読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 1~10

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 1

[美濃部亮吉美濃部達吉の長男、東京教育大教授を経て東京都知事などを歴任)「苦悶するデモクラシー」文芸春秋]は1958(昭和33)年6月号から1959(昭和34)年1月号まで「文芸春秋」に連載したものを1冊にまとめ1959(昭和34)年3月出版したものです。本書はベストセラーとなり、毎日出版文化賞を受賞しました。それは1919(大正8)年から1940(昭和15)年までの間に起った、言論の自由に対する圧迫の個々の事件について具体的に書いたものです。本書は1968(昭和43)年に再版されました。本稿においては、「同上書」第三章だけを、他の記録や資料とともにご紹介するにとどめます。

  美濃部達吉(「男子の本懐」を読む27参照)は、1873(明治6)年5月7日父美濃部秀芳・母悦の次男としてに相生(あいおい)の松で有名な兵庫県高砂で生まれました。

高砂神社―『相生の松』と『尉と姥』―境内案内―五代目相生松

 父秀芳は医者でしたが、あまりはやらず、まちの子供たちに習字や漢学を教えて、主としてその月謝でくらしていたらしく、その生活もあまりゆたかではなかったようです。

ひろかずのブログー高砂市を歩く(41・46)申義堂研究(1・6)

ひろかずのブログー高砂市を歩く(77~79)美濃部達吉①~③

 達吉は子供のころから極端に人付き合いが悪く、鼻も悪くて洟をたらしていたが、神童といわれ、小学校6年の課程をとび抜けて進級、3~4年で終了しました。中学は高砂に近い小野中学校でしたが、その時の様子を知っている人がいないので、よくわかりません。しかい小学校・中学校とも、本にかじりついて、くそ勉強するというたちではなかったようです。

 のちに達吉は兄俊吉とともに地元の金持ちの援助による出世払いの約束で東京に遊学、第一高等学校に入学したときは、一年生のときチフスを患い、一年まるまる休学しましたが、二年への編入試験に及第し、そのまま三学年に入ったのです。亮吉は酒にほろ酔い機嫌の父達吉からよくこの自慢話を聞かされました。

華麗なる旧制高校巡礼―第一高等学校

/ 東大で美濃部は穂積八束(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)の憲法行政法の講義を聞きました。しかし一年おき交替の一木喜徳郎(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)の講義が彼を最も惹きつけたようです。彼の憲法論における天皇機関説は一木の強い影響があります。

 1897(明治30)年東京帝国大学法科大学を卒業したときは二番でした。学校のことは一向に勉強せず、親譲りの酒好きで酒ばかりの呑んでいたためだといわれています(美濃部亮吉「前掲書」)。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 2

 美濃部は大学に残れませんでした。一説によると、穂積八束に敬遠されたためといわれています。美濃部はやむなく内務省に入りましたが、同様の経歴をもつ一木が美濃部に同情したのでしょう。美濃部は間もなく内務省を辞め、帝大に戻って助教授となりました。

 1899(明治32)年、美濃部はヨーロッパに留学、大部分をドイツで暮しましたが、ハイデルベルク大学のイエリネックの学説に傾倒しました。美濃部にはイエリネックの「人権宣言論」の訳業があるほどです。しかしイエリネックの講義をきくことはしなかったようですぅ。

 1902(明治35)年に帰朝した美濃部は帝大法科教授に任命され、翌年、当時文部大臣で数学の菊池大麓の長女民子(多美子 亮吉の母)と結婚しました。仲人は一木喜徳郎でした(美濃部亮吉「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―きー菊池大麓

 大体、明治憲法は、明治十四、五年ころから起った自由民権運動の思潮に押されてつくられた点を考慮にいれなければならなりません。したがって、明治憲法は封建的な専制政治の面と民主主義的な面との二つを持っていました。美濃部の学説は、明治憲法を最大限度に民主主義的に解釈しようとしたものであります。

 明治憲法は、『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』(第一条)とのべ、『天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権を総攬』(第四条)するものと表現しました。そして、さらに、統治権の総攬者である天皇について、まったく反対の性格を持たせる二つの表現を加えました。その一は、第四条の後半で、『此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ』と規定して、天皇専制君主としてかってなまねができないようにした点であります。そして第二は、第三条の『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』という天皇神格化の規定であります。この規定は、絶対君主をまず君主制一般としてとらえ、それを立憲君主的にする条文を加える半面、専制君主ともなしうる条文をもつけ加えておいたわけであります。

