画がありました。

 ところが大蔵省案を見ると」、その実行方法が農商務省は全然反対で、中央銀行を先に作って、各地方に支店を設けようとするものです。しかるに農商務省の計画は、地方を先にして中央を後にする案でした。従ってこの案が参事院会議に上程されると、その都度特別委員に付託されて、大蔵省からは銀行局長の加藤旦ら3人が出て説明に当り、農商務省からは高橋が1人出て応酬しました。同院議官の間では農商務省案支持は少なかったのです。

 この時西郷従道農商務卿が清国から帰朝、それで参事院の議官は農商務卿の出席を求めて議論を纏めるほかないということになりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-3

 これを聞いて高橋は書記官の前田正名、山林局長の武井守正、会計局長の杉山栄蔵、書記官の宮島信吉らと会合、明朝武井、宮島、高橋の3人で農商務卿を訪問することに決めました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー西郷従道―しー品川弥二郎―まー松方正義

西郷は3人の報告を恐い顔で聞くと「清国へ行く前、松方(正義)大蔵卿に早く出してくれとこちらから頼んで出して貰ったものである。それを農商務省の代表たる君(高橋)が廃棄を主張するとはどういうわけだ。その理由をいいなさい。」と気色ばんで云いました。

高橋が経過を説明すると西郷は「明朝本省にでるから、書記官以上を集めて意見を聴くことにしよう」と云いました。

 翌朝高橋は決心して、胃病で臥床していた品川弥二郎農商務大輔を官舎に訪問、昨日の西郷訪問の報告をして、高橋自身の懲戒免職を懇請しました。すると品川は、一体参事院での高橋の主張は省議なのか、高橋個人の意見なのかと質問、高橋は省の代表となったのであるから、私見を述べても差し支えないと思うと答えました。品川は「今朝の省議には自分も病を押して出席する」と涙を流して云いました。そこへ武井守正がやってきて、「西郷卿が我々の意見に同意されぬ場合は、あなたが高橋に命じてやらしたということにして、あなた一人で責任を取って頂きたいとお願いに参りました」というと、品川は「それは自分にとって何でもないことだ。西郷さんにお話ししてみよう」と引き受けてくれました。

時間が近くなったので出省すると、西郷が高橋を一番に呼び出して「昨日は十分に君の話を聞くことができなかった。も一度大蔵省案について話してもらいたい」というので高橋は農商務省が何故大蔵省案に反対するのかを1時間余り説明しました。西郷は「よく解りました。これから会議を開きましょう」といって局長、書記官を集めた会議が開かれました。出席者は一人ずつ順番に意見をのべましたが、西郷は「貸すときには協議せずして大蔵省が専断をもって貸しても、その後始末については農商務卿において(大蔵省が)責任をもたぬなどいうがごときは、義理にもいえたことじゃない」と厳然と云い放ちました。

 このとき高橋は感激して涙が滲みでたほどでした。西郷という人は経済のことなどなにも解らない人だと思っていましたが、外見の茫漠たるに引き換え腹の中ではちゃんと事の要領を掴まえ、頭脳も明敏で見かけによらぬ緻密な考えをもった人でありました。

 その後聞くところによれば、西郷から松方に話があって、大蔵省はこの案を撤回したということです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-4

高橋は1885(明治18)年(31歳)11月16日付で欧米出張の辞令を受け、同月21日付で農商務省書記官に任ぜられ、同月24日横浜出帆の船で米国へ出発することとなりました。同年11月16日内閣書記官「専売商標保護に関する現法実視の為欧米各国へ被差遣候事」との太政官辞令が届けられました。同時に西郷農商務卿は高橋を呼び、各国駐劄のわが公使に向って、公文の紹介及び依頼状を発すべき由を申し渡しました。

連日盛大な送別会が開かれ、森有礼からは「ゼネラル・イートン」(イートン将軍)への紹介状を認めて渡されました。

同年11月23日午後4時新橋駅から横浜へ向い、横浜では弁天通りの西村に休憩、夜に入って駅逓局の小蒸汽で乗船、「サン・パプロパ」号に乗り込みました。

 この船は貨物船で高橋は士官部室をあけてもらい、他に二人の若い留学生串田万蔵、吉田鉄太郎を伴っての旅立ちでした。高橋らの外に日本人乗客は早川竜介ら8~9人、うち2人は女子でした。いずれも下等船室でした。下等船室には多数の清国人も乗り込んでいました。上等船室にはフレツャアら5人の外国人乗客がいて、船のなかで懇意になりました。

