幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-21

 このようんな経緯(いきさつ)で、やがて同藩の家老友常典膳と会見して正式に決定、そこで高橋はいくらかの月給を前借りして、その一部で洋服を誂え、他の一部で借財の始末をしました。もっとも本多らのために借りた250両の分は、すぐという訳にもゆかず、あらたに証文を書き直して、今後唐津藩から受け取る月給で元利を返すことになりました。

 高橋と一時結婚まで考え、高橋の祖母を引き取ってくれた東家桝吉の名にちんなんで、高橋は東太郎と名を変えて唐津に向かうこととなりました。

唐津へは家老の友常典膳も同行することとなり、顔見知りの意味で、一夕晩餐でも差し上げたいとて、誘われるままに、初めて吉原という所に連れて行かれました。

  いよいよ江戸をたって、海路神戸から真直ぐ長崎に向かい、長崎から鯛ノ浦を渡船し、轎(肩の上に担いで人を乗せるかごやこし)に乗って唐津の領内に入りました。藩では遠来の先生が着くというので、わざわざ少参事を遣わして、馬や轎を持って国境まで出迎えるという有様でした。

 その時同行したフランス式調練の先生が山脇という人、また喇叭の先生が多田という人で、いずれも幕府の侍でした。二人とも馬にのろうとしないので、高橋が馬に乗って急がせると、、轎は非常に遅れて、高橋が先頭で城下町に入り込みました。見ると路には一面に砂を盛って、箒目正しく掃除してあります。出迎えの人が襟を正して列んで実に大変な歓迎振りでした。

 かくて一行は城門前の御使者屋敷に案内され、夜になると40人ばかりの藩士が接待にやって来て、早速大広間で酒宴が始まりました。当時の風習として、かような宴席では、まず酒の飲み比べで人を敗かすことが、手柄のようになっていました。ところが山脇、多田両君とも酒を飲まぬため、高橋一人で40余人を相手に痛飲しなければならぬ次第で、これには高橋も随分弱りました。しかしそれが評判ろなり、歩兵の先生よりも英語の先生の方が偉いというもっぱらの噂となりました。

 高橋は早速城内にある士族邸を修繕して学校とし、直ちに50人の生徒を募集して授業を開始しました。ところが唐津藩では漢学と撃剣が盛んで、攘夷気分が濃厚でした。従って年輩者の間には英学に反対を主張するものも多かったのです。それに高橋が散切り頭に無腰という姿で乗り込んでいったことは、藩中に少なからず衝撃を与えたようです。

 ある日の夜、2~3人の藩士とともに城下に出て、一緒に酒を飲んでいると、その間に学校は火を出して焼けてしまったのです。これは反対派の放火であるといわれました。

 ちょうどその時、唐津藩主は東京に引っ越すこととなり、いままでの住居であったお城は空くこととなったので、高橋はこれを機会にお城を学校とする意見を出しました。幸いにして藩主も、藩の重役も、これに賛成したので、お城の御殿は耐恒寮(たいこうりょう 英学校の名))と変わってしまいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-22

 学校をお城に移転するとともに、生徒定員も250名に増加し藩費で養成することにしました。高橋自身の借財も皆済、月給100円という額は不要となったので、自分の取り分は60円とし、残りの40円は学校の維持費に繰り入れました。

 耐恒寮における高橋の教育方針は、大学南校でやったのと同じく、教室では一切英語で教えて、日本語はなるべく使わないようにしました。

「去華就実」と郷土の先覚者たちー 第3回 天野為之 第5回 致遠館 第6回 高橋是清と耐恒寮 第7回 辰野金吾 第8回 曽禰達蔵 第9回 掛下重次郎 第12回 大島小太郎

 しかし生徒の身になって考えると、習っている英語が外国人と対話するときに本当に役に立つのかどうか判断がつきません。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-23

ある時唐津の港に一隻の外国船が石炭を積みにやってきました。よい機会であるから、この際外国船へ連れて行って実地研究をやってはどうかとの注意もあったので、高橋はその船長の許可を受けて生徒たちをその外国船に連れていきました。生徒たちは学校で教わった英会話が本当のものであるということが分かって、一同大喜びした次第でありました。当時の初めからの生徒で、世に知られているのは、天野為之(「政治的良心に従います」-石橋湛山のの生涯―を読む5参照)博士、曽禰達蔵博士、工学士吉原礼助、裁判官の掛下重次郎、銀行家の大島小太郎らで、故人になった者には、化学者の渡辺栄次郎、工学博士の辰野金吾らがいます。

