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犬養道子「花々と星々と」を読む21~30

犬養道子「花々と星々と」を読む21

  古い本の少なくない書棚の中に、ひときわめだって古ぼけた一冊があります。著者は大町桂月、書名は「伯爵後藤象二郎伝」(伝記叢書 大空社)。

  一葉の写真にぶつかると、道子はそのまま長い間、動きませんでした。うら若い乙女が、ページの上から、微笑を含んでこちらを見ています。

 その人は道子の、母方の祖母(後藤延子)です(「花々と星々と」を読む1「系図で見る近現代」―目次―第12回 犬養毅参照)。

 ドクトル・メディツイーネ長与称吉(「花々と星々と」を読む1参照)は、ある園遊会の緑したたる芝の上で延子を見そめました。あの人をもらえないなら自分はとても病院経営などしてはいられないと、まだ生きていた父専斎に向って言い、あげくのはては恋患いで痩せ細りました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー長与専斎

 上流貴顕の社交界で多くの青年を同じ目にあわせつづけた佳人は、とうとうドクトル称吉の嫁となることになりました。媒酌は伊藤博文(「伊藤博文安重根」を読む1参照)夫妻でありました。

  道子が小さかったころ、長与延子は後家にふさわしい小さな束髪を結い、いつも黒い羽織を着て、しかしまことに華やいだ暮しをしていました。

 「桜山にゆこ」言い出すのはいつも父(犬養健)でした。そう言うときの彼の語調に、いつもとちがう、何となく甘たるい妙なものを道子は感じました。

 同じ東中野でも、こうもちがうものかしらん。桜山は踏切の向う側にあって、文字通り、桜の木々にふちどられる小高い丘でした。 

  古風な和式玄関わきには、わびすけ椿。南天。黒もじ。山吹。品のよい、さりげない格子戸をカラカラ開けると、しかしそこは「ドイツ」でした。

 ベルリンからお祖父ちゃまドクトル・メディツィーネのお持ち帰りになったバヴァリア・タイルをはめこんだ大飾時計が、チックタックと悠長な音をたてながら、これまた緑や金のこまかい模様でかざられる振子をせい一杯振って、正面にでんと立っていました。

  お祖母ちゃまの居間でお茶など飲む間じゅう、父はかあさまかあさまと甘ったれました。事情があってほんの幼児のときに、実の母からもぎはなされてさみしく育った彼は、桜山のお祖母ちゃまに、ほんとの母を見出していたにちがいありません。

「そうよ、パパはかあさまを好きよ。かあさまもパパを好きよ。だってママがパパを知るようになったのも、かあさまがパパと仲よしだったからなのよ。パパはいりびたりだったのよ」母(仲子)は後に一度そう言いました。

まるっと中野―まち歩きーぶらり風景探訪

 

犬養道子「花々と星々と」を読む22

  1921(大正10)年4月20日は、観桜会にふさわしい、柔らかな光に満ちておりました。四ツ谷の祖父、犬養木堂毅という人は、そんな派手な集りを出来るだけ避けたいたちでしたが、その日は出かけました。

 木や花や土や草原が好きでしたから、新宿御苑はなるほど整いすぎて、彼の好む野趣から程遠かったのですが、その園の、枝ぶりのよい、樹齢も丁度よい桜には定評がありました。若緑の萌える香りと、満開の桜とを、彼は愛(め)でたかったのです。

楽しく散歩―散策スポット目次ー東京―1月~4月―1264 新宿御苑のしだれ桜&桜  

 この日ばかりは前年からしきりと世を騒せはじめた、カリフォルニア州の日本人排斥問題も、議会で論陣を張りつづけて来たシベリア派兵の撤退のことや、早々に実現されるべき普通選挙法案のことも忘れました。

 その日は彼の満六十六歳の誕生日でした。六十六年前、二万石に満たぬ岡山の小藩の、貧しい庄屋であった彼の父は、愛読する孔子の書物の一文句の文字をとって、生まれたばかりの子に名づけました。……士は以て弘毅ならざるべからず……

