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幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-11

  やがてブラウン老人夫妻は「自分たちは清国へ行くことになった。自分の親戚で桑港の税関に勤務している親切な人がいる。お前はそこへ行ったらよかろう。そうしたら昼間は主人について税関の仕事の手伝いをしながら事務を覚えられる。夜や暇なときには、その家のお嬢さんが家庭教師を呼んで勉強しているから、それと一緒に学問を教わることが出来る。是非その家に行きなさい」と言って20ドルの金貨をくれました。それで高橋もいわれるままに承知したのです。

 やがてブラウン一族が清国へ出発するとき、高橋は桑港の埠頭まで見送りに行きましたが、そこに親戚の税関吏も来ていて、「御前も一緒に来て税関の仕事を手伝え、そうすれば仕事も覚えるし、語学の修業にもなる、また書物の勉強がしたいなら、自分の妻や娘と一緒に勉強したらよかろうと言って、生活用品などを買って、高橋の部屋も用意してくれました。

 その晩一条に上記のような事情を話すと、「それもいいけれど、今度行けばまた3年間はおらにゃならぬぞ、それでは何時まで経っても学校には行けぬぞ。このまま行かずににおれ」とそそのかします。高橋が「だがせっかく親切にしてくれるのをほったらかすのは気の毒だナァ」というと、一条は「向うでは御前を奴隷として買ったつもりでいる。南北戦争以来奴隷の売買は法度になっているのに、向うはその国禁を破っているのだから、こっちに言い分はいくらでもある、行かずにおれ」と引きとめました。それで高橋も決心して、そのまま行きませんでした。

 そのころ佐藤百太郎という人が日本茶や日本の雑貨を売る米人の店に勤めていて、横浜時代ヘボンの所に稽古にきていた仲間の一人でした。高橋はこの人の所へ行って事情を話したところ、佐藤の勤める店は人手不足で困っているところで、高橋はこの店で働くことになり、この店に引っ越しました。

 高橋がアメリカでそんなことをしているうちに、日本では非常な変転が行われていました。1866(慶応2)年12月孝明天皇薨去、翌3年正月明治天皇践祚、同年10月14日討幕の密勅が薩長両藩にくだり、同日徳川慶喜は政権を朝廷に奉還しました。

 故国でこのような騒動が起こっているとは思いもよらず、高橋は佐藤の店で売り上げ品の配達をしていたのですが、そこへ日本から『もしほぐさ』という当時の新聞が届きました。

Weblio辞書―検索―もしほ草

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-12

 それによると、徳川家の処分に対して不満を抱く一部の志士は彰義隊と号して上野に立て籠り輪王寺宮を奉じて官軍の命令を拒んだのです。そこで官軍は5月15日上野を攻撃、火を寛永寺にかけて、これを陥すに3日間もかかったと書いてありました。一条や高橋らは上野に3日かかるくらいなら、徳川方が勝つようになるかもしれぬと話し合いました。

 そのうちに維新の戦争のことがだんだん判ってきたので、ニューヨークへ行っていた富田・高木らは日本へ帰ると言ってやっきました。戦いが始まったから、一度様子を見てこねばならぬ。しかしいきなり自分たちが日本へ帰るのは少し危険だから、ひとまず上海に着いて、様子を聞いた上で日本へ帰れるようだったら帰ろう、もしいけなかったら、こちらに引き返すことにするから、君らはそれまでここに留まっておれと云いました。

 ところで高橋は一条とともに、実は自分はこういうわけで奴隷に売られていると経過を話したところ、富田も非常に驚いて、それはまず第一に契約書を取り戻さねばならぬと、いろいろ相談の結果、藩から命令を受けたことにして、当時幕府から桑港の名誉領事を嘱託されていたブルークスに訴えてみることにしました。

Weblio辞書―検索―名誉領事

 そこでブルークスは双方の言い分を聞くために、ヴァンリードを呼んで尋ねることとなり、ここに対決が始まりました。ところが富田・一条両人とも英語が十分にできません、高木がいくらかよく話せたっけれども、その対決を高橋が聞いていると「自分たちの言うことが道理である、だから自分たちの請求する通り契約を破棄することを御前が承諾するのが当然だ」という意味のことを言っているのですが、言葉が不十分で発音が拙いために、ヴァンリードはアグリー(同意する)という言葉をアングリー(怒る)と聞いてしまって、紳士に向かって怒っているという、いやそうじゃないという言葉の取り違いで、両方ともなかなか折れません。しかし終いにはそれが誤解であるということが判って、互いに大笑いになったような始末でありました。

