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美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む11~20

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む11

 第二点に我が憲法上、天皇の統治の大権は万能無制限の権力であるや否や、此点に付きましても我が国体を論じまする者は、動もすれば絶対無制限なる万能の権力が 天皇に属していることが我が国体の存する所であると言う者があるのでありまするが、私は之を以て我が国体の認識に於て大いなる誤であると信じて居るものであります。君主が万能の権力を有すると云うようなのは、是は純然たる西洋の思想である。「ローマ」法や、十七八世紀の「フランス」などの思想でありまして、我が歴史上に於きましては、如何なる時代に於ても、天皇の無制限なる万能の権力を以て臣民に命令し給うと云うようなことは曾て無かつたことであります。天の下しろしめすと云うことは、決して無限の権力を行わせられるといふ意味ではありませぬ。憲法の上諭の中には「朕が親愛する所の臣民は即ち朕が祖宗の恵撫慈養したまいし所の臣民なるを念い」云々と仰せられて居ります。即ち歴代天皇の臣民に対する関係を「恵撫慈養」と云う言葉を以て御示しになつて居るのであります。それは無制限なる権力を振り廻すと云うような思想とは全く正反対であります。況や憲法第四条には「天皇は国の元首にして統治権ヲを総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」と明言されて居ります。又憲法の上諭の中にも、「朕及朕が子孫は将来此の憲法の条章に循い之を行うことを愆(あやま)らざるべし」と仰せられて居りまして、天皇の統治の大権が憲法の規定に従つて行わせられなければならないものであると云うことは明々白々疑を容るべき余地もないのであります。天皇帝国議会に対する関係に於きましても、亦憲法の条規に従つて行わせらるべきことは申す迄もありませぬ。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む12

 菊池男爵は恰も私の著書の中に、議会が全然 天皇の命令に服従しないものであると述べて居るかの如くに論ぜられまして、若しそうとすれば解散の命があつても、それに拘らず会議を開くことが出来ることになると云うような議論をせられて居るのでありまするが、それも同君が曾て私の書物を通読せられないか、又は読んでも之を理解せられない明白な証拠であります。議会が天皇の大命に依つて召集せられ、又開会、閉会、停会及衆義院の解散を命ぜられることは、憲法第七条に明に規定して居る所でありまして、又私の書物の中にも縷々説明して居る所であります。私の申して居りまするのは唯是等憲法又は法律に定つて居りまする事柄を除いて、それ以外に於て即ち憲法の条規に基かないで、天皇が議会に命令し給うことはないと言つて居るのであります。議会が原則として 天皇の命令に服するものでないと言つて居りまするのは其の意味でありまして、「原則として」と申すのは、特定の定めあるものを除いてと云ふ意味であることは言う迄もないのであります。

 詳しく申せば議会が立法又は予算に協賛し、緊急勅令其の他を承諾し又は上奏及建議を為し、質問に依つて政府の弁明を求むるのは、何れも議会の自己の独立の意見に依つて為すものであつて、勅命を奉じて、勅命に従つて之を為すものではないと言うのであります。一例を立法の協賛に取りまするならば、法律案は或は政府から提出され、或は議院から提出するものもありまするが、議院提出案に付きましては固より君命を奉じて協賛するものでないことは言う迄もないことであります。政府提出案に付きましても、議会は自己の独立の意見に依つて之を可決すると否決するとの自由を持つて居ることは、誰も疑わない所であろうと思ひます。若し議会が陛下の命令を受けて、其の命令の儘可決しなければならぬもので、之を修正し又は否決する自由がないと致しますれば、それは協賛とは言われ得ないものであり、議会制度設置の目的は全く失われてしまう外はないのであります。それであるからこそ憲法第六十六条には、皇室経費に付きまして特に議会の協賛を要せずと明言せられて居るのであります。それとも菊池男爵は議会に於て政府提出の法律案を否決し、其協賛を拒んだ場合には、議会は違勅の責を負わなければならぬものと考えておいでなのでありましょううか。上奏、建議、質問等に至りましては、君命に従つて之を為すものでないことは固より言う迄もありませぬ。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む13