 同年11月24日午前6時半、夜来の雨は晴れて、船は錨を解纜しました。ところがわが島影が消えるころ、非常な大嵐となり、その後3日間船客の多くは船室の外へ一歩も出ずに閉じ籠っていました。27日になって船客もようやく食堂に出るようになりました。

早川が甲板に上がって来ていうのには、「どうも大変なしくじりをやった。顔でも洗いたいと洗面所を探した、ちょうどそれらしい部室があったので中を見ると、何だか取り付けの器の横からチョロチョロと水が流れている。その滴りを掬い顔を洗ったり口をゆすいだりしてそこを出ようとすると一人の西洋人が這入ってきた、そっと窺ったら、西洋人はそこに立って小便をしている、そこで初めてさっきの器が小便壺であったことが判明した」と大笑いでした。

吉田鉄太郎も甲板に上がって来て、「下等はいかにも食物が悪い。せめて食物だけでも上等にしてもらえまいか」というから船の会計主任に話して、船の士官と一緒ということに取り計ってあげようという話になりました。そこで米貨15ドルを支払い、翌朝は大喜びで、まだ士官たちが出てこぬうちに一人で士官食堂に行って食事を注文しました。給仕の持ってきたメニューを見て上の方から順に三ッだけ指したら、パンの種類ばかり三ツ持ってきたといってこれもまた大笑いでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-5

サン・パプロパ号は同年12月9日午後、サンフランシスコの港外に到着しました。やがて防疫官、税関吏、船会社の社員らが乗り込んできて、それぞれ上陸についての手続きをしてくれました。今日は上等船客と下等船客の日本人に限り小荷物のみで上陸してもらいたいということになりました。

 高橋らは埠頭から馬車でパレス・ホテルに向いました。20年振りのサンフランシスコはどこを眺めても往時の面影を留めている所はありません。

 サンフランシスコには3日間滞在の予定で、その間努めて市中の見物、視察、それから昔馴染みの場所などを訪れることにしました。

領事館の宇田川・門井両君の案内でオークランドを訪れました。この地こそは高橋にとって忘れ難い所です。想い起せば、まだ14歳の少年のころ、高橋は自分で知らぬ間にヴァン・リードの手からブラウンに売り飛ばされ、何ヵ月か間をこの片田舎で働いていたのです。

 月冴える夜、高橋はブラウン家の家族や当時の知りあいを探し回りましたが、どうしても見当がつきません。朧げながらブラウン家や停車場のあったと覚ゆる所にやってきました。ふと見上げると、見覚えのある一本の樫の木が突き立っています。この木こそ高橋が毎日牛馬の手入れをした囲いの中で聳え立っていた大木でした。

 同じ夜遅く、ゴス町にフルベッキ夫人を訪ね、御茶の御馳走になりながら、夜の更けることも忘れて語り合いました。

桑港に着いて3日目の午後、高橋らはオークランド駅から汽車に乗ってニューヨークへと向いました。行くこと5日にして、同年12月17日午後2時シカゴにに到着、フレツチャア氏の電報により、出迎えてくれた日本人店員の武田、松井両君がただちにグランド・パシフィック・ホテルに案内してくれました。

 シカゴ滞在3日の間、ストクヤー(屠牛場)や物産取引所を見学し、19日午後3時串田、吉田両君を伴って、シカゴ市のデエホーン・ステーションを出発、かくて翌晩零時半ニューヨークに着き、とりあえずウインソル・ホテルに投宿しました。

 ニューヨークに着いて最初の仕事は洋服を作ることでした。高橋新吉ニューヨーク駐在領事が高橋の服装を見て、日本製でみっともないから、新調したらよいというので、早速洋服屋へ行って燕尾服、モーニング、フロックコート、各一揃い及び外套を注文しました。

注文の服が出来上がるまで1週間かかるというので、その間高橋領事の案内でニューヨークの諸所を見物しました。240フィートの高塔に上ったり、ブルックリン橋を渡って公園をドライブしたり、フィフスアベニュー劇場へ行って「ミカド」劇を見物したり、また取引所を参観したりしました。

RETRIP―ニューヨーク

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-6

 同年12月23日正午高橋は官制改正の電報を接受しました。即ちこれまでの太政官が内閣制に変更され、卿(きょう)、輔(ふ)といいていたのが、大臣、次官とよばれるようになり、西郷農商務卿は海軍大臣に転じ、谷干城が新たに農商務大臣に就任、同時に前田、武井両君は非職(地位はそのままで、職務を免ぜられること)となりました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー谷干城