 さて対決の結果はどうなったかというと、こちらからは第一仙台藩から高橋、鈴木両名分としてヴァンリードに渡してある金の清算書を見せて貰いたい、第二には奴隷の契約を破棄して貰いたいということをも申し出ました。するとヴァンリードは、自分は金を受け取っている。しかし高橋をブラウンの所へ3カ年期50ドルの約束で売ったのは横浜から桑港までの渡航費50ドルが立替えてあるためだといい抜けました。そこでブルークスがヴァンリードの立替えた50ドルはこれを返すこととし、同時に身売りの契約は破棄するということに採決され、高橋は天下晴れて自由の身となりました。

 さらに鈴木もヴァンリードから連れ戻すと、富田らは桑港をたって帰国の途につき、高橋は富田から便りがくるまでに、出来るだけ金を作っておかねばならぬと、相変わらず佐藤の店で品物の配達をして働いていました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-13

この時越前の医者某が維新の騒ぎで二束三文になった品物を買倒して、それをアメリカに持って来て一儲けしようとしました。その通弁として来たのが城山静一という宇和島藩士でした。

 ところが城山が着く少し前桑港の新聞に、今度日本政府から城山という領事が来るが、それはハワイにいる劣悪な労働条件で雇用された日本人を救いに来るのであると書いてありました。それで高橋らは城山を迎えに行き、一条の下宿に連れて来て新聞記事の話をすると、城山は驚いて、「じつは自分も医者もヴァンリードの世話で来たのだ。ヴァンリードがそんなに悪い奴なら、ここにいてはどんなひどい目に会うかもしれぬ、俺は帰る」と云い出し、それで早速医者と縁を切って高橋と同居することになりました。

 富田らは帰国した後何の音沙汰もなく、いつになったら便りがくるのか想像もつきませんでした。それに維新後の様子もまったく判らないので、高橋らは相談して、ひとまず帰国することに決めました。城山は医者と縁を切ったので無一文になっていたのですが、幸いにヴァンリードの立て替えを清算した残金が一条の手許にあったので、その金で一条、鈴木、城山、高橋4人の船賃(一人50ドル)を払い、また出来合いの新しい洋服を1着ずつ買い求めました。それでもなお一条の手許にはいくらかの余裕があったようです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-14

 船に乗り込んでから事務員に「どう、50ドルの切符で、清国人と一緒でない部屋へいれてもらいらい」と頼むと、高橋らの申し出に対して、「今は忙しいから、船が出たら取り計らう」ということでした。

 船が金門湾を出ると、船員が来て、部屋に案内してくれました。その部屋にはダブルベッドが三つ、3段になっていて、中央のベッドには、すでに大きな清国人が陣取っていて、高橋ら4人には上下の寝台が割り当てられていました。

 狭い部屋に夜締め切って寝ると窮屈で、それに清国人はしきりに鼾(いびき)をかき、無遠慮に放屁します。

 これをどう対処したらよいか4人で相談、城山が、まず上の者は紙屑でも果物の皮でも何でもよいから棄てる振りをして真ん中のベッドに落とすがよい、また下の者は下から足で突っ張って、清国人を寝台から突き落したらどうじゃと云いました。これに全員賛成して、その晩から早速実行、清国人は驚いて、一人は寝台から転げ落ちました。彼等ははじめ漢語で文句をいっていましtが、しまいには御機嫌を取り出し、果物などを高橋らに持ってくるようになり、結局彼等と仲好くなりました。

 船中では禁止されているのに清国人の多くは賭博をやっていました。船の事務員の承認を得て、高橋ら4人は船内を巡回して賭博を取り締まることになりました。殊に城山は大小を差して、ときにはそれを抜いて見せたりして威したりしたので、すこし薬が効きすぎて、城山らが賭博の現場に行きあたると、彼等はすぐに果物などを持って来て愛想をふりまくようになりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-15