菊池男爵は其御演説の中に、陛下の御信任に依つて大政輔弼の重責に当つて居られまする国務大臣に対して、現内閣は儀表たるに足らない内閣であると判決を下すより外はないと言われまするし、又 陛下の至高顧問府たる枢密院議長に対しても、極端な悪言を放たれて居ります。それは畏くも陛下の御任命が其の人を得て居らないと云うことに外ならないのであります。若し議会の独立性を否定いたしまして、議会は一に勅命に従つて其の権能を行うものとしまするならば、 陛下の御信任遊ばされて居ります是等の重臣に対し、如何にして斯の如き非難の言を吐くことが許され得るでありましょうか。それは議会の独立性を前提としてのみ説明し得らるる所であります。

或は又私が、議会は国民代表の機関であつて、天皇の機関ではなく、天皇から権限を与えられたものではないと言つて居るのに対して、甚しい非難を加へて居るものもあります。

併し議会が 天皇の御任命に係る官府ではなく、国民代表の機関として設けられて居ることは一般に疑われない所であり、それが議会が旧制度の元老院や今日の枢密院と、法律上の地位を異にする所以であります。元老院枢密院は、 天皇の官吏から成立つて居るもので、元老院議官と云い、枢密顧問官と云うのでありまして官と云う文字は 天皇の機関たることを示す文字であります。天皇が之を御任命遊ばされまするのは、即ちそれに其権限を授与せらるる行為であります。帝国議会を構成しまするものは之に反して、議員と申し議官とは申しませぬ。それは 天皇の機関として設けられて居るものでない証拠であります。再び憲法義解を引用いたしますると、第三十三条の註には「貴族院は貴紳を集め衆議院は庶民に選ぶ両院合同して一の帝国議会を成立し以て全国の公議を代表す」とありまして、即ち全国の公議を代表する為に設けられて居るものであることは憲法義解に於ても明に認めて居る所であります。それが元老院枢密院のような 天皇の機関と区別せられねばならぬことは明白であろうと思います。

以上述べましたことは憲法学に於て極めて平凡な真理でありまして、学者の普通に認めている所であり、又近頃に至って初めて私の唱え出したものではなく、三十年来既に主張し来つたものであります。今に至つて斯の如き非難が本議場に現われると云うようなことは、私の思も依らなかつた所であります。今日此席上に於て斯の如き憲法の講釈めいたことを申しますのは甚だ恐縮でありますが、是も万己むを得ないものと御諒察を願ひます。私の切に希望いたしまするのは、若し私の学説に付て批評せられまするならば、処々から拾ひ集めた断片的な片言隻句を捉えて徒に讒誣中傷の言を放たれるのではなく、真に私の著書の全体を通読して、前後の脈絡を明にし、真の意味を理解して然る後に批評せられたいことであります。之を以て弁明の辞と致します。」

 この一身上の弁明について、美濃部亮吉は次のように述べています。「私も、父のこの弁明の演説をききに行った。貴族院議席も傍聴席も超満員だった。     

 父は東大の講義の時とはちがい、前夜おそくまでかかって作った原稿を手に、二時間に及ぶ弁明の演説を行った。それは、やや学者風にすぎ、大学における講義じみてはいたが、なかなか迫力のある名演説であった。

 貴族院では、壇上で行われる演説には、一切拍手をしないのを原則としていた。しかし、父の演説に対しては、少数ではあるが拍手が起った。拍手をしたのは9人だったとも3、4人だったともいわれている。元の東大総長小野塚喜平次(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造4参照)先生、物理学者の田中館愛橘(たなかだてあいきつ)博士等が拍手したということである。小野塚先生は、この時父の演説に拍手を送ったというので、右翼団体ににらまれ、一時は護衛までつく騒ぎだった。」(美濃部亮吉「前掲書」)

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー田中館愛橘

 菊池武夫は美濃部の弁明演説を聴いて、「そうか。それならよろし」と呟いたといわれていますが、美濃部の演説のあと、議席からこう述べています。

 「午前、美濃部議員から一身上のご弁明がございましたが、私は殊更に美濃部議員を罵詈(ばり)いたすことを目的として申しあげたものではございませぬ。あのご本を全部通覧いたしまして今日のご説明のように感ぜられまするならば、何も問題にならぬのでございます。一身上の弁明に事を藉(か)りまして、互に討論に陥るやの感もございますので、発言をいたさぬことにいたしたいと思います」しかし菊池は美濃部の弁明演説を聞いたときの感想を後に撤回しました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 14

 岡田啓介首相は大要「美濃部学説は法律学説として久しい間に亘(わた)って唱えられ、幾多の論議を重ねられた問題だが、これが国民道徳上に悪影響を及ぼし、または不敬に亘るものとした場合、何らかの処置を要するについては慎重な考慮をする考えである」という内容の答弁をしました。

