犬養道子「花々と星々と」を読む11~20

 

犬養道子「花々と星々と」を読む11

 1910(明治43)年5月25日大逆事件(「日本の労働運動」を読む47~48参照)の宮下太吉検挙が開始され、やがて幸徳秋水(「日本の労働運動」を読む27参照)も逮捕されました。秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」(岩城之徳「啄木と南北朝正閏論問題」岩城之徳著/近藤典彦編「石川啄木幸徳秋水事件」吉川弘文館 所収)と発言したことが外部にもれ、1911(44)年1月19日の読売新聞に掲載された社説「南北朝問題 国定教科書の失態」が「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」の主張をするに及んで、南北朝正閏(せいじゅん)問題(南北朝のどちらの皇統が正統であるか)が起こりました。

  同新聞社説が批判したのは1903(明治36)年4月13日小学校令の一部改正により制度化、翌年4月1日施行された国定教科書で、1909(明治42)年改訂の同国定教科書では当時の歴史学界における史実の実証的研究により、南北両朝は並立と記述されていました。

 1911(明治44)年2月21日衆議院の秘密会において、立憲国民党大逆事件南北朝正閏論に関する閣臣(第2次桂太郎内閣)問責決議案を提出、犬養毅がその説明に当たりました。新聞に掲載された彼の決議案説明演説の要旨は次のような内容です。

 「大逆事件は、其発生したる原因に就ては、多くあるべきこと明かに認むる所なるも、就中行政上及び警察上の失態が与って其一原因を成せるは、動すべからざる事実なり。単に社会主義の思想を有せりと云うに対し、余りに苛酷俊厳なる待遇を与へ、進んで其生活をも脅かすが如き警察の取締が、終に其徒を駆って危険なる無政府主義者たらしめ、大逆罪を企つるに至らしめたることは、亦衆議院の委員会に於ける政府委員の自白に徴するも明なり。閣臣は、優渥なる御沙汰に接したりとて、之がために政治上の責任を解除されたりと謂ふべからず。内閣諸公が引責すべきことは此際諸公の採るべき最善の手段なるべしと信ず。

 教科書事件に至りては、大逆事件に比して更に重大なる問題たりと信ず。維新の際に於ける王政復古の大業は、全く南朝を正統とするの趣旨に基くものにして、曩に元老院官版として出版し、我皇室典範となれる皇位継承編に依るも南朝を正位となしありて、更に岩倉公総裁となり山県公また勅選せる『大政紀要』に依るも、北朝を帝とし南朝天皇と称すと明記せるが、然るに今日に於て何の必要ありて之を改竄せるや。是れ実に立国の大本を危うする大逆の行為なりと云はざるべからず。此恐るべき大逆的事実を国民教育の為に用ふべき国定教科書として天下に発表せし以上は、独り文部大臣のみと云はず、延て内閣各大臣於て其責に任ずべきや素より言ふを要せざる処なり。」(鷲尾義直「前掲書」)しかし決議案は否決されました。

 同年2月27日文部省は編修官喜田貞吉を休職処分とし当該教科書の使用を禁止しました(史学協会編輯「南北朝正閏論」修文閣)。

Weblio辞書―検索―南北朝正閏論―喜田貞吉 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む12

  対外関係では孫文が来日したのは1896(明治29)年9月松隈内閣(「花々と星々と」を読む8参照)成立の直後で、平山周に伴われて、孫文牛込区馬場下町に犬養を訪問、このとき犬養ははじめて孫文を知ったのです。

Weblio辞書―検索―孫文 

 犬養は孫文滞日について大隈外相の認可をとりつけ、牛込区鶴巻町に居住させて、自宅との往来を便にするとともに、孫文の生活費も犬養の尽力で平岡浩太郎(初代玄洋社長)が引き受けました。

