小林多喜二「蟹工船」を読む 1~10

小林多喜二蟹工船」を読む 1

 小林多喜二蟹工船」(「新日本文庫」・小林多喜二全集 第2巻 新日本出版社 以下全集と略)は「戦旗」(「全日本無産者芸術連盟」ナップ機関誌)1929(昭和4年)の5、6月号に掲載された小説で、「左翼的批評家だけでなく、一般文壇でも高く評価され、一九二九年度上半期の最大傑作と評された」(村山知義「解説」新日本文庫)作品です。1953(昭和28)年山村聡監督により映画化されました。

 まず、小林多喜二の生涯を生いたちから辿ってみましょう。彼は1903(明治36)年10月13日、秋田県北秋田郡下川沿村川口十七番地(1905 大館市川口236の2)で父小林末松、母セキの次男として生まれました(年譜 手塚英孝「小林多喜二」下 新日本新書 新日本出版社)。

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/ 小林家は代々「多治右衛門」と称した地主の家から、多喜二の祖父多吉郎の代に分家した家柄でした。多吉郎は佐竹藩の城下町大館(おおだて)に近い宿駅だった川口で旅宿を営んでいました。多吉郎の妻オヨとの間に二男一女があり、長男を慶義、次男を末松と名付けました。

 明治維新後、宿駅は廃止され、大館の発展とは逆に川口は次弟に衰退していったのですが、明治十年代の末ころまでは、小林家は家業の旅宿をつづけ、かたわら人を雇って耕作し、村でもかなり裕福でした。

 小林家の長男慶義は家業をかえりみず、関係した事業に失敗して、多額の負債をかかえ、没落していきました。慶義一家は一時上京したこともあったのですが成功せず、郷里の秋田にも帰れなくなり、1893(明治26)年東京から直接北海道へ開墾百姓として移住したのです。

 

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 多吉郎は1895(明治28)年71歳で死去、末松は兄の失敗により急に変化した境遇と労苦で、まだ四十を過ぎたばかりだというのに、心臓を痛めていました。、彼は地主に抗議して小作料を引き下げることもせず、自分の身体をこわしてまで働くことで耐えたのです。母セキは秋になると、野菜や豆や南瓜などを籠にいれて大館へ売り歩き、家計を助けました。

 1893(明治26)年青森から敷設されはじめた奥羽本線は6年目に大館まで開通、次いで大館と秋田を結ぶ工事が川口の丘に沿って着手されましたが、結局農民の貧窮化をもたらし、北海道の開墾百姓として移住する農民が増加していきました。

 長兄の慶義は北海道の小樽郊外の潮見台で開墾百姓をやっていましたが、かれの長男幸蔵は小樽色内町の山田靴屋の徒弟奉公から稲穂町の石原源蔵というパン屋の徒弟になりました。山田も石原もクリスチャンだった影響で幸蔵もキリスト教に帰依したのです。

 1903(明治36)年、慶義と幸蔵は石原源蔵から稲穂町の店を譲り受け、石原の指導と援助をうけながら、独立して小林三星(みつぼし)堂というパン店を開業するに至りました。

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 日露戦争が始まった1904(明治37)年5月、小樽は大火に見舞われて、中心街の大半を焼き尽くし、三星堂も類焼したのですが、慶義親子は同業者に先んじて潮見台にパン工場を建て、パンの製造をはじめ、数ヵ月後にはパン工場新富町に移し、店を開きました。

 翌年春、小樽港は樺太進攻のため、海軍の秘密根拠地となりました(「坂の上の雲」を読む45参照)。慶義父子は御用商人として約10箇月の間に、30余隻の海軍艦船に数十万円の食パンを売り込んだのです。かくして三星堂は火災と戦争を巧みに利用して、小樽屈指のパン店に成長しました。

 小樽でしっかりした社会的地位を築くと、慶義は弟の末松に秋田をひきはらって小樽に移住するようしきりに勧めました。しかし末松夫婦は長年住み慣れた故郷を捨てる決心がつきませんでした。