 菊池が軍部大臣の意見をただすと、陸海軍大臣天皇機関説に反対である旨の答弁がありました

 右翼団体貴族院の美濃部追求に呼応して「機関説撲滅同盟」を結成、その理論的中心は蓑田胸喜一派でした。

Weblio辞書―検索―蓑田胸喜(みのだむねき)

 第六十七議会における貴族院天皇機関説排撃運動は衆議院にも反映、政友会の山本悌二郎が美濃部学説を攻撃するに至りました。

 同年3月20日、貴族院は「政教刷新に関する建議」を満場一致可決、衆議院も同月22日、政友会、民政党、国民党3派の共同提出による「国体明徴に関する決議案」を満場一で可決しました。

 天皇機関説はついに政治問題化したのです。軍部がそのファッショ的権力を推し進めるために、同調者をして機関説を攻撃させていることとは離れて、政友会は単純にも岡田内閣打倒のために機関説を攻撃したのであります。政友会はただ眼先の獲物を追って、政党政治を自滅させるのです。これら右翼の政府攻撃は平沼の陰謀でもありました。

  当時政友会は野党でありながら絶対多数を擁していました。彼らは何とかして政権を握ろうとあせっていました。それには床次竹二郎らが脱党して入閣したこと、宿敵の民政党が与党の立場だったことなどに反発があったからでもありますが、内相に後藤文夫(内務官僚出身)がいて、岡田内閣が実質的に官僚内閣の性格を帯びていたことにもよるのでした。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む15

 軍部は機関説問題で岡田内閣を批判しはじめました。とくに陸軍内部ではその派閥争いにからんで、荒木貞夫(「花々と星々と」を読む35参照)陸相、真崎甚三郎教育総監などの皇道派が激しく機関説を攻撃しました。

Weblio辞書―検索―統制派―皇道派―真崎甚三郎―教育総監(部)

  政友会は軍部右翼の機関説攻撃を利用して岡田追い落としにかかり、美濃部と同様に機関説を奉じる枢密院議長一木喜徳郎(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)や法制局長官金森徳次郎をやめさせようとしました。

 平沼は裏で政友会と手を握り、一木を追い出して枢府議長の椅子を狙い、宮中勢力の一角を握ろうとしていました。

 政府としては機関説を処分すれば、一木、金森にまで追及の手が伸びるので、それを防ぐ唯一の方法は、美濃部に機関説の誤りを認めさせ、謹慎の意を表して公職を辞めさせるにあったのです。

 また美濃部の実兄俊吉(元朝鮮銀行総裁)も政府筋から弟の説得を頼まれて動いています(原田熊雄述「西園寺公と政局」第4巻 岩波書店)。

 「四面楚歌のなかにあって、父は一歩も退(ひ)かなかった。自分の憲法学説の正しいことを飽くまでも確信し、少しの疑いもさしはさまなかった。自分の学説の誤りを認めたり、公職を辞するなど思いもよらないことであった。父は、政府側からくるあらゆる勧奨をはねつけた。」(美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」文芸春秋

 同年2月28日代議士江藤源九郎は東京地検の岩村検事正を訪ね、美濃部を不敬罪(「蟹工船」を読む22参照)として告発しました。これは美濃部の憲法精義には国務に関する詔勅を批判するも憲法上差支えなしとしていることがその理由の中心となっていました。

 同年4月4日真崎甚三郎教育総監は機関説が国体に反する旨部内訓示しました。次いで4月10日松田文相は各学校に対して国体明徴に関する訓示を発し、4月13日南関東軍司令官は関東軍に国体観念明徴に関しての訓示を発しました。民間右翼の諸団体もこれに呼応して動いたのです。

 では天皇機関説が宮中方面ではどのように受け取られていたのでしょうか。当時の侍従武官長本庄繁陸軍大将の日記「本庄日記」(明治百年史叢書 原書房)によって読者は天皇がすぐれた判断の持主であったことを知るでしょう。

