幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-1~10

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-1

 幸田真音(こうだまいん)「天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債」は2011(平成23)年11月7日から東京新聞その他に連載を開始、2013(平成25)年角川書店から刊行され、第33回新田次郎賞を受賞した作品であり、高橋是清の生涯をたどった歴史経済小説です。

 この小説の序章は1936(昭和11)年2月26日早朝、赤坂表町の私邸で品(高橋是清の後妻)が眠れないまま起床してまもなく、兵隊の襲撃を告げる巡査の声を耳にする所から始まります。読者の興味を刺戟する効果をあげています。

  高橋是清は1854(嘉永7)年閏7月27日父幕府御用絵師川村庄右衛門守房と母きんの子として、江戸芝中門前町(東京都港区芝大門)で誕生しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー伊東祐亨―たー高橋是清 

幸田真音「前掲書」下巻末に記述されている「主要参考文献・資料」のはじめに紹介されている、上塚司編・高橋是清(口述)「高橋是清自伝」下巻(中公文庫)に収録されている、上塚司記「高橋翁の実家および養家の略記」には、高橋是清の生年月を「安政元年閏七月」としていますが、安政元年改元はこの年11月27日なので、「嘉永七年閏七月」の誤りであり、幸田真音「前掲書」の記述を正しいと考えます。以下主として、上塚司編「前掲書」により、高橋是清の生涯を概観してみましょう。

 川村家は代々狩野家を師とする徳川幕府の御同朋(将軍近侍)頭支配絵師として、もっぱら江戸城本丸御屏風の御用を勤めていました。その芝露月町の住居はすこぶる数寄を凝らしたもので、なかんずく木材に至っては好事家の垂涎措かないものものでありました。

 守房の妻志津は長女文を生んで死去したので、彼は後妻時を迎え、時は四男二女を生みました。

 三男要之助が生まれると、侍女として北原きんが川村家に仕えたのですが、彼女の生んだ守房の末子が後年の高橋是清だったのです。

 北原きんの父北原三治郎は芝白金に住む薩州公出入りの富裕な肴屋で、妻との間にきんが生まれたのですが、三治郎はやがてこの妻と別れ後妻を迎えたため、きんは中門前町の叔母りん宅に寄寓するようになり、その後川村家の侍女となったのです、

 川村庄右衛門の後妻ときはきんがまだ年端も行かず妊娠したのを見て、厚くいたわり、秘かにきんを中門前町の叔母りん宅に帰らせ、きんは既述の通り男子を生み、庄右衛門に和喜次(高橋是清の幼名)と名付けられました。きんは16歳、川村庄右衛門は47歳のときのことです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-2

  その後庄右衛門はときとも相談し、改めてきんの叔母りん並びに父三治郎と交渉して、きんを貰いうけようとしましたがまとまらず、金二百両と衣服調度を贈り、きんに暇がだされました。その後きんはしばらく親許に帰り、まもなく浜松町の塩肴屋高橋幸治郎に嫁ぎ、1862(文久2)年6月10日一女を生みなしたが、おりから江戸に流行した麻疹(はしか)にかかり、同月24日24歳で永眠しました。

 和喜次は生後まもなく他家に里子(他人に預けて養ってもらう子)として出すことになり、女髪結しもの仲介で仙台藩足軽高橋覚治是忠に預けられました。当時高橋家には高橋覚治夫妻の外に養祖父母高橋新治・喜代子夫妻が居りました(上塚 司「附録 高橋翁の実家および養家の略記」上塚 司編「高橋是清自伝」下 中公文庫)。

Weblio辞書―検索―幸田真音―上塚 司―大童信太夫

二年ほどたったころ和喜次を三田聖坂の菓子屋が養子にほしいと川村家へ相談にきました。川村家でもそれとなく貰い手を探していたので、川村から高橋の所へ和喜次を取り戻しに行ったのですが、高橋の祖母喜代子は「二年も育ててきたこの可愛い子を士(さむらい)ならとにかく、町人へやるのは可哀そうだ。足軽でもまだ自分の家へ貰っておいた方がよい」といって、留守居役(大名の江戸屋敷における役職)とも相談し、高橋家で貰うことにきまり、改めて川村家と協議しました。川村家では異議なく、かくして和喜次は高橋覚治の実子として藩に届け出て、高橋姓を名乗るに至ったのでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-3