。かくして城山、一条、鈴木、高橋の4人がいよいよ横浜に着いたのは、1868(明治元)年12月でした。これより先1867(慶応3)年高橋と鈴木がはじめて洋行するとき、幕府から貰った渡航免状には、彼等の身分は仙台藩の百姓ということになっていました。城山はそれを見て仙台藩は維新の戦争で賊となっている、このような免状が荷物の中にあっては上陸の際面倒だ、というのでその免状は海の中へ投げ込みました。船が碇を降ろすと運上所の人が乗り込んできました。

 旅券は海の中に投げ込んでしまったので、関門の通過が大問題です。それで高橋ら4人は相談して、荷物を持たずに新調の洋服姿で上陸することにしました。城山は「なるべく英語で話しながら外国人の真似をして関門を通りぬけ、神奈川の富田屋という宿屋へ行って待っておれ、俺が3人の荷物を始末して後から行く」というのでした。

 3人は船から上陸すると、ことさらに英語を使い、運上所の前では西洋の歌などを歌って、咎められることもなく神奈川の富田屋に落ち着くことができました。城山が姿を現したのははや正午過ぎで「実は荷物の検査で、高橋の行李からピストルが出て、それで大変手間をとった。一体何であんなものを持っていたのか」と訊くので、高橋が渡米するとき祖母から贈らてた短刀を、米人に頼まれてピストルと交換したもおのをそのまま行李に忘れていだと答えました。

 翌日3人は城山とともに江戸に入り、露月町までくると、高橋の生家川村の家がありました。一条に「ここが自分の実父の家だが、今はどうなっているかナァ」というと、一条は「そりゃいい塩梅(あんばい)だ、川村でお前一人だけでも隠まってくれればよいが、俺がちょっと行ってかけあってこよう」と門の中へ入っていきました。

 まもなく出て来た一条は「どうも様子を見ると、頼んでも駄目のようだ、聞けば川村の家も、近く引っ越さねばならぬということだ。」といいました。城山は「それじゃあもう俺たちの行く所は牛込の汁粉屋よりほかにはない」というので、他の者は別に当にする家を持っている者もないから、一同揃って城山の行く方向についていきました。

 牛込堀端田町の汁粉屋の家の裏に小さな二階建ての隠居所があり、それを城山が主人から借り受け、高橋ら3人はここに閉じこもることになりました。

 約一カ月ほど後、城山が3人のことを森有礼に話して世話を願うことにしてくれました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―もー森有礼

  森有礼は西洋から帰って朝廷の役人となり、外国官権判事に任ぜられ、神田錦町に住んでいました。1867(慶応3)年森が欧州から日本へ帰る途中桑港を通過し、一条や鈴木はその際森と会っていて顔み知りでした。そこで森は3人の世話を引き受け、自分の邸内に引き取りました。その時3人が従前の名前でいては危険だからといって、森自身で鈴木を鈴木五六郎、高橋を高橋和吉郎と改名、一条は自分で後藤常(つね)と変更しました。この時(明治元年)、高橋が15歳の時のことです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-16

 森有礼は当時23歳、まだ独身で家には会計係として18~9の若者と飯焚き夫婦がいるだけでした。5~6日たつと、森は高橋らを呼んで「俺が英学を教える。俺は忙しいからみなに一々教えるわけにゆかぬ。お前らの内で一番覚えのいい者一人だけに教える。それに当った者はよく覚えて、それを他の者に教えねばならぬ」といい渡されました。その一人に計らずも高橋が選ばれました。

 1869(明治2)年正月大学南校が出来たので、森はもう俺が教えなくてもよくなった、御前らは学校に入れといわれ、高橋らは3人ともその手続きをしましたが、3人とも英語が読め話が出来るというので、横浜の居留地で道路の技師をしていたハーレーについて学ばされ、同年3月語学がよく出来るということで、3人とも大学南校教官三等手伝いを仰せ付かりました。

Weblio辞書―検索―大学南校

 高橋らが帰国したことはいつしか国許の仙台にも知れ渡っていきました。鈴木六之助の実父古山亀之助が藩用で上京、噂を便りに鈴木らの住居を江戸中探し回りました。高橋の祖母もそれを聞くと単独でも上京すると云いだしましたが、老人が一人ではいかぬ、いずれ家族纏めていくからといってやっと思いとどまらせたそうです。