 「四月八日午後二時、御召しがあった。

 この日上聞に達した真崎教育総監の機関説に関する訓示なるものは『自分の同意を得たという意味であるか』との御下問があったので、決して左様なことはなく、これは全く総監の職責上出したものだが、こと重要であるため、報告の意味で上聞に達したものでございます、と奉答した。同九日午後三時半御召しがあり、『教育総監の訓示を見るに、天皇は国家統治の主体なりと説いてある。国家統治の主体といえば、すなわち、国家を法人と認めて、その国家を組織する或る部分ということに帰着する。しからば、いわゆる天皇機関説と用語こそ異なれ、論解の根本に至っては何ら異るところはない。ただ機関の文字が適当でなく、むしろ器官の文字が近いのではないか。また右の教育総監の訓示の中には「国家を以て統治の主体となし、天皇を以て国家の機関となす」の説を反駁しているが、これも根本的においては天皇を以て国家統治の主体というのと大同小異である。しかるに、これを排撃するの一方において天皇を以て国家統治の主体というのは自家撞着(じかどうちゃく ある人の言動が前後で食い違い、つじつまがあわないこと)である。

美濃部らの云う詔勅を論評し云々とか、議会は天皇の命といえどもこれに従うを要せずというが如き、また「機関」なる文字そのものが穏当でないだけである。』と仰せられた。」(「本庄日記」昭和十年四月八日 松本清張現代語訳 以下同文)

「美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部は決して不忠の者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が、一体何人日本におるか」(鈴木貫太郎侍従長の伝える天皇の発言 原田熊雄述「西園寺公と政局」第4巻 岩波書店

このように天皇天皇機関説を基本的に支持していたことが分かります。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む16

「翌(四月)二十五日、林陸相、真崎教育総監と別室に会し、陛下の思召しを語り、学説までも深入(り)する考(え)ならば、各自が直接内奏なされたい旨を述べた。これに対し、林、真崎両人とも、機関説の思想を排撃することが主体で、敢て学説を論議するものではないが故に、武官長(本庄)よりこの旨を奏上してくれ、とのことで別れた。」(「本庄日記」同上年四月二十五日)

「五月二十二日、この日午前陛下は出光海軍武官(侍従武官)を召され、海軍の天皇機関説に関する意向を聞かれた上で、「軍部が自分の意に従わずして天皇主権説を云うのは矛盾ではないか」との御下問があった。これに対して出光(万平)武官(海軍少将)は次のように奉答した由の報告をうけた。

―そのときどきの御事務について大御心に添わないようなことがあっても、それを天皇主権の事実に添わずとせられ、ひいて重大なる国体に関する解説を云々せられんとするのは本末を誤るものと拝察します。陛下はしばらく臣下の論議を高処より静視遊ばされ、これらの説に超越して大観あらせらるるがよいかと存じます。(「本庄日記」同上年五月二十二日)

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 出光海軍武官は天皇に、万事われわれに任して下さい、あなたは黙っていらっしゃい、、といったのであります。「事務上」という言葉をつかっていますが、これは方便で、軍部の全行動のことであるのはいうまでもありません。

伊藤博文明治憲法を作るときに、、天皇の大権を国務大臣が輔弼(ほひつ)するという道をつくりました。かたちの上では天皇の執政権を臣下が輔佐し、その命を受けて政務の代行をするというのですが、、その責任はすべて輔弼の臣が負うことにしました。

 たとえば、明治のドイツ人医師「ベルツの日記」(明治33年5月9日 東京 岩波文庫・「大山巌」を読む21参照)には次の記載があります。

 「伊藤(博文)のいわく『皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところでっ礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば側近者の吹く笛に踊らされねばならない』と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである。」

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む17

  美濃部が東京地方検事局に初めて召喚されて出頭したのは同年4月7日でした。

 当時美濃部を取り調べた主任検事戸沢重雄に尾崎士郎は直接取材して「小説 天皇機関説」(「長編小説全集5 尾崎士郎篇 新潮社)を書きました。(松本清張が)戸沢に問い合わせると、美濃部訊問の経緯は、尾崎の同上小説にすべて誤りなく出ているから、あれで間違いないということでありました。

Weblio辞書―検索―尾崎士郎

 戸沢検事にとって美濃部は恩師でした。普通裁判用語としては被告を呼ぶのに「おまえ」というならわしになっているが、戸沢はさすがに美濃部を「おまえ」とは呼べませんでした。いろいろ考えた末、結局「博士」ということに落ちついたのです。