一方高橋は唐津に来てから、従来に増して酒を飲むようになりました。朝は教場に出る前に冷酒をやり、昼は一升、夜は学校の幹部などを集めて酒盛りをやるという風で、毎日平均三升ずつは飲んでいました。

 唐津藩の先輩で学校係の少参事であった中沢健作という人が、学校の一室を自分の部屋としていたが、ある日この人が、「東(あずま)さん、あなたは英学が堪能であろうが、まだ漢学をなさらないから惜しいことである。この際漢学をやってはどうです。失礼ながら私が御教授申そう」ということでした。高橋も「どうかお願い申す、何をやりますか」というと「まず『日本外史』(頼山陽の著作で漢文体の武家興亡史)からお始めになったらよかろう」ということでありました。 まず中沢に3度ばかり読んでもらい、その後高橋が自分で読んでみると、やはりところどころ読めません。やがて中沢に教わるのを止めて『玉篇』(部首別の漢字字典)を求め、夜酒を飲んだ後、毎晩3時間ほど学習、眠気がさしてくると、手の甲に灸をすえました。

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幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-24

1871(明治4)年12月(18歳)に末になると学校は休みになったので、唐津藩の鯨取りを見物にゆきました。当時まだ鯨捕りは藩営でした。一行3人でまず呼子(よびこ)へ行って船饅頭(売春婦?)などを素見(ひやか)して、なんとかいう島(小川島)に渡り、そこの庄屋の家を借りて鯨捕りを待つことにしました。

Weblio辞書―検索―小川島

 船場の側に見張所があって、そこには唐津藩の少参事が裃を着けて坐っています。その裏山の高台には旗が立っていて、そこから番人が始終望遠鏡で見張っていて、鯨が見えると旗が揚がり、下にいる鯨船が時を移さず出動することになっていました。

 島に渡ったのは大晦日の晩で、夜になったら、一人だけが寝て、ほかの二人は飲み続けることにしようと觴(さかずき)をあげていました。

 1872(明治5)年正月3日に鯨が捕れ、8人乗りの船が数隻艪櫂を揃えて、掛け声高く漕いでゆき、銛(もり)を鯨に投げつけます。いよいよ鯨が着くと、まず薙刀なぎなた)のようなもので、一尺四方ばかりの肉を切り取り、それを釜のなかに入れると、その後は島の者の取り放題になります。

 夜になると少参事からいろいろの鯨の肉を送ってきたので、それでまた酒盛りをはじめました。その取りたての肉を食べてみると、いつも唐津で食べているものとは、まるで味が違い美味しいものです。

 学校は正月の7日から始まるので、5日には城下に戻ってきました。今度は家老はじめ知人の所に年始に行って、行く先々で酒を飲まされ、5~6日と二日続きけて飲みあるきました。 7日は始業式で朝生徒を列べ、四斗樽を据えて、まず高橋が大きな丼で一杯飲んで、それを第1列の生徒に廻し次に他の列の生徒に廻しました。

 8日の晩、相変わらず酒を飲んで寝ると、俄かに胸が痛くなってとうとう喀血しました。皆大変驚いて、そのころ長崎から赴任した唐津の医学校兼病院の先生の診察の結果、「こりゃ大変だ、大酒をやっちゃいかぬというのに、飲み過ぎるからだ、これは酒毒だ、君はこれで命を取られるぞ」と威されました。

 約2週間ばかりすると、気分も良くなり、座敷の中を歩けるようになりました。しかし病後は酒の臭いが厭になりましたが、久しぶりに二階から下に降りて見ると、例によって教員たちが飲んでいました。

 「先生一杯いかがです」というから「いや、もう私は臭いからが厭になった」というと、その内の一人が「臭いが厭なら鼻を摘まんで飲みなさい」としきりにいうので、その通りにしたら、なかなかうまい、性こりもなくまた酒飲みになってしまいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-25

高橋は、すでに男子が英学をやる以上、女子もやって、大いに西洋の事情を究めておかねばならぬと力説し、婦人の生徒も募集することになって、曽禰達蔵博士の妹およう、友常典膳の娘おたい、ならびにふくの3名が率先して入学しました。