 古山は尋ねあるいてついに錦町の森邸に居ることを突き留め鈴木と高橋を訪ねてきました。二人が森に世話になっていることを告げると、古山は二人がこんなに息災でいることが判った以上、、自分は国許に急ぎの用があるといって帰りました。、

 鈴木の実父に居所を知られたので、自然と江戸藩邸の人々にもそれが伝わったと見え、ある日江戸詰の浅井利平と云う祖母と懇意な人が訪ねてきて、「今(旧仙台藩主)楽山公(伊達慶邦戊辰戦争に敗北、明治新政府に降伏)、芝の増上寺に蟄居しておられる。二人がアメリカから帰ったことを申し上げたら、会いたいとの思召しであるから、お目見得したらよかろう」といって、その手続きをしてくれました。

 それで高橋と鈴木はアメリカより帰りたての洋服を着て浅井に連れられ増上寺に罷りでました。八畳敷ばかりの狭い部屋に通されて控えていると、そこへ楽山公が二人の家来を従えて入ってこられました。それで浅井が二人をご紹介申し上げ、高橋と鈴木は坐ってお辞儀をしました。楽山公は起ったままでしたが、側におった侍が洋服のネクタイを首巻と思って静かな声で「御前の前だから首巻は取ってはどうじゃ」といいます。

 「これはネクタイでありまして附けているのが礼であります」と申し上げると「そうか」といって顧みて笑ったような有様でした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-17

 それから楽山公が「何年修業していた、あちらはどんな風であったか」とお尋ねがあったので、それぞれお答えしました。すると楽山公がさらに「外国の詩を作るか」と仰せられたので、「とても我々は未熟で詩などはつくれません」「それじゃ詩吟をやれ」といわれたので二つの詩を朗吟しますと「そうか」と大変ご満足のご様子でした。そうして「なお今後も学問をして朝廷に忠義を尽くせ」と仰せられ、側近に手当の支給を命じて退出されました。しかし高橋らはお手当支給を辞退いたしました。

 1870(明治3)年初めころから森有礼は廃刀論を主張、森排撃の声は同郷の鹿児島からも巻き起こり、彼は故郷に帰ることを決心するに至りました。高橋らは依然として大学南校に奉職していましたが、政府は長崎にいたフルベッキ博士を大学南校教頭に任命、博士は校内に居住したので、高橋らも博士について歴史の回読をし、高橋は傍らバイブルの講義を聴いて自然にキリスト教信者の一人となりました。

フルベッキ考

  同年森は勅命により再び鹿児島から出て、今度は小弁務使(代理公使に相当する外交官)としてアメリカに赴くことになりました。彼はアメリカへ赴任するにあたり、高橋のことをフルベッキ博士と当時の大学大丞(明治新政府が直轄する教育機関および教育行政を統括する官庁である大学校の次官)であった加藤弘之に託して出発しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー加藤弘之

 高橋も一心不乱に勉強して、他日森が適当な機会に呼び寄せるといわれ、その日の来るのを楽しみにしていました。

 ところがっふとしたことから魔がさしてきました。1870(明治3)年(17歳)の秋のころ、高橋はすでにフルベッキ先生の許に引き移っていました。ある日高橋が学校から自分の部屋に帰ると、あまり懇意にしていなかった3人の立派な人が来て待っています。

 いずれも大学南校の下級生徒で、外人教師の役宅に住んで居る元越前藩の家老職であった人たちの息子―本多貴一、本多丑之助、駒與楚松の3人でした。「何の用事で来たのか」と聞くと、「実は今度グリフィス教授を福井藩の学校へ雇い入れることになったので、本多貴一は博士に附いて国へ帰れという命令が来ました。折角修業に出たのに今引き揚げて帰ることは誠に残念ですが、、3人があまりに勉強を怠って遊んでいたことが判ったからです。しかも困ったことに借財があって帰るにも帰られず、途方に暮れています。ついては貴殿の御配慮で何とかして、一時借財を返す工夫は出来ないでしょうか」という依頼でした。

 

 