ニューヨーク滞在中はちょうどクリスマスから年頭にかけてのことで、在留の日本人とは忘年会や新年会でたびたび会合する機会があり、また高橋領事の紹介で多数の米国人とも親しくなりました。ニューヨークの弁護士プリズンはことに特許制度の取り調べについては非常な好意を示してくれました。しきりに意匠保護法の必要を提唱して、日本でも速やかにこの法を設けた方がよい、英国の工芸技術が今日のように進歩発達をきたしたのは、一に本法の刺戟によるものであると言っていまっした。また発明品の特許審査の方法は、米国のように単に審査員の考えに一任するよりも、ドイツのように実際家の意見を徴する方がはるかによいと思うなどとも言い、いずれも高橋にとって良い参考となりました。

1886(明治19)年正月元日はニューヨークのウェストミンスター・ホテルで迎えました。洋服も出来上がったので、同月2日の夜、首府ワシントンに向かうことに決めました。

 同行した串田、吉田両君の処置については、高橋領事とも相談して松方幸次郎(松方正義の三男)のいるニュウブルンスウックのラットー・カレッジ附属のグランマー・スクールに入学させることにしました。

 高橋は予定通り、高橋領事とともにニューヨークを発し、翌日3日午前8時ワシントンに到着、公使館からは赤羽君らが出迎えてくれて、高橋を赤羽の宿であるN通り1514番地に案内してくれました。

当時の駐米公使は九鬼隆一で、早速九鬼公使を訪問しましたが、公使は病臥中で、特許院への同行は2、3日まってもらいたいとのこと、やがて公使に同道してもらい、内務卿を訪問し、特許院長モンゴメリーに面会をもとめましたが、院長は不在で彼の弟に紹介されました。弟はまた特許院書記長スカイラー・ズリーを呼んで、高橋を一同に紹介するよう申しつけました。

以後高橋は連日特許院に通って、ズリー書記長の懇切な指導を受けました。内務卿は高橋の便宜のため、とくに特許院自由参入券を交付してくれたので、その後は各部局に自由に出入して、帳簿のつけ方などを詳しく修得しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-7

一番感心したのはタイプライターの使用でありました。院長が用件を口述すると、速記士がそれを速記してすぐにタイプライターで打ち、見る見るうちに印字となって現れます。

このように高橋が一生懸命特許院で研究を続けている時、一等審査官補のジェームス・ビー・リッツルウッドという人から、日本政府の特許事務に雇われたしと九鬼公使まで申し込んできたといって移牒(管轄の違う役所へ文書で通知すること)してきたので、現在わが日本の専売特許法はただ内地人の発明を保護するいわゆる国内的のものたるに止まり、まだ外国人の顧問を必要とするの程度に達していないから、折角であるこけれども、日本政府においては雇入れの希望なしと返事しておきました。

このようにして実地研究のかたわら参好書類のごときも努めて蒐集しましたが、尚その詳細については、各部課の係員について聞かねばなりません。しかし係員の中には多数の婦人が交じっていて、女子との交際については少なからず苦慮しました。

婦人たちはよく高橋に「貴方はダンスをおやりですか」と聞くので、ダンスの稽古を始めようと思い付き、早速ダンシングの学校を探して入学を申し込みました。

校長はシェリダンという人で、その夫婦と娘さんが教師でした。男の弟子は少なく、女の方が多いようです。

 毎朝特許局にでかけるのが午前10時なので、その前の1~2時間を利用して教えてもらう約束をしました。授業料は1回2ドル、「私に踊りの稽古ができましょうか」と聞くと、シェリダン校長は「貴方は歩けますか」と逆襲してきました。「歩けます」と答えると、「そんならもちろん出来ます」といいます。

 そこには若い娘もおれば、人の妻君もいて、若い娘の中には特許局の婦人書記もいました。舞踏学校では独り特許局の婦人書記ばかりでなく、其の他多数の婦人とも懇意になりました。

ダンス学校を中心に、いろいろの挿話が生まれました。1月の末ころダンス学校へ行くと、懇意なリー嬢が「近いうちに貴方は大変ビックリすることがある」というので、「何です」と聞くと「貴方は外国人で、下宿におられるので、ごく内密に言っておきますが、近いうちに、サアプライズ・パアティが貴方の所へ押しかけるんです。それだけを貴方が心得ていらっさればよい」というのです。