 その文句はこう続きます。任重くして、道、遠し。

ちょんまげ英語日誌―投稿記事一覧―孔子の論語 泰伯第八の七 士は以て弘毅ならざるべからず

 笈(修験者などが背負う脚のついた箱)を負うて、貧書生として上京し、やがて自由民権の思想を謳う新聞の記者となったころ、「道、遠し」の遠を取って子遠という字(あざな 本名以外につけた名)をつけました、木堂、とは、「木強ければ」の、これもやはり支那の古書の句から引いたものでありました(「花々と星々と」を読む4参照)。

心が楽になる老子の言葉―トップページーやわらかに、しなやかにー生まれる時は柔らかい 

 つまり当時の新聞は、ときの権力者に敗れた、反骨の人が寄り集まってつくっていたわけで、最初から反政府・野党精神に満ちていたのでありました。

 しかしどうやら普選法を通すという任に限っては、もはや道の半ばは過ぎたようだ、-彼は機嫌よく御苑を退出しました。

 御苑の門には、この新宿からはそう遠くない四ツ谷の家から飛んできた書生がひとり、待ちかまえていました。

 若旦那様のところに、今朝がた、お嬢さまがお生まれになったそうで。なに、同じ誕生日に。

 任重い道の半ばを過ぎたときに、その赤ん坊は、お祖父ちゃまにとっての、特別の孫となり、道子と七日目に名づけられました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む23

 1924(大正13)年1月1日枢密院議長清浦奎吾に組閣命令が下り、同月4日貴族院研究会幹部は組閣援助を決定、同月7日清浦奎吾内閣が成立しました。

 これに対して同年1月10日政友会・憲政会・革新倶楽部の3派有志は清浦特権内閣打倒運動を開始しました(第2次護憲運動発足)。同年1月15日政友会総裁高橋是清は同会幹部会で清浦内閣反対を声明、これに対して床次竹二郎らは脱党、同月29日政友本党を結成、清浦内閣の与党となりました。同月18日高橋是清加藤高明犬養毅3党首は熱海の棲雲居(別荘)から上京した三浦梧楼の斡旋で会談(「花々と星々と」を読む15参照)、政党内閣確立を申し合わせました。1月31日衆議院は議場混乱による休憩中解散となりました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む28参照)。

 同年5月10日第15回総選挙が実施され、憲政会が第1党、護憲3派の大勝利となり、6月7日清浦奎吾内閣は総辞職、6月9日加藤高明に組閣命令が下り、6月11日第1次加藤高明護憲3派連立)内閣が成立しました。

 同内閣の成立をめぐる古島一雄の談話(鷲尾義直「前掲書」中)によれば、加藤は犬養と合わず、彼の入閣を希望しなかったようです。犬養は古島に入閣せぬかと云ったが、古島は犬養に入閣をすすめ、政友会から高橋が入閣すれば、ここではじめて三派合同内閣になるではありませんかと犬養に言うと、犬養は高橋が入閣するなら入閣する意向を示しました。そこで古島が政友会幹部にこのことを打診すると、政友会側は総理大臣をしていた高橋が加藤の下に平大臣をやるのは問題だと云うから、古島がそれは貴下方の間違いだ、世間はかえって度量の大きい人だといって、高橋の器量が上がるとは思わないのかと反論、犬養の入閣明言もあり、高橋・犬養の入閣が決定しました。

 それから閣僚の割り振りの相談になったが、加藤は内務、大蔵を除く外なら何でもよいという意向だったので、犬養が高橋に、君は何をやるかと問うと、高橋はさうだナ、農林でもやらう、犬養はソレなら俺は逓信の古巣にもどるということになりました。

 同年12月26日開会された第50議会において1925(大正14)年3月19日男子普通選挙法案が治安維持法と抱き合わせで通過しました(凛冽の宰相加藤高明」を読む29参照)。

 同年4月1日犬養毅は丸ノ内の中央亭に革新倶楽部代議士らを集めた晩餐会で「行政財政の整理、軍備縮小、または貴族院改革問題、普通選挙の問題、是等の諸問題が兎も角も解決の端緒にだけは就いたのである。併しこれ丈で以て満足することの出来ないのは言うまでもない。例へば普選問題にしても言はばお膳立てが済んだといふ迄であって、本当の仕事は実は是れからである。」(鷲尾義直「前掲書」中)と述べているように、今議会における普選の実現に満足していなかったことは明らかです。