 天皇の大権を絶対無制限なものと考えたのは、明治時代、すでに穂積八束の学説があります。これに対して、東京帝国大学教授一木喜徳郎は、天皇の大権は立憲的立場から制限され得るものとしました。この二つの系統は上杉慎吉(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造21参照)と美濃部達吉とにそれぞれ継承されたのです(松本清張天皇機関説」昭和史発掘6 文芸春秋)。

 美濃部学説を、簡単にいうと、国家を主権者のある法人的団体と見なす考え方であります。日本の場合、この法人の主権者は天皇の「大権」で、この大権は天皇が勝手に行使するものではなく、国民の利益の上に立って行使されます。つまり、天皇の独裁の範囲を縮小し、それだけ議会のの権限を拡大するという一種の議会在権的なものでした。

 まず、世間に誤解を与えたのは、天皇機関説の「機関」という名でありました。機関といえば、機関車とか、、自動車のエンジンだとかいった機械のことを思い出します。そこで、万世一系の至尊を、そんな機械になぞらえるとは怪しからんという論が起ってきます。

 だか、美濃部のいう「機関」とはそんな意味ではありません。これについては早稲田大学教授浮田和民の言葉が妥当でしょう。

「美濃部博士が天皇は国家の最高機関なりと言ったので頗る不敬なる用語を為したるものとせられて居るが、学問上の研究に用ゆる言葉には元来不敬の論を挟む可きものではない。それは全く別問題である。機関というに二種の意味がある。一は器械学上の意味で、喞筒(ポンプ)を機関と言い又は蒸気機関というが如き是れである。二つには生物学上の意義で、脳髄や心臓、肺臓などを機関ということがある。此の意義ならば国家学に適用して差支はない。」(「無用なる憲法論」太陽第18巻第14号)

歴史が眠る多摩霊園―著名人―著名人全リストーあーうー浮田和民

 もっとも明治期には天皇の大権をめぐって二つの学説があるということだけで、両者の間に華々しい論争もなかったのです。

  問題の発端は、1912(明治45)年、美濃部達吉が書いた「憲法講話」(明治45年有斐閣刊行の復刻版 ゆまに書房)によって起されました。この著書は、その前年、、文部省の委嘱によって美濃部が中等教員夏季講習会で行った講演の速記を基礎とし、これに手を加えたものです。

 美濃部は「憲法講話」の序文に次のような意味のことを書いています。「憲政の知識が一般に普及していないことはほとんど意外なほどである。専門の学者で憲法のことを論ずる者の間にすら、なお言葉を国体に借りてひたすら専制的な思想を鼓吹し、国民の権利を抑えて、その絶対の服従を要求し、立憲政治の仮装のもとに、その実は専制政治を行おうする主張がしばしば聞かれる。私は憲法の研究に従う一人として、多年この有様を見て嘆き、もし機会があらば、国民教育のために平易に憲法の要領を述べた本を出したいと思っていた。そして、この本では憲法の根本精神を明らかにし、一部の人の間に流布されている変装的専制政治の主張を排することにもっとも努めた」

 こういって、彼は天皇の権力よりも議会の権力を重視しなければならないと主張しました。この序文に書かれた変装的専制政治の主張者とは、暗に穂積八束上杉慎吉を指しているのです。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 3

上杉慎吉は1878(明治11)年の生まれで、1903(明治36)年に東京帝国大学法科大学を卒業しました。彼はすこぶる好男子であったから、まる一年、吉原の花魁(おいらん)に世話されて、毎日遊廓から学校に通いました(根拠のあやしい噂話 第24章 戦後の証言 松本清張 宮沢俊義天皇機関説事件―史料は語るー」下 有斐閣)。それでいて卒業時に彼はちゃんと恩賜の銀時計をもらっています。この年大正デモクラシーの本尊吉野作造(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造参照)は同じく法科大学三年生でした。

YAHOO知恵袋―恩賜の銀時計について

 上杉の才能を見込んだ教授穂積八束は彼を呼んで自分の後継者にあてようとしたが、上杉は自分の放蕩癖を理由に一度は固辞しました。

 卒業と同時に上杉は講師をとび越えて、いきなり法科大学の助教授となったのです。

当時の彼は憲法学説では一木説の「国家法人説」「君主機関説」を信じていました。彼は1906(明治39)年から1909(明治42)年の間ドイツに留学しました。上杉慎吉もイエリネックの家に下宿していたのに、帰国後の上杉は急に国粋的になって、穂積八束憲法説の遵奉者になりました。その動機や理由がよく分かりません。上杉の講義は非常に面白く、奇智に富み、逆説的なことをいうのが得意で、脱線が甚しかったようです。