 1911(明治44)年辛亥革命(「凛冽の宰相加藤高明」を読む15参照)が起こって清朝が滅亡、同年12月25日孫文はアメリカから上海に帰着、翌年1月1日中華民国臨時大総統に就任しました。

 犬養毅は同年12月19日上海に到着(第3回中国訪問)、翌年1月8日南京総統府で孫文と会見しました。しかし2月25日に黄興が来訪、袁世凱と妥協せざるを得ないと告げたので、犬養及び同行の同志は種々忠告するところあり、3月16日孫文大総統の送別宴に出席、同月26日上海より帰国の途につきました(鷲尾義直「前掲書」中)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む13

 1912(大正1)年11月30日上原勇作(「坂の上の雲」を読む33参照)陸相は朝鮮に2個師団増設案を閣議で否決されたため、同年12月2日単独辞表を提出、陸軍は後任陸相を送らなかったので、同月5日第2次西園寺公望内閣は総辞職しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む13参照)。同年12月21日第3次桂太郎内閣が成立するに至りました。

 かかる軍部の横暴を非難する動きは、早くも同年12月13日東京の新聞雑誌記者・弁護士などが憲政作新会を組織、師団増設に反対、同月14日交詢社福沢諭吉によって設立された社交倶楽部)有志が憲政擁護会を組織、同月15日政友会3派(関東倶楽部・東京支部・院外団)の大懇親会が開催され、官僚政治の根絶、憲政擁護を決議するなどの行動として現れました。

 同年12月27日にも開催された憲政擁護大懇親会は憲政擁護会の事務所があった築地精養軒で開かれましたが、このとき犬養毅の演説要旨は次の如くでした(鷲尾義直「前掲書」中)。

近代日本とフランスー日本語―コラムー「美し国」フランスへの憧れー1.料理―築地精養軒と洋食文化   

 「今や政局の形勢は既に議論の時機を去れり。政国の両党が互に猜疑を挟むが如きは、永き歴史を有する党派上に於て已むを得ざるも、連合の目的を達する上に於ては、日夕胸襟を披いて談論を上下し、彼我の間の猜疑心を除くことに努めざるべからず。其勢力必ずしも強しとせざる官僚の倒れざるは、政党全体の責任なり。故に政国両党真に連合して一たび風雲を叱咤せんか、官僚閥族を討滅すること易々たるのみ。茲に憲政の為め諸君と共に益々奮戦せんことを誓ふ。」

 しかるに1913(大正2)年1月19日に開かれるべき立憲国民党大会以前に推挙された宣言起草委員には改革派が多数で、その宣言草案は当面の政敵たる桂太郎内閣に言及することを避け、友党であるべき政友会を攻撃することに重点をおいたものでした。大会前日にこのことを知った犬養毅ら非改革派は別に閥族打破・憲政擁護の民党的宣言案を用意、大会においてこの宣言と桂内閣弾劾の決議を可決することに成功しました(新聞集成「大正編年史」)。

 その結果同年1月21日大石正巳・島田三郎・河野広中・片岡直温らは立憲国民党を脱党、同月31日桂首相の新党創立(立憲同志会)に参加を表明、立憲国民党は分裂しました。

 1912(大正1)年12月27日開会された第30通常議会は翌年1月21日停会となり、2月5日再開された議会において、政友・国民両党は桂内閣不信任案を提出、政友会の尾崎行雄が桂首相の弾劾演説(「凛冽の宰相加藤高明」を読む14参照)を行い、議会は再び5日間の停会となりましたが議事堂周辺には護憲派民衆の示威行進が行われ(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造8参照)、2月11日第3次桂太郎内閣は総辞職しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む14

 1913(大正2)年2月20日山本権兵衛(薩摩閥)内閣(首・外・陸・海を除き、全閣僚は政友会所属)が成立しました。同日立憲国民党は山本内閣が政党内閣でないとして、立憲政友会との提携を断絶、政友会の尾崎行雄も国民党と同様に同党から脱党、同月24日政友倶楽部を結成しました。