 このような事情で和喜次は芝愛宕下の仙台藩江戸屋敷で、祖母の愛撫を受けて成長しました。この藩江戸屋敷の中には留守居役の住居が3軒、物書役の住居が同じく3軒、それに60余軒の足軽小者らの住居がありました。留守居役は時々交替して仙台から妻子を連れて来ると、和喜次の祖母喜代子が、その奥さまたちの面倒をみたり、留守居役に来客があると、女中たちに饗応の指図をしたりしていたので、留守居役とは懇意で重宝がられていたのです。

 やがて着任した若い留守居役大童信太夫は世の中の変遷に気つき、洋学でもやろうという同藩の若い武士たちにことの外目をかけていました。大童さんの母堂がなくなり、大崎猿町の仙台藩菩提所寿昌寺に葬られましたが、親孝行な大童さんは毎月命日に墓参りをした後、同寺の和尚と物語をしたり、碁を囲んだりすることが慣例となっていました。和喜次の祖母喜代子も信心深く、よく同寺に御参りしておりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-4

 ある日同寺の和尚が喜代子に、給仕をしたりする子供が一人ほしいが、誰か藩中で心当たりの者があったら世話してほしいと申しました。当時のお寺は一種の登竜門で、士分の子弟をお小姓に置き、成人すると御家人の株を買って立派な侍にしてやるということが流行していたので、喜代子は和喜次に足軽では出世ができぬ、お前は足軽にはなさぬといつも言っていたくらいで、そのとき一緒に行っていた和喜次を顧みて、この子ではどうですかと頼みこみました。和尚は即座に承知してくれたので、和喜次はまもなくこの寺に奉公することになりました。

品川観光協会―寿昌寺

 大童が寺にやってきて和尚と食事を共にするときは必ず和喜次が給仕したので、彼は次第に大童と馴染みになったのです。初めて西洋の兵式教練を足軽に授けたのはこの人で、当時福沢諭吉と親しかった大童は福沢に頼んで外国新聞などを翻訳してもらい、、それによって外国の事情などを研究していました。

 そのうちに大童はどうしても英仏の学問をするものを横浜に派遣せねばならぬと考えるようになり、この人選に苦心したのです。当時江戸居住の藩士はみな交替勤番で独身が多く、妻子持ちは江戸屋敷の足軽小者しかいませんでした。大童はこの足軽小者の子供の中から、和喜次と鈴木六之助(後に日銀出納局長となった鈴木知雄)の両名が横浜へ洋学修業に出されました。これが1864(元治元)年のことで、鈴木と和喜次は同年の十二歳でした。

 元治元年と言えば桜田事件の直後で、攘夷論者が非常に力を得て、外国人の居る所と見れば何処でも切り込んでゆくという騒がしい時代でした。そこで和喜次と鈴木が横浜に英学の修業にゆくことになると、第一番に心配したのは祖母喜代子でした。横浜は物騒な処だから、子供らをやる前に、どんな所かみてこようと大童とも相談して横浜まで状況視察にでかけました。横浜から帰って来ると、祖母が横浜という所は出るのも入るにも吉田橋一つしかない、浪人たちがこの橋を壊したら出入できず、自分の可愛い孫をそん危ない所へ一人手放すわけにはいかないから、自分も一緒に行って飯や衣服の世話まで一切してやりたいと大童に話ました。大童も賛成してくれて、横浜の太田町の漢語通訳役宅の庭の空地に家を建てて、そこから和喜次と鈴木は「ドクトル ヘボン」夫人に、ヘボン夫妻が帰国後は横浜在住の宣教師「バラー」夫人の指導で英語を稽古しました。

 1866(慶応2)年横浜の大火で一時江戸に帰りましたが、祖母と懇意な訳読の先生太田栄次郎がやてきて、永く江戸にいてはようやく覚えた英語もわすれてしまう、異人館のボーイにでも住み込んだらどうかといわれ、大童も賛成してくれたので、和喜次は太田の紹介で英国の「バンキング・コーポレーション・オブ・ロンドン・インデヤ・アンド・チャイナ」という銀行の支配人シャンドという人に雇われることになりました。

 この銀行には支配人格の人が3人おり、3人ともボーイを置いて、部屋の掃除や食事中の給仕をさせたりしていました。3人のボーイの中、和喜次以外にもう一人の日本人ボーイがおり、他の一人は当時横浜に駐屯していた英国兵兵士の子供で、これ以外にボーイ頭格の日本人に芸州藩士で22~3歳の織田と云う人がおり、やはり英学修業のためにきていました。和喜次はこうしてボーイを勤めながら、暇をみて太田栄次郎の所で訳読を教えてもらったり、自習をしたりして別に学校へ通うことはありませんでした。