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  また犬養は逓相として大震災直後の復旧復興に実績をあげ、視察で電話電信局における少女たちの劣悪な労働環境を目撃して甚く同情、東大の博士に逓信省嘱託を依頼して、その改善を実現し、温情を慕われました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む24

 1925(大正14)年4月4日立憲政友会総裁高橋是清は引退を表明、同月16日商相兼農相を辞任し、4月13日田中義一(凛冽の宰相加藤高明」を読む30参照)が政友会総裁に就任しました。

 同年5月5日立憲政友会革新倶楽部中正倶楽部3派の有志は合同に関する覚書を作り、これを実行するよう努力することを約束しました。

  同年5月10日革新倶楽部麹町区内幸町の仮事務所で、代議士、前代議士、常議員、地方支部代議員の連合協議会を開き、犬養毅は上記合同参加の理由について、つぎのように演説(要旨)しました。

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 「普選法の成立を見るに至り、茲に本問題の一段落を告げたのである。是れより以往吾人の最も重大と信ずるものは、普選法の運用である。万一にも無産階級がその運用を誤るが如き事あらば、吾人の責任は遁るる事は出来ぬのである。普選に依って今後無産階級よりも続々代表者が選出されるであらう。されど選挙では、その代表は議院の一少部分に過ぎぬであろう。然らば既成政党の勢力は如何といへば、急激に減退するものではない。この七八年乃至十年間の過渡時代の政治は、依然として旧勢力に依って運用せらるるのである。

 然らば旧勢力は如何なる悪政を行っても吾人は不関焉として傍観すべきか、或は吾人の力を加へて之を改善して過渡期に処すべきであらうか、是が最も大切なる現実の問題である。

 旧勢力若し依然として新勢力の悪感を刺戟するが如き行動を以て政治を運用するに於ては、或は早晩激烈なる大衝突を惹起するに至るであらう。

 政友会は勿論多年の間吾人の非難攻撃した対象物であった。されど首領にして統制其宜しきを得れば、或る程度迄はこれを制止し得るのである。現総裁田中(義一)君も亦決して世の非難を受くるが如き行動には断じて出でざるは自分の信ずる所である。

 我が同志は、多年逆境で鍛へ上げたる勇気を以て、政友会、中正倶楽部有為の人物と共に合同計画を成就し、進んでその改善を行ふに於ては、新興の一大政党は必ず新生面を開き、健全なる発達を遂ぐるものと信ずるのである。

 茲に一言お断りを為したきは、此度の手続の周到を欠きたる一事である。斯のごとき重大問題に就ては、犬養自ら全国同志と親しく意見を交換すべきが当然なれど、如何せん身の官吏たるために、奔走の時間を得難く、それが為に意志の疏通せざりしは偏に自分の落度で、諸君に対し慚愧(ざんき 恥じ入ること)の至りである。」(鷲尾義直「前掲書」中)

 

犬養道子「花々と星々と」を読む25

 犬養の政友会への合同提案は苦渋の決断だったようで、この時点で政友会に合同しなければならない理由についての説得力に乏しく、これは犬養の本意ではないとする意見もでる始末で、犬養の演説には彼の引退について何等言及がないのに、彼がそれとなく引退をほのめかせたと解する者もあったようです。

 採決の結果革新倶楽部の政友会への合同は了承されたものの、一時乱闘寸前の険しい雰囲気がただよいました。合同反対の尾崎行雄らは中正倶楽部残留派とともに新生倶楽部を組織しました。

キリヌケ成層圏―似顔絵リストーいー犬養毅  

 後年古島一雄(「花々と星々と」を読む15参照)はこのときの犬養の心境についてつぎのように語っています。

  嚮(さき)に歴史ある国民党を解党して、新時代の気運に乗じた新政党を創立すべく、一時革新倶楽部を組織したが、それは決して成功とは言へなかった。同志議員の数は選挙毎に減少する、其上、一人一党的倶楽部組織に在って、国民党時代の如き統制の行われないのは当然であった。名は党首に非ずして、而も党首たる負担を荷はせらるる木堂の苦痛は一と通りではなかった。而して木堂には一切の進退を委ね来たった同志がある。而も自ら顧みれば齢已に古稀(70歳)を超えている。前途ある是等の同志をして適処を得せしめねばならぬ。