 美濃部の第1回取調べが済むと、検察首脳部では前日作成の美濃部聴取書を検討し、再喚問の必要はないと声明しました。この時点では検事局側は問題の詔勅批判(家永三郎美濃部達吉の思想史的研究」第一章三、四 岩波書店)の一部を訂正(教育勅語を批判の対象から除外)しているので、その著書「憲法撮要」「逐条憲法精義」「「日本憲法の基本主義」の3著を発禁の行政処分にすることで事を収めようとしていたのです。

 小原法相らは美濃部が「憲法撮要」「逐条憲法精義」の2著書を、すすんで絶版とすると再声明することで不起訴にしたい考えでした。

  ところが美濃部は取調べが終わって小石川竹早町の自宅に帰ると、そこに待ち受けていた新聞記者に、その感想を次のように語りました。

「自分の著書については、かねて前から字句の訂正を加えたいと考えていたのだが、政府が希望するところとはなお隔たりがあるようだ。自分は何も間違ったことを言っているのでもないから、学説を変えるなどということは絶対にあり得ない。」当時他の学者で美濃部に援助を申し出る者は一人もいませんでした。

美濃部が新聞記者に語った感想は軍部を憤慨させ、美濃部を早く起訴しろと司法当局に迫りました。また右翼や在郷軍人会は美濃部を葬れといいう声を大にし、美濃部の家には脅迫電話や投書が殺到しました。

このような情勢の中で、政府(岡田啓介内閣)は、一木喜徳郎や金森徳次郎に疵がつかず、内閣の存立を守るためには、美濃部がすすんでその憲法理論の誤りを認める声明を出し、謹慎の意を表すること、具体的にはには貴族院議員の辞任を望むほかはありませんでした。

美濃部はこのような圧力をなかなか承認しようとはしなかったのですが、彼に対する貴族院議員辞職の勧告はあらゆる方面からなされました。9月に入って美濃部は松本蒸治の説得により公職を辞退する決意を固めました。それは松本が司法省の友人であった中島次官、大森民事局長から、詔勅批判の件で美濃部を起訴せざるを得ないが、美濃部が公職を辞退するなら起訴猶予とするから、何とか辞職の方向にすすめてくれ、とたのまれたためでありました。

「九月九日の夜のことだったと覚えている。(中略)父は案外あっさりと松本博士のすすめに従った。(中略)隣りに住んでいた私も呼ばれ、『亮吉、貴族院をやめることにしたよ』と笑いながら言った。(中略)しかし、父はあくまで、辞職したから起訴猶予になったという形をとりたくない、起訴猶予になってから、世間を騒がして相すまなかったということで公職を辞退することにしたいと主張した。そして父のいい分が通った」(美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」)

 美濃部は公職を辞退するつもりであると述べたので、9月19日、美濃部に起訴猶予の内定がなされました。起訴猶予といっても、美濃部の著書が出版法に抵触しているので、有罪とされたのです。美濃部はこの決定が公表される同月21日貴族院議員辞職を声明しました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む18

 ところが、同じ日、美濃部はその声明を記者団に次ぎのように発表しました。

 「私がひきつづき在職していることはますます貴族院の空気を混乱させるおそれがあると考えたので、私は職を退くのが至当であると思ったのである。もし当時すぐに辞職を申し出たとすれば、私が自ら自分の学説の非なることを認めたものであり、起訴を免れるために公職を辞したものと解せられることは必然であって、それは私の学問的生命を自ら放棄し、醜名を千載に残すものと考えるし、一方には、私自身としては私の著書が法律にふれるとは夢にも思わないが、もし検察当局の意見として法律に背くものと認めらるるとならば、いさぎよく法の裁きを受け、万一有罪と決するならば、甘んじて刑に服するのが私として当然とるべき態度であろうと思ったので、今日までその決心を実行することを差控えていた次第である。

 くれぐれも申し上げるが、それは私の学説を翻すとか、自分の著書の間違っていたことを認めるとかいう問題ではなく、ただ私が議員としての職分を尽すことが甚だ困難となったことを深く感じたためにほかならない。」

 美濃部のこに声明文は、またもや軍部や右翼を刺戟しました。司法省はまたもや困惑し、美濃部に対して、その声明文を取消さない限り、起訴猶予を取消すと迫ったので美濃部も「さきの談話は自分の真意に副わないものだから、これを取消す」と再声明せざるを得ませんでした。