 山本内閣は軍部大臣現役武官制(「大山巌」を読む48参照)を撤廃、軍部を非難する世論に配慮を示しましたが、1914(大正3)年1月23日立憲同志会の島田三郎は衆議院予算委員会シーメンス事件につき政府を攻撃(「凛冽の宰相加藤高明」を読む15参照)、犬養毅は山本内閣の世論への配慮をやや評価したものの、同年3月23日の衆議院における内閣弾劾上奏決議案の審議においては提案理由説明演説を行っています。同年3月24日同内閣は総辞職しました。

 同年4月13日大隈重信に組閣命令が下されました。大隈は当時すでに政界の第一線を退き、都の西北早稲田に閑居していたのですが、上述の立憲国民党分裂以後、大隈の態度は曖昧そのものでした。彼は一方において憲政擁護・閥族打破の主張に共鳴し、犬養・尾崎の功労を称賛しながら、桂が新党組織の賛助を要請すると、これに対して好意的態度を示し、国民党脱党組が彼を訪問すると、彼等を激励するなどその真意を理解するのに困難な言動を見せたのです。早稲田大学教授副島義一は雑誌「太陽」(大正2年3月発行)において公然と大隈を批判、情宜に厚く礼義を重んずる犬養毅は同誌において大隈を弁護していますが、彼が本音で大隈の言動を支持したとは思えません。

 同年4月14日立憲国民党代議士会はは大隈内閣の成立は援助するが、党員は入閣しない旨決議、4月16日副総理格として加藤高明立憲同志会総理)が外相として入閣、第2次大隈重信内閣は成立、中正会尾崎行雄は司法大臣として入閣しました。

  1914(大正3)年7月第1次世界大戦が勃発、同年8月23日政府(大隈内閣)はドイツに宣戦布告、翌1915(大正4)年1月18日中華民国政府に21カ条要求を提出、5月25日21カ条要求に基づく日中条約ならびに交換公文に調印しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む17参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む15

  1914(大正3)年12月25日衆議院は軍艦建造費を可決しましたが、2個師団増設を否決したため、衆議院解散、1915(大正4)年3月25日第12回総選挙が実施され、与党立憲同志会が第一党、野党立憲政友会(1914.6.18総裁 原敬)・立憲国民党議席減少、同年5月17日第36特別議会が招集されました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む18参照)。

 同議会開会の前に立憲国民党は次のような宣言を発して、大隈内閣の対中国外交を批判しました。

 「日支両国の親善を保ち、東洋永遠の平和をを計るは我党多年の主張なり。然るに現内閣の対支交渉を開始するや、初めより支那に向て誠意を披歴し、東亜の大局を共済するの途に出でず、先づ提案の時期を失し、折衝の機宜を誤り、荏苒(じんぜん 年月が長引く)九十日、徒に恫喝を以て却て軽侮を招き、その拒否する所となるや、事を樽俎(そんそ 外交上の会談)の間に収拾する能はず、纔(わずか)に兵馬の余威をを藉(かり)て時を糊塗す。之を要するに帝国の威信を傷け、国際の禍根を貽(のこ)すもの、焉(いずく)んぞ東洋平和の基礎を確立するを得んや、是れ実に現内閣の失政なり。我党は断じて之を仮借(許す)せず。」(鷲尾義直「前掲書」中)

 同年6月3日衆議院は対中国外交に関する内閣弾劾決議案を上程、原敬政友会総裁が対中国外交の失敗を指摘、片岡直温(立憲同志会)の反対演説があり、次いで犬養毅立憲国民党)が登壇、21カ条要求のうちの第5号要求の不始末(「凛冽の宰相加藤高明」を読む17参照)を指摘して加藤外交の失策を追及しましたが、同決議案は否決されました。