 その銀行には馬丁やコックもおり、その中にはならず者もいて、朝夕酒を飲み、賭博をするという有様で、当時和喜次は13歳であったが老けてみえて身体も大きかったので、馬丁やコックと一緒になって酒をのんだり、随分悪戯もしました。

 当時洋妾(ラシャメン)が流行して、夜になると婆さんに連れられて外国人の住居に通って行く、それが憎らしいので、馬丁どもが悪戯をする。和喜次も一緒になって婆さんの提灯の火を打ち落として真っ暗になったところで洋妾の簪(かんざし)などを引き抜いて棄てると、女どもが仰天して逃げてゆくのを見て、手をたたいて笑うという風でした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-5

従って和喜次の評判が悪くなっていったのは当然でした。浅間山下の洗濯屋の座敷を借りて、毎日太田栄次郎の所に通って勉強していた鈴木六之助が時々和喜次を訪ねてやってきました。彼は和喜次の善からぬ評判を聞いて、自分は今度アメリカに修業にやられることになったが、御前は評判が悪いので省かれそうだと云いました。

 万一鈴木のみが洋行して和喜次独りが取り残されるなら、祖母に申し訳なく、それなら自分独りで洋行してやろうと考え、ボーイ頭の織田に相談しました。

 織田は「近ごろは頻々外国から船が来る、うまく船長にでも頼めばボーイに使ってくれるだろう、君が強いて行きたいなら、俺が一つ探ってやろう」と引き受けてくれました。

 やがて織田は横浜寄港中の英捕鯨船長と交渉、和喜次に船長は和喜次をボーイに使ってくれること、最終的にはロンドンに帰るので、和喜次を学問の出来るような所へ世話をしてやろうと云ってくれました。和喜次はこの話を受諾して織田にも伝えました。

しかし、このことを大恩ある祖母に一言伝えねばならないが、伝えれば祖母はあるいは止めるかもしれず、黙って脱走しようと覚悟したものの、祖母のことが気がかりで躊躇していました。結局捕鯨船に乗り込んでから、祖母に手紙を書いて了解を得ようと決心がつきました。

 ところが仙台藩士星恂太郎いう人が英国兵式修業のため横浜に来て、衣食のためにヴァンリードというアメリカ人の商店(銃砲など販売)で働いており、織田と懇意で高橋和喜次が英捕鯨船で洋行しようとしている事情を話しました。

星は「うん、そりゃ今度勝さん(勝海舟)の息子の小鹿(ころく)がアメリカに留学するので、庄内藩からは高木三郎という人が同行することになったが、仙台藩からも富田鉄之助(吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」講談社学術文庫)を同行させてはどうかと勝さんから留守居役の大童信太夫まで話があったので、藩では富田を修学させることにきめた。それにちょうどよいついでであるから、かねて横浜に修業に出してある子供も一緒にやろうという話が出て鈴木はすでに決まったが高橋はどうも行状が悪いので問題になっているところだ。高橋がそれほど堅い決心なら、君のいう通り二人一緒に修業にやるように、自分から大童に話をしてみよう。とにかく本人にも一度会ってみたいから、高橋を自分の所へ寄越してくれ」ということでありました。

Weblio辞書―検索―富田鉄之助

 和喜次はこの話を織田から聞いて、翌日早速星を訪ねると、星は「その年輩で捕鯨船に乗って外国へ行くのは無謀だ。今度藩の方で留学生を出すについては君もきっとその中に加えるだろうから、この手紙を持って江戸の大童氏の所へ行け」といって、一通の添書を書いてくれました。和喜次はその添書を持って早速江戸の大童を訪ねると、大童は彼の姿を見て打解けた態度で笑って「まだ決まったわけではないが、とにかく横浜へ行って待っておれ」ということでした。

 

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 和喜次は洋行の願いが叶ったものと思って横浜に帰り、織田と星にその話をして、捕鯨船の方は織田からわけをいって断って貰いました。 

 1867(慶応3)年(14歳)の春も終わりに近いころ、高橋和喜次らのアメリカ行きの許可が出ました。勝小鹿、富田鉄之助、高木三郎の3人には、藩からそれぞれ学校に入学して勉強できるだけの手当を支給されることになったのですが、鈴木と高橋は未成年なので、向うで誰か世話を頼まねばならぬと大童から星に話があったので、星は主人のヴァンリードに依頼し、桑港(サンフランシスコ)にいるヴァンリードの両親が両人の世話を引き受けることになって、その旅費や学費は藩から直接ヴァンリードに渡してしまいました。