 1907(明治40)年5月、法事で帰郷した慶義に、末松夫婦はその春村の小学校を卒業した長男多喜郎を小樽で上級学校にいれてやると勧められて、それに従ったのでした。

 ところがその年の9月末多喜郎は急性腹膜炎で重態となり、小樽にかけつけた両親の看護も虚しく、10月5日死去してしまったのでした。 

 長年の過労と長男逝去の衝撃からが末松は百姓仕事に耐えられなくなり、それが北海道移住の動機となって、同年12月、末松一家は馬橇にのって、村人に見送られながら、深い雪のなかを大館駅に向けて出発しました。小林多喜二が4歳のときのことでした。

 

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 「私は四つか五つの時、北海道へ渡って来たので、そんなによくは秋田の故里を知っていない。北海道へ来て、爾来二十四年間小樽に住んだ。従って私の『育った』故里は小樽であり、事実から云えば小樽が私の本当の故里であるように思う」(小林多喜二「故里の顔」女人芸術 1932年1月 全集 第5巻)

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 明治初年まで小樽は「オタルナイ」(アイヌ語で砂川を意味する)と呼ばれ、東方から日本海の風波にさらされる三方を険しい丘陵にかこまれた漁村でした。しかしその後北海道開発の基地として日露戦争後には石狩の農産物と石炭の集散地となり、近代的商港に発展していたのです。

 1907(明治40)年12月小樽に移住した小林末松一家は翌年正月を新富町の伯父慶義の家で迎えたのですが、まもなく若竹町に新居を構えました。そこはさびれた漁師町で小樽湾の南端に位置し、背面は海岸近くに突き出た懸崖が浜つづきを区切っていました。

 海岸そいに北海道本線が通じ、末松一家の家はこの線路にそった道路に面した部落はずれの海岸近くにありました。裏はすぐ線路でした。

 二部屋の平家は伯父慶義が隠居所に建てたものでしたが、多喜二の両親はここで小林三星堂パン店の支店を開いたのです。

 末松一家は地元で最初の他国者だったので、土地の人に珍しがられ、秋田弁も面白がられて、わざわざ店先へのぞきに来る人もいた程でした。

 多喜二の父は毎朝薄暗いうちに起床して、小樽中央にあるパン工場へ「アンパン」「代用パン(砂糖漬けの赤豆をパンの中にいれたもの)」「ミソパン」などを仕入れに行き、丁度働きに出掛ける労働者や学校へ行く生徒たちがパンを買いに来る時刻に間に合うように帰って来るのでした。

 昼近くになると、大福やパンを入れたガラス箱を担いで、防波堤などの工事に従事する土工の作業現場などに売りに行きました。

 多喜二の幼年期に彼は近所の遊び友達から「パン屋のオンジ」と呼ばれていました。両親や姉が彼を「オンジ」(東北地方で「弟」を意味する)と呼んでいたからです。兄多喜郎死去後も両親らは彼を昔からの呼び名で呼んでいたのです。

 

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 1910(明治43)年4月、多喜二は小樽区立潮見台尋常小学校に入学しました。生徒は約600名で、、大半が港で働く貧しい自由労働者か小商人の子供たちで、汚れた着物を着た前だれ姿の児童が多く、校章も校旗もありませんでした。

 毎年5月20日前後、小樽の小学校連合運動会が花園公園グランドで開催されました。

そば会席 小笠原―小樽公園、花園公園? 

 これは小樽の年中行事の一つとなって、桜の満開の季節でもあり、その期日には銀行や企業・商店なども休業する処が多く、毎年人出でにぎわいました。

 この運動会にはどの学校も新しいユニフォームを作ったのですが、全市小学校の対抗試合で。多喜二の母校だけユニフォームがなく、みすぼらしさがめだったのです。

 他の学校の生徒はみな一斉に笑い、『潮田の学校、ビンボ学校。運動服ないとて、ベソかいたア』と冷やかしました。

 「私は未だに運動会の来る一日一日が、どんなに『つらかった』かを覚えている。それはどうにも堪え難い気持ちだった。(中略)八つか九つの子供らしくもなく、私はうつむいて、キリキリと唇を噛んだ。この運動会のことが、あたかも柱に刻みこんだ爪跡のように、何時までも私の心に残されている。」(小林多喜二「地区の人々」改造 1933年3月 全集 第4巻)