 かくして学校の基礎が確立すると、外国人教師も招聘しなければならず、図書も外国に注文して相当のものを購入する必要があり、それには万事フルベッキ先生に相談するのがよいと考え、高橋は間もなく東京にでかけることとなりました。

 高橋が東京に滞在中、唐津から二人の藩士が上京してきて、「先生のお留守中に大変なことが持ち上がりました。それは、今度唐津藩伊万里県に合併されることになって、その出張所が唐津に出来ました。藩の製紙事業の益金分配のことで不審な点について密告するものがあり、友常大参事はじめ藩の主なるものは皆伊万里県に拘禁され、その上に学校は閉鎖され、藩士はことごとく閉門蟄居を命ぜられ、藩の青年たちは全く途方にくれています。ついてはどうぞ早く帰って学校が開くようお力添をねがいます。それから伊万里県では耶蘇教の信者は斬罪に処せられることになって、先生も耶蘇教に関係がありはせぬかと取り調べているそうです。」と大変に慌てた様子でありました。

 高橋は直ちにフルベッキ先生に唐津の状況を報告、この際外国人教師の招聘だけは中止を願い、耶蘇教信者に対する道理のない処分や学校の復活については先生から政府筋へ申し入れてもらいたい旨依頼し、高橋自身も内務省へ行って、このことを陳情しました。

 内務省では「そりゃ伊万里県のやり方があまりに酷いようだ。これ以上大げさにならないよう、こちらから指図をしよう」という話でした。

 高橋は東京から長崎へ急行し、長崎から唐津までは昼夜早轎で押い通し、唐津へついてみると、町も城内もヒッソリとして全く寂れています。

 高橋は伊万里県の唐津出張所へ行って、その乱暴な処置に厳しく談判すると、出張所では「そんなことなら学校だけは開校してもよい」ということになり、学校は1週間ばかりの内に再開されることとなりました。

 しかし伊万里に拘禁された友常らの赦免はなかなか出そうもなく、高橋は拘禁されている者に小遣銭を送る手配をしました。友常は自殺を企てましたが、未遂に終り、彼等はやがて赦免されて唐津へ帰ってきました。1872(明治5)年のことです。

 駅逓寮の前島密がら鈴木知雄にだれか英語のできる者はいないかと頼みがありました。、

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー前島密

 1872(明治5)年‘19歳)の秋、唐津の耐恒寮を辞職して東京へ戻ると、鈴木が高橋を前島に紹介、前島は高橋に「郵便の事務は始まったばかり、その内に外国人も来ることになっているから、そうなれば君はその通訳をやってもらいたい。それまでは差当りアメリカの郵便規則を翻訳してもらえば結構だ。」ということでした。高橋が承諾すると早速大蔵省に呼び出され、時の大蔵大輔(たいふ)井上馨から大蔵省十等出仕という辞令を渡されました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-26

 しかし前島がもう一人通訳に適当な人物を探してほしいというので、かつて大学南校教官時代の同僚であった鴨池宣之を紹介し、採用と決したにもかかわらず、前島は高橋さえ不用なのにもう一人不要なものを作るわけにはいかぬと衆人環視の場で放言したため、高橋は憤慨して辞表を提出しました。以後駅逓寮のことは高橋の履歴書には一切書かぬことにしています。

大学南校はだんだん整備されて法学、理学、工業学、諸芸学、鉱山学など立派な学問を教える開成学校となりました。

Weblio辞書―検索―開成学校―箕作秋坪

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー佐佐木高行―すー末松謙澄

 それで高橋もも少し修業せねばならぬと考え、試験を受けて開成学校に入学しました。

高橋は以前と同様にフルベッキ先生の所で御世話になっていましたが、ここに佐々木高行令嬢静衛(しずえ)がフルベッキ先生のお嬢さんに英語を習いに来て居たのです。そしていつも静衛さんのお供をしてくる一人の青年に高橋が声をケテ懇意になりましたが、この青年が豊前出身の末松謙澄でした。