 出発の日が迫ってくると、祖母は和喜次に餞別の短刀を授け、男は義のためや恥辱をそそぐために死なねばならぬことがあると云って、切腹の作法まで教えてくれました。

 そのころ和喜次らはまだ髷を結って和服を着ていました。洋行するには断髪して洋服を着る必要があります。しかるにそのころは西洋人の仕立屋はありましたが、日本人の仕立屋にはろくな者はいませんでした。やむなくそのころ流行だった白金巾の綿ゴロでチョッキとズボンを拵え、黒の絹ゴロで上衣を拵えましたが、一列ボタンのフロックコートでした。

YAHOO知恵袋―白金巾の綿ゴロとはどのような着物なのでしょうか?

 帽子はフランス形を板紙で拵え、それに白い布片で後の方に日よけを垂らしたものでした。靴は買うにしても、まだどこにも靴屋はありませんでした。横浜中探しても、子供の足にあうものはなく、みんなイギリス兵のはいた大きなものばかりでした。やっとこれなら足に合いそうなものを探し当てたものの婦人用の古靴で、革製ではなく絹シュスで作ったものでした。

 かくして同年7月23日アメリカ船コロラド号が香港から横浜に入港、翌日和喜次は祖母に送られて乗船しましたが嬉しくてたまりませんでした。

 同年7月25日コロラド号は午前6時3発の号砲を合図に桑港に向けて出帆しました。同号はわずか6~700トン足らずの外輪船でありました。富田、高木、勝の3人は上等船室でしたが、高橋、鈴木のほか、薩摩藩伊東四郎(後の伊東祐亨海軍大将)らは下等船室でした。下等船室は移民の清国人が多く乗り込んでおり、薄暗くて臭気がムッと胸をつきました。多数の者が広い部屋に同居して、寝床も四本の柱に布で作ったハンモックが上下3段に吊ってあるだけで、高橋ら3人もそこに寝ました。朝飯などは大きなブリキの桶に入れて清国人と一緒に食わされるという風でしいた。便所は外輪車の上の床に四斗樽のような桶が3~4個並んでおり、その上に板が渡してあって、それを跨いで大小便をするのでした。とても堪らんので高橋は上等の客が食堂に出ている間にこっそり上等便所に入ることを覚えました。

 

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 伊東は浴衣がけで酒ばかり飲んでいました。「君は飲めるか」と訊くので高橋は「うん飲める」といって、共に盃を傾けました。船に乗るときに富田から高橋と鈴木に小遣いとして20ドル金貨を1枚ずつくれたので、3度に1度は自分の金で買って飲み、それがなくなると、酒を飲まない鈴木の金貨まで取り上げて飲んでしまったのでした。

  同年8月18日午前11時桑港に到着しました。富田らはただちに出迎えの馬車に乗って桑港一流のホテル「リックハウス」に行ってしまいました。高橋らは以前仙台藩を脱走同様にして修業にきている一条十次郎、越前藩の窪村純雄のいずれかが迎えに来て、その案内で「ヴァンリード」の家に行くことになっていました。ところがその迎えがきていないので、伊東が『自分は「シティカレッジ」にいる金子という人に紹介状を持って来たので、これからその人を訪ねようと思う。君も一緒にきて通弁してくれないか』というので伊東と高橋二人は歩きだしました。伊東は羅紗(らしゃ)に金ボタンのついた鹿児島あたりの軍人服だったのでしょうが、高橋は例の綿ゴロのフロックコートに、船の中でよれよれになって膝まで縮み上がった白金巾の洋袴をつけ、婦人靴を履いていたので、傍らの目には可笑しかったでしょう。

 やっとのことで行きついてみると、学校は暑中休暇で金子は不在とのこと、港へ帰ろうとしたのですが、帰り路が分からなくなっていました。彼等の乗って来た船が桑港の湾内に入ると、なぜか檣頭高く日の丸の旗を掲げたのを思い出し、高い所に上がって海の方を眺め、日の丸の船の方向に帰ることでようやく港に帰ることができました。

 船へ帰るとまもなく迎えの人がやってきました。伊東の迎えには鹿児島の谷本という人、また高橋らの方には一条がやってきて、ここで伊東とわかれ、高橋らはひとまず一条の所におちつくことになりました。