 1916(大正5)年3月、多喜二は潮見台小学校を卒業、4月から伯父慶義の援助で庁立小樽商業学校に入学しました。同校は1913(大正2)年に創設された5年制(本科3年、予科2年)の商業学校で、創立の翌年に起こった第一次世界大戦による好景気で入学希望者は増加、100名の入学定員に対して入学希望者数は毎年450名前後という難関校でした。

 好景気による輸出増大で物価は暴騰し、戦争成金がうまれる一方で、労働者の賃金の上昇はこれに及ばず、多くの民衆が深刻な生活難に陥りました(「労働運動二十年」を読む15~17参照)。1918(大正7)年に富山県から起こった米騒動は各地に波及、北海道では同年8月函館で、9月には空知郡の炭坑で暴動が起こり、小樽でも同年10月豆選工場でストライキが起こりました

 多喜二は新富町の伯父の家に住み込み、パン工場の手伝いをしながら通学しました。朝学校に行く前に、トラックに乗って、パンの配達をさせられました。トラックの行けない処へは荷車に折箱を積んで小売店を廻りました。それで彼は学校で坐ると、どんなに努力しても居眠りばかりしていたようです(小林多喜二「転形期の人々」全集 第4巻)。米騒動の直後から、伯父の工場ではビルマ豆をまぜた安価な代用パンの売り出しをはじめました。

 

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 創立当初の小樽商業は大正デモクラシーの風潮(「大正デ3モクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造10~25参照)による影響をうけて、学生の自治と自由を重視していました。

 多喜二は三本線の入った制帽と粗末な制服を身につけ、冬には着古したマントをはおって通学していました。いつも代用パンを古新聞紙に包んだ彼の昼弁当はクラスの中で評判になっていました。しかし彼はそんなことには無頓着で、小学生時代とは全く違う、明るく屈託のない少年になっていたのです。

 1917(大正6)年の予科二年のころから、多喜二は友人とともに水彩画を描きはじめました。教室の廊下にささやかな展覧会が開催されるようになりました。

 そのころ博文館発行「文章世界」でこま絵(カット)の懸賞募集があり、多喜二も1919(大正8)年6月号に「札幌の附近」が入選、その後選外佳作となったものもありました。

 小樽商業の絵のサークルは、その後小羊画会と名付けられ、同年11月1日と2日に稲穂町の中央倶楽部で、第1回の洋画展覧会を開催、多喜二は水彩画6点を出品しました。

 1920(大正9)年5月29・30日、第2回小羊画会が中央倶楽部で開催され、多喜二は水彩画ABCの三点を出品、Cが色彩の扱い方で優れているとの「北門日報」[1891年小樽で金子元三郎によって創刊された新聞、初代主筆中江兆民(「火の虚舟」を読む19参照)、後札幌に進出]の批評を受けました。暫くの後小羊画会は白洋洋画研究所と改名、同年9月18・19日、中央倶楽部で白洋画会が開かれ、多喜二は風景画5点を出品しています。

カムイミンタラアーカイブズーカムイミンタラアーカイブズを詳しく検索するー検索メニューー発行年月―2005年09月号(特集)多喜二の「未完成性」が問いかけるもの ノーマ・フィールドさん 小林多喜二を語る

 しかし、この展覧会が終了すると、伯父の命令で多喜二は絵をやめさせられました。1920(大正9)年3月株式市場の株価は暴落、戦後恐慌(「労働運動二十年」を読む20参照)が始まり、こうした伯父の多喜二に対する冷酷な仕打ちは、日本経済の変化を意識した緊張の反映だったのかもしれません。

 ある朝、伯父は彼の絵道具を庭にたたきつけて、云いました。

 「『絵にこれば馬鹿になるんだぜ。Kの息子を見れ、やれ絵かきになると言って東京に飛び出し、いい加減帰って来て、一万円くれって、親から取って洋行する。三十も四十にもなって、まだ嬶(かかあ)もとれないんだ。貴様もそんな馬鹿になりたいか。』