 上杉慎吉が美濃部の「憲法講話」を最初に非難したのは、ある県の教育会の席上で、なした講演をまとめた『国民教育・帝国憲法講義』という本でした。

 名目は中等学校教師相手の通俗講演だったが、目標は美濃部学説の攻撃であったのです。上杉は次のように美濃部学説を批判しています。

 「民主主義」(当時は反君主制を意味する)とは「人民があってはじめて君主がる」という「革命を意味する危険な思想」であると断じ、「君主ありて人民があり」という「歴史を無視して」君主国を転覆したためにフランス革命は失敗したのだと云いました。

 さらに上杉は、人民の性格は「絶対無制限の服従にある」といい、「国会はただ、天皇が政務を行わるるがために使用せられる所の機関である、事務所である」と規定し、美濃部の「君主は国家の機関であるとみる」説に反対して、「機関と申せば他人の使用人である、他人の手足である」ときめつけました(松本清張天皇機関説」昭和史発掘6 文芸春秋)。

これに対して美濃部達吉は「『帝国憲法講義』を評す」を発表して上杉の非難に答えました。美濃部は「国家は一つの団体であり、その団体自身が統治権の主体であると見るべきことは、今日の進歩したる学者の間には殆ど定説ともいうべきもので、これは君主主義の国たると民主主義の国たるとに少しも関係はない。

 しかるに著者(上杉慎吉)は之を批評して、その説は『やっぱり民主主義であります』と一言にして排斥し去って、読者をして恰もこの説を唱うる者は総て民主主義の人であるかの如く思わしむるのは、人を誣(し)うるの甚しいものである」と反撃しました。

 美濃部のこの反撃に対して、上杉慎吉は、雑誌「太陽」第18巻第8号大正元年8月号)に掲載された「国体に関する異説」という論文で大要つぎのように述べました

 「憲法講話が出ると、世間では美濃部博士と私とを以て好敵手でるという者がある。しかし私は美濃部君と相戦う意志はない。私は君と戦う能力がなく、かつ戦おうと欲するものではない。私は憲法を講ずるのに一生懸命であって、いささかの余裕もないのである。自己の学説は必ずかくのごとくでなければならないと信じている故に私はこれを云っているのである。美濃部博士がもしこの私の論文に対して弁駁を加えることがあっても、私はやはり同じことを繰返すだけであろう。」

 学界のそれまでの評価では、上杉の学力は美濃部のそれに及ばぬものとされていました。美濃部の論理は緻密で、その学問は上杉の神がかり的な直観主義とは対照的でした。ただ、美濃部があまりに学究的なために、人間味の点でははるかに上杉に譲ったということでした。つまり、あんまりおもしろい男ではなかったのです。

 明治の終りから大正の初ににかけて行われた美濃部・上杉の天皇機関説論争は法学界だけの問題で収り、。火の手は学界の垣根をこえて外に燃え移ることなく済みましだ。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 4

 だが、もちろん、支配階級や官僚派は美濃部の勝利に不満でした。当時の検事総長平沼騏一郎(「日本の労働運動」を読む47参照)はこういっています。

 「天皇機関説であるが、当時は誰も怪しまなかった。美濃部は判っていない。西洋流で勝ったにすぎぬ。司法省辺りでも若い者は、美濃部の方が偉いですねという。そこで一体日本の天皇を機関などと言うべきか、以後そんなことは言うなと叱ったことがある。

 あのとき山県(有朋)公は平沼の意見を聞いてこいと、学者を使者によこされた。そこで私は答えた。天皇を機関等と言うのは乱臣賊子だ。

 後にその使者に来た人に会った時、山県公も、平沼の言う通りだと言って居られたと言うことであった。」(平沼騏一郎回顧録編纂委員会「平沼騏一郎回顧録」)

 平沼談話のごとく、この時点では、さすがの山県も自由主義の時勢に押されてか、沈黙せざるをえなかったとみえます。このことは、穂積・上杉のあと、その直系の研究者が出てこなかったためにもよるのでしょう。

 これに反して、美濃部の学説は傍流ながらも若い研究者に影響を与えたため、多くの研究志望者が彼のもとに集りました。上杉の死後、美濃部派が実質的には東大の主流となったようなものです。あとを宮沢俊義が受け継ぐことになりました。