 つづいて1925(大正14)年5月28日犬養は議員並びに逓相辞任を発表、同月30日逓相を辞任、後任として安達謙蔵(「男子の本懐」を読む31参照)が就任しました。 

 しかし犬養は引退声明で「辞職したとて決して国事を放棄するのではない、徹頭徹尾国家への御奉公は勉めるのである」と述べており、政界を引退する意思はありませんでした。同年7月中旬犬養は同志の招きに応じて東北地方遊説にでかけています。

 同年6月11日犬養は退任挨拶のため、岡山県都窪郡中庄村の性徳院来訪、これに対して旧革新倶楽部岡山支部では補欠選挙協議会が度々開かれ、7月16日木堂先生再選に決定しました。しかるに木堂先生代理の岡田忠彦は倉敷東雲楼で倉敷町長はじめ多くの町村長と会見、この度の再選は先生困惑甚だしき旨を述べました。7月22日岡山県第4区衆議院議員補欠選挙が実施され、犬養毅が当選しました。7月26日中庄村長らは犬養先生当選承諾懇請のため上京、翌日四ツ谷南町の犬養毅私邸を訪問、犬養は苦り切って無言でしたが、しばらくして今回は選挙区民諸氏の依頼に敬意を表して、困るけれども一応受諾せんとのことに一同雀躍して喜びました。一同麹町内山下町の政友会本部を訪れ、前田幹事長に委曲を語り、更に新聞記者室でも仔細を報告しました。、

  同年7月31日第1次加藤高明護憲3派連立)内閣は閣内不統一により総辞職、8月2日第2次加藤高明(憲政会単独)内閣が成立しましたが、1926(大正15)年1月28日加藤首相死去(三浦梧楼同日死去)しました(凛冽の宰相加藤高明」を読む30参照)。

 一方、上述のように犬養は再び政界の第一線に戻ったのですが、政友会との関係は長老という閑職で自由な時間に恵まれたため、1924(大正13)年起工、翌年完成した信州富士見の別荘白林荘(「花々と星々と」を読む17参照)に悠々自適の生活を送り、時々招聘されて地方の講演に赴くのでした。

 1926(大正15)年1月30日若槻礼次郎(前内閣閣僚全員留任)内閣が成立しましたが1927(昭和2)年4月17日枢密院台湾銀行救済緊急勅令案を否決したため総辞職、同年4月20日田中義一政友会内閣が成立、野党となった憲政会は同年6月1日政友本党と合同して立憲民政党を結党、浜口雄幸が総裁に推挙されました。

 しかるに1928(昭和3)年6月4日関東軍参謀らによる張作霖爆死事件が起こり、この処理をめぐって天皇の信任を失い、1929(昭和4)年7月2日田中義一内閣は総辞職し、浜口雄幸民政党)内閣が成立しました。同年9月29日田中義一は死去しました(「男子の本懐」を読む21~22参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む26

 さて赤泥のあの坂がおしまいになると、道は急に明るく開けて、右と左に別れます。左に行けば地主の「石森さんち」があって、そのはす向いが、市外東中野千七百。磨かない御影石のひょろりと不安定な門柱をたてたわが家でした。塀はなくて根もとが隙々の槇の木の生け垣がめぐらされていました。

 隣人の家の、いつもまっぱだかの英ちゃんという子はぬうと入って来ては、母(仲子)の丹精の花畑と野菜畑を、容赦なく踏み荒らし、書斎の窓近くの楓や、庭の正面の松の木にするすると登って、枝から枝へ飛び移りました。そにたびに書斎の襖がガタピシと開いて、梯子段を二、三段ずつ駈けおりる音がして、ステッキをふりかざし、尻かっらげで毛脛を思い切り出した父(犬養健)が、こらあこらあと、これまたはだしで英ちゃんを追いかけました。

  父は大立廻りをけっこう楽しんで、英ちゃんの這いこむのをひそかに待っている節がありました。遅筆で寡筆で、神経質で、容易に枡目のつぶれない原稿用紙を前に坐りつづけなければならない苦行に、時に耐え得ない父にとって、梯子段を駈け降りるのは願ってもないゲームだったかもしれません。