 抗弁するのは不利益な事だった。彼は(中略)立ち上がった。居間へ行って洋服へ着換にかかった。一人となった時、彼の眼は期せずして涙が流れ出た。今までの凡ての感情が一時にあふれ出た。」(小林多喜二「石と砂」全集第6巻)

 ひそかな熱意をこめてとった絵筆を捨てることは、多喜二にとって大きな打撃でした。しかし、他方このことが、すでに才能をひらめかせていた文筆に対する意欲を高める動機となっていったのです。

 

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 多喜二は同校予科在学中から、彼の作文は優れた個性に満ちていました。渡辺卓という漢文の教師は作文の時間に推薦作文を読み上げたものでしたが、その中にはいつも多喜二の文章が入っていました。 

 1919(大正8)」年4月、本科2年になると、彼は校友会誌「尊商」の編集委員に選ばれました。同誌は国語教師の担任でしたが、編集はほとんど選ばれた生徒の編集委員に任されていました。かくして多喜二の作文が同誌に屡掲載されるようになり、また「文章世界」5月号に彼の詩(全集第6巻)「北海道の冬」などが発表されるようになっていたのです。同年6月からの修学旅行に家が貧しいため、彼は参加できませんでした。

 1920(大正9)年伯父の命令で絵筆を棄ててからも、「石と砂」を執筆、これを除く「晩春の新開地」などの文章が相次いで「尊商」に発表されています。監視されているような雰囲気の中で、彼は必死の勢いで創作に集中していったのです。

白樺文学館―多喜二ライブラリー

 1921(大正10)年3月、多喜二は小樽商業学校を卒業、同年5月、伯父の援助をうけ、小樽高等商業学校小樽商科大学の前身)に入学するとともに、新富町の伯父の家を去り、若竹町の自宅から通学するようになりました。

 1922(大正11)年4月、多喜二は2年に進級、第二外国語にフランスを選択、課外活動としては高浜年尾とともに校友会誌の編集委員に選出されています。彼は同誌に殆ど毎号寄稿するとともに、「小説倶楽部」や「新興文学」に投稿、入選作もありました。

 

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 1923(大正12)年9月、関東大震災(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)が起こりました。この年の11月17~18日(土・日曜)小樽高商例年の学生外国語劇大会が関東大震災義捐として雨天体操場で開催されました。

 多喜二はフランス語劇メーテルリンク「青い鳥」に出演しましたが、、小樽中学出身で小樽高商では多喜二の一年下級学年であった伊藤整(「小林多喜二の思い出」「伊藤整全集」20 新潮社)は多喜二と共演しました(年譜 「同全集」24)。

小樽の二人の青春 小林多喜二と伊藤整

 また多喜二自身も盛会だった当夜の模様をつぎのように描いています。「音楽の序奏が始まった。その音につれて幕がスルスルと引かれた。猫が出た。劇は進む。チルチル、ミチル、犬がでる。木々のざわめきがして木の精がとび出す。やがて動物の精もでなければならなくなった。

 兎が一番先に出た。兎がピョンピヨン飛んで出たとき、ワッというドヨメキが起った。馬は勢よくとび出た。牛はノロノロと出ていった。羊がフラフラと出ていくと、その辺に散らしておいた紙屑をひろいあげて、頭にかぶっている模型の口の中に入れた。観客はことごとに笑わせられた。」(「ある役割」全集第1巻) 高商1年のころから、多喜二は白樺派(「花々と星々と」を読む27参照)の志賀直哉(「田中正造の生涯」を読む24参照)の作品を学び始めていましたが、のちに直接手紙を書くようになり、自作を送って批評を乞うようになりました(志賀直哉全集 別巻 岩波書店)。

 志賀直哉は1922(大正11)年3月、千葉の我孫子から京都市外粟田口に移り、同年秋には山科に住んでいました。

 多喜二は校友会誌などに発表した創作についての批評をもとめたのでしたが、これに対する志賀直哉の感想はきびしいものでした。

 