 そのころの高橋が生活費をどうしていたかについて述べると、開成学校で経済科を担当する教師ドクター・マッカーデーから『玉篇』の読み方をローマ字で写してくれと頼まれ、その報酬として月10円をもらっていました。それから同じく開成学校の理学の先生グリフィスが『膝栗毛』などを口で翻訳させて、それを自分で筆記していました。弥次郎兵衛、喜多八の五十三次ですから、随分卑猥な話も同先生は聞いていたのです。この方からも月10円の収入があり、合計20円がそのころの高橋の学資でした。食費はすべてフルベッキ先生が負担してくれたのです。

政府は1872(明治5)年5月東京師範学校を創立し、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)を校長にして官費生を募集、末松は同師範学校入学試験に合格、入学を予定していました。将来小学校教師になるつもりだったのです。

高橋は末松に、小学校教師になってもつまらない、末松が同師範学校に合格したのは漢学の素養があったじからだ、これから洋学をやてはどうか、と勧めました。ところが末松は、そうしたいけれども、自分には学費がないから駄目だ、と答えます。

 そこで高橋は「よし、そんな事情なら、英学は私が教えてやろう、その代り君が漢学を教えたまえ、毎日君がお供をしてここで待っている間にやればよい」といい、二人の意見が一致して、英学と漢学の交換教授がはじまりました。

 高橋はいきなりバレーの『万国史』から教えはじめましたが、末松の進歩はまことに著しいものでした。末松はいよいよ師範学校入学の時期がきましたが、彼もとうとう同校入学を思い止まる気持ちになり、佐々木高行夫人に相談すると、大変なpお叱を受け、もうお前のお世話は一切しませんと言われました。末松はそれから師範学校の箕作校長の所に行って同様のことを話すと、これまた大変に叱られました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-27

高橋はこの話を聞いて箕作校長の所へ押しかけ、大激論の結果、とうとう末松の入学辞退を許してもらうことになったのです。

 末松が師範学校をやめてしまうと、お互いに学資を稼がねばならぬので、高橋は二人で西洋の新聞を翻訳し、それを日本の新聞社に売りつけてみようじゃないかと提案しました。

当時の新聞の記事を見るとどれも日本の記事ばかりで、外国の事情などは載せていませんでした。それで高橋はフルベッキ先生の所には英米の新聞がたくさん来ており、なかでもロンドンの絵入新聞にはなかなか面白い記事があるので、高橋が読んで口で翻訳するから、末松はそれを文章に書き直すことになりました。

 そこで翻訳記事の見本を各新聞社に持ち込みましたが、いずれも見事に断られました。

最後に日日新聞に行くと、偶然にも岸田吟香に出会いました。この人は高橋が横浜でヘボン先生に英語を習っていたとき、先生に漢字を教えにきていたので、先生の邸内でしばしば顔をあわせたことがありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―きー岸田吟香

 この岸田とその下にいた南喜山景雄に相談すると、「こりゃ面白い、一つお頼みすることにしよう」ということになりました。

 ある日同新聞に高橋、末松の手になつ文章が掲載され、末松は大喜びしました。月末になったので料金を受け取りに新聞社に赴くと、南喜山がいくらほしいのか、と訊くので、

50円ほしい、と答えると、文句もいわず、50円支払ってくれました。これが慣例となって、以後翻訳記事が新聞に掲載されてもされなくても、月50円渡してくれました。

 佐佐木夫人から家庭教師を頼まれ、高橋はフルベッキ先生の所を出て、佐佐木家の長屋に引っ越し、祖母や弟妹と一緒に住むことになりました。ただ末松はまもなく佐佐木邸をでて下宿生活をするようになり、一人で外国新聞の翻訳を手掛けるようになったのです。

森有礼は駐米1年有半、1873(明治6)年7月に帰朝、明六社を創立してしきりに我が教育の振興を絶叫していました。

脚気が回復して高橋が久しぶりに森を訪問すると、「このごろ何をしている?」と訊ねるので、「只今開成学校に入学して修業しています」と答えましたが、森は「お前などはもう生徒の時代ではない。幸い文部省にモーレー博士を招聘したが、その通訳がいないので、文部省に出て、その通訳をやったらよかろう」と言われ、高橋は文部省に入省、十等出仕に任命されました。時に1873(明治6)年(20歳)10月のことです。御用召の日は佐佐木老侯の燕尾服を借りて出頭しました。役人になったので芝の仙台屋敷の長屋に引っ越しました。