Weblio辞書―検索―宮沢俊義

 1920(大正9)年、美濃部は上杉の憲法講座と並んで憲法第二講座を担当するようになりました。彼は高等文官試験、外交官試験等の委員に選任され、1932(昭和7)年には貴族院議員にも勅選されました[ 1934(昭和9)年3月東大教授を定年退官 ]。このころが美濃部のもっとも恵まれた時代であったのです。

 しかし時代は少しずつ変ってきていました。昭和初年の浜口内閣による緊縮政策が空前の不況を誘い、農村の疲弊、都会の失業者の増加は 民主主義的風潮を根こそぎに国家主義に変えて行く絶好の機会になりました。

 1930(昭和5)年若槻礼次郎が首席全権となってロンドンで開かれた海軍軍縮会議は、ついに英米側の主張に押し切られて、日本は補助艦の比率でも大譲歩しなければなりませんでした。海軍はこれを不満とし、軍令部の承認しない軍事関係の条約は無効だと主張しました。

 浜口内閣は美濃部に意見を求めました。美濃部は憲法理論にもとづいて、海軍の軍縮に関する問題は政治問題であり、軍令部の口を出すべき事柄ではないと答えました。浜口内閣は、こうした美濃部の主張を参考にし、海軍を屈服させたのです。

 海軍は軍令部長加藤寛治を直接天皇に拝謁させ、条約拒絶の意見を述べさせようとしました。これを侍従長鈴木貫太郎が阻止したため、軍令部長の上奏は行われませんでした(鈴木貫太郎伝記編纂委員会「鈴木貫太郎伝」)。しかし、政府が兵力数を決めたのは天皇統帥権に関与したものであるとして、海軍から大権干犯問題(「男子の本懐」を読む27参照)が起されました。美濃部はあくまでも法理論から、条約は内閣で決めるものだといい、浜口首相はその理論通りに主張して、枢密院を屈服させたのです。統帥部は兵力の問題を決めるべきものでないと主張して海軍の恨みを買ったのです。

 1931(昭和6)年に起った満州事変(「男子の本懐」を読む37参照)では、美濃部は陸軍の横暴をたしなめて、陸軍の敵意を買いました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 5

 1932(昭和7)年5.15事件で犬養毅首相が海軍青年将校らに暗殺され(「花々と星々と」を読む39~40参照)、同政友会内閣が倒壊すると、同年5月26日斎藤実(「労働運動二十年」を読む16参照)内閣(政友・民政両党入閣の挙国一致内閣)が成立、政党内閣の慣例に終止符が打たれました。

1934(昭和9)年10月、陸軍省は「国防の本義と其の強化の提唱」というパンフレットを出しました。美濃部は、それまで機会あるごとに時事問題を論じ、軍部を抑えて議会に声援を送っていましたが、彼はこのパンフレットを見てただちに「中央公論」の誌上に筆を執り、「陸軍省発表の国防論を読む」を発表しました。

 美濃部は、その中でこう書いています。「この小冊子をよんで第一に感じられるのは、その全体を通じて好戦的、軍国主義的な思想の傾向が著しく現れていることである。劈頭第一に『たたかいは創造の父、文化の母である』とあって、戦争賛美の文句で始まっている。戦争は創造とは逆にこれを破壊するものである。学術や産業は全く度外視され、いつに国防すなわち国家の戦争能力のみに国家の生成発展が依存するように論じられている。

 世界を敵としてどうして国家の存立を維持することが出来ようか。それは結局国家の自滅を目指すものである。」

 1934(昭和9)年1月17日時事新報は「番町会問題をあばく」の連載を開始、これが帝人事件の端緒となりました。

クリック20世紀―年表ファイルー1934/04/18 帝人事件発覚

 同年7月3日斎藤実内閣は帝人事件で総辞職、元老西園寺公望は重臣と協議した結果を天皇に奏上、7月8日岡田啓介内閣(政友・民政両党入閣、政友会は入閣者を除名)が成立しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―おー岡田啓介 

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 6

 この帝人事件の取り調べの段階で、被告たちは革手錠をはめられて検事に訊問されていたことが被告の手記などで判明しました。逃亡のおそれのない、しかも社会的地位のある人々を強殺犯の被告と同様な扱いにしたことになり、さらに検事(背後勢力 平沼騏一郎)が被告に不利な自白を強要したという疑いが強くなりました。

 翌年1月23日貴族院本会議で美濃部は帝人事件をめぐる検事の人権蹂躪に関すて演説を行っています。時の法相は小山松吉で、貴族院での小山・美濃部の応酬は新聞に大きく報道されました。