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 1924(大正13)年3月10日、多喜二は北海道拓殖銀行に入社しました。その年の新規採用者47人は同銀行札幌本店で、約1箇月間の研修を受けた後、彼は本俸70円で小樽支店に配属され、また約2箇月間計算係として計算と記帳の実務を習得すると、為替係にまわされました。彼は初給料の中から中古バイオリンを買って、音楽好きな弟三吾に与えました。

 多喜二が同銀行小樽支店に勤務するようになった同じ月、彼の主宰する小樽商業時代からの仲間による同人雑誌「クラルテ」第1集が創刊されました。

 同年7月11日父末松が脱腸で入院、手術後の経過が悪く、8月2日58歳で死去しました。

 多喜二は当時伯父の次男経営の苫小牧パン店で働く弟三吾を呼び、父死去後の自宅パン店を手伝わせることにしました。

 同年10月ころ、多喜二ははじめて田口タキという女性にに出会ったのです。田口タキは入船町のやまき屋という小料理屋(小樽ではそば屋と呼ばれる)の美人で評判だった酌婦でした。多喜二は「クラルテ」の仲間に誘われて、好奇心からでかけたのでしたが、田口タキは彼に深い印象を与えました。

 彼女は1908(明治41)年5月、小樽近郊の高島という海岸町で出生、父はその土地で屋台そばを売り、母は秋田からの移住者でした。タキが15歳の暮れ、父は新たにはじめた商売に失敗し、ひどい吹雪の夜、高島を夜逃げして、函館に近い父の郷里森町の親戚を頼っていきました。しかしどうにもならなくて、1922(大正11)年1月末、彼女は父から手伝いにいってくれと頼まれ、何も知らずに室蘭の銘酒屋に売られていきました。

 娘を売ったわずかな金で田口一家9人は函館から小樽長橋の場末に移り、父は日雇いで暮らしていましたが、12月中旬、若竹町の踏切りで鉄道自殺、のちタキの母は再婚、残された田口一家は親族に引き取られ離散しました。

 田口タキが室蘭から小樽入船町のやまき屋へ転売されてきたのは父の死後4箇月目のことで、彼女は17歳になっていました。彼女は内攻的なつつましさの中に、不幸から逃れようとする必死の願いを秘めていたのです。

遠い憧れー北の国から(札幌便)―2009年人物―小樽の青春 小林多喜二物語(6)

 

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その後多喜二は客を装ってときどきタキを訪ねるようになりました。タキを知って半年後の1925(大正14)年3月、多喜二はタキへの手紙(書簡 全集第7巻)で次のように述べています。

 「『闇があるから光がある』

そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というものが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから、俺たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しいことを味ってみなければならない。

 瀧ちゃん達はイヤな生活をしている。然し、それでも決して将来の明るい生活を目当てにすることを忘れないようにねえ。そして苦しいこともその為だ、と我慢をしてくれ。

 僕は学校を出てからまだ二年しかならない。だから金も別にない。瀧ちゃんを一日も早く出してやりたいと思っても、ただそれは思うだけのことでしかないんだ。これはこの前の晩お話した通りだ。然し僕は本当にこの強い愛をもっている。安心してくれ、頼りないことだけれども、何時かこの愛で完全に瀧ちゃんを救ってみせる。瀧ちゃんも悲しいこと、苦しいことがあったら、その度に僕のこの愛のことを思って、我慢し、苦しみ、悲しみに打ち勝ってくれ」

 それから3週間後、多喜二は秘かに上京、東京商科大学を受験しましたが不合格でした。彼は銀行の仕事に生き甲斐を感じることができず、母の了解を得、上京して苦学しながら、作家として身を立てる考えでしたが、夢を果たすことができませんでした。「クラルテ」も四集を発行しましたが、毎号欠損つづきで、続刊も困難な状態となっていました。

クリック20世紀―人物ファイルーカー小林多喜二

 同年秋、多喜二はタキが一日も早く自由の身になるために、血のにじむような貯金をしていることを知ってつよく心を動かされ、思い切って「クラルテ」仲間の島田正策に相談しました。島田は貯金の大半を割いて200円を貸してくれたのですが、田口タキをやまき屋から身請けするには500円必要でした。