Weblio辞書―検索―片岡直温 

 また犬養は1915(大正4)年5月、故金玉均(「花々と星々と」を読む6参照)の表彰を大隈首相ならびに寺内朝鮮総督に建言したが省みられなかったので、翌年1月政府に同人の表彰を働きかけるよう貴衆両院に対して建議しています(鷲尾義直「前掲書」中)。

 しかし大隈内閣も大浦兼武内相の政友会議員買収容疑が問題となり(「凛冽の宰相加藤高明」を読む18参照)、外相加藤高明らが総辞職を要求して閣外に去ると弱体化し、1916(大正5)年3月26日大隈首相は山県有朋を訪問、加藤高明立憲同志会総理)を後継首相に推薦、同年4月上旬山県は挙国一致の必要を理由に政党首領の組閣に反対と返書、寺内正毅(長州閥)組閣の準備を進めていました。

 一方子爵三浦梧楼(「大山巌」を読む41参照)の呼びかけにより、原敬立憲政友会総裁)・加藤高明立憲同志会総理)犬養毅[立憲国民党総理(正式就任は1917.6.20)]の3党首は同年5月24日から3回も小石川富坂上の三浦邸で会談、6月6日外交国防方針につき協同し、外界の容喙を許さぬとの覚書を作成しました(新聞集成「大正編年史」)。三浦は『此の大切な時局を、大隈に任してはおけぬ。軍備、外交、財政此三点に対する一定の国策を樹立し、誰が政局に立っても、此れ丈けは動かぬやうに決定しておきたい。ソレで吾輩は其事を元老連中に説いた。山県に謀ったが、相変わらず用心深い。「此上は軍事、外交、財政、此の三策に就て、君と加藤、犬養、此三人が同一の態度を執ると云ふことにする外、他に道はなかろうと思ふ。」と云ふと原は早速此れに同意した。加藤に会った翌日、犬養にも会った。此れで三党首とも吾輩の国策樹立の意見に賛成した訳だ。』(「観樹将軍回顧録」大空社)と言っていますが、三浦と昵懇であった古島一雄は「三浦は同じ長州出身でありながら陸軍時代から山県とは常に反対の立場に居った。従って三浦は元老の山県を封じ込めてやらうといふ心持もあったのだ。」と語っている(鷲尾義直「前掲書」中)ように、元老(とくに長州閥)に反対する政党連合を強化しようとする意図があったとも考えられます。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―こー古島一雄

 同年10月5日大隈内閣は総辞職しました。10月9日山県有朋の推挙により、寺内正毅(長州閥)内閣が成立、翌10月10日立憲同志会中正会などと合同して憲政会(総裁 加藤高明)が結成されました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む16

  1917(大正6)年1月25日衆議院は憲政・国民両党共同提案の内閣不信任案を上程(政友会中立)、ところが犬養毅立憲国民党)は同案の説明演説で「私モ憲政会ハタッタ此間マデ当面ノ敵ト考ヘテ居リマシタガ、此案ニ付テハ賛成者デアリマス。併ナガラ提出者トシテハ此案ニ憲政会ガ同意サレタ以上ハ国民党ト同様ノ意見ニ変化致サレタモノト認メテ宜シイト思フ」と憲政会を批判したため、憲政会の反発を受け、衆議院が解散されると、国民党は憲政会との提携打ち切りを声明しました。

 同年4月20日第13回総選挙が施行され、政友会は第1党、憲政会は第2党で、国民党はやや議席を増加させたに止まりました。

 同年6月2日寺内首相は原敬加藤高明犬養毅3党首に臨時外交調査会委員就任を要請、原敬犬養毅は受諾しましたが、加藤高明は6月5日これを拒絶しました。

 一方この年の夏ころから上がり始めた米価は翌1918(大正7)年さらに上昇、同年8月富山県米騒動が起こり、同年9月21日寺内正毅内閣は倒壊、9月27日原敬立憲政友会総裁に組閣命令が出されました。