 美濃部は検察当局の監督問題として、小山法相に次のような趣旨の質問を行いました。

 「今回の帝人事件については、しばしば検察当局に不当行為があるという噂を聞いたが、去る臨時議会岩田宙造博士(帝人事件被告弁護人)がこの点に言及せられたのを聞いて、私も疑惑を抱くようになったのである。私が疑問を抱くのは要約すると次の二点からである。その一は検事側が被告たちに対して不法の拘留があったのではないかという点だ。第二は、証拠の蒐集、被疑者の取調べに当って暴行凌辱(りょうじょく)行為がなかったかどうか。この二点について私は司法大臣に質問したいのである。

 実例をいえば、帝人事件の被疑者である岡崎旭(帝人常務)は、任意出頭の形式で大阪府警察部に喚ばれたが、そのまま二畳半の不潔な場所に8人の者と同居させられたまま留置されたが、此の際は何ら法的手続きがとられなかった。

また永野護帝人監査役)に対する革手錠の問題であるが、法相は自殺のおそれがあるによって革手錠をはめたといわれ、其の理由とされているようであるが、革手錠はむしろ被告を苦しめるためにはめたものとしかいわれない。」

 小山法相は美濃部博士のいわれたような事実はないと答弁しました。

 帝人事件はある意味で斎藤内閣打倒を志す平沼騏一郎と右翼・軍部の合作陰謀でもありました。とすれば検察当局を弾劾した美濃部が再び軍部に睨まれるのは当然です。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 7

 1935(昭和10)年2月19日菊池武夫貴族院美濃部達吉天皇機関説を大要つぎのように批判攻撃しました。

 文部大臣は、憲法の議論のことは学者に任すがよろしかろう、おれは天皇機関説に反対だ、こういうのである。

 ちょうど都合のいいようなことだから、国家といえば何でもいいかというようなことで、ドイツの学問の輸入じゃございませんか。みんなドイツへ行って学んできた者が、説が無いから種をお売りになる。なにも偉い独創なんぞいう頭は微塵もない。学者の学問倒れで、学匪(がくひ 匪は賊という意味)となったのでございます。

 ドイツはドイツでございます。共和国は共和国、おのおの学理をつくっている。日本は日本でです。日本憲法は独立した日本憲法、どこにこれが西洋の理論で行かねばならぬか、こういうものを学者の考究に任せるということはない。

 しかるに、美濃部博士にしても一木喜徳郎博士のものにいたしましても、恐ろしいことが書いてある。議会は、天皇の命に何も服するものじゃない、こういうような意味に書いてある。実におどろくべき私はお考えであると思う。」

 これに対して美濃部達吉は同年2月25日貴族院本会議で「一身上の弁明」を行い、反論しました。その全文は次の通りです(宮沢俊義天皇機関説事件  上 有斐閣)。

 「去る二月十九日の本会議に於きまして、菊池男爵其他の方から、私の著書のことに付きまして御発言がありましたに付き、茲に一言一身上の弁明を試むるの己むを得ざるに至りました事は、私の深く遺憾とする所であります。

 菊池男爵は昨年六十五議会に於きましても、私の著書の事を挙げられまして、斯の如き思想を懐いて居る者は文官高等試験委員から追払ふが宜いと云ふ様な、激しい言葉を以て非難せられたのであります。今議会に於きまして再び私の著書を挙げられまして、明白な叛逆的思想であると言われ、謀反人であると言われました。又学匪であると迄断言されたのであります。日本臣民に取りまして反逆者である、謀反人であると言われまするのは侮辱此上もない事と存ずるのであります。又学問を専攻して居ります者に取つて、学匪と言われます事は、等しく堪へ難い侮辱であると存ずるのであります。

私は斯の如き言論が貴族院に於て、公の議場に於て公言せられまして、それが議長からの取消の御命令もなく看過せられますことが、果して貴族院の品位の為に許され得る事であるかどうかを疑う者でありまするが、それは兎も角と致しまして、貴族院に於て、貴族院の此公の議場に於きまして、斯の如き侮辱を加へられました事に付ては、私と致しまして如何に致しても其儘には黙過し難いことと存ずるのであります。本議場に於きまして斯の如き問題を論議する事は、所柄甚だ不適当であると存じまするし、又貴重な時間を斯う云うことに費しまするのは、甚だ恐縮に存ずるのでありますし、私と致しましても不愉快至極の事に存ずるのでありまするが、万己むを得ざる事と御諒承を願いたいのであります。