 家は持家でなく、家賃はたしか七十円で、階下に八畳の茶の間、八畳の納戸、四畳のなんでも部屋に玄関と女中部屋各々三畳。広い勝手と広い風呂場。西南には飛び出た恰好の、納戸つき西洋間。二階は八畳、四畳半に、あとで建増して納戸の上に乗っけた書斎と、書庫がわりの渡り廊下。

 庭は広くて、三、四百坪はらくにあったでしょう。半分を芝にして、残りは花畑と野菜畑でした。母は集まって来る文学青年たちを手下にして、年に二度か三度大量の石灰を庭全体の土に混ぜるのでした。

 石森さんちの鼻たらし子が一度こんな風に彼女に聞きました。「なぜ、おとうさんはつとめに出かけんの」「なぜ、夜、起きてんの。なぜ、ぶらぶらしとんの。会社にゆかんの。兵隊にもゆかんの」

 「親爺(犬養毅)は藩閥打倒の旗をかかげて苦節に甘んじて、ようよう普選を実現させるところまで漕ぎつけたと言うに」、「息子は鞄持ちのひとつもせんで、、何をぶらぶら、ろくでもない小説など書いて」…「嫁も嫁で、毎日ピヤノばかり弾いてコロコロ笑って」…石森さんばかりではなく、世間一般、そう思っているにちがいないことを道子はこれっぽっちも知りませんでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む27

 『白樺』は周知のように、文学界だけのものではありませんでした。その世界は広かったのです。

Weblio辞書―検索―白樺派   

 色が白くて、お餅の感じがしました。その人は「健さんいるか」とか、「やあ仲子さん」とか言って、ずかずか入って来て、すぐに縁側に出て着物を脱ぐのでした。

 「いやあねえ、下卑(げび)らしい!」口では言いながら、母は嬉しげにコロコロ笑いこけていました。

 その人は裸になると、猿股の上に、ほどいて棄てたばかりの兵児帯をぐるぐる巻きつけ、時には持って来た風呂敷を前に垂らして化粧廻しにしました。それから芝生に飛びおりて、「よっ、よっ」と四股を踏むのです。道子は急いで縁側に陣取り、見物気取りでかけ声などかけるのでした。

 すると、二階で支度をしたのに違いない父が、これも裸で兵児帯を廻しにして、ようし、と降りて来ます。

  二人はありあわせの紐なぞで土俵の輪郭を芝の上につくり、いつまでも相撲をとって、大げさにひっくりかえったり、急にひとりが行司の真似をはじめるので、しまいにはみんなおかしさのあまり笑いころげて暫くは動けなくなるのでした。その白い人が同人同然の岸田(劉生)さんだったのです(道子は長い間、岸田さんは相撲取りの卵だと思い込んでいました)。時たま、これも眼が細くて、不思議な顔立ちの女の子を連れて来ました。麗子像の麗子さんと、本物の麗子さんは、驚くばかりそっくりでした。

東京国立博物館―コレクションー名品ギャラリーー絵画―麗子

 

犬養道子「花々と星々と」を読む28

  雑誌『白樺』[1923(大正12)年8月廃刊]は李王家博物館の弥勒像や石仏を日本にはじめて紹介して朝鮮人の素晴しさを陶酔を以って語るかと思えば、鳥羽僧正の絵巻の写真を掲げて日本人の内なる「天才」を讃美しました。北宋白磁陶器のゆえに、万暦赤絵(明の万暦年間に景徳鎮で作られた陶磁器)のゆえに、支那人支那を評価しました。

 道子は大体、近所の子供たちとはうまが合いませんでした。陣取りなどするとき、弱いのはチャンチャン坊主であり、いじめっ子の取っておきの脅し文句は「やあい朝鮮人」「やあい露助」なのでした。彼女はそれらの言葉を甚だしい苦痛と感じずには聞き流すことができませんでした。

  ひるまは、芝生の上の冗談。夕暮れごろから、集まる友人たちは茶の間の八畳で、相変わらずの笑い声をにぎやかに響かせながらも、いかにも白樺らしい理想と楽天に貫かれた話をはじめるのでした。

 集まるのは若手の同人か、同人同然の同好の人たちが中心でした。なにしろ学習院で、志賀、武者、木下利玄、正親町公和さんが同級。三級下に里見さん、児島(喜久雄)さん、その下が柳さん、そして郡虎彦さん、長与の善郎叔父。『白樺』発刊[1910(明治43)年4月]のころ、父はまだ初等科でした。