 米騒動は明治時代において弾圧された労働運動や普選運動などの社会運動が再び活発化するきっかけとなりました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む20参照)。

 1918(大正7)年12月25日召集の第41議会において翌年3月8日政友会・憲政会・国民党3派提案の衆議院議員選挙法改正案(小選挙区・選挙権資格を直接国税3円以上に拡大)が可決されましたが、村松恒一郎ら6名の立憲国民党所属代議士が、同上選挙法改正案の撤回を要求、普選案に代えることを主張したため党より除名処分となりました。1919(大正8)年12月20日憲政会政務調査会でも普選の条件をめぐる対立が起こっていました。

Weblio辞書―検索―村松恒一郎 

 1918(大正7)年11月11日第1次世界大戦が終了、1919(大正8)年1月18日パリ講和会議が開催(「凛冽の宰相加藤高明」を読む21参照)されましたが、内政においては普選運動の高まり(「労働運動二十年」を読む19~20参照)に対する政府与党と野党の対応の問題が緊急の課題として浮上してきたのです。 

 1919(大正8)年12月26日開会の第42議会において、1920(大正9)年2月14日衆議院は憲政会・立憲国民党・普選実行会提出の普通選挙法3案が上程されました。立憲国民党案は選挙権を満二十歳以上とし納税資格規定削除などとする内容でしたが、普選法案討議中同年2月26日衆議院は解散となりました。

 同年5月10日第14回総選挙実施、普選反対の与党立憲政友会が大勝、普選運動は一時衰退する傾向を見せました(「労働運動二十年」を読む20参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む17

 1921(大正10)年11月4日原敬首相は東京駅で刺殺され死去、11月13日高橋是清内閣(全閣僚留任)が成立、翌日高橋是清立憲政友会総裁に推挙されました。

 翌年1月10日大隈重信、2月1日山県有朋維新の元勲たちが相次いで死去、新しい時代の到来を告げる出来事でした。

 1921(大正10)年末に召集された第45通常議会において提出された憲政会・立憲国民党・無所属組の統一普選案(立憲国民党は選挙権年齢を20歳から25歳に改める)が翌年2月23日上程されましたが、2月27日否決されました。しかし立憲政友会内部にも普選法案に対する動揺が拡大しつつあったのです。

 一時衰退した普選運動の主な新しい担い手となったのは地域の市民的政治結社で、1922(大正11)年春より普選運動は再び高揚しました。

 1922(大正11)年6月6日高橋是清内閣は内閣改造問題による閣内不一致で総辞職、同年6月12日加藤友三郎(前内閣海相)内閣(「凛冽の宰相加藤高明」を読む26参照)が成立しました。

 政友会・憲政会の二大政党の圧迫を受けて党勢不振状態にあった立憲国民党は同年9月1日解党、新たな勢力の結集をめざして同年11月8日立憲国民党を母胎とし、憲政会の尾崎行雄や島田三郎ら及び無所属倶楽部が参加、革新倶楽部が結成されました。

 1923(大正12)年8月24日加藤友三郎首相は病死し、同年8月28日山本権兵衛に組閣命令が下されました。しかるに同年9月1日関東大震災が起こり、この非常事態の最中、同年9月2日第2次山本権兵衛内閣が成立しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)。

 当時犬養毅は信州富士見の高原における白林荘(別荘)の新築に世事を忘れていましたが、中央線で名古屋に福沢桃介を訪問した同年8月28日至急電報をうけ、翌日上京しました。山本権兵衛と犬養との連絡は同内閣の書記官長樺山資英と犬養の側近古島一雄(「花々と星々と」を読む15参照)を通じてつけられていたのです。