凡そ如何なる学問に致しましても、其学問を専攻して居りまする者の学説を批判し、其当否を論じまするには、其批判者自身が其学問に付て相当の造詣を持つて居り、相当の批判能力を備えて居なければならぬと存ずるのであります。若し例えば私の如き法律学を専攻して居まする者が軍学に喙を容れまして、軍学者の専門の著述を批評すると云うようなことがあると致しますならば、それは、唯物笑に終るであらうと存ずるのであります。

Exciteブログ 人気タグ(写真)のブログをまとめ読みー天皇機関説問題

 私は菊池男爵が憲法の学問に付て、どれ程の御造詣があるのかは更に存じない者でありますが、菊池男爵の私の著書に付て論ぜられて居りまする所を速記録に依つて拝見いたしますると、同男爵が果して私の著書を御通読になつたのであるか、仮りに御読みになつたと致しましても、それを御理解なされて居るのであるかと云うことを深く疑う者であります。恐らくは或他の人から断片的に、私の著書の中の或片言隻句を示されて、其前後の連絡も顧みず、唯其片言隻句だけを見て、それをあらぬ意味に誤解されて、軽々に是は怪しからぬと感ぜられたのではなかろうかと想像せられるのであります。若し真に私の著書の全体を精読せられ、又正当にそれを理解せられて居りまするならば、斯の如き批判を加えらるべき理由は断じてないものと確信いたすのであります。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 8

 菊池男爵は私の著書を以て我国体を否認し、君主主権を否定するものの如くに論ぜられて居りますが、それこそ実に同君が私の著書を読まれて居りませぬか、又は読んでもそれを理解せられて居られない明白な証拠であります。我が憲法上、国家統治の大権が天皇に属すると云うことは、天下万民一人として之を疑うべき者のあるべき筈はないのであります。憲法の上諭には「国家統治ノ大権ハ朕力之ヲ祖宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ」と明言してあります。又憲法第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。更に第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ」とあるのでありまして、日月の如く明白であります。若し之をして否定する者がありますならば、それには反逆思想があると言われましても余儀ない事でありましょううが、私の著書の如何な場所に於きましても之を否定して居る所は決してないばかりか、却てそれが日本憲法の最も重要な基本原則であることを繰返し説明して居るのであります。

例えば、菊池男爵の挙げられました憲法精義十五頁から十六頁の所を御覧になりますれば、日本の憲法の基本主義と題しまして、其最も重要な基本主義は日本の国体を基礎とした君主主権主義である、之は西洋の文明から伝わつた立憲主義の要素を加えたのが日本の憲法の主要な原則である、即ち君主主権主義に加うるに立憲主義を以てしたのであると云う事を述べて居るのであります。又それは万世動かすべからざるもので、日本開闢以来曽て変動のない、又将来永遠に亘って動かすべからざるものであると云うことを言明して居るのであります。他の著述でありまする憲法撮要にも同じ事を申して居るのであります。菊池男爵は御挙げになりませぬでありましたが、私の憲法に関する著述は其外も明治三十九年には既に日本国法学を著して居りまするし、大正十年には日本憲法第一巻を出版して居ります。更に最近昭和九年には日本憲法の基本主義と題するものを出版いたして居りまするが、是等のものを御覧になりましても君主主権主義が日本の憲法の最も貴重な、最も根本的な原則であると云ふ事は何れに於きましても詳細に説明いたして居るのであります。

Weblio辞書―検索―菊池武夫(陸軍大将)

 唯それに於きまして憲法上の法理論として問題になりまする点は、凡そ二点を挙げることが出来るのであります。第一点は、此天皇の統治の大権は、天皇の御一身に属する権利として観念せらるべきものであるが、又は 天皇が国の元首たる御地位に於て総攬し給ふ権能であるかと云う問題であります。一言で申しまするならば 天皇の統治の大権は法律上の観念に於て権利と見るべきであるか、権能と見るべきであるかと云うことに帰するのであります。第二点は、 天皇の大権は絶対に無制限な万能の権力であるか、又は憲法の条規に依つて行はせられまする制限ある権能であるか、此二点であります。私の著書に於て述べて居まする見解は、第一には、天皇の統治の大権は、法律上の観念としては権利と見るべきものではなくて、権能であるとなすものでありまするし、又第二に、それは万能無制限の権力ではなく、憲法の条規によつて行わせられる権能であるとなすものであります。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 9