 そこで下宿の主婦にサアプライズ・パアティとは何かと訊くと、それは男と女とが一組みになって一つの弁当の笊を下げて夜分に突然やってくる。そうして皆が持ってきた弁当は一緒にして列べておく。家の人でその席に出る人は同じく弁当の笊を用意して出しておきます。かくて参会の人々が集まると、ピアノを弾いたり、唄ったり、ダンスをしたりします。その後で男と女が籤引きで新たなパアティが出来、持ってきた弁当を籤引きでわけて一夕をたのしむ、なかなか面白いものだといいます。

YAHOO知恵袋―アメリカにおけるサプライズパアティー

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-8

ところがある日特許局に出ると、いよいよ今夜行くことに決まったと知らせてきたので、早速下宿の主婦にも知らせて、その用意をさせました。そのうちに赤羽も公使館から帰ってきたので、こちらでも二組のパアティを作り、一緒にでて、誠に愉快な一夕を過ごしました。

 また或る時、ダンス学校の校長シェリダンが「自分の子供弟子の親御さんたちから、子供たちに揃って日本服をきせてロシヤの水夫踊りを教えて貰いたいという注文があったので、家内や娘とも相談してみたが、日本服の見当がつかぬ、たまたま日本服の女子を写した写真があったので、それを見て工夫しているが、これでよいでしょうか」と、その写真を突き出されました。見ると芸人かなにかの子供の写真で、とても参考にはなりません。

ところが高橋は、その前に、ワシントンの教育博物館(スミソニアン博物館でしょう)で日本の女学校生徒がこさえた着物が6、7枚展示されてあったのを思い出したので、シェリダン師の娘さんを連れて博物館に行き、いろいろ説明して着物の着方や帯の締め方などを教えてやりました。

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するとそれをお手本にして、24、5人のお母さんたちが早速日本の着物をつくり出しました。その後きものができあがったので、娘たちに着せる稽古をするから、来て貰いたいというので、行ってみると。皆左前に着せてあったには噴飯しました。それで高橋が本当の着方を教えてやりました。

この舞踏会は4月と決まって、高橋にも是非それまでいて見て行ってもらいたいと云う話でしたが、日程の都合で、それを待たずに、3月の末日ロンドンに向け出発することになりました。

特許院書記長ズリーは親切な人で、高橋の米国における特許制度の調査が順調であったのは、この人のおかげです。同氏とは家庭的のも親密となり、彼の自宅は確かヴァージニア州にあったと思うが、しばしば晩餐に招待されることもありました。

 特許の取り調べを終えて、いよいよアメリカを去る前、また晩餐に招待されて、彼の自宅を訪問した時はちょうど末の男の児が生まれて間もないころでしたが、彼の夫人が「今別れてしまえば、高橋さんお名前はとても覚えておられない。末の子がまだ名前をつけていないので、これに高橋さんお名前をつけてもらったらどうでしょう」と云います。

 高橋も「それは大変結構だが、どっちを取りますか、高橋と是清とありますが、高橋は姓で、ブラウンとかスミスとかざらにある名前だ。いわゆるクリスチャン・ネームに当たるものは是清だが」というと、「そんなら両方を取ってコレキヨ・タカハシとしましょう」と末の子にそう名付けてしまいました。ところがその子が学校へ行くころになると、コレキヨタカハシでは長いので、平生(ふだん)は単に「コレ」「コレ」と呼ぶようになったと聞いています。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-9

 これから欧州大陸に渡らねばならぬから、英語のほかに仏語もドイツ語も解りません。それでは大陸の調査に不便であると考えたので、ドイツ語の独習書を買って独学を始めました。ところがこの方は独学でも一通りやれるという自信を得たのですが、仏語の方はどうも発音が困難で独学はとてもやれません。それでラロックという人に頼んで出教授してもらうことにしました。1週間に4回で、1箇月の謝礼が16ドルでありました。

 アメリカにおける取調べを終えて、いよいよ欧州に向かうべく汽船ネバタに乗り込んだのは1886(明治19)年3月30日、大西洋を10日航海して、4月10日午前8時リバープール港に着きました。

 高橋は行き当たりばったり主義で、港に着けばどうにかなるだろうくらいに考えていました。ところが船中で懇意となった人の話によると、船はリバープール港に着いてロンドンまでは汽車でゆかねばならぬ。だからあらかじロンドンの宿屋が分かっていなければ、船から揚げた荷物の届け先に困るから、上陸前に宿屋を決めておくがよいということでした。