幸田真音「天佑なり]を読むⅠ-18

 高橋がどのくらい借金があるのか訊ねると、250両必要だとのこと、高橋はそんな金は自分にはないが、幸い私の遠い親類筋にあたる商人がいるので話しをしてみようと言って早速浅草の牧田万象という商人に頼んだところ、方々をかき集めて2~3日中に用たてましょうと言ってくれました。

 翌日になると合計250両を揃えて持って来てくれたので、高橋がその借り手となって証文を入れ、3人を呼んでこれを渡すと、彼等は大いに喜んで礼を述べ、帰りました。

 しかるに数日を経ると、3人がまたやってきていうのには、藩の大参事が「君達も折角親から修業にだされたのに、今帰っては不本意だろう。しかし今後全く改心して勉強する気なら今度だけは自分から願って親から許しを受けてやろう」といってくれ、帰国しなくてもよいことになりました。ついては大金をを都合して頂いたお礼に一夕お招きしたいと云います。「さて夕飯はどこは行くのだ」と聞けば、両国の柏屋ということでありました。

Weblio辞書―検索―参事

 高橋が立派な日本の料理屋へ行ったのはこれが初めてで、本式の座敷で芸妓(げいしゃ)を見たのも、この時が初めてです。その夜主賓として招待されたので、3人は極めて鄭重に高橋をもてなしました。

 宴席の万端のことは越前の商人福井屋が周旋してくれました。3人はいずれも芸妓とはお馴染みと見えて、高橋がフト気が付くと、自分が主賓であるにもかかわらず、何となく廻りのものから疎んぜられ、軽蔑されているような風が見えます。

 そこで気を付けてみると、3人はいずれも美服で縮緬の着物や羽織を着て、博多の帯や仙台平の袴をつけています。腰のものを見ると、彼等の大小はいわば黄金造り、高橋の刀も一緒に並べてありましたが、高橋の大小は柳原へ行って1両2分で裃大小を整えてきたものでした。それに高橋の身装は木綿の着物に小倉の袴です。いかにしても見劣りします。いざ引上げということになると、3人の刀は芸者どもが紫の絥紗様のもので捧げながら玄関まで持ってでたのですが、高橋のものだけは床の間に投げ出されたままでした。

 招かれた以上こちらも返礼せねばなりません。あの茶屋で、あの芸妓達を呼んで御馳走してやろうと、福井屋(当時日本橋の銀町に古着渡世をしていた福井数右衛門)を呼んで、あの3人が着ているような着物や袴を作らせ、鍍金でよいから黄金造りの太刀を整えさせて、芸妓には少しばかりの御祝儀を振舞って、新年の元日の夕刻から3人を招待することにしました。今度は高橋も何ら3人と異ならない待遇でありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-19

 3人は歌を唄ったり、踊ったりしますが、高橋はそんな真似はできません。そのころは踊りといっても角力甚句の踊り、唄といっても維新後の流行唄くらいのもので、3人は唄や踊りくらいは覚えたほうがよいと、それからは夜になると、当時高橋がおったフルベッキ先生の宅へ押しかけてきては歌や踊りを教えてくれました。ところがそれをフルベッキ先生のコックが窓越しに見てびっくりし、高橋は狂人になったのではないかと鈴木に告げたようで、それで鈴木がやって来て忠告してくれました。

Weblio辞書―検索―相撲甚句

 すでにコックに知られた以上、フルベッキ先生も伝え聞いているに相違ない。こうなってはもうこの邸にいるわけにはいかぬと思って、福井数右衛門に相談すると、空いている奥座敷を提供してくれるとのこと、早速フルベッキ先生の所へ行って、他に下宿したいと申し出ました。

 先生は多くを言わず「貴方は森さんがアメリカに行かれる時宜しく頼むということでお預かりしたが、自分でそう考えるなら下宿することもよかろう、しかしまた帰りたくなったら、遠慮なく何時でも戻ってきなさい」といいながら、机の上からファミリーバイブルと称する注釈付きの聖書をとって高橋に渡しました。それは高橋が先生かたキリスト教の講義を聞くとき、何時でも先生が自分の前に置いて見ておられたもので、黒い革表紙の大きな本です。それを手渡すときに「これは貴方に上げる、どんな場合でも、一日に一度は見るようになさい」と申されました。