 翌日高橋らは「リックハウス」の富田鉄之助らを訪問すると、富田は高橋に「君はこの船で帰れッ」と大変な権幕で叱りつけました。高橋が船の中で酒を飲み、おまけに鈴木の金まで飲んでしまったことをチャンと知っていたのです。一条が、これから十分に監督をして、決して乱暴なことはさせぬからと頼み込んだのですが、容易にお詫びがかなわず、3日間も通ってようやく勘気が解けました。

 

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 ヴァンリードの家に行くと、大変喜んでくれて、お前たちの部屋はここだといって台所の向うにある離れ間に案内してくれました。食物も当たり前のものを食わされたのですが、それがだんだんと悪くなってどう見ても老人夫婦の食い残しとしか思えないものばかりとなりました。煮焚き料理の手伝いから、部屋の掃除や走り使いまでさせられます。

 日中学校に行けぬのは勿論、家に居ても勉強などはとてもできません。このように事情があまりに最初の予想を裏切っているので、高橋は憤慨してこう約束が違う以上、俺は働かないといって、何を命ぜられても云うことを聞きませんでしたが、鈴木はおとなしいので、いやいやながら働いていました。

 そのうちに妻君は、ある日のこと、オークランドに自分の知り合いで、大変大きな金持ちがいる、そこへ行くから一緒にこないかと云いました。高橋はこんな所とは異った所が見られると思って、喜んでお伴しました。

 我々が降りたステーションというのはほんの名ばかりで、雨降りのために、5間に1間半ほどの屋根がある程度、腰掛けもありませんでした。金持ちの家というのは川沿いの風景のよい所にあり、屋敷も大きく、畑や庭も広くて牛や馬も飼っていました。

 そこは若い夫婦きりで、それに西洋人と清国人の召使が一人ずつ居ました。両親と其の他の兄弟たちはワシントンにいっているということでした。

 ヴァンリード夫妻が高橋にあすこはすきかと訊くので、彼は大変好い所だと答えると、「それではあそこにいかないか。あの若夫婦は大変親切で、若主人は桑港の銀行員だから毎日桑港に通っている。それで昼は暇だから奥さんが学問を教えてくれる。」と言うので「それなら行ってもよい」と同意しました。

 するとヴァンリードは高橋と一条に自分の役所まで来てくれと云いました。ヴァンリードは公証人で、役所とは公証人役場のことだったのです。行ってみると例のオークランドの若主人も来て居て、やがてヴァンリードは1枚の書類を一条に渡して、二人にサインしろと云いました。一条はそれを見ていましたが、フランス語から英語に移って間もないころであり、何が書いてあるのかさっぱりわかりません。ヴァンリードの話によれば、要するにオークランドのブラウンという家に住み込むこと、そこへ行ったら学問も出来るということだけは分かりました。高橋は喜び勇んでその書類に署名しました。

 何しろ人の言うことなどにはチットも疑いをもたない年ごろではあるし、それに学問のことなんかも一向分からぬ、一条が書類を見て「何だかお前があっちに行ってしまう、なんでも3年ということが書いてある」というけれども、さらに疑いは起こしませんでした。大威張りで家に帰り、鈴木を羨ましがらせました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-9

 書類に署名した翌日かにいよいよオークランドへ引っ越すことになりました。荷物も無く裸一貫でオークランドの渡し場に行ってみると、若主人のブラウンが迎えに来ておりました。

霧の町・サンフランシスコ全景

 若主人のブラウンは毎日早朝桑港へ行き、夕方にならないと帰りません。その間若い妻君はピアノを弾いたり読書したり、また暇があれば、高橋に「スペンセリアン」の英習字を教えたり、読本を復習(さら)えたりして彼を可愛がってくれました。

 この家には清国人のコックとアイルランド人の夫婦がいて、清国人は料理の合間に洗濯や薪割りをやり、アイルランド人は2頭の馬と2頭の乳牛の世話と畑の手入れを受け持っていました。

 妻君に子供が生まれた後、清国人は解雇され、妻君が直接料理を担当するようになると、高橋に料理を覚えろと云い、ランプや部屋の掃除、窓硝子拭きまでやらなければならなくなりました。さらに若主人とアイルランド人との間に争いが起こり、アイルランド人夫妻はこのブラウン家を去ってしまったため、若主人は高橋に馬と牛の世話を命じました。