富士見町HP―検索―白林荘―富士見町を歩く[文学に触れるプレミアム紅葉ウオーキングコース] (4)白林荘    

 古島は東海道線沼津駅で御前3時寝台車にいた犬養に会い、山本の犬養への入閣要請を伝えると、犬養は眠そうな眼をこすりながら、「普選で勝負する」と唯これ丈を言いました。8月30日『山本と水交社で会見して帰ってから「どうです」とたずねると「やれそうだ」といふ、そこで直ちに入閣に決した』(古島直話 鷲尾義直「前掲書」中)。

 「普選をやるには内務大臣がよいが、内務は後藤(新平「男子の本懐」を読む5参照)が希望してゐるから、一番ヒマな椅子がよからう、逓信がよいと云ふので逓信大臣になられたのである。」(古島一雄談 鷲尾義直「前掲書」中)。

 革新倶楽部は犬養の入閣を了承しましたが、政友会は同内閣に非協力の態度をとり、貴族院において憲政会の若槻礼次郎(「男子の本懐」を読む6参照)は犬養毅逓相の逓信事務怠慢を批判する質問を展開しました。犬養の普選への思い入れも虚しく、同内閣は同年12月27日虎ノ門事件(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)で総辞職しました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む18

 ここで話題を変えて、犬養毅とその家族の家庭生活を観察してみましょう。そのための数少ない情報源の一つが、犬養道子犬養毅の孫)の「表題作品」です。

 四ツ谷[ 1922(大正11)年四ツ谷区南町に犬養毅新邸(借翠盧)完成 年譜 鷲尾義直「前掲書」下 ]に道子が連れて行ってもらうのはまれでありました。どうせ行ったところで、お祖父ちゃま(犬養毅)とは滅多に会えるわけでないし、お祖母ちゃま(犬養毅夫人千代)の御機嫌伺いとなればこれは仲々気骨の折れることでした。

 実際、連れて行ってもらっても、お祖父ちゃまなしの四ツ谷は退屈なところでありました。お祖母ちゃまのお居間は、南に向って「逆コの字」に建てられた家の中央にありました。庭に通じる気持ちよい広縁式廊下と、お着替えのための小部屋と十畳の床の間つきと、一組になっていました。

 それにひきかえ、お祖父ちゃまのお居間兼書斎兼寝室兼何でも部屋は、玄関真上の二階にあって、西陽が照りつける滅法暑い部屋でした。「お祖父さんは字を書いて汚しなさるから」

夏樹美術株式会社―書画・掛け軸―名士墨跡・書物故作家―昭和時代の名士墨跡書・物故作家―あ行の作家―犬養木堂/いぬかいぼくどう 

 畳はそこに敷いてありませんでした。「墨をしょっちゅうこぼしなさる」絨毯も敷かれていませんでした。「毛氈(もうせん 獣毛を加工した厚手の敷物)でよろしい」

 買い求めたときは一体何色であったろうといぶかしく思われる磨り切れた毛氈が、あっちこっちに焼けこげや墨汁のしみを浮き出させて、お祖父ちゃまの部屋の床をおおっていました。元来が窓の高い洋間のつくりなのに、毛氈の上に座布団を敷き、和風の文机がおいてあります。

 花や盆栽はありませんが、お祖母ちゃまのお居間には、立派な簿記机とおびただしい書付の類と、銀の小ちゃな壺にいつも一杯入っている外国製のボンボンがありました。

 いちどそのボンボンを頂いて、この世ならぬ香気と甘ずっぱいおいしさに驚いて、道子は四ツ谷に行くたび、ボンボン壺にはかない望みをかけるのでした。しかしボンボンは極めて特別な時にもらえるだけで、出されるものはほとんどいつも和泉家の栗饅頭と唐饅頭。それは紙に包んであるから、「何度でも、お客に出したり、ひっこめたり出来る重宝な」お菓子でありました。一度、唐饅頭を頂いて、二つに割ってみたら、中にはカビが生えていました。