此の二つの点が菊池男爵其他の方の御疑を生じた主たる原因であると信じまするので、成るべく簡単に其要領を述べて御疑を解くことに努めたいと思うのであります。

第一に、天皇の国家統治の大権は、法律上の御一身に属する権利と見るべきや否やと云う問題でありますが、是は法律学の初歩を学んだ者の熟知する所でありまするが、法律学に於て権利と申しまするのは、利益と云う事を要素とする観念でありまして、自己の利益の為に……自己の目的の為に存する法律上のカでなければ権利と云う観念には該当しないのであります。或人が或権利を持つと云うことは、其力を其人自身の利益の為に、言換れば其人自身の目的の為に認められて居ると云うことを意味するのであります。即ち権利主体と云えば利益の主体、目的の主体に外ならぬのであります。従つて国家統治の大権が天皇の御一身上の権利であると解しますならば、統治権が天皇の御一身の利益の為め、御一身の目的の為に存するカであるとするに帰するのであります。

そう云う見解が果して我が尊貴なる国体に通ずるでありましょうか。我が古来の歴史に於きまして如何なる時代に於ても天皇が御一身御一家の為に、御一家の利益の為に統治を行はせられるものであると云う様な思想の現われを見ることは出来ませぬ。天皇は我国開闢以来、天の下しろしめす大君と仰がれ給うのでありますが、天の下しろしめすのは決して御一身の為ではなく、全国家の為であると云う事は古来常に意識せられて居た事でありまするし、歴代の天皇の大詔の中にも、其事を明示されて居るものが少くないのであります。日本書紀に見えて居りまする崇神天皇の詔には「惟ふに我が皇祖、諸諸の天皇の宸極に光臨し給いしは豈一身の為ならむや、蓋し人神を司牧して天下を経倫する所以なり」とありまするし、仁徳天皇の詔には「其れ天の君を立つるは是れ百姓の為なり、然らば則ち君は百姓を以て本とす」とあります。

西洋の古い思想には国王が国を支配する事を以て、恰も国王の一家の財産の如くに考えて、一個人が自分の権利として財産を所有して居りまする如くに、国王は自分の一家の財産として国土国民を領有し支配して、之を子孫に伝えるものであるとして居った時代があるのであります。普通に斯くの如き思想を家産国思想、「パトリモニアル・セオリイ」家産説、家の財産であります家産説と申して居ります。国家を以て国王一家の財産の如くに看做すのであります。そう云う思想から申しますならば、統治権は国王の一身一家に属する権利であると云うことに帰するのであります。斯の如き西洋中世の思想は、日本の古来の歴史に於て曾て現われなかつた思想でありまして、固より我国体の容認する所ではないのであります。

伊藤(博文)公の憲法義解(宮沢俊義校註 岩波文庫)の第一条の註には「統治は大位に居り大権を統へて国土及臣民を治むるなり」、「蓋祖宗其天職を重んじ、君主の徳は八洲臣民を統治するに在つて一人一家に享奉するの私事にあらざることを示されたり、是れ即ち憲法の依て以て基礎をなす所以なり」とありますのも、是も同じ趣旨を示して居るのでありまして、統治が決して天皇の御一身の為に存するカではなく、従て法律上の観念と致しまして、天皇の御一身上の権利として見るべきものではない事を示して居るのであります。

古事記には、天照大神が出雲の大国主命に問わせられました言葉といたしまして、「汝がうしはける葦原の中つ国は我か御子のしらさむ国」云々とありまして、「うしはく」と云う言葉と「しらす」と云う言葉と書き別けしてあります。或国学者の説に依りますと、「うしはく」と云うのは私領と云ふ意味で、即ち自分の一身一家の為め土地人民を自分のものとして私領することを意味し、「しらす」は統治の意味で、即ち天下の為に土地人民を統べ治めることを意味すると云うことを唱えて居る人があります。此説が正しいかどうか私は能く承知しないのでありますが、若し仮りにそれが正当であると致しまするならば、天皇の御一身の権利として統治権を保有し給うものと解しまするのは、即ち天皇は国を「しらし」給うのではなくして国を「うしはく」ものとするに帰するのであります。それが我が国体に適する所以でないことは明白であらうと思います。

統治権は、天皇の御一身の為に存する力ではなく、従つて天皇の御一身に属する私の権利と見るべきものではないと致しまするならば、其権利の主体は法律上何であると見るべきでありましょうか。前にも申しまする通り権利の主体は即ち目的の主体でありますから、統治の権利主体と申せば即ち統治の目的の主体と云うことに外ならぬのであります。而して天皇が天の下しろしめしまするのは、天下国家の為であり、其の目的の帰属する所は永遠恒久の団体たる国家に外ならぬのでありまするから、我々は統治の権利主体は団体としての国家であると観念いたしまして、天皇は国の元首として、言換れば、国の最高機関として此国家の一切の権利を総攬し給い、国家の一切の活動は立法も行政も司法も総て、天皇に其最高の源を発するものと観念するのであります。是が所謂機関説の生ずる所以であります。