 一方軍の内部にも重大な変化が起っていました。同年7月には真崎甚三郎教育総監が無理矢理に更迭させられました。真崎は機関説排撃の先頭にたつ皇道派の中心人物で、真崎更迭は軍内部の統制派と皇道派の抗争のあらわれであり、真崎罷免を激怒した相沢三郎中佐は8月12日白昼、統制派の実力者永田鉄山(陸軍少将)軍務局長を陸軍省内の局長室で刺殺しました。

クリック20世紀―年表ファイルー1935/8/12 相沢事件

 このような事件は美濃部問題とは直接つながらないが、軍部を狂的にファッショ化する契機となりました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む19

 美濃部は貴族院議員を辞職して以来、新築の吉祥寺の自宅に引込みました。当時、この界隈はまだひらけていず、檪(くぬぎ)林の武蔵野がそのまま残っていました。

 そうした隠退生活に入った美濃部のもとには、依然として右翼からの脅迫状が絶えなかったのです。彼の親友たちは彼の身辺を気づかい、また警察でも常時自宅の周囲に護衛の警官を配置していました。

1936(昭和11)年2月20日第19回総選挙があり、天皇機関説をもっとも攻撃していた政友会は惨敗、鈴木喜三郎政友会総裁は落選、その反面機関説に消極的だった民政党が進出し、無産政党も5名から21名に躍進しました。国民は軍部ファッショが戦争を誘発する危機を感じとっていたのでしょう。

 総選挙の結果が新聞に発表された同月21日の午前8時過ぎに自動車が美濃部宅に着き、黒い木綿の着物と同じ羽織を着て袴をはいた30前後の男が果物籠を提げて降りました。

 ちょうど、その時、護衛の警官たちは裏の檪林に雉を見つけたというので、そっちのほうにまわっていました。門前に残っていたのは磯山という若い巡査だけでした。彼は客を格別不審に思わず、客が玄関のベルを押すのを見送りました。

 玄関にでた夫人に「福岡市天神町、元判事弁護士 小田俊雄」の名刺を差し出し、自分はかつて東大法科に学び、先生の講義を受けた者であるが、上京を機会にぜひ先生の謦咳(けいがい)に接したい、といいました。

鐘華会ホームページー高砂支部―高砂文庫―吉田登 美濃部達吉の妻多美

について

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む20(最終回)

その名刺を見た美濃部は、数多い教え子の一人であろうと思い、応接間に通しました。その男はもっていた果物籠を美濃部に差出すのではなく、自分の横にぴったりと置いていました。

 小田弁護士と称する男は、時局問題などについて美濃部にいろいうろ質問しましたが、その眼つきの少しく鋭いことを除けば、者柔かくて静かでした。話は2時間近くもかかりましたが、最後に小田は果物籠からたたんだ奉書のような紙を差出しました。

 美濃部が何気なく披いてみると、いきなり「天誅(てんちゅう)」という大きな字がありました。つづいて、「逆徒美濃部達吉、皇国に生を享け、皇恩の無窮一門一統に及び、身は社会の上流に位し、飢餓を知らず、旦(あした)霜を踏みて田を耕する労苦を知らず、夕(ゆうべ)にー」とか「「皇国に弓を引き、臣民の大義を忘れ、汝堂々天皇は国家の統治の機関なりと主張し、その不臣たる観念たるや逆徒足利尊氏にまさりー」とか「汝を誅し大義名分を正す」といった文字が走り読みする彼の眼に飛び込みましだ。

 おどろいた美濃部はすぐに立ち上がり、帰りなさい、といいました。小田の手には再び果物籠の中に突っこまれました。美濃部が見たのは、その手に黒く光る拳銃でした。

 美濃部は跣足のまま玄関から外に走り出しました。男はあとから追い、一発を放ちました。これは美濃部の右足に当りました。結局兇漢を取押さえたのは磯山巡査でした。

 この事件は外部を刺戟することをはばかって、当局は新聞記事の掲載を禁止しました。美濃部は即日自動車で大学病院に送られ、脚の銃弾を抜き取る手術を受けたのですが、その入院は外部に絶対秘密とされ、病室も小児科の伝染病室でした。

 それから5日たった26日の早朝、美濃部宅と病院に警視庁から電話がかかって「いま陸軍の部隊が首相官邸はじめ、ほうぼうを襲撃しているが、その一部はそちらに向うかもしれないので、用心するようにー」と昂奮した様子で告げました。-二・二六事件の発生であったのです(松本清張「前掲書」・第22章 暴力ざた 美濃部に対して 宮沢俊義天皇機関説事件」下 有斐閣)。