 そこで高橋は船の中に備えてあった旅行便覧を見て、下宿屋を探すと、ちょうどポーチェスター・ガーデン7番地の下宿屋が、1週間30シリング乃至42シリングで泊めるという広告がでていたので、それを書き留めて、荷物はすべて船から直接そこへ届けさせることとし、ロンドンのチャーリングクロス。ステーションに着くと、直ちにいきなり馬車を雇って、そこへ乗り付けました。 

Weblio辞書―検索―チャーリングクロス駅

/ ベルを押すと、若い婦人が出て来て、「私は日本人だが、部室を一つ貸して貰いたい」と申し込むと、その婦人は「只今空いた部屋がございません」と言って奥へ引っ込み、やがて母らしい人を連れてきました。今度はそのお母さんが「どうして突然ここへ来ましたか、部屋はありませんが」と云います。

 「それは困る。部屋がなければ、どこかへ世話して貰いたい。もう荷物も、こちらに送りつけてもらうことになっている」と話しこんでいるうちに、この娘の父親が生前日本にいた話などが出て、母娘で何か相談していましたが、やがて母親が「大きな部屋があるにはありますが、長い間使用してないので整っておりません。一度ご覧になって下さい。」と云いました。行ってみると、なるほど大き過ぎて粗末だが、頼んで泊めてもらうことにしました。

 まず日本公使館を訪問、公使は河瀬真孝、書記官は大山綱介で、今夜公使館で在留日本人会が開かれるから出席せよと勧められましたが、荷物のことが気がかりなので断り、その会合に佐々木高美、園田孝吉両君が見えたら、自分の着いたことを伝えてもらいたいと高橋の名刺を置いて辞去しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-10

 翌朝早く佐々木君が来訪されたので、同道して日本領事館に園田孝吉を訪ねました。園田が「何処へ泊っている」と聞くので、事情を話すと、皆大笑いして、「そんな所より、僕の家へきてはどうだ」などという話もありましtが、好意を謝して辞退しました。

 ロンドンは在留邦人が多いので、賑やかに楽しく暮らしました。佐々木の下宿は以前末松謙澄のいたところで、主婦も大変な日本贔貭(ひいき)でした。よくそこで日本料理(といってもすき焼くらい)の御馳走になり、またその主婦が日本の歌を希望したので、高橋が「梅ケ枝の手水鉢」を亀甲万の茂木がピアノで伴奏、同じ文句を25回も唄いました。

Weblio辞書―検索―梅が枝節

  ある日やはり佐々木の宿で、日本公使館雇い英人某に紹介されました。高橋の特許取調べの話を聞いて、その英人がいうのに「英国政府に頼らないで、むしろ特許弁理士について学んだ方がよろしい。また近くイタリーで万国特許会議が開かれるので、イタリーへ行って多数諸国の特許関係の官吏ととも面会し、その人たちについて研究したらよかろう。

 ロンドンでは7~9の3箇月は皆他国二』旅行したり、地方に出掛けたりして不在になる人が多いから、この3箇月はロンドンを避けた方がよい。」また「英国の特許局の行政事務はほとんど研究の価値がない。アメリカのように、すべての書類について、調査することを許さぬかもしれぬ」と高橋の研究上すこぶる有益なる忠告をしてくれました。

 同年4月12~3日ころ、領事館に園田孝吉を訪問すると、近日井上勝之助夫妻のパリー着の報が来たので、園田夫妻は出迎えのためパリーへ行くという話でした。

 同時に谷(干城)農商務大臣もパリーに着くということであったので、それでは高橋も谷大臣に会うため、園田夫妻と同行してパリーへ行く約束をし、その後園田から同月23日午前9時40分にチャリングクロス・ステーションから出発する旨を手紙で報じて来ました。 

 園田領事夫妻と高橋は同日朝ロンドンをたって、その日の夕刻にはパリーに到着、停車場には三井物産の支店長岩下清周が出迎え、直ちにホテル・ペレーに案内してくれました。

  翌朝早く日本公使館に蜂須賀公使を訪ね、その時はじめて原敬に面会しました。彼は外務書記官として着任したばかりの時でした。

 近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー原敬

 谷農商務大臣は4月26日に到着、同月28日に谷大臣より、今度フランス大統領謁見の際、高橋も随員に加えておくからとの親切な話がありました。

 謁見を済ませるまでの間に、少しでも特許院の取調べを進めるために、蜂須賀公使を訪問、フランス政府に交渉を懇請、そのことにつき、原書記官らに相談しました。

 翌日商務省を訪問して特許局長に会い、英文で書いた質問書を手交、すると局長は「次の土曜日午後4時、通弁を連れておいでを乞う、さすれば質問に対して十分にお答えする」という話でありました。