高橋には異父妹香子(かねこ)がいました。高橋が14歳でアメリカへ旅立つ間際に、祖母が塩肴屋の高橋幸治郎の所で香子と対面させて、兄妹であることを明かしてくれたのです。高橋が文部省に入ると、高橋の家と同じ芝の新銭座の塩肴屋から香子は祖母に連れられて高橋の家にやって来ました。丈も高く色白のきれいな児で、芸妓屋から話を持ちかけられたということです。

 塩肴屋は富裕ではなく、香子を外に出したがっているという話を祖母が聞いて、彼女をこちらに貰いきったらよかろうと云いだしました。

それで早速塩肴屋と交渉、向うも承知して香子は高橋の方へ引き取ることになりました。

 香はそのころ九ツくらいで、祖母のシツケが随分辛かったらしく、時々逃げて帰るようなこともありましたが、祖母や高橋が云い聞かせて逃げ帰ることもなくなったのです。

 当時末松の友人で艣松塘(ろしょうとう)という詩人の娘采蘭とかいう先生がいて、香はそこで行儀作法や漢詩を作ることを仕込まれたこともありました。

 仙台屋敷の向う側に秋田の屋敷跡があって、二本松の林正十郎という人が買いとり、その四隅に大鳥圭介ら函館の敗将を住まわせていました。その一人荒井郁之助の構内に篠田雲鳳という老女史が住んでおり、彼女は開拓使の女学校の先生で、自宅には数人の熟生を置いて世間の評判もよいので、香を雲鳳の塾に入れ、漢書と習字を仕込んでもらいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-28

 その熟生の内に西郷お柳(戸籍面ではフジ)という女が居て、大変によく妹の面倒をみてくれました。、高橋の祖母もこの女のことをよく知っていて、高橋が少しでも早く妻帯したらよかろうと、祖母はひそかに探していたので、この女に眼をつけて、「いかにもよい女と思うが貰ってはどうだ」という話でした。「祖母さんさえよろしければ、私はチットも異存はありません。どうか貰って下さい」と高橋が言って賛成しtので、、とうとうこの女と結婚することになりました。、これが1876(明治9)年(23歳)のことであります。

 高橋が文部省勤務当時、開成学校の校長に伴正順が任命されましたが、それ以前から同校教員にはいかがわしい人物が雇用され、甚だしい例として、外人の屠牛所の親爺が教員としてはいり込む有様でした。

高橋はこの状態に憤慨して、喬木太郎の変名で日日新聞紙上に校規紊乱を攻撃しました。当時の文部卿は西郷従道でしたが、万事文部大輔の田中不二麿に任せきりでした。

 田中が外人に会いに行くので、高橋が通弁として随行することになり、馬車に同乗して出かけました。馬車の中で喬木太郎の開成学校攻撃の話が出て、高橋が伴氏は校長に不適任であることを指摘すると、田中は「じゃだれを校長にしたらよいか」と尋ねるので、「今私と一緒にモーレー博士に附いている先輩の畠山義成君が校長になれば、学校もよくなりましょう」と答えました。畠山義成は洋行した一人でモーレー博士とは米国時代から懇意でした。またクリスチャンで温厚は人柄でした。その後伴氏の代わって畠山義成が開成学校の校長になると、開成学校は初めて事実上の専門学校の体をなすにいたりました。

この時文部省には視学官が4~5人居て終始全国に出張、教育の状態を視察してその報告書を出していました。それを皆高橋が翻訳してモーレー氏に伝達していたのです。モーレー氏は我が国教育制度確立のために文部省に雇用されたのですから、わが国の事情を理解してもらって、日本の歴史と国民性に適応した制度組織を作ってもらわねばならぬと努力したのでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-29

 元来モーレー先生が日本へ来るきっかけになったのは、アメリカで伊藤博文に知られ、たか、少なくとも伊藤が口切りをしたように聞いています。或る時伊藤夫妻の晩餐会に招待されて出席した時、夫人同士の談話は高橋が通訳しました。

 1873(明治6)年(20歳)の末ころであったと思います。勝海舟の屋敷が赤坂氷川にあったとき、モーレー博士が一度勝先生に挨拶したいということで、先方の都合を聞いてある日訪問することになりました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー勝海舟―はー馬場辰猪―まー正岡子規―めー目賀田種太郎