所謂機関説と申しまするのは、国家それ自身を一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、即ち法律学上の言葉を以て申せば一つの法人と観念いたしまして 天皇は此法人たる国家の元首たる地位に在しまし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給い、天皇憲法に従つて行わせられまする行為が、即ち国家の行為たる効力を生ずると云うことを言い表はすものであります。

Weblio辞書―検索―法人

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む10

国家を法人と見ると云うことは、勿論憲法の明文には掲げてないのでありまするが、是は憲法法律学の教科書ではないと云うことから生ずる当然の事柄であります。が併し憲法の条文の中には、国家を法人と見なければ説明することの出来ない規定は少からず見えて居るのであります。憲法は其の表題に於て既に大日本帝国憲法とありまして、即ち国家の憲法であることを明示して居りますのみならず、第五十五条及び第五十六条には「国務」といふ言葉が用いられて居りまして、統治の総べての作用は国家の事務であると云うことを示して居ります。第六十二条第三項には「国債」及び「国庫」とありまするし、第六十四条及び第七十二条には「国家の歳出歳入」と云う言葉が見えて居ります。又第六十六条には、国庫より皇室経費を支出すべき義務のあることを認めて居ります。総て是等の文字は国家自身が公債を起し、歳出歳入をなし、自己の財産を有し、皇室経費を支出する主体であることを明示して居るものであります。即ち国家それ自身が法人であると解しなければ、到底説明し得ない処であります。其の他国税と云い、国有財産と云い、国際条約というような言葉は、法律上普く公認せられて居りまするが、それは国家それ自身が租税を課し、財産を所有し、条約を結ぶものであることを示して居るものであることは申す迄もないのであります。即ち国家それ自身が一つの法人であり、権利主体であることがは、我が憲法及び法律の公認するところであると言わねばならないのであります。

併し法人と申しますると一つの団体であり、無形人でありまするから、其権利を行いまする為には、必ず法人を代表するものがあり、其者の行為が法律上法人の行為たる効力を有する者でなければならぬのでありまして、斯の如き法人を代表して法人の権利を行う者を、法律学上の観念として法人の機関と申すのであります。率然として天皇が国家の機関たる地位に在ますと云うようなことを申しますると、法律学の知識のない者は、或は不穏の言を吐くものと感ずる者があるかも知れませぬが、其意味するところは天皇の御一身、御一家の権利として統治権を保有し給うのではなく、それは国家の公事であり 天皇は御一身を以て国家を体現し給い、国家の総ての活動は、天皇に其最高の源を発し、 天皇の行為が天皇の御一身上の私の行為としてではなく、国家の行為として、効力を生ずることを言い表はすものであります。例えば憲法明治天皇の欽定(「大山巌」を読む27参照)に係るものでありまするが、明治天皇御一個御一人の著作物ではなく、其名称に依つても示されて居りまする通り、大日本帝国憲法であり、国家の憲法として永久に効力を有するものであります。条約は憲法十三条に明言して居りまする通り、天皇の締結し給うところでありまするが、併しそれは国際条約、即ち国家と国家との条約として効力を有するものであります。若し所謂機関説を否定いたしまして、統治権は 天皇御一身に属する権利であるとしますならば、その統治権に基いて賦課せられまする租税は国税ではなく、天皇の御一身に属する収入とならなければなりませぬし、天皇の締結し給う条約は国際条約ではなくして、天皇御一身としての契約とならねばならぬのであります。其外国債と云い、国有財産と云い、国家の歳出歳入と云い、若し統治権が国家に属する権利であることを否定しまするならば、如何にして之を説明することが出来るのでありましょうか。

勿論統治権が国家に属する権利であると申しましても、それは決して天皇が統治の大権を有せられることを否定する趣意ではないことは申す迄もありませぬ。国家の一切の統治権は天皇が之を総攬し給うことは憲法の明言して居る処であります。私の主張しまする所は唯天皇の大権は天皇の御一身に属する私の権利ではなく、天皇が国家の元首として行わせらるる権能であり、国家の統治権を活動せしむるカ、即ち統治の総べての権能が天皇に其最高の源を発するものであると云うに在るのであります。それが我が国体に反するものでないことは勿論、最も良く我が国体に通する所以であらうと固く信じて疑わないのであります。