 でも、お祖母ちゃまには、女中たちに教えてカビの生えた唐饅頭を出したりひっこめさせたりさせねばならぬ正当な理由があったのです。何しろ大変な数の客でありましたから。

 はじめて四ツ谷の台所を見た日の驚きを、道子は決して忘れませんでした。お湯は大薬罐に二六時中たぎり、十人、二十人の単位で湯呑みと土瓶がひっきりなしに、第二応接室や書生部屋に運ばれました。台所の隅っこの三畳には、大きな卓袱台が出しっぱなしにされ、そのまん中には、これまた二六時中、たくあんを山盛りにした丼、土瓶と、お櫃と、茶碗と箸とが置かれ、いつも、たれかが、そこで食べていました。しかも女中はもとより、十数年も祖父につきそっている女中頭のテルも、台所で食事をしている人物が誰であるか知りませんでした。

 何しろ「憲政の神様」の異名を、お祖父ちゃまは冠(かぶ)せられてしまっていました。だから、崇拝者や子分は日本国中に多かったのです。先生、先生と、夜が明けると同時に四ツ谷に「出勤」して来る常連の中には「あそこに行きゃあ、ひると晩とは、たとえたくあんの尻尾だけのめしでも、食わしてもらえる」と踏む連中もいたのであります。しかし金ヅルは万年野党のお祖父ちゃまには縁遠かったのでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む19  

 今にして思えば、四ツ谷のお祖母ちゃまは、大変な経営者素質を持っていました。彼女が色街でなく、今日普通の家庭で人となったら、おそらくお祖母ちゃまは経済学でも志して、女性経営者として花々しく活躍したでしょう。万年野党の首領の奥さまになって、おさまる人ではなかったのです。

 お祖母ちゃまは立派な簿記机の中に、植木屋とか草取りなどの「出勤簿」を入れていました。出勤簿に記入する植木屋の出勤時間は植木屋が犬養家に到着した時刻ではなく、最初の植木に手を触れた瞬間なのです。仕事終わりも最後の植木から手を離した瞬間が退勤時間として記入されるのです。お祖母ちゃまが来客で忙しいときや、外出の際「出勤簿」は女中頭のテルに渡されましたが、植木屋の出退勤時刻を推定で記入したりすると、月末にお祖母ちゃまに見つけられて注意されるのでした。

 先を見通す能力に秀でたお祖母ちゃまが、「この人はモノになる」と見込みをつけて、元々好きはもちろんのことながら、強引に押しかけ、居坐って妻の座を奪ったのでした。道子の父(犬養健)の生みの母は、この猛烈な恋仇にしてやられ、身を引いて表面から去っていったのです。

 そのドラマは、もうひとつ別のドラマを生みました。追い出された女の産んだ長男―道子の父の兄―が、どうしても「おかあさんを追いやった人」を認めることが出来ず、少年期にさしかかる子供の一徹から出刃庖丁をふりまわして大変な刃傷沙汰をひきおこしたことでありました。

 政治の勘の滅法によいお祖母ちゃまー千代と言いましたーにすっかりしてやられて頭の上がらなくなったお祖父ちゃまは、「あんな子を置いておいては、あなたの政治の生命にもかかわりますよ」の言葉に負けてしまったのでありました。

 十歳と言う幼い年齢を、つい数年前越えたばかりの少年は、勘当(親子の縁を切る)廃嫡(旧民法で相続人としての資格を奪うこと)の身となって、遠く四国に送られました。

 道子の父[ 犬養健 1896(明治29)年7月東京生まれ 「父の映像」筑摩叢書 筆者略歴]は、そのドラマのとき、ほんの幼児でありました。可愛がってくれた優しい実母からひきはなされ孤独と悲哀のゆえに寄り添って日夜暮した兄からさえも剥(も)ぎはなされ、「子供を好きではない」女の手もとに、とりのこされました。

 満四つにになったかならぬころ、さっさと取りきめた継母のはかららいで、彼は幼児のための寄宿に入れられました。成人して人の父となったのちも彼は、お祖母ちゃまがでんと居すわる家を避けました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む20