 高橋は横浜の「金の柱」で馬丁と一緒にいたので馬の扱い方は知っていました。それで馬の乗ってよければ世話をしましょうと答えました。

 彼は毎朝早く起きて馬と牛を小舎から引き出し、畑に連れて行き、草のあるところに杭を打って4、5間くらいの綱でつないでおけば、その範囲の草を自由に食べています。手入れでは刷毛で擦ってやると牛も馬も従順(おとな)しくいうことを聞きました。夕方になると小舎に入れて食事を与えます。 ただ乳牛の乳しぼりはうまくいかず、閉口して情けない思いをしました。

 その中に一旦解雇した清国人を再び呼び戻し、乳搾りと料理や洗濯の仕事をやり、従来アイルランド人がやっていた牛馬の世話と畑の手入れ、それに薪を鋸で挽くことが高橋の仕事として廻ってきました。そして高橋の挽いた薪材を割ることは清国人の分担ということに決まりました。

 こうして1週間のうち6日間はこんな仕事を繰り返し、日曜日になると馬に乗って広い野原を飛び回りました。

  ブラウン家から3里ほど離れた所にカピテン・ロッジャーという金持ちがいてブラウン家とは親しく交際していました。ある日ロッジャー家の娘さんが来て高橋に「今度私の家へお前の国の(関口)保兵衛という人が来て、大変よく働いてくれるが、言葉がさっぱり解らない。お前時々来て通弁をしてもらいたい」と云います。高橋は日曜日が来ると早速馬を飛ばして行きました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-10

 ある日曜日の朝例の如くでかけようとしましたが、清国人がその日に限ってなぜか牛の乳しぼりをやってくれないので、まだ乳を搾らぬうちに牛を遠くの方に繋いで、そのままロッジャー家へと行ってしまいました。その日の夕方になって帰るとブラウン家の妻君から、これからあんなことをしてはいかぬと優しく注意され、その晩はそれで済みました。

 しかし翌朝高橋は清国人と喧嘩になり、カッとなった高橋は逃げる清国人に鉞をなげつけ、祖母から贈られた短刀をポケットに入れました。清国人も用心して小さな斧をポケットに潜ませ、かくして両者の間に殺気がみなぎったのでした。

 夕方主人が帰って来て夕飯を済ませ夫婦が話している所へいきなり出掛けて行って、高橋は「私が清国人を殺すとドウなるでしょう」と訊きました。すると主人は妙な顔をして、「人を殺せば御前も殺される。なぜそんなことをいうか」と訊き返しました。

 そこでことの経過を話すと、主人は「そのことは自分も聞いている。だが御前も悪いのだ」と高橋をたしなめました。

 高橋はこの主人の言には少なからず不満でした。翌日夕方主人が帰ると、高橋は「暇を下さい。私はあんな奴と一緒にいるのは嫌です。」と申し出ました。すると主人は「御前は勝手に暇をとって帰るわけにはいかぬ。お前の身体は3年間は金を出して買ってあるのだ。現に御前は友人とともに書類にサインまでしたではないか」といいます。 

 高橋は驚きました。あの時署名したのは身売りの契約書だったのか。なんとかしてこここを逃げ出さにゃならぬと思って、主人に「そんなら一日だけ暇を下さい、明日桑港へいって友人と相談してくるから」というと、主人は「生意気ナッ」とといっていきなり高橋の頬を殴りました。

 翌日高橋は桑港に行って一条にこのことを話しました。一条も困惑して「困ったナァ」を連発するばかりでした。高橋は「俺はモウ帰らずにいようと思うがドウだ」と云うと、一条は「そりゃいけない、そんなことすりゃみんなお前が悪いことになる。マァも少し辛抱しろ。俺が何とか話をつける」と止めるので、ウンと乱暴して呆れ返らせ、向うから暇を出させるようにしてやろうと、それから毎日手当たり次第にランプや皿を打ちこわしました。ところが一向にききめがなく、主人も妻君もそれをみながら怒りもしません。これには高橋も当惑しました。

 そのうちにワシントンにいたブラウンの父親ジョン・ロース・ブラウンが清国駐在公使に任命され、大勢の家族や召使を連れてオークランドの邸へ帰ってきました。その中には7歳から11~2歳くらいの子供も2~3人いて、女中たちが帰って来たので、部屋やランプの掃除をしてくれるようになり、牛や馬もいなくなって、高橋の仕事は暇になりました。高橋少年も数え年の15歳くらいだったので、子供たちと仲よしになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

日文研データベースー洋妾とその子