 多喜ニは母の承諾を得て、年末賞与の全額をタキの身請けのために差し出しました。

 かくして自由の身となった田口タキは義父の許に引き取られましたが、彼女はまた義父に売りとばされかねないので、多喜二は彼女のために小樽山手の奥沢に部屋を借りて住まわせたのです。しかし奥沢での彼女の生活を、俸給88円の多喜二が支えることは困難でした。

 1926(大正15)年4月下旬、多喜二は事情を知った母のすすめで、若竹町の自宅にタキを住まわせることにしました(小林セキ述「母の語る小林多喜二新日本出版社)。タキが奥沢から引っ越して来る日、彼の母は赤飯をたいて彼女を迎え入れたのでした。

 ところが同年11月11日、タキは意外にも、多喜二に宛てた一通の手紙を残して家出してしまったのです。

 「タキ子が家出をした。俺が東京へ出て勉強したいために、自分がいたら、いろいろな点で俺を困らし、纏ることになるだろうという考えである。家出をしても決して堕落の道はたどらないということを書いてある。(中略)今俺がタキちゃんを救えるたった一つの方法は結婚だ!」(日記(折々帳)11月11日 全集第7巻)18日の晩、よっやくタキが花園町の小野病院で住み込んで働いていることをつきとめることができました。しかし自活したいというタキの固い決心を知ると、多喜二は無理につれ帰ることもできませんでした。また多喜二の希望であった東京での就職も思うように実現できなかったのです。

 

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 1926(大正15)年北海道は全域に降霜が早く、1913(大正2)年の大凶作に次ぐほどの凶作となりました。

 1925(大正14)年日本農民組合北海道連合会が創立されたとき、同連合会は5支部600名の小さな組織にすぎませんでしたが、翌年には石狩を中心に、天塩(てしお)、十勝(とかち)、北見の農耕地帯で急速にその組織を拡大、43支部約3000名の農民を組織していました。

 同年夏から小作料減免運動が同連合会各支部で闘われ、永山の板谷農場、比布の有隣農場、妹背牛(もせうし)の池田農場、鷹栖の岐阜農場、裏臼の富士拓殖農場、富良野(ふらの)の磯野農場などの不在地主の農場で小作争議が起こりました。これら農場の多くは、一時激化する様相をみせましたが、ほどなく地主との妥協が成立したのに、富士拓殖と磯野農場の争議は解決の見通しがなく、、とくに磯野農場では地主側の態度が強硬で、争議は次第に深刻化していきました。

 北海道で国有地の払い下げによる不在地主の農場が増加しはじめたのは、低利資金の供給をうけることができるようになった1897((明治30)年ころからで、1900(明治33)年北海道拓殖銀行は低利資金の融資機関として創立されました。

 空知(そらち)郡下富良野村の磯野農場は約250町歩の面積で小作人は48戸、家族を加えると約200人、北海道では中規模の農場でした。

職人の遺した仕事―Archives―Desember 2012―Calendar16―レンガ積み職人が遺した建造物~北海道編(Ⅰ)昭和の文学に登場した旧磯野商店倉庫(小樽市)

 小樽に住む地主磯野進は小樽商業会議所会頭で米穀海産問屋を所有し、精米、澱粉工場も経営、北海道でも有力な実業家の一人でありました。

 他の農場と同じように、磯野農場ははじめ排水が悪く、2、3日の雨で泥沼化する土地を小作人の長年の努力で水田にした農地で、地主磯野は米が収穫できるようになった後も稲作より軽い畑年貢でよいと約束しながら、実際は北海道でももっとも高い5割以上の小作料を徴収していたのでした。

 1926(大正15)年度の収穫高を地主側は七割六分六厘作と主張、小作人側は最高四割七分、最低一割七分、平均二割二分を主張、ひらきが大きく、妥協の見通しは困難でした。小作人側は伴利八、阿部亀之助ら37人が申請人になって、同年12月中旬小作料減免要求を旭川地方裁判所に提訴、かくして磯野小作争議は次第に全道的な注目を浴びる問題となったのです。