  お祖母ちゃまは、花のひとつ、絵の一枚を部屋に飾る心を持たぬ人でありました。文学を志す青年なぞ、わかる筈もなかったのです。そのお祖母ちゃまの思いは、道子の父が「愚かな父」と言う題の連載をはじめたと知ったときに爆発しました。

 父はうるささに耐えかねて、連載を途中で切りあげ、短編集に集録された、人の心の機微を気品高い細やかな筆で描いたその小品を、破って棄てました。

 けれどたった一度。彼女はそのこわい四ツ谷の御祖母ちゃまの、思いがけない面に接して、お祖母ちゃまはそれほどおそろしい冷酷な女でもなく、むしろ多分にこっけいな、愛すべきところの多い女ではなかったかと思うのです。

 ―その日。四ツ谷はいつもに倍かけての来客ずくめ。着く早々、母も前掛けをさっさとかけて台所の方に手伝いに行ってしまいました。彼女は「四ツ谷用」のキューピーをひとつ持って、ベランダに水を張った洗面器を無断で持ち出し、キューピーを「風呂」に入れていました。突然、黒紋付がそばに坐ったので、彼女は無断で洗面器を持ち出したことへの叱責を覚悟したのでした。

 しかしお祖母ちゃまはそのキューピーをじっと見ていました。「ちょいとそのキューピーさんをおばあさんに見せておくれ」

 「道ちゃんや。何度もこのキューピーさんをお洗いかえ」「うん」

 「剥げませぬか。色はとれぬかえ」「ううん」彼女は首を横に振りました。「よく出来ているねえ……」お祖母ちゃまは眼をあげてしばし空中をしばらく見ると、急に「キューピーさん」を彼女の膝に押し戻し、さっさと早い動作で居間に入って上手にポンポン手を拍ちました。「たれかおらぬかえ」「三越に電話をおかけなさい。セドドイド(セルロイド)部の部長をお呼び」

 ややこしい押し問答がくりかえされたあと、三越側はようやく、玩具部長が四ツ谷のお祖母ちゃまの居間の閾 、三つ指をつきました。道子が母や其の他の人々から聞いた話によると、お祖母ちゃまと三越部長との間にはこんな問答が繰り返されたようです。

 「ときに、セドドイドで海老はつくれますかえ」「エビーセルロイドでエビを。それはまァ、つくれぬことはありますまいが」「髯(ひげ)もちゃんと出来ますかえ。赤い髯」「それは…まァ、つくらせてつくれぬことはございますまい」「それから、昆布も出来ますかえ」

「ヘッ! コンブ!」「北海道でとれる上等の昆布でござんすよ」

 お祖母ちゃまが玩具部長に注文したのは、伊勢海老、裏白(シダ植物の一種、正月飾り)、昆布、橙(だいだい)ぜんぶくっついた、セルロイド鏡餅大中小一式なのでした。

「特別でございますから、高くつきます」「けっこうでござんすよ。あんた、毎年毎年、玄関と、応接と、茶の間に、役にも立たず、かたくなる鏡餅をかざるより、、毎年洗って使えて、色もさめないセドドイドの方がよほど経済的でござんすよ」

  こうして、犬養本家の正月は、その後、年々歳々、セドドイドの鏡餅で飾られました。「ねえ、あなた、ついでに芝生も松も桜も、セドドイドでつくらせてはどうでござんしょねえ。草取りや植木屋のてまもなし、出勤簿の面倒もなくなるし」

「やァなこった」とお祖父ちゃまはそっぽを向きました。いのちの芽生えの健かさも、自然の緑の美しさも解さぬ、政治一点張りのこの妻をえらんでしまったお祖父ちゃまは、そのとき、ふっと嘲りとも淋しさともつかぬ妙な表情を孫の道子に向って見せました。