 そんな風に年は離れていたけれど、武者(武者小路実篤)さんはずいぶんちょいちょい座に加わってあぐらをかいていました。

ワシモ(WaShimo)のホームページー旅行記―宮崎県―日向新しき村を訪ねてー宮崎県児湯郡木城村   

 母はその一団の中にあって、この上もなく楽しげに、活き活きと見えました。絵や音楽や、書物や会話や友人やーそれらは母の人生の、花々であり、星々でした。花々と星々にかこまれて、母もまたひとつの花であり星でありました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む29

 憲政の神様とある時期には祭り上げられ「少しは世間に知られた」「犬養の」子(や孫)が、ふつうの学校にゆけば、「犬養だ、犬養だ」と何かにつけてちゃほやされぬとは言えぬ、しかし学習院なら、「上は皇室」から「宮家五摂家元老」「有名」ばかり、平民野党の犬養などはビリのビリになります。そして「有名であることの虚しさもまた身にしみて習えるというものじゃ、犬養の家は、世々代々、野党であって欲しいから、そのためには正反対の貴族華族のどまん中に、子供をほっぽり出す」…

 祖父(犬養毅)の方針はまちがっていませんでした。まちがわないどころか、行きすぎておおいに脱線しました。道子が学習院前期に入った日、教官ぜんぶを呆然と驚かせることになります。

  父も母も、学習院の白樺一群の、自由とこわいものなしの精神に染まり果てた結果、しんそこ、忘れたのでありましたー陛下とはどなたかを娘に教えること。国旗を教えること。君ケ代を教えること。道子は何ひとつ知りませんでした。

「一ばん尊い方は? はい、犬養さん」「…トルストイ」それしか思いつきませんでした。

「さあ、君ケ代を歌いましょうね。何ですか、犬養さん」「君ケ代ってなあに」

「そんなこと!言ってはいけないでしょう。ふざけてはいけないでしょう。ほら、君ケ代です」「だって知らない」

 学校生活第一日目、父が担当教官に呼ばれました。しかし彼はあっけらかんと快活でした。「道ちゃんねえ、君ケ代って。歌なんだ。節はあんまりよかあないけど、まあ、ひとつおぼえてみるか」

「じゃあパパ、陛下、って?」「そのうちわかるさ」。

「ねえパパ、朕てなあに」「うん、そりゃね、チンコロじゃないんだ…」「アハハ」そんな風でした。

 モヤモヤを肺尖のまわりに散らせていた道子は、当然丈夫ではありませんでした。

 冬になると、ぜいぜいは他の季節よりひどくなるのが常で、いちどゴホンと咳が出ると、胸中はふいごのように湧きたって、いつまでもゼロゼロと音をたてました。

 ある年の冬。みぞれが鈍い空をぬらしてあたりいちめんに、凍りつく寒さをまきちらした夕方。枯れた庭の真ん中に、突如、四ツ谷のお祖父ちゃまがあらわれました。道子は庭に面した茶の間のまん中で、ハアーハアーと吸入をしていました。

 お祖父ちゃまが来るときは、父も母も、たれひとり緊張しませんでした。縫紋羽織のお祖母ちゃまの御来訪のときとは白と黒ほどの相違でした。

 お祖父ちゃまはラッコの襟のついた黒外套を重たげに着こんだまま、縁側のガラス戸を自分で開けて入って来て、「道公、どうした」と彼女の背に手をかけました。

 お祖父ちゃまは火鉢に向ってしゃがみ込み、外套の内ポケットから白い分厚い封筒を出して、母の前に置きました。

 母は、その中身を注意深く見て、あらおとうさま、と何度か頭を下げ、ひどく嬉しそうでした。

 -その翌日、彼女たちは人力に乗り、汽車に乗って着いたところは暖かでした。「あったかいからね、熱海って言うんだよ」

 彼女は父のトンビの下に抱かれて、ずっと遠くに広がる海を眺めながら、梅の香のただよう崖をのぼって、落ち着いた先は、蜜柑山の崖に沿って建てられた、驚くばかり広い家でした。三浦さんのおうち、と知らされました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む30