 そうなると誰にも遠慮せず、放蕩はいよいよ募るばかりでありました。芸妓とも馴染みが出来て、自然学校も欠勤勝ちとなりました。放蕩の動機の一つは友人の山岡次郎君が藩命で洋行することになり、しばしば送別会で芸妓家へ行くことが頻繁となったためでした。

 ある日高橋と山岡が福井数右衛門の周旋で芸妓を連れて浅草の芝居見物に出掛けました。二人は桟敷の上で芸妓の長襦袢を着て痛飲していると、そこへ幕合となって、3人の外国人と2人の日本人が連れだって花道を高橋らの方へやってきました。高橋が花道の方を見ると、その連中は学校の外人教師でした。これには向うも驚いたが、高橋も驚きました。かくなる上は学校にいるワケにはいかぬと、辞表を提出したのです。

 加藤弘之が心配して「森さんから呼び寄せが来るまで待ってはどうだ」と親切に留めてくれましたが、自分の良心が許さず、加藤も「そうまで決心しているなら、やむを得ない」ととうとう辞職を許可してくれることになりました。

 高橋の多少の貯えはすぐ使い果してしまい、それに3人のために立て替えた借金に対しては、月々利子をいれねばならず、ついには元金まで返せと言われ、非常に困却しました。

 それに福井は高橋が辞職して収入はなくなり、貯えも使い果たしたと知ると、急に冷淡となり、「食料だけでも入れてもらいたい」などいうようになりました。

そこで高橋は持っている物は一切売り払ってしまい、フルベッキ先生からもらった聖書一冊だけは残していました。日に一度は欠かさず開いてみて、現在の自分はどうも良くない、これは早く改めねばならぬと感じましたが、女に対する迷いで、放蕩はどうしても止められませんでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-20

 芝に住んでいた高橋の祖母は薄々彼の放蕩を知ったらしく、福井屋へ訪ねてきました。高橋と馴染みだが、高橋より四つばかり年上の芸妓東(あずま)家桝吉(本名 お君)は不在で妹芸妓が家から朝ご飯やお菜を重箱に入れて、持って来ていました。福井の女房が「芝の祖母様がお見えになりました」と知らせてくれたので高橋も驚きました。

 「しばらく会わなかったが、マア達者で何よりです。してこちらの方々は」と二人の芸妓を見て訊ねられたので、高橋も弱って、咄嗟に「近所の方々です」と答えると、「アーそうでしたか、いろいろと孫がお世話になることでしょう。まだ年もゆかぬ未熟の者ですから何分よろしくお願いします。」と丁寧に挨拶されたので、二人の芸妓はいたたまれずに逃げ出しました。

 高橋はその後、小言を喰うと思っていましたが、一向に小言をいいません。そうして「お前も、もう意見をされる年合でもなかろうから、よく考えて一生を誤たぬようにしなさい。常にいっている通り、この祖母が朝夕神仏に祈っていることは、お前の出世することばかりです。」と懇々とさとし、福井屋にもよく高橋のことを頼んで帰られました。

 桝吉はこれを聞いて、祖母の態度によほど動かされたようでした。高橋を自分の家へ引き取るといいだしたのも、こういうことが因(もと)をなしているように思われます。

 しかし桝吉の家に行ってみると、そこには両親もおれば抱え妓もいる、わけて両親などとんでもない厄介者がやってきたと言わぬばかりにあしらいます。とうとう箱屋(箱にいれた三味線を持ち、芸妓の供をする者)のテ伝いまでしたのもこのころです。

 男一匹こんなことではいかぬと、ある日の夕方、その家の前で天を仰いで考え込んでいると、突然後ろから声をかけたものがあります。みれば維新前横浜時代の知り合いで小花万司という人でした。

 「オヤ、君は小花君だったネ、君は何をしている」「僕は内務省に勤めている。して君は何をしているか」「僕は何もしていない、何かしなくちゃならぬと思っている」

 「そりゃちょうどよい。このごろ肥前唐津藩で英語学校を建てたといって、その教師を探している。内務次官の渡辺さんから、見つけてくれと頼まれた。どうだろう、君があすこへ行っては」