 モーレー博士はアメリカで勝小鹿(勝の令息)の数学の先生でありました。それで今度来日したから令息の消息を伝えて安心させたいというのが訪問の主旨だったのです。

玄関に取次に出て来た人は16~7歳の木綿の着物をきたきれいな娘で、式台に両手をつき、静かにモーレー博士の挨拶を承って、しばらくお待ちくださいと奥へ退く様子がいかにも気高く落ち付いていました。

やがて粗服の上に木綿の小倉袴を着けた一人のお爺さんが素足で出てきて「どうぞ、こちらへお靴のままで」と安内します。玄関を上がって右の方へ行き座敷に通ると純然たる日本家で、縁先近くに卓子があって、その周りに椅子が3つ列べてあります。

「さあ、お掛けなさい」と案内人はまず来客に勧めて、やがて自分も椅子に掛けました。モーレー博士も高橋もこの老人は勝家の用人だと思っていたのですが。実は勝海舟その人であったことが判ってびっくりしました。

モーレーが丁寧な挨拶をして小鹿の詳しい報告をし、高橋が通弁していると、相当年輩のお婆さんが白襟黒紋付の上に裲襠(うちかけ)を着て、着物の裾をひきずりながら静かにその席に現れました。すると勝はモーレーに「これが私の妻で小鹿の母です」と紹介します。

 モーレー博士は奥さんに対しても繰り返し小鹿のことを報告しましたが、その間夫人は腰も掛けずに立っておられるので、高橋が椅子から離れて、「これにおかけ下さい」と申しても、とうとう掛けられなかったのでした。

 それからまた勝とモーレー博士の問答となりました。勝は「ちょうどよい機会だから、かねて自分で解きかねている問題を2~3お尋ねしたい」と言って、質問したのですが、高等数学ですから、当時高橋は一切通弁できませんでした。すると勝は紙と硯を持ってこさせて、オランダ語か何かで、紙の上に図を引っ張り、手まねで聞くと、モーレー博士も紙の上で答えます。しばらくして勝家を辞去しました。

文部省に戻って同僚に「一体あの女中は何だろう」とというと、勝海舟の令嬢だということでした。その時のお嬢さんが故目賀田(種太郎)男夫人であったと思います。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-30(最終回)

1875(明治8)年(22歳)10月、モーレー博士は博覧会の要務を帯びて外国へ出張することになったので、高橋も大阪英語学校長に転勤を命ぜられました。しかし高橋は、そのころ一切の公職から引退していた後藤常(一条十次郎)の影響をうけて、大阪英語学校長を辞職、文部省内で高橋は気狂いになったと評判になったほどでした。だがやがて後藤とは意見がくい違うようになり、高橋は東京英語学校の教官になりました。これが1876(明治9)年(23歳)5月のことです。

これよりさき、モーレー博士が文部省へくるという噂がたつと、フルベッキ先生はもう自分はいらなくなるだろうから、小さくとも自分の家を持ちたいと高橋に相談をもちかけました。その当時は条約改正以前で外国人の不動産土地所有権は認められず、高橋に不動産の名義人になってもらいたいと博士に頼まれ、引き受けました。

そこで駿河台の鈴木町の日本家を買いとることになりました。そこの広い空き地に木造二階建ての洋館を建築してフルベッキ先生はここに移り住み、空いた日本家のは高橋が居住することになったのです。長男の是賢は1877(明治10)年ここで生まれました。

翌年フルベッキ先生は帰国することになり、この家は茅野茂兵衛に買いとられ、高橋は茅野の二階に引っ越しました。

 すでに1873(明治6)年9月征韓派が下野、翌年1月には板垣退助らが民選議院設立建白書を公表、佐賀に兵乱がおこり、世情は険悪となりました。しかし政府は諸般の改革をすすめていったので、これに反発して起ったのが熊本の神風連、秋月、萩の乱などであります。

東京英語学校在職中、高橋は討論会を起こして時事を論じ、馬場辰猪の自由貿易論に対して、保護貿易論を主張したりしましたが、やがて同校長排斥問題で辞職してしまいました。その後翻訳などで収入を得ながら、大学予備門に勤務するようになり、一時は廃校となった共立学校を再建、これが後の開成中学校の前身で、多数の大学予備門受験生を教えました。

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この時の教え子でのちに有名人となった正岡子規のような人も少なくありません。

坂の上の雲登場人物―高橋是清―高橋のエピソード(共立学校、文部省勤務)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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