 「三浦さん」は、三浦(梧楼)観樹(「大山巌」を読む41参照)のことです。長州の人。高杉晋作奇兵隊に若き日々を送った人。戊辰戦争(「大山巌」を読む5~9参照)に功をたて、山県有朋とはじめ親しく、彼とともに維新政府の兵部省に入りましたが、やがて薩長藩閥をこころよしとせず、1916(大正5)年、護憲運動の先頭に立ち、山県と袂を分かった軍人政治家でした。

 1924(大正13)年1月18日三浦梧楼の斡旋で、護憲のための、加藤高明高橋是清犬養毅三党首会談が行われました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む28参照)。

 朝鮮における日本の勢力伸展のため、閔妃暗殺(「大山巌」を読む42参照)という大事件をわざわざ起こした張本人も彼でありました。

 いま、記憶を史実と照らし合わせれば、彼女が「三浦さんの別荘」に行ったのは彼観樹将軍の死[1926(大正15)年1月]の直後のことでした。

 部屋はいったい幾つあったろう。たくさんで、あっちこっちに散らばって、「わかんなくなっちゃうよ」と、父も母も笑いました。道子と母は、椿の林にかこまれた、物静かでしかも陽あたりのよい階下の二間つづきに陣取りました。

 ニ、三日すると、父は「じゃあ、また来るよ」と一言のこして、東中野に帰って行きました。

 母とふたりの静けさは、しかし長くはつづきませんでした。ある朝。「道ちゃん、まあだ?」

 祖父の声でした。前夜おそく、到着したのでありました。護衛の私服巡査と、十数年来付添う女中のテルと、そしてもひとり…。

 おもいがけない祖父の声に、驚きよろこび、飛び起きて、食事の場所と定められた、海を眼下に見はるかす部屋に行ってみると、祖父とさし向いに、柱に寄りかかって坐る見知らぬ人がいました。

 黒い短い口髭をはやし、細い眼で彼女を見たその人は、くるぶしまで裾の垂れる、黒絹の支那服を着ていました。組まれた足は、青っぽい褲子(クーツ)でおおわれていました。

「道公、戴さんだ」と祖父は、湯気のたつ紅茶茶碗のうしろから声を出しました。

 彼女より一足早く、この席に来ていた母は火鉢の上でパンを焼きながら、「道ちゃん、戴さんのおじちゃまよ」と祖父の言葉をくりかえしました。

「じょっちゃん、みっちこさん」と戴さんが手招くと、彼女は素直に近づいて、その人のそばに坐りました。

 そんなことから、彼女は戴さんをすっかり好きになり、その肩車に乗ると、ずいぶん高い枝の椿の花も手にとどきました。

 母は彼に茶をすすめながら、「ねえ戴さん、どうして道子はこう弱いのかしら」と相談を持ちかけるようになっていました。

 「戴さん、道子をお風呂にいれてよ。あたし忙しいのよ」彼はまもなく、それほどの親しいひとになってしまったのです・

 三浦邸の風呂場は、十五畳もあったでしょう。三方ガラス張りの風呂場の中央には子供なら泳げる広さの浴槽。塩気のためにすっかり粉を吹いたカランからは、塩っぱい湯が二六時中流れていました。

 戴さんは黒絹の支那服の裾をはしょり、湯殿とのさかいの半びらきの戸によりかかって、彼女を見守っていました。そしてある日彼の姿は唐突に消えました。

 十数年ののち。道子は、はじめて学んだ中国革命の書物の中に、見覚えのある顔の写真を見出しました。その下には戴天仇と書いてありました。

 「パパ」と彼女は、父のところへ走って行きました。「この人、あの人? あの三浦別荘の…」「むろんそうだ。なんだ、知らなかったの」と父は笑いました。

 孫文の片腕。抗日の先鋒。熱血の戴天仇。

 曽て孫文をかくまい、その革命を助け、そのゆえに支那の人々からは「国士」の礼を以て遇される祖父木堂を、愛すべきごく少数の日本人知己として、熱海にひそかに訪ねてきた革命児であったのです・

Weblio辞書―検索―戴天仇―戴季陶   

 三浦邸には谷間の部屋に蜘蛛が多く見られました。母は谷間の部屋の入口をぴたりと閉めてしまいました。